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横浜事件の真相 再審裁判へのたたかい(抄)

目次

  降伏放送直後の細川レポート

 ぼくの生涯で、あれほどショッキングなことはあとにもさきにも他にはあるまい。それは昭和二十年八月十五日のひる過ぎのことである。

 三舎二階六号室のぼくの独房の小さなのぞき窓へ、そのとき雑役の「床屋」さんが息をはぜませながら駆け寄って来て、口をつけんばかりにしてこうささやいたのである。

「木村さん、あんたたちが言っていたとおりになりましたね。ついさっき、天皇の降伏放送がありましたよ。これは細川先生からです。」

と、彼はすばやく下の差入れ口から小さな一片の紙片をいつものように投げ込んでくれた。急いで取り上げて、紙片のシワを伸ばしてみると、まさしく細川さんの字で、その日の天皇の降伏放送を諷して詠んだ一句がまず目に入った。

「初(とり)や八紘一宇に鳴きわたる」

そしてそのつぎに、細川さんのたいせつな伝言が書き込まれていたのである。

「木村君、わたしたちに対する当局の不法拘禁は断じて許せない。総理大臣か、司法大臣がここへ来て、手をついて謝らないかぎり、決してここは出てやらぬ肚を決めたまえ。」

 独房のド真ん中に正座して、受け取ったその紙片を読み終わったぼくは、その細川さんの呼びかけに対する全面的共鳴と感激のあまり、ガバと起ち上がって、正面の鉄扉の上のかまちへ両手で飛びつくと、ぶら下がった両足で鉄扉を思い切りはげしくガンガン蹴りつけた。足先が痛かった。ふだんなら巡視の看守が飛んで来て、懲罰をくらうところだが、さすがにこのときは獄中がシーンと静まり返って一人の看守の姿も見えない。

 翌日、さっそくぼくは海野弁護士に連絡して、細川さんとのくだんの共同作戦を泊組全員でやることを大胆にも正式に申し入れたのである。しかし、海野弁護士からその申し入れを受けた石川予審判事はそれを拒んできた。無念にも彼はぼくのその提案を拒んだばかりでなく、細川さん一人とぼくたち七名とを分離裁判に切り離してしまった。前にも述べたように、そのころ既に石川予審判事と海野弁護士との間で、細川さん一人だけを他の泊組の者から切り離す分離裁判へ持ち込む話し合いが成立していたのであろう。このときのぼくの口惜しさといったら、なんともかともいえないほど腹が立った。

 海野弁護士もこの分離裁判の作戦には責任があったせいでか、敗戦直後にその分離裁判を省みてこう語っている。

「裁判とはいえません。わたしもその点については大いに恥じるのですが、もっと堂々とやればよかったのです。」(前掲書[海野普吉著『ある弁護士の歩み』]、一五〇頁)

 細川さんは、そうした分離裁判で、ただひとり当局に「告訴」を取り下げさせる「免訴」に成功したのであった。免訴になったのは、治安維持法の撤廃令が出る直前のことであったが、それは細川さんの終始一貫した真実の主張の勝利であった。

 総理大臣の東条以下の面々は細川さんの前に手をついて謝るどころか、 A級戦争犯罪人としてみんな投獄されてしまった。

 敗戦直後、あわてた裁判所側が俄かにぼくたちに妥協を求めてきた事実のひとつをあげてみると、それまでぼくが繰り返して特高の暴行を非難し、事件がつくりごとにすぎないと、例の申し合わせに従って予審調書もとらせないほど突っぱねていたのに対して石川予審判事は、八月二十日すぎのある日、急にぼくを呼び出して、明らかに狼狽しながらこう言ったのを忘れない。

「木村君、“党再建”のことは取り消すから、もうこのへんで妥協してくれないか。」

  敗戦直後の裁判所側のうろたえざま

 敗戦直後の笹下刑務所のあわて方といったら異様なほどであった。八月十五日の降伏放送のあと、未決収容者に対する処遇は一変した。まず食事の五等食が三等食の配食に変わり、官衣類まで真新しいものに着かえをさせられた。看守たちの態度も急におだやかになった。

 そればかりではない。八月末のある日、笹下刑務所の所長が自ら治安維持法違反容疑者の「ツの組」の一人ひとりを巡視してまわって、こんなことを言った。

「知ってのとおり、時局はたいへんなことになった。お前たちとわれわれとは入れ替わりになるかもしれない。お前たちの中に英語のしゃべれる者がいるならどうか力を貸して貰いたい。」

 彼は、やがて間もなくこの横浜へ入港してくることになった米軍との折衝に、ぼくたち「ツの組」の者を通訳にでも使おうと考えたのであろう。それほどに彼らはうろたえていたのであった。

 裁判所側も、すっかり変わってしまった情勢に、為すすべもないほどあわてはじめた。事件担当の山根隆二検事は発狂したという噂が流れた。

 海野さんは泊組のぼくたちをはじめ、改造社や中央公論社、昭和塾関係の者たちを一日も早く釈放させようとして、裁判所と笹下との間を足しげく飛び歩いているようだった。事実、八月末から九月初めにかけて、仮釈放のかたちで三人、五人とつぎつぎに出所していったが、ぼくも相川君や加藤君、また中央公論社の小森田、畑中、沢、青木の諸君とともに九月四日のひる前に釈放されて笹下の刑務所を出所した。

 この間、中央公論社の浅石晴世君は昭和十九年十一月十三日、いたましい獄死をとげ、満鉄調査部の西尾忠四郎君は昭和二十年六月三十日、ひん死の重態でかつぎ出されたが、敗戦直前の同七月二十七日に亡くなってしまった。泊事件=カッパ事件関係のこの二君の死は、文字どおり特高の拷問ぜめによる犠牲者であり、とり返しのつかない損失となった。

