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多忙な初年兵

 私達は随分(せわ)しくなつて来た。

 朝のうち、駈歩(かけあし)や体操で演習解散になると、食事当番に行く者は兵舎の南側へ整列して、舎内週番上等兵が炊事へ引率してくれるのを待つてゐた。この勤務の上等兵は時には用事をしてゐることもあるけれど、大概食事時間になると(うまや)から帰つて来た古兵(こへい)達と暖炉(だんろ)にあたつてゐて、なかなかちよいと出ては来なかつた。あれもこれも忙しい仕事を沢山持つてゐるわれわれは、かうして茫然(ぼんやり)待たされる間、どんなにその上等兵を面憎く思つたか知れなかつた。堪らなくなるとわれわれの一人が兵舎に上つて行つて、不動の姿勢で頼むのである。

「食事当番揃ひました。連れて行つて下さい。」

「揃つた? 全部揃つたか。」

 紅提灯(あかちやうちん)のやうにあかく焼けた暖炉の傍から、真紅(まつか)な顔をして、起ちもしないで身体を()ぢりながら、週番上等兵は窓に覗いた。

「揃つちや居らんぢやないか。嘘言奴(うそつきめ)、皆揃ふまで待つとれ。」

 上等兵が先づ所定の位置に出て、食事当番を集合して、引率して行くのがたてまへになつてゐるのだが、丁度われわれの方で集るままに放擲(ほつたら)かして置くものだから、上等兵がゐないと自然われわれの方の集り方が遅くなつた。それで正直に始めから出てゐるものは、何時(いつ)までも益々長く待たされねばならなかつた。班内の清潔をしてゐたり、古兵の使ひで酒保(しゆほ)に行つてゐたりして、(ちつとも自分の私用をしてゐるわけではないのだが)少しでも集合に遅れる者があると、まだ物馴れないわれわれ同志でなかなか黙つては済まさなかつた。

「何をてれてれしとるんだ。お前が揃はないばかりに連れて行つて貰へんぢやないか。」

 かう噛みつくやうに責めかかるのである。軍隊の仕事は凡てかうだ。皆が力を(あは)せてやらなければ、たとへ唯一人、ほんの一分遅れただけでも、われわれ全体の運動が出来ないのである。いくら四十三(サンチ)の巨砲でも、微細な粉末一粒の障碍(しやうがい)の為に、あの奇蹟的な運動を中止しなければならないやうに、われわれの場合も(すこ)ぶる精密に科学的であつた。殊に仕事が激しくなればなる程、(みんな)が働いてゐるのに怠けてゐたり、手をぬいてずるけてゐたりしようものなら、不倶戴天(ふぐたいてん)といつた風に、極端な呪咀(のろひ)を以て敵視せられた揚句、同年兵同志でも「半殺し」にしないでは置かなかつた。そこには群衆の平等の中に、力を(あは)せて始めて出来る絶対な権威が潜んでゐた。怠ける者はこの権威から弾き返された。そこに恐しい精神的な科学があつた。「(とて)もこれは」と思はれるやうな大きな仕事でも、皆がありたけの力を()はせてかかつて行けば痕跡(あとかた)もなく片づけることが出来た。われわれ個人個人から、どうしてかういふ力が出て来たのか、(まこと)に不思議であつた。かういふ仕事を為了(すま)せた時は(したた)る汗と、この上もない自信とより(ほか)何もなかつた。こんなわけで集合に遅れないやうにするとか、時間に間に合ふやうに行かねばならぬといふことは、実際献身的な努力であつた。けれども初年兵は古兵達のやうに、唯ぶらぶらしてゐたり、(わざ)とずるけてゐたりするのではなく、班の共用物品の手入とか、古兵に頼まれた仕事とか、さういふことをしてゐると、つい集合に間に合はないことがあつた。皆が整列してゐる処へ遅く出てくれば、どうしても後尾に(なら)ばねばならなかつた。班長が何かの所為(せゐ)で不機嫌な時などは、顔色を()へて拳骨を握りしめながら、遅れた兵の傍に近寄つて来る。その様子を見てゐる外の初年兵達も、別にこれを可哀さうだとは思はなかつた。遅れて自分達に迷惑をかけてゐるのだから、(むし)ろ憎悪の眼でいい気味くらゐに眺めてゐた。

