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詩集『ものみな声を』(抄)

静かな生

ヤン・フェルメール頌

鏡に向かう女の

乳白の壺からあふれくる

おだやかなひかりが

空間をしずかに膨らませてゆく

 

ふとあおいだ甍のうえ

おおきく翼の影がよぎり

一瞬 しろい画布に

指揮棒のひらめきを映した

 

錫の器は傾けられたまま

書物もまた開かれたそのままに

 

事物(もの)はみな

ふかぶかと響きをたたえ

それぞれの形象(かたどり)

いっせいに翻すときを待つ

 

ジョルジュ・ドゥ ラ・トゥール頌・「聖ヨセフ」

闇をなめるかろやかな舌

その歓びの舞踏のたかまりに

こめられた嘆き

 

身を灼きつくすことが

おのれを支えることと知った

知のかなしさ――

 

おのが舞を舞いとげる意志のゆえに

くろぐろと夜をにない

わが身に託された四方を

いつくしみ(まも)

 

見ひらかれた瞳の 昏さゆえ

いっそう欲してやまぬ

跳ね躍る

ひかりの律動(リズム)

 

ついに夜のきざはしにとどけと

ひたすら虚空にのびあがる

 

           そのとき

いきなり吹きつける悪意

崩れ落ちるいのり

おのが望みを呪うかのように

だが――

 

あらがいもつきはて

おくぶかい闇のかなたに呑まれるとき

暗転の一瞬にうかぶ

 

あかあかと透きとおる指のかたち

かききえる呻きを

いとおしむ 手の散光

 

受胎告知

ヨセフの夜

あのひとをくださる

ためらわず娶れと言われるのなら

むしろ わたくしに

すべてのひとをください

すべてのひとをいつくしむこころを

 

あのひとを

願わぬわけではないけれど

 

あのひとを想う心から

むしろ世界がひろがりゆくように

あのひとを慕ってやまぬ

ふかみから ものたちが生まれくるように

 

うつくしい腰も

ちふさも

蒼ざめたほとも

わたくしは きっと

あふれくるそのいのちのうちに(いだ)

 

おぞましく揺れるこころ

心のおくそこの澱みをおもえば

 

むしろ愛するという

そのひとことを語らぬため

すべてのひとをください

すべてのひとをいつくしむこころを

 

井戸

なんじは砕けたる悔しこころを(かろ)しめたまふまじ(詩篇五一篇)

水は渇いていた

渇いて重く澱んでいた

ひねもす呟くばかりのおのれがいまいましく

むしろ いっさいの形をはなれ

無限の深みへ飛びちっていきたかった

 

切られた堰のように

いっきに跳びこえられる障壁もある

しかし 越えいでようとする喘ぎが

そのままひとつの水面(みなも)をかたちづくることも

 

(――超える とは

視ることか

すべてありうるものをあらしめる

四大のひとつにかえったおのれを)

 

それはむしろこうであった

つめたく 地底に沸騰していた水が

はるかに ほのあかい丸窓をみつめ

もはや越ええぬあの輪郭

あれこそおのれだ と信じたとき

釣瓶は放たれいきおいよく墜ちてきたと

 

水はしずかに桶をみたしてやすらい

やすらいつつも引きあげられていく

 

(てのひら)のうちに掬ばれて

あふれる 水の痛み

ありうることか

いま 渇いた咽をうるおすとは

ああ 水は澄む このとき

 

釣瓶

われ渇く(ヨハネ福音書一九章)

釣瓶は渇く

ふかい渇きがつきあげる

虚空に吊るされたしずかな姿勢で

その不自由な位置にたえつづける

夜の頂に 白く縁どられた雲のながれ

地の底にこおる銀色の丸鏡

いずれからも はるかに遠く

ふたつの時に分かたれた境に

 

はじめの日は明けそめよ――

薄明を貫き

空洞の穿たれた時から

いくたび 果てと果てとを

行き来してきたことか

いくたび 微光だにとおさぬ

水底ふかく泡立つうめきを

営々と運びあげてきたことだろう

やがてその定まらぬ形が彼をはなれて

陽光におのれをうちあけるとき

いっせいに歓呼の声となってきらめく

ああいくたびその諧調を聴いたことだろう

 

