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花圃と一葉

 一葉女史といふ人はすでに過去の人であつて、生きた一葉女史に接することが出来ず、たゞその作品を通してその人の面影を偲ぶのみだからあの名作「たけくらべ」「にごりえ」「わかれみち」等々その後年殆ど傑作揃ひであつた作品を通して見ると、一葉といふ人の人間的価値をすぐれて高くたかく買ふと同時にわれながらいつか理想化した面影を描いてそれを自ら信じてしまつてゐるやうなことがいくらもあるが、それが当の一葉と面接があり交際のあつた人々となると、即ち、生ける日の一葉を知つてゐて、その人を語る人の心持とにはそこに幾尺かの開きがあるといふことを、このごろ私は興味深く感じて来てゐるのである。このことは一通りいつただけではそんなことは当然すぎるではないかといふ人があるかも知れない、実にそれは当然すぎることだが、人間といふものは不思議なもので未だ見ぬ人にはたとへば文字の上手な人は何となく上品な人を想像し、すぐれた作品を残した人に対しては、理屈でいへない、いつかどこかで理想化した人物を心に描き崇拝礼讃してゐるようなことが多少づゝでもあると思ふ。――特に女には……。

 一葉の作品や日記を読んでゐるとそのところどころにひがみがあり人に対して心の扉を開いて語るといふやうな朗かさのなかつたらしいことを感づかぬ訳ではないがそれが別段一葉といふ人を考へる上に邪魔になる程度のものではない、少くも直接にさういふものにふれた人たちの感じてゐる生々しさよりずつと薄くなり臭気が消えてゐるのである。さういふ点からいふと当時同門であつた、そして萩の舎塾において双璧と称へられた花圃女史などのうけてゐる感じにはよほど色濃いものがあるのは当然のことながら今になつて見るとなかなか興味のある研究資料である。

 昭和六年一月発行の「婦人サロン」といふ雑誌(現在は廃刊)に花圃女史が「そのころの私たちのグループ」と題して一葉女史のことを語つてゐるなかに、彼の女の萩の舎塾における態度は非常なお世辞もので、この人はと思ふやうな人には随分おつとめをしたらしく書かれてある。このことを一葉の方の側からいふとたとへば明治廿五年三月十日のころに萩の舎塾の人々が梅見に混つて自分も行かなければならない時に「友といへど心に隔ある高等婦人に陪従してをかしからぬことに笑ひ面白からねど喜ばねばならむこそ我が常に潔しとせざるところなるものを」といふやうに書いて、人は明日好天気なれかしと待つものを自分としては雨が降つてくれゝばよいと希ふと書かれてあるところなどと照し合せて考へると、片方を聞いたり読んだりしただけのものよりもさらに味はひが深く複雑なものにふれ得るのである。

 またその他にも一葉女史は人に対する態度が素直でなくて妙にねちねちとしてゐて前口上が長くてなかなか用件をさらけ出さない癖があつたと書かれてある。一葉女史は花圃女史の刺戟で自分も小説を書いて金を得ようと考へたらしく第一にそのことを相談に花圃女史のところへ行つたらしい。その時の態度がまた「一時間くらゐしなを作つてさんざんシネクネシネクネとした揚句帰る時に、あの、私、貴女様のお真似をしたいので御座いますけれど、あの私のやうな者がそんなお真似などしたいなどと申上げるのはお恥しう御座いますわ」といつてその日はそれで帰つたと書かれてあるが、まるきり為永春水の人情本の女のやうな言葉つきでその態度まで推しはかれるやうな書きかたである。

 それを読んだ時私は決していゝ気持がしなかつた。作品を通してのみ高く高く評価してゐた一葉女史をこんな風に語られるのはたまらない気がした。私は花圃女史に対していくらか憤慨さへしたのである。これは私一人ではなかつたと見えてその次の月あたりの文藝春秋で誰かゞ花圃女史に対して「いゝお婆さんの癖にいつまでも一葉の悪口をいふ」といふやうなことをあけすけにいつてゐたと記憶してゐる……。ひがみがあつたと聞いてゐても、素直でなかつたらしいことを日記などで感づいてゐてもそれはどうしても概束的な感じで、かう生々と書かれて見るとどうも受取りにくい妙な気持になつてくるのであつた。ところが最近明治文学の研究が盛になつて来て一葉についても各方面でいろいろに研究され私も座談会に二度ほど招ばれて出席した。一つは十年二月日本俳優学校の公演に「樋口一葉」が上演されるについて明治文学会主催の座談会に、一つは同じく四月新潮社で催された一葉の作品研究の座談会に……。そこで二度とも花圃女史とお顔を合せて親しくいろいろお話しを伺ひかつは花圃といふ人を直接に知ることが出来たのであつた。