 食事が済むと班内の清潔にとりかかつた。各分隊で寝台を片寄せ、きれいに掃き出して、整頓棚や銃架(じゆうか)を拭いて了ふと、初年兵全部と二年兵の真面目な者が、(三年兵は暖炉にあたつてゐて滅多に清潔などには加はらなかつた。)班内の通路を(こす)るのである。ちやんとその為にマニラ麻の馬糧袋(ばりやうぶくろ)を切つてある布を、二重か三重に畳むと、皆が一列の横隊(わうたい)に散開して、膝を衝いて前跼(まへしやが)みになり、間遠(かんゑん)音頭(おんど)をとりながら、通路の床板(ゆかいた)に光沢を出すのである。「座擦(ざこす)り」といつてこれがわれわれの隊では独特な清潔法であつた。寒い朝なので、二年兵達は決して上衣(うはぎ)など脱がないけれど、初年兵で上衣を着て擦つてゐる者はひとりもなかつた。古兵達は暖炉であたつた。しかしわれわれの方は上衣を脱いで、襦袢(じゆばん)一つになつても寒くない程働いて(あたた)まつた。一生懸命で擦つてゐれば、床板に(じか)につけた膝頭が痛くなるのも忘れて了つて、ほつてりと身体の中から暖まつて来て、額の上に汗ばむ頃は、皆の音頭が一層高くなつて来る。隣の班でも負けないやうに音頭をとるし、ずつと放れた他所(よそ)の中隊からも、威勢のいい調子の音頭が方々から聞えて来る。この朝食後の清潔の時分、軍隊に一度も足を踏み入れたことのない人が、偶然の機会で()つて来たとしたら、聯隊中に呻吟(うな)り渡る奇妙な声に何事が起つたのだらうと、気味悪い戦慄(せんりつ)を感じるに違ひない。そしてこの人が更に兵舎に入つて、四つ這ひになりながら、羊のやうに背を円くして、床板を睨んでうめいてゐる長い一列を見たならば、果してどういふ感想を抱くだらうか?

()めエ、――」

 わんわん鳴り響いてゐる音頭と、一心不乱な労働を制止する為に、初年兵係の上等兵は、ありたけの声を絞つて、かうした(つんざ)くやうな声を出すのだが、それでもなかなか隅までは徹しない。

大分光沢(だいぶ・つや)が出た。大分光り出した。」

 かう言ひながら、われわれがわつと凱歌を上げて起ち上り、身体に着いた塵を払ふと、隣の班でも、同じくわあつと起ち上つて、ばたばたと仕舞ひ始める。私達はそれぞれ麻布(まふ)を整頓して、手入毛布を机の上に敷き、銃の手入れにかからうと思ふと、舎内週番が来て、この班の上等兵に言ふ。

