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戦略爆撃と日本

    1 第二次世界大戦と戦略爆撃

 

  空襲と市民

 空襲も、それを可能にした航空機も、二十世紀の産物である。一八七〇~七一(明治三~四)年の普仏戦争では、パリにできた国防政府の内相ガンベッタが南フランスでの抗戦をよびかけるために、プロシャ軍に包囲されたパリから軽気球で脱出した例があるが、これは航空機と呼べるものではなかった。一九〇〇(明治三十三)年にはツェッペリンが飛行船で、そして一九〇三年にはライト兄弟が飛行機で初めて航空に成功した。航空機が本格的に戦争に使用されたのは、一九一四(大正三)年に始まる第一次世界大戦からである。だが、すでに一九一一年のトリポリ戦争で飛行機が使われた。すなわちイタリア軍が飛行機でトルコ軍を攻撃し、二キロの小爆弾四個を投下したが、病院用のテントを爆撃したとしてトルコから抗議をうけ、論議の的となった。被害の程度はともかくとして、空襲によって非戦闘員を攻撃することの不当さがいち早く問題にされたのである。

 第一次大戦では航空機は、大砲の弾着点の観測から始まって、まず偵察用に、ついで戦闘機として用いられたが、まもなく敵陣のすぐ背後の鉄道網などの爆撃にもあたることになった。戦争がすすむと、ドイツ軍はまずツェッペリン飛行船、ついで飛行機をもって英本土の爆撃を始め、英軍もドイツの中心地を爆撃する準備をすすめた。攻撃の目標が軍隊や軍艦から軍需品の生産・輸送と、これにあたる市民にまで広げられたのである。だが航空機の攻撃力がさして発揮されないうちに、第一次世界大戟は終わった。

  戦略爆撃の理論

 第一次大戦後には戦略爆撃の圧倒的な威力を強調し重視する理論が、イタリアのドーエ、アメリカのミッチェルら各国の空軍の戦略家によって唱えられた。戦略爆撃とは、空軍を地上・水上の兵力から独立に使用し、敵陣をこえた長距離爆撃によって敵国の工業上の中心地や首都などの心臓部に直接に攻撃を加え、軍需生産力を破壊し国民の戦意を失わせて戦争能力の息の根をとめようとするものである。そのため陸軍、海軍にたいして空軍を優先させ、長距離爆撃機を中心にして編成し、これを集中的かつ統一的に使用することが主張された。第一次世界大戦で苦い経験をしたように、塹壕をはりめぐらした陣地の攻防戦で莫大な戦死傷者を出すことなしに勝利をかちとることが期待されたのである。だがそれは実際の経験に基づくというよりも、多分に観念的な期待に基づく理論であって、それを成功させるのに必要な条件を充分に考慮したものではなかった。

 当時の爆撃機の能力はまだ限られていた。第一次大戦中に英空軍が投下した爆弾は五五〇トンで、米空軍が投下したのはその四分の一ほどであった。一九二〇年代には、敵国の軍需工場を破壊するよりも、その大都市に無差別爆撃を加えて敵国民の戦意を喪失させることが目標とされた。現代の戦争は総力戦で、非戦闘員も戦力だということが都市無差別爆撃を合理化する根拠とされた。しかし非戦闘員を大量殺傷する無差別爆撃にはもちろん批判があった。

 一九三〇年代には、航空と爆撃の技術が進歩したことによって、精密爆撃で敵国の戦争経済に打撃を与えて戦略爆撃の効果をあげようとする理論がアメリカの空軍戦術学校で生まれた。一国の戦争経済のなかには、そこがやられると戦争能力が大打撃をうけるようなネックがある。そこで、あらかじめ敵国の経済上のネックになる目標を調べておき、これを精密に爆撃して敵国の戦争経済を混乱させれば、大量殺傷をおこなうことなしに敵国の戦争能力にとどめを刺すことができる。こういう考え方である。だがそのためには、効果を精密に推計して目標を選定することが必要だし、相手側でも工場分散などの手段を講じて防衛につとめるから、なかなか計算どおりにはいかない。たとえうまく効果があがっても、それはすぐには判らないという問題があった。

  ファシズムの台頭とゲルニカ

 世界恐慌のなかで日本は一九三一(昭和六)年に満州事変をおこして中国の東北四省への侵略にのりだした。ドイツではヒトラーの率いるナチス党が急激に勢力を伸ばし、一九三三(昭和八)年にはヒトラーが首相となり、独裁を樹立した。この年、日本とドイツは国際連盟を脱退し、ムッソリーニのイタリアも一九三五年にはエチオピアに侵入を始めた。政権を握ったヒトラーは、公共投資と秘密再軍備で膨大な失業者を救済して足場を固め、一九三六年には、四年以内に戦争を可能にする四カ年計画を発足させた。この年の二・二六事件で軍部が政治の主導権を握った日本でも、軍備拡張と軍需工業の拡充に本格的にのりだした。

 恐慌の渦中にあったイギリス、フランス、アメリカなどの諸大国は、ファシスト諸国のほこ先がソ連に向かうことを期待したこともあって、妥協的で足並みがそろわなかった。しかし侵略にさらされたフランス、スペイン、中国では、平和と民主主義を守ろうとする反ファシスト人民戦線の運動が広がった。スペインに人民戦線政府ができると、一九三六年七月にはフランコ将軍が率いるファシスト軍が独伊両国の援助をうけて反乱をおこした。翌年四月にはスペインのバスク地方の中心地ゲルニカがファシスト軍の航空機による無差別爆撃をうけて多数の市民が殺された。これを実施したのはドイツからひそかに送られた精鋭のコンドル軍団で、ゲルニカは来るべき電撃戦でのファシスト諸国の威嚇的な都市爆撃の実験台とされたのである。

  日中戦争と都市爆撃

 一九三七(昭和十二)年七月には日中戦争が始まり、日本は中国への全面的な侵略にのりだした。日本軍は華北での総攻撃にあたって天津を爆撃し、八月に上海戦が始まると海軍航空隊が大村や台北の基地から上海、南京などへの渡洋爆撃をおこなった。しかし戦闘機の護衛なしの爆撃は損害が多かったため、南京爆撃は夜間爆撃に切り替えられ、ついで上海に戦闘機が進出するまで中止された。爆撃にあたっては、抗戦の先頭に立った学生運動の拠点である大学にとりわけ攻撃を集中して、海外から非難をうけた。

 日本軍はその十二月に中国の首都南京を占領し、一九三八(昭和十三)年の秋には漢口と広東とを占領したが、中国は屈服しなかった。日本軍は八○万の大軍をくぎづけにされたまま、引くに引けない状態に追い込まれた。日本軍は中国の首都が移転した重慶にたいして徹底的な爆撃をおこなうことで、中国の戦意を喪失させて屈服に追い込もうとした。重慶爆撃については、前田哲男著『戦略爆撃の思想 ゲルニカ・重慶・広島への軌跡』(一九八八年)が詳細に調べあげている。

