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「ペン電子文藝館」のことども――メディア新時代と文学――

* 以下の斯様な記録も、電子文藝館開館満二年を経過した今、後々への一「証言」として意味あろうかと考え、「会員広場」に、改めて提出しておく。 

 

 この会(芸術至上主義文芸学会 2002)で、こうしてオハナシするのは、十六年前の、やはり十一月、二十九日でした。題して「マスコミと文学」 これを、今年(二○○二年)九月、私の「(うみ)の本エッセイ」第25巻め、創作シリーズと通算して第72巻めに、他の講演四本と一緒に、収めました。

 当然、何度も校正しまして、記憶も実感も新たになりましたが、あの一九八六年(昭和六十一年)当時、みなさんも、私も、まだ全然、皆目、コンピュータというものに触れていませんでした。私版の全集に相当します冊子版つまり紙の本の「(うみ)の本」を、あの年の六月桜桃忌に創刊しておりました私は、また同じあの年、早稲田で、文芸科のゼミを臨時に手伝っていました。東京工業大学に、江藤淳の後任として、突然、教授として呼び出されましたのは、それよりもう五年もあとのことでした。

 

 つまり、こういうことです。

 東工大に行ったから、初めて、パソコンという機械を、研究費で手に入れることができたのでして、まさに「時代」が、紙の本時代から、電子の本の世紀へ変わり始めていたのです。

 さて手には入れたものの、ワープロとは大違いで、ま、にっちもさっちも機械が働いてくれないのでした。ただ、プロなみの学生達が、教授室に始終出入りしていましたから、ま、四年半して、六十歳定年、退官のときには、ゲームよりは、ま、少しマシに使えていましたし、メールも使い始めておりました。文章も書けていました。

 

 そんな次第で、以前にこの場で語りました「マスコミと文学」は、徹して、いわゆる、出版主導の「紙の本」時代の、それも末期(まつご)の喘ぎを始めていた頃の、パソコンを全く知らない私なりの「批評」でした。滴ほども、ディジタルな所へは一言一句言い及んでいない…、そのことが逆にあの時代を、鮮明に照射・証言し得ていたのではないかと、今度講演録を読み返して、思い起こしました。

 今も申しましたように、私は、あの頃、すでに思いあまって「湖の本」刊行に踏み切り、三冊ほどはもう出版していました。この学会の会員にも、その後たくさんお力を戴きました。その刊行は、以来十六年後の只今も続いて、創作は四十七冊、エッセイは実はまさしく本日の朝のうちに第二十六冊目が出来、家に届いたところです。まだ湯気がたっている通算第七十三冊目が、これです。

 

 出版への反乱だとか、謀叛だとか、作家による産地直送だとか、いろいろ云われながら、全国規模で、これだけの年数、これだけの巻数、「続いた・続けた」というところで、ある種「批評行為」としての「湖の本」は、文学史的にも、出版史的にも評価して戴けるのではないか、と、願っています。趣味や道楽で続けたワケではないのです。

 ま、それだけに、今なお「湖の本」の存在自体を許さないという空気はつよい。その一つの証拠は、太宰賞このかた母なる港と思っている筑摩書房ですら、例えば私の文庫本を一冊として提案してきたことは無いのです。それでも単行本は、この間にエッセイ・評論だけでも十何冊出していますし、湖の本での新刊は随分の数になっています。

 

 しかし、今日は、それは当面の話題に致しません。

 主として「電子化時代の文藝活動」にふれた話に、絞って参ります。いきおい、それは、また新時代の「文学とマスコミ」という話題になりますが、もはや「紙の本」だけで済まない、「電子の本」という視点に重きを置くことになります。

 そういう話をしようというのですから、おまえさんに、そんなことの話せる資格があるのか、無いとなると、まるで話に信用がなくなります。で、もう少し、前置きを致します。

 私は只今(講演当時)、日本ペンクラブで、一理事として「電子メディア委員会」の委員長を引き受けています。アップ・トゥー・デートな委員会であり、今後ますます活躍しなければならない委員会の一つであります。また同時に「ペン電子文藝館」の主幹=責任者でもあります。この二つとも、私の提案により新設されまた発足しまして、現に日々、そうまさに日々に、活動を「拡大」しています。ペンクラブに初めて「ホームページ」を造ったのも、私でした。このホームページは、現在、「ペン電子文藝館」と「広報」とを両翼に開いて、厖大な内容を発信しつづけています。

 やがて六年に及ぶこれら一連の仕事は、私にとって、一つの創作行為でありました。

しかし、一朝にしてそんなことの可能なわけはなく、いわば前段階に「東工大」体験があり、加えて、私自身の「ディジタルな文学活動」が先立って進行していました。

 東工大を退官するとまもなく、親切な学生クンの手引きで、私は、「作家・秦恒平の文学と生活」という、今在るホームページを開きました。おそらく現在、文学者個人のものとしては、最大量のコンテンツを擁して、しかもほぼ一日も欠かさず更新されつづけている、稀有な存在になっています。

 一つ、端的に「量」の話を致しますと、MB=メガバイトという単位があります。1MBは、半角文字つまり英字ですと、百万字に相当します。かなや漢字は全角表示になるので、1MBで五十万字、四百字用紙に換算して一二五○枚分に当たります。私のホームページは現在その三十倍ちかく、かなり内輪に見て三万枚を越えるコンテンツを発信しています。オブジェクトの数は、三百を超え、ものによれば一つのオブジェクトが原稿数百枚の内容を抱えています。

 その中には、略称ですが、「e-文庫・湖umi」という、「秦恒平責任編輯」の「文学広場」が大きく独立していまして、投稿を吟味しながら、他方、プロの作家や詩人歌人エッセイストらを招待し頂戴した作品を、ジャンルを分けて、大量に収載し発信しています。この度お声を掛けて下さった馬渡憲三郎さん(詩人・相模女子大教授)からもすばらしい詩を戴いていますし、びっくりするような方々の作品がそのサイトで読めます。

