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まだ生きている

 二階の廊下に掃除機をかけたついでに娘の部屋のドアを開く。一瞬どうしようかと迷ったが、そのまま掃除機を引っ張って中に足を踏み入れた。娘の由佳は三十歳も半ばを過ぎるというのに、親に部屋に入られても嫌がる風もない。時に掃除をしておくと有難がるぐらいである。小さい時は弟の克巳と親子四人、狭いアパート暮らしをしたせいかもしれない。市の郊外に無理をして一戸建てを建ててからは子供二人に個室を与えられたが、その時は既に由佳は大学生、克巳は高校生であった。

「受験勉強に危うくセーフ、やっと一人になれる」

 と克巳が喜ぶと、

「一人になって却って勉強できなくなるのと違う?」

 と由佳がからかった。

 それまではさすがにベッドは離したが、姉弟の勉強机は狭い四畳半に同居していた。

 由佳はずっと看護師をしている。夜勤、準夜勤と不規則な生活なので、部屋は散らかしっ放しのことが多い。芳子が見かねて手を出すのがしばしばであった。昨夜遅く帰ってきた由佳は昼前に昼食をかき込むと急いで出勤していった。思った通りベッドの上にはパジャマを投げ出したまま、雑誌類も散乱している。先ず窓を開けて布団を干してから、机の上を片づけ始めた。参考書や雑誌を重ねていると、何かを取り出してそのままにしたのか、右端の引き出しが半分開いているのに気づいた。閉めようとして視線をやると鮮やかな黄色のカードが眼に入った。不思議な模様が印刷してある。思わず取り出して眺めた。真中にあるのは天使のつもりだろうか。ひろげた羽は天使のようだが顔と手足は人間である。なんとも稚拙な画であった。四隅にハートが羽をつけて飛んでいる。その上にくっきり印刷してある字を読んで、芳子は仰天した。

〈臓器提供意思表示カード〉とある。下には〈厚生省・(社)日本臓器移植ネットワーク〉と書いてある。

 しばらく前に臓器移植が問題になり、移植カードを持つのをすすめる運動があったことは芳子も記憶にある。

――でもなんであの子が?

 他人ごとに思っていたのに、眼の前に黄色いカードがある。掃除をするのも忘れて芳子はその場に座り込んだ。少しの間手の中にある羽をはやした女の笑い顔を眺めていた。今の芳子にはこちらを小馬鹿にしたにやけた顔に見える。裏側に何か印刷してある。

〈該当する1、2、3の番号を○で囲んだ上で提供したい臓器を○で囲んで下さい〉

 1、2が○で囲んである。

 1は〈私は、脳死の判定に従い、脳死後、移植の為に○で囲んだ臓器を提供します〉である。その下の、心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓、小腸、眼球、その他のすべてに丸印がある。2の欄は、〈私は心臓が停止した死後、移植の為に○で囲んだ臓器を提供します〉で、下の腎臓、膵臓、眼球、その他にも○が付いている。丸印のない3は、〈私は臓器を提供しません〉である。

 署名年月日欄を芳子は目をこらして読んだ。

 日付は平成十五年十月五日、下欄に室井由佳と自筆署名がある。なぜか家族署名欄もあり、当然そこにはなにも書いてない。

 脳死のあとはすべての臓器を提供するというのか。その丸印が、娘の身体が切り刻まれている状景を想起させ、芳子は身を震わせた。

 十月五日は由佳の誕生日である。ついこの間もちょうど日曜日に当たっていて、既に結婚している息子夫婦も呼んで誕生日を祝ったところであった。五年前の誕生日に由佳はなにを思ったのか、このカードに記入したことになる。家族にはなにも話さないで。帰ってきたら詰問しなければならない、そう決心すると、芳子は少し落ち着いてカードを引き出しにしまった。

〈このカードは常に携帯してください〉という文字が最後に目に入った。掃除機を動かしながら、由佳がドナーカードを持ち歩かないのは、少しは移植の意志が薄らいだからなのかなどと、自分にとって都合のいい方に考え始めていた。

 夕食の支度をしている間、夫の健作に話すべきかどうか迷っていた。健作は食品会社の営業で働き続け、一年先の定年を楽しみにしている。定年後は好きな所に旅をし、趣味の写真を撮って歩くのだと宣言している。由佳は今日は遅番だから帰りは深夜になるだろう。それから質すことができるだろうか。疲れているからと逃げられそうである。

