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閨秀

 

 

 絵馬堂は、どこの神社でも寺でも、何となく寒い。——なんでやろ。つねはこれまでも一度ならず想ってみながら、そのつど紛れて忘れていた。

 姉のこまが嫁入りの前、つねは姉と一緒に母に連れられ珍しい二、三日の旅に出て、安藝(あき)の宮島で一晩とまったことがある。厳島(いつくしま)神社の絵馬堂は、一歩踏みこんだだけでぐおうんと頭の上が鳴った。途方もなく広い所に(くろ)ずみ雲を捲いて、大小の掲額が群れていた。写生どころでなかった。(おび)えてうろうろ歩くのがやっとだった。

 京都の絵馬堂はそれほど物怪(もののけ)じみては感じない。北野神社、八坂神社それから清水寺(きよみづでら)、みな風の吹き抜けて行く心細さは似ているが、縮図のひまに物を思って(たたず)んで居れる。それで十分だった。絵馬堂とは、物思いが凝って形になって、つまり奇妙に(かたく)なな板絵として納まる場所なのだ。

 絵馬を描こうとは思わないが、つね

にも物思いの種はあった。小学校を出て六年、手塩にかけられた松年(しょうねん)先生の画塾を離れ、改めて楳嶺(ばいれい)先生の門を潜ってみたが、両師の画風の違いはつねの絵ごころをちぐはぐにした。鈴木松年ははた目に荒っぽいほど雄健で渋い筆を使ったし、幸野楳嶺は(えん)な花やいだ画境を得意にしていた。つねは入門以来我ながら落着きのない絵を描いて新しい師匠の眉をしかめさせていた。

つうさん、安井の金比羅(こんぴら)さん知っといなはるか」

「へえ。けどお詣りしたことおへんえ」

 祇園甲部の真中を斜めに抜けて行くと、ちょうど建仁寺の真東にある安井神社には、佳い絵馬が多いらしい、母はそう教えて呉れた。つねは人物、それも女が描きたい。だから大概の絵馬はとくべつ参考にならないが、古画の筆法を数多く見習うため(おも)だった絵馬堂は見歩いていた。安井なら、清水(きよみず)や松年塾への途中何度も鳥居の前を通っていたが、寝入ったようにこぢんまり静かな境内を、窺うでなく見過ごしていた。

 絵馬というから、もとは馬の絵だった。だが物思いが増せば納める者も観る側も馬の絵で事足りない。馬でない絵馬を探して歩くのが愉しみになると、絵馬堂の寂しさが心に触れ、却ってさわやかに鳴って想われる。つねは、清水寺で長谷川久蔵の朝比奈草摺曳(くさずりひき)の大絵馬を見上げた感動を想い出した。天正二十年四月というとびきり古い年紀も胸を打ったが、何より、えいえいと声も聞えそうな朝比奈三郎と曾我(そが)五郎の筋骨、表情が立派だった。

 つねが縮図帳を風呂敷包みに、早速と立ちかけるのを母は「ちょっと」と片手で()めた。

「おせわさんどす、よろしおすか」

 その頃は客がこんなふうに物静かだった。母もはんなりと、一円五拾銭の東雲(しののめ)と一円の玉露を愛想のいい応対まじりに手早に罐に詰めた。

「おおきに。またどうぞ」

 客が帰ると、もう下駄をはいたつねの傍へ母は戻って来た。

「気ぃおつけやして、はよお帰りや」と例の、()つねの頬にさわって微笑(わら)う。仲の()い母と()の儀式のようにつねもその母の手の甲をかるく叩いた。

「あ、そや。つうさん、ほら、あの(まッ)つぁんのこと覚えといやすか砂絵書きの」

 つねは潜りの向うから顔だけで覗いて「へえ覚えてます。なんでどす」と母を見た。安井の金比羅宮にはその松つぁんの母親の風変りな絵馬があるらしいと、母も見て知っていたわけでなく、程良い返事だけで家を出て来たが、松造の名前は急につねにもなつかしかった。死んでもう四年になる。たしか八十というえらい年寄りが、御幸町(ごこまち)(にしき)寄りの路地(ろうじ)長屋に常は独り住まいだった。つねはあの年、はじめて松年塾から師の推薦で東京の内国勧業博覧会に「四季美人画」を出品し、思いがけない褒賞を貰った。絵は折よく日本へ来ていた英国皇族アーサー・コンノート公が買い上げるという華々しい成行きで、十六歳の少女の名は賑やかに新聞に持て囃された。

 あの時分は子どもらしい気ばりだけで、頭もそう使わなかった。幅二尺五寸、(たて)五尺の絹本(けんぽん)に四人の女を春夏秋冬に振り当てて描いた。春には若い娘が梅椿を生けている姿、夏はすこし年かさな娘が観世水に紅葉を散らした絽の着物で島田を結っている姿、秋には中年増(ちゅうどしま)が琵琶を弾き、冬になると年配の女が雪中(せっちゅう)の絵の軸物を眺めている様子を描いた。モデルもない、ただ自分で鏡台に向かいいろんな恰好(かっこう)をしてみては下絵をとった。晩遅くまで壁に影を映して姿かたちの輪郭を工夫した。着想というほどのこともない、ああだこうだと楽しんで描きあげた。

先生(せんせ)、こないなふうに()こ思うのどすけど、どないどっしゃろ」

「さあて、こうしたらよかろ」

 そんな工合にあの絵は描き上がった。そして砂絵書きの松爺さんは路地の奥で死んだ。

 ——つねが八つか九つの頃だった。物売り物乞いにまじって松つぁんがはじめて町内に風来の姿を見せた。子どもの眼にも大層な年寄りに見えた上、(かすり)木綿のぼろを(まと)って垢染(あかじ)みた白のたっ付け袴を()けている半白(はんぱく)の髭づらは皺くちゃだった。片脚を、心もち引きずった年寄りは、(ひょう)げた顔つきで、子どもらがいるとのっそり近寄って来た。

 初めこそ、「あ、子取りやで」と毛嫌いされながら、何時(いつ)のまにかそんな用心も用のない相手にされて、日暮れまで、人少なな御幸町(ごこまち)独楽(こま)を廻したり定宿(じょうやど)近又(きんまた)の表でお手玉を使っていたりする傍に、松造も膝を抱いて葺石(ふきいし)に腰かけていて誰も気にしなかった。それどころでない、つねつねの遊び仲間も松つぁんの腰にぶら下がった奇妙な、太い赤と細い青の間道地(かんとうぢ)の袋が前から気になっていた。

「おやっさん、(なん)えその袋」

 つねは、豆腐屋の勝っちゃんがわざわざ指さして訊ねた声まで覚えている。

「これか。(おせ)たろか、黙ってよか」

 老人は、顎鬚をじょりじょり撫でながら笑った。みな唄うように「(おせ)て、何やねん」と声を揃え、爺さんの前から背中から覗き込んだ。つねも覗いた。湿っけたいがらい匂いが老人のひしゃげた青黝い頭巾(ずきん)に浸みていた。

「それそれ鼻たれ、そっちゃへどけ、どけ。どかんかいな」

 松つぁんはわざと年寄りらしくなく怒鳴ってみせてから、「さあ、これじゃ。さあて、どうじゃ」と鼻唄になって腰の袋の緒を一つゆるめ二つゆるめ、みんなゆるめて見せた。鷺湯という銭湯の子でせっかちな辰っちゃんが(いち)早く首をのばし、だがへっという軽い失望の声がみなの出鼻をくじいた。つねも人に遅れて松つぁんの腰巾着(こしきんちゃく)を覗いてみると、一つ一つの袋に白、黒、黄、藍、赤の、細かな光る砂が溜まっていた。生きものでなく、食い物でもない。が、つね

は正真正銘の美しいというものが袋の底にずしと沈んでいるのを見て、なぜだか、あ、と頷いた。

 松つぁんが町内に姿を見せてまもない或る日、つねは帳場の傍で紙を展げて相変らずおもちゃ()きを楽しんでいた。

 その頃葉茶屋ちきりやは表三間半(さんげんはん)、あげ(だな)になっていた。晩にはたたみ、朝になるとおろす。上に渋紙張りの大きな茶櫃を五つ、六つも並べこれが(なみ)の品だった。上茶は棚ものと言い、店の奥、大概母が坐っている帳場のわきの棚に葉茶壷に入って沢山並んでいた。

 帳場のわきには切り懸けの極く小さな朝鮮風炉に絶えず湯が沸いていて、茶の湯好きな父の太兵衛が遺したという九谷の桝型色絵の水指(みずさし)が添えてあった。母は今もその一角には花の色を欠かしたことがない。土間には竹の床几(しょうぎ)を置き、ちいさな座布団や莨盆(たばこぼん)の用意がしてあった。

 丁稚(でっち)も当時から二人使っていた。店の西に半間(はんげん)路地(ろうじ)があり、家のものはそこの(くぐ)りから路地づたいに表の四条通へ出ていた。

 だがつねはそのような店さきを写生するのでも、その頃東どなりの千代紙屋に居ついた仔猫のぶんを描いてみるのでもなかった。つねは女の姿ばかり描いていた。店に客があるとすばやく(わげ)を見る。見覚えて客が帰るとすぐ絵に描き、あとで母に何という髷か教わった。丸髷(まるまげ)とつぶし島田が多かった。節季どきや祭時分は、それも先笄(さきこうがい)、勝山、蝶々、切天神、結綿(ゆいわた)、桃割れ、割しのぶなどと花やいで、中にはウンテレガンとか錦祥女(きんしょうじょ)とか、猫の耳などいうのもあった。「つうさんのお蔭で妙なこと覚えるわ」と母は笑っていた。

 つねは同様に女の着物や生地(きぢ)や帯の名前も沢山覚えた。衿にのぞいた下重ねへも眼を向けた。名前よりいつも色や結び方や、紋様、柄を大事に覚えた。そろそろと立って行って手触りも覚えた。「いややわつうさん、つねなり着てますのに。ああはずかし」と賑やかに声をあげて遁げ帰る人もいた。母も笑って失礼を咎めた。

つうさん、あても描いとおくれやす」

 そんな冗談を言う男の客もいた。つねは「いやどす」と低声(こごえ)で返事して、女の客が来るまで飽きずに覚えこんだ髷、着物、帯や下駄や(こうがい)をとりまぜては、想像で、好きなように女の立姿や片膝立てて坐った恰好だのを描いた。町内の吉野屋勘兵衛、通称よしかんという絵草紙屋の表にそんな絵が並んでいた。つねは母にねだった江戸絵や、豊信、歌麿流の美人画類を克明に真似ては描き、描いては見くらべていた。母が好きで借りている貸本屋の読本(よみほん)には北斎の挿絵もあった。

 その日、桜戸玉緒という桜の研究家として名のあった茶好きの客が、例によってつねの姉様遊びを面白そうに覗いていた。つねは前日に祖父の貞八と姉とで祇園さんへ詣り、当時同じちきりやという呉服屋に勤めていた祖父の用事で奥の左阿弥(さあみ)まで足をのばして帰りがけ、二人づれの舞子姿に出逢った、それを想い出して描いていた。

 舞子に遊客の連れがあったに違いないが覚えていない。つねは走り寄って、前に立ち、うしろへまわり、だらりの帯にも手で触って来た。祖父が遠慮して声をかけてもつねは殆ど半丁も舞子づれに引きずられながら傍を離れなかった。

「猫がじゃれてるみたい」と家へ帰って笑われたが、あの花かんざしも木履(ぽっくり)下駄も、真紅(まっか)に塗ったおちょぼ(ぐち)も面白い。淡い緑の長い(たもと)黄金(きん)(あか)と白とで(ぬい)をかけた大きな手鞠の模様。つねは紙いっぱいに、笑い合って祇園の(もり)へ戻って行く舞子二人を描こうとしていた。扇子で横顔を隠させて、白いうなじに愛らしい後れ毛立った所から白縮緬の半衿の浮き波までもつね(しっか)り、目で覚えていた。

「こら上手や。えろ、よう見といやす」

 頭の上で声がして、つねもいつもの桜戸さんの声でないと気がつくときょとんと顔を上げた。あ、おこじきさんや、と思いながらそうは口に出さなかった。皺が半分という顔でつねの絵を覗き込んだ老人の眼が意外にぴんと黒かった。

