最初へ

只野真葛小伝

 父と娘

 

 只野真葛は江戸女流文学者の中では、ひときわ大きな異色の存在であるが、その生涯や作品が一般に広く知られているとは言いがたい。他の女流文学者たちも同様である。今、真葛の作品を論ずる前に、その生涯を一通り辿ってみたいと思う。

 真葛の生涯を考えるときに、その父工藤平助の存在を抜きにすることはできない。父平助の活躍期と真葛の成長期は、綯いあわされた一本の綱のように絡まっており、また真葛の後半生も強く父に規制されている。

 只野真葛は宝暦十三年(一七六三)、江戸日本橋数寄屋町で生まれた。名をあや(文・綾)という。あや子と自署している場合もある。父は仙台藩江戸詰の医師であった工藤球卿(きゅうけい)、俗称周庵・平助(一七三四~一八〇〇)、母は同藩の医師桑原隆朝如章の娘遊(?~一七九三)である。明治初期までは、女性は実家の氏姓に属することが多いので、人名辞書などに工藤あや子と表記されている場合もある。しかし今では只野真葛の名で通っているので、それに従う。

 真葛は父平助の二十九歳の時に生まれた。弟二人妹四人があり、真葛は長女である。長女としての責任感が生涯彼女につきまとった。父は真葛に工藤家を支える裏方としての役割を期待し、彼女もそれに懸命に応えようとした。

 真葛の幼い頃は、父平助の全盛時代であった。数寄屋町の工藤家や、次に新築した築地の豪邸にはいつもたくさんの来客があった。その中には患家の大名、その家中の者、著名な蘭学者、文人ばかりではなく当時人気の歌舞伎役者、侠客まであった。

 それらの人々に接する父を見て育った真葛は、後年「むかしばなし」の中で生きいきとその思い出を語っている。しかし「むかしばなし」は年代を追って書かれた自伝ではないので、年月が前後し、さまざまなエピソードが錯綜して入りまじり、わかりにくい部分が多い。後年、曲亭馬琴に書いて送った「昔ばなし」「とはずがたり」や「七種<ななくさ>のたとへ」にも先祖や父母、弟妹のことなど多くの思い出が語られている。これらと「むかしばなし」や曲亭馬琴の書いた「真葛のおうな」などをつき合わせて丹念に読みこんでゆくと、真葛の生涯が徐々に姿を現わしてくる。

 

 祖父・工藤丈庵

 

 真葛の祖父工藤丈庵(父平助の養父)は五代仙台藩主伊達吉村(獅山)が隠居するにあたって、侍医として三百石で召抱えられた。吉村は寛保三年(一七四三)に隠居し、江戸品川袖ケ崎にあった別邸に移った。これに従って丈庵も袖ケ崎の役宅に住んだ。真葛の父平助は延享三年(一七四六)頃、丈庵の養子となっている。平助は紀州藩の藩医長井大庵の三男である。工藤丈庵と実父長井大庵は医師同士の親しい間柄であった。長井家についてはのちに述べる。

 工藤家の養子になった時、平助は十三歳になっていた。丈庵は伊達吉村に忠勤を尽くし、宝暦元年(一七五一)に吉村が逝去した後、願い出て、藩邸の外に住むことを許された。「・・・御家中に外宅といふはぢゞ様がはじめなり」(藩の人の中で、藩邸外に住むというのは、おじい様がはじめてである)と真葛が「むかしばなし」(一)に書いている。それを確かめるすべはないが、江戸詰の藩士は藩邸内の長屋に住むのが普通である時代に、稀な例といえる。真葛によれば、それは召抱えられる時の約束であったようだ。

 その後、伝馬町に借地して家を新築した時に、「医師は大名より進物をとりいるゝもの故、玄関せまくては大台をとりまわすに見ぐるしゝ」(医師というものは、患家の大名から贈り物をもらうのが例であるから、玄関が狭くては贈り物を載せた大台を取り扱うのに見苦しい)と言って、二間間口の立派な玄関とした。丈庵の言葉通りに、工藤家には諸大名その他多くの人が患者として出入りした。

 真葛は祖父丈庵について「ぢゞ様はそうぞくむき巧者にてありし」(おじい様は相続財産を蓄えるのがなかなか巧であった)と述べている。工藤丈庵という人はすぐれた医師であったばかりでなく、武芸百般その他に通じ、その上経済観念も並々でなかったとみえる。のちに真葛の父平助が築地に豪邸を建て、諸大名ほか、多くの客を迎えるようになるが、それはとても仙台藩の三百石取りの医師の財力で出来ることではない。平助の医師としての実力に加えて、養父丈庵から受けついだ豊かな財力があったものと思われる。「むかしばなし」でくり広げられるはなやかな暮らしは、丈庵の築いたものの上に成りたっている。丈庵は築地で亡くなっているので、養子平助の活躍を満足して見たであろうか。

 ところで、真葛が生れたのは、伝馬町でも築地でもなく、数寄屋町である。丈庵は仙台藩に召抱えられる時、すでに抱え屋敷を三軒持っていたので、その中の一つかもしれない。彼が藩医となるにあたって、その中の一軒の屋敷と患者を、門人の一人に譲ったことも「むかしばなし」に書かれている。丈庵は仙台藩に召し出される前から、すでに高名な医師であったことがわかる。「むかしばなし」の中に数寄屋町でのことはあまり書かれていなくて、真葛の記憶に鮮明な、築地時代の思い出が多いので、もの心ついた頃に築地の屋敷が成ったのであろう。

 真葛の母遊がいつ嫁いできたかはわからないが、真葛の上に生後まもなく亡くなった子があるので、真葛の生れる二、三年前のことであろうか。父平助の二十代半ばと思われる。母はまだ若く、奥づとめの経験もしていなかった。

 母方の祖父は同じ仙台藩の医師桑原隆朝如章である。この人は六代藩主宗村(忠山)の時に、四百石で召抱えられた。住まいは藩邸内の長屋であったようだ。「むかしばなし」(一)に、母が子どもの頃、長時間の手習いの稽古に飽きると、弟と二人で自宅と隣の長屋の屋根との間に、多くの蜘蛛が巣をかけて獲物を捕らえるのを見て楽しんだ、とあることから察せられる。工藤家と桑原家は、まず同格の家柄といえよう。

 真葛は祖父丈庵について「工藤丈庵と申ぢゝ様は、誠に諸芸に達せられし人なりし。いつの間に稽古有しや、ふしぎのことなり」(工藤丈庵というおじい様は、本当に諸芸に上達されたお方であった。いつの間にお稽古なさったのか、不思議なことであった)と書いているが、医術はもちろん、学問、武芸、歌道、書道など全般に通じていた。そのため養子として迎えた平助の教育も厳しいものであった。

 朝、丈庵が出仕(しゅっし)前に『大学』一冊を序より終わりまで三遍教えて、翌日までに平助に復習させる。彼が夜も休まず覚えて明朝養父の前で読むと、「よし、さあらば論語とて、又三べんにて御出勤」(よし、それならば次は論語だ、と言って、また三遍教えて御出勤なさる)。毎日このようにして十日で四書(大学・中庸・論語・孟子)を上げ、五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)も同じような教え方で、平助は二、三箇月の内に身の回りにあるほどの書物はたいてい読めるようになった。それまで平助はほとんど書を読まなかったという。真葛は「ぢゝ様の多芸なるも、みなこのような人はづれなる御まねびやう」(おじい様の多芸なのも、みなこのような人並みはずれた御学びよう)だったろうと推察している。

