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真正の哲人・狩野亨吉

一 誇るべき人物

 今や哲学者と称する者は、諸々の学説を紹介する文献学者のみで、真に「哲学する人」はきわめて少ない。

 ここに紹介する狩野(かのう)亨吉(こうきち)(一八六五~一九四二)こそは、実に「真正の哲学者」であり、近代日本の中で「自己の哲学」によって生きた、誇るべき人物である。

 かつて、多くの「忘れられた科学者・思想家」を発掘した狩野亨吉も、今日では自らが「忘れられた哲人」となってしまった。

 狩野亨吉は、「自国の学問」を発掘し、また、創造しようと励んだ。

 それは、日本思想史における一大高峰として聳え立っている。

 狩野亨吉没後四十年(一九八二)にあたり、これからの日本に、独創的な真の人物が出現することを希望して、この小論を綴ることにしたい。

 

二 数学から哲学へ

 狩野亨吉は、一八六五(慶応元)年七月二十八日、秋田・大館に生まれた。幼少のとき、父良知が内務省出仕となり、一家は東京に移る。

 亨吉は番町小学校に転入学する。翌(一八七七)年に母を失う。幼い亨吉にとってこれ以上の悲しみはなかったと思う。亨吉の書物好きは、この時代からだといわれている。おそらく読書によってその寂しさをまぎらしたのであろう。成績は優秀であった。

 一八七八(明治十一)年、第一番中学校に入学する。ここには、同窓に夏目金之助(漱石)、上田萬年、澤柳政太郎らがいた。漱石は日英両国語で授業をする正則科におり、狩野は英語だけでやる変則科にいたので、まだ交際はなかった。

 次いで、一八七九(明治十二)年に東京大学予備門に入る。

 この時代(十八歳)に書かれた「情象論」、「大民新書」には、すでにその哲学的萌芽がみとめられる。いずれも漢文体であり、その漢文はまだ初学者的なものであるが、その内容は、事物の本質を探究しており、自然科学的、唯物論的特色を持った、独自の世界を形成している。

 また、この時代に動物学者E・モース(一八三八~一九二五)の「進化論」についての講演を聞き、大きな感銘をうけた。

 一八八四(明治十七)年、予備門を卒業すると、東京大学理学部に入る。最も厳密な科学としての数学・物理学を学ぶ。しかし、必ずしも数学を得意とするからではなかった。それは「万学の基礎としての数学」としてであり、すでに将来の研究を哲学と決めていた。

 この頃から、江戸時代の和算書・天文学書を集中的に多量に集めだす。これらの書は当時だれもかえりみる人がいなかったので、比較的安価なために学生でも購入できたのだという。日本科学史への強い関心からであり、日本人の「知力発展史」を確かめるためであった。

 一八八八(明治二十一)年、東京大学数学科を卒業した狩野は、翌年また、哲学科に編入学する。カントをはじめとする世界の哲学を学んだことは言うまでもない。それは、「自己の哲学」を求めてであって、西洋の哲学理論を切り売りするためのものではなかった。

 この頃から「日本の思想史」の構想が芽ばえ、盛んに日本の思想家を研究する。それは単に思想史という狭い範囲の研究ではなく、科学も芸術も、あらゆるものを入れて考えるものであり、狩野の百科全書的スケールを反映したものであった。今日の思想史研究、科学史研究者は、狩野のこの方法から充分に学びたいものである。

 一八九一 (明治二十四)年、哲学科を卒業した狩野は、さらに大学院に進んで「数学のメソドロジー」を研究する。メソドロジー(methodology)とは、「方法論」である。この数学の方法論を哲学に適用したものが、後の京都文科大学における倫理学講義である。それは、また日本における数理哲学研究をも準備するきっかけとなる。教え子の田辺元によってこれが確立される。田辺は『数理哲学研究』(大正十四年刊)に「恩師狩野亨吉先生にこの書をささぐ」と献辞を載せている。

 

三 日本科学史の研究

 大学院を終えた狩野は、金沢の第四高等学校教授となり、星学(天文学)、数学・論理学を講ずる。テキストはすべて英文原書を使用している。

 一方、課外講演では、関孝和、志筑忠雄など、日本科学史研究の成果を次々と発表していた。このように狩野は、西洋の自然科学と哲学とを充分に学びながらも、決して「日本の学問」を軽視することがなかった。それどころか、ますます深く研究していった。

 ここに狩野の学問に対する姿勢をみることができる。それは、自国の学問をかえりみない当時の西洋一辺倒の風潮に対する批判であり、真に日本人としての誇りを回復する作業であった。

 西洋に留学して帰国すれば、たちまち出世する時代にあって、狩野はそのような道を選ばなかった。また、文部省などの役人になって、学問もせずに勢力拡張のために奔走するような人物にもならなかった。

 四高ではよく、生徒の面倒をみた。このときからの弟子としては、八田三喜がいる。しかし、わずか二年でこの四高を退職してしまう。

 そして、市井の人となって四年間を過ごす。この間に、日本科学史研究上画期的な論文「志筑忠雄の星気説」を発表する。志筑の『暦象新書』中の宇宙生成論「混沌分判図説」に注目し、カント・ラプラスの星雲説と比較し、その独創性をたたえている。志筑忠雄はここに日本物理学の嚆矢として初めて紹介されたのである。この論文が、後の日本科学史研究へ与えた影響には、測り知れないものがある。

 

四 夏目漱石と狩野亨吉

 一八九八(明治三十一)年一月、当時第五高等学校教授であった夏目漱石らの熱望によって、五高教授(教頭兼任)となる。

 その時の漱石の手紙の一部を紹介しよう。

 後任者選定の一条につき、小生は第一に大兄を挙候処、校長の考にては大兄は到底相談に応じて呉れまじと被申侯、其時小生答へて無論単に論理の教師として招くとも無益の事、小生等よりは遙かに先輩なる狩野氏の事なれば、相応の待遇をせずばなるまじと申し候……。右の条件にて再び教育界に御出現の上、当校の為め、生等の為め御来任被下間鋪候や。(明治三十年十二月七日(火)狩野あて書簡より、『漱石全集』第二十七巻、岩波書店)