 母が応対して、老人は当時一斤(いっきん)が二円五拾銭した綾の友を半斤買った。帰りがけ老人は遠慮そうににっと桜戸に会釈してからつねに声をかけた。

「舞子はんな。膝んとこを、こう、まんまるうにおしやす。な」

 笑顔、というより細い眼尻に一層皺をためて、てのひらと手首を使ってくいと(くう)に弧を描いてみせた。

「へ、おおきに」

 面白いおこじきさんやと思い思い、たしかに舞子の膝がしらを言われた通りにまるめて描き直すと、着物の裾もゆったり垂れ、背中のだらりの帯もこんもりと、ちいさなからだによく釣り合った。桜戸は老人を幾分見知っていたらしく、母としていたそんな大人同士のはなしも聴き覚えていれば良かったと思うのだが、その時はつねはまたすぐ絵に夢中で、客の噂も老人のことも頭になかった──。

 ──子どもたちは一度は失望したが、白や黄色の砂袋がなぜ松つぁんの腰に吊るされているのか、好奇心はまた膨れた。

 老人は子どもらの顔つきを舌舐めずりしてざっと見くらべ、つねを見つけると思いなしきつい眼をした。

「さ、つうさん、よう見ときや」

 言うなり老人は骨立った、だが指の長いてのひらをけもののようにしなわせて一つの袋に突っ込んだ。一瞬松つぁんのぱっと開いたてのひらが雨雲の大きな空に見えた。真白な雨脚が斜めに広い野の上を蔽い、つねは雨の中を三つ四つ流れるように黒い鳥が森蔭へ遁れて行くのも見た、と思った。白い雨はあたかも吸われるようにぴしりとてのひら一つに掴みこまれて一雫も洩れない、と、見るまに松つぁんはつねの足もとへ手の甲を器用に返しざま、握りこんだ小指の隙間から、音もなく羽箒(はぼうき)()くようにきらきらと白砂(はくさ)をまいて行った。風が子どもたちの脚の間を吹き抜けて、石だたみには寂しい雨の景色が描かれていた。

 松つぁんは、また指さきに藍色のほんの一つまみの砂をすくいあげると、揉みほぐす手つきで雨空に散らした。晴れた空の白い雨──、の中へ、次に松つぁんは一どきに黒と黄と赤い砂を握りこみ、幹の太い、腰だめに一揺り揺って枝を張った夏楓(なつかえで)の樹を、見る見る描き上げて行った。樹の肌の黝ずんだ節くれに黒をまぜ、若い枝には濃い赤膚(あかはだ)にも黄ばんだ明るさが雨にぬれて匂った。

 生憎(あいにく)緑色の砂はなかった。

 松つぁんは一思いに紅い砂を鷲づかみに握ると、丹念に、だが目まぐるしい早さで、花咲か爺が灰をまくように、枝から枝へ紅葉の燃えるような盛りを描いた。白い雨が急に晩れ(くれあき)の静かさを増し、松つぁんはまた一しきり白砂をふりかけて梢、葉ずえに露を結んで見せた。

「さあて。まだ何ぞ足りまへんな。な、つうさん」

 老人はつねの眼を覗いた。訳もなくつねはうなずき、「ほな、つうさん描きなはるか」と一足出られた。つねは慌ててあとじさった。勝っちゃんがわっと囃し、だが他の子は何だか面喰っていた。

 老人が差し出す袋へつねは手が入れられなかった。ただの袋でない、赤いのも黄色いのも、みな銘々の色のまま遠い空の雲やら町やら野山やら人影やらで詰まっていそうな気がする。こぶし一つに握り込んで、老人は自在にまんまるなお月様でも可愛い女の子どもや桜でも梅でも掴み出して来そうだった。つねはみなに顔を見られ、黙って首を何度も横に振った。

「よっしゃ。ほな、おっさんが描いてやろな」

 松つぁんは真黒の砂を掴むと、楓の根方に這い寄ってひょっこり前脚を幹にかけている仔猫を描いた。尾がぴんとはね、踏んばった後脚(あとあし)の先と、爪をかけた前脚の先と、それから()らせたうなじに白い柔らかな毛の色を添えた。ついでに老人は雨を()けて樹蔭(こかげ)に羽をやすめた藍色の小鳥を、仔猫の真上に、ちょっちょっとまるで(こぶし)の隙から振り出すように描き添えた。

 子どもらは声も出さなかった。

 見惚れるというのでさえなかった。足もとにあるのは、子どもむきの絵柄などでなく、だから老人も子どものことはもう念頭になかったのだ、ただつねを顧て、それさえ声を(うつ)ろにして「どうや」と呟いた。うちひしがれたその声音をつねは此の頃になってやっと正しく耳の底に聴きとめた。重そうな頭を松つぁんは喘ぐように揺すりながら、白い雨脚の隅に紅い字で「井松」と書いた。

 人だかりがしていた。老人の背ごしに、膝もとに、一銭二銭をそっと投げる子どもらの親もいた。松つぁんは項垂(うなだ)れて盗むような手つきでそっと銭を拾った。そしてもう誰に声もかけず顔もあげず、人垣をよぼよぼと手でかき分けて帰って行った。

「砂書きのおやっさん!」

 子どもらが松つぁんの背中へそう呼びかけたのは、だがもう子取りまがいのお乞食と思っていなかったからだ、大人も子どもも改めて砂絵に嘆声を惜しまなかった。つねも顔を近づけて、砂を積んだ絵柄を丹念に眺めた。五彩の砂粒は一粒と(いえど)もわきへ逸れなかった。整然と、練達の筆がさも下絵をなぞったように砂は老人の右の拳をこぼれにこぼれて、楓の葉一枚、枝一節(ひとふし)の凛と張った形にも狂いがなかった。そして色の冴え。赤は藍に、藍は黄に映えて、(しず)かな雨は樹に、紅葉に、仔猫や碧い小鳥に、音もなくそそぎかけていた。

 袖に囲って砂絵を家へ持って帰りたかった。急に夕暮れて、姉が迎えに来た時、つねは母にも来て欲しかった。砂で描いたこんな絵を母に見て貰いたかった。「さ、つうさん帰りましょな」と姉が呼んでいた。その間にも砂絵の空は翳を濃くし、すこしずつ赤も藍も白も夕やみに散り崩れて行った──。

 

 ──つねは四条の橋まで来て花緒のゆるいのが気になった。人通りを()けて、応急に縮図帳の一枚を細う裂き、観世()りに手で揉んだ。つねの縮図帳は、有り合わせの雑多な紙を寸法を揃えて積んだだけのものだが、黒谷漉きの芯の粘った一枚がまじっていたのが幸いだった。(じょう)茶の湿めりどめにこんな佳い和紙が役に立っている。茶の香に()んでほうっと火色(ほいろ)さえ映った紙でも、矢立ての墨がのって線一筋引けるならつねは大事に縮図帳に綴じ込んでいた。

 器用に手さきを使っているうちつねの傍を早足に人がかけ陽気な声が川風に飛んだ。(かが)んだまま眼を送って欄干から川面を見ると、舟板の色を日ざしに浮かべて細身の舟が橋の下へ隠れかけていた。妙なこともあるもんやとつねもくすっと笑ってしまった。

 水浅い加茂川に下り舟はめったに見る絵でない。梅雨じまいの水嵩に何用があって何処から漕ぎ出て来たか、つね()び雲の妙にまぶしい空を見上げ、立って片脚でこんこんとすげ直した花緒の締め工合を確かめた。思いがけない川舟に無邪気な(さけ)び声をあげて来たらしい母子(おやこ)が、はずむように帰って来た。まだ生ぶ毛立って頭がまんまるく白く透けた(おさ)な児に、きゃっきゃっと笑って頬を擦りつけられている初々しい母親、擦れ違いに先斗町(ぽんとちょう)の西へ駒下駄の音させて帰って行くその母親は、瑞々(みづみづ)しい青眉(あおまゆ)だった。

 子を産むと、母のしるしに女は自前の眉を剃り落とす。子ども心につねは青眉の人が好きだった。青眉が好きなのは、ちきりやを一人取り仕切って娘二人を育て老いた父に(かしづ)く、自分の母が好き、ということだった。

 母が親類の言うまま再婚していたら、自分は今こうして好きに絵など描かせてもらえていたかどうか。母の眉になった母に、そして生まれ落ちたつねに、夫は、父は、死んでいた、死なれていた。

「あてひとりの辛抱どす。娘ふたりはちゃんと育てさせてもらいます」

 母は二十六の若さでびくとも動かなかったとつねは祖父に聴き、叔父叔母にも聴いている。

「あてひとり死なれたんやおへんのどす。こまかてつねかてお父ちゃんに死なれといやす、みんなおんなじどす。あてひとり、も一遍入り婿(いりむこ)してもうたかて、この子らが可哀想やおへんか。この子らと一緒にあてもきっと辛抱さしてもらいます」と母は二度の縁組を寄せつけなかった。姉が嫁いで行く日、何度あの母に獅噛みついて、「おおきにどしたな、お母ちゃんおおきにどしたな」と繰り返したか、泣きぬれて何度化粧をむだにしたか、真赤にした姉の眼をつねはよく覚えていた。

 姉はそれでも父の太兵衛の容子をかすかに記憶していた。そのことでよくつねに口惜し泣きさせた。

つうさんは、お父ちゃんそっくり」と言われたそれだけを幼な思いに覚えこんで、つねはこっそり鏡台の前に坐って父のことを考えたものだ。

 お母はん、お達者で永生きしとおくれやすな──

 つねはそう思いそう願うことを絵の道の励みにして、展覧会があればきっと矢立てと縮図帳を抱えて出かけた、古美術商の倶楽部(クラブ)に売立てがあれば欠かさず出向いた。花鳥、山水、絵巻物の一部分、能面、風俗など佳いと思えばみな写させて貰った。それも必ず筆を使った。

「えらい子ぉやで、ちきりやの娘は」

 半ば呆れられながら、十九を過ぎ二十(はたち)の声を聴く此の頃、こまが嫁いだあとの葉茶屋を自分が嗣ぐか、どんな婿をとるかという人の噂をよそごとに聴き流し、だが、気重(きおも)なことは絵にも家にも重なることやとつねは辛かった──。

 

 何の見映えもない安井神社の境内へ、つねはすこし頭をさげる心地で石の鳥居を潜った。案の定閑散とした絵馬堂は、だが元禄このかたの絵馬をあげて構え大きく、しんとした面持(おももち)で石組みの溝を跨ぎ、いっとき長押(なげし)天井の暗さに眼を馴らしながら、つねは、あ、ともう息を呑んだ。

 西北の一画におよそ竪五尺、横は七尺もありそうな大絵馬は、大きさも断然目立ったが、金地に極彩色、巴御前が馬上長刀(なぎなた)(ふる)う姿を描いてある。僅かに剥落(はくらく)しているが古いものでなく、死霊が宿って敵を追うかに見える。鎧の草摺(くさずり)にも直垂(ひたたれ)にも、白い(うなじ)肘当(ひじあて)にも幾筋か折れ矢が食い入り血汐が垂れ、それも物具(もののぐ)、鞍、(あぶみ)の色鮮やかさに紛れていた。

 何の為このような絵馬が神前に奉納されたか分らない。年紀も、願主も、絵を描いた人も分らぬままつねは慎重に筆を走らせた。浮世絵とも四条派とも見える筆法──。それに一度縮図すれば、(ひら)けばきっと元の絵は想い出せる。写せば筆の線もそれだけ巧くなる。

 西村楠亭と江村春甫の意馬心猿図が殊さら向かい合わせに懸かっていた。春甫のはもう一面、牛若弁慶の五条橋出合いの方が絵柄も筆つきも佳かった。

 楠亭のは菊唐草の梨子地に蒔絵した華奢な鞍馬で、小猿が一匹緋白(ひはく)の手綱に手をかけていた。馬は悠然と見返り、前脚を心もち()がいて意外と静かな画趣が漂う。色の調子、細かな文様の心覚え、()がいた馬の膝からひづめの辺の筆くせなど、つねは、気づいたことはほんの二字三字の符丁に替えても縮図の中にこまめに書き込んでいた。

 山口素絢(そけん)の絵馬も八坂神社のより佳かった。栗毛と黒の裸馬二匹のからだや脚の線が、輪郭抜きに色の明暗でふくらんだ感じに巧くおさえてある。馬がしんと立って息していた。美人画の素絢にこんな西洋画風の工夫もあったかと面白かった。

