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検索結果 全1058作品
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随筆・エッセイ お年寄りが骨折したら(抄) 初出年: 2000年
はじめに この本は、一本の電話がきっかけとなってつくられました。 「ちょっと相談があるんだけど……。じつは親が家で転んで骨を折っちゃって、救急車で近くの病院に入院することになって……」 この相談を受けて、私がハッと気づいたことは、骨を折った本人にもまして、家族や知り合いがひじょうに心配して、不安感が強いということでした。 さらに、相談者から、よく話を聞いていくうちに、もうひとつの事実を発見しました。それは、入院のときに医師から説明を受けているものの、本人も家族も突然のことでパニックになってしまい、ほとんど説明を理解
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小説 てまり 初出年: 1999年
「アキちゃん。アキちゃん、たらあ」 女は口ごもりながら「あの。ほんとにうっかりしてて。スミマセン。アキちゃん、てば。ひと言もいってくれないんだから」とボクに向かって続けた。「女の子が生まれていただなんて。賀状で初めて知りました」。こちらが照れる前に、受話器の向こうの方が、恥ずかしさに声がうわずっている。 一 能登のその町に在任中、クリスマスイブやバレンタインデー、おひなさまになると決まってボクあてに郵便物で何かを送りつけてくる不思議な女がいた。名を
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詩 詩集『ものみな声を』(抄) 初出年: 1999年
静かな生 ヤン・フェルメール頌 鏡に向かう女の 乳白の壺からあふれくる おだやかなひかりが 空間をしずかに膨らませてゆく ふとあおいだ甍のうえ おおきく翼の影がよぎり 一瞬 しろい画布に 指揮棒のひらめきを映した <
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詩 十三歳の自画像・五十四歳の自画像 初出年: 1998年
Autorretrato a los 13 años Sobreviviente de mí mismo, el pelo largo, me siento en la silla del peluquero. En un caballete está el espejo, atrás de mí las casas,
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評論・研究 戦争と人間-基地周辺の人々 初出年: 1998年
はじめに すでに一年半まえになるが,筆者は沖縄国際大学・アルスタ一大学,英国北アイルランド紛争解決民族間題研究所合同の企画で開催された「戦争・民族紛争は何をもたらしたか」をテーマとした国際平和学シンポジウム(1996年10月30日-31日,於 沖縄コンベンションセンター)に参加して感動を覚えた。その後97年9月11-13日に開催された日本カトリック正義と平和全国集会の「戦争と人間」の分科会に参加して,沖縄米軍実弾射撃訓練が直前に迫っていた自衛隊王城寺原演習場(宮城県旧陸軍演習場・元進駐軍練兵・野砲地)を金網フェンス越しに見学し,戦後農業開拓者として同地域に入植,強制
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ノンフィクション マハトマ・ガンディーとマザー・テレサの道 初出年: 1997年
――私が捨てなければならないもの 「私たちに残るものは、人に与えたものだけ」とマザー・テレサはいう。マハトマ・ガンディーとマザー・テレサが若き日に身につけたものは、ことごとく貧しい人々のために捧げられた。 九月八日、東京のカテドラルを埋め尽くした千五百人もの人々はマザー・テレサを追悼するミサに集い、各々静かな祈りを捧げ、最後の別れを告げた。 不思議と輝いた清らかなマザー・
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ノンフィクション 同舟 欧陽可亮伝(抄) 初出年: 1997年
巨星落つ 欧陽(おうよう)可亮(かりよう) 享年七十三才 国籍 中国 あれは平成四年五月一日未明のことだった。 一人の偉大な中国の甲骨文字の学者が、八王子の郊外にある老人ホームで、家族に看とられることもなく、ひっそりと息を引きとった。 この老学者の死は、書の聖祖として高名な欧陽詢の直系の子孫が歴史上では四十四代目をもって終ったことを告げて
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詩 詩集『おいしい水』(抄) 初出年: 1996年
赤い花 人たちの寝静まった後 月の光を浴びながら ゆっくりと球根を太らせていく植物群があり 赤い花 黄色い花 紫紺の花 花の盛りを 見ないまま逝く人がいる 赤い花が綺麗なのは 花の下に葬ったものがあるからだと姪が耳もとで囁き わたしはどきっとして幼い少女の顔を見る
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小説 千年杉 初出年: 1995年
嵐が過ぎたあとの残り雨もやっとあがった。 赤褐色の濁流の甲武川が、木橋である落合橋の底すれすれまで、水かさを増していた。橋の袂では、付近の農家の者たちが総出で、土手沿いに土嚢を積み上げている。靖弘はかれらに労をねぎらう挨拶をしてから、落合橋を渡り、そのさき観音堂、廃墟の鉱泉小屋、地蔵倉を過ぎた。そのあたりから、靖弘はケイタの名を呼びはじめた。繰り返し、その声が山間にこだまする。 天然杉の樹冠をかぶる伊野山を見上げた。白い雲海が山の西斜面にひっかかり、もがきながら登っていく。 伊野山への登山道をかねた林道は、急勾配でぬかるみ、落葉が春
