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清経入水

 夢であることを知っていた。それどころか、同じこの夢をつづけて何度も見ていた。夢の中では一本筋の山道を上っていた。

 道の奥に、門があった。仰々しくない木の門は上ってきた坂道のためにだけあるように、鎮まって左右に開かれていた。

 門の中へ入ると、植木も何もない一面の青芝の真中に、一棟の、平屋だけれど床の高い家が建っていた。庭芝があんまりまぶしくて、家のかたちが浮きたつ船のように大きく見えた。

 家の内も隈なく明るかった。日の光は襖にも床の間にも、鎮まっていた。

 家の中に人影を見なかった。気はいは漂っているのに、闖入を訝しみ咎める姿がなかった。

 はじめのうちここで眼ざめ、肌にのこるふしぎな暖かさを惜しいと思った。

 夢の数を重ねるにつれ襖の直ぐ向うで、何人かの人声のするのを聴き馴染むようになった。優しい女の声も快活な童子の声も、訳知りらしく落ちついた年寄りの声もあった。顔を寄せ合い、日だまりにいてたのしそうに、しかしいかにも物静かに何か話しているらしい声音(こわね)を、襖のこちらで聴いた。明るさの底を揺るがす美しい波立ちが色やさしくさも流れるように、憧れ心地で僕はあたりを見まわした。

 耐らず声をかけて襖をあけると、そこは、何変わることのないもう一つの明るい空ろな部屋であった。話し声は一つ向うの襖のかげにすこしも変わらず聴こえていた。かけ寄って襖をひきあけても、声はまた一つ奥から聴こえて人の姿はなかった。

 笑いをまじえたたのしそうな声音はいつもすぐそこに聴こえた。あけてもあけても襖の向うは人のいない部屋だった。光が溢れていた。哀しかった。耳の底にたちまようそれは僕の存在も憧れも寂しみも何一つ関わることのならぬ、あけひろげな、談笑の幻でしかなかった。

 夢はいつも虚しく佇ちすくんだままで醒めた。

 

 

   一、 きつねの事

 

 中学時代に僕たちの担任だった女先生は、京都では一部に名を知られた歌詠みで、今も教職の(かたわ)ら人を集め古い歌のはなしなどされているという。京都市も西の方の中学で今は教頭先生だが、その先生からもらった手紙が少々奇異な内容だったので、それからかいつまんで言うと、御前は(この先生は三十二になった僕を今でもお前、お前と呼ばれる)以前、お能の「清経」をしきりに佳かったと感心していたが、今でも清経というより、清経の死に心を寄せているようなら、一つ耳寄りな事を教えてあげる。この頃、有志の生徒が集まって放課後に平家物語を読みはじめた。いつになってもお前のような生徒はなくならないものだと思い思い一緒に勉強している。ところで今週から一人新顔の生徒がいて、訊ねると、鬼山和子と名告った。転入生という事だったが「忠度都落(ただのりみやこおち)」を読んでのあと、みなで雑談する内に、この鬼山がざっと次のような話をして聴かせた。もと住んでいた土地に狐塚という(ほこら)がある。近在の大人は狐を(まつ)ったもののように言うが、老人の話では、狐塚ではなく「きよつね塚」というのが正しい、もっと昔には少将塚とも平家塚とも言っていたそうだ、と。何にしても平家の公達あの清経の中将に関わりがあるらしい。ついでながら鬼山のもとの住所は京都府下の亀岡市とまで確かめておいたが、昔、丹波に疎開していたお前だから、こんな伝承も耳に入っていたか知れない。興味があるならと思ってとにかく報せてあげるが、あのお能の情景と言い、平家物語の記載と言い、それと丹波の山中の狐塚とではどうにも突飛すぎる話なので物好きに詮索するのもどうか、とまあこんなふうであった。

 これを奇異なといったのは話が突飛なせいではなかった。それどころか、幾つか思い当たる(ふし)が僕にはあったからである。手紙の届いたのはこの五月八日頃だった。折り返し僕はお礼に併せ、ご親切ついでに次の点を確かめてほしいと手紙を書いた。鬼山和子という少女がどんな事情で転校してきたか、その生徒の容貌、風采はどんなであるか、それに、その子と逢って話せるだろうか、と。