 絵馬は宝暦、明和を遠めに文化文政の年号のものが多かった。明治のも幾つか見た。玄徳が檀渓を渡る図柄や、鐘馗や、虎渓三笑もあり、狂言舞台を描いたのもあった。

 つねは笑ってしまった、蟹とすっぽんが土俵で四つに組んでえいえい角力(すもう)をとっている。海老が軍配を手に行司をつとめている。天明二年の奉納で願主、画家ともに分らないが、四本柱や(ひさし)、垂れ幕、東西に分れての声援など確り描いてある。納めたのは肴屋か、よほど陽気な角力好きの人やろか、ポンチ絵みたいなこの妙な絵馬は何が大事で(くら)い絵馬堂の長押(なげし)にこう納まり返っているのやろ。

 所で、あれは何やろ。

 つねは角力の絵馬から土間を縦長に渡って北隅の一画の何やら赫い絵に近寄って行った。

 二尺三尺ほどの小絵馬をはみ出そうに坂田金時、というより腹がけの金太郎が身に余る大岩を腹に乗せ、()っくり返って持ち(こた)えていた。

 突っぱった短い両脚、岩を抱えこんで筋切れそうなまるい真赫な腕、頬ふくらませ、唇を噛み、空に向けて眼を(みひら)いた童顔の精一杯な表情。まるまるしてからだつきも真赫なら腹掛けの上の巨岩も炭火みたいだ。杉の焼目へ岩絵具の()か塗りだが、眉尻だの二重顎のくくれ方だの、踏んばったくるぶしの肉も太い親指も、要所には筆の腹も使って墨色の輪郭をふっくら描き込んである。つねは堪らずため息をついた。

 つねは絵の巧さだけに驚いてはいなかった。遠くでおやと見咎めた時つねにはその絵に、絵柄に、覚えがあった。御幸町(ごこまち)奈良物町の正木という花屋の向かい、めったに()()かず人の出入りもない奥さんという家の一段高い表の葺石に、砂書きのおやっさんがときどき()いて見せた砂絵。中でも不動さんに似たこの赫い金太郎は、子どもにも近所の大人にも一番人気の絵だった──。

 この絵馬にも年紀なく、願主画家とも名を(しる)さない。絵だけ、それも頭と、弓なりに腹に乗せた岩の一部が行儀わるく(がく)の外へはみ出ていた。杜撰(ずさん)のようで、それでくりくりっと童子の力んだからだつきに実感が出て、岩も底知れぬ重みを増している。

 筆つきのわずかな肥痩(ひそう)を見錯るまいとつねは縮図に気を使った。細くはじまって太まり、また消えるように細く切れて行く弓なりの線は肉筆浮世絵の、中でも懐月堂安度に近い。松造の砂絵と、殆ど寸分違わない──。

 松つぁんは自在に赤い砂を幾度にも握り分けてらくらくと花崗(みかげ)の上にこの絵を描いた。黒い輪郭は、なめらかに跡切(とぎ)れずに、糸で衣地(きぢ)をかがって行くように骨張ったこぶしを(こぼ)れた。男の子は口々に、むうっとか、あうっとか、金太郎と一緒に気張った声を出し、剽軽(ひょうきん)な印刷屋の定男などは、道の真中で眼に見えぬ大石を抱きかかえ、ひょろひょろよろめいて見せたりした──。

 砂書きのおやっさんとの仲は長くは続かなかった。つねが開智小学校を卒業し、望み通り京都府画学校に入学した明治二十年の春、松造は独りずまいの路地長屋で溝板を踏み外し右踝(くるぶし)の上を骨折した。もともと右は引きずり気味で、年齢(とし)も寄り、朝夕面倒を見る人もなくては直り難かった。お(せき)さんとかいう同じ路地(なか)の六十婆さんが評判の気の良い陽気な人で、平常は町内の地蔵厨子を朝夕に磨いたり花を替えたりお()りしていたが、息子夫婦に気兼しながら松つぁんの食事の手伝いくらいはして呉れるのを何よりに、これまで頑なに手を染めなかった古画の偽作で暮しを立てていたらしい。異人相手に骨董を商う知恩院下(ちおいんした)新門前(しんもんぜん)古門前(ふるもんぜん)界隈のあやしげな道具屋は、破墨ということに乗じて狩野まがい、貧相な掛軸仕立ての墨絵を平然と安信、常信、元信などと署名入りで売っていた。

 松つぁんはもと祇園神幸道(じんごみち)辺に住んでいたらしい。偏屈で身よりとも別れ、葬式の折綺麗な人が手伝いに来ていたが、常はまるで一人だった。母は桜戸のような客に聴いたか、或は暮しぶりの割に贅沢な茶を時々買って帰る松造に直かに聴いたのか、そう言えば──とつねは金太郎の絵馬の前でくるりと一まわりして、どこかに松つぁんの母親が納めたという絵馬はないかと探した。

 やがてつねは、初めに見た巴の大絵馬から二、三枚東寄り、二段三段に小絵馬を上下に懸け重ねた真中に、かって何百枚と見て来た中でもこんな絵馬はなかったという一枚を見つけた。

 中央に願主と思しき女が合掌し金の御幣を拝んでいる。前方から、十数人の男がざわざわ歩み寄って来る。細い筆を自在に使って、全体に華奢だが驚くほど器用に描いてある。女の顔かたち正座した姿も、半眼(はんがん)に祈る表情もかなりの美貌、それも少しも作ってない何処かの、誰かの、顔だった。男どもは祭礼めいて小人のようにちいさく纏めて描き込まれているが、二本差の侍も、半纏(はんてん)を着た左官職らしいのも前垂れ掛けの番頭もみな銘々に闊達な足のはこびで、向うむきのも前を見たのも振向いたのも横顔のも、一人一人こまめに衣裳の柄やひだまで濃い色をずんずん重ねて銀の箔押しの上に描き揃えてある。何となくつねは男一人一人の名前まで想像されそうに思った。天保十年九月佳日と墨書した筆蹟も同じ画家のものなのか、それだけでなく、つねは絵馬奉納の趣意を書いた画面上の仮名まじりの文章に驚いた。文字の一つ一つが粒々になって至極読み辛いのを、こんな時には必度(きっと)用意して来る極く小さな手燭をかかげ首を痛くして読んで行くと、ほぼこんなことが書かれていた。

 五十四歳になる願主の名はみつと謂うらしく、自分は、これまで男さんゆえに重々懲りたので、此の度び心を改め男さんは一切断つことにした。今日佳日を(ぼく)して自分の髪とこの心とを、謹んで幼来信じ奉りかずかず御利益(ごりやく)にあずかった当社の金比羅大神の御前に奉納し、改心を誓う、但し三ヶ年間の事。

「但三ヶ年間の事」に、思わずつねは顔を伏せ、ぐぐっと笑いを噛み殺した。改めて神妙に合掌した女の顔を見ても五十四に思えない、年寄りには描かれたくなかったかと想うとまたおかしかった、が、もう此の時つねは自分の或る早合点に気づいていた。

 これほどの絵を女がまさか自分で描くと思わなかったが、九月佳日と墨書した左下隅にやや太めにちいさく、「井みつ」とあるのは願主というより画蹟を示すもの──と思い当ってまたつねはそれが癖の、片手を前髪の下に押し当て、薄く口をあいて突っ立っていた。

 願主はみつと読んだ上で井みつと見た時、素絢とか楠亭とかでない、譬えば井上みつ、井垣みつなどを略した呼び方だろうと想い、だが井みつが此の絵馬の願主と多分同人の画家を指すことにもつねは確信があった。

 みつという願主が松造の母親に違いないことは、何より松つぁんが砂絵の端に、それはつねの想いやりにすぎないが、我ながら巧く描けた時に限って、「井松」と黒い砂、時に紅い砂で名を入れたのと文字の形までよく似ているのだ。松造の苗字はたしか井田、だった。松つぁんがもと祇園の人というのも、この井みつが幼くから祇園の花街とは背中合わせの安井金比羅を信心していたという述懐と符節が合い、あれからこれへ想像は走る。

 だが、つねには気になるまた別の思い寄りがあった。

 

 無名十六歳のつねが師松年に(ちな)んだ上村松園の名で初めて「四季美人図」を東都に問うた頃、それまで、「なんぼ好きやかて女だてら」画学校に入学したり松年塾に通ったりが小癪なと、再三母の所へ手厳しい談判を持ちかけて来た室町の叔父が、打って変ってつねの画業を吹聴して歩く成り行きになっていた。亡父の弟に当るこの叔父は母も少々苦手で、まずは誰もがほっとしていた或る日も奈良物町の店先に恰幅(かっぷく)のいい姿を見せ、好きな玉露を所望するでなくいきなりつねを呼び立て、今から吉田屋へ一緒に()ばれに行こうと言う。

 円山の正阿弥で前年如雲社が月次(つきなみ)展を開いた時、つねは松年の奨めで「美婦人図」を出品し、三条堺町の呉服商吉田屋に買い取られた。実は叔父の機嫌はこの頃から癒りかけていた。吉田屋と、専ら帯芯を商うつねの叔父とに取引の関係もあって、挙句、つねの評判が新聞に写真入りで出る騒ぎだった。

 十五、十六の少女ということが誰しもの眼を惹いたのは一応もっともだが、この吉田屋は、つねが美人画の佳い参考に恵まれぬまま、円山の平野屋や有楽館、弥栄倶楽部などへ絶えず絵を観に来て矢立てを使っている生真面目な噂に、可哀想な、気の毒な気がしていた。それにつねの絵の、姉様遊びめく巧まぬ品の佳さが、幾分薄暗い男女の(もてあそ)び物だった旧来の美人画と、別物に見えた。当時人物を立てて描くほどの画家は滅多になかった。大概花鳥、山水だった。だから今、秘蔵の美人画を観せよう、と誘われてはつねも遠慮を忘れた。

 吉田屋は間口十数間の大店(おおだな)で、壁も柱も、磨き抜いた格子(こし)()も二階のむしこ窓も黒塗りの頑丈な表構えだった。暖簾(のれん)の奥に松の素木(しらき)に透き漆のみごとな(あが)(かまち)が見え、反物(たんもの)は山積みになっていた。前垂れかけの店員が表に水を打ったり自転車で出入りしたり客の相手をしていた。叔父はつねに「どうえ」と声をかけた。大きなお店やろとでもいうらしく、つねは頷いた。それから、半丁も西の吉田屋の隠居の方へ連れて行かれた。

 広い庭だった。奥へ奥へ樹立の茂った静かさだった。中ほどに臥龍垣を結び、苔の絡んだ織部燈籠の傍に蹲踞(つくばい)を置いて、木賊(とくさ)のかげの(かけひ)の音も町なかと思えなかった。通された部屋は扇面貼交(はりまぜ)風炉先(ふろさき)土風炉(どぶろ)を据えた八畳の茶室だった。床の間は、砂張(さはり)の出舟に猩々袴(しょうじょうばかま)が葉を展げていた。

 ──つねは余分の思い出には頭を振った──。

 出して貰った美人画はみな有難い参考だった。だがかすかに不満だった。

 源琦(げんき)の唐美人は初めてでなく、やはり、よそよそしかった。京美人を描いて名を挙げたという素絢(そけん)の女たちも、あだめいて見えながら生きた美女の息づかいや妖しさを感じさせない。姿態にも妙にいやしさが見える。

「これは、おとなの絵や」つねはそう思った。この思いは自分で驚いたほど否定的だった。手で払いのけるような感じだった。

 だがつねはとにかく黙々と筆を使って一つ一つ写生した。吉田屋も叔父も、仕方なくつねを放って置いて二人で話していた。

 もうほかに、という顔をすると、吉田屋は気がついて苦笑した。

「松園さん、どうどす、うちの絵は」

 はあと頷き、絵の前を離れてしまえばつねに大店の主人の相手をする話題なく話術もない。見せて貰える絵がないなら帰りたかった。

 もう何度も人に聴かれたことを此処でも順繰りに聴かれた。誰の絵が好きか、どんな絵が描きたいか、いつまで描くか、嫁に行くか。つねは生真面目に、返事の出来ることは返事しながら叔父の顔を見た。

