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迷走

     (一)


 専務がロックアウトの肚を固めた。

 驚いた。唐突なのにも驚いた。

「 用意万端、着々調えています 」

 伝え役の土居部長が分厚い胸を張った。そして、「ロックアウト」と呼ばず社名(I出版)を冠して「ILO」を今後の相言葉にとまで、まるい頬っぺたを真赤に身振り大きく何度も土居に念を押されるあたりからは、課長も部長も、やろう――、やってやる――、そんな空気になった。気負って口々にそう言いあうかん高い声にも私は驚いた。

「 おい、本気か 」

 騒々しいなかで隣の笹野をこづいた。と一瞬私の視線にたじろぎながら、すぐはね返す感じに笹野は珍しく口をとがらせた。

「 だって――本気でしょ 」と話を他人事(ひとごと)に逸らす。私はわんわん鳴る声から声の上を黙って漂い、まるでよそごとを、「 あれは、きみ、ひどいよ 」とT先生が長い人指しゆびを向けて苦情を言われた先週末のことを、思い出していた。

 学界でも長老格のT先生には、おびただしい皮膚疾患のうちのとりわけ典型的な病名について、世界ではじめて学問的に報告されたオリジナル論文および著者の生涯と業績を紹介する、もう久しい連載原稿が依頼してあって、執筆資料に英仏独伊の洋書も惜しまず、ルネサンスにも遡る克明な調べ仕事をして貰っていた。先生もそういう仕事を興がる方で、「文学老年」を自任するやや古風な名文は、堅い論文や一例報告のなかで読めばいっそう面白く、むろん「ためになる」一種貴重な臨床皮膚科学史になっていた。時代背景や人物の逸話へも薀蓄を傾けるあまりの脱線が時には過ぎて、それがまた人気を集めていた。

 その二十何回めかの原稿をT先生は数日前お嬢さんに託して直に会社へ届け、ところが社前にピケを張っている組合員たちが体よく、というよりやや失敬にお嬢さんを追い返してしまったらしく、それも、原稿が宮田編集長の自宅へT先生直々に郵送されてきて分かった。矢代部長を通じて事情を聴くとすぐ、出先の浅草橋から板橋のはずれのT大医学部長室へ飛んで行ったのが四月二十六日だった。

「 きみの会社、いったいどうなってるの 」と訊かれて、簡単で巧い説明はむずかしい、が、立往生もしておれなかった。ソファの方へ出てきてもはや面白そうににやにやしているT先生に、私は立ったまま三月以来の「大春闘」の経過を、もう三週間ものあいだ会社は社屋を組合に明け渡して、役員以外の管理職50余人、連日東京都内の昨日(きのう)はあっちの貸し会議室、今日はこっちのホテルの一室などをその日暮しに転々としている事情、会社へ強いて帰るはおろか近くへ行ってうっかり組合員に拉致されてはとかく厄介な事情、組合でも管理職はむろん来客も下請け業者も一律に玄関外で押し返している事情、などを話した。話しながら不始末を重々詫びた。宮田編集長からも例の巻紙に達筆の詫び状が郵送してあるはずだ。むろん原稿を宮田の手から受取って読んだ礼も私は忘れなかった。

「――そんなこって仕事になるのかい」

「 ま、正直、仕事はできちゃいないですね。たいていのものは会社で担当者が手もとに押さえていますし、外へ出てる課長や部長の裁量でさばける範囲は、こやって先生がたの所へうかがうとか、印刷所に入ってる分を廻させて自分で校正する程度なんです 」

「 山田君たちは、中で仕事してるのかね 」と担当者の名があがると答えづらく、「――多分、あまりできていないんでしょうね 」となにやら私までなげやりな口調になるのにふと慌てた。

 T先生との話題はその辺からもういつもの伝で脇へ逸れ、ソファに並んで、お定まりの「高等ワイ談」の「新作」をふたくさりほど拝聴した。上出来だった。

 だが、こんなふうにご機嫌の癒る先生ばかりを我々は相手にしていない。ある分担執筆の書籍原稿がほぼ揃ったところで、監修の某大物名誉教授の、めったにない、原稿に眼を通すから整理して持参せよという電話が入った。受発信拒否中の担当者はもちろん電話に出ない。仰せを受けたやはり宮田常務がさっそく承知してすぐ、折よくローテーション・ストのオフに当っている担当者に、問題の原稿を編集長室へ届けよと連絡したが届かない。二度三度給仕場の小母さんを使いに五階のデスクへやっても「 編集長が自分で来りゃいいじゃないか 」と担当の横尾良材は渡さない。が、出かけて行けば押問答のあげく、一触即発、吊るし上げを食うおそれは有りすぎるほど有った。

 専務と相談ずくで宮田常務はとりあえず名誉教授にあやまって監修の作業を日延べしてもらった。ご機嫌は当然わるく、「何やってんだ」 と「ばか」呼ばわりされたくらいの苦々しい恥を宮田は、かいた。それでも担当者が押えた著者原稿を会社は取り戻せずじまいに今もなっている――。

 担当者のストライキ中、どんな理由にせよ仕事が進行するのはスト破り、と、当然そんな道理に組合は立ち、会社側はどうしてもその辺の理屈を団交や三役折衝で打ち崩せない。うまい対策も立たない。

 しかも今春闘の第一次回答は、(一)現在の基本給を三十パーセント上げて、(二)平均年齢(二十九歳)で三万円の賃上げ、(三)少くも、誰もが例外なく二万円は賃上げになる、試算すると十八歳初任給が八万四千五百円、二十二歳で十万二千五百円になる、というもので、四十五歳を頭打ちとしながら定期昇給を一律四千五百円にという要求にも応じているし、第二次回答では基本給千円の底上げを、第三次でさらに三千円の上積みを回答していた。

 ことし昭和四十*年大手鉄鋼の回答が二十五パーセント上げの三十五歳で十万円そこそこ、わが社は二十五歳で十万二千五百円、組合員平均年収が二百三十万円。そこを組合員は評価してくれと山県専務は言い、執行部も「福祉厚生面」の不備を言い募るより決め手を欠いていた。毎回の団交記録の応酬にも生活が苦しい説明に、近づく節句の「鯉のぼりも買えない」などと言っているのは笑わせた。

 が、この春闘の争点はもっと別にある。賃金は、労働条件は、取れるだけ取ればいい。組合が本気で狙う的は「管理」だ。具体的には「課長」だ。かつてない管理職賃金の公開を要求して秋山道男らが専務に迫る狙いもそれだ。

「 賃上げは労働力の売買交渉ですよ。会社の人件費の配分交渉じゃない。今交渉と管理職の賃金公開は無関係です。拒否します 」

「 そうじゃないよ。分配の問題として出しているのじゃなく、いくらで彼らの労働力を買っているかが知りたいんだ 」

「 興味ぐらいで公表できるものではありません 」

「 みてから我々は判断するんだよ。それが組合員の労働条件と切り離せない関連があるのは、あんたも否定してないじゃないですか。実態を知りたいんだよ、その上で我々は、判断しなきゃならない 」

「 団交になじまない問題です。答えません 」

「 ばかにするんじゃないよ。なじまないた何てこと言うんだだろなこの人は。賃金が高きゃあ組合員を管理職に引き抜けるんだよ。現にそれをやってあんた、悪質な組合攻撃を何年も重ねてきてるじゃないか 」

「 団交はね、労働力を売り買いの交渉の場ですよ。“労働者の労働条件など”の“など”のなかに、管理職の賃金公開は入っていないよ 」

「 そんなことはない。組合の出す全要求について団交拒否はできない 」

「 事によってできるものもある 」

「 何を言うか。同じ職場で働いてるのに、違う賃金体系が適用されてる従業員のことなんですよこれは、正真正銘の団交事項だよ 」

 それなら組合の方で第三者の判断を仰げばいいと専務は取りあってこなかった、だから組合もじれていた。

 従来会議室どまりで、社外まで管理職が追い出されるなどないことだった。それが、今度の春闘では二度三度小競りあいがあり、とうとう会社側も執行部要求をいれて「退去」に踏みきったのは、本気で「怪我」をおそれたからだ。事実スト中に会議室へ移って課長が仕事をするのを、組合員はスト破りだと大挙抗議する、一部管理職が頑固に居直るという騒ぎは、かつてなく険悪だった。以来組合員は隙間なしの連日ローテーション・ストを打ちつづけている。

 ストライキになると職場をそっくり組合員に明け渡し、管理職は会議室に避難するという慣行も異様だが、今や全然社外に締め出されて、来る日ごと指示された見知らぬ場所へ、昨日は新宿、今日は浅草橋、明日は四谷などと転々とする浮草暮らしになってみると、もう何が「管理職」なのやら、異様どころではない。いっそこの方が気らくな分だけ奇妙にみじめな、気の抜けたような苛立たしいような挫折感を、課長部長の誰もが陰気に胸に抱きこんでいた。「おい、本気か」と笹野をこづいたのも、とても「ILO」なんて頑張って勝てる情勢と私には見えないからだった。

 当推量もまじるが、組合は第四次回答の無条件引き出しを策する一方、争議長期化に対する会社(管理職)責任の追及に、はっきり的を絞っていた。そのため同志からは「五月突入」を早くに取りつけ、会社からは、「妥結後、労働強化しない」という言質をもう団交のなかで確保していた。歩み寄る気配はなく、連日群集して三階役員室を襲って小一時間、専務以下を個々に押しつつんで罵倒し威嚇し、それもハンドマイクを耳のそばへ持ってくるような「ストーム」を日課にしている、と伝え聴けば、「やろう」「やってやる」と降って湧いた「ILO」に部課長が奮い立つわけだ。が、一方でこう「逃亡」生活を送りながら、そんな短期間にロックアウトの「用意万端」が調うものだろうか――。私はだんだんと奇態な興奮の渦の底へ陰気に引き沈みながら、それ一つに白々しく引っ懸かった。

 午飯に出ようとして森に声をかけられた。近くの甘党の店がある、彼はそこで大きな栗の三つ乗ったぜんざいを、私は清まし汁の雑煮を食った。

「 そんな甘いの、胃の方いいんですか 」

「 よくないけどさ。甘いものを食うと、とくにこういう時は気疲れが抜ける気がしてね 」

「 でも、検査は―― 」と訊くと意外に明るく、出版健保だけで心細くてK大のK教授に改めて撮影してもらったところ、透視中から心配ない、何も無いぞという話、相変わらず時折痛むけれど「ストレス」だろと、森は達観しているふうだった。それに彼の、C社で依頼された新しい装禎本が作者の小説以上に評判よく、愛書家仲間で人気上昇というから機嫌のいい道理だ、会社やめても、やっていけると森自身思っているらしく、無責任に勧められないけれどそれもいいことと私も思った。

「 ロックアウト、森さん、できますかね 」

「 思わない。ただ、会社はかりに三年五年の裁判に敗ける覚悟でも、何か強い手を打たないと 」

「 と、いうと―― 」

「 俺が聴いてるかぎり、例のN社闘争不支持だって、蒸し返されるたびに組合大会では反執行部票、つまり反民青寄りの支持層が厚くなっている。N社争議のことは俺もよう知らんけど、いわば出版労働者の代々木、反代々木争いの眼だってことくらい分かってる。うちの組合でもこの春闘中にN社闘争支持へと勢力逆転すれば、それ自体は対岸の火事に見えても、その実、うちの労使環境はあと戻りの利かない袋小路に突っこむことになると思うな」

「 ――で、ロックアウトして、裁判して 」

「 負けるかもしれない―― 」

「 当然負けるでしょ、このままじゃ 」

「 このままじゃね。会社に失点こそあれ裁判にもち出せるような何もない 」

「 被害者意識は、みなたっぷり持っていますけどね 」

「 でも当尾(とうの)君。ほかに打つ手ないよ、きっと。会社が抜ける刀はそれしかない 」

「 けどその刀は錆びついている。抜くに抜けなくても――」

「 無理して抜く、さ。半分脅しでいいんだよ。どれくらいいるか分らんけど、過激な連中を孤立させちまう手は、結局会社閉めて、戻ってくる奴らだけセレクトする。そしてどこか別の場所で商売に精出す。五十人の管理職だけでもけっこう稼げるよ。うちの専務、それくらいの金はきっと十分持ってる 」

「 金はね」 と、渋い茶を姐さんに頼みながら私は突っぱねる気分だった。専務は本当に肚を固めてるのか――。

「 おやじさんは何を考えてンでしょうね。ロックアウトなんか、息子に社長譲ってからやって貰いてェ―― 」   

「 と、来年だね。来年まで会社がもてばいいけどさ 」

だが――、翌メーデーの午後、指令どおりに出勤した上野池の端の某中華料理店で、山県専務は厳粛に「ILO」決意を披瀝した。

 専務はよく似あった三つ揃いを着こんでいた。長い演説だった。が、要は「協力を」ということで、”to lock fellows out”(「奴らを締め出すため」とわざわざ専務は訳してみせた)の具体的な日程や指示は後刻知らせる、本日はよく話しあい、そのあと日々のご苦労に当店自慢の晩餐を以て報いたい――。

「奴ら」を締め出せば、逆に「奴ら」が社屋の外まわりをピケするだろう。相当期間の籠城は覚悟せねばならず、食料や生活用具の準備も要るが、それはすでに大方買い入れて、この連休に然るべく運びこんであると専務は言った。明五月二日は特に全員自宅待機とするかわり、明後憲法記念日からの四連休中、三日、四日、五日は部長は全部出勤して「ILO」準備にさらに動いてもらい、五月六日には全管理職が新宿駅西口Fホールの地下会議室に終日籠って、当社顧問として新たに迎えた「軍師」阿部某氏の戦術特訓を受けよとも言った。

 会社に籠城してできる仕事はたかが知れている。別に営業所を設け、主力はぜひともそこで商売をつづけ、収益をあげねばならぬ。倉庫は移転、印刷紙型も場合により各管理職の自宅に隠さねばならぬ。わずかだが現在非組合員たちの就業も当然として、他に現組合員の脱落、というより一本釣りの復帰勧告も積極的にやって行かなければならぬ。ただし、その営業所をどこに置くか。見つかれば忽ち大小支援団体の猛攻に曝され、商売どころか、身の危険も生まれよう。転々と場所を移すには扱い難い本であり雑誌であり、厄介な輸出入業務もある。見つからないように横須賀とか前橋とか、いっそ仙台や大阪へ行ってと、口々に話ははずむが、私の気もちは滅入っていた。

 勝てるわけがない――。その、「勝てるんですか」という一言が誰からも出なかった。うかうか水をさせば、血祭に上げられそうな陽気さだった。

 六つか七つの円卓に分れ、順に座長役が立って報告した改めての管理職総意は、理屈抜きの「ILO」宣誓だった。脇田総務部長が立って、この休日中にも「籠城組」を選ぶと言えば、専務は、「四十度以上の高熱か、親の死に目以外は当分の間、欠勤を認めない」と宣告した。

 森がちょっと慌てぎみに手を挙げた。急に、ぜひK大病院で胃の精密検査をもう一度受けねばならなくなった。K教授に指定されている五月八日水曜日の朝だけ、休ませて貰えないか。話は昨夜、K教授自身から森の自宅に電話があったと、この会合の前にロビーで私は聴いていた。透視中に見えなかった陰翳(かげ)が写真に出ている。K先生ほどの読影(よみ)の名人に「気になる」と言われては、辛い。

 専務の返事は「ノー」だった。検査が遅れて何かが起きた場合、「 わたしが責任をもつ―― 」と。

「 それか、辞表書いて出かけるか、だな 」と、誰かが声をあげた。また出た。菊池だ――。

辞表」は、「管理職」という踏絵を踏んだ同士が陰気に脅しあう金縛りの呪文だった。から直かに言われることの決してないだけ陰気さに絡みつく冷たさがある。森は黙った。

 ――「ILO」なんて、ごめんだな。

 冷えきった気分で十時過ぎて家に帰りついた。途中、わが課の長尾や菅原のごく普段の声が耳に聴えて仕方がなかった。突っかかっても突っかかれても、自分の中で彼らを、つきあうに厄介な神田や山田でさえも、「ロックアウト」してしまうことにためらいがあった。承服できないという一点が、肚の底に居座っていた。「 仕事になるのかい 」と言われたT先生の呆れた顔も想い浮かんだ。

