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萬葉集諸相

 萬葉の歌を原始的であり、素樸であり、端的であるとするはいい。それらの詞を以て、萬葉の歌を言ひ尽し得たと思ふは浅い。萬葉の精髄は、それらの諸要素を具へながらにして、藝術の至上所に到達してゐる所にある。萬葉人のひたすらなる心の集中が、おのづからにして深さと高さの究極を目ざしたのである。今の萬葉を説くものが、この点を遺却してゐるのは、萬葉を遺却して萬葉を説くに等しいのである。

 

小竹(ささ)の葉はみ山もさやにさわげども我は(いも)思ふ別れ来ぬれば  人麿

足曳(あしびき)の山川の瀬の鳴るなべに弓月(ゆづき)が嶽に雲たちわたる     人麿

淡海(あふみ)の海夕浪千鳥()が鳴けばこころもしぬに(いにしへ)おもほゆ   人麿

み吉野の象山(きさやま)のまの()ぬれには幾許(ここだ)もさわぐ鳥の声かも    赤人

烏玉(ぬばたま)()のふけぬれば久木(ひさぎ)()ふるきよき河原に千鳥しば鳴く  赤人

吉野なる夏実(なつみ)の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山かげにして     湯原王

一つ松いく世か経ぬる吹く風の声の()めるは年深みかも    市原王

あかときと夜鴉鳴けどこの山上(をか)木末(こぬれ)の上はいまだ静けし   讀人不知

 

 これらの歌、皆、一心の集中が深い沈潜となり、それが、おのづからにして人生の寂寥相幽遠相に入つてゐるのであつて、この辺、前田夕暮氏の萬葉新古今対照観に資するを要する所である。前田氏は萬葉集を以て土の臭ひであるといひ、原始的にして素樸な端的な藝術であると言うてゐる。(前田氏のは比喩語が多くて意の限定し難いものが多い、意の推測し得る所を要約して述べておく)それはいい。只、それが(さなが)らに澄み入つた至上諸相を言はない。そして鉱石であり、璞であるから、手触りが粗いなどというてゐる。手触りの粗いといふことが、氏の作品に自ら標榜する「未成品」の意味ならば、萬葉を知らないのであつて、それを以て新古今と対照するは(あやふ)いのである。

 

こもりくの泊瀬(はつせ)の山の山のまに猶豫(いざよ)ふ雲は(いも)にかもあらむ   人麿

もののふの八十氏河(やそうぢがは)網代木(あじろぎ)にいざよふ浪の行方知らずも   人麿

瀧の上の三船の山に居る雲の常にあらむと吾が思はなくに   弓削皇子

敷妙(しきたへ)の袖()へし君玉だれの小市野(をちぬ)に過ぎぬ又も逢はめやも   人麿

たわやめの袖吹きかへす明日香風(あすかかぜ)(みやこ)をとほみいたづらに吹く  志貴皇子

河の上の湯津岩むらに草()さず常にもがもな常少子(とこをとめ)にて    吹黄刀自

 

 これらは作者経験心理の底が深く人間の無常観に通じてゐるものである。この相は、又前述の寂寥相幽遠相とも相通じる。

 

遠くありて雲居に見ゆる(いも)が家に早く至らむ歩めわが駒    読人不知

大葉山霞棚曳き小夜ふけて吾が船泊()てむ港知らずも      読人不知

家にして吾は恋ひなむ印南野(いなみぬ)淺茅(あさぢ)が上に照りし月夜を    読人不知

眉のごと雲居に見ゆる阿波の山懸けて()ぐ舟(とまり)知らずも    船王

ここにして家やもいづく白雲の棚引く山を越えて来にけり   石上卿

ひさかたの天の露霜おきにけり家なる人も待ち恋ひぬらむ    坂上郎女

隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす遠くも吾れは今日見つるかも   長田王

 

 これ亦一種の寂寥相幽遠相に通ずるものである。

 