 夕食の皿を並べ終えたところへ健作が戻ってきた。着替えてリビングに出てきた夫の顔を見て、やはり話しておくべきだと芳子は心を決めた。

 箸を動かしながらの話題ではないと判断して、食後まで芳子は口を噤んでいた。健作が食卓の魚を見て、同僚の釣りの話を始めた。釣りが道楽の同僚が、日曜日に海釣りに行って大漁で家では食べきれず、近所の魚屋に安値で売ったという。おまえの家が近かったら持って行くんだがな、と言うので、知らせてくれたらガソリン代をかけても貰いに行くと言っておいた。

「あいつ,定年後は釣りで稼ぐんだそうだ。その点写真は金にならんね」

 鯖の身を上手にほぐしながら健作は笑った。

 食後の茶を湯呑に注いで夫の前に置くと、芳子は夫の顔を見据えた。

「あなた、由佳のことでお話があるの」

「ほう、嫁に行くとでも言い出したか」

 気楽な夫の受け答えに芳子は腹が立ってきた。真面目に聞いて、と興奮気味の妻の話が終わると、健作もさすがに驚いた風だった。

「ほう、そんなことをしていたのか。臓器移植ねぇ」

 と言ったまま黙ってしまった夫に、芳子は、

「勝手にそんなことはさせないわ。脳死っていったって死んだことにはならないでしょう」

 と意気込んだ。

「今夜帰ってきたらあなたも言ってやって下さい」

 健作は茶を一口含んで飲みくだした。

「だがな、もう三十も過ぎた娘だ。自分の意志で決めたことに親がどうこう言ってもな」

「あなた、あの子の身体から内臓が取り出されても平気なんですか」

 夫の冷静さが芳子には意外だった。

「おい、おい、すぐにでも由佳が解剖されるようなことは言わないでくれ。脳死とか、死後とかいうのはもしもの時だろう。第一それまで俺たちが生きているかどうかもわからない。子供たちは自分たちのやり方で生きていかねばならない」

 もっともな夫の正論だった。

「でも由佳が相談もしないで勝手に決めたのが口惜しいわ」

「おまえにすればそうだろうがね。移植って言えば会社の先輩の家族に腎臓移植をしたのが居るって聞いたことがある。腎臓は二つあるし、血液型さえ合えば移植できるそうだから、家族同士でやって元気になったそうだ。医学の進歩で、昔は助からなかった命も助かるということだろうな」

 そんなこともあるんだ、と芳子は考え込んだ。今まで身近に臓器移植の経験を聞いたことがない。考えたこともない。それもあって由佳のドナーカードには特別驚かされたのかもしれない。

「由佳は長いこと看護師をしてるんだ。脳死とか、移植とかをよく見聞きしているんだろう。自分がドナーカードを持ったのも自分の経験上何かを考えた上でだろう。親だからっていいとか悪いとか言える立場ではないと思うよ」

 夫に言いくるめられた形で、芳子は何も言えなくなった。だが感情的には収まらない。由佳の顔を見たら何を言い出すかわからないと思いながら茶碗を洗っていた。

 結局その夜は寝室の寝床の中で由佳が玄関の鍵を開けて入ってくる物音を聞いていた。階段を上って二階の自室に行く気配を感じながら、まだ釈然としない気持ちを抱えたまま身を横たえていた。

 一度は話をしなければと思いつつ、親子三人がそろったのは五日後の夕食時であった。

「あーあ、今夜は久し振りにテレビが見れるかな」

 食事後テレビの方へ向きを変える由佳に芳子は声をかけた。

「ちょっと話があるのよ、由佳。ねえ、お父さん」

 と健作の方に目配せした。

「そう、そう」

 健作はあわてて歯をいじっていたつま楊枝を置いた。

「なあ、由佳」

 と話しかける夫を芳子はさえぎった。

「その前に由佳に謝らなければならないことがあるわ。この間あなたの部屋を掃除していて、少し開いていた机の引き出しの中をつい覗いてしまったの。派手な黄色いカードがあって何かしらと見てしまったわ。意外な字が書いてあるので驚いて読んでしまった。あなたの物を勝手にいじって悪かったと思う。でもね、物が物だったから。それから一度あなたに尋ねようとお父さんと相談していたの」