  重慶への戦略爆撃

 重慶への爆撃は一九三八(昭和十三)年十二月二十六日に陸軍航空隊の九七式重爆撃機一二機と伊式重爆撃機一〇機とによって火ぶたが切られた。日本の軍用機の型式は神武紀元の下二桁で示された。九七式は神武紀元二五九七年=西暦一九三七(昭和十二)年の採用である。零式は「紀元は二六〇〇年」、一九四〇年の採用である。伊式とはイタリア製のことで、重爆撃機はフィアット製である。陸軍航空隊は一九三九年初めに二度目の爆撃をおこなったが、成果は乏しく、爆撃は打ち切られた。しかしその春になると、今度は海軍航空隊が重慶爆撃にのりだした。五月三日には九六式陸上攻撃機(中攻)四五機が正午すぎに爆弾と焼夷弾とを混用して爆撃をおこない、一〇〇〇人をこす死傷者を出した。翌四日には夕暮れ直前に攻撃機二七機でおもに焼夷弾を投下して合流火災を起こさせ、今度は五〇〇〇人をこえる死傷者を出した。本格的な都市無差別爆撃を始めたのである。そして重慶が濃い霧に包まれる十月初めまで二十数回の爆撃がおこなわれた。

 翌一九四〇(昭和十五)年には九七式重爆三六機を中心とする陸軍航空隊と中攻九〇機を主体とする海軍攻撃隊とが協力して四川省の重慶・成都などの爆撃をめざす百一号作戦を五月から開始した。その年四月に軍令部が各司令長官に配布した『海戦要務令続編(航空戦之部)草案』は、「要地攻撃の要は作戦の推移に即応し主として戦略的要求に基づき、敵の軍事政治経済の中枢機関を攻撃して其の機能を停止せしめ、又は重要資源を破壊して作戦の遂行を困難なら染むると共に、敵国民の戦意を挫折し敵の作戦に破綻を生ぜしめ、或いは敵の主要交通線を攻撃して兵力の移動、軍需品の補給を遮断する等戦争目的の達成を容易ならしむるにあり」と指示していた。要地攻撃の名で戦略爆撃が実施されたのである。八月からの爆撃には新鋭の零式戦闘機、いわゆるゼロ戦が長距離護衛に出動した。この作戦は九月初めまで七二回にわたって続けられ、延攻撃機数は四五五五機、投下爆弾量は約三〇〇〇トンに達した。この年の中国の死者は四一四九人、負傷者五四一一人、損壊家屋は六九五二戸であった。だがこうした爆撃も中国国民の戦意を挫折させることはできなかったのである。

 重慶爆撃はさらに一九四一(昭和十六)年にも続けられた。百二号作戦である。今度も陸海軍が協力して爆撃がおこなわれ、六月五日には重慶の大防空壕に一万人もが避難し、通風機の故障で数千人といわれる人達が窒息死するという事件がおこった。だが陸軍攻撃隊を指揮する遠藤三郎第三飛行団長は、九月初めにこの戦略爆撃は到底蒋(介石)政権の死命を制するに足らず、「漫然この種の攻撃を継続するは現在の帝国航空戦力殊に燃料問題に(かんが)み寒心に堪えざるものあり」として作戦の再検討を具申した。すでに米国は日本の在米資産を凍結して石油輸出を禁止しており、九月六日の御前会議では十月上旬までに外交交渉で打開の目途が立たない場合には対米英蘭開戦を決意するという方針が極秘裏に決定されていた。対米英戦争準備のためにも重慶爆撃は続行できなくなっていたのである。百二号作戦は打ち切られた。

  威嚇爆撃から戦略爆撃へ 

 一九三九(昭和十四)年九月には、ドイツのポーランド侵略にたいしてイギリス、フランスが宣戦し、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まった。ドイツ空軍は電撃戦への協力を主眼として作られていたが、ワルシャワをはじめ小国の諸都市に徹底的な爆撃を加えて、相手国の戦意を圧倒する戦法をとった。だがドイツとイギリスとは、当初は相手の都市を爆撃しなかった。まだ中立状態にあったアメリカのルーズベルト大統領は、交戦国にたいして、「非武装都市の一般市民を空中から爆撃する非人道的野蛮行為を避けること」を訴えていたし、両国とも互いに報復爆撃を警戒していた。

 一九四〇年五月にドイツが電撃戦でオランダ、ベルギーに侵入すると、ロッテルダムに徹底的な爆撃を加えて威嚇し、オランダ軍を降伏させた。チェンバレンに代わってイギリス首相になったばかりのチャーチルは、これに対抗してルール工業地帯への夜間爆撃にふみきった。続いてフランスが屈伏するとドイツは英本土爆撃を開始したが、イギリスは防空戦闘機とレーダーの力で制空権を守り、これをはねのけた。英軍のベルリン爆撃に怒ったヒトラーが、英空軍基地の攻撃からロンドン爆撃に兵力を集中したことも、英空軍に立ち直る余裕を与えた。まもなくヒトラーは英本土上陸作戦を断念し、攻撃のほこ先をソ連に向けるのである。

  都市絨毯爆撃の開始

 ヨーロッパ大陸を占領したドイツにたいして、イギリスがとりうる攻撃方法は戦略爆撃しかなかった。いち早く陸海軍から独立した英空軍は、戦略爆撃を重視していたが、当初は、初歩的でばらばらなやり方をとり、なかなか効果があがらなかった。まず英軍は、ドイツの戦争経済のネックをなす合成石油工場の爆撃を企てたが、敵戦闘機の攻撃を避けるために爆撃は夜間に限られ、目標を爆撃することは極めて困難だった。一九四一(昭和十六)年の中期には爆撃の目標は都市に切り替えられたが、この場合も、投弾が広く散らばって正確な爆撃はできないことが判明した。そこで軍事施設や工場や交通網などの限られた目標をねらう代わりに、広く人口集中地域にたいして全面的に投弾するという方法がとられた。そしてとりわけ家屋が密集していて燃えやすい労働者住宅地域を目標に選んで都市全体を焼き払い、ドイツ国民、とりわけ労働者階級の戦意を低下させることが目的とされた。こうして一九四二年からは都市の住宅密集地域に焼夷弾や爆弾を無差別に投下する地域爆撃、別の言葉でいうと、絨毯しきつめるような濃密な爆撃で都市の市街地を焼き尽くす、絨毯爆撃が開始されたのである。

