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息子

人 物

 火の番の老爺  七十歳

 金 次 郎   二十七歳 無頼漢

 「手先」と呼ばるる捕吏  三十歳位

時 代

 徳川末期

場 所

 江戸の入口

 

舞台にはっきり見えるものは、唯粗末な火の番小屋だけである。雪がさかんに降っているので、右も左も奥も前も、ただ一面に白いだけである。火の番小屋には明かりがついている。障子が一枚明けてあって、襟巻頭巾に顔を埋めた火の番の老爺が、土間で焚火をして、あたっているのが見える。十二月の或晩の夜半過ぎである。

幕が明くと、「手先」と呼ばるる捕吏が、あたりに目を配りながら出て来る。二三度、火の番小屋の前を行ったり来たりする。やがて小屋の前に立ち留り、火の番の老爺に呼びかける。

 

捕吏 とっつあん。まだ生きてるな。

火の番 (顔を上げる)生きてるとも。誰だ。おかしな事を言うのは。

捕吏 誰でもねえ。おれだよ。

火の番 おれはまだ死にゃあしねえよ。誰が死ぬものか。

捕吏 向きになる奴があるものか。冗談だな。

火の番 冗談だ。何が冗談だ。

捕吏 生きてるなと言ったのがよ。

火の番 生きてるともさ。当り前だ。死んでたまるものか。

捕吏 分からねえな。お前、冗談が分からねえのか。こう寒くっちゃあ、冗談の一つも言わなけりゃあ、とても遣り切れたもんじゃねえんだ。

火の番 そんな事を言ってると、体でもあったまるのか。

捕吏 話にならねえ。(行きかける)

火の番 まあ、あたって行けよ。

捕吏 (火の番小屋へはいって、手を暖めながら)寒いな。

火の番 誰がよ。

捕吏 誰がって。みんながよ。天気がよ。

火の番 おれは寒かねえ。

捕吏 寒いから寒いと言うのに、何もそう怒るこたあねえ。(火の番答えず)寒いと言ったって、おれが首になる気遣えはねえんだ。(火の番答えず)だが、ここいらは吹きっつぁらしのせいか、格別また寒いな。

火の番 なあに、もっと寒い所があらあ。

捕吏 そりゃあ、あるだろう。

火の番 じゃあ、なぜそんなむだを言うんだ。

捕吏 とっつぁん。お前今夜どうかしてるぜ。おれはお前が寂しかろうと思って、元気づけに話をしてやってるんだ。揚足ばかり取ってやがる。かりにもお客だ。もうちっとやんわり口を利くもんだ。(火の番、鼾をかく)え。とっつぁん。(火の番、鼾をかく)好い火の番だ。居眠り火の番か。

火の番(目を明かないで)あんまりくだらねえ事ばかり言うから、眠くなるんだ。

捕史 とてもかなわねえ。(小屋を出る)じゃあ、あばよ。

火の番(冷淡に)あばよ。

捕吏(小屋を離れながら)あばよ。頑固じじい。(行ってしまう)

火の番(立ち上がる)頑固じじいたあなんだ。おれにゃあ名があるぞ。(また坐って、火をいじる)あんなおっちょこちょいが、手先の何のと言って、いばっていやがるんだ。やま犬一疋でも、捕まったらお慰みだ。

 

金次郎、出て来る。頬冠り、ふところ手で、尻をはしょっている。火の番小屋の前まで来ると、立ち留る。火の番は囲炉裏の火をいじりながら、金次郎に背を向けている。

 

金次郎 じいさん。あたらして貰っても好いか。

火の番 (肩越しにじろりと相手を見て)あたるが好いやな。

金次郎 じゃあ、あたらして貰うぜ。(小屋へはいって、手を暖める。火の番の半身、障子の蔭に隠れる)寒いなあ。

火の番 おれは寒かあねえ。

金次郎 そいつあしあわせだ。おいらは寒いよ。この一月、暖まったことがねえんだ。

火の番 お前、どこにいるんだ。

金次郎 片門前の盲長屋にいたんだ。あすこが又寒い所よ。

火の番 もう、そこにいねえのか。

金次郎 家賃が高過ぎらあ。(懐を明けて見せる)おいらあ、もう一文なしだ。

火の番 酒か。ばくちか。

金次郎 冗談言いっこなしだ。おいらあ堅気の商人(あきんど)だ。商売ですったのだ。

火の番 商売はだめだ。この頃のお上の遣り口じゃあ商人は上ったりだ。お前、煙草をやるか。

金次郎 御馳走か。有難え。

火の番 おれは遣らねえが、貰ったのがある。(棚から紙に包んだ煙草と烟管をとる)烟管は詰まっているかも知れねえぜ。

金次郎 なに、構わねえ。(烟管の火皿を焚火にかざして、それから細い木の枝で烟管を通す。それから煙草を詰める)