「ああ、あのカード――」

 由佳は首をすくめて両親の顔を見くらべた。

 その仕草が芳子には隠していたのに見つかってしまった、と娘が思っているように見えた。

「持って歩かないといけないのに、定期入れを新しくした時入れ替えるのを忘れていたの。由佳ちゃん、失策ね」

「冗談じゃないのよ、由佳。臓器移植なんて字を見て、お母さん仰天したんだから」

「そんな大げさな――」

「まあ母さんの反応は少々大げさだとは思うが、大事なことではあるから一言親に相談してもよかったのではないか」

 健作が口をはさんだ。

「そうね。それほど心配かけたのなら、ごめんなさい」

 由佳は素直に謝った。

「でもね、私たち看護師仲間ではごく普通のことなの。色々あってね。私の登録は遅かったぐらいよ」

「そうだろうなあ。毎日病人相手だものな」

「日付が平成十五年の誕生日になっていたけど、なにかわけがあったの」

「そうそう、六年前――」

 由佳はその頃を思い出す目つきになった。

「臓器移植法が成立したのは平成九年で、病院関係者でもドナーカードを持つ人が大勢居たというわ。私はまだ学校に居たから何も知らなかったけれど、正式に看護師になってからは先輩に色々聞かされていたの。そう直接の原因になったのは、移植を待っていた心臓患者が亡くなったことだった。内科に移って初めて受け持った患者で中学生の可愛らしい子だった。そう、恵美ちゃんっていったっけ。世話をしているうちに仲良しになって『室井さん、室井さん』って慕ってくれた。国内での心臓提供者は少ないから、アメリカに行くっていう話もあったらしいけれど、資金面で延び延びになっていたそうよ。とうとう駄目で意識不明になる前に私の手を握って『また看護学校の話をしてね』と言った恵美ちゃんの眼が忘れられない。あの子大きくなったら室井さんみたいな看護師になるって言っていたの」

 その時の情景を思い出して由佳の声が詰まった。

「そうか、そんなことがあったのか」

 健作が娘の顔を窺いながら言った。

 芳子は目を伏せたままみんなの湯呑にお茶を注ぎ直している。

「御両親の嘆きがまた大変だったの。結局資金集めがうまくいかなくてアメリカ行きが遅れたっていうことなので、自分たちの責任のように思ったのね。国内で移植できたらこんなこともないのに、ってお母さんが泣いて泣いて――慰めようもなかったわ。そのあとね、看護師仲間の友人と誘い合ってドナーカードを貰ったのは。ちょうど誕生日に引っ掛かっていたので、その日にしたのよ」

 由佳はお茶を飲み干すと母親の方を見た。

「わかってくれた? ママ」

「事情はわかったわ。でもあなたが脳死とか移植とかいうと胸が詰まってきて――」

 芳子の頭にはそんな時の状態が浮かんでくるらしい。

「そんな――まさかの時のことなのに」

 由佳は困ったように母親を見ている。

「この間、臓器移植の法律が改正されたばかりだな」

 健作が発言した。

「そうね。色々論議はあったようだけど、あれで希望を持った患者は多いって小児科担当の看護師が言ってたわ」

「法律改正――ああ、テレビでもやってたわね。そうか、あれも由佳のカードと関係あるのか」

 と芳子が言うので、健作は笑い出した。

「何をとぼけたこと言ってるんだ、ママは。新聞もろくに読まないんだから。だがなあ、由佳、反対意見の中にもあったけれど、脳死の捉え方には問題があると思うよ。今度の法律では〈脳死は人の死〉と決められてしまっているが、それはどうだろう」

「パパは反対?」

「パパにも〈脳死〉ということはよくわからない。ただ〈脳死〉の判定を受けたら臓器提供ができるというんだろう」

「本人が拒否していなくて、家族が認めたらね」

「年齢の制限もなくなったとか」

「そうよ、両親が認めれば赤ちゃんからも臓器を取り出せるの」

「赤児には意志がないじゃないか。いくら子供の臓器が不足とは言え、そこらへんが割り切れない」

 芳子は意見を交わす二人の顔を見比べている。娘のドナーカードを見たからこそ、移植の問題に気づいたが、それまでは他所の世界の出来事であったのだ。

「医療の現場でよく〈脳死〉の人に出会うけれど、〈脳死〉になると大抵数日で亡くなるの。脳の機能が止まって自分で呼吸できず回復する見込みがない状態なのよ。意識が戻る可能性がある〈植物状態〉とは違うの」