 右の条件とは、

 一、大学予科教頭の地位に立つ事

 二、教頭事務のほか論理学の授業を担当する事

 三、待遇は年俸千六百円の事

である。

 狩野はこれに応じて熊本へ赴くことになった。

 狩野は漱石について「夏目君と私」(昭和三年)、「漱石と自分」(昭和十年)の二つの短文を残している。(ともに談)

 夏目君と私と相識ったのは、夏目君が松山へ赴任される少し以前で、山川信次郎君を介してであった。それから、ずっと交際を続けて、熊本高等学校(五高)時代にも一緒になり、英国留学から帰って来られて一高へ出られた時も一緒になり、又大学を止められて、朝日新聞社へ入り、明治四十年の春、京都へ来られた時には、しばらく私の家に滞在してをられるなど、非常に親しくしてをった。(「夏目君と私」)

 漱石と狩野は生涯を通じての親友であった。荒正人編「漱石研究年表」(『漱石文学全集』別巻、集英社)によれば、「明治二十六年八月六日(日)、狩野亨吉訪ねて来る。一緒に散歩する」とここにはじめて狩野の名が登場するので、これより少し前に知り合いになったと思われる。

 この時、狩野は四高教授であったが、すでに退職の意向を持っており、自分の後任と英語教師をさがしに来たのである。漱石をも説得したことが次の漱石書簡によりわかる。

 狩野君は高中の教師探索の為め未だ帰沢の途につかず、過日来小生も段々同氏の説諭にあづかり、是非奮発の上、赴任してくれろと依託被致侯へども、未だ諾否の返答は不仕侯……。(立花銑三郎あて書簡より、明治二十六年八月十五日(火)『漱石全集』第三十五巻、補遺)

 結局、夏休みを費しての教師さがしは失敗におわった。

 貴校英学教師は何人に定まり申候や大兄は未だ御帰京の運びに参り兼候や

 生義兼て御出京中は種々御配慮を煩はし候処其後高等師範学校英語教授の嘱托を受け去る十九日より出講仕居候へば……(狩野亨吉あて書簡より、明治二十六年十月二十七日(金) 『漱石全集』第二十七巻)

 漱石は十月に高等師範学校教授となったことを知らせている。四高の英語教師が決まったかどうかをたずねて、「大兄は未だ御帰京の運びに」と狩野の進退を安じている。八月の時点で狩野は自分の心境をつぶさに漱石に語ったのであろう。

 ちなみに、漱石から狩野への書簡は全部で七十三通あるが、右のものが狩野にあてた最初の手紙である。漱石からの書簡数の多い人物は小宮豊隆百二十一通、高浜虚子百八通、鈴木三重吉七十四通であり、狩野は数で四番目である。しかし、虚子あてのものはきわめて短期間に集中しているという。二十年という長い期間にわたって出された狩野あて書簡は貴重である。(『夏目漱石必携Ⅱ』竹盛天雄編、「漱石の手紙」参照のこと。学燈社)

 その正月休みにも後任さがしに上京したが、これも実らなかった。三月になって校長に相談し、やっとのことで退職したのである。

 夏目君と自分が一番多く会っていたのは熊本時代で、自分が行くより先に彼は行っていたのであるが、その時分は毎日のやうに会う機会があったが、大してお話するやうな事柄も記憶にない。(「漱石と自分」)

 狩野と漱石とは、五高時代にもっとも親しく交際していた。その後、ロンドンより帰国した漱石を一高に迎えたのも狩野であった。

 夏目君が自分のことを文学亡国論者だといって、お前には小説などわからぬから本を出してもやらぬよと冗談のやうにいったので、自分も貰はなくてもよいといったが、これは事実上実行されて、遂に一冊も本を貰ったこともなく、又、夏目君のものを読んだこともない。(同前)

 この文学亡国論者について狩野は、

 これは誤解で、実は当時、しきりに文学亡国論等が唱へられて、私もその論を奉ずるものの様に誤り伝へられたためであった。……私は何も文学亡国論などは少しも唱へなかったのである。(「夏目君と私」)

と弁解しているように、亡国論は当時の流行語でこれにひっかけて漱石が言ったものである。

 一方、漱石は狩野から大きな影響をうけたといってよい。それは、小説の人物モデルとしてだけでなく、もっと深く、思想の本質部分への影響と考えてよいと思われる。

 漱石がどうして『それから』のように、思想的に飛躍した作品が書けたのか、それが私には解き難い謎であった。……漱石が『それから』の中で、「高等遊民」を設定して、その視点からあれ程徹底した職業論を展開できたのは、漱石が狩野亭吉という偉大なる高等遊民を親友にもっていたこと、そしてその高等遊民に深い感銘と刺戟をうけていたからこそ、あれだけの達成をなし得たのだと思い到った。(駒尺喜美「偉大なる高等遊民・ 狩野亨吉」、『埋もれた精神』所収、思想の科学社)

とする駒尺氏の所論は充分うなずけるものであるといえよう。

 

五 親友澤柳政太郎

 狩野の五高教授も、長くはなかった。ちょうど、その年(明治三十一年)の十一月に、第一中学時代からの親友澤柳政太郎(一八六五~一九二七)の後任として、第一高等学校長に抜擢されたからである。その時の澤柳政太郎の書簡を見よう。

 拝啓今回之事突然ニ起り且大急更迭ノ必要アリ為メニ通常ノ道筋ヲ踏ムヲ得ズ校長并ニ大兄ノ御承諾ヲ得ズ小生ノ転任并ニ大兄ハ十目ノ視ル所第一高等学校長ニ最適任トノ決定当日即一昨廿二日決定候哉否直ニ上奏ノ手続ヲ踏マレ昨日御電報有之候モ最早尽力之余地無之玆ニ至リ申候斯ク至急ヲ要シタル理由ハ教育社界ニ最忌ムベキ運動ノ生ズル道ヲ塞グタメニ有之……広ク教育界全体ノタメ今回ノ事ダケハ御忍相成度之ニ対スル御報ハ将来第五高等ノタメ上田及小生ハ素より……。(『澤柳政太郎全集』第十巻)