 九月十五日、横浜地方裁判所は八並達雄判事を裁判長として泊組のぼくたちに形式的な裁判を開き、判決を下した。前に書いた獄中申し合わせを各自が予審で申し立てたために、判決文からは「党再建準備会」の文字は消えていた。平館は満鉄組の責任を、相川は改造社組の責任を、また木村が中央公論社組の責任をそれぞれ負荷させられたためであろうか、平館、相川、木村の三名に懲役三年、西沢、小野、加藤、益田の四名は懲役二年、ただし七名はいずれも二年間の執行猶予であった。そのときぼくたちは海野さんに控訴を差し止められたことを憶えている。

 敗戦直後のどさくさ騒ぎでうろたえた裁判所側は、裁判関係の大事な文書も完全には作成していなかった、とかつて海野弁護士が語っていたが、作成された裁判所側の文書も弁護士側が謄本を揃えるいとまを持たなかったという当時の事情は想像できなくもない。

 しかし、これほどの事件の裁判の判決文が一、二の者を除いてはまったく残されていないのは残念至極なことである。もちろんぼく自身のものは予審調書も取れず、したがって予審終結決定もなく、判決文さえもないのだから、ここに引用してお目にかけることができないのは残念だ。

前述のように細川さんはひとり免訴となった。

敗戦後間もなく創刊した世界画報社の雑誌『ひろば』で、細川さんはつぎのように語っている。

「わたしは太平洋戦争の勃発後六ヵ月目に書いた『世界史の動向と日本』という論文で放り込まれたというわけだ。放り込まれたときに、ああとうとうやられた、一高におったときに、立身出世が何だ、といって星野直樹君と喧嘩をやっておったのは学校での喧嘩だが、こんどは社会でだ。星野君は東条政権の書記官長として活動しており、わたしは拘置所に静座させられている。天網恢々疎にしてもらさず、高等学校の喧嘩をこっちで仇討ちされたな、まあ仕方がない。あの貧弱な一論文を公けにしたことでせめてわたしの思師(小野塚喜平次)への謝恩の一端にでもして貰おうかと自分を慰めていた。そうして入っているうちに天子さまが頭を下げたという。どうせ負けることじゃと思っておったがね。そうしたら裁判所で早く出てくれという。執行猶予にしてやるから我慢せよ、という。それはダメだ、わたしは裁判所か国家が謝らない以上、ここは死んでも出やせぬぞ。わたしは日本が民主主義的に平和な発展をすることだけを望んだのである。それは民衆に基礎をおかなければだめなんだ。わたしは軍国主義的侵略に反対し、民主主義を主張した。この主張しか持っていないわたしに対して、悪かったと頭を下げよ、そうしたら出てやる。とにかく大官連中がこの拘置所へ入れかわる都合があるから、出てくれという。ここにいる木村君は木村君で、出てくれといわれるけれど、言うことを聞かない。予審判事と喧嘩して、予審調書も成り立たせないで大喧嘩をしていた。今度、戦犯で入れかわりに入った彼らのことを考えると、まったく天網恢々疎にして洩らさずじゃ。」

(昭和二十二年四月一日発行、創刊号所載「カッパの屁」)

  事件のでっち上げは誰の謀略か

 これに関連することで、ぼくはいまここに書いておきたいことがある。それはほかでもない、泊事件(カッパ事件)を手はじめにつぎつぎと治安維持法違反事件をでっち上げていった特高警察の背後には当時から何者かがひそんでいたことはぼくらも感じていたことだが、その黒幕はいったい誰であったのか、そしてこれら一連の出来ごとを仕掛けた政治謀略はなぜに仕組まれたものだったのか、という一事である。

 こんな謀略はとても神奈川県特高の頭だけでは考え及ばぬはずである。ここでぼく自身の取調べ中のことを思い出すのだが、担当の森川清造警部は時折口をすべらせて、「家内は平沼の爺ちゃんの家で女中をしていた」とか、「この間の日曜日には平沼の爺ちゃんちへ遊びにいってな」などと誇らしげに平沼の名を口に出したのである。当時、この国の軍部ファシズムを支えた内務官僚の大ボスはほかならぬ平沼騏一郎であり、その筆頭子分が警保局長唐沢俊樹であった。平沼、唐沢らが東条政権を擁護して近衛のカムバックを阻止するためにやった政治謀略のひとつがそれだったことはおよそ見当のつくことである。真に国の前途を憂えた愛国者の細川嘉六氏を投獄し、泊に遊んだぼくたちを「共産党再建準備会」などと大げさに騒ぎ立てて大事件に仕組んだ謎は、時の支配権力のたくらみとしか考えられない。

 海野晋吉弁護士が亡くなる直前に、『毎日新聞』へ寄稿した「弁護士十話」の最後の(十)でもこう書いている。

「特高はこの虚偽の自白をまことしやかに作りあげ、内務省に報告した。同省の最高幹部はこれを根拠に昭和塾の首脳部を検挙し、近衛勢力を打倒しようと考えた。また細川氏が検挙されて後、同夫人の生活費を援助するため、昭和塾の人々が風見章氏に千円の寄付をしてもらったことで、共産党再建のために金員を出したものとして同氏を検挙しようとしたが、これはものにならなかった。」

 また、『満鉄に生きて』の著者伊藤武雄氏がその書中でつぎのように書いていることも重大な証言のひとつである。

「第一次検挙(昭和17年9月半ばごろ)の後、あとから考えてみると、それほど見当外れでもない話を私は聞きました。それは長谷部将軍といってシベリア出兵のときの参謀で、あとに満鉄の嘱託になった人が話してくれたのですが、『東条はだんだん敗戦の色が濃いから、敗戦になれば左翼インテリは騒擾をひきおこすかもしれない。その予防策に全部拘束しておく。左翼といわず、インテリは全部危険だ。できるだけ広い範囲で五万人ほど拘束する。内地と外地から要するにインテリ五万人を検挙する方針だ。その手始めに左翼インテリの巣、満鉄調査部に狙いをつけた』というのです……云々。」(同書二四〇頁)

