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てまり

「アキちゃん。アキちゃん、たらあ」

 女は口ごもりながら「あの。ほんとにうっかりしてて。スミマセン。アキちゃん、てば。ひと言もいってくれないんだから」とボクに向かって続けた。「女の子が生まれていただなんて。賀状で初めて知りました」。こちらが照れる前に、受話器の向こうの方が、恥ずかしさに声がうわずっている。

 

 一

 能登のその町に在任中、クリスマスイブやバレンタインデー、おひなさまになると決まってボクあてに郵便物で何かを送りつけてくる不思議な女がいた。名を葉子といった。いつも、肝心の自分の住所となると記されていない。眼鏡ふきや、ニューミュージックの録音カセットテープ、ハーモニカなど。ボクが欲しいな、と思っていたものばかりで、そのつど礼を言おうにも、正体不明の相手に言えぬままできた。

 その葉子から一方的な便りが、ボクの支局デスクに最初に届いたのは、雪の降り積もった白い朝だった。二月に入ってまもなくで、純日本調のカラフルな大和撫子の絵入り封筒のあて名には「魚町」とあり、はっきり「アキ様へ」と、ボクの名前が記されていた。桝目が入った原稿用紙には「時々は、あたしの事も思い出して下さいネ 葉子」とだけ、書かれていた。いらい、女からは三年ほど、半年に一、二度の間隔で便りが舞い込んだ。

 なぜ、どこのだれなのか、を明かしてくれないのか。ボクには、それが不可解で第一の疑問符だった。幼稚で四角い、どう見ても上手とはいえない、寧ろ、こどもっぽさは、どこか妻のそれに似ていたが、葉子の字は四角いながらも全体に丸味を帯び微妙に異なる。それに漢字につきものの跳ね方が大きく、ほんの心持ち、あるかなしかの妻の跳ね方とは決定的に違っていた。その証拠に帰宅後、そのつど妻の表情をそしらぬ顔で観察してみたが、いつもと何ら変わらない。手紙が三通、四通とふえるにつれ、ボクの胸がキュウ、キュウと騒々しくなっていくのが、よく分かった。

 ボクは何度も心当たりを反芻してみる。

 が、どの女も「これだ」と確信に至らない。第一、はっきりした住所、氏名を名乗らず、あいまいな「葉子」だけで、便りやプレゼントを送りつけてくる、そうしたこと自体がおかしい。考えれば考えるほど心の画面には仮空の世界の虚像が、映ってきてしまうのだ。手紙の中には「きょうは三月三日。お雛さまです。ちらしずしをつくってみましたが、独りだけで食べるなんて。寂しい」といった文面まで見られ、これを読む限り、片想いの対象としての思いが、伝わってきもする。

 当時、ボクは十歳ほど年下のリサと、だれにも告白できない密やかな恋をしていた。だが、そのリサが恋文の犯人だなんて、字体はむろん、日ごろの行動からしてもありえないことだった。

 

 話は遡るが、思いがけず葉子から最初の便りが届いた前年の秋、ボクの身辺にはある異変が起きていた。異変といっても、ボクの家族の問題でふつうの人にとっては取るに足らないことかもしれない。ボクたち一家が大切にしていた子ウサギのドラえもん(雌)が忽然と姿を消してしまったのである。

 子ウサギは春先に、幼稚園児だった三男の末っ子、タロウが、友だちの家から譲り受け最初は小さな鳥かごに入れられていた。気がつくと、タロウからドラえもんと名づけられ、首には妻の手でいっぱしに金の鈴がつけられた。飼育かごも鳥かごではかわいそうだ、と、もっと大きなかごが新しく買い与えられ子ども部屋の一角にでんと据えられた。

 

 しばらくすると、ドラえもんは一日に二回、三回と、かごから解き放たれるのが日課となった。そのたびに大喜びで室内を一、二周し庭先に消えていくのだった。最初のうちはいなくなってしまうと、大騒ぎし家族みんなであちら、こちらと捜し回り、庭の葉陰などで小さく背を丸め赤い目をキラキラさせているドラえもんを見つけてはホッと安心し、保護。そのつど飼育かごに入れてやるのが常だった。半年もたつと、すっかり家族の一員となりドラえもん自ら、その気でいるらしく、いつも鈴の音をチリリン、リンと響かせながら帰るようになった。