 で、この「e-文庫・湖」の成功に手応えを得た自信が、ペンクラブでも、「ペン電子文藝館」を創れるぞという確信を喚び起こしました。

 

 「ペン電子文藝館」の開館は、昨年(二○○一年)の「ペンの日」十一月二十六日でした。満一年を経過したのが、ちょうど四日前のことで、満一年間で、お手元に配りましたような内容(展観現況・生年順筆者一覧)にまで充実し、十年もすれば、千人・千作の国民的な「大読書館」に成りうるであろうと期待しています。この一年、文字通り渾身の努力を傾けてきた、これもまた私にとっては大きな「創作行為」であり、また文学への「批評」でもありました。

 そんな次第で、「紙の本」時代の「出版主導」の悪傾向に対し、冊子版「湖の本」創刊により、ささやかに警鐘を鳴らした私が、今では「電子の本」時代にも、ささやかに先駆けていると、ま、申し上げても、いくらかお許し戴けるのではないかと、そう願っております。

 

 「ペン電子文藝館」を発想した・企画した、私の秘めた「本音」のようなモノを、今日此処で、少し白状しようと思います。

 

 最初の企画は、ペン会員の誰もが、平等に「文藝・文筆」をもって参加できる、広報的かつ文学的な「場」を設けよう、ホームページが在るのだから、技術的かつ経費的に、容易なことだと委員会と理事会を口説きました。

 東京周辺の会員なら親睦の例会にも出て来られます。が、全国の会員は、高い会費を払って、会員たる何の特典があるか。せいぜい名刺に「日本ペンクラブ会員」と印刷できる、それだけのことで、他に、何一つもメリットはないんです。会員になると「原稿料が上がるでしょうか」と真顔で尋ねられたことがありますが、多少、書き手として信頼される程度でしょう。わたしは理事になり、このことに気付いて、東京から遠くにいる年会費只払い会員のみなさんが、気の毒でならなかった。

 また「日本ペンクラブ」ってナニですか、ペン習字の団体かと思っていた人も現にいたんですね。つまり、どんな名前の会員が、どんな資格と仕事とで構成している団体なのか、世間ではまるで識っていない。なんだか、事あるごとに「声明」を頻発している、ときどき講演会かシンポジウムをやっている団体だとぐらいが関の山でしたし、今も、そんなところです。手前味噌で自画自賛はするが、広い広い世間では泡のようにすぐ消えてしまうことを、「やらないよりは、まし」と諦めたまま何かの折りの免罪符の自己交付のようなことをやってきた。ムダではないが、効果ははなはだ希薄なものです。あの猪瀬直樹氏が言論表現委員会を率いるようになって、少ゥし声明なども効果を発揮するようになった面が有ります。が、まあ、そんなところです。肝心なところ、いったいどこが文筆団体なのか。わたしは、その辺がいたく飽き足りなかった。

 

 会長(講演当時)の梅原猛さんは、時々、思い出したように、「文学の力で平和を訴えなきあ」なんて言われる。しかし、理事会で、本当に「文学」そのものが真剣な話題になることなんぞ、無いに等しいのでした。少なくもこの数年。

 で、せめて、会員の一人一人が、自分の文藝・文筆を、一つずつ、ペンクラブに寄付して、「ペン電子文藝館」というかたちで世間に公開しよう、と。そうすれば、どんな人が、どんな仕事で「会員」になっているのか、一目瞭然の、いわば存在証明になる。それも「無料公開」して、国民的な大きな「読書室」を社会に提供しよう。文筆家団体である「日本ペンクラブ」ならではのこれは「文化事業」に成るだろうと、まず、電子メディア委員会に委員長提案し、次いで理事会に理事提案し、趣旨において、誰一人も反対する理由が無かったんです。

 理事会では、井上ひさし副会長(現会長)の発言が象徴的でした、「ほんとうに出来るのなら、とても良いことです」と。裏返せば「やれるモノのならおやんなさい」ということでして、私は、「出来る」と確信していました。似たモノをすでに自分の機械でちゃんと実現していましたらね。

 企画の決まったのが、昨二○○一年七月で、直ぐさま委員会が力をあわせて「電子文藝館」立ち上げの作業にかかりました。十一月二十六日、創立六十六年の「ペンの日」に「開館・公開」と予定しました。

 

 その際、私の「企画」には、もう二つほど、お添え物がありました。

 

 一つは、初代会長島崎藤村以降、現(当時)十三代梅原会長までの、歴代会長作品を一つずつ入れよう、もう一つは、現会員だけでなく、昭和十年に創立以来の、物故会員の作品も入れよう、と。この提案にも否やの理由は誰にもなかったのです。

 なぜ、それを強く提案したか…。

 私の予想では、失礼ながら現会員だけでは、質的に高い作品レベルを維持できないという心配がありました。理事会における会員審査の、実にイージィで矜持にも欠けていることに、私は、理事就任以来あきれ果てていましたし、同時に、そういう現会員からは、(一)ごく安直に昨日今日出来合いの作品を出してくる人と、(二)ある種の自尊心やまたは不安から過度に慎重に様子を見て出し渋る人と、(三)例えば、パソコンに無縁で作品の電子化なんて出来ないとか、その他何かの理由で「文藝館」に近寄れない・近寄らないと身をよける人たち、が、当然出る。「開館」時には少なくも三百本ほど「作品を揃えて」などと言う委員もいましたが、とんでもない、作品は、「そうそう簡単には集まらないですよ」と、ま、物書きの心理上・実務上の予測が私にはありました。これは、正確に読みが当たっていたと、今の時点でも言えるのです。理事ですら三分の一しか出ていません。会員はやっと百人(現在二百人ほど)あまりでしょうか。予想通りでした。