 なんとおそろしい東条や平沼らの陰謀だったことか。

  出獄直後の体調を整える

 ぼくの手許にある三十冊ほどの古いノート類の中に、手垢によごれた小さいノートが一冊混じっている。表紙には横書きで、「笹下会幹事会記録」となっており、その上段にサブタイトル風に「神奈川県特高暴行事件の共同告発」と書いてある。

 敗戦直後に用いたその小さなノー卜を取り出して開けてみると、ノートとは別にはさみ込まれた六枚の古便箋が出てきた。変色したその便箋には昭和二十年(一九四五年)九月四日のぼくらの出獄から同年十一月十七日までの毎日を、一日一行の要点メモ式に一日も欠かさず書き込んである。たとえば第一行の出だしには、

「九月四日夕刻 出獄。益田直彦、平館利雄、西沢富夫、加藤政治、小森田一記、畑中繁雄、沢赳、青木滋君らと共に保釈。正子の迎えあり、久々に自宅へ帰る。」

とあるだけの、まことに簡単なメモである。しかし、ぼくにとってはこれが唯一の頼りのメモで、その折の記憶などほとんどないぼくには貴重な紙片なのである。残されていたそんなメモからたどっていくと、おぼろげながらも微かなイメージが浮んでくる。そうだ、その日の出所は、役所の形式的な手続きに手間どったおかげで午後の四時すぎになってしまったのだ。同じ日に出所した前記のぼくらの仲間は、それぞれの身内の者に引き取られる形で出たが、各自ばらばらに自分の住まいへ落ちついたのだった。ぼくは住まいの方向が同じだった加藤政治君夫婦と途中まで同道して帰ったのを党えている。そのとき正子がぼくに着せようと持参した着物は、セルの和服であったというから、ぼくが埼玉県の与野から最初に検挙されたときに着用したものと同じセルの和服を着て帰ったわけである。

 ついでに書くと、そのころ正子の住まいは世田谷区松原町の清風荘という古い木造アパートの二階の一室にあった。ぼくの留守中を彼女はずっと日本光学の新宿工場にレンズ磨き女工として働きに出ていたので、職場の友人とその同じアパートに住んでいたのである。

 九月十五日は、前にも書いたように、泊組のぼくらの公判であった。メモをみると、その前々日の十三日に海野弁護士事務所でぼくらは公判に備えて打合せを行なっている。もちろんその間西沢君や加藤君らとも個別に会っている。

 海野さんの法廷戦術で、細川さんをぼくらから一人だけ分離したため、十五日の公判は細川さんを除いた泊組裁判となったことも前述した。それはまったく形式的な公判であったが、ぼくはどうしても釈然としなかった。どこまでもとことん上告して闘いたい気持ちであった。メモによると、出所した翌々日にあたる九月六日の午後、ぼくは細川さんを世田谷の自宅に訪ねている。細川さんの自宅は世田谷五丁目(現在の桜丘)にあった。小田急線の千歳船橋駅から、当時は畠の多い田んぼ道を十五分ほど歩いた野菜畑の真ん中にぽつんと建っていた。

 その日は裟婆に出て初めての、久しぶりの訪問だったので、あまり長居はしなかったと思うが、公判前の釈然としないぼくの心境は率直に細川さんに伝え、今度の一件の当局による謀略性と特高の暴力の許し難い不法行為について大いに話し合って帰った筈である。

 八月十五日の天皇の降伏宣言で、日本がポツダム宣言を受諾して敗戦と決まってからすでにひと月を経過している。そのとき、ぼくらにもう少ししっかりした世界認識と組織力があったならまるでちがった舞台まわしができたのであろうが、いかんせん出所直後のぼんやりしたぼくの頭には、そのほかにどうにもなす術もなかったのである。お恥ずかしいことだが、裟婆で茫然自失していたひとびととなんの変わりもない起き伏しだった。

 それどころか、栄養失調の自分のからだでは歩く足もとさえもふらついて仕様がない。まずはなんとかして体調だけでも健康体に戻したいと思ったぼくは、公判の終わったあと一週間ほどの間を伊豆の西浦へ保養に出かけた。そこは、正面に富士山を望む西浦足保の小さな禅寺であった。

  ぼた餅のたべ方を知らない日本人

 伊豆海辺の禅寺でしばらく休養をとったぼくは、どうにかひとなみの生気を取り戻すことができた。やがて、十月四日の朝刊は、占領軍として乗り込んだ連合国最高司令官の日本政府にあてた通牒を一面トップに四段ぬきで掲載した。「政治犯の即時釈放と内相らの罷免要求、思想警察も廃止」という大見出しのその記事は大要つぎのような内容で、治安維持法の廃止を求めたものであった。

(一)政治犯の即時釈放

(二)思想警察その他一切の類似機関の廃止

(三)内務大臣および警察関係首脳部、その他日本全国の思想警察および弾圧活動に関係ある官史の罷免

(四)市民の自由を弾圧する一切の法規の廃止乃至は停止

 この四項目を要求した右の通牒は最高司令部情報教育局長ダイク大佐より発表されたものだが、該当する政治・思想犯人の数は三千人に達する、と報ぜられている。

 ぼくの例のメモによると、十月三日、伊豆の西浦から同伴して上京した老父を世田谷の細川さん宅へ案内して細川さんに紹介している。老父はなにもわからぬ田夫野人であったが、その帰途、ぼくにぽつんと、