(喜悦がこの身をもふるわすごとに

かつてあれほどに恐ろしく迫った定め

――いつしか天を支える縄は断ちきられ

闇ふかく箍はことごとくはじけちる

おお 定められたその極みの墜落こそが

いかなる希望にかわることか······)

 

釣瓶は渇く

ふかい渇きがつきあげる

夜の一点にとどまる

在処の祝福を省みるごとに

やがて彼をなげうつ者の渇きが

そのまま釣瓶のあざやかな形となる

 

葦舟

男子の生るあらば汝等これを悉く河に(なげ)いれよ(出エジプト記一章)

陽射しにあたためられた水面に

静かにさざ波の輪をひろげて

近づいてくる女のすあし

美しいそのふくら脛のかたち

    日に灼けたしなやかな腕が

    いましもわたしを水面から取りあげる

 

    昼の凪にしずまりかえる河のほとり

    葦の葉の生い茂る陰にたゆたい

    ひさしくわたしは夢みていた――

 

瀝青と樹脂を塗ったわたしの臥所(ふしど)

願われなかった命のように

その子は来た

      うちよせる波濤にゆれる嬰児の屍

   漂いゆくあまたの腐乱の手足

ふかぶかとうねる

その夜の叫喚をくぐり

わたしの縁が軋みはじめたころ

闇はなおその子のうちにまどろみ

まだその耀(かがよ)いに目覚めてはいなかった

 

――王宮の薄暗い回廊をぬけると

いきなり剥落したひかり

記憶のまばゆい打擲が

そのひとのすずしげな眼差しを

一瞬はげしく焦がした

 

    そのひとは往く

    わたしの託した未生の闇を負い

夕と朝のあわいに穿たれた世界の裂けめから

法と剣のおさめる夜の王国をはなれ

幾世紀もくりかえされる

惨劇をぬけ――

だが

担いゆく闇の深さこそは

なおいくばくかの望みのよすが

    わたしの臥所をはなれ

    紫の衣にくるまれたのちも

    そのひとはまだ瀝青の臭いがした

 

    いまなおわたしは夢見ている

    どこにつづいていくのか

    わたしのたゆたう

    この流れは

ときおり水面に

浮かびあがるとき

なおも波間に

ただよう血の臭い

沈みゆく夕日の中に

時の照りかえしをうけて

わたしの吃水はゆれている

 

石の柱

ヤコブの生涯

陽炎にゆれる地の風紋に

わずかに頸の先ばかりをのぞかせて

すりへったこの禿頭をさらしていると

熱のまとわりつくこの褐色の空間が

どんなにすみきった青へと開かれていくか

そいつはまるで嘘っぱちの口上のようにひびくが――

 

人の生き死にとはそも嘘ではあるまいか

俺の()つこの姿勢にゆかりの男

あの男が郷里にいられなくなったのはたしか

その嘘のおかげとかいう話だ

虚言癖という病もあるが

あの男の場合 いささか度が過ぎたらしい

 

虚言とは ことばの腐れか?

さわればたちまち金の麺麭(パン)という

ミダスの悲喜劇に通じるといえば体裁もいいが

ものごとすべて 名指されるそのはしから

亡霊のような姿で這い出してくるとしたら

やはり気が滅入ってとてもやりきれるものではなかろう

 

どこかあの男の一生には

おのれの言葉に逐いまわされて

つぎつぎと在所を移していったふしがある

すりぬけやりすごす才には長けていた

おかげでえらく財産をこしらえて

正室(かかあ)をふたりも娶るはめにおちいったけれど

 

まるで嘘のように人の生き死にが決まることもある

なんでもこの俺を枕としてうとうととした宵に

奴はえらく神々しい夢を見たらしい

虚実の秤がひっくりかえったか

天の彼方から梯子がするするとのびてきたという

俺は天使など見はしなかったが

 

だがあの男の場当たりな身の処し方にも

背骨のようなものがひとすじとおったとしたら

それは方便とはまた違ったものだろう

なんでも後の日に誰ぞと格闘して

腰のつがいを砕かれたというではないか

なまくらな骨だったら折られることもなかったろう

 