 戦略爆撃が夜間都市地域爆撃として実施されると、爆撃の効果を高めるための戦法が次々に開発された。まず先導機部隊が作られた。熟練した飛行士の操縦する爆撃機が本隊に先行して目標点を爆撃して目印となる火災をおこし、本隊はこれを目標に次々に焼夷弾を投下するという戦法が編みだされたのである。これと前後して英本土の二つの基地と交信して飛行機の位置を確定するレーダーが開発されたが、まだ交信しうる距離と飛行機の数とが限られていた。そこで交信範囲内の爆撃の場合には先導機にこのレーダーを備えつけることで、正確な爆撃が可能になったのである。英空軍は一九四二年三月に、ハンザ同盟以来の古都リューベックにたいして実験的に夜間地域爆撃をおこなった。ついで五月にはケルンを一〇〇〇機規模で夜間爆撃し、大聖堂を残して市街の大半を破壊した。

 イギリスが空襲予知用のレーダーを発達させたのにたいして、ドイツは早くから射撃目標測定用のレーダーを開発していた。英空軍の夜間空襲が始まると、ドイツ軍はまずこれを高射砲と連動させ、次に機上用迎撃レーダーを作り、これを夜間戦闘機に装備して迎撃した。レーダーの利用が活発化すると、相互にこれを妨害しあう電波戦争も発展した。

  米英共同戦略爆撃とその批判

 一九四一(昭和十六)年十二月に日本が米英に宣戦すると、巨大な工業力と豊富な資源をもち、「民主主義の兵器廠」と自任していたアメリカが参戦し、全面的な世界戦争となった。一九四二年の中頃からは、米空軍も対独戦略爆撃に参加し始めた。一九四三年一月に米英首脳に軍事顧問も加わって開かれたカサブランカ会議では、米英空軍が共同して対独戦略爆撃をおこなうことを決定した。イギリス側は昼間爆撃の損害の大きいことをあげて、夜間の都市地域爆撃によってドイツ人の戦意を低下させることを主張したが、「空の要塞」と呼ばれたB17を誇るアメリカ側は、都市を破壊してもドイツが降伏することは考えられないとして、昼間精密爆撃によって石油・航空機工場や交通機関に打撃を与えることを力説した。その結果、英空軍は夜間の地域爆撃を、米空軍は昼間の精密爆撃を、協力して実施することになった。

 この方針は後述のように実施されたが、これにたいしては次のような批判もある。軍事研究家のプラッケットは、

 もし連合軍の空軍力がもっと賢明に用いられ、大西洋の戦闘や、アフリカ、その後のフランスでの陸上作戦援護のためにもっと航空機が使われていたならば、そしてもしドイツ爆撃が都市全域ではなく敵の防衛力破壊を目的として行われていたならば、半年いや一年も早く勝利が得られただろうと思う。敵の武装軍隊と戦うという伝統的な軍事教義が放棄され、それに代って国民生活を攻撃するという計画がとり入れられた、この現代史上唯一の大作戦は惨憺たる失敗に終った。

と『戦争研究』(岸田純之助・立花昭訳、一九六四年)のなかで論じている。

  焼夷弾の開発と日本都市爆撃の実験

 米空軍は、精密爆撃をめざす伝統から当初は焼夷弾を保有しなかったが、ドイツ軍が焼夷弾によるロンドン爆撃をおこなうと、焼夷弾の開発にふみきった。これについては、カー著『戦略東京大空爆』(大谷勲訳、一九九四年)が詳しい。

 まずイギリス軍が開発したガソリンにゴムやココナツ油などを混ぜてゼリー状にしたナパームを充填した大型焼夷弾M47が開発され、大型建造物の破壊に用いられた。公称は一〇〇ポンドであるが実際には七○ポンドだったので、日本では七○ポンド大型焼夷弾と呼ばれた。つぎにテルミットを詰めた四ポンドのマグネシウム焼夷弾が導入され、M50と名付けられた。小型であるが貫徹力が強く、高熱ですぐ燃え広がるので消火は困難だった。一九四二年になるとナパームを充填した六ポンドの小型焼夷弾のM69が開発された。これは、三八発を集束した五〇〇ポンドE46集束弾として使用されたが、投下後ばらばらになって着地すると尾部からナパームを噴射しながら跳びはねて、周囲の壁や床に強力な着火能力をもつことで注目された。M69の開発に当たったのは国家防衛調査委員会(NDRC)の焼夷弾研究開発部門で、そのチーフとなったスタンダード石油会社副社長のラッセルは、M69の開発と使用を積極的に推進し、軍需工場を爆撃する精密爆撃よりも焼夷弾による市街地絨毯爆撃をおこなうべきだと力説した。

 一九四三年にはいると日本本土にたいする戦略爆撃の目標の検討が始まった。そこには保険会社の資料に基づいて日本の都市には木造家屋が多く、そこに工業労働者も集中して住んでいるので、大都市密集市街地にたいする焼夷弾爆撃の効果はドイツへの数倍にのぼるという経済戦争局の報告書も提出されていた。そこでユタ州の砂漠にドイツ式住宅と日本の二階建長屋式住宅とを作って実験がおこなわれ、M69がとりわけ日本式住宅にたいしてすぐれた着火力と燃焼力とを示した。ラッセルのチームの専門家は、日本の都市はほとんどが木造住宅でしかも過密なため大火災がおきやすい、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災をおこさせ、住宅と混在する、ないしはその周囲にある工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法であるとする「情報部焼夷弾レポート」をまとめ、これを陸軍航空軍司令官のアーノルド将軍に十月に提出した。

  焼夷弾攻撃地域第一号・第二号

 このレポートは、空爆目標と考えられる二〇都市を選び、それらのうち東京、川崎、横浜など一〇都市については、各都市の軍事的重要性や焼夷弾爆撃の有効度などを検討していた。そこには焼夷弾爆撃の有効度によって地域が区分され、最有効の地域1は「都市中心部商店街地域、密集地域、住宅工場混在地域で一マイル四方あたりの人口密度九万一〇〇〇人、都市人口の二五%を占める地域」で、これは通常の天候では一平方マイルあたり六トンの焼夷弾で焼き尽くすことができる。これにつぐ有効の地域2は「港湾施設、倉庫、貨車操車場などもある住宅地域、住宅工場混在地域、工場地域で一マイル四方あたり人口密度五万四〇〇〇人、都市人口の四六%以上を占める地域」で、これは一平方マイルあたり一〇トンの焼夷弾で焼き尽くすことができるとした。これ以外の郊外の住宅地域や防火設備の整ったオフィス街を含む工場地帯などは焼夷弾の非有効地域とされた。そしてM69焼夷弾を使用すれば、一七〇〇トンでさきの二〇都市の主要部を焼き尽くすことができるとした。この焼夷弾の数字はあまりに少なすぎると批判されたが、後述する焼夷弾攻撃地域第一号と第二号の原型をなすものであろう。

