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花火

 午飯(ひるめし)(はし)を取らうとした時ポンと何処(どこ)かで花火の音がした。梅雨も漸く明けぢかい曇つた日である。涼しい風が絶えず窓の(すだれ)を動かしてゐる。見れば狭い路地裏の家々には軒並に国旗が出してあつた。国旗のないのはわが家の格子戸(かうしど)ばかりである。わたしは始めて今日は東京市欧洲戦争講和記念祭の当日であることを思出した。

 午飯をすますとわたしは昨日から張りかけた押入の壁を張つてしまはうと、手拭で(なゝめ)に片袖を結び上げて刷毛(はけ)を取つた。

 去年の暮押詰つて、(しか)も雪のちらほら降り出した日であつた。この路地裏に引越した其日(そのひ)から押入の壁土のざらざら落ちるのが気になつてならなかつたが、いつか其の儘半年たつてしまつたのだ。

 過ぐる年まだ家には母もすこやかに妻もあつた頃、広い二階の縁側で穏かな小春の日を浴びながら蔵書の裏打をした事があつた。それから何時(いつ)ともなくわたしは用のない退屈な折々糊仕事をするやうになつた。年をとると段々妙な癖が出る。

 わたしは日頃手習(てならひ)した紙片やいつ書捨てたとも知れぬ草稿のきれはし、また友達の文反古(ふみほご)なぞ、一枚々々何が書いてあるかと熱心に読み返しながら押入の壁を張つて行つた。花火はつゞいて上る。

 (しか)し路地の内は不思議なほど静かである。表通りに何か事あれば(たちま)ちあつちこつちの格子戸の明く音と共に駈け出す下駄の音のするのに、今日に限つて子供の騒ぐ声もせず近所の女房の話声も聞えない。路地の突当りにある鍍金屋(めつきや)(やすり)の響もしない。みんな日比谷か上野へでも出掛けたにちがひない。花火の音につれて耳をすますとかすかに人の叫ぶ声も聞える。わたしは壁に張つた草稿を読みながら、ふと自分の身の上がいかに世間から掛離れてゐるかを感じた。われながら可笑(をか)しい。又悲しいやうな淋しいやうな気もする。何故といふにわたしは鞏固(きようこ)な意志があつて殊更世間から掛離れやうと思つた訳でもない。いつとなく知らず知らず斯ういふ孤独の身になつてしまつたからである。世間と自分との間には今何一つ直接の連絡もない。

 涼しい風は絶えず汚れた簾を動かしてゐる。曇つた空は簾越しに、一際夢見るが如くどんよりとしてゐる。花火の響はだんだん景気がよくなつた。わたしは学校や工場が休になつて、町の角々に杉の葉を結びつけた緑門が立ち、表通りの商店に紅白の幔幕(まんまく)が引かれ、国旗と提灯(ちやうちん)がかゝげられ、新聞の第一面に読みにくい漢文調の祝辞が載せられ、人がぞろぞろ日比谷から上野へ出掛ける。どうかすると藝者が行列する。夜になると提灯行列がある。そして子供や婆さんが踏殺される……さう云ふ祭日のさまを思ひ浮べた。これは明治の新時代が西洋から模倣して(あらた)に作り出した現象の一である。東京市民が無邪気に江戸時代から伝承して来た氏神の祭礼や仏寺の開帳とは全く其の外形と精神とを異にしたものである。氏神の祭礼には町内の若者がたらふく酒に酔ひ小僧や奉公人が赤飯の馳走にありつく。新しい形式の祭には(しばしば)政治的策略が潜んでゐる。

 わたしは子供の時から見覚えてゐる新しい祭日の事を思ひ返すともなく思ひ返した。

 明治二十三年の二月に憲法発布の祝賀祭があつた。おそらく此れがわたしの記憶する社会的祭日の最初のものであらう。数へて見ると十二歳の春、小石川の家にゐた時である。寒いので何処へも外へは出なかつたが然し提灯行列といふものゝ始まりは此の祭日からであることをわたしは知つてゐる。又国民が国家に対して「万歳」と呼ぶ言葉を覚えたのも確か此の時から始つたやうに記憶してゐる。何故といふに、その頃わたしの父親は帝国大学に勤めて居られたが、その日の夕方草鞋(わらぢ)ばきで赤い(たすき)を洋服の肩に結び赤い提灯を持つて出て行かれ夜晩(おそ)く帰つて来られた。父は其の時今夜は大学の書生を大勢引連れ二重橋へ練り出して万歳を三呼した話をされた。万歳と云ふのは英語の何とやらいふ語を取つたもので、学者や書生が行列して何かするのは西洋にはよくある事だと遠い国の話をされた。然しわたしには何となく可笑(をか)しいやうな気がしてよく其の意味がわからなかつた。

