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初 恋 原題・雲居寺(うんごじ)跡

 一

 木地雪子の父親が、あのへたな浪花節語りのなんとか愛八とわかったのは、高校一年の夏休み中だった。毎年、地蔵盆の中日(なかび)に町内の大人が宵の余興に呼んできた。

 愛八は一見愛想(あいそ)のない細面(ほそおもて)にぐいと眉毛の濃い四十男だった。へんに威があって、そのくせ上半身を(しな)わせるおかしな歩き方をした。建仁寺町(けねんじまち)に家があるというこの男の、浪花節語りはあれは内職、と、噂どおりに三年四年も聴いてたしかに巧くない。ラジオ育ちで虎造や勝太郎の名調子が耳にあり、まだ小学生、中学生はさすがに黙っていたけれど、すこし年嵩な剽軽者(ひょうきんもの)の大工の(いッ)ちゃんや扇屋の「ドラ」などは、面白半分、口汚くよくやじった。すると愛八は「塩原多助」でも「天保水滸伝」でもいいしおにうちきり、逆に即席の舞台から腕などまくってぽんぽんやり返す、その仁輪加(にわか)めく掛合いの方が例年大受けで、今年は誰をという時期になると「愛八」「愛八」と一つ覚えに子どもは愛八びいきだった。町内会長以下大人は、私の父も、一応顔をしかめながらいっそ安あがりなのを徳にして、おもな余興がこれは決って映画なら、もう一つは結局愛八を呼んだ。あとは、景気のあがらない当世漫才だったり古くさい西洋手品だったりした。

 だが愛八の人気は、へたな浪花節をやじり倒せるからではなかった。

 一つには曲師のおばはんのふしぎな貫禄だった。めんどくさそうな無表情ながら、愛八にくらべても化粧気のない顔のつくりがふっくら大きくみえ、掛声がよかった。妙に励まされるような、言いがたい陽気があった。やじられて愛八が立往生したりやり合っているあいだ、知らん顔で三味線をチリチリ爪弾きつづけている音締(ねじ)めも、しんと静かにはなやいでいた。ちょっと気どってみたい大人が、いっそ愛八抜きで三味線を聴かせろと持ちこんだ時、そっけなく(ばち)でちょいと横に払った風情に子供ながら私はえらく共感したこともあった。

 そんなわけで浪花節はたいがい、ほんのさわりを、そのかわり六、七曲はつぎつぎ語ることになり、目先は相応に変った。が、なにより浪花節をすませてから(つけたり)の藝を見せる、これが必ず拍手をあびた。浪花節が内職ならそれは愛八の隠し藝、だが、ちょっと名づけようのない本物の変った藝だった。

 今なら私は躊躇なく物真似と言う。ごく初期の猿若を考える。声色(こわいろ)とはちがう。ほとんど口は利かなかったが、だから.パントマイム、と洒落ても言いにくい。「洗練」という二字にはほど遠く、ただ黙々と鳥・けものの姿態をまねた。とくに自分が(かも)した猿酒に猿が酔っぱらう場面など、よほど猿の藝が得意だった。仔猿が酔って、二匹の犬を相手に喧嘩する。細い愛八のからだがちっちゃくまるく毛を逆立てて、四つ這いに走ったり、二本脚で立ったり、木に登って下で喚く犬をうかがう容子に子どもも大人も息をのんだ。ちょっと猥褻な身ぶりがかならず混じるのさえ、ただ眼を(みは)って見た。

 途中、一つ二つ短い歌をうたったのが、節はへたな「内職」どころでなく面白かったし巧かったけれど、何ごととも意味はよう聴きとれなかった。

 最期に人に矢を射かけられて梢から真逆様に落ちて猿が死んでしまう。とぐろを巻くようにはじめ丸く小さく、それがじりじりと伸びて伸びきってすっかり死んでしまうのを時間をかけて演じた。路上の客は声一つ立てえなかった。拍手は、一と呼吸のあとわっとわいた。

 紋付袴を脱いで愛八は色の浅い襦袢姿になっていた。帯は黒いのをかんたんに締めていた。ぬいぐるみは着ない。扮装もしない。手拭いと扇子をたまに巧く使った。舞台といっても旧家のすこし引っこんだ表に、道路むきに三間と一間半くらいに造ったにわか桟敷のようなものだ。が、猿が、犬が、時に鳶や雀がそこで活きて働いた。そして最期に猿が死んで終る、それが愛八の藝だった。胸にこたえた。

 ああいうのを何というか、私は大人に訊いたことがある。父はちょっと考えてから、「のろんじ、やな」と呟いた。低声(こごえ)で「かったいや」とも言った。「のろんじ」という発音が不思議だった。「かったい」の語感には、片輪な病気もちという気まずい響きがあったので頷ききれなかったが、「のろんじ」に妙な実感があった。

「どない字で、書くねん」とまた訊いた。父はよう答えなかった。

 愛八が、はやくに松島屋の社中を破門された男という噂も大人はしていた。先代仁左衛門は世になく、関西歌舞伎の看板役者だった我當(がとう)がまだ襲名まえだった。今の我當がさらにその息子で、私と同じ中学にいた。木地雪子も同じ学年にいたが、我當とも雪子ともほぼ無縁に三年間を過ごした。

 卒業前の一年間私は雪子と同じクラスだった。が、向うはいつも眼から下は穴に籠っているような子で、教科書は上手に読むし、たいがいの男子より速くも走れるのにそばへ行くと穴にひっこんだ。それでも時として引っこめかねた頭をこつんとやるくらいのことはあったが、べつにいやな顔はせず、眼が合うと眼だけにこっと笑いさえした。しかし穴から出てくる風情はそぶりもなかった。修学旅行の(しおり)づくりを手伝わせようとしたがだめだった。私が演出役を引き受けたクラス対抗の劇にも出てくれなかった。あと押しをする友だちもなく、本当にこんな木地雪子が、一年二年生の頃にも学校にいたかと思うくらい目だちにくい生徒だった。

 いないわけがない、入学式の日にもう私は雪子に迷惑をかけていた。式のあとクラスごとに教室に入るとすぐ、最前列に着席していた私は、担任の女先生に職員室の机から「茶色い袋」を持ってきてと頼まれた。教室は二階だった。私は教室を出るとせわしなく廊下を走って講堂の前の東階段へ急にまがった。正面衝突は免れたが、なぜかそんな時分に一人で上がってくる木地雪子(とあとで知った)の肩をかすり、あっとしびれたような無念の表情でその女生徒は粗忽な私をすばやく見た。

「あ、勘忍(かにん)――」

 雪子は電気に打たれたように左の腕をもう一方の手でぎゅっと握ったまま、「どもないか」と問う私へ形ばかり頷くととなりの教室へ、うしろの戸から肩をすくめて入って行った。(ほそ)い手だった。

 三年間、あの衝突一件だけが印象にあった。かすかな借りの意識だった。が、卒業すればしまいだ、木地雪子は高校へ進学しない生徒だった。勤めるかどうかも知らなかった。卒業式の日は黒いビロードの、ところどころ白いレースで飾った存外愛くるしい洋服を着ていた。すこし肉がついて背丈もあった。卒業生答辞を読んで自分の席へもどる途中、ふと雪子に見られているのに気づいてそう思った。髪を短く切りそろえていた。

 高校一年の新学期は、教科書を拾い読むだけでもさまざまに刺戟的だった。生物、解析1、漢文、とりわけて日本の古典。万葉や古今の和歌と並んで「仏は常に(いま)せども (うつつ)ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ」とか、「舞へ舞へかたつぶり 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に (くゑ)させてん」などという今様(いまよう)を「へえ」と思って読んだが、「のろんじ」は知らなかった。かりに「呪師(ずし)」と書かれ「呪師の小呪師の肩踊り」と謡われていても、それが「のろんじ」と見当をつけて読むことはできなかっただろう。むしろ、次のこんな歌謡が教科書に出ていたら、猿若や猿曳きのの字も知らなかったが、少くも愛八と、近づく夏休みとのことは思い出した気がする。

御厨(みまや)の隅なる飼猿は (きづな)離れてさぞ遊ぶ 木に登り 常盤(ときわ)の山なる楢柴(ならしば)は 風の吹くにぞ ちうとろ(ゆる)ぎて裏返る

 猿は馬の守り神だった。古代から武士は馬小屋に生きた猿をつなぎ、門附(かどづけ)の呪師たちに猿曳きの(はら)いの舞を舞わせたものだ――。

 ――その夏休みも終り近く、八月二十一日から三日までが町内の地蔵盆だった。但しもうそこへ昼間から顔をだし、緋毛氈の床几(しょうぎ)だのお地蔵さんを祭ったお供え物の前で中学生小学生あいてにトランプやゲームで遊ぶ気になれなかった。福引、西瓜割り、午前午後のお八つの割当からも高校生ははずされていた。が、中日(なかび)の宵の余興は大人子供の別がない。私は、なんとなく愛八の藝にこれまでとちょっと違った興味らしいものを持ちはじめていたし、映画も今年は現代物らしいので観てみる気だった。

 映画館があったのではない。交通どめした道の両側から適当な幕を紐でつり、界隈(かいわい)の電灯をけして路上でうつす。それを町内中がめいめい椅子持参で道路なりに細長くなって観た。蚊がきた。が、家にいるより格別涼しかった。夜空が青かった。映画のあと、盆踊りが夜更けまでつづいた。

 その伝では愛八の藝もあくまで仕出しだった。が、道具屋から借物の床几(しょうぎ)を並べて愛八用に即席の舞台を道路わきに造ってやるのを、誰も厭わなかった。両袖に形ばかりの幕も張った。そんな作業じたいが一年の嘉例の如く、祭儀めいていた。

 京都ほど早くに小学区域が整い、まだいくつかの町内にひしと区切られた街もすくないが、その町内ごとにきっと地蔵か大日如来の小祠がお()りされていて、盂蘭盆(うらぼん)がすみ、十六夜(いざよい)大文字の送り火を見とどけやがて二十日すぎると、今度は町内中の子どものためのお盆、つまり京都中が地蔵盆を迎える。

 万端大人の世話で定めの場所へ(ほこら)からお地蔵を移し、然るべく壇を造り毛氈や提燈で飾って手厚く祭る。露地があれば、床几は露地うちに並べ、なければ表の道においてそれにも赤い毛氈を敷いた。子どもはおじゃみ、竹返し、綾取り、ぐっちょっぱ、せっせっせなどで順ぐりに遊び、トランプ、将棋、双六までめいめい持ちだした。二た組に別れて「お国は日本」「お商売は」などと騒々しいゼスチャー遊びもした。そして随時に仏前のお下がりが配られた。まだ芋するめか駄菓子の時代で、トマト、梨、わけて西瓜はなかなか眼をひいた。どの家が西瓜をお供えするか見ものだった。バナナというものがまだ、なかった。ほおずきがやたら朱々(あかあか)と盆に盛ってあった。

 各戸に応分の寄付を募って福引や余興の費用にあてた。軒ごとに思い思いの絵を描いた燈呂をかけ、それをまた一つ一つ見てまわるのが楽しみだった。お地蔵を祭った前の路上には五彩の大燈呂が高々と吊された。古いレコードを朝からかけっぱなし(蓄音機は例年私の父が据えた)、夜になると盆踊り唄に変る。東町も西町も同じ、裏ン町も同じだった。私は欠かさず盆踊りに出ていった。物足らなければよその町内へ出張った。余興も、今年はどこの町内が面白そうとわかるとどっと子どもが流れて行ってしまい、そうさせまい大人はいつも趣向に苦心が要った。

 それなのに欠かさず愛八を呼んだのだから、チョンガレめく浪花節はご愛矯として、どれほど人気の「のろんじ」か、一度呼ばなかったらよそへもって行かれるのは必定だった。

 毎度のとおりとは承知で愛八の時間まで、好きな青紫蘇をたっぷり、氷のかち割りもろとも冷素麺(ひやそうめん)(いかき)からじかにすすりこんだ。父は太った腹を盛大に出して縁側で寝入っていた。冷房もテレビもまだなかった。暑い盛りは寝てしまうのが勝ちだ、眼が醒めるとたらいで行水した。そばを家の(ぬし)の蛇が這い、庭笹がそよともそよがなかった。

 愛八の曲師をあい勤めるのが、今年は若い声やなと思った、それが木地雪子とは想像もしなかった。みな、しんとしてしまっていた。

 雪子だと私にもわかったのは、愛八がぞろぞろ黒い着物を脱いで、さてまた猿酒を醸すか、と思った矢先へいきなり「娘、愛丸」をせまい舞台に手を取って引っぱり出し、「サービス」の藝を見せると道化そこねて大みえ切ったからだ。町内に同学年の男子はほかになく、しかし中学時代に机を並べた女生徒が四人もいて、さすがにさっきから「木地さんや」「木地さんやんか――」と囁きあうらしかった。

「愛丸」の雪子は神妙に、愛八の寂びれた小歌で短い舞を二つ舞った。面白おかしいものでなかった。やはりなにか物真似ではあるらしく、今なら、「いとし殿御の御座るやら、犬がイヤ犬が吠え(そろ)四つ辻に」と「靫猿(うつぼざる)」ふうの小舞を連想しただろう。歌は(なま)っていたし、物真似もものを食ったり泣いたりする恰好がえぐくて、狂言よりもっと古い、やはり猿楽者(さるごうもの)門附(かどづけ)か大道藝かと見ただろう。むろんぬいぐるみ、つまり「かぶりもの」はつけていなかった。ただ「のろんじ」「かったい」と聴いた父の呟きが耳に蘇るばかりだった。

 雪子の出番は私の中をあっという間に過ぎて行った。雪子がかつて見知らぬ表情(かお)をしていた。

「お父チャンより、巧いやんか」

 扇屋の「ドラ」が叫ぶと笑って拍手になった。雪子がどんな顔をしたか、一瞬眼をとじて見なかった。入れ代り急に親方のていで愛八がまた出てくると、やじが増えた。迎え撃つかまえで愛八はボクシングの恰好をしたが似合わない。のに、真打(しんうち)めいてことしの愛八は柄が大きく見えると、隣でくすくす笑いをしている女の大人もいた。

 私は妙に気が動顛していた。そのくせ正確にからだだけが人をかきわけていた。なんとなくぼうっと舞台のかげで、父の藝の終るのを待ち顔の雪子の背後(うしろ)へ寄って行った。