 

 私が当初来、心から期待したのは、これが「文学・文藝」だと、或る程度「日本ペンクラブ」として胸の張れる作品をなるべく揃えたい、さもないと自慰的な、その辺の同好会なみのものになってしまいかねない、と。それだけは何としても防がねばならないが、そのためには、こんな著名な人の、こんな優れた作品と、自分の作品とが同等に並ぶ…、それは嬉しいし、それには本腰を入れて良いモノを出さないと恥ずかしいと、そう、現会員の多くに思って貰わねば成らんと。

 だから第一番に、著作権の切れている島崎藤村作品を選んで入れ、現会長で、文藝館長に祭り上げた梅原さんの作品を同時に入れ、その上で、「ペン電子文藝館の趣旨」をよく説明して、歴代十三人の全会長作品を、ぜひ「開館」時には揃えたいと、それには、苦心し苦労しました。山崎合戦の天王山に当たると覚悟して、そしてそこのところを実現したのです。

 藤村以下、正宗白鳥、志賀直哉、川端康成、芹沢光治良、中村光夫、石川達三、高橋健二、井上靖、遠藤周作、大岡信、尾崎秀樹そして梅原猛……。資料をご覧下さい、石川達三は第一回芥川賞作品を、遠藤周作も芥川賞作品を、私の希望を入れて、ご遺族は、寄託出稿してくださいました。嬉しかった。

 正直の所、全会長作品の出揃うまでは、むしろ現会員作品は数が揃わなくて構わないんだという気持ちを、責任者として、私は胸にいつも隠し持っていました。と言うか、目星を付けた会員には、こっちから、この作品を是非にとお頼みし、少しでも質の高い作品を、著名な人を、はやく積み上げ呼び出してゆこうと、一心でした。

 そのために、もう一つ、是非とも必要としたのが、著名な物故会員の秀作や異色作や力作であったわけです。与謝野晶子、徳田秋声、谷崎潤一郎、横光利一、長谷川時雨、上司小剣、林芙美子、岡本かの子、吉川英治など、着々と掲載してゆきました。実現し、数が増えれば増えるほど「ペン電子文藝館」の収録内容は、質的に高い水準を実現し、現会員の出稿意欲に、或る種の魅力や激励を加えて行ったと思います。実はプレッシャーも与えたと思いますが、それも意図のうちでした。

 

 こういうことも、実は、私は、初めから考えていました。

 

 われわれは、いわゆる純文学や藝術的な文学と、通俗読み物や大衆文学との、優劣や得失を競い合う、久しい水掛け論をたくさん知っています。ミリオンセラーも知っているし、隠れた名作・秀作も知っています。

 で、私は思ったのです、四の五の水掛け論を繰り返すより、一人当たりのサンプル数こそ少ないけれど、「ペン電子文藝館」という文壇的に公認された一つの「土俵」へ、全く同等に、横並びに、フェアに作品をならべて、各個に相撲を取らせれば良かろう、と。行司の判定は「読者」に求めればいいだろう、と。

 有名がえらいのか、無名はダメなのか。売れるから良いのか、多く売れていないのが本当につまらないのか。本屋の商売に尻を掴まれたようなお雇いの弁護人ぬきで、此の「土俵=文藝広場=ペン電子文藝館」で、お互いその真の魅力や実力を競い合えばいいだろう、と、そう考えたのです。

 そのためにも、今、時を得顔したペンクラブや文藝家協会の理事だの役員だのというエライ人達の作品が、せいぜい沢山並んで、それがどんなものになるかも、「ハイどうぞ」と人に観て貰えばいいだろうと考えました。「文学」を真剣に考えるなら、これほど良い、広い、平等な「土俵」はないわけで、そこで作品そのものに、立派に、公平に、いろんな取組の相撲を取らせてみようじゃないか、と。歌合や絵合ならぬ、無数に取組みの替わる「小説合せ」や「詩歌合せ」を日本語の読める大勢サンに楽しんで貰いたい。

 で、この秘かな考えを、より盛り上げて確かなモノに仕立てるべく、また新しく私の考え出したのが、日本ペンクラブの「現会員、物故会員に限る」などとケチなことは言わず、少なくも昭和十年(1935)の創立には物理的に間に合わなかった、過去の、多くの、近代文学の諸先達の作品をも、敬意をこめて此の「ペン電子文藝館」に「招待」しようじゃないか、と。

 で、「招待席」を特に設けることにしたのです。

 優れた業績をもちながら、不運にして歴史に埋没しかけている、忘れては成らない湮滅作家達も現に大勢います。しかし、そういう人達の仕事をも無形有形の足場にしながら我々の「文学史」は展開されてきました。日本ペンクラブは、それを忘れてはいない、忘れてはいませんということを、私は世界に向けてもハッキリさせたかった。そうして「日本近代文学史」の、せめてアバウトな「流れ」だけでも、作品という如実性豊かに「ペン電子文藝館」のなかへ確保し、広く世間に、世界に、示してみようではないかと、また「新提案」したわけです。むろん根から本心でした。と同時に、「ペン電子文藝館」の質的な水準を、さらにより確かに高められる足場を得たかった。

 これには、一部理事から、反対の声が理事会で出ました、「際限がない」と。また、どういう基準でやるのか、だれが人と作品を選ぶのか、客観性は保てるのか、などと。

 私は即座に、「私が選びます」と言い切り、座がシーンとしました。文学者や文学作品の選定に客観的基準など在るものかと、私は思っていますし、必要なのは、「ペン電子文藝館」の充実を誠実に本気で切望する「私」の決意が一番大事だと思っていたのです。梅原会長は「選定委員会」をなんて言っていましたが、猪瀬直樹理事が、「ごちゃごちゃ言っても始まらない、秦さんに任せようよ」と言ってくれまして、それで、ま、そのままになりました。

