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嵐に抗して<昭和5年(1930)発表>

 工場から帰つて見ると置き手紙があつた。筆跡は同居人の吉村である。

「僕の帰る迄待つて居てくれたまえ」と、吉村は私が今夜九時迄に工場分会に集会が在るので、出席しなければならない事は知つて居る筈だつた。それなのに、私が工場から帰るのを待たずに、置手紙をして行つたのには、分会に対する特別の問題があるのか、又は分会の集会よりもつと重大な仕事が出来たのか、(いず)れかだつた。七時が過ぎ八時が過ぎても吉村は帰らなかつた。分会では私の行くのを待つて居るだろうと思うが、吉村はそれを承知の上で置手紙をして行つた以上、待つより外なかつた。然し十時が過ぎ十一時になつても吉村は帰らなかつた。私は或る予感の様な物を感じた。分会とは別個な重大な用で、危険な所へ行き、検束されたのでは無いかと、十二時迄待つたが、吉村は遂に帰らなかつた。今夜はもう帰る見込は無いと思つたが、それでももし帰るやらわからないと思つて、私は吉村の床もとり一人横になつた、だが吉村の事が心配になつて眠れなかつた。私達は普通の場合は外泊を絶対に禁じ合つて居た。どうしても途中が危険な時とか、或は余り遅くなつた場合は止むを得ないが、なるべくそう云う事のない様に総べての仕事をはきはきやつてのける様に、互に話合つて居た。でなければ、捕われない為めの安全地帯である、秘密なアドレスは、何の役にも立たないわけだ。吉村は私と同居してからは、外泊した事はなかつた。

 翌日私は六時に目を(さま)したが吉村はやはり帰つて居なかつた。私は遠まわりして、彼の欠勤とどけを出し、自分の工場へ行つた。工場から帰ると私は直ぐ階下の主人に吉村が帰つたかどうかを尋ねたが、帰つては居なかつた。いよいよ吉村の検束された事は、事実と思うより外なかつた。それにしても何処で検束(やられ)たか、それを確めねばならない。検束(やられ)た場所に依つては留置の日数も見当は付くし、又場所が場所なら、私も吉村と同居して居る以上、吉村と同じ運動をして居ると目を付けられる事は当然であるから、早く転居しなければならなかつた。若し、私が捕まるようなことがあれば、たとえ吉村がどう自白して居るとしても同居して居た事及び其の他の事を否定せねばならなかつた。

 吉村も私も、良く武村の所へ遊びに行つた。武村は現在は四・一六の犠牲者として市ガ谷に居る。武村が捕われてからも私達は遊びに行つた。妻君はミシンで自活をして居り、外に多少は意識のある婦人が二人居た。武村はインテリ出ではあるが、しつかりした男だつた。が、妻君はどちらかと言えばのんきな方だつた。だからと云うわけでもあるまいが、武村の家は合法性が充分あつた。スパイは、武村の家を問題にして居なかつた。私達は自分のアドレスを秘密にしておく関係上、(ほか)に合法的なレンラク場所が必要だつた。私達は半非合法程度のレンラクは武村の家を使つて居た。私は昨夜も吉村は、武村の家へ行つたかも知らぬから何時頃行つたかそれによつて、彼の行く先を調べ様と思つて、武村の家に向かつた。私が武村の家の前迄行くと、入口の戸が開いて居り、妻君が一人ぼんやりと入口に腰掛けて居た。 中には誰も居ないらしく静かだつた。妻君が私の顔を見ると手で帰れ帰れと合図した。私達は此の家ではいつでも冗談ばかり云つて居た。真面目な話を意識的にさけた。だから妻君達は私達の顔を見ると時々軽いいたずらをした。又私達もそれに引かかる事も度々あつた。私は又初めたなあ、と思いながら笑顔をして妻君の方へ近づこうとした。すると妻君は裸足(はだし)のまま飛び出して来て私をつかまえ、物も云わず真剣に押返した。私は此れはあぶないなと思つて直ぐ引返し、小路に入り小路から小路を通つて姿をくらました。私は吉村が此処で検束されたのかも知れないと思つた。此処でないとしても、自分達がレンラク場所にしておく以上は、誰が検束されたか、又誰を検束仕様と云うのか、それを調べねばならなかつた。私は武村の家と一番レンラクの多くある高田の家に足を向けた。高田は家に居る事は少なかつた。工場から自分の家へは帰らず、直ぐ用のある方へまわつて終うので、夜半か又は朝早くでなければ居る事は少なかつた。でも折良く高田は居た。高田は私の顔を見ると直ぐ、

「吉村がやられたのを知つてるか?」と尋ねた。私は、

「今調べに来たのだよ」と云つた。

「まあいいや、上がれ」と元気良く先に階段をあがつて行つた。高田の話によると、一昨日未明に武村の家は総検束された。それもA暑とK署が共同であつた。検束された人達はA署に持つて行かれ、共同で取調べられた。吉村と私を捕まえ様と云うのだ。だけど武村の家で私達のアドレスを知つて居る者はないのだ。尤も外にも知つて居る人はないのだが、それで妻君達はカミの毛を持つて引ずり廻され、皆の居る前で裸にされ水をひつかけられた。だが知つて居つても自白はしないのに、知らなければなおさらだ。スパイ共は、仕方なく私達が武村の家に行つた所を捕まえ様と、妻君だけ帰し(おとり)として自分達は裏にハッて居たのだ。後の話だが其れと知らぬ塚本が、ノコノコ行つて捕まり、お前は吉村だろうと、可成やられた。今でも、塚本に会うと、笑談にウラミ事を云われる。其の翌日つまり昨日だ、吉村は余り注意もせずに行き捕まつたのだ。捕まる時にはずい分暴れまわつたが、スパイは五人も居り、私達を大物と思つたのか皆武器を持つて居やがつたので遂に捕まりA署でなくK署に持つて行かれたのだ。武村の家はA署の管内だが、K署から来たとすれば、私達にも運動上からも相当に問題だ。私は今後非合法の人にならなければならないかも知れぬと思つた。絶対非合法の人になると特に顔の知れて居る人は危険ばかり多くて運動はしにくかつた。 何しろスパイの追及は激げしくなるので、交通費はかかるしヘタな工場へは行つて居られないので失業が多くなるから、金も手には這入らない様になるのだつた。それに捕まつたら其れが最後なのだから、どうしても命がけで逃げねばならない。逃げる時には金は少なくとも五圓や十圓は持つて居ないと、思う様に乗物を利用出来なかつた。