「木地――」

 低声で呼ばれて雪子はちいさく振向いたが何者も認めえなかった按配に、また背をむけ、ただ佇んでいた。雪子が着物姿なのにやっとはっきり気づいた。胸が急に早く打った。

   二

 毎日曜ご苦労さまでした。愛聴また愛聴じつにたのしませて頂きました。梁塵秘抄の各歌謡、耳新しさにいまさらの如くおどろかされし事もさる事乍ら時折りの後白河院観、これがまた大いにわが意を得た次第でした。もつともつとつゞくものと思つてゐましたのに、けふで「千秋楽」とはがつかりでした。せめて三時の再放送で余韻を味はふ事に致しませう。まづは右のみにて……

 都合百首を撰んで話した六週め、最後は千秋楽のためしに「近江なる千の松原 千ながら 君に千歳(ちとせ)を譲る譲る」とみな譲って「ラジオの前の皆さん」の健康を祈った日曜日の、次の次の日に知った人からハガキをもらった。同業のお年寄だ、伊馬春部さんだ。どきっともしたが嬉しかった。

 数日前、その最終回分の録音に放送局へついてすぐ、ロビーでKという女優を見かけた。ぽつんと、ソファに腰かけていた。待ち時間なのか、私の約束も午後一時にまでちょっとあったから、すこし離れて局側の相棒を待った。

 本業は歌手らしいが、Kの歌をうまいと思ったことがない。ドラマでは時おり眼をみはる演技を見せた。美しい。が、顔は蒼澄んだ黄色をしていた。ほっそりと伏し目の表情にそんな顔色が暗い沼のように光ってうつる。沼のほとりに木があれば、登って覗きこみたい静かさで、Kは、凝然(じっ)と腰かけていた。

 彼女に心ひかれて十何年になるか、ある不当に虐げられた女性の恋と結婚とを、テレビでねばりづよく演じていたのが最初だった。息をのんで観た。歌わせるとやや軽薄になる顔が、見ちがえるほどの暗さ重さで底光りしてヒロインの苦渋と敢闘を支えていた。そして支えきれなかった。妻に気づかれず、あの時、私は涙ぐんだ。

 Kは視線を感じたらしい、一度眼が合い、だが両方に折良く、いや私にはもうすこしべつの期待もあったが、とにかく待ち人があらわれた。

 エレベーターでも一緒になった。会釈した。右の眼に並んで、ちいさな黒子(ほくろ)があった。かすかに悩ましかった。五階でさきに降り、相棒が「Kですね」と言った時も悩ましかった。

 Kはあれ以来、たわいないホームドラマばかりに出ていた。歌に専念したいという顔写真入りの囲み記事を見たこともあった。今逢った、ああも丈高い女とは思ったことがなかった。

 ディレクターは、また一週間のうちに局へとどいた反響のいくつかを聴かせてくれた。私の方へも同趣旨の電話があったと話しながら、以来、ともすると木地雪子のことを考えている自分が少々わずらわしい。――あれは前回の放送がすむとすぐだった。日曜の朝十一時すぎ、家中で遅い朝食(あさ)のまま食卓に娘のポータブルラジオを持ちだして、録音ずみの話を聴いていた。

「いまのご放送、源資時(みなもとの・すけとき)のおはなし面白うお聴きしたんですけど、もちょっと詳しイなにかにお書きになったン、ございませんですか」

 若くはない女の声だった。「いえ」と言ってあとがなく、妙な愛想を言うのもいやだった。

「そうですか――どうも、ぶしつけにお呼ひたて致しまして。失礼さんでございました」

 また「いいえ」と返事し、どこからかけているか訊ねた。案の(じょう)京都と聴いて「ほう」とはずんだが堪えた。雪子が電話してくるはずはなかった。逢いたかった。

 後白河院と源資時。そして、梁塵秘抄――。その中にこんな歌があった。

()とも(ははそ)の紅葉 な散りそよ 散りそよ な散りそ 色変ヘで見む

 冬が来ても柞の紅葉よ、散るなよ。散るな散るな。色美しいまま見ていたい――。苦しい暗い季節へ運命が動く。風が吹く。その予感に(ふる)え、愛しいものを呼んで、若者は澄んだ歌声を響かせていた。

 こんな歌もあった。

東屋(あづまや)の つまとも(つゐ)にならざりけるもの故に なにとてむねを合はせ()めけむ

 東屋、その妻そして棟。しかも「つま」は妻で「むね」は胸。妻とも、吾妻(あづま)ともとうとう呼ばれずじまいに、それなのにわたしは、どうしてあの人の胸とわが胸を合わせ素はだで抱きあって寝るようなことをしてしまったのか――Kとも雪子ともつかぬ幻に向って喋りつづけながら、半ば醒めてひとり録音室のなかで後白河院を、とりわけ資時のことを、私は思っていた。

 源資時の名前は早くに知っていた。ただ、知っていた。

 平家物語に按察使(あぜち)大納言源資賢(みなもとの・すけかた)という人物が七、八度も顔をだす。資時はその資賢の子として右馬頭(うまのかみ)ないし右近衛少将兼讃岐守という官職付きで三、四度登場する。が、父は逸話に富み、ともかく人物らしいものも書けているのに子息資時の方はただ名前が出てくるだけで、本文に見るかぎりとくべつの印象がなかった。但し岩波文庫『平家物語』には山田孝雄博士が物語の作者について、文才を謳われた信濃前司行長が(ことば)を書き、生仏(しょうぶつ)という法師に教えて語らせたという徒然草の説をはじめ諸説抄記のうえ、およそこう解説を書いていた。

 さてその「生仏」という人物のことは今もって明らかでないが、校者(山田博士)は源資時の法名を「正仏」といったのが誤り伝えられたかと思う。と言うのも資時入道正仏は郢曲(えいきょく)、早い話がお神楽などもろもろ、歌唱の藝を伝えた名家に生まれて天下無雙の達人であるうえ、行長と同様に慈鎮和尚の庇護をうけた人物ではあり、二人が、時流の変転に(さと)い”歴史家”慈鎮の膝もとで日ごろ顔を合わせていたのは疑いもない。かたがた兼好法師のいう「平曲」ないし平家物語の濫觴(らんしょう)説もおよそ的を射たものと想ってよい、と。

 いま手もとの同じ本をみると、昭和二十六年一月十五日発行の上巻が六拾円、下巻は九拾円で、新制中学三年生三学期の早々に年玉をはたいたのをはっきり憶えている。晴がましく頬紅らむ心地で買い求めてきたその本は、同じ教室にいた女友達が黙って一と晩家へ持ち帰り、それぞれに、絵ともつかぬ文様を色鉛筆で描いた紙カヴァーをしてきてくれた。今もそのままの形で二冊、座右にあるが――。

 源資時は平家物語の巻第七「主上都落」の後段および巻第八「山門御幸(ごこう)」の冒頭に顔、というより名前を出していて、記事は同じ一つ事を語っている。寿永二年七月廿四日の夜半、木曾義仲の兵が都にせまり平家は法皇と主上(しゅしょう)(とも)に奉じて西国へと(はら)をきめたのが、どう洩れ聞えたか法皇後白河はひそかに御所を出て鞍馬山へ、そして比叡山東塔の南谷円融房へと遁れてしまう。その時、「御伴(みとも)」につき随ったのがただひとり「按察使(あぜち)大納言資方(賢)卿の子息右馬頭資時計(ばかり)」だった。

 歯痒いほど、それきり、ではあったが幼な思いに、もし法皇がここで安徳天皇ともども平家にかすめ取られていたら源平のその後の命運はどう変っていたか、厳島に平家の幕府ができてもいたかと、それほどきわどい一度きりの機会だけに、せまる義仲、落ち行く平家、といった転変の烈しさとは異る、主従二人の「道行」とも呼んでみたい(えにし)の糸に私は手さぐりに触れたかった。物語本文のあきれるほどこのさい口数の(すくな)さも、むしろ願いに添うていた。のちに法皇の葬儀に、出家した「資時入道」が選ばれて棺をかつぐ人数に加わっているのを藤原定家の日記で見つけた時も、咄嵯に寿永二年七月廿四日「夜半(ばかり)」の闇夜の道行を想った。闇の底に、二人の仲に、もう梁塵秘抄がひそんでいた。

 美声は(うつばり)の塵を浮かばせるといい、撰者後白河院の熱を帯びた口伝(くでん)といい、梁塵秘抄は、名からしてあくまで今様の歌を唱う技、唱う藝として著述の意図をぴったり言いあて、歌詞篇十巻はむしろ付録の資料だった。本を手にしたのは東京で勤めはじめて数年経ってからだ、面白かった。何度も読んだ。そして、Kの演じる女をテレビで観たのだった。

    *

 譬えて申すのもナンですが、今、皇太子や天皇がいわゆる流行歌、歌謡曲のファンかどうか、私は存じません。ましてその種の楽譜や歌詞を(あつ)めて分類したり、自分で唱い方を研究したり、御所や宮中に歌手を招いて、連日連夜、唱ったり唱わせたりしている、という話は聴きません。

 ところが梁塵秘抄の御口伝を読みますと四宮(しのみや)の雅仁親王、のちに後白河天皇、は「十余歳」の若い頃から夢中でそれも御所の中で、今様(いまよう)、つまり流行の歌謡を好んで練習に励んだ、「好んで怠る事なし」。そのためには遊女、くぐつ、白拍子を問わず呼び寄せて習ったと、はっきり書いてある。

 歌を唱えば、(おの)ずとそこに上手と下手ができる。また、誰がより正しく唱うかという、技藝としての正統ができる。

 後白河院は、誰がより正しく唱うか、誰が、誰からそれを正しく()け嗣いで来たかという点に、たいへん気を配った記述を口伝の巻第十でしております。なぜか。すぐれた技藝がすぐれた師弟を通じてすぐれた伝承を遂げ、そこに藝や技の正統を形造りたいという強い願望を持っていたからです。同時に、その正統の一と筋の中に後白河院自身の天才を、確実に位置づけたい熱い願望も持っていたからです。後白河院にはちょっとした流儀の頂点、家元、の意識がございます。言い換えれば藝の頂点としての自負がある。貴賎を問わず誰とでも唱い合わせてみるというのも、その努力ないし自信の一つの現われなんです。

 ところが師匠は見つかったが弟子がどうしても育たない。絶望のあまり「遺恨なり」と院は口伝の中で(うめ)いております。レコードのない時代ですから「声わざ」つまり唱うという技藝は、文字と違い一瞬に消えてあとに残らない。伝わらない。せめて口うつしに技を伝える天才的な弟子がほしいのに育たない。その「遺恨」の深さが熱心に、詳細に、後白河院に十巻もの口伝を書かせているわけです。

 師匠の方、これは、五条尼とも呼ばれる乙前(おとまえ)という老女を見つけます。名人中の名人、本物の正しい名人と、すっかり見極めますともう後白河院は、多分流れの遊女(あそび)ででもあったでしょう乙前を、はっきり先生、師匠、の座に据えて学びに学ぶ。乙前はすでにお婆さんですが、熱心に丁寧に一切承知の技や藝を教える。一天万乗の君主と流れの老遊女、まこと奇跡と呼ぶに近い間柄です。そして乙前は、八十四という高齢で、病死致します、その辺を読んでみます。

 乙前が八十四という年の春、急に病が重くなったが、まだ持前の元気さで、どうという変化もなかったから、持ち直すだろうと思っているうちに、間もなく危篤、という話。御所の近くに家を与えてあったので、急いで忍んで見舞ってやると、娘に抱き起され、挨拶をした。大分弱っているので、二人の久しく親しい(えにし)を思い、後世(ごせ)を願う供養にもと、当座に法華経の一巻を読んでやってから、ついでに今様も唱って聴かせようかと訊ねると、喜んで急いで頷く。

像法転じては 薬師の誓ぞたのもしき 一たび御名(みな)をきく人は (よろづ)の病なしとぞいふ

 二、三途もくりかえしそう唱って聴かせたのを、お経を聴くよりも嬉しがり、こうお聴かせいただいてこそ、苦しい命も生き返りそうでございますと、手をすって泣く泣く喜んだ有様を、互いに哀れに感じながら、その日は帰った。

 その後、御室(おむろ)の仁和寺へ出向いているうち、二月十九日にとうとう死んだと聞いた。惜しいという年齢(とし)ではないが、多年見なれていたので悲しさ限りなく、世のはかなさ、おくれ先立つ現世のさだめなど、今にはじまった事ではないがあれやこれやと思い続けられ、まして今様歌と限らず、多く教えてもらったこの道の師匠でもあったのだからと、死の報せを聞いた日から朝夕に身をつつしみ、阿弥陀経を読んで乙前の西方極楽往生を祈り、五十日間はつとめた。

 また一年の間、千部の法華経を読みとおし、次の年二月十九日の命日には、あれは今様をこそ尊いお経以上に(よろ)こんで聴いてくれたぞと思い出して、習った今様の、主なものを暁方までかけて(ことごと)く唱いとおし、心から後世安楽を祈ってやった。

 その後も、命日ごとに、必ず乙前を思って、後世をとぶらう今様を唱ったことだ。

 ま、こんなふうに後白河院は語っています。梁塵秘抄の全巻が、さながら河原住みの遊女乙前への供養かとさえ取れる――。

    *

 そんな話をしたのが放送のたしか、四回めだった、そして五回めに「源資時」について話した。「遺恨」とまで絶望していた優秀な弟子がとうとう登場したのは、梁塵秘抄がいったん仕上がった嘉応元年に(おく)れること九年、治承二年(一一七八)三月の廿三日だったと、後白河院は欣然と「左兵衛佐(さひょうえのすけ)資時」との出違いを御口伝巻第十の奥に追記している。

   三

 ――雪子は私を無視したかったらしい。

 高校一年の夏、地蔵盆の、宵のことだ。

 が、私もさりげなく雪子のまうしろへ触れるほどに近寄った。わずかな袖幕に雪子ひとり隠れ、私は雪子のかげに隠れて、愛八が演じているあいだは誰も私たちを気にかけなかった。

 雪子は妙に白い着物を着ていた。背に、黒い変った(がら)が稲妻なりに走っていながら、印象は真白かった。じっと見つめるうち、白地に、烈しく雨が降って見えた。無数の鳥が遠く翔び去って行くのが見えた。しまいに雪子の背も着物も透きとおり、遥かちいさな燈火の色が一つから二つ、五つ、十と上になり下になり揺れ動くのが見えて、しいんと眼の底まで静かだった。愛八の「のろんじ」が佳境に入っていると分別しながら、我身ひとつは山里らしい渓底(たにそこ)の細道をあてどなく歩く心地がしていた。(こわ)くなってまた、「木地」と呼んだ。木地という、かつて何の印象もなかったただの苗字がふと意味ありげに面白かった。面白い以上に軽く肌に粟を生じる響すらもってきた。

