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慈子(あつこ)

   序 章

 

    一

 

 正月は静かだった。心に触れてくるものがみな寂しい色にみえた。今年こそはとも去年はとも思わず、年越えに降りやまぬ雪の景色を二階の窓から飽かず眺めた。時に妻がきて横に坐り、また娘がきて膝にのぼった。妻とは老父母のことを語り、娘には雪の積むさまをあれこれと話させた。

 三日、雪はなおこまかに舞っていた。初詣での足も例年になく少いとニュースは伝えていた。東山の峯々ははだらに白を重ね、山の色が黝ずんで透けてみえた。隣家の土蔵(くら)の大きな鬼瓦も厚ぼったく雪をかぶって、時おり眩しく迫ってくる。娘も、はや雪に飽いたふうであった。私はすこし遅い祝い雑煮をすませ、東福寺へ出かけた。市電もがらんとしていた。

 正月三日の東福寺大機院では院主主宰の雲岫会(うんしゅうかい)が毎年()まっての歌会で、初釜を兼ねてある。院主が歌詠みの仲間を集め、奥さんの社中初釜に便乗して喫茶喫飯の余禄にあずかろうという、欠かしたことのない催しであった。子供の時分から叔母の茶の湯の縁につながって時々出入りするうち、私も歌を詠むと知れて、高校時代から院主の招きを受けるようになっていた。特に喜び勇んで出かけたい場所でもないが、かといって、東京でのかすかすした日常から歌詠み茶喫みというすさびをなつかしむ想いには時として抗しきれぬものがあって、実はこの日も、私の方から詠草まで先に届け、久々の参会を申し出てあった。

 高校への通学道がこの東福寺の境内をよぎっていた。毘盧宝殿(ひるほうでん)の森閑とした禅座、金色(こんじき)眩ゆくふり仰いだ正面の尊像、山門楼上の迦陵頻伽(かりょうびんが)たち、夕暮れに翳った僧堂、くずれがちにつづく土塀――。いささか広漠として、寂びしく荒れた寺内の静かさは、当時すさみがちだった少年の気もちをいつもいたわり迎えるふうであった。殊に、来迎院(らいごういん)の人をまだ知らなかったうちは、この大機院へよく立ち寄っていたのである。

 歌はいずれも平凡だった。作品は一応披露されていたが、点を入れることはしないでただ感想を述べた。感想に世間ばなしがまじり、酒盃が往来し、一盞また一盞で陽気になる。院主の小謡(こうたい)が乞われぬままとび出す頃は、歌会もおひらきに近かった。もとより席中の若輩であり、ともすると一別来の、殊に駆け落ち同然に古都を逐電(ちくてん)した一件が肴にされがちで難渋した。

 先刻来、茶室脇の広間には綺羅を重ねた人の出入りがうかがわれる。炉中に炭を活け、奥さんの濃茶点前(こいちゃでまえ)に社中が続いて薄茶(うすちゃ)()てまわしたあと懐石一巡というつねの手順であろう、歌の連中は、茶事佳境に達する頃のこの懐石料理を我が方にもさらえこもうというのであった。

 歌はとりとめなく、談は馴染まない。

 水屋の方へ抜けて出たが誰もいなくて、今()んだらしい濃茶の味を問うている奥さんの陽気な声が洩れきこえた。

 茶室に入ってみた。三畳の小間で、下座床(げざどこ)宗旦(そうたん)の水仙絵入りの(ふみ)を掛け、花はない。にじり口をすこし開け、苔で名のあるこの寺のその苔のふくよかな(みどり)を雪の下にはなやかにふと想い描いた。

 呼ばれて広間へ通った。道喜(どうき)の花びら餅が運ばれた。淡い蒔絵の縁高(ふちだか)が正月らしく花やいでみえた。

 慶入(けいにゅう)の茶碗で茶が出た。さして古碗(こわん)ではないがやや小ぶりな手ざわりに漆黒の美しさが照っている。軽く興奮していた私は、行儀のいい話ではないが楽茶碗からなかなか手が放せなかった。

 実をいうと妙に落ちつかないのだった。心の内を何かしら流れるものがある――。

 はて…と思い直した時「岩田さん」と奥さんは呼んだ。「もう一服差上げとおくれやす」ときこえて、私は点前の人を真直ぐみた。その人も私をみて、そして(かえ)の茶碗をとり、型通りに湯を汲み入れた。

 慶入を()に包んだまま私は点前(てまえ)の人をみていた。岩田良子とは十年来逢わないのだから()る肖ないといえるほどの細かな記憶はないし、とにかくも眼の前の人はずっと若い。柄杓を扱う袖から膝へこぼれ梅の紅が凛と映えていた。

 今一服を味わいながら奥さんに、お社中の方はこの辺のお嬢さんが多いんですかと遠まきに訊ねてみた。岩田良子の家はたしかこの寺域を東へ出、一帯に泉涌寺と謂われる清水焼(きよみづやき)の窯場を抜けてちょうど学校の丘の真下あたりと聞いていた。

 奥さんは私の問いを学校と結びつけ、かつて私が日吉ヶ丘高校の茶道部にいたことなどを大層らしく披露してから、ここにも何人か後輩がいる、あの人この人と教えてくれた。点前の人もそうであった。実は岩田さんという名をきき、この方をみて、学校の時分に一緒だった人を想い出したと名前もいってみた。姉ですといわれ、もう驚かなかった。

 席中であり、それ以上のことは話さなかった。座には笑い声も起こって、さわさわと点前は仕舞われていた。それも、歌会の連中が賑やかになだれこんできて浮足だち、茶事はそのままご馳走のもち出しとなった。ご機嫌の院主は中座(ちゅうざ)の私をみてこいつめという顔をした。

 席盃一巡の時、私はまた座をはずして廊下へ出た。

 その人は水屋にいた。人から離れて、雪の消えてゆくのをみているふうであった。私に気がついて、すこし朱らんで目礼した。押しづよいかと思いながら、もう一度お点前でと頼んでみた。うなずいて、すぐ用意にかかったので、水屋から通り抜けて私は茶室へ入った。

 湯はたぎっていた。寒いほどではなかった。明り窓ちかく雪のくずれる音が淡いかげを走らせていた。美しい人は背をかがめながら水屋口に姿をみせた。広間から佗びた台目席(だいめせき)へ移って音もなく同座すると、袖の紅梅がうるんで浮かびあがる。道具を仮置きすると(しゅ)水指(みずさし)を炉の脇へ直した。ためらいのない取りなしのあとに、「岩田磬子(けいこ)でございます――」と礼に代えて挨拶があった。文字を問い、耳を澄ませた。

 稽古のこと、雪の正月のこと、数年ぶりにこちらを訪ねたのだが、以前にお目にかかったこともあったのだろうかということ、久々の京都でなつかしいこと、東京でのくらしのこと、学校のことなど、あれこれ語っては答えながら、話は良子のことに触れてゆき、そして、「姉は亡くなりました」ときいた。声を呑んだ。

 釜の鳴りがひびいた。

 磬子は点前の手をやすめていた。それに気づきながら私は栗木地(くりきぢ)炉縁(ろぶち)なめらかな肌色に眼を据えていた。そうでしたか、で、いつのこと、驚きましたねと話を継げぬことで、私は心の内を隠せないでいた。亡き朱雀(すじゃく)先生のことまで自然と思い及んで、この年の瀬に訪ねた来迎院の雪の庭がありあり目にうかんだ。

 水指の水が釜に()がれた。

 岩田良子は学校にいるうちから重く患いついて、卒業式にも出られなかったという。存じませんでしたと低声(こごえ)で応えたばかりで、それについて(くや)みのことばも言えずに終った。

 茶は美味かった。

 磬子さんと呼んで、我儘なおねだりをしたことを詫び、今度は奥さんに叱られに広間の方へ戻った。目礼して見送る人の、肩さきから胸から、目も(あや)な紅梅がはらはらとこぼれ散るかとみえた。

 知りたいと思っていた人の消息を私は知った。哀しい辛いと嘆くような何ほどの関わりもなく過ぎ別れた人である。その上、昨日今日のことでもなかった。それでいて、死なれたかという気もちだけは底白いあきらめのようにいつまでも残った。

 岩田良子には死なれていたが、生きている妹と逢った。姉の死を淡い絵空事に思った私が、東福寺を去って、妻や娘たちのいる久々ににぎやかな老父母の家へ戻ってゆけば、また磬子という人のことも、思いがけずみて過ぎた他所(よそ)の庭の山茶花(さざんか)くらいに色うすく感じられたのはふしぎだった。冴え冴え紅いこぼれ梅の衣裳だけが印象にのこって、その色彩に染められた部分にだけ、磬子のことを想ってみるはたらきが、あった。

 なぜか私は来迎院へ寄らずに帰った。

 

    二

 

 年の瀬の来迎院(らいごういん)には、雪を()て淡色の山茶花と痛々しく白い佗助(わびすけ)が咲いていた。雪しずくがしきりと池に落ちた。

 慈子(あつこ)は持って来た朱い傘をぱちんと開いた。傘は身一杯に迫った生垣の雪を勢いよくはねた。あやうく庭石を一つに踏んで私は傘のかげにすべり()った。慈子はすこし微笑って言った、

()って下さいます」

 ああ、そうかと鋏を受けとり、足もとに気を配りながら池をまわって、山茶花を枝長に截った。そばに朱い実の千両の一叢(ひとむら)がある、それも、と慈子は言った。

 雪はこやみがちに降りついでいた。 丈高い生垣に囲まれ、ものの底に佇むふうに慈子は含翠庭(がんすいてい)の池をのぞいていた。傘の下で顔が朱い(かげ)にみえた。お利根(とね)さんが見覚えのある男傘を持って出てくれた。慈子は開いたままの自分の傘をお利根さんに手渡して、私の方へきた。門へ続く石道のわきに寒さにいじけて石楠花(しゃくなげ)の株が黝ずんでいた。

 お利根さんは袖なしの紙衣(かみこ)を羽織っていた。天台色(てんだいいろ)に柿渋を塗った黄な厚い地紙の肌が慈子(あつこ)の娘らしいあかい傘のかげを映して、いっそはなやいだ後姿だった。

 心もち前かがみに細い(たに)ぞいの道をゆくお利根さんに慈子は声をかけた。振向くよりも先を急ぐようにお利根さんは「大丈夫ですよ」とはんなり応えた。滑りそうになると慈子は傘を持った私の手にすがる。架けかえた鳥居橋の真新しい朱色が渓の向うにみえていた。小径が崖ぞいに急に右へ折れる辺りからは遠のいた渓の流れがかえってざあざあきこえた。

 来迎院の背戸越えにちょうど山ひだ一つ北側、夕暮れには西日が一とき山はらの深くまで朱く染める場所に朱雀(すじゃく)先生のお墓はあった。観音寺の正面が()のまに見下ろせた。山の高みに玉垣の隠れみえるのは後堀川天皇の御陵だ。

 先生のお墓には来迎院から椿の古木と石楠花の一株(いっしゅ)を移した。朱い椿が遺愛の鞍馬石をあてたなだらかな山なりの墓石に散れば、せめて、荒寥とした、そこここに大きな切株のあとが黝ずんでいたりする行くはての里を飾りもしよう――。だが、椿も石楠花も、花咲く時季にまだあれから一度もめぐり逢っていなかった。

 慈子はその椿に手を添えた。お利根さんは背をこちらへ向け、雪を積んだ観音寺の屋根をみていた。すこし明るんだ空の色が遠くにあった。

 私は慈子の傍へしゃがみお墓に掌を合わせた。

 つづいてお利根さんが(ぬか)づいた。慈子は傘をひろげて背後(うしろ)に立った。

 渓をこえてサイレンがきこえた。赤十字病院で正午を告げているのだ。その単調なかん高い音が私にいろいろのことを想い出させた。

 私の昔通った高校は泉涌寺下の空の広い丘にある。一望に下京(しもぎょう)の町がひらけ、東寺の塔が晴れても降っても遠い西山の峯より高く正面にみえる。左に東福寺の森があり、右前方には赤十字病院が白堊(はくあ)の姿を巡洋艦のようにいらかの波に浮かべていた。朱雀光之(みつゆき)先生はこの船にのったまま不帰の客となられた。三日も四日も雨のやまない去年の六月だった。

 訃報は関西出張の私と入れ違いに勤め先へ届いた。家族連れで出ていた私は名古屋、岐阜、大阪、岡山の仕事を仕上げ、妻や娘の待っている京都の家へ落ちついて次の日、先生の死を知った。葬送は(とどこお)りなく果てていた。来迎院には女二人が身を硬くして坐っていた。咲きのこりの五月花(さつき)も雨に砕かれ、青もみじだけがあざやかに雨あしに光って揺らぎつづけていた。

 先生は四十六歳だった。

 ものもいわず雨の庭へ出た。池の上に赤い花が幾つも飛び散っていた。私は茶室に入った。壁と畳の匂いが冷たい。涙で閉じてしまった眼の底から目くるめく青葉の色が雨まじりに渦になって吹きあげるのがみえた。

 慈子(あつこ)がきて、横に坐った。背の方から寒かった。床の間の椿を(ぼう)とながめ、訳もなく手を触れてみた。花は他愛なく重そうに敷板に落ちた。泣いた眼に朱い椿は咲き定まっていて、太い筆をおろした点のように真塗の小板の上で動かなかった。

 宏に逢いたかった――と先生はいい遺されていた。

 あの日もお利根さんが先に立ってはげしい雨の中を観音寺の墓に参った。

「みんなに死なれて――」と絶句してお利根さんは合わせていた両掌で口を押えてしまった。

 〝死なれた〟というふうないい方をその時私ははじめて聴いた。墓はまだ寂びしい一基の石柱であった。帰りがけ、白い赤十字病院の建物が雨中を今にも流れそうにけぶってみえた。〝死なれた〟という言葉が心に沈みつづけた――。

 

 十年前――。雨があがって、朝はまだ灰色がかった空にかすかに光りが洩れ、ねぐら鳥が鳴きしきっていた。〝ひむがしに月のこりゐて(あま)ぎらし丘の上にわれは思惟すてかねつ〟と詠った丘の道を、新しい校舎に背をむけて私は歩いていた。

 昨日もきた。その前の日もきた。誰も来ない間に教室の戸をあけるのも、そのままの足で泉涌寺の(いか)めしい朝の静かさを踏み分けてみたいからだった。かたい玻璃の中を歩くように幾分あたりの様子に身がまえて私は歩いた。その緊張感が気に入っていた。

 視界が木の()に急に開くと一面の敷砂利が雨の色を残したまま真白い海であった。金堂は真中に鎮まっていた。鎮まったという感じが、山深く祀られた皇室代々の御霊(ごれい)に結びあって、宮ぶりの庫裡(くり)、方丈のたたずまいにも神仏習合のふしぎな雰囲気が流れていた。

 金堂を一めぐりして、参道わきの小径(こみち)を渓へ下りると来迎院(らいごういん)がある。門のすぐ手前に、一間(いつけん)余の石橋が架かり、清らかな石のかたちを、青もみじが濃いあかるい翳で照らしはじめていた。橋の下はつねよりすこし水嵩がまして、散り乱れた櫻が水の上や草深い渓あいをはなやかにみせていた。

 遠い朱い椿の花に眼を凝らしていると瞼の内に悔いとも哀しみともつかぬものがきた。手近な青もみじを散切って浅い流れに落としてみた。静かだった。思い屈した私は口をとがらせ両腕を前方へ突っぱって、静かな空気を汲みあげるような恰好をした。

「何を、なさってるの――」

 喫驚(びっくり)した。

 来迎院の石段に立って十くらいの少女が私をみていた。少女はかすりの着物を朱いしぼりの帯でくくっていた。まだ花にならないつつじの生垣が門の奥に青々と満ちていて、娘を呼ぶ父親らしい声もきこえた。「はい」と答えた少女は、石橋の上の私から眼を放さなかった。あかるい眼だった。

 少女の背後から私をみて、すこし朱らんだ顔で口をもぐもぐさせたのが朱雀光之先生だった。花鋏を右手に、丈長(たけなが)に咲きかけの石楠花(しゃくなげ)()られていた。白がすりをゆっくり着流した人はやがて笑いながら私を手招いた。

 つぼみのいっぱい立った花つつじの大生垣をくぐり、池のある庭の広縁に腰かけて私は抹茶をご馳走になった。いつもの習わしに不時の客を呼び入れたそんな気軽さがあった。

 先生は片手飲みで先にぐいと流しこまれ、にっと笑うと少女の運んできた藤の繪の茶碗をどうぞと手真似ですすめられた。少女は端近(はしぢか)に温和しく正座してみている――。妙に我が心に媚びられた私は鹿爪らしく作法通りに茶を喫みきった。

 どんな機縁がはたらいたか、「よかったら学校の帰りにまたお寄り」と誘われたまま、終業のベルをきくと足は赤土の丘を泉涌寺へ走ったのである。

 朝、先生が茶を喫まれた茶碗が馬上盃(ばじょうはい)だと私は知っていた。今しがたおそるおそる庭の内へ案内を乞うた時洩れ聴いた謡が、〝野宮〟だったことも話題になった。

 「折しもあれ物の寂しき秋暮れて から、 「千種(ちぐさ)の花にうつろひて、衰ふる身のならひかな のところを先生は和んだ低声(こごえ)でゆるゆる謡っておられた。(さか)しげに、秋の曲ですのになどと追い追い馴れて口をきくのも物珍しくて(ゆる)してもらえたかと思っている。少女は学校帰りらしく新しい洋服を着ていて、小さな膝小僧を両掌で抑えながら、慈子(あつこ)という読みにくい名前を教えてくれた。慈子が九つで、私は高校の二年生だった。その日、私は家の夕食に遅れて叱られた。

 はじめて「先生」と呼びかけた時、先生は思わず()まれた。お利根さんも笑った。慈子はまじめだった。そんな時も謙虚にすこし離れて坐っていた。笑ったりしなかった。私はこの呼び方に自然に馴れた。好きだった。朱雀の家では何一つ詮索されなかった。そんな素振りもなかった。慈子は私の養家を知らないし、そこへ手紙をくれたことも電話で呼び出したこともない。来迎院へいってしまえばすべて世外(せがい)のことになった。生まれる以前からの家のようであった。

 慈子と逢った前年の夏、私の養父は他所(よそ)の女と妙な間柄にはまっていた。厄介な事件がつぎつぎときりなく狭い家の中を荒して過ぎた。母の追及がひどくなると、父は僅かな金をつかんで家を出た。帰って来なかった。私は父の立ちまわり先へ出向いて、二時間も歩きまわったあげく連れて帰れなかったりした。だが父は突然帰ってきた。そして、また同じ繰りかえしだった。父を追って、帰って、帰ってと頼みながら暗い山すそ道を小走りにかけたこともあった。

 他家との諍いと家内の紛擾(ふんじょう)は次の年になっても治まるあてがなかった。私は、学校だけを慰めにし、朝は早く家を出て、ついぞ帰りたくなかった。

 六年後に私は妻と婚約し、慈子(あつこ)がやがて高校二年という春に東京で就職、結婚した。翌年の夏、娘が生まれた。

 

 今――。遠い山巓(さんてん)に雪をいただいたように、先生の墓は、(ぬか)づいたお利根さんの肩ごしに小さくみえ、黙りこくって佇む若い二人に、山づらを蔽ってわたる木魂(こだま)が雪しずくを容赦なく降らせた。

 師走、二十八日のことであった。

 

    三

 

 朱雀先生の墓前に花を運んだのもそうだが、京都へ帰るについては他にもあてがあった。大機院の歌会がその一つ、年来書きとめた茶の湯点前作法(てまえさほう)に関する文章を、数寄者(すきしゃ)の佐々木三味(さんみ)氏に読んでもらうのもそうだった。前もって手紙で依頼し、暮の二十八日という氷雨の朝、案内通り下京まで私は原稿を持参した。

 この日、三味さんと私はそう(げき)しない程度に小一時間、議論した。よろしくご一読をと原稿を残して辞してきたが、雨が雪にかわって、花びらのように土の道に散り積んでいた。ぼたっぼたっと音がしそうだった。

 公衆電話で慈子を呼んだ。秋に、東京で逢って以来だ。

 泉涌寺下のだらだら坂を上って、即成院(そくじょういん)の前で、迎えにきた慈子と出逢った。傘の下で頬がすこし熱かった。肩にまわした掌の下で慈子は優しく身揺ぎしながら寄り添った――。

 年明けて、大機院歌会の次の朝、佐々木家の電話があり私は再度下京(しもぎょう)へ出向いた。

 原稿に添えられた三味氏の批評は素気(すげ)なくはなかった。だがやや皮肉で、十分には読まれなかったという苦みも湧いた。応待に出た奥さんによく礼をいい、家へ帰った。

 ――戻された原稿を畳に置き、寒い二階に背をまるめて坐っていた。まだ小雪が散らついていた。階下で娘の声がはずんでいる。餅を焼くのか、甘い醤油の焙られる匂いが寒い中にまじってきた。冷えた腹に柔かな餅をふうふう噛み入れてみたくなった。慈子が待っているという気が、急にする――。とんとんと私は階段を踏んだ。

「ほうら、いらした」

「パパ、お餅の提燈ですよう」と板戸越しに娘が呼んだ。笑っている養母(はは)の声もあった。暗い奈落に沈んだように隠れ梯子の底に立って、戸をあける前にふと表情をつくろう心地でいた。

 餅を食ってから、オーバーの衿をたてて家を出た。次の日の午には東京へ、帰りの汽車に乗る予定だった。

 慈子は留守だった。待っていたとも聞いた。公衆電話をはなれたが、悔いほどの気もちが一ときあかるい陽ざしの下で私の肩をすぼませた。雲間がきれいな青空に変っていた。仕方なしに寄ってみた八坂神社の境内は初詣の人波が渦になって、誰もが今年ばかりは傘を提げているのが妙だった。鳩が社殿からわずかな人の隙に舞い下りるにさえ白い雪しずくを散らすといって、若い女たちが声をあげる。拝殿の鈴を鳴らすざわめきよりそれが面白かった。しきりと慈子に逢いたかった。前日逢ってきた岩田磬子(けいこ)のせいのようであった。

 死んだ岩田良子について殆ど記憶がない。それが私を感傷的にしていた。あの妹とも同じように行き過ぎるのかと思うのだ。年恰好のそう違わない朱雀慈子とどこか想い比べがちに、美しく点前(てまえ)を運んでいた磬子をまたみたいとも考えていた。雑踏が、急にいやだった。

 

 慈子は、私に習って、変化の多い点前よりも単純で徹底した平点前(ひらでまえ)の作法を好んで繰りかえし稽古したものだ。まだ幼かった愛らしい手さきに茶筅を支えて、慈子は茶を点てるのが好きでもあり、早くから巧かった。額から耳の方へ紅潮すると、自分でも気づいてにっこり微笑う。きれいに茶碗から茶筅を引いてくると、碧い泡が山なりに底からふくれあがった。先生はよく、慈子の点てた茶のかたちを両掌に包んでみつめておられた。〝一期一会(いちごいちゑ)〟ということを教え、「尽きるところは一期一碗だろうね」と先生は仰言った。

一期(いちご)というのは一生ということですか」と訊いたのはちいさい慈子だった。繰りかえすというのは難しいことなんだ。気もちのもちかたに依っては繰りかえしの中の一度一度が意味深く輝いたりつまらない退屈に沈んだりする。お茶に限らず、繰りかえしの中の一度をいつも新鮮で、前にも後にもない独特の生命で充たすには、やはり一生涯というほどの動かし難い時間の流れの中で一度一度の在り方をみつめる覚悟が要るものだ、というような話も、それこそ繰りかえして聞くうちには、耳の底に残る或る理想の翳のようなものになった。

 

 主客とも余情残心を催し、退出の挨拶終れバ、客も露地を(いづ)るに、高声に(はな)さず、(しづか)ニあと見かへり出行(いでゆけ)ば、亭主ハ猶更のこと、客の見へざるまでも見送る也。

 (さて)、中潜り、猿戸、その(ほか)戸障子など、早々〆(しめたて)などいたすハ、不興千万、一日の饗応も無になる事なれバ、決而(けつして)客の帰路見えずとも、取かた(つけ)急ぐべからず、いかにも心静ニ茶席ニ立もどり、此時にじり上りより這入(はいり)、炉前ニ獨座して、今暫く御咄(おはなし)(ある)べきニ、もはや何方(いづかた)まで可被参哉(まゐられしや)今日(こんにち)一期一会(いちごいちゑ)(すみ)て、ふたたびかへらざる事を観念シ、或ハ獨服をもいたす事、(これ)一会極意(ごくい)(ならひ)なり、此時寂莫として、打語(うちかたら)ふものとてハ、釜一口のみニシて、外ニ物なし、

 

 井伊直弼「茶湯一会集」の眼目といわれる〝獨座観念〟の章が、もともと余情残心という思いで書かれたことも今の私は知っている。余情とか残心とか、それはまた武道的な発想でありながら、むしろ雅びな貴族的な魂の風韻を語るが如くに洩らされている。獨座大雄峯の境涯を超えたあるやさしみということに触れて、朱雀先生は武人直弼(なおすけ)のしおらしいほどの思い入れをも尊重されていた。慈子の為に重ねて、〝客の見へざるまでも見送る也、扨、中潜り、猿戸、その外戸障子など、早々〆立などいたすハ、不興千万、一日の饗応も無になる事なれバ〟という辺りを説明され、さらに座右の「徒然草」から第三十二段を開いて私に読ませられた。

 

 九月(ながつき)廿日のころ、ある人に誘はれたてまつりて、明くるまで月見歩(あり)くこと(はべ)りしに、(おぼ)しいづる所ありて、案内(あない)せさせて入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬにほひ、しめやかにうちかをりて、しのびたるけはひいとものあはれなり。

 よきほどにて出で給ひぬれど、なほことざまの優におぼえて、物のかくれよりしばし見ゐたるに、妻戸を今すこしおしあけて、月見るけしきなり。やがてかけ()もらましかばくちをしからまし。跡まで見る人ありとは、いかでしらむ。かやうのことは、ただ朝夕の心づかひによるべし。その人ほどなく失せにけりと聞き侍りし。 (第三十二段)

 

 私は、先生が〝獨座観念〟の先蹤(せんしょう)を尋ねて徒然草のこの一段に想い及ばれたのだと考えていた。ところが、先生の関心はこの第三十二段から、急激に、まるで別の方面へ岐れてゆくのだった。茶の湯一会(いちえ)の話から一転して、先生の口を衝いて出るのは、いつも兼好法師のつれづれの心をあやかすあの物狂おしさについてであった。「兼好はなぜ徒然草を書く気になったんだろう」先生は独り言のように、さも私への課題のようにそう問われたのである――。

 

 雪のおもしろう降りたりし朝、人のがり(許へ)いふべき事ありて文をやるとて、雪のことなにともいはざりし返事に、「此の雪いかが見ると、一筆のたまはせぬほどのひがひがしからん人のおほせらるる事、ききいるべきかは。返す返す口をしき御心なり」といひたりしこそをかしかりしか。

 いまは亡き人なれば、()ばかりの事もわすれがたし。 (第三十一段)

 

 先生はいわれた。この段だけをみると、(ふみ)の相手が男とも女とも確認できない。先の第三十二段とも一応切れている。ところで、すこし飛んで第三十六段はこうだ。

 

 久しくおとづれぬ(ころ)、いかばかりうらむらんと、我が(おこ)たり思ひしられて、言葉なきここちするに、女のかたより、「仕丁(しちやう)やある、ひとり」など言ひおこせたるこそ、有りがたくうれしけれ。「さる心ざましたる人ぞよき」と、人の申し(はべ)りし、さもあるべき事なり。 (第三十六段)

 

 誰かの噂ばなしに合点したような書きぶりで、これははっきり女のはなしである。心ならずも閾居(しきい)を高くしてしまった先の女の方からさりげなく男の窮屈を救ってくれた。さらっとした無邪気な女の機根(きこん)がうかがわれ、そのみえない表情は、雪に寄せ、かすかな媚びを秘めたほどの咎め方で男の野暮を諷してきた第三十一段の女(に違いない)の表情に、似通っている。

 

 朝夕へだてなく馴れたる人の、ともある時、我に心おき、ひきつくろへるさまに見ゆるこそ、今更かくやはなどいふ人も有りぬべけれど、なほげにげにしくよき人かなとぞおぼゆる。 (第三十七段)

 

 男か女かなどというまでもなく、雪の朝の女、仕丁(しちょう)をもとめてきた女と深い部分で統一されている。〝手のわろき人の、はばからず(ふみ)書きちらすはよし、みぐるしとて人に書かするはうるさし〟(第三十五段)は、前後の文に関係ある話柄(わへい)といい、これにもあるさだかな人の投影がある。第三十一、三十五、三十六、三十七の各段は明らかに兼好在俗時の一女性の断片像が強い個性的統一を得ているとしか思えない、と。

「三十二段の月見る女だけはすこし趣が違うようだけれど、それは情景に兼好独特の潤色があるからで、振舞の優しさは三十七段のふと淑やかな気品をひらめかせる女と同じだと思う。朝夕の心づかいは何もこの段の女だけへの讃辞でなく、三十一、二、五から七段までを一人と意識した上での懐旧の情、嘆賞の声ではないか――」

 

 雑踏を嫌ってみても、さすが正月でどう遁れようにもタクシーが拾えなかった。祇園石段下から膳所裏(ぜぜうら)を斜めに抜け、東京へ帰り支度をしているであろう妻たちのところへまたゆっくり戻っていった。

 ――第三十二段は多分つくり話かと先生は仰言っていたが、あやかしの多い徒然草の行き方ながら、あれは本当にそうかしらん、あの段の仕組みは存外兼好の立場を素直に出してはいないのか。そう、私は考えはじめていた。

 

    四

 

 雪の京都から東京へ戻ったのが正月五日、年賀状をゆっくりみたのは次の日曜だった。

 霜が厚く、午ちかいのに外はまだ真白だと妻はいった。

 意気地なくふとんにもぐりながら手にした年賀状の束が例年より重い。私宛て、妻宛て、連名のもの、おまけに二歳半の娘宛てのものまであるが、極く月なみで、すぐ飽きてしまった。とりあえずわきへ取りのけておいたのは藤舎(とうしゃ)千恵子の一枚だけだった。

 繪が描いてある。実は何の繪かよくわからないが、朱と緑を大柄に塗りわけてあって新春の感じがしないではない。細いペンの字で、〝おめでとうございます。夏きていただいたのにいなくって。ことしもいい年でありますように〟とあるばかりで、これでは近況も知れない。

 千恵子は私たちが東京へきてからも二、三度季節の便りを寄越していた。暑中見舞か年賀状かいずれにせよ簡単な文言(もんごん)で、よほどのことでない限り返礼も怠っていた。賀状では前年の夏私が訪ねたふうにいってあるが、そうではなく、久しく逢っていない学校時代の友だちが療養生活からようやく立ち直ったという噂をきき、帰洛のついで訪ねる気もちになって粟田口の方へ出かけた途中、千恵子の母に出逢い成行で立ち寄って冷茶をごちそうになった、というのが正しい。

 そんな千恵子の賀状を抜き出して仔細らしく眺めたというのも、本人は忘れているに違いないが、岩田良子を私のところへ連れてきたのがこの藤舎千恵子だったから。

 私の叔母は独身のまま三十年来、茶の湯、活け花の師匠をしている。門前小僧からはじめた私の茶の湯も中学時代には進んで稽古に励むようになり、創設されて間もなかった学校の茶道部では点前作法の指導をすら引き受けていた。千恵子はそこでの一年後輩だった。

 同じような事情が高校へ入って二年めに再現し、自然、馴染みのある千恵子には助手役を勤めてもらわねばならなかった。そんなある日の稽古帰り、同じ祇園方面へ戻る電車の中で、私に紹介されたがっている友だちがいるともらわねいう話を千恵子はしたのである。

 

 稽古のある日で、放課後、茶室のある第二校舎へ私は小走りに急いでいた。千恵子から頼まれていて、その日は茶室の用意をする前に、私に個人的に茶の湯を習いたいという何人かの生徒と逢うことになっていたのである。茶室つづきの作法室前にきていた三、四人の顔をみると、いずれも同じ中学出身の一年後輩ばかりで顔見知りだった。茶道部に入らず、家の方へ通ってくるという理由などわかるといえばわかるし、わからぬといえば何もわからなかった。比較的近所の人たちだし、叔母は、たとえ私の弟子になるといえど歓迎するにきまっている。話は簡単についた。

 みな帰っていったが、さっきからすこし離れていた一人の女生徒だけは去らなかった。誰かの友だちで、話のすむのを待っているのかと思っていたが、千恵子は私をそこに引きとめ、改めてその生徒を呼んで、「岩田良子さん、です」と紹介した。唐突だった。千恵子は話し辛そうに同級生ですといった。何かしらその他にも喋った。

 その間、岩田良子は顔を伏せたまま三、四歩はなれたところで千恵子の声を聴くふうだった。千恵子が要らぬ世話をやいて連れてきたというのではないらしかった。もじもじしていた。茶室に生けるらしい都忘れがハトロン紙から顔を出していて、早く水をやらないとと思いながら私は訳わからずに花の色に眼をとめていた。思い切った仕方だと思い、いずれにせよその場の成り行きを軽薄に感じる心の動きがあった。

 だがどう眺めても岩田良子は軽薄そうにはみえなかった。背は千恵子より低いが、しなやかなからだつきが優しくみえた。服装も容姿もよく覚えていない。まるで淡いすがたでしかない。淡いすがたではあるが、受けた印象は気もちのいいものだった。髪も柔らかそうで、初々しく豊かだった。千恵子の姿などみるまに影とかすんでしまった。

 私は都忘れの紫から眼がはなせなかった。しかし、千恵子が喋っているうちに早くも形づくられていた或る種の常識や、その常識を揺すられた戸惑いというものは、感情の外のかすかな分別となって残っていた。分別は良子の朱らんだ表情のためにたゆとう水明りほど危く揺らぎ揺らぎそれに耐えた。

 結局、私はただ紹介に応じ、二、三良子と言葉を交しただけで、この初対面を打ち切った。茶道部員は私たちを横目でみながら茶室へ入ってゆきつつあった。惜しいなあ、と思う気もちをむりに払いのけるほどひそかな努力をしながら、良子が美しく清潔な少女であったことを私は終日忘れなかった。

 それきり私は岩田良子について記憶をもたなかった。何らかの後日話があって然るべきと思うが、想い出せない。その不自然さを敢てしたとすると故意に良子の接近を拒んだのに違いない。来迎院への親昵(しんじつ)も深まっていた。

 それでも惜しいと想う心地は(かす)かに残った。なればこそ、十年にもなるこの一度の出逢いのさまも、岩田良子という名も風貌をも忘れようとしなかったのである。ひとり千恵子だけが、暑中見舞に、年賀状に、僅か一片の葉書に托して相も変らぬかぼそいペン字の便りを今も寄せてくれる。その葉書の届くたびに、私は何かしらものを訊ねたい心に(はや)り、さてその心も寸刻の後には(うつつ)の風にあとかたなく吹き払われてしまうのが常であった。

 

 妻が見咎めるまで私は呆やり藤舎千恵子の年賀状をもてあそんでいた。娘が葉書をとりあげていった。すこし離れたところで、「これは草とお花にちがいない、それもあまり上手に描けていないのにちがいない」と呟いている。妻も私も笑ってしまった。

 私はようやく床から出た――。

 パンを噛みながら、岩田姉妹のことを話した。「面白いおはなしね」と妻はいった。そんなすてきなお嬢さんに逢ってみたかったわともいった。それから、すこし焼けすぎたパンの焦げをナイフで鮮やかに払い落とし、ママレエドをたっぷりつけて娘に手渡した。茶の湯の稽古から私が久しく遠退いているのを、改めて「惜しいわ」ともいった。娘が聞きかじって、「ケイ子さんにあたしも逢いたい」と生真面目に口をはさんだ。妻は私をみて、にっこりした。