晩年には長老らしくえらく先の方まで見通した

十二人もの子宝に恵まれて つぎつぎと

子々孫々にいたる祝福と呪いを述べるあのくだり

それにしても あの終わりの日にいたる系統樹を

まさしく天からおっこちる梯子のように

垂直に断ち切ったあの突然の祈りもとめ*

 

あれは大見得をきったわけではあるまい

言葉よりもなによりも沈黙に似たその遮断

どこまでもくすぶり続ける自堕落なあの男のことだ

これで一切を焼きつくしてご破算とはいかなかったが

泥炭の炎のように燃える魂というのもある

泥砂にともるあのちろちろとあおい鬼火のように

*ヤハヴェよわれ汝の救済を待てり(創世記四九章一八節)

 

銀貨を抛つ

友よ なぜ来たのか

とはいささかうろたえた

そんな問い方はない

なぜもくそもあるものか

 

抛ったのは礫ひとつ

断崖を弾みにはずんで

ついには山塊ひとつがことごとく

あっけなく雪崩れておちていた

 

はじめてだ

あんなに恐ろしいくちづけは

足下に幾尋の深淵を踏む心地とは

まさにあのことだった

 

白日のまぼろしに

闇に伏すあのひとを見た

そのくちびるはくりかえし

誰かの名を呼んでいた

 

俺のことだとすぐにわかった

俺のために傾けられた杯を

あのひとが飲みほしていた

ひたいから血の汗を滴らせながら

 

あのひとが俺を視つめていた

だがそれがどうだという

ほかに応うべき何が残っていたか

なすべきことを為しとげるほかに

 

祭壇の背後にうすぐらく

反響のくぐもるひとところ

悪意を抱くように俺を見つめ

誰かがそこにうずくまっている

 

意味もなく抛たれるこの銀貨

俺の存在もそのようなもの

不可解でばちあたりな命だ

惜しくはない くれてやろう

 

だがきっと俺は高くつく

同類か手下の値づもりだろうが

おまえにとってこの俺は

苛立たしい分捕りとなろう

 

おまえの悪意よりも遙かに暗い

隠れた神の深みにとどく

あのひとの見えない闇に

俺はどこかでふれているのだ

 

方舟

されど預言者ヨナの徴のほかに徴は与えられじ(マタイ福音書一二章)

未踏の山系の奥ふかく

風ふきすさぶ堆積岩の頂に

わたしの舳先は黄道の向きに傾いて

天の十二宮を指ししめす時の針のように

陽の戦車(いくさぐるま)の軌道をかいくぐる

 

わたしの父とはあの男だ

生きとし生ける者の

避難の(ふね)を築いたがゆえに

伝説に名をとどめる男

信仰の鑑の系譜につらなり

(いにしえ)の書物にその勲を称えられているが*1

彼もまたシーシュポスの境遇にひとしく

おのが労苦と折りあわぬ想いを

密かに抱いていたのではなかったか

むしろその無言の従順

その抗議を込めたわたしの建造は

ヨナの盟友の証ではなかったか

ヨナほどに分別を失うことなく

鯨の腹にまで彷徨を重ねることもなかったが

 

神々しき力の打擲

その聖痕を知らぬ歌

あらゆる人間学はつまるところ

拙劣な慰撫にとどまるであろう

わたしの漂流の意味をたずねんとして

森羅万象をたくみに解きあかし

人は幾千年を費やしてきたが

邪推をいくら連ねても

パンドーラの逸話ほどの気散じにもならぬ

四十余日の氾濫はやはり

拒まれた対話へののちの応報か

それとも類いまれなる贈与であったのか

そののち彼は終生

おのが命を淵ふかく呑みこんだ

大波のとどろきを独り聞いていた

 

ひとつの(アイオーン)の夕暮れに

くっきりと天涯を趨りぬけた

ひとすじのひかりの航跡

透きとおったそのプリズム偏光は

無数の雫となってわたしの甲板に注ぎ

わたしを象って巨大な(ひつぎ)に変えた

その徴は海溝ふかく舞いつもり

やがて葦の海を(あけ)に染め

水底に叛逆者ヨナの呻きを刻んだという*2

呼び応える深淵のうねりのそこで

創世の大いなる悔いをたたえた潮位は

はたして裏切られても裏切れぬ

掻き乱された摂理の激情を語ったか

いまもなおわが身に反響する

あの男ノアの胸底に(ほとばし)った沈黙の叫び

破船こそはおのれの魂の希求であったと――

 