葦べゆく鴨の羽交(はが)ひに霜ふりて寒き夕は大和し思ほゆ     志貴皇子

秋の田の穂のへに()らふ朝霞何方(いづべ)のかたにわが恋ひ止まむ   磐姫皇后

梓弓(あづさゆみ)爪引(つまひ)夜音(よと)遠音(とほと)にも君が御言(みこと)を聞かくし()しも     海上女王

吾が宿の夕影草の白露の()ぬがにもとな思ほゆるかも     笠女郎

 

 深く潜み入つた心が、おのづから事象の微細所に触れた歌である。斯様な(すがた)も、萬葉の特徴の一つである。

 萬葉には写生の歌がないと思うてゐる人がある。或は又自然物を詠んだ歌が少いと思うてゐる人がある。斯ういふ人々は、以上、小生の列挙した歌例を仔細に見ても、その妄が解るであらう。萬葉人は実に純一な心で自然の事象に対きあつてゐるのであつて、その態度が作者を事象の微細所に澄み入らせてゐるのである。さういふ所まで解つてゐない人々が、大ざつぱな鑑賞眼で、単に土臭い藝術などと言つて片付けてしまふのである。

 一体、萬葉人の生活は、今代人よりも自然物に親しかつたのであつて、自然物との交渉が萬葉人の生活の大きな部分になつてゐたことは、今代人の想像以上であると言うてもいい。さういふ生活から生れた歌が、自然物から離れてゐるといふことは想像の出来ないことである。(いはん)や、写生といふものの対象は自然物と人事とを分かたない。萬葉に写生がないなどといふのは論ずるに足らぬ軽卒言である。(これは前田氏を指して言ふのではない)

 

百済野(くだらの)の萩の古枝(ふるえ)に春待つと来ゐし鶯鳴きにけむかも     赤人

(いは)ばしる垂水(たるみ)のうへの早蕨(さわらび)の萌えいづる春になりにけるかも  志貴皇子

わが宿の萩のうれ長し秋風の吹きなむときに咲かむと思ひて  読人不知

高座(たかくら)の三笠の山になく鳥の止めばつがるる恋もするかも    赤人

さざれ波磯互勢道(いそこせぢ)なる能登湍川(のとせがは)音の(さや)けさたぎつ瀬ごとに   少足

静けくも岸には波は寄せけるかこの家通し聞きつつ居れば   読人不知

留め得ぬいのちにしあれば敷妙の家ゆは出でて雲隠りにき   坂上郎女

かの子らと寝ずやなりなむ旗すすき浦野の山に月かたよるも  読人不知

うゑ竹の(もと)さへ(とよ)みいでて()なば何方(いづち)向きてか(いも)が嘆かむ   読人不知

面白き野をばな焼きそ古草に新草(あらくさ)交じり()ひは生ふるがに   読人不知

 

 之れらの歌に現れてゐる写生の微妙所をも併せて考ふべきである。歌例は到底ここに挙げ切れない。

 

夕されば小倉の山に鳴く鹿の今宵は鳴かず寝宿(いね)にけらしも   舒明天皇

百師木(ももしき)大宮人(おほみやびと)のまかり出て遊ぶ今夜(こよひ)の月の(さや)けさ      読人不知

御民(みたみ)われ生ける(しるし)あり天地(あめつち)の榮ゆる時に()へらく思へば    岡麿

白ぬひ筑紫の綿は身につけて未だは()ねどあたたかく見ゆ   満誓

青丹吉(あをによし)奈良の(みやこ)は咲く花の匂ふがごとくいま盛りなり     小野老

天の原振りさけ見れば大君の御壽(みいのち)はながく天足(あまた)らしたり    倭姫皇后

春過ぎて夏来るらし白妙の衣乾したり(あめ)の香久山       持統天皇

渡津海(わたつみ)豊旗雲(とよはたくも)に入日さし今夜(こよひ)月夜(つくよ)まさやけくこそ     中大兄皇子

 