 雪子は振向かなかった――。

 木地雪子を振向かせるのに、足かけ三年かかった。どこにそんな執拗(しつこ)さが秘んでいたか、時に自分がよその誰かのような気さえしながら、残る高校の二年半、私は子どもなりに手段をつくして雪子につきまとった。父には罵倒された。母はあきれて口も利かなかったし近在の物嗤(ものわら)いにちがいなかった。それがあまり(こた)えないのは、私が非常識なほど強情なせいもある。四つ五つで人に、「貰ひ子風情」と唾をかけられて以来、つとめて鈍感になろうとした。今に思えば「(ひじり)をたてじはや」という気だった。「年の若きおり(たは)れせん」と思っていた。

「愛丸」の名で雪子が寄席にまでたまに顔を出すようになると、ためらいなく九条の山辺の教室を脱けでて新京極へ直行した。木戸銭を、親の財布から勝手に用立てたこともあった。

 学生服は目立った。それに愛丸の出番では入りがまるで無い。五人以下のこともあり、そのうち二人くらいは寝転んでいた。

「はだかにならんけエ」

 きまってそんな声が露骨にとんだ。小屋ががらんとしているぶんよく笑い声も響いてなまなましかった。六十がらみ、地下足袋に(どんぶり)がけの上からごわごわの革ジャンパーのおやじが一度、舞台に這い上がって愛丸を追いかけたこともあった。

 どんなものを着て「のろんじ」を見せたか、正直言って寄席で観る愛丸の物真似には乗れなかった。漫才式にだれかと掛合うか、もっと唱えばよかったのだ。愛八ででもあるならそんな演出ぬきでいま少し客を黙らせただろうが、愛丸では、いくら敏捷でもすることにもう一つ変り映えがなかった。いっそ闇屋風情が酒をあおって這いずって追うのを、身軽に愛丸も這って逃げた桃尻の丸っこさが新鮮だった。ちょうど猿だったか、犬を演じていたのだったか私は不覚にも見ていて眼に涙をためた。むろんおかしくはない。が、つらいとか哀しいとかで涙したとも思えなかった。とても寒かった。「かぶりもの」を、あれで愛丸はつけていたのかもしれない。覚えない。

 (くだん)のおやじはとび出した小屋の阿兄(あにい)に、うしろ衿を掴まれすぐ舞台を(おろ)されながら、よほど陽気だった。大きな顔が笑い崩れていた。阿兄の方も笑ってしまっていた。

 だが、私は容赦されなかった。あつかましく楽屋へ忍び入ったのが執拗いと、同じ阿兄に京極筋の人だかりへ張り倒されたことがある。ぶいきなトンボメガネが宙を舞い一瞬向いの安映画館の看板絵に吸いこまれ、もう次の瞬間踏みつぶされていた。だれがそんな醜態を見て通ったか、当の雪子がその場にいたかさえメガネなしではただ夢うつつに、私はよろよろ走り去った。(ふく)れた顔をどう言いわけして新しいメガネをどう親に買わせるかも、考えずにすむことではなかった。

 いったい愛八、愛丸の藝だけが際立って珍しい、のではなかった。わらじ履きに烏帽子をかぶり、背に笹を挿し腰蓑をつけて、短い竹筒に小豆を入れたコキリコという物を打ち合わせては、拍子面白くひなびた小歌を二つ三つ唱ったあと手鞠を使い、手品を見せ、最後に意味不明の早口言葉をまくし立てながら引いて行く黒式尉(こくしきじょう)のような藝人もいた。佗びしい(しゃが)れ声なりに、はんなりと、愛丸の物真似如きは遠く及ばなかった。

 寄席に限らなかった、家の近所へも飴売りの当世紙芝居とは別に、錫杖(しゃくじょう)を鳴らし合の手に法螺貝を吹き、浪曲に似ているが今なら音羽屋松緑(しょうろく)が得意の願人坊主のチョボクレを想い出す語り口で、聴けばしんみり物哀しい蟹の恩返しや石童丸ふうの物語を、愛八そっくりの坊さんが絵解きにまわってきた。絵が(こわ)いのと物語が身にしむのとで、私はチンドン屋以上にあれが苦手だった――。

「愛丸」は意外に早くもとの木地雪子にもどった。

「藝は、売り急いだらあかんにゃ」

 私がしたり顔をすると雪子はうすら笑った。尻を追ってただもう一緒に道が歩きたいだけの私を、無恰好な

のように見た。

 短い食べもの屋勤めなどを雪子は二度三度繰り返していたが、続かなかった。遊んで暮せる家と思えないのに五条の西へ洋裁を習いに行きはじめ、私は学校帰りに河原町の角まで遠まわりして辛抱よく雪子の姿を待った。待つ場所がじりじり西へ動いて、白百合洋裁学校と名前は大層な塾の近くまで行くようになる、と、ぽかっともう雪子は通学をやめてしまう。

 織田有楽(うらく)の墓がある建仁寺の正伝(しょうでん)永源院の前並びに愛八と雪子の家はあった。木地という姓は母方のものかして、愛八は、本姓が「遊垣」で名は「専一」だった。それで家も見つけにくかった、電話帳には「ゆ」の欄に出ていた。寺の土塀つづきに薄墨で塗りつぶしたような軒の低い長屋が並び、「遊垣」の表札が出ている側も同様だった。車一台入れない湿気た土の道だった。

 電話は間がもてず、向うは簡単に切ってしまう。手紙にした。葉書の方が出銭(でぜに)は助かるのだが、封筒に入れた。だが雪子からは手紙は呉れるなとすげなく葉書に書かれ、さも母はいやらしげに爪の先で眼の前にぶらさげ、お前よりだいぶ字が巧いなどと言った。事実だった。

 私は性懲りなく手紙を出しつづけた。季節の話や近況ではすぐ種がきれ、このごろ読んだ本の話が主になり、あなたも本を読むかなどとたわいなかった。返事はなかった。「愛丸」時代の藝に触れ、「のろんじ」と平仮名で書いて、大人はそう言うがそうかとはじめて訊ねた時、雪子は珍しく封書で返事をくれた。但し、自分(わたし)のことは、「のろんじ」などという言葉もろとも早く忘れてしまわねばいけないと、忠告めくたったの二、三行だった。鉛筆の字が綺麗だった。なかなか良い紙を使っていた。

 高校二年の地蔵盆に、雪子は思ったとおり「出演」しなかった。前のように曲師は三味線の上手なおばはんだった。あれが母親だろうか、と思いながら物足りなかった。へんに気がふさいで、盆踊りにも出なかった。

「えろ珍しおすな」

 母は他人のような口つきで息子をからかった。

 その晩、出番を終えて帰って行く愛八を花見小路(当時は疎開跡)まで追いかけて、「木地さん」は病気かと訊いた。

「あんた、誰やね」

「――」

 頭をさげて私は名乗った。

 愛八は合点してちょっと睨む眼つきだったが、「病気やない」と、あとは聴く耳もたぬ容赦のなさ、三味線を提げた女を顎で促して去って行った。なかなか男っぽかった。

 自分のしていることが、わからなかった。木地雪子の何に惚れこんだのかがさっぱり自分で理由にならず、そのことに()れていた。女の魅力すら分析的に(はら)の中で積んだり崩したりされているわけでなく、この一年、そもそも素顔の雪子とろくに向きあってなかった。勤めや洋裁の勉強帰りにも、鈍な私はわりとたやすく置いて行かれたり待ちぼけを食った。

 何をして愛八の家では暮しているのか、雪子の母らしい人が「遊垣」の家を出入りするのを私は見ていなかった。表は雨ざらしの格子囲いで、かがまないと通れない()けて身幅ばかりの潜り戸の内に、一坪ほどの土間がなにやら仕事場のていになっていた。が、ちょっと覗いて、そこでふだん仕事をしているとは見えない閑散とした家の内は、いっそ奥床しかった。

 夕方になると、雪子が家を出そうな先々で待ち伏せた。きまって縄手の、南座裏の青物市場へ買物に行くのがわかった。回数は(すくな)いけれど花見小路を北へ、四条通も渡って、なんとたまには私の家の前を通って古川町まで買い出しに行くのもつきとめた。

 縄手では雪子の家から近過ぎた。露骨に迷惑な顔をされた。が、逆向きに古川町へ出かける夕方は、私の方で道順を替えてもらわないと弘通(ぐつ)がわるかった。中学の裏から東山線へ抜けて行かないか、祇園の乙部(なか)を横切って行ったかてえやないかと、私は根気よくもちかけた。一緒に歩くだけでよかったのだ、私は自転車を引いていた。人目には用事の途中で出逢ったふりが利くと、(さか)しげに思っていた。

 雪子は承諾の返事は一度も与えなかったが、黙然(もくねん)と中学の裏道へ折れてくれた。また四条通を北へ渡ってから、まずいナだれかに出逢うとびくついているまに東向きに新地へ折れ、末吉町へまた折れ、さらに新橋の茶屋雪亭(ゆきてい)の方へ折れてくれた。そして東山線袋(まち)の入口辺で、もう帰れと私に首を振った。それ以上は、私の方も母と出(くわ)(おそ)れがあった。

 古川町というのは、有名になってしまった中京の錦通を小さくしたような、東山界隈では知られた買物筋だ。知恩院下の大きな石の太鼓橋西詰を北へ、白川からは斜めに左へ逸れて、家並のあわいを窮屈に三条通まで小路が突き抜けている。昨今石畳を敷いたが雪子が買物に出かけていた時分は泥道だった。そこへ魚屋、肉屋、惣菜屋、八百屋、駄菓子屋、漬物屋、豆腐屋、揚げ物屋などが店先を洗い流すものだから、つねの日でも下駄をとられそうにしるく、雪や雨の日は、大屋根に幕を渡しても傘提げた人の往き交いで泥濘(ぬかるみ)になったり、京の底冷えに凍てついたりした。

 店には裸電球がぶら下がり、釣銭混じりの(いかき)も左右に吊ってあって、客引きの大声といっしょに電気も笊も波うって揺れた。夏には埃をかぶった扇風機の音もろとも蝿で黒くなった蝿取り紙が斜めに揺れ、店の者は蝿叩き片手に、客が指をさす方へ右往し左往した。

 私は袋町よりすこし(しも)の石垣路地のかげで、停めた自転車に(またが)り本を読んで三、四十分はいつも雪子の帰りを待った。まんまと別の道を通り抜けてしまわれると、知らぬが仏の一時間も一時間半も肩をすくめたまま、私は東山線に立ちんぼのはめになった。顔見知りが「何してんね」と訊いて通ったりすると、「あほか」と暗に言われている意味がよくわかった。だんだんに、よくわかった。「あほじゃい」と自分で自分に呟きながら、だが、やめなかった。

 金は無い。物を遣ることはできない。喫茶店やうどん屋に誘う才覚も余裕もなかった。私が待っていないと雪子が物足りなく思ってくれる、そうなるのをただ心待ちに待ち佗びながら、手紙はとうに種ぎれで、文字どおりからだを張り雪子が家を出てくる機会を狙うしかなかった。とうとう雪子にも「あほやなあ」と言われた。私はそれすら「前進」と思った。酬いは何もなかった。

 愛八はほとんど家にいない。雪子は寝たままの「年寄」と二人らしかった。

「おじいちゃんか」

 高校二年になりかけていた私がそんなあどけない訊き方をして、それがどう聴えたのか珍しく雪子はくくと笑った。だが祖父とも祖母ともよけいなことは喋らなかった。まったく癪にさわるほど雪子は喋らなかった。ものを訊きかえすということもない。むりに口を利かせようとすると「ええねん。も、帰りよし」と言いだす。「も、来んといて。ナ」とも言った。小面(こづら)憎いほど静かだった。

 そう言われたくなかったから私ひとりが喋った。くそまじめに喋った。学校の、雪子が知るはずのない先生や友達のことも話した。苦手の解析や化学の時間に、当てられた問題が解けず黒板の前でどんなさまに立往生するか、それをみんながどんなに嗤うかといったことも少々大袈裟に話した。高校に近い月輪(つきのわ)の御陵や東福寺裏の竹薮のことも話した。くたびれて黙ってしまうと、ちらと雪子は私を見て、やっぱり黙々と歩いた。縄手の青物市場へ十日なら、古川町行きが一、二日の割だった、それがいつしかほぼ半々になっているのに、気を良くしていた。

「しまいに、あんたが困るのえ」と雪子は言った。口つきが、すこし優しかった。

 たしかに困ることが増えていた。

 木地雪子があの愛八の娘と、みなもう知っていた。聴きづらい叱言も出た。「藝人の子かて、ラジオ屋の子かで同じやないですか」と開き直ってみるが通らなかった。「かったい」が、公然と大人の口に出てきた。簡単な辞書をひくと路傍にいる者ないしからだの故障で正坐できない者といった説明があり、私はめったになく憤然とした。だが黙っていた。

 伊勢物語などで、「かたゐおきな」という、ただ下賎の老人というにとどまらない、何らか所作や歌謡を伴っていわば「今日(こんにち)の御祈祷」を申上げるていの言祝(ことほ)ぎの藝能者たちが古来いたことを今の私はもう知っている。千秋万歳(せんずまんぜい)田楽(でんがく)法師、猿楽法師もその流れだ。鉢叩き、(かね)叩き、声聞師(しょもんじ)や歩き巫女(みこ)瞽女(ごぜ)にしてもつまりは同じ流れを汲んだ。あの愛八の藝は祝言(しゅうげん)らしからぬ物哀しい結末を固守していたものの、物のわきに住む意味で「傍居(かたゐ)」転じて賤や隷の意を含む招かれざる客の「乞丐(こつがい)」の字義が、私らの父の世代にまで命をおよそ繋いでいたとは。だが早い話、それは「歴史」でこそあれ、古代、いや中世でも、子や孫にまで身動きとれぬ絶対世襲の「身分」などでは決してなかった。

 どこを通り抜け潜り抜けて――「かたゐ」や「のろんじ」が愛八や雪子の身に生き延びてきたか、あの資時へも思い及んで私は(はら)から驚き、(こわ)くすらあったのを忘れない。

   四

 後白河院の弟子資時は平治二年(一一六〇)八月に生まれ、実父と目される少納言入道信西(しんぜい)は前年十二月の乱に窮死している。母の名は「壱岐(ゆき)」とあり、壱岐は後白河院が今様の師と頼んだあの乙前の孫娘だった。話がうま過ぎるが、そのいわれ全く無くもない。