 

 いちど、こんなことがあった。その日、ボクは日本海を見下ろす城山展望台にタロウを伴い飼育かごをぶら下げ連れていった。タロウとドラえもんの両方に、能登の澄んだ自然と空気を胸いっぱいに吸い込んでほしい、そんな願いからだった。

 中腹広場に車を止め、展望台に通じるごろた道をドラえもんの入った飼育かごを手に、カメラを肩から提げ、歩いていった。上空では透き通るような青のカンバスを真っ白な雲が流れ、新緑の中をチョウチョが舞い、トンボが地面すれすれに水平飛行している。

「お父、つかれた。だかれたぁーい」

 タロウの声にボクはそのつど抱っこしウサギの入ったかごを下げ、カメラも落とさないように、と父と子、ウサギさんの世界に分け入っていった。まもなく展望台に着いたのでドラえもんを一帯の野に放すと、うれしそうに飛び回り、頬ずりでもするように草という草にしゃぶりついた。それまでとは全く違うしぐさに思わず、ボクは「ウサギさん。ここへ、このまま放してやり、かごだけ持って帰ろうか」とタロウに相談してみる。ドラえもんは、タロウの意志でわが家の一員になったからで、その時、ボクは独り、幼いタロウの許しさえあれば、ひと思いにその場に解き放し、そのまま山を離れようと覚悟していた。

 タロウの決断は、ボクとは違っていた。タロウは一瞬とまどいながら、今度は泣き出しそうな顔になり「ドラえもんさん。すてちゃうの。ひとりっきりなんか、イヤ。おうちにもってかえろうよ」とはっきりとこたえた。ボクは自身の口からいったん出た薄情な言動に半ば苛だちながらも内心「また一緒に暮らせるじゃないか。タロウの方が正しい。これでいいじゃないか」と胸をなで下ろした。

 城山でのこの一件は、ボクたち家族にとっては小さくて大きな事件だった。

 

 城山行を楽しんだドラえもんが、能登の自然をよほど気に入ってしまったせいなのか。いつものように、かごから出されたまま帰って来ず、わが家から姿を消したのは、それからしばらく後のことだった。蒸発後、最初のうちは「あれほどなついていたのに。ドラえもんったら。一体、どこへ行ってしまったのだろう」と家族の食卓の話題にもよく出たが秋が過ぎ、年が明けると、そのまま一時の幻として忘れてしまったかのようである。

 実際、異常なほどのかわいがりようをし、時折り、書斎机の下で夥しい量が発見された薬草丸みたいな排泄物にも、ボクは厭な顔ひとつせず、むしろ楽しそうにせっせと取り除き、ティッシュに包んでゴミ箱に入れ、処理したものだ。

 葉子からの音信は、ボクたちの口からドラえもんの話題が出なくなった頃と符号が重なる。まさか、ドラえもんが葉子に化身し、ボクたち一家を見守っている。こんなことは、だれもが信じないだろう。それとも人間と動物社会が異次元で結ばれているんだろうか。いやいや、葉子は葉子で実在の女性に決まっている。だとしたら、彼女とは。何者なのか。 

 

 能登では、仕事柄も多くの女性と出会い、親しくなった。その中で、だれにも隠し通した偲び恋といえば、やはりリサとのそれだった。リサとはいちど、猛吹雪の中、金沢の浅野川に架かる河童橋で忍び逢いをしたことがある。雪にスッポリ包まれた河童橋でリサを拾ったボク は、そのまま浅野川大橋、梅の橋、天神橋沿いに車を走らせた。あのとき、車窓から見る橋場の家々、そのたたずまいは一様に白一色に埋まり、シンと静まり、神秘の光をさえ宿していた。ふたりが、あてもなく雪の中をさまよう深海の魚みたいにも感じた。

 途中、滝の白糸碑近くに車を横づけして停め、今度は手を結び合い碑まで歩いたが、リサ は碑前で、降る雪をホァと吹き消すように「好きだった男女が、とうとう最後まで一緒になれなかった碑なんだってネ」と口を開いた。リサと出歩いた思い出といえば、ほんのこの程度だったが、互いの立場を思い、リサもボクも肌を重ねることは終になかった。