 是らを何と名づくべきかを知らない。或るものは人情の具足相であり、或るものは感情の圓満相であり、暢達相である。(しか)も夫れらは、()きの寂寥相といひ幽遠相といふものと(その)由つて(きた)るところを(こと)にしない。至上所にある各相は其生命が根本に於て互に相通じてゐる。其点を把捉して萬葉に向ふでなければ、萬葉の生命には触れ得ないのである。小生は萬葉新古今対照の資料にするつもりで、覚え書き体に萬葉の数相を説いた。遺却された他の諸相は他日の言及を期する。例歌は悉くを挙げ得ない。只その数片を示したに過ぎぬのである。(五月十六日柿蔭山房に於て)

    ──大正十二年(1923)六月「アララギ」第十六巻第六號──

 

    ○

 

 小生、先年夏の盛りに、長崎に用事があつて、同地土橋氏の宅に七日ばかり厄介になつてゐた。その時、平戸の小國法師が訪ねて来て、二日ばかり寝食を共にした。此坊様が朝佛壇の前に坐つてお勤めの読経をしてゐると、うちの幼い二人の子どもが、異様の音声に驚いて勝手から走つて来て、坊様の後ろに立つた。坊さまのお勤めといふものを生れて初めて見たのであらう。一人の子どもは視線を丁度水平に置いて坊様の頭を見てゐる。一人の小さいのは視線を上に向けて同じものを見てゐる。二つの視線の出逢つた所に丸い頭があるのである。この頭は不可思議の頭である。第一に、誰もの頭が持つところの毛髪を持たない。從つて又誰もが多く見せない頭部の凸凹面を露出してゐる。子どもは今まで経験したことのない頭の形状と光澤とを観察するといふ目をして熱心に坊様の後ろに立つてゐる。そのうちに、視線を上に向けてゐたのが、手を伸ばして不思議な対象物に触つて見た。坊様は驚いて後ろを振り向いた。その時、小生「坊様が負けたな」と思つた。お勤めが終へて、朝の茶を飲む時、小生坊様に向つて「負けましたな」と言ふと、坊様も「負けました」と言うて笑ひながらその頭を撫でた。

 無心な子どもの一挙手は、三十棒を何度も喰らつて修道した禅坊様の心を驚かすに足りた。斯様な無邪氣な心は、又、往々或る心境に達し得てゐる大人の心と共通することがある。良寛禅師などの日常生活からは、幾つも恰例(かうれい)が見出されるやうである。正岡子規が病中八百善の料理を食べるために虚子氏から金五圓を拝借して、その金を美しい財布に入れて、天井から釣り下げて、幾日も眺めて楽しんでゐたといふやうな心持も、矢張りこの童心に通じてゐる。小生等は左様な童心を現代の歌に求めて得ず。却つて子どもの一挙一動などによつて、有難い心持を誘ひ出されるのである。子どもを成るべく長く子どもであらしめよと(こひねが)ふのも、この尊い心持を成るべく多く保持させて、一生の生活基調から、その心持を離させたくないと思ふからであつて、子どものうちから雑誌へ投書したり、美術会へ出品などさせるのは、早く童心から別れさせて世間気を発達させることになる場合が多いと思ふゆゑ、小生は左様な子どもの仕ぐさに、眉を(ひそ)めることが多いのである。

 萬葉集の歌には、流石にこの童心に通じた大人の歌が多い。

 

吾背子は仮廬(かりほ)作らす(かや)なくば小松が下のかやを(から)さね

小草壮子(をぐさを)小草好色男(をぐさすけを)と潮舟の竝べて見れば乎具佐(をぐさ)勝ちめり

児毛知山(こもちやま)若かへるでの紅葉(もみ)づまで寝もと()は思ふ()()どか思ふ

 

等の歌をよむと、殆ど子供の口つきを見る如き快感を覚える。

 

我はもよ安見児(やすみこ)得たり人皆の得がてにすとふ安見児得たり

 