「 なんでそこまでうちの会社だけが無茶苦茶なの。首馘りがあったのでも、とんでもない人事や不正があったのでもない。生きるか死ぬかじゃない、お給料だって日本一て言っていいくらいでしょ。弱い立場でとことん困り抜いてる労働者とは言えない恵まれた人が、どうして自分の会社潰すか自分も失職するかまで無茶しなけりゃ、ならないのかしら 」

 寝床のなかで、妻は天井を見ながら言った。

「 騎虎の勢い―― 」

「 そんなかっこいいンじゃないわよ。図に乗ってるだけでしょ。性根にだらしないとこが両方にあるわけよ 」

「 手厳しいな 」

「 そうですよ。ミナマタ病の人や、モリナガだのカネミオイルだのの人と、あちこちで理不尽に解雇されてる人と、同じ苦しみや怨みでうちの労使が争ってるて、そんなこと言ったらあたしでも怒るなァ 」

「 ―― 」

 ――十年前、私が組合にいた頃はストライキ時間にも管理職は自席に居座って仕事をしていた。我々は退屈しのぎにステッカーを書いて貼ったり、「 表に出て下さァい 」と呼び出されては路上でメーデーなみに歌をうたい、拍手したりシュプレヒコールをしたけれど、直に個々の課長と悶着を起こすことはなかった。そんな無事平穏の反動で、やがてステッカーでありとある壁面を埋めはじめ、部屋中紐をわたして三重五重に床へ届くような「暖簾」を垂らす習慣もできたが、それとてけむたい課長の眼隠しにむしろ自席を囲って、気らくにサボる目的だった。

 外出拒否闘争にサボタージュが重なれば、ひまにあかして凝った文句や数えうたが「暖簾」に顔を出す。それも露骨になると、元気だった宮田編集長など負けじと編集者の良識と自覚に愬える一文を壁に鋲で押して行ったり、腕をまくって議論を挑んだりした。彼は、「どんな意図も、礼を以て節することができないようでは、たとえ理があっても、結局行われはしないと訓えた人がある。まして、理が薄ければ暴行に類する」などと言った。「其の()す所を視、其の由る所を観、其の安ずる所を察すれば、人いずくん(かく)さんや、人いずくん(かく)さんや。」とも貼りつけて行った。それすらみながただ嗤うようになったが、嗤っていた中の主だった顔はたいがい部長になり課長になっている――。

「 ――それはあたしもその会社のお給料で食べてるんですから。えらそうな口は利けないの分かってるから、せいぜい黙ってましたよ。でも、なんでロックアウトまで来ちゃったの。ILOだなんて、本物のILOをばかにしてるわ 」と、寝返り打って、妻はこっちを見ながらやや憤慨の口調だった。 

「 そりゃ、そうだ―― 」

「 労働争議ってものをみんなして蝕んでるのよ。みな落第よ 」

 T先生のお嬢さんを、原稿も受取らず玄関払いしたのを山田達夫は知ってるだろうか、とふと思った。知ってたとして編集者の彼は、彼の仲間は、どう思うのだろう。それとも何も胸痛めるまでもない道理に従ったのだと、全然平気だっただろうか――。

「 今年の弱者救済の春闘統一スローガンがそうだけど、結局付け足しの論理で、根に有るのは一つがただの慾、も一つは一種の自己放棄なんだよ。労にも使にもがってね、複雑怪奇な支配と権力の組織の一部分に過ぎん。一人一人信念ありげなこと喋っても、労働者もきみのいわゆる特権労働者ほどつまるところ従者の論理にしたがって、教条的にに操られるようなとこがある。資本家は、慾はもっと深いうえに、銀行の金しばりにあってるからね。おでこに金の箍はめられて、言うこと諾かなきゃ緊められてきゅっ、だから 」

「 でも、それ、うちの会社だけのことじゃないでしょ 」 

「 こうなった原因には、うちの労も使も争議権とか団体交渉とかを、分不相応な物を玩具に貰った子どもなみに、軽々しく扱いすぎた、という思いが俺にはあるな 」

「 それだけ―― 」

「 そこへ本格的な闘士が急に加わってきた。時勢も動いてきた 」   

「 ―― 」

「 そういう連中に、遊びたい、らくしたいノンポリのサラリーマン気質が調子よく迎合してる。親亀の背中に乗っかって、自分は企業にも労働運動にも、仕事にさえ責任がないって気分で、彼ら、いや俺たちだって会社は潰れないものと、たかをくくって甘えてる 」

「 でも、今はうちだけの、まだ、極端な―― 」

「 稀有な症例か。だから、今はよそめに対岸の火事と見えてるかもしれん。けど、俺はこれ、火の手が拡がると思うな。もし拡がって、早いところ土台のゆるんだ中小企業から軒なみにぼんぼん荒っぽく燃え出したら、ただの火事じゃすまないね。むろん金と権力は悪辣に火消しに動くだろけど。どうだかな、一体どっちが我が家のため、お国のためにいいんだろ 」

「 とても物騒な問題提起よそれは。あなただめね。そんな荒っぽいことしか考えられなくて世の中穏やかに行くわけないわよ。第一、洞ヶ峠の順慶なみで、いちばんタチの悪い評論家みたいよ 」

「 ――まったくだ 」

ごろりと背を向けて私は、「 もう睡いよ 」と降参した。真実、疲れていた。


「阿部禎吉先生」と専務に紹介された瘦身長軀の「軍師」は、もと新聞社の人とか、退職後は各地各社の労使紛争に身を挺して、いつも会社側から火中の栗を拾う仕事をしているという。

 見たところ温厚篤実、話しぶりも淡々と静かだった。声は力づよく、低い。時にけいけいと眼が光り、話もすこぶるうまい。朝から夕方まで、ひたすら魔法にかけられたように聴き入ってしまった。

西新宿Fホール地下で昼飯を食った時、笹野は思わず「うまいねえ」と嘆声を発したが、それはカツ丼をほめたのでなく、阿部氏の話術に感じ入っていたのだ。同感だった。

「 でも、気がつかないか 」

「 何を 」

「 阿部さんのあの話術が、一点に引き絞って狙ってる的―― 」

「 あの、組合員をはっきり敵と思え。あれですか 」  

「 そうも言えるけどね、建前を言えばそれは敵でもいいんだよ。それよか彼は話術を尽くして要するに俺たちをただ煽ってるよ。淡々とした精神訓話に見せかけてるが、つまりは 『奴ら』 を叩き潰し会社から締め出すか、お前さんたちが叩き出されるかどっちかだよ、と言ってるだけで、その実感をいわば敵への憎しみとしてわき立たせる 」

「 そうかなあ。穏やかな物言いですよあれなら 」       

「 でも、こう眼をらんらんと瞠いて敵を睨みつけるんですぞって、自分で演じてみせたあの凄ェ眼なんか、ぞっとするような変にプライベートな憎念が底の方でちろちろ燃えてるみたいに感じなかったか 」 

「 あれは凄かった。でも、ああでないと、勝てないな、ほんと 」

「 なら、きみ。ああやってきみ目ンとこの松田君と睨みあってみるかい 」

「 ウーン、いやな感じ 」

「 でも、そうでなきゃ勝てないとあの人が言うの、嘘じゃない。しかしだよ。運動会の綱引きと一緒さ。赤が白を仕切り線から十メートルも二十メートルも引っこんでる勢いの時にだよ、どやって白は、せめて仕切り線まで挽回できるか。急に百万力の味方がつくわけでもない」

「 だから、とにかく会社へ帰れと―― 」

「 その、とにかくがうさんくさくて、策もなしにとにかく何が何でもだろ、無理と不自然の上塗りって感じがするんだよ俺は。阿部さんには現場の勘がない。感情がない。筋を通すことを即ち無理不自然とは思わないし、思えない場所で万事物を言ってる。しかし、筋が即ち道理でありえても自然ではない場合は、いくらもあるぜ。今の状況で強引に無理を承知の筋を通せば、通る道理も立たないうちに筋までが潰滅しないか。彼氏のあの煽動の巧さにもう会社は乗せられてるからいま言うても詮ないと思うけど、危ないと俺は思うよ。何かもう一枚も二枚も間に工夫が入らないと、あの軍師に責任の負いきれないはめに陥ちこむと思うよ 」

「 そうですか。僕はやっぱりあの人の言うように、まず入構して自席に坐りこむ。そのうえでILO、という筋書きは正しい気がするけどな 」

「 ただ正しければ物事いいんじゃないよ笹野君。紛争が解決するための正しさならいいけど、ただILOに入る戦略なんだよ入構は。どう正しくても本当にそれでいいのかなって疑問、ないの 」

「 ――もうここまで、来ていることだし―― 」

 笹野にもうまく伝わらない自分の気持ちが重苦しく、朝早に印刷所を駆け廻ってきた矢代部長から、「内科」と「皮膚」の組上がりゲラ二包み、どさっと手渡されていたのを両手に抱いて、私は夕暮れの東新宿を一人ゆっくり伊勢丹百貨店の方まで歩いたりした。

 一つ裏通りの無骨なパーキングビルの前に重い格子戸の魚料理の老舗がある。階下(した)は板場との境にふぐ提燈をいくつも吊ったここの二階座敷で、正月「皮膚」編集委員の新年会をして、T先生の例の「あれ」に、みな腹をかかえて笑った。S大のY教授が、お釈迦さんはマルファン症候群だったんじゃないか、だってあれがそう、掌に水かきがあるのもそうと、からだの特徴を一々照らし合わされた話も面白かったが、身丈六尺に余る針金のような山田達夫が、酔っ払っていきなり座敷の隅で泥鰌すくいを演じてみせたのにはお堅い矢代が大慌てで、立ったはずみに茶碗を三尺も蹴とばした。それがまたおかしくて、酒のいけないS先生もH先生も大笑いだった――。

 好きな蒲焼で酒を呑み、女中の愛想に愛想を返しながら私はこの店へはじめて妻と来た十四年も昔の、娘がおなかにいて、なんとか鯉こくを食べさせてやりたかったことを古い映画を観るように思い出していた。思い出は次から次にきて、三、四分も駅の方へ戻って行った辺に西部劇専門の狭苦しい映画館があったのにも懐かしく思い当ったりする。かと思えば、今月もまた各誌編集会議中止の連絡を編集委員の先生あて、したものかどうか、笑談にも昼間矢代に「俺は知らんよ」と遁げられたのがふと憎らしい。企画が立たねば執筆依頼ができない。雑誌は先へ行って出が遅れる。遅れはいつ回復できるだろう。

 肚立たしくなったついでに、編集長を恥じしめた例の監修の名誉教授のことまで私は思い出した。あれからどうなったと担当課長に訊ねたら、「どうってことないですよ。あの先生にはうちは貸しがある」と気にもしていなかった。あの先生、上下二冊二千頁もの数十人の分担教科書を編集しながら、自分一人が原稿を書かずじまいにとうとう企画を全部腐らせてしまった、「あの人は前科者なんだから」と笑っていた。笑っていてそれですむのか。

 翌日、四谷のK会館へ九時半に入ってすぐ、阿部氏特訓まえの三十分間に「ILO」班編成が発表された。私は東武沿線組で一色課長の班に入り、笹野は籠城組。心もち蒼い顔をしていた。

 阿部軍師の話はおもに出版界に例をとった他社の実話実例を詳細に、やや刺激的すぎるほどに活写して、昨日以上に聴かせた。なるほど「暴力的に」(と彼氏は言う)「奴ら」に攪乱されている会社はいくらもあって、戦術もうちとそう変わらない。阿部氏の眼の敵はわが社でいうと秋山、松田、岡島らに当たるとみえ、なまなかの常識では「撲滅」不可能である所以を言葉遣いはやや古めかしいが、諄々と、かつ刺激的に説きつづけた。そのうえで当面、全管理職の入構、敵前渡河の決断と勇気を鼓吹してやまなかった。

「あなたがた部長さん課長さんは、そうです(と語勢強く)企業の存立と利益を死守すべき立場にある一騎当千の管理職なんですぞ。この会社の運命はあなたがたお一人お一人がしっかりと肩に担っておられる。おられるはず。なのに、あなたがたが会社を離れて、失礼ながらこんな所へ遁げ出していて、どうして(と声が大きくなる)会社は維持され繁栄するでございましょう。断、断、乎としてかかる恥辱に満ちた阿呆くさい状態から、毅然たる管理本来の姿に一刻も早う戻さねばならん。ということは、真先にあなたがたは銘々のデスクに、椅子に、敢然立ち戻って不俱載天の敵の威嚇や脅迫を勇気をもってその場で直ちに打ち破る。それが先決だということじゃないですか。――やられます。それはもう無茶苦茶に、完膚なきまでに敵の攻撃にやられるでしょう。怪我する方も出るかしれん。向う脛の一つや二つ、頭や背中の一つ二つは蹴飛ばされたり打たれたり、きっとします。が、それはお耐えなさい。頑張り抜くのです。このォ(と声を細く長く振り絞って)憎い憎い敵めが、今にみろ(と拳をぐっと固めて)、この会社から叩き出してくれるぞ、その時は吠え面かくな――。ま、そんな大勇猛心を奮い起して、何を言われようが何をされようが、こう、くわああっと」と、阿部氏は仁王立ちに腕組みし、頬を紅潮させ、細いと見えた眼を急にまんまるにぎらぎら瞠いてみせて私たちを睨みつける。満場、しいんと固唾をのんで、くすっとの声もない。

「(大きく)そうです。相手の眼を凝っと見てただもうにらみつけるんです。相手の眼が逸れるまでにらみつけておやりなさい。あなたがたは一人のこらず部長さんです、課長さんです。向こうはただの平社員だ。一対一でにらみあえばあっちは位負けしちゃうんです。いいですか。黙ってにらみ据えて、何か無礼なことをすれば、無礼者、とこう一喝しておやんなさい。まずそれで敵はひるむ。ひるめばもう勝ちですよ。それだけじゃない。ようく憶えて下さい、何日の何時何分に、どの課のどいつが何をしたか、何を言ったか。――それを、どんな下らんことでも些細なことでもきちんと書きとめておく。そのメモの内容を課長部長同士で互いに確認しあってはどんどん溜めていく。それが後日の証拠、後日裁判所での有利な物証や心証になるんです。

 みなさん。管理職のからだは会社の建物と同じなんですぞ。少々痛いめを見ても、そこでぐうっと踏ん張れる人だけが、本物の管理職なんですぞ。どれができない人は、そうです――、辞表を書きなさい。辞表を書いて、さっさと会社から出て行きなさい―― 」 

 阿部氏への信頼は他愛なく二日間で確立された。時に手を挙げて質問などする声は、恭々しさで顫えていた。軍師は威厳をまし、言葉もぞんざいになり、ずどんと真向から世間知らずのわが管理職どもを打ちおろす勢いだ。品のよげな初老の紳士がじりじり仮面を脱いで、長い鞭を振るように酷薄な眼光を子羊たちに射かける。と、それがまた「ILO」の効果を保証して余りあると思わせるらしい。言葉少なく、私はひとりで昼飯を食いに出、五時になるとさっさと家に帰った。こんな毎日が無性に不愉快だった。

 翌る八日、水曜日はまた浅草橋のS会館へ移って夕方四時まで、特訓だった。阿部氏の話もこの日で終わり、「ILO」決行へ秒読みの段階と朝一番に土居部長から伝えられた。今夕、専務は阿部氏同道で社の顧問弁護士を訪ね、正式に「ILO」の法的業務を依頼し助言をも仰いでくるという。入構は明九日から木曜、金曜と頑張って十一、十二の土曜、日曜に完全にロックアウトする。外廻り内廻りの工事手配もできている――。

 思わず拍手も沸いた。

「奴ら」をみごと締め出したら、半年一年でも立て籠って一歩も入れないという覇気はみなの面上に漲っていた。そのうえで組合の誰を、誰が、一本釣りに会社側へ引き抜くか、そうだよ、一人一人予め色分けしておく必要があるぞ。