  「大規模攻撃報告書」

 この地域がどう具体的に決められたかについては、カーの本は述べていないが、さきの経済戦争局の報告書には、それを示すヒントがある。これは「日本の都市にたいする『大規模』攻撃の経済的意義」と題した一九四三年二月十五日付けの報告書で、東京、横浜、大阪、神戸について労働者の集中度や人工密度の高い地域と火災危険度、輸送機関と工場の配置などを各種の資料を用いて比較検討している。なぜか名古屋の分はない。各都市を通じて有効な目標地域決定の基準とされたのは、区ごとの人口密度で、一九四〇年の国勢調査を用いて平方マイルあたりの人口密度順に並べた当時の区の一覧表が作られている。東京の場合は一三万五〇〇〇人をこえる浅草区が最高で、本所、神田、下谷、荒川、日本橋、荏原の各区が八万人以上である。大阪では南区と浪速区が九万五〇〇〇人をこえ、西成、西、北、天王寺の各区が七万人以上、神戸は兵庫区が九万六〇〇〇人で、七万九〇〇〇人の湊東区と五万六〇〇〇人の林田区が続く。ただ横浜は区の面積が東京や大阪の区の一〇倍近くも広いこともあって、人口密度は最高の中区でも二万〇四九五人に止まる。この問題については後述する。三月十日の東京大空襲の目標とされたのは、荏原区を除く上記の区に七万人台の深川区の北半分を加えた地域で、それが東京の焼夷弾攻撃地域第一号になっている。

  ハンブルク爆撃と一酸化炭素中毒死

 一九四三年の夏には米英空軍が協力して、ドイツ最大の港であるハンブルクを爆撃した。エルベ川の河口にあるので機上のレーダーによる測定が容易だったのに加えて、米英空軍は初めて細長いアルミ箔を大量に投下してドイツ軍のレーダーを妨害する戦法をとって集中的な爆撃をおこなった。火災が合流して火の竜巻となり、街路は焼死体でおおわれ、防空壕のなかには窒息者が横たわった。住宅地域を中心に爆弾四二四三トン、焼夷弾四一〇一トンが投下され、死者四万五〇〇〇人、負傷者三万七〇〇〇人をだし、うち四万人が火の竜巻で死んだと推定される。その後の調査では女子が死者の五〇%、男子三八%、子供が一二%を占め、非戦闘員が多い。家屋の半数以上と付近の工場も破壊されたが、大工場の被害は少なく、五カ月後には空襲前の生産力の八割を回復したとされる。

 なおドイツ側の調査では、焼夷弾攻撃の場合は急激に火災が広がるため酸素が欠乏し、ふつうの燃焼で生まれる炭酸ガス(二酸化炭素)に代わって一酸化炭素が出るため、一酸化炭素中毒ないし窒息による死者が、死者全体の七~八割にのぼるとされる。信じられないほどの高率である。木造家屋のため燃焼速度の早い日本の都市ではより早く酸素が欠乏し、こうした死者が多く出たと考えられるが、日本の当局はこうした分類をおこなっていないので確かめることができない。このことは、武谷三男氏がいち早く米国戦略爆撃調査団の報告に基づいて『みな殺し戦争としての現代戦争』(一九五三年)のなかで指摘している。しかし後でふれるように横浜の一医師は、空襲の最中にこのことに注意を払っている。

 他方、対独戦略爆撃で米英空軍のうけた損害も大きかった。開戦当初ドイツは電撃戦による早期勝利に期待をかけ、航空機生産にも力を入れなかったが、対ソ戦の早期勝利に失敗すると、一九四二年初めから長期戦のための本格的な生産増強にのりだした。防衛戦闘機を含む航空機生産は上昇し、夜間迎撃戦法も開発され、米英空軍の爆撃機の損害は増加した。

   奥地戦略爆撃の失敗

 ドイツは、航空機工場も合成石油工場も奥地に建設した。一九四三年の六月にドイツ航空機工業への攻撃が指令されると、米空軍は八月にドイツ奥地のシュバインフルトのボールベアリング工場とレーゲンスブルクのメッサーシュミット航空機工場を昼間爆撃した。この爆撃ではB17三七六機のうち六〇機が撃墜され、十月のシュバインフルト再爆撃では二九一機のうち六〇機を失った。米空軍は重武装のB17が編隊を組めばドイツ戦闘機隊に対抗できると判断していたが、戦闘機の掩護距離をこえると、損害が急増したのである。ボールベアリング工場はドイツの航空機生産のネックをなしており、とくに二度目の爆撃はこれに重大な打撃を与えた。だが、米軍は甚大な損害のため、爆撃続行をとりやめ、ドイツはシュペア軍需相の努力で危機を切りぬけた。英空軍もドイツを屈服させようと十一月からベルリンへの夜間空襲を強化したが、軍需生産を低下させることはできなかった。ドイツ夜間戦闘機は地上レーダーとの連絡で、爆撃機編隊の流れをとらえて、これを攻撃する戦法をとって大きな損害を与えた。三月二十日夜のニュールンベルク空襲では、英空軍は七八一機を出動させて九五機を失い、その後半年にわたって夜間地域爆撃は中止された。米英空軍が爆撃を成功させるには、ドイツ空軍を撃破して制空権を握ることが不可欠の前提となったのである。

 米英空軍では、長距離護衛戦闘機の開発にやっきとなった。まずレパブリックP47(サンダーボルト)に補助タンクをつけて長距離用としたが、翌一九四四年二月になると、航続力が長く、すぐれた操縦性能をもつノース・アメリカンP51(ムスタング)戦闘機が配備され、長距離掩護が可能となった。これにはドイツの戦闘機は歯が立たなかった。制空権を握った米英空軍の爆撃は激化した。

  石油工場爆撃と鉄道爆撃

 折から六月のノルマンディー上陸作戦を前に、米英の戦略空軍もその支援作戦に転用された。アイゼンハワー司令部は上陸地点へのドイツ軍の輸送を麻痺させるため、北フランスの鉄道網の爆撃をおこなうことを要求したが、米戦略空軍のスパーツ司令官は、石油とくに合成石油工場を爆撃してドイツ空軍の燃料供給を断ち切ることを主張した。その結果は、効果が目に見えてわかる鉄道爆撃が優先されたが、米空軍はドイツ中・東部の合成石油工場をも爆撃することが認められた。石油工場爆撃は、その後英空軍も参加して強化され、ドイツの石油供給は、その夏には激減した。

 ノルマンディー上陸以後、米英空軍はフランスに基地を前進させて制空権を握ったが、ドイツ軍の抵抗は頑強で、その秋になっても連合軍はドイツ国境を越えることができなかった。ドイツ軍はVl号についで、V2号のロケット攻撃を始め、さらに年末の荒天を利用してアルデンヌで攻撃に出た。新兵器のジェット戦闘機とシュノーケル型潜水艦も出現して連合軍を脅かした。ロケットとジェット機の研究開発ではアメリカは立ち後れていた。