 A署は本所だがK署は東京の西の府下にあるのだ。其のK署には四・一六後引続き幹部が捕まり、戦線は四分五裂になつて居る中を、一人活動して居て遂に捕まつた(うち)幹部の森君が留置されて居たのだ。此の森君と私達とのレンラクが一ヶ月前に切れて終つたのだ。無論私達も彼は捕まつたとは思つて居たが、其の当時は四・一六直後だつたので、我々の周囲からも多くの同志はうばわれて行つて居た。私達は其の同志の後を引続き活動すべく、森君から引次いで居る時に捕まつて終つたのだ。其後私達は上とのレンラクはタチ切られ、工場の細胞ははつきりと知れず、活動したくもどうすれば良いのか見当も付かず困つて居た。其の後上とのレンラクは兎に角付いたが、書記局がやられて居たので、工場細胞はやはりわからなかつた。其の時森君からレポが来たのだ。十日ばかり前だつた、私が武村の家に行くと妻君が、

「森さんからレポが来たよ」と云つた。私は喜んだ。妻君及び婦人達の話に依ると、レポに来た男は、四十歳前後で身体のガッシリした眼光のするどい、一クセのあり相な面構(つらがまえ)の男だつた。

「森君からたのまれて来たのだが、吉村と云う人は居りませんか? 木村と云う人でも良いですが」と云うので妻君は、

「居りませんけれど、時々は来ますから用件を書いて行つて貰えば間違いなく渡します」と云うと、

「いや、そんな事は出来ない。秘密な事だから……是非会つて話さなければならない」と云つて居るので妻君は、

「それでもし来たら、そう云つておきます」と云うと、

「では又、九時頃来るから」と云つて帰つて行つた。私はどんなことをしても是非此の男に会わなければならないと思つて、おそくも九時迄には必ず来るから、来たら待たせて置いてくれと、妻君達にたのんで、私は武村の家を出た。出る時には、同志に会う約束の時間が定まつて居るので、いそぎは仕なかつたが、帰りにはガマ口のソコを叩いて青バスに乗つた。私が武村の家に着いた時は九時に二十分もあつたが、其の男は帰つた後だつた。私は妻君達に不平を云つた。

「あれ程たのんで置いたのに、どうして帰して終つたのだ」と……

「そんな事云つたつて、用事があるから待たれ無いと、云うのだから仕様がない。でも明日十時頃来ると云つて行つた」と、私は残念だつたが、又何処となく不思議な点がある様な気がした。

 其の夜私は吉村と話し合つた。其の男と逢うか? それとも逢わないか? 逢うとすれば工場を休むか? それとも工場を知らせて、工場で逢うか? 結局は、工場は重要だからスパイでないとしても知らせる事は良く無い。休んで武村の家で逢う事にした。翌日私達はスパイである場合を思い、武装し××迄持つて行つた。十時半頃其の男は来た。成程ブタ箱に居たせいか、ヒゲは長くのびて居り、一クセありそうな奴だつた。私は其の男を二階の一間に入れ、私は階下に降りて武村と話し合つた。スパイとしても彼奴一人ならば平気だが外に来ては居ないかと思つて、外に出て、附近を注意して見たが、それらしい者は居なかつた。それでも時間を見計つて来るやらわからないと云うので、妻君や婦人達にピケをたのみ、初めは私一人逢つた。其の男は注意深く立聞きされ無い様に、戸を皆開き、階段で一寸音がしても話を止めてのぞいて見た。私は此家は親しい内だから立聞き等する者は居ないからと云つたが、其の男はやはり注意深かつた。其の男の話に依ると森君は間借りをして居たのだが、其の家の者に密告されたに違いない。朝三時頃、ようやく眠りに就いて間もなく、ワッとすごい音がしたので、飛び起き様とした時すでにスパイ四人に押え付けられ、一人はまくらの下に手を入れてピストルをうばつて終つたので、ムザムザと捕まつたそうだ。私は何日に捕られたのかと聞くと、