 (もつと)も其の日の朝わたしは高台の崖の上に立つてゐる小石川の家の縁側から、いろいろな旗や(のぼり)が塀外の往来を通つて行くのを見た。そして旗や幟にかいてある文字によつて、わたしは其頃見馴れた富士講や大山参(おほやままゐり)なぞと其日の行列とは全く性質の異つたものである事だけは、どうやら分つてゐたらしい。

 

 大津の町で、露西亜(ロシア)の皇太子が巡査に斬られた。この騒には一国を挙げて朝野共に震駭(しんがい)したのは事実らしい。子供ながらわたしは何とも知らぬ恐怖を感じた事を記憶してゐる。その頃加藤清正がまだ朝鮮に生きてゐるとか、西郷隆盛が北海道にかくれてゐて日本を助けに来るとかいふ噂があつた。しかも()くの如き流言蜚語(りうげんひご)が何とも知れず空恐しく矢張わたし達子供の心を動かした。今から回想すると其の頃の東京は、黒船の噂をした江戸時代と同じやうに、ひつそりして薄暗く、路行く人の雪駄(せつた)の音静に犬の声さびしく、西風の樹を動かす音ばかりしてゐたやうな気がする。

 

 祭と騒動とは世間のがやがやする事に於いて似通つてゐる。

 十六の年の夏大川端の水練場に通つてゐた。或日の夕方河の中からわたしは号外売が河岸通(かしどほり)をば大声に呼びながら馳けて行くのを見た。これが日清戦争の開始であつた。翌年小田原の大西病院といふに転地療養してゐた時馬関(ばくわん)条約が成立つた。然し首都を離れた病院の内部にはかの遼東(れうとう)還附に対する悲憤の声も更に反響を伝へなかつた。わたしは唯薬局の書生が或朝大きな声で新聞の社説を朗読してゐるのを聞いたばかりである。わたしは其の頃から博文館が出版し出した帝国文庫をば第一巻の太閤記から引続いて熱心に読み耽つてゐた。夏は梅の実熟し冬は蜜柑の色づく彼の小田原の古駅はわたしには一生の中最も平和幸福なる記憶を残すばかりである。

 

 明治三十一年に奠都(てんと)三十年祭が上野に開かれた。桜のさいてゐた事を覚えてゐるので四月初めにちがひない。式場外の広小路で人が大勢踏み殺されたといふ噂があつた。

 

 明治三十七年日露の開戦を知つたのは米国タコマに居た時である。わたしは号外を手にした時無論非常に感激した。然しそれは(はなはだ)幸福なる感激であつた。私は元寇(げんこう)の時のやうに外敵が故郷の野を荒し同胞を(ほふ)りに来るものとは思はなかつた。万々一非常に不幸な場合になつたとしても近世文明の精神と世界国際の関係とは独り一国をして(かく)の如き悲境に立至らしめる事はあるまいと云ふやうな気がした。基督教(キリストけう)の信仰と羅馬(ローマ)以降の法律の精神にはまだまだ憑拠(ひやうきよ)するに足るべき力があるものゝやうに思ひなしてゐたのだ。いかに戦争だとて人と生れたからには此の度独逸(ドイツ)人が白耳義(ベルギー)に於てなしたやうな罪悪を(あへ)てし得るものではないと思つてゐたのだ。つまりわたしは号外を見て感激したけれど、然し直に父母の身の上を憂ふる程切迫した感情を抱かなかつたのである。ましてや報道は(ことごと)く勝利である。戦捷(せんせふ)の余栄はわたしの身を長く安らかに異郷の天地に遊ばせてくれたので、わたしは三十八年の真夏東京市の市民がいかにして市内の警察署と基督教の教会を焼いたか、又巡査がいかにして市民を斬つたか其等の事は全く知らずに年を過した。

 明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら、折々市ケ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走つて行くのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云ふに云はれない(いや)な心持のした事はなかつた。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙してゐてはならない。小説家ゾラはドレフュ一事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言はなかつた。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥(しうち)を感じた。以来わたしは自分の藝術の品位を江戸戯作者(げさくしや)のなした程度まで引下げるに()くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来やうが桜田御門で大老が暗殺されやうがそんな事は下民の(あづか)り知つた事ではない──否とやかく申すのは(かへつ)畏多(おそれおほ)い事だと、すまして春本や春画をかいてゐた其の瞬間の胸中をば(あき)れるよりは(むし)ろ尊敬しやうと思立つたのである。