 こうした情勢にいらだった連合軍首脳部は、ドイツを早期降伏に追いこもうと戦略空軍が強力な手段をとることを望むようになった。しかも冬の厚い雲は、目視による精密爆撃を困難にした。折から英米両軍はドイツの鉄道網にたいするレーダー爆撃を開始した。これは表面上は鉄道操車場に精密爆撃を加えて軍事輸送を切断するものに見えるが、実際は軍事施設をもたない地方の小都市にまで無差別地域爆撃を加えることを意味した。米軍も、市民にたいする無差別爆撃だという印象を与えることを避けながら、事実上の都市地域爆撃を始めたのである。無差別爆撃である地域爆撃は、大量の爆弾・焼夷弾を集中的に使用する攻撃方法であるが、アメリカの軍需生産の飛躍的増大によって航空機や爆弾の蓄積がすすみ、こうした作戦が大規模におこなわれ、軍産共同体の結び付きを強めるようにもなっていた。

  ドレスデン爆撃と東京爆撃 

 一九四五(昭和二十)年一月にはソ連軍が急進撃をすすめて、ドイツの東部国境を越えた。だが西部戦線の連合軍は二月を過ぎてもまだライン河を越えることができなかった。米英空軍はベルリンを含むドイツ東部の都市に徹底的な爆撃を加えて市民にパニックを起こさせることで、ドイツを一挙に降伏に追い込もうとした。二月十三日の夜半からそれまで無傷の文化都市ドレスデンが爆撃された。まず英空軍がその夜二度の夜間爆撃をおこない、十四日と十五日の白昼には米空軍が爆撃し、合わせて二四一三トンの爆弾と一四七八トンの焼夷弾を投下した。火災が合流して火の大旋風となり、大木までねじり倒し、多数の市民を焦熱地獄へと投げ込んだ。そして消火と救出活動が始まったところへ爆弾の雨が降らされた。八平方マイル(二〇・七平方キロ)が焼かれ、死者は数万にのぼった。

 ソ連軍との戦線に近いドレスデンへの爆撃は、ドイツ軍の前線への輸送を妨害してソ連軍に協力したものとされるが、それはまた、米英空軍が猛威を見せつけてソ連に衝撃を与えようとしたとも考えられる。死者数については当時ドレスデンが避難民であふれていたこともあって、三万五〇〇〇人から一三万人までいくつかの説がある。一三万人という数字は、のちの原爆投下の被害を少なく見せるためのアメリカ筋の誇張だといわれるが、一九四三年夏のハンブルク空襲を上回る五万人の死者をだしたと推定される。日本でも東京と広島、長崎を除くと、数万の死者をだした都市はない。ともあれこの爆撃は、米軍も勝利を早めるためにドイツの市民を恐怖に陥れる都市への無差別爆撃に踏みきったものだと報道された。東京がB29による徹底的な焼夷弾爆撃をうけ、さらにこれを上回る惨禍をうけるのは、その二十数日後のことである。

   (2 軍事体制の強化と横浜 割愛)

   3 米軍機の日本初空襲

  真珠湾攻撃と緒戦の勝利

 一九四二(昭和十七)年の春には、日本の軍部も政府も国民も、緒戦のはなばなしい勝利に酔っていた。国民は前年の十二月八日の対米英宣戦を緊張と不安のうちに迎えたが、その日のうちに真珠湾攻撃で米国太平洋艦隊に大打撃を与えたとのニユースが伝えられ、ほっとひと息ついた。次々に伝えられる勝報は、国民の不安を一掃して有頂天にした。一月十八日には、ウェーキ島の米軍捕虜一三〇〇人が横浜に入港した。

 二月十五日にシンガポールの英軍が降伏すると、政府は十八日に大東亜戦争第一次戦捷祝賀大会を開き、国民に酒・菓子・あずきなどを特配して勝利感を盛り上げた。横浜でも、官庁やデパートが「祝シンガポール陥落」の垂れ幕を下げ、全市一〇一校一五万人の国民学校児童をはじめ、男女中等学校生徒など二〇万人が伊勢山皇太神宮に向けて祝賀旗行列をおこなった。前年四月から小学校は国民学校と呼ばれていた。午後には各区で祝賀大会が開かれた。子供たちには、南洋のゴムで作ったボールが配給された。

  連合軍の戦略

 日本軍航空隊が、最後通牒を手交もしないうちにハワイの真珠湾軍港などを奇襲して米国太平洋艦隊に大損害を与えたことは、アメリカ国民を「真珠湾を忘れるな(リメンバーパールハーバー)」の合言葉に結束させた。日本の対米英宣戦に続いて独伊両国もアメリカに宣戦し、第二次大戦は文字通りの世界大戦となった。アメリカの巨大な生産力が、軍需生産へとフルに動員され始めた。アメリカ政府は、まだ一度も試験飛行もしていないB29を二五〇機もボーイング社に発注したばかりであったが、真珠湾攻撃で発注数を倍加し、翌一九四二年二月には、ゼネラル・モーターズや、ノース・アメリカン、ベルの各社にも協力を求めてB29一六〇〇機の生産計画を立てた。しかしこれが実現するのにはあと二年余りを必要とした。

 日本軍は開戦から三ヵ月で東南アジアの広大な地域を制圧した。この地域にある連合国海軍を潰滅させて、ジャワ島に上陸し、三月九日にはオランダ軍を降伏させた。タイからビルマに進出した日本軍も、この日にラングーンを占領し、中国への補給路のビルマ・ルートを切断した。南海支隊は一月二十三日にニューブリテン島のラバウルを占領し、三月八日にはニューギニア東部北海岸に進出した。三月十二日には第二次戦捷祝賀会が開かれた。ただフィリピンでは、米比連合軍がバターン半島にたてこもり、日本軍は手を焼いたが、これも四月九日にはコレヒドール島要塞を除いて攻略を終わった。

 米英両国は、日本との戦争がおこってのちも、ヨーロッパ第一主義を変えず、対英武器援助を優先することを決定していた。総体的に見ると、ドイツが連合国にとって最強の敵であり、これに時をかせがせないように攻撃を集中することが必要である。ドイツが屈伏すれば日本は早晩手をあげるだろうという判断からして、日本が参戦しても、極東・太平洋地域では、連合国は基本的には戦略的守勢をとることになっていた。