火の番 ひどく手が震えるな。

金次郎(煙草をすっぱすっぱやりながら)体が悪いんだ。頭がふらふらしてしようがねえ。

火の番 お前、腹がすいてるんじゃねえか。

金次郎 きにょうの朝食ったきりだ。

火の番 早くそう言やあ好いに。(弁当箱を持って来る)まだ一かたぎぐらいは残ってる筈だ。

金次郎 有難え。有難え。(かぶりつくようにして食う)

火の番 味が分かるか。

金次郎(頬ばりながら)うむ。

火の番 腹のへってる時、そう急いで食っちゃあ毒だ。

金次郎 毒でも好い。(食い続けながら)だが、お前、見かけに寄らねえ親切者だな。おらあ帰ってから、こんなにされるなあ始めてだ。

火の番 帰って来たと。何処から帰って来たんだ。

金次郎 上方からよ。

火の番 大阪か。

金次郎(口を一杯にして)うむ。

火の番 何処にいた。

    (金次郎、聞えない振りをする。)

火の番 大阪は何処にいたよ。

金次郎 川っぷちだ。

火の番 それじゃあ分らねえ。大阪は何処でも川っぷちだ。

金次郎(慌てて)北——北だ——北の新地だ。南にも少しいたよ。東にもたな。だが、北だな――おもにいたなあ北だな。

火の番 何の商売をしていたんだ。

金次郎 商売。おれが商人(あきんど)に見えるか。

火の番 だって、お前いま商人だと言ったじゃあねえか。

金次郎 おいらあ職人だ。

火の番 じゃあ、職は何だ。

金次郎 鍛冶屋だ。

火の番 嘘をつけ。(相手の手を指さす)それが火を掴んだ手か。

金次郎 当てられた。おいらあ、実は釣るのが商売だ。

火の番 魚をか。

金次郎 分からねえ。人を釣るんだ。(賽をふせるような真似をする)これだ。

火の番 ばくちか。いかさまをやるんだな。

金次郎 うぶな人間に、世の中の歩きようを教えてやるんだ。銭の使いようを伝授してやるんだ。

火の番(間を置いて)おれにも一人上方へ行ってる息子があるが、有難え事に、お前のような奴じゃあねえ。律気者だ……お前、なぜまともな事をしねえのだ。

金次郎 見たって分かろう。おいらにゃあ出来ねえ。おいらあ生れつき、(又、賽をふせるような科をする)レコに出来てるんだ。世の中にゃあ銭のなくしてえ人間が沢山いるんだ。おいらあ、その手合をたんのうさせてやるんだ。

火の番 ばくちはいけねえ。地獄へ落ちるぞ。

金次郎 落ちたら落ちた時よ。地獄にも大きなのが出来てるかも知れねえ。

火の番 恐ろしい事を言う奴だ。(目をつむって)南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

金次郎 よせやい。縁喜でもねえ。(弁当箱を返す)でも、お蔭で助かった。有難うよ。

火の番 こないだも、ここへ狼の辰という奴が来た。霰の降る暗い晩だった。「あたらして貰えるかい。」なんて言やがるんだ。「あたったら好いじゃねえか。」おれはこう言った。やつぐしょ濡れだ。火へあたると、湯気が立つのよ。恐ろしい顔をした奴だった……お前、いける口だろう。一杯やるか。(貧乏徳利を出す)

金次郎(驚いて)いけねえ。そいつあーったらしもいけねえんだ。

火の番 お前、こないだお仕置になった赤羽橋の人殺しを知ってるか。

金次郎 うむ。あいつあ、おれの幼馴染だ。

火の番 あいつがお仕置になったのは、おれのせいだ。あいつもここへあたりに来やがった。

金次郎(平気で)ふむ。縁があったんだな。

火の番 殿様伝次は、捕まらねえ内に咽喉を突きゃあがった。あいつも名高え奴だった。

金次郎 伝次たあ四つ目で一緒にいた事がある。

火の番 あいつもここへあたりに来たんだ。咽喉を突く前に、おれに小判を一枚くれて行った。まだ持ってらあ。

金次郎 お前、それを使わねえのか。

火の番 使おうと使うまいと、おれの勝手じゃねえか。

金次郎 堪忍してくれ。いつもの癖だ……だが、咽喉が渇いた、一杯やって見るかな。(貧乏徳利をとって、口から飲む——直ぐ、いやな顔をして、口中の物をほき出す)ぺっ。ぺっ。こりゃあ何だ。