 いったい、こんな際に、時間をかけて慎重にとか、小委員会を立ち上げて作品の選考をなどという類の発言は、永田町でも何処の企業でも大学でも組織でもそうですが、モノゴトをうやむやに実現しないための脚引っ張りにしかならないことを、私も永年あちこちで働いてきましたから、よっく知っている。「じゃ一つ一緒にやるかい」と反対を述べた理事に水を向けると、「いやいや」と怖じ毛をふるって逃げてゆくんです。そういうものなんです、けちな文句を言う前に自分の自信作を、先ず出せばいいじゃないかというのが、私の本音で、猪瀬氏の切った啖呵もそれでした。その通りなのです。

 その「招待席」特設の話が、そんなふうに理事会で「黙認」されたのが、今年(二○○二年)の、せいぜい春過ぎでした。

 

 さ、それからの私の馬力は、我ながら、ま、鬼のようであったと、お笑い下さい。証明書は、御覧の満一年め「出稿一覧」また「筆者生年順一覧」で、何も付け加えて言う必要はないでしょう。「招待席」と「物故会員作品」は、数編をのぞいて、悉く、私が選びました。「略紹介」の記事、掲載のヘッドの部分は、総て、私が書きました。これは、まだまだ進むでしょう。誰がアト担当するにしても、もっともっと人も作品も「招待」し続けて行かねばなりません。途中なんです、すべては、まだ。

 二年度には、すでに出稿している人は、作品を差し替えるかもう一作を積み上げることが権利として許されています。すでにその出稿作も何人か現会員から届いています。

 

 そして、その「満一年」ペン創立六十七年記念の企画として、私はまた委員会を説得の上で、「ペン電子文藝館」の特設ジャンルとして「反戦・反核」文藝室を併設し、日本ペンクラブの基本姿勢を、文学作品を介してつよく打ち出してゆこうと、その「ペンの日」理事会に提議し、異議なく承認されました。その晩の「ペンの日」式典で、梅原猛会長から会場の皆さんに話されました。

 これで、「反戦・反核」の秀作は、ペンの会員でない作者の者でも拾い上げてゆくという、また一段の拡大が確定したわけです。そして、もはや、二三の、四五の作品(現在はもっと多く)が「反戦・反核」文藝室に掲示されているのです。

 

 申すまでもなく、作品を持ってきて、ペタンと貼り付けて、一人一作「上がりィ」じゃないんです。

 先ず、作家をえらび、原本原作を読みくらべ、周辺資料も参考にし、そしてこれをと作品を選定しますと、一頁ずつ拡大コピーをとります。これが難しい。見開きでとると左右が歪みやすく、もし歪んだままスキャナーにかけようなら結果がひどい、全部書き直すぐらいに文字が崩れてしまいます。 で、一頁ずつコピーをとり、慎重にスキャナーにかけます。わたしの家の古いスキャナーの識字率は、よくて90パーセント程度で、それがたとえ99パーセントであろうと、とにかくも全部、句読点に至るまで正確に校正しなければ成りません。それは「日本ペンクラブ」として、先輩作家達と読んでくださる読者とへの敬意でなければならない。

 で、私と家内とで二度起稿作品を読み直し、業者の手で用意してある「文藝館専用の校正室」に先ず掲示し、委員の何人かに指名しまして常識校正、つまり通読を依頼します。委員会のメーリングリストを通して、指摘された疑問箇所を、キーマンの私がこまかに一々原作により最終調整し、業者に一々訂正させまして、やっと「本館に公表して下さい」となります。

 少なくも一作一本ごとに、すべて、これだけの手間がかかります。この一連の作業が、これら招待作品・物故者作品の一作ずつに、総て同等にかかっているのです。それどころか、現会員の送ってこられる作品も、丁寧に点検すると間違いが一杯見つかり、一々訂正して貰わねばモノにならないのです。現会員原稿の内容は審査しません、一切。しかし、校正杜撰な誤植沢山なものを、「日本ペンクラブ」の名前では責任上出せないのが大原則です。どれほど途方もない作業量であるか、お察しが付くと思います。

 

 そこまで頑張らせた推進力は、何であったか。

「ペン電子文藝館」の作品の水準を、高く維持したい、そしてまた日本の近代現代文学は、今今の人達だけで出来ているのでなく、百数十年の久しい伝統と歴史の上に成り立っているのだと、よく再認識したい、そして文学作品にもその作家達にも、ほんとうにいろいろジャンルや色合いの差が有り、そのいろいろの真価・真相は、こういう、あらゆる垣根を取っ払った公正な「文藝館=土俵」でこそ、効果的に「相対化」してみるのがよい。「有名」に大きな顔はさせず細心に、「無名」には縮こまらせず親切・大胆に、向き合いたいと、まあ強くそう願う気持ちがありました、私には。そうでなければ、優れた「新時代の新人」は生まれて来にくい。

 日本の文壇は、また勲章だの肩書だのは、或る意味で、藝術家らしからぬ俗情と虚名で見苦しく塗りつぶされ汚れていないとも言い切れないからです。

 

 井上ひさしさんが言ったように、「ペン電子文藝館」は、「出来るのなら良いこと」なのでした。出来るかどうかという気持ちは、理事会同席の全員が持っていたと思います。それでも、出来た。

 出来た以上は、文藝・文筆の人達にとって、これはもう「悪いモノ」ではないという「道理」が立っています。そうなれば、会員の中で、自分の仕事に自負と自愛のある人は、たとえ電子化の技術は人に頼んでも、少しの費用はかけても、出稿するでしょう。出稿しない人は、「ペン電子文藝館」の趣旨に反対なのではなく、いろいろ言うでしょうが、要するに腰を引いているだけ、ひょっとして此処へ並ぶ自信が持てないのであり、それ以外は、つまりは尊大に、夜郎自大に、リクツを付けて逃げているだけのことです。