 この学び方は真葛にも受けつがれているようにみえる。真葛も正式に一人の師についたということはない。当時、おおかたの武家の女子は、母や祖母から手習いや和歌の手ほどきを受けるが、真葛も当然そのような家庭教育を受けたであろう。母(ゆう)は古典の教養のある人であったし、特に母方の祖母は、『宇津保物語』の年立てを考えるほどの高い教養があった。さらに真葛は少女時代の一時期、荷田蒼生子に『古今和歌集』を習ったことを明記している。江戸派の国学者村田春海は父平助の親しい友人であったが、真葛は正式に入門せず、稀に文章を見てもらっただけらしい。

 馬琴の「真葛のおうな」によると、真葛がまだ奥づとめに上がる前に、『伊勢物語』を学んで書いた一片の文章を、父平助が春海に見せると、たいへん褒めて「その師なくてかくまで綴れるは、才女なり」(きまった師にもつかないで、ここまで文を綴ることができるのは、才女である)と言ったという。あまり大げさな褒め言葉なので恥ずかしくて、その後は両親にも見せなかったが、真葛はなおよい文章を書こうと心に決めた。自学自習が工藤家の伝統だろうか。

 村田春海が、まだ若い真葛の文章をほめたということは、かなり大きな意味を持っている。春海は江戸派の国学者の中でも仮名遣いの研究にすぐれ、また和文作者として、当時から高く評価されていた。本居宣長さえも、その点で春海に一目置いていたといわれる。(揖斐高著「和文体の模索」『江戸詩歌論』所収—汲古書院・一九九八年—による)。工藤平助にしても、いかに親しい友人とはいえ、いい加減な気持ちで娘の文章を見せたりしないだろう。このことについては、また後に述べよう。

 祖父丈庵は四書五経の他は、医学さえも平助に教えず、もっぱら調剤の手伝いをさせたという。平助は実父長井大庵や当時の著名な医師、中川淳庵、野呂元丈らについて学び、漢学は青木昆陽、服部栗斎らに学び、自分の工夫も加えて自らの医術を確立していった。その間に多くの蘭学者たちと友人関係を作り、彼らから医学ばかりでなく、当時の海外の知識を得た。

 

 父・工藤平助

 

 工藤平助は漢方医であるが、「蘭学者ではなかったが、その思考方法は蘭学系の開明的知識人」という位置付けがなされている(岩波書店『日本思想大系』64『洋学 上』解説による)。

 古くから医師は方外の人という一面があった。世の掟の外の人の意である。たとえ藩医であっても、他藩の大名や藩士、一般の人を診療して咎められることはない。工藤家に出入りする人々は「周防様、山城様、細川様」などと真葛が記す大名一族と彼らの用人や留守居役たち、さらに「出羽様・秋本様・大井様はわけて数知らずいらせられし」(出羽様・秋本様・大井様はとりわけ数えきれぬほどお出でになった)(「むかしばなし」三)とも書いている。彼らをもてなすために、二階に(さわら)の厚板で湯殿を造ったり、豆腐やへの支払いが年に二十両にもなったという。

 他には平助の親しい蘭学者たち、幕府の奥医師桂川甫周、中津藩医前野良沢、そして仙台藩の大槻玄沢、さらに林子平や高山彦九郎など奇人と呼ばれていた人、当代きっての知識人であった長崎の通辞吉雄幸作、村田春海のような江戸派の国学者で通人と呼ばれる人々、歌舞伎役者、はては無頼の徒までこだわりなく工藤家を訪れた。

 大名たちは医師としての平助に会うだけではなく、視野の広い平助の話を聞き、彼のもてなしの趣向を楽しむために遊びにくるのである。平助は器用な人で、料理さえ工夫して、それは平助料理といわれた。

 「父様御名の広まりしは二十四五よりのことなり。三十にならせらるる頃ははや長崎・松前など遠国より高名を慕ひて御弟子にと志して入り来たりし」(父様のお名の広まったのは、二十四、五からのことである。三十におなりのころは、はや長崎・松前などの遠国からも、高名を慕って御弟子にと志して入門してきたものだ)。

 前述したように真葛の生まれ育った頃は、まさに父平助のもっとも華やかに活躍していた時である。松前から弟子入りを願って紹介状も持たずに頼ってきた者がいた。そのあと長崎の通辞吉雄幸作の弟子が相ついで三人、平助に入門している。

 松前からは公事(裁判)沙汰のため、平助の知恵を借りようとたびたび頼ってくる者がいた。平助は彼らから松前の事情、蝦夷交易の事情、ロシアの南下の様子をつぶさに知った。親しい蘭学者や通辞吉雄幸作からはオランダの事情を詳しく知ることが出来た。

 平助は江戸にいながらにして、それらの知識を得ることが出来たのである。ことに吉雄幸作とは単なる情報交換のみならず、吉雄から送られてきたオランダの物品を、平助が売りさばくことさえあった。

 

 オランダの文物

 

 はじめて吉雄から贈られた品はドイツの博物学者ドドネウス著『植物標本集』である。吉雄の門人樋口司馬が、平助に入門する時長崎から携えてきた。ところが彼が乗った船が、博多沖で嵐にあい難破してしまった。

 本人は辛うじて助かったが、持参していた外科道具一式と、この書物ほか、その船に積んであった公儀の物もすべてが海に沈んでしまった。やがて波が静まって、公儀の手で海の底を探り沈んだ荷を引き揚げた時に、たまたまその書物も網にかかって揚ってきた。その表紙裏に工藤周庵様吉雄幸作という手紙の上書きの字が、左字に染付いていた。吉雄から平助宛の手紙が挿んであったからである。それが証拠となって貴重な書物は樋口司馬の手に戻った。その書物一冊を届けねばと、彼は乞食同然の姿で築地の工藤家まで辿りついたのである。

 この話をまだ十歳にもならぬ真葛は、深く印象に刻み込んで、のちに生きいきと書いている。

 潮水に漬かった書物は役に立たぬと言われていたのを、平助はある紙問屋に教えてもらって見事に再生させた。固くしまった書物を真水の中で解きほぐし、一枚ずつ糸にかけて乾かす。これを三回繰りかえして、三回目に柿渋を少し加えた水で洗って干した。築地の家の、庭のあちこちに紐をかけわたし、ひらひらと異国の草木を描いた紙片がひらめいていた。平助の親しい蘭学者たちが見にきて、桂川甫周がオランダ文字のペイジ数を読み解いて、一冊の書物に仕立て直した。その時平助は、当時の日本にはないような分厚い本をどうして綴じるかと考え工夫して、金物屋に特別の金物を拵えさせて綴じた。こうして日本には稀な、珍しい『植物標本集』は再生した。

 のちに来たオランダ人に聞くと、オランダでもやはり同じような形の金物で綴じると答えたという。これが吉雄から来たオランダ物のはじめであった。

 こののちは、つぎつぎにオランダの珍しい物が来た。第一にきたのは毛織の国王の官服といって、大きな箱に入った上着と(ズボン)、髪挿し、靴など一揃いである。真葛はその色、織の種類、紋様、形状、飾りなど昨日見たように細かく覚えていて再現している。

 次にはケルトルというオランダの酒宴道具一式がきた。これにはぶどう酒の入った角フラスコ二十本が精巧な二重の木箱の、下の段にきっちりと入り、その上段には盃、肴入れの器が入っている。濃いぶどう酒には金粉が入っていて、フラスコを振ると火の粉が飛ぶように見事であった。次いでびいどろの板で四方を張り、びいどろ鏡で反射するようにした掛行灯(かけあんどう)がきた。これは蝋燭をともすと、日本の行灯(あんどん)の十二倍にも明るく辺りを照らし出した。父平助はこれに千畳敷掛行灯と名を付けた。真葛はケルトルや行灯の燭台のこまかい図まで描いて語っている。

 幼い真葛は眼を輝かせて見入ったことであろう。真葛の記憶力の抜群なことがわかる。これらのオランダの品々はやがてどこかの大名に買い上げられたようだ。当時オランダ物は大流行であった。

