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検索結果 全1058作品
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小説 痩せた花嫁
調子外れのラッパが鳴つた。 タンタカタ タンタカタ トテ、チテ、タ。 そのコルネットの爆発性を帯びた笑ひ声は、まるで千八百七十年代の小さな、いたつて下らない出来事を嘲るやうに鳴り響いた。 ――幕が開いた。 「あれは何ていふの」 「モンタルトの村です」 「伊太利(イタリー)?」 「さう」 「伊太利モンタルトの村の場景つていふ
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小説 天皇の帽子
一 成田弥門は東北某藩の昔家老だった家から成田家へ養子に行ったので、養父の成田信哉は白髪の老人であるが、流石(さすが)に武士の育ち、腰こそ少し曲ったように思われても胸をぐっと張り、茶の間の欄間に乃木希典(のぎまれすけ)の手紙を表装してかけてあるのを見ても、いかにも乃木大将と親交があったらしい謹厳な風貌の持主だった。 弥門は幼い時か
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評論・研究 関東大震災
大震火災 大正十二年(一九二三)九月一日の正午二分前、関東地方南部をはげしい大地震が襲った。あまりの激震に、中央気象台の地震計はすべて針がとんで測定できなかったが、東京帝大理学部の地震研究室にあった二倍地震計だけがかろうじて記録をつづけた。これによると、東京帝大のある本郷台での最大振幅は八八・六ミリメートルに達し、埋立地である下町ではその二倍前後におよぶものと推察された。震源地は東京から約八十キロ離れた相模湾(さがみわん)</r
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評論・研究 戦略爆撃と日本
1 第二次世界大戦と戦略爆撃 空襲と市民 空襲も、それを可能にした航空機も、二十世紀の産物である。一八七〇~七一(明治三~四)年の普仏戦争では、パリにできた国防政府の内相ガンベッタが南フランスでの抗戦をよびかけるために、プロシャ軍に包囲されたパリから軽気球で脱出した例があるが、これは航空機と呼べるものではなかった。一九〇〇(明治三十三)年にはツェッペリンが
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随筆・エッセイ 花圃と一葉
一葉女史といふ人はすでに過去の人であつて、生きた一葉女史に接することが出来ず、たゞその作品を通してその人の面影を偲ぶのみだからあの名作「たけくらべ」「にごりえ」「わかれみち」等々その後年殆ど傑作揃ひであつた作品を通して見ると、一葉といふ人の人間的価値をすぐれて高くたかく買ふと同時にわれながらいつか理想化した面影を描いてそれを自ら信じてしまつてゐるやうなことがいくらもあるが、それが当の一葉と面接があり交際のあつた人々となると、即ち、生ける日の一葉を知つてゐて、その人を語る人の心持とにはそこに幾尺かの開きがあるといふことを、このごろ私は興味深く感じて来てゐるのである。このことは一通りいつた
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小説 カムイコタンの羽衣
1 案外退屈なもんだな。 ツヨシは、列車の窓から外を眺めながらそう思う。 緑で一杯だ。最初は、緑の木々に圧倒された。緑の平野に唐突に町が現れる。民家が肩を寄せ合うように建ち並び、商店の看板が見える。人の営みが感じられたと思ったら、またすぐに田圃や畑、森林の中だ。 北海道の大地というのは、たしかに本州とはまったく違う。広大な平野、その地平に幻のように青い山の稜線が見える。 遠くの山なのだろうが、妙にくっきり見えるのは、湿度が低いせいだろう。
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評論・研究 遺言と弔辞
「ただ抱いて欲しかった」 遺書は先に逝く者の手紙であり、弔辞は逝った者への手紙であると私は思う。 遺書と言えば、『きけわだつみのこえ』(岩波文庫)に象徴される戦没学徒兵の手紙が真っ先に挙げられるが、検閲制度の下で、彼らの声がそのまま伝えられたわけではない。そう考える時、「娘あずさへの手紙」と副題のあ
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小説 オシラ祭文
ようやく林が切れた。高いところから見下ろすと、村は、折り重なった山々の間に、繭のように静かに、ころりと丸くなっている。すては大きく頭を振って、肩で息を吐いた。走ってきたせいで、まだ息が荒い。 最初は、苗菰(なえごも)を背負った小さな猿のような年寄りだった。狭い杣道を、下ばかり向いてふらふらたどっていたときだ。何かの苗らしいものを背からはみ出るほど背負って、その年寄りが村のほうから登ってきたのだ。人がすれ違えるほどの道ではなかった。先にやり過ごすために、すては林の中へ少し踏
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小説 名君修業
一 ――僅(わづか)に十六歳のそれも目の見えぬ盲人が、六年の臥薪嘗胆(ぐわしんしやうたん)ののちに、ともかくも一流に秀でた親の讐(かたき)を見事に討つたと言ふのであつたから、本荘宗資(ほんじやうむねす
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小説 熊の出る開墾地