「君達が浅草の電気舘の前で逢つただろう、其の次に新宿の駅で逢つただろう、其の翌日である」と、云つた。私は逢つただろうと云う時には、後でそれを否定するのに都合良い様に、あいまいな返事をしておいた。然し新宿では私達は逢つて居なかつた。正直な話をすれば新宿で逢う約束した日は第三日曜である。森君の都合で朝早くと約束したが、当時訓練の足らない私達は、前日からの疲れで朝ネボをして(しま)つたのだ。目をさました時は、約束の時間より二十分もおそかつた。其の男は、森君については、拷問に合つた事、彼が度胸の良い事、位しか知らない。私はうたぐつて居るせいかわざと注意深いような風をしているのではないかと思つた。運動の事に就いては、まる切り無関心であるらしい。それでレポと云うのは、森君を助け出してくれと云うのだ、K署は今バラックだから、留置場も板一枚である。ノコギリとツナがあれば直ぐ××××が出来る。看守に感付かれると失敗するから、板ベイを叩いて中に合図をする。又中で叩けば仕事に掛つても良いと打合せてある。仕事の方は、君達は馴れないだろうから、自分達が引受ける。子分達を集めてすれば朝めし前の事であるから、君達はピケをたのむと云うのだ。書きわすれたが、此の男はゴロツキでケンカで検束(やられ)たのだそうだ。失敗してもスゴイ子分ばかりつれて行くし又ピストルでもドスでも何でも在るから、捕まる様な事は無い。君達はピケだから失敗しても大丈夫だ。それを実行するには少くも二十圓は必要だし又実行後、森君と一時東京を去るから皆で四五十圓は用意してくれ、それも駄目なら自分の方で都合する。と、話はとても良過ぎるのだ。私は此の男を全部信用する事はどうしても出来ないが、然し此の男の云う事が事実であつてくれれば良いと思つた。幹部はほとんど捕まり、戦線はみだれるだけみだれて居る今日、たとえ私達二人が犠牲になつたとしても、森君を助け出す事は、階級的義務である様に思つた。其の男は森君が書いたのだと云つて、チリ紙を出した。チリ紙には私達二人の姓名と外にもう二人の姓名が書いてあつた。此の二人は私達の間にスパイだと、うわさされた事のある人達だつた。うわさは兎に角として、一人は人間的にしつかりして居ないからだろうが、他の一人はもう七八年も前から運動をして居りながら、何事もハキハキせず、金等は何時でもまとめて持つて居た。だが人の前では決して出さなかつた。そればかりでは無く金等は持つて居ないと云う様に、時々電車賃を貸せとか、めし代を貸せとか云う奴の姓名である。私達は無論、奴をうたぐつて居た。私達の組合でも、以前は調査部長をさせた事もあつたが、当時は平組合員にされて居た。其の後組合費の使い込を名目に除名された。私は此の二人の名は何の為めに書かれたか不審に思つたので尋ねて見た。君達に逢えない場合は、此の人達に相談して実行してくれと、云われたと。話はチトおかしいと思つたが、チリ紙の筆跡は森君のかどうか私だけではわからなかつた。後で吉村と調べ様と思つてチリ紙は受取つておいた。ゴロツキは留置場破りは少しも早い方が良いと云つた。私も無論早い方が良いけれども、急いで失敗する様ではいけないから、充分戦術を考えてから後でもう一度逢つて相談仕様と、私の方から場所と時間を指定したが、其の時には行かれないから僕の内へ来てくれと、木賃宿らしい名を書いて私に渡した。其の男は帰つてから三十分位して又引返して来た。夜は何時でも居るが、早い方が良いから、明晩八時迄に来てくれと、そして来られるか来られないか念をおして行つた。

 私と吉村は自分の家に帰り、色々と話し合つた。最後は其のゴロツキを充分信じる事は出来ない、もしゴロツキがスパイでないなら、あれ程一心に云うのだから、僕達が居なくとも留置場破りは実行すると、云う事に話が落ち付いた。私達がゴロツキの家に行かなければ、又武村の所へ来るかも知れぬと云うので、武村の妻君の所へは、僕達は検束された、と云う様にたのんでおいた。其の翌々日ゴロツキは予想通り武村の所へ来て、どうして来ると云つて来ないのかと、呶鳴るので妻君は僕達の云つた通り、二人は検束された、と云うと、其んな筈は無い、意気地無しめ、義理知らずと、ののしつて行つたのである。其の後何事もなかつたが、予想通りスパイであると云う事は、武村の家の総検束及び吉村の捕縛となつて現われて来た。スパイ政策で失敗した彼奴等は周章(あわ)てて武村の家をおそつたのだ。

 私は吉村がK署へ検束れたのだから早く書類を片付け自分も直ぐ逃げ様と思つて家に帰つた。二階の自分の部屋に這入つて見ると、フトンや着物や書類が室一杯に散つて居た。捜索されたなあ、と思つたか何人で来たかを知る為めに、階下の親父に対つて見た。親父達は家中の者が集まつて、捜索された事に付いて相談して居る所だつた。

 私は「僕の部屋に誰か這入らなかつたですか?」と、云うとしばらく思案して居たが「本庁の者だと云つて、九人も来て畳をはぐやら天井板迄はがして調べて行つた」と云つた。私は泥棒と間違えられては、有難くないと思つて、

「私達は運動して居るので、度々こんな事をされるのですが何でもありませんよ」と気軽に云つた。

「運動つてあの共産主義と云うのですか?」

「ええそうです」と言つて私は笑つた。

「又スパイ共が来るかも知れませんから、僕は二三日帰りませんから、たのみます」と云つて二階に行き私は手早く工場へ通うに必要な、通勤簿やナッパ服弁当箱等をまとめて外に出た。然し吉村は何と意気地無しなのだろう。私は吉村と検束された場合は、少くとも三日位は自分のアドレスを自白してはいけないし、又三日位は平気で、何とでも云つて居られる筈だ。どうせ自白はさせられるのだが、三日位がんばらなければ、後に残つた者が、書類さえ片付ける間が無い。だから是非がんばる様に話し合つて居たのだ。それを満一日過ぎない内に自白して居るのだ。私はこんな様子ではもう何を自白して居るかわかつたものでは無い。又ナッパ服の内ぽけつとに入れておいた通勤簿はそのままであるが、天井裏迄調べて行つたのに此れを知らずに行く筈は無い。工場で私を捕まえ様と思つて、見て見ぬふりして行つたに違い無いと思つた。後で知つたのであるが、アドレスは間代の受取を持つて居たので早く知れたのだ。

 私は歩きながら、何処の家に行つて寝ようかと思つた。私の知つて居る家は皆署に知られて居た。署に知れて居ない家を借りて居る同志は同じ同志である私達にも知らせては置かなかつた。私は止むを得ない、一時的に何処でも良いと思い、小山君の所へ行つた。小山君は親切に色々と注意し、スパイが来ても直ぐには家に入れないから、スパイと争つて居る内に窓から逃げ出す様に、窓を逃げ出すと、屋根を伝つて向う側の小路に出る事、小路は屋根がひくいから平気で飛び降りられる事等を細かく云つてくれた。其の夜、私は今度の方針等を考えて、トロトロと眠つたのは三時頃だつた。翌日は工場を休む事にした。十日間の欠勤とどけも手紙を出しておいた。日中は家に居た方が良いと云われたので、永い間のつかれで昼寝をした。私は夜になるのを待つて小山の家を出た。私は吉村の受持つて居た工場も一時的に引受けねばならなかつたので、仕事は多忙になつた。其の夜私は第一に、吉村の捕まつた事、捜索された事、吉村の引次等々に付いて打合せる為めに、上との連絡である大田に逢つた。大田と今後の方針に付いて充分打合せた後雑談に入り、大田は、まだまだ検挙の手はどんどんのびて居る事、工場地帯と云わず、山の手と云わず、全市に渡つてシラミつぶしに調べて居る事を話し君も小山の家等に居ては危険だから、早く安全なアドレスを見付けねばいけないと云われた。