使役(しえき)を一名()れ、階段の座擦り。」

 舎内週番は班に属しない場所の清潔をする為に、各班から毎朝使役兵を採ることが出来るのである。

「よし、山田をやらう。」

「誰? 山田? 山田すぐ来い。麻布を持つて。」

「ハイ、麻布を持つてすぐ参ります。」

 今まで班の座擦りをしたにも拘らず、山田はかう復称すると、上衣を着る暇もなくすぐまた使役に行かねばならない。彼は食事当番に行つて、食事が済むとまた食殻を炊事に下げ、帰つてくれば通路の座擦り、これが()つと終つて自分の銃の手入が出来ると思つてゐると、今度はまた階段の座擦りに出て、この上膝頭を痛くせねばならない。皆は彼が使役に出てゐる間に、銃の手入や、寝具の整頓や、自分の長靴の手入をして、何時でも演習に出られるやうに支度(したく)をするのである。それに山田は座擦りの使役から帰つて来ると、演習に出る迄に、或ひは又、暖炉に渡る薪をとる使役にやられるかもしれない。それも食事をすましてから、演習に出るまで(とて)も一時間といふ時間はないのであるが、その間にこれだけ多くの仕事をしなければならない。本当に山田の場合は何とも言ひやうのない程多忙を極めるのである。しかしかういふことは独り山田に限らず、初年兵には誰でも実際毎朝続いて起きる事実なのだ。だが山田は使役に遣られる方を、(むし)ろ喜ぶかもしれない。班にゐて口八釜(くちやかま)しい古兵の監視や、鋭い睥睨(へいげい)の眼を()けられるよりも、仕事は(ひど)くても、時間は潰されても、結局自由にのんびりとして働くことが出来るからだ。でも班員の眼を遠ざかつたり、使役に行くのを好む者は、孰方(どつち)かといへば、自分の性格に、いや、性格よりももつと深いものに根ざした怠け癖のある者が多かつた。私は軍隊にゐて、所謂(いはゆる)ずるいといはれた者と、真面目でよく働くといはれた者と、その心持にどれだけの差があるかといふことを考へさせられることがあつた。ずるけようとする者でも、怠けたがつた者でも、軍隊にゐてはどうしてもある程度までは働かねばならない。それだから、真面目に働いた者は非常に骨を折り、怠ける者は直接身体に樂を見るかといふと、決してさうではなかつた。(しか)も真面目だといふ与論の立つ者と、ずるけるといふ与論に左右せられる者とはその幸福の内容に於て、全く天淵(てんえん)の差があつたやうに思ふ。怠けるといふことは、ほんの気おくれであり、手おくれであつた。同じ仕事をするのに真面目なものは威勢よくかゝつた。怠ける者はぐづぐづして、ぶつぶつ言ひながら始めてゐた。そして仕事にかゝれば労力を要する程度は両者とも同じであつた。それに怠けると見られた者は永い不幸を以て(むちう)たれねばならなかつた。私はこの両者を、同じ泉から東西の谿(たに)に流れ出ようとする源のやうなものだと思つた。彼等は所詮その質に於ては異つてゐなかつた。しかし既に心の方向を異にしてゐた。働く者は外に向つて労力を発散しようとする要求を持ち、怠ける者はその労力を内に貯蓄しようとする骨惜みを持つてゐた。どちらも自己尊重といふことに於ては変りがなかつた。そして同じレベルの上に置かれた、同年兵同志の与論といふものは、何時もおそろしく精確なバロメーターであつた。私は働く者と怠ける者とに就いて善悪の問題を言つてゐるのではない。が、怠ける者は皆が蛇蝎(だかつ)のやうに嫌つたし、働く者が皆が好いたといふことが唯一の事実であつた。人間の心の傾向として怠ける者よりも働く者を好むといふ方には、容易(たやす)く傾くことが出来たと思ふ。

 山田が使役から漸つと帰つて来ると、皆はもう演習に出る為に、穿()くひまもなく、長靴を持つたまゝ、石廊下を降りてゐる。山田は吃驚(びつくり)して急いで班内に駈け込むと、長靴をひつたくるやうに外して、寒いのに今まで脱いでゐた上衣もそこそこに着ながら、皆に遅れまいと焦燥(あせ)つて演習に飛び出すのだ。起床同時厩に行くには、労働に便利な為に、皆短かい営内靴を履いて行くのだけれど、修理に出してゐた山田には生憎(あひにく)それがなかつた。現在衛兵勤務などに服してゐる古兵の営内靴が空いてゐるのだが、古兵の物を借りるのは非常に遠慮な上に、持主は兵舎にゐないので、朝厩(うまや)に行つた時は勢ひ長靴を履いたのである。そして、厩から帰つて来ると、演習出場の今の今まで、使役に使はれてゐたのだから、勿論手入をする暇もなかつたので、朝厩に行つた時の、汚れたままの長靴を履いて出ねばならなかつた。外の者の長靴は皆奇麗に手入せられてゐるのに、自分ひとり泥塗(どろまみ)れになつたのを履いて出ねばならなかつた。初年兵はもう舎前に集合を終つてゐるので、山田は周章(あわ)てながら最後尾に着いて(なら)ぶ。すると(ある)下士(かし)の号令で、前後列二歩の間隔に開いて一々服装検査を始める。ひとりの下士はずつと皆の帽子の(かぶ)り方を検査して行くし、或下士は衣袴(いこ)の着方ばかりを検査して行くといふ風に。

「山田! 一歩前へ。」

「おい、皆山田の長靴に注目。近来手入などしたものではない。こんなずるい奴は三年間二等卒のぼやぼやで暮すのだ。それに(ぼたん)もこれこの通り。」

 下士は鞭の尖でそれを皆に示した――山田は演習に出るのを狼狽(あわ)てゝ焦つたものだから、冬作業袴の股の釦をよく()めるひまがなかつたのである。皆が噴き出して笑ふのだ。

「山田! お前は何時(いつ)も後尾にばかり集るぢやないか。先頭の者と後尾のお前では集合に三分は違ふ。お前ひとりの為にこれだけの者が三百分の損をするのだ。お前はそれをどうして支払ふ積りか。貴様の身体が独活(うど)の大木で重いばかりで、役に立たんから不敏捷なのだ。すこし身体を軽くしなきや不可(いけ)ない。その目的の為に今から貴様は早駈(はやがけ)! 面会所の柳を廻つて来い。元気がないと何回でももとへだぞ。」