「保元二年の年、乙前が歌を年来(としごろ)いかで聞かむ(聞きたい)と思ひしものがたりをし()でたりしに、信西入道これを聞きて、『尋ね候はむ(問い合わせてみましょう)。それが子、我が(もと)に候』とて」五条の乙前方に、当時後白河天皇の()っての希望を伝えた、それが院と乙前との「出逢い」だった由は御口伝に明記されているし、「それが子」とは乙前の「子」の意味にせよ、しかし「孫」でも十分通用する。

 それに歌い()を「愛物」として身近に置くためしは同じ「口伝」中にもあるし、清盛のあの祇王や仏御前もそう、義経のあの静御前もそうだった。源義経生母の雑仕女(ぞうしめ)常盤(ときわ)がのち平清盛に犯されて女子を産んでいたように、貴族仲間で一人の女を奪いあう例は多く、この際の「壱岐」も信西没後、つまり平治の乱後大納言源資賢の手に落ちた、それは信じられた。

 むしろ私が気にしたのは、そういう(おの)が生立ちの秘密を、資時自身が物心ついて以来よく承知していたかどうかだった。よもやそうではあるまい、私は、よほど訳知りだけが事情を承知していたと、自分が貰ひ子の身にも(よそ)えてそう想うにつけ、その点、後白河院が側近の信西、資賢、また乙前との三重の深い(えにし)からも万事心得てひとしお資時を愛されたのは、道理で、と、よく頷けた。

 壱岐の父母のことは知る由もない。「つねに消えせぬゆきの島」という今様があり、「壱岐」は当時「雪」と音通だったことだけ、いやこの女が「あそび」だったことも、判っている。「あそび」は遊女の訓みだしなにを驚くこともなかった。が、私が読んだ「禁秘抄別紙」には「あそびへ」と一字(あま)して「へ」を「めカ」と注してあった。「あそびめ」ならまさに遊女で、私もそう思って疑わなかった。

 だが、資時のことを問われて一瞬木地雪子かと想ったあんな電話を受け、また女優のKを見て雪子を想い出してからは、まるでべつのことも、私は考えていた。もしあの「あそびへ」の「へ」が「め」でも衍字(えんじ)でもなくて「部」の意味であったら、どうか。

 むかし垂仁天皇の子孫で円目王(つぶらめのおおきみ)という人が、伊賀の比自支和気(ひじきわけ)の女を妻にしていた。比自支和気は、天皇の殯所(もがりど)に奉仕するのを久しい家職にしていたが、雄略天皇の死にさいしあいにく比自支和気の男が一人も居らず、七日七夜も御食(みけ)、伝説では鹿尾菜御膳(ひじきおもの)、を奉らなかった。そのため天皇の霊魂は烈しく「あらび」給うた。

 諸国に人をやって比自支和気を尋ねたところ、円目王に聞くがいいという者があった。さて王の妻はたしかにその氏人ではあったけれど、彼女の(いわ)くすでに同族は死に絶え、しかも、自分は殯所の事に女の身で耐ええないから、代って夫君円目王に奉仕してもらおう、と。かくて荒ぶる亡魂もしずまり、時の帝は勅して、手足の毛が「八束毛(やつかげ)」となるまで王とその妻に「遊べ」と仰せがあった。このため「遊部君」と名のることになった。

 古い本に、「遊部は幽顕の境を隔て、凶癘(きょうれい)の魂を(しづ)むるの氏なり」とある。「終身事なく、課役を免じ、意に任せて遊行す、故に遊部と云ふ」としたものもある。が、いったい蘇りを祈って、死者の屍の前でどういう振舞に及べば霊魂を慰め、鎮めることができたものか、その振舞そのままが「あそび」と解して、延長上に遊女や遊君即ち「あそび」の意味までを手さぐりしていいものかどうか。

 もし、(あめ)の岩屋(ごも)りした天照大神のためにアメノウズメらが神遊びした、あれが「あそび」の原義なら、歌い舞うことも含んでのちに猿女(さるめ)などと呼ばれた俳優(わざおぎ)のさまが、はや「遊部」の職分となって承け継がれたのかもしれない。となれば、お神楽や今の能狂言に及ぶ言祝(ことほ)ぎ、遊狂、猿楽者(さるごうもの)の藝とも通い響きあう脈絡はあり、突飛な想像ながら五条の乙前や孫女壱岐の身に、いや源資時の身にすらも、そんな「あそび」「あそ」の血脈が保たれていなかった伝ではない――。

 なにも壱岐や資時の血筋を「垣」という苗字一つにからめて、あながちに昭和の愛八や雪子に通わせたいのではなかった。ただ、そうも想い寄ってみながら、彼や彼女のいわば猿真似が、所詮二代三代で創れたはずのないわざおぎだった、面白かった、と無性になつかしまれた。

 私の育った家は鴨川東、名高い祇園花街でも乙部と呼ばれた区域と背を合わせていたし、子どもの頃の乙部には、いかにも遊女(あそび)と呼びたい風情の女がいくらもいた。名は知らなくても顔は見憶えているそんな女たちを、子ども心に決して厭わしくは見なかった。それどころか見も知らぬ産みの母親を、何度私は「あそび」の境涯の人と想ってみたことか。

 そんな界隈を「いい場所」「なにか、カナメみたいな」京都の「急所、秘所」と言い囃す友人がある。京の町の真中に住むその男にすれば、そこは洛ならぬ京の「かたゐ」の洛だった。どことなく胡乱(うろん)な河原つづきに思えるらしかった。

 逢えば、私は彼に言うのだ、その鴨の河原の久しい歴史とはつまり鴨川そのものの歴史ではないか。そして「鴨川」の認識こそ「京都」の、洛中と洛外との、認識ではないのか。

 だが、話は噛みあわない。こういう話題になると京都の人は応じない。いつも、そして彼でなくても、「()かんかい」という感じだった。

 歴史的に鴨川は怨みと血で(けが)れた川だった。だから祭の川、清めの川でもあった。そういう川を抱きこんだところに、平安京がその実は不安京として出発した真相も透けて見えた。古代の今様も、中世の猿楽能や狂言や近世の歌舞伎も、その真相と一体に鴨の河原を母胎にしていた。愛八や雪子の藝もそうだ、と私は思った。乙前や壱岐を、資時のことも、想っていた。

「資時」のことで、電話はあの一度だったが、手紙はまばらに何通か来た。たいがいは答えようのない厄介な質問だった中に、ご存じと思うが資時の墓というのを見知っているので、お教えする、という一通が眼をひいた。写真も一枚添えてあった。眼を(みは)った。

「ご放送をお聴きした者です」とだけの名のりだった。墓の所在と消印は京都「東山」だった。――あの電話の人ではないか。まちがいないと思った。そう思いたかった。

 妻に手紙を見せた。

「当ってたな」

「ほんと――」と、妻は写真を見つめたまま呟いた。

 妻は、しかし、そんな墓を知らない。墓は萩の寺高台守境内の山なかに、雲居庵(うんごあん)というもう崩れかけた古い建物の傍にある。五輪塔でも宝篋院(ほうきょういん)塔でもない。無縫塔でもない。丈二尺に余るかどうかの細身の自然石だった。細くはあるが、ちょっと「突い立てる鉤蕨(かぎわらび)」めいて頭をまるめた感じが、野の女の墓と眺めたかった。春の早蕨(さわらび)にむかい「忍びて立てれ下衆(げす)()らるな」と歌いかけていた可憐な梁塵秘抄の二句神歌(にくのかみうた)を胸痛く想い出す。根方はかすかな苔肌だった、よほど物古りた石にちがいなく、写真ではフィルムのせいか概ね濃い焦げ茶色をしていた。接近して撮ってあり周囲はさだかでなく、裏に字が刻んであるかどうかも手紙は触れていない。表には読めない真言一字が蕨の頭の真下あたりに、もう浅く彫り残されているのが、かすかに見えていた。

 妻と「当った」と頷きあったのは、そもそも小説というものを書きだした時分、用意もなく「資時」を狙って、彼が出家後の住まいを『雲居寺跡(うんごじあと)』と当て推量、小説の題もそれと決めてかかるといきなり書きはじめた、のが、無残に棒折れしてそのままなのを、思い出したからだ。

 農臣秀吉の妻が、未亡人になってから、徳川の援助を受けて高台寺を立派にした。みごとな蒔絵の御霊屋(おたまや)がある。萩が佳く、今は境内を分けて霊山(りょうぜん)観音というコンクリートの大仏が人を集めているが、あの一帯がもと雲居寺の旧地で、奈良大仏にならぶ京の大仏が(おわ)したとも、お能の「自然居士(じねんこじ)」の舞台とも知らなかった。ささらを摺り羯鼓(かっこ)を打ち身を以て謡い舞う「自然居士」や「放下僧(ほうかぞう)」の姿を能舞台で観たのは、東京へ出てきてからだ。あのような鎌倉室町時代の(ひょう)げた大道藝を知り、幸若(こうわか)説経(せっきょう)、浄瑠璃の歴史を知り、それも愛八や雪子の物真似の先蹤(せんしょう)と思い当るとそれにひかれて、遊部(あそびべ)(すゑ)とは知らず、また唱導の世界に聞えた安居院(あぐい)澄憲(ちょうけん)の異母兄弟とも知らずに資時入道の(つい)(すみか)を、小説世界のなかで雲居寺(はん)に定めようとしたのも、根本に雪子との出逢いを私が(つちか)っていた証拠かしれなかった。

 むろん日本の藝能を私がやたらごっちゃに考えているのは、然るべく筋道を正されねば済まぬことだった。(えい)曲、平曲、謡曲、浪曲などを一脈と、聴く人が聴げば噴飯ものの、まだその上に下にぐるりに、「うたふ」も「かたる」も「よむ」も、思いつくかぎりの歌舞や雑藝を(まと)いつけた全部を、はるか魂鎮めの「遊び」の川を流れ下る川波かのように私は想い描きたかった。資時がそんな川流れの一と所、中州かのように雲居寺に(すみか)を求めたには、いくつもわけがあった。

 師の御房(ごぼう)の慈鎮が宰領する栗田口の青蓮院にごく近かった。法皇の法住寺御所へも東山ぞいに遠くない。とくに雲居寺へは「自然居士」ふうの藝で人を誘う男女が多く寄る、それが大事だった。法体(ほってい)の資時は、源家(げんけ)の郢曲を嗣ぐ立場から大きくそれて、今様の徒や琵琶の法師らを文字どおり大雑把に収束監督する地位を約束された。それが恰好の諸国事情を聴き取る手立てとなった。

 今様狂いの名に隠れて、さながらの乱破(らっぱ)素破(すっぱ)、忍びとしても後白河院が下賤の男女を自在に膝もとまで寄せて憚らなかった才覚と、あの乱世をともかく一人無傷に生き抜いた政略とは、無縁でない。寿永二年七月の暗夜行を誰が如何様に院に決意させえたかを想ってみればよい。たしかな情報と手立てがなくて、資時ひとりを従者にたとえ時の王者ではあれ、洛外の闇の底を潜って鞍馬までは行けない――。

「でも――この方、よく、こんなの撮れたわねえ」と、まだ妻は写真を眺めていた。

「――」

 よく資時の墓などと知っていた、どんな人なのかと妻は言いたかったのだ。名前と住所くらい書き添えてくれるとよかったのにと、私も呟いた。

   五

 雪子を振向かせるのに、三年かかったと書いたその三年間を如何ように縷々(るる)物語っても道化が過ぎる。だから、やっとやっとなぜ雪子が振向いたのか、あの日、のことが忘れがたい。高校での授業が全部果て、卒業式にはまだすこし日があった。三月上旬の、木曜日だった、木曜が、当時また雪子の勤めだしていた化粧品屋の、休み日だった。痛いようなまだ底冷えだった。

 休みならきっと逢ってくれる、というわけでもなかった。

 私は知恵をしぼっていつも空しい口実を探したものだが、あの日はそれもうまく行った。平安神宮に近い市の美術館で、会津八一博士が蒐集されていた「中国漢唐美術展」に雪子とそっくりの(よう)が出ている、それに犬や牛や馬や豚や羊や鳥などの土偶(でく)がたくさん出ていて、「なんか役に立つんと(ちや)うか」と誘った。それが例になく功を奏した。いずれ口から出まかせで、ポスターの写真と新聞記事を受け売りしたに過ぎなかった。

 祇園一力(いちりき)の横の辻で待合わせ、運動場に大きな柳の見える母校のわきから四条へ出て、いきなり大通を駆けて渡ると、忘れもしない、眼の前の古美術店の(ウインド)にどれも異形(いぎょう)の「伎楽面(ぎがくめん)」が五面出ていた。雪子は通り抜けようとし私は足をとめた。酔胡従(すいこじゅう)、の晦渋な表情にくらべると太孤父(たいこふ)はよほど好々爺だった。力士は口辺に植えた毛が新しく、醜かった。朱い顔に眉を鋭く立てた抜頭(ばっとう)の、オームの(はし)のような鼻や紺色の長髪が凄まじかった。そして崑崙八仙は嘴の先に鳥のさえずりを想わせる小鈴を(くわ)えながら、緑青(ろくしょう)や朱の下から木地が(しろ)く露われていた。

ころばせ、やろ……」

 たしかに雪子が傍へ戻っていて、そう呟いた、と思う。「崑崙八仙(こんろんはっせん)か」と私が感に耐えて口にしたのへ鸚鵡がえしだった。私は黙った。確かめるのも、自分で言いわけするのも妙だった。雪子はなお、伎楽面と舞楽面は違うのにと呟いていた。わきまええないものを胸に、私から先に店の前を離れた。雪子も小走りについてきた。

 デート、という言葉がもう使われていたかどうか憶えない。私の気もちば一貫して「逢う」だった。書げば「逢ふ」と書きたかった。その次に「歩く」だった。

 もっともこの二年半、木地雪子にひたすら愛を捧げていたというのではなかった。手一つ握る度胸もないのに、たわいない女友達なら何人もいて、のらくら付合っていた。「平家物語」にカヴァーをつけてきてくれた子と一緒のところを、逆に雪子に見つかったこともある。が、雪子は黙ってよこを向き、一緒にいた方がかえってぶつぶつと雪子のことを(そし)った。それも「措かんかい」のくちだった。愛八の娘でどこがわるい。私は知らん顔をした。措きもしなかった。

 ――期待外れだったのか、美術館を出てからも雪子はさしたる感想を洩らさなかったし、私は私であとの時間をひき延ばす手立てに頭を痛めていた。

 粟田坂の下までもどると、懐勘定しながら、あまりの寒さに私はうどん屋へ雪子を誘い入れた。寸胴(ずんど)に切った竹の箸立てにそそけた割箸が痛そうに詰めこんである。平たいガラス瓶の中で七味が湿っている。椅子卓二つしかないうすぐらい店に湯気が籠ってほっと(あッた)かかった。