「なるほど細川先生というお方は立派なお人じゃな。」

と語って、細川さんの人柄に感心した様子であった。

 メモでは、その翌々日の十月五日と十月八日、また十三日と相ついでぼくは細川さんを訪ねているが、確かその十月五日か八日のいずれかの日であった。細川さんから、

「木村君、昨日ここへ朝日新聞社会部のA君が今度の事件について話を聞きに訪ねて来たが、詳しくは木村君と小森田君からも聞いておき給えと言って君の住まいを知らせておいたよ。」

と朝日のA記者の紹介を受けた。間もなくぼくをたずねてきた朝日のA記者と会ってぼくは今度の一件を話したのである。

 十月九日の朝日新聞朝刊は、三面トップ五段ぬきにその記事を掲載した。

『中央公論』『改造』解体の真相……細川氏の論文が発端……編集陣にも無謀な弾圧

と前おきして、

「無理に “赤”と断定、その真相を語る細川氏」

  ——————

 以下、細川さんが、「『改造』誌に書いた論文「世界史の動向と日本」は新しい民主主義を主張したもので、誰が見てもこの論文から共産主義の主張が出て来ないとわかると、こんどは私の友人達を検挙し、友人達の口から細川は赤だと言わせようとしたのです。云々。」と語った記事を掲げたあと、続けてぼくの談話として、

「全く当局の仕組んだ陰謀です。彼らは事実をもって事件を構成することができないで、暴力をもって事件を構成しようとした。豚箱の中で調べられているときなど、彼らの言うことを否認すると、真ッ裸にして五、六回投げ飛ばしておいてから、太さ親ゆびくらいのロープでぶったり、椅子をこわした木刀で頭やからだを滅多打ちにして、背中や足腰を足蹴にするのです。(中略)失神状態になると、用意してあるバケツの水をぶっかけて、気を取り戻すと、かねて用意の筋書き通りの手記や調書を目の前につきつけて承認しろと言う。まったく封建時代の拷問みたいなもので、このような拷問によって調書は当局の謀略通りに作られ、検事局に廻され、横浜刑務所の未決へ送られたが、敗戦後の八月二十一日まで何の調べもなく放っておかれ、予審はたった二、三日で終わり、終戦直後の当局の出方はまことに笑止千万で、石川予審判事などは『共産党再建の泊事件は除外するから、どうか今までのことは水に流して妥協してくれないか』と頼んでくるありさまでした。だがわれわれはあくまでこれは不法拘禁だと頑張ったのですが、九月十五日の公判で、われわれ全員が否認したにも拘わらず、皆一様の奇怪な判決を受けた。公判のあとで判事は近々恩赦もあることだからこの辺で我慢してくれと申し入れて来たりした。この事件は外からはまったく想像もできないほどの不法暴力で仕組まれた戦慄すべき出来ごとであった。」

と報道している。

 しかし、正直言って、ぼくも治安維持法が撤廃された前後は一種名状し難い解放感に酔ったことも事実である。ぼくらは、わずかに三年にも満たない拘禁生活ではあったが、いざ釈放されて自由の身となってみると、若者のひとりとして、感慨無量な自由解放感を味わったことは事実だったと思う。

 この間ぼくはメモにあるように何度か細川さんを訪ねて種々打合せを重ねているが、いまなお耳に残る細川さんの言葉がある。その一、二を誌してみると、

「こんどの敗戦で、連合軍側はわが国に対して『民主主義』というぼた餅を投げ込んでくれたのだが、残念なことに日本人はそのたベ方を知らない。」

 そしてまたこうも語った。

「民主主義なんてのは文字や言葉じゃないぜ。文字や言葉でそれを繰り返したってナンセンスじゃ。本当の民主主義というものはな、どんなことにも文句をつけるということじゃ。

 こんどの横浜では、諸君が特高にあれほどひどい乱暴を受けたのじゃ。ああそうですか、と黙ってひきさがっているときじゃない。彼らの暴行に対して断乎として文句をつけねばならん。今はどんなことよりも前に、今度の横浜の特高に文句をつけることから始めるのじゃ。」

 もうひとつ、ここに当時の細川さんの不屈の気概を示す一枚の色紙があるのでご紹介しておきたい。それは、敗戦、出獄の年の大晦日に細川さんが郷里泊の実弟細川直次郎さんに与えた色紙で、文面はつぎのとおりである。

「誠に平和なおほらかな太陽が現れ、新年となった。わが大和民族はここにこの年に断乎として真実の建国をするのである。大胆不敵にこの建国のために鋤鍬を打ち込み、ハンマーを叩き込み、ペンを走らせ、話し合い、演説し、集会結社し、行動するのだ。勤労民衆自身の腕そのものによって建国を実現するのだ。

    一九四五年十二月三十一日

  直次郎恵存

                                嘉 六  」

笹下会の結成と共同告発

 前記のノート「笹下会幹事会記録」によると、ぼくらが細川さんを中心にして、神奈川県特高の暴行事件を共同で告発するために笹下会を結成したのはその年の十一月十三日午前十時、丸の内の常盤家二階の大広間においてであった。会する者三十余名。細川さんを座長として、そこには三輪寿壮弁護士も出席している。打合せ事項には「共同告発の件」とあるだけだが、当日幹事として七名の者が選出されている。その名前には、相川博、木村亨、西沢富夫、由田浩、板井庄作、渡辺公平、広瀬健一の名が上っている。

 このノートにはその日の議事録の詳細が記されていないので、当日の笹下会結成と共同告発にいたる討議のいきさつについてはわかっていない。しかし、前述のぼくのように細川さんを訪ねたひとたちはそれぞれに自分の体験から、神奈川県特高の不法な拷問の数々をなんとしても告発しなければならないと痛感したにちがいない。この笹下会結成当日、幹事に選出された七名のひとたちはこの告発闘争に積極的な世話役を委任されたわけである。