 これは中臣鎌足の歌である。鎌足も美人安見児を得ては、子ども心になつて喜んだのであらう。そこに一途にして強い心が現れてゐる。

 萬葉集には藝術の至上所と思はれるやうな境にまで入つた歌が多く、その或るものは人生の幽遠所寂寥所に澄み入つたと思はれるものがある。左様なものも根ざす所は純粋無雑不二一途の童心である。童心と至上藝術とは少くも小生には別々のものとして引き離して考へることは出来ない。丁度良寛の歌と良寛の童心と引き離して考へられないやうなものである。さういふ意味で萬葉集の人麿赤人等の傑作と前掲四首の如き歌とを比較する時、別々の標準を置いて、之を鑑賞する心持はしないのである。幽遠所寂寥所に入つたものが、その物として尊い如く、童心そのままの現れは、そのままの現れとして尊いのであつて、その間に多く差別を立てたくないのである。

 今人の至り難いは、先以て童心である。(たまた)ま詩歌人が、過つて童心を気取つて、奇々妙々な行動を為し、中にはそれを詳しく記述して天下耳目の前に突きつけるといふやうな種類がある。気取りの童心は、童心ならざるものよりも、臭いだけ悪い。

 都会の子どもは、人間及び人工物との接触が多いために、早くから大人の挨拶礼儀作法その他の挙動に習熟して幼い大人になり済ますといふ傾きがある。その勢を助長するために所謂(いはゆる)「子どもの読みもの」がある。強烈な色彩の表紙画、口画、それ丈けでも子どもの弱点を挑発するに余りがある。強烈な刺戟に慣れる子どもは、強烈な刺戟を人に示さうとする子どもになる。早くから人前を考へたり、試験の成績の比較を気にしたりする子どもは、斯ういふ所から余計に生れて来る。さうして中学一年位の子どもが、平気でカフェーの椅子に腰かけて、女給仕に冗談口を利くといふやうな現象を呈するのである。

 子どもから早く童心を取り去つて、その代りに小さい世間気を植ゑこむといふやうなことは、詩歌の上の問題でなくて、人類としての大きな問題である。斯ういふ勢で人類が進んで行けば、萬葉集や良寛の出現は愚か、世の中は物質萬能、零砕(れいさい)砂を噛むの域に入ることであらう。小生は田舎の子どもが自然物の中で生育して、(どぜう)を掬うたり栗を落したりする子どもらしい原始的な生活を尊重する。さうして少くも、左様な子どもたちに、現今流行の「子どもの読みもの」を見せたくないと思ふのである。(六月十七日)

 

     ──大正十二年(1923)七月「アララギ」第十六巻第七號──

 

    ○

 

 萬葉集には又

 

法師らが鬚の剃杭(そりくひ)に馬つなぎ痛くな引きそ法師無からかむ

石麿(いはまろ)に吾れ物申す夏痩に良しといふものぞ(むなぎ)取り()

痩す痩すも生けらばあらむを(はた)(はた)鰻を()ると河に流るな

佛作る眞朱(まそほ)足らずば水たまる池田の朝臣(あそ)が鼻のへを掘れ

勝間田(かつまだ)の池は吾れ知る(はちす)なし()か言ふ君の鬚無きが(ごと)

蓮葉(はちすば)は斯くこそあるもの意吉麿(おきまろ)が家なるものは(うも)の葉にあらし

 

といふやうな滑稽歌がある。斯様な歌は、萬葉の歌がらを毫末も濁らせるものでないのみならず、却つて萬葉全体の心を考へる上に、或る大きさと豊かさを与へるものである。元来純粋な滑稽や戯れは浄化した心の一面として現れるものである。得道者の心が子どもの心に類してゐることも、夫れと消息を通じてゐる。落語家の上乗に入つてゐるものの居常が、割合に(つつ)ましく真面目であるといふことを聞いてゐる。それも同じ消息の中において考へることが出来る。