 かくて大正二年三月の或日、わたしは山城河岸(かし)の路地にゐた或女の家で三味線を稽古してゐた。(路地の内ながらさゝやかな潜門(くゞりもん)があり、小庭があり、手水鉢(てうづばち)のほとりには思ひがけない椿の古木があつて四十雀(しじふから)薮鴬(やぶうぐひす)が来る。建込んだ市中の路地裏には折々思ひがけない処に人知れぬ静かな隠宅と稲荷の祠がある。)その時(にはか)に路地の内が騒しくなつた。溝板(どぶいた)の上を駈け抜ける人の跫音(あしおと)につゞいて巡査の佩剣(はいけん)の音も聞えた。それが為めか中央新聞社の印刷機械の響も一しきり打消されたやうに聞えなくなつた。わたしは潜門をあけてそつと首を出して見た。牛乳配達夫のやうな足袋跣足(たびはだし)にメリヤスの襯衣(シヤツ)を着て手拭で鉢巻をした男が四五人堀端(ほりばた)の方へと路地をかけ抜けて行つた。其後から近所の出前持が筋向(すぢむかう)の家の勝手口で国民新聞焼打の噂を伝へてゐた。わたしは背伸をして見た。然し(けむり)も見えぬので内へ入ると其の(まゝ)ごろりと昼寝をしてしまつた。置炬燵(おきごたつ)(まこと)に工合よく暖かであつたからである。夕飯をすまして夜も八時過あまり寒くならぬ中家へ帰らうと数寄屋橋(すきやばし)へ出た時巡査派出所の燃えてゐるのを見た。電車は無い。弥次馬で銀座通は年の市よりも賑かである。辻々の交番が盛に燃えてゐる最中である。道路の真中には石油の鑵が投出されてあつた。

 日比谷へ来ると巡査が黒塀を建てたやうに往来を(さへぎ)つてゐる。暴徒が今しがた警視庁へ石を投げたとか云ふ事である。わたしは桜田本郷町の方へ道を転じた。三十八年の騒ぎの時巡査に斬られたものが沢山(たくさん)あつたといふ話を思出したからである。虎の門外でやつと車を見付けて乗つた。真暗な霞ケ関から永田町へ出やうとすると各省の大臣官舎を警護する軍隊でこゝも(また)往来止めである。三宅坂へ戻つて麹町(かうぢまち)の大通りへ廻り牛込(うしごめ)のはづれの家へついたのは夜半過であつた。

 世の中はその後静であつた。

 大正四年になつて十一月も半頃(なかばごろ)と覚えてゐる。都下の新聞紙は東京各地の藝者が即位式祝賀祭の当日思ひ思ひの仮装をして二重橋へ練出し万歳を連呼する由を伝へてゐた。かゝる国家的並に社会的祭日に際して小学校の生徒が必ず二重橋へ行列する様になつたのも思へばわたし等が既に中学校へ進んでから後の事である。区役所が命令して路地の裏店(うらだな)にも国旗を掲げさせる様にしたのも亦二十年を出でまい。此の官僚的指導の成功は遂に紅粉売色の婦女を()つて白日大道を練行(ねりゆ)かせるに至つた。現代社会の趨勢(すうせい)は唯只不可思議と云ふの外はない。この日藝者の行列はこれを見んが為めに集り来る弥次馬に押返され警護の巡査仕事師も役に立たず遂に滅茶々々になつた。その夜わたしは其場に臨んだ人から色々な話を聞いた。最初見物の群集は静に道の両側に立つて藝者の行列の来るのを待つてゐたが、一刻一刻集り来る人出に段々前の方に押出され、(やが)て行列の進んで来た頃には、群集は路の両側から押され押されて一度にどつと行列の藝者に肉迫した。行列と見物人とが滅茶々々に入り乱れるや、日頃藝者の栄華を羨む民衆の義憤は又野蛮なる劣情と混じてこゝに奇怪醜劣なる暴行が白日雑踏(ざつたふ)の中に遠慮なく行はれた。藝者は悲鳴をあげて帝国劇場其他附近の会社に生命からがら逃げ込んだのを群集は狼のやうに追掛け押寄せて建物の戸を壊し窓に石を投げた。其の日藝者の行衛不明になつたものや凌辱(りようじよく)の結果発狂失心したものも数名に及んだとやら。然し藝者組合は堅くこの事を秘し(ひそか)に仲間から義捐金(ぎえんきん)を徴集して其等の犠牲者を慰めたとか云ふ話であつた。