火の番 茶だ。茶だよ。

金次郎 おっそろしく冷てえ茶だ。こんなものを夜中に飲ませるどじがあるか。おいらあ、茶なんてものは、もう何年にも飲んだ事がねえ。

火の番 酒ばかりくらっているんだろう。

金次郎 酒じゃあねえ。泡盛だ。

火の番 泡盛は毒だ。

金次郎 へ。「ばくちはいけねえ。」……「泡盛は毒だ。」……そうだ。今に「煙草は命とりだ。」と来るだろう。

火の番 そうだとも。煙草だって、好い事はねえ。

金次郎 分かった。分かった。もう、よしねえ。もう、なんにも飲もうたあ言わねえから。

火の番 一体お前、何しにこんな所へ来たんだ。

金次郎 え。それはその、いろいろ用があるからだ。

火の番 こう、何かきまった用はねえのか。

金次郎 そりゃあ、ねえ……いや、ある。(調子を変えて)ちゃんとお袋を探しに来たんだ。

火の番 めっかったか。

金次郎 分からねえ。

火の番 分からねえ。

金次郎 会ってくれるかどうだか分からねえんだ。

火の番 じゃあ、いどこは分かっているんだな。

金次郎 う。うむ。大抵いどこは分かっているが、おいらが行ったって、会ってくれるかどうだか、それが分からねえんだ。

火の番 そりゃあ会ってくれるとも、やっぱり、お前のような事をしているんだろう。

金次郎 なぜよ。

火の番 蛙の子は蛙よ。昔からきまっていらあな。

金次郎(変な気持で)そうかね。(居ずまいを直す)

火の番 お前、くたびれたろう。そんなに堅くなってるからだ。もっと楽々とあたりねえ。

金次郎 これで沢山だ。

    (間、金次郎何か言いそうにする)

火の番 なんだ。

金次郎 お前の息子の事を考えたんだ。上方へ行ってると言ったな。して見ると、どっかでおいらが会っていねえものでもねえ。名は何と言う。

火の番 会う気遣えはねえ。おれの息子はまっとうな人間だ。

金次郎 それは分かった。名を言ったって好いじゃあねえか。

火の番 金公よ。金次郎ってんだ。

金次郎(静にひとり頷く)うむ。それじゃあ、会った事はねえ。

火の番 当り前だ。九年前に江戸を出て行った——十九だったよ、その時な。商売は金物よ。今じゃあ立派にやってらあ。

金次郎 飛んでもねえ。

火の番 何が「飛んでもねえ。」だ。

金次郎 どうして、立派にやってる事が分かるんだ。

火の番 そうに違えねえもの。

金次郎 たよりはねえのか。

火の番 まだ、ねえ。

金次郎 まだだと。九年も立ってるのにか。

火の番 忙しいんだ。せっせと稼いでるんだ。もうたいしたものになったに違えねえ。

金次郎 そうありてえもんだ。だが、若し、じいさん。若しそうでなかったらどうする。

火の番 そんな事がありよう筈がねえ。あいつはまっとうな人間だ。

金次郎 又まっとうだ。まっとうだって、思わく違えというものがあらあ。

火の番 ばかあ言え。あいつは子供の時から、近所の褒め者だった。酒も飲まねえ。ばくちは元よりだ。どうしたって出世をする男に出来てるんだ。

金次郎 いつもそうとはきまらねえ。

火の番 だが、あいつはそうだ。

金次郎 だが、どうして……(言い淀む)

火の番 どうしてだと。何がどうしてだ。

金次郎 だからよ……その……だからよ。(問うべき事を考える)誰かにたよりがあったのかよ。

火の番 うむ……一度あった。

金次郎 誰によ。

火の番(にがい顔をして)お前の知った事じゃねえ。

金次郎 ふむ。じゃあ、お前の嫌いな人間にでもたよりがあったのか。

火の番(少し熱して)近所の娘のところへ手紙をよこしゃあがったんだ。向うへ著くと直ぐに書きゃあがったんだ。いやらしい手紙よ。「故郷が恋しい」なんて書きゃあがって。

金次郎 そりゃあ恋しいだろう。

火の番(怒って)稼ぎに行く奴が、故郷が恋しいもねえもんだ。その娘め、伜と夫婦約束がしてあるなんて言やあがった。ばかばかしい。だから、おれはそう言ってやった。もうみんな忘れちまってらあってよ。

