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関東大震災

  大震火災

 大正十二年(一九二三)九月一日の正午二分前、関東地方南部をはげしい大地震が襲った。あまりの激震に、中央気象台の地震計はすべて針がとんで測定できなかったが、東京帝大理学部の地震研究室にあった二倍地震計だけがかろうじて記録をつづけた。これによると、東京帝大のある本郷台での最大振幅は八八・六ミリメートルに達し、埋立地である下町ではその二倍前後におよぶものと推察された。震源地は東京から約八十キロ離れた相模湾(さがみわん)の北西部で、マグニチュードは七・九であった。

 震源地に近い神奈川県では、地震はいっそう激烈であった。いちばんの激震地であった小田原では、全家産の八、九割が倒壊して市内は全焼した。熱海線の根府(ねぶ)川では、山津浪がおこって根府川部落を埋め、駅に停車中の列車を乗客もろとも海中に押し流した。鎌倉では神社仏閣が多数破壊され、津浪による被害も出した。横浜市では、中心部の関内(かんない)一帯が開港いらいの埋立地であったため、石造や煉瓦造りの建物が倒れて多くの圧死者を出し、とくに南京街(なんきんまち)では五千の在留中国人のうち二千人が死んだ。各所からの出火は全市をまたたくまに火の海と化し、多くの焼死者や溺死者を出した。

 東京では、山の手台地の倒壊家屋は全体の一割内外であったが、江東の本所・深川方面では二割五分前後に達した。はげしい地震にあわてて戸外に避難した人びとが息つくひまもなく、各所に火の手があがった。地震がちょうど昼食時とかさなっておこったうえ、薬品による出火も多かった。出火個所一三四のうち五七個所は消しとめたが、残り七七個所の火が五八の火流をつくって、九月三日の未明まで燃えつづけた。

 この日は二百十日を翌日にひかえ、朝方には低気圧が関東地方南部を横切った。東京では十時ごろにたたきつけるような雨がはげしく降ったのち、やがて青空が顔を出し、秒速十メートルをこす南風が吹いていた。各所の出火は、この南風にあおられてたちまち燃えひろがった。都心の官庁街でも、有楽町一丁目のいわゆる山勘(やまかん)横丁から出た火が、三時すぎには警視庁を全焼させた。和田倉門(わだくらもん)内の帝室林野管理局から出た火は、大手町にあった内務省・大蔵省に飛び火し、官庁街を焼いて日本銀行に迫った。

 神田・日本橋・京橋・浅草・本所・深川の下町一帯では、各所にあがった火の手が人びとの退路を絶ち切り、多数の焼死者を出した。狭い道路と木造の橋とが被害をふやした。江東方面の人びとは、両国横網町(よこあみちょう)にある陸軍被服廠(ひふくしょう)あとの空地に争って避難したが、三時半ごろになると旋風がおこり、人びとが持ちこんだ荷物に火がつき、ここに避難していた三万八千人を一挙に焼き殺した。この数は、震災による東京市の全死亡者の四割にのぼる。

 下町方面の火災がひろがるにつれて、下町からの避難民は、上野公園から九段の靖国神社、宮城前広場、日比谷公園などの一帯になだれを打って押し寄せてきた。夜にはいると、宮城前から日比谷公園・東京駅前にかけて五十万、上野公園には四十万の避難民がむらがった。下町の火災はなおも炎々と赤く空をこがし、地震と火の恐怖のなかからようやく抜け出した人びとのうえには、不安と疲れと飢えとが襲いかかった。

 

  流言蜚語(りゅうげんひご)

 地震の一週間前の八月二十四日に加藤友三郎首相がなくなり、後任に推された薩閥の長老山本権兵衛(ごんのひょうえ)は、地震のおこったとき組閣工作の最中であった。したがってまず震災の応急対策にあたったのは、臨時首相となった内田康哉(うちだこうさい)外相をはじめとする加藤内閣の閣僚たちで、水野錬太郎内相と赤池濃(あかいけあつし)警視総監が当面の責任者であった。

 東京を中心とする交通・通信はすべて不通となっていた。地震の瞬間に電信・電話は断ち切られ、数時間後にはじめて横浜港内の汽船や海軍省船橋(ふなばし)送信所から、震災がおこったことが各地に報道された。鉄道は、荒川の鉄橋から当時の東海道線の御殿場(ごてんば)駅にいたる区間が破壊された。罹災地では電燈・水道などもとまった。

 政府は地震の直後に首相官邸の庭で臨時閣議を開き、首相を総裁とする臨時震災救護事務局を設けて、政府総がかりで救護と警戒にあたることとした。だが、このあいだに深川の米倉庫が焼け、越中島(えっちゅうじま)の陸軍糧秣廠(りょうまつしょう)にも危険が迫り、食料の不足が予想された。そこで、緊急勅令によって非常徴発令を出すことにした。