「そやな。大したもんやないが、あれも見て、貰いまひょかな」

 主人は気軽に茶室の外へ立ち、つねは叔父に低声(こごえ)で苦情を言った、「この上まだ御馳走やら出されたら、かないまへん」

 応挙の小品が床からはずされて、代って尺幅(しゃくはば)絹本著色(けんぽんちゃくしょく)の美人図がするすると床壁にはまった。年若い大夫(たゆう)が朱い下重ねに裏黒の緑の打掛を羽織り、半身(はんみ)に立って顔は心もち他所(よそ)を見ていた。

 一目(いちもく)、さっきから二、三つづけて見た山口素絢に近い衣裳の線や翳のつけ方だった。が、またまるで違う。何より画面に動きが見える。

 歩いて来た女が一瞬立ちどまったような、またそう想わせるのも当然なほどその大夫がどこの誰と名を指して言いたい生きた表情(かお)をしていた。つまり、美人画よりは、いっそ肖像画なのだ。そして一瞬眉をしかめたほど濃厚な著彩。太いふきの出た打掛の緑と黒など眼をそむけたい強い印象だった。着物は朱く、大きな蝶結びに幾重も前に皺を垂れた帯は、鮮かな(だいだい)色。それに打掛の肩から裾へ三つ四つ銀で刺した大きな梅林。先笄(さきこうがい)の髷を(かし)げ、細面(ほそおもて)(くち)のちいさな女の顔は右手でどこか指さした先をふと(いぶか)しむように打ち見ている。

 つね()っと動かなかった。

「ちょっと品がおへんな。とくに、つうさんにはな」

 吉田屋もそう自慢でないらしく、叔父まで遠慮がちに先刻の応挙にくらべると、などと口をはさんだ。

「この絵──好きどす。下品なことおへん」

 それだけはつねも言わずに居れなかった。

 絵は写生に徹していた。黒いふきの一部に汚れめまで描き込んであった。何より顔だ。厚化粧ひとつにもこの大夫なりの白粉の塗り方が感じられたし、下唇の玉虫色も、痩形の顔の輪郭やちいさいが(つぶ)らな眼、ほそいが勝気そうな鼻、みな性根が露わで、美人に見える。纏綿の情緒どころかぎりぎりまで眼前の大夫を、見たまま描きたい、という画家の気概が迫って来る。

 色のなまなましさ、妙に調わない衣裳の線の歪み、それも画家の持味かしれないが、また描かれている当の大夫や花街(いろまち)本来の油っこさに違いない。何度も祇園や島原の女を見ているが、近寄れば寄るほど匂いの濃さや着物の色など一概に優美なものばかりではなかった。殊につねは町なかの商家の娘で育ち、母は若い寡婦の身で健気に葉茶屋を営み、娘二人養って何一つおろそかな所がない。母の朝夕は質素で、清潔で、青眉のむかしの瑞々しい美しさを損じていない。美人といえばつねには母のような人でなければならず、それなのにどの美人画も(くるわ)の女や大夫ばかりを綺麗事に、どこか媚びた綺麗事に描いている──。

「せいとく」

 つねは低声で読んだ。糸巻型の中に無造作な平かなで二行に書いて朱印に造ってある。直ぐ上に白文の方印が()してあるのは読めなかった。叔父が眼を寄せて「字曰伯立(あざなははくりゆうという)」と読んだ。別に「皇都井特写」と(かん)がある。寛政から文政頃、主に祇園の女を描いていたらしい町絵師で、版絵もあるが大概肉筆の、一種えげつない印象の絵な為、そう好かれないでときどき見かける。吉田屋はそんなことを教えて呉れた。

「祇園せいとくで通ってますな。ま、この絵なんか()え方、品の()え方やないかと(おも)てますねが」と、吉田屋は同じ祇園界隈に住んだ美人画家としては袋町(ふくろまち)の素絢が好きで(あつ)めていた──。

 ──あの当時砂絵の松造はめったに顔を見せなかった、どころか、もう死の床にいてやがて死んだ。人少なな葬式の日、つねも母と一緒に焼香に出、はじめて路地長屋の奥で砂書きのおやっさんがどんな暮しをしていたか、何となく壁際に押しつけた画仙紙や刷毛やらそんな道具などに察した。間道(かんとん)の砂の袋は見えなかった。砂絵も久しく見ていないつねは、だから「井特」という奇妙な画名を眼にした時も、平仮名の印章が先に眼に来て、松つぁんの「井松」へは頭が行かなかった。松つぁんの場合は井田という苗字も松造という名もつねはもう知っていて、井松は分りすぎた省略だと思いこんでいた──。

 井みつ──

 出がけ母に耳打ちされてなければ、井みつで松つぁんは想い出せなかった。が、代りに直かに井特(せいとく)のことは考えただろう、そうでなくてもつねはこの絵馬の一種克明かつ珍奇な写生に井特を感じていた。

 吉田屋で出逢って以来、幾度か井特を見ていた。「鴨川東祇山井特」と落款したのも、「文政七年六十九歳祇せいとく」と書いたのもあり、つねの最初の印象を裏切らない美人画どころか醜女の肖像画もあった。だがどんな醜い女にも絵筆は丹念に肉薄していて、或いは一種の風気を生じ、或いは独特の執念を感じさせた。綺麗好みの世人には多分受けまいと想像されるのに遺作は少なくない。祇園の女や遊客にも相応の贔屓があったものか、つねは京ことばで謂わば〝えずくろしい〟井特流写生に辟易(へきえき)しながらも、松年先生のよくいう〝ほんまもの〟を感じた。縮図していて手ごたえがあった。こう髪を描けば乱れ毛や後れ毛も形になるか、衿あしをこう引けば今まで一息に描き通せなかった所も描けるかと、つねは井特の描写に円山、四条の柔媚(にゅうび)な特徴と共に本狩野の硬質で強い筆力を感じた。松年先生の行き方が、絵は山水だがまことに強い。墨だけは女の優しい手に限ると、つねはよく傍で墨を磨らされたが、刷毛のような職人肌のものは嫌いで筆を三本四本一握りにして描かれた。筆端に飛沫を生じ、紙の破れることも再々あった。

 祇園井特に就いて訊ねた時、松年は最初やや奇異な表情を見せた。自分は山水専門で、つねには何かと不自由だろうとよく気の毒がって呉れたが、何時(いつ)の間にそんな所まで眼をつけて行ったかと思ったらしい。

 井特という人は頼まれれば(かみしも)姿の旦那衆や頭巾を()た女隠居の絵も描いている。だが存外第一等の仕事は柚木太淳という京都の眼医者と協力して解体瑣言という専門書に、屍体解剖の写生絵を描いたことか、と松年は教えた。寛政九年、官に請うて死刑囚の屍体を貰い受け、太淳は殊に「真写」に巧みなものとして祇園井特とその社中の二人に助力を依頼したという。井特は太淳の患者で、序文の示す所二人はうまが合ったらしい。太淳の紹介によれば彼は何より「真写」を善くし、所がその種の絵は世人に好まれない、仕方なく祇園の藝妓舞子を描いて生計の足しにし、一層人々は井特を嘲ったそうだ。その余の、井特の姓名や家族や、他に家業があったか何処に住んだかなど誰も知った人がなかった──。

 ──つねは頭上の絵馬の女を今一度()っと照し見た。色白の細面(ほそおもて)、ちいさな、凛と張った鼻筋──。井特が描いた立姿の藝妓大夫はその後幾らも見た、が吉田屋のと容貌は似ていない。なみの美人画家なら一度手に入れた美貌はどうさまを変えても()た顔に描く。顔かたちだけで誰の絵と分る。井特はむしろ真写本位の肖像画家だからあくまで銘々の生きた表情をあまさず写そうとする。

 絵馬のみつと、あの吉田屋で見た大夫図はつねの眼に紛れなく似て想われ、どちらかが井特の女房か娘か、いっそ両方同人か或いは姉妹かという気がする。そして井松──。

 井松の松造は砂を使ってたまに桜戸がつねに呉れたよりも潤いのある夜桜を描いた。天狗を描き富士松原を描き、ただ馬や仔犬や、時にはちいさな子が怯えたほどのかまきりを、青々と鎌振りあげて描いた。みな大地に描きすてて残らないそれらの絵を松つぁんは望まれれば幾らも描き、描き上がると寂しそうに立ち去った。

 淡々と、無造作に。どう稽古するとああまでみごとに砂の粒が拳をこぼれるのかとつねは呆れた。失敗ということがなかった。たった一度だけ、松つぁんは砂絵を途中でやめて描き切らなかった。それは想えば一人の女の立姿らしかった。

 松つぁんの砂絵ははために何処から何から描きはじめるという見当がつかない、それがまた見ている子どもには楽しかった。その時も、どうやら砂は女の肩さきから袖の辺を描きすすめ、次第に裾へ動いて形の佳い足の色も木履(ぽくり)の恰好も出来ていた。着物は黒に箔を摺った感じで白い鶴が二羽三羽(かけ)っていた。

 松つぁんはやがて胸から上を残して黙然と腕を組んでしまった。誰もが凝っとあとを待った。老人は立って、見下ろした。そして咄嵯に汚れた雪駄(せった)でさっと女の膝から下を踏み乱して行ってしまった。烈しく舌打ちするような低声をつねは聴いたが、うしろ姿は小刻みに顛えていた──。

 ──つねが描きたい絵はあの井特でもこの絵馬でもない。と言って浮世絵や応挙亜流の美人画ではましてない。男や女の隠微な欲望に媚びた女をつねは描きたくなかった。女の佳さ、女のあやしさ、女のいとしさを描きたいのだ。それにはくどい趣向はやめて、淡泊なただ立姿が一番ふさわしいと思っている。立った女のさりげなさに美しい人の美しさがみな露われる、そんな美人画をつねはいつからか秘かに理想としてきた。

 山あり海や川があり里のある絵、さらに花咲き鳥鳴き人々のつどう絵。柄の大きな唐絵(からえ)や大和絵をつねは幾らも見て来た。だが絵筆を握って描く気で見れば、峨々たる山巓(さんてん)は途方もなく遠く、茫洋たる太湖は途方もなく深い。見知らぬものにふと出遇う(こわ)さ、勝気なつねは意外に人見知りもした。

 山を消し海や川を消し、田畑も家居も消し花鳥を消し、他所(よそ)の人影も消しただ家の者だけを描く。その先一人母だけを描く。母が水を打つ、母が髪を直す、母が物を縫う、歩く、坐る。優しい慎ましい母の表情や動作を描いた果てに何げなく佇む母を、佇むだけの母の姿を、描きたい──。

 井特のあの大夫立姿図は、あの肖像画風の行き方は、凡百の美人画よりどんなに自分を力づけたかしれない、が、人一人の肖像を描くのでは自分は物足りない。母を描く、それも母の心を描き、母なるものを描きたい。明治の今に生きる母を描きながら、母の中に積み重ねられている久しい日本の女の佳さだけを描きあらわしたい──。

 つねは静かな興奮をおさえかねて安井の絵馬堂を出たのだった。

 

 

 昭和九年二月、松園は享年八十六歳の母仲子を鳥辺野の荼毘所(だびしょ)に送った。松園自身還暦に間近かった。

 真白な鏡の上を、影とも見分かぬ影がすうっと流れて消えて行った。静かな母の死だったが松園は鞭打たれた気がした。「おうおうまた出来はったか」と老いの皺をのべては新しい作品を真先に悦んで呉れる母にさえ、暗い顔を朝夕曝していたかとあれこれ思い当ると、久しい画業の沈滞を、もうこれではならぬ、ならぬと属目(しょくもく)のもの一切から責め立てられる心地がするのだ。

 大正五年の文展以来松園は推薦されて永久無鑑査出品の特典を受けていた。だがその年出展の「月蝕の宵」は大作ながら気に染まなかった。我ながら筆の重い絵だった。あほらしい絵やなと自嘲的に母にも隠れて呟きながら、間之町(あいのまち)竹屋町のまだ木の香も若々しい画室から運び出させた。息子の信太郎はもう十五、京都絵専(かいせん)に入学し、別に母の意志で同門西山翠嶂の青甲社塾に入って専ら花鳥画を勉強していた。