 娘に磬子の名を呼ばれてふしぎな気分を味わった。

 死んだ姉も死を告げた妹も同様に私だけが知っていて、妻や娘に関わりのない人たちだった。日曜日の遅い朝食の話題にしたことから、岩田良子も磬子も私たちの現実の暮しに関わりをもってしまった。もって差し支えはないが、それは魔法の壺に手を入れて一筋の糸を引っぱり出し、胸の(ボタン)にでも結びつけてみたような心地だった。

 たった一本の細い糸筋ではあっても紛れもなく私の肉眼にはみえていた。私だけにでなく妻にも今はみえていた。そのことが驚きになった。朧ろだったものが、とにかく一本の糸で現実につなぎとめられ、はっきりしてしまった。

 妻に女友だちのことはあまり話さない。話そうと心がけたこともあるがむだだと分るようになっていた。結果的にうまくなかったからむだという訳でなく、妻には話された女性が現実の存在として生々しく出現するらしいのに反して、喋っている私の腹の中では、そういう女性は所詮は別世間別次元の、頭で創った仮象(かしょう)で、それはそれで理想の影と錯覚の翳とにまつわられた人なのであり、眼前の妻とは存在の意味がそもそも違っていることに気づいたからだ。特別の感情をもっているからそうなのでなくて、どうやら、妻以外の人や世間がすべて私には本質的に非現実らしいことがはっきり分ってきた。

 岩田姉妹の話は淡々しく、妻にもそれは「おはなし」にすぎなかった。だからこそ逆に、「ケイ子さんにあたしも逢いたい」と娘が真面目くさって呟いた時、妻と一緒にわらいながら私も、もう一度逢いたいとかなり執拗に望んでいた。逢えば、また、妻や娘に告げるだろうか――と、秘かに否みながら――。

 朱雀の人たちのことは決して話さなかった。親にも友だちにも知られない私一人の〝来迎院〟という意味は、幼いほどの判断のままにもただの独占欲とはまるで別の価値観を心に灼きつけていった。そうしなければ所詮は保ちきれない交わりとして、〝隠す〟というより〝守る〟という気もちで、先生やお利根さんのこと、朱雀慈子(すじゃくあつこ)のことを固く秘した。来迎院の人たちはこのひたむきな姿勢を揺がそうとは決してしなかった。現実の(わずら)いから離れて愛だけを守るというのは絵空事なのである。絵空事には絵空事にしかない不壊(ふえ)(あたい)のあることを先生が、慈子が、私におしえた。

 藤舎千恵子には返事を書いた。偶然、岩田良子の妹に逢い、良子の死をきいて驚いたということを書いた。私はこれを借りを返すような、中途半端だったものをきちんとかたづけるような気もちで書いた。だが筆の先から磬子が立ちあがる。

 磬子と逢ってからは良子の面ざしを想い浮かべるのが一層困難になっていた。目のさめるような紅梅衣裳が揺らいだ。

 

    五

 

 来迎院(らいごういん)――。かつては、泉涌寺別当が住持し七百年来朝廷の御祈願所といわれてきた古刹だ。皇室御安産を守る荒神尊、俗にゆな

荒神は日本最古の鎮座と伝えられ、伝弘法大師作木造の御神体は重要文化財に指定されている。弘法霊夢を蒙り獨鈷(とっこ)を以て掘ったという名水は板戸で(とざ)した岩肌の奥深くから一間余の長柄杓で汲みあげるのだが、いかにも岩の底にしっとり湧きつづけたこくがある。

 朱雀光之先生が来迎院に来住されるまでの経緯をもちろん私は知らなかった。来迎院仏事一般の宰領は本坊から人がきていたようで、泉涌寺に由縁(ゆかり)のお仕事も、むしろ仏門によりも皇室御陵墓の守護の方に重きのあるものらしかった。泉涌寺裏の山ふところには、累々と数十代の皇統を(いつ)きまつった霊地がある。皇室御領と寺領とは一応分れていて、陵墓の宰領には宮内省から人が派遣されてきたが、極く最近、泉涌寺がその仕事を併せ行うことになったとも聞いている。朱雀先生は最期の神祇官であったのかもしれない。元来が東京の人だとは言葉づかいや、事実ときどき慈子が一人で東京へ出てくることで知れていた。

 東京へ出てくると慈子は私をお茶の水へ呼び出す。本郷の勤め先からきてお茶の水橋を渡った角の喫茶店〝ジロー〟とか、駅の裏の〝レモン〟というジュースの店などをいってくる。

 以前は〝レモン〟の近所に〝羅甸区(ラテンく)〟という佳い店があって、就職試験ではじめて私が夜汽車で上京した朝、来合わせていた慈子がそこで熱いコーヒーとパンを注文してくれたことがある。晴れた日だった。湯島の聖堂を揺がすように黒い国電と赤い地下鉄が立体交叉して、底の神田川を曳き舟で下ってゆく筏がゆるゆる流れていた。慈子は当時十五歳の少女であった。

 来迎院ではきちんともの静かだが、東京で逢う時は、もの靜かなりに歩き方もさらさらとふだん着で町をたのしむほどの余裕がみられる。東京が好きかと思わず訊ねたこともある。しかし慈子はいつも首を横に振った。

 

 二月になって、デスクへ慈子のいつもの電話が入った。

 早めにきてしまった私は〝ジロー〟を通り越して足まかせに駿河台を歩いてみた。明治大学などのある辻へ抜けてゆくと高台らしく切り立った石段が二つ三つ駿河台下の通りに架かっている。町は灯の海で、寒くかすんだまま遠いテレビ塔にも朱い光が浮かんでいた。大きな犬に引っぱられて十くらいの少年が犬と同じようにはあはあ息して通りすぎた。新宿の方へ走り抜けてゆく快速電車のまぶしい光条が意外に近くみえた。

 時計をみて振りむいたすぐ前の、静まった邸の潜り戸からすっと歩道に立ったのが慈子(あつこ)だった。声をかけ、咄嗟にみた門標には暗いながら「淀屋利明」と読めた。どきっとする名前だった。

「どうして、いらしたの――」と慈子は訊ねた。けれど、べつに返事を待つでもなく、ここがお利根さんの実家で、今は兄に当たる人が主人でいること、東京では気らくなのでついこちらへきてしまうが、朱雀の本家は世田谷の下深沢にあるということを慈子は温和しく話した。そう話している口もとまで宵やみが濃くかぶってきた。

 〝レモン〟までの道で、岩田磬子と逢った正月のことなどを話した。何かいいそうにして、ふと慈子は口をつぐんだ。

 店は学生たちでいっぱいだった。いよいよ慈子の卒業論文に何を選ぶか、という話題がおかしいほどぴったりした。

 以前から慈子は「南方録」偽書説に興味をもっていた。

 また俵屋宗達が下絵を描き本阿弥光悦が奔放に歌を書き流した草花歌巻の成立に疑念を寄せていた。宗達下絵で光悦が書いたという伝承、さらに宗達に関する事歴が異様に乏しく名声にそぐわぬ点など、むしろ「光悦宗達同一人説」といってよい強い発想を慈子は抱いてきたのである。同種の疑いをもつ学者や古美術商もなくはないが、慈子は、この主題も南方録偽書説の検討同様、野心的だが今の力ではいささか「物語」になりそうだからと断念していた。

 慈子が選ぼうとしていたのは、「日本古瓦文様の意匠史的考察」という、地味な主題だった。どこの博物館ででもみたことはある。唐草紋も蓮花紋も簡素に過ぎてすぐに閉口してしまう。だが慈子がカメラや拓本の道具を提げてそれらしい遺跡の古瓦紋様を取材にゆくかと想像するのも、それはそれで好もしい繪のようであった。「いや」と叱られるまでしばらく慈子をながめるような眼をしていた。

 国鉄中央線の向こうの医科歯科大学がまた新しい工事をやっている――。一番古くなってしまった表通りの大病棟に規則正しく窓の灯が光っていた。突然慈子は訊いた、「迪子(みちこ)さんはこの頃おげんきですの――」頷いて、私はジュースを飲み干した――。

「兼好のことはぜひお兄さんが書いてほしいの」と慈子はわれにかえって急にそういい出した。

 若い兼好の物語を書いて、と慈子は手紙にもいっていた。ただの思いつきだったろうか。もちろん光悦宗達同人説についても慈子は熱心に話していた。同じ人の筆先に生まれたかもしれない書と繪の揺らめく光彩に秘められた眩暈と疑惑の美しい詩。けれど――、慈子は結局繰りかえし「徒然草」のことへ話題を戻した。慈子の眼は光って、幽かに焦ら立ってさえいた。

 上京を報せる二、三日前の手紙には、来迎院の暮しも負担になっている、泉涌寺の都合もあってどこか別の住居を考えることになるかもしれないと書いてあった。やっぱりそうかと思いながら、その一方、大学のことや週一回の個人教授で糺ノ森のミセス・ルウに英会話を習いはじめた話などが珍しくて、ついそれらの方を私は覚えていた。

 慈子は私や妻の後輩として同じ文化史を専攻していた。私たちの恋愛についても研究室に残っている先輩同輩の口から何かをきき出しているのかしれないが、慈子は黙っていた。私も訊かなかった。妻と私、慈子と私に、重なり合わない別世界があり――、そして良くも悪しくもそのことを(うべな)わずにおれない私がいるわけであった――。

 お利根さん仕込みの、なだらかだが形をくずさぬ文字が朱雀慈子と署名している封裏を上へむけて、慈子の手紙は仕事のための伝票や葉書などの下に藏われてある。思い屈する日には私は秘かに慈子と書いた慈子の文字をものの下にながめてみる。妻の影のふと射すことがないとはいわぬ。だが、うしろめたさのような心の動きに対して私は烈しくいつも(あらが)った。――慈子が妻の名を思わず口にしたのも似たようなもの脅えであったのだろうか。

 ――七時すぎかと私は呟いた。慈子の眼がすばやく私を捉えた。慈子――と呼ぶと「はい」といってすこし微笑った。〝レモン〟を出てタクシーに乗った。勤め先を通り過ぎ、東大の正門前で二人は車を下りた。

 店を閉めた有斐閣の前を、編集の木崎と総務課の名田登茂子が歩いてきた。残業あとらしかった。眼だけで会釈したが、何かいいかけられそうだった。東大側へ電車道を越えながら烈しく気が滅入った。大事に抱えた鯛の鱗一枚を剥がれたほどに、勤め先の同僚などに慈子をみさせた不快がこみあげた。木に竹をついだみたいに私は来迎院を出る話のことを訊ねた。暗い月かげの曇り空に銀杏の大樹が(あば)らのように枝を張っていた。ゆっくり、ゆっくり歩こうとした。

 お利根さんの家というのが、留守居だけを置いて北野の紙屋川畔にある。そこへ慈子を連れて移りたいとお利根さんはいうらしかった。大学の方へは便利になるし、慈子も東京の本家に引きとられることを悦ばなかった。京都に住み残る条件の一つに、二カ月に一度は顔をみせにきて欲しいというのが、下深沢の祖父母のむずかしい注文であった。

 墓を観音寺に定めたことは慈子を感傷的にしていた。親しい学友も増え、若やいだ学校の内外に魅かれて相応にそこへも入ってゆきながら、先生と私がいて世離れて培ったあの〝来迎院〟の昔が、何かしら祭祀さるべきもののように慈子を強いた。「父が望んでいるように思いますの」慈子はそういった。

 木立の中のだらだら坂を三四郎の池まで下りていった。ぱしゃと小さな水音がすぐ静まった。金碧(こんぺき)と漆黒との乱れ散るような幻が、結んだ()と掌からむらむら流れ出た。慈子が東京へくるのは、ただ寂びしいからだった、唐突にそれが分った。闇を払うように両掌で頬をはさみ、月かげに透かして、あの、少女の眼を確かめた。抱きしめて、香ばしい女髪(おんながみ)に私は顔ごと唇を押しあてた。

 

    六

 

 慈子、げんきですか。お兄さんと呼ぶことも忘れてきみは京都へ帰っていった。一緒に僕もいってしまいたかった。

 あのあとすぐ、岩田さんから突然手紙をもらった。正月、大機院で逢った人です。卒業生名簿で勤め先を調べたらしい。

 さて、きみを送ってから、突然という訳ではないけれど、思いの外に仕事が好調に進んで、それで余った時間をむだにすまいと覚悟をきめ、東大の国文科の書庫へ勤務時間中潜入することにしました。仕事の方でお世話になっている東大病院のえらい先生に紹介状をもらいました。

 頑丈な赤煉瓦建の三階で、窓の外がすぐあの三四郎の池。木立に手の触れそうな小気味いい所だが、書物の冷えもあって部屋はひどく寒い。オーバーを着込んだ研究生らしい数人が思い思いに本を拡げていると、もうさほど余裕もないくらいの書庫なんです。しかし本はさすがに揃っています。

 通いはじめて一週間になります。朝のうちに勤めの仕事をはかどらせて、午すぎるとそっと大学へ入ってゆく。が、まあ上の人にでも知れれば問題にされるでしょう。

 徒然草は幾度も通読しているし、先生に教えていただいた素地もある。けれど、慈子がいうほど「徒然草執筆の動機」が推量できるものか僕には自信がない。想像するだけでなしに、やはり或る所までは本を読み、そう無暗なこともいわぬようにしたい。まとめて文献を読みノートもとって、創作や物語の方はそのあとにさせてもらうことに一人で決めておいて、僕は今手当たり次第に徒然草や兼好家集の文献を読んでは写ししているのです。

 それだけでは慈子ががっかりするかと思ったので、片端だけど僕なりの収穫を「兼好の自讃」ということでまとめてみたから、一緒に送ってあげる。

 いつまで暇があるか分らないが、東大へ出かけるのがむりになっても、時々は僕の「兼好考」を慈子に読ませたり、話したりしたいと思っている。それが何かの役に立つという予感がする――。

 来迎院をいつ出るのか、報せて下さい。お利根さんを大事にしておあげなさい。寒い日がまだまだ続く。先生のお墓にお花をあげて下さい。大事になさい。

二月二十日  宏

   * * *

 堀河天皇の御随身(みずいじん)近友(ちかとも)という馬藝の達者がいて、自讃七箇条、但しいずれも〝させることなき事ども〟を書き遺した。兼好法師はそれに倣って徒然草の第二百三十八段に、「自讃の事七つ」を書いている。黒川由純の「徒然草拾遺抄」には〝自慢と自讃とは、かはりたる也。自慢とは、或ひは学問才藝を以て、おごりたかぶり、人をないがしろにする也。自讃とは、平生我がつとめし事を、他にはほめねば、せめて自らなりとも、ほめて楽しまんと云ふ心也〟と解説してあるが、微妙なところである。

 一体兼好の場合、物狂おしさに筆をまかせて剔ってきたような感想に秀れた発見がある。同じ祭のはなしでも、祭の果ての寂びしみに筆の至った心は光っているが(第百三十七段)、樹上に祭をみながら居睡る法師を諷して人の敬意を(あがな)ったらしい兼好は、俗に近い(第四十一段)。有名な最終段の、「仏は如何なる物にか候らん」と父を困らせたという八歳頃の回想にしても、兼好の俊秀を証拠だてるより、掉尾(とうび)を飾りそこねたやや老いぼけの自慢と()った方が早い。したり顔はかなり兼好の本質的部分に巣喰っている。

 第二百三十八段はそのしたり顔のまずしさを露骨にしているので好まないのだが、看過ごす訳にゆかぬのはその第七節である。武田祐吉氏の「徒然草新解」には、この段を〝兼好の諸道に通じ、世間にもうとからぬ有様が知られる。若いときは馬藝を習って関東出仕をも志し、年たけては道心ふかくおのづから行ひ澄んでゐるその人が如実に表れてゐる所〟と評してあるが、どんなものか。

 武田評にあるように普通この段の第七節は、女色(にょしょく)を以て動揺させようとする策謀に抵抗した兼好の道心堅固さの自讃と釈られている。意外なほどこの解釈が定まっているが、奥歯にものの挟まった自讃で素直には首肯(うなづ)きかねる。自讃でなければよいのだが、〝秘かに想い出して、独り楽しみ誇る〟材料としてみると、道心堅固をそのまま受けとる訳にゆかない。

 

 二月十五日、月あかき夜、うちふけて千本の寺にまうでて、うしろより入りて、ひとりかほふかくかくして聴聞し侍りしに、優なる女の、姿、にほひ、人よりことなるが、わけ入りて膝にゐかかれば、にほひなどもうつるばかりなれば、びんあしと思ひて、すりのきたるに、なほゐよりて、おなじ様なれば、たちぬ。其の後、ある御所ざまのふるき女房の、そぞろごといはれしついでに、「無下に色なき人におはしけりと、見おとしたてまつることなんありし。情なしと恨み奉る人なんある」とのたまひ出したるに、「更にこそ心得侍らね」と申してやみぬ。此の事、後にきき侍りしは、彼の聴聞の夜、御つぼねの内より人の御覧じしりて、さぶらふ女房を、つくりたてていだし給ひて、「びんよくば、言葉などかけんものぞ。其の有様参りて申せ。興あらん」とて、謀り給ひけるとぞ。 (第二百三十八段ノ第七節)

 

 千本の釈迦堂で執行(しぎょう)される釈迦念仏は、二月九日から十五日まで、涅槃仏(ねはんぶつ)の像をかけて遺教経(いぎょうきょう)読誦(どくじゅ)(つい)には釈迦の宝号を唱えたもので、兼好の時代には十五日は終夜法会(ほうえ)がつづいた。その十五日夜のことの後日話を二段に分けて回想している。

 分り易そうで、この文章にはさまざまに疑念を挟む隙間がある。悟り深く行い澄ました老僧の振舞にしては生ぐさいのである。馬藝ならともかく、女色にひるまなかったのを自讃する坊さんでは(いぶか)しい。この筆致からは、むしろ小心な好色者じみた息づかいが洩れている。〝優なる女の、姿、にほひ、人よりことなるが〟と、かすかに洩れ入る月かげに素早く女の品定めをしているし、〝わけ入りて膝にゐかかれば〟などは、寄ってくる女を、待って、見た印象である。〝にほひなどもうつるばかり〟膝にかぶさってくる女をはねつけるのでなく、やっと〝すりのきたる〟程度なのは、寄ってきた女が賤しく不快な素性でないことを知り、ただ人ごみの堂内にやや不体裁を感じての形ばかりの遠慮、はにかみとしか思えない。女が強引に繰りかえした時には今や恥をかくのを怖れて席を立ったのであり、あるいは兼好にはその女がわざと強いていること、かげに誰かのはかりごとのあること、それが誰であるかの見当さえついていたかと(さい)される。

 つづく〝其の後〟のはなしは行も改めずに書きつがれ、兼好自身で探りを入れに 〝ある御所ざま〟の辺りに顔を出している感じがするのだ。〝更にこそ心得侍らね〟というとぼけからは、にんまり笑んだ独り合点が胸に届いてくる。もしこのことがなければ、兼好道心のさりげない表れと読んでいいのだが、この後日話はむしろ色めきがちな青年の未熟な体臭をにじませている。それだけでなく、当夜の楽屋ばなしまで結局は手に入れて、得意気にそれでしめくくっている。

 秘かにたのしみたい自讃の内容は、寄ってきた女を拒んだことだろうか。それよりも、寄って来られたこと、恥をかかずにすませ、その上、その高貴な辺りの人とも親しくなって楽屋裏まで知るに至ったこと、かなり高貴な御方にそういういたずらを心易くたくまれたこと、等をある人間関係の結ばれを背景にして、どうにも自讃せずにおれなかったのではないのか。この一段を書いた頃の兼好その人は年輩の法師であったに違いなく、それだけに露わに口に出せない秘めた想い出もあったろうが、この短い一節などは、隠しておくには心にも肉にも刻まれの深い記憶として、つい洩らされた自讃なのではないのだろうか。前の六つの自讃は兼好常套の韜晦かもしれない。

 武田氏はこの事件を兼好出家後のようにいわれているが、中新(なかにい)敬氏の「徒然草の成立に関する研究」では、この段は前文で断っているように、〝御随身近友〟と対比して 〝家司兼好〟の自讃告白だと性格規定されている。〝それ故これら七ヶ条は何れも、横川(よかわ)下山後,正和元年三十歳にして、漸く宿願を達して、出家し得るまで、恐らく十年に余る長い堀川家家司(けいし)時代の思い出を記したもので、文章は(いず)れもその当時のこととして記されてある。〝前の六条こそ仮りに出家後でも差支えないが、月明の涅槃会の一節に限っては、私も中新氏と同じく青年占部兼好の風貌と共に読むべきだと考える。勿論、出家の時期に問題があるし、出家後の事跡にも議論がある。だが、それを棚上げしたままでも、この節への疑問はまだ幾つも挙げられる。

 後半を武田氏の現代語訳でみるとこうである。

〝その後、ある御所方の年増女官(としまにょかん)が色々雑談のついでに、「あなたは、無暗に情のこはい人でゐらつしやると、お見さげすることがありました。つれないとお恨みしてゐる人があります」と言ひ出されたので、一向覚えがありませぬ」と申してその場は済んだ。

 この事について、後に聞けば、あの聴聞(ちょうもん)の夜、御局(おつぼね)の中から、私の居るのに御気づきになつて、御傍に居た女房を美しく作り立ててお出しになつて、「あはよくば、言葉でもかけるのですよ。どうするか、その時の様子を帰つてからお話し。面白かろう」と言つて、たくまれた事であつたさうだ。〟

 このまま読むと、少くも、暗がりの堂の中で兼好に絡まってきた美しい女房と、御所方でそぞろ(ごと)を交し合った年増の女房と、それらの女房より遙かに身分の貴い人の三人がこのだんまりを知っていた訳で、主筋の〝人〟を何か女性らしく釈っていることがわかる。

 この〝御覧じしりて〟〝はかり給ひける〟〝人〟のことをすでに慶安五年の跋のある〝慰草〟では女と解しており、沼波瓊音氏以下塚本、藤田、佐成氏らが賛成している。だが諸家は一般にはこの貴人の男と女との別に、そう拘泥していないのである。

 女づれで釈迦念仏の法会に出て(つぼね)の内で法話を聴聞しながら、大衆にまじってやはり聴聞している見知りの青年にいたずらするなどは、高貴な男性らしくない振舞であって、どうもここは、茶目気のある気儘な貴女の、さほど悪意のない、どちらかというと兼好に好意か親愛をさえもった上での、いたずらのようである。しかしまた女にしては度の過ぎた、よほど思い上がった気分の支えがないと、当の主人はともかく直接男に絡んでゆく女房の方は心臆するにちがいない。さもなければ十分な面識や馴染みのある場合であろう。

 それにしても諸家が男か女かの一方に自説を寄せる程度で積極的にその〝人〟を誰か、どんな人かにまで追求していないのは、不可能ということより、兼好の自讃を〝すりのき〟〝立ちぬ〟の一事にかけて読むからである。その分ではいたずらをたくんだ人が男か女かは大したことでない。

 だが、そんなことでは、自讃の内容をとり違えているのではないか。兼好の秘かな誇りは、実はこの〝人〟の重さ高さの方にかかっていたのではないだろうか。

 〝人の〟は特に名前を秘した書き方のようである。〝更にこそ心得侍らね〟とにげる兼好はその時以前に心中思い当たる節があって、その人が誰かも知っていて、〝はかり給ひけるとぞ〟という感想よりも早く、ひそかに笑み頷いていたのであろう。

〝そぞろごと〟といえば、気がすすむまま喋りつづける話と解釈される。そういう話のできるのは親しみも深く敬意ももち合える同士ということになり、兼好は御所方にその程度に親昵(しんじつ)する女友だちを得ていたのだといえよう。〝御所ざま〟といえば、御所のほか親王家、大臣家をさしてもいい、この辺のふくみが貴人を男とも女とも読ませている。この、そぞろごとに時を移せるほどの御所方へ、兼好は見当をつけて二月十五日の夜からそう日を経ずに出向き、そしてとぼけているのだとすると、これは微妙な自己満足を匂わせる振舞ではないか。

〝むげに色なき人におはしけりと、見おとし奉ることなんありし。情なしと恨み奉る人なんある〟とは直接話法に直した兼好得意の言表(げんぴょう)である。このいい方にはたくまれた二重の韜晦(とうかい)があると私はみている。高貴の人が〝情なし〟と恨まれたのが本当とすると、〝恨み奉る人なんある〟と女房はいうだろうか。もう少し敬った調子が別にあっていい。殊に兼好は後半で、さも高貴の人がそういわれたのだとほのめかしているのだから、なおさらこの話法はやや軽々しい。

 だがもう一方で、兼好をむげに色なき人だと皮肉をいい、情ないと恨んだのが実はその古女房当人だったら、この段はどういう意味をもつだろうか。もっと徹していえば、最初、法会のさなか兼好を悩ませた優なる女房とは、このそぞろごとの相手その人であったと考えても差支えない。〝古き女房〟――そのグループの中で主人の恩顧厚い才気と活気のあるやや年嵩な女房とみた方が当たっているし、それが〝優なる女〟であって何の不都合もない。優なる女だからこそ押し強くできたことであり、そぞろごとの相手にもなったのであろう。こう推量すると、兼好は少くもその女房と親密な間柄だったか、その後にはそう進むこともできた間柄か、いずれその口から貴人のいたずらを確認する機会をもったはずである。

 すべて、どうとも釈れる筆法を意識して用い、しかも、この一件を自讃している。なぜこれが自讃か、なにを自讃したか、実は曖昧至極で、従来の評家は書いたのが兼好法師であることを忘れ、自讃にも何にも埒もない当然なことに引き寄せられて解釈している。思う壺で、もう一度兼好はにっと笑ったような気がしてならない。

 二月十五日の夜も〝うちふけて〟いる千本の寺の御堂へ〝うしろより入りて、ひとりかほふかくかくして〟聴聞していたのは、まさしくその晩、兼好自身関心を寄せていたさる貴人ないし近侍の女房が参籠聴聞することを事前に知っていて、わざと出かけたかとも推量される。この推量に依れば、兼好の奇妙に人目はばかる、あるいはわざと人目惹きたげな顔隠した振舞が首肯ける。そこに演戯がある。さもなければ釈迦念仏の法会に、かなり学業進み出家の素地もあった兼好、比叡山横川(よかわ)で修業してきた兼好が〝なぜ人目をしのぶように参ったのかは、明らかでない〝(田辺爵氏)と不審を招くのが当然なのである。

 第二百三十八段の七節に対しては、従来兼好自讃の内容を女色に対する道心堅固と釈ってきた諸家の鑑賞ないし解釈を、否定したい。

 兼好の当時の生活環境を具体的に組み立てることができれば、この〝劇〟的自讃の真相もさらに明るみに出ると思うが、どこまでの考証が可能だろうか。この事件の実際あった時期と兼好の周囲から、貴人と女房を浮き上がらせ、貴人は男か女かを推定することになるが、それはもはや、この段を読むだけでは不可能なのである。

 

 

   第 二 章

 

    一

 

 紙屋川は幅二間の川床が路面深く沈んでいて、帯一筋ほどの流れが底をなめている。雨季には水嵩(みかさ)増して二、三間上の橋げたを洗うこともある。

 梅の北野は過ぎてきたが、櫻の平野神社もすぐ近く、時候柄か紙屋川の水音は薄紅の花びらを浮かべ浮かべ流れていった。慈子(あつこ)の便りではこの辺が紅梅町であるらしく、実はこの橋から川上へ数分もゆくと中学時代の女先生の家がある。

 先生の家へは中学生らしく正月や夏休みに遊びにいった。一間幅くらいな川添い道は右手がいきなりの川岸で、橋から一町足らずいった左側には長い板塀の家があり大きな青木立が水の上へ張り出しているのをトンネルのようだと思いながら潜ってゆくのである。その塀の内が慈子たちの移り住んだ先であった。手紙では、庭にいると紙屋川の水音がきこえるとあったし、表の道からはすぐ平野の境内がみえるとも書き添えてあったから、新しい住みかのたたずまいは何となくあたまの中では定まっていた。

〝淀屋寓〟と筆太に書いた古い表札の横に〝朱雀慈子〟と白い紙が貼ってある。

 門には、軒から柱から、さらに門の内まぢかい百日紅の幹にも枝にも、青々とみごとな蔦が絡んでいた。慈子の声がきこえた。

 お利根さんは引越しの疲れで、四月はじめの肌寒にひいた風邪をまだ癒しきれずにいた。そのお利根さんが泥棒を追っ払ったという話を慈子はしてきかせた。

 引越して二、三日後だった。物音を聞き咎めた病人は暗い中で床の間ににじり寄り、たまたま出してあった小鼓をぽんぽんと打ったというのである。時ならぬ鼓の音に慈子ははね起きたが、灯もなく聴いたあまい余韻には声立てることも一瞬忘れたという。賊は勝手口に烈しくつまづいて逃げ去った。灯をつけると、お利根さんは床柱にもたれ鼓を膝に置いて細い涙を頬に伝わせていた。お利根さんのことが何か気がかりだと慈子は低声(こごえ)でいった。

 前日、私は大阪で小さな座談会を取材してきた。ふつうなら大阪の支所に頼むのだが、――四月二十四日、嵯峨の厭離庵で稽古茶事をするが、花も見ごろ、早もみじも美しいことだから、と叔母からいってきていた。二十二日だけを社用、あとは休暇ということで妻にも奨められてきたのだった。

 慈子の新しい部屋から庭に向いた硝子戸を引くと、苔肌をした水のない池と、川の方へ枝を張った巨きな樹とが、まず眼についた。庭面(にわも)は草や前栽(せんざい)で蔽われ、枯れた池を巌畳(がんじょう)に真中で緊めくくっている一枚岩と、背丈に余りそうな橋の向うの立石(りっせき)が、とても豪宕(ごうとう)にみえる。その立石さえも緑の袈裟をかけたように片側を苔にまつわられ、足もとから葉の小さな可憐な蔦も這い上がろうとしていた。左に軒低く庭に突き出た一棟が茶室であるらしく、こちらへ向いてくすんだ数寄屋窓が無花果(いちじく)の株のかげでほの白くみえた。

 お利根さんもきた。銀ねずをもみほぐしたような微塵縞の紙衣羽織(かみこばおり)を真田紐で前結びして、めずらしく足袋をはいていた。四十過ぎのお手伝いさんが別にいて慈子の部屋に茶の道具を運んできた。そういうよそ人をみることが私には唐突な感じだった。自然、私はお利根さんのことを考えていた――。

 来迎院(らいごういん)時代のお利根さんに対してはかるい戸惑いというものがあった。先生はいつもただ「利根」と呼ばれ、若い私たちは「お利根さん」と呼び馴れてきた。世離れたある了解の如きものがあって、その了解の深さが三人に来迎院の時代を不壊(ふえ)と感じさせるのだった。〝身内〟と呼んでいるあの関係がみなを結び合わせていた、だが、依然としてお利根さんは私には不思議だった。

 慈子は手際よく盆の上で茶を点てた。よほど部屋の内も整頓されていて、見覚えのものがさすがにやや所定まらずに新しい慈子のすまいを飾っているのがもの珍しく、文函(ふばこ)に古瓦の拓本が収まっているのにも目を惹かれた。

 お利根さんは立っていった。

「どうなさるの、あのあと」と、慈子は坐り直して訊いた。

 東大の方へは十日ほど前からいっていなかった。文献は大体読んで、これからは本文をしっかりという考えでもあったが、多少勤めの仕事の忙しさも戻ってきていた。けれど「徒然草」のことはいつも頭にあった。訊ねられるのも分っていたが、さてとなると流暢には話せなかった――。

 

 周到に読めば徒然草全段は兼好その人を解説して余すところがない。だが他方、兼好の筆が入念に何か大切な部分を隠そうとしていることもある。第二百三十八段のような、自讃という極く内面的個人的な述懐にすら読者を自然とあやかすだけの(たくら)みが秘めてある。そう私は推測する。

 そこで兼好の内心にもう少し立ち入ってみるために、例えば第四十三、四段と第百四、五段などを読み直すのが適当かと考えていた。

 この四段に就ては想像的描写の習作断片で、単なる擬古美文ともみられている。けれど、兼好に小説創作の自覚的衝動があったかどうかという根本の疑問を解決しなければ、この解釈では不十分すぎる。

 小説的文章に違いはない。けれど、意識してああいう形式で兼好個人の秘めて憚りある感懐を表出したものと、私は考えはじめていた。小説は絵空事という考え方を兼好はまさしく逆用したのではないか。

 第百四段にはすこし別の問題があると思うが、他の三段はいわゆる覗き見である。

 

 あやしの竹のあみ戸のうちより、いとわかき男の、月影に色あひさだかならねど、つややかなる狩衣(かりぎぬ)に、濃き指貫(さしぬき)、いとゆゑづきたるさまにて、ささやかなる(わらは)ひとりを具して、遙なる田の中のほそ道を、稲葉の露にそぼちつつ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞きしるべき人もあらじとおもふに、行かむ(かた)知らま欲しくて、見おくりつつ行けば、笛を吹きやみて、山のきはに惣門のあるうちに入りぬ。(しゞ)にたてたる車の見ゆるも、都よりは目とまるここちして、下人にとへば、「しかじかの宮のおはします(ころ)にて、御仏事などさぶらふにや」といふ。

 御堂(みどう)のかたに法師どもまゐりたり。夜寒の風にさそはれくるそら()きもののにほひも、身にしむここちす。寝殿より御堂の廊にかよふ女房の追ひ風用意など、人めなき山里ともいはず、こころづかひしたり。

 心のままにしげれる秋の野らは、おきあまる露にうづもれて、むしのね怨言(かごと)がましく、遣水(やりみづ)の音のどやかなり。都の空よりは雲の往来(ゆきゝ)もはやき心ちして、月のはれくもる事もさだめがたし。 (第四十四段)

 

 憧れを誘う世界を書いている。第四十三段の〝かたちきよげなるをとこの、とし廿(はたち)ばかりにて、うちとけた〟姿が文を読む雰囲気は、あくまで優雅だし、第百五段の〝なみなみにはあらずと見ゆる男〟が女と話しているのは雪光り月さやかな払暁の御堂の廊下なのである。私はこれら雅びの翳を濃厚にうつした描写に重ねて、第一段を読み直してみたいと思った。〝いでや此の世にうまれては、ねがはしかるべき事こそおほかめれ〟と叫ぶように兼好が書きはじめたのは、人の生まれにまつわる品姓階級の高下(こうげ)に対する批判だった。

 端的にいうと、兼好はこの身分の高下をかなり強く意識した人であり、彼自身の出家遁世にしても真の入信に依るより、僧という身分に出て却って世俗の階級を外へ超えようと願った形跡がある。

 第四十三段以下一連の各段は、兼好が想像のうちに自身を高貴化した願望と憧憬の結晶だと私は理解したいのである。こういう白昼夢的な錯乱は、物狂おしい心で冴えた兼好の眼にはしばしば映ったに相違ない。いずれも極めて若い貴公子に擬しているのは意味深いし、殊に第百五段の男女の〝綺麗寂び〟の極限を示すような光景にはかなり兼好の体験の翳がさしている。

 

 北の屋かげに、消え残りたる雪の、いたうこほりたるに、さし寄せたる車の(ながえ)も、霜いたくきらめきて、有明の月さやかなれども、くまなくはあらぬに、人ばなれなる御堂の廊になみなみにはあらずと見ゆる男、女と長押(なげし)に しりかけて、物語りするさまこそ、何事にかあらむ、尽きすまじけれ。かぶしかたちなど、いとよしと見えて、えもいはぬにほひのさとかをりたるこそをかしけれ。けはひなど、はつれはつれ聞えたるもゆかし。  (第百五段)

 