 ただ、心と心が、あれほどまでに通じあったのも珍しい。コーヒーが欲しい、と思えば目の前にコーヒーを出してくれる。どんな酒席にあっても、出しゃばらない。己れの立場をわきまえ、その場の雰囲気にあわせ座を盛りたてる。お茶やお花など芸の上でも人並み秀れた才能 を発揮し、ボクは日がたつにつれ、リサの虜となっていった。葉子のようなアクションが、リサに出来るはずもなかった。

 ドラえもんが神隠しにでも遭ったようにボクたちの前から姿を消し、どれほど過っただろう。リサは、その冬、周りの勧めに、とうとう決意し、富山市内の青年実業家のもとに嫁いでいった。結婚する一週間ほど前、確か二月六日だったと記憶している。リサから電話が入り、その町の人里離れた居酒屋「アダムとイヴ」でふたりだけの時を過ごした。ボクがリサに「五十年後の今月今夜、また同じ、この店で再会しよう。その時、店の灯が消えていたとしても、この場所を互いに訪れよう。たとえ一方が、この世にいなくなっていても、この地に来て立ち尽くそう」と言い、手を取るとリサも目を潤ませ「ハイ」とこたえ、うなづいた。

 

「私の好きな曲です。もしよかったら聞いてみてください。あまりダビングがうまくできなかったので少しボリュームをあげてください」との便り付きで、真っ赤な包装紙に入ったカセットテープが届いたのはリサと別れ、しばらくしてからだった。差し出し人は「葉子」で、テープには岡村孝子の〈 夢をあきらめないで〉と〈 風は海から〉の二曲がダビングされていた。このテープに限っていえば、たとえ実在の葉子がいても、それこそ、リサと別れたあと、ボクの周りの風たちが運んでくれた、そんな気がしてしまう。ボクにとって、この時の「葉子」は、どこかに消えてしまったドラえもんであり、リサの化身でもある。そう信じたかった。

 

 外では、いくつもの雪片が大地に落ちては、消えてゆく。電気ごたつに入り、暖まった部屋で身を縮め沈めるようにしてボクは今、思いを巡らしている。葉子は一体、だれだろう。意識を纏った存在であることだけは確かなようだ。ドラえもんの化身なのか。それともリサなのか。ふつうに考えたら、ドラえもんでもリサでもあるはずがない。ドラえもんとも、リサとも、恐らくかけ離れた存在である。そう自らに言い聞かせる自身が、いじましい。

 

 リサからは、その後、何のたよりもない。ドラえもんはどこへ、行ってしまったのかしらん。ドラえもんとの日々が、ボクの眼前に執ように浮かんでは消えていくが、決して心の襞から、離れない。

 ――朝の布団を押し入れにしまい、電気掃除機のスイッチを入れる直前になると決まって、 忘れ物でもしていたように「あっ、そう、そう」とドラえもんを飼育かごから出してやるのが 妻の日課だった。そんな時、ドラえもんは家の中をピョンピョン、縦横無尽に跳ね回って見せ、 まずは人間たちに喜びの意志を示した。ひとしきり、室内のありとあらゆるところをタッ、タッと跳びはねると、こんどは十分過ぎるほどに広い庭へ飛び出し、鼻をヒクヒクさせ、草を漁って食べ始めるのだった。

 ある日。ドラえもんが、いつもの調子で庭に解き放された直後、空中からトビが猛烈な勢いで垂直降下し、ドラえもんを襲おうと突進してきた。ドラえもんは、持ち前の機敏さで間一髪逃げ、助かった。あの時、ドラえもんときたら、恐怖感にしばらく耳をそば立てたまま。草を食べる気力も失せたようで心臓のトクトクという速撃ち音がボクの所まで飛んできた。事件発生現場では、四、五メートルの至近距離で、たまたま野良猫の親子が並んで座り、ドラえもんの一部始終を見守っていた。トビが再び空中高く舞い上がると、白と黒のぶちの親子は一瞬、 笑ったような顔になり、再びチョコンと両手、両足で座り直し相も変わらず、友だちをいたわるように優しく柔らいだ目を注いだ。猫の目に意識がある。ボクは瞬間的に、そう感じた。

 