 興奮の極、みなは阿部氏を見送ったあと組合員を、代々木と反代々木とノンボリに三分、大きな黒板に一人ずつ囲い分けてもみた。そしてほうっと息を呑んだ。代々木派と目される七十人足らずに対し、各部課長の眼に「反代々木」と見えている者は九十人に余った。中立とした中にも、強いて分ければ反代々木寄りの者が何人もいた。すべて普段の心証に照らして多数の眼が見定めたこの仕分けが、「ILO」に興奮する度合いをいよいよ深めた。夕食のことも忘れ、わが管理職仲間は勇気凛々、声高に明日の壮挙に、無い盃を挙げていた。

 専務らは流石にそう時間どおり姿を見せなかった。それも待機するものを刺激した。一と月後、どこに潜み隠れて自分たちは仕事をしているか。冗談でなく福岡にいるか仙台、弘前にいるか、言いあって笑う声にも、本当にそうなるか知れぬと思う緊張感がぴりぴり響いていた。それでもいい。やらねばやられる。もうこの屈辱の迷走に終止符を打とうと、私は、喧騒と興奮の中でいちばん夢中なのは誰かと見廻す心地でいながら、誰と誰がのぼせていると見分けがつかぬほどやはり自分も煽られていた。頬は熱く、肚の方は重く冷え、しきりに誰かを掴まえ、物を言いかけずにはおれなかった。

「 どんな気持ちです 」

「 やんなきゃ、しょがないよ、もう 」と矢代部長は両掌でばしばし頬骨を叩いてみせる。

「 森さん、おなかの工合はどなの 」

「 忘れることにしてるよ。いま、ちょっと風邪ぎみなんだ 」

「 例の仕事、いろいろ締切りがあるんでしょ 」

「 二つね。――引受けなきゃよかったよ。約束だから気はせくし、想は湧かないし。ここでは何もできない」と顔をしかめる。が、彼も「ILO、俺はやる」気だ。他に道はないと言う。

 飯を食って七時半に戻れと指示が出た。

 宵闇に紛れてすこし遠くへ歩いた。一人になりたかった。

 表にダットサンの停まった植木屋と古い器械を置いて紙箱を造る家にはさまれ、間口は二間とない、止まり木が七、八つのラーメン屋があった。よその住ま居の表を借りているらしく、カウンターの向うは板張りで奥行一間足らずに裸電球が二つ吊され、客はない。シューマイが五個二百円、ビールもあるというので私の足はそこで停まった。温和しそうな六十過ぎた親爺の横からまるまるふとった少女の「いらっしゃい」に私も「あいよ」と応えて、あまりしたことのない物言いに自分で照れた。背中は吹き曝しで晩がたのビールはすこし肌寒い。シューマイで十分なのにラーメンも頼んだ。

「 お孫さんですか 」と愛想を言うと親爺は首を横に振った。末娘で、「これだけが気が向くと手伝ってくれますよ」と笑う。頬が落ちていてもよく見ると少女と肖ていた。少女は中学三年生。へえ、うちの子は二年生でと言わずもがなの口を利きながら「じゃ、来年は高校だね」とはふと言いそびれた。むかし高校へ行きたいと卒業前の或る夕暮れ、運動場の端に坐りこんで家へ帰ろうとしなかった女友達がいた。神経質に、やはり昂った気持ちでいるのを思い当ると、ラーメンはみな食べきれずにその店を出た。路上にも空にも藍をこぼしたような濃い()れ色が流れ、意外に近くを総武線の電車がかけ抜けて行った。

 専務らはまだ戻っていなかった。

 外で喋り疲れてきたのか、週刊誌や新聞を読むものが多く、互いに肩を揉みあうもの、もう一度階下(した)の喫茶店へ時間つぶしに抜けるものもいた。あくびを嚙み殺して、「なにやってんだろ」ととうとうそれが口に出はじめた八時過ぎ、どっと階段をかけ上があって専務らの到着を告げる声がした。

 慌てて席に着くような騒ぎが異様に静まり、静けさをかき分けて阿部氏が先頭で部屋へ入ってきた。山県専務は六尺二十数貫の体軀を小刻みに揺すって、どうやら極度に緊張しているらしく顔が真赤だ。そのうしろから席次正しく宮田、鳴尾、安岡三常務がゆっくりつづいて、すこし遅れて小走りに脇田部長が入ってきた。彼の顔はめったにないほど見苦しく紅潮していた。

 「ILO」所詮、不可能――。 

 それが、弁護士の動かぬ判断だった。不動の、かつ最終の判断をわがトップは、磋乎なんと今日はじめて確かめに出向いたというのだ。「用意万端」休日を返上してインスタント食品や、飲物や、布団や毛布や寝袋をせっせと買い集めていた彼らが、「ILO」と洒落た暗号まで発明して池の端で演説をぶちあげた彼らが、親の死に目と四十度以上の高熱以外は一緒に死んでくれと我々を威嚇した彼らが、ロックアウトは可か否か法律家に万事相談し確認し依頼するのが、この期に及んで今日はじめて、とは――。

 専務は、立ったまま泣き出してしまった。安岡常務も眼を赤くして俯き、脇田部長のあの顔の如きは新宿から浅草橋へ帰ってくる道々も泣いていたのだ。

 泣きやがれ!

 たしかに私はそう思っていた。「軍師」ひとり黙然と腕組みして、真正面に眼を据えていた。広い部屋が泥水をかきまぜたように濛々と煙って、五十余人の管理職はただもう口々にわあわあ騒いでいた。「なにやってんだ」「そんなことさえ」「ばっかやろう」「やァめた」と、罵声も怒声も末はみな「ひえっ」とか「くわくわっ」とか「むむむ」などとやりきれない奇声になって、どんより引き沈んだ落胆の吐息に変って行く。そして誰もが黙りこくってしまう。と、唐突にも私は耳の底で、能の「三井寺」の(あい)に、狂言師が打ち鳴らすジャァーン・モンモンモンモンというユーモラスな釣鐘の音を聴くような気がした。

 阿部氏が口を開いた。驚くことは何もない。失望落胆することはない。「ILO」は不可能なのではなく、可能にする条件をあすから皆さんが積極果敢につくり出して、そのうえで遅くとも来春闘には断乎敢行するのです。勇気をお持ちなさい――。

 空しかった。彼の自身に溢れたこの三日間の巧みな話術が、平静と剛穀と練達をもって鎧われていた分だけ、いまは不信感がもう剥き出しだった。まるで詐話師(サワシ)を見るように、いまこの期になおこの上の鞭を振り上げている奴は、怨磋の白い眼差でにらまれていた。だめが当たり前ことを、当たり前にだめと専門家に言われてきた、それは納得できる。が、だめなことをだめでないように我々に思わせてここまで来させたのは「奴」だ――。だが私には、それも「筋」違いの、思えばおかしなはなしだった。

 専務は気を取直して、入構は予定どおり強行する気だと言い出した。いつも自分は大家だ組合員は店子だと言ってきた彼は、組合が、組合のやり方が「憎い」とはじめて激しい表情をみせた。しかし、何を今ごろと我々は思う。「ILO」 の望みあってこそ嵐にも耐えよう覚悟の「入構」だった。我々を二階へ追い上げて下から梯子を外されるのですか。それを誰かが専務の方へ大声で叫んでいた。ジャァン・モンモンモンモンと部屋中が鳴り響いた。

 「入構」はとりあえず延期、となった。

 帰って話しても、「こっけいね」と妻は相手にしてくれなかった。


 ロックアウトは所詮不可能――と、昨夜はじめて知った五月九日朝、課長の不信感は茗荷谷R会館の二階で、軍師そっちのけに部長連中へ真向から爆発した。

 ゆうべの醜態は、秘密に「ILO」を計画し準備してきたあんたらの、甘ったれて周到を欠いた判断ミスに責任がある。ばかか、まぬけか、というほどに攻撃は激しく、いつも平然と座長卓へ居並ぶ人たちが、土居も児玉も大垣も誰も、こそこそと課長席に紛れこもうとした。

 それでも阿部氏は、管理職入構はいまこそ不可避の「要件」と、極力説きつづけた。

 当然、聴く雰囲気ではなかった。「ILO」不可能のうえは、今春闘を一日も早く終わらせる努力の方がよほど現実的な先議事項になる。突撃説に私もはっきりと反抗した。理屈はそうだろう、意気も壮んだ、が、愚かな無理不自然だという思いは動かなかった。

 だが意外や朝荒れた空気は、午後になり時がたつにつれて入構必至、やるよりないという雰囲気に変わっていた。「軍師」は満足げによそを向いたまま、会社の運命とともに討死の覚悟がもてない人には、潔く「辞表」を書いてもらう方がこういう際はすっきりするものですと、ずいぶんなことを言い放った。憮然として私は口を利かなかった。

 次の日、五月十日金曜日、同じ場所で、「入構」は来週月曜にと、専務決定が言い渡された。

 結婚式場で知られたR会館は総じて分厚な木造りで、一階ロビーの脇から手すりの美しい階段を上がった眼の前に押し開きの堅牢なドアがある。その大正か昭和の初めかといったクラシックな広間にはシャンデリヤが三つも垂れ、最前から板垣と河東が向きあった両側の席から天井めがけて輪ゴムを飛ばしっこしていたのも、ふとやんだ。

 阿部氏訓話は都合でお休み、組合は相変わらず朝一番に専務室へストームと聴いてもしんとしている。服装は厚手な物を、そしてなるべく帽子を、「ご婦人はスラックスかジーンズを召されて低めのお靴を」と、土居部長はうしろ半分をわざとおどけた口調で指示した。

 阿部氏はかねて組合の妨害を公然押し返し、トラブルはむしろ期待するところ、と言ってきた。が、山県専務は無理に入りたいらしい。入ったあと、自席を終日死守するか、とりあえず会議室で執務というかつての段階まで地歩回復の実を挙げるか。これは阿部氏も専務も、どう辛くとも自席の確保を期待しているらしく、入構する以上それしかない。が、「ほう」という息づかいと一緒に重げに垂れた頭、頭、頭が頼りなく揺れ動く。

「 入っちゃえば何とかなるよ。なると思いますよ。奴ら鬼でなし蛇でもなし、敵は眼の前の一人と思って、一人ずつに阿部さんが言われたようにがっと立ち向かやァ必ずひるむ。それに、我々が帰ってけばノンボリの連中が力づいて争議打開に動くかもしれない。彼らだってつくづく置いてけぼりの連日で、退屈して、鉾のおさめどきを狙ってるはずですよ―― 」

 調子のいい演説だが自前の希望的観測にすぎぬと、うっかり首を横に振って土居に見咎められた。

「 当尾君は、そう思いませんか 」

 私はあわてて手を横に振った。が、「いやいやこの際だからね。どんな意見も吐き出してもらって、すっきり出揃ったところでどうどうと入構しようよ」と一と押しされた。

「 ――それなら、も一度だけ言わして下さい。現時点の入構が当面何を目的にするかという議論が昨日も今日もあったでしょ。会社および管理職の威信回復という説明があった。『ILO』 への布告として絶対必要というのもあった。今春闘終結に有効という理由は、今、土居さんがはじめて言われたし、それは昨日僕が逆の意味から、入構を無理不自然と言ったのに対する反論でもあるでしょうが、残念ながら土居説は甘いと思うんです。

 第一に組合員はたしかに退屈しているだろうが、退屈から免れるために争議を終わりたいと願っているより、もっと荒い刺激に飢えてる段階でしょう。管理職の賃金公開およびストカットはさせないという二大要求がそっくり残っていて、これだけでもまだまだ彼らは戦えるし、すでに百時間目前の連日ストですもの、戦い抜かねば損でしょう。

 第二に彼らは戦うべき攻撃目標を現在喪失しているんです。ちょうど餌物に飢えた状態にいるわけで、ノンポリの抑止力を呑気に期待するのは見当が大分ずれてる、むしろ彼らがいま一等我々に怒ってるだろう、彼らの傷口は疼いているだろうと思いますよ。団交記録やストームの報告から判断しても、組合員は徹底して現状を、会社の、逃亡中の管理職の全責任と思い込んでいます。全組合員にそう思い込ませています。彼らが我々を取っ掴まえる以外にこの膠着した状況を引っぺがえせないと分かっている以上、組合のリーダーは全組合員に管理職という餌食を狙え、探せ、掴まえろと言い暮らしていると読んで読みすぎじゃないでしょう。

 ところがその真直中へ帰って行こうという。帰ることで威信が回復できるという。私はそれが或る面で何より正しいことと認めています。それだけに入った以上は決してもう後戻りできないわけだ。我々はたしかにいま悲壮な決意をしている。が、しかし後戻りの許されない無期限の吊し上げといやがらせと各個撃破の破壊的なストームとに本当に立ち迎える戦力、一人一人の気力、それから会社の強力なバックアップだの一枚岩の連帯だのを十分持ち合わせてると言えるでしょうか。すべてに準備不足です。『ILO』 崩壊もその如実なあらわれです。

 正直のところ私のこの判断にみな肚の中ではイエスと応えているじゃありませんか。それは、この入構が、本当は組合を悪く刺激するに違いないこと、本質的な労使正常化の第一歩と見えも思えもしながら、実はこの今という時点にあって状況無視の無理不自然を敢えてするのではないか、という怖れがあるからだと思う。土居さんのお説は、失礼だけれど気負った竹槍精神のようにしか僕は思えない―― 」

 誰かがかなり侮蔑的な半畳を入れたので私は黙った。

 暫く、口を利くものがなかった。

 もう正午に近く、土居部長はまた午後にと話合いを打切った。私はさっさと地下食堂へたち、豆腐料理の中華ランチを頼んだ。管理の早野課長が顔を寄せてきて、早口に「俺も、ほんとは入りたくないんだよ」と肩を叩かれた。返事しなかった。

 私が言うのは、二、三日前から団交の席で「アクションあればリアクション」と、労使間にたとえ作戦的にも歩み寄りが用意されている、ゆうべも専務は組合の出方によって第四次回答を出してもいいと口約束している、そういう時機、「ILO」 はあえなく封じられた今が今に、示威はおろかへたな刺激にしかならないピケ突破など、筋どころかたいした筋違いだということだ。「ILO」 不能のショックを忘れたい逆ショック療法にしては、総じて判断に自然な説得力がなく、ただの虚勢にさえ私には見えている、それを言ったまでだ。

 それまで何度も「春闘ていったい何だろか」と私は訊いて廻ってきた。私にはいくら考えてもうまい答えが出せず、それは自分の勤め方、働き方がわるいのかもしれない、不真面目なのかもしれないと思ってみて、それだけでは所詮理解できなかった。だが訊かれた方も、会社側であれ組合員であれ分かったような分からない返事ばかりで、河東みたいに、「ドラマですよ」などと茶化す奴もいた。その時そばにいた江島は「筋のないドラマだな」と呟き、梶や板垣は「筋書き通りのドラマだよ」と反駁していた。

 筋はあってもなくても「主人公」のいるドラマなのか、かりに我々の一人一人が春闘の主人公という気もちで今いるだろうかと私は訊き返した。返事はなかった。わが社の大春闘も、今や仕事を置き去りの、つまりは「奴ら」に対し「我々」がただ巻き返しに躍起になっているだけではないのか――。

 階上へ戻り、空いた週刊誌で女の写真などを眺めていた。おいおい人数は増えたものの、主だった連中が外の喫茶店へ出かけたと聴くと俺もと腰を上げる人もいて、「気をつけろよ」と釘をさすものももうなかった。

 と、やがて、「見つかったァ」と言う声も息づまる顔つきで香川課長が駆けこんできた。が、「見つかった、見つかったよ」としかなかなか言えない。

 地下鉄茗荷谷駅前の喫茶店「フール」の奥に土居部長以下七、八人が車座になっている所へ、ふらりとドアを押して「反代々木」の猛者秋山道男と、もう一人香川には名前の分からない若い組合員が入ってきて、ぴったり顔が合ってしまった。咄嗟に秋山はその一筋しかない通路に腰を落として身構え、口早に連れに「電話しろ」と命じておいて、じりじりと近寄ってきた。

「 あんたたち、こんなところで何やってるんですか 」

 彼はぐるりと居並んだ顔から顔を見廻し、一瞬気押されていた管理職たちは一斉に立って、別れ別れR会館へは近寄らない方角へ店先から散った。秋山ともう一人もそれぞれ誰か部課長の遁げる尻に着いてまだ追っかけているだろうが、自分は大丈夫と見極めてここへ取って返し、玄関を入るか入らないかに大塚方面から来たたしか西本とかいう組合員に見つかった、気がする。玄関で中を覗いてたから、いま帰ってくる管理職があれば簡単に発見されてしまう、どうしよう――。