玉丼(たまどん)――」と先に言って、雪子の眼を覗いた。頷いていた。

「親子でもええにゃで。俺は、かしわ好ッきゃないしな」と見栄をはりながら、しめて百九十円、三ツ星の岩波文庫が二冊買えると思っていた。正直、惜しむのではなかった、それほどのことを雪子と二人でできるのに感奮を禁じえないのだった。

 コレクションに唐時代の立女の俑があって、それは雪子とまるで()てなかったが、六朝(りくちょう)の、二十センチ足らずで髷を高く結い飾りもつけた、細っそりしたのが面輪(おもわ)も緊まり、「肖てたで」と、丼飯を待つあいだに私は言った。漢代の俑首が五つ横に(なら)んだ「真中の、ホラ、平ったァい黒い三角に眉毛(まいげ)描いた、アレなんか――」と私は口を(つぐ)んだ。

「愛八に肖てた」とはさすがに言いにくく、だが「お父さんに」とも言っていいのやらどうか、判じかねた。

「遊垣て、おもしろい苗字やな。どこの名前や」

 何県に多そうな、という意味で言ったつもりだったが、雪子は私をちらと見て答えなかった。私がなお、遊ぶという字のついた苗字「あんまり見んナ」と言うと、そんなことない、沢山あると、それでも私には耳馴れない例を幾らか挙げて雪子は笑った。

「へえ。よう知ったはんな」と思わず私は敬語を使ったはずみで、「遊垣さんて、何、お商売したはんの」と、返事があるはずのないことをまた訊いた。訊いてせわしく自分で手を横に振って、「えにゃえにゃ」と質問をとり消した。雪子は澄ましていた。

 私は瞬く間に玉子丼をからにした。雪子は親子を半分ほど食べて、多いという顔だった。

「おなか、えェの」

 雪子が頷くと、私は、置きかねている丼鉢を手軽に奪いとり、自分の箸であっさりさらえてしまった。

 眼が合った。

 あきれたように雪子はぼうと私の顔を眺めていた。

「ごっ馳走(つォ)はん」

「ありがとう」と雪子もちいさく頭をさげた。ふつうなら「おおきに」と言うところだ、どうもわきまえ難い何かを、はしばしに雪子は(あま)し持っていた。

 外へ出ると、考え抜いた挙句の、「その山をちょっと登ると、尊勝院てあるの、知らんやろ」と誘った。粟田山だ。

「知ってる」

「なんでや」と私は不興気に反問した。目算が狂った。雪子は、知った人のお墓があると言い、それでも、私の登って行きたそうなそぶりに逆らわなかった。

 あの日、雪子は妙なものを着ていた。焦げ茶っぽい石炭袋で造ったようなもんぺは、あの時節、まだ見なじんでいたけれど、上に、まるで昨今はやりのポンチョのような、端々に毛糸のふさをつけた紅い色目の、織り地か編み物かを前に後に暖簾(のれん)然と垂れて、首は、ただ広いそれの真中の穴から突き出ていた。生地は柔らかく、暖いのかと訊くと雪子は、ちょっと得意そうに頷いた。

 女の子の着物をそれ以上(あげつら)うのはいやだった。むろん人目にたち、うどん屋で奥から顔を出したお(ばん)など、ぎょっと退()くふうだった。が、色目こそ前垂れがけの年寄が衿巻がわりに汚い手拭いを胸もとへ突っこんでいるのと大違いながら、異形(いぎょう)と見える若い雪子の風体(ふうてい)が、なにもそう日本の着物とそぐわなくない形をしているのを私は()取っていた。今だと能装束の摺箔(すりはく)の着付などをすぐ想いついただろう、第一、あの時分は着られるものならまだ何でも着るしかない戦後だった。私など擦り切った学生服に黒足袋で下駄ばきだった。通学用の運動靴は中学以来履きづめに、足の脂で冬でもにおった。革靴というものを買ってもらえなかった。

 尊勝院は贅沢な忘れ物のように、うっとり夢うつつの静かさで冬日だまりの中にあった。なにが美しいのでも尊いのでもない。お寺と思いたくなけれぱだれぞ二、三流の公家(くげ)の別宅と想っていい。大きくも深くもない山ふところに枯れた景色と建物とが、流れ去る時の間をこぼれ落ち置き忘れられたまま、雨露(うろ)に曝されて清い白骨と化していた。しかも鳥は鳴きしきり、春が来るとみごとな山桜が咲く。勤行(ごんぎょう)(かね)も鳴る。人なつかしくてそして人を寂びしがらせないお寺だと私が言えば、うちもそう思うと珍しく雪子は口に出して(うべな)った。

 坐った尻がすじすじに痛いほど木目の干上がった縁側に、真南を向いて並んだ。左にむっくり粟田山がふくらんでいた。幸福だ幸福だ。そう胸の奥で吠えながら歯の根が鳴った。

「雪子――、か」

 呼ばれたと思ったか、雪子は片脚をぶらんとひとつ前へ揺った。呼びそびれたのだった、私は「わりと、ええ名前やな」とごまかした。雪子は顎を引きぎみに明るく首をよこに振った。頬から熱くなり、そしてなぜか心しおれた。

 花園天皇陵の上へ木高い杉の梢が二つ木叢(こむら)を抜けでて、そこへ先刻から羽音も聴えそうに大きな烏が入ったり翔び立ったりしていた。

 眼をとじ、そして手を雪子の肩に置いた。かすかに身(じろ)いだのは私を見たらしく、だが、伸ばした片手を儀式のように私は離さなかった。親指の腹が頸すじに触れていた。柔らかだった。瞼の裏へ日の光が朱く()み入ってきて、時おり真黒い斑点がまぶしい血汐の川を奔って流れ流れ、微塵に炸裂した。かけた手で、指で、そのつど雪子をつよく掴んで行った。髪が揺れ、そうっと温いものが頬へ来た。

 巨大な予感に堪ええず、気はいを慕って私は顔をその方へゆっくり向けた。眼はとじていた。眼の底がやさしく(かげ)って雪子の掌が私の眼を、そして頬を庇っていた。

 短いが、定規ですっと線を引いたようなキスだった。今までたくさん眼に見てきた人の唇の形など、ただの幻だった。離れぎわ、雪子は歯をそっと私の下唇に当てて、噛んだ。

 眼をあけて、抱き寄せた。雪子は身をよじり、私の胸の下で惜しみなく顔を日光にさらしたその瞼に、次に鼻に私は(くち)を添えてから、指一本で雪子の唇の形を静かになぞった。うっすらあいて(しろ)い歯が見えた。蔽いかぶせて、ながく、ながく、雪子の胸の底まで吸いとった。ポンチョの(あか)に白の縞目(しまめ)が華やかに無窮の空と見え、その空に浮かんで雪子と私は、顔と顔を合わせたまま光る縞目の優しい波立ちに揺られつづけていた。

 ここに山が――、支えた腕一本で雪子の胸を我が胸に押し当てながら波うつ紅い空をかき探って二つの乳房をかわるがわる掌におさめた。雪子の舌が顫うように唇の(あわい)で鳴った。遥かな天を、飛行機の音がゆっくり遠のいて行った――。

 我に返った時、二人は赤埴(あかはに)の粟田山の尾根を登っていた。あとになり先になり、互いの息づかいだけを聴いていた。道ともいえない道のわきに青々と小松が生い揃って、だが消え残りの雪もそこここに凍てていた。真上に綿雲が浮いていた。

「待って」

 前花緒の片っ側がゆるんだのを、こぶこぶの赤土道に坐りこんで締め直そうとしたが、巧く行かない。

「――貸しよし」

 雪子ははじめて口を利いた。私の手からちびた下駄を取りあげ、ヘアピンで上手に前緒を解き捨てるとハンカチを一瞬見はからいにくきっと糸切り歯で引き裂いた。なるほど――とも思わず、いっそ幸便に私は雪子を眺めていた。人心地がついてきた。雪子は姿佳く蹲踞(かがん)でいた。紅い上着がふんわり咲ききった花のようだ。衿もとと両腕に、灰色の淡いセーターが似合っていた。

「なんでや一一」

 男は、とかくそんな莫迦(ばか)なことが訊きたい。自分が仕掛けたのを忘れて、私は雪子の突然の変り身に(おどろ)いていた。知って仕様のないことがわかっていながら女の気もちを確かめたかった。

 雪子は手仕事にかかりきりだった。

 俯いた横顔のとくに鼻の恰好が優しい。下駄などかまわない、つっと寄って、起たせて、抱き締めたいと思った時雪子はこっちを見て、足袋はだしの私の足を出せと催促した。無器用に、足だけ出した。雪子は.平手でぱんぱん赤土を払うと、ほどよく締まった花緒を、あてがうように両手ではかせてくれた。

「どうえ」

 私は照れて、起ってみて、爪先をこんこんやった。

「よろしな」

 呟きながら、にわかに顔が火照った。雪子はすたすた道のわきへそれて行って、松の根かたの白いものをすくうと向うむきに手を(すす)いでいたが、「一味同心ていうやろ」とさりげなくふと振向いて笑顔を見せた。

「一一」

 なにかの返事とはちょっと判じかねていた。と、雪子は「ちょっと待ってて」と言い残し、またすたすたと、もっと木深い崖の蔭へ足もとを確かめ確かめ姿を消した。それは何とも思わなかった。雪子もすぐ帰ってきた。眼が笑っていた。あ――。

 合点した。

 なにも言うな、私はそっと指一本を口もとへ立て、そして真直ぐ両手をのべた。雪子はポンチョを頭からその場へ脱ぎすてるととびこんで来た。雪で洗った掌が冷たく、力をこめて(しな)う五本の指のまま、私の背中にきっちりと手形を捺された気がした。そうだった、何かが今、誓い合われていた。私は夢中で雪子のうしろ髪を掴んでいた。ほとほと白眼を剥くぐらいに(うなじ)()って、雪子は私のくちづけをごくごく()みくだしながら、セーターの胸を盛りあげ盛りあげた。毛糸ごと堅い乳首を一つ噛み二つ噛んだ。あ、あという声が金無垢の粒のように虚空に光った。

 ――将軍塚は荒れていた。見おろす街の広さも言い合わず、寒風に吹かれてただ佇んだ。愛宕山の奥の方まで晴れわたり、高島屋にも大丸にもアドバルンが上がっていた。眼を南へ移して行くと、丸物(まるぶつ)の上にも赤いアドバルンがちゃんと上がっていた。

 山頂の、大日堂が固く()を閉じていた。青蓮院門跡(もんぜき)の、いわば背後を護る関守かのようにこう大日堂を据えて、山の上で将軍塚と対峙しているのが妙に面白かった。もしや資時は、――後白河院を先導して法住寺御所から清水の裏山づたいに、先ずはここまで平家の眼を遁れて来たかもしれないと想像した。

 雪子は、一歩一歩おもちゃの兵隊のようにゆっくり脚をあげて歩いた。ポンチョが風をはらんで丸く膨れると、私はうしろから「タンク・タンクロー」だと笑った。そんな戦時中の漫画がまだ記憶にあった。首と手足とを文字どおりの球体にすくめて、弾丸のように転げて奔る血気の少年だ、「やってみよか」と雪子は斜面へ今にも身を投じるふりをすると、それが本気かと思える迫力だった。軽趫(かるわざ)、といった覚えたての字面が黒く眼をよぎり、思わず「あほ」と叫んだ。

 将軍塚は(こわ)い、と奇妙なことも雪子は言いかけた。「これに」と塚を顧みに、いつも睨まれている気がして、朝夕東山を見あげるのが不愉快なことがあると、ふっと冗談めかして口をつぐむのもただ笑いばなしと聴き流しにくく、だが得体の知れぬそのような話題は避けて通る必要すら思わせた。私は雪子が知るはずのない(と、思った。今もそう思いたいが――)「山門御幸」の一件を手短かに喋って、法皇が「この道、通ったんやないか思うねん」と語気を強めた。反応はなく、雪子は、あ、とかがんで足もとの枯草から黄色いガラスのおはじきを一粒拾いあげていた。

清水(きよみず)さんまで歩いたこと、あんた、あるか」と訊いた。雪子はあきれた顔をした。

 中学三年のもう卒業前のある日、どの先生の提案だったのか五つの組が全部で長楽寺の裏山から将軍塚へ、そして清水へ抜ける散歩を楽しんだことがある。それは憶えていた。のに、木地雪子も一緒だったという実感がてんで稀薄だった。

 あの日、私はかなりいい気分で、終始ひとり歩いていた。前にうしろに友達の賑やかな声を聴いてはいたが、どっちへもつかず離れず、間隔をはかる気味に、黙然とかつ何ごとか自問自答しながら歩いた。

「えろ静かやな」

 担任の男先生に肩を叩いて追い越された時も眼で頷いただけだった、但し何を思っていたのか全部忘れている。なにも考えてなどいなかったと思う。「さみどりはやはらかきもの道深く垂れし小枝をしばし(かな)しむ」という私の歌は、その当日のものではなかったけれど、同じ山道を同じ向きに清水の方へ下りて行く時のものだ、歌でも詠もうとしていたのだろうか。

 雪子もあの時、やはり私を追い抜いて行ったという。うしろから見下ろしぎみに寄って行くと当時まだまる坊主だった私の髪がだいぶ伸びていて、数本のうしろ毛が新聞マンガの「屋根うら三ちゃん」みたいに突っ立ってておかしかった。すっと脇をかけ抜けようとすると、その「三ちゃん」がいきなり交通巡査の止まれみたいに右手一本で阻んで、よく見ると指先に光る物を摘んでいた。紫色と茜色を中に二たすじ三すじこめた、やはりガラスのおはじきだった。

「やる」

 そう「三ちゃん」はえらそうに言い、雪子は抗わずに受け取った。そして先を行きながら振向いて見たけれど、知らん顔をしていたそうだ。

「あれ、まだ有るえ」

「――」

 皆目憶えていなかった。すこし間が悪かった。私は代りに、さっき将軍塚で雪子の拾ったのが欲しいと言った。言いながら照れたが、半分以上本気だった。雪子は爪先で立ちどまると、怒ったみたいに赤い顔をしてもんぺからおはじきを取り出し、ぎゅっと堅く一度二度掌に握りしめて、私の()にぽとんと落してくれた。