 小出の家に来てから三日目だつた。私は○○工場の永井と白木屋の前で逢う約束があつたので電車に乗つた。電車は空席が多かつたけれど、腰掛けるとスパイの乗込んだ時知らずにいる事があるので、腰掛けずに中央にがんばつて外を見ていた。三ッ目の停留場へ来た時、本庁の中島の奴が安全地帯に立つているのを私は早くも見付けた、此奴はあぶない! 私はもう逃げる用意をした。中島は私がいるとは知らず、前から乗込み入口に立つて中を見まわした。私は中島が前から乗込むと知ると同時に、後の出入口に来て、電車の動き出すのを待つて、飛び降りを準備をしていた。中島は私のいるのを感付き、電車を降りて捕まえ様か、電車の中を追かけ様かとまごまごしている内に電車は走り出した。私は走り出すと同時に飛び降りて逃げ出した。振り返つて見ると中島は電車を止めて降りる所だつた。私は

「馬鹿野郎、手前達に捕まつてばかりいられるか!」と思つた。其の翌日だつた。小山は

「君、僕の内等にいて、大丈夫なのか?」と云つた。明らかに何処かへ行けと云う言葉だ。私は何と返事をして良いかわからないので、ただ笑つていた、後で知つた事だが、中島の奴私を電車の中で見付けて追かけた後、嗅ぎ付けたと云う程でも無いが、小山の所にいるのでは無いか? 位に思い、小山の所へ来て、

「木村がいるだろう、いる筈だ。調べて来たのだから、かくしても駄目だ。普通の人なら同志である以上かくまうも良いが奴は党員だから君も引掛るぞ」と、おどかして行つたので、おそれて私を追出そうとしたのだ。

 小山は今から十年も前鉄道に出て居り其の当時から運動をして居たと云うのだから、ずい分古い方だ。かかあも其の当時貰つたのだろうが、初めて逢つた人は必ず、

「小山の妻君は別嬪だなあ」と云う。別嬪かどうか、それは兎に角、私は小山の妻君の地顔を見た事が無い。何時でも厚化粧をして居た。小山は当時、今でもそうだが、自分の家でヒキ物をして居た。ヒキ物とは普通の鉄の棒を何の金棒でも同じだが、ニジリッ釘の様な物に簡單な機械でキザムのだ。小山は時計の何処かへ使うニジリッ釘を専門にやつて居て、工場の生活等は少しも知らなかつた。此の小山は子供は無かつたので、かかあの弟を貰つて、自分のあとつぎにしておいた。此の後ツギの頭が非常に良いのと、子供である為めに、小山の所へゆく多くの同志に可愛がられて、てつてい的にプロレタリア意識を叩き込まれてゆき、未来の戦闘的な闘士になるだろうと思われた。名は二郎と云つた。二郎は昨年小学校を終えたので、小山は中学校へ出すと云つた。私達は反対だつた。中学へ出すも悪くは無いが、第一に大工場へ入れ、プロレタリア的に叩き上げるべきだと云つたが遂に中学校へ入学させて終つた。これでもわかるように小山はプロレタリアを信じなかつた。そしてプロレタリアの味方ヅラをして運動して居た民主主義者である。民主主義者はプロレタリアの味方ヅラをして居ても最後のドタン場で裏切る。小山は其の後大山の合法党へ喜んで走つた奴だ。