 香川の報告には巧まぬおかしみさえあり、しかしそれは彼が脅えてしまって表情も声音も引き吊っているからだとは見れば分かる。冷たい霧に捲かれる勢いで彼の脅えは居合わせた全員、と言っても十人に足りない少人数にたちまち伝染した。机にも椅子にも荷物がかなり残っている。なかに、春闘始まって以来の経過や討議を克明に記録している部長たちのノートも二、三はある。

「 やっぱり捜索隊が出てたんだな 」

「 襲ってくるだろうか。この建物の、この二階の部屋にまで 」

「 早くここを出た方がいいよ 」

「 みなが帰るのを待って一緒に行動した方が安全じゃない 」

「 でも、ここに我々だけで孤立しちゃまずいぜ、危険だぜ 」

「 残ってる荷物をどうする 」

 口々の言葉は慌しくぶっかりあう、が、ドアをあけて外の気はいを窺うのもためらわれた。緊急の場合赤坂見附のPホテルに、脇田部長の名で今春闘中ずっと一室借りきってあるからそこへと、かねて指示はあった。

 行くか。待つか。

 もうちょっと待って様子を見ようと万一「向う」の手に渡って困る持物だけでも私はまとめて持ち出そうとした。そこへ児玉部長はじめかなりの人数が一度に戻ってきた。

「 だめだ。見つかってる 」

 秋山道男は土居部長を追いつづけ、もう一人加地というのは女性の寺内部長をつけまわしているという。

「 出よう。例の場所へみな終結して下さい。なるべくバラバラに行くよう 」

 指揮官児玉が即決した。

 階下へ下り、玄関から表へ出る、と、予期していた逆の方向から私を見つけて松田ともう一人が跳びつく勢いで駆け寄ってきた。私はぴょんとまた玄関を跳んで上がって急を告げた。

「 こっちへ 」

 R会館の事務員が咄嗟に誘導してくれて、廊下の端の部屋から建物脇の駐車場へ脱け出した時は、もううしろの方でからだとからだが揉みあうような緊迫した息づかいに鋭い怒声がまじり、「あっちへ出るぞォ」と呼んでいる声が敵か味方かも分らなかった。道路と鉄鎖一本で隔てた駐車場から我先に飛び出したものは、もう思い思いに春日通りを突っ走った。私は何より大通りを向うへ越えてしまうのが安全と思い、ちょっと立ちどまり、左右にかけよる追手の姿を確かめて辛うじて疾走する車の隙を突き抜けた。

 幸い眼の前へタクシーが来た。 

 半丁も行ったところで秘書の綿屋女史を拾い、また走っている庶務課長に声をかけて乗せた。三人ともうしろを振り返り振り返り尾けられていないのを暫く確かめたうえで、赤坂見附へと運転手に言った。

「 何か有ったんですか 」

 我々の様子に呆れていたらしい運転手に訊かれても巧い返事ができない。「みな遁げたかしら」と、綿屋は持前のかん高い声を嚥みこむように、ホテルに着くまで二度言い、三度言った。長塚も綿屋も「フール」にいたらしく、あの喫茶店はどうやらN社を支援に行く連中の途中休憩場であり、時には両社の闘士たちが出会っていろいろ打合せに使う場所じゃないか。長塚はそう推測した。もしそうなら、まさに一場の道化をわが管理職たちは演じてみせたわけだ。

「 どきィとしたわよ 」

「 ほんと。秋山がかっと身構えて寄ってきた時なんか、怕い、って感じだった 」 

笑えなかった。

 ――秋山道男が入社の年、私は課長職をもう、二、三年勤めていただろう。彼は中国地方の県立大学を出て、当時私の住んでいた社宅の独身寮へ入ると、即日、一軒一軒「先輩」の部屋へ挨拶に来た。無邪気に勇ましく「先輩」「先輩」とよろしく頼んで廻る大声が階下から順々に聞こえてくると、正直のところうるさく、私は玄関を自分であけて応対したまま中に入れなかった。身のこなしは敏捷で、走っても跳んでも軽々と、社宅の庭で子どもらの相手をして遊んでいる笑顔など愛らしいくらいだった。あの明るい若さが会社で見られないのは、仕事が()わないか上と合わないかと思いながら一度は私の課に配属の噂が流れた或る春さきには、わざわざ近くの喫茶店で喋ってみたこともあった。が、すでに管理職と呑気に話すような真似は「主義」としてもできなくなっている相手だった。

 つい一と月も前ごろ、エレベーターで二人乗り合わせた時、振り向きざま突然名を呼ばれた。赤い腕章を突き出しぎみに腕を組んだ秋山のまうしろには、或る課長に肖せた等身大の漫画が克明な手際で描いて貼られ、克明であればあるだけそれも残酷な個人攻撃のステッカーになっていた。

「 当尾さんは、こんな状況を、どう思ってるんですか 」

「 きみの方は、どう思ってるの 」

「 これはまずいよ。早いとこ、あんたも何とかすべきだよ 」

「 同感だな。とりあえずきみもこんなのから――」と、私は漫画に指を立てて「やめさせた方がいいな」と笑った。

「 ――当尾さん、給料いくら貰ってるのか、教えなさいよ 」

「 断るね 」

「 同じ労働者じゃないか。断る権利ないよ 」と秋山は突っかかりかけ、だが、エレベーターは停まって五階へのドアが型通りに開くと、肩ぐちにすこし刺激的な当りを感じながら構わず外へでた――。

「先輩」かたなしだ、と肚の中で呟いてみても、やはり笑えなかった。

 会社から宮田常務が駆けつけて指揮をとり、蜘蛛の子を散らしてR会館を遁げた管理職は次々にPホテルに着いた。

「 ああ来た来た 」

「 よかった 」

「 大丈夫だったか 」

 顔の見えないのも何人かいて、二時になり三時に近くなって児玉、大垣両部長と、森、吉井両課長がR会館前の路上で掴まり、多分N社の応援も含めて三、四十人の組合員に囲まれいまも押問答中、他に矢代部長と笹野、河東らが会館の人の機転で二階の一室にかくまわれ、カーテンの隙から見下ろした限りでは、囲み囲まれた一団は路上から脇の駐車場へ場所を移したが、押問答そのものは聴こえない。「路上で頑張ってた方がよかった気がするなあ」と矢代が電話連絡してきた。

 部屋は超満員になった。急遽、和室二つの別の部屋へ移り終えた時分に、どういう話の成行か、摑まっていた四人一緒に組合員はみな駐車場を出て行ったという報告が入った。やがて会社にいる脇田部長から宮田常務宛て、四名の管理職は拉致された体で二階の広い会議室(第三・五会議室)に入った模様と電話がきた。「解放」要求はすげなく拒否され、いまから全組合員と四管理職との「合意のうえの話合い」がはじまるらしい、自分はこちらに残って専務と安岡常務が至急そっちへ合流するので待機してほしいという。

 児玉部長は電話連絡で、五時までにと限って平穏な話合いを責任をもって秋山道男が確約したので会社へ同行を承知したと事情を説明したそうだが、専務も、ホテルにいる我々も、誰一人そんな秋山個人の約束が無効なことを疑わなかった。いくつも舌打ちが無気味な沈黙を底の方で苛ら苛らと揺する。「今のうち食事して下さい。ただしホテルを出てはいけない」と宮田は言い、まさかこの大きなホテルに襲撃まではと思っても、半信半疑、「誰も尾けられてなかったろうな」と今日みつけられたご当人の土居は怒鳴る。

 ほかにどんな正解があろうと、あの際みなであの部屋に頑張っていたなら、いや、夕暮れても晩になってもあの四人は路上なりと居座って別の時機を辛抱づよく待つべきだった。誰もがそう口々に言い、なおかつこの事態になったというのは、これこそ力関係なのだろう。

「これじゃ入れないよ、やっぱり」と板垣が口を切った。黙っているものももうそれを抑える気力がなかった。大方虚勢にすぎなかった管理職の闘志は、みるみる萎えていた。

 四人は、解放どころか六時過ぎてなお百二、三十人の組合員に包囲されたまま、騒ぎは三階の脇田の部屋まで聴こえるという。ハンドマイクが何機も使われ、一斉に罵倒の限りを尽くしながら急に静かになって諄々と何か質問したり確かめたりするらしく、それも一分もせぬうちまたうォああっと壁を叩き机を打ち床を踏む怒号の渦が盛り上がって、何度も何度も繰返されていると聴けば、身に覚えのある有泉部長と若井課長は、すこし蒼い顔をして、おととしの暮ステッカーを剥いで吊し上げられた体験を語り出さずにおれなかった。

 江島や菊池は突入して救け出そうと言い、本富士署を頼めと言う部長もいた。

 阿部氏とも連絡がとられた。とりあえず抗議を繰り返し、抗議とそれを組合が拒否した事実とを証拠として記録するよう助言があり、まだ警察は頼れないと判断された。電話器に取付けの利く録音器を買いに常務と土居、長塚らがあたふたと出かけた。

 外の赤電話で先ずかけた時は、すでに執行委員長が四名糾弾の席を六時前に出て帰宅しており、組合側の音頭は秋山が闘争委員の資格でとっている様子だった。解放を要求して諾かず、やっと児玉が電話口に出てきたがすぐ受話器は奪われ、辛うじて「頑張って下さい」と常務が言えただけで切れた――。

 改めて部屋の電話でかけた。

 相手はやはり秋山だった。宮田は口調厳かに、「組合員による管理職監禁は、不法である。厳重に抗議する。厳重に抗議する。即刻四名の開放を要求します。即刻解放し四名を解放するんだ。解放し、四名を解放せよ。抗議する。解放しなさい。解放しなさい。解放しなさい」と約五分間も言いつづけた。秋山の苦笑した、呆れた、怒った、からかうような、「何言ってんだあんたは」「あんた九官鳥か」「ちぇ、仕様がねえな」「来いょ。こっちへ来いょ。みな揃ってここへ来りゃいいじゃないか」「ばァか。まだやってら。要求する――解放しなさい――ちぇっ」などという呟きがありありと拡声されて聴こえ、吊し上げの騒ぎも遠い物音になって、管理職が固唾をのむホテルの一室をみるまに風船玉のように緊張させた。

 常務のやや紋切り型の繰り返しと、秋山の手こずった無作法な応対とが巧まぬ滑稽を演じている。つい、くすっと誰もが笑ってしまう。が、「ねえ、そこにいるみないるんだろ課長ら。来いよ。帰って来いよ。話あおうよ」と宮田のおうむ返しを無視して声の向こうから呼びかけられると、思わずぎょっと息を呑む。

 森さん、胃の痛みはどんなか――と想うと、ほかの三人より私は心配だった。S会館の近所で栗ぜんざいを食べた日、彼は文庫本の『戦争と平和』を読みはじめていて、「読み終わるまでに俺か、会社の方か、どっちが先にどうなっていることやら」と笑っていたが、あれ以来もうどの辺まで読んでいただろう。有泉や若井ののどもと過ぎていまだに熱さを忘れるとは行かない体験談も今が今はなまなましく重苦しい――。

 抗議電話は三十分おきにかけつづけ、そのつど同じことが繰返され、切れてしまうと録音テープを捲き戻して聴き直す。いくら聴いても、分かっているのは抗議の効果はない、という事実だけだった。すぐ押しかけて人質を力ずく奪還しよう、いっそ「ILO」に入れられるのではないかと口走るものも出たが、専務は十時間めの二十三時が山と見て、それまでは四人に耐えてもらうよりないと言い、身代わりに立たぬことで会社に残った脇田部長も同意見だった。おととしの吊るし上げ救出の時みたいなミイラ取りがミイラになるのを避けて、脇田は自席にとじ籠っていた。

 午後十一時半、闘争委員会は囲みを解いた。組合員は四十人ほど残っていたようだ、いま児玉さんらは役員室のソファでのびてます――。そんな脇田の電話に一瞬声がなかった。

 ――森さん、会社辞めるんじゃなかろうか。いいんだろな、その方がと、四、五人同乗して家へ帰るタクシーのなかで、半分睡いまま黙りこくって私は思っていた。掴まった四人は気の毒と言いあう声に、自分だったら叶わない、よかった、という気もちが露骨なのも致し方なかった。

 あさって日曜午後にと言い渡された次の「会議」が、ただただ気重だった。


   ( 二 )


「いいですか、入構はゾルレン=至上命令なんですぞ。あんたがたは皆さん管理職だ。部下の仕事を、その現場で(と、どんと机を叩いて)指導する、監督する、評価するってのが管理職じゃありませんか。なのに、この会社では、管理される部下が管理するあんたがたをストライキの名のもとに社外へ追い出す。マ、これもやり方が激しすぎるが、なんぼ“忍”の一字ったって、さいですか、はいと追い出されてきたのはおかしい。おかしいどこじゃァない、間違ってる。大間違いだ。目下の急務は、断乎皆さんが皆さんの本来の職場へ、現場へ、戻らにゃならん。不退転の決意で自席を死守してもらわにゃなりません。

 そりゃァトラブルも起きましょう。一昨日みたいな荒っぽいR会館襲撃やら路上からの拉致やら軟禁吊し上げやらの直後じゃ、皆さんのご心配もむりからぬ。むりからぬが、そこはうまくしたもので(と、にっこり)あの事件では温良な組合員に行き過ぎを咎めるいや気、きっとすでにもう兆しています。そこじゃありませんか、それがなみの人間の心理ってもんだ、神経ってもんなんですよ――。だからこそ、この機にざァッと入構して、会社の譲らぬ姿勢をデモらにゃいけない。デモは労働者だけの権利ではないのですぞ」

 五月十二日の日曜午後、久々に足を踏み入れた会社の二階会議室で、全管理職音もなく阿部「軍師」の垂れる託宣を聴いた。大きな窓ガラスを背負って長身の阿部氏一人が起って喋っている。声は概して低く、離れた席から凝っと視線を注ぐと、外の明るさに負けてか、表情がいやに翳っぽくきつく見える。眼を()らせて、私はそんな影法師のうしろに小気味よく日の当たった街路樹の頭が、五線上のお玉杓子のようにすぐ窓の外を高く低くはずんで居流れているのが「絵になる」などと思ったり、大通りの真向うの、多分そばやの大屋根に物干台が出ていて植木鉢が五つ六つ並べてあるのを、さつきが二た鉢、あとは分からないと思ったりしていた。

 児玉部長や森たち四人が深夜まで吊されたばかりの会議室だった。第三と第五会議室の中じきりをはずすと窓側で横長のやや鉤の手の広い部屋になる。新装まもないが、それが専務の趣味で、絵一枚花一鉢も飾らないことになっている。灰皿もマッチも有合せの安物が並べてある。

 ワイシャツ姿になり山県専務も起って、喋った。懐中時計の長い鎖を掌に垂らしては掬いあげまた垂らしては掬い上げながら、あまり元気はなかった。私の二人置いて隣の席で森課長が遠慮そうに洟をかんだ。 

 専務以下、きのう一日かけて結論を下したらしい。明朝八時半の入構を期し、全員文京区役所前に集合せよ。身ごしらえは堅固にせよ――。

 この日午すぎ、銘々駆けこむように社屋に入って、思わずみなが立竦んだ。社員用タイムレコーダーの真上に、管理職の名札がずらりと並んで、各自出欠を示す豆ラムプのスウィッチがある、のが真黒のガムテープで名札ごと忌まわしく封殺されていた。全員ではない。数人の部課長が免れているだけ、いっそうそれは無気味な「宣告」に見えた。気軽な冗談も言いかねる感じで苦りきって、殆どの者が自席のある階へも気後れがするまま、忽々に会議室入りしていた。

 笹野を誘い、とにかくも五階の自席へ私はわざわざ階段を登ってみたが、意外に明るかった。

「ステッカー増してみてもはじまりませんよね」と笹野は持前の太い咽喉笛に絡んだような笑い声を響かせた。デスクの上も抽出の中も変わりはなかった。椅子に腰かけて、くるりと振返ると、真向に遠い富士が光っていた――。