 真葛にはその頃、弟妹が次々と生まれ、嬉しいことが続いている。「父様は三十代が栄えの極めなるべし。日に夜に賑ひそひ、人の用ひもましたりし。御名のたかきことは医業のみならず・・・御才人なりといふ名の広まりしは、日本中にこへて外国迄も聞へし故、国の果てなる長崎松前よりも人のしたひ来りしなり・・・諸国にてもてあましたる公事沙汰(裁判)の終をたのみにくることにて有し。」(父さまは三十代が一番お栄えになった時であったろう。昼も夜も人がきて賑わいが増し、人に頼まれることも多くなった。御名の高いことは医業ばかりでなく・・・ご才人だという名も広まり、日本中ばかりか外国までも聞えたため、国の果ての長崎松前からも人が慕ってきたのです。・・・諸国でもてあました裁判沙汰の決着をどうつけたらよいかまで頼みにきたことです)。

 真葛が描く平助の姿は名医というばかりでなく、時勢をよく見る警世家、良識の持ち主というイメージが濃い。冷静によく父の姿を捉えている。のちに馬琴に書き送った「昔ばなし」にも、「・・・(父は)医業をつとむるかた、心には天地にとほりてうごかぬことを考あつめて、(あげ)つらふことをこのみ侍りき。・・・されば、子共が世人には似じと、おのおのはげみ侍りし」(父は医業に精出すかたわら、心の中では天地を貫いて動かぬ、絶対の真理を考え集めて、論ずることを好んでおりました。・・・ですからわれわれ子どもたちも、世の人々には似ないようにと、おのおの励んだのでした)とも書いている。平助が永遠に変わらぬ、絶対の真理とは何かを考え論ずることを好んだというのは、のちに『独考』を書くにいたる真葛の姿を見るようである。平助の人物像は多彩すぎて、なかなか一つに結ばぬところがある。

 

 父の著書『赤蝦夷風説考』

 

 父工藤平助の身に一つの好機が訪れたのは、真葛が二十歳頃のことである。そのころ彼女は仙台藩邸の奥に勤めていた。彼は『赤蝦夷風説考』という二巻の書物を著して、時の老中田沼意次(おきつぐ)に献上した。この著書で平助は,当時しばしばわが国の北辺を騒がせたロシアについて、彼らの南下の意図は領土的野心ではなくて交易にあることを述べ、さらに蝦夷地、カムチャツカ、千島、ロシアの地理について説明している。そして外国と交易してその宝を手に入れるべきこと、蝦夷地を開拓してその産物を獲得すること、とくに金山を掘って国力を増すべきことを説いている。

 しかしこの著述は平助が自ら進んで田沼に献上したものではない。工藤家に出入りする人の中に田沼の用人がいて、ある時「我が主君は富にも禄にも官位にも不足なし。この上の願いには田沼老中の時、仕おきたることとて、長き世に人のためになることをしおきたき願いなり、何わざをしたらよからんか」(我が主君田沼意次は、富でも禄高でも官位でももう不足はない。この上願うことは、田沼老中の時代に仕置いたこととして、のちの世の人のためになることをしておきたいものである。どんな仕事をしたらよいだろうか)と平助の智恵を借りにきたので、蝦夷開拓を勧めたのだという(「むかしばなし」五)。この用人とは誰であろうか。三浦庄二であろうと推測されている。

 そして書き上げた平助の著書『赤蝦夷風説考』を田沼意次や松平信明らが見て、その結果、天明五年(一七八五)に幕府は大掛かりな蝦夷地調査隊を派遣した。隊員は御普請役山口鉄五郎以下十名であり、その外に雇い人として最上徳内らも入っていた。二回目の調査隊は翌天明六年の田沼失脚によって中止となった。しかしこの調査隊の果たした役割は、その後の影響をみれば無視できない大きなものがある。

 『赤蝦夷風説考』が田沼に献上されたその後、平助は草稿を深く蔵して他人に見せなかったという。同じ年に大槻玄沢の「蘭学階梯」が完成し、林子平著「三国通覧図説」が刊行されている。平助と玄沢や林子平との深い関係については後に述べる。翌六年に林子平著『海国兵談』が完成。平助は同藩で四歳年下の彼の著書に、請われて序を書いた。新井白石著『西洋紀聞』は正徳五(一七一五)の成立であるが、幕府に献上されたのはずっと後の寛政六(九四)年である。本多利明著『西域物語』が完成するのはさらにその四年後のことである。

 こう見てくると平助の『赤蝦夷風説考』が日露交渉史の上で重要な意味を持つ、先駆的なものであったことがわかる。平助ばかりでなく彼の周囲にいた安永・天明期(一七七二~八八)の蘭学者たちの海外認識は、ほぼ同じ程度に進んでいた。

 田沼意次が執政であったこの時代は、幕府の紀綱が緩み奢侈に流れることが多かったが、一方人々の海外の新知識への要求が高まった時代であった。その後の松平定信の時代や、文化文政期よりも外国人との交流の取り締まりは、はるかに緩やかだった。江戸文化があらゆる面で最盛期を迎え、それぞれの分野に個性豊かなすぐれた人材が登場し、近代のさきがけとなった。

 一例を上げれば平賀源内、大田南畝、青木昆陽、杉田玄白、賀茂真淵、本居宣長、上田秋成、与謝蕪村、鶴屋南北、池大雅等々、枚挙に暇がない。平助もこの時代の主要な一人である。さらに蔦屋重三郎が現われて、出版文化も隆盛期を迎える。

 さて『赤蝦夷風説考』であるが、このような時代と平助の持つ広い情報網がこの著述をなすに役立った。この著書の序の冒頭ははなはだ興味深い。

 「カムサスカ」とは赤蝦夷の本名也。つらつらその事を尋ぬるに阿蘭陀のひがし隣にあたり国有。「ヲロシア」といふ。此国の都を「ムスカウヒヤ」といふ。我国にては「ムスコベヤ」と唱るは此国の事也。(中略)松前の物語と阿蘭陀書物にしるす処と能合たる事共ある故、珍しき物語と思ひ、且及ばぬ所存を加へて一冊となし、外にその考の証拠を上げて一冊とし、合而二冊とはなりぬ(後略)」(「カムサスカ」というのは赤蝦夷の本名である。この国の都を「ムスカウヒヤ」という。我国で「ムスコベヤ」というのはこの国のことである。・・・(この国について)松前人の物語る所と、オランダの書物に書いてある所とがよく一致するので、珍しい話と思い、さらに拙い考えを加えて一冊の書物とし、他にその考えの証拠を上げて一冊とし、合わせて二冊となった)とある。

 蝦夷地から松前人を経て伝わったロシアの話と、オランダを発し大西洋を経てアフリカの南端を巡りはるばる長崎へ舶載し、さらに江戸までもたらされた書物の内容とがよく一致するのである。平助はこの時、丸い地球を両手で抱くように実感しただろう。

 平助は医師としても仙台の物産や薬草を吟味して藩に提出したり、新しい診療や処方の工夫をして評判をとっているが、それ以上に処世の能力、人情や世態の洞察、政治的見識その他さまざまの工夫にすぐれ、世間から経世家、大智者として頼りにされていた。当時、医師は頭を丸め、僧侶のような法体をしていたが、藩主重村は平助の多彩な才能に目をつけたのか、髪を蓄え普通人のみなりをするよう命じた。そのため平助は俗医師と言われた。

 「(父様は)からくりのごとき生立ちありし故なり」と真葛は書いている。

 からくりとは糸の操りで動く仕掛けや玩具をいう。しかし真葛が父を譬えるときは、十三歳で工藤家の養子になった時、ほとんど書物が読めなかったのに、半年もたたぬうちたいていの書物が読めるようになったことを指している。もともと才能があり、そして普通人の思いもかけぬ発想がつぎつぎと湧いてきて、さまざまな工夫でそれをやり遂げてしまう父の姿は、娘の眼にはからくりのように映ったのであろう。