 昔のお祭には博徒の喧嘩がある。現代の祭には女が踏殺される。

 大正七年八月半、節は立秋を過ぎて四五日たつた。年中炎暑の最も烈しい時である。井上唖々(あゝ)君と其頃発行してゐた雑誌花月の編輯を終り同君の帰りを送りながら神楽坂(かぐらざか)まで涼みに出た。肴町(さかなまち)で電車を(をり)ると大通りはいつものやうに涼みの人出で賑つてゐたが夜店の商人は何やら狼狽(うろた)へた様子で(いまし)がた並べたばかりの店をしまひかけてゐる。夕立が来さうだといふのでもない。心付けば巡査が(しきり)に往つたり来たりしてゐる。横町へ曲つて見ると軒を並べた藝者家は悉く戸をしめ灯を消しひつそりと鳴を静めてゐる。再び表通りへ出てビーヤホールに休むと書生風の男が銀座の商店や新橋辺の藝者家の打壊された話をしてゐた。

 わたしは始めて米価騰貴(とうき)の騒動を知つたのである。然し次の日新聞の記事は差止めになつた。後になつて話を聞くと騒動はいつも夕方涼しくなつてから始まる。其の頃は毎夜月がよかつた。わたしは暴徒が夕方涼しくなつて月が出てから富豪の家を脅かすと聞いた時何となく其処に或余裕があるやうな気がしてならなかつた。騒動は五六日つゞいて平定した。丁度雨が降つた。わたしは住古(すみふる)した牛込の家をばまだ去らずにゐたので、久しぶりの雨と共に庭には虫の()が一度に繁くなり植込に吹き入る風の響にいよいよ其の年の秋も深くなつた事を知つた。

 やがて十一月も末近くわたしは既に家を失ひ、(これ)から先何処(いづこ)病躯(びやうく)をかくさうかと目当もなく貸家をさがしに出掛けた。日比谷の公園外を通る時一隊の職工が浅葱(あさぎ)の仕事着をつけ組合の旗を先に立てゝ、隊伍整然と練り行くのを見た。その日は欧洲休戦記念の祝日であつたのだ。病来久しく世間を見なかつたわたしは、此の日突然東京の街頭に(かつ)仏蘭西(フランス)で見馴れたやうな浅葱の労働服をつけた職工の行列を目にして、世の中はかくまで変つたのかと云ふやうな気がした。目のさめたやうな気がした。

 米騒動の噂は珍らしからぬ政党の教唆(けうさ)によつたものゝやうな気がしてならなかつたが、洋装した職工の団体の静に練り行く姿には(うごか)しがたい時代の力と生活の悲哀とが現はれてゐたやうに思はれた。わたしは既に一昔も前久し(ぶり)に故郷の天地を見た頃考へるともなく考へたいろいろな問題をば、こゝに再び思ひ出すともなく思ひ出すやうになつた。目に見る現実の事象は此年月(ふけ)りに耽つた江戸回顧の夢から遂にわたしを呼覚(よびさま)す時が来たのであらうか。もし然りとすればわたしは自らその不幸なるを嘆じなければならぬ。

 

 花火は(しきり)に上つてゐる。わたしは刷毛(はけ)を下に置いて煙草を一服しながら外を見た。夏の日は曇りながら(ひる)のまゝに明るい。梅雨晴(つゆばれ)の静な午後と秋の末の薄く曇つた夕方ほど物思ふによい時はあるまい……。

 

(大正八年七月稿)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/01/31

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永井 荷風

ナガイ カフウ
ながい かふう 小説家 1879・12・3~1959・4・30 東京小石川金富町に生まれる。文化勲章。若き日に渡米さらに渡仏し巴里に心酔するが父の厳命により帰国し、慶大教授となり「三田文学」を主宰した。私生活にも作風にも波瀾のある生涯であったが、基本に日本の軽薄な近代化に対する失望と蔑視があり、太平洋戦争後にまでも反時代的耽美と放蕩の世界に徹した。

掲載作は、その述懐の、優れて批評的に確かに日本近代の危うい足取りをとらえていることで知られる。「改造」1919(大正8)12月初出。