 澤柳は、この年の七月二十日に一高校長(高等官五等)となったばかりである。わずか四か月で、文部省普通学務局長(高等官二等)となる。スピード出世である。十一月二十四日に就任が決まって、その日のうちに右の手紙を出している。狩野も十一月二十四日付で一高校長に就任となっている。狩野へは事後承諾である。このスピード人事が可能であったのは、澤柳と狩野との人間的信頼によっている。

「広ク教育界全体ノタメ今回ノ事ダケハ御忍相成度」と澤柳は必至である。ちなみに、澤柳から狩野あての書簡は、九十通あるが、文末に「狩野大兄」と書かれているのは、この書簡ともう一つだけである。この時の澤柳の気持ちが察せられて興味深い。澤柳政太郎と狩野とは最も深い信頼関係にあった。狩野が生涯のうちで、友人について書き残したものは、前出の漱石とこの澤柳の二人のみである。

 澤柳君は五十年来の親しい友であったが、其割に度々遇っても居ない。相互の内状に迄立入って話合ふ様な機会もなかった。……その交り淡き事水の如しといふべきである。(「澤柳君と余との関係」)

「その交り淡き事水の如し」との狩野の表現が、二人の交友関係を端的に語っている。

 澤柳君が文科大学を自分が理科大学を卒業した時であった。角帽を被りながら両人は揚々として切通坂を通って散歩し乍ら、丁度江知勝の辺にさしかかると其時澤柳君は私に向かって、君は将来何に志す考であるかとの質問をなしたものだ。自分は数学物理学の研究に没頭して其力により精神現象を始め一切の現象を説明せんとする考であると答へた。同君の希望を聞いたら、彼は「大政治家となって大に経論を天下に行ふ積りだ」と云ふて居った。(同前)

 若き青年には互いの将来を語り合う親友が必ずいるものである。狩野も澤柳もこの言葉通りにその生涯を歩んだといってよいと思う。

 後に狩野が京大でおこなった倫理学講義は実にこれを証明している。

 一方、澤柳政太郎は、大学を出て文部省に入り、各中学校長、二高校長、一高校長、東北帝国大学総長、京都帝国大学総長などを歴任し、教育界に一大業績を残した。晩年には、幼少年教育の重要性を力説して私立成城小学校を創立し、今日の成城学園の基礎を築いた。

 澤柳は単に教育者にとどまらず、立派に思想家として位置づけられるべき人物である。今日見ることができる『澤柳政太郎全集』(全十巻・国土社)がこれを語っている。澤柳は狩野を尊敬し最も信頼していた。だから、いつも自分の後任に狩野を推薦したのであった。

 澤柳君はよく私を同君の後任などに推薦して呉れた。明治三十一年十一月同君が第一高等学校長から普通学務局長に転任した時、余を第五高等学校教頭から一高長に推薦した人は柏田文部次官であったとも云はるるが、澤柳君は尤も尽力した人であった事は疑ない。其後余を京都の文科大学長に推したのも澤柳君が主であった。大正二年五月澤柳君が東北大学総長から京都大学総長に転任する際にも私を後任に推薦しようとして勧誘に来たのであった。(同前)

 澤柳はまるで、自分の後任は狩野以外にいないと言わんばかりに、狩野を推した。このような人間関係は、実に稀であると思う。それは、狩野から頼んだものではさらさらない。狩野はもちろんポスト争いなど、てんで頭にない人物である。そのような狩野の性格を充分に知っていたからこそ、なおさらのこと推薦したのであろう

 狩野が、自分から澤柳へ援助を求めたのは、次の二度だけであった。

 私は自分の事で澤柳君に援助を求めた場合が二度ある。いづれも金に関して居る。一度は蔵書を手放さんとした時一纏めに引受くる所を探がして見たが、私の思ふ様な条件では容易に纏らぬので、遂に澤柳君の世話で東北大学に買って貰ったのである。今一度は現金を借りた事がある。(同前)

 

六 一高校長時代

 一高校長時代は、狩野の人生で最も充実した時期であった。教育者としての本領を遺憾なく発揮し、その生涯で最も長い八年間をここで過ごした。この時のエピソードは非常に多いが、その二、三を紹介したい。

 先生は何事も不言実行であった。殊に学校で彼の温顔での不言実行は、筆者の如き茶目や腕白には、之が一番苦手で、到頭頭が下がった。

 第一高等学校長になられたときでも、偉らさうな挨拶もなく、学則の改正もなく、問題毎に黙々とした温顔で校紀を維持されたといふ。(八田三喜「狩野亨吉先生」)

 校長としての約八年間は、生徒は殆ど先生の存在を忘れて居るくらい、無為にして化する風があったが、しかし、カンニングをやったものは即座に除名し、……所罰はきびきびして居て、生徒に媚びる所は一つもなかった。(安倍能成『狩野亨吉遺文集』、二一四頁)

 生徒魚住影雄が三十七年「校友会雑誌」に「自殺論」を発表した時、自殺を讃美した文章は二、三行墨で抹殺して配布された。私は文芸部委員としてこれに抗議したが、先生から諄々と説かれて、よく分からなかったけれども引き下った。(同前)

 このように、一高校長としての狩野は、実に多くの生徒の信頼を得ていた。その中からは、岩波茂雄、阿部次郎、安倍能成などの逸材を世に出した。

 一高時代はきわめて多忙であったと言ってよいと思う。就任早々に「徳育に就きて」の一篇を校友会雑誌に書いただけで他に論文はない。しかし、古書の収集はあいかわらず続けられていた。一八九九(明治三十二)年、安藤昌益の稿本『自然真営道』(全百一巻)を購入している。けれども、雑務におわれていたためであろうが、狩野はこれをじっくりと読む暇がなかった。はじめは、狂人の書ではないかと思い、精神病理学者呉秀三に貸したこともあった。