 絵空事とはいい切れない現実感がそこにはある哀しみの漂った印象として残る。この印象が兼好の失せることのなかった青春時代の劣等感の息づかいなのだと考えたいのである。たとえば「兼好法師集」に〝冬の夜荒れたる所の簀子に尻かけて、木だかき松の木の間より隈なく洩りたる月を見て、暁まで物語し侍りける人に、思ひ出づや軒のしのぶに霜さえて松の葉わけの月を見し夜は〟とある一首の哀韻を斟酌すべきだろう――。

 

 朱雀先生の書き入れのある古い和綴じ本に慈子と(ひたい)を寄せ合い、およそこういうふうに私は話した。

 兼好はこれらの文章を抹消することができなかった。それどころか、絵空事めいた叙述の背後に兼好はある体験をもっていただろう。体験は兼好にがっちり食い入っていただろう。想像の貴公子を廿(はたち)ばかりと書いたとそう違わぬ年ごろに、青年兼好を襲った体験を推測させるのが、この前に触れたあの第二百三十八段の七節だといったら飛躍が過ぎる。けれど、今いったような兼好の心の傾斜にのせて釈迦念仏の夜のことを読み直せば、何を兼好が自讃したかったか、はっきり分ってくるのと違うだろうか――、そういって私は一息ついた。

 先生の本には思い出したように書き入れがしてあった。いずれもほんの一言二言で散見できる程度だったが、本を開いている時から第百四段の欄外に〝従者の眼〟と鉛筆書きしてあるのには鋭く眼がとまっていた。慈子はその本を私にくれた。

 電話に呼ばれて慈子が立ってゆくとすぐに、なめらかな、慈子らしくもなく、京都弁に似た抑揚の英語がきこえてきた。どうやら翌日の誘いを叮嚀に詫びて断っているように聞きとれた。上気して帰ってきた慈子はミセス・ルウからお午食(ひる)()ばれたといった。T・S・エリオットの詩を読みながら話し合うという若い人たちの勉強会だそうで「とても、とても」と慈子は照れた。

 それ、例の瓦――と机の上の拓本を私は指さした。法隆寺系の丸瓦では周縁に低く波文が陽刻してある。「連弁の中の双葉のところが表面がすこし窪んだ彫りになっているの。白鳳の瓦当(がとう)の特色なんですよ」と慈子は言葉を添えた。

 次の日午すぎ、慈子は嵯峨の二尊院の門の内で待っていた。青葉楓(あおばかえで)に洩れて散るこまかな日の光で足袋が真白だった。やや荒れた土と小石のだらだら坂の正面に白壁がみえ、小倉山の青さが一段高くに晴れだっていた。慈子は待ち待ちこの百米余りの参道を往き来したものであるらしく、心もち肩をすぼめて白い足先に小石を蹴り蹴り向うむきに歩いていた。

 慈子――

 声は小さかったが慈子は振り向いた。青い影が額から頬へ淡くながれて、慈子は小走りに寄ってきた。一瞬立ちくらんで、思わず両手で慈子を待ち受けた。

 茶事の席から私はぬけてきたのだった。稽古を兼ねているので人も多く、山家(やまが)づくりの茶室に鈴生りの感じだった。陽ざかりの表庭に咲き初めていた都忘れがなつかしかった。薄茶の方は失礼させてもらって厭離庵(えんりあん)を出てきた。二尊院へは三、四分だった。

 もう遠いことになるが、同じ構内に校舎のあった中学生の慈子とは、放課後に京都御所の前で待ち合わせ、嵯峨へもよくきた。光悦寺から金閣寺まで歩いて、さらに妙心寺、龍安寺までという長道中もあった。夕暮れのかげ濃まやかな広隆寺の松林を歩いたりもした。芝生の上で友だちと昼休みしている慈子を大学と中学を結ぶ木隠道(こがくれみち)からみつけると、慈子もちらと手を振ったりした。妻に逢ってからはそういう慈子との遠出もなくなって、勝手にも、そのことにさえ私は気がつかなかったのである。

 二尊院ではその頃拝観料をとらなかった。奥庭へ入って茶を所望(しょもう)すれば定紋(じょうもん)入りの茶碗で抹茶が出されたことも二人は覚えていた。

 裏山へ入ると三條西実隆(さねたか)公条(きんえだ)らの墓がある。ゆかしい限りの小さな石塔のままで寂びれている。有名無名無数のどの墓も仰々しく新儀に(ぜい)を凝らしたものがなく、嵯峨の山月に石のいのちを洗い流されたまま却って典雅な永遠の言葉を語るような、そんな小さく古く美しい石のかたちをしている。紅葉の馬場も佳い、宸殿(しんでん)にかかげた亀山天皇宸筆の扁額も佳い、小倉山の姿もとても好きだ。しかしとり分けて心を惹くのはこれら山に隠れたかずかずの墓の美しさだった――。

 慈子は私の腕をつかんだまま蒼ざめたほどの横顔をみせ、石にみとれていた。

 亀山公園から嵐峡へ抜けてゆく道、ことに途中の常寂光寺(じょうじゃっこうじ)の桜散る細い石段のあたりは二人とも好きな散歩道だったけれど、思うこともあって落柿舎(らくししゃ)から野宮(ののみや)の方へ戻ってみた。〝黒木の鳥居どもはさすがに神々しく見わたされて――〟と賢木(さかき)の巻にいうのも今はどうなのであろうか、慈子の手をひきひき寂びしき宮所(みやどころ)を通り過ぎていった。

 嵐山の舟着き場の方へ下りてゆくと、戻り舟から一組の男女が岸に上がるところだった。あれが空くだろうと慈子をうながすと、慈子はにこにこした。舟から下りた人の一人が、岩田磬子だと気づいた。

 あ、と思うまに船頭が割りこんできて、かげになって往き過ぎてしまうともう私は振り返らなかった。黄色く首まわりの開いた広い衿のワンピースで舟ばたを越えていた人の傍に、背の高い青年がいた。滑ってゆく舟の中で眩しそうにして私は嵐山をみていたが、慈子に呼ばれてすこし朱くなったらしい――。

「あの方、岩田磬子(けいこ)さん――でしたわ」

 

     二

 

 渋谷の日赤で簡単な取材をすませると、時間をはかりながら高樹町の方へ歩いた。五月雨も先刻から晴れ間になって、心のはずむせいか足も軽く前へ出た。

 根津美術館の人けのない砂利道が底に雨みずを含んでざりざり鳴った。支那の巨きな石像が四角い帽子を被て肩をいからせ腋をつぼめて木深い辺りに立っていたりする。道の左側は木隠れて隠水(こもりず)がにぶく照っていた。

 岩田磬子は、砂利道がやや登り坂に迂回して美術館の前庭へ入ってゆく場所に待っていた。旧根津邸の玄関跡が遺っている。磬子はそれへは背をむけ、新緑がいっぱい渓の上を蔽い尽している方をながめていた。その横顔が私をみつけて微笑った。ブルーのコートで白い傘を軽く杖についていた。

 小堀遠州の特別展で、せっかくだからと入ったが入念に観る用意はしてなかった。松屋肩衝(かたつき)などの大名物(おおめいぶつ)にこそ顔を寄せ合ったものの、三十分足らずで外へ出た。磬子は、上気した額から頬に手をあてて若葉の匂いをかぐような恰好をしている。(たに)深くにひっそりした茶室があって、池に、目ざましい紫のあやめ一輪が丈高く咲いていた。この時も磬子は額に手をあて、花のかたちに息をつめていた。

 茶室の縁に腰かけて磬子の話をきいた。

 麻布笄町(あざぶこうがいちょう)に叔父さんの家がある。磬子はその人の紹介で東京の青年とこの春見合いをした。嵐山で慈子の見とがめた磬子はそのような間柄の青年と一緒だった。縁組は調う見込みで、今度の上京は新居の相談とか先方の親きょうだいに初対面とかの用事を兼ねてだという。

 婚約した先をわるくいうのではないが東京の人は気もちがさくさくしていて、「心配です」と磬子は朱い顔をした。こういう閑静な場所で木々にとり包まれてまたお目にかかれるとは思わなかったと、無数に雫する池の向うの木暗(こぐら)い渓間からきらきら輝く池水まで、黙しがちに眺めるふうでもあった。

「あの時ご一緒の方、来迎院(らいごういん)のお嬢さんとちがいましたか――」と磬子も嵐山の出逢いに気づいていた。慈子は月輪小学校へ四年生の春に転入した。磬子は六年生だった。慈子の清潔な東京弁は自然と友だちの耳にとまった。朱雀先生も方言になじまぬように躾けられていたし、関東人の澄んで高い発声と京都人の地声とははっきり違うものだから、声音一つで慈子はすぐ人に覚えられた。慈子の方でも見知っていたのは磬子が特によくできたからだという。

「いややわ、嘘です――」と磬子は顔を伏せた。

 なぜ慈子と一緒に嵐山にいたかを訊ねなかった。そして、慈子を知っているのは死んだ姉にも関係のあることだといった。「お電話したのもその為でした」と磬子は膝の上のハンドバッグを開けた。

 根津美術館から青山南町の方へ電車線路沿いにすこしゆくと、柿右衛門の看板をあげた店などがあって、しかしどことなく外人向きの骨董店が目につく中に、ドイツ人が経営する〝アルト・ハイデルベルク〟という食堂がある。古色を帯びたビア樽の風格をさも思わせる黒い厚い材で表を構えた山小屋くらいの建物へ、重い扉を押して入ると、温雅な静かな雰囲気なのである。奥まった一室へ通う小廊下辺りには硝子戸ごしの微光が洩れ、よくふとった女主人の笑顔の傍で蓄音器が慎み深く異国の旋律をうたっていた。

 ただ一組の外人が若い顔を寄せ合って食後の話をしていた。その傍を通りぬけて、青いペルシアの花瓶にフリージアを挿してある壁ぎわの卓へ磬子を誘った。

 こういう場所で改めて眺めたセルロイドの定規(じょうぎ)一本は何とも貧相であった。細い定規には簡単なスケールが刻んである。むかし筋引きと呼んでいた薄いペラペラしたものである。端に私の名が書き刻んでなかったら訳の分らない場違いな品であった。先刻、磬子にみせられた時もそうだったが、右に傾いだへたな筆法が紛れもなく自分のものなので、驚く先に恥ずかしかった。姓を書かず名だけを彫りつけてあるのにも意味があった。当尾(とおの)という自姓が厭悪(えんお)の対象になって、その為の神経質も当時は度が過ぎていた。姓を書くが厭さに校内新聞にもペンネームを使っていた。定規をいつ失くして、岩田良子の手にどう残ったのか記憶がない。藤舎(とうしゃ)千恵子から渡ったのでなければ外に説明のつけようがなかった。

 良子は定規をノートに挟んで遺した。ノートも極く普通のもので、見覚えあろう筈がなかった。磬子は姉の自筆であることを証言した。

 

 紫式部日記を岩波文庫で買った。私も読んでみたかった。哀しいほど読めない。

 買わなければよかったと思った。

 

  あの空はさみだれのまままぶしくて丘の一本みち草分けてゆく

 

 宿題を放り出して、定規でノートをあきもせず叩いていた。乾いた痛々しい音の連続。

 今度は眼をつむって、自分の頬をぴちぴち叩いた。あかくなれ。

 

 からだが熱い。

 

 手当たりに開けた頁に骨を削ったような細い字で走り書きしてあった。磬子は黙っていた。

 紫式部日記は古文の好きな何人かの同級生と時間をきめて輪読していたことがある。良子と逢った頃には多分三分の二くらい進んでいて、夏休み前には更級日記へ移った。こういう話は藤舎千恵子以外に伝えられるものはいない。歌は私のにまちがいなく、気に入らなくて忘れていた。察するに茶室前で逢って間もない梅雨どきのものらしく、〝からだが熱い〟というのも病状の自覚と考えられる。

 頁を繰ってみると、新聞に書いた私の「更級日記と夢」とか短歌などが書き写されたり切り貼りしてあったりする。茶道部に入りそびれたことも書いてある。何度も顔は合わせていたらしいのに、どうして覚えがないのだろうか。とり分け、中ほどの一章など情ないほど記憶にないことだった。

 

 二階の部屋から学校の裏が見える。あの木造の建物は美術コースの教室で、中に茶室がある。お茶というのはよほど楽しいのだろうが、藤舎さんは茶道部のこととなると夢中だ。この間、母たちと高島屋の帰りに大原女屋二階で抹茶をもらった。お茶室の用意がしてあった。学校の茶室より狭いようだった。ほてりがちなからだにお茶の苦みは妙になつかしかった。妹が神妙に両掌でお茶碗を支え顔を埋めるようにして碧い泡を最後まで啜った。お稽古したいかと母が笑って妹に訊いた。はにかんで何もいわなかった。私に訊ねないのが皮肉にさえ思えた。

 学校を二日休んだ。二学期がはじまってから間もないのに、冷い汗と微熱が私の骨をくたくた煮ているのだ。医者にはまだ診せていない。どうなってもいいという気がしている。

 遠くからみているだけで何故よさなかったかとつくづく後悔している。あの以前なら何処で出逢っても平静な顔をしていられた。それだけだったが、それでよかったと思う。不自然な紹介を頼んだばかりに、もう気づかれないまま顔をみていることもできなくなった。私の名さえ覚えていないみたいにみえる。わざと避けているのかと邪推しながら、夏休みに入るのがつまらなかった。からだの調子はわるくても、今日こそはと何か待っていた。みな空しかった。

 九月に入ってすぐ、校内新聞が配られてきた。例のまとまった歌が載っていた。

 最初の一連は、

  別れこし人を()しきと遠山の夕やけ雲の目にしみにけり

  舗装路は遠くひかりて夕やみになべて生命のかげうつくしき

など。次の一連には、

  夢あしき眼ざめのままに(こや)りゐて朝のひかりに身を退きにけり

  うつつなきはなにの夢ぞも床のうへに日に透きて我の手は汚れをり

などがある。最後には、

  灯の下にいつはり死ねる小蟲ほども生きやうとしたか少くも俺は

  まじまじとみつめられて気づきたり今わらひゐしもいつはりの表情

などがあった。勿論、私の影など微塵もさしていはしない。その当然すぎるほど当然なことをなぜ私は哀しいなどと思うのだろうか。

 私の友だちも新聞に歌を書いている。〝日曜の雑踏の中にまじり来てウインドばかり眺めて歩く〟 〝裏山に山鳩の声がひびきゐて木の葉ふみしめ歩みよるかな〟などである。私などはやはりこの友だちと同じ程度にみえるにちがいない。ちがいます! とどう叫ぶことができようか。

 今日は登校する気でいた。昨日の夕方泉涌寺の方へいったりしなかったら熱もたいしたことなかったと思う。四時すぎていた。月輪中学下から参道の方へ散歩に出たのは病欠の生徒としては不謹慎だったのだろうが、出てゆく私をみて母も却って安心したような顔をしていた。〝拝跪聖陵〟の碑の所までいった時、ひょっこりあの人がわきから姿をみせた。制服をきちっと着て、紫色の風呂敷包みを学校の道具らしく四角くきゅっと抱えて。五、六米の所だったから顔を見合わせるなり私は火のように熱くなった。観音寺の鳥居橋の方からきたらしい。すぐにその方を振りむくと、小学生らしい可愛い女の子が追いすがるようにきてあの人の傍に立った。私はまた、ぽかんととして突っ立ったままいたものだ。「さいなら」とあの人はとても優しい声でいった。少女にいったので、私はその声を背越しに聞いた。「ええ」とうなずく少女の笑顔はよくみえた。まるで駆け抜けるようにあの人は私の目の前を即成院の方へ帰っていった。まばたき一つ私は受けることができなかった。私は怖いものをみるように少女の見送っているすずしい表情をみていたが、少女は私に一瞥もくれずに、急に元きた坂をかけて去った。

 私はもう前へゆく勇気がなかったが、たった今あの人が帰っていった道を追って戻るのは耐えられなかった。参道の樹々が真黒に塊にみえた。重い足をひきずって白砂の上の泉涌寺金堂をうつろにみてきた。

 同じ新聞を拾い読みしていると、三年生の中川櫻子さんが、「女性の道」という題で女性に聡明を切望した長い文章の最後に、こんなことを書いている。

"最後に愛の問題について少し触れたい。人生には永遠を貫くものと変転し進展するものとがある。愛は永遠を貫く世界のものである。真実に深い愛は決して奔放な形態をとるものでも、目新しい理論を必要とするものでもないのである。永遠の愛、と人間にいう事を許されるような愛は神と人との法則にしたがい、人間の本質に芽生えて、しっかり根をおろしながらつつましく咲き匂うのである。"

 この人に、あの黙殺された瞬間の凍えるような絶望についても解説してほしいものだ。

 学校のみえる丘が今も私には暗い灰色の重い土塊に思えている。

 

 奥深い(かい)をくぐってきた保津川一碧(いっぺき)の流れは波だつうねりもないほど蕩々と舟ばたをなめていった。櫻吹雪がよく晴れた峯をかすめ、あてどなく水に散った。慈子は舟べりから川面をのぞきこみ、指さきを流れにあそばせていた。私も傍で慈子に倣った。舳先(へさき)で竿をあやつる船頭の額に陽が当たっていた。屋形下の敷きござに膝をくずしている慈子の足袋こはぜへもきらりと陽はさした。

 中ほどまで漕ぎ出た舟はやがて木蔭を織り岩間を縫い、竿の先にはずみを呉れながらぐいぐいと嵐峡を上っていった。対岸の岩場に若い人が下りて水ぬるむのをたのしむさまがみえ、また顧みに山かげの路を語らってゆく人たちの声も二人はきいた。慈子も私も一つ舟ばたに寄ったまま黙っていた。

 慈子の首がかすかに動いた。急に不安になった。眼のすみに花の色がしのび()ってきて、すぐむこうから濃い緑蔭が迫っていた。舟は岩を避け、ざざっと瀬を鳴らしながら真碧に淀んだ淵へ入ろうとしていた。冗談めかして私はいいかけた、きみは、僕の…。

慈子(あつこ)よ――」叩き返すようにいうと身を起こして慈子は私を見据えた。喫驚(びっくり)して、そう…だと答えた。私の声は何となく寂びしそうに消えた。慈子は鋭く沈黙した。後髪はやわらかにふくらんで、朱らんだ耳へほつれ毛が揺れ揺れかぶっていた。その耳をそっと両掌ではさんで、名を呼んだ。「いや、いや」と呟きながら慈子は坐り直した。白い額を寄せるように静かに(もた)れてくる女眉(おんなまゆ)のすずしさが、黒く光った。

 

 岩田良子の手記をすばやく読みながら朧ろな良子のどんな表情より慈子の眼もとを想い出していた。碧い中を流れる一片の櫻色のように慈子の顔が目の前にあった。十年前、その慈子と私とで良子に苦いめをみせたことなどはどうしても想い出せなかった。けれど、妹の磬子にそう告げる時には思わず朱くなった。磬子の気もちが分っていなかった。弁解すべきこととも思えなかった。

 岩田良子に悪意をもつ道理もなかったが、慈子を他人にみせたくない気もちが咄嗟の間に良子を無視させて過ぎたのだと思う。東大の前で勤め先の人に出逢った時も喫驚するほど慈子をかばう意識が燃えた。とすると、あの舟つき場でのすれ違いにも、私は磬子にどんな表情をしてみせていたか知れたものでなかった。

「差し上げよ思いますの。もろてもうた方がええ思て。母は何やかやいうてましたけど、あたしずっと仕舞うといたんです」と磬子はいった。また、「朱雀さんとは、ずっと」と訊ねた。磬子のいい方のどこか微妙な裂けめの中に姉から受けついできた朱雀慈子のきらっと光る像がのぞきみられて、私は小さな息を呑んだ。知られていることが手痛かった。利不利と関係なく、ただ慈子とは二人だけでありたかった。

 

 上流で舟をすてると慈子と私は嵐峡館に入った。女中は川ぞいのくらい石廊下をくぐって、眼下に岩を鳴らす奔流のみえる閑静な小部屋に案内した。櫓をきしらせて保津川を下ってきた客船がすばやく木隠れに去ってゆく。鮎があるというので、頼んで、女中がいってしまうと、慈子は汗をながしたいわといった。

 嵐峡館のすぐ下に舟遊びの人の舟休めの場があって、日ざかりの川ふちに怖わ怖わ足をぬらす人が多かったが、嵐峡館入口とある静かな坂道を上ってくる者はないらしく、切り立った山肌のかげの生簀では赤や黒の鯉も、銀鱗の鮎もゆたかな清水を我がもの顔にゆすりたてていた。「お料理はお風呂お上がりやす時分をみはかろうて」と女中は愛想よく山の上の湯殿へ案内してくれた。重い部厚な宿の下駄で砂利を踏みながら、慈子はいっそ軽やかな足どりで先に入っていった。

 遅れて入ってみると、畳まれて乱れ籠に収まった女の着物がきちんとつつましやかに棚の下に眼についた。湯殿の中は明るいらしく、しんと静まって、慈子と呼んでも返事が来なかった。もう一度呼んだ声がしずまって、はいと小さな声が硝子戸越しにあった。

 湯ぶねに沈ませた慈子の向うむきの優しい肩から背が思いのほか小さくなめらかに光っていた。首すじの白い翳りの向うに、湯だつけむりににじんで対岸のみごとな山々が、瀬の音を渓深くにたたえながら緑一色に、重なり、ひしめき、もみ合って、広々と窓いっぱいに明るく迫っていた。

 ちからづよく撓う緋鯉のかたちが、鮮やかに水をはねる遠い響きを伴なってまばゆく眼の底を染めた。樵夫(きこり)が焚くか一筋の白い烟が峯ちかくを這うように緑に濡れ濡れ流れていた。

 

    三

 

〝従者の眼〟と朱雀先生が書き入れされていたことは指先を焼いたほどに忘れ難いのだった。東京へ戻ってから暫くは時間がなかったが、徒然草のことが従者の眼ということばになって頭にひっかかっていた。

 第四十三段などで想像の貴公子を、〝廿ばかり〟と書いたとそう違わぬ年ごろに青年兼好を襲った体験が推測できると、私は紙屋川の家で慈子に話した。釈迦念仏の夜のこともこれと絡めて考えられそうに言ったのである。

 体験の内容は眼にみえる現象や事件である必要がない。心に食いこんだ痛々しい懊悩(おうのう)だけでも紛れない体験である。若い日の兼好には、ある高貴な人ないしその匂いのする女房方への内心の惑溺があって、そこへ通っていったり、逢ったりする夢想を繰りかえしたかもしれない。高貴な人に〝情なし〟と恨まれたりしたのなら忘じ難い感動になっただろう。そういう想像だけをでも兼好は好んだのではなかったか。

 では、現実にそのような機会が兼好にあっただろうか。容易になかったに違いない。一種の動乱期とはいえ、やはり厳しい身分社会だった。家司兼好の運命は貴人の愛の営みにただ従者として随うくらいでしかなかった。理想と現実とは食いちがい、卑屈を意識した垣間見のポーズが想像の枠づけをする。〝従者の眼〟が兼好に備わってくる。その眼は第百四段や第三十二段に光っている。

 

 荒れたるやどの人めなきに、女のはばかる事あるころにて、つれづれと籠り居たるを、或人とぶらひたまはんとて、夕づく夜の覚束なきほどに、しのびて尋ねおはしたるに、犬のことごとしくとがむれば、げす女のいでて、「いづくよりぞ」といふに、やがてあないせさせて入り給ひぬ。心ぼそげなる有様、いかで過ぐすらんと、いと心ぐるし。あやしき板敷にしばしたち給へるを、もてしづめたるけはひの、わかやかなるして、「こなた」といふ人あれば、たてあけ所()げなる遣戸(やりど)よりぞ入り給ひぬる。内のさまは、いたくすさまじからず。心にくく火はあなたにほのかなれど、もののきらなど見えて、俄にしもあらぬにほひ、いとなつかしう住みなしたり。

(かど)よく()してよ。雨もぞ降る、御車は門のしたに、御供の人はそこそこに」といへば、「こよひぞやすき()()べかめる」と打ちささめくも、しのびたれど、ほどなければ、ほのきこゆ。さて此のほどの事どもこまやかにきこえ給ふに、夜ぶかき鳥もなきぬ。こしかた行末かけて、まめやかなる御物がたりに此のたびは鳥も花やかなる声にうちしきれば、明けはなるるにやと聞き給へど、夜ぶかくいそぐべき所のさまにもあらねば、少したゆみ給へるに、(ひま)しろくなれば、わすれがたき事などいひて、たちいで給ふに、梢も庭もめづらしく青みわたりたる卯月ばかりのあけぼの、(えん)にをかしかりしをおぼし出でて、桂の木のおほきなるがかくるるまで、いまも見送り給ふとぞ。  (第百四段)

 

 明らかに物語の筆致である。この一段を想像的描写とみる評家は少なくないし、首肯しやすい意見だが、兼好の家集に、〝秋の夜とりの鳴くまで人と物語してかへりて、ありあけの月ぞ夜深きわかれつるゆふつげどりや空音なりけむ〟とあるのにも似ていて、文章の情趣には兼好らしい独自の佗びた匂いがある。

 兼好の筆は想像であればあるほど兼好その人の願望や姿が直接にそれにかぶっている。人物には直接兼好自身の幻像が乗り移っていて、却って没個性的な表現に転じているのである。そうでないと韜晦にならないのである。兼好の願望を象徴的に行為する人物を、現実の兼好が扈従(こじゅう)しつつ垣間見ている。自身の内心の憧憬を描かれた主人公に演技させ、〝従者の眼〟で兼好は書きとめているのである。

 光源氏と花散里を想わせ、第百四段にはつくりごとめかした曖昧さが多い。みごとな出来ではない。 

 兼好はしかし立場上もこれに似た従者としての経験をもったはずで、もたなかったという方が不自然である。だからこそ、主人の風雅な女遊びにまた若い家司兼好(けいしかねよし)は刺激され、そうありたいとも願ったろうし、訪ねられる女の有様にも想像を逞しくしたかと思われる。事実、第百四段程度のことは空想や模倣の所産というより従者の眼にはありふれたものだったろう、ありふれた経験の中から殊更この文章を書き遺したのは、却って、この情景が空想でなくて兼好当人にとっても意味深いある体験に触れていたからではないのだろうか。

 第三十二段をもう一度読んでみよう。

 

 九月二十日頃、あるお方に誘われまして、夜のあけるまで月を見ながら、その辺を歩いたことがございましたが、(その方が途中で)思い出された家があったので、そこへ供のものに取次を求めさせてお入りになった。(戸外で待つ間その家の様子を見ると)荒れている庭に露が一杯下りているのも、趣深いのに、その上、わざとらしさを感じさせないほのかな香の匂が、しんみりとかおっていて、ひっそりと目だたぬ様に住んでいる様子は、まことに趣が深い。(内に入ったそのお方は)ちょうどよいくらいで出ておいでになったが、なおもその情景が優雅に思われて、(立ちさりがたく)物のかげから、しばらく見ていた所、(見送りに出たその家の主人は)お客の出られたあとの開き戸をもう少し押しあけて、月をながめている様子である。この時、仮にもし(その主人がお客を送り出すと)すぐに、掛金をかけて内に入ってしまったとしたら、どんなにかつまらなく感じることだろう。お客の帰った跡まで見ている人があるとはどうして知ろう、知らない筈である。このような優美な振舞は、(俄かに出来ることでなく)ただ不断からの心掛によるものだろう。その人は間もなく亡くなってしまったと聞きました。 (平尾美都子氏訳)

 

 はっきり従者の眼で実見した感想になっている。諸注は、仮托か事実か空想かに分れ、判断しがたいと読みすてる人もある。

 原文は簡潔で、感動的でさえある美しい筆づかいだと思うが、おそらく、物語めかせる作為よりも、文中の今は亡き女性に対して讃嘆の気もちをはっきり真正面に書き、故人を惜しむ追慕とまで高まっているからであろう。女への敬愛が前面に出ており、叮嚀にほめている。従者の眼が主人の行為を平板に垣間見たのでなく、主人と一緒に女をいとしくみる眼で垣間見ている。第百四段に比べて、この段では兼好は従者でありながら自覚的に愛する若者の眼と魂とを兼ねてもいる。このことは、聡明で多感な青年兼好の内なる哀しみにもはっきり関係のある所で、この哀しみを汲みとらねば兼好出家に至る人間劇を洞察することができないであろう。それは卑小な哀しみといいすてられない、人間的な悲哀なのである。

〝従者の眼〟は本質的に徒然草の眼である。そのことをよくよく理解したい。と同時に、従者の屈従する視覚を超えて自立する一つの〝魂の眼〟を願った兼好のもがきがある。このもがきが徒然草前半の高い調子につながり、全編の健康で高貴な俗を支えたのである。

 筆致も感情も違うが、この第三十二段と第百四段の女性に人格や個性の統一感を感じる。季節こそ違え家居のたたずまいや訪ね方にも同じといっていいほどの近似感がある。一方が体験で他方が仮りに想像だとしても、筆をもった兼好その人の頭の中では両者を統一する気もちが働いていたかもしれない。そう考えると、第三十二段では従者として感動的にみた女のもとへ、第百四段では自分が訪ねてゆくことを想像して描いたものだともいえるのである。つまり第四十三、四段や第百四、五段は、第三十二段の体験や感動が従者の埒を想像の中へ乗り超えさせて産まれたものと読みたいのである。兼好はそういう青年期を経て出家し、出家して後にもそういう青年期の体験を書かねばすまなかったけだし在俗の僧ではなかったか。

 口語訳は何かしら僧である兼好を意識しているようだが、この第三十二段を軸にした徒然草前半の諸段は兼好の青年期を決して何十年も経てから書かれたものでないことを本文の筆致や記憶の鮮やかさから確認すべきである。ことに第三十二段は徒然草成立の一つの眼目ともみられ、月光にぬれつつ姿なき客を見送る女性は無視できない。朱雀先生が指摘されていた通り後に井伊直弼が獨座観念を語った時には、徒然草のこの段を念頭に浮かべていたかもしれない。この女性が故人であることにも特に注目しておきたい。家司兼好(けいしかねよし)の周辺にこの故人を追尋することは不可能であろうか――。

 

 書きまとめたものは慈子に送った。その端にこうも書いた、〝この間、お墓参りできなかったのが心残りです。石楠花も咲いていたでしょうに。〟

 葉書での返事は簡潔だった。〝第三十二段の解説ちからづよく興味深く拝見しました。これからが大変ですね。父の墓にはご一緒にと心こめておまいりをしてきました。椿でいっぱいでした。お利根さん、私たちに話したいことがあるそうです。お大切に。慈子〟

 最後の一節に眉を寄せた。見当のつかぬことではなかった。

 過ぎし春――、嵐峡館の鮎料理にも二人は箸をつける気になれなかった。慈子は私の背に顔を寄せ、ときどき烈しく歔欷(すすりな)いた。それでも私たちは意味ありげな何一言も交すことをしなかったのである。

 渡月橋へ戻って、電車に乗ってしまえば北野まではものの二十分、その間慈子は美しい笑顔も幾分甘えぎみに添い寄って、話すこともつねより多かった。別れてゆきたくなかったが慈子はいいえと首を振った。「何時の汽車になさるの」と聞かれ、思わず顔をそむけた。遠い比叡山の鋭くとがったかたちがきらと奔った。明日の今頃は、あのすえた匂いに塵が舞うぎしぎししたデスクと電話と同僚に囲まれているかと、月並な情なさではあっても腹の底をよじるようにその想いは夕暮れちかい春の空ににじんだ。

 北野から東へ真直ぐ、市電で十分も乗れば大学である。慈子はそこまで送ってきた。烏丸通から歩いて、相国寺前の校祖碑をみて校内へ入った。東京へ出て以来はじめてだった。見馴れぬ新館が幾つかある中でも学生が群をなしてたむろする広場の様子などは昔のままで、かばいかばい妻の背を押すように昼休みの雑踏を分けて出て京都御所へ憩みにいったことなどが想い出された。日曜日の構内はさすがに森閑としていた。

 妻を想い出したことは熱いものに触れたようで、遠慮がちにそっと傍に佇んでいる慈子のやさしい和服姿に今さら軽く戸惑いながら、ふと元の道へ戻ってゆこうとする自分をあわれみ哀しむ気もちが動くのだった。慈子に何かいいたかった。いってやりたかった。けれどただ慈子の肩に掌を伏せて、妻にもそうしたようにゆっくりゆっくり誘うようにはずむように校祖碑わきの木下蔭(こしたかげ)から門の方へ歩くばかりが何かに耐えた安らぎであった。あまりに短かくその道も果てた。慈子は微笑って西へ戻る市電に乗った。

 慈子と大学を歩いてきたことは私を感傷的にしていた。(めい)なるかなといった、そういう傷心もまた(うべな)いながら、夕食をすませるともう私は早く妻の所へ帰ろうということばかりを思い募っていた。慈子はいとおしかった。いとおしければいとおしいほど胸の一点が絞られた。突き揺がすような感動に息を潜めながら、とにも角にも先ず東京へ帰って、というようなことばかりが胸の壁を突き鳴らした。

 父は黙っているのだがこういう別れ(ぎわ)には動揺しやすい人であり、母はといえば何がなしに「まあ、まあ」と言葉にならない言葉を頻りにつないでは、元気でということをいうらしかった。娘の名前も出て、今度は祇園祭の時分やな、夏休みはとれるのか、帰って来れるかと母も叔母もこもごも声をはげます。あの荷物、この書類と用もないのに身辺に気配りして、もう大地が泡立って砕けるほどの、別れ間際の佗びしい興奮に耐えかねていた。その最中に父の傍の電話が烈しく鳴った。切って落とした沈黙を慌てて突き刺すように、かん高い父の声が「もしもし」と呼んで、はてと首を傾げて呟いた、「何やろ、切ってしまいよった――」

 がっかりして静かになった年寄り三人を気の毒に思う一方、今の電話が思いつめた慈子の必死の賭けかと胸が凍った。たとえ私が出ていたにしても、慈子よとはいわずに切れたはずの電話であった。それでもいい――慈子は暗い涙を隠して紙屋川の家の隅で息を詰めてはいなかっただろうか――。

 京都駅から慈子を電話口に呼ぶ勇気もなく、私は九時すぎの夜汽車で東京へ帰ってきた。よく睡れなかった。睡れば夢の中に、奇妙な、しゅうしゅう奔る風の声ばかりを聴いた――。

 お利根さんが何かを話す――。よくは分らなかった。が、慈子の葉書からもあの夢にきいた奇妙な風の声は甦ってきた。

 荷物の中から妻は和綴じ本をみつけ、「ご勉強だこと」とわらった。「家集はなかったの、家集をもっと探っといた方がいいんでしょ」ともいい足した。旅に触れて話したことはこの程度で、ほかに両親や叔母の暮しむきをちょっと訊ねただけ、出張についてはご苦労様きりいわなかった。早のみこみとも鈍いともどうにもわるくはいえるだろうが、このあっさりした、くどさのないのが妻の天性のうち最も私の及び難いところであった。

 岩田磬子の礼状のようなものが家の方へ届いた時、妻は勿論さっさと開けてみていた。九月に挙式して東京で暮らすということまで書いてあった。夕餉(ゆうげ)の飯をよそいながら、「パパもずいぶんねえ」と妻は大袈裟に娘の方へ首を振った。「そうよ、ずいぶんよ」と娘は箸を握っておうむ返しに応えた。神妙に私は汁を啜った。磬子のことがふと心劣りして想われるのだった。

 

    四

 

 綺麗だが細い硬い筆づかいで岩田良子は書いていた。糸ほどかぼそい文字を爪の先でもみほぐし、温い血の色をしぼってみなければ記憶の中の良子の顔が想い出せそうになかった。校内新聞から引いている中川という女生徒の愛についての文字は、それなりに今の眼には面白いのだが、良子がわざわざ書き抜いているのは痛々しかった。愛ということばを厭悪(えんお)する気もちの年ごとに強いのを私は意識した。