金次郎 う、うむ。娘の方でももうお前の息子の事は忘れっちまってるだろう。もうずっと前によ。

火の番 ところが忘れねえんだ。まだ、それを言ってやがるんだ。

金次郎 なんだと。それじゃあ、まだ嫁に行かねえのか。

火の番 こう諸式が高くっちゃあ、うっかり嫁にも行けねえのさ。おまけに、好い時分を逃がしてしまっちゃあな。

金次郎(熱心に)ところで、おいらお前に一つ聞きてえ事がある。こりゃあ、唯、その、お前の考えが聞きてえんだ。よしか。若し、お前の息子がしくじったとするな。そいつが困って、帰って来たとするんだ……運が悪くてよ……以前とは違ってよ。牢にでもへえって来たとするんだ……

火の番(怒って)お前、うちの金次郎の事を言ってるのか。

金次郎 そう怒っちゃいけねえ。おいらあ、唯お前の考えが聞きてえんだ。

    (捕吏が出て来て、火の番小屋の横に身を寄せ、そっと二人の会話を聞いている)

火の番 よせ。さっきから言ってるじゃねえか。息子はそんな奴じゃねえよ。

金次郎 だが、人間には運不運というものがあらあ。

火の番 稼ぐ人間に運も不運もあるものか。

金次郎 でも、病気をするとか怪我をするとかしたらどうする。

火の番 そんなら手紙をよこす筈だ。

金次郎 若し手紙をよこさなかったら。

捕吏 (前へ出る)若いの。そのじいさんにからかったってむだだ。しゃれも冗談も分かる親爺じゃねえんだ。

火の番 又来たな。また何か冗談を言いに来たのか。

捕吏 そうだ。寒くってたまらねえ。

火の番 この若いのは冗談を言ってるんじゃねえんだ。

金次郎 そうだとも、おいらあ、唯、じいさんの考えを聞いてるんだ。聞いたってしようのねえのは分かってるんだが。

捕吏 お前、この頑固じじいを知ってるのか。

金次郎 どうして。知るわけがねえや。

捕吏 知ってねえとも限らねえ。だが、じいさんの言う事を聞いてりゃあ間違いはねえよ。

火の番 それも冗談か。

捕吏 やっと分かったか。

金次郎(立ち上がる)じゃあ、もう行くぜ。大きにお世話だった。

火の番 まあ、坐れ。そう急ぐこたあねえ。

金次郎 うむ……だが……

捕吏 おれの顔を見て、直ぐ出かけると、お前うろんに思われても為方(しかた)がねえぞ。

金次郎 お前さん、何の商売だ。針でも売るか。

捕吏 なぜよ。

金次郎 ちくうり刺すからよ。

捕吏(笑って)こいつあ好い。

火の番 若いの。とても上方にゃあいめえな。こんなお手軽なお手先様は。

捕吏 (金次郎に)お前、上方から来たのか。上方は何処にいた。

金次郎 堺だ。

火の番 お前、さっき大阪だと言ったじゃねえか。

金次郎 堺に一番長くいたんだ。

火の番 じゃあ、さっき、なぜ大阪にいたなぞと言ったんだ。

金次郎 大阪の話が出たから、大阪にいたと言ったんだ。そう揚足がとりたけりゃあ、相撲とりにでもなるが好いや。

捕吏 (金次郎に)お前、上方で何をしていた。

金次郎 町奉行をしていたかも知れねえ。だが、生憎そうじゃあなかった。

捕吏 じゃあ、何をしていたんだ。

金次郎 川口で荷揚をしていた。

火の番 (驚いて)お前、さっきは……

金次郎(烈しく火の番を睨みっけて)黙ってろ。じじい。

火の番(呟くように)そうか。それで分かった。そんならそうと早く言やあ好いに。

捕吏 とっつぁん、どうした。目を白っ黒してるじゃねえか。

火の番(捕吏の方へ向き直って、烈しく)お前の知った事じゃあねえ。どうして、そうお前は疑り深えんだろう。そう人の事に一々口を出すもんじゃあねえ。

捕吏(驚いて)どうした。どうした。おれは唯当り前に聞いてるんだ。(金次郎に)役目だけで聞くんだ。返答をしてくれるか。

金次郎(不安心に)するとも。

捕吏 よし。

金次郎 お前さんの来た時、おいらあじいさんの考えを聞いていたんだ。

火の番 そうだ。ばかな事を聞いてやがったんだ。うちの金次郎がどうだのこうだのと。

金次郎 やっぱり、おいらあもう行くぜ。大きに世話だった。御免ねえ。旦那。

捕吏 まあ、待て。ちょっと気になる事があるんだ。

金次郎 冗談じゃねえ。(行きかける)