「おおきに」

 雪子は頷いた。頷く、という仕草がなにより似合う少女だった。

 (くだ)り一散の山道は途中稚児ヶ淵や清閑寺などへ幾筋かに(わか)れ、そのつど石の道しるべが立ててあった。それなのに、この辺の山坂から当てずっぽうに音のしている渓へ下りて行けば、きっと菊渓(きくだに)の上流だろうと雪子は言った。菊渓はこの辺の古い川で、かつて真葛ヶ原を横切って鴨川へそそいだという、名だけは聴き覚えていたけれど、それが暗渠になって今も雪子の家の近くを細々と音立てて流れているとは知らなかった。

()こ」

 私は声を張った。めったにない雪子が言いだした冒険だ、もう、一歩を踏み出していた。足もとに道はなかった。二人は落葉の(くろ)く積んだ急な山肌をいきなり滑り落ちて行った。紅いポンチョを、木に引っかけるなよと何度も声をかけ、雪子の返事が元気だった。(けい)を打つように(こだま)した。ほうという面持でちらちらとそんな身軽な雪子を顧た。雪子の眼が光っていた。

 一――か。

 こりっと歯に当ててあの雪子が食べ残しの(とり)肉を食った味が甦ってきた。思わず深く深く息が()けた。かつてない欲情も身内を衝きあげた。

 思いがけず難渋した。深くあるまいと臨んだ渓流の真上に、下り切れない崖があったり迂回するうちにもとへ戻っていたりした。背丈に余る大笹原の底を三、四十メートルも先に立ってかき分けかき分け、蛇ぎらいの私はつくづく冬でよかったと思いながら、ともすると下駄なりに湿気た土に乗って滑った。雪子の方が逆にうしろから笑って支えてくれた。だが、前後左右をすっぽり笹に囲われたままわずかに見あげる樹々や尾根のはざまに青空を仰ぐ気分は、なにがなし長閑(のどか)だった。雪でも降らぬかと言いあう余裕(ゆとり)さえあり、立ちどまって、何度も抱きあった。

当尾(とうの)さんて、やっぱりほんとのお父さんお母さんと、(ちご)たん」

「なんでや。気になンのか」

「ならへんけンど、どない思たはるのやろ思て」

「だれが」

「あんたが」

「腹は借りモンやンか。親子て、所詮、他人(ちや)うか。親子よりまだ夫婦の方がずっとほんまの身内同士になれるンと違うやろか」

「――」

「俺は、そう思うンやが」と低声(こごえ)になった。雪子は笹の中で笑った。すぐ笑いやめた。

「早いこと貰いよし、()エお嫁さん」

「貰うよ――」

「――」

 実の親たちが結婚した同士でなかったらしいことは、幼い日から疼く(くや)しさになっていた。雪子は、黙って私に一度抱かれ二度抱かれてから、私の下駄が、笹の根方の山吹草を「踏んだはるえ」とそっと注意した。

「花、咲くのかな」

「四月には――」と、雪子の声が沈んだ。

 左に聴えていた水の音がいつのまにか右になり、遠くなり、聴えなくなった。西向きに下りてきたつもりなのに、山は一層深くなっていた。

 高台寺の裏山へ出るのではないか。私がそう呟いてから暫くして、東大谷一面に息をのむ墓波がざわざわと急に見えてきた。菊渓(きくだに)の奥を南側へとうに跨いでいたのだ。私は咄嵯にこの機会に、高台寺の奥山にあると聴いた狽哆墳(ばいたふん)という古墳が見たいと思った。誰の墓ともわからず、夕刊の囲みで六世紀まで遡るかと知ったばかりだった。とても近寄れない場所と書いてあったが、存外近くへ来ている気がした。

 そんなことは知らぬ顔に、山墓地が見えてほっとしたか雪子はいっそふんふん鼻を鳴らすくらい愉快そうに歩いていた。もう、道らしい小道も行く先々へ曲り曲り伸びていて、どうやら木の間にぽつぽつと墓碣(ぼけつ)や石塔が見えつつあった。

「――」

 雪子が高く指さしたのは霊山観音のちょうど後頭部だった。まちがいのない雲居寺跡(うんごじあと)へ出てきたのだ、表参道からは見えっこない奥深い境内の景色が、歩一歩まぢかに望めた。御所風の本瓦の大屋根が見え、水銹(みさ)び草を一面に溜めた底ぐらい沼もあった。沼の上を、欄干(てすり)も物古りた回廊がながながと渡っていた。翳った廊下はもう一つべつに御霊屋(おたまや)の方へ、山腹に臥す龍のようにうねりうねって、高く這い上がっていた。屋根に草が生えていた。

 決断の(とき)だった。潜りこめば、外へ出るまでに人がきっと見咎めるだろう。墓地づたいに尋常に抜けて行けば問題なかった。雪子が、促すように私を見ていた。

()こ」

 野放図に葉を広げた羊歯の(くさむら)から、形ばかり張った金網の破れへ頭をさげて忍びこんだ。

 同じなら大きく見て行こう。

 私は雪子の手をひき、最初の回廊を跨ぎ越すように池の上の崖っぷちへ出て、そろそろと進んだ。立ちどまり、遠く、四条の街の方を小手をかざして斜めに見た。また行きかけ、つと、雪子が私の腕をうしろから引いた。二、三間はなれた巌の根方に、苔に裾をからまれ早蕨(さわらび)のように頭をまるめて、ひっそり立っている一つの墓が見えた。墓、のように見えた。向うに小高く、寂びれた建物が舞良戸(まいらど)を堅く閉じていた。竹の雨樋が片方はずれて、宙に長く垂れていた。

   六

 説明らしい説明も抜きに、差出し不明の墓の写真など、いたずらと言わぬにしても、根拠の知れない無視していいものだったし、この種の手紙はときどき受け取った。架空に創作した人や場所を、実はと追認してくれる式の便りも幾通かもらっている。

 ただ今度の手紙に、高台寺内の「雲居庵(うんごあん)」とある名前は承知していた。十二世紀ごろの有徳人(うとくじん)藤原家保(いえやす)の創業岩栖院(がんせいいん)の跡地と(おぼ)しき辺を占めていて、今ではよほど荒屋(あばらや)のはずだ。家保の子家成による金仙院という建物も同じその辺にあった。とにかく九世紀の三十年代にも遡りうる雲居寺の跡には、その後いろんな時代のいろんな建物が建ち重なってしかも全部影かたちをもう消している。雲居庵はその中でかろうじて名ばかりの由緒を伝える廃屋のはず、出家した資時がこの雲居庵、というよりもとの岩栖院の辺に庵住(あんじゅう)したのは、まず、まちがいない。

「そうなのかなあ。しかしこれ、墓、かなア」

「話、うますぎるわね」

「そこまで俺の調ベも、届いてないし」

「だいち、高台寺の奥なんか入ったことないんでしょ」

「――まあ、ね」

 ほっほと妻は機嫌よく笑って台所へ立ち、手に()りたての長崎の粒雲丹(つぶうに)で私が酒をやりだすと、それも、もうよそごとになった。

 からからとフライパンで妻は銀杏(ぎんなん)()ってきた。勉強中の娘が「何のおはなししてたの」ととぼけて寄ってくる。この高校二年生がおやじの肴より盃の方を狙って、仔猫のようにちょいちょいと出すその手へ、十度に一度くらい「ワイロ」をやっては、漫然と「ナウ」い話を聴きだすのが、また肴になった。

 暫く前、娘は課外授業に国立小劇場で前田流平曲の演奏を聴いてきた。それで、その前座の「那須与一」はまだ大学生かという女性二人が(つれ)平家で語ったとか、節物(ふしもの)の「小宰相」で、今しも海に身を投げようと亡き越前三位通盛の妻が「やはら舟端へ起出(おきい)でて、漫々たる海上(かいしよう)なれば、いづちを西とは知らね(ども)、月の(いる)さの山の()を、そなたの空とや思はれけん、(しづか)に念仏し給へば、沖の白州に鳴く千鳥、天戸(あまのと)渡る(かじ)の音」の辺、浄衣に緋の袴の切髪も綺麗な四十ちかい人が、「ほんと、血の涙を闇の空へ噴きあげるようにして、ホラあの誰かの瞽女(ごぜ)さんの絵みたいに、顔をそむけそむけ語るのよね。凄いの。聴いててこう、からだが浮いてっちゃうの」などという話を根掘り葉掘り訊き出した。

「なんて人だった」

「名前おぼえてない。右眼の真横にこんな――黒子(ほくろ)があったわ」と、娘は小指の先を親指の爪でチッとはじいた。

「――」

 面白いと思ったのは、当日の舞台装置だった。ただ荒削りの素木(しらき)で背後から押籠めたように殺風景に囲っただけという。そんな「(ろうの)御所」みたいな場所が、語りはじめると照明をうんと限って、それで燭台でもないのに検校(けんぎょう)のからだがとろとろと、朱い火に揺られ揉まれているように見え、なかなか「物哀れ」だったそうだ、そう娘の口から聴かされると思わず「ほう」と声が出た。見たかった。

「いい学校だな」

「え」

「そんなのに、連れてってくれてさ」

「でもないのよ。みな、ウエエと嘆いてたもん」

 ふっふと空をむいて思いだし笑いしながら、娘は、その資時とかいう人が平曲の節付けをした時分に、もう女の人でも「あんなの、語ってたのかしら」と呟いた。即答できなかった。

 私が通った高校に近く、泉涌寺(せんにゅうじ)の内に即成院(そくじょういん)という寺があった。地つづきに奥へ、丈六釈迦堂へむかう途中那須与一を(まつ)ったお堂があり、弓の名人のあの与一が源平合戦ののち京都のこの界隈で、琵琶は弾いたかどうか、物語僧めいて人を寄せては戦陣の(いくさ)語りをして聴かせたという。また、源資時には異母姉かもしれない信西遺児といわれる阿波内侍にも、場所は日野の方だけれど、似たはなしがある。

 とすれば「平曲」の中でも、勇壮活溌な拾物(ひろいもの)は主に法師が、優艶哀切な節物(ふしもの)は主に尼御前が語り分けるといった藝の指導や管理が何らかなされていたものかどうか、安居院(あぐい)の説経ともきっと大事な関係が、などと半ば酔いの紛れに想像を逞しくしていると、電話が鳴った。一瞬胸が騒いだが、同じ沿線に住む妻の幼な友達だった。

 受話器を抱いて隣の部屋へ妻が隠れると、私も娘を勉強机の前へ追い返し、さて坐り直して一升瓶を傍へ引きつけた。銀杏(ぎんなん)はなく雲丹の残りも心細いが、まだ酒は美味い。そしてこのまま、春に向かう日の思わぬ山遊びのあげく忍び入った高台寺の奥で、雪子に腕をひっぱられて見たあの、資時墓とやらを――など、ちょっと寒いかと思い寝の短い夢を夕食前にむさぼるのが、このところ行儀のわるい癖になっている。眼が覚めると酔いの方も醒めている。

 ――それにしても寺に墓地があり、鉤蕨のようであれ賽の河原のただ石積みであれ墓地に少々変り種の墓があるくらい、雪子が指さすに当らない何でもないことだった。そこかしこ青木や梅もどきの眼にしむ赤い実に彩られて、遅い山茶花(さざんか)が盛りだった。狽哆墳(ばいたふん)がだめなら、梅の薫っている御霊屋の方が覗きたかった。異形の茶席傘亭(からかさてい)も見えていた。

 但し雪子も蕨なりの石墓にばかり惹かれていたのではなかった、ためらいなく横を通り抜け、雨樋がななめに垂れた建物の方へ私の先を登って行く。その後姿にべつに変りはない。のに、なぜか、いそいそとというふうに見えた。思わずあとを追った。足もとに淡い緑の(ふき)のとうが二つ立って、星が光るように開ききっていた。足の踏み場に相応の石を積んで段にしてある、それが苔によごれ、木洩(こも)れ日がちらちら肩に頬に舞い落ちる。ふり仰ぐと葉隠れに無数に光の(しま)が、照っては翳り、大きな(むろ)ほどに樹々は枝をかわして繁っている。雪子は、だが、用ありげに私を促し促し振向きもしないで深山(みやま)の籠り堂めく古家(ふるや)へ歩み寄っていた。

 軒の浅い五間に三間の寄棟(よせむね)だった。南面した瓦屋根が沈みぎみに(たわ)んだまま、表はひっそり戸をおろし、前の空地に焚火のあとがあった。西に一つ花頭窓があいていた。崖を背負った裏へまわると、壁を()って佗びた出入口が作ってあり、もっと奥の山辺へは手洗いが出張っていた。便所が使いたかったかと思い当ったがそれでもなく、雪子は(さん)を渡した裏戸の前にちょっと佇むと、慌てる私を()一つで制して、とんと指で押した。忍びの来意を告げるぐあいで一瞬おかしかった。が、まるで違うある感じにも私ははっとした。ものの気はいが腰の辺を走って行った。音なく開いた戸の向うから、籠っていた冷気が白い山風になって吹き抜けた。

「やめとこ――」

 私はもはや片脚を(くら)い中へ踏みこんでいる雪子の背を押えた。だがそんな臆病者を(たしな)め顔にふと悩ましく雪子は腰を揺って、私を顧みた。そして黙って私の手を取った。取られて堪らず身を寄せたとき、かたんと背後(うしろ)で戸がしまった。

「――」

 この期に及んで雪子に呼びかけるうまい言葉がなかった。と――、「鳴り高し鳴り高し」と女声(おんなごえ)のような、庭火の燃え(さか)るようなかすかな物音を、聴いた。

 上がれ。身振で示して雪子はもう上にいた。昏い、と呟くと穏やかに奥から()の色がにじんで来た。肩を(すく)める、と、ほうっと暖気に添い寄られた。雪子は小走りに眼の前の襖をあけ、すると一時に賑やかな人のまどいの声や笑いが聴えた、と思った。

「雪子か」

 ぼうっとものに囲まれて愛八が坐っていた。燭をよせて、車座の中から愛八は私に会釈すると隣に一つ席をつくった。人の輸がくつろいだ。雪子が私の背の方へすこし離れて坐る、と、愛八は突如人長(にんぢょう)めいて「おお」と声を発した。さも頭梁の声だった。

 とね

と名指されて、女がひとりいきなり「総角(あげまき)やとうとう」と謡いだした。福々しい耳を長く垂れた(うば)だった。よく響く男の声が「(ひろ)ばかりやとうとう」と手を()って和した。愛八だった。車座のみながどっと囃しざま謡声(うたごえ)をあげた。