 実際、医師としての平助と、彼のあまりにも多方面の活躍を見ると、どれが本当の平助の姿なのか、私の頭の中でもなかなか実像が一つに結ばなかった。

 

 父の著書『救瘟袖暦』

 

 二、三年のちに宮城県立図書館の郷土資料室で、工藤平助の医学上の著書『救瘟袖暦(きゅうおんそでごよみ)』をマイクロフイルムで見たことがある。そのときに、ようやく平助の実像に巡りあったように思って、私は感動した。『赤蝦夷風説考』ほど有名ではない『救瘟袖暦』を見て、彼が決して医師の本道を逸脱した人でないことを知ったからだ。『袖暦』というやわらかな題名からして、家庭の医学書、子どもの急病の応急処置や養生訓を説いた通俗書を連想していたのだが、私は間違っていた。

 それは傑出した蘭学者であった大槻玄沢の序を付したもので、『傷寒論』を踏まえた堂々とした医学書生向けの入門書であった。稿本は寛政九年(一七九七)、六十四歳の春に成立している。平助は晩功堂と名づけた家塾で、門人たちに医業を授けるために使おうと考えたようだ。

 ある日、平助は同藩の蘭医玄沢にその事をはかり、玄沢は大いに喜んでそれを勧めた。しかし平助の生前には刊行されなかったらしい。平助の自筆稿本は、門人の誰かが筆写している。そして彼の没後十九年目の文化十三年(一八一六)三月にようやく刊行された。

 刊本は縦二十五センチ、横十九センチ、江戸浅草南伝馬町の書林桑村半蔵の奥付があり、大槻玄沢の序と、平助の自序がある。真葛にとって母方の従兄弟にあたる桑原士愨(三代隆朝)と、その次男工藤周庵(静卿)が上梓した。二人は工藤平助の医学上の業績を世に出そうとしたのである。周庵は真葛の弟源四郎が亡くなった後、跡継ぎの絶えた工藤家を継いだ。これについては後に述べる。

 大槻玄沢は、士愨が示した稿本を見て「・・・此ノ編即チ是也 巻ヲ披キテ之ヲ読メバ 恍トシテ知己ニ遇ウ如シ泫)然トシテ泪下ル・・・原漢文」(この一編が即ち(かつて平助翁が私に示した)是である。巻を披いてこれを読むと、かすかに亡き親友に遇う思いがして、涙がはらはらと流れる)と序に書いている。このような文章は、故人を追悼する時の常套句ともいえるが、玄沢の場合はそうは言えない実感がこもっている。玄沢は若き日に、仙台藩医工藤平助から大きな恩を受けていたのである。

 

 工藤平助と大槻玄沢

 

 大槻玄沢(一七五七~一八二七)は名を茂質、号を磐水という。はじめ仙台藩の支藩一関藩医の建部清庵の門人であった。後、江戸に出て杉田玄白、前野良沢の門に入り、和蘭語の初歩を学んだ。その時の遊学期限は三年であった。学業がまだ成就しないしないうちに帰国の期限が迫ったのを歎いていた時、前野良沢と親しい工藤平助が訪ねて来た。玄沢の抜群の力量を良沢から聞いて、平助が一関藩主田村侯に願い出て、玄沢は二年の猶予期間を許された。彼はその間に『蘭学階梯』という和蘭語の入門書を著した。そののち長崎にも遊学して語学の力をつけ、幾冊かの編著書を著した。そしてのちに平助の推挙によって、本藩仙台藩の医員になったのである。

 のちに藩命によって二人はともに、仙台領内の物産を調査し、薬物の精粗を吟味して歩いたこともある。玄沢はこのことに深く恩義を感じて、藩に願い出て工藤家と親戚の誼を結んだ。これは玄沢の著書『磐水事略』や、伊達家の編纂にかかる『東藩史稿』その他にくわしい。 

 これらの事情を踏まえて、桑原士愨は『救瘟袖暦』の序を大槻玄沢に頼んだのである。玄沢は序の中で「士愨ノ挙、其ノ志、篤ト謂ウベキ可キ也」(士愨の企てとその志は、まことに誠実と言うべきである)と記している。

 次に平助の自序を読んだ時、私には平助の人柄がよくわかった。そこには平助がなぜこの著書をなすに到ったかが述べられていた。

 前述したが、これは後漢の張機著『傷寒論』を踏まえ、さらに平助自身の経験と工夫を加えた、医学書生向けの入門書である。瘧説、脉説、舌候、汗候、大便候、小便候など十三項目にわたって詳説している。文体は仮名まじりの読み下し文や、句読点と送り仮名を施した漢文と、初心者でもわかるようにと工夫してある。

 『傷寒論』は急性熱病の治療法を記したもので、古来漢方医の聖典とされてきた。平助は自序の中で、『傷寒論』はまず読んでよく理解し、治療の根基を定むべきであるが、熱病というものは年々、或いは時候の変化によってさまざまな症状を示すものであるから、いつも『傷寒論』の治療法を固守しているだけではいけない。個々の病人を診て治療法を考えるべきだ。ここに自分が経験した治療法の得失をありのままに記して参考に供する、という意味のことを述べている。つづけて「若シ此ノ時行変転シテ、又新ニ治方ヲ立ル時ハ故ヲステヽ新ニ就クベキニヨリテ袖コヨミトハ題セリ」(もし、この時候が変転して、また新しく治療法を考える時には、躊躇せず古い法を棄てて、新しい法を取り入れるべきである。これによって袖暦と題するのである)と、「袖暦」という題名をつけた意図をみずから明らかにしている。時候は年々微妙に異なり、病気の症状もそれにつれ異なる場合がある。その時は、この著書に固執せず新たな治法とりいれるように、この著書を絶対視しないようにと説いている。私が与しやすしと感じた『救瘟袖暦』という題には、そのような平助の覚悟がこめられているのであった。

 ここにはたしかに真葛の父平助の、柔軟な開かれた精神があると思った。この著書を核にして、私の中の、工藤平助の人物像は定まった。彼は単に教養豊かな警世家であるだけでなく、りっぱな武士であり、本格的な医師であることがわかった。真葛が父の名ばかりは世に残したいと、熱烈に願った理由を理解した。

 『救瘟袖暦』が出版されたのは、一重に真葛の従兄弟桑原士愨とその次男工藤周庵の努力による。出版の費用もかなりの高額だったと思われる。大槻玄沢も序の中で、出版の企てを高く評価しているのである。

 しかし不思議なことに、真葛はこのことについて一切沈黙しているようだ。私が読んだかぎりでは何の言及もない。真葛の、母の実家桑原家に対する感情は、なかなか複雑だったようである。

 

 真葛の少女時代

 

 からくりの如き生い立ちの、工藤平助の日常は、まことにはなやかなものであり、真葛の周囲には、賑わしい日々が続いた。真葛はそれをじっと見つめて楽しんでいるが、しかしそれに浮かれて、嬉々として過ごすだけの少女ではなかったらしい。のちに触れるが『独考』の冒頭部分に、九歳の頃、人の益となることをしたい、自分こそ世の中の、女の本となりたいと考えた、とある。また十三、四の頃、母方の祖母が、寺の方丈の導きで悟りを得たというのを聞いて、自分もなんとか悟りを開きたいものと願った。しかしこれは娘子どもの学ぶことではないと、父母に一笑に付されてしまった。しかしこの願いはながく真葛の胸から消えなかったようだ。人の出入りの多い賑やかな家にいて、それに流されず、しんと自分の内面を見つめる、一人の怜悧な少女の姿が浮かびあがる。 この少女はかなり繊細で、何気なく詠んだ和歌を母に見せると、「すは哥をよむならん」(さては和歌を詠むのであろうか)といって、母に毎日和歌を作らされて閉口してしまい、いらぬことを言ったと後悔する内気な面もある。荷田春満の姪、荷田蒼生子に『古今和歌集』を習いに行かされたのも、その頃であったかも知れない。