 脇田総務部長が、さらに明日の注意事項を念入りに喋っていた。私はさっき配られた図抜けて分厚い五月九日の団交記録を目読しながら、脇田の嗄れ声を遠くに聴いていた。団交は、傍聴二十人を入れて首尾六時間を越え、綿屋秘書の速記のままだとかつてない双方喧嘩腰の応酬だったらしい。なかでも看護書籍の安永栄次郎が先陣に立ち、「会社百年の計」という専務表現に食いついて宮田常務に「編集長」として「現時点」百年の計を具体的に言えと果敢に迫る、そのやりとりがおかしかった。

 宮田 それは、わが社の現時点というものは、――過去から未来への中での現時点としてとらえている。

 安永 あたりまえだ――。

 一瞬絶句したらしく、彼は、「つづけてつづけて。仕事の遅れは誰がかぶるのか」と質問の向きまで変えている。

 宮田 会社がかぶる。 

 安永 冗談じゃないよ。そんならあんた現場へ来てやってみなよ。筈見、梶、木元、吉井と高木ブーとさ、それにあんたと専務も出てきて、看護の部員の前でそれ話してよ。

 宮田 現時点は切り離されたものとしてとらえていない。流れの中でとらえるべきである。わが社の果たすべき文化的社会的使命がある。仕事の遅れについては社をあげてとりもどす。社というものは三百人で構成されている。

 安永 具体的に何が言いたいんだよ、しっかりしろよ。やっぱりあんただめだよ。看護に出てきて梶の下で教科書の課員がさ、どんな仕事を押しつけらてるか、見てみろよ。

 ここで相当の個人攻撃のあったことが記録では洩れていた。そして、宮田発言の「社をあげて」が専務により「会社側の手で」と言い直されていた。嚙みあわない問答の連続に苛ら立って安永は、「部課長呼んでこい、呼んでこい」と絶叫し、団交は再三中断されて、そのつど組合は、争議中の仕事の遅れに妥結後責任をもたなくてよいとの言質をちびちびと取りつけて行く。具体的に、雑誌は合併号でしのぐといった業務上の見切りまで専務は口にしはじめていた。

 むろん組合は、有利な第四次五次回答をもぎとる手段に逃亡管理職への反感と憎悪を巧みに演出してもいた、その実演がおとといのR会館襲撃、拉致、軟禁の十時間を超す三幕劇であったことは紛れもない。気勢は、上がってこそおれ自粛など思いも及ばない。

 だが、「入構」の決断は下った。

 そして指示はすべてすんで、これで帰宅という時だった、執行委員会が日曜だけれど社屋を使わせてほしいと電話をかけてきている、承知してよいかという警備員の問合せに、総員ついと腰を浮かした。電気は消す、窓もシャッターを大急ぎでおろしてとりあえず役員室ロビーに待避し、境の鉄扉を重々しく鎖して鳴りをひそめた。

 脇田が電話に出たが、向うの声は秋山道男で、二、三人そばにいてこちらの様子を訝しむ気はいあり、と聴くと思わずみな立ったまま顔を見あわせる。

 気どられたくない。非常口の梯子伝いに裏道から春日通の方へ脱出して、なるべく早く遠く散らばって帰宅してほしいと、私など見たこともない役員室の隠し扉がぽっかり開けられた。「裏へ手が廻ったらどうしますか」と河東の声が臆病に確かめており、返事も聴こえぬうちにひしひしと身を寄せあって非常階段を下りて行く足もとに小さくつむじ風が舞う。俯き加減に前を歩いて行く森から、ふと汗が匂うのはかなり発熱しているらしい、さっきも風邪が抜けないのを(かこ)っていた声音に、力がなかった。吊し上げのあとだ、せめて昨日今日休みたかったろうに、気の毒にと、森より奥さんの顔が、去年の日展に奥さんの出した静まり返った深い沼の絵が、ふと思い出された。

 何人かずつ、そそくさとタクシーに乗りこんだ。私は本郷三丁目の交差点を渡って、いつもどおり地下鉄に乗った。

 晩、笹野に電話口へ呼ばれた。

当野(とうの)さん、どんな気分ですか」

「いやな気分だね」

「そうですね――。いやな気分ですね」

「それが言いたくてかけたのか」

「まあね。――森さんも吉井さんも、すっかり変わってましたね」

「変わって当然だろうな」

「――」

 看護部の吉井課長も強い人だった。言葉ずくなながら物を言えば強硬で、入構問題でも「奴らに負けてたまるか」と言っていた。小柄で、つねは穏やかな人なのだ、森と一緒の十余時間の吊し上げが彼の強気を脆くもくじいたことは、思えばそれが自然というもので、刻まれた傷口ははためにはっきり見えた。森も、熱っぽく燃えた眼をともするとうとうとと閉じていた。途方もない落胆が彼を捉えているのが分かる。おとといだって、あの人は進んで踏み止まっても秋山らとやりあう気だったか知れない人なのだ。『戦争と平和』一冊を抱いて、一目散に遁げた方がよかったのだ。何でそれが卑怯なものか、臆病なものか。

 「なんだか当尾さんが言うてたようになってきたでしょ。――こんな時管理職ってどうしようもないもんですね。(しこ)御楯(みたて)と出で立つわれはだからなァ」

 私は笑ってしまった。口真似で、「辞表をお書きなさい」と冗談にも言いかけて、やめた。笹野の声が重苦しく耳に沈んで行った。

「前にも俺言ってたろ。阿部さんの説は建前はあれでまともらしく聴えるさ。しかし問題は、誰のため何のため俺たちは入構を強行するのか。本当に仕事のためかってとそうじゃなく、軍師曰く『奴ら』を潰すため、様に都合のいい管理体制を固めるため、にだもン。そんなこと。かりにノンポリだろうが、組合員は先刻承知だぜ。それでようこそいってらしゃいませ、なんてお出迎えあるわけないんだよ」

「――」

「でも、彼らきっと手は出さないよ。だから怕くなったら、眼をつぶっちまえよ」

「そうね――目をつぶるか」 

 笹野の電話をこっちから切って、やはり彼と同じ不安や不快に自分が捉われていることは、妻にも隠せなかった。

「会社も無定見ね」と妻は言う。かりに入構が効果ある必須の作戦にしても、効果をあらわすには次から次へべつの作戦が準備されていなければならない。このところ話しあえば私が会社をこきおろしてきたのは、そこなのだ。だが、この晩はこきおろす元気もなかった。


  一九七*三月二十八日以来の労使交渉経過中、貴組合の要請を容れて会社は紛争回避の目的で四月十六日から管理職を社外で勤務させて来ました。しかるに五月十日十三時から二十三時半の間、社外にいた四名の管理職に対し多数の組合員が威嚇、監禁の暴挙を敢てしたことは、貴組合の要請の趣旨に鑑み明らかに不当です。

  争議長期化に伴う業務遅滞も目立つ現時点、社に課せられている社会的、文化的使命の達成のまめにも、五月十三日から管理職の社内執務を命じました。秩序維持と紛争回避に貴組合の協力を求めます。

  右、申し入れます。

 あす手渡されるこの「紳士的」な会社申入書がコピーで管理職一同に配られた時の、期せずして起きた失笑を私は忘れない。


 五月十三日、朝六時に家を出た。討入前のそば代わりにコーヒーを一杯だけ。約束の文京区役所前に集まってみると、綿屋女史のズボンに運動靴姿が似あうとか似あわぬとか、登山帽を被ってきたり袖長のジャムバーに身を固めた人もいて、有泉などはゲートルを巻いていた。いつもと同じ恰好なのがいっそう不謹慎なくらい気がひけた。

 通りがかりに眼を丸くする人を尻目にかけ、隊伍を調えて徒歩でことさら本郷台の裏道を黙々と曲がりくねって行った。となりの矢代がみごとに色褪めざめとした背広を着ているのを、袖をつまんで「時代物ですね」と低声で言うと、む、と口先で笑う。機嫌がよくない。「失礼」と退却して空を見上げた。沢山な鳩が弧を描いて家並のかげへ流れて行った。

 呆気なく入構した。

 何一つ接触なく、エレベーターの中で朗かな笑い声も出た。貼ってあった某課長等身大の風刺漫画も剥がれたままだ、それでも一人が「いやだねェ」と呟く、と、失笑しあうしかない。林が貧乏ゆすりして、「会議室へ一緒に入る方がよかったよ」と言うのがあまり正直すぎ、誰も返事ができない。途中各階で二人降り三人降り、五階で我々が下りたエレベーターには森課長が心細そうに一人残っていた。

「熱があるようだけど、大丈夫ですか」とドアを手で押さえて訊いた。

「だいじょうぶ。四十度はないしサ」とそびやかしてみせた肩先の優しいような円さが気になった。十日の日、R会館前の路上で森はひときわ壮絶な揉みあいを演じたらしく、ガレージへ押し込まれた時は背広を脱がされていたという笹野の話に、「あの人は強いね」と荻原は呟くのだが、それには笹野も答えなかった。

「八時前、か――」

 西尾は腕時計を覗き、ふと道をあけられた感じで私が先頭で部屋のドアをあけた。人けのないかすかな物の匂いに、なつかしいと思う一瞬があった、なんだか広くなったねと口々に言いあった。ステッカーの数はむしろ減って見え、だが見通しをつけようと、垂れた「暖簾」をまず捲きあげたりした。刻々に緊張は高まってきた――。

 わが課では、はでなジャムバーで菅原潤三がまず顔を見せた。私に気づいて「ホ」と口のなかで言ったらしく、それだけだった。次の長尾は、思わず自分の方で照れてしまった笑いをきわどく噛み殺しながら席に着き、「これからは、こう、ですか」と鷹揚に頷き頷きしてみせる。「知りませんよォ」という感じだ。小森節子の挨拶は「オヤオヤ、マァ」と一言。しばらく坐りもせずに「それはまあ」とか「ふうん」とかわけの分からないちいさな独り言を聴けよがしに呟き呟き、だが眼は見合わさない。神田は姿がなく、山田達夫は鼻の先の自席に長身をことさらどんと腰かけるといきなり、「課長、あなた、なんでここにいるのですか」と、但し普通の声で言いかけてきた。

「今日からここで仕事をします」

「そんなことはさせませんよ」

 それだけ言っておいて、組合員はみなが日課らしくぞろぞろ部屋を出て行った。残された静けさの中に、あっちに笹野、むこうに荻原、と課長五人が黙って顔を見合わせ、「時代物」の上から紺の作業服で身を固めた矢代も部長室から顔を出すと、いっそ愛想よく、「どう」と声を張って様子を訊いていた。

 二階ロビーでシュプレヒコールが聴えた。ざくざくと群集して三階役員室へ階段を上って行くらしい足音が、遠ければ遠いで無気味に響く。息を詰め、階下(した)の物音に耳を澄ませている「この部屋の静かさ」が何よりいやだと、林はすぐとなりへ立ってきて太息を吐く。

 と、ガッシャァンと物を叩きつけたような音をつんざいて、聴き慣れた藤原委員長の音頭とりで一斉に叫び罵るきんきんと金属的な騒音が、から鍋をかねの杓子でかきまぜたように聴えてきた。あれが「ストーム」なんだなと眉をしかめているうち、一と声なにか叫ぶと聴えて、物がはじけとぶ凄まじい勢いで一気に二、三十もの怒声と足音とがだあっと階段をかけ登ってきた。どきっと身をすくめる暇もなく韋駄天は六階へかけ抜ける、と、

もう早や部課長の椅子に手をかけるのか、乱暴に揺する小刻みな連続音。それさえかき消すマイクと大音声との猛烈な威嚇。絶叫する語尾の全部が「――かァ」「かァ」と何か詰問するらしいのは分るが、喧騒の度が過ぎて聴き分けられない。

「スゲェナ――」と林と隣同士見あわせた自分の顔が自分に見えなくて幸いだと思った。胸は凍りつき、椅子に腰かけた足の先がじっと床に着いていない。しかも「奴ら」には、これが面白いのだ。何でもない、遊び半分なのだ。両手で頭を押さえてじっと俯いている笹野に声をかけた。

「もう眼をつぶってますよ」と強いて笑い返した顔が真白だった。

 仕事どころではない。机の上をからにして、来るべきものを――待つほどもない、韋駄天の足音はそこに迫って、ぶち抜く勢いでドアを蹴破りざま「貴ィ様らァ」と吠える数人を先頭に、一団の鉄砲水になってどどっと部屋を一気に奥へかけこむ。と、眼の前が荻原

の席。ダダダダン、ダン、バンバンと平手でデスクを叩き、あいた椅子を蹴倒し揺すって何を言うとも聴きとれない頭から罵倒と脅迫の声が、壁天井も凹まんばかり渦巻く二分、三分。ぱっと人数が散って西尾、笹野、林の席へかけ寄り、「このォ」とか、「くわっァ」とか、「叩っ殺す」とかやっているのだが、見ていると喚きたてる主力は四、五人で、要するに大声で威嚇するだけ。乱暴に全身を揺り揺り真向から切りつけざま大袈裟に指さしたりはしているが、そして顔ちかじかと顔を寄せて臆面なく罵ってはいるが、大概の連中は遠巻きに眺めて、せいぜい足を踏み鳴らしているだけだ。挨拶程度の前哨戦に違いなくても、声の大きさや物のぶつかる音以上の危険はなさそうと見て、お鉢の廻ってくるのを仕方なく私は待った。

 名だたる連中は、秋山も松田もいない。岡島も神田もいない。すこぶるハンサムな、美少年一人が水際立ってはでに声を張りあげ、山田達夫は私の方へ来ずに、もっぱら笹野席のサイドロッカーをめちゃめちゃに足蹴にしては、針金のような長身を笹野に蔽いかぶせる執拗さで怒鳴りに怒鳴っていた。

 いちばん盛大だったのは、若原部長の下で日頃陰気に、自閉症の狒々か猩々かと上司に蔭口を叩かれているあから顔の槙田隆次だ。身の丈六尺、部屋の真中に(そそ)り立ち、誰にともなく朗々の大音声で呼ばわり呼ばわり、つまり我々の「入構」を厚顔無恥の卑劣な悪行だと言うらしい。彼はもう五十そこそこの年嵩らしく、数年前の中間入社だが、秋山道男らを洗脳した反執行部派のあれこそ大物らしいと、聴いてはいても実際喚くところははじめて見た。一度エレベーターで唐突に声をかけられ、「当尾さん、あんた、こんど大阪出張所長になるそうですね」と見当違いのことを言われて吃驚した以外顔を見あわす機会も稀な相手に、こうがんがん荒けた口を利かれるのが、不愉快というより珍しい見世物でも見る気がした。

 あれが洋書の尾上とあとで聴いた美少年が、デスクをまわりこみ、ジージャンの裾を翻してかけ寄ってくる。「当尾さァん、あんたァここで何やってんですかァ」とぴんぴん耳に響く。この際「さん」づけで「あんた」と呼ばれるのはたいへんな優遇だ。人垣がすばやくできた、色白の美貌に眼をとめたまま私はむろん黙っていた。

 「許さないよ(と言うなり、急に胸を張り)我々はァ、こういう裏切り者たちヲ、絶対にィ、許さないのだァ」と華奢な白い指を鼻さきへ突き出してくる。私はじっと見返していた。ふうっと気が逸れて、尾上が「次ィ」と声をはずませるともう人垣は向うむきに動いてぞろぞろと部屋を出て行く。あとに、槙田が一人残って、もう一度ぐるりと見廻し、「貴様らァ、覚悟してやがれェ」と大喝したところで私と真直ぐ眼があった。さっと指さしてくる相手の眼を見つめると、にやっと笑って「当尾ヲ――」から、尋常な声に静まると、「だめだぞお前ェ」と照れたように小さく言い捨てて、さも重そうに肥満した長身を椅子の背にがたりがたり突き当てながら出て行く。と、もうよその階の大騒ぎが、遠退いた雷鳴のように絶え間なく轟いていた。

 ふわっと息を吐くと覚えず両肩が落ちた。期せずして五人の課長が五人とも突っ立っていた。

「一回――」と林が数えた。

 二回めはどうなるか。寄せ手の顔ぶれが多彩に入れ替わり立ち代れば――。「叶わないな」と異口同音の苦笑いの苦さが、渇いた口の中で白い粉になってふき出た。唾が干上がっていた。