 他方、赤池総監は、午後四時半に東京衛戍(えいじゅ)司令官である近衛師団長森山守成(もりやまもりしげ)にたいして出兵を請求した。警視庁や警察署の焼失によって弱体化した警察力では、非常時の警戒にあたって帝都の治安を完全に維持することは困難であり、ましてや窮乏困憊(こんぱい)の極に達した民衆を煽動して事をおこそうとくわだてる者がないとはかぎらぬという考えで、兵力によって人心の安定をはかろうとしたのである。軍隊は宮城・官公庁・停車場・銀行・物資集積所などの警備に出動し、憲兵も市内の治安維持にあたった。だが赤池総監は、出兵だけでは不安だとして、さらに罷災地一帯に戒厳令を()こうと、水野内相に進言していた。

 かれらは五年前の米騒動の体験から、民衆の騒擾(そうじょう)をおそれていた。労働運動や社会主義運動が急進化の一途をたどっていたことにも、はげしい不安を感じていた。そのうえ水野・赤池のコンビは、朝鮮の独立運動を弾圧した当事者であった。水野は米騒動当時の内相(=内務大臣)で、万歳(バンザイ)騒動のあと、斎藤実総督のもとで朝鮮総督府政務総監となり、赤池を警務局長に起用した。そして赴任のさいには爆弾の洗礼をうけていた。かれらが民衆の動きを警戒したことは想像するにかたくない。

 一日の夜、警視庁では、数十万の避難民が群集心理にかられて騒動をおこすことをおそれ、軍隊とともに警戒していたが、二日朝になると、「不逞鮮人(ふていせんじん)来襲」の流言(りゅうげん)が各所につたえられた。

 警視庁の記録で流言の動きをみると、地震がおこるとまもなく「富士山が大爆発した」とか「大津浪がくる」という流言がながれだした。一日の夕方から夜になると、東京・川崎や横浜の一部で、「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」とか「朝鮮人が来襲して放火した」という流言がおこった。なかでも、全市が焼失して救済をうける見こみがなく、一部では掠奪事件などもおこって混乱をきわめていた横浜では、「不逞鮮人が来襲して井戸への投毒・放火・強盗・強姦をする」との流言がおこって、二日朝までに全市にひろがり、避難民の口を通じて東京市西部につたわった。江東方面からもこの種の流言がひろまり、二日の午後までには東京全市をつつんだ。警察もこれを事実と信じて応戦体制をとった。自然的事件が社会的事件をうみだしたのである。

 

  朝鮮人さわぎ

 警視庁へは二日の午前中から、きのうからの火事は不逞鮮人が放火したためだ、という流言蜚語(ひご)がつたえられていた。午後三時ごろになると、富坂(とみさか)署から暴行・放火の鮮人数名を検挙したとの報せがあり、正力松太郎(しょうりきまつたろう)官房主事が急行した。それとほとんど同時に、神楽坂(かぐらざか)署からも不逞鮮人の放火現場を民衆が発見したとの報告がはいった。四時ごろには大塚署長から、不逞鮮人が大塚火薬庫襲撃の目的で集合中との訴えありと、応援をもとめてきた。

 警視庁では、五時に「鮮人中不逞の挙についで放火その他兇暴なる行為に出ずる者あり」として厳重な取締りを命ずる命令を各署に出した。六時ごろになると、渋谷署長から「銃器・兇器を(たずさ)えた鮮人約二百名、玉川二子(ふたご)の渡しを渡って市内にむかって進行中との流言あり」との報告が到着し、世田谷・中野署長からも同様の報告がはいってきた。警視庁では、渋谷・世田谷・品川等の各署にたいして、不穏の徒があれば署員を沿道に配置してこれを撃滅するよう命令をくだした。個々の朝鮮人の放火・暴行から部隊での来襲へと流言が成長したのである。だがその実は、神奈川県高津(たかつ)村で警備のために在郷軍人や消防夫を集めて半鐘を乱打したことが、対岸の世田谷方面での流言となり、そのため世田谷署から警官隊が急行したことが、さらに流言を大きくしたと、後日の調査でわかった。

 警視庁では自動車、ポスター、メガホンなどによって朝鮮人来襲の報を全市にまきちらした。内務省警保局長後藤文夫(ごとうふみお)は、二日の午後に騎馬伝令を船橋送信所に派遣し、つぎの電報を各地方長官にあてて打電させた。

 「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に(中略)鮮人の行動に対しては厳密なる取締りを加えられたし」

 朝鮮人暴動の流言は警察と軍隊の通信網によってつたえられた。新聞も大書して報道し、この流言はたちまちのうちに全国にひろがった。そのうえ、流言にはだんだんと尾ひれがついていった。

 「朝鮮人は、二百十日から二百二十日までのあいだに東京を中心として暴動をおこなう計画をしていたが、たまたま大震災がおこったので、その混乱に乗じて計画を実行したのだ」「朝鮮人は隊を組み、首領が門や塀に印をつけると、手下の者が投弾・放火・投毒などをしてまわったのだ」。この印は新聞配達や牛乳配達、清掃会社などが得意さきの目印につけた符号とわかった。「こんどの暴動は、朝鮮人だけのたくらみでなく、社会主義者やロシアの過激派がうらで糸をひいているのだ」

 冷静に考えてみれば、荒唐無稽な話である。震災の混乱の中で、朝鮮人だけが連絡をとって暴動をおこせるはずはない。寺田寅彦も述べているように、かりに市中の井戸の一割に毒を入れ、いちど飲んだだけで人を殺すかひどい目にあわせるだけの濃度にするとしたら、はたしてどれだけの分量の毒薬がいるか、市中のめぼしい建物に片っぱしから爆弾をなげこむとしたら、どれほどの爆弾と運搬の人手がいるか。それだけの爆弾や毒薬を、震災がおこった瞬間にどうして調達できるのか。