 作品を横書きで読まれたくないなんて、縦書きで読みたい人は簡単に竪に変えて読めるのですし、文学の真価が縦なら発揮でき、横では読めないなんてバカなはなしは通用しないのです。私のような伝統派のガチガチが言うのだから間違いない。源氏も枕も徒然草も活字で読んできたのですが、紫式部や清少納言や兼好さんの値打ちが下がったでしょうかね。掲載した全作品を私は横書きのママ校正しましたけれど、受けた感銘はそれぞれに大きなモノで、そんなのは縦の横のなどということでは、聊かも曲げられはしないのです。言いつのる人は、まさに趣味的なヘリクツ屋です。

 

 もう一度申しますが、「ペン電子文藝館」は、或る意味で「国民的な読書館」であり、また、会員達の「自己証明書、質的な名札」であり、同時に、ジャンルを問わない勝負の「土俵」バトルの「戦場」という性質も帯びています。容赦なく比較される。比較して良いのです読者は、大胆不敵なほどに…。

 市販の文学全集が出ても、また撰集など出ても、実に偏ったものです。

 現に「招待席」に例えば佐々木邦も入れたいんだと私が言うと、梅原会長はあんなものはと反対でした。私はしかし、佐々木邦のユーモア小説の優なるものと、梅原哲学の最たる論文とが、同じ「ペン電子文藝館」のなかで辛辣に比較されるのも、又、功徳だと信じています。谷崎潤一郎と吉川英治とを此処「ペン電子文藝館」という場で、素直に読みくらべ、こう違っている、お互いにこんな異なる長所があり、そしてそれが読む自分にとって何事であるのか、と読者が銘々に自問自答されればよい。

 世の文学全集では、こういうことが、たいてい、不可能なんです。それは、可笑しい。それでは、いけないんじゃないか。

 現会員の作品は「無審査」です。会員として審査されて入った人は、平等であり、当然平等に扱われます。その代わり鴎外や漱石らとも平等なその見返りの「責任」を、どう自分は取れるのかを、会員の一人一人が、自作を此処へ、此の土俵へ持ち出すことで、堂々と、示して貰いたい。鴎外や漱石や一葉や潤一郎や直哉や鏡花や秋声や川端らの作品と、己れとを、同等に示してほしい。(わたしの真意を誤解しないで欲しい、なにも闘争的な、競争的な意味から言うのではないのです。静かな自負の問題です、ものを創り出す者の。)己れの質と才能を、読者による比較鑑賞の前に曝し、読者達の厳しい判定に投じて欲しいのです。ソレがないから読者の質も落ちたり偏ったりしてしまうのだと私は考えています。

 実は、悲しいかな、我が国では、そういうことのやれていない・やらない文学風土があり、文学史の、安直な構築があった。

「ペン電子文藝館」に私の秘めていた意図の、最も大きな一つは、文学史への批評・批判でもあった。少なくも、その一つの方法的な「場」を、二十一世紀にドンと持ち込もうという所にあった。

 これまでの文学史的な価値評価のものさしは、「出版」資本が握ってきたのです。彼等が、文豪だの、大家だの、勲章だのをかなり恣に商品として生産し、認定し、宣伝し、管理し、操縦しつつ、商売の「タメ」にしてきた。それは明らかですから、たいした物でないのがエラソーにしていたり、力のある存在が不遇だったりは、有った。無かったとは言えない。と、思わず我ながら笑っちゃいますが、ま、実情はそんなところじゃなかったかなあ、と、申し上げておきましょう。

 

 技術的なところへ、少し触れておきます。この「ペン電子文藝館」を始める前から、私は、日本ペンクラブを代表し、情報処理学会の下部委員会である「文字コード委員会」に参加しておりました。機械屋さん、国語関係、電信電話関係、通産省関係の人達で、従来この方面のことは進められてきましたが、漸く文筆団体からの参加を要請してきたのでした。

 で、ここで私がしぶとく主張し続け、他の畑のみなをしばしば辟易させたのは、パソコンというこの通信可能の機械は、「双方向」で働くからこそ有用性がある以上、受発信の間で「文字化け」がいつまで経っても平気で出ている内は、まだまだ半端なモノだと。インフラだなんてえらそうに簡単には言わせないと。釈迦も孔子も馬琴も、国史も漢詩音曲や戯曲の譜や台本も、みな、自分で書き、それが他人の機械でも安定して受信・共有できなければ、とても威張ったモノじゃない。商取引や理工の計算にだけ役立てばいいワケじゃない、と。

 ところが、数ある文字パレットの中で、文字コードの与えられている漢字の数は、もう何万と、有りすぎるほど有るけれど、無条件に誰が誰とでも受発信の利く漢字の数は、やっぱり、今でも、たった六千字程度と変わりない。その不如意たるや大変なモノです、今でもです。「ペン電子文藝館」はそれを日々に体験し悪戦し苦闘している。

 誤解しないでください。

 もし、私が、私の機械で、私一人のために、古い文献などを再現するだけなら、これは、かなりのことが技術の駆使で出来るのです。しかし、他の人達の機械へも、それをそのまま送れるかとなると、とんでもない、夥しく化け文字を出すか、とうてい再現出来ないのです。ほんの一例が、示偏の神様の神=正字、示偏の幸福の福=正字ですら、機械環境により、欠字になります。文字パレットでいくら拾えようとも、送った先の機械には、ちゃんと出ない。出なければ、何の意味ないのです。文字を「図」として貼り付けられますが、大小不同が生じてそれはもう見苦しいことになります。小説や詩歌の場合、鑑賞の妨げになるというよりない。