 私は小山にそんな事も云われたが、まだ新たに間借の目鼻も付いて居なかつた。新たに間借するには少くとも十圓は必要だつたが、私は交通費を少しばかり持つて居たばかりだし、又金の都合の出来そうな同志は私の周囲にはいなかつた。私はなお三日小山の家に居り、其の間顔の知つている友人を片ぱしからたのんで見た末、当時町工場に勤めて居り、意識はハッキリしていないが、スパイには顔の知られて無い同情者の西沢が心持良く引受けてくれた。夜になつてから私は西沢と二人で西沢の友人を尋ね歩き、友人の洋服や着物を質に入れさせてやつと八圓都合が出来た。私は一人で間借をしていては、とても経済的にやつてゆかれる見込が無いので、西沢も同居する事を勧めた。西沢は意識ははつきりしていないが、大工場の経験もあるし、人間的にはしつかりしているし、又運動もしたがつているので、私は運動に引入れて見ようと思つたので。西沢も喜んで私に賛成した。私達は直ぐ帰り道をハリ紙を見当に貸間を尋ねた。貸間は沢山あつたが、私は署に顔を知られていないので、T署の管内である事と、おそわれた時逃げるに都合の良い所である事とが条件だつたので簡単には見付からなかつた。二日目に私はもう厭になる程尋ねた末ブラブラと帰ろうとする時はからずも良い貸間を見付けた。二階のマドから見渡すと、其のへん一帯は住宅ばかりで平家だつた。マドから逃げ出すと屋根伝いに何処迄もゆかれた。間代も四畳半で七圓と云うので安かつた。私は此奴が気に入つたと思つて、直ぐ約束した所が敷金を二カ月分あずかると云うのだ。此れには私も困つた。然し此のへんは皆敷金をあずかつていると云うので仕方が無かつた。私はどうせもう外に金の都合出来る見当は無いし、此のへんは皆敷金をとるのなら約束の時内金だけ入れたままで、ズウズウしく借りて終うより外に道はなかつた。まして小山の家は多少感付かれているのであるから、少しも早く安全な家が必要だつた。翌日西沢の荷物を運搬し、私の荷物はまだ前の家が整理してないので、其のままにしておき西沢のふとんで一緒に寝た。私は久しぶりで気をゆるめて眠つた。めし代も月末になれば私の前の工場から金が手に入るので、それ迄西沢に前借させ立替えて貰つた。私は再び大工場に這入りたいのは勿論だが、一時的に生活を立て直す為めに町工場でも良いからと思つて毎日就職を尋ねて歩いた。一週間目に西沢の得意先で一人入用だと云うので西沢に紹介して貰つた。自転車のべル製作所である。私は此れで生活も確立し運動に専心出来るので嬉しかつた。月末もせまつて来たので私は前の工場の会計を取つて貰う為めに色々考えた末、署には合法的の人で通つている立松をたのみにやつた。立松はそれでは俺と君とは逢つていない様に、又今後も逢う必要が無いと云う様に、何とかうまくやろうではないかと、云つた。色々話合つた末、私が立松から借金をしているとして其の金を工場から受取つてくれ、私は病気で当分田舎へ帰つていると云う手紙を、私から立松に出す事にした。工場の方へも代理がゆくから渡してくれと出した。会計日には七時と九時に、立松と逢う約束をしておいた。私は七時に指定の場へ行つたが立松は来ていなかつた。九時に再び行つたが又来てはいなかつた。私は不安になり出したので、危険だと思つたが立松の家へ行つて見た。立松は帰つてはいなかつた。私はガマ口のソコを叩いても一錢もなかつた。西沢も、前借があるので、月末でも交通費位しか手に入らない筈だつた。私は今度の工場は第三土曜日が会計日だつたので、もう二人分のめし代がなく、心はあせつた。更に私は十時半頃行つたが帰つてはいなかつた。立松は少しのんきな方なのであるから、私は不安等考えずに何処かへまわつたのでは無いかと、気休めに思つたが不安でならないので、翌朝夜の明けるを待つて又行つて見たが無駄だつた。工場で検束されたに違いない。私は其日又、西沢にめし代を借りて工場へ行つた。工場から帰ると、それでも帰つては居ないかと思つて行つて見たが同じだつた。 立松の検束された事は確実である以上、金の手に入らないのも確実となつたので、私は西沢とめし代の事に付いて話し合つた。西沢は現在手に在る金は、二圓と十錢である。前借するには十日以上働ねばならないと云つた。然し二圓と十銭では二人の十日分のめし代にはどう考えてもチト無理である。二圓と十錢では一日一回も満足には喰え無い。友人達はまだ勘定を貰つたばかりだから、少し位は何とか成るだろうと、又西沢の友人の所へ行つた、然し友人は、めし屋や間代を払つて(しま)つたから無いと云つた。更に他の友人の所に行き、やつと一圓だけ都合出来た。合せて三圓十錢を二人で分けて持つていた。一日一回だけの保證は出来た。私達は其の翌日から朝めしは喰わなかつた。仕事をする時は現金に力が出なかつた。腹は空つぽになるので水を飲んで我慢はしたが、アセばかり出て腹にはチツトも力が無かつた。初めの二三日は昼にめしやへ行つても、余り腹がペコペコになつて居るのでめしは喰われなかつた。夕方工場から帰る時には目に見えて疲労を感じた。頭は何時(いつ)とは無くぼんやりして、時々物わすれをした。つまずく様な事は何回もあつた。それでも私は多少経験あつたのでいいが、西沢は初めてなのでゲッソリとやせて哀れだつた。

 其の頃町村会議員の選挙があつた。私は○○方面の工場の責任者だつたので選挙の時も常任に選ばれた。然し私は外に重要な任務があるし、特に吉村が捕まつた後、多忙なのでコトワッた。だが○○方面には適任者が無かつたので、是非是非と云われた。私は幾つもの責任を引受けてもとうてい全部は出来ない事も良く知つて居るし、又選挙の時には工場へ働き掛けるに、最も良い時期であり重要な時である事も知つて居つたが、その為めに自分の行動に少しでもぬけ目があつて、捕まる様な事があれば、それこそやつと付き初めたレンラクはたち切られ、戦線はますますみだれるので、どうしても引受けなかつた。だが○○方面には、(あと)大山の合法党に走つた奴等が多少居つたので、合法的な運動ばかりして居り、我々の根城である工場へ働き掛け様とは仕ないので、常任を引受けなかつた私も、自分から乗り出さずには居られなかつた。此の地方は区域が広くて交通の便が悪かつた。同志の家から家に行くに二時間もかかる様な所もあつた。此んな同志の家を三人も尋ね歩くと帰りには、疲れてがつかりして終つた。頭がふらふらとして倒れそうになる事も何回もあつた。家に帰るのはどんなに急いでも十二時過ぎだつた。私は西沢を可哀そうには思つたが、其処が訓練だと思い、西沢でよい事は何でもさせた。私は知つている同志が多いので、夕めしには時々あり付けたし又あり付け無い時は、金のあり相な奴を見付次第請求も出来たが、西沢にはそれが出来なかつた。そして又西沢は訓練が無いので彼のする仕事はレポとか、文書の配布なので一晩中歩き通しだ。床の中へ這入ると正体も無く眠つて終つた。私は自炊している親しい同志の所へゆくと定つて余りめしが有るかと尋ね、有る時は自分で握りめしを作り、味噌を付けて持つて帰つた。西沢は其の握りめしをおいしそうにパク付いた。集会の在る時等、めしを喰わない人達が四五人寄ると、集まつた人達から一錢二錢と集めてやきいもを喰つた。そんな時も私は必ず持つて帰つた。何もない時等、西沢に何か持つて来たかと、尋ねられる事もあつた。私はそんな時センチメンタルになる事も無いではなかつた。

 西沢はどんどん訓練されて行つた。云われた事は守り実行した。私は見込のある奴だと思つて期待していた。選挙も一段落付いたので、身体も少しは楽になつたが、大きな工場と違い町工場は、十一時間も十二時間も休み無しにコキ使われるし、めしは多い時で二回しか喰わないので、身体はだんだん衰弱して行つた。私は何とかしてめしだけ満足に喰わなければいけ無いと思つて、前借は一切駄目だと云う話は職工から聞いていたが、工場の親父に交渉してやつと、一圓だけ借りた。後は会計日でなければ払わないと云つた。私はシャクにさわつたが、現在の所非合法になつて居るので、強い交渉は出来なかつた。西沢に又前借をさせて、前と同じ様な一回食を続けるより外無かつた。