 この荒唐無稽な流言がなぜおこったのか。震災による混乱のなかでは、すべてを失った民衆の不満や不安が政府や支配階級に向けられるおそれがある、これを防ぐために、朝鮮人や社会主義者への不安や恐怖心をかきたてて、これに憎しみを向けさせ、軍隊と警察による秩序の維持に民衆を協力させようとして、当局で計画的に放ったのだ、とよくいわれる。

 当局が計画的に流言をつくりだしたという確証は見当らないようである。だが朝鮮人や社会主義者を警戒し敵視していた警察官の活動が、この流言を誘発する役割をはたしたことは資料にも散見する。さらに陸軍当局の流言調査には、「横浜の無警察状態を救済する応急手段として○○○○の好意的宣伝に基因するもの」「(東京)市内一般の秩序維持のため○○○の好意的宣伝」が原因のうちにあげられている(東京市役所『東京震災録』前輯)

 流言は、発生と流布とが厳密に区別できない性格をもっている。この流言は警察と軍隊の情報網にのせられることによって、いっさいの疑いを圧倒するような強力な流言となった。地震と猛火に(おびや)かされ、いっさいの情報から断ち切られ、不安と飢えと疲労に神経過敏の極にあった民衆は、「朝鮮人来襲」の報せをそのまま信じこんだ。その背景には、日本が朝鮮を(おさ)えつけて朝鮮人のうらみをかっているのだという不安、朝鮮人にたいする差別にもとづく報復へのおそれがあった。

 

  戒厳令くだる

 「朝鮮人来襲」の流言がひろがると、水野内相は戒厳令施行の方針を決めた。非常徴発令にしても戒厳令にしても、これ公布するには枢密院の議を経る必要がある。しかし震災のために枢密顧問官を集めることができないので、伊東巳代治顧問官の諒解を得て、政府の責任で公布することにした。戒厳令の一部が東京市と府下の荏原(えばら)豊多摩(とよたま)北豊島(きたとしま)南足立(みなみあだち)南葛飾(みなみかつしか)の五郡に施行されたのは、二日の夕刻近いころであった。

 戒厳令が施行されたその二日の夕刻に、赤坂離宮の庭にある萩の茶屋で、ロウソクの火をたよりに第二次山本権兵衛内閣の親任式があげられた。一刻も早く震災の惨状と混乱とに対処するために、組閣工作中の行きがかりをすてて後藤新平が内相となり、組閣をすませた。

 ところで戒厳とは、戦時または事変すなわち戦争に準ずる内乱や暴動のばあいに、軍事上の必要にこたえて行政権と司法権を軍司令官に移し、これに平時の法をこえた強大な権限を与えることである。しかし今回の戒厳令は、本来の臨戦戒厳ではなく、いわゆる行政戒厳であった。震災による混乱を防いで人心の安定と罹災民の救護をはかることが、警察の力だけでは困難なため、軍隊の力をかりたのである。したがって本式の戒厳の宣告ではなく、緊急勅令による戒厳令の一部施行である。これによって戒厳司令官は、戒厳の目的に必要な限度で、地方行政事務と司法事務の指揮権をにぎり、集会・新聞・雑誌・広告の停止、兵器・火薬等の検査・押収、郵便・電信の検閲、出入物品の検査、陸海通路の停止、家屋への立入り検査などの権限をもつようになった。

 しかし、朝鮮人暴動の流言が戒厳令施行のきっかけとなったことにも見られるように、この戒厳は臨戦戒厳の一面も帯びていた。まず戒厳司令官となった森山東京衛戌(えいじゅ)司令官は、指揮下の軍隊にたいして「万一この災害に乗じ非行を敢てし治安秩序を(みだ)るが如き者あるときは、これを制止し、もしこれに応ぜざる者あるときは、警告を与えたる後、兵器を用うることを()」との訓令を発した。戒厳は、混乱を防ぎ罹災民を救護するよりも、暴徒を鎮圧することが直接の目的であり、戒厳令のもとでは「切捨て御免」だという考え方があらわれている。

 東京衛戌司令部は、地震がおこるとすぐに活動をはじめ、一日夜には近衛・第一両師団の全部隊を東京によびよせた。戒厳令がくだると陸軍では、習志野(ならしの)から来ていた二十数騎の騎兵に東京全市をかけめぐらせて、軍隊の到着を知らせた。騎兵の馬蹄(ばてい)のひびきは、恐怖と不安にみちた人びとに活気をよみがえらせた。男も女も老人も子供も、これをよろこび迎えた。大正デモクラシーのなかで軍閥と非難され、無用の長物として軍縮を要求されていた軍隊は、震災によって絶好の活動舞台を与えられ、国民のあいだに権威と親近感をうちたてるチャンスをつかんだのである。