 亀岡近郊に就いては先生の推察通り幾分の馴染みがあった。というのは前の戦争がもう絶望的に推移していた昭和二十年三月から終戦後一年余の二十一年秋遅くまで、僕は母と二人、亀岡から二時間も山へ入った不便な所でかつがつ疎開者(そかいもん)暮しをしていたのだ。国民学校四、五年で、平家物語は愚か、ろくに教科書も読まない年頃だったため、かりにあの辺で狐塚の事が話題になっていたにしても耳にとまる訳もなかった。

 ただ、鬼山という姓があの近在でかなり特徴的だった事、殊に隣村の杉戸部落には鬼山姓の家が集まっていた事をはっきり覚えている。転入生の鬼山、と先生の手紙にあるのを見たその時も僕は素早く遠くなった戦争の、とりも直さず丹波の山奥の事を想い出した位だった。他所者(よそもの)だったから余計感じた事かも知れないが、S村字菊畑の僕から見て、隣りのK村字杉戸は一番往き来にも近い部落でありながら奇妙に底暗い、胡乱(うろん)な別世界に想われていた。鬼山という姓は、例えば菊畑に多かった田村や林など平凡な苗字から較べても子供ごころに印象に残ったし、これはあとでまた思い出してもらう事である。

 それよりも今は、狐塚か清経塚かは措くとして、目下(もっか)の主人公たる平清経に就いて先ず幾らかの話を進めておかねばならない。

 

 平家滅亡の有様を六道の苦患(くげん)になぞらえ語っている平家物語灌頂巻(かんぢょうのまき)で、清経の中将の死を「心憂き事の始めにて候ひし」と建礼門院に述懐させている。一門の末期(まつご)と、物事の成りゆく果てをつくづくと見遂げた美貌の國母(こくも)の口を借りて、物語り唱導者が重々しい認識をこの清経入水(きよつねじゅすい)に蔽いかけていた事を推察させるのだが、ほとんど一字一句(たが)わず「太宰府落(だざいふおち)」の段ですでに語られているその所を引いて置こう。

 

   小松殿の三男、左の中将清経は、(もと)より何事も思入(おもひい)れける

  人なれば「都をば源氏が為に攻落され、鎮西(ちんぜい)をば維義(これよし)

  為に追出(おひいだ)さる。網に懸れる魚の如し。(いづ)くへ行かば(のがる)

  きかは、長らへ(はつ)べき身にもあらず」とて、月の夜、心を澄し舟

  の屋形に立出(たちいで)て、横笛音取(やうでうねとり)朗詠して、遊ばれける

  が、(しづか)に経読み念仏して、海にぞ沈み給ひける。男女泣悲めども甲斐ぞ

  なき。

 

 文庫本でわずか四行足らず、物語中、清経の事蹟と言えば全編を通じてたったこれだけで、平家嫡流の公達(きんだち)としてはけばけばしく表立つ所のごく少ない人物として扱われている。それなのに、あるいはそれだからこそ僕はたった四行程のこの章句に籠められた死の重さ、蒼澄んだ切なさのようなものを子供ごころに(もっとも中学生だったが)痛切に感じとった。「これぞ憂き事の始め」という感慨のうらには、平家一門にも物語の作者にも清経の自殺をあるまじき事、予期せぬ事に思う気もちが隠されていると僕は、思う。

 木曾義仲が京都に迫り、後白河法皇や公卿(くげ)たちに背かれた平家一門が三種の神器と六歳の安徳天皇を奉じて福原、今の神戸市へ都落ちしたのが寿永二年(一一八三)の七月二十五日、八月末には筑前御笠郡、今の福岡市の太宰府に着き、九州を経略しての再起を謀っている。しかし豊後(ぶんご)の国司らは土豪緒方三郎維義らを語らって兵を糾合、遂に十月二十日、安徳天皇はわずかに粗末な腰かきの輿(こし)に召され、建礼門院はじめやんごとなき女房達はみな袴の裾を取り、宗盛以下の公達もさながら歩跣(かちはだし)で、我先に、先にと維義らの追撃を逃れて行く破目に陥っている。からがら豊前(ぶぜん)の柳ヶ浦、今の大分県まで落ちのびはしたが、尽す手だてもなしにとうとう「海士小舟(あまをぶね)取乗(とりのつ)て、海にぞ浮び給ひける」と、さしもの傲る平家も落莫の哀れを極めた。