 十四、五歳になるころから、そろそろ縁談がくるようになったが、真葛の両親は、彼女の結婚にあまり乗り気ではなかった。父平助は「外へやると来年からぢゞ様といはれるから、めったに娘かたづけぬ」(嫁にやると、来年からおじじ様と言われるから、めったに娘は嫁にやれぬ)と言い、母は縁談があると「可愛そうにそんなにはやく片付、子持に成と何もならぬから」(可哀想に、そんなにはやく片づいて、子が出来ると何にも好きなことができぬから)と、もっと楽をさせたいと言っていた。

 奥づとめは真葛よりもむしろ母の希望であった。母方の祖母は奥づとめをしたことがあり、古典の教養の深い人であった。母は若くして工藤家に嫁いだので、勤めることができなかった。それを後悔して、自分の娘に望んだのである。大名の奥御殿に勤めることは、当時の女性にとって広く世間を見て、自分の教養、才能を活かし活躍できる最上の場であった。

 真葛は十六歳の九月に仙台藩の御殿に上がり、伊達重村夫人近衛年子に仕えている。のちに述べるが重村夫人は夫の没後、仙台藩の危機を支えた賢婦人として知られた女性である。

 真葛は奥づとめの間のことをほとんど書いていない。江戸中期の丸亀藩の奥御殿に勤めた井上通女には、一年ほど書き綴られた「江戸日記」があって、興味ふかい日々が描かれている。真葛は自藩のことでもあり遠慮したのであろうか。ただ後年になって、朋輩はないものと思って懸命に勤めたこと、ある時町家から勤めに上がった者たちの話で、町人がいかに武家を憎んでいるかを知って、驚いたことを書いている。真葛にとって、またとない生きた社会勉強の場になったことであろう。

 天明三年(一七八三)、選ばれて姫君詮子の輿入れに従い、彦根藩井伊家の上屋敷に移っている。真葛二十一歳のときであった。

 父平助の著書『赤蝦夷風説考』が成り、田沼に献上され、蝦夷地調査隊が派遣される前後に、平助には蝦夷奉行に抜擢されるかも知れぬ希望が湧いたのである。蝦夷奉行になるということは、幕府直属の家臣になることを意味する。

 真葛が二十歳前後のことである。平助は真葛に、いま少し辛抱して奥づとめを続けよと言った。「むかしばなし」(五)で真葛は父の言葉を次のように書いている。「・・・其方も縁付くべき年には成たれども、我身分いかゞなるや知れ難し。今縁付れば余り高きかたへは遣はしがたし。我身一きわぬけ出なば妹共をば宜しき方へもらはれんに、姉のをとりてあらんはあしかるべし。・・・」(お前ももう嫁ぐべき年頃にはなったが、我が身分がどのようになるやも知れがたい。今嫁げば、あまり高い身分の家に遣わすことは出来ない。我が身分が一段と高くなれば、妹達は高い身分の家に嫁ぐであろうが、姉の嫁ぎ先が劣っていては、具合が悪いであろう・・・)。

 おそらく平助は、真葛にこの通りに語ったのであろう。父が幕府の蝦夷奉行ともなれば、娘たちをいっそう身分の高い武士に嫁がせられると思ったのである。「我身一きわぬけ出なば・・・」との一言に、平助の秘めたる抱負がうかがわれる。しかしこの望みはその後の田沼失脚によって、もろくも潰えた。親心からであるが、真葛の婚期は幾重にも遅れた。

 

 平助の衰運

 

 天明六年は工藤家にとって不幸が重なった年である。国元は前年からの不作続きで、藩の財政は苦しくなっていた。八月には田沼意次が失脚し、十月、幕府は二回目の蝦夷地調査を中止した。これで平助の蝦夷奉行になる望みはまったく消えた。そして多くの客を迎え賑わった築地の家は火災で類焼する。

 真葛は奥づとめ中なので、あとで知ったことだが、出入りの者たちの家から先に焼けたので、手伝いに駆けつける者がなく、平助も出仕中で、道具類をほとんど焼いてしまった。衣類はなんとか持ち出したが箪笥類は焼けた。平助の工夫による貴重な薬箱百味箪笥も、折角作った工藤家の定紋入りの幕二張りも蔵に入れたまま焼いた。幕があれば、罹災の夜も、それを張り巡らせて一時の休息所に出来るのだ。ことに百味箪笥は特別に工夫して作らせた重宝なもので、そののち「御一生不自由被遊し」(一生ご不自由なさったことだ)と真葛は書いている。

 多くの家族と使用人たちは、袋小路のあばら家にようやく移った。この頃はまだ田沼時代の鷹揚な気分が残っていて、付き合いのあった大名方やその用人たちから気前よく多額の火事見舞いをもらった。この家で、将来を期待されていた嫡男長庵に死なれ、平助はたいそう力を落としている。長庵はまだ二十二歳の若さであった。

 さらに築地川向に借地して家を新築しはじめたが、世話する人に金を預けておいて使い込まれてしまい、家の普請は途中でどうにもならず、捨て値同然で売り払うことになる。そうこうする内に松平定信の時代となり、天明七年に倹約令が出る。のちに言う寛政の改革が始まったのである。景気は冷えて「金廻りあしくなり」平助は動きがとれなくなった。真葛は火災のあと、新築せず売り家でも買っておかれれば、のちのちこんな難儀はなかったろうにと、さすがに父の放漫なやり方を批判している。「からくりのごとき生立ちありし・・・」と、かつて真葛が称えた父も五十歳をとうに越えていた。ようやく浜町に家を借りて移ったが、ここで平助の養母、真葛を可愛がってくれた祖母が亡くなっている。同じころ、平助の長兄、長井四郎左衛門が大病で亡くなり、この兄を心のより所と頼っていた平助は、大きな打撃を受けた。

 

 平助の生家、長井家のこと

 

 ここで平助の生家長井家について少し述べよう。

 平助の実父長井大庵の遠祖は、播州加古川辺りの領主であった。天正六年(一五七八)秀吉が播州三木城を攻めた時、周辺の野口城を固めていた長井四郎左衛門は真っ先に攻略され、城を明渡して降伏した。その後、一族は加古川辺りの郷士として豊かに暮していた。江戸時代前期に、幕府はたびたび検地を行った。その際、長井家の当主は気位が高く、検地の役人に少しもへりくだった態度をとらなかったため、憎まれて、田地を取り上げられ、浪々の身となって大坂へ出た。それが真葛の曽祖父の時であるという。

 やがて祖父大庵の時に江戸に出て医術を学び、紀州藩医として召抱えられる。しかし大庵は藩主に「たつきの為長袖となり候だに、先祖の恥と歎かしくおもひ候・・・」(暮らしのためとはいえ、長袖を着た医師となったことさえ、先祖の恥と嘆かわしく思っております)と言って、三人の男子を武士にしたいと願いでた。柔術の名手であった長男四郎左衛門は紀州藩の武士に取り立てられ、次男善助は弓術の腕前によって清水家に召抱えられた。三男平助のみ、縁あって仙台藩医工藤丈庵の養子となって医業を継いだ。平助は二人の兄を深く敬愛し、父大庵の志を忘れず、医術のみならず、広く世界に眼を向けて多くの書を読み、多数の師友からあらゆることを学び極めた。