 陸軍は二日から三日にかけて東京地区への配備をおわり、孤立していた横浜地区にも、三日から四日のあいだに海陸両路から警備隊が到着した。三日に宇都宮(うつのみや)の第一四師団が来援したのをはじめ、地方師団からの流通部隊もぞくぞくと到着した。三日には、戒厳令の施行区域が東京府と神奈川県に拡大されるとともに関東戒厳司令部が新設され、山本内閣の陸相の下馬評(げばひょう)にものぼった福田雅太郎大将が関東戒厳司令官に任命され、阿部信行(のぶゆき)参謀本部総務部長をはじめ中央部の軍人が幕僚となった。四日には埼玉・千葉両県も戒厳地区にふくめられた。十日までに出動した総兵力は、歩兵五七大隊、騎兵二二中隊、砲兵三四中隊、工兵四七中隊、鉄道一四中隊、電信一三中隊、それに内地全師団の衛生機関など、兵員約五万に達した。

 朝鮮人暴動の流言がひろがると、各地では青年団・在郷軍人会・消防組などを中心に自警団がつくられ、女子供をまとめて避難させるとともに、朝鮮人をかりたてては迫害を加えた。戒厳令による軍隊の出動は、ただでさえ気のすさんだ罹災地付近の人びとのあいだに、いっそう血なまぐさい殺気をもちこんだ。刀や竹槍・棍棒・鳶口(とびぐち)・鎌などで武装した自警団は、要所要所に検問所をつくって通行人を訊問した。顔つきが朝鮮人らしいとか、言葉が不明瞭だとかであやしいとなると、半死半生の目にあわせて警察につきだしたり、残虐な方法で殺害したりした。演劇ずきの学生伊藤圀夫(くにお)も、二日の晩、千駄(せんだがや)の自宅付近を警戒中、朝鮮人とまちがえられてこづかれたが、顔見知りの酒屋の若い衆が来合わせたのであやうく助かった。センダガヤのコレヤン(朝鮮人)、これが千田是也の藝名の由来である。

 戒厳令で出動した軍隊も、とくに江東方面においては朝鮮人を「敵」として追い立て、殺害した。当時中学生だった清水幾太郎は本所で焼け出され、干葉県市川国府台(こうのだい)の兵舎に避難していたが、夜おきてみると大勢の兵隊が銃剣の血を洗い、得意気に朝鮮人を殺してきたというのに、腰が抜けるほどおどろいたと回想している。

 

  軍隊と自警団

  多数の朝鮮人が検束され虐殺された亀戸町では、日本人の労働運動家や自警団員も軍隊の手で殺された。三日の夜には、南葛労働会の本部となっている川合義虎の家から、川合と、ちょうど居合わせた労働者の山岸実司(じつじ)・鈴木直一(なおいち)・近藤広造(ひろぞう)・加藤高寿(たかとし)・北島吉蔵(きちぞう)が検束されたのをはじめ、同会の吉村光治(みつじ)・佐藤欣治(きんじ)それに純労働者組合の平沢計七が亀戸署に引き立てられた。その夜から翌日にかけて亀戸署では多数の朝鮮人が殺されたが、かれらも、やはり拘留されていた自警団員らとともに引き出されて、斬り殺された。いわゆる亀戸事件である。亀戸署では家族にたいしては、もう放免したとごまかして、この事件を隠しつづけた。

 三日になると、警察当局には、朝鮮人が集団をなして来襲したというのはまったくのデマで、個々の暴行もおおむね疑わしいことが判明した。そのうえ自警団の行動が過激に走って交通の自由が失われ、各地に混乱がおこるとともに、警官・軍人にたいしても暴行事件がおこった。自警団を取り締まる必要がうまれたのである。警視庁では、「昨日来一部不逞鮮人の妄動ありたるも今や厳重なる警戒に依ってその跡を絶」ったとして、「鮮人の大部分は順良な者であるからみだりに迫害するな」と命令し、それとともに自警団が武器を携帯することを禁止した。

 しかしこの布告は、朝鮮人一部の妄動を認めた不徹底なものだったから、流言を信じこんだ民衆の動揺を鎮めることはできなかった。その後も朝鮮人にたいする迫害はつづいた。政府がこうした不徹底な態度をとったのは、民衆の憎悪をなおも朝鮮人にむけておいたままで、秩序を建て直そうとしたためであろう。

 四日には、警察のトラック五台で護送中の朝鮮人が、埼玉県の本庄(ほんじょう)神保原(じんぼばら)両町のあいだで群衆に襲撃され、二人をのぞいて皆殺しにされるという事件がおこった。その夜にも、船橋送信所長の大森良三(りょうぞう)大尉が流言におびやかされて「SOS援兵たのむ船橋」の電文を連送した。これは中国各地でも傍受されて問題となった。まったくの異常心理が支配したのである。もっとも強硬だった江東地区の自警団が軍隊の鎮撫でおさえられ、朝鮮人殺傷がやんだのは、九月七日ごろであった。

 この間の騒ぎで殺害された朝鮮人の数は明らかではない。内務省警保局の調べた刑事事件関係つまり犯人のわかっている被害者数は、死者が朝鮮人二三一人、日本人五九人であるが、実際に殺害されたのは、これに十数倍するであろう。吉野作造が、朝鮮罹災同胞慰問班が十月末までに調査した数だとして伝えているところでは、殺された朝鮮人は二六一三人にのぼる。中国人も、中国公使館の調査では行方不明が約百六、七十名にのぼった。