 けれども、平家はまだまだ滅びたのではなかった。むしろ九州は総じて譜代の勢力範囲であり、目と鼻の先、長門の国は新中納言平知盛の知行國(ちぎょうこく)である。現に、清経が自らの笛の()に惹かれるように周防灘(すおうなだ)の波間に若盛りの生命(いのち)を沈めた直ぐの後には、長門(ながと)目代(もくだい)(代官)から大船百余艘を用達(ようだ)てて来ている。平家の軍勢はやがて讃岐(さぬき)、今の香川県の屋島に陣を据え、さらに閏十月(寿永二年は暦の関係で十月を二度繰返しており、閏=うるう十月は二度目に当たる)の初めには水島で義仲勢を打破る活躍を見せている。明くる元暦元年(一一八四)正月には歩を進めて旧都福原に還って一ノ谷に拠り、都を窺うに至っている。

 実にこの年の二月、一ノ谷合戦で九郎義経の(いくさ)上手に敗れ去るまでは、平家一門はただ弱冠清経一人を喪っただけで、宗盛、知盛、維盛、教経らの悉くが健在なのであった。

 清経入水が伝えられる如く、豊前柳ヶ浦沖だったとすると、それはさも満々と光をたたえた白銀の盆に載ったような海の上であったと想像される。遙か宇部、防府、徳山などの影が薄墨を溶いたような波の上に浮かぶこのような海上で、必ずしも平家に絶望とも思えぬ時に、月光をあび金波銀波をかき乱して若き清経は舟を捨てたのだ。

「愛別離苦、怨憎会苦(おんぞうえく)、共に吾身に知られて候ふ。四苦八苦一として残る所候はず」と述懐されているように、俄かに海上に遁れたこの時の平家にとっては船中の日常生活が惨苦を極めた事は想うに余りあるし、まして建礼門院らにはさながら地獄を経めぐる心地がしたであろう。中将清経のいかにも静かな自殺は、その時はもとより、後日に顧みても、華々しい戦死でなかっただけ余計不吉な哀しみで一門の心を捉えたに相違ない。

 清経はなぜ死を急いだか。

 字義通りの厭世や絶望であったか、欣求浄土(ごんぐじょうど)であったか。あるいは馴れぬ海の上の怪我、事故というのもあり得ぬ事でなく、錯乱とも、更には殺害死とも想像する事はできる。「男女泣悲めども、甲斐ぞなき」とはアトの祭りだったからで、事の成行きは確認の叶わぬものだった。

 平家物語といえば源平盛衰記や義経記(ぎけいき)へおびただしい粉飾変容を伴って雪崩れてゆく唱導文芸の本家筋、異本の数も大変なものである。ところで僕の眼に触れた限り、清経入水に就いては先に挙げたより詳しい文章は殆ど見当たらず、たまたまあっても、明らかに後人の放恣な想像や脚色と分かる。

 何か目新しい発見もがなと探しあぐねての人頼みに、京都の立命館大学に勤めている友人に二、三調べてもらった、その結果も大した収穫はないまま唯一つ、奈良県の飯島清一氏旧蔵の一異本を大学に保管してあるが、わずかに清経が死に際に際して吹いたという笛、辞世の歌に就いて筆の及んでいるのが珍しいと、そういう返事があった。

 ところが、歌は清経の作ではありえない、証拠の明らかな赤染衛門の「夢や夢うつつや夢とわかぬかないかなる世にか覚めむとすらむ」が挙げてあり、まそれも歌の意味からして決して場違いとは思わないが、それ以上に笛の事が僕の注意を惹いたのである。例の如くに述懐あってから、「夜ふけて舟を漕出(こぎいだ)し、日頃(すか)れける青葉笛、()(すみ)やかに吹鳴し、(しづか)に陀羅尼を念じつつ、ただ一声を最期にて、(つひ)にはいつかあだ波の底の水屑(みくづ)と沈まれける」と書かれ、あとに「夢や夢」の歌が添えてある。この中で、もとは「横笛音取(やうでうねとり)朗詠して」という所と、「経読み念仏して」という所が確かに違っている。とり分け驚いたのは清経の最期に使った笛が青葉の笛だという、いかにも自信ありげな記事であった。