 笹下会共同告発闘争は判決、上告とそのあと六年間にわたる長い闘いを続けたのであったが、告発のための各人の口述書(手記)作成作業およびそれぞれの証拠品集めや、証人申請などの法的手続きの一切は三輪寿壮弁護士事務所の豊田求弁護士に一任したのであった。参考までに、その一年後の正式の告発に当っての笹下会の「あいさつ」文を原文のままつぎに全文を掲げておこう。

  あいさつ

 日本の官僚はとくべつの悪業をはたらいた。かれらは警察の暴力を手先に使って、いつも人民大衆をおさえつけ、いじめつづけてきた。軍部や財閥と結んで侵略戦争のお先棒をかついだのも彼らだ。戦争で民衆をこんなヒドイ目にあわせながら、彼らは、それは軍人のせいだと責任を他に転嫁して知らぬ顔をきめているのみでなく、いまなお彼らは陰に陽に民衆の自主的運動を弾圧しようとたくらんでいる。世界無比の悪法の「治安維持法」をべつの形で復活させようと狙っているのだ。こんな官僚勢力をそのままにしておくかぎり、ポツダム宣言にもとづく日本の民主化はとうてい望むべくもない。過去において、わが幾千幾万の無垢の民衆が受けたギセイをおもい、日本の将来を考えると、私たちは彼らの罪悪を黙過できないのである。そこで私たちは、戦時中に、彼らが軍と手を取って仕組んだ陰謀の最大のひとつ、いわゆる横浜事件(泊事件、政経グループ事件、愛同事件、編集者会事件などをふくむ)で不法拘禁を受け、ことばにつくせぬ拷問とテロによって、なかの五人までも死に至らしめる被害をこうむった四十余名の同志たちが、人民の敵旧官僚とその手先官憲どもを、殺人、殺人未遂、人権じゅうりん、名誉きそんなどの罪名をもって共同告発すると同時に、彼らの犯罪を全日本民衆の前に徹底的に追求し、バクロすることに決定した。この事件はたんに私たち一部の部分な問題ではなく、実にわが国民衆全体の問題である。これによって私たちは基本的人権確立擁護の闘いをくりひろげ、一大人民裁判運動をまきおこす覚悟である。また、これによって日本民主化のガンである旧官僚勢力を清掃しつくさねばならない。

 幸いすでに有力な弁護士団の絶大な支援を受けており、運動の用意はすっかりととのっている。どうか本運動の主旨をご諒解のうえ、全幅のご協力をいただきたい。

(なお、笹下会会員諸兄は同封の委任状に署名捺印のうえ、大急ぎで左記事務所豊田弁護士あてにお送り下さい。これは前にお出し下さった手記の法的効果を確実にするためであるが、さらにテロを受けた当時の目撃者なり同房者をこの証人としてお知らせ下さればますます証拠固めが完全になるから、これもお願いします。)

    一九四六年一二月一六日

                                笹下会幹事会

  共同告発は「事実による人権宣言」

 笹下会の共同告発闘争の仕事はまず告訴側として、笹下会会員三十三名各自が受けた横浜における特高暴力による各自の被害事実の口述書(手記)の執筆、作成から始まった。

 三十三名の口述書(手記)を集める作業も容易ではなかった。ぼくは由田浩君や板井庄作君と手わけをして、それらの口述書を弁護士事務所へ届けるために各告訴人から集めて歩いたのを覚えているが、これとても一年以上の時間をかけた作業であった。

 また、それぞれの告訴人は自らの被害事実を立証する証拠物件の提出や証人申請も行なったから、それらの告訴手続はかなりの手間ひまがかかった筈である。

 豊田求弁護士の手によって笹下会の正式の告訴状が出来上ったのは昭和二十二年四月のことであった。告訴状による笹下会の告訴人氏名はつぎの順序で記されている。

 細川嘉六、川田寿、川田定子、益田直彦、西沢富夫、平館利雄、加藤政治、木村亨、相川博、小野康人、高木健次郎、小川修、勝部元、由田浩、山口謙三、渡辺公平、青山鉞治、畑中繁雄、小森田一記、青木滋、水島治男、小林英三郎、大森直道、安藤次郎、若槻繁、内田丈夫、手島正毅、仲孝平、松本正雄、藤川覚、彦坂武男、美作太郎、広瀬健一。

 そして、その告発を受けた被告訴人(神奈川県特高)の名を列記してみるとつぎのとおりである。

 前田弘 (警視)、松下英太郎、柄沢六治、平畑又次、石渡六郎、武島文雄、松崎喜助、鈴木某(以上警部)、白旗某、松山某、矢川源三郎、森川清造、平賀卓、室賀某、竹島某、渡辺筑之助、吉留北輔、原田某、小林重平、佐藤兵衛、赤池文雄(以上警部補) 、村沢昇、杉田甲一、横山春美、石渡某、川島孝義、斉藤武雄(以上巡査部長)、中村章 (巡査)。