 愛は「関係」を要求する。関係は愛の不安と不毛のあやかしにすぎない。それで愛が増すのではない。消滅することが見えにくくなるに過ぎない。

〝結婚〟を愛の関係と呼んでも構わないが、愛さえあればどんな不足も補われるほど生易しい約束事ではない。身内の感情に根を支えられて、関係という名の拘束から関係を超えた和へ転じうる唯一の選びとったリアルな人間関係なのである。

 私は気づいていた。

 妻と慈子とが対い合い、結婚生活と〝来迎院〟とが対い合っている。妻と家庭とは現実であり、慈子と来迎院とは世離れている。身内の想いは()のどの部分にもいきわたっているが、世俗の波を押し分けるには結婚という約束に依らねばならず、無礙(むげ)の世界に住むためにはむしろ世離れて美しくあらねばならない――。だが、いずれにしても愛が鍵なのではない。

 危うい調和、妻と慈子との中に立ちふさがり互いに盲いさせているだけで得られる調和というべきであった。

 妻は慈子を知らないが、慈子は自分が妻でないことを知っている。妻を守る論理かと思ったものが、妻を()うる論理であるのかもしれず、守る誣うるいずれにせよ、論理を喰い破るちからが動いてリアルな世界とイデアルな世界とが相侵すことになってしまえば破滅だ。そのちからは私にだけ襲うのでなく、慈子にも襲いかかるわけで、抑え難いものを抑えねばならぬ負担が妻には免れていて慈子に身一杯かかるのが、容易ならぬことであった。慈子の哀しみは妻の存在に触発されて深まり、この哀しみに(しゅう)するかぎり日々に慈子は妻をかばっている私という壁を喰い破って妻の領分を侵さざるを得なくなる。生ずる紛争のことはまだいい。慈子その人が雪消えのように失われてしまうだろう。対決はなくとも慈子を世俗の〝関係〟に置き直せば、たとえ恋人とか愛人とかの呼ばれ方ではあれ、慈子はもうあの〝来迎院〟の慈子ではあり難いのだ。

 私は慈子とのたたかいの如きものを想像しなければならなかった。このたたかいには私だけが、慈子だけが()つということはない。二人が克ち抜くか、二人ながら消え失せるかしかない。

 嵐峡館での慈子の〝提案〟は想い出しても平静なものだった。楽しそうな調子でさえあった。慈子は無頓着にそういい、そんな無頓着でいられることが私たちの兄妹めいた本当の間柄を直指している、とそう思ったほどだったけれども、慈子の突飛な提案を不謹慎と咎める気もちを幾分かは私自身が抑えつけなかったであろうか。あの万緑一傾(まんりょくいっけい)の山々に見下ろされた湯ぶねの中で、慈子を肩から抱き寄せた。日光に澄んだ湯にあたたかな縞目が揺らぎ、白い脚が流れるように伸びて湯ぶねの端を蹴ったのを忘れはしない。

 あの沈黙を支配していたのが感動か惑溺か恍惚か羞恥か、それはどうでもよい。むしろはっきりと、欲望のあったこと、遂げなかったことを思い知らねばならなかった。朱雀先生の死以来を顧て、自分にその身構えも期待もあったことが否定できなかった。慈子は先に湯殿を出た。外で魚をみていた。後姿が静かで、今、湯から出た人のようでなかった。女中の愛想のいい声が呼びかけ、その方へ顔をむけて微笑ったらしかった。

 慈子の肌の残した感動が、十年にわたって慈子の心が私に与えたものより生々しかったことは(いぶかし)むに当たらなかった。妻に触れる時と限らず、家族団欒の最中にさえ、あのまっしろな姿態は容赦なく眼を焦がすことがあった。頓狂にきょとんとする私は突然談笑の渦からこぼれ落ちて、娘たちに咎められた。動かぬ壁とも眺めることのあった自分自身を危うい綱一筋の上に蒼ざめている姿で見直した時、さすがに不安と緊張と、慈子にむかう底火のような欲望とで、眠れぬ夜々をつないだのである。

 (てい)のいい誘惑者ではなかろうか――。身内らしいなつかしみを望むあの考え方が、謂わば女の気もちを釣る高等な哲学の匂いをさせた餌であるのかと自問する時、やはり私は切実に自分と(あらが)わなければならなかった。自分とというのは、良心とという意味ではなかった。自分の存在の理由とということを考えていた。この抗いに勝機がつかめなければ、私は自分の手で自分を葬らねばならない。よく分らないが、こういう場合の私の誠実をはかる分銅は、妻ではなくて慈子だった。まさしく妻は私の妻であるが故に微塵もこのようなことと関わりはなかった。

 慈子を女として抱き、そしてもっとしっかり抱きたいと想うようになった時、私の世界にはあやしい翳がさしていたといわねばならない。誰よりも何よりも、あの慈子への欲望を飾るための誘惑の哲学を私は大切に育ててきたのだろうか。当の慈子がもしそう私を告発することがあったら、劫火(ごうか)に焼かれて堕ちる私は醜悪なメフィストフェレスを演ずるばかりか、妻も慈子も、つまりリアルも、イデアルも元も子もなくなるのだった。

 嵐峡館の一部屋で、意味ありげな何一言(ひとこと)も交さなかった。慈子の歔欷(すすりなき)をいいことにいうべき言葉を殺したとは思わない。何かを語れば何かが死なねばならなかった――。

 

 徒然草に没頭していった。半ば夢中で私は徒然草をあやつりはじめていた。

 

    五

 

 貴人讃仰の傾向が兼好にあるのではないかと考えてきたのだが、兼好少年時代の夢にすぎなかったのかもしれない。何となく〝上〟の人を想い憧れるということは誰にもありうることで、私が菊の御紋の泉涌寺(せんにゅうじ)来迎院(らいごういん)の世界、朱雀一家へ接近し没入したのも、育ちや生い立ちから噴き上げてきたある憧れの表われといいえたはずである。このような気もちは、成年して妻を容れ、落ちつきが生じれば自然と薄れてゆくものだが、兼好の場合、彼が家庭をもったかどうかが明らかになっていない。

 確証はないが、兼好には結婚に失敗したかと思われる形跡あり、という人もいる。即ち、山科小野庄(やましなおののしょう)に田地壱町歩(いっちょうぶ)(あがな)った正和二年(一三一三)九月、六条三位有忠(ありただ)の売券に〝兼好御房〟とあって、遁世の事実が知られるが、この土地は元徳元年(一三二九)十二月の龍翔寺文書によれば、宗妙という者が兼好の手から買い、寺へ寄進したとある。憶測を出ないが〝宗妙は兼好の悪妻であったかも知れない〟という田辺(つかさ)氏の言及がある。この点は深入りしないまでも、兼好の結婚ないし妻に対する感想が極端に否定的なことは興味深い。

 

 ()といふものこそ、をのこはもつまじき物なれ。「いつも独りずみにて」など聞くこそ、心にくけれ。「誰がしが聟になりぬ」とも、又「如何なる女を取りすゑて、相住む」など聞きつれば、無下(むげ)に心劣りせらるるわざなり。ことなる事なき女を、よしとおもひさだめてこそ添ひゐたらめと、(いや)しくも()しはからるれ。……まして家のうちをおこなひ治めたる女、いと口をし。子などいできて、かしづき愛したる、心うし。男なくなりて後、尼になりて年よりたるありさま、なき跡まであさまし。 (第百九十段の前半)

 

 兼好は悪妻に懲りたことがあるのではないかと武田祐吉氏も同じ推測をしているのだ、が、兼好が嫌ったのは所帯染みた女なのであろう。男の死後、〝尼になりて年よりたるありさま、なき跡まであさまし〟という筆勢には変に実感さえこもっている。

 だが、こうした事柄も徒然草執筆の時期を度外視していっては意味がないし、兼好の出家という一事を絡めてこそ考えねばならない。私は兼好の出家遁世を敬虔な入信というより、ある種の衝動と考えている。兼好が徳高く悟り澄ました僧であったと考えることも、遁世厭世の隠者であったと考えることも徒然草からすると当たらない。妙な買い(かぶ)りをするより、はっきり在俗の僧、歌僧、法体(ほってい)の文人などと考えるべきである。せいぜい兼好御房(けんこうごぼう)の程度で兼好御上人(おしょうにん)とはいい難い。兼好出家と徒然草執筆とは、たとえ時機はずれていても兼好その人の内側では一つづきのことだというのが私の動かぬ考えである。

 正和二年(一三一三)九月、小野庄に土地を購った時、兼好三十一歳と推定され、もはや兼好御房と呼ばれている。その前応長元年(一三一一)には東山清閑寺の道我(どうが)と相識り、一時そこに身を寄せている。また主君堀川具守(とももり)の叔父に当たる道源僧正にも識られ、それらのひきで宮中へも出入りしたらしい。すでに出家し、翌正和元年(一三一二)東国に下り、戻って小野庄に安居したかと推測される。他方、兼好は徳治元年(一三○六)頃左兵衛佐(或いは尉)であり、その年の三月から四月にかけて兄倉栖兼雄(くらすかねお)の主人で金澤文庫の当主だった金澤貞顕(さだあき)に請われ、『侍中群要』の筆写にたずさわった形跡がある。兼好の出家は徳治以後正和初めまでといって間違いない。

 具守の子息が大納言具俊、娘が後宇多院妃で後二条天皇母でもある西華門院基子で、兼好はこの西華門院から後二条帝崩後に歌を召されている。兼好がこの帝を深く頼み、その崩御(ほうぎょ)に強い衝撃を受けたらしいことは、例えば初度の金澤下向(げこう)をこの直後と説いて出家遁世の直接動機とする林瑞栄氏らの説にうかがわれる。それ自体はまだ不十分の論ではあるが、兼好がもともと大覚寺統に近い二条派の歌系に親しみ、金澤下向には間諜説があったり、後二条帝崩後は御父の後宇多院に仕えたとの推測もあることから、堀川家に属したまま滝口などに勤仕したことは十分あったと考えていい。官職もそれを示している。具守、西華門院、後宇多院、後二条帝は緊密な姻戚関係にあり、その周辺に兼好も身を置いていた訳である。

 兼好が青年時に身を置いた環境を輪郭なりと理解しておきたいということは、徒然草を読み直そうと考えた日からの予定だった。徒然草成立に限っては占部兼好(うらべかねよし)時代がより重要だと思うからである。その中で兼好出家への過程を推量するとなると、『先進繍像玉石雑誌』が伝える橘成忠の女との失恋譚のようなものは度外視するとしても、看過ごし難いのが、家集に名の出る延政門院(えんじょうもんいん)一条なのである。

 兼好は家集の中で二箇所この女房との歌の贈答を記録している。

 

堀河のおほひまうちぎみ(大臣)を岩倉の山庄におさめたてまつりにし又の春そのわたりのわらびをとりて、あめふる日申つかはし侍りし

  さわらびのもゆる山辺をきて見ればきえしけぶりの跡ぞかなしき

    返し(あめふる日……見せ消ち)   延政門院一条

  見るままになみだのあめぞふりまさるきえしけぶりのあとのさわらび

 

 兼好の主君だった堀川具守の死は正和五年(一三一六)正月十九日だから、この歌は翌文保元年の春のもので、兼好出家後のことだ。が、歌は感傷的で、何かしら此の三者に共通の想い出があって、残された二人の涙を誘っているように思われる。

 延政門院一条が兼好の家集に書きとめられた「唯一の女性」の名であることから、第三十一段に書かれた雪の朝の人をこの一条に擬して考える白石大二氏他があり、山口正氏はこの第三十一段を徒然草の「眼目」とみているのである。注目したいのは、山口氏が眼目とする第三十一段は、私の重視するかの九月二十日のころ訪ねた女を書いた第三十二段にちょうど先行し、かつ、この両段いずれも「今は亡き人」として兼好の追慕を受けている。第三十一段は女のはなしと内海月杖、沼波瓊音氏らは早くから指摘している。この女を一条と推定するのはまだ早い。しかし、なぜ兼好が他ならぬこの一条に具守(とももり)追悼の歌を贈ったのかは問題にせねばならない。

 この贈答がある限り、具守と一条、一条と兼好が何かの因縁に結ばれていたことは認められねばならず、女の歌は殊に素直で美しいまでの感傷をはらみ、なみなみでない知性と因縁が感じられる。中新(なかにい)氏はここに主君具守の容れる所とならなかった二人の恋を想像しているのが、興味深い。

 

延政門院一条時(ママ)なくなりてあやしきところにたちいりたるよし申おこせて

  おもひやれかかるふせ屋のすまゐしてむかしをしのぶそでの涙を

    返し

  しのぶらむむかしにかはるよの中はなれぬふせやのすまゐのみかは

 

 この前詞はすこし読み難いが、兼好がすでに五十歳、延政門院の死んだ元弘二年(一三三二)のこととは私は()らない。確言できないが、題詠ながら恋歌一連の直後に記されてあることも意味ありげで、しのぶ昔の想いはどうにも第一の贈答と事実上一つなぎのものと釈りたい。〝あやしきところ〟というのも、延政門院と兼好との関連でははっきり来ないが、延政門院の代りに堀川具守を据えて先の歌と結び合わせ、さらに第三十二段、第百四段などに重ねてゆくと生きかえってくるようである。

 中新氏は延政門院死後に〝あやしきところ〟に退(しりぞ)いた一条も、兼好が第三十一段などを書いた頃にはすでに〝亡き人〟であり、ここらに執筆時期を推定する手がかりありとされているが、この手がかりによってする元弘二年以後の徒然草執筆説には首肯けない。一条が兼好に意味深い女性であるのは、一つにはもちろん兼好自身の感情に根ざし、一つには主君具守の記憶につながるからであって、その関係は後で考えるように、おそらく一段と遡って嘉元から徳治年間に至るのである。むしろ、その頃から正和五年の具守死までが重大なので、それ以後元弘に至るまでの十五、六年の間隔はいかに一条と兼好に特別の親しさがあるにせよ、また〝しのぶ昔〟のことにせよ間が抜ける。歌そのものがまだ若々しく迫ってくる。具守の死後ほどを経ぬ頃、先のさわらびの歌よりもむしろ幾分早めの時期の贈答とみたいものである。第三十二段前後の女を一条と擬して、この〝あやしきところ〟に住んでいたかとみると(一条の里であったなら、生前の具守も忍んで行けたであろう)、一条は若死にしたとみるべきで、元弘二年以後まで生きていたとは考え難い。もし生きておれば、少くも初老の女友だちについての追憶が徒然草か家集かにあっていいのにそれはなくて、徒然草の〝今は亡き人〟の印象は逆にはきはきと若やかな女房のものである。

 いずれにせよ、延政門院一条は兼好が家集に名を記した唯一の女性であり、二つの贈答歌からみてもあの女人酷評を敢てした兼好にとって、とてもただ人とは考えられない。いったい、この一条と兼好ないし堀川具守の間にはどういう因縁が存在したものか。

 一条が仕えた延政門院は後嵯峨院第二皇女悦子内親王であり、母は大納言西園寺公経(きんつね)(むすめ)で、正元元年(一二五九)から元弘二年(一三三二)まで七十四歳を生きている。持明院(じみょういん)、大覚寺両統の内紛をつぶさに傍観し、後醍醐天皇笠置蒙塵(かさぎもうじん)を老いの眼で実見している。兼好は第六十二段でこの女院の幼時の逸話を書いているが、女房の一条から直接聞いたと思われる――。

 

 もう予感以上の見通しがついていた。朱雀先生の心に潜んでいた徒然草に対する不思議を私はひきついだのである。徒然草を中に或る了解が先生と私たちにあり、また私と慈子とにあったようだ。さらに、この了解が多分私や慈子の知らぬ別の何ものかと先生との間にもあって、そこへ不思議に惹かれるらしいことに私は思い当たっていた。自分の徒然草考ないし兼好考が、先生のやや憑かれぎみに追われていた不思議の(らち)をまだ出ていないことを思わぬ訳にゆかなかった。

〝延政門院一条のこと〟と書いて慈子に送り、七月、多分祇園会ころ京都へ帰ると報せた。

 

   六

 

 東京を発った朝は七月末には珍しくひどい雨であった。傘が用をなさなかった。午すぎには暑く晴れて、名古屋を過ぎる辺りでは木曽(きそ)御嶽(おんたけ)が遠い影のままくっきりみられた。

 京都の家へ着くと、一休みしてすぐ祇園町の湯へ出かけた。空いていた。相客といえば髪を化粧前の女形のように白布で包み、片膝を立て、華奢ななで肩の辺りからまるい背骨のぽきぽき立った湯照りの背筋へ白粉の匂いをさせている、なまめかしい男が一人だけで、軽石でしきりと白い踵をこすっていた。女湯からののどかそうな遠慮のない高咄しの反響が却って静かで、雨の武蔵野をからがら朝早に発ってきたことも思われ、京都に今いる安堵と一緒にふしぎな疲れも私を物憂くさせていた。

 石鹸入れを濡れたタオルでくるみ、それをまた薬局の赤電話わきへ置いて私は覚えてきた番号でダイアルをまわした。

 お利根さんの声がめったになく大きかった。慈子は東京へいって留守だし、そのことは報せてあるはずと聞いて、血がひくほど胸が鳴った。昨日の晩は下深沢の方だけれど、今日あたりは――とお利根さんはかるく咎めるくらいの調子から、今にも東京から電話がくるか知れないし、念の為、明日もう一度と軽い咳をしながらもう穏やかなふだんの声であった。一時頃にうかがいますと約束したが、ちょうど今時分に慈子の電話を誰かが東京の勤め先で受けているかと思うと、いやな気がした。

 慈子の手紙は確かにみていなかった。郵便事故か社内での故障かわからないが、いやな気がした。私たちの習慣めいた七月の帰洛は二十七日の娘の誕生日を祖父母と一緒に祝うのを兼ねている。それを慈子が忘れていたらしいのが、我儘にもふと佗びしかった。ただの連絡か、何かべつに書いてあったか、それを知らずに慈子と今度逢うことはたとえ泡ほどでも隙間ができているようで不安だった。

 母にあっさりと冷索麺(ひやそうめん)をざるにあげてもらい、濃い青わさびで音をさせて食った。

 晩、妻と木屋町へ出て、〝嶋房〟という店で鯛を食った。妻は私の鯛にもちょっと箸を出しておいて自分は鱧を頼んでいた。琅干(ろうかん)というのは美玉だそうだが碧色(みどりいろ)で、白磁の中にぎろっと赤い鯛の肌とは違うのである。しかし、なめらかに白い厚い肉の透きとおったのを、たでと一緒に濃い紫につけている妻の箸づかいから、こんな古めかしい支那の石の名が想い出された。妻の鉢から鱧もつまんで、私はビールを飲んだ。

 町の真中に泊り、遠い帰路を煩うことなく娘を祖母にまかせて二人で歩く、それが京都へ帰る楽しみの一つだった。もうそこに家があっても、町を歩いてきた私たちは名残惜しむほどの感傷さえもって、また目についた店の扉を押すのである。新橋の〝紅ばら〟もそうした馴染みの店で、小暗い店内の一つ一つの卓に紅い小さな灯を古風なかさで囲っている。堅固な大きな椅子に低く腰を沈めながらその晩は私がブランデーを、妻は銀の金まりでクリームを注文した。緑と朱のこまかにまじったヴローチが新しい薄茶のレース地に光ってよく似合った。静かな口調で妻は父や母の家のことを話し、ときどきにっこりした。あすは祇園会の〝あと祭〟である、「観にゆく」と訊かれ、頷いて、その時、急に私は慈子のことが不安だった。

 翌朝――

 三條寺町(てらまち)へ着くほどもなく祭礼の先頭北観音山が四條迄の曲がり角にかかるところだった。ゴヴラン織を豪華に垂れた(ほこ)が、祭子(まつりこ)の景気声と一緒にコロの上を斜めにえいえいと方向を換えてゆく。投げちまきに飛びつく人々、狭いながらに道筋を埋め尽し、家々の軒下を埋め、二階三階を埋め、屋根にも上って祭礼の巡幸を見物する人々。祭の果てのにぎわいこそと兼好はいっているが、兼好らしい背き方がみつけたそれはそれで別の寂びしみの佳さであり、祭の最中には最中にしかない興奮がある。

 妻も、娘を抱いた私も人波で西側の果物屋に押しこまれながら、最後の南観音山まで見送り通した。

「来年も観ようね」と興奮しいしい私が受けとめた投げちまきをしっかり握ったまま、三つになる朝日子(あさひこ)は妻の方へしきりに何か可愛く喚いていた。

 寺町の鳩居堂(きゅうきょどう)へ寄った。目を惹く香、硯、墨、筆、和紙、扇子、うちわ。店の隅の志野流と書いた聞香(もんこう)指導の広告までがしみじみと老舗らしく、祇園会にも行き逢い、その悦びのままこういう落ちついた古い店のきららかでないたたずまいに身を寄せたことが、幸せに思えた。蕎麦の河道屋へも寄ったが、祇園祭でかえって休んでいた。半ばは惜しみ半ば頷き、家へ戻った。

 

 私一人が靴を脱がずに玄関からまた町へ出た。午すこし前の日照りが道をやわらかにしていた。にぎわいの中に御神燈の居ならぶかたちが陽ざかりながらに美しく、がらんと空いた電車の中で外向きにからだをよじって、寺町、御幸町(ごこまち)、高倉、烏丸(からすま)西洞院(にしのとういん)などと頭で勘定するように夏祭の京の町筋をたしかめていた。

 北野紅梅町辺りはものの影も濃く、静まりかえっていた。表の戸が一寸ほど開けてあって、奥で鼓の音がした。あれだなと思い、いつからお利根さんは鼓なんぞをと思いながら玄関のベルを押した。鼓は果してやんだ。家の中に慈子のいないということががっかり思い知られた。

 座敷には祇園社の御手洗場(みたらし)を描いた岸連山の涼しい軸が納まり、時代物らしい長刀鉾が床畳に大きく飾ってあった。お利根さんは香煎の茶を手早く用意してくれながら「お祭は」と訊ねた。観てきたと答えると、あの巡幸も近々に十七日の〝さき祭〟と合わせて一ぺんに観せるようになるらしいという。私は、そうですかとぼんやり返事した。

「お茶室の用意ができてますよ。庭をまわっていって下さる」とお利根さんは立っていった。庭には夏木立がいっぱいの青葉を重ねていた。

 茶室の戸障子は勝手口の他は開け放ってあった。台目畳の奥に下地窓があって、夏草のみえるのが涼しく、風炉わきに水を切ったばかりの伊賀水指。塗り蓋にも露が残っていて、いつの間にと思っていると勝手の戸が動いた。床脇に直ると、白い指がかかって戸はさらりと開いた。慈子が微笑っていた。

 声が出ない。

 菓子鉢が静かに膝前へ運ばれ、「ようこそ」の挨拶に拍子を合わせて会釈を返したまま、慈子の顔をぽかんとみていた。慈子は見返すふうにすこし首を傾げ、「よかったわ」と低声(こごえ)でいう。私はほっと肩を落とした。濃い緑の男帛紗を腰につけた慈子は、勝手付へ一膝送ったからだを指先で支えながら、どうぞと水屋へ声をかけた。「お利根さんのお心入れなのよ」と聞いているうちに、お利根さんは傍に直って「どうぞお菓子を」と澄まして、笑った。疲れてないの、と慈子に訊いたが「大丈夫」と慈子も笑った。

「驚いたでしょう。あのお花も今朝の内にさがしてきましたのよ」と床をみる。鵜籠に矢筈草、姫百合、祇園守、額草(がくそう)それに縞芦が涼しそうにあふれていた。祭事をはずした玉舟和尚の〝帰至家山即便休〟の一行(いちぎょう)は朱雀先生が特に愛されていた軸で、茶室こそちがえ同じ三畳台目席に三人でふと黙した一瞬には、そこら辺りに先生の気はいが動くかと思われた。

 素掻(すが)きのままの土壁に慈子の白い着物がよくはまって、三島の夏茶碗にさらさら茶筅の入るのが気もちいい。「暑気払いに葉蓋をと思ってもね、佳い葉がなくて」とお利根さんは嘆息していた。例のように途中で私が点前を代ってもう一度点てまわし、その間に慈子の話を聞いたのである。

「お電話しましたの、お茶の水から。三時半頃でした。交換台がなかなか出なくて、だいぶ長く待って……。待っているうちに、あっと思ったのお誕生日のこと――。がっかり。で、一人で、レモンへいって二階の道路側に坐って。暑くてまぶしくて、汗もかいて、それなのに眼の前がうすぐらいの。窓から、下をみながらいつかもここにこうして坐ってたっけと考えてました。お父様がなくなって、東京へいったでしょ、去年の秋……。雨が降ってて、あの道に黄色くなった楓の葉がずいぶんと散ってました。学生がいっぱい往き来しているのに寂びしくて、雨で光った道をタクシーがタイヤをきしらせ、さあっさあって奔るのね、それが耳について――。……ほらあのお店、窓覆いに外の方へ幕を張り出してまあるい(ひさし)にしてるでしょ、あれの枠金にぽたぽた大きな雨露が結んでは風で散ってしまうの。前の小児科病院から何人か一つの車で帰っていったのも覚えています。……何となくあの時は堪らなかったの。寂びしくて、そう、お葬式の日のことを想い出してたのね……。そこへきて下さったのよ、雨にぬれて、髪を額に垂らして。本当に嬉しかった。お顔をみた時泣きたかったわ。……〝レモン〟昨日も混んでました。その中でぼんやりして。あの時の気分に似てたのね。それから考えましたの、怒ってらっしゃるかしらって、私が勝手だって。で、駿河台のお家へかけて戻ってお利根さんに電話かけました。そしたら、一時にいらっしゃるっていうでしょ。〝今夜帰ります〟っていうなり東京駅へ飛んでいって、寝台の切符うまく買ったの。あんなに夜汽車が嬉しく、帰るのがたのしいことって、もうないでしょうね。それも、ぐっすりよく睡れましたの……」

 ――たぶん、秋の季のものだろう、私が水を一杯注いだその肩衝釜(かたつきがま)には、丈高(たけたか)な姿の裾に横十条の糸目にまぎれて幽かな穂すすきの下絵があり、天涯に浮かぶように杏実状の月が斜めに鋳出(いだ)してあった。月の面が地肌よりなめらかに(いぶ)した色でよく光った。

 お利根さんは喫み終って茶碗を前に置き、慈子は小ぶりの志野を両掌に包んだまま話していた。むしろ深めの、古朴な絵付を模した当世の作が慈子の()の中で乳白(にゅうはく)の厚い肌を匂わせ、やさしいかたちにみえた。慈子だけが話していた。ものの影がすべて定まっていた。このままでいたいと思った。手に入らなかった手紙のこともかすかに頭の底を奔り過ぎた。

 そして、――慈子が黙ってしまうと、つぎにお利根さんが話しはじめたのである。

 

 ――ながい話だった。お利根さんが口を(つぐ)むと三人の静かな息づかいが山霧のように濛々と行方も知れぬ深みへ流れ流れ凍りとじてゆくかのようであった。背の方を風が這った。川の音がきこえ、蝉も鳴いていた。誰がともない身じろぎに、風炉の炭火がこそと崩れた。

 

 門の前からすぐ西大路へ抜ける辻になっている。まだ明るい青空が広い電車道の向うにあった。背に慈子の見送る視線を感じ、一度二度振りかえっては同じように()つ姿を私はみた。ご一緒にというのを強いてひとりでゆくのだった。お利根さんの声がうねりになって頭の底を揺すりつづけていた。そのまま翳ぐらい竹林を歩いてきたかった。

 西大路へ出ると赤電話で妻を呼んだ。「風来坊さん、今どちら」と妻はわらった。嵯峨の野宮まで今からいってきたいというと「亡霊が出ますわよ」と冗談をいい、「こんな時間からじゃ蚊ばしらが立つかしらね」と真面目になった妻の声を聞いてそっと私は受話器を置いた。四時半を過ぎていた。

 ――お利根さんのながい話のあと、部屋へ戻って二人になると、慈子は泣きそうに私をみた。どんな感動が慈子をめちゃめちゃに捉えているか分った。慈子……。そして、もう一度そう呼んだ。声もたてずにきた慈子を抱きとめ、壁に倚ってちからづよく唇をひらかせた。お兄さん……木枯(こがらし)のように()ぶ声がふっ切れていった。やさしくそらせた衿もとへ頬を押しあて、小さな手をさぐった。肩から背への肌のかたちがゆかたのまま眼にしみて、向うの方に墨色の淡くにじんだ短冊がぼうっと浮かんでみえた。〝蛍籠とうから夢とけじめなく 徳女〟と二行に書いて、あえかに闇の奥から斜めに吊された青白い籠の中が哀しげに光っている。小虫の魂は籠をこぼれ落ちて、まあるくほうっと籠の外に泣き添うようである。蛍の季は過ぎ、それなのにこの佗びた短冊を慈子は部屋の壁にかけていた。

 私は徳女の名を知っていた。慈子も気づいて、まだ私の腕からのがれもせず短冊の方をかえりみていた。

〝四季の茶屋〟のだったね――。「ええ…先月」朱雀先生のお墓に朱い椿も落ち尽してしまった頃、命日の墓参のあと途中でお利根さんと別れて、八瀬から大原へ無性に雨の色を山深くまで眼に染めてみたくて出かけたという。「手紙に書いてましたでしょ」といわれてはっと曖昧になって、私は短冊に気をとられるふりをしなければならなかった。

 

    七

 

 清涼寺の傍で車をすて、厭離庵の前から二尊院、そして落柿舎へとひとり歩いた。おなじ道を春には慈子と歩いた。日かげは斜めに小倉山をかげらせ、稲葉の青やいで輝きなびくのも夕映えの静かさにときどきふっと魂消(たまぎ)ゆるように音絶(とだ)えたりした。田中路(たなかみち)から竹やぶに辿り()って、山陰線を踏み越えた辺りから野宮(ののみや)の蒼黝い竹林(ちくりん)のさやぎが波だちはじめていた。

 宮の前には、小倉越えにきたらしい元気な男女の四、五人が息を入れていた。私は絵葉書などを売る店さきに腰をかけて、そういう人たちの妙に身のとりなしに戸惑ったような野宮見物を傍観していた。くるぶしの辺から蚊が立つのに思わず笑みながら、ずっと抱いてきた或る着想の中へはまりこんでゆこうとしていた。

 徒然草第四十四段に、〝しかじかの宮のおはします(ころ)にて、御仏事おんぶつじ}のさふらふにや〟と下人(げにん)にいわせているその〝宮〟という語があの段の雰囲気の焦点になっていたことに十分注目して、私は第二十四段を読み直してみたかった。

 

 斎王の野宮(のゝみや)におはしますありさまこそ、やさしく、おもしろきことのかぎりとは覚えしか。経、仏など忌みて、なかご、染紙(そめがみ)などいふなるもをかし。

 すべて神の社こそすてがたくなまめかしきものなれや。ものふりたる森のけしきもただならぬに、玉がきしわたして、さか木に木綿(ゆふ)かけたるなど、いみじからぬかは。  (第二十四段の前半)

 

 ごく平常の一段のようであるが、私は徒然草前半、殊に第四十五段あたりまでに濃厚にみられる各段来意性の隠れた焦点かの如くにこの一段を読まずにおれない。

 冒頭に〝斎王の〟と兼好がいう調子は「所謂(いわゆる)ばなし」のそれでなく、〝おはします〟との敬辞から、〝やさしく、おもしろきことのかぎり〟と口を極めて嘆賞、そして 〝覚えしか〟という追憶など、すべて体験に即しての回顧なので、ここの〝斎王〟は固有名詞の口吻で使われている。その特別な感情移入の質が逆に野宮の風情に感動させてゆく基盤になっていると見える。

 この斎王とは、後宇多院の第一皇女奨子(しょうし)内親王であり、徳治元年(一三○六)十二月卜定(ぼくてい)、二年九月二十三日の御禊(ごけい)、二十七日野宮に入御(じゅぎょ)、しかし、後二条天皇崩御(ほうぎょ)のため一代要記には〝終無参向儀云〟とある。この宮がこの後、延政門院坐所に身を寄せているのである。宮の母は談天門院で、後醍醐天皇とは同腹の訳だが、文保三年三月にこの帝の中宮になられたとあるのは、格式に対する儀礼的な待遇だったのであろう。やがて剃髪して達智門院を号し、貞和四年(一三四八)十一月二日(こう)している。 

 後宇多院の内親王であり、御兄後二条天皇の御宇(ぎょう)に卜定されたことからも、この斎王が兼好には比較的親しい「御所方」であったことがうかがい知られ、おそらく卜定以前、卜定前後、御禊から野宮入御、そして後二条天皇崩後に延政門院へ身を寄せられるまで、兼好は折に触れ勤仕(きんじ)したことがあったに相違ない。倭姫命(やまとひめのみこと)以来、御代(みよ)の改まるごとに未婚の皇女または女王が卜定されて伊勢大神宮に奉仕するのが斎王(斎宮)であり、野宮には伊勢参向前の一年を過ごす習いだった。吉田社家に育った兼好はこういう事柄への感受性も人一倍だったかと思う。奨子内親王は斎王第七十四代に当たり、以後この制度は廃絶されているのである。

 内親王が最期の斎王に卜定された年、兼好は二十四歳の左兵衛佐(或いは尉)だった。そして、極論になるが、若き卜部兼好(うらべかねよし)は、貴女中の貴女としてこの奨子内親王を常に念頭に置いていたのではないかと私は考える。裏づけのできることではない、ただ、私一人が思いついたことでなく、どういう系譜をもつものか知らないが、「かぶきこごと」という小冊子が国会図書館に伝わっていて、それには不十分ながら兼好と覚しき法師が野宮に参るはなしが収められているのである。東大へ通っているうちにたまたま居合わせた誰かが殊さら私にというのではなかったが、このことを教えてくれた。〝かぶきごと〟とは、つまり異様な珍奇なはなしで、歌舞伎の原意を伝えた語であろう、内容的には後世の「耳袋」に近い巷間口碑を集めた類なのである。

 文明年間、足利義政の高名な同朋衆(どうほうしゅう)相阿彌(そうあみ)唐物奉行(からものぶぎょう)をしていた時分、大徳寺塔頭(たっちゅう)蔭涼軒主の亀泉集証(きせんしゅうしょう)と共に相阿彌の相談にのってやっていた同じ塔頭(たっちゅう)小補軒の横川景三(おうせんけいさん)に「小補軒日録」という大層筆まめな日記があって、これのどこかに〝かぶきごと〟という文字をみたことがあるが、この小冊子と縁があるかどうかも分らない。東大の人の話ではみるかげないつまらないものだが佳い字だとのことで、字はともかくこの話は聞き過ごす訳にゆかなかった。

 何とか閲覧させてもらったものの逸書の断簡に過ぎなく、蝕傷著しい上ぴんぴんはねた癖のつよい字で、容易に読めない。分量は大したこともなく、破かぬように目で追ってゆくうちに、行を改めただけで前後のつながりなしに、〝後宇多のゐんの女一宮は徳治のはじめせのみかどのぎよ宇のさいわうにて、おほどかにかなしくしておはしゝかど、さらぬことありて伊勢へは御参りなくてやみぬ。みくしのはかけたるごとくのゝみや今はさぶと人も申す〟という文章がきて、つづいてこの宮が、性よく歌を好まれ、御父の院を催し参らせて歌のあそびしばしばなされ、その席には〝ならびがをかのかねよし御房ら〟召されることが多かったように書いている。後宇多院に歌の遊びの多かったのは事実のようで、兼好の家集にも記載があり道源や道我との交渉もこうした雅びごとにつながりがあった。奨子内親王のことは付会かと思われ、また兼好がならびが丘に住んだことは口碑(くひ)としてよく流布(るふ)されてはいるが〝かねよし御房〟など混乱があり、内親王野宮入御(ののみやじゅぎょ)以前のはなしとしてもかなり怪しい内容である。殊にこのあと、兼好が法体(ほってい)の身で姫宮に恋慕のあまり兼題に寄せて、〝うちとけてまどろむとしもなきものを逢ふと見つるやうつゝなるらむ〟の歌を御寝所(ごしんじょ)になげ入れた。それが噂となり迷惑が生じかけた時、宮の方から〝逢はばなほ逢はねばつらき春の夜の夢にも人のなに嘆くらむ〟という御返歌があって、かえって兼好大いに頓悟したなどというのは、話がよくできすぎている。兼好自身の歌は家集に夢逢恋の題で載っているが、後二条帝の瞑福を祈るため西華門院から召された題詠に他ならず、宮の歌というのは巧いには違いないけれど後人の付会のようであって後の達智門院の作になるとは勿論証明できない。ただ、生臭坊主を頓悟せしめた話ではあり、歌句を借りて若き姫宮を神化した感じもどこかにある。そこに私は惹かれ、ふしぎと兼好その人のこの宮に対する憬仰の深さを想ってみたのである。