 あの敦盛(あつもり)が熊谷次郎直実(なおざね)の手で須磨の渚に幼い生命を落とした時、鎧に隠し持っていたのが小枝という相伝の笛であり、「あないとほし、此暁(このあかつき)城の内にて、管弦し給ひつるは、此の人々にておはしけり。当時御方(みかた)に東国の(ぜい)何万騎か(ある)らめども、(いくさ)の陣へ笛持つ人はよも(あら)じ。上臈(じやうろう)(なほ)も優しかりけり」と義経以下の涙を絞らせた。僕らが小さい時に習った有名な唱歌の一節に「暁寒き須磨の嵐に、聞えしはこれか青葉の笛」とあるのは、明らかにこの「敦盛最期」を踏まえた作詞なのである。由緒の正しい相伝で小枝と銘まである笛をここで青葉の笛と言っているのは一つには語呂を合わせたのだと思うが、実はこの「青葉の笛」はただの美辞麗句の(たぐい)でない或る種の笛の名称なのである。唱歌の作詞者は名前だけは知っていたものの恐らくはどんな笛とも知らずにつとめて敦盛のために美しい名の笛を配したものであろう。

 真田(ほんだ)秀雄氏の著『日本の笛』に依ると一口に笛といっても実に多種類のものが全国津々浦々に産出されていた事が分かるが、実際に吹奏する笛(綾の鼓ではないが吹いても音色を生じない形ばかりの笛もあり、装飾、玩弄、神事などに用いられている)は、ごく大雑把に演奏用の笛と、諸々の実用に供する笛、それも必ずしも人が(くち)にあてて吹き鳴らすのでなく風や振動を送って、自動的に音色を発するものまで含めて、以上の二種類に分けられている。

 氏は青葉の笛について、端的に「けものを呼ぶ」笛であり「演奏には不向きな音色をもつ」と書いている。名前は、「例えば椿のような肉厚の葉を巻いて巧みに吹き鳴らすと鈍い振動を発する、あの霧立つ夕まぐれの侘びしい山里を偲ばせる(てい)音色(ねいろ)」から来ているのかも知れないが意味は不詳と言うべく、「しし寄せ」「よび笛」などと言われる事が普通だった。(けだ)しこの「よび笛」などは呼ぶであるか、であるか、山男たちが骨太な荒々しい指をまるめて「ミ音」「ヴ音」「メ音」の入りまじった物哀しい音色を立てるさまを髣髴とさせる。

 この紹介がもし正しいなら、清経は横笛はおろか、場合によっては単に指笛を鳴らしたのかも知れないし、もし笛であったにせよ、音色は真田氏が書いているようなひなびた響きを発する長さも二寸そこそこの粗末なものであった事になる。まして、一の谷の敦盛にこのような笛を吹かせた後世の詩人は滑稽なあやまちをした事になる。と、こういう訳で、青葉の笛が雅びな横笛で、心澄まして音取(ねとり)(試奏、調階)するような美しい音色の楽器でない事、それどころか丹波の山奥で村の男たちが麦を荒らす猪をたばかり呼ぶのに使っていたあの無骨らしい笛か、それに近い笛と知っていた僕は、友人の報せて来た新事実にひどく心を動かされた。

 丹波にある狐塚は或いは「きよつね塚」かと教えられた時、ああそうか、突飛な事ではない、笛がこうだ、それにあの事もある、あれもあるなどと一度にさまざまに頭が働いた。その一つが飯島本にある清経入水直前の陀羅尼(だらに)であり、最期の一声である。

「ただ一声を最期」の方は、常識的には釈迦か阿弥陀か観世音の御名を念じたものと()るべきだろうが、それはしばらく()くとして、陀羅尼とは呪文くらいの意味であるのか、法華経の陀羅尼品(だらにぼん)には例えば「あきやねい・きやねい・くりのけむだり・せんだり・まとうぎ・じようぐり・ふろしやに・あんち」などの呪文のちからで無量の利得や安全が得られるように言ってあるが、臨終に唱えるとすればやはりここは流布本(るふぼん)の如く、「(しづか)に経読み念仏して」がふさわしい。ここでもまた、もし丹波の狐塚が実は清経由縁(ゆかり)だとすれば、この際の陀羅尼とはあの地方で信じられている「千里様」(または「おんろろ様」)を呼ぶふしぎなあの呪文と同じではなかったか、などと想像が奔るのだった。

 だが「千里様」の話をするのはまだ少し早いので、僕はもう一度、舟の舳板(へいた)に立つ清経を見に戻ろう。「もとより何事も思入(おもひい)れける人」は真実この時何を思っていたか。