 なお、この告訴状は昭和二十二年四月二十七日に海野晋吉、三輪寿壮、清瀬三郎、豊田求の各氏を代理人弁護士として横浜地方裁判所検事局あてに提出されている。

(注)告訴状の全文は巻末に付記した。参照ねがいたい。

 当時の自由法曹団の機関誌は「事実による人権宣言」の見出しで証人(同房者)発見に全力を傾注、公訴の成否による影響は重大であるとつぎのように報じた。

「いわゆる『横浜事件』は、さきに横浜検察庁で正式に受理され事実審理に入った (既報)が検察当局でも問題を重視、熱意をもって当っているもようで、すでに告訴人中二名を除く全員について事実を聴取、被告訴人側についても大体一応の取調べが済んでいる。本事件の中心をなしているのは、新憲法により自白の効力に変化が生じたため、証人の捜査審問が重要となったことから事件の性質上、証人や証拠品の発見が著しく困難なことであり、告訴側では当時の同房者の発見に力をそそいでいる実状である。検察当局ではこの事件のため、大越検事ほか五人の検事が当っているが、一応の事実審理の終了を待って、協議のうえ事件の公訴を決定することとなるもようである。右事件の告訴人側弁護士豊田求氏はつぎのように語っている。『手続上の困難は証人の発見と調査であるが、幸い検察側の熱心な努力がみられるのでどうにかなると思う。この事件はいわば——事実を通じての人権宣言——たる意義を持つものであり、今後再びかかる人権じゅうりんのないよう敢えて告訴するに到ったものである。その意義は決して小ではないと信ずる。』」

 その機関紙 (一九四七年六月三十日、第二四号)が掲げた「主張」の「『横浜事件』告発の意義」も極めて重要な証言となるので、少し長い引用になるが、おゆるしねがいたい。

「いわゆる『横浜事件』の犠牲者細川嘉六をはじめ約四十名が、当時取調べに当った特高関係者約三十名を、人権じゅうりんで告発し目下その事実審理が進められている。

 この事件は、細川嘉六が昭和十七年八月号の『改造』に執筆した論文『世界史の動向と日本』に日本出版会の機関紙読書新聞が陸軍省報道部長たりし谷萩那華雄をわずらわしていんねんをつけたことから端を発した。軍閥警察官僚の最も暴虐な事件として当時の良識ある市民をりつ然たらしめたものであった。

 ところでこの事件はもともと何ら内容のないものであり、細川嘉六の論文『世界史の動向と日本』が当時としては進歩的なものであったにせよ、すでに極めてしゅん厳となっていた内務省検閲を無事通過したという一事によっても、これが何らかの波紋をひき起すなどということは考えられないところであったのだが、端しなくも権勢ならびなき陸軍の谷萩が、読書新聞の全一面をつぶしてこれを摘発し、これを摘発しえない内務省検閲に対して露骨な不信を表明したこと、そのこと自体が警察官僚の“面子”にかかわるものとして総合雑誌の編集者総検挙という大事件をひき起すことになってしまったのである。

 考えてみれば、実にバカバカしい話であり、悲劇とも喜劇とも言いようのない話である。しかし、これこそが絶対主義的政治の実態であり、かくの如き実態の極めて積極的な表現として、竹ヤリ戦術、一億玉砕などという人間の命と木石とを同一視する非人間的な考え方が可能であったことを思えば、われわれは今日、その実態を直接に表現していた『横浜事件』を通して、徹底的にこの日本に巣くっている悪をえぐり出さなければならない。

 横浜事件は谷萩の摘発にろうばいした特高が、誤まれる名誉回復のために、殊更に問題を大きくみせかけて、自らの腕を誇るという“面子”の事件として発展した。しかし、“面子”の事件はもとより内容を伴うものではない。そこで、ここに驚ろくべく惨忍なお定まりの拷問が始まり、強制した“虚偽の自白”によって犯罪をデッチあげる工作が行なわれたのである。その結果、えられたものは何であったか。被検挙者の生命にもかかわる肉体的苦痛と、犯罪をデッチ上げた特高に対する論功行賞であった。人権じゅうりんの上に築かれた特高の美酒にすぎなかった。

 新憲法が制定されたからということによるのではなく、日本の敗北それ自身が、日本人に人権の尊重すべきことをまず義務づけているのだが、われわれ卑屈に馴れた日本人は新憲法の制定によってようやく人権の主張を行ないうる態勢におかれたように見える。そしてこの態勢の社会的な第一の覚せいと抗議がこんどの共同告訴を通して現われようとしているのである。ここに今次横浜事件告発の重大な意味がある。

 だが、現実はなんと皮肉なものであろうか。新憲法の精神に則り、新しい法律の下に行なわれる告発に際しては、のっぴきならぬ証拠と証人のない限り、人権じゅうりん即ち拷問その他の犯罪事実を確証することはできず、虚偽の事件の捏造によってほうびを貰った卑劣な特高たちは、おそらく証人と証拠物件の不足をタテに事実を否定しようと試みるであろう。そして、そのような権利は今日卑劣な彼らにも許されているのであり、また許されて然るべきものなのである。

 ところで、旧時代と新時代との間に存在するこのようなギャップ—これあればこそ実はあくまでも証人と証拠物件を求めて横浜事件はテッテイ的に究明されなければならぬのである。なぜなら、もしもここで横浜事件の告発がウヤムヤに終らせられるならば、民主主義の時代においても、正しい者が結局は自らの正しさを主張しきれず、不正なる者がそのこうかつさによって不正を見逃されるものだという誤解を一般民衆に与える怖れがあり、そこから再び『泣く子と地頭』式のまちがった思想が勢いをもり返さないとはいえないからである。

 われわれはこのような結論に至ることを日本の精神的破滅の一歩だと考える。ゆえにわれわれはあくまでもこうした結論をさけるよう検察当局の全能力発揮を期待するとともに、これを契機として、他の多くの事件が今後ぞくぞくと告発され、真に具体的に日本人の『人権宣言』とを、祖国の興亡に関する重大事として期待するものである。」

  特赦によって裏切られた共同告発の成果

 笹下会の共同告発は横浜地方裁判所検事局において「特別公務員暴行傷害事件」として受理された。公判は開始された。

 しかし、その公判は遅々として進まなかった。有効な証拠品がなかなか認められなかったことと、ぼくたちが申請した証人が旧特高たちの妨害工作によって発見が遅れたからである。それでも益田直彦君の証拠品だけは唯一の有効物件として認められることになった。それは、益田君が特高の拷問を受けたときの傷口に当てたチリ紙をカンジンヨリで縛ったものであった。化膿した傷口のウミが証拠になったのである。