 後年、真葛が父工藤平助とその遠祖の名を顕したいと願う時、真葛の念頭にあるのはこの長井家の祖先なのである。真葛はその祖先を誇りとし、その血脈に連なる自分を強く意識していた。それに反して、母遊の実家桑原家に対する感情はかなり複雑で憎しみさえ含んでいる。

 父の実家に対する敬慕の念と、まったく相反する真葛の気持ちは、多くの真葛研究者をとまどわせる点である。

 

 母の実家、桑原家との軋轢

 

 平助の養父工藤丈庵と母方の祖父桑原隆朝は、ともに仙台藩の医師で、親しい仲であった。その縁で母遊は平助に嫁いだ。真葛も桑原の祖父母に対しては敬愛の念を持っている。ことに御殿勤めの経験があり、古典の教養も深い祖母に対して、尊敬の気持ちを持っている。ところが母の弟隆朝(二代目)の乳母であった、〆という女性が難物だった。「むかしばなし」その他で、この乳母がたびたび幼い母に意地悪をしたことが書かれている。

 祖父母たちが女の子、つまり真葛の母や早世したその妹ばかり可愛がるのを妬んだからというのである。それもご飯のおかずに姉の皿にだけ唐辛子粉を混ぜたり、姉弟が育てていたほうせん花の鉢植えが、姉のばかり咲くのを妬んで仕返しをしたという類いの意地悪である。母が工藤家に嫁いでからも、弟隆朝はたびたび金銭面で迷惑をかけたり、工藤家の栄えるのを妬んで悪口を言ったりしたので、さすがの平助も立腹し、離縁騒ぎにまでなったことがある。間をとりなしたのは平助の次兄善助であった。

 このようなことが重なり、工藤家が火災の後、次第に家運が傾いたのを、叔父の乳母〆の悪念のためだと、真葛は大真面目で二、三ヶ所述べている。これほど聡明な真葛にして・・・と、誰しも不思議に思うところである。

 しかしとりわけ家族愛、肉親愛の強い真葛である。大事な母様が幼いとき意地悪されたというだけで、どうしても〆と、それに連なる叔父隆朝を許せなかったのだろう。あるいは江戸時代頃はまだ、春日の局や「伽羅先代萩」の政岡の例に見るように、乳母という存在がかなり大きな力を発揮していたため、真葛はそれを恐れたのかも知れない。「むかしばなし」は他人に見せる意図はなく、妹たちにだけ父母の事を語ったものなので、つい繕わぬ本音が出たのであろう。

 真葛の不可解な部分はそれとして、私たちはそのまま受容する外はない。

 

 真葛、実家に帰る

 

 天明八年(一七八八)七月に真葛の主人、詮子の夫である井伊直富が病で急死した。最後に薬を調剤して差し上げたのが平助であったため、評判が悪くなり、真葛も詮子の傍に仕えることが心苦しくなった。詮子は十八歳で髪をおろし、守真院と名のるようになっている。その姿を見るのも忍びなかった。「身をひくべき時来たりぬと覚悟して・・・」(奥勤めを辞めねばならぬ時がきたと覚悟して)病気を理由に勤めを辞した。

十六歳で仙台藩の奥に勤めに上がってから十年目で、真葛は二十六歳になっていた。真葛はこうして浜町の借宅に帰ったのである。

 帰ってみれば、実家は栄えていた昔に変わる有様であったが、真葛の母遊にとっては、一生のうちここにいる時が一番楽しい時代であったようだ。嫡男長庵こそ失ったが、子どもがみな周りにいて賑わしく、そこへ長女真葛も帰ってきた。両国の見世物の太鼓が聞えてくる。二丁も歩けば大川端に出られる。花見にも舟遊びにも便がよい。誰に遠慮することもなく、亀井戸、妙見、向島などふと思い立って遊びに行くこともある。そんなのびのびした母を見るのは楽しかった。

 次の年、二十七歳の真葛は世話する人があって、酒井家の家臣に嫁いでいる。しかし相手はかなりの老人であって、これが自分の一生を託す夫かと思うと真葛は泣いてばかりいたために戻されたという。その時の父平助の言葉に、さすが父様思いの真葛も恨み言を述べている。平助は「磯田藤助が従弟、酒井様の家中に有所へ世話するといふからゆけ。先は老年と聞が、其方も年も取しこと」(磯田藤助の従兄弟で、酒井様の家中のあるところへ世話すると言っているから行け。先方は老年と聞いたが、お前も年を取ったことだから)と言ったのである。「私が好で取た年でもないものをと、涙の落たりし」(私が好んで年取ったわけでもないものを、と涙が落ちた)。

 真葛が酒井家中の所から戻った頃より、次第に母が病気がちとなり、真葛は母に代わって弟妹の面倒をみるようになった。

 寛政二年(一七九〇)には長らく七代藩主の座にあった伊達重村が引退し、十七歳の斉村が藩主となった。父平助も老いたとはいえ、仙台藩領内の薬品の吟味をしたり、またたびたび行われた仙台藩鋳銭の相談に与ったりしている。真葛はますます一家の主婦代わりとしての責任が重くなった。真葛のすぐ下の妹しず子が雨宮家に嫁ぎ一子を生んだが、体が弱く工藤家に帰って亡くなった。次の妹つね子が太田家に嫁いだ。これらすべてを真葛は病弱の母に代わって面倒をみた。

 真葛の母は寛政五年(一七九三)に亡くなった。真葛の次の弟源四郎元輔は工藤家の家督を継ぐべく修行中であったが、父平助はまだ若い源四郎の後ろ楯とするために、五人の娘のうち一人を本藩の有力な藩士に嫁がせたいと、かねてから願っていた。娘たちは恐ろしいみちのくへ嫁ぐことを嫌って、うち二人は他家へ嫁して亡くなってしまった。まだ縁付かない娘といえば末の二人の妹、栲子と照子、それに酒井家中から戻された真葛である。栲子は越前松平家の奥に勤めており、末の照子はまだ十二歳である。

 仲立ちする人があって、仙台藩江戸番頭を勤める只野伊賀行義との縁が定まり、真葛は伊賀の後妻として、仙台に下ることになった。伊賀の妻はその前年に三人の男子を残して亡くなっている。

 真葛は仙台へ下ると決心した時の気持ちを「三十五才を一期ぞといさぎよく思切、この地へくだるは、死出の道、めいどの旅ぞとかくごせしからに・・・」(三十五歳までが私の一生であったと、いさぎよく思い切り、仙台へ下るのは死出の道、冥土への旅だと覚悟したからには・・・)と、後年『独考』の冒頭に書いている。当時、江戸生れの女性が仙台へ嫁ぐには、それほどの覚悟が要ったのである。

 この時心配して真葛を留める人があったようだ。それに対して真葛は答えた。後年、馬琴が書いた「真葛のおうな」によれば、「遠く仙台へよめらせんとほりするは、これ父のこゝろなり。又遠くゆくことをうれはしく思ふは、子の心なり。なでふ子の心を心として、親の情願に背くべき・・・」(とおく仙台へ嫁入りさせようと欲するのは、これは父の心である。また遠くへ行くことを悲しみ歎くのは、子の心である。どうして子の心を主として、親の心の願いに背くことができようか・・・)。あまりにも強い自己犠牲の言葉にたじたじとさせられる。真葛は仙台へ嫁ぐ運命を自ら選びとった。

 

 夫・只野伊賀

 

 只野伊賀は仙台藩江戸番頭の重職にあり、ほぼ一年毎に江戸と仙台を往復している。ただし住居は城の近くに、仙台屋敷を与えられて、家族はそこに住んでいた。そのため真葛は嫁いでからは仙台に留守居する日々が長くなった。当時は参覲交代の藩主に従って、江戸と国元を往復する武士が多く、妻たちは長い留守を過ごすことが多かったのである。