 漢字だけではない。日本語表現で固有のオドリが、まだ使えません。傍点もルビも、不可能ではないが、行間が大きく乱れて不同を生じます。文学作品を「読む」には、やはり印象を損ない過ぎます。謡曲など音曲に用いる記号は、みな使えません。オコト点もだめ、漢文の返り点もみな、現状では安定してどの機械ででも再現でき共有できるとは、望めません。

 じつはお話にもならずパソコンの日本語ワープロ機能は不出来モノです。文字コード委員会で幾ら言ってもなかなか分かって貰えなかった。なら、実地にやって、残念ながら不出来の証明をしてやるぞというのも、「ペン電子文藝館」企画の根にもっていました。文筆団体として大いに今のパソコンの「漢字や記号の実装」には不満があると。せめて二万字ぐらいは実装して欲しいと、実験を突きつけているツモリなのです。

 で、そういう状況下にあって、黙阿弥の「島鵆月白波」や紅葉の「金色夜叉」を、安定したテキストで送り出すのは、とてもとても辛いことでした。その為には、工夫も妥協も便法も用いねば成りませんし、しかしながら、原作を損なうことも出来ない。

 ある文学研究者は、「ペン電子文藝館」に、「研究者の喜ぶテキストを期待」してこられました、が、私は、お断りしました。無理なんです、双方向ワープロ機能の現状では。

 それよりも、「ペン電子文藝館」は、新時代の若い読者に、昔の作品にも接しうる機会を、ふんだんに提供したい。作品本文の趣意と表現を、極力損なわないままに、「読む」「読める」楽しみを提供したいのです。したがって漢字再現が不可能なら、それなりに仮名に戻したり、こういう漢字ですよと、括弧に入れて示したり、いろいろ便法は用いますが、作品の趣意は決して損なわず、意味の通るように本文を守っています。そういう対策を、今日の不熟な機械環境がまだまだ我々に強要しているのです。オドリは、すべて、いよいよ、はやばや、と文字を重ねて表記しています。ルビはカッコしてウシロに入れています。仕方がないのです。それでも作品内容は支障なく読めます。「読める」ことを重く見ています。

 

 「ペン電子文藝館」のことは、この辺にして、今後の、「新メディア時代の文学・文藝・創作等の問題」で、少しだけ大事なところへ触れて置きたい。いろいろ有ります、が、的を絞ります。

 

 最初に、電子メディアの使用状況ですが、a パソコンを日常的に使用している人もあれば、b たまに使用している人もあり、c 自分ではパソコンにさわることのない人が、まだ大多数です。

 パソコンを日常的に使用している人でも、そのパソコンを、インターネットに、a 接続している人も、b まだ接続していない人もいて、この方が数多いけれども、インターネット利用者は明らかに増えて来つつあります。

 では、インターネットでどんなサービスを利用しているか。a 電子メール、b ウエブサイト(ホームページ)の閲覧、運営(作成)、c メールマガジンの閲読、dインターネット放送の視聴、e ネットショッピングの利用、f その他、いろいろです。自分で「情報発信」している人もあれば、サービスを利用しているだけの人もあります。

 パソコンをまだあまり利用していない、または未使用の人にも、今後、a 積極的に利用していきたい人、b パソコンとのつきあいは程々にしたい人、c 現状を変えるつもりはない人、もいて、ペンの理事会では拒絶派が多かったですね、本音はともかくとしましてね。

 しかし現に二千人近い(今は以上)会員の、四人に一人ほどが、すでにメールアドレスを持っています。しかしホームページを自分の手で、文藝・文筆上に運営している人は、百人にすらまだ間があいています。

 つまり、自分の作品を、a ウエブ上で公開している、b メールマガジン等で特定者に送信している人は、まして、日々更新し続けている例は、微々たるモノというのが実情です。

 しかしまた、c 現在は著述等を公開していないが、いずれ公開したいと思う人も明らかに増えていますし、e 将来も機械上に作品を公開する気なんかないと言う人の現に多いのも、動かぬ現実です。

 ウエブ上で公開している場合の「形態」ですが、a 一人の独立した形で、b 同人誌的に、c アパートのように共同で、d ウイークリーマンションふうに期間限定で業者に寄託して、など、いろんな形があり得ます。

 その運営方法もさまざまでして、a 自分で出来る人も、b 出来る友人知人に頼んでいる人も、c 専門の会社や出来る部下に委託している人も、あります。

 さて、作品をインターネット上に公開している場合、有料発信か無料公開か、これは一つの要点でして、a 閲覧(受信)は有料という例も、b 閲覧は無料だがダウンロードは有料である(、ないし一部は無料だが、全文だと有料という)例も、c有料の特定会員のみに対して公開している例も、私のように、d 全くの無料 の例もあります。「ペン電子文藝館」は、はっきり「無料公開」としています。

 なぜ「有料化」が一気に広がらないか、これには技術的な有効性の問題と、読者心理の問題と、インターネット環境のワールド・ワイドに広大であることなどが絡み合っているわけでして、今少し先へ進まないとより精確な検討すら、今は、難しすぎると考えています。またこの辺に、「著作権維持」と「パブリックドメインという思想」のせめぎ合う接点があり、アメリカでも、憲法まで持ち出しての激しい議論がいままさに本格に始まったばかりかと思われます。

 

 これからのインターネット環境での文学活動は、いろいろに可能で、その形態は、機械環境やツールの種類により、さらに自在に広がるかも知れませんが、根本的なところへ踏み込めば、例えば一つのとても難儀な問題があります。

 それは、インターネット作品公開に絡んだ、「編集」また「編集作業者」の問題です。

 