 其の月も半ば過ぎた十七日だつた。私はいつものめしやへめしを喰いに行つた。顔なじみの女中は、写真を持つて貴君を尋ねて来た人がありますよ、と云つた。どんな人かと聞くと、色は真黒でブルドツクに似た顔の人だ、と云つた。私はテッキリ本庁の中島だと思つた。それでどんな事を尋ねて行つたかと云うと、私の服装や、手のよごれ迄細かく聞いて行つたと云うた。私はぼやぼやして居ると危険だと思い、めしもそこそこに喰つて飛び出した。町の四ッ辻迄来た時、成る程中島の奴ノコノコ歩いて行く。私は奴何処へ行くかと思つて電信柱の陰にかくれて見て居た。奴は秋田と云う鉄工場へ這入つて行つた。私は此れは手が油によごれて居たので、鉄工場と目星を付けられたと思つた。べル製作所も鉄工場と同様に手足は油によごれた。中島の奴片つぱしから鉄工場を探し歩いているに違いない。私の工場も同じ町内だから、わけ無く来ると思つた。私は工場の親父に又前借を交渉したが、金は無いと云つた。金の無い事は私も良く知つて居た。此の親父も前は二百人ばかりの職工を使い、相当金廻りも良かつたらしいが、今は私を入れて五人の職工が居るばかりだ。産業資本の没落と云うのだろう? 現在では大工場に圧迫され、それに対抗してゆく事は出来なかつた。そこで考え出したのが古金を使う事だ。此の工場で仕上げるベルには一ツとして新しい鉄の使つてあるところは無い。それで居て営業困難なので、材料屋は勿論、米屋や味噌屋迄今では現金でなければ鼻もひつ掛けなかつた。親父は朝から夜迄古金屋を走り歩いて、直ぐ入用な古金を見付けると、金を入れ約束だけして、夕方仕上つたベルを問屋へ納め、金を受取つて帰りに古金屋へ廻つてやつと材料を持つて来るのだつた。会計日でも満足に支払つた事は少いらしかつた。私はそれを承知していながらも、目の前にスパイの攻撃があるのでどうしても、金が必要だつた。私は金を出さねば動かない、と云つてガンバッた。親父の嬶の財布から娘のガマ口のソコ迄叩いてやつと三圓しか無かつた。三圓ばかりでは仕様がないが、と云つて無い金は取れなかつた。まごまごしていて、中島に捕まる様な事があつては取返しが付かないと、べル工場を飛出した。出るは出たが、私は此の工場へ西沢の紹介で来たのだから、中島の奴ベル工場を尋ね出せば無論西沢の所へゆく事は決つている。私は西沢の所へかけ付けた。話は後でするから前借出来るだけ多くして三四日休む様に云つて直ぐ帰つている様に、と云つて私は直ぐ家に帰つた。西沢も三十分して息を切らせて帰つて来た。私は話を一通りしてから、自分のアドレスは大丈夫かどうかを知る為めに、西沢にどんな親しい友人にでもアドレスは知らせてはいけないと、云つておいたが改めて尋ねて見た。西沢は誰にも知らせては無いが、湯にゆく時工場の小僧に逢つた事があると云つた。其奴は安全で無い、町名がわかればシラミつぶしに調べて来るし、又間代の敷金も入れるのを入れて無いから、スパイに何を云うかわからない、と思つた。所で西沢の前借は五圓出来た。合せれば八圓になる。めし代は駄目だが、間借は又直ぐ出来る。私達は書類をやき払い久しぶりで金が手に這入つたので、少し早いが夕めしを喰う事にした。食後直ぐ越される様に荷物を整理した。荷物は二人で一回背負つてゆけば良い程少なかつた。夕方湯から帰つてまごまごしていると、階下で、「二階の人」と云う話声がした。私は階段のそばへ行つて耳をすました。どうやら巡査らしい。戸別調査だ。此の戸別調査が油断のならない事は度々の経験で知つていた。其の巡査はずい分細かく調べて行つた。私は今夜あたり来るかも知れぬと思つた。兎に角今夜は此処にいる事は危険だからと西沢に注意した。十一時頃私は奴等が来たかどうか様子を見に行つた。予想通り来ていた。二階の窓を一杯に開けて、畳を引はいでいる最中だつた。外から窓を通して良く見えた。馬鹿野郎、手前達に捕まる迄、ぼやぼやしているものかと、思つて引返した。帰りに今夜は誰の家で寝ようかと思い乍ら西沢が今夜泊ると云つた家に行つた。此の家は私達の運動している事を少しも知らせて無いので、西沢を呼出して、スパイの手が這入つた事、今夜ハッている事を話して充分注意した。其の夜は私も其の家に泊つた。其の後は同志の家でも安全な所は無いので、別に定めずに泊り巡つた。新たに間借するとしてフトンも何も無いので駄目だつた。三圓の金は交通費以外には使わず、めしは泊つた同志の所で喰う事にした。西沢はわずかの間にめきめきと訓練されて行つた。私は西沢はまだスパイにも顔を知られていないし又充分見込があると思つたので、合法的な所へは出さず、少しずつ非合法的な事をさせて行つた。