「だが、心臓は動いているんだろう」

「ええ、でも心臓が止まってから移植できる臓器は限られるの。〈脳死〉の人からは心臓を含めてすべての臓器を移植できるから、救われる命も多いわけよ」

「理屈はわかるがね。〈脳死〉を人の死と認めるかどうかはむずかしいなあ」

「臓器をみな取り出せるとかなんとか、話を聞いていたら気持ちが悪くなってきたわ。今夜はもうやめましょう」

 言い出しっぺの芳子があまりに深刻な内容に辟易した様子だった。

「そんならママ、私のドナーカードは認めてくれるわね」

 由佳がすかさず母に迫った。

「認めるもなにも登録してから何年たつのよ」

 なげやりな芳子の返事だったが、由佳はそれで母は納得したと思うことにした。

「風呂は沸いているかな」

 と健作が立ち上がったのをしおに家族会議は散会となった。

 そのことがあってから芳子は友人に会う毎に臓器移植のことを話題にした。すると友人たちの多くは臓器移植に関しては無知だったが、中の何人かは様々な移植に関わっていることを知った。

 コーラスグループの一人の悩みは深刻だった。十八歳の娘がひと月前交通事故で頭を強く打ち脳死状態になったという。それ以来コーラスには出席していないので、芳子は他の友人と共に見舞いを兼ねて吉川まり子というその女性を訪ねたのである。市内では一、二を誇る大病院のホールに出てきてくれたまり子はひどく憔悴していた。脳死状態では自力で呼吸が出来ないが心臓は動いている。身体は温かく生活反応もある。毛髪や爪も伸びる。

「一番たまらなかったのは、時期が来たらちゃんと生理があったことよ。始末をしてやりながらわんわん泣いてしまったの」

 とまり子が声を詰まらせた時には、芳子は会いにきたことを悔やんだほどだった。

「ごめんなさいね。辛い時にお訪ねして――」

「いいのよ、こんなこと他人に話すのは初めてだけど、この間から移植、移植って攻められてるから他の人にも聞いてほしかった」

 移植という言葉が出て、芳子は息を呑んだ。

 一週間ほど前から移植コーディネーターと称する女性が来始めたという。

「お嬢さんはたしかドナーカードをお持ちのはずです、と言われた時は寝耳に水、なんのことかと思ったわ。驚いて持ち物を調べたらほんとにカードが出てきたの。何も聞いていないのでと断ったけれど、御家族の承認があったら移植が出来るから、臓器を望んでおられる方のためにお考えくださいって言うの」

 まり子は唇を噛みしめた。

 由佳と同じではないか。由佳のカードはたまたま見つけたから知ったけれど、何も知らされないでいて移植を告げられた母親の気持ちを芳子は思いやった。

「娘は今年大学に入ったところなので、高校の時の親友に問い質したの。そしたら教えてくれた。なんと高校卒業の記念に何か世の中の役に立つことをしようとグループ五人ほどでドナーカードを登録したんだって。こんなにすぐに脳死になるなんて思いもしなかったってその友達も泣き出してしまったわ。なんでも社会科で医療の授業があってドナーカードのことを習ったらしいの。そりゃあ世の中の役に立つことに違いないけどねぇ」

 若い人たちは純粋な気持ちでドナーカードを貰いに行き記入したのだろう。それぞれの道に別れて進む記念にとは、いかにも若者らしい動機ではあった。

「家族が認めれば臓器を取り出せると言われても、まだ身体が温かいのに認めるわけにいかないでしょう。相手は理屈詰めできてしつこいのよ」

「娘さんがドナーカードを持っていることをあなたも知らなかったのに、何故そのコーディネーターとかいう人が知ってるの」

 連れの友人が聞いた。素直な疑問であった。当人が意識をなくして意志を示せなかったら、彼女の友達連中が喋らない限りカードのことは知れるはずがない。

「そうなのよね。何故わかったのかを私もその人に詰問したわ。そしたら本部のコンピューターにちゃんと登録されていたって。ネットが張り巡らされていて、脳死の患者が出たらわかるようになっているそうよ」