 朝鮮人殺害と併行して多数の朝鮮人が警察や軍隊によって「保護」された。その数は十月末までに全国三十府県で二万三七一五名にのぼった。保護といっても、じつは暴動をおこすのを防ぐための検束であり、いったん危険と判断されれば、亀戸署のばあいのようにいつ殺されるかわからぬ不安な状態におかれた。しかも九月中旬には、日本人の朝鮮人にたいする悪感情をなくすという理由で、収容朝鮮人を焼け跡の道路整備に従事させた。名前は「社会奉仕」であったが、その実は強制労働にほかならなかった。

 

  新しい流言

 朝鮮人の暴行・来襲の噂は根も葉もない流言蜚語とわかったが、軍隊・警察や自警団が朝鮮人を迫害し多数殺害したことは厳然たる事実であった。外国政府や内外世論の反響や植民地支配への影響も重大である。政府としてはこの事実をどう処置するかが大問題となった。政府では、まず言論取締りを強化して極力事実をかくすとともに、積極的に(にせ)の事実をでっちあげ、これを新しい流言として流すことによって、朝鮮人虐殺の事実を正当化しようとはかった。

 五日には、各省と戒厳司令部との協議機関である臨時震災救護事務局警備部では、つぎの事項を事件の真相として宣伝しはじめた。「鮮人に対しことさらに大なる迫害を加えたる事実なし」「朝鮮人、暴行または暴行せんとしたる事実を極力調査し、肯定に努むること」「海外宣伝は特に赤化日本人及び赤化鮮人が背後に暴行を煽動したる事実ありたることを宣伝するに努むること」。

 軍隊では、すでに震災直後から、社会主義者をこの機会に徹底的に弾圧しようとする方針をとっていたが、この決定にもとづいて、もともと存在しなかった朝鮮人の暴動の背後では社会主義者が糸をひいていたのだ、という新しい流言がのさばりだすことになった。

 九月七日の『下野(しもつけ)新聞』では、第一四師団の井染禄朗(いぞめろくろう)参謀長が「今回の不逞鮮人の不逞行為の裏には、社会主義者やロシアの過激派が大なる関係を有するようである」と述べ、「神戸付近にロシア過激派の購買組合があって不逞鮮人と連絡をとり、ヨッフェ滞在中も不逞鮮人とロシア過激派と社会主義者のあいだで連絡があった」と語っている。第一四師団はシベリアに出兵した部隊であり、井染は北部沿海州特務機関長で、反革命軍の首領のセミョーノフびいきとして知られていた。

 七日には治安維持のための罰則、いわゆる流言浮説取締令(または治安維持令)が緊急勅令で公布施行された。

 「出版通信其他何等の方法を以てするを問わず、暴行、騒擾(そうじょう)其他生命、財産、身体に危害を及ぼすべき犯罪を煽動し、安寧秩序を紊乱(びんらん)するの目的を以て治安を害する事項を流布(るふ)し、又は人心を惑乱するの目的を以て流言浮説を()したるものは、十年以下の懲役(もし)くは禁錮又は三千円以下の罰金に処す」

 この緊急勅令は一見したところ、一日いらいの朝鮮人暴動の流言や朝鮮人迫害の煽動を取り締まるために出されたと考えられる。文字どおりに解釈すれば、井染参謀長の談話はこの罰則に該当するかもしれない。だが、そのねらいは別にあった。朝鮮人虐殺や軍隊・警察による社会主義者の迫害等にたいする国民の批判を禁圧し、さきに述べた五日の警備部決定を、当局につごうのよい形ですすめようとしたのである。そのうえこれは、犯罪そのものではなくして「煽動」「流布」「流言浮説」に重刑を科するという点で、朝憲紊乱などの宣伝・勧誘を罰する過激社会運動取締法案につらなるものであった。政府は、第四五議会で審議未了におわった過激法案にかえて、これを震災のどさくさのなかで緊急勅令によって公布したのである。

 朝鮮人殺傷事件がいちおうおわったのちも、社会主義者にたいする弾圧や迫害はつづいた。堺利彦ら第一次共産党事件の関係者は、獄中にあったのでかえって凶刃をまぬかれることになったが、近藤憲二(けんじ)・福田狂二(きょうじ)・浅沼稲次郎・稲村順三(いなむらじゅんぞう)・北原竜雄(たつお)らの社会主義者たちは、五日ごろからぞくぞくと検束された。総同盟の麻生久(あそうひさし)夫妻も、足尾銅山の鉱夫がダイナマイトをもってきて騒擾をおこすというデマのために、赤ん坊づれで収容された。亀戸方面では十八日になってからも、総同盟の荷揚げ仕事の掲示をはったために南葛労働会員が検束され、拷問をうけている。

 

  大杉殺害事件

 こうしたなかで大杉栄殺害事件がおこった。大杉はこの年七月にパリから送還され、新宿に近い柏木(かしわぎ)に住んでいた。文藝評論家の内田魯庵(ろあん)と同番地であった。大杉が暗殺されたという流言は震災の直後から流れていたが、大杉は淀橋署(よどばししょ)の尾行に見守られながら町内のお付合いで夜警にも参加するという、きわめてありきたりの生活をおくっていた。内田の耳には、「大杉は毎晩子分を十五、六人も集めて陰謀を密議している」とか「あんな危険人物が町内にいては安心ができないからやっつけてやれ」という噂もはいってきたが、大杉は落ち着いて、不似合いに立派な金紋黒塗りの乳母車を押して子守(こも)りをしていた。