 ただ、開戦直後の日本軍の急進撃にたいし、連合国は応急対策をとる必要があった。ヨーロッパ第一主義は確認されたが、アメリカがオーストラリア防衛の責任を負うこととなり、米軍がオーストラリアならびにこれをつなぐフィジー、ニューカレドニア諸島に送られた。三月末にはオーストラリア、ニュージーランドからフィリピンにかけての地域を担任する南西太平洋地域司令長官にマッカーサー将軍が、その東と北とを担任する太平洋地域司令長官にはニミッツ提督が任命された。シンガポール、スマトラの線より西は英軍の担当に残された。

 オーストラリアでは、日本軍の進攻に備えて、東海岸中央部のブリスベーンの線を死守するという防衛戦術を立てていた。だが三月十七日にフィリピンから脱出してきたマッカーサーは、日本軍をニューギニア東部のオーエンスタンレー山脈で食いとめるという戦術に切りかえた。だが彼が要求した兵力増強は容易に実現しなかった。こうした情勢のなかで日本本土初空襲が計画されたのである。それ以外には日本に一矢を報いる方法はなかった。日本軍の急進撃にたいしてアメリカ国民の戦意を高めるために、ルーズベルト大統領も東京空襲を要望していた。

  報復の日本本土初空襲

 四月十八日、午前八時半には関東地方に一ヵ月ぶりに警戒警報が発令された。しかしまだ空襲警報が発令されないうちに、米軍の星のマークをつけたノース・アメリカンB25双発爆撃機一三機が六〇〇メートル内外の低空で一機ずつ関東地方に侵入した。十二時十五分すぎには荒川区尾久や淀橋区(現新宿区)早稲田鶴巻町付近に爆弾や焼夷弾が投下され、機銃掃射もうけた。空襲警報が発令されたのは十二時二十五分で、驚いた市民が上空を見まわすと、早稲田方面にはすでに黒煙があがっていた。

 横浜では空襲警報になってしばらくしてからB25一機が来襲した。午後一時前後だったようだ。当時神奈川県の教育課に勤めていた熊原政男氏は、関内食堂で昼食中に空襲警報のサイレンが鳴ったが、「腹がへっては戦はできぬと、気をおちつけて少しはやめに食事を」とって県庁にかけつけた。ゲートルを巻いているうちに高射砲が鳴りだした。

 窓外をみると、山手の丘の上空に、高射砲の煙がいくつか、ポカポカ浮んでいる。敵機はみえないが、税関屋上の機銃が盛んに火をふいたとみるや、急に山下公園の上から山下町へきわめて低空で黒い敵機ひとつが現われ、ニューグランドから石川・堀ノ内あたりへヨタヨタしながら飛びまわって、たちまちにして消え去った。堀ノ内の上空では、爆弾を投下した(これはあとで焼夷弾とわかる)。しばらくして、煙の上がるのがみえる。その時、室内拡声器の放送によって、窓から首を出さぬことなど注意される。団員は直ちに警備につく。そのうちに情報がはいり、堀ノ内に落したのは小型焼夷弾三十本を一包としたもので、これが相当低空より投下され三軒ほど焼失したのみで、他はたいがい隣組で消しとめ、または不発で終わった。

  金平糖マークの飛行機

  翌日の新聞は「隣組の奮闘記録」という見出しで、次のように報じている(朝日 昭17・4・19)。

 横浜市○区○○方面は初空襲の尊い体験の中に一致団結の消火陣を展開、隣組と警防団員の貴重な奮闘記録を印した。午後一時頃敵機一機により投下されたパン籠の一キロ焼夷弾は○○個、この被害は全焼した木造平家建一棟二戸のほか、軽微の被害家屋を合計して十数戸、重傷一名に止めた。初空襲とみるや町内○○消防署員阿部正一さんが警戒警報を聞いて勤務に出た後、妻よしさん(五三)と五女ひで子さん(一八)が手持ちのバケツに水を湛へて待機、程なく敵機一機が同町の頭上低く現れたと思ふと、グワンといふ音響と共に奥四畳半の屋根が抜け、畳の上に落ちた焼夷弾が黄色がゝつた赤い焔を上げ出した。母子二人はソレツと水を注ぎかけた後に濡れ筵数枚で難なく消火した。同じ時刻近くのミシン裁縫業石井亀太郎さん(四八)方ではまづ店の天井を破つて一個、裏庭へ一個落ちたので、店の方は主人が、裏庭のは妻いまさん(四七)と長女すゞ子さん(二二)が消し止めたが、見ると裏の船員寺沢伊三郎さん方でも屋根を抜いた一個が、この母子の目前へ落下してきたのでこれも協力して消火。軒つゞきの蒲鉾商水野伝七郎さん方では妻ふみのさん(五二)が騒ぎに気を取られ、庭へ出た途端左足の甲を不発焼夷弾に打ち抜かれて怪我したが、これと同時刻自動車運転手高橋徳美さんの長男成禎ちゃん(四)が玄関で遊んでゐた其一尺前に一個落下燃え出した。高橋さんは五個の砂袋と水で完全にまるめ込み、座敷に落ちた一個も同じ手で消した。唯一棟全焼したのは不幸にも工場従業員山本陸郎方と無職青木ちかさん(八八)方の二戸続き、一度に二、三個づゝ落下し瞬時に燃えつくしたので、一人居のちかさんは仏壇を持つて逃避、主人出勤中の山元操さん(三二)も次女ふじ恵さん(二才)を背負つて避難した。その附近の無職伊藤民次郎さん(六四)方の風呂場にも落ちたが、前夜湧かした風呂水の残りで楽々と消し止めたのであつた。

 当時同町で国民学校六年生だった佐伯真光氏は、のちに詳しい聞き取りをおこない、初空襲を調べあげた。これは横浜市・横浜の空襲を記録する会共編の『調査概報第五集』に収録されている。焼夷弾は、のちにB29の空襲でよく使われた油脂焼夷弾よりもずっと小型で、直径四センチ六ミリ、六角形二キロのエレクトロン焼夷弾だと報じられたが、これは上述したM54の代用品だったという。これによると、焼失家屋は一戸多い二棟三世帯であるが、住民の奮闘ぶりは同様である。石井亀太郎さんは「なんだ、金平糖のマークをつけた飛行機だ」と叫んでいたという。

  幼稚園児の犠牲

 初空襲直後の新聞報道が落としていたのは、当時竹の丸幼稚園に通っていた中区打越の中村由郎ちゃんが機銃掃射をうけて死亡したことである。このことは、のちに陸軍が捕えた米軍機搭乗員三名の処刑を発表した翌日の十月二十日付けの新聞ではじめて報道された。この初空襲ではほかにも児童生徒が犠牲になり、これは翌日報道された。

 横浜市民にとっては、アメリカは昔からつきあいが多かったので、いざアメリカと戦うことになってもあまり敵愾心がわかなかったが、米軍機の初空襲で子供が機銃掃射で殺されたという報道は、アメリカへの敵愾心を盛り上げるきっかけとなったという。

