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検索結果 全1058作品
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小説 一塊の土 初出年: 1924年
お住(すみ)の伜に死別れたのは茶摘みのはじまる時候だつた。伜(せがれ)の仁太郎は足かけ八年、腰ぬけ同様に床に就いてゐた。かう云ふ伜の死んだことは「後生(ごしやう)よし」と云はれるお住にも、悲しいとばかりは限らなかつた。お住は仁太郎の棺の前へ一本線香を手向けた時には、兎に角朝比奈の切通しか何かをやつ
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小説 桃太郎 初出年: 1924年
一 むかし、むかし、大むかし、或深い山の奥に大きい桃の木が一本あつた。大きいとだけではいひ足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は大地の底の黄泉の国にさへ及んでゐた。何でも天地開闢(てんちかいびやく)の頃ほひ、伊弉諾(いざなぎ)の尊(みこと)</ru
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小説 烏の北斗七星 初出年: 1924年
つめたいいぢの悪い雲が、地べたにすれすれに垂れましたので、野はらは雪のあかりだか、日のあかりだか判らないやうになりました。 烏の義勇艦隊は、その雲に圧(お)しつけられて、しかたなくちよつとの間、亜鉛(とたん)の板をひろげたやうな雪の田圃(たんぼ)のぅへに横にならんで<
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戯曲 人生の幸福 初出年: 1924年
人物 安城豊次郎 水島喜多雄 弟 かよ子 異母妹 寺島某 学者 別荘番藤七 </
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小説 幽霊船 初出年: 1924年
A 舵手が死ぬるまで 沈んだのは幸華丸といふ大きな帆船である。 遠い岬(みさき)が、乱暴な速さで、此方から手(た)ぐり寄せるやうに、だんだん近づいて来る。やがて、その岬の鼻に、青いペンキ塗の小舎のあるのが船から分る近さになつた。岬の鼻は、浪をかぶりつづけて、風邪をひきさうに見えた。そして、その浪が砕け、
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小説 マルクスの審判 初出年: 1923年
市街を貫いて来た一条の道路が遊廓街へ入らうとする首の所を鉄道が横切つてゐる。其処は危険な所だ。被告はそこの踏切の番人である。彼は先夜遅く道路を鎖で遮断したとき一人の酔漢と争つた。酔漢は番人の引き止めてゐるその鎖を腹にあてたまま無理にぐんぐんと前へ出た。丁度そのとき下りの貨物列車が踏切を通過した。酔漢は跳ね飛ばされて轢死(れきし)した。 そこで、予審判事は、番人とはかやうな轢死を未然に防ぐがための番人である以上、泥酔者の轢死は故殺であるかそれとも偶然の死であるかを探ぐるがた
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小説 生活革新の機来る 初出年: 1923年
突然起つた今回の大震災は東京横浜及其近県に夥(おびたゞ)しい惨害を与へて、凡ての人の恐怖を極度ならしめた。 過去数十年に築いて来た文化の中心は、一朝にして灰燼と帰して、再び人力の及び難い域にまでも達したものがある。 此震災火災が、どれだけ大きな影響を我国文化の上に投げかけたかといふ事は殆ど私たちに想像も及ばないが、学問上の文献等の焼失したものは再び取り返しがつかないとしても、他の事業に於ては焼失したのは建物や物品に留つて、重要書類は安全で直ちに業務を開始
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評論・研究 萬葉集諸相 初出年: 1923年
萬葉の歌を原始的であり、素樸であり、端的であるとするはいい。それらの詞を以て、萬葉の歌を言ひ尽し得たと思ふは浅い。萬葉の精髄は、それらの諸要素を具へながらにして、藝術の至上所に到達してゐる所にある。萬葉人のひたすらなる心の集中が、おのづからにして深さと高さの究極を目ざしたのである。今の萬葉を説くものが、この点を遺却してゐるのは、萬葉を遺却して萬葉を説くに等しいのである。 小竹(ささ)の葉はみ山もさやにさわげども我は妹
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評論・研究 第四階級の文學 初出年: 1922年
去年(大正十年 1921)の暮れにロシヤ飢饉救済会の為めに大阪へ行つて、私達が行く両三日前に出獄した荒畑寒村君と会つた時のことであつた。それは丁度(ちようど)講演会の二日目の会が終つてからのことであつたが、私達の会の第一夜は、官憲の陰険な策略のために、会場を開くことすら出来なかつた揚句なので、私達の話は期せずして警察の横暴な干渉や圧制のことに進んで行つた。 その時、丁度(ちようど)</ru
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小説 黒髪 初出年: 1922年
一 ……その女は、私の、これまでに数知れぬほど見た女の中で一番気に入つた女であつた。どういふ所が、そんなら、気に入つたかと訊ねられても一々口に出して説明することは、むづかしい。が、何よりも私の気に入つたのは、口のきゝやう、起居振舞(たちゐふるま)ひなどの、わざとらしくなく物静かなことであつた。そして、生まれながら、何処から見ても京の女であつた。尤も京の女と云へば、どこか顔に締りのない感じのするのが多いものだが、その女は眉目の辺が引締つてゐて、口元など