 舎前から五六百米もある衛兵所の柳の樹まで、全速力で往復せねばならぬ。もし遅くなつて元気がないと見たら、何回でももとへを(くら)つて、倒れるまで往復することもあるのだ。

 これはわれわれの場合に起る一つの見本に過ぎない。山田の姓名はわれわれの誰にでも置き換へることが出来るのであつた。

 私達はもう調馬索(てうばさく)の演習を教育せられてゐた。班に属した、温順(おとな)しい余り背の高くない馬が()き出され、頭絡(とうらく)の鼻の所から長い(ひも)をつけると、真中に立つた教育者が、これをしつかり持つたまゝ、馬を円形に廻すのであつた。調馬索に出されるのは、故障のない限り、毎年同じ馬であつた。だから馬の方でも、非常によくこの演習に馴れてゐて、すつかり玄人振(くろうとぶ)つてゐた。そして中隊にもかうした馬はさう沢山はゐなかつた。馬は営庭に牽き出されると、――今年も亦お出でなすつたな――といふやうな顔で、きよとんとした眼付をしながら、ずつと下目にわれわれ新兵を見廻すのだ。

 私達が(おそは)つたとほりに、(たてがみ)を握つて飛び乗らうとすると、母親がよちよち寄つて来る赤坊をおんぶするやうな様子で、馬は(わざ)と頚を下げて凭れるやうにしながら、私達を乗り易くしてくれた。馬には毛布も置いてなければ、たづな(難漢字、手綱)も()いてはゐない。裸馬に(またが)つたまま、両手をだらりと下げて恐ろしさうにしてゐると、合図せられた馬は、われわれを恐れさせないやうに非常にゆつくり、てくてくと歩き始めた。革の長鞭を持つた教育者が、歩度(ほど)を見計らつて、鞭を少し高く上げると、馬はそれに応じて少し歩度を早めた。歩度が早過ぎるやうになれば、「お、おーら」と教育者の制止する声をきいて、馬はちよつと振りむきながら、汽車が停車場に入つた時のやうに極く静かに止まるのであつた。でも何か、ことの外不機嫌な時は、馬は腰を高く上げたりなどして、われわれを揺り落とした。所詮私達は馬に乗るのではなくて、馬の御機嫌を伺ひながら、馬に乗せてもらふのであつた。

 この調馬索と、藁馬(わらうま)と、体操とは何時(いつ)も同時に行はれた。

 調馬索演習のあるずつと手前の方では、班毎に並んだ初年兵達が体操をしてゐた。体操の一通り済んだ者は、藁馬の演習に行つて、それから調馬索へ来るのであつた。

 体操をやる前にはずつと引続いて、不動の姿勢を教へられてゐた。「不動の姿勢は軍人基本の姿勢」であつた。ちよつと見ると、雑作も無ささうなことであつたが、なかなか会得(ゑとく)し難い最も困難なものの一つだつた。頭から足先まで、要求通りに出来てゐても、兵の体質に依つて、何処か点睛(てんせい)といつた風なものを欠いてゐて、容易に綜合的の美の備はらないものであつた。そして教育者達――下士や上等兵――はこれを私達の威厳の欠乏に帰した。彼等は、()の欠点があつてもすぐに鋭く着眼して、われわれを矯正(けうせい)せずには置かなかつた。成程この点に就ては、彼等は一流の審美学者(しんびがくしや)であつた。彼等は自ら模範をさへ示した。永年の間の軍隊の特殊な労苦を、広い深い背景として、そこに浮き出された彼等の不動の姿勢には、年功に対する尊敬を払はせずにはおかない十分なものがあつた。実際その意味では、立派で美しかつた、――アポロ型としてもデオニソス型としても……。私は多くの月日がこゝで経つて行くに従つて、この不動の姿勢の漸々(やうやう)立派に出来て行くやうになつたのを自分ひとりで不思議に思ふこともあつた。この姿勢は(のち)になるほど、私には、深いいろいろな暗示を与へてくれたやうに思はれた。私達は始めのうち、来る日も来る日もこの姿勢の練習で悩まされた。軍人といふ型より外の、人間としての味を(しぼ)りとるには、一番效果のある遣り方であつた。われわれは世の中の人間とはすつかり縁を()たれて、人々の持つてゐる豊かな人情や、優れたデリカシーから、遠く追放せられる首途(かどで)のやうな積りで、この姿勢を習得せねばならなかつた。去勢せられて行くやうな暗い腹立たしい気持で、毎日自分の心が乾いて行くのを知つた。そして文字通り私達は去勢せられて行つたのである。