 この公達の確かな生年は分からないが平重盛の三男という点はほぼ信用してよい。そこで次兄の資盛(すけもり)に就いてみると彼は平家物語による保元三年(一一五八)生まれまたは職事補任(しきじぶにん)による応保元年(一一六一)生まれの二説があり、寿永二年(一一八三)当時で見ると、保元説だと二十六歳、応保説だと二十三歳となる。つまりその弟の清経は或いはこの時まだ十代の少年であったかも知れないので「もとより何事も思入れける人」という評言と併せ考えれば、温和しい、慎重な、内攻的な、神経質な、静かな貴公子が想像される。謡曲の「清経」はこういう想定を生かして、柳ヶ浦の秋風に立つ白波白鷺の形にも源氏の白旗かと肝を消しているような平家を前置きに、(音曲の山形符号) あぢきなや、とても消ゆべき露の身を、なほ置き顔に浮草の、波に誘はれ船に漂ひていつまでか、うきめを水鳥の、沈み果てんと思ひ切り、海に入ったのだと解釈している。絶望による覚悟の自殺説であり、平家物語の語り手の意図と軌を(いつ)にするこれが唯一無二の定説の如くである。

 前にも言うように平家物語中、清経の殊なる事蹟は極く乏しい。名前が出る程度ならともかく、まとまった記事となると別書にも殆ど触目(しょくもく)する所がない中で、建礼門院に仕えた右京大夫(うきょうのだいぶ)という女房の遺文には幸いわずかながら清経の振舞が記されている。右京大夫集は当代の文章中傑出した情熱の名文であり、平資盛という維盛(これもり)、清経らとはちょっと肌合いの違ういかにも男らしい公達との悲恋が切々と回顧されているのだから、自然恋人の兄弟への心寄せも深い訳である。

 この右京大夫が、まだ加茂の斎院であった頃の式子内親王に仕えていた、中将と呼ばれる女房との間で歌のやりとりをした記事があって、すぐ次の文章がつづく。

 

  この中将の君に、きよつねの中将の物いふとききしを、ほどなくお

  なじ宮のうちなる人に思ひうつりぬとききしかば、文のついでに、

   袖の露やいかゞこぼるゝ芦垣を吹きわたるなる

   風のけしきに

  返し

   吹きわたる風につけても袖の露みだれそめにし

   ことぞくやしき

 

 これで見ると、清経はかつて愛人の中将の君という女を風が芦垣を吹きわたるように同じ内親王家に仕える別の女に思いかえた事があるらしい。後年の懐旧とは言え潤色があるとも思えず、少年の移り気な恋の戯れを裏側からさらりと垣間(かいま)見させる。かたみに恋に泣く女を背景に、ここでの清経はやはり傲れる平家の若公達に過ぎない。まして「何事も思入れける」という慎重、温厚な趣は稀薄だ。それにしても、清経に触れてはただこれだけの叙述しかないのがやや素気(すげ)なく物足りないのだが、兄弟といってもむろん(というのも変だが)腹違いだし、一族近親ながら或る意味では疎々(うとうと)しい所があって不思議はない、殊に資盛は活気のある青年だったから思い入れの強い弟を好かない事があり得た。

 清経に(あえ)なく見捨てられた中将の君という女房に就いてはよく分かっていない。

 彰考館本右京大夫集の註に「皇太后宮大夫俊成女、前斎院女別当号中将」と見えるのは、右京大夫と俊成との濃い由縁(ゆかり)から()して(右京大夫という女官としての召名は藤原定家の父三位俊成卿が久しく勤めた官名に由来するらしい事は、本位田重美氏らの研究で明らかにされている)穏当のようだが、それでは何よりも女と清経との年恰好が合わない。清経入水の寿永二年(一一八三)を仮りに二十歳とみて、清経十五の春には中将の君は三十五歳頃、昔なら初老の婦人だ。有り得ないとまでは思わないし、若い清経が若い他の女に見かえて行った理由になるのだろうが、要するに分からない事だと力も及ばず僕は詮索を諦めていた。

 ところがたしか去年の暮頃に出版された京都市立大学の下田教授著、『建礼門院右京大夫集註釈』にはこの点に新説が出されていて、考証上の詳細は略するが、「大炊御門(おほひみかど)の斎院(式子内親王)いまだ本院におはしましし頃、かの宮」に仕えた中将の君とは、新拾遺集の恋の部、