 当然ながら、パソコンのインフラ化は、技術の進歩につれ一層進展してゆくでしょうし、「紙の本」や「紙の雑誌」だけでなく、電子化作品によるいわば「電子本」や「電子雑誌」が、文学・文藝の世界に占める比率は増してくるモノと思わざるを得ません、が、また、そんな簡単なモノでないのも厳然たる事実であります。評価に堪える、鑑賞に堪える文学・文藝が、どれだけ現にウエブ上に公開されているかとなると、過去の「紙」の作品や本からのただの「電子化」例は巷に溢れるようでも、「誕生の場」をはなから電子環境に得て、根付いた、評判の作・名作は聞いたことがない。電子的に書かれたモノで、あれはホントに佳いですねえという作品は、有るのでしょうが、無いに近いのは現実の事実です。そんなものは、ハナから認められないよと言う人も、編集者も、いるのではないか。

 

 私は、ペンの電子メディア委員長になってほどなく、もう数年前ですが、理事会に対し、一つの、そう、画期的ともいえる提案をしました。ペンの会員になるための資格として、従来、不文律のように「著書二冊」ということを言ってきました、が、それに準じた、「電子の場での公表作品」も、正当な審査対象として「認める」ことに決めたのです。つまり、日本ペンクラブという世界的な文筆家団体の「会員資格」に、「電子作品」「電子本」の市民権を、正式に承認し決定したのです。「紙の本」だけの時代では、もはや、ないのだと。

 言い換えれば、これは、インターネット上に公表される創作の、作品の、「質」を大切に「問題にするぞ」と言う宣告でもあります。

「紙の本」では、ふつう、編集者が原稿を吟味し、出版者が売り物として刊行する。それで、或る程度の「質的保証」がされていることになっています。ま、そうアテになるモノではないと、だんだんバレて来てはいたのですが。読者もそれは承知していますが…。

 ところがインターネットというウエブの世界で作品を公表するという行為は、極端に言えば、機械の操れる人なら誰にも、無条件で、容易にその真似事は出来るわけです。現に、相当な量の「小説らしきもの」「詩歌らしきもの」「エッセイらしきもの」はインターネットに氾濫しています。関心があり覗いても見るのですが、遺憾ながら、また当然にも、それはもう殆ど全部が屑同然の、イージィなモノばっかりです。間違ってもペンの会員に「推薦」してあげたいなと、気をそそられる作品は、無い。無いにひとしい。有るとも思っていますが、微々の微々です。

 正直のところ、既成の「紙の本型・出版主導」の文壇に籍を置いている作家なら、なにもインターネットのウエブに頼らなくても済んでいます。出版者で従来型の「紙の本」にしてもらい印税をとったり原稿料を稼いでいれば、生活できましょう。

 しかし、私などの殊に憂慮しますのは、新人が、いよいよ、ますます、出て来にくいことです。で、勢い、インターネットを利用しようとする若い人は増えてくるでしょう。だが、そこでは、「編集者」の、厳しい、「新人虐め」などとすら言われたきついチェックが、激励が、協働が、まるで利かない働かないわけです。

 どういうことか。要するに、大甘の自己満足や、自己批評欠如が露呈されて、作品の質の底上げが利かない。出来ない。垂れ流し必至、混乱と醜状が露わになります。

 これを、どうするのか、が、文学史的未来への展望で、いちばん深い大きな、懸念・悩ましさになってくるのです。それが新時代というモノだと言っていて良いかどうか、です。そういう考え方の人も、ある。

 

 創作とは本来が「自己批評」です。自己批評の力のないモノは、例えば自分の原稿の推敲もロクに出来ない。自分に甘えるからです。そして、さらにそこへ「編集者の批評」が加わっていた。ほんとうに良い編集者は、真実ありがたいものでした。

 私の持論ですが、新人の時期に付き合うほんとうに良い編集者とは、強い強い「弁慶」です。七つ道具を振り回し、ひよわげな「牛若丸」の作者を、追い回し、追い回し悩ませます、が、最後には「負けてくれ」ます。(負けてくれないことも多いのですが。)その時、作品はかなり、更に、良くなっています。そして作品がやっと世に送り出された。そういうモノでした、私の出た頃は。

 インターネットのサイトでは、こういう「編集者」が不在です。せいぜいのところ、共有のサイトで、「仲間」がいて観てくれるかどうか位です、が、仲間自体が仲間褒めをしてしまう悪弊は、いわゆる同人雑誌にもありましたろう。絶対に仲間褒めをやらないグループからの方が、世に出る人は多かったでしょう、経験がないので分かりませんが。

 自己批評する気がなく、編集者の目も経ていない、文字通りただサイコロを振り出しただけの「出たら目」電子作品がいくら氾濫してみても、文学・文藝の前進には成りません、害でこそ、あれ。

 この問題に、ひとつ解決策といえるかもしれないのは、きちんとした「責任編輯者」の付いた「e-文藝誌」が出来ること。私自身、そういう思いから、自分のホームページの中に、入れ子型に「e-literaly magazine湖umi」を創設して、私の「責任編輯」制で、投稿を受け容れています。掲載までに、メールで繰り返し検討し合いながら納得ずく掲載してゆく。同時にサイトの存在を、識者・読者にいろいろに伝えるというやりかたを始めました。質を高く維持するためにいわゆる「招待席」ふうにこれぞと思う人達からも原稿を頂戴しています、沢山。

 こういう「文藝の場=電子文藝道場」が幾つもウエブ上に出来て、そこで「編集」ないし、それに準じた質的なチェックを受けるということが、是非とも必要ではないかと私は考えています。心あり力有る作家や批評家や詩人達が、また、これがもう一つの方法なのですが、ベテラン編集者が、一人でも複数ででもいい、同じような「場=道場」を開いてくれて、そういうところから、先にも申しました仕方で、例えば「日本ペンクラブ」や「日本文藝家協会」の「会員」審査に挑戦してゆけばよい。