「演習班長殿。山田、藁馬の演習から帰つて参りました。交代を一名寄越せと言はれました。」

 体操をしてゐるところへ帰つて来て叫ぶのである。

「何? 声が小さくて解らない。営庭の割れるやうな、大きな声を出さにやア解らない。」

 その兵の持ち得る最も高い音量を出したと思ふまでは、何回でも同じ事を繰り返させるので、私達は何もかも忘れて、唯大きな声を張り上げようと努力する。

「よし、次の者藁馬に行け。」

 藁馬は木馬を藁で包んだ上を、茣蓙(ござ)を巻いて至極(なめら)かに出来てゐた。馬に乗る予習として、脚力を増進させ、腰を柔軟にする目的で、周密な教育が施されるのである。藁馬に跨がると、両手を引て腰骨の上に後の方から宛行(あてが)つて、両踵(りやうかかと)を垂れたまゝ、イチニ、イチニと腰を送くりながら、踵で藁馬の腹部を何百回となく軽打するのであつた。教育者は兵の腰帯の間に手を入れて、後から、腰を送る度に腰骨の折れるほど押し出すのだ。そこに行つて、藁馬の交代を待つてゐる者は、両股を左右に開いて、股が地面にべたりと着くまで練習を続けながら、藁馬の空くのを待つてゐる。

 調馬索で生きた馬に乗せられてゐる者は、馬上から、色々な学科の質問に答へねばならなかつた。かういふ時は先づ、聯隊内にゐる上官の官姓名が質問せられる。

「おい、山田。聯隊長殿の官姓名を言へ。」

「ハイ、陸軍騎兵大尉桑野幸造殿!」

「それは中隊長殿の官姓名ぢや、馬鹿! 大尉で聯隊長をしとる人は日本には居られない。お前は(から)から来たかそれとも天竺(てんぢく)から来たか。」

「班長殿。忘れました。」

「大馬鹿三太郎! お前の官姓名を言へ。」

「ハイ、陸軍騎兵二等卒、山田一郎!」

「さうではない。お前の姓名は大馬鹿三太郎ぢや。」

「ハイ、陸軍騎兵二等卒、大馬鹿三太郎!」

 馬の上で廻されながらかういふことを野良犬のやうに、大きな声で()えたてる。営庭の中で、辺り構はず叫び上げる各中隊の新兵の、かうしたどら声があちらでもこちらでも(やかま)しく響いてゐる。

 毎日こんなに、ありたけの声を絞り出して叫んでゐるうちに、われわれの咽喉はすつかり痛んで、一旦全く声が潰れて了ふ。そして今度再び出て来る声は、一層大きな、露骨な、羞耻(はぢ)も何も感じることの出来ないやうな、乾き切つたものであつた。

 小春日のやうな、弱い日ざしが、枯れ残つた柳の葉のはらはらと散り敷く営庭に、()げつたり曇つたりしながら、何となく(ばう)つと、靄がかつたなりであたつてゐる。そして地面は、薄いありなしの光を受けて、初毛(うぶげ)の生えかけた小兎の肌のやうに、堪らなくうぶうぶしかつた。それなのにわれわれは単純な、凡てのものの曝露せられた、破鐘(われがね)のやうな大きな声を上げて、こんな生活を続けて行く……かういふ場所でよくある、そんな日は、万象(ばんしやう)(すべ)てこんな風に感じられて、私達を一層陰鬱な物悲しさに誘ふのであつた。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/04/22

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細田 民樹

ホソダ タミキ
ほそだ たみき 小説家 1892・1・27 東京府南葛飾郡に生まれる。1912(明治45)年早稲田大学在学中の19歳で小説「泥焔」を書き翌1913(大正2)年7月「早稲田文学」に発表し早稲田派の新人として激賞された。卒業して3年の兵生活を体験し「或る兵卒の記録」を構想し書き継いだのが陸軍当局に厭戦姿勢を嫌われ圧力を加えられたが、その記録性も含め大正期を代表する反戦文学を積み上げた。日本軍隊の内部機構や兵卒の教導の陰湿さなどの鋭い露呈は野間宏の『真空地帯』に遥かに先駆して忘れがたい。

掲載作は、改造社より1924(大正13)年刊の上記『記録』の一編である。

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