「でもドナーカードって市役所とか郵便局とかで簡単に貰えて当人が記入したのを持っていればいいのでしょう。なんで本部とやらでわかるの?」

 由佳の場合は勤め先の病院で手に入れたと言っていたが、それは看護師仲間しか知らないはずだ。

「そうよね。本人が言えないのに何故わかるのよね。私も不思議に思って高校の仲間に聞いてみたわ。そしたら仲間の中にしっかりした男子生徒が居て、カードを身につけていない時のためにコンピューターに登録しておこう、と言い出したんですって。そしてさっさと仲間全員の分を登録したそうよ」

「まあ、若い人のすることは――」

 連れの友人が嘆息した。

「恐ろしいように情報がわかるのね。脳死になった患者をコーディネーターが探し当ててくるとは――」

 芳子は途方にくれているまり子を見るにしのびなかった。

 由佳は看護師仲間の一人が移植コーディネーターになったと言っていた。その人は使命感に燃えて仕事に携わっているのだろう。移植を待ちわびている患者に対してドナーが極端に少ないというのだから。そして一方でまり子のように娘をドナーにと望まれて悩み抜いている人も居る。

 病院を出ると二人共黙りこんでバス停に向かった。口をきく気になれないほど疲れていた。人間の生死をめぐって臓器をやり取りするという行為が恐ろしい。それが治療というのなら医術の進歩がおぞましかった。

 生体移植をしている人はわりと多かった。腎臓、肝臓などは血液型の合う家族の間で行われている。母親が娘に腎臓を一つやったとか、成人の息子が父親に肝臓の一部を移植したという話を友人が耳に入れてくれた。

「心臓が停止したあとでも腎臓と膵臓、そして眼球は移植できるそうよ」

 とは芳子に啓発されて勉強したという友人の話である。

 移植が成功して喜んでいる人の報告もあった。生来の心臓病で移植しか方法がない三十歳に間がない青年が居た。長い間適合する心臓を待ちわびていたが、やっと望みが叶って脳死の患者から摘出した心臓を移植することができた。手術は成功し拒絶反応もクリアして青年は普通の生活ができるようになった。生まれてこの方病弱の心臓で通してきた青年にとって普通の心臓で生きる人生は全く変わったものになった。勉強し直して大学に入り、希望に満ちた日々を過ごしている、という。

 移植を受けた方の人をレシピエントというのだそうだ。拒絶反応を恐れながらもどうにか生命を取り戻した人は嬉しいに違いない。その喜びはよくわかった。しかし芳子は臓器を与えた方、ドナーが一方に居ることを考えずにはいられない。レシピエントはドナーについては一切知らされないという。ドナーの家族となんらかの関わりを持つのを避けるためである。ドナーの意志だったにせよ、その家族が承認したにせよ、脳死の患者は心臓を取り出した時完全に死ぬのだ。まだ温かい身体を切って心臓を取り出すという医療行為が芳子には納得出来なかった。

 また移植に関するいろいろな本を読むうちに、他人の心臓を貰った人が、その心臓に影響を受ける例があることを知った。元の持ち主の好みや性格が今の持ち主に移っていくという症例があるのを読んで、芳子は驚愕した。なんという生命(いのち)の不思議! 細胞の不可思議さ!

 症例によると、ある人はピーマンがきらいだったのに、移植後好んで食べるようになり、またアルコール類は受け付けない体質だったのに手術後は酒飲みになった。

 引っ込み思案だった性格の男が、移植後積極的になってばりばり働くようになったとか、以前は興味を持たなかった音楽にのめり込んで楽器を習い始めたとかの症例も載っていた。それらは臓器移植の先進国である欧米の例だが、彼らの場合脳死は死であると割り切っているから、ドナーに対する悩みやひけ目は持たないようであった。ただ余りに好みや性格が変わったことで家族や周囲の者に影響を与える例があるという。若い人の場合、婚約者が去っていくとか、恋人に愛想をつかされるとか、年配者でも夫の変わり方に辟易して妻が離婚するという悲劇が起こるそうだ。