 花圃女史を直接に知つて見ると、このかたは実に江戸つ児のチヤキチヤキといふ言葉があるがさういつたふうなまことに竹を割つたやうな方で、人が何と思はうが自分のさう感じたことには歯に衣を着せずに思ふ通りをいつてしまふというやうな性格の人で、一葉女史についていつたことも決して故意の悪口でもなければ意地悪でもなく、昔も感じ今も疑はぬ自分の見たり感じたりした彼女の面影を素直に語つてゐるまでのことで、実にサバサバした気の好い老婦人であることを否むわけにはゆかなかつた。勿論一葉女史といふ人が花圃女史によつて語られたそれだけの人であるといふのではない。同時に花圃女史とてもさういふつもりでいつてゐるのではない。その書いたものの中にも「夏ちやんは非常によい素質を持つてゐたがそれと同量の欠点も持つてゐた」と書かれてあつて、これはその欠点の方をいはれたもの、それが直接友達として互にその息から語る言葉を交し体温に触れてその人を見てゐるさういふ人の感じから語られるのであるから、何処までも生々しいのである。いろいろのすぐれたものを持つてゐる一葉女史の一面に真に花圃女史が感じたやうな一面があり時に人に面を背けさせるようなものがあつたらうことも、今は私は疑はぬのである。しかもそれだから一葉の価値を下げて考へるどころでなくむしろこのことをはつきりうけ入れて、私の一葉研究には益々面白味が加はり深味が加はつたのだと喜んでゐるのである。

 これは人間生身の間は致し方もないことで、私は昨年世を去られた詩人横瀬夜雨氏の葬式に常陸を訪ひ御棺のふたをはらつて頂いて、その安らかな死顔に直面し実に感動したのであるが、人間は生きてゐる間にはどんなえらい人にも万全を期しがたい癖や人間の臭気がある。名を成すほどの人は特に性格に強いものを持つてゐるからその癖や臭気も自然に強い訳であるが、世を感動せるほどの傑作を成すのはそれが最もその人の真髄の姿であることを私は思ふのである。それがこの生きの世の呼吸が絶え血肉が死に亡び去つた後に滅びぬ姿となつて輝き出でる。それを私は

  生きの身の汚きは去りて常陸野にわびし命の(うた)は残らむ

と詠み、大往生を遂げられた氏の霊前に心から回向(ゑかう)したのであつた。

 一葉女史の場合も同じやうなことがいへるやうな気がする、かうした世の中に身をもつて生きぬいて行く、それには生きるもののさまざまな動きがある。さういふものに根をはつていろいろなものを吸収し我人合致の醸す世の味をも生み出し得るのである。そこに生み出でたものゝ価値が雑物を肥料にして輝き出でるのである。さういふことを思はせられたことであつた。

 

 同じくその時お聞きした話に一葉女史は桃水氏との恋を随分大ぴらに人に話したものだといふことである。これは全く私を驚かした。なぜ驚いたかといふのに、私などの時代でさへもその時代にはまだ娘の身で恋人があるなどいふ話は出来にくかつたので、その感情をもつて推していつたのかも知れいない。しかしさらにこまかく追求して行くと、親しい友達同士の間では随分その時代とても半ば面白づくで異性の話などもし合つたことを思ひ合せて、あゝいふ程度のものであつたかとも思ふ。しかし一葉女史の日記を見ると女史と桃水との噂のたつてゐることを人に聞かされて一葉は非常に驚き腹を立てゝ、中島師の前でかういふことが耳に入つたがと口惜しがつて話すと、師が自分もその事を聞いてゐるがお前とは許婚の間ではなかつたのかと却つて驚き女中達までがその噂を聞いてゐることを語つて、もし許婚でないならば桃水氏と絶交してしまふやうに教へられて、ほんたうに絶交してしまふ気になつて桃水氏に借りた書物などを抱へて、教へられた通りの口上を述べに桃水氏の家に出向いてゐることが書いてある。ところが花圃女史の話を聞くと一葉女史があまり桃水氏のことばかりいふので何とかいつてやると「わるくも噂はして見たいトントン」と都々(どゝいつ)まじりでやり返したといふお話を聞いた。(婦人サロンにはこの文句は花圃女史がいつたやうに書いてあるが直接花圃女史から伺つた時には一葉女史がいつたとお話になつた)これを聞くと私たちが感じるあの淑女の一面を持つた一葉の面影は忽ちモダンガールの面影と変化してしまふのだが、花圃女史といふ人は決して故意に作りごとなど話す(かた)ではない。これはその人に面接して見れば誰も合点(うな)づくことであらう。すると生ける日の一葉といふ人にまた今までと異なつた複雑な味が出て来て一段と面白いものを暗示させられるのである。

 どうも馬場先生にしろ戸川先生にしろ、男子の老大家の側で語る一葉女史は上品すぎ理想的すぎるのではないか……或は一葉女史が女の友達と男の友達とによつて異なつた自分を見せたのかも知れない。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/01/06

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今井 邦子

イマイ クニコ
いまい くにこ 歌人 1890・5・31~1948・7・15 徳島市に生まれる。父没後、河合酔茗を頼って上京し、「中央新聞」記者になる。1912(大正元)年歌文集『姿見日記』を刊行。島木赤人に師事してアララギに入門、歌誌『明日香』を創刊、主宰した。執筆陣に国文学者、女流作家を加えたばかりでなく、多くの女流歌人を育て、自らも昭和の代表的女流歌人となった。評論随筆集や研究書も多い。

掲載作は、1940(昭和15)年、萬里閣刊随筆集『樋口一葉』より収録。

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