 狩野はよく知られているように、その生涯を独身で過ごした。それはよく、無妻主義によるものといわれている。しかし、見落とされていることがある。家族・兄弟の中における亨吉の位置についてである。

 狩野が一高校長になったとき、次姉未亡人前小屋一家が上京する。次姉の次男、長女が同居し、かつ兄元吉の早世により、その子剛太郎の面倒をみていたのである。このような兄弟の子を育てている狩野自身に、それ以上に妻子を見ることは可能ではあっても、あまりその必要性を持たなかったといえよう。特に次姉は最後まで狩野の世話をしているが、この姉久子にも狩野を生涯独身で過ごさせた原因があるのではないだろうか。もちろん狩野自身の性格と思想とを無視するつもりはないが。狩野自身は「数にも割り切れぬ数がある。私の独身はこれと同じだ」と言ってすましている。

 

七 京都文科大学長

 時移りて一九〇六(明治三九)年、京都帝国大学文科大学の創設とともに狩野は学長(兼教授)となる。すでに内定していた大西祝が急逝したため、木下総長らに説得されたのである。

 その時、私は辞退しました。それは当時第一高等学校長としてあり、学校の行政とでも言ふべきことに多く携っていた上に、その頃一高には、ある重大な問題があって私の手で解決しようとしていたときであったから一高を離れがたくあった。(『京都帝国大学文学部三十年史』「創立の頃」)

 最初、狩野は辞退したが、その後決意して京都に行くことになった。

 京都の文科大学については、当時世間では、はじめから、東京のそれに劣るもののやうに、きめていた。しかし考ふれば、京都には、歴史もあり、東京のごとく生活が騒がしくもなく、学問の府としては、立つべき将来があると信じた。京都文科大学を学問的・研究中心とすることは、当時深く考へたところであって、そして仏教の研究、東洋文化の研究などについて特色を有つべきものと考へたのである。

 ……それまでは帝国大学では教授・留学・学位なども、所謂、赤門出、それも本科の出身者に限られているやうの観があったのを、京都文科大学では、勝れた方々をひろく求めて、入っていただくことになった。内藤虎次郎氏、幸田成行氏、米田庄太郎氏、富岡謙蔵氏、西田幾多郎氏等、みな、異った閲歴の方々であった。(同前)

 在野の内藤湖南や幸田露伴を迎えて、京都文科大学は特色ある学風を形成していったのである。ここから西田哲学が生まれ、後に戸坂潤や三木清などが育つことになる。さらには、湯川秀樹の理論物理学が生まれたのも、この学風と無縁ではないように思われる。もし、今日の京都大学にこのような学風が失われているとすれば、実に悲しいことといわねばならない。

 狩野の講義は、独創的な科学的倫理学である。講義ノートによってその内容を見ることができる。日本の近代哲学史において、これほどの独創的哲学は他にないのではないか。

 それは、青年時代からの長年の構想を一気に披瀝(ひれき)したものである。若き日に「自分は数学・物理学の研究に没頭して其力により精神現象を始め、一切の現象を説明せんとする考である」と語ったその言葉は決していつわりではなかった。ここには、独自の哲学をうちたてようとする狩野のなみなみならぬ決意があった。科学的方法による倫理学がここに確立された。

 そのライバルは、カントをはじめとする古今東西の第一級の哲学者のみであった。

 その自信のほどは、「自分は自分より若い学者の説はあまり尊重しないことにしている。アインシュタインを除いては」と言う晩年の言葉にもうかがうことができる。このような独創的な倫理学は、今後の日本にも容易に出ないと思われる。その講義内容の綿密な検討がぜひとも必要であるが、それは別の機会にゆずることにして、一つだけその特色をいえば、「定義」「定理」「系」などの幾何学的叙述形式と、時には高等数学や物理学の理論を持ち出して展開していることである。この叙述形式は、スピノザの『エチカ』(倫理学)の叙述形式に近い。ちなみに『エチカ』の副題は、「幾何学的秩序に従って論証された」となっている。この形式は、『ユークリッド原論』に淵源するものである。

 狩野はこの講義を「学生が解ろうが解るまいが、私にはそれより外ない」(『唯研』座談会)と言って行った。その名講義が注目されたのか、一九〇七(明治四十)年春、狩野は「大阪朝日新聞」のコラム「人物画伝」に取り上げられた。このコラムは、古今東西の人物写真を掲げて、これに短評を付したものである。その年の七月に一冊にまとめられ、東京の有楽社より刊行された。これは、最近(一九八二)著者が見つけたもので、狩野について書かれた最初の論評である。その全文を紹介しよう。

  京都文科大学長狩野亨吉君

或る人が今の世に真正の哲学者出づべきかとの疑問を発せり、成る程()は一疑問にて、 功利を争ふの今日、学問も皆商売となったが、東京大学にコイベル氏あり、京都大学に狩野亨吉君あり、疑問も遂に解決され、先づ/\安心の気味もする。

君は秋田の生れ、九歳にして東京に出で、番町小学に学び、上田萬年、澤柳政太郎の二氏は当時の同窓にて、親交今に至ると、予備門を経て理科大学に入り数学を修む、明治二十一年卒業の(のち)、更に文科に入り哲学を修め、二十四年卒業す、(のち)一年余にして第四高等学校に(へい)せられ、居る数年にして飄然(ひょうぜん)京に帰り、勉学三年、更に第五高等学校に聘せられ、教鞭を取り間もなく第一高等学校長となる、而も多く世に知られず、今回木下総長の()く所となり、(きた)りて京都文科大学に学長となる、是れより其の人格を認められ、都鄙嘖々(とひさくさく)其の人となりを語り、好学長を得たるを喜び、日本に真正哲学者ありしを喜び、狩野学長の名は人口に膾炙(かいしゃ)するに至る、老子も(かん)を越ゆるに及び、其の()に認めらるるの類乎。