 ボクの魂から、ドラえもんを剥ぎ取るのはなかなか容易ではない。これは恋なのか。

 ドラえもんの耳は、いつも、そば立っていた。鼻の部分と口の周り、それから首を含む胸から上、両足先の部分が白く、あとは全身に薄い茶色だった。四本足のうち前の両足をそろえ、からだ全体をふくよかに丸くして座り、こんな時、ボクは「ドラえもんって、てまりみたいだ」と感心したようにしげしげと見入った。そればかりか、ドラえもんが時折、両手で顔をシコシコとふいてみせると、ボクは、またまた「おまえって。それじゃあ、猫と一緒じゃないか。ウサギが顔を洗うだなんて」と突拍子もない大声をあげた。好物はイモのつる。エンピツの長さぐらいのつるを口をモグモグさせながら、ペロリと平らげてしまう。

 気がつくと、ボクはもはや自身の細胞の一隅に、ドラえもんという生が棲みついてしまった。そして、その細胞がどんどんと巨大化してくる。そんな錯覚に捉われ、ボクという存在そのものが、どこかで否定され侵蝕され尽くそうとしている。そう、一人合点するのだった。

 ドラえもんも、リサも、葉子だって。その町でボクの支えとなってくれた存在は今や、どこにもいなくなった。ボクはボクですべてを失ったあと、不意の転勤で水の都といわれるこの町に来、半年余。リサが嫁ぎ、葉子からの音信が途絶えてからだと二年近い。

 

 傷心のボクにとって。いま、ただひとつの安息といえるかどうか。それは、こうしてペンを走らせるつど、いつも傍らに寄り添って寝そべる雌猫、てまりの存在である。てまりは能登で生まれ、育った。

 

「アナタと、めぐり逢えてよかった」。

 四角で、どこか稚なげな字でこう書かれたチョコレート入り封書が一昨年のバレンタインデーにボクの元に届いた。これが葉子からの最後の便りで、てまりが、ボクの前に現れたのは、 その年の秋、だったと記憶している。当時、年長だったタロウが、ボクに無断で近くの小丸山公園に捨てられていた三匹の子猫のうち、一匹だけを家に持ち込み、知らぬ間に飼い猫になってしまっていた、という按配だった。

 だから、ボクが家族の一員として認知するまでの間、しばらくは、二階子ども部屋の片隅 に内緒で隠まわれ、ゴロニャンゴロニャンと呼ばれていたものらしい。妻とタロウは、ボクがドラえもんの一件で懲り、生き物を飼うのには反対するもの、と決めこんだ末での判断だった。

 二週間ほどたち、夜間、天井裏を走るネズミの音が消えたのに不審を抱いたボクが、夕食時に「でも、おかしいな。どうしていなくなってしまったんだろう」と相好を崩したことがある。妻はそのチャンスを見逃さなかった。「だから、ゴロニャンを飼い始めてよかった。タロウの手柄なんだから」と、この時、一方的に飼育を宣言したのである。

 ボクはさっそく二階のその部屋に行き、ゴロニャンをしげしげと、のぞきこんだ。彼女は 小さな愛らしい口をヒモでまるでペケ印でもしたようにしっかりと結び、目をパッチリ開け、ボクを真ん丸な澄んだ眸で見つめた。よく見ると、顔の上半分が黒、鼻先から下にかけては富士山のように三角形の白が広がり、白いヒゲが威厳を保ち、浮かんでいる。表情もしぐさも一級品だ。それにしても「これまで、泣き声ひとつしなかったのに」と内心、驚いていると妻は「この子は、ニャンともなかないんだから。だから、ここまで秘密が保たれた。ニャンニャン泣いてたら、それこそ、お父さんの気に障り、捨てられていたんだから。あんたは幸せ者ね」とも、猫に向かって言った。

 

 ゴロニャンにとって、能登暮らしは結構、楽しいものだったようだ。妻は、ゴロニャンのことを〽白と黒の小猫一匹風と来ていつのまにやら名前はゴロ〽 〽木に登り耳をたて空見上げてる前世は鳥だったかもね〽などと、得意の俳句に詠んだが、毎度ながらボクは「俺より、文才があるな」と感心しきりでいた。ゴロニャンは、その後、タロウによりいったんはテレサとも名づけられたが、家長であるボクが権限を行使し、前のドラえもんに似て手毬(てまり)のようだから、と「てまり」と名付けた。