 そこで私の想像はこうである。

 兼好は事実、後宇多院から幾度か歌を召されている。後二条帝に仕える以前にも御父の後宇多院に勤仕したことのあり得た兼好としては、内親王の斎王卜定以前から時には目をかけられる機会があったかと思われる。他方、堀川具守(とももり)は娘の西華門院によって後二条帝を外孫に得た権臣であったのだが、賢明の誉れ高い新皇太子で先帝の弟に当たる尊治(たかはる)親王(後の後醍醐天皇)の即位の前に談天門院腹の方との親昵(しんじつ)をも望んでいたのではないか。後二条帝崩御で野宮から京極殿の延政門院坐所に退下された奨子内親王に接近することを考えた具守は、かねて親しかった延政門院の一条が内親王に近侍できるよう画策する。具守は子の具俊などを擬して前斎王との縁組を望んだでもあろうし、兼好もこういう内情に何らか寄与したと思われる。しかし結果的には具守の画策は挫折した。談天門院は西園寺系の人であり、尊治皇太子(妃禧子も西園寺実兼の女)と後二条帝の皇子邦良親王とには対立がある。兼好も邦良親王派と目されているが、これは具守らの久我系にある者として当然であった。具守の後醍醐天皇への接近は失敗し、内親王は追尊され、さらにやがて剃髪された――。

 兼好の内親王に対する讃仰を証拠だてる何ものもない。第二十四段前後の行間にそれを汲むというに過ぎず、「かぶきごと」の記事に頼る気はまるでない。事実としてももとより叶うまじき思慕であったのである。兼好は、斎王として野宮入りした内親王を惜しむより、帝と永別を誓われたりするもの哀れな行事に酔うことの方が多かったであろう。用を構えて野宮へも再三足をむけご機嫌を遙かにうかがったに違いなく、森のほとりに佇んで森厳かつ優しき極みのたたずまいに感動したのであろう。後二条帝崩御(ほうぎょ)でやがて延政門院方へ下られた時には、むしろ兼好は呆然とした。

 この時から一条との接近がはじまったのだろうか。一条が前斎王に近侍するようになると女たちの間では具守の名とは別に、もっと軽々しくではあっても、歌が巧みでどこか内省的な表情を崩さず、ぎろっと眼を光らせる青年蔵人(くろうど)卜部兼好(うらべかねよし)の噂が交されたかもしれない。そのことは兼好もちょいちょい一条から聞かされたであろう。

 釈迦念仏の法会(ほうえ)はそんな頃にあったのではないか。からかわせた主は延政門院その人で、傍に神の忌垣(いがき)を出てきた奨子内親王の温和しい姿があり、兼好にしなだれたのが一条らしいと想う。情ないと恨まれたというのは一条その場のあやかしだったであろう。兼好としても内親王家からそんなにいわれる筋でないのは重々承知でいながら、そうは思い定めずに感動しているのだ、感動を純粋にする為には、事実より想像の方を大切にせねばならない。貞和四年の達智門院の薨去(こうきょ)に至るまで、兼好は二度と接近の機会も意図ももたなかったであろう。第四十四段のようにして雅びに宮を訪ねてゆく若い貴公子を頭に灼きつけたにすぎなかった。

 具守と一条のことが前景にあって、背後にこの奨子内親王の姿が隠し繪になっているという推量は乱暴すぎるかもしれない。しかし、第二十四段は兼好の家司(けいし)蔵人(くろうど)時代の、つまり青春時代の最もなつかしい追憶の焦点であって、兼好の本質部分と緊密につなぎ合わせて読みとられるべき段だと私は思う。〝しづかに思へばよろづに過ぎにしかたの恋しさのみぞせむかたなき〟という第二十九段の身もだえを伴ったような感慨の重ね繪はここから洞見せねばならない。

 延政門院一条は主君具守の愛人であり、貴女中の貴女奨子内親王にも近くいたのではなかったか。兼好の近寄れる限度のかつ実在した女性として一条は重大な意味をもっていると思う。

 一条の事蹟は具守が死んだ翌文保元年(一三一七)春の返歌に尽きている。翌年には兼好兄の倉栖兼雄が死んでいるし、先立って花園帝譲位、後醍醐天皇即位のことがある。おそらく兼雄没直後に兼好二度めの金沢文庫へ下向(げこう)の挙があって、この文保二年はまことに心せわしい年であった。さらに翌文保三年(元応元年)には奨子内親王立后の宸命(しんめい)があり、談天門院崩御による諒闇(りょうあん)のことが重なる。

 私は、同じこの頃に忘れ難い女性延政門院一条の死も加わったのではないかと想像する。理由は、ある。〝かのえさる〟と題した歌一首が「兼好法師自撰歌集」の恋の歌群にまぎれこんでいるのだ。

 

  つらからば思ひ絶えなでさをしかのえざる妻をも強ひて恋ふらむ

 

〝庚申〟の歳に詠んだ述懐歌に相違なく、それも〝小男鹿(さをしか)の得ざる妻〟に重ねて、どうやら〝かの、得ざる妻〟という痛嘆が籠められたと読めるではないか。

 つらくなると、あきらめきれずに、それ、山の小男鹿(さおしか)がまだ逢えぬ女鹿を、あんなに恋いこがれて嘆いているよ――というのが表むきの表現だろう。

 だがほんとうは、そんな小男鹿と同じように、あの、とうとう得られなかった思い妻、心の妻のことを、今も恋しく思い出しては泣けてしまうよ、と兼好は詠んだらしい。

 兼好の生涯に〝庚申(かのえさる)〟の歳は一度しか巡ってこない。元応二年(一三二○)兼好三十八歳にのみ相当している。実に談天門院崩御の翌る年なのである。兼好〝思ひ妻〟の一条は、庚申のこの年か前年の内に果敢(はかな)くなっていた。さまざまの事件が兼好法師の心をゆさぶった。しかし親代りだった兄の死以上に一条の死が衝撃だったのではないか、ここにはじめて兼好は哀悼と無常迅速の感懐をこめて〝あやしうこそものぐるほし〟く徒然草の筆を執りあげたのではないのか、と私は想いたい。

 兼好と一条との出逢いに確証はない。二人の恋愛と堀川具守との関係もよく分らないのだが、こういう推量を私はしている。兼好の方が先に一条と相識で、まだ恋愛ほどのことでない時分に、それは多分釈迦念仏の事件からそう月日を経ぬうちに、具守が先のような理由で延政門院の方に働きかけ、かつ一条との間に手早い関係を生じてしまったのではないか。家集に、〝ふかくさにかよひしころあか月きぬたうつを、ころもうつよさむの袖やしぼるらんあか月露のふかくさのさと〟とあるのが、一条を里の方へ訪ねた兼好自身の体験かもしれず、同じく、〝つらくなりゆく人に、いまさらにかはるちぎりとおもふまではかなく人をたのみけるかな〟は一条と具守への弱い恨みであるのかもしれない。兼好のたのむ人は極めて権勢強い堀川具守であったから、或いは中新(なかにい)敬氏のいうように、主君の〝容れる所とはならなかった〟恋が二人に芽生えていて、空しくされたのでもあろうか。兼好の出家失恋説を肯定する人もこれまでに多いが、この特殊な三角関係の想像は度が過ぎているのか、みられない。

 私自身は兼好出家をこういう事件あって、せいぜい延慶二、三年(一三○九~一○)頃、内親王の野宮退下から一、二年の後、兼好二十七、八歳の時だと思うのである。

 延政門院一条と具守の関係がそう長かったとは思わない。具守も六十歳前後のことで、普通の男女関係とは趣も違い、一条と出家した兼好法師との交渉も絶えていたということはなかろう。

 延政門院一条との恋の本意ない挫折を主な動機として出家し、その一条の死により徒然草の執筆に入ったとする推定で、私は兼好の青春時代から出家、執筆開始を延慶年間から元応のはじめへ約十年の幅をみながら一連の時間的に縦につながる事柄として、かなり力強く理解できると考える。そして、この推定を補強するのには、徒然草の執筆方法と特に前半部分の各段来意性の問題に具体的に注目してゆくことが肝要だろう――。

 

 ――どれほどの時間が経っていたのだろう、野宮にはもう人影なく、疎林の奧の深い苔の(みどり)を洗うように、()もれ日は灌木や竹の葉を透けて朱く散乱していた。黒木の垣や鳥居の簡素なかたちもさりながら、夕暮時をひっそりと、翳り濃まかに鎮まりゆく宮居(みやい)の小ささが私の眼を惹き寄せた。

 奨子(しょうし)内親王がどんな方で(おわ)したのか、兼好との関係がはたしてどんなものであったのか、想像は深まっても確かなことは何一ついえず、それが心もとなくあやしく却って夕やみ迫る中に佇む私を、やすらわせていたのである。

 風が動くと汗のひそんだ肌が冷やりする。

 「われ此の森の陰にゐて(いにしへ)を想ひ、心をすます折節(をりふし)、いとなまめける女性一人(いちにん)忽然(こつねん)と、来り給ふは、如何(いか)なる人にてましますぞ  と、謡曲〝野宮〟では諸国一見の僧が問いかける。誰もいない宮前で夕風にさそわれて私は想い出していた。はじめて来迎院を訪ねていった夕ちかく、朱雀光之(すじゃくみつゆき)先生は家の中でこの曲を微吟しておられたではなかったか。偶然に違いないのだが、先生に案内されて分け入った徒然草の小径の奧にこうして野宮の清寂の姿を見及んだことを思い合わさずにおれなかった。

 なぜ〝野宮〟をと詮索するのでは余りに事を好みすぎるのである。ただ、徒然草第三十二段に切に心をとめられ、あの前後の文章を殊に愛された先生が兼好執筆の動機を不思議とされたについては、第二十四段にも特別な読み方をされていたかどうか、それが謡曲〝野宮〟を平常に謡われたこととどこかで結ばれていて、そして更に〝野宮〟の詞曲から源氏物語の世界へなにがしかの感情移入をされていたのか――などと、あふれる先生なつかしさに溺れそうに思いつづけると、いつか涙がとめどなく流れるのであった。

 謡曲〝野宮〟の斎王はもとより奨子内親王ではなく、源氏物語の後の秋好中宮(あきこのむ・ちゅうぐう)、光源氏の恋人六条御息所(みやすんどころ)の娘に当たる女性で、筋の中では副人物であり、主役は源氏の愛に絶望し、魂もぬけた我が身に絶望している御息所と、未練にあとを追う光源氏なのである。野宮は御息所が娘の斎王と共に伊勢へ落ちゆくべく身を寄せている場所で、御息所は源氏の訪問に神の忌垣(いがき)のけがれを怖れながらも心乱れるのである。能舞台では御息所の亡霊が緋の大口を着け、葛扇を手に源氏の妻葵の上に対する妄執晴れやらず、僧に法力(ほうりき)苦患(くげん)より救ひ給はれと頼む哀切な場面が展開される。男ごころ、女ごころの優艶果てない寂びしみを書いたところは有名な〝葵上〟より私は秀れたものと思っているが、あの竹林(ちくりん)と苔の道を、緋色も映え若女(わかおんな)(おもて)した御息所(みやすどころ)が舞いに舞う幻を亡き先生もみられたかと想うだけで、そのそこの小柴垣の辺りにもお姿をみかける心地がする。

 「露うち払ひ、訪はれしわれも其の人も、ただ夢の世とふりゆく跡なるに、誰松虫の音は、りんりんとして風茫々たる、野の宮の夜すがら、なつかしや  と私も風に和して、口ずさんでみた。

 徒然草と源氏物語〝賢木〟の巻あたりとが紛れに紛れ、昔聴いた朱雀先生の声を耳の底に喚び起こしながら、私は明日も逢う慈子の顔かたちを虚空に両の掌ではさみ寄せるように想い描いていた。それは、またお利根さんを想うことであり、お利根さんがつい先刻私たち二人に話してきかせたことを想い出すに他ならなかった。私をはじき出すようにこの嵯峨野へ走らせたのはお利根さんの話だったのだ。徒然草考をとりまとめたいというのでも、浪漫的な想像にひたる為でもなかった。ある予感の如きものがあって、その輪郭をぴったりと蔽いとるかのようにお利根さんは私たちに古い遠い物語をしてきかせたのである。それが、来迎院と徒然草と慈子と私とをはじめて一つの座標の中へ結び合わせた。野宮への予感が何故、どのように私を前から捉えていたのかが、分った。

 だが、何よりも私や慈子に感動を残したのは、お利根さんの物語がどう私たち二人を運命づけるかはかりしれないということだった。

 偶然とか必然とか奇縁とか妖しいことばがきらきらとぶちまけたように頭の中で散乱したけれど、もっと底ぐらい感動の強さは一揺れもせずにずしりとどこかへ沈んでいた。その重さに私は慈子を置いたまま夢中で野宮へきたはずであった。

 天龍寺の大門を僧が二人がかりでぎぎ、ぎぎと閉めていた。松の(こだか)いところには残り火ほどの夕陽の色がただよって、夏草の匂いが足もとから水の音と一緒に私を包んだ。

 渡月橋(とげつきょう)まで足をのばして、暮れなずむ山はだの濃い緑のかげを保津川の川面(かわも)にながめた。

 ボートが幾つも浮かんでいた。

 

 

   第 三 章

 

    一 お利根さんの話(一)

 

 お二人ともそのままで……。今日はながいことお話しできなかったことを宏さんもご一緒に聞いていただきます。お父様がおなくなりになって一年過ぎてしまいました。なくなる前にお頼まれしたお約束をいま果たさせていただきます。

 あなた方お二人ともきっと私が感じている以上に、お父様のことをお年を召した方に記憶しているのではないでしょうか。ご丈夫でなかったのですし、お考え深く静かでいらしたから、お若いあなた方、殊にまだ高校生だった頃に逢われた宏さんの眼には、「先生」というお気もちでお慕いなさるのも加わって、事実以上にお年を召した方だったかもしれません。けれど、その先生はまだ四十六歳でいらしたのです。若死にといってもおかしくない、残り惜しいご病死でした。私にはあの方のもっとお若い時分が却って今も眼にうかんで参るのです。

 慈子(あつこ)さんは、それは何かのことでご存じの部分もあるかもしれませんが、お父様のことお母様のこと、私のことなどきっとよくはお知りでないと思います。知らせないようにお父様もお気を配っていらしたからです。慈子さんは小さい時分から強いて訊ねない子でしたね。けれど、知りたいことが幾らもあったことでしょう。

 宏さんが私たちの来迎院(らいごういん)へひょっこりと来られた時、誰よりもあの先生が一番ご興奮なさったのですよ。私にはよく分りましたが、来迎院でのあの数年というものは、あれは、先生がもとめて意味を考えられ、むしろ創り出された生活だったといっていいのです。先生は本当によく、宏は、宏はと仰言ったものです。慈子さんや私以外の方が聞いたら、先生のそんな態度はちょっと物好きに思えたのではないでしょうか。慈子さんと宏さんとは、それは実のご兄妹も及ばないほどでしたもの、お父様のお心の中にはよほど特別なご満足もあったのでしょう、誰も何の詮索がましいこともいい出さないでいて、自然とお父様のあるご確信は固くなってゆきました。でも、それはもっとあとでお話しするとして……、はじめに少し古いことを慈子さんにお教えしておきたいのです。

 朱雀(すじゃく)の家は元子爵家で、下深沢にいらっしゃるお祖父様朱雀謙之(のりゆき)様のご先代の博之様の時、福羽(ふくわ)という由緒深い家から訳あって分れてできました。明治のはじめ、神祇官(じんぎかん)の副知事や神祇大輔(だいふ)、そして教部大輔までなさった方がお祖父様に当たり、福羽家にとって過去に由縁(ゆかり)の深い名家で一時絶えていた朱雀家をご次男の博之様によって興されたのです。そういうお家ですから、慈子さんは十分ご存知なくとも世間に名を知られた沢山のご親類があるのですが、お父様はそういうことを慈子さんにお話しすることに何となくお心が進まないようでいらっしゃいました。それで、本当に最小限だけをお話し致しましょう。

 お父様は今のお祖父様の実のお子ではなく、ご生家は田倉といい、式部官をなさっていた田倉(りょう)という方の長男としてお生まれになったのです。大正五年十二月のご誕生で、お名前は光と書いて〝こう〟とお訓みしたそうです。お母様は謙之様の妹に当たられ、田倉繚という方をみこまれた上で朱雀家から進められたご縁組だったのです。けれど、不幸なことにお嫁入りをなさった方がご病弱で、ご主人は外に女の方をもたれ、お父様がお生まれになったのと(きびす)をつぐように、次の年の二月には腹違いの(しょう)という弟さんを得られたのでした。すでに奥様は産後のお苦しみが(こう)じていました。朱雀家からのご介抱の甲斐もなく、家の外に子供ができたその月の内にそれも知らずになくなりました。妹思いでいらした今のお祖父様は大層なお哀しみようでいらしたのですが、田倉という方はどこか我慢の強い方で、奥様の喪も終らぬ八月に外の女を容れて妻となさり、翌年の春には三番目の男の子が生まれました。勢い(こう)様のことがご心配で、朱雀の家ではいろいろご議論のあげく、謙之様から田倉に掛け合われて妹の遺されたお子をご自分の養子に迎え、光之(みつゆき)様と名も改めてお育てになりました。一歳半くらいでいらしたお父様はそういうことは露知らずご成人されたのです。

 朱雀と田倉とは当然疎遠となり、田倉家は宮内省勤めから実業の方へ転じてしまわれました。これが大正七年のことですが、すこし遅れて、大正十年十月、謙之様の奥様、今の麟子(りんこ)お祖母様に、もう生まれまいと思ってらしたお子様ができて、肇子(はつこ)さんとお名前がつきました。この麟子お祖母様は私どもの出で、お茶の水の兄利明や私には叔母に当たるのです。肇子さんと私は同年でした。お父様たちと私とは、ですからいとこ同士なのです。この程度までは朧ろにも慈子さんはご存じでしょう。

 朱雀はもと神祇職と申しましていいお家柄で、淀屋の方はもちろん格式の点ではとても対等とはゆかなかったのですが、博之様と私どもの祖父との頃からお親しくさせていただいたらしく、祖父の直明が大学である程度の名前を得ましてからは、謙之様も時々家の方へおみえになり、あげく父の正明に、お前の妹をと望まれたと聞いています。お祖父様も私どもの父もどこか隠逸を好まれるという所があってウマも合ったのでしょうか。それでも、お祖父様は大正三年以来宮内大臣の波多野敬直様を補佐されて宮中のご信任も篤く、博之様がなくなり、大正九年波多野大臣の退官でご自分も閑事に就かれると共に子爵貴族院議員まで拝されました。大正十四年の一木(いちのき)喜徳郎、昭和八年の湯浅倉平、十一年の松平恒雄といった方々が宮内大臣になられたときにも、そのつど朱雀謙之の名も挙げられ、一々お断わりつづけられたと聞いており,昭和十九年春にもお話があったのですが、その時は別のご事情も生じて遂に石渡(いしわた)荘太郎様に譲られ、以後深沢にご隠居になっているのです。

 この時のご事情というのが、慈子さんのご両親にも私にも関係があるのでして、これからがお話の本題と申していいかと思います。

 さて、お父様は、お母様ゆずりのご体質というのでしょうか、お若くからご丈夫ではありませんでした。あのように温厚でいらしたのですし、むしろお小さい頃のお父様といえば、また御病気なのですよと家で報告するのがふつうなくらいでした。そのつど母はいそいそとお見舞いに上がるのです。私の母は光之様をよほど好きなようでした。もって生まれた澄んだ眼をすこし伏しがちに翳らせて熱っぽいお顔でよくお部屋に坐ってらしたお父様を私は覚えています。ご本を読むというより、ご本をひろげたまま思い耽るというふうでした。想像力の豊かな方で、時たま肇子さんや私にお話しなさることがありました。そんな時、もしこの場合にこうだったら、あとはこうなってゆくのではなどとご自分で想像なすったことをどんどん眼に見えるように話されました。

 かぐや姫のお噺などは特に上手でした。最後に天上へ上ってゆく姫のことを羨ましいと仰言って結局は人間と天人とは別ものなのかしらねと寂びしいお顔をなさり、どう、誰かが天から迎えにきてくれたら喜んで()いていくかいと訊ねられたりしました。来迎院の来迎(らいごう)などという言葉にはとりわけ強い感銘を幼くからお持ちだったお父様が、慈子さんと私とを連れて泉涌寺(せんにゅうじ)へご赴任になった時、これはもうお迎えを待つようなものだと私に仰言っていました。それは忘れられないことで、お父様のお胸のどこかに幼い私たちにかぐや姫のお噺をしてきかせられた少年時代の息づかいの残っていることを、感じたものでした。

 もっと大きくなられたあとでお聞きしたお話としては更級日記の中の一節を独立の物語に直されたものが記憶されています。お父様はそれを中学の雑誌に一部だけ発表されました。やはりお力がつづかなかったかそのままになりましたが、お話のつづきは肇子さんも私も聞いておりました。〝竹芝寺縁起〟といって、日記の作者が父の任国上総(かずさ)()って京へ帰る途中、武蔵の国で竹芝という寺をよぎって、寺の由来を土地の者に聞いたくだりをもとにしたものです。発表なさったのは酒づくりの若者が武蔵野をあとに京へ発つまでですが、複雑な宮中や貴族の紛争が絡んで展開するので、女学校にも上がっていなかった年頃の肇子さんも私も眼を輝かせて聞きました。雑誌は、私が大切にもっていますので、慈子さんに、いえ宏さんに差上げましょう。先生は十六、七でいらしたのです。お上手かどうか分りませんけれど、草野に冴えた風がわたるような感じを私はまだ覚えています。あなたが来迎院にみえたとちょうど同じお年ごろに書かれています。更級日記の作者が源氏物語を憧れているように、先生も殊に源氏物語がお好きでいらしたのですよ。あなたをみて、あなたの少年らしいむきな所や、どこか寂びしく大人びた所を先生はご自分のもののように想われていました。

 お話が横へ()れましたが、お父様は、こうした想像力をご自分ではそう好まれないで、制御されるふしさえありました。軽々しいとお考えなのか、まるで鍛錬なさるように、想像力に身を寄せるよりは座禅でもして思索的でありたい、と考えておいででした。ですから、何かの時にはお話の途中でふとご機嫌が変って、あっちへいっておいでと追い払われたりしたものです。ただのお喋りというより、ありもせぬことを想像して面白そうに話していることをお嫌いになるのです。大学も、ご本心をはねのけるようにして法科を選ばれました。そのくせ、法律の勉強をなさっている時間より、ご趣味の方に沢山時間を使っておられました。観世流の謡曲はお祖父様がお好きで、お父様も幼くからご両親に()められながら好んでお稽古になっていました。肇子さんは、下手の横好きよとよくからかってらっしゃいましたけれど、胸のお丈夫でなかったお父様に謡曲はいけなかったと思います。やがておよしになり、あとは習い覚えられた曲ぐらいを微吟される程度でした。宏さんが先生の〝野宮〟を聴き分けた時、本当に喫驚(びっくり)なさっていたのですよ、私などは喫驚するというよりちょっと呆れていました。子供らしいとはいえませんものね。ですから、宏さんの出現は来迎院にちょっとした波風をよびました。あのように宏さんをお待ち受けになる先生に、必ずしも私ははじめ賛成ではなかったのです。

 またお話が外れましたが、そういうことは、いずれあとのこととして。お父様は小学校の時に一度肋膜(ろくまく)で休学されました。大学へ入るとまもなく結核で、やはり一年。これで謡曲はおやめとなりました。

 大学をご卒業になるとやがて宮内省勤めでした。昭和十四、五年のことです。世情は穏やかそうで、そうではありませんでした。朱雀の家では殊にあのご時世を厭われるふしが強く、むしろ世間に背くようなご生活であったのを私は覚えています。お父様のお勤めは怠りがちでした。ご発病、ご転地、またご転地というぐあいにはかばかしい様子ではまるでありませんでした。

 一方、妹の肇子(はつこ)さんはお兄様より五つの年下でした。どちらかと申しますと気象のしっかりした活溌なお嬢様で、誰に対してもその朗らかさで微笑みを誘うふうでしたから、お机の傍に小さなお城を築いていらしたお父様のことを、お小さい頃はもの足りなくも思っておられたようでした。べつに朱雀家の中でお父様にご遠慮があった訳でなく、ご兄妹にしても私のようにしょっちゅう遊びに上がっていた幼い者も、さっきいったようなご事情は知ろうはずがありません。叔母も光之様の静かで端正なご日常を愛していたようで、肇子さんがよくお兄様をからかうといっては私の眼の前で叱っていたことも何度かありました。この叔母は竹柏園に歌をみてもらっていた、まあその方の趣味のある人で、あなた方はご存じないのですが、ある時期まではお父様も叔母つまりお祖母様ですが、の影響でさわやかな感じの歌をよくお詠みでした。大概は忘れましたが、東大においでの頃でした、〝何をこの三四郎の池に吹く風のしみても今朝は波の光れる〟とか〝黄金(きん)色の秋のひかりはあはれなり三四郎の池に波立つ夕べ〟とか書きつけておられたのを、なつかしく想い出します。それは、思えばお父様のお胸のうちに、苦しいものがかたまりはじめていた頃のお作ではなかったでしょうか。

 こう申しますと、お父様のお悩みがお生まれのことにあったかと思われます。確かに、それをはじめてお知りになった時にはお顔の色がみるみる変りました。この私が実は口走ってしまったのです。

 ちょうど二十(はたち)すぎくらいでいらしたでしょう、ご病気のあと、お父様は京都奈良に遊ばれ、今のこの家を旅の宿にしておられた時のことでした。私が来合わせていたのは偶然でしたが、光之様が一つ屋根の下にいらっしゃることで私はいい知れず晴やかな心地だったのです。ちょうどその半年くらい前でしたが、私は朱雀兄妹のことを知らされていました。女学校の年頃だった私は、その翌日学校で肇子さんの顔をみた時、ふしぎとまぶしい心地でした。多分、お兄様のことをお可哀想に思った少女らしい感傷の照り返しを、いつもと変らずやんちゃになさっている肇子さんから感じたのでしょう。はしたなく話しそうになるのを辛うじて私は内緒にして通しました。

 幸いとこのご兄妹はお顔だちなどよく肖ておられました。ご性格はちょっと違っていましたが、端正なお人柄については陽気な肇子さんの場合にも紛れもない所でした。お兄様はよく、あれが入ってくると黙ってても何んとなく辺りが晴やかになっていい、と仰言ってました。お年がすすむにつれ仲睦まじいので、私などはよく自分の兄につまらない、つまらないと厭味をいったものです。私の兄は、慈子さんよくご承知でしょう、あんな豪気な男ですもの、年もお父様には二つほど下でしたのでお静かそうなお父様のお友だちということにもならずじまいで、私ばかりがどちらが家と分らぬくらいに往来していました。私も肇子さんと一緒に光之様といわず、お兄様、お兄様とお呼びして過ごしたのです。

 光之様の秘密を知ったのは年若な娘の私には堪らない負担でした。ことに、お二人が顔を合わせていらっしゃる所へ入ってゆく時や、お二人で私のことを話される時や、肇子さんが楽しそうにお兄様いじめをなさる時や、二人きりの時にお兄様のことを話し合う時や……もうどんな時にも、それを知っているだけで私は息苦しく、その息苦しさの中ですこしずつお兄様のお顔がまっすぐみられないようになってゆきました。

 私が京都へ参っておりましたのは、その当時奈良においでだった有楽流(うらくりゅう)のお家元にご挨拶する為でもありました。織田有楽は利休直伝(じきでん)の茶人ですが、以来綿々と流儀を伝えたとはいえ今では本当に珍しいものになっております。どういう訳あってか存じませんが、この流儀を習われた麟子お祖母様の感化で、お父様も肇子さんも私も朱雀のお家の中でお稽古をはじめさせていただいておりました。千家流にくらべますと、なだらかながら凝ったお作法だと思います。私たちが習っておりました先生が幸いと関西へ出かけられますとかで、それならと気もその方に向いていました私は、奈良へご一緒するお約束をしたのでした。夏休み中でしたので母は兄を監督につけて、出してくれました。もっともこの監督は一人で遊びまわっていたのですが。ところで、この時お父様が奈良へ出かけられるかしれないことを幾分聞き知ってもいて、それなら私どもの方へ泊られるだろうと私が気を働かせなかったか、今となっては想い出せません。

 お父様のご旅行の目的はむしろご休養にありました。私が参りました時は奈良の方は終られて、紙屋川のこの家に、むしろ所在なげに坐ってらしたのです。お家元のご様子をお父様は訊ねられました。けれどそれにご興味があったのではなく、むしろ私がお家元の帰りに、法隆寺と中宮寺へ寄って参りまして、殊に中宮寺の弥勒様がとてもけっこうでしたことを申し上げますと、すこしお顔を朱らめたようになさってとてもご熱心にあの仏像のことを話されました。その当時、あの仏像については寺伝の如意輪観音説と弥勒菩薩説とで議論があったものらしく、一しきりそんなお話が出ましたのも、お父様が『大和古寺巡礼』などを手に寺々を今巡っていらしたばかりだったからなのでしょう。

 そんなお話を致しましたのも実はこのお茶室の中でした。やはり夏でした。さっき葉蓋(はぶた)をと申していましたのは、その時、どこからか美しい梶の葉をみつけてらしたお父様が一服()ててやろうかと仰言ったのを想い出したのです――。

 あの仏像、どことなく肇子(はつこ)()てやしないかと、お父様は突然呟くように仰言いました。胸の上を叩きつけられたほど私は喫驚(びっくり)致しました。それきり黙っておいででしたので私も平静に戻りましたものの、それならそれでなぜですの、どういうところがですのとつい訊ねかけずにおれなかったのです。ご承知のように太秦(うづまさ)の弥勒様よりはひき緊った表情でおからだつきもぐっと肉太(ししぶと)(おわ)すのですが、右のお手を軽く頬に当てがわれました(かいな)のかたちであのお顔に自然と微笑がひき出されているように私は思います。私よく、お父様や肇子さんをご端正なと申し上げてきましたが、あのようなしみじみした微笑みの添った所にお人柄がにじみ出て、お静かはお静かなりに、朗らかは朗らかなりに凛となさっておられたものです。

 お父様は私の質問には直接お答えになりませんでした。そして、こちらへ出がけにつまらないことで肇子を泣かせちゃってと弱ったように薄笑いなさったのです。肇子さんは自分もご一緒したいとお兄様にせがまれて断わられ、お母様にもとめられなさったのでした。肇子と一緒じゃ何んとなく恥ずかしいし、気も疲れるだろうしねと仰言るのですが、満州事変や支那事変のご時世でしたから、ご兄妹とはいえお気兼も幾分あったかもしれません。私はまた大和の寺々をお二人が睦まじく訪ねてまわられるのを想像しまして、ありもしないことに胸の騒ぐ羨しさを自分でかきたてておりました。お兄様は肇子さんのような奥様をおもちになりたいのでしょう、と私はいってしまいました。いった方の私が朱くなりましたのに、お父様はうむと生真面目に思案顔をなさるのです。おなぶりになっているような錯覚にとらわれ、私は夢中で喋ってしまったのです。

 お父様はお点前畳をついと立って来られてぴしりと私をお打ちになりました。打たれなかったら私はまだ喋りつづけていたのでしょう。

 お父様の出てゆかれた茶室で私はしばらく泣きました。そして主屋(おもや)の方へ水屋を抜けて戻りましたが、目はお父様をさがしていました。とんでもないことを洩らしてしまったのですから、打たれたことよりもずっと心配でした。お父様はお庭の真中の、あの巨きな石橋の上に向うむきにうずくまっていらっしゃいました。私はお縁側に坐ってその後姿をみつめていました。子供ごころにも私は、知る権利もあるが知らないでいる権利もあることを考えていました。そのくせ私は、結局はどんなことを仕出かしたのか十分分っていなかったのでした。何となく哀しくなって私はまたしくしく泣きました。お父様は傍へ来られて、打ってわるかったと私の髪にさわって下さいました。お父様はべつに泣いてもいらっしゃいませんでした。利根、もう少しお話し、と、今度は傍に腰をおろされてもっと詳しく知ろうとさえなさいました――。

 

    二

 

 墓をめぐって地苔が散り敷いた花のように拡がっていた。樹々の蔭を淡く洩れてきた光の繪が苔の緑にしみじみ馴染んで、墓前にささげた木槿(むくげ)の花が白く浮かびあがる。その白さに縮緬縞の日の翳がなつかしげに映っている。亡き先生のお好きだったこの花をみていると、さざ波だっていろいろな想いが甦った。()を合わせている慈子の横顔の、閉じた眼もとから頬へ木洩(こも)れ日が幽かに動く。その美しさに惹かれたのか、椿の木によりかかって思わず私は嗚咽(おえつ)した。なぜ泣くのだろう――、木槿のせいか、苔の色がまぶしいのか――。慈子はきて、黙って、うしろから頬を私の背に当てた。山が鳴った。静かだった。佇んで、そして手で涙を拭った。向き直って、慈子をみたが、いうこともなかった。

 この日、妻は「どこへ」と訊ねた。泉涌寺と聞くと「いこうかな」と本当にいきたそうな顔をする。およしともいわなかったが黙っていた。ちょうど大学時代の友だちから誘いがかかり、妻は電話口で愉しそうだった。私は祈るように靴ぬぎに佇んでいた。いってらっしゃいというふうに妻はわらってかるく手を振った。家を出たが、よろよろと、みじめだった。振り払いたくて途中八坂神社へ寄った。拝殿に向ってどんな手を合わしたとてみじめな心が晴れる道理はなかったが、祈るという動作だけに想いを鎮めようとするうちには、慈子のくらい涙の玉がほうっと光を拡げて私を誘うらしかった。

 泉涌寺道でつねなりの素足に下駄をはいた岩田磬子と行き逢ったのは偶然だった。もうそこが家だと教えたが、それ以上は言葉を控え、坂上の方を見返るように低声(こごえ)で、「いま、お眼にかかりました、即成院(そくじょういん)さんの前で」という。慎んだ口調であればあるでそういうことを私は磬子から聞きたくなかった。軽薄でも何でもないのだが、叮嚀に心もち膝を折るふうに「東京でまたお逢いしたいですわ」などという挨拶にも、いい知れぬ不快な心()られが日ざかり道のまぶしさのまま頬の辺りを硬くさせたのである。

 慈子は日光を避けまっすぐ顔を向けて待っていた。磬子と出逢ったことなど一言も口にしなかった。何の花を慈子が()ってきたか訊くまでもなかった。お利根さんに別に変ったところはないようだと慈子はぽつりと答えた――。

 

  新しい来迎院では、金をとって含翠庭を人に観せ、抹茶券を出していた。客はなかった。慈子は気にかけなかった。縁に腰かけ、茶を喫んだ。十三、四の少女が初々しい叮嚀さで縁側に敷いた緋の毛氈へ茶と干菓子を運び出した。