君は肖像の示す如く、温厚の君子人にして、顔は渥丹(あくたん)の如し、其の無妻主義なるに因るならんかといふものあり、家には唯書籍あるのみ、其の数幾万といふを知らず、要するに智、情、意三者に於て優れ、円満熟達の人なり、別に其の逸話を掲ぐ。

その逸話も短文なので紹介したい。

○君は元来文学的嗜好を有し、中学時代より大学予備門時代に亘り、好んで英小説を読みぬ、()れば当時舶来の英小説は大抵読破せざるなかりしといふ。

()れど一朝悟る所あり、小説は皮想浮薄の言辞を弄するに過ぎず、未だ以って宇宙人生の奥義を解するに足らず、宜しく真正の学術を修むべしとて、小説と正反対なる数学を修むるに至りしと。

○併し天性の嗜好は()ぐべからず、更に文科に入り哲学を修め、理学士の上に文学士の肩書を重ぬるに至った、肩書などは君の意とする所にあらず、今に博士号なきも君が無頓着の(ゆえ)のみ。

○君は意思の人なり、身を修むる頗る厳、洋服を着けて終日危坐(きざ)し、客に接す、而も()むことなし、温良恭謙、未だ(かつ)て激語を発したるなし。

(かか)る君子人も。心の奥に鋼鉄を蔵め、曾て金沢に赴任するとき、積雪丈余、絶えて人跡(じんせき)なし、道中熊の出没するを以て、人視て危しとす、君平然として、案内の小童を(すか)し、われ鉄砲を有せりとて何ものかを示し、遂に金沢に達せりと、聞くもの其の暴に驚く。

○学校に奉職し、校長と意合はず、職を(なげう)つこと敝履(へいり)の如く、飄然東京に(かえ)る、此の奇嬌の行ひありしを以て、後第五高等学校に赴く累をなせりと、

○君は又情の人なり、学生の窮を憐れみ、資を給せしこと多く、其の金沢を去るときも、生徒の遠路送り来らんことを憂ひ、(ことさ)らに彼等が発火演習に赴きし(かん)(えら)び、出発したりと、以て有情の人なるをも知るべし。

 狩野は、一九〇七(明治四十)年の十月に文学博士となった。『博士録』によれば、「京都帝国大学総長推薦」とある。同じく十月には文部次官岡田良平が総長に就任しているが、前任の木下廣次総長の推薦と考えてよいであろう。

 当時の博士号はほとんど推薦によっており、論文審査となったのは大正九年の新学位令からである。

 

八 記憶すべき人物たち

 一九〇八(明治四十一)年十二月に東京数学物理学会主催の「関孝和二百年忌記念講演会」で、狩野は「記憶すべき関流の数学家」を発表した。

 これには、狩野の学問に対する考え方が明確に示されている。科学史研究上の画期的な論文であると同時に、狩野の人物発掘への関心の所在を明らかにしている。

 古来我国の学問は、支那か、印度か、西洋かを手本と致しまして、出来て居ります。学者も亦、自然彼方の人を真似て、得意となって、誰も亦之を怪まなかったものであります。……勿論多少の例外があるとしても、少くとも今申述べたやうな学問では、余り誇るべき所を持たないと思ひます。(「記憶すべき関流の数学家」)

 このように真似ばかりの学問では、「此方が劣ったやうな感じがして、甚だ心細い次第である」と心情を述べ、しかし、「此感じが事実を知っての上の感じであったであろうか」と、事実を調べずにそう思っているのではないかと疑問を出し、自らこれを調べてみたのが、狩野の日本科学史・思想史への関心の出発点であった。

 所で根本的に事物の解釈を試みる人、即ち研究家があって、彼方の学者の、まだ発見しない所を発見し、(もし)くは時俗を超脱して、(あたらし)き見地を立つることがあったならば、其人は吾人のかの心細いと云ふ感じを除去るのみならず、却て吾人の意を強からしむるものである。実に尊敬すべき人物で、(すべから)く歴史に止めて永遠に吾人の記憶に遺すことを期さなければならぬのである。(同前)

 この言葉は、今日の私たちも耳を傾けるべきものであると思う。

 その尊敬すべき人物として、関孝和をはじめとして、関流の数学者を多数紹介している。この講演の後半では、特に中根(なかね)元圭(げんけい)、本多利明について詳しく述べている。

 中根元圭の楽律研究を高く評価しているのは、狩野自身音楽にはきわめて多大の興味を持っていたからである。西洋楽譜を多数東京音楽学校に寄贈したことはよく知られている。狩野は特に音楽の基礎理論に関心を持っていた。それが元圭の『律原発揮』を発掘する導因となった。元圭も狩野も日本音響物理学史上特筆すべき人物である。

 次に本多利明の事跡を紹介している。狩野は、中根元圭の孫弟子としてはじめて本多利明に注目し、「我国航海術の元祖」と評価する。そして、その経世策の開明的役割を認め、思想家として利明を位置づける。

「本多が何故に罰せられなかったか」「何故に平和に生涯を送り得たのであろうか」と自問し、その理由として「著書を公にしなかったこと」と「其寛厚の人物であったこと」によるとしている。

 これは、そのまま狩野にもあてはまる。狩野は一冊の本も公刊しなかった。人物の温厚なることはすでに確認した。本多利明に自己を発見したのであろう。

 後に狩野が利明の塾があった音羽に移り住んだのは本多利明を慕ってのことであるといわれている。

 

 以上のように、「記憶すべき関流の数学家」の講演は、単に科学史研究として和算家をとりあげるのではなく、その人物の思想にまで立入って、その全体像を解明している。

 

九 安藤昌益の発掘

 狩野はすでにこの時点で、安藤昌益の稿本『自然真営道』をじっくりと読んでいたと考えてよいと思う。というのは、その後まもなく(一九〇八〈明治四十一〉年一月八日発行)の『内外教育評論』第三号に昌益についての談話「大思想家あり」が発表されたからである。ここにはじめて、安藤昌益の存在が公にされたのである。