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詩 『かなかな』より 初出年: 1994年
かなかな 空が明るんでくるころ かなかなと鳴いてみる かなかなと何度か練習する あとは黙っている 昼間は暑いのに ジージージーと鳴いている油蟬 オーシツクツクオーシツクツクと鳴く 法師蟬の声を聞いても黙っている みんな黙っている あたりがうす暗くなるころ 朝の調子を思い出して かなかなと
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小説 趣味の遺伝 初出年: 1994年
一 陽気の所為(せい)で神も気違になる。「人を屠(ほふ)りて餓えたる犬を救へ」と雲の裡(うち)より叫ぶ声が、逆(さか)しまに日本海を撼<
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ノンフィクション 祖国に平和はいつ来るのか 初出年: 1994年
―アフリカ難民キャンプを訪問して― 一九九四年二月二十一日から三月十四日の約三週間、第七回上智大学アフリカ難民現地調査団が、ケニア、エチオピア、タンザニア、マラウイ、モザンビークを訪れた。一九八三年以来、二年ごとに行われている現地調査である。 本文ではこのうち、ケニア、エチオピアの二カ国の報告をする。 帰還する難民たち 二月二十六日早朝、ナイロビからエチオピアの首都アディスアベバに五年ぶりに入った。一九八三
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随筆・エッセイ 八十里越を行く 初出年: 1994年
小探検のつもりで 越後長野温泉をあとに、待たせておいたタクシーに乗りこみ、八十里越(ごえ)の起点、吉ヶ平(よしがひら)へと向かう。 すでに夕刻だった。長野温泉の湯は透明だが、ぬるりとして、からだが芯から温まる。湯あがりのほてった肌に、車窓から洩れ入る冷たい空気が心地よい。が、なにやら湿った感じがあった。 </
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随筆・エッセイ 風の鳴る北京(抄) 初出年: 1993年
目次 第1章 父と母、そして中国 両親と横浜 華北へ 通洲事件 父と中国の研究者たち 第2章 懐かしい北京の日々 北京の友人たち 第3章 父の遭難と帰国 憲兵隊事件 日本の敗戦と父の釈放 最後の面会と引き揚げ 第1章 父と母、そして
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随筆・エッセイ 『千暮の里から』(抄) 初出年: 1992年
木は大きなる、よし うちの庭のまん中には、一本の枇杷の巨木がある。褐いろの老いた葉を押しのけるように、新芽が今天をさして一斉に伸び始めた。 うすく透けるその萌葱いろの葉はなんともつややかで、あたりの光景をひときわ明るくしているかに見える。その、驢馬の耳みたいな柔らかな葉を、少し烟ったような四月の空に溶かして、樹は雄々しく立っている。 この樹を植えたとき 「あんたらぁ、庭にこんなもん植えて!」 旧弊な年寄が毎日やってきてこう言った。 庭に枇杷を植えると病人が出た
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詩 詩集『シルクハットをかぶった河童』抄 初出年: 1991年
象のサーカス スパンコールのきらきらの数だけ 哀しみを喰べたおまえたち 身売りして来た 故郷のあの村のあの仲間の代表だ ほこらかに鼻をもちあげ 口をほっと開け 細い目で充分に微笑んで 「せーの」の鞭のひと振りで インドの背中にアフリカが
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評論・研究 閉ざされた言語空間―占領軍の検閲と戦後日本(抄) 初出年: 1989年
第二部アメリカは日本での検閲をいかに実行したか 第一章 昭和二十年(一九四五)九月、逐次占領を開始した米軍の前で、日本人はほとんど異常なほど静まり返っていた。 連合国記者団の第一陣として、東京に乗り込んで来たAP通信社のラッセル・ブラインズは、「全国民が余りにも冷静なのに驚いた」と告白している(1)。 だが、「驚いた」のはなにもブラインズだけではなかった。実は占領軍自身が、すべては「巨大な罠(わな</r
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評論・研究 真正の哲人・狩野亨吉 初出年: 1989年
一 誇るべき人物 今や哲学者と称する者は、諸々の学説を紹介する文献学者のみで、真に「哲学する人」はきわめて少ない。 ここに紹介する狩野(かのう)亨吉(こうきち)(一八六五~一九四二)こそは、実に「真正の哲学者」であり、近代日本の中で「自己の哲学」によって生きた、誇るべき人物である。 かつて、多くの「忘れられた科学者・思想家」を発掘した
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小説 教員の死と夏の風 ― 若き女教師は行く(テレビドラマ「体罰教室」原作) 初出年: 1987年
1980年頃から校内暴力や非行問題で、中学校の荒れが社会問題となっていた。 世相は男尊女卑の色濃い時代でもあった。 「その子を、もう撲(ぶ)たないで下さい。いけません。先生お願いです」。 思わず山下美也子は、そういって大声を出してしまった。 美也子も教師である。 教師が教師に、そういったのである。 しかも先輩の男性教師にいってしまったのだ。ただごとで
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小説 海辺の宿 初出年: 1984年
その夏その海で、ひとりの老人に出会った。 八十歳に近いだろうその老人は、その春、七つ年下の四十五年連れ添った妻を亡(な)くしたという。悪性の風邪(かぜ)から肺炎を起こして、いきなり逝(い)ったというのだ。 あれは一九六五年のことだ。私は四十歳。東京の新宿で小さな