 次の一年休んで大正七年、松園は「焔」を描いた。先師鈴木松年の病床を見舞い、正月のうちの葬送にも馳せ参じながら、やり切れない心地で仕上げた絵は、源氏物語に取材して六条御息所(みやすどころ)の怨念を描いた。絹地の裏から目差(まなざ)しに金泥(きんでい)を垂らすと生き(すだま)の切なさがむらっと動き、身丈(みのたけ)に余る黒髪は(くう)を漂って奈落に沈む。中年女の嫉妬の炎をと絵筆の先に念じながら、一点我が思いの底に平静を失って揺れ動く自分自身の生まな息づかいが聴かれた。松園は仕上げた絵からふと顔を背けた。

 幸い人は画面の凄艶に、殊に藤の花房にからめた蜘蛛の巣紋様の衣裳の美しさや、後れ毛を朱唇(しゅしん)に噛み切る怨みの表情のしかも優しいのをほめては呉れた。松園はどんな評判にも微笑って応えなかった。或る席で鏑木清方(かぶらぎきよかた)に一言、持味じゃないと批評され顔を伏せて頷いた。

 その後三年、絵が描けなかった。大正十一年、やっと帝展に出した「楊貴妃」もよそよそしい絵だった。十五年第七回帝展の「待月」は巧緻な松園流が評判を呼んだが松園自身に心の張りはなかった。(おばしま)に立ち添って遠い梢の上の月を待つ女の後姿にどうしても力がなく、苦しまぎれに背に柱を立て通したのを人は巧いとほめた。だが巧ければよいのだろうか。松園は帝展委員の肩書のまま、もうこの上手ぬるい作品を出す気になれなかった。昭和二年から八年まで、松園は本舞台の帝展に一作も発表しなかった。出来なかった。閨秀画家としての大きな名声の蔭で、重い絵筆をもて余し、松園は時々渇くように死を思った。

 描きやめることは出来ない。幼いからの絵筆を折ることは出来ない。母が何と思うだろう──。

 松園は、「娘の図」をパリヘ、「新蛍」や「伊勢大輔」をイタリーへ、「虫ぼしの図」をドイツヘ、「大文字山の送り火」をアメリカヘ、請われて各国の日本画展へ送りつづけた。皇族、華族、富豪の依頼画も多かった。ただ絵筆と揉み合ってみるほどの気性の毅さだけで松園は描きつづけた。

 その頃母は笑いながら言った。

つうさんも、すっかり絵描きにおなりたなあ」

 晴れ晴れしい顔を見せない娘を励ます積りだった、が、松園は不機嫌に答えなかった。姉様遊びの一途(いちず)な所が()けて、門戸を張った画家の(うま)みが描く絵描く絵に見られるにしても、巧みで注文を一つ一つこなしているだけの画業には虚ろな、腑甲斐のないだるさが(まつ)わる。子どもらしい気ばりで、師や母に励まされ、楽しみ楽しみ絵を描いた昔が松園の胸に朧ろに甦ろうとしていた。そして、母に、死なれた。

 祖母の棺を信太郎が運んだ。松園は孫を抱いて立ち辣んでいた。

 自分のために母とは何だったか。母のために自分は何だったか。薄茶に緑の描き分けの帯をまるい蝶に結び、朱い錦のお守りをくくりつけられた孫の着物に光琳(よう)の梅の花が咲いていた。指をしゃぶりながら何か物を言って顔に顔を近寄せて来るのがよく聴きとれなかったが、黙って頬を擦り寄せていると、あやしい渦がからだの奥に捲きはじめる。死なれた母を見送りながら松園は自分が母になった頃の、自分も眉を青く剃った頃の思いを、今唐突に想い出していた。そのことに驚いていた──。

 此の年、松園は久々の帝展に「母子」一作の成果を世に問うた。

 さりげない絵だった。一面銀をまぜた淡い灰色の右寄りに涼しげに唐簾の片端が垂れていた。辺りの色に透けて浮かんで簾には夢見る瑞鳥(ずいちょう)の姿や紅白の牡丹花や、壼に生けた梅の花も見えていた。そして簾の前に青眉の母が横顔を見せて幼な児を両の腕に抱きかかえ、立っていた。

 濃まやかな髪の美しい髷に結い、帯も黒繻子(くろしゅす)。青磁に細い同色の立て縞の着物を着、下重ねも淡青のうしろ衿から胸もとまで、松園は母の(おもかげ)から()りに選ってなつかしい好きな粧いを描いた。抱かれた幼な児は背とまるい尻とをこちらへ見せ、結んだ帯には守り袋を描き添えた。むかし息子の信太郎の這いまわる姿を夢中で写生した中から、とり分け愛らしかったうしろ姿を今母に抱かせて、松園は、その幼な子を我が子と想えば、抱いている母仲子が我が姿に想われ、また、このように自分も母に抱かれたと想えば絵筆の先に浮かび上がる我が子信太郎の白いちいさな手や足がさながら自分自身かと想い紛れた。母と子、母と子──松園は念々の息づかいにそう呟きながも描きすすめ、描き切った。

 父太兵衛と逢うことなく、生まれる前に死なれていた松園は、また、母仲子に夫と呼ばれる人の姿をただ一度も見ずに過ごした。父のない娘と夫をもたぬ健気な母との母子家庭が、松園の心身に常人には生じない或る稀有(けう)の論理ないし決意を(はぐく)んでいたことを誰が気がついていたか。

 母には夫がなかった、だから自分も夫は要らない。だが母は子をひたむきに愛し立派に育てて呉れた、だから自分もそのような母として自分の子を産みたい、育てたい。かつて母が、死なれたものの哀しみを娘と頒ち合い寡婦(かふ)のまま生き抜いたのに応えて、娘も自分が夫をもたぬ母となることで、母の愛と献身に殉じ共感を示したい。母が葉茶屋の若い寡婦で通したのが、結果として「つうさんの好きな道やもん」と言って周囲の反対も顧ず松園を画道に押し出したとすれば、松園の胸に、子を佳く育てるとはそのようなもので、そのように仕抜くのに母親に夫はなくて差支えない、子に父はなくて差支えない、という驚くべき先入主が燃える火のように生じたのも、その先入主を松園が頑固に譲らなかったのも、娘の母に寄せる殉愛の証しに他ならなかった。十九の年齢(とし)市村水香に就いて漢学を学び、「その父(けん)にして、その子の愚なるものは(めづら)しからず、その母賢にして、その子の愚なる者にいたりては、けだし古来稀なり」と習った安井息軒のことばは松園の胸に黄金(きん)の釘となって打ちこまれていた。その後十年、松園は、父のない娘、母を慕う娘から、一転して、子を愛する母、夫をもたぬ母へと持ち前の強い気性で身を変えて行った。

 誰の思いにも松園の決意はただ異様だった。信太郎を産むと告げた時、母は青ざめてすこし涙を見せた。だが、松園の決心を強いては揺さぶらなかった。孫が生まれると祖母はひたすら可愛がった。翌明治三十六年、家業の葉茶屋もやめ、松園は画家として門戸を張った。住みなれた家をすて車屋町御池(くるまやちょう・おいけ)ルに移転した。静かな、だが厳しい生活がはじまった。その松園二十九歳の頃の年恰好に「母子」の母は描かれながら、顔はそのままなつかしい母仲子を描いた。

 松園は絵筆を運ぶあいだに、母こそ美人と思っていた昔を想い出し、なぜこの大事なことを久しくなおざりにしたかと悔まれた。青眉の母こそ美人──それが姉様遊びの絵の最初から自分の絵筆に籠もる一念ではなかったか、自分の美人画はそれと思いつめながら、いつからか技にまかせて持味でないものも描いた。かつて眉をひそめた人形なみの美人画を描いていた──。

 むかし四条柳馬場の角に金定(かねさだ)という絹糸問屋があって、おらいさんという色白の、襟足の長い青眉のお嫁さんがいた。母はおらいさんのことをほめていつも綺麗な人やなあと言い言いしたが、幼いつねは母の方が綺麗と頑なに思いこんで却って母の顔をじっと見つめて叱られたことがある。

 菓子屋のおきしさんも美しい人だった。面屋(めんや)のおやなさんも評判娘だった。やあさんと呼ばれたこの人は舞の上手で、母親の三味線で稽古をすると、夏の宵の口、店先には人だかりがして奥の舞姿を見物していた。八枚扇をつかうほどの舞でもやあさんは役者より巧いと噂され、誰のこともよくほめる母は、ついでにつねの絵もほめ、「がんばりや、つうさん」と励まして呉れた。

 松園は少女の頃の京の町、殊に母が店を構えていた頃の奈良物町界隈の(おもかげ)を忘れてはいなかった。だが、ついぞその頃の風俗を、その頃の美しかった町の娘たちを描こうとはしなかった。それはまだよいが、若く美しかった母の日常の起ち居振舞いを描かなかったのは、これ以上はない画材を顧なかったに均しい──。

 母は店で客の相手もすれば、縫物、洗い張り、掃除それに食事の世話も、これ一つといっておろそかにしなかった。日のめが()ろうなるまで障子の(きわ)で針に糸を通していた。家には茶の葉を乾燥させる大きなほいろ場があった。その火かげんがむずかしくて、夜中(やちゅう)眼をさますと店先にことこと音がして、母が起きてひとりほいろをかけていたことも何度もある。香ばしい匂いが家の内にただよい、ぱらぱら、ぱらぱらと、しめった茶を(ほう)じている()の葉の降るような音を聴きながら、つねは母の胸に抱かれるのと同じ安らかさでまた眼をとじた──。

「母子」は政府買上となり、松園は間を置かず「青眉」を描いた。日傘に隠れて白い顔ににじむような青い眉の若い母。そのあどけないほどのはじらいの表情を、松園は、「母子」よりも色を多く使ってはなやかに描いた。青眉の(ふう)を知らない人がもう松園のまわりに多く、請われて青眉に就いて新聞に短い文章も書いた。

 その文章に、松園は女は美しければそれでよいのではない、自分は此ののち、「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」を描くと述懐した。松園はその絵を、母の、ひいては母なるものの絵、と思っていた。女の内にひそむ母なるものの神髄を描きたい、おもちゃ描きのむかしから本当はそれしか自分には描けはしなかったと思っていた。

 はたちのむかし、松年先生と楳嶺先生の異なる画風にせめがれ悩んでいた頃、ふと思いつきに母にすすめられて安井金比羅の絵馬を見に行ったあの日、四条の橋で出逢った青眉の母子をもう松園は忘れかけていながら、母に死なれての発奮のさなか何度も想い出した。あの日絵馬堂でのさまざまな物思いに励まされて自分の絵、自分の美人画を迷わず描こうと奮い立った中には、あの青眉の人と逢うたのも何かのちからになっていた、松園は家に帰ると、真顔で自分の母に「あては、これからお母はんだけを描かしてもらいます」と言った。母は呆れたふうに娘の顔を見返しながら、冗談にはしないで、「それは。──ま、よろしいお願いしまひょ」と会釈まじりにまた溜め置きの、厚い薄いとりまぜた白い縮図用の紙を七、八枚、重ねてつねに手渡した。

「おおきに」

 縮図帳に切り揃えて綴じながらつねは、改めて吉田屋で縮図した井特の立姿の大夫の絵を眺め直した。不遇にめげず自分の絵を頑固に描き徹して、解剖図のような異色の仕事にも特技を生かした画人が、何か筋骨たくましい怒った眉や鼻筋や顎をもった大男に想像された。松つぁんも年寄りの割に背丈があった。皺くちゃな顔のその皺が、異様に大きく見える顔そのものと重なって、幼かったつねにさえどんな世渡りをして来た人かと想わせた。井みつの絵馬のはなしは思わず母を笑わせながら、だが母はすぐ口を(つぐ)んだ──。

 松園は口を噤んだ母の顔を覚えていた。五十四になるまで男の情にほだされつづけて、なお花ごころを包み切れず三年を限って男を断とうというような女の生きようを、母は母なりにあの時どう感じたか。松園は最期の五年、六年、床に臥したまま死んだ母が切なくてならなかった。

 寝た母の世話は息子の嫁にもまかせず何一つおろそかにしなかった。昭和初年以来の画業の不振をそのことに寄せて思いやって呉れる人もあった。母のからだは、中風という衰え方のわりに肉づき白く、背にも脚にもしみ一つなかった。乳も形よくちいさいまま崩れた印象はなかった。身ぶりで察して母の床に松園も添い寝した時、娘の手をとり母は、自分の胸乳へそろそろと運んだことがある。背から母を抱き、松園は自分の手を上からおさえている老いた母の手のまだやわらかなこと、掌に伏せた乳のまるいことにとめどなく涙を流した──。