 その冒頭で昌益発掘に至る経過を次のように語っている。

 自分は暇があれば、日本の文明史とまでは行かぬが、日本国民の知力発展史を研究して見たいと思ふて居る。……嘗て和算に関する研究などをして見たら、中々偉い数学家が日本には居って、此方面で世界に誇るに足ると思って安心した。次に天文の方面の人を調べると此方面にも日本は世界に誇れる人が多かった。其他種々な方面を調べてみると中々偉い人間が居る。歴史上に顕著でない、又は殆んど知られぬ方面に中々偉い人間が居る。(博士は其人名と其性行其他を語られたり、今一々挙げず)而して、哲学方面といはうか、日本では唯一の、又、大なる哲学者とも云ふべき人がある。

 和算の人物とは関流の数学家たちであり、天文の人とは志筑忠雄、麻田(あさだ)剛立(ごうりゅう)などである。こうして狩野はついに、大なる哲学者安藤昌益を発掘するに至ったのである。

 狩野の昌益発見の物理的基礎は膨大な古書の蒐集であり、これは昌益発見の必要条件であった。次にこれまで見てきたように独創的な世界に誇りうる人物の発掘という狩野の視点、着眼こそがその充分条件となった。安藤昌益はこうして甦ったのである。それは昌益が没してから、約百五十年後のことであった。

 しかし、これもつかの間、その稿本『自然真営道』(全百一巻)は吉野作造の熱望によって、東京大学図書館に買いとられたが、まもなく、関東大震災によって灰と化してしまった。(当時貸し出されていた十二冊と写本三冊の十五冊だけが現存している)

 狩野にとって稿本『自然真営道』を失ったショックは大きかった。これ以後本格的な昌益への追究が始まる。全国の知人に協力を求め、また自ら調査に赴いた。この頃から後に『安藤昌益と自然真営道』を著した渡辺(わたなべ)大濤(だいとう)が狩野を訪ねて熱心に研究をはじめ、昌益解明のために尽力する。狩野は一九二八(昭和三)年、岩波講座『世界思潮』(第三冊)に、昌益についての唯一の本格的論文「安藤昌益」を発表するに至る。

 もはや昌益研究の古典に属するこの作品は、今日でもなお、卓見に溢れている。狩野は、実におどろくほど、昌益をよく理解していた。昌益の思索の経路をたどりつつあますところなく、昌益思想の本質を語り尽くしている。

 破邪之巻二十余巻は、如上の意気考察を以て書綴られたもので、実に極端なる懐疑の眼を以て思想、言語、文学、政治、宗教其他一切の人為的施設と及び此等の事に携はった偉人物を批評したものである。批評し去り批評し尽し何等()るべきところなしと見て、安藤は遂に法世其物を棄てようと決心し、棄て得る限りの総ての物を棄て去った所で、尚且つ棄てようとしてもどうしても棄てられない物が残った。そは何物である。

曰く自然(。。)

 自然は最後の事実である。所謂論より証拠の最も優れたる標本で、思慮分別を離れてその儘に存在する。その一切を許容し包容し成立せしめて、更に是非曲直美醜善悪を問はない所に実に測るべからざる偉大さがしのばれる。此自然を人々の思慮分別に由て如何に観るかと云ふ事が、軈て科学者を生じ哲学者を生じ宗教家を生ずる。安藤は既に法世の思想を棄てると力み、虚無主義に立ったこと故、彼は自然其儘を直観しようと勉めた。其主観的思索を(たよ)らず、虚心坦懐に自然に聞かうとした所は実によく科学者の態度に近かった。(「安藤昌益」)

「自然は最後の事実である」とする唯物論者狩野は、昌益がその「自然」を根拠として思想を打ち立てたことを、みごとにとらえている。さらに、近代科学を充分に身につけた狩野の「科学者の態度に近かった」という評価は注目に値する。

 今日、昌益の自然観を、非近代的であるとか、当時の蘭学者に比べておくれているとして、ことさら否定的に評価する人が多い。それでは、昌益を真に理解することはできない。また、その自然観のみを取り出してみても不充分であるといえよう。狩野はこの論文において、自然哲学も社会思想も紹介している。このような全体的把握は、狩野の一貫した方法であった。

 

十 再び市井の人に

 一九〇八(明治四十一)年十月、狩野は京都文科大学長を辞任する。理由は病気のためとある。前記の「関孝和二百年忌講演会」でも病気のため原稿を代読させたのであるから何らかの病状があったことは事実だと思う。

 しかし、千朶木(せんだぎ)仙史(せんし)『学界文壇・時代之新人』(明治四十一年刊)によれば、

 予は茲に真相を語らん、狩野学長は岡田良平君の就任を聞くと同時に辞職の意を決したのである。幾等か病気の気味もあったが元来虚弱な人、若し病の為に任務に鞅掌出来ぬとならば、初めから学長などにならぬ、箇中の内情は最早説明する迄もないのだ。

 然かし狩野が辞職したら京都の文科は真闇だ、仮に岡田を罷めさしても狩野は辞職させられぬ。そこで代るがわる狩野氏を説き勧めて当分は辞職を口にせぬ事、但し病気療養の為め、今学期は休講する事の二条件の下にヤット此噴火口を押へたのである。

とある。これがその真相であろう。

 京大を退職した狩野は、再び市井の人となって、もはや再び官途につかなかった。後に、東宮(昭和天皇)の教育掛に推されたが「私は近ごろ善と惡との区別がつかなくなった」と言って固辞し、また、東北大学総長として推薦されたがこれも断った。

 狩野は、ここにおいてすでに、エリートとしての自己を否定した。それは、安藤昌益が字書・学問をすてて、野に下ったのと似ている。狩野は、その昌益の心を己のものとしたのであろう。

 真理を追究すべき学問の府が、政治権力の支配下となっていることを体験した狩野は、もはやそこに、自己の道を見つけることはできなかった。「学問の独立」という精神からほど遠い、近代日本の不幸がここにある。