 むろんこの日も四月十六日来打ちつづけの同じローテーション・ストで、九時半からは三十分ずつ三班三交替でストライキが進行する。どんな作戦でどんな攻撃をしかけてくるか――。

 九時半でオフ・ストの部員が席へ戻るはずだ。自席にいない者については細大漏らさず書き留めよ、雑言無礼を働いた者の言動も、時、所、内容など管理職同士互いに証言できるようにせよ、ことさら眼を瞠いて「見ているぞ、覚えているぞ」という姿勢を堅持せよというのが「軍師」の指示だ。

 やがて戻ってきた連中は、だが席に着かずまっすぐ各課長へと左右から迫った。個室同然に囲いこんだ、この際邪魔なステッカーの「暖簾」は肩ではね上げ、からだ半分を人かげに隠したのもいる。が、言い募る声はそう大きくない。

 わが課ではもっぱら副委員長の神田と、自席に腰かけたまま山田とが喋った。小森節子は一言だけ、「課長、今はストライキ中ですから出てって下さい」と、それが癖で、すねたような甘えたような言い方だ。いつもの皺っぽい更紗のワンピースだ。「今、きみはストライキじゃないだろ」とでもうっかり言うとまずいことになる。江藤、長尾、菅原の三人は銘々のポーズで私のすぐ横まで来てただ立っていた。私も黙っていた。

 神田は、私に「憲法を守りなさい」としきりに言う。えらく持って廻った抗議だなと思ったが、当人は居丈高というのか大真面目というのか、なにしろ「憲法」という言葉が鈍くて重くてユーモラスで、仇名が「軟体」の神田にはぴったりだとおかしい。が、うかと返事すれば余分な長談義をうかがうはめになる。議論はするなとも、「軍師」の訓えだ。ぐいと見つめ返すと顔に朱がさして、「なんですかその態度は」と怒鳴られた。黙っているしか手はなかった。

 山田は印象的な言葉は何も吐かない。ただ、笹野を痛めつけてたのと打って変って物静かに、さまざまなことをさまざまに、「話しあいましょうよ」という間投詞を繰返し使って喋りまくる。むろん彼の仕事の細部にも話が及ぶ。と、会社を一歩も出ない山田より多少私の方が事情に通じていた。返事した方がいいことはすかさず答え、十に八つは黙殺した。よそでは声高に呼びつけられている課長もいたが眼を配る余裕はなく、向うが喋れば黙り、黙ればいっそう黙り込み、しかし眼はいつも課員の一人一人に向けていた。

 やがて一人が自席に戻り二人が戻る。

 なおも神田は椅子ごと私の横へ移ってきて山田と交替で、かかる「不当極まる管理職の挑発行為」をどんな覚悟があって、「あんたはやってるのか」、それがどんな怪しからん会社の組合に対する「背信と敵対の暴挙」であるかを、語り飽かない。

 こんな工合に一日経ち二日経てば、仕事はむりでも自席に居座る分にはできそうな気がした。神田や山田の話も、本人は分かってて言うのだろうが、もし分かってないのならお話にならない莫迦げた嘘や、おためごかしやただの脅しがたくさん混っていた。白けた気分で私は、十四も十五も若い青年の、時にずるく、時に稚い表情を、いつになれば忘れてしまえるだろうと思いながら眺めつづけていた。

 よその階からも次々に新手(あらて)が訪れた。手荒に、ひっきりなしに、やられた。椅子も蹴られたし揺すられた。いやな悪口も叩かれたしシュプレヒコールもされた。机に尻を乗せてきて、額を突つかんばかりにいやがらせを怒鳴る奴もいた。かと思うと、秋山道男が蜿蜒と話しこんで行った。彼は大声を出さない。何とか私に喋らせようとする。私もところどころ返事して、またすぐ黙ってしまう、のを秋山はなだめ、すかし、脅して、いま私がここに坐っているその事を、決して良いとは思っていないと言わせたがった。うっかり、「良い悪いの判断は専務に訊けよ」と言ってしまった。

「と、当尾さんは入構は専務命令に従っただけで、自分では賛成じゃないんですね」

「――」

「専務命令だから仕方なく入った、と、そうなんでしょ」

 私はもう答えられなかった。首を横に振っても頷いてもならず、秋山の、すこし中髙に尖ったコリー犬のような顔が、大正頃の誰だったか有名な詩人みたいだなどと思って見つめていた。肩先に散った雲脂(ふけ)がいやだった。

 秋山が去って行くと松田が来た。松田の尻について同じ笹野の課の山登りの好きな鶴岡も来た。笑うと可愛いかった鶴岡の童顔が、しばらく見ぬまに醜いくらい険悪に面変わりして、磊落なりに常識的だった物言いが、一変して攻撃的なのに驚いた。

 松田は私の机に両肘ついて、ぬうっと顔を近寄せてきた。これが彼ら独特のいやがらせ作法らしい、低声で、ねっちりゆっくり喋って行った。牡猫のような妙に生ぬるい匂いのする皮膚の色が気味わるく、軽く反り身になって私は途中から眼を閉じて応えなかった。この松田が入社して早々、池袋で二度三度夕食を二人で食った。話題は文学で、彼は卒業論文にハイネの詩と生涯をとりあげた話を面白く聴かせてくれた。閉じた眼の底にそんな時の人のよげな笑顔ばかりが思い出せた。ひどくやるせなかった。

 ピケの閉め出しを慮って、昼は会議室に食事の用意がしてあった。聴けば各階各課さまざまななかで、六階と四階が言語道断の絨緞爆撃を浴びつづけたらしく、秋山や松田も、神田、山田らも、ほんの中休みに自席は戻ってくるついでに自分たちの部課長をあしらっているのだった。

「当尾君よ」

 午後には、きっと五階のきみらが狙いの的だと、離れた席からわざわざ土居部長が大声でいやみを言いかけてくる。可能性はある。私が組合の「軍師」なら、このままぐずぐずと管理職居坐りの既成事実をけっして作らせはしない、多分いまごろ闘争委員会は昼飯抜きで、我々がこんな雑談に憂さをはらしているひまに作戦会議中だろう。会社側のそうした次から次への強化策や対策への手ぬるさ、遅さが、結局は成功しかけた物事を中途半端の立ち枯れにしてしまうのだ、いつも。

「そうなんだよ」

 となりで板垣が相槌を打つと、板垣の向うから香川も乗り出すように大きく頷き、「やっぱり課長会が必要だったんですよ」と挙固で空を叩く真似をした。

「でも、どうしたらいい会社は。当尾さん」と、荻原が皮肉な口を利く。私は、今こそすかさず公開団交の申入れをして、辛くても専務以下二日三日矢面に立って組合員を引きつけ、むろん第四次回答も何らか用意しつつ断続的に団交および協議の管理職会議を繰返し、要するに社内に労使同居の既成事実を一刻でも永びかせながら次のチャンスを模索すべきだ、と言ってみた。少くも相手のなすがまま、各管理職が自席に孤立の状況を坐視しているの無神経さは、異常と言うより愚鈍なんじゃないか、とも言った。この分だと、午後が思いやられる――。

 午後も、だが、午前の繰返しだった。

 明日は分からない――が、明日からもこの程度なら助かると思い、しかし六階と四階の荒模様は夕方になってもよそながら恐怖感を感じるくらい静まらない。森は朝一番のストームで、座席を槙田の太い脚で蹴払われ、尻餅を搗いたそうだ。昼飯にも階下(した)へ降りてこなかった。

 四時半。組合員は一斉にロビーへ下りて行った。その間に五時以降の管理職会議が伝えられ、そして最後のストームは役員室の方へ行ってくれた。

 ――長い一日だった。重い重い石を腹に抱いて、十里二十里を歩き通したような疲労とともに果てた。「明日もそこにいたら、叩っ殺すからな」とうちの山田がわざわざよその笹野課長の傍へ行って、帰り際に一と声怒鳴っていた。

 叩き殺されても明日も入構しなければならない。仕方ない。むしろそうあるべきことだった。が、「今日辛抱できたことは必ず明日もできます。もっとらくにできます」と言う脇田部長の激励に裏切られないためには、組合の新たな出方を推量し、我々の次なる対応もさらに一と工夫することがぜひ必要だった。それは、なかった。かわりに、明日は今朝より早く六時半に集合して会社に入るという。きっとピケの抵抗があるだろう、が、突破する。そのため今夜は都内二つのホテルに全員分宿、だという。

 私は麹町辺の知らぬビジネス・ホテルで西尾とベッドを並べてやすんだ。眠り難かった。食事のあと部屋に入る前にフロントで家へ電話をかけた。何人もあとについて順番をまつなかに森を見つけて、具合を訊いた。笑って首を横に振るだけだが、顔をしかめていたのは胃が痛むらしい、とこっちまで気重だった。

 部屋で、西尾からいわゆる「過激派」について耳新しいいろんな話を聴いた。つねづね誰の席へ誰が時間中よく来てよく喋って行くかを注意深く見てれば人脈は見当がつくはず、彼らにも三派も五派もあり内ゲバの激しさはどうで機動力はこうでと聴けば、所詮私などが組合員時代の組合観や争議感覚で万事を推し測ってはいけないのだ。いよいよ眠り難かった。

 きみも踏絵を踏んだってわけだ――と私が課長になり管理職になった時、ある先任課長は思わず囃したてた。何が彼をそんなにうしろめたい思いにさせたのか。今の俺に同じうしろめたさはないか。そこからただ遁れたくて、管理職一同、朝がけの社内突入という昏い夢を見るというのか。いったい「仕事」は――。

 ――眠り難い夢から強いて醒めたお濠端のホテルでの早起きは、辛かった。しばらく執拗な嘔き気があった。

 宮城のまわりを犬づれで散歩の人がいた、マラソンを楽しむ人もいた、が、そんなものに眼をとめる暇もなく次から次へタクシーに分乗、一路本郷へ。いったんT大前に集結、三列縦隊の先頭に脇田部長、土居部長、児玉部長が立ち、道を開く相手でないのは承知でピケには脇田が代表して「入構」の意思表示と説得を行う。しかし同じ言葉で三度繰返してあとは一気に「入る」ので、隙間なく各員一団となり、うっかり外へ取り残されないようにと、再三の厳しい注意を耳にこびりつかせた会社までの一分、二分。

「いるぞ」「二十人くらいか」「そんなにいない感じ」と低い声が声を伝えあう。先頭はいや、殿(しんがり)もまっぴらで誰もが団子に固まった真中にいながら、前後左右にあの時誰がいたかよく憶えていない。切口上で脇田がピケに抗議し、口々に組合員が叫び返す声もろくに聴きとれないうちにもうどたどたっとからだでぶち当たりもつれあう荒い息づかい、「入るぞォ」と誰かが喚いてずず、ず、どあっと足ももつれて社屋の中へ押しこまれて行った。多数の力ではじかれ小柄な秋山と長身の小磯がからだを絡ませて宙を泳ぐのを、一瞬おかしく眼の端にとめながら、私も誰かに横から蹴上げられたはずみで、思いきってもう二階ロビーへの階段半ばまで跳ねあがっていた。

 ピケを張っていたのは書記長の瀬尾や秋山ら約十人で、管理職は一人残らずロビーに集結、瀬尾らも追い縋りざま「暴力」でピケを破った相手に食いついて、口汚い罵倒の応酬が各所で起きた。先頭きった三部長や、すぐ続いてからだごと当りあってきた木元、梶、一色それに森らが、もうただ罵声のやりとり以上に激昂して、逆に秋山らを壁へ押しぎみに真赤になって怒鳴っている光景は、壮絶というより面白くさえあった。

 役員室で用意の朝飯(握り飯、沢庵、パン二個宛)が配られると、すぐ各自の部署に着けよと指示があったのが、八時にはなっていなかった。

 飯を頬張っても唾が出ないと、味気ないことを言いあって時の経つのを待った。林がそそくさとパンを抽出に蔵うのを見た。笹野と萩原が小走りに便所へ立って行くのを見た。今日も作業服の矢代が部長室のドアをあけておくか閉めておくか何度も迷っているのを見た。西尾は凝っと腕組みして眼はあいている。まだ組合員は一人も部屋へ入ってこない。

「昨日、メモ取ったか」と笹野に訊き、黙って首を横に振られた。

「それどころか、今日の形勢だと、ちょっとでも見られて物騒なものは破っといた方がいいよ」と荻原が苛ら立った声で言い、みな急いで倣った。林が千枚通しを逆手に虚空に切突きを光らせている、思わず「よせよ」と言った。

 異様に冷え込む。こういう寒さを臆病風に吹かれるというのか、なるほどわざと頷いてみたり、爪先でデスクや床をコツコツ蹴ってみたり、まうしろを振返って、今朝はおや富士山が見えないぜと呟いてみたり、そして私も洗面所へ立ち、嗽いして、すこし水を飲んで、そこで思い立って二、三の私物を廊下のロッカーに移して施錠したりした。

 九時になり九時十五分を過ぎても「敵襲」がない。会社中しんと静まり返って。「――怕いなあ」と林のさもさもいやそうな声の下から、たちまち轟っとどよむ地鳴りがして、火山の爆発もかくやという、幾百千の宙を飛ぶ足音がうおおおっと足もとへ膨れあがる。身構えるひまなく洪水に浸されたように部屋は殺気立った組合員で埋まった。椅子は蹴倒す机は揺する、一瞬のうちに笹野のデスクは、誰かの長い腕でもののみごとに床の上へ何もかも一掃されていた。部長室がまず襲われ、矢代は必死で机にしがみつき椅子に抱きつくらしく、狭いなかで激突するロッカーや椅子の音、ガラスが割れ決裁箱がふっとぶ音といっしょに「出やがれっ」「出ろ出ろ」「叩っ殺せ」「貴ィ様ァ死にてえか」と喚ぶ声々が陰に籠って轟きわたった。

 互いに助けには行くな、自席に居坐れ、但し身の危険を判断すればいったん二階会議室へ怪我なく退去せよと先刻連絡があったが、助けに行くどころか部長室をはみ出した多数の部員は五人の課長席へ殺到し、奥にいる荻原から順に無二無三に椅子を蹴払い、立てばからだごと横から後ろから、揉み出すように瞬時も休まず喚き罵り即刻の退去を強いる。私の所へは長尾が真先に来て低声で、「当尾さん、頑張らずに会議室の方へ行って下さい。今日は危険ですよ。穏便に階下(した)へ移った方がいいです」と、言い終わらぬうちにもう取り囲まれたが、さて誰が罵倒役なのか譲り顔にちょっと睨みあいになった。

 六階から誰か階段を突き落とされたような叫びと下で沢山な笑い声がして、自分の椅子を抱いたまま廊下へ押し出されたらしい有泉や森の引き裂くような抵抗の声、それに何倍する脅迫と威嚇の声が組んずほぐれつ一と塊にどたどたっと階段を転げ落ちてくる。と、もう片袖脱げて激しく踠きあらがう矢代部長を、寄ってたかって突き離し突きたてるように、秋山、松田らの一群が歓声もろとももはや一直線に部屋の外へ逐い出した。 

 荻原が観念して歩いて出かける。

 西尾、林、笹野ら三課長も腰を浮かしたらしい。

 脱兎の勢いで人垣かきわけ昨日の尾上美少年が私の席へかけ寄ると、さすがに一と声高らかに威嚇し、急につるつるした白い顔を寄せてきてすこぶる温順に、「当尾課長。立って下さい。悪いことは言わないですよ。ほらもう、みな行っちゃったですから――」サァ、サァと背の方へ廻ってお印ほどに揺すりぎみに椅子を後へ引き、もう一度、「サァ、サァ意地なんか張る必要ないですよ」と退去を勧めた。上の階はまだ荒れているらしく、階下(した)はあらかた逐い出されたか「おおい、まだ上にいるぞォ」と呼んでいる声や階段をかけ登ってくる足音がどんどん響いた。

 すこし迷った。が、力ずく抗うのも逐われるのもいやだった。黙って席を立つと、どういうわけか拍手が湧いた。囚われの宗盛めいて滑稽だった。長尾が「いいですよ、その方がいいですよ」と低声に言うのをまた聴いた。

 階下(した)へと見送る列が、廊下にも階段の両側にも三階二階まで並んでいてみな嬉しそうに、いやおかしそうに笑っている。この群集による暴行が、暴力的に「ピケ破り」した管理職への抗議として全組合員に容認され協力されていることを反射的に私は知った。と同時に、つい先刻もどこかで女子組合員の悲鳴が聴こえて、「あんなにしなくても」と半分泣声だったことも私は忘れなかった。