捕吏 まあ、待て。行くな。どうも、お前はおれの尋ねてる代物らしいぞ。(捕吏も動かない。金次郎も動かない)お前、おれのとこへ来て、一晩暖まったらどうだ。夜じゅう雪ん中をうろつくよりゃあ好いぜ。どうだ。

金次郎 それにゃあ及ばねえ。

捕吏 大方そう言うだろうと思った。

   (捕吏、いきなり小屋へ飛び込む。金次郎、すりぬけるようにして、小屋を躍り出る。直ぐ姿が見えなくなる。捕吏、帯の間に呼笛を探りながら、あとを追いかける)

火の番 やっぱり、そうか……(小屋を出て、遠くを透かして見る。呼笛鳴る。火の番、雪に手をかざす。呼笛また遠くで鳴る)あいつ一人じゃだめだろう。(間)見えねえ。(間)角を曲ったな。(ずっと遠くで呼笛が鳴る)いくら吹いたって聞えるものかな。(呼笛の音が少し近くなる)や、又こっちへやって来たな……(延び上って見る)そうだ。(ずっと近くで呼笛が鳴る)また角をこっちへ曲がったな……(小屋へはいる)人の事だ。引っ込んでいよう。(障子を少し引く)

(呼笛、直ぐ近くで鳴る。金次郎、息を切らして、駈けて来る。小屋の前で転ぶ。捕吏、あとを追っかけて来て、金次郎の起き上がろうとするところを捕まえる)

金次郎(喘ぎながら)よし。捕まった以上は神妙にする。

捕吏 神妙にすると。感心な奴だ。まあ面を見せろ。(金次郎の顔を火の方へ向ける)

金次郎(反抗して)神妙にするから……そんな事はするな。

捕吏 火の側へ来い。

金次郎(烈しく抵抗する)お前、おいらの面に見知りはねえ筈だ。

捕吏 じじいに見せるのだ。

金次郎 いけねえ。そりゃあいけねえ。(烈しく抵抗する)

捕吏 見せねえか。ぬすっと。見せねえか。

金次郎(急に抵抗するのを止める)

捕吏 見せるか。

金次郎 為方がねえ。どうともしろ。

    (二人、火の側へ歩み寄る。不意に、金次郎、身を屈めて、捕吏の両足に抱きつき、捕吏を仰向けに倒す。金次郎、逃げる)

捕吏(はね起きて)畜生。(あとを追う)

   (金次郎、直ぐ又小屋のうしろから出て来る)

金次郎 見当違いへ行きゃあがった。(呼笛鳴る。金次郎、小屋を覗く)じいさん、あばよ。

火の番 (少し顔を出して)あばよ。達者でいねえ。

金次郎 何か。お前んとこの婆さんは達者か。

火の番 ばあさんは死んじまった。

金次郎 死んだ。息子の帰るのを待たねえでか。

火の番 何を言ってるんだ。早く行け。達者でいろよ。

金次郎(声を飲むようにして)ちゃん。

    (金次郎、逃げ去る。呼笛遠くで鳴る。火の番、嘲笑う)

——幕——

( Harold Chapin : Augustus in Search of a Father に拠る。)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/04/26

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小山内 薫

オサナイ カオル
おさない かおる 劇作家 1881・7・26~1928・12・25 1907(明治41)年「新思潮」(第1次)を創刊、ヨーロッパの新文藝、演劇運動の紹介につとめ、明治42年には自由劇場を創立、新劇運動を展開する。1924(大正13)年には豊島与志らと築地小劇場を創設、新劇の普及におおきな功績を果たした。第1次新思潮の同人で小説も書いた。

掲載作は1922(大正11)年「三田文学」7月号初出の新歌舞伎の作品。初演は1923(大正12)年3月帝国劇場で、金次郎を六代目尾上菊五郎、火の番を四代目尾上松助、捕吏を十三代目守田勘弥が演じた。イギリスのハロルド・チャピンの作品の設定を幕末の江戸に置きかえた翻案劇で、新歌舞伎というジャンルの幅の広さがうかがえる作品である。

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