 これでは、独創的人物も学問も育たない。狩野は超然として自己の哲学を保持し、官を去った。一人の「野人」の姿がそこにあった。平和主義を自己の生き方とした狩野は、その後ひっそりと鑑定業を営む。

 大正初めころ、後輩山本修三の(やすり)会社に関係し、多額の負債をせおうことになってしまった。このため、ついに万巻の書物を手ばなすことになる。すでにふれた澤柳政太郎が東北大学総長であったので、それは東北大学へ入り、今日に伝わっている。その数およそ十万冊といわれる。日本科学史・思想史研究の宝庫である。

 

十一 科学的鑑定家・狩野亨吉

 一九一九(大正八)年、書画鑑定業「明鑑社」を開く。哲学者狩野亨吉は、再び科学者となった。というのは、その鑑定学は科学的鑑定理論に立脚して、科学的方法により実施されたからである。日本の鑑定学は狩野によって確立されたといっても過言ではない。

 一歩一歩合理的に進行くところの科学的方法に依ることを正しく且つ穏なりと云はざるを得ない。実際科学はあらゆる事物を相対的なりと見る所に妥協の精神を包含し、個々の事物をそれぞれ必然的なりと見る所に、自他共存の雅量を発露するのであるから、これ程公平穏当なる見方をする学問はない。(「科学的方法に拠る書画の鑑定と登録」)

 狩野は「科学」は「あらゆる事物を相対的に見る」としてこれを公平なる見方としている。相対的とは絶対的なるものの否定である。科学の歴史はこの事を充分に教えている。真理と考えられていたものが、新しい事実の発見により訂正され、次々と新法則へと導かれてきたのであった。これは、狩野の倫理学における方法でもあった。狩野自身の言葉でそれを言えば「自分の哲学は強いていえば慚近の哲学(Philosophy of Accessibility)ということになる。自然科学の方法と一緒で、一つの法則が誤っていれば、又、別のを立てて行く。段々真理に近づいて行く」(国府種武「狩野亨吉」)である。

 鑑定に於ては、綜合的直覚的なる鑑賞に代ゆるに分解的推理的なる研究を以てし、一々の項目を研究するに当って単に視聴によるばかりでなく――本を読み人に聞いたりするだけでも大事であるが――必要が生じた場合には、更に進んで試験管を手にし顕微鏡を覗く如き純粋なる科学的方法に訴へるのである。(同前)

「狩野先生のところへ持っていくと何でもにせものになってしまう」と評判になるくらい、科学的鑑定法はその真価を発揮した。

 狩野は鑑定業を営みながら、自分の仕事を社会に役立てたいと考えていた。

 その鑑定学の真価を十二分に証明したのは、一九三六(昭和十一)年の「天津教古文書の批判」である。唯物論者を自認した狩野の真骨頂がここにある。その古文書が近代人の贋作(がんさく)であることを徹底的にあばき、その息の根を止めてしまった。そのようなインチキものをもって多くの人々を「如何はしき説教を以てする上に更に如何はしき副作用を以て人を釣り、陶酔迷溺(とうすいめいでき)せしめ、其虚に乗じて、成効を獲得」する者への果敢なる一撃であった。

 狩野は絶対なるものとしての宗教をいっさい認めなかった。しかし、その宗教にすがらざるを得ない人たちの境遇に対しては、きわめて同情的であった。

 同時に狩野は、マルクス主義の唯物論的、科学的性格に対しての理解を示しつつも、マルクスを教祖として盲信するような、教条主義に対しては、はっきりとこれを批判した。

 

十二 晩年の回想

 晩年に狩野は二つの座談会に招かれ、自己を語っている。

 一つは、一九三二(昭和七)年、唯物論研究会主催の「狩野博士に訊く」(『唯物論研究』創刊号掲載)である。ここであらかじめ用意されたプログラムは、

 一、日本に於ける唯物論

 二、日本に於ける自然科学

 三、進化論についての意見

 四、倫理学講義内容

の四項目である。これに対し、狩野は「第二と第四ですね。けれども第二で御免蒙り度いと思ひますな」と言い、第二の「日本における自然科学」から話をはじめることになる。

 関孝和とニュートンとの対比から述べ、話はしだいに天文学に移り、志筑忠雄・麻田剛立などが取り上げられる。物理学では、不破善五郎が紹介され、化学では広川(ひろかわ)()晴軒(せいけん))をあげ注目している。広川晴軒は『三元素略説』を著した幕末の独創的科学者である。

 戸坂潤の「物理学は何故発達しなかったのですか」という質問に対して、「矢張り東洋式のせいではありませんかね。支那のも同じようでありますが」「どうも東洋の方では、矢張りこの──物質を軽んずる、精神を重く見ると云ふやうな、その為ではありませんかね」と卓見を述べている。

 今日、日本では科学グラビア雑誌の爆発的流行を見ているが、はたしてこれによって独創的科学者が出現するかは疑問である。事物を根本的に考える人物こそ最も求められているのではないかと思う。

 話は第四の問題、倫理学に移る。狩野はここでそのエッセンスをわかりやすく語っている。

 ただ私は自由意志のない倫理学を立て度いと云ふのです。……それでは何で倫理学を立てるかといふと、良心といふものをそれに代へる。良心といふものが倫理学の土台になる。

 この自由意志こそは、カント哲学の中心問題であり、カントの道徳論の根幹である。狩野はその自由意志を否定して良心を立てる。狩野の良心論は今日あらためて注目してよいと思う。道徳教育が有名無実である今日、「良心論」をこれにかえてみてはどうかと考える。

 以上の「日本における自然科学」と「倫理学」は、狩野自身にとって生涯の中心課題であったといってよいと思う。

 もう一つの座談会は、一九三六(昭和十一)年の日本評論社主催の(『日本評論』九月号掲載)ものである。

 ここでは、狩野文庫のことからはじまり、「学生時代に日本の思想史と云ふものを調べて見たいと云ふ考がありまして、其の考が後まで幾らか影響して居った訳ですが、併し思想と云ふても単に哲学とか宗教とか云ふやうなことに限らないで、科学でも芸術でも皆入れてやる積りであったのですから何となしに集めたのです」とその書物蒐集によって日本思想史を科学も芸術も皆入れて研究するつもりであったという。特に江戸時代の思想の研究にはこのような百科全書的な知識と方法とが不可決であり、今日でも見習うべきものである。