 

ある日曜日の朝、遅めに起きてきた健作が深刻な表情で朝食のパンをちぎっている。朝型の早起きで朝はいつも機嫌がいい夫なので、芳子は珍しいことだと夫の顔を窺った。由佳は昨夜は深夜勤務で二人だけの朝食であった。

「昨夜の方々は皆さんお元気だったのですか」

 紅茶を注ぎながら芳子は遠慮がちに尋ねた。久し振りに地方から出てきた同級生を囲んで五、六人が集まると聞いていた。

「うん、一応元気なんだがね、年令のせいかな、つい深刻な話になってね」

 夫はカップを取り一口飲んだ。

「皆それぞれ健康診断の数値がどうとかこうとかは当たり前なんだが、一人腎臓をひとつ取ったという奴が居た」

「まあ、癌ですか」

「うん、初期だったし、腎臓は片方だけでも生きていけるから大丈夫らしいが、そこから腎臓の売り買いの話になって臓器移植が話題になった」

「まあ」

「親戚とか、知り合いとか皆いろいろあるらしいよ。〈脳死を死と認める〉っていうのには殆どが反対していた」

「まあ、私もそこに呼んでほしかったわ」

 症例を聞き歩いている芳子にしたら、ぜひ聞きたかった話題である。

「広島から出てきた奴の伯父さんっていうのが寺の住職だそうで、教誨師(きょうかいし)をやっているそうだ」

「教誨師?」

「刑務所の処刑される人に説法をする――」

「ああ――」

「死刑が決まった人に会うことが多いそうだ。死刑囚に会って話をするうちに〈死〉についていろいろ考えた。今は死刑制度反対運動にも携わっているんだそうだ。それから〈死〉についてみんなが話し出してね」

「まあ、まあ、深刻な話題になったのね」

「みな歳だねぇ」

「還暦を過ぎたんですものね」

 健作の同窓生仲間には芳子もたまに出会っている。若い頃は血気盛んだった連中が鬱陶しい表情で語り合っている様子を想像して芳子はおかしくなった。

「その教誨師の伯父さんの話によると、死刑が間近に迫った人は大抵は混乱している。その気持ちを鎮めるのが教誨師の仕事だけれども、中には日が迫るにつれて狂乱状態になる人も居る。どのようにでも罪を償うから殺さないでと訴える人も居るらしい。殺人の罪を犯しておいて勝手な言い草だと思うが、でもちゃんと生きていて後悔している人を人為的に殺してもいいのかと伯父さんは考えるようになったのだという」

