風の鳴る北京(抄)

目次

第1章 父と母、そして中国

 両親と横浜

 華北へ

 通洲事件

 父と中国の研究者たち

第2章 懐かしい北京の日々

 北京の友人たち

第3章 父の遭難と帰国

 憲兵隊事件

 日本の敗戦と父の釈放

 最後の面会と引き揚げ

 

 

第1章  父と母、そして中国

両親と横浜

 昭和五年から十年までの横浜で暮らした五年間は、両親にとっては、貧しいながらも希望に満ちた楽しい日々ではなかったかと思う。 昭和六年九月に満洲事変が起こり、日中の情勢は刻々として緊迫していたが、父は新聞社に通いながら、中国問題の研究に没頭していた。

 昭和九年──私が生まれた頃の古い雑誌をひもといてみると、ゾルゲ事件で知られる尾崎秀実氏(当時は朝日新聞社)が『中央公論』や『改造』に中国問題を執筆して論壇を飾っているが、尾崎氏に次いでそれらの誌面に父が登場している。父の文章を引用すると、「尾崎君は主として、国民党の分析とか、国民政府について華麗な筆を揮っていたが、満洲および華北については全然といってよいほど触れなかった。私の書く範囲は満洲、華北の社会経済関係についてであった。」

 それから幾年かののちに、北京の家に訪ねてきた尾崎氏との、宿命的な出会いがあろうとは、この頃の父の知る由もないことだった。

 また、年老いてからの父と母が、よく夕食の鍋ものをつつきながら語った思い出草がある。

 横浜の家に、父と母は一人の本格的な共産党員をかくまうことになった。もっとも、父が友人から、ある人物のめんどうをしばらくみてほしいと頼まれたときは、その人が共産党員とは露知らなかったらしい。独り者の風来坊で、お金もなく、行き場所がないのだろう、ぐらいに安易に考えていたようだ。のん気な夫婦は、家族が一人増えたぐらいのつもりだったのだ。その彼は、赤ン坊の私の子守りも実によくしてくれたそうだ。

 しかし、だんだんに父母は感づきはじめた。なぜなら、家に客が来ると、いま茶の間にいたはずの彼が急にいなくなる。きっと遠慮して、どこかへ散歩に行ったのだろうと思っていると、客が帰ったのをみはからって、スルリと押入れから出てくる。その早わざは忍者の如きものだったそうだ。また、「ちょっと出かけてきます」と言って玄関を出ると、すぐに姿が見えなくなる。あるとき父がそっとあとをつけてみると、どこを、どう通ったか、あっという間に、もう彼方のあぜ道を、背を丸くして足早に歩いていた。それでも父母は黙って世話をしていたが、一ヶ月ほどして、いよいよ彼は出て行かねばならないことを告げた。

「長いことお世話になりました。二、三日うちに遠くに行くことになりました。行き先はどうか聞かないでください。その方が梨本さんご一家のためです」

 両親は彼との最後の別れに、私を連れて横浜の海に一日を過ごすことにした。行きも帰りも、彼は電車のなかではけっして両親とはいっしょの席には座らない。海岸でのみいっしょに泳ぎ、いっしょにお弁当を食べた。

「梨本さんのご恩はけっして忘れません。どんな時、どんな所にいても、梨本さんに何かが起きたら、私は何をさておいても飛んで行きます」

 そう言って去っていった彼だが、その後ついに一度も姿を現わさなかった。父は憲兵に捕えられて殺されたものと思っていたようだ。

 官憲の目の厳しい当時のことだ。何かが起きれば父とてそのままではすまなかったにちがいない。父と母のお人好しもここまでくると度が過ぎているのではないか、という気すらする。しかし、こうした危険極まりない思い出も、年月の流れの前には、両親にとって忘れえぬ懐かしいものだったようだ。

 また、父と母は小さい私を連れて、しばしば夕暮の横浜の外人墓地を散歩した。いまでは墓地の隣りに「港が見える丘公園」というモダンな公園ができていて、若い恋人たちがエキゾチックな雰囲気に浸りながら、青春の息吹きに陶酔している。そんな公園の隣にある外人墓地は、甘い雰囲気とは対照的に静かな沈黙の場所だ。

 私はこの小高い丘に佇んで、父母の話を思い起こしながら船の灯を眺めるのが好きだ。横浜は私が生まれた所、父と母が夢多き日々を結んだ所なのだ。

 遠く、はるけく点滅する船の灯が海の彼方の思い出を呼び起こし、しきりに昔を語りかけてくる。しだいに私は途方もない幻想に耽りはじめる。

 あの船はギリシア神話のなかの幽霊船ではないだろうか。あの船には死ぬことを禁じられた一人の船長が乗っていて、長い漂泊のさなかにこの横浜の港に流れ着いたのだ。生きることに疲れ切った船長は、外人墓地に眠る人たちに羨望の想いをもってあの船の灯を点滅させている。〝死は永遠のやすらぎ〟と船長は訴えているのだ、と。

 思えば、北京にも朝陽門近くに日本人墓地があった。いかに多くの人びとが祖国への熱い想いを胸に、その墓地に瞑目していたことだろうか。どこかで運命の歯車がちがっていたら、私も中国大陸にこの命を散らし、かの地に埋もれていたかもしれないのだ。

 他国の地に人生の終焉を迎えた人びとにたいしては、満洲に生まれ満洲に育った母には、ひとしお深く胸に響くものがあったのではないだろうか。

 痛みをも伴うこの名状しがたい想いを、私は胸のなかにひしと抱きかかえる。そして徐々に静かに噛みしめていく。

 この墓地に眠る人びとは、それぞれにどのような人生を生きたのだろうか。はたして何人の人が幸福だったと満足して逝っただろうか。無念の思いに歯ぎしりして逝った人もいたのではないか。祖国への帰心矢の如き心をどうすることもならず、すべてを神に委ねて死出の旅路についた人もいたにちがいない。人生は流転して合縁奇縁をもたらすものだ。

 海面(うなも)にさわぐこの波のうねりは、きっとすべての涙も、すべての苦悩も、運び去っていってくれるだろう。いま、私はこの外人墓地に眠る人たちの魂が、波の間に間に守られながら、それぞれの愛する国に送り届けられることを祈ろう。

 まだ若かった父と母が、茜色の空に沈みゆく夕日を背にして、肩を並べて歩いてゆくシルエットが思い浮かぶ。ちょこんと小さなつむりが二人の間からのぞいている。この坂道とこの丘があって、私は遠いありし日を偲ぶことができる。

 

華北へ

 昭和十年八月のある日、父は松岡洋右氏より、千駄ヶ谷の自邸に呼ばれた。そこで松岡氏は、父に華北に行くように命じた。そのときの松岡氏の言葉は『中国のなかの日本人』にこのように記されている。「梨本君、君は急いで華北に行け。華北は必らず紛糾する。蔣介石は並々ならぬ政治家だから、共産軍を勦滅して完全に統一が終るまで日本と戦うことを避けているが、華北は満洲のようにはいかない。そんなことをしていれば自分の地位が保てない。いつかは勘忍袋の緒を切ることは間違いない。日本と中国が戦えば、世界は殊にアメリカは中国に味方する。世界戦争は避けられない。華北にいて、日中間の動きを見ることが、今、一番必要なのだ」

 この松岡氏の言葉からも、満洲事変後の華北が、世界戦争の導火線ともなりかねない、重要な地点であったことが察せられる。

 横浜の藤棚の暮らしに終止符を打った父は、野村の祖父母の待つ満洲本渓湖の家にひとまず母と私をあずけることにして、再び玄海灘を渡った。まだ一歳半の私にとって初めて越える海の旅はいかなるものだったのか。おそらく、母の胸のなかで、私は安心し切って眠っていたことだろう。

私の記憶が少しずつ目覚めはじめるのは、天津のホテル暮らしの頃からである。それまでの経緯については、もう祖父母も両親もこの世にいないいまとなっては、私の記憶に残る祖父母や両親の会話をもとに書き綴っていくしかない。

 母の語るところによると、私たちが小さな本渓湖駅のプラットホームに降り立ったとき、辺り一面は雪で覆われていた。その白色の視界のなかに、長身の祖父は黒の外套に身を包んで、私たちが列車から降りてくるのを待っていた。祖父はプラットホームに降り立った母の腕から初孫の私を抱きとると、涙を浮かべて頬ずりをした。十六歳で天涯孤独となった祖父には、身内が増えていくことが何にも増して大きな喜びだったのだろう。

 いま、往年の祖父の写真を眺めていると、私は鼻ひげを生やした祖父の気品高い風貌から、トルストイの『戦争と平和』に登場するアンドレイ侯爵のイメージを思い起こす。

 本渓湖では三年ほどの間、私たちは祖父母の大きく暖かい庇護のもとに暮らしていた。

 満洲の冬の寒さは周知のことだ。私は小学校に入ってからも、休みになると度々この本渓湖の家に遊びに行ったが、満洲の冬の寒さはとても北京の寒さとは比較にならないといつも思った。当然、野村の家も外気の冷たさを防ぐために、窓という窓はすべて二重に造られていた。ぺチカやオンドルや、いかつい形のストーブが部屋ごとに備えられていて、いつも赤い炎が絶やされることなく燃えさかっていた。台所を通って裏の庭に行くと、庭の片隅に石炭がうず高く積まれ、その石炭の山には何本かの大きなスコップがつき立てられていた。

 祖父は、従業員たちが出勤してきたときに寒くないようにと、毎朝四時に起きてこれらの暖房器具に火をつけるのが日課だった。この習慣は、日本の敗戦のために仕事を中止するまで続けられた。およそ四十年近い歳月の間、祖父は午前四時の起床を欠かしたことがなかっただろう。祖父は本当に意思強固で誠実な人だった。その野村一郎と無類の世話好きの野村やすを、この二人は私にとって、いまもかけがえのない自慢の祖父母なのだ。

 この間に、父は一人天津で、仕事のかたわら中国語の勉強に励んでいた。『中国のなかの日本人』を読むと、この頃の天津は、軍人たちの権謀渦巻く、憂うつ極まりない所だったらしい。父はこう記している。

 昭和十二年一月中旬、正月を本渓湖で過した私は、また天津に戻ってきた。そこにはいぜんとして土肥原、田中等はもとより、その小型の謀略軍人輦が、まるで魑魅(ちみ)の如く、中国のどこかにもぐりこんで攪乱工作を行なっている。それを材料に関東軍か駐屯軍かは文句をつける。まるで街の無頼の徒と少しも変らない。蔣介石にしても、中国の民衆にしても隠忍には限度がある。もし日本と中国とが全面的な戦端を開くとなれば、世界は、殊に、アメリカは中国を支持することは明らかだ。勝敗は別として、日本は世界を相手に戦うなんて、実に馬鹿気きっている。……

 この年の七月七日、盧溝橋事件が勃発。父は知らせを受けると急ぎ司令部より廻された自動車に乗って、池田純久参謀とともに夜明けの道を盧溝橋に向かって疾駆した。じりじりと戦争の泥沼にひきずりこまれていくプロローグのような事件の数々を、父は身をもって体験しなくてはならなかった。そのなかには、一般にはまったく知らされていない事件も数多くあった。日中関係は停戦協定の見通しがつくやに見えたかと思うと、またもや衝突するという、まさに混迷の状態を続けていた。

 七月二十五日に郎坊で、次いで二十六日に北京の広安門で、日中両軍は激突した。日本軍は北京およびその付近一帯の明け渡しを中国側に要求したが回答を得られず、ついに二十七日、軍事行動に踏み切ったのだった。

 

通洲事件

 こうした情勢のなかで、通洲という都市に不穏の空気が漂っていた。池田参謀は父に、即刻通洲に行って長官殷汝耕に会い、市内の治安に全力を尽くすことを要請するよう命じた。あのとき、殷長官が池田参謀の深慮を即座に察知していたなら、あるいはあの悲惨な事件は避けられたかもしれない。事態を的確に把握し判断する英知に乏しい人間が指導者として立ったとき、その愚かさからもたらされる悲劇の犠牲者となるのは、常に大衆であることは歴史が証明している。

 残念ながら、殷汝耕は時局の認識がまったくなかった。父は、この長官の政治的感覚の鈍さにサジを投げたと書いている。また、こんな男を華北工作の第一線に立たせている軍の浅慮さにも憤りを感じた、とも言っている。

 父が通洲に行ったのは七月十二日、盧溝橋事件の直後ということになる。こうして父は、かの忌わしい通洲虐殺事件の渦中に巻きこまれていったのだった。

 通洲事件というのは、日頃、日本に不満を抱く中国軍の兵隊たちが、暴動を起こし、通洲に住む日本人を老若男女を問わず、ほとんど皆殺しと言ってよいほどに惨殺した事件である。母と私がまだ本渓湖で野村の祖父母の世話になっていた頃のことで、現代のようにニュース網の発達している時代ではないので、祖父母も母も、父が出向いている通洲で、そんな大事件が起きていることはまったく知らずにいた。

 私が小学校に入学した頃でも、この通洲事件は、さかんに大人たちの話題にのぼっており、その話から知られる残虐さには、耳を覆わずにはいられなかった。

 ここに父の記するところを引用する。

特務機関で奇蹟的に助かった一人の男に行き会って、特務機関殲滅の状況を聞いた。

 ──特務機関長細木中佐は、この夜北京から避難してきた芸妓二人を相手に酒を飲み、二人の女を左右に侍らして素ッ裸で寝ている所を殺された。特務機関はこのようなことのないように、事前に対策を講ずる機関だ。この頃のような緊迫した時期に、芸妓を相手に酒を飲んだり、芸妓を侍らして寝たりしているから、こんな騒動が計画されてもわからなかったのだ。前からこの男に関するいろいろな噂は、私もたびたび聞いたことがあるが、冀東という中国側では一番に狙っている危険地区に、こんな男を特務機関長にしておく軍に責任がある。天津にあって、連日輦察政務委員会や第二十九軍の首脳者たちとの折衝に努力している池田参謀さえ、中国には経験が浅いにかかわらず、冀東の危険を予測して私をわざわざ殷汝耕のもとにまで使いさせているではないか。それを特務機関長として予知することも、事前に対策を講ずることもしないで、酒と女に溺れていたということは、日本の上級軍人がいかに腐敗しているかということでなくて何だろう。私は無性に腹が立ってならなかった。さらに私をして驚き、悲しみ、憤激せしめたものは、牛や豚の屠殺場における日本人の大量虐殺だった…… 。反乱部隊は、女という女はことごとく凌辱し、抵抗する者はその場で射殺し、残虐の限りをつくし、捕えた日本人男女三百八十余人の鼻を針金で通して、まるで牛でもひいていくように、この屠殺場に連行し、泣き叫び、助命を懇願するのを尻目に青竜刀を揮って一人残らず惨殺してしまった。……