 

  山寺に人と忍びてひとり帰るさ   式子内親王家中将

   山のべは夕ぐれすぎし時雨かとかへりみがちに

   人ぞ恋ひしき

 

を挙げ、この中将を中院右大臣源雅定が家女房伊勢に生ませた子だとしている。理由はさまざまあって説得力があり、異腹の弟雅氏の官名を仮りての中将の呼び名と言い、清経にわずか五歳程度の年長と言い、明快なのである。

 それどころか下田氏の研究はもっと驚嘆すべき貴重な証言をしている。それは「建礼門院右京大夫集」として今日流布(るふ)の図書寮本(彰考館本とほぼ同じ)は奥書によって、「此草子(右京大夫の)自筆なりけるを、七条大納言さりがたきゆかりにて、このさうし(草子)をみせられたりけるを、かきうつされたるとなむ」とあるこの原本からの筆写本を、さらに時代も下って正元五年(一二五九)に承明門院小宰相が書き写したものと判明しているのだが、下田氏は東山安養寺の古記録を調査する内に、この小宰相本の一代前、やはり親しい友だちの一人だった七条大納言という女房が右京大夫の自筆本を直接書写したと(おぼ)しき、先の奥書通りの古本(こほん)を発見したのである。古典の研究は原本かそれに近い古本に()るのが望ましい事は当たり前で、この発見はすばらしいものだが、しかも、校合の結果、問題の清経の不実を嘆じた斎院女房の「吹きわたる」の歌の末尾に確実に次の三文字「鬼とぞ」が加えられていた事を明らかにしたのだ。

「返し、吹きわたる風につけても袖の露みだれそめにしことぞくやしき鬼とぞ、とこう書きついであるのが異様で、意味も(てい)もなさぬ所から敢て後人(こうじん)が削除したのも無理からぬと思う。しかし中将が、清経をか、宮の内なる別の女をかの振舞いや心の内を口惜しまぎれに誹謗していると()っていいのではないか。歌を返して来たこの女房の烈しい気象、興奮が伝わっていて面白い」と下田氏は註釈し、僕は僕でこの新事実にまったく胸のつぶれる心地がした。

「鬼とぞ」とは果して下田氏の説明の如き意味だろうか。どうも中将の君が直接罵る声のようではない、かと言って右京大夫の不用意な書き添えだろうか、「清経は(或いは相手の女は)鬼のような心の人ですのよ」というより「鬼だという噂ですわ」と聞こえる。勿論、これでもなお先の意味に釈れるけれど、単なる比喩以上に清経にせよ女にせよ、人でなくて実は鬼そのものだと端的に釈れる言い方のように思えてならない。鬼か、そうかと、僕は頻りに清経の事をあれこれ想像してみるのだった。

 清経が語らいついたという女の事は全く分からない。

 別に妻子があったかどうかも判明していない。

 重盛には子として明らかなもの男子が七名、別に女子もいただろう、ずいぶんの子福者(こぶくしゃ)である。いちいち生母の確かめられるものは少なく、誰と誰とが同腹かも曖昧、清経に就いてもわずかに母が白拍子丹波とのほか分からない。丹波とはただの呼び名か、或いは本当に丹波の女であったか、おそらく生地を名告ったものと僕には思えるのだが、系図によっては単に家女房としてある。

 白拍子と言っても、静御前の繪に見るように緋白(ひはく)浄衣(じょうえ)太刀(たち)()き、立烏帽子(たてえぼし)を冠したあんな者ばかりでなく、広くは五条河原近くに暮した貧しい遊女や、海道、宿駅の遊女たちも含まれる。今様(いまよう)と呼ばれた歌は専らそうした土地土地で自然発生して、旅人や女たちの移動ごとに諸方へ伝播(でんぱ)したと言われ、余談になるがこの事情を印象的に伝えているのが更級日記の一節である。

 日記の作者は父が任国より都へ帰る途次のさまを書いている。その中で、足柄山の麓に(いおり)を作って泊った晩のこと、辺りは暗やみ、雨まで降りそそぐので庵の前に篝火(かがりび)が焚かれた。闇と光とが無気味に森の影を映してにじみあったその円光の中へ、どこからともなく三人づれの遊女が現われた。五十ばかりの老女と二十(はたち)ばかりのと、十四、五歳の少女である。人々は庵の前に坐らせ、傘の下で歌を謡わせた。きれいな少女がしみじみとした美しい声で歌を謡って、やがてまた深い闇の中へ消えてゆく。みな感に打たれて涙をこぼした。時に十三歳だった作者は「幼きここちには、ましてこの宿りを立たむことさへあかずおぼゆ」というほど、心を惹かれている。