 只野家は政宗以来の古い家柄で、代々着座二番座、加美郡中新田に千二百石の拝領地を有している。代々番方の頭を勤める家柄であった。三百石の藩医工藤家とは格段の相違のある有力な地位である。この点で父平助の願いには叶っていた。のちに述べるが、夫になる伊賀行義は学問を好み、漢詩文、謡曲もよくする教養人であった。  

 『中新田町史』(昭和三九年、中新田町長発行)の旧家年譜によると、伊賀は若い頃、仙台藩の御連歌の間近習や脇番頭を勤めている。八代藩主斉村の信頼厚く、寛政八年(一七九六)三月に生れた世子政千代の傅育(守り育てる役)に任ぜられた。ところが同年七月に斉村が二十二歳の若さで没したため、傅育の役を解かれ、その後仙台藩の番頭を勤めていた。彼は工藤平助の多方面の活躍を高く評価し、また奥づとめの経験が長く、歌人としても知られた真葛の心情をよく理解した。

 真葛が仙台へ出発したのは寛政九年(一七九七)の九月十日である。弟の源四郎が仙台まで付き添った。仙台の只野家では伊賀の老母と三人の男子、また他家へ養子にいった伊賀の弟たちが、そろって江戸から来た真葛を迎えた。伊賀もともに下る予定であったのが、公務のため叶わず、真葛が先に出発した。

 この事情を真葛は「みちのく日記」の中で、『伊勢物語』のような文体で詳しく書いている。翌年の春、夫が帰国して、伊賀と真葛はようやく夫婦らしい生活をはじめるが、それも一年余りで、夫は嫡男義由を伴って江戸へ出府する。このようにしてほぼ一年毎に江戸と仙台を往復する生活が、伊賀が江戸で急死する文化九年(一八一二)まで、およそ十五年間続いた。

 夫が留守の長い一人の時間に、真葛は和歌を詠み、松島、塩竈などを巡り、「みちのく日記」「塩竃まうで」「松島みちの記」「いそづたひ」その他多くのすぐれた作品を書き綴ることになる。また歌人としての名も知られていて、門人数人ができたようだ。ことに夫伊賀は真葛の女性としては珍しい生い立ち、すぐれた文章力をよく察して、「むかしがたり書きとめよ書きとめよ」(昔の思い出話を書き止めておけ、書き止めておけ)と勧めたので、この章でさまざまに引用した大作「むかしばなし」をつれづれに書き始める。

 この著述は、幼くして母に別れた妹たちのために、母の思い出を語ろうと書きはじめた。それが次第に筆は工藤家の盛んな有様、父平助の動静、出入りした著名な医師や大名や文人たちの様子、その他に及び、時代の雰囲気を生きいきと語る貴重な史料として評価されるものとなった。文化九(一八一二)年に夫伊賀が急死した後も、「書きとめよ」と勧めてくれた夫への供養にと思って書き続けられたが、成立年ははっきりわかっていない。

 「みちのく日記」は前にも述べたが、江戸を発し、仙台へ着いた時から約二年間のことを綴ったもので、はじめてのみちのくの印象、三人の子どもたちや夫伊賀との心の通い合い、江戸への郷愁などが多くの和歌とともに綴られている。

 「塩竃まうで」は、みちのくの一宮として尊崇されている、塩竈神社に詣でた紀行文である。この神社参詣には深い事情があったようだ。それについてはのちの章で触れる。

 「松島のみちの記」はもっとも充実した紀行文であり、文体もすぐれている。夫伊賀や弟源四郎に勧められて出かけたものであろうか。数人の友だちと連れだって、楽しげな様子が浮かぶ。最後は見事な万葉調の長歌反歌で締めくくられている。

 「いそづたひ」は、伊賀の没後に書かれたものである。松島の南に位置する名勝の地七ヶ浜を訪ねて、各地の口碑、伝承を聞き書きした異色の作品である。自分の足で歩き、古老から直接聞きとり、自分の眼で確かめている。

 その他、深い謎を秘めた「キリシタン考」、数人の友との楽しい行楽を綴った「ながぬまの道記」など魅力ある文章が多い。他にも多くの和歌、長歌を作っている。これら作品群については、次の章で詳述したい。

 

 父と弟の相次ぐ死

 

 工藤平助が没したのは寛政十二年(一八〇〇)師走である。真葛三十八歳の暮であった。病床の父のために、真葛は夫伊賀にすすめられて、みちのくの景物にちなんだ細工物を作り、和歌を添えて見舞いとして送っていた。かなり衰えていることは聞かされていたので、その死を心静かに受け止めた。父とともに華やかな一時代が終わった。

 家督を継いだ弟の源四郎元輔が父の名を辱めぬように懸命に勤め、また人柄もよく周囲から嘱望されていると聞いて、真葛は安堵した。自分がその後ろ楯になるべく、只野家に嫁いだことに改めて思いを致した。末の妹二人の中、上の栲子は田安家の姫君定子(松平定信の妹)に仕え、今はその嫁ぎ先の越前松平家の上屋敷にいる。末の照子もしばらくは奥づとめをしたようだ。真葛が書いた「七種のたとへ」の中に、「あからさまにみやけのおまへに参りし時・・・」(かりそめに、三宅の御前様に仕えたとき・・・)とあるので、ほんの一時、勤めたことと察せられる。照子はのちに仙台に下って、医師中目家に嫁ぎ、男の子を一人産んで、まもなく亡くなっている。

 文化三年(一八〇六)三月、江戸芝の大火が二日間にわたって燃え広がり、弟源四郎がようやく建てた家が類焼した。出府中の夫伊賀が住んでいた、愛宕下の仙台藩邸も焼失した。のちに丙寅の大火と言われる火事で、多くの人が罹災している。源四郎はようやく家財道具や父の蔵書類を救い出したらしい。真葛は「まがつ火をなげくうた」という長歌、反歌を作って弟の罹災を悲しんでいる。

 次の年、江戸に風邪が大流行した。伊達家にとっては大事な親戚である堅田侯堀田正敦夫人がこの風邪にかかり、源四郎は傍を去らずに看病を命ぜられたが、その甲斐もなく亡くなった。その他にも公私ともに患者を抱えていた源四郎は、自身も風邪心地のところを休まず患家をまわり、汗に濡れた下着を替えるまもなく治療した。そして耐えられずに休んだところ、もう起き上がることが出来なかった。文化四年師走の六日に彼は没した。三十四歳であった。

 真葛は、自分が源四郎を盛りたてようと、死ぬ思いで江戸から仙台まで下ったことが空しくなったと深く悲しんだ。残された姉妹三人はそれぞれに源四郎を悼む和歌を贈り交わしている。

 そののち、真葛は弟源四郎没後、工藤家を継いだ周庵(真葛の従兄弟桑原隆朝の次男)が、亡父平助の貴重な蔵書を売り払った事を知って心を痛める。真葛が末の妹照子を仙台に呼び寄せ、中目家へ嫁がせたのは、文化七年のことである。

 

 夫・伊賀の死

 

 次の年の晩秋に夫の伊賀が急遽江戸に向かったが、文化九年(一八一二)四月二十一日に急死する。照子が生んだ男の子藤平の初の誕生日祝いの最中であった。その辺りの「むかしばなし」の叙述はいたいたしい。

 伊賀の訃報は七日目に真葛の許に届いたのである。藤平の誕生祝いで喜びに満ちていた真葛の心は、一挙にくずおれる。「むかしばなし」もここでいったん中止となる。しかし数日思い巡らして、書き止めよ、書き止めよと薦めてくれたのが他ならぬ夫伊賀であったことを思い出し、供養のためにと書き続けるのである。翌十年、末の妹照子が亡くなった。真葛は自分たち七人の兄弟姉妹のことを「七種のたとへ」に書いている。これはのちに馬琴を深く感動させた。

