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検索結果 全1058作品
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評論・研究 人生派の批評と藝術派の批評
一 文藝批評の標準又は態度といふことが、事新しく最近文壇の一つの問題となつたが、この問題の解決は、要するに人生派の批評と藝術派の批評との是非論に外ならない。今更いふまでもなく文藝批評の標準を、鑑賞家乃至批評家の主観以外の外的な境地に求めるやうなフォーマリズムの批評は、今日ではすでに跡を絶つた。「人は皆自己を標準として万事を判断する。人は自己の外に何等の標準をも持たない。」と云つ
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小説 悪魔祈祷書
いらっしゃいまし。お珍しい雨で御座いますナアどうも……こうダシヌケに降り出されちゃ敵(かな)いません。 いつも御贔屓(ひいき)になりまして……ま……おかけ下さいまし。一服お付けなすって……ハハア。傘をお持ちにならなかった。ヘヘ、どうぞ御ゆっくり……そのうち明るくなりましょう。 どうもコンナにお涼しくなりましてから、雷鳴入
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小説 雪の夜
雪の夜 救急車のサイレンが聞こえてくる。硝子戸の外には雪が降っていた。 深夜に出動した救急車は次第に住宅地に近づいてきた。まるで、静かに降り積もった雪を大きな身振りで蹴散らさんばかりの勢いである。 この冷え込んだ夜に近所に急病人が出たのだろうか。まさか祭りのときのようなはしゃぐ気持ちを各家に告げながら、サイレンをばらまいているのではないだろう。住民の深い眠りを妨げる。 サイレンが少
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小説 火の柱(抄)
(十四 承前) と篠田はお花を奨(はげ)ましつ「誠(まこと)に世の中は不幸なる人の集合(あつまり)と云うても差支(さしつかへ<
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詩 座り直す
目次 座り直す 闇のむこう めぐる 息を詰める 耳鳴り 来世など信じない 花びら 古い新聞 魂よ
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評論・研究 横浜事件の真相 再審裁判へのたたかい(抄)
目次 降伏放送直後の細川レポート 敗戦直後の裁判所側のうろたえざま 事件のでっち上げは誰の謀略か 出獄直後の体調を整える ぼた餅のたべ方を知らない日本人 笹下会の結成と共同告発 <a href="#C7
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小説 操(みさを)くらべ
春 心ありて風のにほはす梅のそのまづ鶯の問はずやあるべき 香り来る、花のたよりに皆人の、はるばると問ふ梅の園、いづれおとらぬにぎはひに、人の心も興ずめり、茲(こゝ)ハ都に程近き、亀井戸村に其名さへ、老松(おいまつ)と聴(
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随筆・エッセイ 文芸編集者 その跫音(抄)
改造社解散前後 昭和十年代が、日本の近代文学史上、際立って多彩な収穫期だとするのが定説になっているが、それは太平洋戦争の勃発によって終止符を打たれたといってよい。端的なあらわれは、その年の夏、東京新聞に連載中の徳田秋声氏の「縮図」が当局の圧力によって掲載中止させられたことであった。 時勢はそこまできているのかという感が私たちの胸に痛烈にきた。『文藝』にあっても、昭和十四年に高見順氏の「如何なる星の下に」、十五年の中野重治氏の「空想家とシナリオ」の連載以後は、これという佳品は得られなかった。表現の自由を奪われた文学者の大半は沈黙せざるを得ず、しか
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工場から帰つて見ると置き手紙があつた。筆跡は同居人の吉村である。 「僕の帰る迄待つて居てくれたまえ」と、吉村は私が今夜九時迄に工場分会に集会が在るので、出席しなければならない事は知つて居る筈だつた。それなのに、私が工場から帰るのを待たずに、置手紙をして行つたのには、分会に対する特別の問題があるのか、又は分会の集会よりもつと重大な仕事が出来たのか、何(いず)れかだつた。七時が過ぎ八時が過ぎても吉村は帰らなかつた。分会では私の行くのを待つて居るだろうと思うが、吉村はそれを承知の
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大統領よ ぼくらの大統領よ おくらせてもらおう すぐ消(き)えるようでいて消(け)せない手紙を きみに 夢の絵文字になって現われるようにとの 真夜中の手紙を 心が植えた真昼の手紙を 光をあてれば雲と散る夢もあれば 謎ときの光
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詩 予兆
1 ぼくらは ひととき その予兆に たじろいだ 原始の沃野から 古代から 中世の信仰へ その中世から 言い伝えられた魂のように 上昇する一瞬の 煙となって ぼくらの肉体のすべてが焼きつくされる日 ぼくらの家が バラックが ぼくらの樹木が 黒く 全人類の 全地球の 空を焦が