 孔子が陳蔡の野で囲まれて「絶糧、從者病、莫能与」といふ大事に遭つた時に、孔子が大分悲観して「吾道非耶。吾何為至於此」と言うた時に、顔回がこれを慰めて、「不容何病、不容然後見君子」と言うた。孔子が之れを聴いて初めてにこりと笑つた。さうして「有是哉、顔子之子、便爾多財、吾為爾宰」と言うた。お前が金持ならば、おれがお前の番頭にならうと戯れたのであつて、この時孔子余程うれしかつたものと見える。お前の番頭にならうといふやうな戯れは、却つて、せつぱ詰まつた心の中から生れるものであつて、戯れの心が浄化されてゐると共に、さやうな戯れの心によつて孔子の人物が余計に大きく寛く懐しく思はれるのである。孔子はよく子路にからかつてゐる。子路を愛したのであらう。「道行はれずんば、桴に乗つて海に浮ばん。我に從ふもの夫れ由か」と言うたのも、子路に向つて、からかつたのであらうし、「吾()に匏瓜ならんや。(いづく)んぞ能く繋いで食はざらんや」と言うたのも、子路に向つて戯れられたのである。斯様なことが、孔子の人がらを大きくこそすれ、決して性情の上に累をするものでないのである。萬葉集に諧謔の一相を具へてゐるといふことは、(ただ)に萬葉の有する他の諸相と相背馳(あひはいち)せざるのみならず、却つて、夫れによつて他の諸相の確実性までも附与するものである。これを更に縮めて言へば、人麿の具へた幽遠相は「(いも)(かど)見む、靡けこの山」といふ如き、子どもの地駄太を踏みつつ発する駄々言に類した歌心によつて傷けられないのみならず、却つて、それの幽遠相をも確実にするの観あると同じ關係にあるのである。只滑稽といひ、戯れといひ、その背後には、それを生み来る心がある。その心は小生の前に説いた諸相を生み来る心と異るものではないのである。その心を思はずして、形のみを模して滑稽をなすのは滑稽に甘えるものであり、滑稽に甘えるの不可なるは、幽遠に甘え、嚴粛に甘え、素樸に甘え、無邪気に甘えるの不可なると異る所がない。夫れについて思ふのは、(正岡)子規の歌の具ふる種々相である。更に(伊藤)左千夫の具ふる種々相である。(左千夫のそれについては一昨年のアララギに説いた)それらの諸相を生み来る心をも同じ意味に於て我々は考へて見ていいのである。猶、それについて序でを以て考へ出すことは、(斎藤)茂吉の

 

あかねさす昼は昼とて眼の見えぬ黒き蟋蟀(いとど)を追ひつめにけり

 

といふ歌である。これは必しも滑稽の歌ではない。只蟋蟀を追ひつめてゐるといふのであって、現れる所は子供のいたづらに類する。形は子どものいたづらであつて、心はせつぱ詰まつた寂しさに居り、自分が人に追ひつめられる蟲の如き心になつてゐるのである。形の下に籠つてゐる心があはれである。それを或る意味に拡げて言ふと、滑稽歌の背後にある心を思ふことが出来、その心が他の種々相の背後にある心と異るものでないことが思はれるであらう。茂吉の歌は今思ひついたものを挙げた。他に恰例があるかも知れぬ。

 

       ──大正十三年(1924)二月「アララギ」第十七巻第二號──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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島木 赤彦

シマキ アカヒコ
しまき あかひこ 歌人 1876・12・7~1926・3・25 長野県上諏訪町に生まれる。正岡子規、伊藤左千夫を継承して斎藤茂吉らとともに「アララギ」により写生道の短歌創作に大きな業績を遺した。

掲載作は、1923(大正12)年2・3月「アララギ」第16巻第2・3号ならびに翌年2月第17巻第2号に初出、萬葉集例歌の表記は赤彦原稿に随う。

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