 水の滴る音がしていた。庭石にしみ入りそうな葉洩れの光が金色の縞目になって、(あぶ)が一匹羽音を()うとく響かせていた。慈子は茶碗を部屋の内に戻すと、そっと傍へきた。囁くように、けれどちからづよく私に呼びかけた。顔に、青葉のかげが揺らいで涙が頬をつたった。抱き寄せて傍に坐らせ、頭を私の肩へもたれさせた。含翠庭が翳と光との絶えまない旋律をうたいつづけ、眼を凝らして透かしみると、旋律の中には私たちを別世界へ惹き入れてゆく小径(こみち)が優しくうねっていた。頬に()を当て慈子をひき寄せた。力よわくふりむいた顔が寂びしい疲れをにじませていた。よく睡らなかったに違いなく、(そう)の眼を一つずつ唇を添えて閉じさせると、すこし身じろいで慈子はかすかに小さなあごを引き、うっすらと白い歯を光らせた。そのまま睡らせてやりたかった。虻の羽音に魅入られながら私は慈子の息に(くち)をあてて深く強く吸いきった。

 小さなめまいが眼の底からきて青い庭に拡がっていった――。それから慈子は一人茶室の方をみに立った。私は縁にいて、首をまげて書院の中を見入れた。

 書院は右奥中央に床の間があり、縁からみた正面と左側が襖になっている。襖には金銀の砂子を光らせ百人一首の小色紙が貼りまぜてある。儀同三司母、右大将道綱母、大納言公任(きんとう)、能因法師などの歌がまぢかく読めた。書院だけでなく次の間にも及んでいる百人一首は、朱雀先生の書かれた歌とお利根さんの筆になる色紙とがちょうど半々くらいと覚えている。こういう意匠を提案されたのは先生で、姫と坊主を利根が、自分はその他の歌を書くと仰言って師走の内五日ほどもかけて、仕上げられたものだった。料紙は温順な茶色の小色紙で、素人が貼るのだから貼り易い紙をと、ご自分の提案だけに先生は熱心だった。首をのべて覗きこんだ襖の一面には〝瀧の音は絶えて久しく〟の公任卿の歌だけが先生の字で、他はお利根さんの筆だが、何流というのか知らないけれど墨つきの濃さと筆の太さだけに先生だなと分るくらいで、同じ芦手書きに散らされた書風は二人ともとてもよく似ているのである。

 書くのも大変だが、部屋二つに華やかに雅びに貼るのはまた大騒ぎで、先生と慈子と私とが後に立ち、こういう仕事は人並はずれて上手なお利根さんが、ああ大変、ああ騒々しいと嘆き嘆き汗を流して、盛んな雑音にめげず思うまま優しく貼っていった。それでもどうしたことか二枚だけ残ってしまった。その一枚が紫式部の〝めぐりあひてみしやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな〟で、もう一枚が大中臣能宣の〝御垣守衛士のたく火の夜は燃えて昼は消えつつものをこそ思へ〟だったのである。先生はお利根さんの書いた色紙をながめ、「これはもらっておくよ」と仰言った。お利根さんは残った二枚を墨流し紋様の色紙にそれぞれ慎重に貼り、衛士のたく火の方に光之と書き添えていただいて、結局書院は二間(ふたま)通して九十八人の歌で飾られた。

 その時はべつに何とも思わなかった、ただ懐かしげな遊びくらいに思い思い、美しくなる座敷のさまを慈子とならんで眺めていたのだったが、昨日のお利根さんの話を想い出すにつけて、残ってしまった二枚の色紙のあのような処分にも、朱雀先生とお利根さんの言葉にならない歴史がふと露頭していたかと胸衝かれて思うのである。

 書院の床の間は一間半、右には青紙下張りの土壁に小障子が組まれ、左には合わせ壁半分に荒目格子の引き窓が小さく切ってある。床そのものの左一尺ばかりは豊かに櫛形に土壁をくった張り出しになっていて、櫛の歯に当たる柱と、床がまちとが木なりの(かえで)、正面には霊元天皇御宸筆の三宝大荒神尊の尊像を掛けて、お利根さんはこれに好んで水仙などを活けていたと覚えている。

「――どうかなすって」と声がした。慈子は含翠軒への内露地を隔てた半蔀(はしとみ)めく中潜りの向うに立って私をみていた。慈子の顔からぼんやりと目をもう一度床の間の方へ向け直した時から、私はその床壁に古渓宗陳の客懐を掛け、(しょく)(とも)して遊んだ茶の湯のことを想い出していた。

 

 高校三年の秋の初め不注意から急にからだをそこねて、二十日余りも学校を休んだことがある。大学進学を控えて大事な時期であったこともあるが、久しぶり来迎院に顔を出した私をみるなり先生は声を励まして叱りつけられ、すぐと表情を和らげ、まだ丸坊主だった私の頭を抱き寄せて「だめじゃないか病気なんかをして」と涙ぐまれそうに仰言った。お利根さんもさも安心したふうに病中のことを訊ね、慈子は始終寄り添って、口かずは少いながら嬉しそうに光った()をしていた。宏のためになにかしてやろうじゃないかと先生が提案され、それなら一度でいいからお庭に灯を入れて、月明りでお茶を喫みましょうと私はいった。

 十月はじめ、月の明るそうな宵をえらんで、私は慈子と庭へ下り、石燈籠に灯を入れていった。まず庭正面の(がん)である。苔に包まれ笹に囲われて岩上にしんと場の定まった鉄四方(てつよほう)の龕は、四面に菊の御紋章を透かし、平屋根にまるみを帯びた寄せ棟風のふくらみのある丈二尺足らずのもので、小蝋燭を立てるとちろちろ赤い翳が苔の上に洩れた。龕のある植込みの向うにも小路が隠れていて足利時代の面白い八面仏の石幢(せきとう)があるが、その脇にそれよりもやや丈は低く幅の厚い石燈籠が千両の木やつつじの株に()じ込められている。裏へまわった二人はそれにも小さな灯を入れた。茶室の前には伽藍石でできた蹲踞(つくばい)がある。その傍の細長い燈石(とういし)に四角く小窓をくりぬいた所へも風に倒れぬように静かな灯をともした。荒神堂(こうじんどう)の方から山肌が迫っていて、河骨(こうほね)の葉がきらきら月光に動く暗い池の向う側へまわると、鎌倉時代の仏石塔が二基前後して立っている、その池の(はた)に近い燈籠へはお利根さんの用意してくれた燈皿に燈心を浮かべ、小さな焔を木の間の闇に輝かせた。

 先生は(くつ)ぬぎ石に素足をのせ、陣大将よろしくという恰好で肘を張って縁側に腰かけ、お利根さんは白麻の上に濃い青色の紙衣(かみこ)を羽織って端近に坐り、庭のあちこちに灯の入るのをながめていた。お利根さんが立って電気を消すと、折から山の端をかすめる円光に含翠庭の裏山はかえって一瞬に闇に沈み、色づいてゆく時分の庭いっぱいの楓葉(かえでば)が波のように打ち重なる底の方から、ほうっと影を揺がす燈火がそこここへ濃まやかににじんだ。歩きまわった間こそ潜んでいた虫たちも、四人が一つ縁側に寄り添って息をしのばせるうちには、葉がくれ木がくれに響きあう優しい声音(こわね)をきかせはじめていた。

 女二人が書院の奥へ入ったので甘えるように私は先生の横に坐った。

 先生は姿勢を崩さないで、押し黙ったまま(がん)の方をみておられたが、ふと見上げると、先生の眼はさっきから閉じられたままであった。うっすらとひげの生えた頬から顎をみている内に、急に、名を呼ばれた。「お前、何になる気だね」と先生は低い声で訊かれた。黙って、答えられないでいると、ふっと身じろぎされて、「なに、いいのさ」と眼をあけて、笑われた。何やら私にはよく分らなかった。

 ガラスの小鉢に白玉を盛って生砂糖をふりかけた簡素な月見の菓子を慈子は運んできた。つやつやぬれた真白な小団子の一つ一つに、もう月明りがきれいに光っていた。

  我記長安城裏遊 夢回欸乃一声舟 可憐不似繁花地 紅蓼白蘋蘆荻秋

とある床の間の詩懐紙は、秀吉の忌避に触れて博多に流された紫野大徳寺の古渓蒲庵の客懐であった。床の前に皆を招いた朱雀先生は、〝欸乃(あいたい)〟は棹さす声で舟唄の意味であり、都の遊興を想いまた繁華を思い、しかも身一人はそれらに馴染まぬ粛々たる博多秋涼の底に清寂として在る境涯を述べているのだと説明された。蒲庵稿に依ると、この詩は法兄春屋(しゅんごく)和尚が謫居(たっきょ)の安否を問うてきたのに応えた二絶中の一であり、なぜあのような一軸が別して先生の手もとにあったのか理由は知らないが、何か先生の心境にも関わる所のある述懐であったかもしれないと思うのである。古銅曽呂利の花入れを真塗(しんぬり)矢筈盆に置いて、みなの前で私は白の木槿(むくげ)一輪を挿した。

 月明りだけではさすがに覚束なく、床前の書院中央に一つ燭台を置き、縁側には、昔はそんなものを持って夜警にまわったものか、振ればがらんと鳴る鉄鈴のちょうど握りの上が受皿になっていて蝋燭の立つという珍しい手燭が用意してあった。それらにも灯をともし、その頃稽古中だった和敬点(わけいだて)という茶箱点前で、端近に結界を据えて慈子が次々に茶を点てたのである。この点前は箱の中へ茶碗を二枚重ねるのがすこし厭なのだが、小ぶりな萩の茶碗があって、それでさも美味そうに先生が庭に足を下ろした恰好のまま慈子の茶を喫まれた時、ちょうど額髪の辺りへ月かげが届いてきて、ああ繪のようだと生まれてはじめて本当に夢をみる心地がしていた。

 茶の湯のたのしさが、あのような八方破れな演出の中で満喫できたことを私は久しく忘れなかった。

 あの時、慈子は五年生だった。まだ手も小さかった。ふさふさした髪が小さく(かし)ぎ、ちょっと肩を張って、茶筅を振るあの湯水の響きも軽やかだった。帛紗(ふくさ)が大きくみえた。南鐐の瓶の蓋に朱い帛紗をかけて湯を()ごうとする時には、絣の着物の小さい尻が白足袋からそっと離れて浮いた。「お湯でもいかがでございますか」と慈子は教えたとおりを深切に挨拶した。奥へ退るとすぐ茶巾茶筅を洗い、建水もよく拭っていた。銀瓶に水を足したあと、台紙に香合を載せて戻ってくると、落ちついて白檀を火に添えた。それから、縁側へ出てきて私の傍へ坐った。

 誰もが多くは喋らなかった。蹲踞(つくばい)の傍の灯が一番早くに絶えた。虫の()が繁くなっていた――。

 

 ――慈子は顔を両掌(りょうて)で蔽っていた。私のことばが途切れても慈子は動かなかった。嗚咽(おえつ)するでもなく、そうして慈子は掌に顔を埋めていた。肩から流れ出たようなその腕のかたちが中宮寺の弥勒菩薩にどれほど似ているのだろうか、虻の羽音も遠のいた気うとい静けさにまた軽くめまいしながら、慈子の母という人のことを私は想った。

 脈絡を欠いて想い出は次から次へときた。

 来迎院(らいごういん)の門をくぐってすぐ左へ、細長い外庭を利用して小さな慈子とゴムマリを投げ合ったこともあった。時には先生が下駄のままで相手された。下手ではない程度の先生と、巧くない私との間を空色のゴムマリが時に脱線しながら往還した。ゴムマリが嬉しさにはずんでいた。熱い血が、ぴたっぴたっと掌を打つゴムマリの音に波立って、少年のからだ中を寄せては返した。同じこの少年が、来迎院を一歩外へ出れば淋しさと不満とあふれてくる青年期への懊悩にぎりぎりと眉を寄せ歯を噛み鳴らし、肩を張って黙々と歩きまわっていたのだ。

 来迎院というものがなかったら私はもっと自分を分り易く顧ることができただろう。それあるばかりに私のリアルな世界はどんどん狭まりやつれ、イデアルな世界、〝来迎院の世界〟は涯てもなく拡って、しかも他人(ひと)の目にはこの豊かな慕わしい世界は無いに等しいのである。此の寂びしみとも幻ともつかぬ憑かれた幸せを私は本当に自分から望んだのか、お利根さんがいっていたように来迎院という小世界を借りて朱雀先生が創り出された幻惑の呪縛に今も私がはまりこんでいるのか――、それが分りかねるのである。

「行きましょう」と慈子の方が腰をあげた。

 門前の石橋を越える時、青もみじに埋もれた(たに)へ見入れる慈子の()が翳った。手をのべると、ためらいのない温かな手が力よわく頼ってくる――。何を考えている、と私は声をかけた。声がききたかった。肩が重く、のどが乾きがちになっていた。感傷を払いのけようという気もちが微塵もなかった。つかんでいる手が妻のものでない、慈子は妻ではない、そう思った。きしむような苦痛がきた。

 大学へ上がってからも来迎院へはよく出かけた。上京(かみぎょう)へ向ける足を逆に南、泉山(せんざん)の方へ運ばせ、半日一日を来迎院で過ごしたこともままあった。妻と識り合ってからも来迎院へは出かけた。先生方には妻のことを話した。結婚前の相談までした。それでも妻には来迎院のことを話さなかった。泉涌寺や高校までは案内したが、すぐ傍の来迎院には寄らなかった。東京へ出て結婚する以前にも私は妻を来迎院の人たちに引き合わそうかとは思い惑わなかった。誰もがそれに触れなかった。通知状に新婚の歌一首ずつを印刷した時、もし先生が私たちの新居に宛てて直接お便りを下さるようなら、次の機会には揃ってご挨拶に上がろうと思った。けれどやはりお便りはなくて、書き添えておいた勤め先の方に慈子の優しい手紙が届いた。〝お兄様〟という文字を幾つも書いていた慈子はその頃十六歳、高校二年の少女であった。

 先生は私の恋愛と結婚をどう考えていて下さったのだろうという重大な不審が、温いまま汗ばんで冷えてゆく慈子の手を通してもくもくふくれ上がった。

 慈子は私の手を握って泉涌寺(せんにゅうじ)金堂(こんとう)をきっと見据えていた。

 

    三 お利根さんの話(二)

 

 ――東京へ帰りましてからも別に何事も起こりはしませんでした。それでも私はしばらくためらった後でしか朱雀へ顔を出すことができませんでした。その頃、お家は牛込にありました。私が参りますと叔父も叔母もよくきたといってくれました。肇子(はつこ)さんは私が京都でしばらくお兄様と一緒だったことにちょっと羨ましそうなお顔つきでした。また私も何となくそれを自慢らしく申したのでしょう、そのくせ肇子さんのためにもいけないことをしてしまったのだと胸の内は暗かったのです。お兄様はどうなさってと姿のみえない方のことを訊ねました。

 あの日、私から()って知っているだけのことをお聞きとりになったお父様は次の朝、早い内に東京へ発ってしまわれました。京都へは兄と一緒でしたが、兄は毎日どこかしら遊び歩いており、私のこともお父様のことも放りっぱなしでした。お互いにそれで気らくでしたが、呑気者の兄も急なお父様の帰られようにはきょとんとしていました。

 お父様はまたお加減がわるかったのです。もう馴れたことでしたので私はそのままお部屋へ参りました。利根かと仰言って枕もとへ坐らせ、ご自分はうつむけに両肘ついて前髪に両掌(りょうて)を埋めるようになさりながら、あの話は肇子にはきっとするなよとまた仰言ったのです。

 京都でもそうでした。私ははいとお答えしながら、お部屋にこもっているお父様の匂いを感じていました。

 一、二年してお父様は大学をご卒業、たぶん昭和十四年時分かと思います。その頃には肇子さんも私も学校とは縁が切れておりました。肇子さんは時には婦人雑誌の令嬢紹介などに写真が出たりしまして、世間的にも知られた本当にお美しいお嬢様でした。もっともお父様は肇子さんがそんな風に写真で人目にさらされるのをとても不快がられ、顔色までお変えなすって叱言(こごと)を仰言ったそうですが、肇子さんもお兄様の前で手をつかんばかりにして涙ぐまれ、麟子お祖母様も訳が分らずおろおろなさったと聞いています。私はそんなことを見聞きするにつれて結局はお父様に洩らしてしまったことの重い責任も何事なしに荷を軽くしてゆくようで、相変わらずのご兄妹仲睦まじさが羨しく、またほっと胸をなでおろしてもおりました。お兄様は妹の肇子さんだけでなく、私もいつも分けへだてなくお傍へ呼ばれました。肇子さんが何のかのとお兄様を連れ出そうとなさると、必ずのように利根も呼んでおやりと仰言ったそうで、肇子さんは時々私の顔を朱くおさせになったものでした。

 お父様はご卒業後半年くらいは何となく過ごしてらしたのですが、秋半ば頃になるとお祖父様のおすすめで宮内省にお勤めになりました。もう私はあのことはすっかり忘れてゆきました。

 先を急ぎますので途中のことは飛ばしてお話を前へ進めましょう、そう、ちょうどこの前の戦争の始まる年でしたから昭和十六年の秋、お父様はそれまでと違って胃のお工合がわるく、お勤めも滞りがちになっていました。お父様はもともと快活な方というのではなかったのですが、お勤め以来は殊に頻りに物を思いつめられたふうにいっそうお静かで、私どもの顔もごらんになることは少なく、お部屋に籠もられがちでした。それが胃に障ったのでしょうか執拗(しつこ)い胃痛に悩まれたのです。しばらく一人で暮してきたいとお祖父様に願い出られて十一月の末からそのご用意をなさっていました。房総に勝浦という所がありましょう、あそこに気軽に寝泊りができる家があって、そこで暮から正月へかけて休養してくるという訳でしたが、そんな呑気なことができたのは、もうお父様がどこかで世俗のことをお忘れになっていて、他のことに深く気をとられていらしたからだったと思います。開戦前夜の東京では、まだ確かにとはゆかぬまでも不穏な興奮は人の口の(はた)をずいぶんとねじまげていたのですから。お父様は構わず、十一月の内に転地されてしまいました。肇子さんのお供は許されませんでした。

 前にも申しましたようにお祖父様もお静かなご日常で、よく父の所へもお話にみえていました。時局のことはご禁制で、話といえばご趣味のことが多かったのです。父は専門が歴史なものですから、お祖父様はその方のことをよく父に話させてお聞きになっていました、考えてみますと、朱雀家と淀屋家とはまことに幸せな縁組を交したものでした。二つの家を一つに合わせたようなゆるし合った雰囲気でしたから、父だの叔父だのと区別なしにみなが身内同志にぴったり結びついていて遠慮がありません。それだけにこの二つの家を一つにみたてた壁一重の外に対しては、どうしても背を向けたようなよそよそしい眼で世間をみる習いさえあったものかと私は思うのです。

 忘れも致しません十二月七日の晩になって突然肇子さんが私を訪ねてみえました。お顔色が蒼うございました。二人きりで話したいと仰言るので自分の部屋へお連れしました。当時二人は二十(はたち)にもなっていましたのでお互いに幾らかずつは縁談もあったので、肇子さんのその晩のお話も、その日ご両親から出されたご縁組のことに関係がありました。けれど、それが(しゅ)なことではなく、肇子さんの蒼ざめたお顔はお兄様のことが原因だったのです。

 肇子さんは勝浦から届いたお兄様のお手紙をもっていらっしゃいました。お兄様は、もう大人になったお前だから話すが僕はお父様の本当の子ではなく、お父様には甥でお前には従兄妹に当たる者である。久しく誰もが隠していたことだから知るまいが、やはり知った上で正しく朱雀の家をお前が嗣がないといけない、言うまいと苦しんだが、隠しているとよけいお前とも心の隔てができそうでそれは我慢ならないのだ、お前は僕のこの世で一番愛する人だ、事実だけを知った上で、平静にこれまでどおりにしていておくれというようなことがきちんと書いてありました。詳しく知りたければ利根さんにお聞きともあり、お父様には黙っていた方がいいとも書いてありました。

 お兄様らしくなく衝動的になさったことと私は眉を寄せ、肇子さんはまた私がお兄様には告げて自分には黙っていたことを責められました。お兄様のお手紙ではただ自分が朱雀家を嗣ぐのは順でないから肇子さんにということだけを書いてあるようでした。お兄様にとってそれがそんなに急なご用件だったでしょうか。ご縁談こそありましたが、それで心急いで仰言ったのかもしれません、たしかにお手紙は熱っぽく濃まやかなお苦しみの調子が(みなぎ)っていまして、勝浦でのお独り暮しも靜かなりに嵐をはらんでいるかのように想像されました。

 私から聞くだけのことを聞くと肇子さんは帰られ、翌日のうちに勝浦へお兄様のお見舞いに出かけてしまわれました。その日こそはあの真珠湾攻撃の当日だったのです。ようやく私には、以前の失策が思いもうけぬ暗い翳をふくらませかけているのに気づきはじめました。肇子さんはすぐ帰ってみえましたが、私にはただ、この間の縁談は断わったとだけお話があってお兄様のことには触れられず、まことに何気ない感じでした。はじまった戦争のお話もわざとのように何一つありませんでした。

 次の年はまだ景気のいい年でした。戦勝のニュースが新聞を賑わせつづけていました。お父様はすっかり官途から退かれ、すこしお肥りになってお家で読書なすったり、時々小旅行をなさいました。肇子さんや私をお連れになることもありました。日光から中禅寺湖の方へ、ご一緒にまぶしい翠の若葉にぬれるように歩いた記憶があります。霜降の滝壺まで三人して下りた時の寒さも覚えています。そして、その時お父様が肇子さんをかばうように抱きかかえて空いっぱいにけぶる瀧しぶきから守っていらしたのが忘れられません――。

 お父様がお元気になられたように、肇子さんも一段とお美しく大人びておいででした。お歌にも有楽流(うらくりゅう)にもご熱心でしたし、その頃から私の家で趣味の紙衣(かみこ)を教える人がいてそのお稽古にみえる時にも、あれこれとご工夫なさっては目新しい意匠をよくお出しなので驚いたものでした。朗らかでこそいらしたのですが、はめをはずされることは決してなく、微笑なさると櫻ばなが散るようだと、急にお美しくなったのに私の母もびっくりしておりました。

 それやこれやは戦争中とは申せ若い人のいる場所では自然のことで、やはりありふれた家庭的な現象ではあったのですが、爆発的な事件は十八年の春に起こりました。肇子さんが妊娠なすったことをご両親に打ちあけられたのです。肇子さんと並んでお兄様が頭を()れておられました。

 さすがに私もこの所は詳しくお話しできません。肇子さんのお腹の中にいらしたのが慈子(あつこ)さんであることはもうとうからお分りのことと思います。この事件がどれほど朱雀一家に衝撃だったかもくどくは必要ないでしょう。

 お父様はすぐ淀屋の私方へお預けになりました。もっともお祖父様、お祖母様の他に事情を知っていたのは私の父だけでした。突然お父様が家へお出でになり、しばらく一緒に暮すということで離れへお入りになった時は私は嬉しいと思いましただけで、一層深いことまで察しをつけることもなかったのです。父はあんまり光之(みつゆき)さんの邪魔をしてはいけないとは申しましたが、私がお部屋の方へいっても黙っていて別段禁じもしなかったので、むきつけにお父様になぜここへお移りになりましたのと訊ねたりさえしたものです。お父様はそんな時ふっと眼をとじられて何のお答えもなく、そうこうして外へもお出にならぬ日々が続きました。一方、肇子さんの方ですが、同じ私の質問に朱くなられましたもののやはりご返事なく、さすがにお二人の間にそんなことが生じていたとは想像できなかった私には、変に割り切れない雰囲気があった訳です。

 そのうちに、今度は突然肇子さんが勝浦へ移られました。しかも、なかなか帰ってみえませんでした。お父様にそのことを申しますと、そうかと仰言ったなりで向うをむかれました。

 肇子さんのお手紙をいただいて私は本当に驚きました。肇子さんは実に率直にそのことを告白され、後悔していないことを書き綴っておいででした。自分があの方を兄として以上にお慕いして来られた幸せを今はひとり出産を待ちながらかみしめているので、もし許されるものならあなたからあの方に自分は元気でちからある暮しをしていると伝えてと書いていらっしゃいました。お手紙が率直であればあるほど私の驚きは深刻でした。私の中でこどもとおとなが必死にせめぎ合うような興奮と怖れとが騒ぎ立ち、私は自分の部屋の隅にちぢこまって震えました。

 お二人の愛と情熱が暗いものであったとは想像したくありません。それでも、私の中のあの少女らしい幼さの限度を超える所がこの事件にはありました。私は肇子さんが切々と頼みかけられているご伝言を、もうあの離れのお部屋へ自分一人でお持ちすることができませんでした。

 お父様は何も仰言らず、一つ部屋にご謹慎の恰好で耐えておいででした。私はようやく心を決めて肇子さんのお手紙をそのままそっとお傍へ置いて参りました。読んで下されば私がまちがって伝えることもなく、そのことでお父様のお顔を朱らめさせたり、私もどきどきせずにすむと思ったのです。にげるように出てゆく私にお声もかかりませんでした。ご夕食の時、お父様はそっと私に目礼され、その謙虚な眼づかいとお静かなお悦びに私はやっとこのお二人の愛のいきさつを全部ゆるす心地になりました。あのお手紙はお父様の宝でした。おなくなりの時、私はお父様のお胸に肇子さんのあのお手紙を挿し入れて差上げました。肇子さんがなくなった時、ご遺言にただ一通のお父様からのお手紙を胸の上に載せてほしいとございました。そのお手紙というのは実は私がお父様にお書かせしてそっと勝浦までお持ちしたものでした。

  お祖父様もこの事件の処置にはご当惑のようでした。父は進んで結婚させておあげになればいいと申したらしいのですが、そこまではご決心も届きかねました。お祖父様はお怒りのあまりお父様を畜生呼ばわりまで一時はなさったのです。それもご無理でないくらいご兄妹らしくご成人になったのですから、やはり根本は私のお喋りが祟ったのです。もしお互いにもう少しずつ時期がずれて事実をお知りであったら起こりようのないことだったでしょうし、どちらがお幸せだったか分りませんが、お父様ご自身も申され、肇子さんのお手紙にもありましたように、相い寄る気もちを兄妹という制限とも自由ともつかぬ日常の中で確かめ合い愛し合われた僅か一年ほどの時期が、此の世ならぬものであったということを心に(うべな)う気もちにもなるのです。絵空事のように今となってはその一年を美しく想像することができます。事実をご存じになった上でのことなのですもの、畜生道とは申せまいと思いますし、かりにそう人が申しました所でお二人は微塵も傷つかぬほど健全で堅固でいらしたと思っております。

 お祖父様は秘かにご出産をすすめ、その上で肇子さんに誰かご養子を迎え、お父様にはその段階で嫁を迎えて分家させようと思われたらしいのです。お父様へのお怒りもさることながら、傷ついた肇子さんを外へ出すのがご不憫(ふびん)でいらしたかと思います。子供は、つまり慈子さんについては正直なところご思案がたたなかったようでした。お祖父様のお思召しにちょうど叶うようなご縁談が朱雀家へもちこまれて参りました。それは十八年の夏のはじめでした。相手の方は若い軍人らしく、おそらく誰方かを介してのお申込みだったのでしょうが、ご事情を何もご存じなく、肇子さんがお目当てで強いご懇望(こんもう)ということでした。お祖父様は軍人がお好きでなかったのですが、お逢いになってみるとそう武骨でもなく、殊にご養子縁組でも差支えない先方のご事情なので、半ば勝手にそのお話をお受けになり、当然のようにしてご出産前の勝浦の方にもその由はご連絡になったのでした。たしかにどこか御無理な感じでした。お祖父様も肇子さん可愛さに却って不自然なお焦ら立ちがあってなさったことと思われました。肇子さんが何とご返事なさったかは存じませんが、私へももちろん直接お父様へもお手紙はなく夏も過ぎていってしまいました。

 慈子さんのお誕生日は十月十六日です。けれどそんなお報せは表立ってはなく、父がそっと朱雀の方へ出かけるのを私も黙って見送っておりました。慈子(あつこ)さんのお名前はお母様がおつけになったのですが、後にうかがいましたら、一度だけのお父様からのお手紙に女の子なら慈子、男の子なら慈之とございましたとか、そのお話を私は二度目に勝浦へ参りましてお母様から直接にお聞きしたのです。

 十月末でした。正しくは十月二十七日の晩のことでした。私たちは慈子さんを挟むようにして一つのお部屋で(やす)んだのです。遅くまで話し合って、翌る朝眼をさました時、お母様は隣室に新たにお床をのべ、着衣も新ため裾をきっちりとしばり、短剣を胸に突き立てたまま前かがみに、けれど端然とお果てになっていたのです。お胸と、かがまれた辺りのお床に血しぶきが散っていましたが、仰向けにして差上げると微笑まれたかと思うほどでした。慈子をお願いしますと書いてあっただけで、それは私の名宛てに細い鉛筆書きで、けれど叮嚀に認められていました。

 お母様のご自殺は唐突でしたが、理由はありすぎるほどだったと申して宜敷いでしょう。ご不幸なことでした。私は動顛して泣くことさえ忘れていました。けれど心のどこかでは肇子(はつこ)さんの行為を肯う動きを感じていました。

 前夜に私へ頼みごとをなさったり泣かれたりほのめかしをなさったとは私は思わないのです。遠い潮騒(しおさい)に耳をすますふうに、時々は慈子さんの方をじっとみつめられるように、どこか真剣そうな寂びしそうなご様子はありましたが、お話しなさることは極く平静な口調で思い当たるふしもなかったのです。

 もしあるとすれば、こういうことをお母様はしみじみ仰言いました。あの方、お父様のことですが、あの方と自分とは兄妹でも従兄妹でもあり、また恋人同士で夫婦でさえあったのだけれども、今、こうして私たちの娘の顔をのぞき、遠く流れる潮の響きを聞いていると、こういういろんな現在での関係とはまるで違った遠い昔からの配慮というかはからいというか、血でも約束でもない結ばれの深さが感じられて、あふれそうな恋しさ慕わしさもその深みに戻って直接に感じる時、ああこの世のことなんか何だっていいんだ、自分は一番いいことをしてきたのだ、あの方とは絶対に一つなのだと信じないではおれない、と――。

 私は運命ということを仰言るのだと思いました。けれど、運命という言葉に寄せてあんなに誇らしげでお嬉しそうな確信が語れるものでしょうか。私は今では慈子さんのお母様が死も怖れず、むしろ欣然としてどこか「本来のお家」へ帰っていかれたようなあの夜のご自殺の意味に思い当たるのです。いいえ、このことについては慈子さんが、それに宏さんもご自身でお考えになればいいので、私がまずく解釈すべきことではないのでしょう。お母様がどういうお覚悟でなくなり、お父様が何を考えられてその後を、殊にあの来迎院時代をお生きになったか、それは否応なしにお二人に先立たれてしまった私たちの自分の問題として考えつづけねばならぬことなのです。

 私はとてもうまくは話せず、かんじんな部分をあまりに手短かに申し上げてしまいました。どういう次第で結局、お父様が私たちをお連れになってあの月輪御陵(つきのわごりょう)のお役に赴任なさることになったか、それより先に、どうしてお父様と私とがご一緒に暮すことになって、なぜ正式に結婚もしなかったのか。お祖父様や私の父がそれにどう反応なさったかなどお知りになりたい筈です。けれど、もうそれらは本質的なことでなく、仮りに本質的なものにせよ、その現れを説明する言葉は来迎院の昔からずっとご一緒してきた私たちには分っているのではないのでしょうか――。お母様がなくなるとお父様はこの家へ移られ、私の意志で私も慈子さんをお連れしてここへ移り住みました。二、三年してまた東京へ戻りましたが、お父様は東京がお厭のようでした。私たちは駒込の小さなお家に住んでいたのです。慈子さんもそれは覚えていらっしゃるでしょう。

 何も何ももはや説明などしたくない気もちです。お父様は私たちを心から愛して下さったのです。そしてお父様のお胸の中で私たちへの愛を支えていたのは、やはりお母様の仰言っていたあの深い遠いはからいなのでした――。

 

    四

 

 泉涌寺の金堂に(むか)う感動は十六年来、微塵も減じていない。思わず佇立(ちょりつ)する。それが浄行(じょうぎょう)に思われてくる。白砂青松に浮かぶ堂のかたちの大きさが足もとに拡がる砂粒(さりゅう)の一つ一つに響きあって、静かさまでが濃いのである。

〝みてら〟と尊称されてきた皇室の御香華院(ごこうげいん)である泉涌寺は、金堂とうしろの舎利殿(しゃりでん)を前面に、月輪(つきのわ)山麓に御座所、小方丈(こほうじょう)庫裡(くり)など御所風な殿舎を控え、御座所から築土(つきぢ)一重(ひとえ)を越えて結ばれた霊明殿には御本願四條天皇はじめ歴代の天皇皇后親王方の尊牌(そんぱい)が奉祀されてある。御寺(みてら)を取り包むふうにして月輪陵、後月輪陵、観音寺陵などが一帯に泉山(せんざん)と呼ばれる山深く鎮まり(いま)す。寺域内にある宮内庁出張所の神祇官は、一応泉涌寺とは別に陵墓の管理に任じていたのだが、朱雀先生を最後に今日では泉涌寺一山(いっさん)が兼ねているとも聞く。

 当時、先生のお仕事のことは本当によく分らなかった。強いてうかがったこともないのだが、慈子と私とが一緒に御陵の責任者としての先生に叱られた記憶はふと懐かしく心和ませるものだった。黙しがちな慈子にせめてもそのことを喋らせたくて私はいった、あれは失敗だったなあ、ほら……。

 金堂に対い合って()っている所から左を向くと、赤土肌の透けてみえる敷砂利の坂道が右側に庫裡の庭を、左側に来迎院荒神堂の屋根を控えて登り路につく。坦々とした幾曲りかの道を登りつめると、孝明天皇と英照皇太后との御陵が西むきに前庭を越えて西山の空を望んでいる。塀を囲い門を構えて数段高い御陵内を覗くと更に内側に左へ登ってゆく甃道(いしみち)が奥暗い山中に消えている。誰通うこともない細い甃道(いしみち)を誘うようにおびただしい鳥の声を包みこんだ玉垣が、羊歯(しだ)灌木に蔽われながら奥へ上へ神域を限っている。取りつく島がなくて、幼かった私たちのいたずら心が思いついたのは、前庭を西側の山はらへ樹々をくぐって下りてみようということだった。

 慈子をかばい、先に立って一足一足灌木喬木の下の積もる落葉を踏みしだいて下りた先は、本坊の奥、海会堂(かいえどう)の裏側だった。御所のお黒戸を移転し皇室歴代のご念持仏を奉安する寄せ棟真四角の小堂の横へはあはあいって下り立った所を先生にみつかってしまった。白い着物と袴を着け先生は長い竹箒を持っておられた。そういう恰好の先生をみることさえも珍しく、掃き清められた奥庭の見馴れぬ(いか)めしいたたずまいにも気押されてもじもじと慈子をかばうばかりだった。勿論、先生は叱られた。叱られようがどんなだったかより、そのあと、今下りてきた海会堂の右奥こそ月輪御陵で、二人は危くそこを侵したかもしれぬことを教えられて、それなら一目でも覗いてきたかったと不遜な失望をしたのを私は覚えている。小方丈から庫裡のわきを抜けて二人を表へ放免して下さったが、慈子は終始けろっとしていて、先生が奥へ戻ってしまわれると()をきらきらさせ、「おもしろかったわ」と似たような不遜な感想を可愛らしく洩らしたものであった。

 不遜といえば、二、三年後だったが、来迎院へいってみるとお利根さんも留守で、慈子一人書院の陽あたりに障子に背もたれしながら膝に紙を展べて繪を描いていた。荒神眷属(こうじん・けんぞく)の一体が畳に立たせてある。〝バッターさん〟と戯れに呼び馴れたその木像は、鎌倉時代の作と伝えられ、中学生の少女に軽々しく運び出されていいものではなかったが、慈子は平気な顔をしていた。博物館から戻ってきたので慶円さんにお願いしたら運んで下すったんですのと慈子はでき()えに眼をくれてから、紙と鉛筆を縁に置いて奥へ入っていった。慶円さんは来迎院の仏事を預っている気の良い老僧だが、先生に叱られやしないかと私は危ぶんだ。