 これは、私が大人の会話から洩れ聞いた話だが、そのとき何人かの女の人は両足をそれぞれ二頭の馬の足にくくられ馬に引きずられていく。ある所まで来ると、馬は急に左右に分かれて走り出す。くくられた女の人の股は割ける。身の毛もよだつ恐ろしい光景だ。いまでも、通洲事件で惨殺された三百八十余人の命の絶叫と慟哭が、耳をつんざいて響いてくるように思えてならない。

 しかし、父は奇蹟的に生き残って帰ってきた。命のあった日本人は六、七人ぐらいではないかと聞いているが、それは父の機転に従って、血路を開いて日本の守備隊に逃れた人たちだけということだった。あのとき、父が暴動の餌食となって殺されていたなら、その後の母と私の人生はどうなっていただろうか。

 私は、父が生きて帰ってきたということを、単純に運が良かったという安堵の気持だけで片づけられない。生き残った者の家族として、せめて、私にできることは、いや、しなくてはならないことは、亡くなった方々に回向を手向けるということ。もはや歴史の彼方に忘れ去られてしまいそうなこの事件の犠牲者の魂が、安らかに眠るよう、私は回向を手向け続けたいと思う。

 

父と中国の研究者たち

 私は、北京の生活を語る前に、この頃から父の学問的方向づけに大きく関与し、影響を与えた中国人との交友関係を辿ってみたいと思う。

 そういう角度からみたとき、最初に朱華が登場する。朱華氏は、父が満鉄の天津事務所に籍をおき、日本租界のヤマトホテルに泊っているときに、新聞の人事往来で知ったと言って訪ねてきた、『大公報』の記者だった。復旦大学を卒業して、当時の中国の一流紙である『大公報』に勤務していた彼は、政治的な感覚の鋭い並々ならぬ秀才だった。

『大公報』は強烈な抗日を掲げる新聞だったが、その若き記者である朱華氏と、松岡洋右氏の意向を受けて大陸にやってきた父とが、それぞれに相手を師として勉強し合うことを約束した。朱華氏は日本を知るために、父は中国を知るために、国は違っていても、その目標とするものは共通していた。

 この朱華氏から、父は南開大学の方顕廷教授を紹介された。南開大学は当時、中国で唯一の経済学専門の大学だった。一九三二年に同大学では、ロックフェラー財団の調査費の寄付を受けて資料作成を行なった。中国経済のあらゆる分野でのこの実態調査報告は、世界の中国経済研究家にとって必読の資料となったという。

 俊秀なる方顕廷教授から、父は満鉄調査部による冀東地区の実態調査を依頼された。このときの方顕廷教授の言葉をそのまま引用する。

「南開大学の経済研究室では華北経済の実態調査をやって、もう終りかけになっているのですが、冀東地区はご承知のような政治関係にあって、この大学では入ることが許されません。それで満鉄で冀東農村の実態調査をやっていただけませんか。満鉄の冀東農村実態調査と南開大学経済研究室の華北経済の実態調査ができれば政治の方向は自然と決定されます。今、華北でこんな学問上のご相談のできる日本人はあなたのほかはありません」

 この調査の経緯については『中国のなかの日本人』に詳しく記されている。当代一流の学識者塩谷安夫氏 (ロッシング・バックの訳者)や井上照丸氏 (マジャールの訳者) を筆頭に、約二ヶ月にわたって部落から部落へと調査はくりひろげられていった。最初は恐がっていた中国の農村の人たちも、やがて温かい人柄のこれら調査部員たちに心を許して、慰問品を楽しみにして待つようになった。

 当時、こうした調査がいかに必要とされていたか、また必要であるがゆえにいかに高い評価を得ていたかは、激しい抗日を唱えていた北京や天津の中国学生団も、このときばかりは鋒先をおさめて協力の姿勢を示し、中国共産党の民族先鋒隊も妨害をさしひかえて見守っていたことに、如実にあらわれているといえよう。

「梨本先生、学問に国境はありません。軍人や政治家達がどんなに騒ごうと、おたがいに学問に志を寄せる者は、そんなことに関係なく学問を通じて中日間の協力、中国の革命、世界の平和に貢献することが使命です。現在の政情より考えてみるときは、今後いよいよ華北は動乱の巷となることは間違いないと思います。しかしおたがい、あくまで学徒として、学問に立脚して友誼をつくしましょう」

 父は、こう言う方顕廷教授と、学問を通じて変らざる友誼を固く誓ったのだった。

 それから後、昭和十二年の盧溝橋事件、通洲虐殺事件など、相次ぐ事件の勃発に多難な月日を過ごした父は、忘るべからざる人を忘れるともなく忘れていたと述懐しているが、ある日、突然の朱華氏の訪問によって、方顕廷教授の身辺に危険のあることを知らされた。父の文章をそのまま引用する。

 二十七日に日本軍が中国側に最後通牒を発して、北京、天津およびその附近の明け渡しを要求した時、第二十九軍は日本軍との戦いを覚悟し、南開大学を天津奪取の拠点とした。ここに野砲、迫撃砲の砲列を布いて、日本租界にある中原公司 (天津第一の百貨店) の建物を目標に砲撃を浴びせる準備をしていた。このことを知った日本軍は先手を打って飛行機から猛烈な爆撃を行い、これを紛砕してしまった。これがため南開大学は灰燼に帰し、南開大学といえば、戦争とは何の関係もない教授でも学生でも、一様に抗日分子と見なされて逮捕の手は伸びた。教授はやむなく必要書類だけを持ってフランス租界に隠れ、そのことを朱華に連絡してきた。

 父は早速、赴任したばかりの大城戸参謀に方顕廷教授の身の保全を頼んだが、けっきょく聞き入れてもらえなかった。それどころか彼は逆に、居所がわかったら逮捕すると言いだす始末だった。方顕廷教授ほどの学者を圧迫することは日本のとるべき道ではない、日本の文化性を示すためにも教授を守らなくてはならない、そう判断した父はいたし方なく方顕廷教授のために当座の資金を朱華氏に託し、教授の身の安全を守ることを頼んだ。さいわい教授は、家族とともにフランス租界の埠頭からフランス船で出帆し、上海で乗りかえて香港に向かうことになった。

 それから約二年の歳月が流れた。その頃、白楊社から『北支農業経済』が出版された。父の処女作であるこの本は、第十二刷まで版を重ねた。そうしたときに、北京の家に揚錦南という北京大学の学生が訪ねてきた。

 揚さんは『支那経済研究』という上下二巻の部厚い本を持ってきたが、それは方顕廷教授の著作だった。

「教授はいま、どこにおられるのですか」

「先生はただいま、重慶におられるようです。最初香港においででしたが、そのうち、蒋介石委員長に招かれて、重慶に行かれました。非常にお元気で勉強しておられるそうです。この本が、今日梨本先生のお手許に届くまでには、ずい分危険をおかして、重慶から北京まで来たわけです。次から次に何人かの手を経ております」

 この本を読了した父は、ただちに翻訳を思い立った。

「今や日本に中国の経済研究家は数多い。殊に中国新政権の発展、戦争の前途、蔣介石のゆくえなどは、日本国民の最大の関心事だった。これらについての正しい見透しは、正しい資料なくしては不可能である。私はこの『支那経済研究』こそ、そのための最適の資料ではないか、と思った」と父は書いている。

 揚さんと満鉄部員を助手として、三千万語以上にのぼる翻訳が三ヵ月あまりで完成した。四百字詰原稿用紙六五五二枚にのぼるこの原稿が改造社から一書となって上梓されたのはこの年の十一月十六日だった。

 前に方顕廷教授の提案によって冀東地区農村調査を実行し、今度は『支那経済研究』の翻訳を完遂した。 教授と父の出会いからこの翻訳まで、わずか三年あまりの年月であり、直接言葉を交した回数もけっして多くはなかった。険悪な日中情勢のなかにあり、ほとんどが朱華氏を介し、また揚錦南氏を介しての絆だった。しかし、こうした緊張感のなかにありながらも、国境を越えて学徒としての友誼を誓ったその成果が、幾多の難関を乗り越えて、結実した。

 激動の時代に、のちの世代に歴史的事実を証明するためでもあるかのように、さまざまな局面に対峠して、その適格な判断力と勇気を評価されてきた父だが、私は一方、研究の分野で、中国の人たちとの友情の上に咲いた人間同士の熱い信頼に注目したいと思う。

 

 私たちが天津から北京に来た昭和十四年の終わりから十五年の正月にかけては、父は太平天国の研究に専念していた。

 父はこう書いている。

 研究を始めてみると、太平天国は実に興味深い。広東省の一農家に生れた洪秀全が一八一五年キリスト教を奉じて清朝の専制政治に叛き、たちまちの間に貧農層を糾合して揚子江沿岸を風靡し、南京を首都として太平天国を建て、十五年間政治を行なった。この革命の勝利の蔭には、農民の土地問題が伏在していた。このことがわかると、太平天国は、いっそう私に近いものになった。陶希聖のメモに記入されてある解釈は、学問的にも極めて水準の高いもので、私は方顕廷教授といい、陶希聖といい、中国学者の業績の高さに、今更のように感嘆せずにおられなかった。

 この父の文章は、非常に感慨深い。前にも書いたように、私は学問的研究分野での、父と中国の人たちとの交流の経緯を追ってみたい。

 父と陶希聖氏は、父が汪兆銘新政府樹立に奔走しているときに知り合った。

 汪兆銘氏の前に、父は王克敏氏の新政府樹立に力を貸し、その失敗の余韻が消えぬうちに、またもや海軍より強い要請を受けて、汪氏の新政府樹立に尽力せねばならなかった。海軍の須賀彦次郎大佐の熱心な説得にたいして、父はこう書いている。

 とうとう私の心は動いた。軽率浅慮といおうか、雀百まで踊りを忘れずと言うか──読者は何とお人好しの馬鹿であるか、と私を思われるに違いない。つい先頃まで中華臨時政府の前途に夢を託し、王蔭泰まで引っ張り出しながら、その夢がシャボン玉に過ぎなかった苦味を嫌というほど味わっていながら、またぞろ別な幻に手をつける。 …… 何という軽薄なオポチュニストだろう、と思われるに違いない。また、事実私はそう思われても仕方がない。

 結局、私は踏み切ってしまった。

 しかし、父のこのオポチュニズムのゆえに陶希聖氏との出会いがあった。そして、陶氏との出会いが太平天国の研究の成果につながったのだ。

 私も、当時父が北京と上海とを忙しく往復していたことをはっきりと記憶している。たまたま、北京の自宅にいるときでも、来客との会話のなかに「汪兆銘」という名前が度々聞えてきた。

 たぶん、その頃だと思うが、父の乗っていた飛行機が山中で墜落したことがあった。乗客は二十人前後だったらしいが、父一人が生き残りほかは全員死亡した。父は気を失って機体の外に放り出されていたが、フト意識をとり戻したときに、飛行機が真っ赤な炎を天に向けて燃えていたそうだ。身体中に痛みを感じながら “ハテ困ったな。こんな山中にいては、そのうちに必ず匪族が襲ってくるだろう。どこか身を隠さねば”と動かぬ身体をもがいていると、運良く救援隊に救い出された。このとき以来、父は耳が遠くなった。

 そんな過程のなかで知り合った陶希聖氏は、汪兆銘氏と志を同じくし、また金陵大学で農業経済を教える学者だった。方顕廷教授とも親交があり、父としては、方顕廷教授への懐かしさもあって、彼とは政治的なつながりを越えて、個人的にもつき合うようになっていった。前にも書いたように、陶氏は太平天国の研究に打ち込んでいたのだが、ある日、「この太平天国の研究は梨本先生の手によってまとめ上げていただきたい。どうかよろしくお願いします」という言葉を残して、長年積み重ねてきた研究資料を全部父に託し、汪兆銘の許を去って重慶に行ってしまった。

 その年の暮れ、父はその資料を抱えて、母と私の待つ北京の家に帰ってきた。正月の間、つぎつぎに訪ねてくる客の接待の合間を縫って、父はひたすら太平天国の研究に没頭していた。そして、この年の十一月、『太平天国革命』は中央公論社より出版された。

 それまでは、たんなる「長髪族の乱」としてとり扱われていた太平天国が、歴史的意義を深め、「革命」と銘打って、中国ではなく、日本で世に出たのである。これも、中国と日本との深く不思議な縁(えにし)のゆえとも考えられるが、また父のオポチュニズムのもたらした産物とも言えるかもしれない。

 父は、『大公報』の記者だった朱華氏との出会いから南開大学の方顕廷教授を知り、また、北京大学の学生であり、方顕廷教授とのかけ橋の役目を果してくれた揚錦南氏を知った。

 さらに、汪兆銘政府樹立の運動のなかで陶希聖氏と巡り合い、太平天国革命の研究が成された。ほかにもおそらく、私の知らないところで、もっともっとたくさんの中国の人たちとの出会いがあり、切瑳琢磨し合ったのではないかと思うが、いまの私には、この程度しかその経緯をまとめることができない。

 

第2章 懐かしい北京の日々

北京の友人たち

 北京では、范子平(フアンズピン)という心地良い発音の胡同(日本で言う横町)に、父は私たちの住む家を用意していた。当時は手頃な家がなかなか見つからなかったそうだ。建坪七〇坪、日本間は六帖と四帖半の二間続きで、あとは中国風におおざっぱに区切られたこの明るい家を、天津の豪華なホテル暮らしのあとではあったが、私はすぐに好きになった。そのうえ、大好きな父といっしょに暮らすことができるのだ。

 家の前に、プールにして泳ぎたくなるような大きな花壇があり、その向こう側に大原さんという外交官一家が住んでいた。

 大原氏は、そんなお歳ではないのに、白髪のみごとな、背の高い紳士だった。一ッ橋大学出身で、父と同窓というよしみもあってか、すぐに二人は意気投合した。夫人は、自由学園の出身だとかで、そのせいか、家の中が合理的に整えられ、秩序立てられていたので、満洲育ちのおっとりタイプの母には、最初のうちは近寄りがたい存在のように思えたらしい。が、日が経つにつれて、打ち解けて仲良くなっていった。瞳の大きな美しい大原夫人は、いつも背筋をしゃんと伸ばして、颯爽と歩く人だった。