 次の年、第一回三越日本画展の作品を仕上げた松園は、つづいて春秋会の絵にかからねばならなかった。三越に出した「鴛鴦髷」も、前年の「青眉」と同じ行き方で、幼時の憧れを生まに、真直ぐに生かした若い母仲子の姿だった。眉を描き、髷を描く。松園は遠い故郷へ里帰りする心地でそれらを描いた。久しく自分の絵が趣向の絵といわれ、自分も評判に応えて、とりどりに凝った画題を凝った趣向で描いて来た。さりげない女姿でなく、みな身を寄せて或るとくべつの情緒に応じたとくべつの姿をし表情(かお)をしていた。娘ごころに嫌悪さえ感じたことのあるいわゆる美人画に近づいた絵を描いて来たことを、松園は「母子」と「青眉」と今度の「鴛鳶髷」を経て内心に恥じた。

 その頃、京都博物館で祇園井特(ぎおん・せいとく)の絵を揃えて展示することを松園は息子から聴いた。博物館の研究員に井特の好きな人がいることや、その玉井なにがしが書いた一、二井特に就いての論文にも、伝記面は母に聴いた以上の目新しいことはないとも信太郎は教えて呉れた。幾分、こわいものを待つ心地で松園は展観の日を待ちかねた。

 (あつ)まった井特の絵は一室三十点に満たなかった。しかも想像以上に玉石混淆だった。だが一点一点叮嚀に見て行くと、初めの印象は描かれた画材がさまざま、と言っても大概人物なのだが、老若男女とりまぜ、妓女も町家の人も一どきに眼に入ったからだと分った。すべて粘っこい写実、濃厚な著彩。その中で、吉田屋が言っていたようにあの大夫立姿図は、一段すぐれて優しい絵だった──。

 絵はもう吉田屋の手を離れていた。三条堺町の大店(おおだな)も様子をかえ、親切だったあの主人も、その次の代の主人も世になかった──。

 めったになく松園は信太郎と連れ立って博物館に来ていた。息子は、母がこの異色の画風に関心をもつことは聴いて知っていても、今、大夫の絵の前で母ほどの画家が一すじ涙を隠す理由は知らなかった。

 つねは──あの昔に絵馬を見て帰ったあと、写生帳で見直すだけで納得しなくて、もう一度直かに井特の絵が見たくなった。叔父を介して吉田屋へ頼むと、お安いことどすというのでつねは今度はひとり三条へ出向いた。

 だがこの日つねの為に画幅を床の間に懸けて呉れたのは、清太郎という吉田屋の若旦那だった。二十五、六、無口だった。無愛想ではなかったが、とくべつ絵が分ったり好きであったりするふうでなく、つねは様子が違って胆を消し、奇妙な初対面だった。改めて叮嚀に写生しながら、手もとを覗かれているようで頬が熱かった。匆々(そうそう)に帰りかけるのを清太郎は引きとめなかった。が、玄関まで送って出ると、「ようお気ばりやす」と一言言って呉れた。あかくなってお辞儀をして出たが、おっとりした中に、長者めいた清太郎の声音(こわね)の張りは耳にのこった。

 清太郎に励まされた翌年楳嶺先生が(なくな)り、つねは同門の高足(こうそく)竹内栖鳳の門下に加わった。橋本関雪、西山翠嶂、西村五雲、徳岡神泉、土田麦僊、小野竹橋、金島桂華、池田遥邨ら猛烈な俊英を擁し、栖鳳は一日一枚必ず写生の筆をとるよう門人を督励した。つねは女ながら負けじと泊りがけの写生旅行にもついて行った。歩いて歩いて、家へ帰り着くと上り框から脚が上がらないことも何度もあった。「義貞聴琴図」とか「清女(けん)簾之図」のような絵をつづけて描き、つねは母を描くと言っておいたことで、今さらその母に違約を冷やかされたりした。

 そのような時に母は室町の義弟からつねの縁談を持ちこまれた。それまでもあったことだが、今度は三条吉田屋の跡とり息子だというのだ。

 つねは正直に仰天した。叔父の前に呼び出されてつねはしどろもどろだった。母は「つうさんの考え一つ」と静かだった。性急な叔父でさえもいささか思案に余る顔つきだった。

 つねは清太郎との縁談を断った。

「なんで、え」

 母は二人きりの時に訊いた。母はつねの動揺を見知っていた。上村の名跡はどうでもいいとまで言って呉れた。

「絵が描きとおす──」

 それも本音だったが、つねはこんなことを想い出していた。十ぐらいの時のこと、雪もよいの寒い日、母は三条縄手を(さが)ったところの知り合いの家へ用事で出かけ、つねは家で姉と二人留守をしていた。祖父もまだ帰らなかった。

 あまり母の戻りが遅く、つねは姉がとめるのを振り切ると傘をもち、奈良物町の家から四条の橋を渡って迎えに行った。寒い上に道も暗く泣きたかった。目ざす家まで辿りつくとちょうど母が出て来る所だった。母も気がせくふうに送って出た人に挨拶を返していた。

「お母ちゃん」

 泣き声になって物蔭から呼ぶと母はかけ寄って、かじかんだ両手にはあはあ息をかけ揉みほぐして呉れながら、声もなくつねを見下ろしていた。眼に涙が光った。何でもない光景だがつねは忘れられずにいた──。

 ──数年が経ちつねの画業は進んでいた。一時、宮中人物、上臈、女房など歴史に取材した画材を選び、中には支那の風俗も描いたが、二十三歳の時珍しく「一家楽居図」のように全く身辺の属目や想い出を見据えた絵へ戻って、それが宮内省御用品となった。また端的に「美人」の母を描いて褒状を貰った。漸く上村松園の本領は京都だけでなく広く知られて行った。

 当時明治二十年代から三十年代へかけて日本画の最も権威ある団体は、有栖川宮熾仁(たるひと)親王を総裁とする日本美術協会で、例年上野桜ケ岡の列品館に春秋二季の展覧会を開いていた。自然東京在住の画家を多く網羅していたが、京都からも岸竹堂、松園先師の鈴木松年、松年の父百年の門下の今尾景年らはしばしば出品した。現在の松園の師匠竹内栖鳳も盛んに作品を送っていた。

  〝桜ケ岡〟とも通称された美術協会から、青年グループが明治二十五年に日本青年絵画協会を創り、岡倉天心を会頭に同じ上野の〝竹之台〟に拠った。二十九年には東京美術学校出身者が合流して日本絵画協会と名を替え、当時の教授の橋本雅邦や川端玉章、助教授下村観山、菱田春草らも陸続と大作を擁して参加した。雅邦が一世の師表として活躍したのも、横山大観が出世作「無我」を描いたのもこの絵画協会だった、むろん京都の松年、栖鳳らも参加していた。松園の「美人」は協会と日本美術院連合の初の共進会出品作だった。

 二十五歳を迎えた春早め、松園はちきりや内儀(ないぎ)の折入っての頼みを受けた。このちきりやは松園の祖父が支配人をしていた名代の呉服屋で、場所も吉田屋に近い三条高倉南()ルにあり、夏は帷子(かたびら)、冬はお(めし)などを手広く商う京都で一流の老舗だった。母が太兵衛を迎えて四条御幸町(ごこまち)の奈良物町に葉茶屋を開いた時店の名にこのちきりやの屋号を借りた縁も深く、謂わば主筋に近かった。

 頼みとは、ちきりやの娘が輿入れに就き、「つうさんは絵もお描きやすし器用やよって、着つけや何か世話して貰えまへんやろか」というので、当時つね他所(よそ)からももう二度三度そんな用を頼まれたことはあった。お安い御用なのにわざわざと、即座に承知したが、祖父も母も気乗りのした顔でなかった。自分が結婚する、婿養子をとる、ことを頑なに(がえ)んじないまま、他家の嫁入り仕度に羨しそうな顔もせず気軽に出向くのを、母たちは本意なくまた不憫(ふびん)に思うらしく、つね自身、花嫁姿や青眉の人を見ると人並み以上に胸打たれ憧れてもいた。

 殊にこの時のちきりやのお鶴さんの、はずかしい中に嬉しさをこめて自分のからだを親類の女たちにまかせながら美しく晴れがましく着飾って行く様子、母親に手をひかれて門出する姿は、つねにこれこそ人生の花ざかりと思わせた。花笄(はなこうがい)、櫛かんざし、あげ帽子などつねはスケッチの方もおろそかにせず、附添う母親の前結びの見事な帯の色かたちまで克明に描きとめた。

 お鶴が堺町(さかいまち)の吉田屋へ嫁入りしたことを、つねは万端(とどこお)りなく果てたあとに知った。迂闊だった。二度三度家でも話題にしたが、つねにすれば常日頃親しくもないちきりやの娘の嫁入り先を詮議する用はなく、そうと聴いてしまった時も、あ、と思ったきり話題もよそへ逸れて意外なほどつねはとくべつの思いをしなかった。そして春の新古美術品展にこの婚礼の門出(かどで)を一幅に仕立てて出し、三等銅牌(どうはい)を獲た。二尺の竪幅(たてふく)に親に引添う花嫁御寮の花はずかしい伏目の横顔、紋服と絢爛の帯、清楚な髷。

 この展覧会は規模の大きいものではなかった。つねはまた「人生の花」と題したこの作品をさほど懸命に仕上げたのでもなかった。自分にないもの、ないこととこの頃はつねも思い決めていたし、だがそれは頑なにこのような女の幸せを拒むのでなく、やはり母が(うず)めて呉れた分は自分も埋め返したい、自分の花ざかりは絵の中にと、それ位の覚悟はして描いてみせたものだった。それなりに女の子らしい姉様遊びが至り着いた或る極地を示していた。

 この絵は、或る日突然吉田清太郎の訪問によって掠うように運び去られた。つねは拒めなかった。請われて拒めない自分の気もちにかつて感じたことのない気弱なものを認めてつねは顫えた。

 何を思ったか清太郎は、母のいる前でつねに、「ま、よろしおす。もう一枚お描きやす」と言って微笑った。強引に買い取って行く言い訳のようで、無意味なこんな一言を残しただけで帰って行く清太郎の顔もつねは真直ぐ見なかった。来春にはお鶴に初めての子が生まれそうだと母に話して行った男の表情は、僅かに三十歳を過ぎたまるみを帯びて、「お気ばりやす」と鷹揚に励まして呉れた頃より幾分口数多く(つよ)い眼をしていた──。

 つねは翌年春の日本絵画協会展に「花ざかり」と題を改め殆ど同じ構図同じ意図の絵を送った。おそらく母の他にこの絵が前作「人生の花」とどう違うか分りようがなかった。一見帯の色めも柄も温和しくなっていた。髪飾りも前年の画面より落ち着いた、質素なものに変っていた。だが、それはただ画品を一層磨き上げただけでなく、母に手を引かれた花嫁の袖の紋所は呉服のちきりやのものからつね自身のものに替えてあったように、帯、笄、かんざしもみな自分の持物に描き変えていたのだ。先立ちの母親の横顔も、前結びに立てた帯の柄もつねはそれとなく自分の母や母の愛用のものを描いた。花嫁は一層面伏(おもぶ)せに、(びん)のふくらみや生え際も自分の好みにした。師の栖鳳も、また同じ展覧会に「秋山喚猿」の大幅(たいふく)を出して同じ銀牌(ぎんぱい)を得た先師松年も、誰も、そんなことに気づいた人はなかった。「花ざかり」は銀牌三席を()、閨秀画家松園の花ざかりとなった。

 この時の金牌は下村観山で、銀牌七人、つねは春草、大観に次ぎ、師の松年が五席、すでに堂々の大家寺崎広業も川合玉堂もさらに末席だった。つねは松年の心からの祝詞を受け、また三十五歳の広業が()をきらきら光らせながら人に「花ざかり」をほめているのを上気(じょうき)して遠くから眺めた。年少、しかも女流の松園が北斎の骨法を実によく学んでいるのは何故だろうと広業は頻りにつねにも訊いた。吉田屋のお鶴が初産に失敗し、清太郎がわざわざ上野竹之台の展覧会場に松園評判の絵を観に出かけたという噂も、京都へ帰って聴いた──。