  隠された軍需工場の被害

 この初空襲でまったく報道されなかったのは、軍需工場での被害である。関東地方に来襲した米軍機の過半は、品川から川崎・横浜にかけての京浜工業地帯を空襲した。防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書・本土防空作戦』によれば七機になっている。川崎市の臨港工業地帯では、昭和電工川崎工場、日本鋼管川崎工場、横山工業、富士電機製造、日本鍛工などの各工場が爆弾と焼夷弾とを落とされ、被害をだした。『神奈川県警察史』によれば、日本鋼管で一六名、横山工業で一八名、計三四名の死者と重軽傷者九〇名、建物全焼三、全壊二となっている。『川崎空襲・戦災の記録』にある関係者の記録には、日本鋼管の戦時災害による業務上死亡者として一一名、横山工業の慰霊碑から一五名の犠牲者の氏名が記録されている。品川・大井方面の被害は、死者二六名、重傷者三一名、軽傷者一八八名であった。横須賀では海軍工廠で改装中の潜水母艦「大鯨」が船首付近を爆撃されて損傷をうけた。同艦はやがて改装されて空母「竜鳳」となった。

 米軍機は、同時に名古屋・神戸方面も空襲した。大阪空襲を予定していた一機も、誤まって名古屋空襲に加わった。名古屋にはB25二機が、午後一時半頃に来襲し、陸軍病院、陸軍造兵廠、名古屋鉄道局機関庫、東邦ガス、三菱航空機製作所大江工場等に投弾した。東邦ガスではガスタンクが炎上し、大江工場などで数名の死者をだした。続いて四日市の海軍燃料廠や和歌山県下の学校、海上の漁船などが銃撃をうけた。神戸市にも一機が来襲して銃爆撃した。

  ドゥリットル隊の爆撃計画

 この計画は、米国艦隊司令長官兼海軍作戦部長のキング提督と陸軍航空隊総司令官のアーノルド大将のもとでねられ、航続距離の長い陸軍の中型爆撃機を空母に積み込み、日本近海から発進させ、日本本土を爆撃したのち中国の非占領地域にある飛行場に着陸させるというものになった。爆弾を積んで滑走距離の短い空母の甲板から発進し、洋上遠く爆撃をおこない、さらに中国の飛行場にまで飛ぶためには、なみなみならぬ技量がいる。アーノルド大将が選んだのが、さまざまな飛行記録で多くのトロフィーを獲得し、国際的にも著名な飛行家のジェームス・H・ドゥリットル中佐であった。ドゥリットルはこの計画にノース・アメリカンB25双発爆撃機を使用することを決め、部隊を編成した。この部隊は短距離発進と海低空飛行の猛訓練をうけたのち、高性能の爆撃照準器が日本軍の手におちないように簡易照準器に積みかえ、ハルゼイ中将の率いる第一六機動部隊の空母ホーネットに積み込まれて四月二日に出動した。B25一六機であった。

 ドゥリットル隊のそもそもの作戦計画は、四月十九日の日曜日の夕刻に東京の東方五〇〇マイル(八〇五キロ)の地点で発進し、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸を爆撃したのち、中国浙江省の奥地にある麗水などの飛行場に着陸しようというものであった。ところが、予定より一日半早い十八日の早朝、この機動部隊は東京の東方約七〇〇マイルの地点で日本の哨戒艇第二十三日東丸に発見された。漁業組合の協力ではるか洋上にまで哨戒艇がだされていたのである。第二十三日東丸はこれを打電して間もなく米軍に撃沈されたが、ハルゼイ中将は位置を知られたとして、予定を変えてB25全機をただちに発進させた。ドゥリットル隊は、予定を上回る長距離を飛ぶことになったため、編隊を組むための燃料の消費も惜しんで、隊長機を先頭に一列になって飛行し、各機ごとに目標を爆撃して脱出することになった。

  軍防空に失敗

  東部軍司令部は第二十三日東丸からの打電で米機動部隊の接近を知ると、ただちに警戒警報を発令した。しかし艦載機の航続距離からみて、機動部隊は日本本土への接近を続けて翌十九日早朝に本土空襲をおこなうだろうと想定して対策をたてた。空母が航続距離の長い陸軍機を乗せてこようとは、日本軍の常識では思いも及ばなかった。米機動部隊に関する情報は発表されなかった。

 ドゥリットル隊の一六機は、十八日正午頃水戸付近から本土上空に侵入した。防空監視哨は敵機発見の報告を送ったが、東部軍では当初の判断を変えず、空襲警報をださずに情報の審査にとりかかった。その直後の十二時十五分すぎに、上述のようにB25が東京爆撃を始めたのである。空襲警報が発令されたのは、そのあとであった。

 米軍機が超低空で来襲したため、日本軍の迎撃は遅れた。高射砲は接近時にあわてて乱射したがあたらず、防空飛行隊もこれを追尾することはできなかった。午後二時の東部軍司令部発表は「現在までに判明せる敵機撃墜機数は九機にして我が方の損害は軽微なる模様、皇室は御安泰に亘らせらる」と発表したが、実際には撃墜機はなく、二十日の大本営発表ではこれにふれず、「帝都その他に来襲せるは米国ノース・アメリカンB25型爆撃機十機内外にして各地に一乃至三機づつ分散飛来しその残存機は支那大陸方面に遁走せるものあるが如し」と発表した。国民も撃墜機のないことにうすうす感付いていた。

 米軍機は、一機が故障のため最短距離にあるウラジオストクに飛んでソ連官憲に押収抑留されたほかは、一五機すべてが中国まで飛んだ。しかし予定の出発時刻が変更されたため中国上空にはいったのは夜になってからで、しかも機密保持のため中国側との連絡が不十分だったため、目標の麗水飛行場では敵機と誤認して灯火を消してしまったから、無事到着した米軍機も不時着陸ないし着水して大破したり、搭乗員が落下傘で降下して飛行機を墜落させるというはめになった。数機は日本軍占領地域に不時着し、そのうち二機の搭乗員八名が捕虜になった。

 のんきな市民

 米軍の初空襲をうけた市民は、意外にのんきであった。空襲警報のサイレンが鳴り、野毛山の高射砲陣地や税関屋上の機銃陣地が射撃を始めたのちも、まだ演習ではないかと空を見上げている者も少なくなかった。焼夷弾による火災の被害がわりに少なかったのは、昼間、一機からせいぜい三機ぐらいの分散攻撃だったため、焼夷弾に対処しやすく、隣組の家庭防火群の活動が功を奏したためであった。これにたいして爆弾による死傷者が比較的多かったのは、空襲警報の発令が遅れたうえ、防護施設が不十分なためだったと思われる。軍部もこう認めざるを得なかった。大本営陸軍部第二十班の当日の業務日誌は、「……之を要するに本日は民防空に成功し軍防空に失敗か」と記している。しかし死傷者のほうは、多くが軍需工場での被災でもあり、さきの児童のような場合を除いては、報道されなかった。