 大原家には長男の登君、長女の玲子ちゃん、末っ子の宏君の三人の子供がいて、みんな、それぞれに豊かな個性を発揮していた。登君は私より二歳年上、独特なモチーフの素晴らしい絵を描くので、大人たちはいつも舌を巻いた。学校から帰ってくると、花壇の前にしゃがんで、何時間でも土のなかの虫をあきることなく眺めている、風変りな男の子だった。

 玲子ちゃんは私と同年だった。色白でポッチャリしたピンクの頬っぺが、桃のようにきれいな女の子だった。とても行儀が良くて、もの静かな努力型だった。

 宏君はお母さんゆずりの丸い目をクルクルさせた、キューピーのような可愛い坊やだったが、その反面、無口で重厚な感じのする男の子だった。

 一人っ子の私には、急に三人の兄弟ができたようだつた。毎日、双方の家を行ったり来たりして楽しく遊んだ。

 家の前に、大きな(えんじゅ)の木があって、毎年、五月頃になると、白い花が、雪の帽子をかぶったように咲き誇った。まるで、私の家が白い綿帽子の傘のなかに埋れてしまったかと思うほどだった。

 登君は木登りがとても上手だった。枝から枝にヒョイ、ヒョイと足をかけながら、まるで小猿のように登って行く。枝には尺取虫がノソリノソリと這っていたが、登君はその尺取虫を一匹、一匹つまんでは、腰にぶら下げているビンのなかに大切な宝物のように入れるのだった。

「継美ちゃん、遊びましょう」

 きれいに磨かれた大きな窓ガラス越しに、玲子ちゃんが手を振っている。

「ハーイ」

 私は外に飛び出して行く。

 やがて槐の葉っばでおままごとが始まる。いつもお母さん役は玲子ちゃんのほうだった。同じ年とはいっても、兄弟のある玲子ちゃんのほうが、私よりもはるかにお姉さんだった。

 大原さん一家と向かい合せに暮らすようになってから、大原さんのご主人と父とは、奇妙なことをやりはじめた。二人とも、いずれ劣らぬ勉強家だったので、必ずと言ってよいほどに毎朝五時には起きて勉強していたが、一時間も勉強すると二人は、ランニングシャツにショートパンツ姿となり、頭に鉢巻きをして花壇の周りをホイホイとかけ声をかけながら走り出すのである。二人は泥棒市場で買ってきた木魚を手にして、かけ声とともにそれをボンボンと叩く。背の高い大原氏と小太りの父とが並んで走っている姿は、何とも滑稽だった。あとから起き出した私たち子供も、キャッキャッと笑いころげながら、父親の後からついて走った。

 この奇妙な行事は厳寒を除いて、かなり長く続いた。

そんな頃のある日、この范子平(フアンズピン)の家に(ツアン)という名の中国人の男の人が、住み込んで働くようになった。

「継美、今日から、この方が家で働いてくださることになったのよ」

 母に促されて、私はピョコンと頭を下げた。彼の顔を見て、まず頭に浮かんだのは、逆さにした三角形のおにぎりだった。福助のように頭が大きくて、その割りには顎が細くとがっている。大きな瞳は、恥かし気に伏し目がちで、全体におとなしい内気な感じの青年だった。彼は門の横手にある小さな部屋に自分の荷物を手早く片づけると、休む間もなく母の手伝いを始めた。時を同じくして、お向いの大原さんの所にも、小太りで愛矯の良い中国の男性が手伝いにくるようになった。

 この張さんは、戦い敗れて、私たちが日本に引き揚げる最後の最後まで、わが家から離れることなく、よく尽くしてくれたのだった。

 張さんは母に教えられて、日本料理をとても上手に作るようになった。

 その頃、父は、雑誌社の原稿の依頼が多く、『中央公論』や『改造』の巻頭論文を尾崎秀実氏と交互に毎月受け持ったりしていたので、応接間は連日、新聞社や雑誌社の編集者で一杯だった。また、日本から来る学者、文化人のお客が絶えなかった。

 そのあたりのことを、父はこんな風に書いている。

 この頃、私の家には、中央公論や改造の編集者からの紹介状を携えて、多くの文士たちの来訪が相ついだ。又、政治家もよく来訪した。立野信之、田村俊子氏らは、半ば永住的に北京に居ついて、毎日のように遊びに来た。その他、横光利一、芹沢光治良氏ら、政治家では平野力三、原惣兵衛、加藤鯛一氏らが印象に残っている。

 田村俊子さんのことは、私にもかなり鮮明に印象が残っている。

 私が小学校一年の頃だったと思う。春だったのか、秋だったのか、季節の記憶ははっきりしないが、ある日のこと田村さんが、いつものように華麗な支那服を身に纏って、ゆるやかな足取りでわが家に入ってきたことがあった。その日は父も母も外出していた。彼女は、父も書いているように、ほとんど毎日私の家に来て、家族同様に食事をいっしょにしたり、父のいないときでも、応接間のソファにくつろいで本を読んだりしていた。まさにわが家のことについては、勝手知りたる他人の家というところだった。

 そのとき、私は玲子ちゃんと二人で、大人のいないのをさいわい、座布団を全部座敷にほうり出して、押し入れのなかにちっちゃな空間を作り、そこでままごと遊びに打ち興じていた。

「あなたたち、そんな所で何をしているの ? 」

 彼女は、日本間に上がってくると、押し入れの中の私たちをのぞきこんで、おかしそうに笑いながら声をかけた。

「あら、おばさま、いらっしゃい。パパもママもいないのよ。でも、ママはすぐ帰ってくるって言ってたわ」

 私は押し入れから亀のように首を出して答えた。

「じゃあ、待たせていただくわ」

 彼女は応接間に行くとソファにうずくまったが、どうも風邪でもひいていたらしく、軽く咳をしていた。張さんが熱いお茶を入れて持って行くと、その真っ白の両の手に湯呑みを小鳥を抱くように持ち上げて、美味しそうに啜っていた。

「ああ寒い、寒い。継美ちゃん、何かママの上衣はないかしら」

 私はノソノソと押し入れから這い出して、母の衣装箪笥を開け、あれこれとひっくり返した末に、きれいなショールをひっぱり出した。シルクの白地に薄い藤色の縞模様が刺繍されたショールだった。

「おばさま、これでいい?」

 私の手にしているショールを見ると、彼女は、

「ええ、結構よ。 ありがとう。 でもきれいなショールね。あなたのママのものはみんな素敵よ」

 と言って嬉しそうに肩にかけた。そして、

「ああ、あったかい」

 と言いながら、またソファにうずくまった。

 ままごと遊びも一段落して、玲子ちゃんも帰ってしまった。私は具合の悪そうな田村さんのようすを見ているうちに、だんだん心配で心細くなってきた。彼女の瞳は熱のためにカなくうるんでいるように思えた。その日に限って母はなかなか帰ってこない。

 田村さんも、さすがに待ちくたびれたらしく、気だるそうに起き上がると帰り仕度を始めた。

「継美ちゃん、あたし今日は気分が悪いから帰るわ。このショール借りていくから、ママにそう言っておいてね」

 彼女は張さんが呼んできた洋車(ヤンチヨ)(人力車)に乗ると、肩からかけたショールを、しっかりと胸元で合わせて、車に揺られながら帰って行った。

 夕方帰宅した父は私の話を聞くと母に言った。

「君は明日、田村さんの所に見舞いに行ってくれないか。きっと一人で心細くしているだろう。しかしショールはもう返してもらえないだろうなあ」

 母も何ごともないように答えた。

「ええ、わかっていますよ。とにかく、明日早速、行ってきましょう」

 私は両親の会話を聞きながら不思議でならなかった。どうして貸してあげたものが、もう返してもらえないのかしら。私は間違ったことをしてしまったのかしら。しょぼんとしている私に気づいて、父は慰めるように言葉をかけた。

「継美、留守番ご苦労だったね。田村のおばちゃまのことも心配してくれて、ありがとう。さあ、お腹が空いたろう。食事にしようじゃないか」

 すでに張さんが用意してくれていた食卓に着いて、私たちは楽しく食事をすませた。いま思うと、つくづくと私たちは幸せだったのだ。

 父は田村俊子さんについて次のように書いている。

 田村俊子さんは、ほかの文士たちのように時局便乗的なものは書けなくて、自然主義の名残りを思わす本格派であった。彼女の北京における作品「故宮の秋」あるいは「西太后」などは、実に流麗な筆をもって、北京の民衆の哀歓を描いたものであり、「西太后」は、権勢をその手に掌握しながら、いつも満されないおもいに悩む女性の宿業を深く掘り下げたもので、私はその原稿を読んで、「やはり文豪の骨格がある」と感嘆したが、この時代は検閲制度が厳しく、上等兵上がりの中尉などには、この名作が理解されよう筈もなく、いつも報道部で没にされてしまったので、彼女はそれ以後、いっさい筆をとらずに、したがって貧乏生活に苦しんでいた。最近、田村俊子さんの伝記が出たが、それには「北京時代の田村俊子さんは、すでに詩魂が枯れてしまって、なに一つ書けなかった」ということが書かれているが、それは北京時代の田村さんの苦悩を知らなかったためであろう。

 それから、こんなこともあった。

 その日は私は学校の遠足の日だった。帰宅すると、張さんが腕によりをかけてご馳走を作っている。やがて、夕方になると、つぎつぎと客が訪れはじめた。みんな、それぞれに手にプレゼントを持っていて、私の顔を見ると、

「やあ、継美ちゃん、おめでとう」

 と声をかけてくる。私の誕生日だったのだ。

 詩人の酒井徳三郎氏、作家の立野信之氏らおよそ四十人ばかりの人がウイスキーを飲みながら談論風発、私の誕生日とは言いながら、けっきょくは大人たちが集って楽しんでいるのだ。ただ、プレゼントだけは、うず高く積まれていた。

 田村さんはみんなより少し遅れて現れた。

「継美ちゃん、お誕生日おめでとう。ハイ、これ王府井(ワンフーチン)で買ってきたのよ」

 と言って差し出したプレゼントは、ブリキで出来た手造りの小さなストーブやら煙突、洗面器にやかんなどがアンバランスに詰めこんである中国製のままごと遊びの道具だった。押し入れのなかで玲子ちゃんと二人でままごと遊びをしていたことを覚えていてくれたのだろうか。母は、

「俊子さんはいつもめずらしいものを持ってきてくださるけれど、ホントにお買物が上手なのね」と感心していた。

「あらそうかしら。そう言っていただくと嬉しいわ」

 田村さんは心から嬉しそうに微笑んでいた。

 

 横光利一氏については、少し長くなるが、やはり父の文章を引用しておきたいと思う。この一文は、当時はるばる海を越えて大陸にやって来た日本の芸術家、文化人が、悠久の古都北京に逗留して、どのように中国大陸を捉え、感銘を深くしたかを、よく言い表わしているように思う。

 横光利一さんは、逞しい風格と迫力を感じさせる人物であった。それに、民族問題にも相当の理解をもち、

「私も中国では、プロレタリアートの闘争が、民族問題に転移してゆくということに、強い関心をひかれていました。揚子江流域に起った五・三〇事件を素材にして『上海』という、私の最初の長篇小説を書いたこともあります」

 と言っていた。彼は五・三〇事件( 昭和元年五月三十日、上海の学生約三千人が労働運働の端緒を切った)のあと、上海に月余にわたって滞在し、中国のプロレタリアートの闘争のあとを探った頃の回顧談を聞かしてくれた。いつもは沈欝な彼が、この時はいかにも楽し気であった。川端康成氏の「上海」の解説によれば、上海は横光氏が感覚的手法から、心理的手法に移る画期的な作品だと言っている。

 ある日、私は彼を万寿山に誘った。

 万寿山は北京の西方八キロほどの郊外にある。山麓には西太后の豪華な別邸「頤和園」がある。清朝末期の文化の粋を誇る遺蹟である。二抱えもありそうな丹塗りの円柱廻廊の階段を左に折れ、右に曲りしながら登った。廻廊は海のような光りにきらめく昆明湖に沿って、しだいに万寿山の中腹へと、宮殿の黄色な甍や柱を重ねている。中段から振りかえると、真紅あるいは濃緑の太い円柱が階段になっている間から、湖上のはるか向うに、楊柳の曲堤が霞んで見える。

「清朝の専制政治が崩れ去ったあとに、こうした美の殿堂だけが残るということも、歴史の悲劇だね」

 と横光氏は感慨をこめた声で言う。

 万寿山の山肌を垂直に限って、白磁色の巨大な城壁がそそり立っている。その間を、幾百段の石段がちょうど青空へでも昇るように頂上にそびえる豪華な八角形の三層宮殿につらなっている。ここまで通ってきた、さまざまの廻廊や、紫雲殿の金色瑠璃の甍屋根がまるで宝石箱のように目の下に見えてきて、その前面には、広い湖面と、その湖心の楊柳の小島に、象牙の櫛のように長く続く石橋とが光って見える。

「大したもんだなあ。しかし、こんな工事は封建時代だからできるんだね」

「李鴻章の献言した近代的海軍の建設をやめて、そのかわりにできたと言われています」

 私と横光氏とは話しながら、頂上の断崖上にある、巨竜を彫った欄干石に倚って、昆明糊の全景と背後に拡がるはてしない浅緑の大平原を眺めた。

 ……この広漠とした地の果てには、右すれば満洲があり、左すれば蒙古の砂原がある。そして、さらに左すれば王門関を越えて青海やチベットがある。そのなかには、幾億の人間が住んでいるのだ。

「これだけ壮大な美と文化の遺蹟を持つ中国民族は、いったいどれだけの力を秘めているのだろう?」

 私は誰に語るともなく、一人でつぶやいた。横光氏は何か感慨にふけっているらしく、眼をすえて、霞のきらめく空のかなたを見つめている。

 東京に帰ってからも、横光氏は、その便りの中で、「万寿山の風光は目に残っている」と言ってきた。よほど感銘を深くしたらしい。万寿山の頂上の欄干石に倚って、長髪を風に蓬々と吹かせながら、物も言わないで唇を固く結んで立っていた横光氏の風貌は、いつまでも私の印象に残っている。