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随筆・エッセイ 千駄木の先生 初出年: 1922年
鴎外先生は青年を愛した。 先生の愛は狭かつたかも知れない。併し、深かつた。くだいて言へば、「贔屓強い」人だつた。一度贔屓をした以上は、どこまでも、それを持ち続けるといふ風があつた。亡くなつた先生の令弟三木竹二氏も、やはりさういふ人だつた。 先生には、鋭い直覚があつた。人の風貌を一度見るか、人の作物を一遍読むかすると、直ぐその人の歩いてゐる道がはつきり分かつた。 亡くなつた医学士大久保栄も先生に愛せられた青年の一人である。貧しい俳人大塚甲山もその一人であった。吉井勇が「浅草観音堂」を書いた時なども、大変喜ばれた。上田敏や永井荷風に対し
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戯曲 息子 初出年: 1922年
人 物 火の番の老爺 七十歳 金 次 郎 二十七歳 無頼漢 「手先」と呼ばるる捕吏 三十歳位 時 代 徳川末期 場 所 江戸の入口 舞台にはっきり見えるものは、唯粗末な火の番小屋だけである。雪がさかんに降っているので、右も左も奥も前も、ただ一面に白いだけである。火の番小屋には明かりがついている。障子が一枚明けてあって、襟巻頭
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小説 野ばら 初出年: 1922年
大きな國と、それよりすこし小さな國とがとなりあつていました。當座(とうざ)、その二つの國のあいだには、なにごともおこらず平和でありました。 ここは都(みやこ)から遠い、國境(こつきよう)であります。そこには兩方の國から、ただひとりずつの兵隊(
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小説 怒れる高村軍曹 初出年: 1921年
一 消灯喇叭(らつぱ)が鳴つて、電灯が消えて了つてからも暫くは、高村軍曹は眼先きをチラチラする新入兵たちの顔や姿に悩まされてゐた。悩まされてゐた――と云ふのは、この場合適当でないかもしれない。いざ、と云ふ時には自分の身代りにもなつて呉れる者、骨を拾つても呉れる者、その愛すべきものを自分は今、これから二ケ年と云ふもの手塩に
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随筆・エッセイ 自叙伝(抄) 初出年: 1921年
「それぢや歩いて行かうぢやないか」と僕は云ひ出した。「君等の中の一人が真先きに歩くんだ。其の足あとを伝つて僕が真ん中になつて行く。其のあとへ又、君等の一人が殿(しんがり)になつて僕の荷物をかついで行く。そして先頭のものと殿のものとは時々交代するんだ。僕だつて、時には先頭に立つたり、殿になつて荷物を持つたりしたつていゝよ。」 俥夫等は此の提案を喜んだ。 「わしらだつて、うちのお神さんや奥様とお約束して、なあに大丈夫でさあつて引受けて来たんですからね。今更とても
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随筆・エッセイ 私の歩んで来た道 初出年: 1920年
○ 過ぎ去った事を考へて、何よりも満足に思ふのは、自分のやりたいと思ふ事をして来た事である。一体私と云ふ人間は余程変なところがあつて、遅鈍で、性急で、才がないものだから、何事でも好い加減のところで止めるわけに行かない。酒にしても、女にしても、どこ迄も徹底しなければ気がすまないのである。それが好い事か悪い事かは別として、兎に角、自分はさう云う風にしてやつて来たのである。それは、社会の為とか、文藝の為とか云ふものでなくて、飽く迄も自分自身の要求から出て来たものである。 自然主義の運動が起つた頃の自分にしても、西欧の文藝の影響をうけた事も重大な原因ではある
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小説 花火 初出年: 1919年
午飯(ひるめし)の箸(はし)を取らうとした時ポンと何処(どこ)かで花火の音がした。梅雨も漸く明けぢかい曇つた日である。涼しい風が絶えず窓の簾(すだれ)を動かしてゐる。見れば狭い路地裏の家々には軒並に国
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小説 青い顔 初出年: 1919年
またK分署から来いと云つて来たので、行つて見ると、昨日とは別な、若い学校出らしい警部が出てゐた。 『A館から昨日の告訴状を取下げに来てるんだがね、一体これはどうしたと云ふのかね?』と、警部は穏かな調子で訊いた。 『え、それは、実は私はA館に宿料が五六十円滞(とどこほ)つてゐるので、ところが今度急に婆さんが病気になつたので、金に困るところから傍(はた)の人間共が寄
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小説 馬糞石 初出年: 1919年
三造さんのうちの馬が宝物をうんださうな、と云ふ大した村中の評判であつた。「虎は死して皮を残すとかいふが、さすがに三造さんとこの馬だけあつて、えらい物をひり出したもんぢやないか」などと、ヘンに唇をひん歪(ゆが)めて言ふものもあつた。……三造は村中切つてのしたゝか者である。三造はそんな話が耳に入るにつけ、業(ごふ)が煮えてならなかつた。 半月ほど前のことであつた。三造は役場で村の
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小説 おぢいさんとおばあさんの話 初出年: 1919年
日に一度来る郵便配達が、二三の新聞と一緒に、一通の手紙を投げ入れて行つた。新聞と手紙とは、女中の手で奥の間へ運ばれた。奥の間には、老衰のおばあさんが臥(ね)てゐて、おぢいさんが看病してゐる。 新聞に交つて久振(ひさしぶり)で来た手紙を、おぢいさんは不審相に眺めたが、すぐ手紙の裏を返して差出人の名を見ると、鳥渡(ちよつと<