 益田君を共同告訴の代表として公判は続けられた。旧特高側の妨害や抵抗工作に対して笹下会は「法廷監視委員会」を作って彼らのもみ消し運動に対抗したこともあった。

 この間笹下会としてどのような法廷監視活動を行なったか、詳細の記録を残していないので、その後の経過は要点だけをかいつまんで記述するにとどめるが、昭和二十四年二月二十五日、横浜地裁は第一審の判決を言い渡した。松下英太郎には懲役一年六ヵ月の実刑判決であった。しかし、被告人らはこれを不服として直ちに控訴した。

 約二ヵ年にわたる控訴審のあと、昭和二十六年三月二十八日、東京高裁は藤島利郎裁判長のもとで判決を下した。判決文で藤島裁判長は、「情状を酌量してなおかつこの刑に値する」と言い、松下には懲役一年六ヵ月、柄沢、森川に懲役一年の実刑を言い渡した。

 このときの判決文の全文はつぎの通りであった。 (「笹下会メモノート」による)

「昭和二十六年三月二十八日宣告 裁判所書記官佐藤琢磨

  判決

本籍並住居 藤沢市鵠沼六八一〇 松下英太郎 明治三十八年一月十五日生

本籍 群馬県勢多郡山川士見村大字横尾六九、住所 横浜市南区大岡町一二四〇

柄沢六治 明治四十四年七月五日生

本籍 山梨県西八代郡上九一色村古関一六七八、住所 横浜市中区馬口台一二七

森川清 大正三年一月二十五日生

 右者等に対する特別公務員暴行傷害被告事件につき昭和二十四年二月二十五日横浜地方裁判所の言渡した各有罪判決に対し、各被告人から適法の控訴申立があったので、当裁判所は検事大久保重太郎関与の上更に審理を遂げ左の通り判決する。

主文
 被告人松下英太郎を懲役壱年六月に

 被告人柄沢六治を懲役壱年に

 被告人森川清造を懲役壱年に処する

 訴訟費用は被告人三名の連帯負担とする

理由
 被告人等三名は曾て神奈川県警察部特別高等課に勤務していたもので被告人松下英太郎は左翼係長警部、被告人柄沢六治、同森川清造は同係取調主任警部補の地位にあって各司法警察官として思想事件の捜査に従事していたが、其の職務に従事中、昭和十八年五月十一日治安維持法違反事件の被疑者として検挙された益田直彦 (当時世界経済調査会員)の取調に際し同人が被疑事実を認めなかったので、被告人等は其の他の司法警察官等と共謀して同人に拷問を加えて自白させようと企て、同月十二日頃から約一週間位の間数回に亘って、神奈川県神奈川署の幹部補宿直室に於て、益田直彦に対し或は頭髪を掴んで胯間に引き入れ、或は正座させた上手拳、竹刀のこわれたもの等で頭部、顔面、両腕、両大腿部等を乱打し又は之により腫れ上った両大腿部を靴下穿きの足で踏んだり揉んだりする等の暴行凌虐の行為を為し、よって益田の両腕に打撲傷、挫傷、両大腿部に打撲挫傷、化膿性膿症等を被らせ就中両大腿部の化膿性膜症については其の後治癒まで数ヶ月を要さしめたのみならず長く其の痕跡を残すに至らしめたものであって右所為は各被告人とも犯意継続の下に行ったものである。

 右所為は各犯意継続に関する点を除き

 一、当公廷に於ける各被告人の供述

 一、原審公判調書中各被告人の供述記載

 一、原審公判調書中証人益田直彦の供述記載

 一、原審公判調書 (昭和二十三年十二月十日付)中証人益田直彦の供述記載

 一、原審公判調書中証人淵田勇三郎、同吉田精一、同高橋弘の各供述記載

 一、原審証人稲葉末吉に対する訊問調書中の供述記載

一、検事の益田直彦に対する昭和二十二年九月二十三日付、仝年十月八日付、仝年十月二十日付各聴取書中の供述記載

 一、検事の嵐秀卿に対する昭和二十二年十月一日付聴取書中の供述記載

 一、吉田精一作製の鑑定書の記載

を綜合して之を認め、各犯意縦続の点は同種行為を短期間に繰返して行った事実に徴し之を認める。

 法律に照すと判示所為は刑法第百九十五条第一項第百九十六条第六十条、昭和二十二年法律第百二十四号による改正前の刑法第五十五条に該当するところ行為時と裁判時との間の刑の変更があったので刑法第六条第十条に則り軽い行為時法所定の刑に従うベく結局傷害の罪の刑を重として刑法第二百四条に従い所定刑中懲役刑を選択した上被告人等を処断すべきものであるが事案の性質に鑑み科刑につき若干の考察を加える。

 元来本件は昭和十八年当時戦局が漸く苛烈を加え、為に国内の結束が強く要望されるに至り、殊に思想犯罪に対する取締が厳重を極めた時期に於て、特高警察官が思想犯罪捜査の過程に於て惹起せしめたものである。而して其の後終戦により制度の変革が行われ人権の保障ということが法制の根幹とされるに至ったのであって、犯罪自体今日とは異った雰囲気の下に行われたものであるのみならず、今日の社会はかかる犯罪については充分な保障を与えられて居り人権の侵害については懸念がないから被告人等の行為に対しては最早他戒の必要がないという考えもあろうし、又被告人等は終戦後退官し、最早警察官ではないし既に犯罪後七、八年も過ぎて居り、被告人等としても其の間苦悩の日を送ってきたのであるから自戒の必要も又失なわれている、即ち被告人等に対しては厳罰を科しなくてもよいということも考えられるであろう。