 そのほかにも、いろいろな人がわが家を訪れた。尾崎秀実氏もその一人だが、尾崎氏の印象についは、あとの項で触れたいと思う。

 

 ある夏の日のことだった。北京の夏は暑いけれど、カラリとしていてさわやかである。青空にポカリと浮かんでいる純白の雲に誘われるように、母と私は大原夫人と三人の子供といっしょに、洋車(ヤンチヨ)を走らせ、北海公園に出かけた。

 真夏の北海公園は、三々五々、のんびりとくつろいで散歩する人たちが、池のほとりや木立の道に、見えつかくれつして、まことにのどかである。しばらく歩いたあと、にじむ汗をふきながら、私たちは木蔭の茶店に腰かけて、冷茶とカボチャの種を注文し、一休みしていると、目の前の池の辺りに、深い緑色の水面から抜け出たように、二人の女性が散歩している姿が目に入った。中年の一人の女性はあでやかな中国服、もう一人の女性は白地に藍の花柄の呂の和服をきちんと身につけた、品の良い女性だった。

「あら、田村さんだわ。田村さん、こっち、こっち」

 と母が手を振ると、私たちに気づいた田村俊子さんは、連れの夫人を促して、私たちの所に足早にやってきた。

「まあ、みなさんお揃いで。お散歩 ?」

 田村さんといっしょの女性は、私の家にもよく訪ねてくる、毎日新聞記者の夫人だった。

「私たちも冷たいお茶を飲みましょうよ。のどがかわいたわ」

 椅子を二つ運んでもらって、しばらくみんなで辺りの風景を眺めながら歓談し、たまたま、通りかかった写真屋さんに記念の写真を写してもらった。

 その写真は、母が引き揚げるときに荷物のなかに大切にしまって持ち帰ってきたので、いまではだいぶ黄味がかったその一枚の写真は、私の貴重な所蔵品となっている。白の大きな衿のついたワンピースを着て、帽子をまぶかにかぶった大原夫人は、いま眺めても、さすがに外交官夫人らしく、モダンで素敵である。

 北京に滞在していた頃の田村俊子さんは、いつも裾の長い中国服を着ていた。それは緞子の生地に刺繍をほどこした、みごとなものばかりであった。ときには大輸の牡丹の花が咲き誇っていたり、ときにはきれいな小鳥が木々の枝の間を飛び交っていたり、彼女が目の前に坐っていると、さながら、一幅の日本画を眺めているような陶酔境であった。

 彼女はまた、四季を問わず、ノースリーブの服を着こなす人だった。惜しみなく露出された、眩いばかりの白い腕は、いま思い浮かべてみても溜息の出るような美しさだった。さぞかし多くの女性の羨望を一身に集め、ロマンチシズム豊かな明治生まれの男性どもを魅了し、幻惑してやまなかったにちがいない。

 そして、とりわけ私の記憶に鮮やかなのは、ノースリーブの中国服の上に豪華な毛皮のコートを無造作にはおって、彼女特有の足取りで、かすかに肩を揺らしながら歩を進めて行く、その姿だった。そのずば抜けた肌の白さと漆黒の髪、夢見るごとくにのどかなもの腰に、衰えることを忘れたかのような色香を漂わせた、不思議な、あるいは神秘的な女性というのが、私の脳裡に残る田村俊子さんなのだ。

 瀬戸内晴美さんの書いた彼女の伝記『田村俊子』は、私の記憶のなかの田村さんとは、重なる部分もあり、重ならない部分もある。

 たぶん、彼女がいろいろな分野の人たちと、いろいろな顔で交際があったという、そのせいなのだろう。

 でも、どうあれ、私の子供の頃の思い出のなかに彼女が存在しているということは、私にとって、とても嬉しいことなのだ。この高名で、話題の多い女流作家に可愛がってもらったという思い出は、私の生涯を通じての大切な宝物の一つなのだ。

 

第3章  父の遭難と帰国

憲兵隊事件

 昭和十九年十二月六日早朝、突如として、わが家にとっては運命がひっくり返るような大事件が起こった。

 その日、私は食堂でひとりで朝食をとっていた。その頃から母は身体の具合がすぐれず、床に就いている日が多くなっていた。いつもは誰かが私のために起きてきてくれるのだが、その日に限って誰もいなかった。コックさんが作ってくれたお弁当を真っ白なハンカチに包み、これから学校に行こうとしたちょうどそのときだった。手にピストルを構えた数人の憲兵がドヤドヤと食堂になだれこんできたのだ。

 黒いコートに身を包み、眼鏡の下からギラリと鋭い目を光らせた大柄の男が、私の顔をしばらくじっと見つめてから、声をかけてきた。

「梨本さんのお嬢さんですか」  

「ハイ、そうです」

 私はびっくりしてその男の顔を見上げた。

「そうですか。おさわがせいたしますが、気にしないで仕度をなさってください」

 言葉はていねいだが、何かただごとならぬ気配が感じられる。

 男たちは少しの間ヒソヒソと話し合っていたが、そのうちに食器戸棚をひっくり返して家宅捜索を始めた。きちんと並べられていたたくさんのスプーンやフォークがテーブルの上に抛り出された。ひとしきり、あちこちとかきまわしたあと、憲兵たちは食堂から出て行った。中国の家屋は、四合院(スーフアンイン)といって四方に家があり、回廊が四つの建物を結んでいるのが特徴で、その四つの建物の真ん中は石ただみの庭になっている。

 私たちの住んでいた公館は、前に書いたように中国風に日本風とオランダ風がとり入れられていたので、四合院というより三合院という感じだった。一角は立派な第三番目の門になっていたからだ。

 憲兵たちは食堂を出ると回廊をまわって母家に向かったようだった。

 私が朝食をすませてからランドセルをとりに応接室に入って行くと、すでに門番から連絡を受けていた父と母は、きちんと衣服を整えて待機していた。母は私を見ると手招きをした。

「心配しないで学校に行っていらっしゃい」

 私は母の目をしっかりと見つめて、大きくこくりと肯いた。

「梨本さん、憲兵分隊までご同行願います」

 憲兵たちは気味が悪いほどに慇懃無礼である。

「わかりました。まいりましょう」

 奥の棟から森川守三と上田真平という父の部下の人が二人、やはり身なりを整えて応接間に入ってきた。父は彼らに言った。

「君たちはよい。僕だけが行ってくる」

「いえ、私たちも先生といっしょに来るように言われています」

「そうか」

 父はちょっと小首をかしげて考えていたが、

「まあいい、とにかく行こう」

 と立ち上がった。

 手錠ははめられなかったけれども、大勢の憲兵に周囲をとり囲まれながら、父をはじめ男たちは連れ去られて行った。

 母と私は応接間の窓ごしに父たちの後姿を眺めながら、息をこらして見送った。

 父の書斎に行ってみると、足の踏み場もないほど本がひっくり返され、書きかけの原稿も四方に飛び散って、どこから片づけたらよいか途方に暮れてしまうありさまだ。主のいなくなった書斎の絨緞の上に、無惨に投げ出された幾百冊もの本は、悲痛な呻きをあげて戦場に倒れた兵士たちの姿のように思えた。私はそのとき、初めて、悔しさとともに悲しみがこみ上げてきた。

 いったいこれから何が起ころうとしているのだろうか。北京の十二月は満洲ほどではなくとも寒さは厳しい。私は病弱な母のことを気づかいながら学校に行った。

 まだ子供ではあったが、私は当時を騒がせた尾崎秀実氏のゾルゲ事件のことをききかじっていた。日本からの来客があると、そのことが話題になっていたからだ。その背景や内容については解るはずもないが、日本では尾崎秀実氏と交友のあった人は一人残らず連行されたと聞いたときに、何とも言えぬ恐怖感が身体のなかを貫いたことを覚えている。それと、ゾルゲ事件が脳裏に残ったいまひとつの理由は、尾崎氏には私より二歳ほど年上の一人のお嬢さんがいて、その人と私は、どこか面影が似通っていると尾崎氏を知る人やジャーナリストたちから言われていたことだった。

 そう言えば、あの范子平(ツアンズピン)の家にいた頃、東京からきた尾崎氏が、わが家を訪ねてこられたことがあった。あのとき、尾崎氏が帰ったあと、母は父にこんなことを言っていた。

「尾崎さんて、実業家みたいなタイプの方なんですね。私は神経質で哲学者のような人を想像していましたわ」

 でっぷりとした逞しい体格、人なつこ気な象のような細い目、大きな丸い鼻。母はこうした尾崎氏の風貌に接して、自分の想像がまるではずれていたことにとまどいを感じたようだった。

 学校に行って授業が始まっても、私はいっこうに先生の声が耳に入らない。国語の時間も数学の時聞も、みんなうわの空で遠くに聞きながら、窓の外を眺めて灰色の冬の空をにらんでいた。

〝まさかパパは尾崎さんとの関係で連れて行かれたのではあるまい。パパはきっと帰ってくる。あんな憲兵に負けてたまるか〟

 私はギュッと唇を噛みしめた。

 あとから聞いたところによると、十二月六日の逮捕の日の前夜は、百人以上の憲兵が一晩中交替で公館の周囲を張りこんでいたのだそうだ。私たちはそんなことは露知らなかった。それに満鉄社宅に住んでいる人たちも含めて梨本一党三十六名が、いっせいに検挙されていたのである。予想以上に大きな事件となりそうだった。

 いろいろと思案の末、母は宇佐美総裁にこの公館を出て、もっと小さな家に移りたいと願い出た。しかし、総裁は了承しなかった。

「こんなときだからこそ、これまでどおり堂々と構えていなくてはいけない。けっして後退することを考えないように」

 と言われるのだった。

 母はまた私に言った。

「あなたは満洲のお祖父さまの所に行っているほうがいいのじゃないかしら。北京にいて、もし学校の友だちにいじめられることがあったら辛いでしょう。本渓湖の学校なら知られることはないわ」

 私はキッパリと母の言葉に答えた。

「いやよ。パパは人殺しをしたり、泥棒をしたりして連れて行かれたのではないわ。パパはいつも言っているじゃないの。『僕は人類の幸せのために生きるんだ』って。そのために連れて行かれたのよ。私は学校でどんな目に遭っても平気よ、私は負けないわ」

 母は返す言葉もなく私の頭を撫でながら言った。

「本当にどんなことがあっても大丈夫なのね。あなたがそう言うのなら、あなたの言うとおりにしましよう」

 父は父で、寒い独房で私のことばかり考えていたという。私が学校で犯罪者の子供としてみんなにいじめられている、そんな夢を毎晩のように見ていたのだそうだ。

 両親の心配にもかかわらず、私は本当に平気だった。矢でも鉄砲の弾でも何でも飛んでこいと、胸を張って学校に行った。第三国民学校の先生方は、みなこの事件を知っていたが、それまでと少しの変りもなく私を可愛がってくださった。私は、つくづく幸運だったと思う。私は前にも増して、のびのびと元気に振る舞って学校生活を楽しむことができたのである。

 忘れもしない十二月二十二日、学校はもう冬休みを間近に控えて授業時間も短くなっていた。私が家に帰ってくると、母をはじめとして、家中の者が大騒ぎをしている。見ると、いったいどこから出てきたのだろうか。何百匹か何千匹か、足許に小さな二十日ねずみがチョロチョロと這い廻っていて、歩くにも歩けない状態だった。ねずみをよけながら奥の日本間に行ってみると、そこもねずみの大軍で、チチチチと啼きながら母や私の膝から胸に這い上がってくる。

「これはいったいどういうことなのかしら」

 誰も見当がつかなかった。追っても追っても戻ってくる。みんな困りはててしまった。葡萄棚に巻きついていた蛇が神さまの使いだと言ったボーイたちは、やはりこれも神さまの使いだと言い出した。

 母はもしや獄中の父に何かよくないことが起きたのではないか、と心配しはじめた。ちょうどそのときだった。憲兵隊から電話がかかってきた。

「さっき梨本が血を吐いて倒れた。意識不明。すぐ敷布団一枚、掛布団二枚、毛布一枚を差入れするように」

 ああ、やはりねずみが知らせてくれたのだ。

 母は言った。

「パパはいつも身体を酷使しているから、きっと疲れがどっと出たのね。憲兵隊ではお医者さまにはみせてくれないのかしら」

 当時は獄中の人間を医者などにかけるはずもなく、布団の差入れを許したことで、憲兵隊は特別の恩恵を与えたつもりだった。

「大丈夫よママ、パパは強いわ。きっと元気になる」

「そうね、大丈夫よね。 このねずみ、このままそっとしておきましょう。 時期がくれば、きっともとの所に帰って行くわ」

 初めは何とも気持悪かったが、だんだん慣れてくると、このねずみたちがとても可愛いく感じられるようになってきた。

「パパが病気になったことが、そんなに心配だったのかしら、ありがとう」

 私はねずみにお礼を言いたい気持だった。 事実、チョロチョロとせわしなく走りまわる小さなねずみの姿は、一家の(あるじ)の危機を安じて「心配で心配で、じっとしていられない」と言っているかのようだった。

 翌日、再度、憲兵隊から連絡が来た。

「梨本はだいぶ元気になった。これから、しばらくの間おもゆを三度三度差入れするように」

 家中、ほっと安堵した。いまのようにポットなどという便利なもののない頃なので、飯盒におもゆと梅干を入れて、身体の弱い母に代わって、森川夫人が憲兵隊に通うことになった。

 朝早く起きて耳まで隠れる大きな帽子をかぶり、すっぽりとコートに身を包んで森川夫人は、父の朝食を持って家を出る。帰宅してしばらくすると、すぐに昼がくる。昼食を運べば間もなく夕方になる。まして、行く先が刑務所である。厳寒の北京の街をこうして通い続けることは、大変な苦労だったろう。

 この森川夫人の夫君である森川守三氏は、前に書いた水曜の燕鳥会のメンバーの一人だった。大連の商業学校出身で学閥の厳しい満鉄、華北交通のなかでは地味な存在だったが、語学に関しては天才的だった。選抜された中国語の特等通訳のなかでも、北京語は無論のこと、各地の方言を自在に駆使できるのは森川氏ただ一人といわれていた。

 後年、日本に帰ってからは、さまざまな苦難を乗り越え、日本でも数少ないソ連圏貿易の会社を設立し、社長として実業家の手腕を遺憾なく発揮し、七十二歳でこの世を去られた。森川氏にかかれば、必要とする外国語はたちどころにマスターされてしまうのだった。父は森川氏の才能をきわめて高く評価していた。