 その点、もう数多く出来ている電子出版社の顔ぶれを見ていると、機械の操れる技術者達が主として実務にタッチし、仕事はといえば従来の「紙の本出版社」の「下請け電子化」をせっせとやっている。あるいは、元版を写真版にして不細工に貼り付けています。イージィの極みで、これじゃ、電子時代の自律した出版社とはとても謂えない。誇りも見識もない只の下請け屋・版下書き屋に過ぎません。

 出版社という以上は、そして新世紀の新文学を機械環境において期待するのならば、そこには「編集」の実力が、是非とも欲しいのです。

 単独・単身で、優れた作品を創り出せる新人のいることは、いわゆる新人賞にいきなり当選する人もあるので明らかですが、また極めて極めて数少ないことも明白です。「新潮」や「群像」や「文学界」等に匹敵するような新たな「e-文藝の場作り」がいまや必要不可欠であり、追々に増えてくることでしょう。こういう場と場とが、きっと神の文藝芸誌同様にやがては競合し始めることでしょう。従来の出版社とはこういうものという常識を、敢然と止揚して、真新しい別の「電子出版活動」が誕生しなくてはウソです。

 これは、ペンクラブでも検討し始めており、「日本ペンクラブ電子文藝賞」もいずれ設定されるだろうし、なによりかより、要するに電子の「場」から、一つでも良い、早くほんとうの「名作」が生まれることが必要なのです。それが、いわば新たな文学世論を盛り上げます。

 小泉八雲が帝大の講義で、最初に持ち出したのが「世論」の役割ということでした。彼の言うとおりに謂えば、真に名作が出れば、いっぺんに視野は変わる、評価も変わる、と。プーシキンやトルストイやドストイエフスキーやチェーホフが出る以前のロシアを、ロシア国家を、ヨーロッパ人が見ていたイメージは、まさに動物同然の野蛮国を見るような容赦ない偏見に満ちていたと。ところが大作家達の名作が翻訳されてくるや、一夜に様変わりし、瞠目の敬意を生み出した、と。百万の外交よりも絶大の力であったと八雲は、優れた作家と作品の誕生を、日本の文壇にも切望していたモノでした。

 

 さて、話題を少し転じますが、パソコン環境での「編集」という言葉には、働きには、今申しました「紙の本」時代から引き継がねばならない、「編集」という名の「基礎的作品批評」だけでなくて、それとは、全く別の意味のような「編集」も、存在するのです。これが、また、大きな、厄介な問題に絡みます。

 機械を扱われる方はお分かりです。文章を作成しますワープロソフトには、例えば、スクリーンの上、左の方から順に、「ファイル」「編集」「表示」「挿入」「書式」「罫線」「ナビ」「ツール」「ウインドウ」「ヘルプ」などと、各種の機能表示があり、それらを一つ一つクリックすると、また、いろいろ出てきます。例えば「ファイル」では、「上書き保存」とか「名前を付けて保存」とか、「印刷書式」とか「印刷」とかと出ますし、「編集」には、「コピー」「取り消し」「貼り付け」その他いろいろ出てきます。

 こういう機能を自由に使い分けますと、一つのコンテンツ=作品を、ほぼ自由自在に「切り貼り」したり「削除」したり「貼り付け」たり、いわゆる「カット&ペースト」といわれる、極めて便利な作業がラクに出来ます。ラクラク出来る。

 ですが、その便利さが、自分の仕事にだけ使えるなら問題ないが、他人の作品・文章・文書・メールに対しても同様に自由自在に出来てしまう。なんとも言えない難儀で厄介で、迷惑千万な、著作権や、人権や、セキュリティーにかかわる、時として「犯罪行為」にまで達する「編集行為」が、いともいとも簡単に可能なのです。

 そういうのを総称して、パソコン上では「編集」と呼んでいる。そういう編集の、技術的に自由自在なプロが出来て、「製作編集プロ」の商売を盛んにしています。

 こういうプロの手にかかれば、笑い話ですが、谷崎さんの「細雪」という小説を、人の名前や知名などずんずん取り替えて、アメリカ人の、ニューヨークやシカゴを舞台にした別の物語にパロディにしちゃうことも出来るかも知れない。

 あらゆる「文書情報や表現」を、「パロディの原料」にしてしまえる「編集機能」が機械の中に用意されて活躍しているという次第です。

 これが、原理的には、ワールド・ワイド・ウエブの上で可能なのですから、さ、此処から、機械環境上での「著作占有権」や「人格権」や「財産権」が、いったいどう守られるのか、守れるのか、どういう「対策が必要」という、それはもう気の遠くなるような問題が、重々関係者の世間では早くから意識されていて、しかし有効な「手」は、全く全く、まだ手が付けられないでいるというのが今日只今の現状です。

 ま、この辺で、ついに「音」を上げさせていただき、長話を終わります。すべては、「これから」だという意味を込めまして、プツンと終わります。ご静聴、感謝します。

(2002.11.30 14:00 於・大正大学巣鴨校舎三号館323階段教室)

*講演から一年経過しているけれど、「ペン電子文藝館」を廻る状況は質的には変わっていないと判断した。会員と限らず、読者からも討議の声が起きて欲しい。電子文藝館館長として今苦心し切望もしているのは、文藝館への訪問読者との本当に有効な交流の窓の開け方である。所謂掲示板は設置しない。窓はロゴとして創ってあるが、まだ窓を開いていない。開き方が難しい。秦 (2003.12.29)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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秦 恒平

ハタ コウヘイ
小説家 1935年京都市に生まれる。1969年小説「清経入水」で第5回太宰治賞受賞、第33回京都府文化賞受賞、元東京工業大学授、日本ペンクラブ理事の時電子文藝館を創設した。

掲載の一文は、開館以来「ペン電子文藝館」企画と運営の責任理事として、芸術至上主義文芸学会の2002(平成14)年秋季大会に請われて講演した記録(2003・11)である。