  (さか)りて寝たれども

    ころびあひけり とうとう

    か寄りあひけり とうとう

「とうとう」と囃し声に乗りあって「総角」の(うたい)そのままに振分髪も肩過ぎた、いつの間にか無垢の(きぬ)に緋の袴の雪子が、少年のように立って舞った。小笹を()り持ち、足を踏んで、

  (ゆす)り上げよ そそり上げ

 するとみなが和した。

  そそり上げよ (ゆす)り上げ

 誘われて私も下腹巻に薄青の狩衣(かりぎぬ)姿で()った。白小袴(しろこばかま)に黒漆の太刀を抜いて、

  谷から行かば 尾から行かむ

 袖を(ひるが)えして雪子が応えた。

  尾から行かば 谷から行かむ

 そして太刀と笹を打ち合わせ合わせ、私が謡うと雪子は足踏みして声佳く和した。

  これから行かば かれから行かむ

    かれから行かば これから行かむ

  女子(をんなご)(ざゑ)

    如月(きさらぎ)の雪の朝

  男子(をのこご)(ざゑ)

    弥生の春の花

  翻り(あふりど)檜張戸(ひはりど)

    檜張戸や 翻り戸

 耳順(みみしたが)わぬわが謡声(うたごえ)をひとしお囃され、ものが()ったようなまどい心地にかすかに悩みながらもとの場所にもどると、愛人は雪子を改めて私のよこに坐らせた。紙燭(しそく)をよせて愛八が自分の土器(かわらけ)をその火で(あぶ)る、と、とね瓶子(へいし)から酒を()いだ。手渡されて私が飲み、雪子へまわし、もう一度私が飲み干した。愛八は同じ焔で次に折敷(おしき)のするめを手に持って焼いた。香ばしい匂いが座に満ち酒がまわり出すと、思わず朗々と声を放って「よしなのわれらが独寝や、かばかり寒き冬の夜に」と痩せた男が謡った。みな笑った。男はむきになり座中に飛び入ってひょっとこになり、おたふくになり、猥褻な身振でまた笑わせた。その間に、愛八の手が細く裂いたするめを、私と雪子は一緒に食べた。

「良し」「良し」と諸声(もろごえ)に祝言を(とな)えるうちに愛八が今用いた紙燭をふっと吹き消す。と、一人立ち二人立ち姿を消した。とねは花妻雪子の長い髪に「千尋(ちひろ)」と呟き、そして愛八ももろともに見る見る暗い壁に影を吸われて行った。

 ――もとのままの雪子が、そっと私の手を引いていた。夜が明けるように、荒れた部屋から花頭窓の外がほのかに白いと、はじめて気づいた。

 畳という畳をみな起こした根太板(ねだいた)の上で二人は昏闇に声もなく佇み、やがて互いに顔をさぐりあって静かに抱いた。とめどなく雪子の頬を涙が、流れ流れていた。「(ゆす)り上げよそそり上げ」と囃す遠い遠い声と燃える火の音とが、魂消ゆるように消えて行った。――夢は、醒めかけていた。

   七

 高台寺の奥を犯した事件は予想外に咎められて、高校の卒業証書も、後日担任の自宅へ母と同道でもらいに行くはめになった。推薦入学のきまっていた大学に、もし入学を取消されてはと親も学校も手をつくし、新聞沙汰は免れなかったが仮名で済んだ――。

 脛高(はぎだか)に、長刀ほどの竹箒を構え持った若い坊主が山はらを駆け登りざま咎めてきたのと、あの時、咄嗟に「さきに()げて」と雪子が低く叫んだのが同時だった。私は()かなかった。頭をさげれば済むことと思ってたし、それに雪子より「さきに」遁げるという成行も(うべな)えなかった。

 私ひとりせめて墓地の方へ出てしまっておれば、かりに山坂を坊さん一人に追われようが敏捷な雪子は苦にしなかった、それに思い当って言われたままにすべきだった。同じなら雪子をまず遁がしてやれぱよかった。のに、にやにや笑いさえ浮かべてわざと糾問者の正面へ下駄を高鳴らせ、(いし)の廊下をずんずんおりて行った。仕方なく雪子もついてきた。

 ――「措かんかい」で、もう済まなかった。

 雪子のことは、親類の大人も乗りだし、残りなく押し潰しにかかった。「高校生の分際で」をとび越えて、ことは迂遠に「太閤さん」の検地や刀狩から大袈裟にはじまり、それを言うならいよいよ秀吉がただ無法に決めつけた差別を、二百年かけ四百年かけて徳川や大名が、いや「僕ら」百姓町人もこぞってもっと非道に、もっといわれなく手前味噌に煮つめてしまったという話に「尽きるやないか」と私は抗弁した。大人は、だが「それが政治いうモンやないか」と、もっともらしいが曖昧な、それで話がぐずついてくると要は愛八らが筋目立った藝人でないというだけの、手前勝手に酷薄な言い草を、幾通りにも繰り返した。

 場合が場合だった。私の()は悪すぎた。

 抗弁するにも人の下に人をつくらず、職業に貴賎があるのか程度しか言えず、それしきでことは済まない。親は賢く雪子を棚に上げて、ただもう「愛八はあかんにゃ」で押しとおす。

 なるほど壽海や我當が「()ェ」のは認める、観世や金剛が「佳ェ」にもきまっている。が、愛八が南座の舞台を踏むか能舞台に立つか、地蔵盆の余興を「のろんじ」で稼ぎよるたかが内職の町藝人やないかと、その一点張りに物を言わせ回りまわって親は子に、何を、どう、説諭したいのか、私にはわかっていた。黙って聴いている自分が、はずかしかった。

 愛八の藝こそひよっとすると成田屋や松島屋のよりずっと久しい由緒来歴に守られているのかしれぬ。それを正しく書くのが本当の「歴史」というものだ、自分は愛八や雪子の身が体しているのかもしれぬ、不思議なそんな「歴史」に敬意のようなものを感じている、といったことを高校生の私は朧ろげにも言いたく、だが言い表わすすべを知らなかった。言いえないまま押しまくられ、何度か父に顔を張られもした。くそ、と思った。大恩ある育ての親を、だ。

 顔も知らぬ生みの親が、もし愛八らのようであって私はかまわなかった。いきなり愛八が父親でもよかった。そうであるのかもしれぬとすら、私はあのとき妄想した。真の身内とは何だろう。袋の口を紐でひき絞るぐあいに、その問いは私ののどもとを締めつけた。あの一瞬、少くもあの一瞬雪子こそは、わが身内わが血肉だった。

 あの朝早に、ことがこじれて松原署へ突きだされてしまってからも、雪子は、私のことを行きずりに自分が誘った名前も知らぬ相手と言いはり、姓名住所を頑固に喋らなかった。が、雪子がどう私を庇おうにも近在の前評判が高過ぎた。(とが)はみな私にあった――。

「ほななにか。俺のほんまの親はどうやのン。どこの誰とも、この歳になって(おせ)てもらえんちゅうことは――」

「あほ。言うてえェことと悪いこととあるで、(ばち)当りな」

「へえ。俺に罰当てるよな、そんなお人が、よその巣穴へ雛なげこむみたいに、生んだ子ォ他人(ひと)に育てさして、どっちが罰」

他人(ひと)――」と父の声が浮わずった。首をすくめた。

他人(ひと)てなんやね。他人(ひと)やて、もう一ぺんぬかしてみィ」

「――」

 聴きよい喧嘩でなかった。父も母も青くなって胴震いしていた。

 私が頑固になったのは、父が叔父と語ろうて雪子のところへ強談(ごうだん)に行ったと言葉の端に察してからだ、糸へんで有卦(うけ)()った叔父の日ごろ横柄なのも嫌いだった。雪子が、二人がかりで面罵されたかもしれぬと思うと屈辱感に自分自身が(さいな)まれた。「何言うた」「なんて言うてきたんや」と胸倉へとびつくほど問い詰めても、父は以後口を(つぐ)みとおし、それで私も激した。

 ――雪子にも愛八にも、その後、私は会えなかった。三月のうちに二度行き三度行って、表戸が釘づけしたように()かなかった。電話で埓があくと思えなかった、だが電話もした。女の声で「どなたさんですか」と訊かれ、雪子をと頼むとぶつりと切れた。当人ではなかった。

 四度めに出かけて、中から戸が開いた。洋服なのですぐわからなかった、地蔵盆の宵に曲師を勤めたおばはんだった。顔を見られた眼がちょっときつかった。

 身振りで入れと言われた。

 土間が冷えきっていた。後手(うしろで)に戸をしめた。眼の前を手ではらいたいようなうす暗さだった。

 あとについて、洗い物に布巾を掛けた籠など置いてあるせまい流しを通り抜け、井筒の脇の隠し戸をとんと押して下駄をぬいで上がった。名ばかりの濡れ縁の右が焼板塀に囲まれた坪で、左のガラス戸をあけると寝たきりの床が老人の匂いをさせていた。老婆だった。見たところ京間(きょうま)の四畳半に朱塗の古箪笥が一棹と鏡台、()をしめたちいさな仏壇のほか塵一つなかった。枕もとに青磁の唾壷(だこ)を置いたのにも素木(しらき)で蓋がしてあった。

 天井は黒かった。押入の襖は渋い無地だった。花やかなものはなにもなかった。めくら縞の薄い座蒲団を出された。

 その前に「おばさん」と呼んで、ともかく、雪子に迷惑をかけた詫びを私は畳に手をついてした。どうしてくれるとも言わず、おぱさんは黙りこくっていた。耳たぶを垂れたお婆さんは意外にふっくらとした白い指さきだけ振って、もうよいということを呟いたらしかった。

 雪子がこの家にいないこと、曲師のおばさんが、愛八には、父親違いの姉に当ることがわかった。雪子が愛八こと遊垣専一の娘ともどうとも言わなかった。私は逢いたいと頼んだ。両手をついた。沈黙の壁の厚さに凄みがあった。おばさんの顔が見にくかった。寝たままの人は、奇妙に愛らしいような嗄れ声で、雪子に聞いた親子丼のことを私の口からも聴きたがった。

 食べ足りなかっただけという思いが私にはあって、あれで雪子の気もちが(ほぐ)れたとあとで察しながら、だから吃驚(びっくり)したし、胸も痛んだ。同火同食一味同心と言い換えた雪子の底昏い惑いにも思い当っていた。

 くどくどと年寄は、雪子が一夜明かして泣いていた、だが悦んでもいたのだと私に告げた。そういう話をおばさんは()めはしなかったが、押し黙って堅苦しく正座していた。お茶も出なかった。お茶ぐらいと母親が言いかけても起つ気色はなかった。起って部屋を出て行きでもしたら、その間に、強いても年寄の口から雪子の居場所を訊きだす気だった。

 今にしてあの時、だれ一人、私にしても、結婚の二字をけっして口にしなかったのに、思い当る。雪子の居場所を知って私がどうする気だったか、皆目思い出せない。

 それでも、雪子の母が一つ違いの雪子の妹を実家(さと)に置いて、今はどこか会社員の奥さんになっていることをおばさんは私に言わずにおれなかった。なぜか場当りのいい広い庭の植木の棚が眼に見えた。真新しい自転車も幻になって見えた――。

 木地というのは雪子の母が育った家の苗字だった。雪子は自分の意志で愛八のもとへ身を寄せていた。なにも訊くなという無表情で、今さら木地という家を探しまわらぬがよいと、おばさんは脅すような口つきをした。寝床の中で老婆がしくしくと顔を蒲団に隠した。

 愛八が帰ってくる様子はなかった。

 くらい坪庭の笹から南天の実へ建仁寺の小鳥が一羽二羽寄ってきて翅を鳴らしていた。ひどく寒かった。半ば背を押される心地で外の小路に出た時、彼岸過ぎの粉雪が散ってきた。

 父も母も、私立大学へ私が推薦されてしまったのに、半ば閉口していた。浪人も迷惑だがどこか国公立の学校へもぐりこむものと楽観ぎみだったのが、万事塞翁が馬式に思っていた私は、入学許可が暮のうちに内定すると、もうどこへ願書も出さずじまいだった。一緒に担任の自宅へ卒業証書を受けに行った日にも、母がその辺の愚痴をこぽしはじめると、そもそも「お前なら推薦でいくで」と私の眼の前で三年間の成績をおさらえしてみせたご当人は、頭を掻くだけだった。推薦を受けたうえはよそへ行かれて困るのが当の大学より、高校側だった。担任教師だった。そんなやりとりのお蔭で、高台寺一件を大人同士蒸し返しそうにない成行に私はほっとしていた。

 翌日、今度は思いがけない中学時代の国語の先生から呼び出しがあった。無いことだった。新京極の裏寺町で一寺の住職を勤める一方、私が習っていた時分は立命館の夜学でも太平記を講義していた。この時はもう常勤の講師になっていた。

 生徒はかげで「ヘンコツ」と呼んだが、偏屈というよりけったいな(ぼん)さんだった。丸坊主の袴姿にどたどたの編上靴を履いて学校へ来たりした。この先生に私は歌を詠むことを教えられた。徒然草や平家物語を岩波文庫で買う気にもさせられた。が、その常安寺へ訪ねて行く気も機会もかつてなかった。

 (ひる)過ぎにということだった。庫裡(くり)の土間に下駄履きで立って大声で奥へ案内を乞うた。打ち返すように、「上がって来ォい」とずず黒い天井伝いに先生の声が籠って聴えた。不機嫌そうでもなかった。先客と話しているふうだった。

 先客は、木地雪子だった。これは、予想もできてなかった。立ち疎むのを見上げられて、眩しそうにうへっとでも呟くと私は敷居際に両膝をついてしまった。

「ナ、お前。これ読めるけ」

 紙切れ一枚に、坊さんのわりに巧くない筆で、烏丸丸太町――と書いたのを先生 はひらひらさせた。

 ほっとした。

「からすま、まるたまち、でっしゃん」

 雪子がくすくす笑った。先生はわざと渋面をつくって、

「それやからお前は、阿呆(アホ)ちゅうんや」と横を向いた。

 仕方なく雪子を見た。

「からす、まるまるふとるまち――やて。どっかの就職試験に、そないに書いた生徒がいたんやて。それだけで受かって来たいうて、今、先生(せんせ)に聴いたとこ」

「百点()んのもええが、お前かで、たまにこれぐらいは言うてみィ」

「言います――」

「そうか、そな、よろしと。さ、こっち()ィ」

 雪子のよこに手焙りをはさんで、さすがに紫色でふかふかの座蒲団があいていた。畏まるひまなく、「この子の親爺とは、よォ知っとンにゃ」

 先生はくいと雪子をまるい顎でさした。先客と思ったが、客というより、この寺の住人のような寛ぎも雪子のそぶりに見えてふと(いぶか)しかった。だが、先生の言う「親爺」が愛八なのかべつの人物か、気押されて反間できなかった。場合も場合だった。雪子も手を膝に置いていた。