 輝子夫人は、華北交通の入社試験を優秀な成績で合格した才媛だが、一女子社員でありながら、彼女が満鉄、華北交通のなかでみんなの注目を集めたのは、彼女の並々ならぬ美貌のゆえだった。私も子供ながらに、こんなに美しい人がこの世にいるのだろうかと思ったものだが、それは私のみならず誰しもが感じる思いだったようだ。

 私たちが公館に移ったとき、森川夫妻も華北交通の社宅をたたんで、この公館の一寓に住むことになった。間もなく夏の暑いさかりに、男の子が誕生した。この子は(まこと)ちゃんと名づけられた。私の両親にとっては孫、私にとっては弟のような存在だった。

 しかし、この子は生まれたときからとても腸が弱く、手足はやせ細り、青い血管がいつも、すき透った皮膚のなかから浮き上がっていた。顔立ちはお母さんゆずりで、乳児とは思えぬほどに整っており、まるで妖精のように美しい赤ン坊だった。

 森川夫人が父の差入れを運んで行き、帰宅するまでの間、いつも母と私がこの子のお守りをした。

「もっと太らなくてはねえ。早く元気になってね」

 母が優しく抱き上げると、赤ン坊は母の胸に頭をすり寄せて心から安心したように眠る。私にたいしては、気分の良いときは笑ったりしているが、しばらくすると必ずむずかり出した。いまから思うと、病弱で繊細な赤児にとっては、私のように元気な子供に相手をされることは負担だったのかもしれない。それでも兄弟のない私は、この子が可愛くてならなかった。

 父の病状は日に日に快復していった。憲兵隊からの度々の連絡は差入れのおもゆをお粥にするように、そのお粥も八分粥に、全粥にと指示があり、父の快復に従ってねずみの数が少しずつ減っていった。

 その年の正月は、せいいっぱい質素に静かに迎えた。主だった男性はみな刑務所におり、家に残っているのはボーイたちと満鉄や華北交通には関係のない職業の人たちばかりだった。

 その頃は日本を離れて北京で働くことになった人たちが、いろいろな人の紹介状を持って父を訪ねてきたが、父は彼らに空いているかぎりの部屋を提供し、食事のことからすべてを家族同様に面倒みた。もちろん、費用などはいっさい貰わなかった。だから父が憲兵隊に逮捕されても、だれ一人としてそのことのために他に引越していく人はいなかった。みんな変りなく母をいたわってくれたし、私を可愛がってくれた。

 やがて、この人たちにも続々として召集令状が来はじめ、私も学校に千人針を持って行っては、女の先生たちにお願いしてまわった。母も弱い身体をおして、出征する人たちの仕度に忙しかった。

 やがて森川氏にも召集令状が来た。母は宇佐美総裁を通して憲兵隊にかけ合ったが、憲兵隊はついに森川氏を釈放せず、召集令状は抹殺されてしまった。そのことが、彼にとって良かったのか悪かったのかはわからないが、当時の憲兵当局はそのくらいに強い独立した権限を持っていたのだ。

 父が刑務所で吐血してから二週間を経過した頃、もうこれ以上差入れの必要はないと憲兵隊から知らせてきた。そのときには、あんなに部屋中を埋めていたねずみが、どこに消えたのか一匹もいなくなってしまっていた。母が「いつか時期がくれば、きっといなくなるわよ」と言っていた言葉がそのとおりになったのだ。

 あの日以来、あの可愛い小ねずみたちはいったいどこに帰っていったのだろうか。私たちがこの公館を去る日まで、ついに再びその姿を見ることはなかった。それは、私にとって一生忘れられない不思議な出来ごとだった。そしてこれ以来、私は神秘的な世界を無条件で信ずるようになった。

 

 昭和十九年には、日本の敗色はますます濃くなっており、それと平行して、左翼分子とみられる人にたいする取り締まりもいちだんと厳しくなっていた。十二月六日の早朝、突如(私には突如と思えた)起こったこの事件の背景を、私なりにいちおう考えてみなくてはならないだろう。そこにはいくつかの要因が絡んでいる。

 まず、この年、辣腕をもって響く加藤泊次郎中将が北京憲兵司令官として東京から派遣されてきた。 加藤中将は東条首相の腹心として東京で憲兵司令官を務め、中野正剛氏や吉田茂氏を逮捕して憲兵旋風を巻き起こしたことで有名な人だった。加藤憲兵司令官が北京粛清のために、その切れ味の良い刃を向けてくるのは、当然梨本祐平にであり、北京大学の教授や学生にたいするものであると、誰しもが読んでいた。

 父は気心の合う西村平八郎少佐 (のちに戦犯として処刑された)から忠告を受けた。その言葉を父の文章から引用する。

「梨本君、君は石原中将と絶えず往来している。食糧集荷という名のもとに重慶あるいは延安と連絡している。華北交通の中に左翼転向者や左翼分子を集めている。左翼学者としきりに往来している。会社の内部でも君に対する非難はごうごうたるものがある。僕は以前から君と昵懇であり、君の行動や思想は十分に知っているが、事がこれ以上進むと僕だけの力では防ぎようもない。友人として今日は忠告するわけだが君の身辺は実に危険な瀬戸際に立っている」

 いまひとつの要素は、父が野坂参三氏と東京にいる頃からずっと関係があったという噂が飛んだことだった。当時、野坂参三氏は延安にいて「日本人民解放連盟」を組織して反戦運動を展開していた。が、野坂参三氏との関係については、まったくのデマだった。

 父は流言飛語という蜘蛛の糸にひっかかってしまったようだ。あがけばあがくほどに、もつれは複雑になってしまう。しかし、こういうデマがまことしやかに流れるには、それはそれだけのよって来たるべき因があったのではないかと私は思う。

 六十年の人生を生きてきた私が、いま思うことは、父は宇佐美総裁の信任がいかに厚かったとはいえ、あまりに短期間に破格の出世をしすぎたのではないだろうか。それから、食糧難の危機を救うために、新民会、合作社の食糧の収奪を封じた。そのため封じられた側の官僚的人間の諸々の反感を買う結果となった。

 天下の秀才を集めたといわれる学閥の厳しい満鉄・華北交通において、埋もれた数多くの人材を発掘し、家格、学閥を問わず高く登用したことは、たしかに人間社会の持つ官僚的な固い壁を突き破った改革であったといえるだろうが、その裏側に、そのためにもたらされる保守的な分子の憤りと嫉みのあることにたいしては、父はあまりに無防備に過ぎたのではないだろうか。

 なぜならば、たしかに加藤泊次郎司令官以下、司令部の上層部は北京の左翼分子粛清に意気込んではいたが、この事件はそのためだけに起きたものではなかったことが、しだいに明らかにされていったのである。それは、華北交通内の反梨本祐平一派と北京憲兵隊の下士官グループの斎藤曹長らが結びついて、三つの犯罪を構成しようとして企てたものだった。

 その三つの犯罪とは、

一、梨本が華北交通を根拠として、左翼社員を糾合し、華北共産党を組織しようとしているという嫌疑

二、食糧集荷を名目として、重慶、延安に内通して通敵行為を行なっているという嫌疑

三、不敬罪の嫌疑

 というものだ。証拠は何もなかった。

 三つ目の不敬罪の嫌疑というのは、梨本という苗字が梨本宮と同じなので、「宮さま、宮さま」と呼ばれていたということを指すものだった。

 斎藤曹長は三十六人の部下をおどかせば、誰かが自供するだろう、その自供をもとに何としてもこの事件をでっち上げようと、すさまじい意気込みをみせていた。しかし、上層部の色川分隊長と西村特高課長は、この犯罪構成案にはまったくの反対意見を唱えていた。色川分隊長は斎藤曹長を徹底的に抑えることはできなかったが、拷問にかけて供述を強いることだけは厳しく禁じた。

「拷問さえかければ何のことはないんだがなあ」

 と、斎藤曹長は事あるごとに口惜しさを隠し切れずに唇を噛みしめていたという。おかげで三十六人の検挙者のなかからは、連日の取調べにもかかわらず、一人として裏切る者が出なかった。

 たとえ、拷問はなかったとしても、誘導作戦やおどしの取調べが毎日くり返されたなかで、だれ一人として屈した者がいなかったということは、さすがだと私は思いたい。憲兵たちが望むままに供述して釈放されるものであるならば、誰しもがそうしたいと願うのが人間として当然のことだ。にもかかわらず、あえて早期釈放の道を選んで妥協することをしなかったのは、当時の満鉄・華北交通の男性は、若手とはいえ、頭脳のみならず人間的にも肝のすわった人材が多かったことを裏づけるものではないかと思う。

 たしかに父は、華北でのあの難しい食糧集荷の問題、あるいは愛路工作、その他諸々の政治問題が抱える難問を解決するために、日夜努力を惜しまなかった。当然ながら、そのような難関を解決するためには、それまでの既成概念にとらわれない型破りな構想と実行力が必要だ。そして、その構想を理解し手足となって活動するためには、それ相応の能力とエネルギーを有している者でなくてはなしうることではないだろう。

 こうして私なりの思考をたぐっていくとき、父のこの憲兵隊事件は、避けることのできないものではなかったか、という結論に達する。父を筆頭とする、三十六人の人たちの使命であり、宿命であったのだろう。

 厳寒の北京の十二月、独房のなかで父は、父なりにさまざまな思いをめぐらせていた。刑務所で迎える新しい年、時を経ていくに従ってしだいに心の落ち着きを取り戻していった父は、この憲兵隊事件が起きたことによって、むしろ密やかな喜びを感じるようになった。それは〝俺は、これで大勢の中国の友人にたいして多少なりとも贖罪ができたのではないだろうか。傀儡政府の不支持をつめよったあの中国の学生たちにも〟というものだった。

 そんな父の思いとは関係なく、憲兵隊当局は、何としてもこの事件を有罪に持ちこまねばならぬと躍起になっていた。責任者は、東京まで調べの足をのばして証拠を探したが、ついに何も得られぬままに北京に戻った。憲兵隊は焦りの色を濃くして翌年の夏を迎えた。七月頃だったと思うが、父と高島喜久雄氏の二人を残して全員が釈放された。

 つぎつぎに挨拶にきて、元気な姿を見せてくれた人たちに、母は病の身体をおして、身じまいを整え、畳に両手をついて深々と頭を下げた。

「本当にご苦労さまでございました。何とお詫びを申しあげたらよろしいのでしょうか。どうぞ今後とも、私どもをお見捨てになりませんように、よろしくお願い申しあげます」

 私は、この母の姿をじっと扉の影から見つめていた。私は、母は立派な人なのだと改めて思った。このときから私は、この母から自分が生まれたことを誇りとする思いが強くなった。

 森川守三氏、上田真平氏たちも戻ってきた。しばらくはひっそりとして淋しかったわが家も、少しずつ活気づいてきて、私も嬉しくてたまらない。母もひとまずホッとしたのか、少し元気が出てきたように見えた。

 父と高島喜久雄氏は即刻、北京の軍法会議に送られた。そのときのようすを、父の手記から引用しよう。

 いかめしい鉄門を入ると、自動車から降ろされ更衣室に連れ込まれた。ここで準備してある獄衣に着替えさせられ、灰色木綿のもっこ褌をしめ、帯の代りに細く短い付紐で両前を合せて結んだ。更衣室から連れ出されると監房に入れられた。私の監房は四百十八号であった。これ以後私は四百十八号と呼ばれることになった。

 憲兵隊の留置場は独房であったが、ここは十人ほどの同房者がいた。軍人は二、三人であとはいずれも民間人だった。いずれも壁の方を向いてあぐらをかき、わき見も許されなかった。もちろん隣りの人とものを言うことも出来ない。ゴム裏の音のしない草履をはいた看守が絶えず見廻って監視をしていた。食物は兵隊と同じでとてもうまかった。夜は毛布を敷いて眠り、朝は毛布をたたみ、備えつけのはたきで挨を払い、箒で房内を掃除する。あとは食事の時を除いて一日中壁に向ってあぐらをかいているのだ。一週に一度、五分ぐらい風呂に入れられた。

 この手記を読むとき、私は複雑な思いがする。 あの無器用な父がはたきで埃を払い、箒で掃除をするとは……。家にいるときは本の整理をする以外は縦のものを横にもしなかった父がである。可哀相な気持とともに、何となくこっけいに思う気持が交錯してしまう。

 

 目前に日本の敗戦が近づいていることも知らずにか、夏休みに入ると第三国民学校は日本の海軍に接収された。私たちの住んでいた公館も第三国民学校と地続きだということで、海軍武官府として生まれ変ることになった。

 私はまた、もとの第一国民学校に舞い戻って通うことになった。この頃は梨本邸も、以前のような華麗なる趣きは消えていた。

 軍法会議に廻された父がいったいどうなっていくのか、釈放されるのかされないのか、まったく事件の見通しがつかなかった。関係はなかったとはいっても、ゾルゲ事件の渦中の人、尾崎秀実氏が処刑台の露と消えたことも不安の念をかりたてていく要素だった。

 第一国民学校にも以前のようにはなじめなかった。毎朝の行進も、防空壕への避難訓練も、私は先生の号令のままに動いているに過ぎなかった。授業のなかでも、何にも増して嫌だったことは、頭に鉢巻きをして長刀(なぎなた)の練習をさせられることだった。

〝まったく何という馬鹿馬鹿しいことをやらせるのかしら〟

 私は、目を吊り上げて長刀(なぎなた)をふりかざしている勇ましい女の先生を、冷ややかな目で眺めていた。当然、成績も目に見えて落ちていった。早く戦争が終わればいい。しかも日本は勝ってはならないのだ。日本が負ければきっと父は帰ってくるだろう。父がこの戦争にたいして反対であったことを感じとっていた私は、子供心にも軍国日本が必ず勝利をおさめるのだとは思いこめなかった。

 いまふり返ってみても、私は何というませた子供だったのだろうか。自分ながらに気味が悪い。

 

日本の敗戦と父の釈放

 昭和二十年八月、わが家はうだるような暑さのなかで引越しの準備に忙しかった。

 やがて海軍武官府になるというこの家の門の前には、連日いかめしい黒の海軍の車が横づけにされるようになった。広い応接間は毎日、海軍の軍人が訪れて母と打ち合せをしている。私はドアの影から白い軍服に身をかためたスマートな海軍軍人を見つめながら、日毎にこみ上げるむなしい思いにとらわれていた。この人たちは力にもの言わせて、一家の主が不在であるにもかかわらず、この公館を奪おうとしている。私がこんなに愛している花の庭も、裏の果物畑も、広大なバルコニーも、もう間もなくこの人たちが思うままに使うのだ。そう思いながら私は暗い思いに沈んでいくのだった。