 十六日に、大杉は妻の伊藤野枝と二人づれで鶴見にいる弟の家を見舞ったが、大杉夫妻はそのまま姿を見せなかった。三、四日すると夜おそく、売文社いらいの大杉の友人である安成二郎が内田を訪ねてきて、「大杉が行方不明になりました」と昂奮して告げた。安成は大杉を懸命に探したが、どこの警察にも検挙されていない。安成の話によると、「その日に戒厳司令官や憲兵司令官などが更迭(こうてつ)され、某憲兵大尉が軍法会議にまわされた。これは明日発表になるはずだが、こうした要職の更迭はけっしてただごとではない。当局者が口をすべらしたところによると不法殺人であって、どうもそれが大杉らしい」というのであった。

 そのうえ、大杉のほかにも多くの思想家や文学者が検束されており、その生命にも危険がおよぶことが憂慮された。社会主義文藝誌『種蒔く人』の小牧近江らは、馬場孤蝶・小川未明・青野季吉・千葉亀雄らと相談して、戒厳司令官に請願文を出した。

 「非常の際、特別の保護警戒を加えられる官憲の労にたいしては、この際とくに感謝しますが、なおこのうえとも右関係者の生命の安全を保障されんことを懇請いたします」

 本来ならば当然抗議すべきところを、異例の「生命安全の請願文」を出さねはならなかったところに、かれらを包んでいた黒い霧の重圧を知ることができる。

 九月二十日には『時事新報』と『読売新聞』が、号外で大杉殺害事件を報道して発売禁止となった。しかし、もはや事件を隠しきることはできなかった。この日、司令官小泉五一少将・東京憲兵隊長小山介蔵憲兵大佐が停職になり、同時に東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町(こうじまち)分隊長甘粕(あまかす)正彦憲兵大尉が違法行為のために軍法会議に()せられた。福田戒厳司令官も更迭されて山梨半造大将とかわった。これらは翌日の新聞で報道されたが、違法行為が何であるかは明らかにされなかった。内務省では、「憲兵司令官および憲兵隊長の停職ならびに甘粕大尉の軍法会議に付せられたる件」と「社会主義者の行衛不明その他これに類する一切の記事」の掲載禁止を命令した。

 

  軍法会議の茶番劇

 第一師団軍法会議の予審がおわった二十四日には、はじめて軍法会議検察官談として「甘粕憲兵大尉は本月十六日夜大杉栄ほか二名の者を某所に同行し、これを死に致したり」と発表された。これは、犯行の動機として「無政府主義者の巨頭たる大杉栄らが、震災後秩序未だ整わざるに乗じ、如何(いか)なる不逞行為に()ずるやも計りがたきを憂い、みずから国家の害毒を芟除(せんじょ)せんとしたるにあるものの如し」と甘粕の犯行の動機を是認するかのような口ぶりをしめす反面、大杉のほかの二名がだれであるか、大杉らを殺害した某所とはどこであるかについては、まったく口をぬぐっていた。

 これらは、十月八日に公表された甘粕の聴取書ではじめて明らかにされた。それによれば、麹町憲兵分隊長である甘粕は、社会主義者の巨頭である大杉が警視庁で検束をうけていないことを遺憾として、九月十日ごろから捜索をはじめたが、十五日になって淀橋警察署の特高係の案内で、柏木にいることを発見した。翌日、大杉は午後五時半ごろ妻の野枝と鶴見にいる義弟を見舞い、六歳になる甥の橘宗一(たちばなむねかず)をつれて帰ってきた。その帰りに近くの果物屋に寄ったところを、甘粕と東京憲兵隊本部付の森慶次郎曹長とが拉致したのである。甘粕は、大杉たちを麹町憲兵分隊につれてくると、かれらを憲兵司令部応接室・東京憲兵隊本部隊長室、そのとなりの特高室に別々に入れて、午後八時から九時半ごろのあいだに、取調べを装いながら順次に絞め殺した。三名の死体はその晩、兵に手つだわせてこも包みにし、憲兵隊構内にある古井戸のなかに投げ入れて上から煉瓦で埋めた。ほか二人とは、妻の野枝とまったく罪のない子供であり、某所とはほかならぬ憲兵隊の中枢部だったのである。

 甘粕は、大杉のほかに堺利彦や福田狂二も殺害するつもりであったが、それらは「憲兵分隊長の職権としてやろうとしたのではなく、一個人として国家のため殺害する必要があると信じたからであります」と述べていた。しかし甘粕は憲兵や淀橋署の巡査を使い、憲兵隊の自動車を二台も引きまわし、大杉らを憲兵隊本部まで連行し、しかも隊長室などで殺害したうえ、死体も隊内で処分している。しかも犯罪がおこなわれてから三日間もわからず、そのうえ犯罪が明らかにされたのも外からの圧力にうながされた結果であった。こうした甘粕の犯行は、社会主義者は殺してもかまわぬという雰囲気が軍隊中にひろがっていたことをしめしている。だがさらに、犯行それ自体も上官の命令によるか、少なくとも上官が関知しているのではないかという疑問もおこった。