 第三・五会議室にはもう殆どの管理職が遁げこんでいた。どんなに各階とも凄まじい襲撃に遭ったか、土居も梶も江島も矢代も、誰もがいっそ仕方囃に興じたように夢中で喋りつづけ、時に大口をあいて笑い、怒り、「あの野郎が」「突きとばしやがって」「蹴られたから蹴り返した」と果てしない。

 私はすこし離れて腰かけ、ずっと考えていた。

 彼らの攻撃はひとまず終わったとして、当然第二幕が開くのを、長尾のような男にもことさら「会議室へ、どうぞ」と親切そうに言われた瞬間から予期していた。ここの連中は危難を免れてきた勇者のように空騒ぎしているけれど――と、その時、最後の最後まで頑張っていた児玉部長、木元課長が荒けなく「牢」の中へ突っこまれてきた。さすがに我に返った脇田は、俄かに両手で全員を制した。

「みんな。何言われても、絶対喋らないで。いいね!!」

 脇田が咄嗟の指示を嘲笑うように、あの時、会議室の左右のドアは「牢番」の手でゆっくり開かれ、ハンドマイクを持った藤原委員長、神田副委員長、秋山闘争委員長が主役然と登場、あとからあとから、男女とりまぜてその他大勢が舞台狭しと押し入ってくると、詰め寄られて管理職はじりじり奥の壁際まであと退った。

 藤原は指をぺきぺき鳴らして、にんまり笑ってさえいた。笑いを噛み殺したくそ真面目な、だが、そらぞらしく視線をよそへ向けた無造作な物言いで、「これから、管理職の皆さんに、あの憎むべき今朝の行動について、一人一人真意を(ただ)したく、集まっていただきました――」などと、マイクを片手に宣言中にもテーブルが手早く横一列に並べかえられて、「部長は前へ出て」坐れと命じられた。はじめは等分に置かれていたテーブルが組合員が入りきれないとずいっと部課長ごと壁に押しつけられ、食堂の椅子がどんどん運びこまれて組合員は隙間なく三方から人垣を立てまわした。テーブルの前に腰かけているのは部長と一、二の課長だけで、私たちはずらりと壁を背に部長たちのうしろに立たされた。

 話合いどころか、それは部課長の話を聴く集会でもなかった。舞台だけ作って藤原や神田はあとへ退き、何も何もみな槙田や秋山らの独断場、演戯過剰の修羅場となった。バケツ百杯もの土砂と汚物とを一時にぶちまき、各部課長の脚腰を順に薙ぎ払い蹴上げるのと変わりない、そんな個人攻撃の、うんざりする連続だった。当人が耐えかねて何か口をきるまで、執拗に、無残にそれはつづいた。

 沈黙して耐える姿勢をつとめて各管理職は守ろうとしながら、部長一人一人から始まったいわば人民裁判の罪状は、「ピケの暴力突破は明らかな法律違反」という一点にはじまり、諸事万般にわたった。肚に据えかねていの一番に脇田が、土居が、児玉が抗弁する、と、待ち構えたように矢つぎ早やに怒声、野次、失笑が雨あられと射込まれた。

 順が廻ってくるのに間がありそうで、そんな濛々と立ちこめた熱気に私自身発熱する心地ながら、いったいどんなぐあいに彼らは吊し上げるのか、見ておきたい好奇心もつよかった。好奇心のほかに身を鎧うものがなかった。それにもはや此の際、自分の身は自分ひとりで守るしかない――。

 秋山や槙田はテーブルを踏みこえてきた。真向から斬らんばかりに見を乗り出してきた。が、指一本触れるでなく、テーブルごとぐいぐい押し出すくらいのもの、一から十まで威圧的に身振り沢山な喚声を轟かすにすぎない。むろん聴くに堪えぬ人身攻撃と中傷、誹謗のあれこれを多数の眼の前で好き放題喚かれ反駁できない不快さには、思い余るものがあった。噤んだ口を開かせるだけの暴言でない、残忍な報復遊戯へと傾いた群集心理に便乗して、意図的に個人攻撃がつづいていた。

 生まれてこのかた彼らみたいにああ大声で喋った覚えは一度もない。なかでも槙田隆次が、しまりなく二十貫を越えた体軀を心もち錐揉みに揉み絞って絶叫する声の圧倒的な大きさには、真前に居並ぶ部長連中が今ぞ縮みあがって本意なく顔を伏せてしまうのが、私の立った場所からは気の毒なくらいよく見えた。

 槙田が大将なら、副将格の秋山道男のほかは、松田も岡島も、他の誰彼となくさながら前陣を疾駆する遊撃隊だった。およそ二人が一と組になって攻める。相手しだいで出番を交代するのか、見たところおよせ五、六組が順に火蓋をきり、言いとぎれるとすかさず秋山や槙田がつなぐ。それぞれ攻め道具に得手不得手があるらしく、ピケは合法、突破は違法といった追及には誰と誰が、ただもう喚きに喚く役どころは例の尾上といま一人が、管理職の日常を掘り返すのは誰々がとほぼ決まっていて、騒々しいわりに流暢な物慣れした吊し上げがつづいた。むろん組合員の野次と喚声はとめどなく、面白おかしい笑い声も遠慮なく立つ。笑われる身に笑う声はひときわ痛烈に苛む棘となった。

 ほうと思う、入社前の労働運動上の閲歴をほじくり返されたり、警察との関わりで調べあげられた人のいたには驚いた。そんな時の槙田以下天井も落ちよと八方十方から叩きつける糾問の激しさにはただ眼を瞠き、だが、それとても無意味と、聴き流すしかなかった。それより、そんな大騒ぎの背後に犇く組合員一人一人の顔つきに、反応に、投げつけてくる野次に、私は凝っと眼を向けていた。なかには眼が合って逸らす者もいたし、冷笑を返してくる者もいた。

 たった一年前入社の頃は、言葉ずくなな人形めく少女だった人が、突如浅黒いちいさな顔を振りたて、涙さえこぼして自分の上司の「意識」と「態度」を金切声で非難しはじめた時は、敵味方なくぎょっとした。言い募ることは他愛なく薄っぺらだが、ともあれあの静かな子をああも見苦しく泣き叫ばせている何かは有るには有るのだ。その何かが実体か虚構か、真実の声か粧われた浮わ言かは判断できなかった。ただ切なかった。

 私とはよくいっしょに池袋の方へ帰る、親しい口も利きあう定年ちかい庶務課のおじさんが前面に躍り出て、やはりある課長を蜿蜒と巻き舌で罵倒しはじめたのにも吃驚仰天だった。

 だが、このような描写はすでにあまりに整理され、冷静で、あの九時間をありあり伝えてはいない。この私が所詮そう冷静でありえたはずもない。遁げるか、掴まるか。身に危害の及ばないことだけを一匹の臆病なけものの勘で見極めていた。ここは遁げきれば勝ちだ――。狩人たちはこの糾弾会場を、双方合意、合法的な狩猟の場に演出する肚を露骨にみせていた。

 たとえば正午になると、開会以来概して黙っていた藤原委員長が立って、自由に昼食に出るよう慇懃に管理職一同に勧めた。但し、一時には元の席へ戻って再開する、といっそ朗らかに微笑を含んで言い渡すのを忘れない。

 敏いものだ――遁げられるならどうぞと解き放たれた憐れな飼い犬どもは、跳びはねる元気もなく、必ず一時には帰ってくる。今朝からの一切が、それで、双方合意のこととなる。

 黙々と、一つにかたまって課長は本郷通を放心状態で歩いた。そして、常なら思いもよらない会社から遠く離れた中華料理の店にいつか入っていた。

 部長は部長でかたまったらしい。

 いつもは大概一人の私も、我知らぬうちにみなと一緒にラーメンを注文していた。いっそ遁げよう――とは誰も言わない。麺も汁ものどを通らぬ味なさに渋面をつくって一様に太息を吐き、うめき、唸って、ただただ首を振る。「想像の外の怕さ」と、蒼白のまま呟き俯いている人もいるなかで、森は鈍く潤んだあかい眼になって汗ばむらしいからだを石のように動かさなかった。

「思いきって、帰ってしまいなさいよ」と低い声で勧めても首を横に振る。もっともだった、この午後をこのまま遁げ隠れするということは、もはや全く会社へ戻れないのと同じだし、「こんな会社、辞めたいよ」と口々に愚痴はとめどなくても、辞めてどうなる世の中ではない。石油不足で出版社は紙に苦労していた。よぎない減頁も今年に入って一度、二度。そして恐慌状態のインフレが煽った大春闘ではないか。文句のない好景気のなかの大幅賃上げとは全然違っていることを、さすがにどの管理職も承知だった。時世の暗転がもうそこへ迫ってきていると、だから森は悩み、森を頼りの年寄りも、退職転身は賛成されないのだ、ましてこれという能のない私たちは――。

 奥行のある店の大半の電灯が節約されているのも時節柄か、いっそううす暗い気分でラーメン一杯を食いかねていたこの時が、思えばこの一日で一番底暗い恐怖に竦んでいた時だ。離れたテーブルには昼休みのよその会社員が、グループで、アベックで、銘々の話題の夢中になっているのが別世界の自由人に見えた。あの人らと、自分らと、いったい何がどう間違ってこう住む世界が変わったか、たった今までの顫えがきそうな真昼間の恐怖の片端をさえこの人らを頒ちあえない断絶感よと、誰もがそう思うらしい。

「いいなァ、あいつらは」

 自嘲の笑いを吹きあげるのはこういう時はきまって、梶、板垣、江島らだが、頷きあうのも物憂い顔、顔、顔の中に私の顔もあったのは間違いない。とくに店を出て、また本郷三丁目の交差点を会社の方へ横切るその時、ひときわ明るい五月の日光の下をはしゃいで渡ってくる女子銀行員がさながら無邪気な天上の乙女たちと見えて、思わずこちらは顔を伏せ、今から戻って行くあの囚われの会議室に群れた組合員を鬼かと想った。午後は是が非でも吊し上げの順が自分に廻ってくる。あなた、そんなこと何も知っちゃいないんだ、と、足軽に擦れ違って行くよその一人一人をそう呼びとめてわけを聞かせたかった。

 思えば争議中の労使の渦へとからだを張って跳びこむ気に、一度だってなったことがない。組合員相手にさあ来い、などというのは柄でなく、性にも合わない。一管理職として、発言の機会があれば思ったままを率直に言う、が、仕事のほかにそれ以上の義務を負いたくなかった。はらうのは火の粉だけですんだ。すますように意識して振舞った。

 に親切な課長でもなかった。言ってみれば何事も自分本位に考えて、それが仕事本位なのだと自分に言いわけしてきたようなものだ。それでもの言いなりにを使うのが管理職とは考えていない。気持ちはと一緒に概ねを攻めていた積りだが、空回りだった。そして――今、とうとう「彼ら」と真面の瀬戸際で、私には何ができるか。

 喋るなよの口固めは、まず矢面に立った部長の辺りで早々に綻びた。課長の番がきてからも、つとめて口をとじ答えまいと頑張る人はいた。部長が箝口令を布いたのかと、また元へ戻って脇田や土居を槍玉にあげる激しさに、彼らも堪りかね、この場で喋る喋らぬはすべて「当人の自由」と言い遁れた。口固めは敢なく多数の前では無に帰し、もはや黙れば、黙った当人の「敵対」だとして、中傷と罵倒の鉾先は鋭いうえに鋭く数を増す。

「ピケ破りをする気はなかった。平和説得がされたものと思い、皆といっしょに入っただけです。暴力は使わなかった。使われもしなかった」とどもって答える人もいた。「あれが平和説得かァ」「お前、俺を突きとばしたじゃねえかァ」「この、暴力野郎の嘘つき野郎の馬鹿野郎ゥ」「ぶち殺すぞォ」「前へ出やがれッ」と、眼の前に雷がいくつも落ちたような大騒ぎになった。

「説得」はなかった。あっと言う間にピケは多数の「暴力」でふっとばされた。違法も違法だが、暴力は絶対ゆるさない、と、それが抗議の筋なのに筋違いの言いわけは愚の上塗りだ、それすら分からないほど我々は上ずっていた。

 入構とピケ突破は管理職の当然の権利行使で、ピケで阻止する組合の方が違法ですと教えられつつ、それも半信半疑、ただひたすら(あと)に随いて一斉に雪崩れ入ったのだから、およそ「平和説得の努力」など払われたわけがない。押問答とも行かぬものの十四、五秒のうちに小柄な秋山がはじかれて宙を泳いでいるのを私は見ていた。法の話題では組合の勉強はいつの場合も会社に先立ち上廻っている。それは誰もが知ったことで、自信満々の法談議をうちの神田や林の課の小杉朝雄から聴かされると、囚われの管理職はただもうなさけない顔をするしかなかった。

「ああいう入り方は、まずかったと思っています」と謝る課長がとうとう出た。「仕方がなかった」と非を認めながら、「集団行動」の隠れ蓑を着て責任回避をはかる者も出てきた。少々の揚足とりで罵られようが、黙っているよりは順に「次ッ」と厄を早く遁れられると分かってくると、もう待ち構えて何なりと喋る。攻め手の方もだいぶん草臥れて、とっとと次々に「発言」を求める速度が早まってくる、なかで、すぐ私の前に立ったまま順番を待っていた森が、なんと促されても頑固に口を利かなかった。額は汗ばみ、殆ど斑らに赤らんでしまった顔はかなり高熱を発しているように見えて、先刻来、何度か座長の藤原から退席して休むようにとすすめられながら、彼は強情に拒み通して立ちつづけていたのだ。

(もォり)ィ」「貴様、なんだそれはァ」「まだ懲りねえのかよッ」「前へ出ろォ」「殺してやるぞォ」と、一気に二、三人が仲間の肩や背を踏み越えん勢いで森の眼前へ殺到したが、彼は赤らんだ眼をくわっと瞠き、鼻のたかい端正な口もとを意地強くへの字に結び、痛いほど腕組みしてぎらぎらと虚空を見据えていた。その間八分、九分、十分たっても、最後まで唯一言も答えない唯一人の管理職に森はなりきった。

 どれだけ夥しくも空しい罵言讒謗の矢玉が彼の上に降り降りそそいだが、とうとう根負けがして篠つく雨のような糾弾の怒声はおよそ十五分以上つづいてやっと次へ移った時、彼の盛り上がった広い額は玉の汗を無数に光らせて幾筋にも流れていた。顔は真蒼だった。「坐らせてやれよ」「外へ出してやったら」という声が一斉に起き、藤原も神田も瀬尾も口々に、組合はなんら森課長に同席を無理強いしたのではないことを確認しますと、改めて言い開かねばならなかった。

 だが森は我慢を仕通し、親切ごかしの勧めを悉く冷淡に拒みつづけた。

 森に感心している暇はなかった。はや、すべての指先は私に向かっていた。私の「発言」が求められていた。一瞬を喪えば慢罵の磔が襲ってくる、それをしももうなぜか怖れていなかった、ただ、よしない暴言の淵にむざむざ沈み伏すのが不快だった。私は、森と逆に、私の「自由」を行使した。俺の身は俺が守る。咄嗟の防禦本能が私を衝き動かした時、「奴ら」に強いられた思いはなく、同僚への遠慮もなかった。遁げきってやる――。

「――いま必要なのは、不幸な紛争の解決にそれぞれの立場で努力することよりないと、わたしは承知しています。これまでも、発言が可能な限りわたしは一課長としてにも、時にの人にも物を言うことをためらってこなかったし、今後も、この緊迫した非常事態のさなかでも、が求めれば、また時にが求めなくとも、たとえ少数意見であろうと言うべきことは努めて言いつづけるでしょう――」

 聴いているぞ、という雰囲気だった。

「しかし、今わたしが何より関心をもつのは、争議解決後の“仕事”です。“仕事”は課長一人の力で動かせるものではない。課員の諸君とともども協力して動かすより動かしようのないものですが、――すでに専務は多くの約束を組合との間で交わしている。あくまでその線上で“仕事”をどう著者や、読者や、下請けに向けて動かすか、それを本気で考えるのが、たった今も、わたしはわたしの何よりの要件と思っています」