 目の色。すばやい動き。生き生きとした機敏な表情……と、てまりは日に日に成長していった。多くの野良猫が二匹、三匹と群れるように庭から、わが家を、さらに室内にいる子猫のてまりを窺う。庭に面した裏口ドアが少しでも開いていようものなら、遠慮なく入り込み、ボクのコラッ、という声に一目散に逃げていく。こんなことの繰り返しが続くうち、はじめは人間さまと野良猫集団の格闘ぶりを横目に、我関せずでいたてまりも、やがて鼻をヒクヒクと寄せ合い、誘いに乗り始めた。どうかすると一緒にどこかを半日以上もふらつき、灰の煤などで体中を真っ黒にし、帰ることも珍しくなくなった。

 こんなある日。妻は泣く泣く近くの獣医へてまりを連れていき、避妊手術を強行したのである。二、三日入院し帰ったてまりは、どこか弱々しく生気がなく、ボクと妻は「飼い猫となり生きていく以上、これしか道はないんだ。ごめんね」と詫びた。妻がボクの夜の求めに頑に応じなくなったのは、ちょうどこのころからである。妻のてまりに対するいたわりは、逆にボクへの仕打ちのようにも思われた。

 

 能登の七尾から、水都大垣へ来て半年が、アッという間に流れ去った。

 転勤でその町の支局を旅立つ日。興奮したてまりは何を思ったか。支局前の橋を急に横切ろうとし、乗用車とぶつかった。幸い衝突直前に急ブレーキをかけた車が止まってくれたため、てまりだけが一方的に車にドンと体当たりする形となり、鈍い音を出した割りには、奇跡的にかすり傷ひとつなくてすんだ。てまりが、そのとき、実は野良猫のまま、てまりを毎日のように訪れた親、兄弟との別れを悲しみ、娘盛りを避妊という一方的手段で裂かれたことに落胆し、自ら死を選ぼうとしたものかどうかはボクにも分からない。ただ、あのころのてまりは避妊手術をさせられまだ日が浅く、体がアンバランスで精神的にもふわふわしていたことだけは確かなようだ。

 

 ボクは今、この町に来てしみじみ悩む。

 てまりにとって、そもそもタロウに拾われわが家の一員に加わり、能登猫から水都猫に変わり、こうしてここに住んでいることが良いことなのかどうか。これでは、猫の友だち一匹おらず天涯孤独も同じではないか。いやいや、人間だって。一人ひとり、すべてが孤独なのだから家族で幸せなら、この方がいい。もう一人のボクが、かぶりをふりながら盛んにこれでいいのだという。そうでなくては生きてはゆけない。ボクの胸底には明らかに動揺の色が見受けられる。

 てまりが、こちらへ来、最初に悩まされたのは家ダニだった。ボクたち一家全員も、ダニに食われ、手足がボロボロになり、薬漬けの毎日から始まった。ダニ殺しを室内中に何度、撒いても効き目がなく、何かに呪われているような錯覚にさえ、捉われた。てまりは体のそこいら中を舐め回し、妻からつけてもらった首輪も二度、三度とはずし、ダニとの格闘ぶりは、はた目にも痛々しかった。ダニ被害は秋になり、やっと治まり、てまりには妻の手でドラえもんの時と同じ金色の鈴がつけられた。てまりは、この鈴が余程気にいったようで、満足し切った様子でやっと平穏が訪れた、と言いたげだった。

 深夜。それまで布団の中で丸くなっていたてまりが枕元に座り、ボクや妻の寝顔に体を寄せ、心なしか息を吹きかけてくる時は決まって、トイレの催促である。ボクは決まってドアを開け、てまりを月光の町に送り出してやる。やがて冷気を引き裂きチリリンと鈴の音が近づくと再びドアを開け、室内に迎え入れてやる。そんな生活が毎日、続いた。てまりは、いつも口をちゃんと結び、四本足をしっかりそろえ、まん丸な目でボクたちを見つめる。てまり、と呼ぶと自分のことと知ってか、ボクの方に向き直る。テレビの大相撲なども目を見開いて見入る。

 曙対智ノ花戦のときなど、取り直しの場面には真剣そのもので、曙が送り倒されて負けると初めて顔を動かし「あっ、終わった」といった表情をしてみせる。政治改革にも、ご主人がそうだからか、関心大ありで村山社会党委員長のジェスチュアまじりの話に両手をそろえて聴き入る。一瞬一秒とて、同じ表情でいることがない。雨の朝など、外へ出してやろうとすると、 からだが濡れる、と心配してか、顔を傾げ、しばらくそのまま外に視線をやり、意を決したように雨の中に走っていく。