 十月九日から開かれた公判でも、この点が問題になった。本多重雄上等兵は、森曹長から「これは司令官の命令だから絶対に口外してはいかん」といわれたと陳述したが、森や他の二人はこれを否認した。証人として出廷した小泉前憲兵司令官も、こうした命令を出した覚えはないと答えた。また、森曹長は東京憲兵隊本部付で甘粕の指揮下にはないから、森には別に命令がくだったのではないかと問題になったが、麹町憲兵分隊長はふつう東京憲兵隊特高課長を兼任することになっているから、森が甘粕を直属上官と思うのも無理はないとこじつけて、これを否定した。

 当時の新聞も、甘粕事件については「陸軍の大汚辱」(『時事』九月二十六日)、「軍人の敵・人道の賊」(『東日』十月九日)とはげしく非難した。軍法会議の模様もくわしく報道されたが、各紙は「甘粕の背後に何物かあることは(おお)うべからざるの事実」とつたえた。しかしこうした声は無視された。軍法会議は甘粕の背後関係はいっさい追及せず、まるでボロが出るのを防ぐかのように公判をいそぎ、二月十八日には早くも判決をくだした。大正十年には陸海軍の軍法会議法が改正され、それまでの秘密審理を改めて公判をおこなうことになったが、判士(はんし)の大半が一般軍人から選ばれるという肝心の点は改正されなかった。そのため、形だけの公判ですりぬけられるという事態をうんだのである。『東京朝日』は「軍法会議の司法的能力」が失格であるとして、軍法会議の廃止または大改造を主張した。

 甘粕は懲役十年、森は同三年、他の三上等兵は、戒厳令下のため、犯罪になると知らずに命令に服従したにすぎないとして無罪となった。しかし甘粕は三年あまりで仮出所し、夫人と一緒に外遊したのち満州にゆき、満州映画会社の理事長として権勢をふるった。これは、なにものかが陰に伏在しているのではないかと人びとに感じさせた。「大杉は、じつは麻布第三連隊で将校によって射殺されたのであるが、甘粕が罪をかぶったのだ」という説もある。

 

  亀戸事件

 亀戸事件のほうは、十月十日になって、はじめて報道された。すでに南葛労働会では事件の内容を総同盟に報告し、各団体にあてて、はがきを出したところであった。事件が報道されると古森繁高(ふるもりしげたか)亀戸署長は、「平沢ら八名は南葛労働会本部である川合の家の屋根上で火災を見て、『おれたちの世がきた』と革命歌をうたい、不逞漢が毒薬を井戸に投入したなどの流言を放っていたと、付近の者が密告したので検束した」と述べた。また正力(しょうりき)官房主事は、「三日夜、亀戸署へ羅災者で検束されていた数は七七〇余名で、騒擾甚だしく制止しきれぬので、警視庁から軍隊の応援を依頼し、協力して留置所から引き出すとまた騒ぎ出し、革命歌を高唱し、あるいは○○来襲等の言を流布し、制し切れぬため、軍隊は衛戍勤務規定により、労働者十名と自警団四名を四日夜、遂に突き殺した。しかし警官は手を下していない」と語った。

 総同盟ではただちに事件の糾弾運動をはじめた。当時居合わせた証人たちの話をきいても、川合・平沢らが屋根にのぼって革命歌をうたったというのはまったくのデマで、かれらは夜警に出たり、羅災者救済のために活動したりしていた。検束中にかれらがさわいだ事実もない。かれらが殺された当夜の亀戸署は静かで、ただ終夜銃声のみが聞こえた。またかれらは手をしばられており、殺されたときにも抵抗をせず、また抵抗できなかったらしい。自由法曹団の布施辰治弁護士らは、亀戸署では刺殺はやむをえなかったというが、それほど切迫した事情があったはずはない、真相を明らかにして国民の疑惑を除けと主張し、法治国家としての司法権の活動開始を政府に迫った。しかし、これは戒厳令下の軍隊の行動としては当然のことだと黙殺された。

 十一月十二日には、総同盟と自由法曹団が当局と交渉して、平沢らを火葬にして埋めてある荒川放水路の堤防で遺体を受け取ることになった。だが、亀戸署はさきまわりして前の晩に遺体を掘り出させて火葬に付し、現場には人を近寄せなかった。総同盟らの一行は、現場を発掘されると半焼けの死体が暴露されるのをおそれて警察が再火葬したものと認め、黙祷して引きあげた。その後山崎今朝弥弁護士の入手した写真では、平沢らはたんに刺殺されたのではなく、素っ裸にされて首を切られるというむごい殺されかたをしていることが判明した。十一月十六日に戒厳令が解除されると、総同盟などは大阪・神戸・京都・岡山・高知等で、亀戸事件批判演説会を開いて抗議した。

 小牧近江らの『種蒔く人』では、早くも十月一日に「帝都震災号外」を出した。これは、青年団その他の、朝鮮人にたいする悲しむべく憎悪すべき事実がなぜおこったのか、できるだけ冷静に考察し、抗議すべき目標を明らかに見きわめよ、と訴えた。