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評論・研究 只野真葛小伝
父と娘 只野真葛は江戸女流文学者の中では、ひときわ大きな異色の存在であるが、その生涯や作品が一般に広く知られているとは言いがたい。他の女流文学者たちも同様である。今、真葛の作品を論ずる前に、その生涯を一通り辿ってみたいと思う。 真葛の生涯を考えるときに、その父工藤平助の存在を抜きにすることはできない。父平助の活躍期と真葛の成長期は、綯いあわされた一本の綱のように絡まっており、また真葛の後半生も強く父に規制されている。 只野真葛は宝暦十三年(一七六三)、江戸日本橋数寄屋町で生まれた
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随筆・エッセイ 江戸女流文学に魅せられて
江馬細香との出会い もう三○年以上前のことになる。ある日、故中村真一郎氏の随筆『氷花の詩』(冬樹社・昭和四六年)を読んでいた。亡くなった金沢の友人が「二冊あるから」と貸して下さったものだ。私は以前から中村氏のエッセイ、評論を愛読していた。氏は作家でありフランス文学者なので、当然ヨーロッパ全般の文学に造詣が深く、また平安王朝文学にも通じておられる。『氷花の詩』には中村氏の知の世界が、西洋と日本を、現在と過去を自在に往き来して、縦横に語られていた。 <p
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小説 風呂場の話
風呂場を建てよう、と言い出したのは父だった。 「木は山へ行ったら、いくらでもあるけん」というので、僕は父について山へいった。 僕はそれまで、父の山へ行ったことがなかった。 「お前もうちの山がどんな山か、どこが境か見ておいたらいい」と父は言った。 「うん」と僕はきまり悪げに返事して、この年がきて(僕は今年、満三十七才になった)まだ父に百姓仕事は任せ切り、気儘な学校勤めをしていることを恥ずかしく思った。僕はこの家へ養子に来てから、ほんとに百姓仕事はしなかった。しなかったというよりは、そんな百姓仕事を極端に嫌って、スキがあれば
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随筆・エッセイ 『キング』創刊前後
禍の効用 大正十二年(1923)の震災によって、直接間接こうむった損害を金に見積ったらどれくらいになるか、かなりの額に上ったのであるが、しかしあくまでも「禍の効用」を信じてやまない私は、むしろこの災難がもたらした利益の方を計算したい。その利益の一つは、私がそれまでに企図した最大の計画、すなわち大正十三年(1924)の一月を目指して準備を進めつつあった『キング』の発刊、これが震災に遭って延期を余儀なくされたことである。この延期のために、
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評論・研究 異国情調の文藝運動
序 説 「パンの会は一面放肆(はうし)なところもあつたが、畢竟するに一の文藝運動で、因循な封建時代の遺風に反対する欧化主義運動であつた。例の印象派の理論、パルナシャン又サンボリストの詩、一体に欧羅巴(ヨーロッパ)のその頃の文藝評論などが之に気勢を添へ、明星又スバル、方寸、屋上庭園、或は自由劇場といふやうなものの起つた時代
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評論・研究 結城信一の青春
1 二つの『百本の茨』 結城信一が六十代最後の仕事としたのは『百本の茨』の完結であった。 『百本の茨』とは、亡くなられた年、昭和五十九年の「新潮」五月号に〈序章〉にあたる「有明月」を、三ケ月後の同誌八月号に〈其二〉にあたる「暁紅」の二篇のみが発表されただけで、結城信一の死により惜しくも中断し、未完に終った自伝的連作小説の標題なのである。この未完の長篇『百本の茨』は、結城信一が命を賭し、最後の精魂を傾けた仕事であったことはいうまでもない。 じっさい、《「新潮」五月号から断続的に小説を書きます。序章を書いただけで
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詩 連詩 風化
目 次 更 地更 地 (2)剥離する記憶風化するとき風 化 更 地
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随筆・エッセイ 女性作家七人語
湘烟女史 中島俊子 湘烟女史は、必ずしも作家といふ分類にピッタリと納まる人ではないが、明治及びそれ以後の女性に就いて語るときには、政治であらうと、婦人運動であらうと、社会運動であらうと、文芸であらうと第一に出される大きな名だ。それだけ偉い女性だ、偉いといふ点では明治以後、下田歌子を除けたら、これ程偉い女性はゐなかつたらう。人真似もかういふ真似はいゝと思ふから、私も湘烟女史のお話から始める。 女史の伝記はいつか詳しく紹介してもいゝと考へてゐるが、此の号ではいづれ誰かゞ書かれるかとも思ふ
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詩 岸壁の国
薄い黄色の 菩提樹の花が終わる頃 ブレストのバスターミナルから ポルスポデール行きのバスに乗る 体格のいいブリュネットのおばさんの運転する大型バスが 街の西側の郊外へ出て きれいに整備されたオートルートをゆったりと行く はじめのうちは万国的な郊外風景 サンルナンをすぎて 「プルーダルメゾーへ17k」の標識を読むころ あたりに建物の影がうすれはじめると ラベンダーとトウモロコシ