 空襲がおこなわれたのちでも、「今から考えると不思議なことだが、日本が初めて空襲されたというのに、緊張感はほとんどなかった。"勝ち戦続きで国民の気持がだらけたので、士気をたかめるために演習をしたのだ"という噂が、かなり広く流されていた。……本当のところ、私も"空襲って、こんなものか"という程度の感じしか持たなかった」と佐伯真光氏は回想している。本格的な空襲の恐ろしさを感じとることができなかったのである。

  軍部のあせり

 だが米軍機に、しかも空襲警報も出さないうちにやすやすと「帝都空襲」を許したことは、軍部にとってショックであった。このすぐあとには、各対空監視哨とも神経過敏になり、友軍機を敵機と誤認して報告するものがふえた。そのため五月上旬頃までは、連日のように、限定された地域に防空警報が発令されるほどであった。軍部はそれまで本土防空を軽視していたが、初空襲であわてて防空戦闘機隊や高射砲隊の増強を始めた。

 軍部は国民の信頼感が動揺することを恐れ、なんとか失敗を取り返そうとやっきになった。日本軍は五月にはB25がめざした浙江省奥地の飛行場群を目標に浙かん(=難漢字)作戦を開始し、翌六月までにこれらの飛行場を攻略・破壊した。浙は浙江省、かん(=難漢字)は江西省の略称である。さらに、政府と軍部は米軍機が機銃掃射で児童を射殺したことを大々的に発表して国民の敵愾心をかきたてた。日本軍は中国に不時着した搭乗員八名を捕えると、空襲が繰り返されるのを防ぐために、おどしとして極刑を課することにした。そこで「大日本帝国領土ヲ空襲シ我ガ権内ニ入レル敵航空機搭乗員ニシテ暴虐非道ノ行為アリタル者ハ軍律会議ニ付シ死又ハ重罰ニ処ス」との軍律を布告し、これを遡及して適用した。上海の第十三軍の軍法会議は全員に死刑の判決をくだしたが、五名は終身禁錮に減刑され、三名が死刑を執行された。評論家の清沢冽は、この処刑で米国その他の世論がいかに悪化しているかは想像できる、世論が戦争遂行にどんなに大切なものであるかは今の指導者には絶対に分らぬ、力主義のみだからである、と日記に書いた(『暗黒日記』一九四三年四月二十四日の項)。この軍律は日本本土を空襲して捕虜となったB29の搭乗員にも適用された。

  米軍の反攻開始

 米軍機の本土初空襲は、あたかも米軍の反攻開始ののろしとなった。日本軍は五月七日にはコレヒドール要塞を占領し、南方地域の第一段作戦を完全に終えたが、その日に珊瑚海海戦がおこった。当時、大本営は、まずニューギニアのポートモレスビーを占領し、次にミッドウェー島を攻略したのち、南太平洋のニューカレドニア、フィジー、サモアの諸島に進攻して米豪遮断をはかるという壮大な作戦計画を立てていた。他方、米機動部隊もニューギニア東部に来襲して反撃を始めた。五月初めに日本艦隊が、ポートモレスビー攻略のために珊瑚海を南下すると、米機動部隊がこれを迎え撃ち、世界最初の空母同志の海戦となった。この海戦は、日本軍が小型空母の「祥鳳」を撃沈され、米軍も空母レキシントンを失うという互角の勝負に終わったが、これによって日本軍のポートモレスビー攻略作戦は延期された。日本軍の進撃が初めて阻止されたのである。

 六月にはいると、山本五十六連合艦隊司令長官がかねて強く主張していたミッドウェー攻略作戦が実施に移された。陸軍には反対論もあったが、米軍機の帝都初空襲で協力的となった。五日には日本軍機動部隊と待ち構えていた米軍との間でミッドウェー海戦が戦われ、日本海軍は四隻の主力空母と多数の熟練した搭乗員とを一挙に失なった。太平洋戦争は転機を迎えたのである。

 米軍はミッドウェー海戦に勝利をおさめると、南西太平洋地域で戦術的攻勢をとることを決めた。陸上航空基地を北上させることがそのねらいであった。日本軍が飛行場を建設中のガダルカナル島にたいして、米軍は八月に反攻を開始した。これ以後ソロモン群島とニューギニア東部を舞台に、日本軍と米豪軍とは激しい空・海・陸の死闘を展開したが、米豪軍は逐次兵力を増強して、補給力に劣る日本軍を圧倒した。ガダルカナル戦では、日本軍は制空権を奪われ、補給の道を絶たれ、生き残った三分の一足らずの将兵は一九四三(昭和十八)年の初めに退却を余儀なくされた。これは日本軍にとっては最初の退却で、軍部はこれを「転進」と発表して国民の手前をつくろった。米軍はソロモン、ニューギニア方面で島伝いに反攻をすすめ、航空消耗戦が続いた。米軍機の本土初空襲のちょうど一年後の四月十八日には、山本連合艦隊司令長官が、日本軍の暗号を解読して、待ちうけていた米軍機の攻撃をうけ、ソロモン群島上空で戦死した。やがて米軍は戦闘機の迎撃にも対空射撃の砲弾にもレーダーを利用して日本航空部隊を消耗させることになるが、日本軍はこうしたことに気付きもしなかった。

 南太平洋の航空消耗戦が激化すると、国内では「もう一機、もう一艦を」と航空機・船舶の増産にやっきとなった。政府は根こそぎ動員で生産増強をはかったが、米潜水艦の攻撃による輸送船の被害も激増し、見通しは暗かった。だがこの時点では、日本は戦線から遠いという地理的条件もあって、まだ米軍の空襲をうけることはなかった。これに反してヨーロッパの戦線では、日本と同盟関係にあったドイツが米英両国の空軍によって戦略爆撃のきびしい洗礼をうけていた。イタリアでは一九四三年七月に連合軍のシシリー島上陸でムッソリーニが失脚し、九月にはバドリオ政権が連合国に無条件降伏していた。

──以下・割愛──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2007/06/15

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今井 清一

イマイ セイイチ
いまい せいいち 現代政治史家・横浜市立大学名誉教授 1924年 群馬県前橋市に生まれる。

掲載作は、1981(昭和56)年初版本に増補改訂の有隣新書新版『大空襲5月29日──第二次大戦と横浜』より、「第一章・戦略爆撃と日本」の(一)および(三)節を抄録。近代戦史における戦略爆撃の推移とその残酷・悲惨を著者は激することない筆で的確に叙し、米軍機の日本初爆撃までを明瞭に証言している。必読の史料。

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