 小雨のシトシトと降つているうすら寒い夜だつた。吉村が連絡だけ付けておいた○○工場を私は引受け、やつと分会が出来る様に成り、初めての集会の帰りだつた。私は吉村の連絡を付けた佐藤よりは、清水の方が年は若いが見込があるらしい、今後はあれを、みつちり訓練してやろう等と考え乍ら、ブラブラと柳島の電車通りを歩いていた。押上(おしあげ)の停留場近く来た時、どうも、私の直ぐ後をおかしな奴が来る様な気がしたので、振返つて見た。すると中島の奴、今にも手を出し相なかつこうをしていた。私はドキンとしたが、直ぐ逃げ出した。中島の奴は泥棒泥棒とどなり乍ら追掛けて来た。私はこんな所で捕まつてなるものかと、小路から小路を一生懸命に逃げたが弥次馬の為めに逃げ道がふさがれた。私は匕首(あいくち)を出して逃げ道を切り開こうとあせつたが、使つた事の無い匕首は却つて自分の手にきずを負つて捕まつて終つた。私は弥次馬の為めに雨後の泥道に倒されてさんざん蹴つたり、踏まれたり、叩かれたりして、身体中泥まみれにされた。それから捕縄(ほじよう)をかけられて交番に引張り込まれた。交番では裸にされ猿股迄取つて調べられた。私の持つていた書類は中島の奴一通り調べてから、又元の泥風呂敷に包んだ。私は捕まつたのが残念で残念でじりじりした。私はどうしても何とかして逃げてやろうと思い捕縄を取つてくれと云つた。然し直ぐは取つてくれなかつた。私は捕まつて終えば卑怯な事はしないから、と、云うと、此奴油断出来ないからなあ、と云いながら捕縄を取つた。私はしめたと思つた。中島は外に出て圓タクを呼び止めた。私は、よし乗る時に逃げてやろうと、思つたが、巡査の奴二人も付いて居るので駄目だつた。圓タクには巡査も乗つた。私は此れは手早くやらねば駄目だと思つて、奴等がまだ落付かない内に、走り出すのを待つて、身体とも圓タクのドアにどつとぶつつけた。ドアは美事に開き私は外に投げ出されてコロコロと四五回転がつた。尻のあたりを打つたと見えて、直ぐには起てなかつた。圓タクは五六間先で止まつた。私はやつと起き上がりビッコを引き引き小路に逃げ込んだ。巡査と中島は呼子を鳴らしながら追かけて来た。私はだんだん追つめられて来た。私は再び電車通に出た。其の時トラックが走つて来た。私は死にもの狂でトラックに飛付いた。トラックはそんな事を知らずに走つて行つた。中島は私を追かけ様とはせずどう仕様かとまごまごしているらしかつたが、前の交番の方へ引返して走り出した。トラックの行手には交番があつた。中島はもう電話を掛けたかも知れぬ。私はどうしたら良いかと思つている内にとつさに考付いてわつとド鳴つた。運転手は驚いて急停車をした。其の時私は手を離して何喰わぬ顔をして歩み初めた。運転手は私の顔を見て何だおどかしやがつて、と云う顔をして又走つて行つた。私はスパイの手からはのがれたが、泥だらけの身体では目に付くし又、もう手がまわつているかも知れないと思つたので圓タクを呼止めた。運転手の奴一寸ためらつていたが、私はかまわず乗り込んで、深川方面へ走らせた。圓タクから降りてもどうしたら良いかわからなかつた。其の時ブタ箱で、コソ泥が空家に寝たと云う話を思出した。私はよし今夜は空家で寝る事に仕様と思つて空家を探した。空家で寝るとしても身体が泥まみれでは、明日困ると思つて身体を洗う事が先決問題だつた。それで水道の在る空家を見付る事にした。空家は沢山あつたが戸じまりのしてあるのが多かつた。時々は中に這入れたが水道はなかつた。又在つても水はなかつた。此れには私も閉口した。家々はもうすつかり戸を閉めて街は暗かつた。私はうすら寒さを感じながら時計を見ると、一時真近だつた。私はまごまごしていて巡査に見付かつては、いけないと思つて服の洗たくは明日何とかするとして、今度見付かつた空家で寝る事に決めた。次の空家は運良くも水道の水が出た。借手が付いたのか新らしい畳や、建具も二三付いていた。私は水を出しぱなしにして先ず頭を洗いそれから服やずぼんを洗つた。シャツもどうやら泥が相当付いているらしいが寒いので上着だけにしておいた。階下で寝て人目に付いてはいけないと思つた。私は音の仕無い様に二階へ行つて見た。二階も畳が這入つていた。畳屋はまだ仕事に来ると見えて、畳台や表の付かない床が七八枚あつた。私はゴロリと寝て見た。身体が冷や冷やした。此れでは面白く無い。畳屋が仕事に来ているとしたら何か着る物でも無いかと手さぐりで尋ねて見たが、何も在り相で無いので、仕方無く又ゴロリと寝た。やはり寒いのでもう一度着る物は無いかと尋ねた。が無かつた。私は独房にいて寒い時に、一二一二と体操をする時の様に、体操を初めた。身体が暖まつてくるとゴロリと寝た。だが直ぐ寒くなるので何とか良い方法は無いかと考えた末、畳を着て寝る事にした。敷いて在る畳をはいで寝ている自分の上ヘ「入」の字に乗せた。少しは重みで暖かくなつた。寒くなると寝ているままで一二一二と運動をした。此んな事を繰返している内に少しも眠らずに朝になつた。私は畳屋の来ない内にと思つて仕度をした。服やずぼんは昨夜水をしぼつた時とそんなに変つていなかつた。ドロも所々に付いていた。私はぬれたずぼんに服を着て外に出ると頭がズキンズキンと痛んだ。カゼを引いたらしい。私は誰の所へ行つてやろうかと考えたが、誰でも今行つた所で工場へ行く仕度をしている所なので駄目だつた。そうだ、武村の所へ行こうと考え付いた。武村の所へはあの一件以来一度も行かないから、今日は行つて久し振りで笑談でも云つてくつろごうと思つた。武村の所ではまだ寝ていた。私はかまわず戸を叩いて起した。妻君はふきげんな顔をして出て来たが、私の顔を見ると、久振りだねと、云つて喜んでくれた。外の女達もどうしているかと心配してたよと喜んでくれた。妻君は私が寒そうな顔をしているので、ぬれた服に気が付き、どうしたの? と云つた。私は昨夜の事を面白おかしく話して聞かせた。婦人達は愉快相に笑つた。私は武村の着物を拝借して朝めしを喰つた。私はもつとくつろいでゆつくり話したかつたが、頭は痛むし眠くもあるので二階の一間を借りて眠る事にした。床に這入るには這入つたが頭が痛むので良く眠られなかつた。私はウツラウツラとして十一時頃眼を醒した、眼は醒めたが床から出様と云う気持にはならず、昨夜の事を考えている内に、今は四・一六の犠牲者になつている、萩野の言葉を思い出した。