 八月六日、そして三日後の九日には、内地では、何だかよくわからないけれども、アメリカのものすごい爆弾が投下されたというニュースが伝わってきた。北京は空襲がなかった。裏庭に防空壕は掘ってはあったけれども、とうとう使わずじまいだった。こんもりともり上がった土の上には雑草が生えて、遠くから見るとまるで築山のようだった。

 空襲ということについては、私は想像もつかなかった。かつて、どこかで見たことのある、あの阿鼻叫喚の地獄絵図のようなことが、実際に毎日くりひろげられているなど、容易に納得がいかない。それに、そんなことが現実にあって良いことなのだろうかと、頭のなかはますます昏迷していくのだった。

 八月も十日を過ぎた頃から、急にわが家に人の出入りが激しくなった。

 引越しの準備がどんどん進んでいくなかに八月十五日を迎えた。学校はすでに夏休みに入っていたが、この日は四年生以上の生徒は昼までに学校に集まるようにと連絡があった。何でも、玉音放送を聞くためだという。私は、もしかすると戦争が終わるのではないだろうかと思ったが、まだ口に出して言えることではなかった。

 生徒たちは三方を校舎に囲まれた盆地のような中庭に整列させられた。ジリジリと照りつける太陽の下で、生ぬるい汗がじっとりと背中をぬらしていくのを感じながら、これからいったいどんなことを聞かされるのだろうかと、誰しもが不安な表情で放送の始まるのを待っていた。前方に痩身で品の良い山本校長が、少し背を丸めてうつむいて立っている姿が印象的だった。

 いよいよ放送が始まった。ザーザーと激しく雑音が入って、天皇の言葉はよく聞きとれない。私は講堂のステージの上にいつも秘めごとのようにカーテンで閉ざされている天皇・皇后の尊影を思い浮かべながら、これがあの謎めいた主の本当の声なのかと、何か不思議な音声を聞くような気持だった。放送は終わったが、生徒たちは一人としてその内容がわからなかった。

「いったい何だったの。天皇陛下は何ておっしゃったのかしら」

 みんな口々にそんなことを言いながら教室に入った。先生たちはひと言も口を開かなかったし、勝手な行動をしている生徒にも、前のように注意をしなかった。

「ねえ、もしかしたら日本は戦争に負けたのかもしれないわ」

 私は隣の席の女の子にそっと囁いた。

「そんなことないわよ。あるはずがないじゃないの。あなた、何てことを言うの、非国民よ」

 真ん中から髪をきれいに分けて耳の下でキリリとお下げに結んだ、顔立ちの整ったこの女の子が、目をつり上げて私をにらみつけた。私は黙ってうつむいた。

 そのうちに一人の女の子が、けたたましく教室にかけこんできて大声で叫んだ。

「ねえねえ、みんな聞いて。さっき職員室でね。先生たちが集って、これからさき、この子供たちはどうなっていくのか心配だって、話し合っていたわよ」

「へーえ、それいったいどういうことだよ」

 男の子たちも身を乗り出して目を丸くした。

 私は、ああ、やっぱり日本は戦争に負けたんだと、こんどは心のなかで呟いた。それと同時に、パパが帰ってくるかもしれない、という思いがこみ上げた。周囲に気づかれてはならないと、はやる心を抑えながらも、自然に口もとがほころびていくのがわかる。胸は喜びでわくわくと高鳴る。私は早く家に帰りたくてたまらなかった。

 帰宅すると母をはじめ家の者たちは、みんな落ち着いて私の帰りを待っていた。

「ただいま」

「お帰りなさい」

 母が優しく私の顔を見つめて応えた。私は母に言った。

「ねえママ、日本は負けたんでしょ。ラジオはとても聞きにくかったけれど、先生たちのようすでそう思ったの」

「ええそうなのよ。日本は無条件降伏というのをしたのよ」

「パパも聞いたかしら。ねえパパは帰ってくるわよね」

「ええ、きっと帰ってくるわ。でもね、満洲のお祖父さま、お祖母さまがどうしていらっしゃるかと思って、ママはそれがとても心配なの」

 母は重い溜息とともに、胸もとのうちわを持つ手を、力なく膝の上に落した。そして母は続けて言った。

「でも継美、あなた、パパが憲兵隊に逮捕されたとき、本渓湖のお祖父さまの家に行かなくて良かったわよね。そうしていたらいま、親子別々にこの敗戦を迎えなくてはならなかったんですもの」

 そう言えば、あのとき、母は私に満洲の祖父母の許に行くように言ったのだった。ああ、私は、やっぱり、母といっしょにいて良かった。日本がこんなに大変なときに、身体の弱い母ひとりではどんなにか心細いことだったろう。私はあのときの自分の決断が間違っていなかったことを思うと嬉しかった。

 それにしても、満洲にいる祖父母は、この日本の敗戦をどんな気持で迎えていることだろうか。連絡をとろうにも、もうその(すべ)はなかった。

 思えば、明治三十七年、日露戦争のときから満洲本渓湖の地に住んで四十年余り、誠実な民間人として謹厳実直に働き通してきた祖父母だった。この祖父母によって、どれだけ多くの人たちが支えられ救われてきたことか。日本の住民のために、中国の人たちのために、身も心も捧げて今日を築き上げてきたのではなかったか。その血と汗と涙の四十年の努力の結晶が、こんな形で水泡に帰してしまってよいものなのだろうか。そんなことがあってはならない。私は父が帰ってくるかもしれないという期待と同時に、祖父母のことを思い出して胸がかきむしられる思いがした。

 満洲本渓湖の思い出が、一瞬走馬燈のように頭のなかをかけめぐった。そのなかでも、いちばん印象に残っていること、それは本渓湖に近く「宮の原」という日本人町が出来るときのことだった。その頃、祖父はよく馬車を疾駆して宮の原に出かけて行った。私が学校が夏休みで本渓湖に遊びに行ったとき、祖父は私と従妹の良子ちゃんを宮の原に連れて行ってくれた。鼻ひげを生やした祖父は、白いパナマ帽をかぶって馬車の前方に座り、馬のたづなを両手で持って、ドウドウと掛け声をかける。私たちは祖母が用意してくれたお菓子やおにぎりを抱えて、馬車の後の座席に腰掛けた。やがて馬車が走りはじめると、私たちはキャッキャッと声を上げてはしゃいだ。こうして、私たちを乗せた馬車は満洲の壮大な大平原を何時間も走り続けたのだった。

 回想から目覚めると私は、改めて家の中を見廻した。引越しを目前にしていたので、家のなかは布団袋と柳行李で埋められている。日本が負けていまさら海軍武官府でもなかろう。いったいこの引越しは何のためなのだろうか。さっぱりわからなくなってしまった。

 働いていてくれた中国の人たちは、張さんと孫さんの二人を残して、あとはそれぞれにわが家から去って行った。八月十五日を境として、中国は戦勝国となり、日本は敗戦国となった。まさに一夜にして立場が逆転したのだ。よその家では、それまでおとなしかった中国人たちが、急に威張り出して主人に暴力を加えたとか、品物を略奪したとか、さまざまな噂が飛び交っていたが、幸いなことにわが家では、いっさいそういうことはなかった。みんな別れを惜しんで涙ながらに去って行った。

 幾日かののちに、海軍に代わって中国国民党によってこの家が接収されることになり、やはり引越しを急がねばならなくなった。

 その頃、父は八月十五日の終戦詔勅のあと日本領事館警察の留置場に移されていることがわかった。それは釈放が時間の問題であることを意味している。私たちはほっと胸をなでおろした。

 かねてから決められていた新開路という胡同の洋館に移り住むべく、母は暑いさなかを荷物のとりまとめに忙しかった。

「荷物はできるだけ減らしましょうね」

 母はあれこれと荷物を減らそうと思案し、中国の人たちにも気前よく分け与えた。

 こんどの家は前の家とちがって、純粋の洋館建てだった。玄関の扉のガラスは異国情緒豊かなステンドグラスがはめこまれている。広くて薄暗い応接間の中央にはヨーロッパ風のマントルピースがあった。いくつかの古めかしい応接セットがアンバランスに点在して置かれているのが、何ともおもしろい。

 応接間の薄暗さとはうって変って、裏の庭に面しているL字型の廊下は温室のように日当りが良く、私はこの廊下を何度も何度もかけ足で走り抜けてみたものだった。突き当りに離れのような日本間があり、障子を開けると大きな葡萄棚に続いている。そこを母は自分の部屋として整理した。

 この新しい家に来て、私はそれまでの重い胸のうちが払拭されていくのを感じた。ところが、この家には悲しい物語が秘められていることがあとになってわかった。私たちが移り住む前にはフランス大使が住んでいたのだそうだが、その大使夫人が二階のベランダから下の池に飛び降り自殺をしたというのだ。たしかに二階に上がって行くと、庭を一望のもとに見下ろせる広いベランダがあり、その下に楕円形の池があった。噴水の蛇口をひねると辺りを圧するように白い水しぶきが帆柱をたてて立ちのぼった。

 この家は中国的な門のあるほうがいちおうは玄関として使われていたが、いまひとつ反対側に、まったく趣きを異にした西欧風のスマートな門があり、そちらに門番の、これまた、おとぎ話に出てくるような小屋が備えられていた。庭の中央にこんもりと築山のように土がもり上がっていて、その上に丸く芝生が生えている。庭に出てみてわかったのだが、この家には一匹のやせた洋犬が私たちを待っていた。おそらく前のフランスの大使が飼っていたのだろう。その犬はすぐに私になついてきた。私は犬といっしょにこの築山の芝生の上をころげまわってじゃれ合い、仲良しになった。

 以前とちがって、わが家に起居していた人の数は徐々に少なくなっていたが、それでも十人ぐらいの人がいっしょに新開路の家に移った。独身男性は一部屋を二人で使ってもらうことにすると、家全体の三分の二を使うだけですんだ。

 張さんと孫さんはこのときから、どこかへ別に家を持って通ってくるようになった。

 日本が敗戦国となって一ヵ月後の九月十五日、父は釈放された。前年の十二月六日に憲兵隊によって逮捕されてから十ヵ月が過ぎていた。旧華北交通総裁宇佐美氏は、当日わざわざ車を廻してくださり、森川・上田の両氏が父を迎えに行った。

 この日の空は青々として、澄み渡っていた。世界一の美しさを誇る北京の秋は、涼々とした風とともに到来する。地上にいかなる争いがくりひろげられようとも、この北京の秋の美しさは失われることがないのだ。

 私は朝からソワソワと落ち着かなかった。応接間のソファの背に両腕を重ねて、窓ガラス越しに外を眺めながら時間のたつのを待っていた。やがて門の開く気配がして人声が聞えてきた。とうとう父は帰ってきたのだ。森川氏たちにつきそわれて先頭切って歩いてくる父は、あの懐かしい子供のような無邪気な笑顔を満面に湛えて、元気な足取りで歩いてくる。でも何て痩せてしまったのだろう。私の傍に来た父を見上げて、その顔の目尻から頤にかけて深く刻まれた見慣れぬ皺に気づいたとき、私は胸の奥深くに鋭い痛みが貫いたのを覚えている。

 しかし、なぜか私の記憶はここで中断してしまう。あのとき、私はそれからどうしたのだろう。父の胸に抱きついていったのか、父にどんな言葉をかけたのだろうか。父の手記によると、「妻は相次ぐ転変に慣れて、もはや単純に哀楽の色を示さなくなっていた。ただ娘の継美だけは喜んで、すぐにまつわりついてきた」とある。人間というのは些細なことは覚えていても、あまりに大きな感動に直面したときのことは、脳のどこかではじけてしまって覚えていないこともあるらしい。

 それからの父は、久しぶりに温かい家庭のぬくもりを味わいながら、ひたすら健康の快復に努めていた。嵐の前の静けさではあったけれども、比較的平穏に過ぎていった日々だった。それまでは、家にいるときは時間さえあればいつも原稿を書いている父だったが、この頃はもうペンを持つこともなく、母が張さんの奥さんに頼んで縫ってもらった紺色の絹の綿入れの長衣を着て、ソファに横になってトロトロと眠っていることが多かった。十ヵ月間の獄中暮らしがもたらした疲労の度がいかに濃いものであるか、そんな父の姿から私たちは察することができた。

 

最後の面会と引き揚げ

 父が中国憲兵隊に逮捕されたのは寒い冬の日だった。濃いグレーの外套に身を包んで、どことも知れず連れ去られていったあの日から、私は気づいていたのか気づかぬままか、それすらもおぼろげなうちに北京の春は巡り来たって、やがて夏が訪れようとしていた。

 私たちの生活は、生と死の間を行き交う振子のような日々だった。朝、目が覚めれば、ああ、昨日は一日生きのびたのだとふり返り、夜、床に入れば、ああ、今日は一日生きていられたのだと、人の命の重みをくり返し噛みしめた。

 家にいた人たちもほとんどが日本に引き揚げてしまい、母と私のほかは四、五人しかいなくなっていた。

 私たちがいちばん恐れていたこと、父の死刑は、もはや免れることのできない状況だった。人間というものは、生死の境界線上に生きていると、神経も徐々にそのように同化していくものなのだろうか。あんなに恐れおののいていた父の死刑ということも、母も私もしだいに冷静に受けとめられるようになっていた。否、それはむしろ諦めというべきものかもしれなかった。願わくば父に安らかな死を与え給えと、神仏に祈るばかりだった。

「継美、あなたは日本に帰って、これからの人生を立派に生きていかなくてはいけないのよ。どんなことがあっても、あなただけは生き残らなくてはね。でもね、万一、どうしてもという万一のことが起きたときは、ママといっしょに死ぬことも覚悟していてね」

 母は私に何度もこう言いきかせた。最愛の娘に、こんなことを言わなければならない母親の胸中は、どんなにか切なく辛かったことだろう。私は夜、寝床のなかで天井を見つめながら、母の言葉を心のうちにくり返した。そして、ここまで来たった自分の十三年の人生を思った。幼稚園のときも、小学校に入学してからも、私は誰よりも恵まれた幸せな子供だと、みんなから言われ続けてきたのだった。