 真葛は悲しみの底にありながらも、和歌や「あやしの筆の跡」などを書き、以前から書きためていた多くの和歌、長歌、和文を「真葛がはら」天地二巻にまとめている。これには真葛の自序があり、この章で引用した多くの文章が収められている。地の巻最後に収録されている「あやしの筆の跡」の後書きに、文化十三年(一八一六)に記したことが明記されているので、おそらくこの頃、自分の作品が散りぢりになることを恐れて編纂したものと思われる。

 前にも述べたが、同年に父工藤平助の医学上の著書『救瘟袖暦』が従兄弟の桑原隆朝と、工藤家を継いだ周庵によって出版されている。しかしそれについては、真葛はどこにも書いていない。くりかえすが、真葛は母の実家桑原家によい感情を持っていなかったので、桑原家の者が工藤の跡目を継いだことを喜んでいなかったのだ。

 真葛はその頃自分の生きる目標を見失って、呆然としていたのかも知れない。弟源四郎の後ろ楯となって彼を盛りたて、弟が父の名を再び世に顕し、自分たちの遠祖の名を輝かすことを助けよう。これが真葛の生きる目標だった。そのために彼女は仙台まで嫁いできたのだ。世間に出て活躍する機会の少ない江戸時代の女性が、自分の目標に到達する手段はこのように間接的な、まわり遠いものであった。そして真葛の心情をよく理解してくれた夫伊賀もはかなくなった。真葛はもう五十歳を越え精神的にも、不安定な年頃である。

 文化十二年(一八一五)、五十三歳の秋の夜明け、夢うつつの内に

 

  秋の夜のながきためしに引く葛の絶えぬかづらは世々に栄えん

 

という和歌を得た。また翌年の夏の宵、明滅する蛍を見ながら、

 

  光有身こそくるしき思ひなれ世にあらはれん時を待間は

 

の和歌を得た。この時のやや神秘的な精神状況は後の章に述べるが、二首ともに秘められた真葛のエネルギーの大きさが感じられる和歌である。

 この二首を真葛は信ずる観世音菩薩のお告げとして、この和歌を力に立ち直る。そして、今は自分こそ父平助のすぐれた人柄とその事績を伝え、その遠祖の名を顕す者であるとの自覚をもって、『独考』という比類ない著作を書きはじめるのである。自分の長年の願いを、弟に託すのではなく、自分自身で実現しなければと決意したのだ。

 前述したように『独考』は真葛のそれまでの思い出の記録や、名所巡りの紀行文などとは異なる思索の書である。彼女が長い間考えてきた人生論、政治・経済批判、なかでも武家社会の規範であった儒教に対する痛烈な批判をこめた書である。ただ、聞き書きや随想のような部分も混じるが、主な部分は彼女の思索の書である。

 江戸時代の只中に暮していながら、どうしてこのような批判が真葛にできたのか。真葛のこれまでの多くの作品の中に、あるいはこれまでの生き方の中にその芽生えがあったのではないだろうか。その視点から、もう一度彼女の諸作品を、彼女の生涯を検討しなおすことが必要なのではないか。

 『独考』を読み直して、胸を逆なでされるように感ずるたびに私は考えた。

 

 書かれた世界と現実の世界

 

 思いがけず、「真葛の使者」渋谷氏の導きにより、真葛の墓参ばかりでなく、ご子孫のお家のある中新田までご案内いただけることになった。一挙に核心に近づくという、予想もしなかった成り行きに私はぼんやりとし、しかしたくさんの事を考えながら一週間をすごした。こうしてまた真葛さまとのっぴきならぬ関わりができるのかも知れない。江馬細香に出会った時もそうだった。訪ねたずねて大垣の江馬家を探し当てると、そこに研究グループがあって、蘭学研究の諸先生が集まっておられた。その中に大学時代の恩師もいらして、あっという間に私は江馬蘭学の世界にとりこまれてしまった。そして忙しく江戸時代と現代とを往復することになったのだ。真葛さまの世界はどうだろう。研究論文や作品の活字の上だけで真葛を感じているのと、実際にその世界に入りこむこととの間には微妙な間隙があって、それは小さくても深淵に等しい。畏れとためらいを感ぜずにはいられない。それを乗り越えるために、新幹線で名古屋から仙台まで行くのは、ちょうどよい距離と時間なのかも知れなかった。  『独考』は自序によれば文化十四年(一八一七)十二月に一応書き終えた。真葛は翌年文政元年(一八一八)十一月に江戸の曲亭馬琴に筆削を乞うために、江戸にいる妹栲子に三巻の草稿を送っている。翌年二月下旬、栲子の訪問をうけた馬琴は、はじめそれを受け取ることを拒んだようだ。だが栲子は強く頼み込んで馬琴に手渡してきた。この時の状況については後の章で述べる。    

 真葛はそれまでに書いた「むかしばなし」や紀行文を妹たちや、亡き夫の友人にも見せている。しかし『独考』を他の人に見せたかどうかはわからない。仙台にいる知人の中に、この著作を理解してくれる人はいなかったのだろうか。真葛が、この草稿を書き終えてから一年近く手元にあるうちに推敲、清書したであろうことは察せられる。

 『独考』を受け取った馬琴は、はじめ「馬琴様 みちのく 真葛」とあるだけで自分の身分も明かさず、尊大な書きぶりなので大いに立腹するが、内容が一般の婦人の著作とあまりにかけ離れたものなので興味を抱き、しばらく妹栲子を通じて文通があった。その年の暮れに馬琴は、『独考』を論じた『独考論』を廿日あまりかけて書いて送った。

 それは儒教擁護の立場に立った、徹底した激しい批判であったので、真葛は落胆したのか一言も反論せず、ただ丁寧に礼をしたのみで、そののち沈黙してしまった。文政二年冬のことである。

 真葛は文政八年(一八二五)六月二十六日に没しているので、その間の五年余りをどのように過ごしただろうか。馬琴の『著作堂雑記』によると、馬琴は松島へ行く知人に真葛の消息を尋ねさせて、はじめて真葛の死を知った。知人からの報せを受け「・・・件の老女は癇症いよ  甚しく、終に黄泉に赴きしといふ・・・」(・・・例の老女はいよいよ神経過敏で激しやすくなり、とうとう亡くなったそうだ・・・)と文政九年四月七日の項に記している。真葛は馬琴の理解を得られず、心を閉ざし次第に気難しくなっていったのだろうか。

 馬琴は『独考』三巻を真葛に返す前に、誰かに筆写させたのではないかと思われる。その三巻は木村氏という人の所蔵になっていた。『真葛集』の中の、『独考』の最後を見ると、嘉永元年(一八四八)冬にこれを木村氏より借覧し抄録した人があったことがわかる。名前はわからない。その人は真葛の素性を記し、さらに「・・・婦女の筆にしては、丈夫を慙愧せしむる事書あらはせり。尋常の女にはあらずと歎美す」(・・・婦女の文章にしては、男子を恥じ入らせることが書き著されている。普通の女性ではないと感じ入った)と書き加えている。真葛の没年より二十年ほどあとのことである。

 もし『独考』が真葛の生前に上梓されていれば、このような理解者はきっと現れたことだろうと惜しまれた。

   第二章 取材の旅尨——仙台へ、真葛に会いに   以下・割

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/03/08

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

門 玲子

カド レイコ
かど れいこ 女性史研究家 1931年 石川県加賀市大聖寺に生まれる。『江戸女流文学の発見』により毎日出版文化賞。

掲載作は、2001(平成18)年3月藤原書店刊『わが真葛物語 江戸の女性思索者探訪』の第一章「真葛小伝」を抄出。

著者のその他の作品