 亀戸事件の全貌がわかってくると、小牧や金子洋文(かねこようぶん)らが、このままにしておいてはいけないと立ち上がった。総同盟にいって相談すると、「今のわれわれには、この事件を世に訴えることは無理だ。こういうときは文士の諸君に限る。たのむ」と、調査記録を貸してくれた。これをもとに金子が亀戸の殉難記をまとめて、翌年一月に『種蒔き雑記』を出した。金子は(いきどお)りをおさえて事実を簡潔に書いたが、そこには被害者たちの美しい人柄が浮き上がっていた。『種蒔き雑記』は、巻頭に「この雑記の転載をゆるす」と書いた。

 朝鮮人虐殺事件も、広く内外に知れわたっていただけにまったく不問に付することはできなかった。そこで、追及の手はもっばら朝鮮人またはこれと誤って日本人を殺害した自警団に向けられ、九月二十日前後になると、各地で自警団が検挙された。しかし亀戸方面のように軍隊や警察が手をくだしたばあいや、警察が朝鮮人は殺してもよいと指図したことなどは、まったく不問に付された。震災地以外で、もっとも多数の朝鮮人が殺害された埼玉県では、県当局から、町村当局者は在郷軍人分会、消防手・青年団負と一致協力して「不逞鮮人」の警戒に任じ「一朝有事の場合には速かに適当の方策を講ずるよう」という通達文が出されたことがわかった。上杉慎吉も、主として警察が鮮人来襲・放火・暴行の流言をひろげ、自衛自警を勧誘し武器の携帯を認め、さらに手にあまれば殺してもよいと信じさせた点をついて、警察の責任を追及した。関東自警同盟も、警官の暴行を問わずにおいて、今ごろになって自警団の罪だけをあばくのは不当だと抗議した。新聞にも同様の投書がのった。

 そのため殺人罪をおかした自警団員のばあいでも、裁判の結果は大半が執行猶予となり、実刑のばあいでも、最高刑が懲役四年ていどにとどまった。官憲にたいしては何らの処分もおこなわれなかった。朝鮮人虐殺事件については、吉野作造がこの問題を調査したほか、労働組合のあいだに若干の動きはあったが、甘粕事件さらには亀戸事件に比して、これに抗議する力は弱かった。

 しかも、当局はこれらの事件の記事を解禁するにあたって、憲兵・警察・自警団の暴行がおこったのもやむをえないと思わせるような記事を抱き合わせて発表した。

 甘粕事件は一部だけ九月二十四日に発表され、十月八日に記事解禁となったが、この日または翌日の新聞は、これと並べて「某重大事件に検事総出の活動」をつたえた。これが、摂政(=皇太子のちの昭和天皇)暗殺をくわだてたとされる朴烈(ぼくれつ)金子文子(かねこふみこ)事件の最初の報道である。朴烈は朝鮮人のアナキストで、妻の金子文子と不逞社を結成し、雑誌『太い鮮人』を発行していた。元来の題名は『不逞鮮人』であったが、不穏当とされて改題したものである。かれらはすでに九月三日に検束されていた。かれらがもしも大逆をくわだてたとすれば、不逞鮮人の陰謀が実在したことを世人に印象づけて、朝鮮人虐殺事件を正当化することになるし、さらに朝鮮人の背後で社会主義者が糸をあやつっているという新しい流言をうらづけることにもなる。絶好の身代り(スケープゴート)であった。

 二十日に自警団の朝鮮人虐殺が正式に記事解禁になると同時に、当局では朝鮮人の「一部不逞の徒」の犯罪をでかでかと発表したが、その内容はあやしかった。いくつかの新聞は、かねて調査していた朝鮮人虐殺記事のほうをさきに発表して、当局をくやしがらせた。

 震災の渦中でおこった朝鮮人虐殺事件・亀戸事件それに大杉事件は、程度の差はあるが、いずれもその責任は十分に追及されず、曖昧なままにごまかされてしまった。こうした悲しむべき事件を二度とくり返さぬよう禍根を断ち切るためには、その底に横たわっている問題、たとえば朝鮮人にたいする差別を白日のもとにさらしてこれを克服してゆくことが必要であった。しかし民主主義的な知識人も労働団体も、それだけの力をもたなかった。

 いな、それとは逆に、里見弴の『安城家の兄弟』に書かれているように、右翼団体や在郷軍人会などは、「国士」甘粕の減刑を要望する署名運動を大手をふってすすめ、日本人なら署名するのが当然だとばかりに、四の五のいわさずに署名を集めていた。混乱のなかで、民衆のあいだに根づよくひそんでいた保守的な感情がかきたてられたのである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/03/07

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今井 清一

イマイ セイイチ
いまい せいいち 現代政治史家・横浜市立大学名誉教授 1924年 群馬県前橋市に生まれる。

掲載作は、昭和40年代の大シリーズ中央公論社刊「日本の歴史」で、第23巻『大正デモクラシー』を担当記述された1冊から、準戦時体制化してゆく軍国日本が「関東大震災」にみせた未曾有のテロリズムの実体を追尋すべく、表記一章の掲載を特に招請した。

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