 私は両親の死、自分の死というものが、いやが上にも絶対的に目の前に迫っているものとして感じられたとき、それまでの自分の幸せがどんなに得がたく素晴らしいものだったかを、改めて痛感した。一人娘の私を、父と母がどんなに愛しみ大切に育ててくれたことか。

〝ああ、もし、パパやママといっしょに生きて日本に帰ることができたなら、私はこんどこそ一生懸命に親孝行をするのに〟

 そう思いながら、またその奥のところでは、

〝私はこんなに幸せだったのだから、もうこれでいいのだ。これ以上は何も望むまい。人の何倍も何十倍も幸福だったのだから〟

 と希望を打ち消そうとする諦めの声が囁くのだった。

 目を閉じれば、それまでの父と母を中心とする梨本一族の温かく楽しい日々がつぎつぎと思い浮かぶ。それはまるで書物の一頁、一頁が、やさしく吹いてくる風にパラパラとめくられていくように、懐かしくさわやかだった。

 たしかに、あの昭和十九年十二月六日の日本憲兵隊事件は、嵐が吹きすさぶような激しさで襲来したし、幾夜、不安と焦燥にかられて眠れぬ夜を過ごしたことだろう。けれども、それまでは、夢見るように美しい日々で満ちていたのだ……。いつしか私の目尻から、ひとすじの冷たいものが頬を伝って流れ落ちていった。

 わが家の生活も窮乏していた。その年の六月、ついに母は獄中の父を北京に残して日本に帰ることを決意した。日本人の一般居留民のための引揚船が終わりに近づいていることも、母の決意を促す原因のひとつだった。

 当時、日本人のなかには、中共地区に逃げていく人も多かったが、私たちの場合、父の身のためにもそれは出来ることではなかった。

 よく晴れ渡った初夏のある日、私は初めて母とともに父の面会に行った。

 満洲国皇帝溥儀の従妹で、男装の麗人として名を馳せた川島芳子の邸宅が日本人戦犯の監獄として使われていたことはすでに書いたが、数奇な運命に翻弄され、華麗なる存在として話題を撒いたこの邸宅の女主人も、そのときはすでに「東洋のマタハリ」して捕えられ、獄中にあった。もし彼女が、自分の住み慣れた家が戦犯収容所と化していることを知ったら、何と思っただろうか。その皮肉なるまわり合せに苦笑したかもしれない。

 母に促されて車を下りると、古めかしい、しかし堂々たる門が目の前に見えた。それはまるで大男が仁王立ちをしているかのような感じだった。大男の股の下をくぐるようなその門を過ぎると、四角い石を敷きつめた庭が白い夏の太陽に反射して眩しいばかりに輝いている。母と私はその庭石を複雑な思いで踏みしめながら、案内されるままに、さらに奥へと進んで行った。驚いたことに、その先には石庭の美しさとはうらはらに両横に冷たい鉄格子の牢獄が建ち並んでいる。 私は唇を噛みしめて鉄格子のなかを見た。すると、私たちに気づいた囚人がいっせいに鉄格子のそばに走り寄ってきて、それぞれに訴えはじめた。

「奥さんもお嬢さんも日本に生きて帰れていいですねえ。僕たちはもうすぐ殺されるのですよ」

 涙ながらの悲痛な叫びだった。その人たちはいつか見たあのトラックの上の囚人と同じ着物を着せられていた。群衆に石を投げられて血まみれになっていたあの囚人と同じ……。その足許を見ると、ジャラジャラと重い鎖がはめられている。足に鎖をはめられているということは死刑囚であることを意味しているのだ。

 母は目を伏せて答えた。

「みなさまがご無事で日本に帰れますように、お祈りいたしております」

 こんなとき、ほかにどんなことが言えるというのだろう。

 私は胸がはりさけそうになるのをこらえながら、黙って案内の看守のあとについていった。どのくらい歩いただろうか。ふと見上げると、さっきのいかめしい門構えとはまるでちがったイメージの、瀟洒な住宅風の建物が曲りくねった階段の上に見えてきた。

 中国憲兵隊は今日の面会をこの美しい建物で行なうようとり計らってくれていた。家族との逢瀬は今生ではこれが最後なのだ。そのためだろうか、当局としては例を見ない特別な措置だった。

 しばらく応接間で待っていると、やがて父が急ぎ足で外の階段を上がってくるのが見えた。リラックスした白い開衿シャツを着た父の姿は、どうみても囚われの人とは思えない。足にも鎖などなかった。父の後から三人の中国兵がついて上がってきたが、これものん気そうな笑いを顔に浮かべている。

 私と母を見て父はニッコリとして片手を振った。

「やあ、よく来てくれたね」

 部屋に入るなり父はそう言った。私は、相変らずの大きな声だなと思った。

 部屋の四方は大きなガラスの窓になっているので、初夏の日の光が余すところなく差しこんで、その明るさは例えようもない。そのときの私には、父との最後の面会がこんな美しい部屋で行なわれるということが、とても有難いことにも思えたが、一方で、あまりにも切ないことのようにも思えた。楽しく愉快な語らいをするために、父や母とこんな部屋にいたのなら、どんなにか素晴らしかっただろうに。

 それにしても、何という美しい庭なのだろうか。前方には広大な石庭があり、後方はまるで廻り舞台が回転したみたいに、うっそうとした緑の木立ちが見える。その木立のなかをけもの道でもあるのか、謎めいた細い小道がどこへとも知れず続いていた。一瞬、日本の敗戦も父の戦犯のことも現実のことではなくて、夢か幻であるかのような錯角に陥っていた。

 だが、ふとわれに戻って、私は父と母を見た。二人はいま、この哀しく厳しい現実をどんな気持で受けとめているのだろう。波乱と激動の時代を、逞しく信頼し合って生き抜いてきた二人だ。だが、天にも地にもかけがえのない人と、もはやこの世では逢うことはこの場かぎりなのだ。これが最後にちがいないのだ。人は愛別離苦から解き放たれて生きることはできない。しかし、こんな形で夫婦、親子の今生の別れを噛みしめなくてはならないとは、この運命をいったい何と言えばよいのだろう。

 私にはいま、あのときの自分の心のうちを表現することはとうていできそうもない。あまりにもありふれた言い方だが、筆舌に尽くせぬ、というのがいちばんいいのだろう。

 あのとき、はじめのうち父は私と目を合わそうとしなかった。私のほうを見ようとしなかった。窓際で母と話していた父の横顔を私はまばたきもせずに見つめ続けていた。

 小太りな父は、よく歌舞伎の市川猿之助と瓜二つと言われて、東京の日本橋辺りを歩いていると、しばしば「よお、親方」と声をかけられたそうだ。

 東京!  日本橋! 母と私はまもなくその日本に帰る。 絵で見たり、話に聞いた日本の桜や富士山を私はどんなに父といっしょに観ることを楽しみにしていたことだろう。父をこの刑務所において日本に帰っても、母と私の二人にどんな生活が待っているというのか。

 遠からず私の目の前から消え去ってしまう父ではないか。いま眺めずしていつ、この父を見ることができよう。しっかりと心の眼に焼きつけておかなくては…… 。

 三十分がまたたく間に過ぎた。面会時間の終わりだ。そのとき父は、やっと私のほうに向いて言った。

「ママと先に日本に帰っていなさい。しっかりと勉強をするんだよ。ママは身体が弱い。ママを大事にして孝養を尽くしてくれたまえ」

「パパ、大丈夫。私はママを大事にするわ。パパは早く日本に帰ってくることだけを考えていてね」

「ありがとう継美。パパは君がいてくれるから本当に安心だ」

 父は私の肩に手を乗せてしばらく目を閉じていた。

「さあ、先に出なさい」

 父は母と私を促して部屋の外に送り出した。さっき上がってきた曲りくねった階段を下りてふり向くと、父は窓ガラスの向こう側に立ってじっと私たちを見送っていた。 私は大きく手を振った。父は、二、三度頷いたかに見えた。父の後方にいる中国の看守たちも、父といっしょにじっと私たちの姿が見えなくなるのを待ってくれている。

 帰りもまた、牢獄の格子の間から幾人もの囚人の顔が、まるでろくろ首が並んでいるように乗り出して私たちを見つめていた。母は目頭を押さえながら頭を下げてその人たちに別れを告げた。私はさっきと同じように、ただ唇を噛んで俯いたままで通り過ぎた。

 

 父との最後の面会を終えると、いよいよ引き揚げのための準備の最終段階に入った。母は日本の着物をすべて張さんと孫さんの奥さんに分け与えた。そのなかにはきれいな訪問着が何枚もあったが、中国の女の人は大変器用なので、それらの和服は、たちまちみごとな中国服に生まれ変った。

太々(タイタイ)謝々(シエシエ)

 張さんと孫さんの奥さんは母に礼を言いながら、嬉しそうにその中国服を身に纏って、細い身体をくるくると廻転してみせた。

「まあ、きれい」

 と私は感嘆した。

「あなたたちお二人とも、なんて良く似合うのでしょう。あなたたちにこうして着ていただいて、着物もどんなにか喜んでいることよ」

 母は目を細めて二人の姿を見つめながら、長年愛用した着物の柄合を愛しむのだった。

 六月も半ばを過ぎた頃だった。私たちにもいよいよ引き揚げの許可が下りた。母と私は大きなリュックサックを背負い、両手に袋を下げて指定された集結所へと向かった。

 あの日の朝、私は玄関を出ると、幾度も幾度も後をふり返った。その新開路の洋館建の家は終戦直後に引越してきたので、住んだ期間は一年にも満たなかったが、そのわずかな時間は、まるで二十年ぐらい暮らしたかのように、さまざまな出来事で埋め尽くされているような想いがしてならなかった。再びこの家を見ることがあるだろうか。

〝さようなら、北京の日々。さようなら、中国の人たち〟

 私は胸のなかでそう訣別を告げ、新開路の家を後にした。私の脳裡にはいろいろな感慨が錯綜していた。

 満洲本渓湖の祖父母はいま頃どうしているだろうか。従妹の良子ちゃんは元気でいるだろうか。みんな無事に日本に帰ってほしい。

 その一方では、父梨本祐平が中国大陸に刻んだ人生の足跡とはいったい何だったのかと考えていた。父と母が、まるで百年も生きたように思える情熱を凝縮して築いてきたこの中国の生活は、歴史の大きな流れのなかで、いったいどんな役割を果たしたというのか。それともそれは、まったく影も形もなく消え果ててゆくようなものだったのだろうか。

 止めどなく、まとまりなく、私の頭のなかはそうした思いであふれそうだった。

 

 北京を去る日の朝は、みごとに晴れ上がっていた。母とともに集結所の門を出て、用意されたトラックに乗りこもうとしたとき、

太々(タイタイ)小嬢(シヨウジエイ)

 と私たちを呼ぶ大きな声が聞えてきた。張さんと孫さん、そして家族全員の姿が見えるではないか。私たちを見送るために、こんなところまで朝早くから来てくれたのだ。

「ああ、みんな見送りに来てくれたのね。ありがとう、ありがとう」

 母と私はトラックの上から身を乗り出して、一人一人と固い握手をした。涙は止めどなく流れるけれど、拭いてなどいられない。

「さようなら、さようなら、みんな元気でね。いつかきっと会える日がくるわ」

 時間は迫る。トラックはしだいに速度をあげて走り出した。

(ツアン)! (ソン)!」

 私は遠く空気を貫けとばかりに、声を張り上げて二人の名を呼んだ。張さんも孫さんも、家族全員が髪を振り乱し、泣き叫びながら、どこまでもどこまでも、トラックを追いかけてくる。母も私も泣いた。

 それまで私たちは毎日毎日が緊張の連続で、声をあげて泣くことすらなかった。だが、もう泣けるだけ泣こう。涙が枯れるまで泣き続けよう。張さんや孫さんの姿が遠ざかる。みんなの姿が涙で遠くかすむ。

 私は張さんや孫さんの小さな子供たちにはほとんど会ったことがなかった。それなのに、その子供たちまでがいっしょに送りにきて、涙を流してくれている。父も母も私も、何にも増して中国を愛していたのだ。北京を愛したのだ。そしていま、別れようとする中国の懐かしい人びと。たとえ国が異なっていようとも、おたがいの国の長い戦いの歴史があったとしても、私たちにとってはこよなく大切な人びと、兄弟同然の人びとなのだ。私が日本に帰って生きてゆく前途に、これほどに愛しい人びとと巡り合うことが、はたしてあるだろうか……。

 私たちを乗せたトラックは、限りない思い出に満ちた街並みを後にして、北京の停車場に向かって疾駆した。

 

 日本人引揚者は無蓋車に乗せられて天津に運ばれ、そこから塘沽(タンクー)まで行くことになっていた。天井のない無蓋車で運ばれる日本人引揚者たちは、これまでしばしば途中の駅で中国人の群衆に荷物を略奪されたり、石を投げつけられたりしたようだが、幸いなことに私たちが乗せられた列車は有蓋車だった。引揚者が有蓋車に乗せられたのは初めてのことだという。ところが有蓋車とはいっても、牛馬の運搬にでも使われていたのだろうか。列車のなかには薄汚いゴザが敷かれているだけで、ムーンと何とも言えぬ匂いが鼻をついて、一瞬私は吐き気のようなものを感じた。私たちは牛馬と同様に、あるいは荷物を積み込むかのように、列車に押しこまれた。ゴロゴロと音をたてて重い扉が閉められると、車内は真っ暗だ。ガサガサと荷物のなかを探って懐中電気を取り出すと、たがいに隣りの者を確かめ合った。

 ガタン! 大きな音をたてて列車は動きはじめた。ほの暗い懐中電気の灯りのなかにも、みんな緊張と不安のために顔がこわばっているのが読みとれる。ほとんど口をきくこともなく、家族同士で身体をもたせ合いながら、あるいは自分の膝を抱きこんで黙りこくったままに、列車の動きに身を委ねる以外、どうしょうもなかった。

 列車が走り出して何時間かがたつと、私はしだいに落ち着きをとり戻した。

 列車といえば、私は母に連れられてよく北京から本渓湖に行ったが、あのとき乗った、あの豪華な展望車。中には座り心地の良い大きなソファが楕円形に並べられていて、ところどころに置かれたテーブルの上には、香り良いお茶が用意されている。そのぜいたくな雰囲気のなかで、たまたま乗り合せた者同士が、まるで旧知の間柄ででもあるかのようににこやかに談笑していた。母の前に三十歳前後の上品な男の人と女の人が座っていて、どちらからともなく言葉をかけ合い、楽しげに会話を交わしたりして……。