 日光の下でみる神像はすばらしいものだった。丈は三尺ほど、上半身裸像だが胸と首を瓔珞(ようらく)で飾っている。下半身は芯の張った厚布を一枚ぐるりとまわし、帯で緊めている。よくみると二重亀甲文が截金(きりかね)で繊細に描いてある。足に力が(みなぎ)っている。押し出した右手は一尺足らずの如意棒を握りしめ、左手は指もちぎれんばかりに掌を開いてやはり前へぐいと突っ張っている。バットを片手に振り立て、バッターボックスに今入る所という恰好である。

 この像が一番好きで親しみやすいと少女は離れた位置から透かしみるふうにいった。そういういい方のできるのが私には異様だった。私は昔から神体や仏像に対しては幾分かの感受性をもっている。確かにそれはある特別なもの、だった。中宮寺の弥勒をあたかも一彫刻作品として眺めることもなさったらしい朱雀先生の若い頃と思い合わせてみても、案外、慈子にはさらりとした若い合理主義の方が受けつがれていて、超越的なちからや神祇祭祀には拘泥(こだわ)らぬ部分があるのかもしれなかった。同じく不遜といっても、私が月輪御陵を覗きみておきたかった気もちには一種の讃仰があり、慈子のあの「おもしろかったわ」にはそういう価値を顧ない烈しさがなかっただろうか――。

 すると――、すると〝私たちの来迎院〟という特別な感じ方は何なのだろう。遠い遠い以前からのあの〝はからい〟と慈子の母はいい放って死に、朱雀先生は〝はからい〟の不思議を来迎院で立証しようとされた。突き当たってくるようなこの一年の慈子の無言は言葉にならない無量の意味に裏うちされ、私を呼ぶ烈しさはただあの〝はからい〟に身を寄せる姿勢から生まれている。

 お迎えを待つだけだねと笑って先生は来迎院に入られた。仏引摂(ぶついんじょう)のふしぎに心を寄せての述懐だったのだろうか、むしろ死者の()ぶ声を自身の中に聞きとめて、死なれた者の待つ死の底をのぞかれたかと私は想う。(なぎさ)の音に耳を澄ませながら若い母親が慈子の枕べで最期に話したという静かな、安らかな、死を超えた世界には神や仏が住むという予感はない。神仏が為すはからいでなく、人間の存在そのものに含まれている未生以前(みしょういぜん)のはからいの意味でなければならない――。

 わたしは〝バッターさん〟の美しさに見飽かなかった。繪もみて下さいなと慈子はいった。デッサンはふしぎに像のかたちより陰翳の方に重点がおかれ、鉛筆描きの濃淡が指さきに触れて崩れそうに白い紙に光っていた。

 お利根さんが帰ってきたと思ったら先生も一緒だった。叱られもせず、「お、戻ったか」と立ったまま像を見下ろして、「博物館で人に観てもらってる方が良いのかも知れんぞ。うちにはまだ四体も眷属さんがいて御本尊を護ってござるからな」と洒落(しゃらく)な調子だった。「神、仏のことを粗末に軽々しくみすてるのは間違っている。しかし、死後を頼んで神仏を語るのはもっと間違っていると思うよ。死後の世界というものがあるとしても神、仏がいて宰領される世界じゃない。驚くほど今いる世界とそっくりかも知れん。そっくりどころじゃなく、全く同じかも知れん」と護法神像の横に坐るなり先生はおもしろい話をされた。

「私には妙な癖があって、よく狭い畳目の一つなどに眼をとめてみつめる。みつめるうちにその畳目一つが実はこの世界と同じ巨きさと豊かさとをもった別の世界のように思えてくる。そこには洒落た街角で別れを惜しむ恋人たちもおれば、土の家の暗い煖炉で薄粥を炊く火もある。緊迫した国際会議もあれば、眼のかすんだ老婆が寒さを厭うて呟く貧の愚痴もある。要するに、何もかも似た別の世界が指の幅一つの狭い畳目の上に拡がっている。

 以前はこれを想像の遊びと呼んでいた。まあ私には一種の玩具のようなものだった。

 だが、年がゆくにつれて、そう簡単にこの遊びを考えてはいなくなった。果してこれは想像に過ぎないのだろうか、真実そういう世界がそこに実在することを自分は直観しているのではなかろうか、そう考えはじめた。いつ頃からか覚えない。しかしこの転換は非常に私の内側をも変えたという気がしている。想像の遊びから直観の……遊びだろうか、遊びじゃない、これは一種の救いではないかと私は考えた。

 結論を急がずに、その先を話そうか。私はもう墨のしみや畳目に満足しなくなった。そこでは巨大な空間の拡がりは直観できても時間の方は停止している。世界を突き揺がす時間、宇宙的、超天文学的な脅威に充ちた時間の圧迫を欠いている。想像をたのしむにしてもこれが私には決定的な欠陥と思われた。

 私は別の工夫をしてみた。どういうことかというと、私は一人で静かに湯に入るのが好きだが、その際、湯の面にからだの一部、たとえば手首をくの字に折りまげたりして、そこを湯へ少しずつ沈めてゆく訳だ。すると湯肌の脂にはじかれながらついには豆粒ほどの陸地を露出するだけになる。これが私のみつけた新しい世界なんだ。ずっと沈めると危く陸地は呑みこまれようとする、しかしかすかに浮かせると汐ははしるように引いてゆく。この汐のさしひきに内在するものを超越的なほど無量の時間だと私は感じた。

 ――私は、ついに私の直観力が、この一見無意味な動作が現前してくれる豆粒米粒ほどの世界において、単に地球の歴史ばかりか、太陽系の、宇宙の、歴史をさえ実現させ得ることを悟った。例えば洞穴人の驚嘆すべき絵画からマチス、ピカソまでの歴史ひとつをとっても何万年というじゃないか。所が、私のこの世界では、汐の眼にみえないかすかな動きにもそれ位な推移は呑みこまれてしまうのだよ。われわれ人間の一切の歴史を微細な一点と化してしまうほどの、それ以前にも実在したであろう凡ゆる歴史、文化、欲望、意見の限りない出現と消滅の繰りかえしが、この世界の上で実現している――。勿論、時間の無限と併せて私は空間の拡がりも遙かに拡大し、同時に一切の具体性を認識の中で確保したわけだ。だから、私たちが今この来迎院という場所で話しているのと寸分違わぬほどの小さな事柄までが、この世界のどこかの時点、場所に確実に包含され実現されていることになる。

 この直観によって私は先ず人間の歴史そのものが、一回きりのものなどである筈がなく、地球自体も勿論宇宙の歴史ですらたとえ何十億光年の何万倍もの寿命であろうと、それをさえ無にしてしまうほどの消長の繰りかえしがあったことを信じられるようになった。そこでだよ、だとすると、今私たちが現実と呼びその故に真実だと考えている凡ゆる事柄が、仮りに真偽はおくとしても、あたかも無限をかすめる翳よりもはかない位のものではないかと思うことができるようになった。つまりリアリティなんてものは無い、すべて翳であり、条件のついた現実である。直観だけがよくこの全てを洞察する。過去も未来も相対的で、生前死後などといってもまことに小さな、つまらない、あってもなくても良いようなものだ、そう思われてきたのだ。

 夜空の星を仰ぐだけでこれ位の想像は拡がるといえばそれまでだが、それだけじゃない。私の腕の上にたまたまできた世界、それを私は実在の具体的な世界と直観し得た途端に、こういう破壊的なほどの内包を有した無限世界が、時間のうねりの中で縦に持続するとともに、無限の場にあって無量数に併存していることを咄嗟に信じた。

 おかしいか――。われわれの今の眼からみれば湯に浮かんだ世界などバカげた空想の産物に思える。けれど、その世界が真実在し、その世界からわれわれのこの世界を考えるとしたら同じようにバカげたものであろうじゃないか。だがわれわれは自分の存在を可能にしている自分たちの世界をバカげているとは考えていない。そして、われわれにとっては狭苦しい豆粒大の世界と想うものが、そこに住む人々にとっても狭苦しいのかどうかを考えるなら、元来これらの世界の大小広狭など無に等しいことで、拘泥りようのないのが分る。

 私は超現実的な話をしているようでも、その現実自体が本質的に非現実で翳の如きものだということを考えるべきなんだ。つまり、無限無量に世界が併存している。私たちが広大無辺と思っているこの地球太陽系宇宙そのものがどうして別の世界の誰かの入浴中に肌の上にぽっちり出現した一世界でないと断言できるだろうか。

 そういう訳だから私はリアリティということを考えない。考えないというのがいいすぎなら拘泥らない。生死も考えない。すべてあるはからいに応じてこの無量の世界の中で生き代り生き代りしているのではないか。誰もその輪廻(りんね)を超えはしないし必要もない。

 そこで私が考えもし、感じもするのは、こうだ。人は世界から世界へ輪廻する。ある世界へ早くきて早く去る者も遅くきて早く去る者もいるが、所詮同じ世界から世界へと生まれ変ってゆく。そこで、例えば愛し合った二人の一方が余りに早く去り、残った方が愚図愚図していると、遅れてゆく者より一足早く先にいっていた者がまた次の世界へ出ていかねばならぬことも生じてしまう。それでは淋しいので、愛する人に死なれた者には何がなし早くあとを追ってまた一つ世界で一緒になりたいというふしぎな願いが備わっているのだ――。

 無限の併存といったが、同じ場を重ねられず並び存することだろうか。そうでなく、私たちのこの現在と全く同時同所に別世界の現在が重なっているのかもしれない。私たちに分らないだけで、やはり無量の世界が今この部屋を同様に占めていないとはいえない。つまり、私たちだけが生きている訳でなく死んでいる訳でもない。謂わば絶対の生も死も実は永遠の翳だ。それを直観すれば不安はない。

 それでは何が必要なのか――。愛し合う身内がどのような結ばれに変っていようともこの永遠を通して共に生き、生き続けるべく、務め合うこと、だ――」

 話し終って先生はにこっとされた。お利根さんを連れて奥に入っていかれた後姿をよく覚えている。先生もまたどこかに不遜な魂をもっておられたのであろうか――。

 

 先生、と心に呼びながら御陵への道を慈子に腕を貸して、ゆっくり登りはじめた。ある冬の朝の想い出がまた別の色彩をもって甦ってきた。

 孝明天皇陵までの坦々とした道の途中、ふと左へとんぼ返りに急な石段が崖上へのびている。後堀河天皇の観音寺陵につづく隠れ道である。簡素な丸木鳥居の奥のうず高い山陵に赤松が一本抽きん出ていて、忍び()って玉垣の外を一めぐりしてみると真後の辺りに宮内省と書いた石柱が木隠れに立っている。左の山かげから観音寺の温順な瓦屋根がみえる。先生のお墓はこの下のあたりだねと、昔そうしたように、二人は息をひそめ声を忍ばせて御陵の中から樹々の山はらを見下ろした――。

 高校卒業前の正月だった。親の寝正月をいいことに朝早の雑煮のあと家をしのび出て私は来迎院へ飛んでいった。暮の内に小雪が降っただけで(うら)らかな新年だった。ご挨拶をすませると手をとり合うようにして慈子と私は来迎院を出た。寒かった。行こうと叫ぶと二人は凍った土を蹴って御陵の方へ小走りに登ったのである――。

 今、その慈子が横を歩いている。巨きく年輪を(くろ)ずませた観音寺陵前の切株に日が落ちていた。慈子の白い靴の汚れないかたちが、その時哀しく痛ましくみえた。

 ――幼かった二人は手をとり合ってまずこの後堀河天皇陵へまで飛び上がってみた。やがて元の道へ戻って、上の孝明天皇陵まで素早く上って、それでもうどこへ寄り道もならず、ざくざく小砂利を鳴らして帰るよりなかった。が、先の観音寺陵へ通う石段の下に〝竹木を伐らぬ事〟 〝鳥獣を取らぬ事〟などとある宮内省の布告板のかげから、ちょっとした雪水の溜りにつづいて細々と山中へ誘われてゆく小径がみえた。行こうかというより早く山に包まれてしまった二人は先ず左の崖上に観音寺陵の白い玉垣をみつけた。

 しばらくは谷間へ惹きこまれそうな下り路で、雪消(ゆきげ)に湿った羊歯(しだ)原へ知らず知らず踏みこんでゆく内にも思いがけぬ草苺(くさいちご)の実が朱く点々と枯れた冬の山辺を彩っていた。谷は左へ路は右へ(わか)れ、そのそこの草むらからは胆を揺がして双つ鳩がVの字なりに杉の梢へ飛び立ったりした。やがて右の山塊が大きく姿をあらわし、鬱蒼と茂る杉の大樹と谷底へこぼれんばかりの丈なす羊歯叢(しだむら)を厳しく清々しく玉垣が囲いまわしているのが、崖の高みに見上げられた。孝明天皇と英照皇太后の巨きな御陵の真裏へ私たちはきていたらしい。もっと、もっとと言葉少なながらある安らかさ親しさに似た気もちをこの深山(みやま)の清寂に寄せていた二人は、息を白くして前へ前へ進んだのである。

 並んでゆけない路がますます細くなって、霜に荒れた笹を踏み踏み谷の途切れの急な斜面を陽の明るい方へ登っていった。もう御陵はこんもりと背後に退いていた。そう長くない斜面を登り切った所から二人は浅くゆったり窪んだ、一枚のまるで繪皿をのぞきこんだ。杉木立に鷹揚に包まれ、乾いた茶色に冬芝を敷きつめた山窪は暖かそうな陽だまりになっていた。しだ葉に縁どりされた七、八米四方のきらきら明るい、子供部屋のような深山の窪の入口に佇って、息をはずませやってきた二人は、一瞬ぽかんとした――。

 あれ以来、誰がここへ訪ねてきたであろう。この私は一人できたことも、妻を連れてきたこともなかった――。

 慈子は疲れていた。歩けるのと私は二度三度たずねた。しかし、慈子にも私にも、今の今二人してゆく先があの二人だけの山窪でなくて何処であり得ただろう。

 今、真夏の御陵裏は樹々の繁りも厚く、幾度も足もとの草むら笹むらを自分の足で分けておいては慈子の手を引いて進まねばならなかった。鳩には昔に変らず驚かされた。鮮やかな青い花をつけた草が浅い谷の水音をいっぱいに隠しているのがあやしく足もとを心もとなくさせていた。蝉の声があふれていた。

 辿りつめて立ったあの窪の入口、昔そこで息をはずませた場所から、眩ゆい青草をはなやかに花の色が彩った、浅いゆたかな一枚の繪皿が紛れなくのぞきこまれた。杉の影にゆったり蔽われて仰ぎみる木洩れ日は、色とりどりの切子(きりこ)を光にむけてまわすように、きらきらと、鋭く、優しく、()く、静かに草の上にこぼれていた。山五月(やまさつき)の鋏の入らない思うままな二株、三株の下に、平たく露頂した艶のある岩が草と苔にまつわられていた。

 慈子が草を踏んで、しっかりした足どりで窪の底へ下りて行く。白のハンドバッグがきれいな腕の下で揺れた。

 ここを()いてない、と思った。魚の躍るような力(つよ)い意志が奥山の清寂を貫いて奔った。慈子、慈子、慈子……。山五月のそばから私を振り返った慈子ははじくようにハンドバッグを棄てた。かけ下りた。地鳴りがして慈子の唇が山の音を響かせた。「お兄さん……」と途切れた声が香り高い花輪のように柔らかく音もなく草の上に崩れて、落ちた。

 山鳩の声が一きわ静かに、風をさえぎり、流れていった。

 

    五

 

 お利根さんの死は唐突にきた。けれど死者の用意は周到だった。お利根さんは(ひと)り紙屋川の家で自殺した。茶室の中だった。

 九月末になってお利根さんはいい(にく)そうに慈子に東京への用事を頼んだ。駿河台の淀屋の家まで一包みの荷物と手紙を届けるのにわざわざ授業のある慈子を煩わせてもと思うお利根さんの気もちに、はかり兼ねる所はあった。だからといって拘泥わる理由もなく、慈子は気軽に出ていったのだった。

 お利根さんの荷物を受けとって淀屋家の主人はほうという顔をした。午までで大学を退()けて戻って、今寛いだという所だった。慈子はすぐ私に電話をかけに外へ出た。用事もすませた気軽な心地だった。私との連絡次第で今日か明日かに下深沢へは顔だけでも出して来ようと考えていた。

 私は外出していた。少し町を歩いて、それから一度駿河台の家へ慈子は戻った。すぐ奥へ呼ばれた。寛いでいた筈の主人の姿はなく、奥さんから慈子は、今日一日はわるいけど家にいて下さらないと頼まれた。そう申して出ましたのよといわれて、よく訳も分らない。ときどき無い話でもないお見合いかと思ったが、そんな素振りはお利根さんにもこちらへ着いた時の淀屋の人たちにも、なかったのである。奥さんまでが気ぜわしく外出した。慈子は家からもう一度私に電話したが、まだ戻っていなかった。

 夕食過ぎて、奥さんはときどき時計を気にしていた。六時過ぎに電話が鳴った。奥さんが出て、一言だけはいと返事して、あとを続ける間もなく電話は切れたらしく、すぐ慈子の方をみて「ちょっと」と呼ぶなり奥へ入った。

 動顛したまま東京駅へ走った。特急券は時間をはかって奥さんが用意していた。胸の中が骨に当たってごろごろ鳴った。涙を堪えていると歯がかちかち鳴った。慈子は何か分らず憤っていた。腹を立てていた。絶望していた。からだが浮いて、どしんと響いて、何処かに突き当たるようだった。

 汽車の中でお利根さんが兄に宛てている遺書を読んだ。字はもの静かに墨の色を匂わせていた。やすやすと書かれていた。慈子はそれにさえ腹が立った。そのせいか、なかなか読み切ってしまえず、二、三行も読むとまた初めから読み直した。それでも頭に入らなかった。()れながら手紙を握りしめ、眼を(みひら)いて慈子は短い遺書を長くかかって読んだ。轟という汽車の音が地霊のようにお利根さんの言葉に響き合った。文字の一つ一つがピアノの鍵盤のようにむやみと躍った。

 なぜ死ぬかという不審をどうか持たないでいただきたい。そして数重ねたご迷惑の最後のお願いごとをききとどけてほしい。私の死が哀れにみえたりしないことが今の自分には小さな望みだが、それよりも私の死で慈子さんが生々しい衝撃を受けないようにしたいと思っている。それで、わざと東京へやるが、申し訳ないがぶざまでないよう事を調えた上で呼び戻してあげてほしい。これがお願いである。何もかも一応後の人がみて分るように始末をつけてある。その為にすこし今日という日が遅れてしまったくらいである。至らぬ所はどうか慈子さんの為に良く良く気を配ってあげてほしい。私の意見はといえば、慈子さんには慈子さんの道があり、それをどう選ぼうとやってゆける人と思うけれど、差し当たってはたとえ大学の中途ででも、何とかして外国へ留学させてほしい。唐突なようでも今の慈子さんには必要なことと思っている。肇子さんたちの死に惹かれて逝くかとお思いなら、まあその通りである。どんなに安らかではあっても最初の死者も最後の死者も多少つまらない。あの方のことを実は少々羨しいと思い思い、早く先へ逝っている人たちの所へ還りたいと気慌(きぜわ)しかった。夏以来そればかりを望んでいた。出揃っていた食器もすっかり片づけ、食卓を綺麗に拭き切ったような今の気もちでいる。食卓には極く普通に自分の顔が映っている。思ったよりましな気もちである。変な妹で申し訳なかった。御免なさい――。

 お利根さんの遺書は兄に当たる人に宛ててほぼこういうふうに(したた)められてあったという。

 父や母を背後に庇って手を拡げて立っているお利根さんを慈子は朧ろにみた。その微笑が慈子の胸を衝き戻していた。まあというほどの父母を堰かれた咄嗟の哀しみに(あらが)う内に、お利根さんの憑かれた幸せと寂びしみがつくづく胸にきた。最初と最後といういい方でお利根さんは慈子をみつめる三人一体の願いを祈り求めている――。父を中にして母とお利根さんが寄り添って――、それはいつか黒谷の墓地でみつけたある墓のかたちを慈子に想い出させた。真中に大きな字で男の姓名が彫られ、一段低く左右に姓を異にする女の名が添えられてその墓は舎利塔のかげに黝ずんで陽中(ひなか)に鈍い感じで立っていた。畜生塚というような言葉をふっとその時考えたが、実否はともかく畜生塚という文字面が頭に残っていた。お利根さんのあの話では父母は祖父から畜生呼ばわりも一時されたそうで、そう聞いた時にもびくっと自分の躰が動いたのは、頭の中に残っていたあの畜生塚という言葉が甦ったのであったかと慈子は考えたのである。

 お利根さんは慈子に、〝死なれた〟という哀しみを直接与えたくなかったのであるらしい。自分と朱雀兄妹とを一くくりにして、そこで三人の物語は〝終った〟のであることを慈子に納得させようとした。慈子は生きてゆく者であり、死ぬ日とてももっと別の意味で新しい死を選んでほしいとお利根さんはわが身を〝死なれた者の最後の死〟ときっぱり断ったのである。慈子にはお利根さんの愛情が腹立たしい中でよく理解できた。遺書は慈子のことばかりを書いていた――。

 京都駅から車は烏丸(からすま)通を、御池(おいけ)通を、堀川通を、今出川通を、暗い地に赤黒くしみをにじませた町々を奔り抜けた。北野の(もり)の底を白い犬が火玉のように飛んでいった。噛みしめた唇に歯がたが痛く乾いて疼くのを慈子はどこかで忘れたまま車の中で腰を浮かせていた。

「お母様――」

 そう呼んだのを慈子は覚えていた。生まれてはじめて使うことばだった。自分の声に愕いて、慈子は血の気を失い死者の床の傍で震えた。お利根さんは白布(はくふ)のかげでにこりともしなかった。

 慈子への遺書が枕もとに置かれ、胸を一突きに貫いた兼氏(かねうじ)の短刀は鞘を払ったまま三宝の上で光っていた。家の中にどこも取り乱したあとはなく、たまたま暇を許されていた家の女の何も知らず戻ってきたまま動顛した表情だけが、妙にせかせか歩きまわっていた。もうすっかり取り仕切られていた。寂滅為楽(じゃくめついらく)の大字が座敷の床に掛けてあった。お利根さんの最後の芝居気だったようだ。

 茶室には、あの、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)の色紙が掛かり、花なしに、打ちおさめた鼓がそっと床わきに直されたままその緒を抜き放って裾を結び、床がまちへ額をあずけるようにしてみごとにお利根さんは刃の上に突っ伏していたという。世話をしてきたお利根さんの兄はまだ茶室へは入らないようにと慈子の肩に手を置いた。「お母様と呼びましたね。そう思ってやって下さいますか」とその人は訊ねた。慈子は掌で顔を蔽った。

 野辺送りは慈子の祖父母の方へは報されなかった。淀屋夫婦と朱雀慈子とだけの人目だたない葬儀のあと、遺骨は慈子の願いで観音寺の墓に先生と一緒に埋められた。母から遺されていたものの内、お利根さんに宛てた遺書と糸瓜(へちま)蜻蛉(とんぼ)を蒔絵した筆一管を添えて慈子はそれも墓の下に収めた。山の奥から紛れてきたのか尾の長い、草色と緑色の翅のきらきらまじって光る小鳥がきて墓の傍をぴょんぴょん走った。(ひざまづ)いて合掌するうちにも慈子は「お母様」と呼んでいた。

 淀屋教授はとにかくも一緒に東京へくるよう勧めた。この儘で移り切る訳にはゆくまいし、お祖父様のご意見も十分お聞きしなければなるまいが「何はともあれだ」と語調を強めてそれをいった。奥さんも、言葉を添えた。疲れで、慈子は何かからだの様子も変であった。紙屋川のせせらぎを枕もとに聴く淋しさの中で、慌しい決心の一つくらいにもう(さから)ってみる気もない慈子は、駿河台の淀屋家へ心我になくて舞い戻っていた。動願して東京から京都へ奔り戻ったはずだったのに、奇妙に今、東京へ帰ってきたか……という感想に捉われていた。こちらには祖父母の家があり、お利根さんの実家があり、私がいる。京都の根を洗われているように感じ、来迎院界隈に残してきたものをうつつに手さぐりしたい気もちにかられた、と慈子はいった。

 紙屋川の家の、慈子の机にはこまごまと説明のついた品物や証書の類が一まとめにしてあった。先生からのものも、お利根さん自身のものも慈子の為に遺され、迷惑したり思案にくれたりしないですむだけの手続きもよく行屈いていた。先生が(なくな)って以来、お利根さんはすこしずつそんな用意に気を配ってきたのであった。不用と覚しきものは焼きすてたらしく、庭の隅には草や枯れ葉と一緒にひっそり処分した跡らしい火の焦げも残っていた。この家はお利根さんから慈子に譲られていた。遺書にはここをご自分の家と考えて行く先の定まらない日にはここへお戻りなさい、ここにはお父様の(おもかげ)も私の匂いも消え失せはしないでしょうとあった。

 東京へ戻ると慈子は淀屋氏と一緒に下深沢の祖父母を訪ねた。祖父も祖母もお利根さんの死に涙ぐんだ。誰よりも何よりもお利根さんには感謝していた。有難かった、申し訳ないことであったと、朱雀謙之(すじゃくのりゆき)氏は死んだ人の兄に頭を低れた。

 慈子は朱雀家を嗣ぐ者であり、一方淀屋家に子がなかった。淀屋氏は朱雀老人の顔色をうかがいながら慈子を娘として育てたいと申し出た。老人は妻を顧てから、朱雀の家は自分の代で絶えたものと考え、それが自分の至らなかった罰と思うといった。それから、「朱雀というのは、父から聞いた話だと久しく続いた堂上公卿(どうじょうくげ)の家だったそうだが、安政大獄の頃にそれとは無閥係に、何かしら内輪のもめ事のあと病い祟りがして一度絶えたんだそうだ」と話して、はっはと低く笑った。慈子をみて「文にも(はつ)にもよう()て……」といった。「お祖父さんを赦してくれているか」とも訊ね、返事もきかずに涙を老いた眼にためた。

 慈子は淀屋籍に入ることになってしまった。疲れていた。どうにでもという気もちだった。ただ、祖父の話にも新しい淀屋の両親の話にも父のことは洩れ落ちた木の実かのように拾い上げられないのに気づいていた。そうなのか、父はそんなにも人に赦されていなかったのか――。

 慈子は話がそうとまとまってゆくにつれて父のことを考えた。父がなつかしく、父が気の毒だった。〝来迎院〟の意味が慈子をかつてないほど揺さぶってきた。遠い来迎院、かすんでゆく来迎院でいいのだろうか。父の寂びしみはただ父一人のものであるのだろうか、父と母とお利根さんとだけの寂びしみであるのだろうか、自分にもお兄さんにも、誰にでも意味のある重い重い寂びしみであるのではないのか――。慈子は(さから)いがたいちからが来迎院と父たちの世界を抹殺しようとしているのに気づいてきた。身のまわりに風立つのを覚えた。

 真向かわねばならない問題がとりのけてあった。お利根さんが遺書の中で外国留学こそ慈子の為の最上のはからいと書いていたこと……。それを想い出し、さて、何故か――とは考えるまでもないことだった。いかにお利根さんが慈子を世のつねの母親の不安でみていたかが、この思いがけない発想にはあふれていた。若い娘を外国へ出す以上に危い場所に慈子は立っていると、お利根さんは考えていたらしい――。兄は大学で名を成している人であり、その庇護を得られれば留学は夢でなく、経済的な心配は慈子の身の上にはなかったのだ。夢、怖い夢は〝最後の死者〟が背負ってゆこうと考えていたのだ。朱雀先生がみんなにかけた夢の呪縛からお利根さんは身を以て慈子を解き放とうとしたに違いなかった。

 慈子はすべてを埋解し、反射的に父のことを考えた。宏は、宏はといっていた父の顔が、母を愛して以来自分とお利根さんに看とられて死ぬまでの父の生涯が、眼の奥へきてぱっと拡がった。

 茶室で私たちに話してきかせたお利根さんの物語には、すべて〝死なれた者の最後の死〟 で洗い流してしまえるものばかりがあったとは、慈子は考えなかった。慈子の母が最期に洩らしたあの、深い遠い〝はからい〟が安らかな本質的なものであるなら、慈子は私へ結び合わされたことを父や母の有難い遺産と考えたいのだった。慈子は私と離れがたくなっていた。お利根さんの死によって父のことがもう捉えようもないほど巨大な波になって慈子の中でうねった。先生と私とが慈子の中で一つに重ね合わされていったし、そのことでこそ慈子は、父が世に赦されない以上はきっとお兄さんも人に赦されないだろうと思い当てたのである。

 慈子は疲れた。

 慌しい(はふ)りの日から僅か一週間しか経っていない十月のはじめ、やっと私をお茶の水へ呼んで、慈子はお利根さんの死以来のことを細かに話してくれたのである。 

 兄に宛てたのとそう違わない書き出しで、慈子への遺書はお利根さんのあの口調そのままに(したた)められていた。突然の死ではあっても前触れもなしにとは思わないであろうし、いたずらに哀しむばかりでなく、慈子さんらしい優しさで物静かにわたくしを葬って下さるよう、また、後々のことは淀屋の兄に頼ってよし、お祖父様がたも十分にご心配して下さるだろうからその点ではそう不安でないというふうに書いてあった。それらは簡潔に、むだな文字もすっかり省いた感じで淡々と書かれていたが、そのあとに、さすがにこの夏には話し残されていた事柄についての述懐があった。

 

 お母様がなくなつたあと、お父様のお傍に私が住むことになりましたいきさつはもうくだくだしくて申上げたくもありませんが、さうなりますについての私の気もちは、不十分ながら慈子さんには覚えてゐていただきたいと思ひます。不十分と申しますのは、多分私の申すことが舌足らずで、きつぱりしないといふことを自身でも思ふからですが……、お母様の勝浦でのご最期には赤ちやんだつた慈子さんとご一緒に私が立ち会つた訳でしたし、私はひどい衝撃から遁れるすべも分らぬまま、お母様は私にご自分の代りをと望まれたと思ひこむやうになりました。慈子さんをよろしくとお遺しになつたのは、またお父様のお残されになつたお哀しみを和らげられるのはあなただけよといつていただいたのだといふ気が致しました。それは私の心のどこかにあつた願ひを都合よくとりまとめた幻惑ででもあつたのでせうが、やがてお母様は私自身だと自分でも説明のつかない重ね合はせを私は心の中で成し遂げて参りました。お父様をみる眼も気もちも流れる風のやうに急に色をかへてゆきました。

 お父様は私を赦して下さつたのですが、結婚といふことを私が望みませず、お父様もつひに一度も仰言いません。そのことが周囲の事情をよけい難しくしたといふことはござゐました。なぜ結婚しないかといはれれば強ひて答へられませんでした。二人には先に逝かれた方のことが頭にありましたものの、他人様(ひとさま)には死なれた者の理屈にならない惑ひの複雑さは、さうは分つていただけません。

 私は慈子さんがどう感じるか不安でした。もちろん薄々は私がお父様のお傍に参るらしいこともご存じだつたでせうし、殊にこの数年来は私のことを昔通りにはお利根さんと呼び辛さうになさるのも気がついてをりました。不安でもあり、優しい慈子さんを存じてゐますだけに、嬉しい予感もありました。さう呼んでいただく機会はありませんでしたけれど、不安を裏書きするご不快さうなお顔もまた一度として私はみないですませることが叶ひました。

 お父様のお考へになつてゐたことが本当は何だつたか私にはお伝へできません。分らなかつたといつてもいいほどです。あの〝はからひ〟といふことを、ご両親といふものからこぼれ落ちてゐらしたお父様は、他人である私や宏さんを通して確かめようとなさつてゐたのでせうか、それがあのそもそもの(とが)以来お苦しみになつた、人孤独の想ひから救ひ出されようとなさつた夢だつたかとも、私は来迎院での年月を想ひます。またただの夢でなくて、むしろもつと本質に触れたお父様のご理想がそこに宿され、私たちへの愛の深さはそこからお汲みになつてゐたと申すべきなのでせうか。

 それでもお父様はやはり何事の奥底にも(なくな)つたお母様のお姿を置いてゐられました。先に死なれてしまつた者といふやうにお父様はよく仰言いました。徒然草のことも、ですからあんなに、〝死なれた者のつれづれの文字〟だとお思ひこんでゐらしたのです。

 お母様の想ひ出は私にもまことに強烈でした。最初の死者はお幸せでした。死なれた者の最後の死を迎へる心地はただただ淋しく気のせくものです。

 長い間には哀しい日、辛い夜もありました。そんな時にはお母様があのやうに()つてしまはれずにお二人して闘つてでも下さつてゐたら、私は平凡にどこかの家庭に嫁入つて暮してゐたらうにとも想像したものです。けれど、そんな想像のあとでは痛切にお父様がお気の毒で、また私の気もちも激しくお父様の方に燃え立ちました。遠い、深いはからひといふお母様の言葉に私は酔ひ、縛られて参りましたし、それがとりも直さず私の幸せであつたからこそ、今かうして平然と死に臨めるのです。でも、この幸せが、憑かれた幸せかもしれないと、どこかで感じてもゐます。

 慈子さんはこれからどうなさるのでせう。どうなさるにしても、あなたは私たちの死とは無縁な方です、いいえ、さうあつていただきたいのです。兄にも申しましたが、思ひ切つて外国へ勉強にでも遊びにでも出かけて下さい。お気もちに染まない提案かもしれません……、遺書のかたちでかういふことを申しては大なり小なり慈子さんの進退を窮屈にするかと心苦しいのですが、押して、さうなさつて下さいと申上げます。

 

 喫茶店〝ジロー〟の奥は学生であふれていた。煙草の烟が夕ちかい陽かげにただよって動かない。ながい話の途中から慈子は蒼ざめていた。ふと途切れた所で慈子は立っていった。なかなか戻らなかった。そして戻ってきた慈子の額は、汗ばんで、蒼かった。「早く。お願い」と慈子はいった。幸いすぐ傍に病院があった。

 医者は出てきて、「奥さんですか」と訊ねた。はいと答えた。「流産です。手当てはすみましたから二時間ほど休んでお帰りなさい」と医者は率直にいって去った。処置室と書いた扉の前で震えた。人けのない病院の夕方は廊下の奥にものの影がたまっていた。膝がしらに風穴があいたようであった。

 

    六

 

 更級日記よりと付記した朱雀光之先生の「竹芝寺縁起」はこう書きはじめてある。

〝武蔵の国は蕭々として広い。見わたす限り葦や(おぎ)が生ひしげり、段丘が点々と枯野をせばめ、粉雪のやうに火山灰の層を吹きちらしては海の向ふへ去つてゆく。下総(しもふさ)から武蔵にかけて人まれな吾妻(あづま)の国は、ただ波と風と野をかける小さなけだものらだけの天地だ。〟

 朱雀先生十六、七歳頃の作品であることは、古樸な表紙の「憧憬」という名の同人誌の薄青い謄写刷インクの匂いにも、幼い手が刻んだらしい各頁の文字のかたちにも察しられた。書き出しを読んで私は安堵した。先生のお声が感じられた。文章はこの荒涼とした世界の住人のことに触れてから、突然こんな描写につづく。

〝武蔵野も南によつた、対岸には下総安房も見えようといふ海沿ひに、竹芝坂(たけしばざか)といひ、丘が一段高みになり赤茶色の地肌を露出した坂がある。竹芝寺といふのはその坂の上の新しい寺のことである。一すじに門の前まで道が踏みならされ、門は海風をまんおもてに受けて建つてゐる。母屋(もや)は門の正面にあたり、階を上つた所には御簾几帳などもあつてなかなか寺の名にふさはしくない。寺のあるじは武蔵といふ姓を京師(みやこ)の天皇より賜つてゐる男である。〟