「中島の為に、多くの犠牲者を出している、少し位の犠牲を払つても、あの男をやつつけねばならない」と、実際、中島の奴は自分から生き字引だと云つているだけあつて、スパイとして、現在活動している我々の知らない、古い多くの同志を知つていた。三・一五及び四・一六でも中島の為めに多くの犠牲者を出し、又外のスパイ共は写真以外に知らない。三・一五事件以後ロシヤから帰つて来た同志等は、この中島の為めに捕まつている者が多かつた。中島は案外頭の中は空つぽな男だが、元本所の○○署のスパイで、其の管内に在つた○○○○労働組合の係をして居り、ヒマさえあれば全市の此の組合の支部を廻り歩いているので此の組合の闘士の顔は皆知つていた。此の組合は我々の指導者○○○○○が居つただけあつて多くの党員を出して居り、其の捕われた同志は、大がい中島の為だつた。私も此の組合員だつたので中島には良く顔を知られていた。然し、私はまだ運動が浅かつたので、街で逢つても署のスパイ共には気付かれずに通り過ぎる自信は充分あつた。だが中島の奴にはそうはゆかなかつた。そして又スパイとして此んな熱心な奴はない。ヒマさえあれば運動している人の家を巡り歩き工場の終業頃になると、門のあたりをぶら付いている、私は何とかして此奴をやつつけてやらねばならないと思つた。こんな事を考えている内に、又頭が痛み出した。私は自分の身体が強く無いのが残念だつた。此んな事でカゼを引く様では何んにも出来はしない、もつとプロ的にきたえねばならないと思つた。

「何時迄寝ているのだ、もう十二時だぞ」とどなりながら階段を昇つて来る奴がある。×××事件で検束された塚本の声だと思つている内にもう部屋の中へ這入つて来た。私は半身起き上り笑顔をした。

「あれ、此の野郎良い着物を着ていやがるなあ、何処から集めて来た?」塚本は相変らずのんきだ。

「馬鹿云え、手前ではあるまいし、人の古物ばかり貰うか」

「だけど見た事のある着物だなあ」こんな馬鹿を云つてる内に、私の勘定を取りに行つて検束された同志の事を思出した。

「君の相棒出て来たか?」と尋ねて見た。私達の中では立松と塚本は仲が良いし、又のんきなので両方に良い相棒だつたのだ。

「ウンおごらせると云つて居つたぞ」と、私は二十圓足らずの金が手に這入るので、間借も出来ると喜んだ。昼めしは塚本も一緒に武村の所で笑談を云い乍ら喰つた。塚本は、私の顔を見て、

「何を苦労したか? ヤセたな」と云つた。

「俺はまだ若いのだからな」と云つて笑わせた。

 武村の妻君は「又吉村さんから、レポをたのまれて来たと、朝鮮の人が来ましたよ」と云つた。

「今度は刑務所破りか?」と又大笑をした。私は吉村からのレポと聞けばまだわからない所もあつたので、逢わないわけには行かない。姓名と人相を聞き、朝鮮の同志に調査をたのんだ。三日後大丈夫と云われたので逢つた。吉村は「自分は○○工場の伝単をはつた時に、指紋が残つて居つたので強制処分でやられた。其の点君のは大丈夫と思うが、服装其の他可成知れて居るので、検束されたら駄目と思う」と(ほか)二三注意があつた。森君からもレポが来て居た。連絡細胞其の他の事は此の中に書いてあると云つて三分位の包を三ツ渡された。

「××問も嵐も強い、死を決して戦つてくれ」と何回も繰返して云われたと。それから、此の時計は三・一五の犠牲者から贈られたのだが、俺も必要無くなつた。君におくる、又此の前に逢つた時君のくつは、大ぶボロになつて居つた。くつのボロは目に付き易い、此れもおくる、と二品渡された。其の夜は私は、仕事を皆済ませた後だつたので、色々の事を語り合つた。支配階級は無産階級を××欺瞞する為めには、味方同志をも殺し合う。と云う話から、吉村の捕われた×××事件に進んだ。其のゴロツキは、森君と二言三言話した事があるだけなのに、特高係に五十圓貰つて挑発者に成り、又ブタ箱で留置場破の相談等は仕無いのに、奴等が勝手に作り上げておき乍ら、こんな相談をして居つたのに知らずに居たと、看守達は、ゲン棒を喰せられたと話した。

 森君からのレポに依つて連絡はすつかり付いた。然しレポの来る前に、まるつきり知らない、唯細胞が在る事だけしか知れて居ない工場と連絡を付けるにはずい分苦労した。又其の為めに多くの犠牲者を出した。止むを得なかつた。其後地方委員会も確立し再び活発な闘争を開始した。合法党の問題は其の直後だつた。合法屋共は労働農民新聞で共産党は全滅した、とほざいた。

 私は其の後、立松から金を受取り又ベル工場からも勘定を受取り、西沢と又間借りをした。戦線も確立したので、私は何とかして中島を××××事を、どうしても必要だと思い西沢に奴の家を調べさせた。奴の家は○○署の看守に町名を聞いておいたので、直ぐ見付けた。私はテロに馴れた者ばかり五人集めて、奴の家に行つたが、奴は居なかつた。仕方無く引返そうと表通り迄来た時、街の角で逢つた。真先に居た須田は手早く眉間に一××せた。中島は突然だつたので、後に倒れた。私達も突然だつたので、思切り××××××××しただけで目的は果さなかつた。其後中島は一カ月休んで居たらしい。だが然し中島の奴は、其の後、カカアや子供を田舎に帰し、ますます意識的にスパイになつて来た。其の後何回ともなく他の同志に依つて、×××は見舞つたが、まだ生きて居やがる。

(昭和五年十月「ナップ」}

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/12/18

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木村 良夫

キムラ ヨシオ
きむら よしお 小説家 経歴不詳

掲載作は、労働者として非合法地下活動に従事し官憲との間で息詰まる格闘を繰り返すうちに、1930(昭和5)年10月「ナップ」第1巻第2号に投稿されている。言論・結社・思想の自由弾圧に対する如実な抵抗運動を証言した著者唯一の遺作であり記念作である。

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