 信太郎を産んだのは二年後、つね二十九歳の秋の暮れだった。産褥から母を見上げ、「お母はんみたいなお母さんにならしてもらいます」と微笑った。絵の道をもう迷うまい。つねは難所を吶喊(とっかん)した。次の年、人の噂も避けたく葉茶屋の店を畳んで車屋町に移転し、つねは一人立ちの画家となった──。

 

「あんた、どうお思いやす」

 井特──に見入っている信太郎にそう訊いてみたく、だが松園はことさら大夫の絵の前から歩を移した。信太郎は母の動きに遅れ、その幾分小柄な、朴直な姿勢を眼の片隅にふと愛しく感じると、松園はいっそ廊下へ出てしまった。

 暫く前、松園は息子の嫁を借りて次の作品を考えたいと洩らしたことがある。信太郎も嫁のたねもどんな絵になるのかと訊き、訊かれてみればこうと言える思案はなかった。松園は二十年来金剛流の宗家に就いて謡を習い、たねも誘われて(はは)と一緒に室町の能楽堂へ出かけている。これまでに「花筐(はながたみ)」の狂女や「草紙洗小町」など何度か手がけては来たが、能の簡潔で高雅な感じをたねのような好もしい若妻の気品と結び合わせて何か考えられないか。例えばたねの立姿をあたかも序の舞のような静かに張りつめた優美さで、画面いっぱいに鳴りわたる感じに想い描いてみたい。たねの日常にはむだのない、細いが毅い筆で輪郭を引いたような所が見え、松園はそれが嬉しかった。

 上品な文金高島田に髷を結わせ、嫁入りの時の大振袖に丸帯も立派に結んでもらって序の舞の二段おろし、扇を一閃して袖を返して立つ、いっそ令嬢風の立姿はどうか──。

 松園は井特の大夫図の前で、もう四十年昔安井の絵馬堂で興奮にかられて自分の美人画に就いて考えたのを想い出していた。一人、背景なく、趣向なく、たださりげなく立つ姿──。それも母を、母なるものをと決心したのに、その後の成り行きは、心は母を想いながら、()った画面ばかりを工夫して来た。母に死なれてすぐ「母子」を描いたような絵は稀だった。

「花ざかり──」

 松園はまた、なつかしいような、(こわ)いような心地で信太郎が生まれる前の絵の題を呟いた。自分も絵の道にと心決めた頃の信太郎が、初めてあの絵を見て、画面の感じがいっそ道行(みちゆき)のようだと言った時、松園は胸を鳴らした。嫁御寮の前に立つ母親が、どうかして女の手を引く男姿にも感じられるとは息子のことばながら、いや他でもない信太郎のことばだから松園も慌てた──。

 ──たねを借りて「序の舞」を描く前に、今度こそ女のただ立姿を描こう。松園は信太郎の案内で、井特(せいとく)に詳しいという人のいる部屋へ博物館の暗い廊下を歩きながらそう思っていた──。

 研究員の玉井も金比羅の絵馬に就いては知らなかった。だが、柚木太淳に協力したという解剖図を見ていて、律義で克明な筆づかいには本の目的を(わきま)えた賢い配慮が窺えたと感心していた。画家ならつい欲しくなる陰翳や線の味を潔癖に抑え、均整のとれた細い力づよい線描きだけで胃だの腸だのの直視下像を鮮明な実感で描写していたそうだ。それは高邁(こうまい)とさえ言えそうな画家の風貌を想像させるほどだったと玉井は述懐し、井特の画品は高いと思わないが、一種の可能性を後世に対しはらんでいると思って居りましたと熱心な率直な話しぶりだった。松園も同感だった。ふと若々しく励まされる心地だった。

井特(せいとく)は文政十三年に七十五で死んでます。その、みつという(ひと)が天保十年に五十四とすると、生まれは天明五年頃、井特がつまり三十歳頃ですから血縁があっても妻か恋人か、娘か、どうでしょうね。井みつと署名した絵は他に知りません、井松という人も知りません。

 もし明治二十三年松園先生が十六のお歳に井松が八十歳で死んだとしますと、これは文化八年、みつが二十五の時に生まれていて、みつの子でおかしくない年恰好ですが、五十五の井特が二十五歳のみつに生ませたという推測もそう突飛じゃないですね。みつは多分祇園の女でしょうから井特と懇意でおかしくはない、が、それほどの絵馬がみつに描けるか、という疑問は出て来ますね」

 玉井は松園の訪問を受けて興奮気味だった。松つぁんの砂絵に就いても熱心に訊いた。

「先生のおちいさい頃、そういう大道藝は、京都では幾らもございましたのでしょうね」

「いいえ、他に聴いたことも見たこともおへん。あったとしてもあの人みたいに手に()った技巧と感覚は想像できません。おそらく──」

「おそらく、一回()りなんでしょうね。そうなると存外調べが早いかもしれません。ひとつ僕に調べさせて下さいませんか」

「今想い出すと、松つぁんのお葬式の時、当時うちの母より幾つか年寄りの女の人が、まだ嫁入り前といった人と二人で顔を見せといやした。身よりの人かもしれんから、そうなると、孫か曾孫さんのようなお人はご存命かもしれませんな」

「そうですね。でも、何より僕はあしたにも安井さんへ出掛けて、絵馬をよう見て来ます」

 玉井は松園が井特に関心をもって博物館まで出向いて来たことを、励まされたように率直に悦んでいた。だが遠慮して何故とは訊かなかった。

 松園は自分が描く女を井特のように露骨に肖像には出来ない。醜いなりに描くということもして来なかった。写実的なところを超えて画面に一種永遠の気稟(きひん)を結集したい。井特も佳いし、ことにあの大夫図は何かしら教えて呉れたが、謙虚に学びながら今こそ自分の美人画に一つの典型を得たいと思うと、その晩一人画室に坐ったなり松園は、眼の奥に頻りに井特の絵を見、耳の奥に「ようお気ばりやす」という声を何度も聴いた。

 

 大よそは掴んでいたが、立姿のどんな女を描くかまだ迷いながら、結局藝妓(げいこ)を、それも(すい)ななまめかしい藝妓でなく、なるべくふだんの感じのまま一筋ぴんと意地や張りのある藝妓を描いて、井特のあの大夫図に打ち重ねるように自分の絵の久しい理想の形を表立ててみようと決めた。決心というよりもうすこし心の和んだ、嫁を借りて次の機会にぜひと思っている「序の舞」のためには手ならしであるような、気軽な意欲だった。

 画室は母屋(おもや)から廊下続き、南面した二階建で、漸く猛暑の夏に向かう今は、例年のように階下(した)に下りて仕事をしていた。東、西、南が障子とガラス戸の二枚重ねで、日光の調節が利き、一尺幅ほどの外廊が張り出してある。下は四囲掘り池に金魚、鮒、鯉が放ってある。池の向うは樫の木、藤棚、ゆすら梅、山吹などで囲まれ、母屋との中庭には小鳥の小舎や、兎、鶏、今は狐小舎まである。此処へは信太郎のほか誰も来ない。信太郎もよほどでないと入れない。

 数十年描き溜めた縮図帳が山になっている。手控えの手帖も積んである。用紙、絵具、絵筆、絵具皿など奔放に散らばっていても何が何処というのはすぐ分る。掃除も自分でする。絹布切(けんぷぎれ)の桟払い、棕櫚の手製の箒、みな専用のもので、廊下に出した万年青(おもと)、葵、サボテンの鉢もみな自分で世話をする。

 松園は画室に籠もって、十枚二十枚、小下絵(こじたえ)を描いた。背景がない。傘もささず団扇も持たない。鏡、行灯(あんどん)、三味線もない、屏風も簾も、足もとに畳もない。竪長の画面にすらりと丈高く立つだけの藝妓の姿が容易に決まらなかった。若い頃よくそうしたように、松園は夜遅く壁に自分の影を映した。鏡の前で形をとった。それもふしぎに愉しかった。

 十日余りして博物館の玉井から信太郎に電話があった。

 松園も承知して、その日のうちに玉井は竹屋町(たけやまち)へ訪ねて来た。玉井は安井神社で(くだん)の絵馬を下ろさせ、社務所を借りて丹念に調べ、ほぼ確実に井特の画風との類似を認めてきたと言う。

「ただ井特より色の使い方が温和しいんです。濃厚な色彩を使っていても配色に工夫がしてあって、克明な写実じゃない。一種の型が出来ていて、井特のように、一点一点の絵が銘々にそれしかないという居直ったような実在感を主張するのとは、ちょっと違っているようです」

 玉井は、報告しますというほどの口調でまるいメガネを拭き拭き喋った。

 神社は由緒のわりに複雑な神仏習合の来歴をもち、古記録の類も散逸して奉納の事情は分らなかった、「ですが」と、玉井は頬をほころばせた。彼は松つぁんの砂絵に就いて聴くと反射的に、盆石のことを考えたという。真塗盆(しんぬりぼん)白砂(はくさ)を刷いて、田植や、天の橋立などを表わしてある都雅な趣味藝だ。

 玉井は幸い盆石の小川流家元に手蔓があった。事は砂だからと当てずっぽうに相国寺町まで、出向いて、先代家元のもう八十過ぎた人が存命なのを幸い心当りを想い出してもらったが、此処には特別耳よりなはなしはなかった。ただ、もう一派八島流というのがあり、家元はやはり京都で、東福寺内にある、たしか高樹院、と紹介状も貰ってその足で九条の東福寺まで行ってみた。

 雨の高樹院は遅いさつきが咲き溢れていて、門を潜って庫裡(くり)までの甃道(いしみち)づたいは夢のような花やかさだったが、聴くと、八島流は今は近所の本町十五丁目へ移っているという。

 仕方なく、人にも訊いて尋ねあてた先は、「八島」と表札はあげていたが家元という感じでない普通の仕舞多屋(しもたや)で、一応話をしてみると、今玄関から上へ(しょう)じ入れて呉れた六十過ぎの婦人が、松つぁんこと井田松造の孫に当る現八島流の家元だった。ちいさな名刺には、八島流六世八島南風と刷ってあった。

 話の途中から松園は盆景というものを造る所を見てみたいと思っていた。清水(きよみづ)界隈や、祇園、四条、中京(なかぎょう)でも呉服の店や茶道具の店の窓に時どき見かける。むかし祇園会(ぎおんえ)ごとに、山鉾巡幸よりも松園が楽しみに室町筋や鉾町を歩いたのは、家々の自慢の屏風絵が祭風情を一層花やかに飾ってふんだんに見られたからで、さも清げに(しつら)えた玄関や表座敷を祭見の人々は思い思いに覗くことが出来た。松園はそれ一つが噂になるほど(かど)ごとに熱心に写生してまわりながら、時には畳半分もある滝津瀬や富士松原の盆景にも出遇った。とくべつ心惹かれた記憶はないが、黒に白の配色だけでなかなか巧みなものだと思いながら、一度も実際匙や羽根を使う所を見たことがない。

 玉井のはなしの跡切(とぎ)れには口をはさもうと思い、松園は、自分の膝がしらを見下ろして、頷き頷き聴き耳をたてていた──。

 松造はやはり祇園神幸道(じんごみち)で三味線の張替などを業としていた通称井徳(いとく)の生まれで、父は徳造、即ち画家井特(せいとく)だった。井特は絵は本業でなかったが、祇園花見町の稲葉屋の藝妓小みつに松造を産ませた頃は殆ど家業を顧なかった。売れっ子の小みつはだが井特の女房とはならず仕舞いに、井光(いみつ)と看板をあげる茶屋のおかみになった。

 松造は生まれるとすぐから、神幸道の家で飯焚きの女にあずけられての捨て育ちで、稲葉屋へ母の顔を見に行っても、当の母親から犬猫なみに手のひらを返して追いたてられた。井特は早くから男やもめで、仕方なく、松造も四つ五つから父が席描きに主に祇園の茶屋をまわったり、時に頼まれて武士町人隠居などの絵を描きに行く時もこぶになって付いて廻った。