 然しながら民主主義の社会であろうと君主主義の社会であろうと法治国に於ては裁判官、検察官は勿論のこと司法警察官による暴行凌虐の所為の如きは絶対に許されないものであることは言をまたない。元来司法警察官の如きは一部強力な職権を与えられているのであるからその反面所謂拷問の所為の如きは厳禁されているのは当然であり如何なる意味に於ても拷問は許されぬというのが法治国に於ける法制の根幹であり最低の保障であると見倣されなければならない。而して被告人等はかかる禁制を破ったものである。

 

 成る程終戦後に於ては人権擁護ということが一層強く叫ばれることになり、本件の如き所為に対して適用される法条所定の刑罰の如きが加重されるに至ったのも、その一つのあらわれであろうが今日前記の如き人権保護の最低の保障が現実に於て全うされているかといえば(にわか)に然りと断定することはできないのである。いわんや予想される将来の難局に対し、右点に関する懸念を単なる杞憂に過ぎないとする証拠もないのである。而して若し斯る人権擁護の第一課が現実に保障されたと認められない場合は民主主義と称するものの如きも畢竟空虚なるものに過ぎないのである。

 之を要するに被告人等の所為は法治国に於て戦時であると平時であるとを問わず堅く戒められている禁制を破ったものであるから、之を戦局苛烈な時期に於ける一場の悪夢に過ぎぬとして看過し去ることはできない。又個人は何時如何なる場合にあっても官憲の暴行凌虐に身をさらされないよう充分な保障を得なければならぬという観点からして、我国に於ては今尚判示の如き種類の犯罪に対しては自他共に充分の戒心を払う必要があると認められる次第である。

 よって被告人等に対しては酌量すべき一切の事情を充分考慮しても猶科するに実刑を以てすべき充分な理由があるものと認める。

 よって前記法条所定の懲役刑の範囲内で被告人松下英太郎に対しては懲役一年六月、被告人柄沢六治、同森川清造に対しては各懲役一年の実刑を科すべきものとし、訴訟費用については旧刑事訴訟法第二百三十七条第一項第二百三十八条を適用し、第一、二審共被告人等三名をして連帯の上負担させるべきものとする。よって主文の通り判決する。

  昭和二十六年三月二十八日

                      東京高等裁判所第三刑事部

                            裁判長判事 前嶋利郎

                               判事 飯田一郎

                               判事 井波七郎

 これを不服とした被告人側はさらに上告した。しかし、一年一カ月後の昭和二十七年四月二十四日、最高裁は彼らの上告を棄却し、松下、柄沢、森川らの実刑は確定したのである。

 この最終判決こそ笹下会共同告訴の勝利だとばかりに、ぼくらは互いにこの判決をよろこび合ったものである。

 ところがどうだろう。それはぼくらの早合点にすぎなかったことがわかった。『横浜事件の人びと』の著者中村智子君が五年ほど前に松下にそのことを確かめる電話をかけたところ、松下はそんな判決をあざ笑うかのように「刑務所へなんかは一日も行っていない」と言ったというのである。彼らは最終判決確定の四日後の昭和二十七年四月二十八日に発効した講和条約によって特赦になっていたことを明らかにした。中村君はその書で、「占領から独立した日本は拷問特高を守ったのである。」と書いている。(同書二七六頁)

 われわれの共同告発闘争は一応の成果を獲得したとはいえ、その詰めは空振りに終わったのである。

 この事実は何を物語るものであろうか ? いわゆる泊事件や横浜事件とはいったい何だったのだろうか ?

 敗戦直後に天皇が内外に向けて「人間宣言」を行なったことはよく知られている。

 ところが、情けない話だが、日本人民自身は今なお自分の「人間宣言」すなわち「人権宣言」すらも自力で行なっていない……。そんな厳然たる事実を、この判決の帰結そのものが証言しているのではなかろうか。

 それはまた、いまの日本では、こんな事件は何度でもまだまだ繰り返される可能性のあることを教えているのではあるまいか。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2009/11/09

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木村 亨

キムラ トオル
きむら とおる 編集者。1915(大正4)年~1998(平成10)年。和歌山県新宮市生まれ。1939(昭和14)年早稲田大学文学部社会学科卒業。同年中央公論社入社、出版部で細川嘉六監修『支那問題辞典』の刊行に従事したことから、1943(昭和18)年5月26日神奈川県の特別高等警察課(以下、「特高」と略す)により「治安維持法」違反容疑(いわゆる「横浜事件」)で検挙、留置される。その間、筆舌に尽くしがたい拷問・虐待・自白手記の強要を受ける。1945(昭和20)年9月4日保釈。戦後の、同年9月15日、一審で懲役3年執行猶予2年に処せられる。同年11月、拷問した特高を共同で告発するため「笹下会」の結成に参加。1986(昭和61)年8月「横浜事件」の再審請求(第1次)を横浜地裁に提出。その後、「無罪」を求めて再審請求を繰り返す。その間の1998(平成10)年に逝去。2008(平成20)年10月に開始が決定された第4次再審の第一審の判決で、横浜地裁は、2009(平成21)年3月30日、「免訴」(手続きの打ち切り)を言い渡した上、「刑事報償手続き」による名誉回復に言及した。

掲載作は『横浜事件の真相 再審裁判へのたたかい』(1986年、笠原書店)から29、31、35、37、38、40、41、42を抜粋した。 〔編輯室注:横浜事件とは、1942(昭和17)年から終戦にかけて雑誌「改造」に掲載された細川嘉六論文「世界史の動向と日本」が発端になり、執筆者をはじめ多数の編集者・新聞記者らが治安維持法違反で特高にでっちあげ逮捕・監禁されたという言論弾圧事件をいう〕

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