 また、この時代にはくぐつという移動集団が屡々(しばしば)都へも顔を出している。定家卿の「名月記」に、くぐつに言いがかりをつけられて難渋する旨の記事があり、詳しくは知らないが、古代中世を通じて山野(さんや)を移動する独特の人種であったらしく、更級日記中の三人の女が遊女かくぐつかなどは詮索の及ばない所である。

 要するに清経の母はこういう出の、それも丹波と呼ばれる女だった。

 

 先生の手紙を受け取った時、僕の清経に関する手持ちはこれで尽きていた。僕はむしろ此の(ごろ)くりかえし見る、前置きに話した夢の方に心奪われがちだった。夢を見るのが楽しみなようで、また底の知れぬ不安が肌身に寄る心地がしていた。だが、清経塚の話を知ってみれば興を惹かれる素地はまだ生々(なまなま)しく残っていた訳で、消息の往来などには筆無精の僕が折返し返事を書いたのも、実はよくよくの事なのだった。

 母親の事もあり、僕は清経と丹波の国とを一概に無関係とは考えなかった。京都を西へ北へ、桂を経て老ノ坂を越えると篠村、さらに北に進んで亀岡市に至るこの道筋は保津の急流に沿っての嶮阻の他は昔は山陰に出向く殆ど唯一の道筋であって、篠、亀山(亀岡の旧名で、明智光秀が本能寺を攻めた時もここから老ノ坂越えに京都へ入っている)には街道の宿駅と同じに遊女が多くたむろしていたのである。

 僕が戦争中疎開していた村は亀岡の町はずれの矢田という所からまだ二里もの道のりを蜿蜒と蛇行しながら、重畳(ちょうじょう)する山また山の(たに)ぞい道を奥へ上へ登りつめた先にあった。それに、前にも言ったK村の杉戸と篠村との間には亀岡を経ず直接に通ずる狭隘(きょうあい)間道(かんどう)のある事も僕は知っている。それは山というものの深さ大きさ寂しさをつくづく思い知らせる翳ぐらい谷底の笹また笹の藪つづきをかき分けて行く道なのだ。疎開中、一度だけ、たった一度だけ僕は部落の子らとその間道を(くぐ)り抜けて三、四里もある篠村の村祭を見に出かけた事があったが、同じ道を夕ぐれて帰って行く怖さ辛さを忘れる事ができない。母が青白い顔をして家の外に佇んで僕を待っていたあの日の胸の痛いしんから草臥(くたび)れた記憶の底に、ちゃんちゃかにぎやかな祭囃子や出店のにぎわいが浮かびあがって来る、と奇妙にもう一つ瞼の奥に見知らぬ女たちの侘びしそうななまめいたような、浮世絵というよりは泥繪の女に似た女たちが動き寄って来るのが見える。

 そう、清経は自身でこそ丹波まで出向いた事はなかったかも知れないが、母は、彼の母は知っていたのだ――、などと僕は想像した。

 そうこうする内、折返し先生の手紙が届いた。鬼山和子は現在姉の婚家に寄宿している。姉の夫が京都市内へ転勤するについて移ってきたらしく、両親はすでに病没している。簡単だがこれが転校の事情である。風体(ふうてい)は尋常、言葉もふしぎにひなびていない。表情には特色がある。また狐塚の事は本人がかつて住んでいたもっと山中の話らしく、それと言いこれと言い逢えば分かると、およそはこういう内容だった。

 好都合にも広島まで出向かねばならない仕事上の用事が待ち受けていた僕は、物に惹かれるように一日早く東京を発って京都で下車した。

 折悪しく職員会議の最中だった先生は校長室の隣りの狭い応接間へ僕を入れ、なにお前の考えてる事なら分かってるという調子で小使いさんを呼んで、二年生の鬼山がまだ学校に残っていないかを探させて下さった。