 

 てまりは恐らく、自分のことを猫とは思ってはいないだろう。猫なんて、人間たちだけの 勝手な呼び名に過ぎない。ただボクは近ごろ、てまりと視線を交わすと、その眸に、これまで 関わりのあった多くの人々との通り過ぎし残像が映し出されているのに気づいた。それは、てまりの眸が、妻の心の奥深くに棲みついたと思う反面、こんどは妻がてまりに同化してしまう、といったものだった。てまりは、それからというもの、日が過つにつれタロウにもボクにも家族みんなに身を捧げるように同化していった。 ニャンとしか言葉をもたない、この不思議な生き物が、ジィッと、ボクたちを見据えている。いや、彼女に言わせれば「人間社会ばかりでなく、空や海、ときには流れる風や雲、落ちる雨、雷鳴の轟き音や稲妻……といった視界に映るすべてを見ているのですよ」と、いうに違いない。妻が、ことしに入り詠み、新聞の歌壇で佳作に入った作品は〽目の高さ十五センチで猫が見る不思議の国の人たちの生活、というものだった。てまりにとっての十五センチの視界は、物こそ言わないが、ボクたち人間が見る世界以上に広いに違いない。

 

 ことしに入り、バレンタインデーの朝一番でボクの元に宅急便で、金色ビニール袋に入ったチョコレート二包みが、届いた。宅急便には、あのよく跳ねた字で「岐阜県大垣市……」とあり、ボクの電話番号とともにアキ様と、しっかり、お届け先が書かれていた。明らかに、あの葉子の字体だが、〈葉子〉とは、どこにも書かれておらず、依頼主のところも空白のままだった。午前八時過ぎ。いきなり宅配人が現れ、自宅にまで届けられるという経験はかつてないことでもあった。ボクは妻に冗談で「てまりが、俺に届けてくれたのではないか」と言い、本気にそう思った。てまりがその時、外にいたのか布団の中にいたのか、どこにいたかは覚えていない。

 

 てまりが、耳をピンと立て、あの研ぎ澄まされた顔で何か、を狙っている。フワッと路上に飛び出たその刹那、小さなそのからだはふわりと宙を舞った。てまりの命はこうして天にとられたのである――。

 なぜなのか。ボクはバレンタインデーを前にこんな夢を見、情景描写だけでもと起き抜けに、ごん日記に、こうメモした。てまりが、はねられ、右顔面を血まみれとし、死んだのは、宅急便が舞い込んだ、その翌朝だった。午前七時過ぎ、登校のためいったん家を出た中学三年の二男ツバサが、支局横路上で倒れていたてまりを抱き上げ「大丈夫。大丈夫だ」と叫びながら、家の中へなだれを打って飛び込んできた。てまりは口の部分を中心に右顔面を血だらけにし、大きく目を見開いたまま。何かを訴えたそうな光る眸を残し、それでも最期に抱かれた優しい二男の顔に、安心し切ったように死んでいった。

 

 てまりは、もう何もいわない。いや、前からだって。何もいわず、目と口、耳の表情、両 手足のじゃれっけと、ノドを鳴らすゴロゴロという音、ほんのごくたまに好物のキャットフードを妻に催促するニャアーンという鳴き声、ボクたちに擦り寄せてくる体としっ尾。これらだけで、無言の意志を示してきた。てまりはいま、どこまでも透き通ったあの空の雲に乗っかり、 能登の海を見下ろしながら、ボクたちの方を向いてほほえんでいるようだ。

 能登に生まれ、大垣へ来、雪を見、空を感じ、海に囲まれ、雨を知り、人と通じ、空を飛ぶスズメを獲るすべまでをも知った。ボクは今、体の芯からあふれ出てくる涙をティッシュでふきふき別れのペンを進めている。

 町の看板や垂れ幕が、ギコギコ、サワサワと風に揺れたら、どこかでてまりが悪さをしているのではないか。風が吹けば、その真ん中にてまりがいる。電話が鳴ればなったで、どこからか、てまりがかけてきたのではないか、と錯覚してしまう。窓を開ければ、一陣のかぜよりも先に、てまりがスッと入り込み、ボクの傍らにチョコンと座る。車のボンネットに座って気取るのが得意げだったてまり。水道蛇口をひねれば、水の中に彼女の妖精が潜んでいる。