「どや。えやろが、もう。先々ちゅうこともある、わるいことは言わん。この辺が、汐時やて。二人とも、ここでやめとけ。この子はその辺承知しとったンやが、お前の方はもともとどっかチョロイよって。

えろ永いあいだなにかとご苦労はんやったそうなが、――結局そのチョロイとこにこっちが(と先生は雪子を見た)負けた。負けてよかったて思わんではないンやが、――それにしてもきついアク落しも、してしもたことや」

 一と息あった。そしてもう一度、「この辺で、モ、得心せんか――」

 俯いたきり雪子を窺った。雪子は鼻すじを傾けてしんと黙っていた。つまりは別ればなしらしい、雪子なりに話は付いている風情だった。

「ご迷惑、かけました。ぼく、なんや今はナサケない気分ですけど――そない悄気(しょげ)てェしません。木地、さんとは、大学出たらまた、逢います」

「逢えるもンなら、それでもえやろ。お前も、そやな」

 書きもの机の向うから覗きこむように先生は雪子の反応を促した。雪子はひたすら静かなまま、もっと俯いたのか眼でものを言ったか、私にはわからなかった。雲居庵(うんごあん)の板敷に、古畳を黄泉国(よもつくに)のように立て囲って抱きあって寝た夢うつつが、薄れて行く絵空事の記憶のようで、掴めるのならぜひもう一度この手で掴みたかった。

「今、――どこに」と訊いた。雪子はびくっと上体を揺った。私を見、すぐ先生の方を見た。急いで私は手を横に振った。

 ことんと沈黙の穴に落ちこんだ。雪子は憂鬱そうだった。私もだった。先生のまうしろの壁に無造作に掛かった二行の書をぼんやり読んでいた。雲ハ無心ニシテ以テ(みね)ヲ出デ、鳥ハ飛ブニ()ンデ還ルヲ知ル――。習って間のない帰去来辞の一節だった。俺たちは雲にも鳥にもなれんのかと思った。

 もう帰れと言われた。いっしよに雪子も席を起つのを先生は()めなかった。さっきの土間に、やはり雪子のらしい靴は見えなかった。先生は上がり(かまち)に立ったままもう一度私を呼ひとめ、こう言われた。

「思う所はお前にかて有るはずや。が、それはもっともっとしてから、文章に書きなさい。それもお前の、道、ちゅうもんやないのか――」

 どこから廻ったか背後(うしろ)へ雪子が来ていた。一歩退(しさ)りぎみに、どっちへとなく私は頭をさげた。

 とっとと戻って行く先生の法衣の尻が幾筋にも引き()れていた。

   八

 常安寺の先生とは近年二度つづけて出逢った。二度とも出版社の年忘れパーティのさなかで、二度とも私の方がうしろから肩を叩かれ、「読んどるで」「きみ、古典の現代語訳もやれよ」と大声が耳に残ったきり、片掌の塩をなめなめ、枡酒の手もとも危なかしく入道雲のような頭をまた人波に沈めて行った。なつかしかった。が、あとは追わなかった。まっとうな背広姿がふっとおかしく、「きみ」と呼ばれたのも、あとになってくすくす笑えた。

 先生が、多分、へたながら浪花節も語った愛八と懇意だったことはその周到な太平記研究とも繋がっていたのだろう。謡曲の詞章の研究や、「平曲」以来の語り藝と結びつく「明徳記」だの「曾我物語」に学界がおどろく(くわ)しい註を先生が付けられたのもそうだったのだろう。それどころかあの愛八は、品玉(しなだま)法師のように物語も申すけれど放歌もし曲藝物真似も見せたような、ささらを摺って説経したような、つまりは「自然居士(じねんこじ)」流の本物の末裔だったのだろう。それとても能役者や歌舞伎役者にはなれずじまいだった。そして河原から巷に紛れいって、遠いはるかな大道や鳥居本(とりいもと)の藝がさらにはるかに太古の神遊びや上古の散楽猿楽にも根差していたことを、かろうじて今の世に証ししていた。常安寺の先生は、きっと雪子にも愛八を嗣ぐ期待を寄せていたのかしれない。

 ――雪子とあの日、はじめて四条の喫茶店に入った。白いブラウスの上に緑色の尻まで隠れる毛糸のコートを着ていた。下はやはり軽杉(かるさん)ふうのもんぺだった。

「コーヒー、好き」と雪子が訊いた。先刻来の沈黙をかつがつ自分から破るという感じだった。私は改めて一と口すすって「たいして」と返辞した。カップも恰好よく持てなかった。

()こ」と雪子が先に席を起った。どこへとも問い返さなかった。帰れと言われるまで雪子との時を惜しむ気だった。

「眼ェつむって、ついて()よしや」

 人さし指をしっかり()てて命令するようにそれを言った雪子は、もうあの、眼から下はいつも穴にもぐっていたクラスメートとちがった。

 私は頷いた。頷いた気持は、信心とでも譬えていうしかなかった。雑踏する高島屋の一階を斜めに通り抜けると、河原町を南向きに二人は歩きだした。今にも落ちて来そうな雲の低さだった。

 歩いてばかりいなかった。市電にも郊外電車にも雪子が言うまま乗ったり降りたりした、と思う。が、どこをどう経廻り歩いたか言うことはできない。蒸籠窓(むしこまど)のある長屋の、せまい軒下をどぶ板を踏んでぐるぐる曲り歩いていた。こざっぱりしていた。そうかと思えばどす黒く物の(くま)をはらんだ小屋がけの、身も細る(あわい)を、泥濘(ぬかるみ)にずぶずぶ足袋も濡らし堅く歯の根を噛んだまま、精いっぱい雪子のあとをただもう歩いた。

 下湿()めりの古茣蓙(ござ)襤褸(ぼろ)にくるまれて二つ三つの女の児同士が遊んでいた。仏の座や地縛りが桃色や黄の花をもっていた。軒下から出した焜炉の上で煉炭(れんたん)の穴がぺろぺろ焔を吐いていた。ただ立てかけた板戸の中で、蓋をあけた鍋に底知れず白く泡立ってなみなみとものの煮えて匂っているのも見た。いやでも見えた。屋根から屋根へ乾かない洗濯物で道を塞いで、吹き抜ける路地の風が煽るすきに、顔を伏せて下を潜っても来た。狭い空地一面に、育ててでもいるか、エビネやフタリシズカのまだ花にならない若芽が匂っていた。人けのない寺を通り抜けた。ひくく朱い鳥居を潜った。東に、いつも山があった。

 かと思うと、武家屋敷というほどの堂々たる家々が棟を並べていた。定紋が打ってあった。一人は犬を連れて、朗らかに笑いあう中年過ぎた女の人たちに、雪子の方からていねいに声もかけていた。

 かと思うと、窮屈な出会いがしらに何度か人にぶつかり、そのつど呻くように低声(こごえ)で罵倒された。私は大慌てで、失礼、失礼と呟いて跳ねてとぶように雪子のあとを追った。覗きたい店もあった。雪子は無表情に取りあわなかった。ポストが立っていた。踏切を渡った。鼠が走るのを見た。太った猫も見た。新しい保育園があった。交番があった。鋭い眼をして、路傍にかたまった男たちに口笛も吹かれた。酒の香も嗅いだ。食べもののにおいに空腹も感じた。運動場の横も通った。

 そこがどこか、どこであっても同じ京の街なかだった。(くるわ)もあり、商店街もあった。きれいな所があり、汚い所もあった。

 突然家の中へ入った。天井は低く、土間の土も真黒ではあったが台所の柱も根太(ねだ)も堅固だった。建仁寺町(けんねんじまち)の愛八の家を想い出した。静かだった。

 雪子は上がり框にひとり待たせて黙って奥へ姿を消した。人声がして、やがて、雪子をすこし華奢にしたような、眼の横にちいさな黒子(ほくろ)のある女の子が、岩倉か古清水(こきよみず)といった湯呑に香ばしい茶を()れてきてくれた。少女は一礼するとすぐ引っこんだ。雪子が裾短かな黒いオーバーに着替えてもどってきた。だれか若い衆が(かど)からひょいと覗き、おっと声をあげて引っこんだ。

「疲れはったやろ」と雪子がやさしい。

 私は元気に首を横に振った、と思う。それより尿意に悩んでいた。足袋がすっかりだめになっていた。そう言うと、雪子はちょっと思案していたが、意を決したように似た足袋を探してきた。すぐ履き替えて便所へ行った。濃い植物の匂いがした。朝顔に叩きつけるように私は、「措かんかい、とは何じゃい何じゃい」と呟いていた。

 また歩いた。

 出来て間もない、何階もそして幾棟もの集団住宅の庭を、雪子は私をつれて突っきった。

 さっきから、雪子が何を考えているか、察しがついている、つもりだった。雪子の殆ど我武者羅な歩きっぷりは、それがもはや力ずくの、別れの儀式――。

 雪子は時々ぎらぎらした眼で私を見た。私も、どうくたびれようが雪子がもう良しというまで歩く気だった。走れと言うならはだしになっても走る気だった。京都

という名の土という土を踏み抜きたい気だった。二人はいつか鴨の河原を黙々と、足もと突っかかりかかり歩いていた。顔へ、胸へ、雨が落ちてきた。

 川がどっちへ流れているかも私は無視していた。夕暗に時おり白く光る雨脚に打たれてどっと雪子が水際に坐りこんだ時、遠い北山の雪が一瞬の夕日に桃色に映え、すぐまた墨の色に沈みこんで見えなくなった。

 ――何かから夢中で遁げるように、川下の巷を振切って丸太町(まるたまち)より(かみ)までいくつも橋の下をくぐった。どの橋の下にもわびしい小屋がけの幾世帯かを見て通ってきた――。

 腕一本で雪子の背をわずかなりと庇う庇う隣りに蹲踞(かが)んだ。雨はセルロイドのカラーを伝って背筋を濡らす。丸太町の、あの橋の下までもどろうと言いかけて、やめた。雪子が決めることだった。と、雪子は立った、かと見ると、そのまま、くるくるっと二度、眼の前で一世一代のトンボを切った。ついとしゃがんで、のみを拾う猿の真似をした。巧かった。きわどくこの()に愛丸が物狂うて見せた遊んで見せたと思った。が、雪子はそのまま影法師になってうずくまると、足もとの小石を力まかせに川面へなげた。がっくり顔を垂れて影法師はもう起たなかった。

 気違いじみた若いアベックに声をかける者はない。

 霧を巻いて河原は刻々闇に冷え、いくらもいた小鳥の影もなかった。(しん)の髄まで強まる雨に打たれ打たれ、やがて雪子は全身で雨粒をはじき返すように、髪を揺り身を揺って泣きだした。顔を空にそむけて泣きつづけた。向う岸に大学病院の窓の灯がにじみ、鴨の川面(かわも)真昏(まっくら)だった。

 いやな街だ。

 すぶ濡れの雪子を力かぎり抱きながら、つくづく、そう思った――。

 ――大学を出ても雪子と逢わなかった。四回生で知りあった妻と一緒に京都を捨て、東京で結婚した。

 木地雪子が、まだ私が一年間大学院に籍を置いていた間に、それはちょうど、私が妻の卒業を待っていたような間に病死したらしいことを、結婚後七年めの夏の休暇で親の家へ帰って、聴いた。話してくれたのは、むかし「平家物語」や「徒然草」に手づくりの絵カヴァーをかけてくれた人だった。独身で、開業医の経理をあずかるかたわら裏千家の茶を人に教えていた。今も絵は好きと言いながら、わずかな立ち話の間も陰気になっていた。雪子のことをもっと聴きたかった。が、(ゆる)されることでなかった。(こら)えて、俯いて、そうですか、と頷いた。将軍塚で、雪子が拾ったおはじきの黄色が蘇る。一瞬肩先へものが来たと感じた。「資時」を書きたいと、あの時、思い立った。そう思いながら、はじめて私は本当に青くなった。地に顔を擦りつけて雪子に詫びたかった。愛八にも、曲師のおばさんや耳たぶを垂れていたお婆さんにも詫びたかった。

 その晩、夢を見た。夢の中で私は高台寺の墓地を上って行く女を追っていた。そして、急に姿を見喪った時、眼の前に金網の破れがあった。とびこみながら性急に「雪子」「雪子」と呼んだ。そう呼んだつもりだった。のに、まるで違う名前が山辺にこだまして、するとわざと隠れているのか、ほどよい木蔭から名を呼び返された。知らぬ名だった。が、それはもう私の名前に相違なかった。露坐(ろざ)の大仏の上を勢いよく鳩の群が舞っていた。

「なぜ、わしを置いて行く」

「ほっほ……ちゃんとわたくしのあとをつけておいでだったではありませぬか。わるいお方が付きまとうと、さあ、父上の前で言いつけましょうか」

 私は苦笑した。雲居寺(うんごじ)の池の上を渡って熱心な師の御房(ごぼう)の繰り返し繰り返し弾く琵琶の手が聴えていた――。

 妻が揺り起こした。

「いやな夢、見たの一一」

 そうでもないと返辞して寝返りを打った。妻の横で、まる五つになる娘もかすかに夢の中で身(じろ)いだようだ。鉤蕨(かぎわらび)に似た、あれが雪子の墓かと、ふと想った。

 東京へ帰るとすぐ、夢そのままに『雲居寺跡』の出を書きだしたが、二年かけて、結局中絶した。若かった女優のKを、はじめてテレビで観たのがその時分だった、切ないドラマを気迫で演じていた。右の眼に並んで、ちいさな黒子があった。

 それからでも十何年かたち、一一まだ資時の小説は書きだせない。

 しきりに木地雪子を夢見たかった。将軍塚で雪子が拾ったガラスのおはじきを、鴨の河原へ、今度埋めに行こう、ぜひ行こう。

 そう思い思い、今夜も酒の量を過ごした。

――完――

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2007/05/11

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秦 恒平

ハタ コウヘイ
小説家 1935年京都市に生まれる。1969年小説「清経入水」で第5回太宰治賞受賞、第33回京都府文化賞受賞、元東京工業大学授、日本ペンクラブ理事の時電子文藝館を創設した。

掲載作は、1978(昭和53)年、弥生書房「あるとき」10月号に原題『雲居寺跡』で初出、のち改題して講談社刊表題作として『初恋』に、さらにシリーズ「秦恒平・湖(うみ)の本」11『畜生塚・初恋』に所収。