 柚木太淳の解剖書に「真写」の至藝を買われた時、井特の社中二人が加わっている内の鈍雅(どんが)と呼ばれている一人が、この松造の画人として最初で最後の奇妙な名で、当時彼は十五か六だった。二十歳で父を喪ったが、生前から盛んに代作を引き受け、長じて定職もなく、父同様に肖像画とも美人画ともつかぬ絵を描きながら、一時江戸へ出て初期の肉筆浮世絵の筆法を執拗に習って偽作でなりわいを立てたらしい。画技に署名を求められれば平然と祇園井特と書き、中に咎める人があっても、その方が将来値になると言って取り合わなかったという。

 安井の井みつの絵馬も松造の筆に違いなく、もとより奉納の事情はよく分らないが、小みつという女はよほど風狂の(たち)であったらしいから、事がかりに冗談に近くともいかにもありそうなはなしで、松造もまさか井特でもなくて井みつと署名したのなら生みの母への皮肉か報復か、「そやけどそんなけったいな絵馬どしたら、けっこうお茶屋商売には花を添えはりましたこってっしゃろな」と歯の皓い八島流の家元は口もとを手で隠して笑った。井特は他に係累はなかった。

 松園はもう盆景にこだわっていなかった。

 奇妙な、年老いた父と、母の愛を知らぬ男の子がどんな恰好で花街(いろまち)を歩いたやろと想像するうちに、松つぁんがむかし、描きかけたまま足で踏みにじった女の絵はその風変りな母親の姿だったかと想えてならなかった。だが玉井の言うように松つぁんが母親を怨んで、頼まれた絵馬にわざと恥じしめて母の名を署名してみせたとは信じられない。もう少し気がるな、互いに突き放しながらどこかで思い合った同士の諧謔といったものもありはしないか。絵馬の図柄こそ松つぁんの皮肉でも、上に書かれた文句は母も、心得て代筆させたに違いない。わざと「但三ヶ年間の事」と、息子に書かれてこの母と子は二人してぷっと噴き出さなかったか、またよく見れば男どもの中に井特の映えない町絵師の姿も見つかるのだろうか──。

「それにしてもどうやってふだん暮してましたんやろな」と信太郎がのそっと口をはさんだ。

 玉井は頷いて先をつづけた。

 ──松造の二十代から三十初めの閲歴は殆ど分らない。だが三十も幾つか過ぎた歳で唐突に八島流盆石の家元へ婿養子に入った。その妻は自分、即ち今の家元の祖母、四世南風で、縁組の仲に立ったのが誰かも分らない。

 所が松造は生来無頼(ぶらい)ということもあったが、殊に華奢で上品な盆景の技に思いがけない手荒い革新を企てたことから、追放同然に八島流を抜けねばならなかった。

 盆景で最初に習うのは石を選び、そして波の描き方山の盛り方だ。(おも)の石、()えの石、あしらいの石、みな黒い。あとはすべて白砂で、荒石のほか一の砂から八までだんだん砂粒が細かくなる。八の砂で、波、川、雲、霞、また遠山や、雪を描く。波羽根とか丸匙、高砂匙などを各種使い分けて盆中に白一色の景色を刷き分ける。ほかに松、柳、桜、また鶴、鷺、鴨など、釣する人、(たきぎ)負う人などの小道具を盆中に配することもある。

 玉井は玄関ですでに芙蓉花の黄金地(きんぢ)衝立(ついたて)の前にみごとな瀧を見ていた。「春青く、夏山くろく秋もみじ、冬は白砂(はくさ)になる雪の山」は、石を選ぶに就いての謂わば道歌(どうか)と聴きながら、なめらかな黒い石を近中遠に配し、水しぶきをあげて吶喊する岩間の激湍(げきたん)は、黒白(こくびゃく)二色にさながら松籟(しょうらい)を響かせて、心憎いほどの涼しさだったという。

 松造が流儀の忌諱(きい)に触れた第一は、色砂を使って景色の描写を多彩にしたいということだった。石や小道具を頼らず、すべて砂で表わせばよいと放言したのはその第二だった。だが流儀の面目は石にある、白砂にある。伝統があり潔癖がある。

「そんなもんは、あんた勝手に、地べたにでもお描き」

 隠居して間もない三世家元は今さらのように無頼の松造に愛想を尽かし、妻も、夫を(おと)しめた。

 生まれたばかりの女の子を一人家元に残し、あたかも役目だけ果したふうに松造はまた祇園に帰った。自分が祖父と関わったのは葬式の時に御幸町(ごこまち)路地(ろうじ)の奥へ母と出向いたのが一度()りだと、家元はそれも遠いことだと言って陽気に口に手を当てた。

「あ、それからな。お祖父さんが家元を出やはります時に」と、家元は神妙な顔をした。

 当時まだ八島流は高樹院に同居していたが、松造は夜中(やちゅう)仏前の黒光りのする板の間に、およそ身丈(みのたけ)五尺余りの金時(きんとき)が大石を腹に乗せて踏ん張るところを五色に砂を使い分けて描き、さらに金時の足もとに胸乳を露わし、髪をくしけずる横坐りの綺麗な青眉の女姿を描き残して行った。誰の眼にも山姥と金太郎との組み合わせは、歌麿から学んだものか、だが羽根で刷いたと思えない五彩の砂の色鮮やかなこと、描写の細かなこと、夜明けて住職が仏間に入ろうとして異様な人の気はいに一瞬立ち竦んだほどの迫力だった。

「その時、はじめて松造は、井松という署名を砂で残していたそうですよ」

 玉井は新進の美術史家らしく、祇園井特の背景や系譜が一気に掴めた満足にまるい頬を一層まるくふくらませ、松園の前に感謝の頭をさげた。

「それやと、あの──」吉田屋の、と言いかけて松園は言い紛らしてから、あの大夫図なんかは井特が描いたか、井松の若描きの代作かどっちでしょうと訊いた。玉井も暫く考えこんでから、

「いや、やっぱり分りませんね今は。でも、きっと井松の絵がこれから見つかりますよ。井特の絵の中からも井松の井特が出て来ると思います、また調べさせて下さい」

 そう言って玉井は帰って行った。

「あの勢いやと、但し三ヶ年の小みつのことも調べあげて来やはりますな」

 信太郎は玉井を送り出すとおかしそうに母に冗談を言った。「但三ヶ年間の事」と書かれていたおかしさがもう四十余年の昔から急に甦って来た。一緒に笑いながら、そんな母親でも松つぁんはきっと好きで慕っていたのだと松園は想像した。青眉の山姥──思わず松園は眼がしらを熱くした。

 その晩も松園は小下絵に苦心惨憺して夜半に床に入った。夢の初めに母が若い頃書いた玉露の値段表が出て来た。ああ、こないだ古い反古(ほうぐ)の中から出て来たあれやな、夢に見てるらしい、と半ばうつつに思いながら達筆の文字をゆっくり読んで行った。

 一、亀の齢  一斤付 金三円

 一、綾の友  同上    二円五拾銭

 一、千歳春  同上    二円

 一、東雲   同上    一円五拾銭

 一、宇治の里 同上    一円

 ちきりやの店先へはいろんな人が寄る。坊さん、儒者、画家、茶人。佳い茶を喫み、四季の贈答にも宛てるのは京都の町の上品な習慣だった。

 夢の中で母が愛想よく声をかけていた、「まあお寄りやしとくれやす」

 客が応えていた、「そうどすな、ほなちょっと休ましてもらいまひょ」

 母は手早く薄茶を()てて出す。西隣りの葭屋(よしや)から菓子を買って来て同席の客に配って歩く人もいる。

つうさん。ええ絵お出来やしたか、見せてんか」と寄って来る客もいる。

 突然、暗い所に、松つぁんと向かい合って坐っている。松つぁんはえらく若く、ざんぎり頭に油をつけて木瓜(ぼけ)の紋附を着ている。怒ったような顔をしてこっちをじっと見ている。手招きする。寄って行くと、む、と掛声をかけて松つぁんは眼の前へ、いきなり大きな片掌をひろげた。太い、長い指が突風に煽られた(すすき)の穂のようにもつれ合うと、卒然と見渡す限りの野の景色の涯てに雲の飛ぶのが見えた。

 晴れ上がったままの白い雨。雨脚が繁くなる。野もせはただ風の色となり、ときどき魂消(たまぎ)えるような遠い遠い人の声。と、またしてもぬうと男のてのひらが眼一杯に開かれ、一つが二つ、三つ五つに増えて銘々に五本の指を展げては握り、握っては展げて草野の上をこうもりのように飛び交う。やがててのひらがみな握りしめられると急にくらやみ。淡い黄金(きん)()にふちどりされて幾つもの握りこぶしが真暗な中で遠く近く浮いたり沈んだりする。

 ああいや、いや。──夢か、と思って寝返りを打った。

 暫く、何もなかった。仰向けにつねは寝ていた。

 眼をあくと松つぁんの皺くちゃの顔が笑っていた。握ったこぶしから黄や藍色の砂が洩れこぼれ、すると黄色い砂も藍色の砂も(あか)も黒も入りまじり、辺り一面賑やかに櫛、笄、扇子やかんざしが見えた、松竹梅を描き分けた長い友禅の(たもと)が揺れ、また金銀の亀甲文様や天蓋松や波に千鳥の小袖が宙に浮かんだ。つねは急いで矢立ての筆を持って追いかけた。

「白ヒッタ」「茶」「赤地」「丹モン」「藍クサ付立(つけたて)」──

「竹林七賢堆朱彫(ついしゅぼり)」「四寸五分」「シタン製」「金」「赤」「クロクヤケル」「銀紋鋲打(びょううち)」──

 筆を使いながらつねは苛立って松つぁんに何か叫んだ。何を言ったか自分に聴こえず、松つぁんは承知したような嘲るような顔をして、両の掌をぱあっと(ひら)いて見せた。何もかもごちゃごちゃに暗い大きな穴に吸い込まれ消えてなくなり、二つのてのひらが一双の金屏風に見え、それもいつか一つの遠い(あけ)の空の底白んだなつかしい藍色に変った。きらきらと黄金色(きんいろ)がかすかに(またた)いていた。

「なるほどなあ」つねは呟いた、「ええ色どすな──」

「ほんにええ色やな」と母が急にそばへ来て合槌を打って呉れた。つねは嬉しかった。

「お母はんちょっと其処へ立ってみとおくれやす」

 母の返事はなかった。つねはじっと()けてゆく空を見上げた。さらさら砂をまく音がして、右から二本、左から二本、(あで)やかな鼈甲(べっこう)(かんざし)が大空に添い寄って柔らかな女の前髪を飾った。華奢な挿櫛(さしぐし)、ゆったり結い上げた髷。紫に白の水玉の手柄は見覚えていた。衿もとから抜け出た(うなじ)、すこし半身(はんみ)に涼しい()もとを張って母は心もち遠く何かを見ている。

 ──あれはお母はんやろうか。

 ──お母はんに違いない。

 右手はかるく耳のうしろへ。左手で、孔雀の羽根の一筋を大模様に描いた帯下で(つま)をゆったりとって。

「お母はん、綺麗やわ──」とつねは呼んでいた。

「いや、あれはおっさんのお()はんやが。きれいなお人やろが」と松つぁんも負けじと叫んだ。遠い空の黄金色(きんいろ)が刻々とまぶしく光りはじめ、母の姿は孔雀の羽根から、あげた手さきから、気がるな下駄の上の素足から、朦朧と影を(うす)めて行った。散り崩れた五彩の砂は、やがて──輝くいちめんの朝空に沈んだ。

 

序の舞はまことに一代の名品に違いない。だがその前年に描かれた天保歌妓(てんぽうかぎ)は、後年の夕暮晩秋など母を描いてしみじみなつかしい佳境を予兆する、さりげない傑作と言えよう。」

 昭和二十三年秋、女流初の文化勲章を(はい)した松園上村津禰(つね)は、翌二十四年八月七十五歳で没した。鏑木清方(かぶらぎきよかた)が朝日新聞に寄せた追悼の文中、右の一節が故人の耳に届いたかどうか、知る由もない。

 

──完──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/04/26

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秦 恒平

ハタ コウヘイ
小説家 1935年京都市に生まれる。1969年小説「清経入水」で第5回太宰治賞受賞、第33回京都府文化賞受賞、元東京工業大学授、日本ペンクラブ理事の時電子文藝館を創設した。

掲載作は「展望」1972(昭和47)年12月号に初出、吉田健一は朝日文芸時評全面を用いて称讃した。