蒼穹(おおぞら)のうえの水も

とうに涸れはてたこの世紀

傾いた墓標のように

ひとり惑星の公転の響きを聴きながら

わたしはなおもひとつの歌を発信しつづける

破船こそは人への究極からの亀裂であると――

*1 ヘブル書一一章七節
*2 コリント前書一〇章二節・ペテロ第一書三章二〇節

 

石櫃

汝ら此の宮をこぼて(ヨハネ福音書二章)

聴けと唱える声がする

この朝もまた

 

ひとは待ち望んでいるのだ

神殿のなかに臨むという

すぎさらぬものの輝きを

(拝するものは

(こうごうしきもののそびら

 

ふりかえれば

ついにわたしは空虚であった

かつて掟の名で

このうつろに託されたものもまた

朝靄のなかの

執心の像にひとしく

 

そのむかし

乱れおどる人々に背を向けて

地団駄をふんだ男も

さげすむ妃のまえで

踊りおどってやまず

歌う王と頌えられた者も

 

いままた

聴けと唱える声がする

 

ついに(ひつぎ)のかたちに似て

活きた畏れを圧し

聳えたつこの(きよ)き宮

(拝するものは

(おのが密かなる願いのうちに

 

むしろ聴け ひとよ

あたらしい世界の

雑踏にひびく

このとおい石の記憶を

沓を脱げ ひとよ

きみの()つ都会の

そのひとところこそ(きよ)ければ

 

ピエタ

ミラノ スフォルツェスコ城の――

とおい日に 祝福の眼差しを集め

まえの皮をひらいた刃は

いま儀式が閉じられたのちも

かたちなくかれの心臓に突きたてられたまま

かわいた傷跡をとおして

祭りの闇がかれの体内に浸み入ろうとしている

 

あらがいを知らなかった犠牲のまえに

ことばもなく

世界が息をひそめているときに

わたしが呆然とみたされているのは

わたしのなかで

裂かれたかれの体がゆるやかに語りはじめたから

 

ついにわたしにかえされたかれのからだを

揺りかごのように抱いていると

かの日 よろこびの胎動のうちに

聞いたのはまさにこのひびきのことだったとわかる

いまこそ 臍帯を断ち切り

かれの死がひとりで生きはじめようとしている

 

こんなにもゆたかにあふれくるものを

死と呼んでよいのだろうか

こんなにも無惨にあふれくるものを――

精魂込めて織り上げた布地を

てずから断ち切るもののこころは

どれほどのいかりに動かされているのだろうか

 

それとも いまわたしの腕に添うように

ひそかにかれを揺すっているのは

あなたのみ手なのだろうか

世界にみちみちる呻きを湛え

わたしとかれの周辺(あたり)だけが明るくへだてられ

あなたのみ手を揺すっているように

 

Magnificat

見よ

鳥たちの

空のふかみに

どこまでも透きとおる

水の影を

 

ひろがれ かなしみよ

おおぞらの

水の おもてをおおう

風のそよぎのように

雲をいだき

 

はるかに

みちみちる囀りよ

ひとつひとつ舞いくだり

浸み入れ ふかく

冥い石の(むろ)

 

わたくしの

あたらしい子宮(ふところ)

 

かれの眠る夜の羊水(みず)のなかに

久しく 魚のとき

星の時をかさね

 

よみがえれ

ついに

すみわたる囀りよ

あたらしき人の子の

闇の堰をうちやぶるとき

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2019/04/27

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川中子 義勝

カワナゴ ヨシカツ
かわなご よしかつ 詩人 1951年埼玉県生まれ 詩集に『廻るときを』(2011年10月、土曜美術出版販売刊)ほか。

掲載作は詩集『ものみな声を』(1999年12月、土曜美術出版販売刊)よりの抄録である。

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