 私が引張り出した人では、安藤昌益、本多利明、志筑忠雄、広川魯等皆忘れられて了った人なのです。是は古本を扱ふ際に発見したのです。さう云ふ人の書いたものを見て是は偉い人であると気付いたのであります。

 言うまでもなく狩野には「発見者」の素質があった。あの膨大な書物の中から、これらの人物を発掘するには、実に多くのムダがあったにちがいない。いかなる発見をも実に多くの犠牲の上にはじめてなされることは常識である。発見者の払った労苦の大なるを思うべきであろう。

 この座談会では、鑑定についても話題となる。狩野は「理論は明治二十五年頃考へたまま放擲(ほうてき)です。一つの応用として鑑定を思立ったのは震災後です」と語っている。明治二十五年といえば、四高に赴任した時期である。明鑑社は一九一九(大正八)年に開いているので、ここでいう震災後とは、鑑定への理論の応用、つまり、科学的鑑定方法の探究を思い立つたということであろう。「科学的方法に拠る書画の鑑定と登録」の発表は一九三〇(昭和五)年であるからそう考えてよいと思う。

 晩年の狩野においてさらに述べねばならないことは、後進の学者との交際とその影響についてである。戸坂潤、三木清、三枝博音などは、狩野の最も期待していた人物であった。

 特に三枝博音との交際が目立っている。これはちょうど一九四一(昭和十六)年に日本科学史学会が創立され(狩野は顧問として名を連ねている)、翌年に刊行された『日本科学古典全書』の編集などのためであろう。ちなみにこの全書の監修者は、狩野亨吉、桑木彧雄、小倉金之助、新村出である。

 狩野が逝去したとき、『科学史研究』第六号に八田三喜が「狩野亨吉先生」を書いている。短いものであるが貴重な名文である。

 狩野は、一九四二(昭和十七)年十二月、七十八歳で没した。太平洋戦争の最中であった。

 

十三 愛の力

 狩野亨吉についての大まかなスケッチは、これで終った。

 しかし、「何か、まだきわめて重要なことが欠けている」とある人は言うだろう。

 それは別に隠すほどのことでもないし、またことさら強調して騒ぎたてるほどのことでもない。私は、科学的に物事を考えた狩野の方法に従って、その事実と感想とを述べることとしたい。

 それは、狩野が没してからその遺品を整理した岩波書店の小林勇によって発見されたもので、小林の小説「隠者の焰―小説狩野亨吉」に詳しく書かれている事である。

 生前にすでに知られていたように狩野は、浮世絵や春画の類をも多数集めていた。それは、先入観によらず、あらゆるものを自分の目で確かめてみようとする姿勢にあったと思う。その狩野が晩年になって、自ら多くの春画を描いたのであった。

 この性慾学に対するの純乎たる科学知識がないならば、如何なる「科学」といえども解ろう筈はない。(土田恭示「隠栖の洪学・狩野亨吉」)

というように、狩野にとって性欲学は、実は科学的思考を体得するための前提であり、必須科目であった。

 思想など弱いものである。ピストルで打たれれば死んでしまう。力の方がはるかに強い。しかし、力が一番強いともいえない。愛の力がもっと強い。(国府種武「狩野亨吉」)

 この「愛の力」こそが狩野の晩年をとらえたのである。

 医史学者富士川(ふじかわ)(ゆう)は一九三一(昭和六)年に『性慾の科学』を刊行した。これは、科学的な性欲学の体系的本格的書物である。富士川を性欲学に目醒めさせたのは、ドイツを中心とする性欲学の一大ブームであったという。

 言うまでもなく、性慾は人間の生活の上に厳然として存する事実で、それが個人の上にも、社会の上にも又、人間の文化的発展の上にも重要の意義を有するものであるから、これにつきての研究は人間の科学の全体に渉らなければならぬ。すなわち生物学及び医学を始めとして、人類学、人種学、哲学、心理学、文学史及び文化史等に至るまで、すべての科学にして、性慾問題の研究に関渉せぬものはない。(『富士川游著作集』第九巻、所収)

 このように、すべての科学が性欲に関与するのである。

 哲人狩野は「愛の理論」をうちたてようとしていたらしい。未公開の英文手稿「Theory of Love」を残している。

 性欲を人間の生活現象としてとらえ、これを科学的、哲学的に考究する人は少ない。哲学者たるものは決してさけて通ることはできない。狩野は実に最後まで真正の哲人であった。

 

 本稿は狩野亨吉についての大まかなスケッチであり、本格的肖像画を描くための習作にすぎないことをお断りしておく。

 狩野について、さらに知りたい人のために必読文献を紹介しておこう。

① 安倍能成編『狩野亨吉遺文集』(一九五八年、岩波書店)

「安藤昌益」ほか、主論文を集録している。

② 鈴木正『狩野亨吉の研究』(一九七〇年、ミネルヴァ書房)

 狩野について最初の本格的研究書である。「倫理学講義」など貴重な手稿類が収められている。本章での引用もこれに助けられた。なお、第一部の研究論文は、『狩野亨吉の思想』(レグルス文庫)に収められている。

③ 青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』(一九七四年・明治書院、一九八七年・中公文庫)

 東大駒場図書館にある、狩野の日記、遺品類を調べて、伝記的な新知見を示している。

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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和田 耕作


わだ こうさく 思想史家。1951年1月、茨城県に生まれる。『安藤昌益全集』により、第41回毎日出版文化賞特別賞受賞。主な著書に、『安藤昌益と三浦梅園』(1992年、甲陽書房刊)など。

掲載作は、『安藤昌益の思想』(1989年、甲陽書房刊)に収録されている。

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