 そんな私の想いを遮るかのように、私たちを乗せた有蓋車は何度も急停車した。何でも、他の箱では、中国人の群衆が扉をこじ開けようとして石のつぶてが飛んで来たとか。だが、私たちの乗った貨車にはまったくそんな気配もなく、静かだった。あまりに何事もなく、無事に塘沽に降り立って、私はいささか拍子抜けがした。

 初夏であるのに寒々とした収容所に入れられると、あとは船に乗るのを待つばかりだ。いったい何日この収容所に留め置かれるのか、誰にも予想がつかなかった。伝染病の患者でも出れば、それこそ大変だ。

 その上に、ここまで来てもなお、日本人引揚者には最後の恐怖が残っていた。中国側は収容所に入っている者のなかに捜索中の戦犯者と同じ名前の者がいると、その人を呼び出すのだ。名前が違っていても、苗字が同じならば残されてしまう。つぎつぎと名前が呼び上げられるたびに、みんなビクビクと身を震わせた。

「小林、鈴木」

 そう呼ばれると、その名の人たちが、ぞろぞろとどこか別の場所に移されていった。

 その収容所がどんな建物だったのか、あるいはテントだったのか、私は入ったきり外に出ていないので覚えがない。それでも毎日、三度三度こうりゃんの主食と、薄い味噌汁に野菜のおかずが運ばれてきたような記憶がある。何もすることがないので、大人たちはただ、たわいのないおしゃべりで時を過ごしていた。そのなかには乳児を抱えた母親もいたし、足の弱った老人もいた。

 私の記憶するかぎりでは、この収容所のなかの人間関係は温かいものだったように思う。同じ運命を辿る者同士が、いたわり合い、励まし合って乗船の日を待っていた。平和な現在の人間関係のほうが、むしろ思いやりを失っているかに感じられるとき、皮肉な思いにとらわれてならない。

 塘沽(タンクー)に着いてから一週間ぐらいたっただろうか。ようやく、私たちはLSTというアメリカの貨物船に乗せられることになった。久しぶりに仰ぎ見る大空と太陽の光は、さすがに眩しくて、一瞬立ちくらみを覚えた。大気に包まれていることの何とも言えぬ嬉しさが身体に漲るのを感じた。

 最後に残っているのは荷物の検査である。私たちは外に出ると、男性と女性に分かれて整列させられた。男性のほうは男の検査員、女性のほうは女の検査員が担当することになっていた。母と私が並んだ列の検査員は、紺の制服に身を固めた細面の美人だったが、身重な身体で、いかにも気だるそうに、のろのろと歩きながら形通りの検閲をした。早期の引揚者たちは、この検査が大変厳しくて、ずいぶんといろいろなものを押収されたらしいが、終わりが近づくにつれてしだいに検査も簡単になっていた。けっきょく、私たちの荷物のなかからは仁丹一箱が押収されただけだった。中国人にはことのほか仁丹が喜ばれたのだ。

 検査を終えると引揚者たちはぞろぞろと列をなしてLSTの甲板に上がって行った。母と私は甲板に上がると、荷物を下ろすのももどかしく、船の手すりに走り寄って、遥かな大陸の彼方を眺めた。そして港の岸壁に目をやったとき、ハッと驚いた。前方の堤防の先端に孫さんの姿があったからである。おしゃれな孫さんは、見慣れた黒いソフト帽をまぶかにかぶり、黒の長衣を着て、吹く潮風を正面に受けながら船のほうを向いて立っていた。

「あっ」

 と声を出しかけた私の口を、母があわててふさいだ。

「ダメ、呼んではダメよ」

 こんな所に中国人ではあっても関係者以外の者がいれば、怪しまれて連行されてしまうかもしれない。事実、そういう例が何件かあったと聞いていた。彼はあえて、そんな危険を犯してまでも、最後の最後まで私たちを見送りにきてくれたのだ。手を振ることもできない。ただ、彼の立っているほうを向いて、目を凝らして立っているしか応える方法がなかった。

 それにしても、孫さんはどうして私たちがこの船に乗ることを知ったのだろうか。彼はたぶん私たちの乗った列車の跡を追って塘沽に来たのだろう。そして、船が出帆するたびに、あの堤防に立って見守っていたにちがいない。黒の長衣の裾をハタハタと風になびかせながら、直立不動のその姿は、まるで三角形の旗が遠くはためいているかのように見えた。

 ボーッと尾を引くような鈍い汽笛が鳴った。その響きは、この船に乗っている人たちの、語っても語り尽くせぬ思いを、すっぽりと包み込んで、限りなく高い空の綿雲のなかに吸いこんでしまうような、茫洋とした余韻を残して消えていった。

 船体は、やがてゆるゆると岸壁を離れていった。囚われの身の父を中国の地に残し、波乱に富んだ幾多の思い出を胸に抱いて、母と私は愛する中国大陸の地を去ろうとしていた。

 黒い長衣の孫さんの姿が地平線のなかに吸いこまれていくように、小さく小さくかすんでゆく。やがてそれは一つの黒い点となり、ついに見えなくなってしまった。

 母と私と、そして船上の人たちは、大波のうねりの彼方に、遙かに遠のいていく中国大陸を、涙で頬をぬらしながら、船の甲板に立ちつくしていつまでも凝視していた。

 

 引揚船の海の旅を終えて、母と私は遠縁を頼って岡山に落ち着いた。

 満洲本渓湖からは、祖父母も従妹の良子ちゃんも無事に日本に帰ってきていた。母は小さな小間物店を営み、私は地元の小学校六年に編入して、毎日通学しながら、半ばあきらめつつも、父のその後を思う日々を送っていた。

 奇蹟は昭和二十二年一月四日におきた。私たちが引き揚げてから約六ヶ月のちのことである。父は生きて日本に帰ってきた。父は救われたのだ。

あの川島芳子邸跡の刑務所で、これが今生の別れと悲しい面会をして母と私が引き揚げてのち、父の身にどのような展開がもたらされたのか。父の手記を引用して、そのようすを記しておこう。

 私が死刑を宣告されてから、約一ヵ月ほどたった十一月中旬のある日、午前十一時頃、看守の兵が、

梨本(リーペン)

 と言いながら房の錠前を外して、私に出てこいという手つきをする。いよいよ死刑の執行だ。せめて最後だけでも日本人らしく見苦しくないようにと思い、同房の人たちにていねいに挨拶した。

「いろいろお世話になりました。本当に感謝にたえません。それから私のこの荷物 (布団、毛布、着替え、書籍など)は誰かにわけてやってください。お願いいたします」

 と言って房を出た。各房の格子戸に集っている人たちにも、

「いろいろお世話になりました。ご厚志は決して忘れません」

 といちいち言葉をかけ、頭を下げながら、自分では強いて気持を落ちつかせたつもりで、静かに階段を昇って検察官室に入った。筋書きはもう知っている。これから両手を後手にがんじがらめに縛られ、判決文を書いた板を首から胸と背に吊されてトラックに乗せられるのだ。少しでも醜体を見せたくないと思ったので、あり金をポケットにかくして、トラックに乗る兵に与える準備までした。金を与えれば、少しは乱暴な取扱いを柔げてくれるだろう。

 劉検察官の前に立つと、劉検察官は兵に私の鎖を解かせ、私を連れて、二階の廊下を伝わって奥の検察総長の室に導いた。私は少し不審に思いながら、劉検察官について入ると、検察総長は、黒地に金のモールをつけた法服に、法官帽をいかめしくかぶったまま、

「梨本祐平の死刑を免除し、無罪釈放する。被告の犯した中国侵害の罪は許し難いが、被告は、戦時中、中国農民をよく愛撫し、中国人民のために尽したる功績により、中国刑法は寛大なる特例をもって、梨本祐平を無罪とするものである。右宣告す」

 という意味の宣告を言い渡した。

 私は信じられなかった。これは本当の現実のことか? 夢ではないのか? と疑った。検察総長は、私の疑惑がわかったらしく、今度は言葉も柔かく、口辺に微笑さえ浮かべて、

「梨本、お前には中国によい友があって幸いだった。皆でお前の助命嘆願書が出たので、孫連仲閣下が寛大なご措置をとってくださってお前は助かったのだ。その人たちは昨夜から此処に集って、お前の釈放を待っている。早く会ってよく礼を言うとよい」

 と言う。まだ私が呆然として立っていると、今度は劉検察官が、

「さあ、皆が待っている。皆のいる待合室に早く行け ! 」

 と言って、兵になにか命令した。兵は目で私に行けと言う。 私は検察総長と劉検察官に丁重に礼を述べて兵と一緒に室を出た。階段を下り、中庭を突っ切って、客庁(こうてん)(お客を引見する室 ) に行くと、

「梨本先生 !」

 と言いながら、パッと花の咲いたように一人の女性が飛び出してきて、私の胸にすがりついて泣き出した。

「おお、芳春、麗香もか、君たちか、僕を助けてくれたのは!」

「私たちだけじゃない、あすこにまだ大勢いる」

 この時、孫連仲先遣部隊の参謀将校として、参謀肩章をつった揚錦南と、病気が癒えてロックフェラー病院から脱走した呉謙が、

「梨本先生、あの節は本当に有難うございました。お蔭で健康になって、先生には申し訳ないと思いましたが、先生のお言葉通り、祖国のために働くことができるようになりました。今度は、先生を死刑にするなんて申し訳ありません。幸い、揚錦南君が孫連仲閣下の副官をしていられたので、皆の嘆願書を取り次いでもらいました」

 と助命嘆願の経過を手短かに語った。こうしている間に、

「梨本先生、助かってよかった」

 と言いながら、ぞろぞろと私を取り囲んだ。アッと私は声をあげた。欒県村長、昌黎の村長、河洛尹の班長など二十人以上もいる。…… 突然、目先きが霧のようにかすみ涙がとめ度もなく流れ出してきた。

 芳春と麗香と呉謙、それに揚錦南がかわるがわる今日までの事情を説明した。

 私が戦犯で逮捕されたということは、しばらくたって皆が知った。それで心配していると、ある日、私の死刑宣告の新聞記事が出た。揚錦南、呉謙、芳春、麗香等は、近県の村長に助命嘆願の相談をしたところ、彼等は非常に賛成して「われわれが助けてもらった梨本先生を、われわれの手で救い出すのは当り前だ」と村から村へ、村長から主要な農民に急速に働きかけて、さっそく助命嘆願運動に取りかかった。助命嘆願書は呉謙が書いて、揚錦南が、以前からの私の知己であるということを前提として、孫連仲中将に助命嘆願を説明した。それから彼等は検察総長に嘆願し毎日熱心に、私の助命運動を開始したのだ、というのである。

 当時、日本人戦犯と、その以前にかなり昵懇であった中国人も相当にあったが、彼らはうっかり日本人戦犯の友人であるといって、疑いをかけられることを恐れて、いずれも知らぬ顔をしていた。また少しぐらい助命嘆願が出ても、てんで受付けてくれなかった。その中で、わざわざ山海関近くや津浦線沿線の農村から、北京まで出てきて泊りがけで助命運動をしたり、揚錦南のように孫連仲中将に直接働きかけたり、あるいは芳春、麗香のように検察総長に、断わられても断わられても助命嘆願を止めなかったので、遂に、孫連仲、検察総長も、その真意にほだされて、日本人戦犯で、嘆願運動によって、ただ一人、私だけが助かったのだ。

 私はそれを聞きながら、涙が滂沱(ぼうだ)と流れてやまなかった。

 

(附)父・梨本祐平と母(美津子)そして息子(正博)に捧げる

 2010年2月6日横浜地方裁判所は、太平洋戦争下の特高警察が研究者・編集者に治安維持法違反で逮捕、拷問を加えた思想・弾圧事件として有名な「横浜事件」の関係者被告に実質無罪を言い渡した。もし、今父が生きていればと思うと感慨一入である。

 私の父梨本祐平は、1944年12月6日北京の自宅において北京駐在の日本の憲兵隊に治安維持法違反の嫌疑で逮捕された。満鉄調査部部下36名とともに一斉検挙であった(いわゆるもう一つの横浜事件といわれている)。私は小学3年生であったが、父逮捕の瞬間を目撃している(父は自叙伝『中国の中の日本人』にも書き残している)。

 父は、国民新聞、聯合通信社記者として活躍していたが、松岡洋右の懐刀として満鉄に入社。中国人経済研究者との交流をはかる傍ら松岡洋右、近衛文麿のブレーンとして中華臨時政府の設立、汪兆銘工作にも加わっていた。一方北京の自宅には、田村俊子をはじめ横光利一など多くの文学者、編集者らが訪れ、さながら文学サロンを形成していた。

 父は、治安維持法違反の嫌疑で北京憲兵隊に逮捕、拘留。終戦で保釈されたが、今度は中国側の憲兵隊に逮捕され、死刑の判決を受けた。しかし、中国人の助命嘆願運動の結果無罪になり祖国の土を踏むという波乱万状の人であった。戦後は、現在の労働金庫を創設。岡山県勤労者信用組合(現岡山労働金庫)と全国労働金庫協会初代理事長を務め活躍した。

 私の人生は、父の存在に大きく左右され、いやが上にも数奇なものであった。この『風の鳴る北京』を書き始めた要因は、数奇の延長線上にあるかもしれないが別にあった。それは、最愛の一人息子に先立たれたことである。31歳で逝った息子を描くことは出来なかったけれども常に息子と共にペンを走らせているように感じられてならなかった。それは、私にとっては何もまして心の安らぐ時の流れだった。

その間に荒唐無稽とは思いつつも、オーストリアのエリザベート皇妃がルドルフ皇太子を失った心情を重ね合わせてジュネーブに飛んだこともある。日本を離れレマン湖の船上でひとり息子を偲びながら宿命という言葉を噛みしめた。

 そういう意味においてこの『風の鳴る北京』は、父母(梨本祐平・美津子)と共に眠る今は亡き最愛の息子(正博)に捧げるものである。

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2017/01/26

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川合 継美

カワイ ツグミ
 1934年横浜生まれ。1歳半より北京で暮らし、13歳で岡山に引き揚げる。著書に『同舟 欧陽可亮伝』(1997年、中国社会科学出版社刊)ほか。

掲載作は『風の鳴る北京』(1993年、同成社刊)よりの抄録である。

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