 きざなくらいまともな話でないと、つけこまれてしまう。それに、まだ話やめては早過ぎる。

「――ところが、あなた方がいま要求しているのは、今朝の入構についてわたしがどう思っているかだ。――わたしの前にすでに何人もの人が直接それを話されたけど、わたしはいますぐ結論めいた是か非かを言いかねる。(「何ィ」と声が飛んでくるのを私は手で制した)言いかねるけれど、先刻来頭にある思考過程なら話せます。簡単です――。一管理職として衆目の見るところこの非常事態に行動するとなれば、トップの指示に従うのがあらゆる意味で本筋なんです。会社も組合も集合体であり、緊急時であればあるほど個々人の、ましてや少数意見は敢えて無視すべきなのですから――」

「違う、違う、違う」というかん高い声が飛んだ。私はその男の方へゆっくり顔を向けた。ちょっとした間ができた。

「もしかりに、その本筋を強ちに逸れ外れても個々独立の判断にぜひ従えとなれば、その管理職は辞表を、その組合員は除名を、という当然の仕儀になる。―― 一人の辞表でまさか会社は傾きはしないけれど、まちがいなく辞表を出した当人の家庭は傾く。それだけの重さを背景に、今朝のことと限らず、こういう雰囲気の中でなおかつ争議の穏やかな打開と収束のきっかけを、我々は銘々で考えてみるしかない――と、思っています――」

 槙田や秋山や岡島の方を見ていなかった。細い部屋を細く斜めに渡した向うのドアのそばに私は長尾修平の姿を認めていた。数人へだてて左の方に江藤規子が長い髪を傾げて俯いたまま聴いているのを見ていた。管原潤三は遠く、山田達夫は眼の前にいた。日頃親しい口を利きあう組合員、長い顔なじみの組合員をその気になって眼で追えば、そこかしこ思い思いにみな私を見ていた。その人たちに向かって喋った。喋りながら家にいる妻を想い、子どもたちを想っていた。

 所詮軽率に会社を辞めるとは言えない。言ってもならない。が、理不尽にこう追い詰められてまともに言える大筋はこれしかない。辞めたい。辞める日も遠くないかもしれない。が、いまは争議の最中だ。争議がすんでも遅れた仕事をすぐさま全部投げ出すことはしてはならぬ。が、今は違うのだ。今は遁げおおせるしかない――。 

「辞表云々は、不穏当な言い方で、あんた自身、あとで困ることになるんじゃないか。――取消しといたらどうですか」

 それが、私の聴いた最初の反応だった。

 声音といい論旨といい飛び抜けて追及の厳しい総務部岡島のその勧めに、いまさらどうでもよく私はただ頷いた。拍子抜けしたように、しばらくざわざわと()が伸びて、その(かん)、私は自分の「発言」が同じ管理職に憎まれるのを痛いほど感じた。

「しかし、あんたも暴力を使ったでしょう」とうちの神田が憎らしく口を出した。

「力づくってことなら、状況が然らしめたお互いさまでしょう」

「我々の遅れている仕事があんたの力で取り戻せると思いますか」

「その点はさっき言いました」

「俺たちをこき使ってか」と山田の声、に、「専務の約束にすべて準じて、です」と見向かなかった。秋山がぬるぬるっと身動きした。

「管理職の賃金公開要求に、なぜ応えないのか」

「わたしの給料聞いても意味ないでしょう」

「あんたじゃないよ。そんなの知ってるよ。要求を、あんたどう受けとめているのか」

「わたし個人で受けとめきれない重いものと思ってます」

「ちがう。公開に賛成か反対かって訊いてんだよ」

「それじゃァ、取消した辞表発言を、蒸し返せってことですか――」

 笑い声が少し湧いて、「次、行こう」と間のいい声がかかった。庶務課のおじさんだった。

「そうだよ。そんなふうに話せばいいんだよ。え、このばかどもが」と苦笑いして、槙田は居並ぶ部長たちを丁寧に一人ずつ一人ずつ指さして喚いた。

「次ィ」と藤原が私のとなりへ「発言」を促していた。順番を待ちに待って緊張の極にいたらしい吉井課長が、何か話そうと焦れば焦るほど急な失語症のようにただ息をぐつぐつ詰まらせ、堪りかねて涙はらはらと嗚咽しはじめた。

「どうしたァ。何かいいたいんだナ」

 うんうんと頷き返し、返しても声が言葉にどうしてもならず、クククという咽喉の奥の音が痛々しく聴こえると、見兼ねたか槙田は、「ようし、あとできっと喋るんだぞ」と「次」を指した。

 だが――もういい。あとは似たことずくめの中で、五時になり六時になって、藤原や神田らは慌しく会議室を出たり入ったりしていた。組合員の数も減っていた。

 七時――と時計を見た時に、藤原委員長は、呆気なく最後に念押しのピケ破り抗議をもう一度声高に繰返し、「今日はこれで解散しますが、改めて何度でもこういう話合いはもちたい。組合員一同はそのように考えていますから」とは、あくまで居丈高な勝鬨に聴こえた。組合員は未練気もなくさわさわ散って行った。

 そのまま会議室に居残った。役員ともども、すでに用意の寿司とビールがどっさり持ちこまれた。

 森を探した。彼はロビーの長椅子にのびて、静かに天井をにらんでいた。息は荒く、顔は土色をしていたが、寄って行って声をかけると、はっきり「大丈夫」と微笑った。

「よく――頑張りましたね」

「むなしい頑張りだった――」

「でも森さんはえらかった。僕のお喋りこそむなしくて、ぶざまで――」

「ま、いいじゃないか。相手しだい、お互い、顔が違うようにすること為すこと違うのさ。やみくもに一緒くたにしてしまうってのが、きみのいわゆる、無理不自然、なんだよ」

「僕のなんか――夢中で遁げ足使っただけで。みっともない」

「俺、――なんだか、すっきりと辞める気になれたみたいだな」

「やっぱりね――。そうかも知れませんね」と頷いた。世間の景気はどう動くだろう、石油も紙もまた元どおりに落着いてきたようでも物価は高い一方だった。秋にはともいわず不況の声がもう聴こえている時だ、最低の時だ。森の装幀の仕事が本当にうまく行くかどうか、彼にもよく分かっていないに違いない――。いますこし休んでいたいと言う彼をロビーに残して私は重っ苦しくまた会議室へ戻った。

「当尾君はえらいよ」と土居部長にやられた。皮肉の意味はよく分かった。が、尻馬に乗る者もなかった。

「おほめにあずかって、ありがたい」とかるく頭をさげた。皆が皆へとへとに疲れていた。

 専務は改めて今日の感想を全員に求めた。「荒廃の極――」と誰かがそのまま絶句していた。実感だった。順番がきても何も喋らず、ただもう、早く、一刻も早く、家に帰りたかった。

「明日は午前十時半、となりのG会館――」

 長距離迷走の一つの終点でも、所詮ながくは憩っておれなかった。

 次の日、まる一と月全日ローテーション・ストをうちつづけてきた組合が、最後の三十分、四時半からの「一斉」部分を中止した。面白半分ともみえる「ご招待」に応じてその三十分間、入構するかしないか。それがG会館へ遁れての早速の議題だった。吉井課長のついに「病気欠勤」が目立っていた。

 結論のないまま役員と部長は居残って、課長だけが小雨の中を本郷から浅草橋へ移動した。駄弁っていられる雰囲気でなく、「これから」へと話題は自然に動いた。争議がいつ終わるか。夏の一時金交渉と重なって六月にももつれこむか。そうまで長期化した場合の雑誌等の仕事の遅れは、おそらく十ヶ月かけて回復できるかどうかというほどの後遺症を残すに違いなく、それでは暮の一時金、来年の春闘にまで団子つなぎに連続して、底無し沼へ仕事は沈没してしまうかもしれない。秋に予定された機構改革や人事異動こそ威信をかけて断行必至、だが、労使激突もまた必至 ――。

 五月中にぜひとも争議を終わらせて、つづく一時金は満額妥結、そして平常期間を最少六、七、八の三ヶ月置かないととても人事や機構に手を触れることはできない、だから今日四時半の入構は、「必要」だ、「無用」だと意見は鋭く分かれた。あれだけの騒ぎのあとだ、いくらかの抑止力は期待できる。そこを衝いて再度の危険を侵すのが正しいという少数の強硬意見を私は内心肯っていた。だが、私自身がそれを自分の意見として発言する気力は正直のところなかった。

 午まえ、窓の外へ強い雨がきた。昼飯をつきあってくれるかと森に声をかけられた。笹野と筈見とが随いてきかかるのを森は片手拝みに断っていた。

 誰もこない例の甘党の店に入ってからも、とくべつの話はなく、何かとも訊かれなかった。私はまた雑煮を食い、彼はあべ川餅で抹茶を喫んでいた。

「僕も、お茶貰おうか」

 黒茶碗を両掌に包んだ森の器用そうな長い指を見ていて、ふとその気になった。同じその茶碗でと頼んだ茶を私が喫むうちに、彼は風呂敷包みから三冊ばかり小説本を取り出して卓に載せた。

「おやまあ。トルストイじゃないですね。ボロジノの戦は、もう終わったんですか」と冗談にしながら、森正彦装幀の本を順に一冊ずつ拝見した。彼が日頃造っている野暮な医書とは打って変わった、いっそ手に触れて優しいような華奢な軽さだった。こういう本の造りを悦ぶ読者が多いと聴かされ、時代ということも頭をかすめた。正直、私にはぴったりくると言えないいささかロココがかった趣味だが、小気味よく隅々まで丁寧な装画であり配色であった。そう言って、私は賞めた。お世辞はすこしもなかった。

「きみが言うとおり、いま直ぐでもない。終わったら直ぐでもない。けれど、何とか一段落、遅れ仕事のかたがつくのが、僕の場合は九月と見てる。秋、には退社と決めたよ。女房はむろん賛成だし――」

「――」

「暮らしはむろん落ちこみを覚悟してる。選りに選ってこの時節に進んで脱藩するんだから、昔気質の年寄りはまたとかく一言あるだろうけど、扶持さえもらってればいいってものでなし。今度は、ね。――それに浪人暮らしも、幸いうちは子どもがいない」

「会社がいやで、という決心ですか」

「そうばかりじゃない。ってより、はっきり、そうじゃない、な。兼好法師に言わせりゃ碁は、十一目の石を取るために先に十目を捨てなきゃ。決心のきっかけを今度こそ摑んだ、ということですよ 」

「そうですか。――よく決心されたなあ。でも、僕、反対じゃないです。軽々しい口は利けないけど、同じならこれで」と、三冊一度に持ち上げて「苦労して下さい」と私は言った。

「僕は、もすこししがみついてますよ。あれだけやられたんだもん。会社の行く果てを見届けてやりたい、なんて、負け惜しみかなァ。――森さん、しかし、からだ大事にしなきゃぁ。まだでしょ精密検査」

「そっちは是が非でも明日の朝、行くよ。決めたよ。K先生の透視のある日だし」

「そうした方がいい。どうせ明日も、朝から入構なんてありえないですよ」

「――しかし、なんだな。我々もずいぶん迷走してるけど、組合だって、というよか労働運動全体が、これで我々以上に実は迷走してるんじゃないかね。俺、そんな気がしてきたよ」

「企業がそう、教育がそう。政治だって何だって迷走してる。しかも筋がないみたいで、結局は筋書きどおり」

「景気がよきゃ景気がいいで、不景気なら不景気で」

「迷走はつづくゥよ、どこまでも、で、時代が変わってく根本は、つまり人の心がくるくる変ってくんですからね。法則も規則もない。生きてるってことが、絶えまなく迷走してるってことなんですかね」

「――これでいつか、妥結はするんだろけど」

「それもやっぱり、一種の凍結なんでね。何かが解決するってこた、まあないですね」

「そして底の方で絶えず、溶けてチョロチョロ流れる」

「流れますねそりゃ。このあとだって――」

「いや厄介、厄介」と森は笑って、まだこんこんと咳きこんでいた。

 えらく降るなとぼやきながら、一時にすこし遅れてS会館に戻った。

 四時半の入構は決まった。本郷から部長たちも加わって、専務決定が通達された。

 今夜、第四次回答を出す。それで終わる、と専務は踏んでいた。同調する部長も多かったが、私は信じなかった。回答しだいとはいえ組合は昨日の今夜に妥結してしまっては大損で、「ピケ破り違法」を枷に、有利に手に入れたい大事な要求や言質は、いくらも残っているだろう。

 四時前、雨を侵して討入りに足るほどの管理職が、国電お茶の水駅から群集して葬式の行列よろしく歩いた。湯島を通り、T大構内を抜け、四時半、一斉に社屋に入った。

 型通りのいやがらせはあった。

 秋山や松田が課長席を巡回してきた。「昨日の発言に、きっと責任を取ってもらいますからね」と私は言われた。ストライキでなくても、誰一人仕事をしていなかった――。

 賃上げ実施と改定協約の発効を、妥結月からでなく四月一日に遡及して行うという第四次回答はあっさり一蹴りされたと、その晩に、矢代部長が電話で報せてきた。かえって組合は、十四日の管理職入構につき、会社の「正式謝罪」を断交の席で要求してきた。

「五月中に終わるか、どうか」

それが矢代の陰気な呟きだった。「仕事」はいったい、どうなってしまうのか――。

「矢代さん、組合員が憎いですか」

「――あれだけやられたんだからな。しかし、ウーン憎いというのかなァ」

「でしょう。そりゃ吊るし上げはいやに違いない。しかし彼らを本気で憎む気もちには所詮なれないですよ。矢代さんもぼくもいま組合にいたら、やっぱり似たり寄ったり、R会館も襲いたかったし吊し上げで気勢をあげてもいたんじゃないですか。それよか憎いのは、我々に組合活動ってものを憎ませようとしてる奴らが、

専務なんかよりもっとの方にいるってこと」

「正体は霞んでてよう見えんけどね」

「ええ。うちの争議だってよく眺めてりゃ、やっぱり問題は我々も含めてじゃないですか。仕事も大事、暮らしも大事。だけど、そんな我々如きの仕事や暮らしを屁とも思ってないもっと凄ェからへの、その兵隊さんにされて毎日若い人と鍔ぜりあいだなんて、そういう部長や課長ばっかりで会社は()つんですか」

 矢代は電話の向うで鼻をながなが鳴らすだけだった。私もすぐ気がついた、これはせめて笹野に話すことだった。成ろうものならもっと若い長尾修平や江藤規子と話しあいたかった。

「――で、あしたは」

「あ、そうそう。十一時に、赤坂見附のPホテルへ頼む」

「vagal escape (迷走神経症逸脱)――」商売柄で私は洒落た。

刺激きつかったからね。それで言葉の意味どおり本当に心臓がまた動く、のならいいけど」

「病気は重いうえに慢性でね。でも、まだ諦められない」

 うん、という確かな相槌で電話が切れた。都の母から、筍が一籠届いている、「あした、筍御飯にしましょうね」と末は独り言になって、妻は()れたばかりの茶をそっと進めてくれた。

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出典: 秦 恒平. 『迷走』P147-218. 初版単行本. 筑摩書房. 1976年

付記:

著者の許諾を得て、『迷走』を電子文藝館へ掲載しました。

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日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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秦 恒平

ハタ コウヘイ
小説家 1935年京都市に生まれる。1969年小説「清経入水」で第5回太宰治賞受賞、第33回京都府文化賞受賞、元東京工業大学授、日本ペンクラブ理事の時電子文藝館を創設した。

作者が1974年8月末日長年勤務した医書専門出版社を離れ後、職場での出来事を小説化して1974年雑誌「展望」12月号に「亀裂」、翌年7月号に「凍結」、1976年4,5月号に「迷走」を執筆した。掲載3作品が1976年12月単行本『迷走』として筑摩書房から出版された。小説「迷走」は、1970年代全国の企業で頻発した労働スト(春闘)を主題に中間管理職の眼で描いた作品である。舞台が、作者が勤務した医書専門出版社の関係で医学用語にある「迷走神経」から、揺れ動く労働ストを迷走としてとらえ小説にしている。国際労働機関(ILO)に日本が再加盟した時代も背景に、登場人物たちが企業内でまさに迷走する有様を描いた秀作である。