〝武蔵はもと竹芝坂に住んでゐた酒つくりの土民であつた。彼の仕事といへば代々伝へられた酒造りに精出し、酒を(みつぎ)として納め、酒を衣食と交換して暮すことだつた。早く両親と死に別れたが、屈強の若者になつてからも女通ひ一つせず小屋にこもつては酒を(かも)す事に精進(しやうじん)してゐた。小屋は雨露(うろ)をしのぐ名ばかりのものだが、十間四方もあらう土間には土地の陶物師(すゑものし)が焼いたらしい大きな瓶が二十余も並んでゐた。〟

 それからこの青年の風変りな酒つくりの方法や小屋の中での男の奇妙な、昆虫じみた動きが手短かに面白く書かれ、季節の推移についても、〝こひじのやうな赤土は霜柱を立てて一足ごとに心地よくくづれてゆく。生い茂る荻の間を野菊が彩り、秋草の名残も日と共に枯れ枯れてゆくと、呼応するやうに富士は白さを増し、遠い日に映えて黄昏時(たそかれどき)の空にきらきらと冴えかへつて見える〟などと描写されている。

〝彼はあまり口を利かぬ男だつた。一人住居の為だが天性がそのやうでもあつた。しかしその為に人から疎んぜられる事もなかつた。〟 (かみ)に対する勤めとしては、〝酒の出来上がる四、五月頃に酒瓶を二つ宛〟 (みつぎ)として納めるだけであった。竹芝坂周辺の里はのどかな春秋を送り迎えていたわけである。

〝海風が潮をふくみ浪がつよくなりだす夏がやつてくると、昼は酒小屋で昼寝をしたり、坂の上に立つて光る海やまぶしい雲の向ふにかすんで見える島などを、すずろに眺めるのである。人が田草をとり、水をひくのに苦心してゐる時も、彼は酒瓶にとり囲まれて、瓶のへりにかけた柄杓が風のままに東や南や西へ北へと流れうごく様をのんきに眺めては、充された気持になるのだ。沢山の瓶の一つ一つの柄杓がさうして動くのは、のどかな落ちついた彼の生活のあらはれのやうであつた。一人、口笛を吹き、土地の歌を口ずさむのは、彼のわづかな楽しみのやうであつた。〟

 更級日記では火たき屋の火たく衛士(えじ)として京都へ上った武蔵の男が、禁中の庭を掃くうちに「などや苦しきめを見るらむ、わが国に七つ三つ作りすゑたる酒壺に、さし渡したるひたえのひさごの、南風吹けば北に(なび)き、北風吹けば南に靡き、西吹けば東に靡き、東吹けば西に靡くを見で、かくてあるよ」と独り言いうのを帝の愛娘(あいじょう)が聞きつけて、どんなふうに靡くものやら是非みたいと男に迫ったあげく、男は姫宮を抱いて東国へ飛ぶように逃げることになっている。酒つくりのことなど書いてある訳でなく、岩波文庫本で五行ほどの僅かな叙述から先生はやや風変りな青年を想像された。咄嗟にどうといえないまでも、この青年の温順でしんと寂びしい孤り在る心を先生ご自身のものとして私は受けとり易いのである。

〝彼は十二、三で親を失ひ、天涯孤独なまま十九まですごしたが、二十歳(はたち)の春、酒づくりの仕事に一段落ついたおりから、国府は京師へ(あげ)る役夫の一人として彼を召し出したのであつた。〟もちろん、〝彼は弱りこんだ。〟だが抗うてだてをもたない青年は酒瓶に名残を惜しんで先ず召された国府へ向かった。 〝酒は醸されるにまかせ、五月になつたら分けあつて飲む様にと人々にいつておいた。〟

 武蔵野を去ってゆく二十歳の青年の黒い小さな影を大地に印して、先生の作品は一応結ばれている。物語としてはこれより後段がはでに展開する所であり、寝殿造の竹芝寺に武蔵の姓を得た酒つくりの青年と帝の姫宮とが睦み住むに至るまで書かれるはずであったろうが、これだけの一章にも先生の想像力はうかがわれるし、一種の哀韻と純朴さとを光らせた武蔵野の中の孤独な青年の物言わぬ風貌が、ひいき目にも私には懐かしく心惹くものに思えてならない。

 この作品を書かれた時、先生はまだお利根さんから話を聞いておられなかった。それだけに、この寂光の天地に孤り在るふうの青年に興味を覚え、二十歳という時の身の上の変化も、勿論(いわ)れないことながら兼好(けんこう)が幻想の若者を〝廿ばかり〟と書いていたのに思い合わされたりしたのである。

 竹芝寺縁起ではやがて時の帝の〝いみじうかしづかれ給ふ〟 御女(おんむすめ)が登場して御火(みひ)たき屋の衛士(えじ)となった御垣守(みかきもり)の武蔵の男との縁が結ばれる訳で、先生の頭の中ではこの高貴の女性と東国の名もない青年との奇しき懸想(けそう)ばなしが絵模様になっていたかと想像される。私も慈子も先生から徒然草の女人について明瞭な説を聞いたとはいえない。これまで徒然草の執筆動機をめぐって考え書いてきた中で、兼好の斎王思慕の推定は特に朱雀先生の示唆に依ってしたことではなかった。しかし、嵯峨野宮(さが・ののみや)の夕まぐれに思い当たっていたように、第三十二段の「今は亡き」女人をいとしみ慕う兼好の心の底に一段深く第二十四段の斎王讃嘆の気もちがあって、この両段の絡みで徒然草前半の哀切な格調が埋解されねばなるまいとは、或いはあんなにもあの古典に親炙(しんしゃ)しておられた先生ご自身の解釈であったかもしれない。

〝御垣守衛士の焚く火の夜は燃えて〟という先生自筆の歌をお利根さんは床の間に掛けて自決した。お利根さん自身の切ない思いを寄せた感傷と思ったが、私などの思い寄らない機会に、先生がかつて慈子の母である人を愛された頃の思いに近く、また一切の事の起こる以前の作品で竹芝の男が内親王を秘かに思慕する心としても、この歌が古くから先生の魂の中へ先取りされていたことを、お利根さんは察していたのかもしれないのである――。

 風の中を明るい色の木の葉がテニスコートに落ちていった。基礎医学研究室の巨きな建物と(たけ)を競って(けやき)の大樹は一列に行儀よく秋空に枝を張っていた。東大の中でも殊に人寂びしく明るいこの日だまりが好きで、仕事の休みに私は先生の昔の作品を携えきて読んでいたのだった。

 慈子から連絡がなかった。どう仕様もなかった。

 

 あの日、慈子はベッドから私をみると、「御免なさい」といった。二人とも流産ということには触れなかった。窓の外にはもう夕まぐれの気はいが忍び入っていたのを慈子は詫びたのかもしれない。私は、慈子の手を床の中にさぐって、粗末な毛布の上に顔を伏せた。慈子のもう一方の手が私の髪から頬へきて動かなかった。時が移っていった。

 慈子の妊娠を思い設けぬことといってはならなかった。しかし、流産はどうだったか。すでに起きてしまった事実としての慈子の流産をどういってみても所詮は繰り言だった。どうしても自身に問いかけねばならぬことといえば、それを安堵しているのか哀しんでいるのかであった――。

 慈子は毅然として病院の前から帰っていった。それ以上の見送りは望まなかった。後姿の上に私は、慈子のからだを(おもんぱか)る心地とは別に、その私への問いかけをべったりと書きつけていた。答えられなかった。答えられぬまま私の足はその場にすくみ、両脚の間からすさまじい不毛のイメージが瞼の底へぎらぎら光って拡がってきた。慈子と私との間に超えがたい現世的不毛の拡がるらしいことを、血の色がはじめて私に教えた。二人して生むべき子に今の今死なれた親たちは、虚しく路上に声を失って別れねばならなかった。

 慈子はどうするのであろう。そう思いながら、私は、一度も、自分はどうするのであろうと考えないでいることに気づいていた。この傲慢と卑怯は憎むべきであった――。

 

 昼体みから仕事に戻る時間がすこし過ぎていた。バドミントンやバレーボールを娯しむ人の影も失せていた。早足に、しかし無意識に私は一つの小石を蹴り蹴り赤門の近くまできていた。慈子から連絡はなかっただろうかと、まだ考えていた。銀杏(いちょう)の樹にはねかえった小石を見捨てて私は電車通りを勤め先の方へかけて渡った。

 階段で総務課の名田登茂子と行き逢った。突!として登茂子は低声(こごえ)で何かいい放った。とり合わずに私は電話の鳴る仕事部屋へ入っていった。

 あの祇園会の京都から帰った私の所へ登茂子は曖昧に笑いながら慈子の手紙を屈けてきた。封は切ってなかったが日子(ひかず)を経て他人の手に握られた封筒はどこかぐったりしていた。手紙を机に蔵うと、登茂子を突き退けて部屋を出た。人が驚いていた。単に郵便の遅れではなかったのかと考えてみる余裕がなかった。頭の中が鳴っていた――。

 いま烈しくいい(あざ)まれたのは、しかしこの際暗い裂けめをみる気がした。不必要に威勢よく受話器をとりあげ印刷所を呼び出したものの、用事といえば埒もないものであった。眼の前がほの暗かった。

 二、三日して慈子は電話をしてきた。家の中であるらしく不用な音響を省いてしまった慈子の言葉だけが鮮明な繪のように耳の底に届いた。口調に変った所はなかった。なつかしげな響きが濃まやかにさえなっていた。

 その夕方、私は〝レモン〟の二階で一時間半待って、すっかり諦めた顔で力なく階段を上がってきた慈子と、逢った。ジュース一杯を飲み切るだけの余裕しか慈子にはないらしかった。すっぱいレモンの味が口の中に残っていた。想像を超えたいろんな生活の変化が慈子にはあるらしかった。

 満足な話が殆どできなかった。大切な、互いに確かめ合いたいことが幾らもあったようで、それで却って互いにみつめ合うだけで終ったような心残りの多い時間を費し、お茶の水の駅前でさようならといい交してきた。

 かつてない身近さと、漂い寄ってくる無気味な()うとさとがあった。いつでも逢えそうな近くに慈子はきているが、自由に逢うことはますます機会少く難しくなりそうでもあった。慈子を外国へ送り出すというお利根さんの声があのまま虚しくなるのかどうか測り難く、それでなくとも、朱雀、淀屋両家の庇護に取り()められた慈子を昇天するかぐや姫の如くにあやしく胸騒ぎして見送る心地に、私の暗い哀しみはあった。

 電話はおりおりにデスクへ届いたのである。ようやく同僚にも何かをいおうとする者があった。他でもなく慈子の電話を周囲に気兼ねしながら受けることに私は屈辱を覚えた。慈子ははじめに「今はよろしいの」とかならず訊ねる。そんな遠慮をさせ、そんな遠慮をしてまでも慈子にダイヤルを廻させているまるで別な二つのものをその一声から私は感じた。

 慈子、おいで、私の所へおいでと大声でそう呼びたい――。

 しかし私の声は低く、叮嚀で、弱々しく体裁を繕っていたのである。世のつねを深く超えたもの――そんなふうに私たちは考えていたであろうに、魔術の溶けてゆくように世のつねの姿かたちで私たちは電話をかけ、喫茶店で逢うというのか――。

 十一月最初の土曜日、池袋で逢って、清瀬まで電車に乗った。この電車は私の住むベッドタウンを走り抜けている。清瀬はその町より遠く、私には妻や娘のいる家が電車の窓から小さく確かに見分けられた。だが、あれが僕の家とはいわなかった。

 清瀬平林寺裏の野火止(のびどめ)遺跡には、雲衝く大杉の森につづいて里へひろがる美しい灌木帯が秋日和になだらかに波打っていた。週末をたのしむ人たちの姿も多く、墓地も森も灌木の波ももみじはじめた木の葉や芝草に彩られて明るい夕陽の中に沈むふうであった。

 淀屋の家ではアメリカヘゆく話が出ていた。淀屋教援は比較文化史学の国際ゼミナールのために、明春早々にロサンゼルスへ発つことになっている。その際慈子を同行させワシントンへ足をのばして、個人的にも親しいスウェンソンという老教授夫妻の家に一、二年滞留させようかと教授は考えていた。

 先方の意向をたずねたり、旅券その他の心用意もしているらしい――、慈子ははきとした返事をしていなかった。ロサンゼルスまでならと低声(こごえ)でいいながらも、その旅が二人をただ一ヶ月足らず隔てるに過ぎないのだろうかと、慈子も私と同じことを考えているのは知れていた。けれど、問い合えば何かが失われる。嵐山の舟の上で、きみは僕のと訊ねて言下に「慈子よ」と打ち据えて来たあの慈子がこの危うい沈黙の中には辛うじて生きていた。

 あなた――と慈子は杉の蔭へ入って私を呼んだ。「お名前をつけてあげて」と、細い指で杉の木目に目にみえぬ文字を書いている。慈子にも似たような心の闘いがあるのだと思った。何かしら必死に()に受けようと努めている。指のあいだをこぼれ落ちるのが何かもよく分らないで、もう京都ではないこの大都会の郊外で、慈子は今思いついてそれをいうのだろうか――。

〝朱雀宏之〟と慈子は指で書いた。絶えてゆく家のすでに生命絶えた生まれざりし者のために慈子はそんな命名を私に望みながら、遙かな木の間の青空をふり仰いだまま唇を噛んで泣くのだった。「みんなと一緒に住んでいますわ、私たちを待っていますわ」と、私から離れていきながら慈子の優しい肩のむこう側で途切れた声がそれをいった。「よかったと思います。それなのに、哀しいの」ともいった。

 秋の午後は遠い所から色を消すように日がかげって、足もとにばかりほっと朱い光がたまっていた。影を踏んで枯れ芝の森の道を帰っていった。電車は空いていた。私の下りるべき駅を過ぎてしばらくして、慈子はそっと頭を私の方へかしげて「御免なさい、送っていただいて」と詫びた。

 慈子――、「はい」と慈子は坐り直して私をみた。()が少女だった頃を生き生き甦らせた。僕の慈子、と声をひそめてそう呼んで私は微笑った。黙って慈子はからだを寄せ、私の腕をそっと抱いた。

 近いうちに京都へいって、大学の方の始末をしてきますと池袋で別れ際に慈子はいった。〝京都〟ということばがひびくと、二人の傍を流れる雑踏が瞬間灰色に沈んだ。

 その京都四条、花見小路角にある〝農園〟という店で書いていると断わった慈子の手紙は数日後に前触れなくデスクヘ届いた。できるだけ目立たぬようにと撰ばれていても、原稿や校正刷を往来する郵便物と違って慈子の封書は特別なまじり物のように光ってきた。今度の旅ではむりかと思うけれど、あの墓石に両親とお利根さんの名を刻ませたく石屋に相談したと書いていた。書体や石にも依るのだが、とにかく工賃は一文字幾らと勘定するのだとその手紙ではじめて私は知った。もう一度ご一緒にお参りをしたいと書かれてあれば、やはり私は何かのかたちで二人して葬ってやりたいもののことを痛々しく胸凍らせて想わずにおれなかった。

 

 農園へは友だちと一、二度きたことがあります。この近所にその人は住んでおります。それで、ひょっとするとあなたのお家とお隣り同志なのかもしれないなどと思い、それが懐しくて、墓参りの帰りに落ちついたこの店へきてお午食(ひる)を食べました。ご存じのように、扉を押すとすぐ広い楕円形の卓が窓ぎわにあって、ふかふかした長椅子のお席がありましょう、そこにかけています。青い色が手に染みそうなコーヒー茶碗にハートとクローバの形のお砂糖です。なぜか私には小さなチョコレートが一粒サービスされました。窓の外を着物の人が何人も何人もよく通ります。よく晴れています。東山は彩づいています。紙屋川の家ではそそくさと用事をすませ、私は今夜も南禅寺の傍で泊ります。すっかり旅の者になってしまっています。

 大学のことは決心がついていないのですよ。金田教授はせめて籍を残して休学にするか、できれば今年の単位だけでもとっておいたらと仰言います。古瓦の為にもそうしたいと思うのですが……。

 

    七

 

 東山は秋色(しゅうしき)をたたえている、南禅寺畔の宿はふと肌寒い、明日には東京へ戻りますと慈子は書いていた。きっと本人の方が先に駿河台へ帰っているだろうと思うが、連絡はなかった。その代りに受付へ、岩田磐子が訪ねてきた。受付嬢はわざわざ私の所へかけてきて、京都の方、すてきなお着物ねという。苦い顔をして席を立った。

 岩田磬子の結婚通知が届いていたのは九月下旬であった。動め先に比較的近い駕籠町のマンションに住むらしいことを心にとめたが新しい姓も覚えていなかった。妻はふしぎな御縁ねえと葉書をながめていたが、なるほどそんな感想を(うけが)う程度に磬子のことは気遠(けどお)いのであった。お立ち寄り下さいと書き添えてあっても空しい文字としか受けとらなかった。それきり忘れていた。

 磬子の夫は結婚すると二ヶ月たたぬうちに社命を受けてどこだか東南アジアヘ赴任してしまった。一年ということなので留守番をするはめになっていると磬子は話した。よく似合う和服なので、それだけでも目立った。赤門前のそう人ごみしない喫茶店へ案内してみたが、磬子の心ははかりかねた。

 はじめて逢って一年経たないが、正月に感じた岩田磬子のことが秋の()れる今になって変質しているのに気づいていた。慈子との間で黙ってもちこたえようと仕合っているものが、磬子との間には失せたと思う。磬子はもう世のつねの姿で手紙を寄越し姿をみせ、世のつねの仕方で誘っているのである。

 お茶の先生をしたいと思うが、何を心がけて用意したらいいか教えてほしいと頼まれた。似たような相談は他所(よそ)でも受けたことがあるが、生易しい仕事ではない。だが、こだわりなしに磐子は一人ずまいのマンションへそんな用事によせて私を誘う。それでいいのだろうかと(いぶか)しむ心地に無頼(ぶらい)な思いがもう忍び入っていた。岩田良子がはじめて私の前に立った時を想い出す。こんなことでいいのだろうか――姉の良子は早く死に、妹一人は初々(ういうい)しい若妻の姿のまま夫と離れて眼の前でコーヒーを啜っている。

 朧ろであったとはいえ、磬子と逢った時から姉良子の面だちを忘れていった。大機院の小間(こま)で、私は磬子の話を聞く下から死なれたなと感じ、その感じ方はお利根さんの呟きから学んだものであった。たとえ、お利根さんが朱雀先生や慈子の母に感じた〝死なれた〟という意識の烈しさには及ばぬ淡いものにせよ、その感じにこそ死んだ岩田良子を今の私に結びとめる意味があるはずだった。磬子とはこういう結ばれを欠いている。姉の想い出をあるいは(あやま)って私にかぶせて親しみを寄せるのであるらしく、危うい感傷を含むことと私には思われた。慈子(あつこ)磬子(けいこ)とは違っていた。どこが、どう違うか、が間題であった。

 磬子の部屋からは昏く底籠もった小石川六義園(りくぎえん)の森が見えていた。部屋の中はすべて清潔だった。磬子が用意した食事を磬子と対い合って食べた。窓の外は急速に暗くなっていった。炉は切れないかも知れなかった。床下が浅いのはマンションでは仕方がなく、冬は置炉を利用して下さいと私はいった。置炉のことは知らぬらしかった。

 佳い風炉釜が据えてあった。磬子は平点前で食後に手早く茶を点てた。直して下さいといわれ、気のついた手癖を一つ二つ注意した。だが、巧いものだった。その巧さが磬子を守っていた。私は謹直に話し、やがて辞した。「今度はいつお目にかかれますかしら」と温和しくいう。何をしにここへきたろうと思い、磬子の穏やかな微笑にも私ははじかれるような心地でマンションの階段を急いで下りた。大塚から護国寺への急な坂が乗ったタクシーを激しく揺すった。

 年の初め私は、今年はとも思わなかった。奇妙な放心状態だったのかもしれない。磬子と大機院で逢ったのは、やはり何かしら今年を暗示する出来事であったように思える。晩れてゆく一年の目くるめく推移が殆ど家庭を離れてあったのは奇異なのだろうか。妻も娘も穏やかな当たりまえな極く普通に過ぎてゆく今年と思っているはずなのを、私はやはり奇態に意識した。しかし、私の知らぬ、妻の、娘の、別の一年があり得てもいいので、そこまで私にはみえていないのかもしれない。妻との一年は平和だった。それが私たちの現実で、心の奥へ拡がるもう一つの世界とは別のものだ。それでいいのか、いけないのかと私は問わない――。

 徒然草、どうなっていますのと慈子に訊ねられた。

 兼好考を建前に、自然と朱雀先生の内部に光を当ててきたかの思いを私は抱きはじめていた。慈子を東京に迎えたものの、頻りに佗びしく遠ざかりゆく予感がする頃になって、この放恣(ほうし)兼好考(けんこうこう)はどこかで私自身をも解説しているようだった。

 兼好はなぜ徒然草を書き初める気になったか――。これが朱雀光之先生の問いかけだった。ちょうど一年前、雪の墓参の頃から湧き水のように底白く光ってくるこの問いかけを私は自分自身の問いにしてきた。お利根さんの〝死なれた〟という傷嘆の声が物語めいた想像の糸をかすかに手繰(たぐ)らせたかと今も思う。〝いまはなき人なれば〟という声が兼好の魂を震わせたのであろうように、先生の生涯にも哀韻を調べたのであろう。第三十一段の雪の朝の女、三十二段の月明りの中の女、三十六段の仕丁(しちょう)をもとめて来た女、三十七段の慎みある女など明らかに兼好在俗時の一女性の断片像が強い個性的統一を得ている、と先生は考えられた。

 徒然草の中に巧みに隠された法師兼好の人間的秘密は徒然草全篇の価値を勿論何ら損いはしない。徒然草を書こうと思い立った時の兼好、三十六、七歳の兼好は、まだまだ生々しい青年の気風と共にそれを枯淡なものにさせてゆこうとする諦観の深みをも兼ねはじめていたと考えていいだろう。やがて兼好は小野庄を手ばなす決意を固める。それは、ようやく〝従者の眼〟からもがき遁れた兼好の〝魂の眼〟が、最初に見出した意味の深い決定であったかもしれない――。

〝斎王〟を徒然草の焦点ではないかと思い、朱雀先生の〝いまはなき人〟とはこの斎王に至る副人物であろうと推定していた時は、まだまだ先生の〝ただあれだけの感想〟を超えてゆけるものと私は自負していた。束の間の自信だった。先生には先生の〝斎王〟があり、斎王と〝いまはなき人〟とは一重ねだった。野宮(ののみや)の段に思い至っておられたかもしれないという気もちは少しずつ動かぬものとなっていた。私の徒然草考は先生の()の上を飛行(ひぎょう)するばかりだった。それでも、良かった。だが、私の斎王は――、私の慈子は――。卑屈な苦痛は(むしば)む酸のように鈍色(にびいろ)に胸の底へ沈んだ。

 

 遅れて届いたあの七月十一日付の部厚な手紙をときどきとり出して読んだ。

 梅雨あけの空が京の町を紺青(こんじょう)に染めていた。風がかわいて山なみが光っていた。祭提燈が四条界隈を飾り、長刀鉾を先登に丈高い山鉾の姿が大通りに凛々と(なら)んだ。夏がきたのだった。お利根さんは床の間の飾りをあらため、涼しい麻衣(あさぎぬ)を揃えていた。そういう時、お利根さんは骨の厚い扇繪をひろげて居間の柱に濃い紫の朝顔の絵を咲かせもした。夕ぐれになると団扇で蚊を追いながら縁にかけ、お利根さんは庭の手入れのわるさを嘆いた。傍へゆくと、ふっと身じろぎして、しかしそのままお利根さんは(ぼん)やり庭面(にわも)に夕かげの深まるのをみていた。何かいいたいと頻りに思いつつ、やはり自分もお利根さんの夕涼みにひっそり(なら)っていると、水嵩を増した紙屋川の音がよく聞えてきます――、慈子はそう書いていた。朱雀先生の墓参あと、ふっ切れたみたいに大原の里を訪ねていったことはこの手紙に書かれていた。

 

 道が雨上がりにしるくなるにつれて渓川は清らかさを増すようです。西に重畳(ちょうじょう)する山なみのふもとに寂光院があるはずで、京と若狭を結ぶ街道の要衝らしい里の風情が思ったより広濶で明るいのが嬉しうございました。さっきまでけむりにまかれたように雨霧(あまぎり)(いただき)を蔽われていた山々のかたちが遠く近く浮かび上がってまいります。大原ではすべては山の魅力です。山のすがた、かたち、あかるさ、遠近がそのまま息づいていました。

 三千院下でバスを下りますと山川添いに登り坂です。水車が水草に絡まれ、小さな畑を(めぐ)るように竹林(ちくりん)山家(やまが)があって、仔犬も走っていました。ふしぎなことに露しげきこういう里にいて、残り柿の向うに白い穂のすすき(むら)がみたいなどとも思っておりました。やがて巌畳(がんじょう)な石垣が苔寂びてみえます。梶井門跡三千院の城構えを一段高みに見上げて茶店が並びます中に、門前の徳女庵に惹かれて一枚の色紙を買いました。「蛍籠どこから夢とけじめなく」という句が哀しいままの気分に何か(うった)えてまいりました。庵の主人なのでしょうか、勝手口のすぐそこの大きな鏡の中にみた白い平たい顔から刻まれの深い老女の表情と小さく光る()が私を捉えました。よく肖た少女がいて、忙しそうに掃いたり洗ったりしていました。

 

〝蛍籠とうから夢とけじめなく〟とあやまり読んでいたことも慈子の手紙で私は知った。〝とうから〟と、〝どこから〟と、どっちが深い意味に添うか私には分らないが、今でも〝とうから夢とけじめなく〟との嘆息をふりすて(がた)くいるのである。

 慈子は三千院の裏山から岐れて鳴り響く(りょ)(りつ)の名の二筋の山川にようやく思いを静め、一人茶屋で茶漬を食べている。〝柴漬だけはとびきり美味しうございました。一口入れると紫色の香りが花火のようにのどの奥に散りました。呂河(りょか)の瀬音の颯々とひびくお店でした〟と書かれてある。この呂河を上へ蓮成院、遮那院と上ってゆくと名も(ゆか)しい此処にも来迎院があって、呂律の声明(しょうみょう)を研鑽する道場の跡となっている。ここの瓦が意外に美しいと慈子は人に聞いていた。だが伝えた人の感傷であったらしく古瓦(こがわら)は平凡で、空のまぢかい芝草の庭をひとめぐりしても荒れた本堂一つの他は何もなかった。山はらに立つ一の廃寺の静寂な安らぎがただよっていた。更に奥の音無の瀧はやめて、慈子は人影のない山路を呂の音に心沈ませながら下ったのである。

 

 なぜでしょうか。なぜ私は雨の匂いのする大原の里へ無二無三に参ったのでしょうか。加茂大橋の(きわ)で私ひとりがタクシーを下ります時、お利根さんは何もいいませんでした。私は私で、自分の思うことすることの一つ一つがお利根さんの胸に意味ありげな影を映すらしく感じます。お利根さんを(こわ)いと思うこともあります。何か世のつねでないもの、があるのです。お利根さんにあるというより、私とあの人との間に繊細な糸を吐くもののようにそれは秘んでいるのです。そして間違いなく、私の知らないうちに、私の考えたり()たりすることであの人は哀しんでさえいるようです。

 話したいことがあると、お利根さんはやっぱりいっています。話される中味より、「話す事がある」というそのことにからだが震えます。震えながらお呼びしています――。

 お逢いしたい。いつもお傍にいたい……。がまんできません。書いているだけで嗚咽(おえつ)しています。慈子は泣き虫だったでしょうか。きらいです、こんな慈子。

 きっと今夜は嬉しいのですわ。なぜって、この二十三日に東京へ参ります。東京……、決して好きな街ではないのに、いつから私はこの「東京」を呟くたびに熱くなるようになったのでしょう。

 読みかえしません。息をつめて慌てて封をしますわ。読みかえしたらきっと裂いてしまいます。その方がいいのです。でも、それではこの慈子が裂けてしまいます――。

 

 慈子の口はしっかり(とざ)されていた。

 この手紙を読まずに、夏、京都へ発たねばならなかったことがどんな隙間になっていたか、よく分らない。秋の京都で一人過ごしてきたあと、慈子はすこしずつ(くら)い惑いを思うらしかった。勝浦という浜のある町へもいってきたいと呟きながら、寂びしさを(こら)えるふうに微笑(わら)っていたりした。

 下鴨(しもがも)のミセス・ルウから、休学には賛成しませんと手紙を貰っていた。母校の人たちもはっきりした賛成の意見はいってくれなかった。淀屋教授にも、今慈子を休学させて、それが半端な結果に終るかしれぬ危惧はあるらしかった。渡航手続も急なことでははかばかしく進まぬふうだった。自殺した妹の提案には理由がついていなかったし、大人は遠慮してそこへは触れない。しかし、あと一年余京都で一人ぐらしさせるのは訳もなく不安なのだ。慈子を信じる信じないでは律し切れない重苦しい委託を兄は妹の頼みに感じていた。

 このような日常を本意なく佗びしく思うらしく、家の外からかけてくる電話では、抑えた話しぶりにもすこしずつ慈子のはっきりした気もちが伝えられていた。大学を半途で投げ出すのも厭だし、そうする理由もないと思うのである。古瓦の拓本も集め歩いていた。文献も河原町や寺町の古本屋に探させたほどで、面白いのが何点か手に入っている。

 何より慈子を渋らせているのは、やはり私たちのことだった。東京へきてしまったのはよくなかった、あの家でもう少しお利根さんと()き合っていたかったと慈子はくらい顔をする。朱雀先生が赦されていないのと全く同じに私を赦さない意図がはっきりある。それが耐らないと慈子は思うらしいのだ。お利根さんの提案をそうかすかにでなく(うべな)う気もちが私にもあることを慈子は知ろうはずがなかった――。可愛い小さな甘えを覚えて慈子は顔を寄せ低声(こごえ)で私を呼ぶ。申し訳なさそうな笑願がくらい灯のかげに沈みかけるのを両の掌に受け、東京の夜の底がそのまま奈落へ惹かれる隠れ道であっていいと私は望んだ。朱雀先生がたのくらぐら光る哄笑が稲妻のように慈子の切ない息づかいを闇に浮かばせていた。

 

 十二月になった。格段の忙しさだった。逢う時間がなかった。歳末をとりまとめの編集会議や忘年会がつづき、取材の穴理めで残業になる日が重なった。パパの顔をみないで寝てしまう娘は朝起きるとすぐ不足をいった。「ガマン、ガマン」と笑いながら妻は、もうすぐお正月で京都へ帰るんでしょと娘の鉾先を和らげ、これビタミンよ、これはお酒の前に呑むのよとポケットに薬の用意も欠かさない。「でも、十日は大丈夫よね」と念を押された。まちがいない、十五日のボーナスもまちがいないと私は請け合った。

 十二月十日は婚約した日なのである。結婚式のなかった二人には、婚姻届出日よりこの日を(いと)しむ気もちがつよい。ちょうど日本橋高島屋へ洛雅会が京都から出張(でば)ってくるので、そこで観たり食べたりして、あとは銀座へ出てと段取りはできていた。土曜日だった。二十日には例年通り妻と娘が一足早く京都へ発つ――。

 温かいということが家庭的ということかのように、婚約記念日はよく晴れていた。

 家具、漆器、木工、文房、竹具、織物など美しい限りの美しさを誇らかに(あつ)めた中で、頬を寄せにっこり微笑(わら)っている童児人形の、まるい脚をなげ出したかたちに妻は見飽かぬふうであった。「ほしいなあ」というが、ちょっと手の出ない値段なのである。娘は〝田中弥〟の逸品をあっさり、「ツマンナイ」と評した。まず食べねばと、若い親たちの感傷になど取り合っていないのだ。すぐ傍の壁に〝深井〟であろうか六条御息所(みやすんどころ)()けそうな怨念を沈めたふうの女面(おんなめん)が懸かっていて、妻は、「いやね」と呟いた。その無表情な批評が瞬間何かおかしくも、また怖くもあった。会場は雑踏していた。食味の売場では時候柄〝大安〟の千枚漬やすぐきに人が集まるらしい。鍵善、甘泉堂、伊織、きぬかけ、鶴屋、俵屋、松屋、それに下里(しもざと)、大原女屋などと京菓子の店を順にのぞくうちにも、やっぱり佳い、佳いなあと大人は嘆息ばかりしているので娘は機嫌を損じかけていた。

 会場の一角を小柴垣で囲って野点(のだて)のしつらえに床几をひろげ、たん熊、中村楼、河道屋、いづうが銘々自慢の献立(こんだて)を出している。これがたのしみで、私は鯖ずしとおろしそばを、妻と娘はそれぞれたん熊の半月、中村楼の色紙弁当を頼んだ。

 飯後(はんご)の茶には俵屋の雲龍が出た。あずきの味が自然のままに甘くあたたかく()けてゆく。芳醇な落ちついた紫色を幾重(いくえ)にも(さお)に巻いた菓子の味が、茶を喫みきったあとにもなつかしく口中(こうちゅう)に匂った。人目を憚り定められた席から離れて妻も茶を喫んでいた。控えめに、そんなふうに茶碗を扱っていても、垣の外から物珍らしげに妻のやすらかな作法を見守る人もあった。

 娘も温和しくなったしもう一まわり見直してゆきたかった。木工の〝たる源〟は親しい知り合いであり、嵩山堂(すうざんどう)で筆と用箋を買って帰るのも洛雅会ではきまったことであった。かさかさと忙しく過ごしてきた日常を頻りに忘れようと願いながら、美しい品々の中にいて、どうにか今年も終るらしい、と思うのである。やはり人形に惹かれてか妻はその方へ寄っていった。娘はどっちに付こうかと戸惑いしながらも、嵯峨の竹で繊細に編んだ優しい虫籠の花入れに近づいた私の横でうろうろしていた。朝日子、来てごらんとその方へ振り向いた時、慈子(あつこ)をみつけた。

 高島屋のぞいてくるつもりさと朝の電話を切った時も、「そうなの」と言葉すくなだった。慈子の眼は私をさがしていた。ハンドバッグが不安げに揺れ、胸へあてている手がとても白く美しい。呼ぼうとして、はっと口のなかで慈子という名が(こご)えて消えた。もうみつけたのかもしれない、慈子は一度人かげに隠れながらやや足早に動いていた。表情と胸騒ぎとがきしって裂けた。頬から寒く、はっきりそれが分った。(つぶ)れたうめきが咽喉(のど)に絡んだ。身を(ひるがえ)して、走った。足がすくんでいた。

「ひどいわ――」

 私はそう聞いた。慈子は、あかくなって、低声(ここえ)でもう一度可愛く同じことをいった。急に私を見失った娘が大声で呼んでいた。パパ――と叫びながら娘はかけてきて手を()った。慈子は()で口を抑え、みるみる血の気を失っていった。女面(おんなめん)の前から妻がゆっくり振り向こうとしていた。

— 完 —

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日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/12/25

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秦 恒平

ハタ コウヘイ
はた こうへい 小説家 1935年 京都府京都市に生まれる。1969(昭和44)年小説「清経入水」により第5回太宰治文学賞受賞。

掲載作は、1965(昭和40)年4月30日~1966(昭和41)年5月2日書下しの処女長編(原題「斎王譜)で、改稿を重ね重ね受賞後に筑摩書房より2度単行本になった。繪入り豪華限定本にも文庫本(集英社)にもなった。「ペン電子文藝館」のため2002(平成14)年12月さらに細かに校訂。ホームページ→「作家秦恒平の文学と生活」