芳子も考え込んだ。親や子や近しい人を殺されて、犯人に罰を与えてほしいと願うのは普通の感情だろうが、犯人にじかに接していると違う思いも生じるのだろうか。

「脳死を人の死とする、というこの間の法律などもっての他だと伯父さんは怒っているという。平成九年から施行されている臓器移植法にもずっと反対していたそうだ」

 我が意を得たりという風に芳子は大きく頷いた。

「それについては皆さんはどう言ってるの?」

「腎臓などの生体移植や心停止してからの移植は認めるにしても、脳死からの移植には大方反対だね。どうも感情的についていけないと言っていた。やはり日本人なのかね」

 まだ身体が温かく毛髪や爪が伸びている人にメスを入れるのに耐えられないと思う人が多いのだ。芳子はそう納得すると、いくらか気持ちが安らいで紅茶のお代わりを注いだ。

 ある夜、由佳が居間で刺繍をしていた芳子のそばにやって来た。

「ママ、吉川さんていう娘さんが脳死状態の人を知ってるの?」

「ええ、吉川まり子さん、コーラスグループの友人よ。彼女どうかした?」

 娘さんに何かあったのかと芳子はどきりとした。

「前に言ったことあるでしょ、私の先輩で移植コーディネーターしてる人のこと」

「ええ、鈴木さんて言ったっけ?」

「そう、彼女が吉川さんの係りだったのよ」

「へぇ、世間は狭いものね」

 コーディネーターに娘の臓器移植を迫られていると、まり子はこぼしていた。

「冷静に見て、娘さんはもう助からない状態だからって、彼女熱心に吉川さんを説得していたそうよ。そしたら昨日突然吉川さんが興奮し出して、娘を殺すなら先に私を殺してからにしてくれ、ってベッドのそばを動かなくなったんですって。その時に親戚も友人たちも私を応援してくれているって、ママの名前も出たそうよ。夜になって面会時間を過ぎても動かないので、病院側も困ってしまって、父親を呼んだりして大騒ぎだったそうよ。鈴木さんの方も娘を殺すな、なんて言われてショックを受けてるわ。今日こちらの病院に来て、あなたのお母さんも友達の一人なんだ、別に強制してるわけではないからよろしく言っといて、って。しばらく吉川さんのところには行けないって悩んでたわ。うまくいかないもんね」

「そう、大変ね」

 と芳子は答えたが、移植なんてもともと無理なんだ、これでまり子さんも攻められずに助かるわ、と思っていた。

 一週間後、一緒に見舞いに行ったコーラス仲間からまり子の娘が亡くなったことを聞いた時も、身体を切られずに静かに成仏できてよかったね、と言い合ったほどだった。

「私、つくづく考えちゃったわ。人間て不思議な生き物ね」

 珍しく三人揃った夕食後、由佳が思い余った表情で切り出したのは、さらにひと月経った頃だった。

「どうしたんだ。いつも合理主義者の君に似合わないことを口走って」

 健作がからかった。

「移植コーディネーターの鈴木節子さん――」

「ああ、君の先輩だという――」

 芳子は鉢に残っていた沢庵をぱりっと噛み、お茶をのんだ。その名を聞くと身体の中に嫌な反応がある。吉川まり子の憔悴した顔、ベッドで安らかに眠っているように見えた娘さん、友人数人で出席した葬儀の席ではまり子は悟り切った表情で静かに座っていた。

鈴木節子が確固とした信念を持って行動しているとしても、脳死の患者を探して移植をすすめて歩くコーディネーターの仕事はどうしても理解できない。

「節子さんの身に思いがけないことが起こったの」

「ほう――」

 健作と芳子の「何?」といった興味しんしんの顔を目の前にして、由佳はちょっとの間黙っていたが、やがて一息に言った。

「彼女の息子さんが建設現場の足場から落ちて脳死状態になったの」

 両親は目を丸くして娘を見つめた。

「建設現場で働いていたのか」

「鈴木さんにそんな大きな息子さんが居るの?」

「そりゃあ、彼女は五十歳近いから。一人息子さんで、建築家目指して一生懸命だったらしいわ」

 移植コーディネーターの身内が脳死状態になる――健作も芳子もなんか変な気持ちになった。気の毒にとは思いながら、心の奥では「ざまあみろ」と言っている自分が居て、自己嫌悪に陥りそうだった。

「節子さんは半狂乱になって看病しているけれど、頭を強く打っていてどうしようもないらしい。残酷なことにそこに別のコーディネーターが訪ねてきたの」

「なんと。きまって来ることになっているんだな」

 健作があきれたような口調で言った。

「息子さんはちゃんとドナーカードを携帯していたの。家ではお母さんとそんな話をしてきたんでしょうから自分でも納得して持っていたんでしょうね」

「それじゃ移植できるの?」

「家族が認めればね。節子さんのところは母子家庭なので、彼女が認めさえすれば移植できるわけ――」

 由佳は深い溜息をついた。

「コーディネーターの上司が困っているって病院関係者に聞いたの。節子さんが息子さんの死を絶対認めないって。立場上いつまでもそんな状態では困るんで説得してるらしいわ。私も見舞いに行ったのよ。そしたらそこには今までの毅然とした節子さんではなく全く母親になりきった節子さんが居た。ベッドのそばに座って息子さんの手を握りしめてしきりに言っているの。『この子はまだ生きている』『この子はまだ生きている』って。私は声もかけられずに病室を出てきたわ」

 由佳の眼からぽろりと涙がこぼれた。

 健作も芳子もやりきれない気持ちを抱えて押し黙ったままだった。

                                                   終

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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斎藤 史子

サイトウ フミコ
さいとう ふみこ 小説家。仙台市生まれ。『落日』にて第7回大阪女性文芸賞受賞。主な著作は、『清滝川』、『千道安』など。

掲載作は、同人誌『奇蹟』63号(2010年3月刊)に初出。

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