 ボクたちは、てまりとはそういう付き合いできた。一方の心が、他方へ見えない空道を通り抜け、ここまできてしまった。空を仰ぐと、てまりが頭上に迫り、ニコリと笑う。「ドラえもんさんのことも忘れないでネ。葉子さんにいちど会わせてあげようか」と言いつつ、こんどは川の流れの中で木曽、長良、揖斐の木曽三川をまたいで立つ虹となって現れた。虹の川には、いつだって、てまりが、そして、あのドラえもんさんが、幻の女葉子と一緒にいる。

 

 ボクが風呂に入っていると、不思議そうに男の裸を首を傾げ、のぞき込んでたてまり。トイレに入れば、一緒に入ってしまい、なぜかしら便器を一周してから出るのが常だった。冷蔵庫上に束ねられた新聞紙の上や、たんすの最上段の、そのまた段ボールの上。浴室一角に置かれたタオルの山。てまりがいないと捜すと、決まってよくそこで丸くなり、チョッピリすねたようにし寝そべっていたものだ。特に冷蔵庫の天井、新聞紙の上では両手、両足をチョコンとそろえ、まん丸な目で口をしっかりつむり、かわいい表情でボクたち人間のすることを上から 見下ろしていた。

 

 あれから何日たったろう。

 朝起きると、てまりは石に変わっていた。遺体の足元には魚のカラ揚げが油紙に包まれ、カスミソウの花束と一緒に置かれていた。妻の配慮で「亡くなる前の晩に食べていたからだ」という。カーテンがそよと泳げば、そこには遺体から抜け出した、見えないてまりがじゃれている。ペンを走らす。そのキャップの上に、てまりの亡影が立ち、首をキョトンと傾げ、あの愛らしい姿で、このペン先の行方をじっと追っている。視線をテレビ画面に移すと、そこにも彼女がいる。ボクたち家族の苦しい時、楽しいとき。てまりは決まって、あの丸い目と口元、ツンと立てた耳先、手足、柔らかで機敏な動作で見守ってくれていた。

 チリリン。チリリン。リ。リン。

 鈴の音がしないのに、どこかしらからか、あの哀愁を帯びたてまりの音が空気を伝い、走って、迫り来る。

 

 そういえば、てまりの死を、妻が、千葉で下宿生活をする大学二年の長男に伝えたところ「死ぬ前の夜に、チリリン、リンと、鈴の音が聞こえてきた。てまりが別れに来たのかな。仕方ないね」と声を落としたという。

 

 チリリン。チリリン。リ、リン。

 人間も猫も、ウサギも、物体のないかぜ、根尾の淡墨桜の一枝だって。この宇宙に生きるもの皆すべてが、いつも孤独だ。やれ仕事だ、なんだかんだのと動き廻っても悠久の世ではやはり芥子粒同然、止まった存在にほかならない。

 孤独な風の中に、ジィッと息を潜め立ち尽くしていると、ドラえもんやリサ、葉子の悌が、両手をそろえたてまりの顔に次第に乗り移っていくのが、よくわかる。

 

 昨年暮れ。ボクは年賀状に家族の名前をつらね、小学二年生のタロウの横に 〝てまり(二才)〟と書き添えた。遅がけの出産と勘違いし、慌てて電話をかけてきた女性の言が冒頭の下りである。

 てまりの亡霊が人間社会に入り込んでしまった今。ボクには、てまりが葉子の分身に思えてならない。いつだって。傍らにいる。いや、体の中に染み入ってしまった存在だ。そう思うと、ボクは思わず彼女の形見である金の鈴を鳴らしてみた。チリリン、リ、リン。ボクの心には、この先、いつまでも、てまりが、葉子が、ドラえもんが生き続けるだろう。

 電話の主が葉子であろうが、なかろうが、もはやどうでもよいことだった。

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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伊神 権太

イガミ ゴンタ
ウエブ文学同人誌「熱砂」主宰。1946(昭和21)年生まれ。愛知県江南市在住。

掲載作は短編小説集『一宮銀ながし』(1999年、風濤社刊)に収録。

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