無蓋の二輪馬車は、初老の紳士と若い女とを乗せて、高原地帯の開墾場から奥暗い原始林の中へ消えて行つた。開墾地一帯の地主、狼のような痩躯(そうく)の藤澤が、開墾場一番の器量よしである千代枝(ちよえ)を連れて、札幌の方へ帰つて行くのだつた。 落葉松林(からまつばやし)が尽きると、路はも
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俳句 四方のくちなは
光りては深空(みそら)はぐれのいかのぼり にんじんに似し教師去り春の虹 火のやうな墓碑立ちて鳥渡るなり 幼木のはくれんひらく魂あらし 特攻兵たりける父に亀鳴けり 白鳥のこもごもとほく讃へあふ 牡丹東風(ぼたんこち<
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評論・研究 林芙美子の年齢
──私は明治三十七年十二月三十一日に、山口県の下関市で生まれた。田中町の錻力屋さんの二階で生まれたと云ふ事である。母は鹿児島の出で、父は四国の伊予の周桑郡の出である。母は温泉宿をいとなみ、父はその頃紙商人として桜島へ渡った様子だ。 これは芙美子著書『放浪記1 林芙美子文庫』あとがきの引用である。 彼女の誕生日は、戸籍上明治36年12月31日だが、昭和26年6月28日の没後も随分長い間おおやけには明治37年生まれと信じられており、最初の年譜を編んだ板垣直子は、『林芙美子の生涯 ─うず潮の人生─』(大和書房 昭和40年)で、次のように弁明している。 </
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詩 女の幼き息子に
潜水夫 潜水夫は武装した星の兵卒である。 金(きん)の頭を 暗(やみ)の中にとぢこめ 全身に 風と水の鱗や獣皮をつける。 兜をもつて、星を閉ぢ、世界を隔て 波濤の
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小説 消えない灯
1 母娘の再会を祝うその夜の晩餐は、物資の乏しい戦時下としては驚くほど豪華なものだった。床の間の香炉からは気品ある香りが仄かに立ちのぼり、朝、通されたとき見た仏像の掛物も、いつのまにか慶事用の鶴の軸に取りかえられている。緑の絨毯(じゅうたん)を敷きつめたその十畳の客間は、珍客のときだけ使う特別の部屋らしく、大きな床の間・違い棚の、人を威圧するほどに立派なのが、この家に馴れぬ慧子には却って落ち着けない感じだった。一同が席につくと、和服の背を床柱にもたせ
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詩 雲のやうに
果樹園を昆虫が緑色に貫き 葉裏をはひ たえず繁殖してゐる。 鼻孔から吐きだす粘液、 それは青い霧がふつてゐるやうに思はれる。 時々、彼らは 音もなく羽搏(はばた)きをして空へ消える。 婦人らはいつもただれた目付で 未熟な実を拾つてゆく。 空には無数の瘡痕がついてゐる。 肘のやうにぶらさがつて。 そ
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小説 濁流
1 炊事場の椅子に腰掛けて、クァンはぼんやり水を見ていた。家の裏が湖になった。向こう岸もかすんで見えない水のひろがりだ。水は同じ場所にたゆたっているようで、浮かんだ塵芥は少しずつ移動しているからやはり川だ。こんなに水が出たのは何十年振りか、いやここに住み出してから初めてのような気もする。 二日前、「ばあちゃん、大変だ!」という孫娘のティエンの声に起こされて下に来てみると、炊事場まで川の水が押し寄せていた。雨季は終わりかけていたのに、十日も雨が続いていて川は増水していた。 「気をつけないと危ないぞ」 「水に流される
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小説 まだ生きている
二階の廊下に掃除機をかけたついでに娘の部屋のドアを開く。一瞬どうしようかと迷ったが、そのまま掃除機を引っ張って中に足を踏み入れた。娘の由佳は三十歳も半ばを過ぎるというのに、親に部屋に入られても嫌がる風もない。時に掃除をしておくと有難がるぐらいである。小さい時は弟の克巳と親子四人、狭いアパート暮らしをしたせいかもしれない。市の郊外に無理をして一戸建てを建ててからは子供二人に個室を与えられたが、その時は既に由佳は大学生、克巳は高校生であった。 「受験勉強に危うくセーフ、やっと一人になれる」 と克巳が喜ぶと、 「一人になって却って勉強できなく
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評論・研究 泉鏡花とロマンチク
一 はでやかで鮮かで意気な下町風の女の夕化粧じみた紅葉の小説や、哲理とか何とか云つて重つくるしい露伴の小説や、基督教趣味で信仰で固めて、ちと西洋臭い様な蘆花の小説や、それから此頃名高いこれこそ本当の小説家である漱石、殊に智慧にも富み機智にも充たされて、飽くまでも西洋の学問と文化とを日本の趣味に醇化したこの新小説家の小説を読んでから、飜(ひるがへ)</r
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小説 わたし舟
黄昏(たそがれ)の帰り路(ぢ)を少しも早くと渡し場に到れば、われより先に五十許(ばかり)なる女の、唯ひとり踞(つくば)ひたるが軽く手を縁(へり<
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小説 多忙な初年兵
私達は随分忙(せわ)しくなつて来た。 朝のうち、駈歩(かけあし)や体操で演習解散になると、食事当番に行く者は兵舎の南側へ整列して、舎内週番上等兵が炊事へ引率してくれるのを待つてゐた。この勤務の上等兵は時には用事をしてゐることもあるけれど、大概食事時間になると厩(うまや)から帰つて