 一とき雨が来て、またふとやんだ静けさの中で、華奢な竹の籠に添え濃紫と白の鉄線花(てっせんか)が蔓を絡ませて二輪、(ふる)うように卓の上に咲いていた。僕はぽかんとソファにかけ、今もって荒木貞夫将軍の筆になる「至誠」の額がでんと生きのびているさまに呆れていた。雨のあとの陽炎(かげろう)だつまぶしさの向うに新緑の御室(おむろ)の森が見え、校庭には、まだ放課後も何人かの生徒が用ありげに往き来している、とその時ドアがそっと押され、鉄線の花が動いて、女生徒が一人で入ってきた。

「鬼山さん――」と問うまでもなかった。紛れもない色の白さ、角度の鋭い印象的な眼。

 和子は膝の上に白い手を重ねて、ではという風に質問を待っていた。

「亀岡のどの辺にいたの」

「はずれです。矢田ていう所です」

「矢田なら僕も知ってる。鍬山(くわやま)神社ってお宮さんがあるでしょ」

「はい、直ぐ近くでした」

 僕は思わず眼をとじてしまった。

「――あの辺、今でも千里様(まつ)ってる」

「祀ってる家もあります」

「山の方が多いでしょう」

 今度は首肯(うなづ)くだけだった。

 魔除けらしく、あの地方の山間では農家ごとに二尺に余りそうなわらじを門口(かどぐち)に吊している。

 山梨県はじめあちこちの昔ばなしに鬼が一足千里のわらじばきで宙を飛ぶ事は語りつがれているが、丹波では千里様という名で、鬼、ひいてはその魔除けのわらじを呼び、その別名をもう少し戯れて「おんろろ様」と言い慣わすのである。

 あの清経が入水(じゅすい)直前に陀羅尼を念じたとの異説を知った時、僕が「おんろろ様」の陀羅尼を想い浮かべたその理由はともかく、丹波の山間、殊に僕が昔いた近在では鬼やらいのまじないに、「おんばらさんばら、びいしゅうらの、おんろろ、しゃありんそわか」と唱えていた。護身と魔除けの功力(くりき)をもった呪文であろう、要するに鬼という名に代表される自然の怪異を怖れたのであり、僕は幼い耳で妙に哀調を帯びた「おんばら、さんばら」を何度聴いたか知れない。

 少女の眼が無表情に沈んでいるのに僕は気づいていた。()いてみたい事は次から次へ沢山あるのに、物言わぬ和子の、窮屈そうなというより放心した位の重苦しい無関心に愕きながら別の事を想っていた。

「あ、そうそう、僕は狐塚の事が訊きたくて来たんだった。狐塚て、君、見た事ある。どんなの」

「これ位の(と小さな両の掌をひろげてちょうどそれに載るほどの大きさを見せながら)石を二十位ただ山盛にして――岩穴の中に」

「何か、朱い鳥居でも」

 和子は黙って首を横に振った。

「どこにあるの」

「山の上、です」

 山の上という言い方がおかしくて僕は思わず笑った。

「山の上って、どこの」

「――。鬼山です」

 今度は僕が黙ってしまった。僕はうつむいたきり、額の所が硬くなるような気がした。

「あの、君は、亀岡でしたね。鬼山ってのは――」

「私、亀岡の前は山にいたんです」

「あ、K村の」

「ちがいます」

「――—」

 またしばらく口籠もってから、

「狐の出る所じゃないんだが。その、狐塚でなく、清経塚だってのは、誰に聴きました」

「母です」

「お母さんか。今どちらに」

「――死にました」

「あ、そうだった、御免なさい――」と、どぎまぎするのを和子は急にまじまじと見直すふうに見つめて、ゆらっと薄笑いをした。

 奥歯にものの挟まったこんな会話は中断して、和子をはじめて見た瞬間から僕の咽喉もとにこんな清経考の着想が絡まって来た、それを話そう。

 仕事の鬼などと言う。一念凝って鬼と()るの(たぐい)で、同じ一念でも怨み憎しみの鬼は怖いという事である。

 また単に異郷異国の眼なれぬ人を鬼とも呼ぶ。時代を遡れば溯るほど、風俗の異なる他国人は鬼に見えただろう。殊に山や海の荒ぶる自然に馴染んだ男たちの風体容貌は鬼じみて見えたに違いなく、昔話に山男或いは修行者など人里から離れて暮す人を鬼と呼ぶ事の見えるのは概ねそれだ。

 今昔(こんじゃく)宇治拾遺(うじしゅうい)などから昔話に至る鬼の話を全部抜いてみると、みな確かに、霊異の威力を備えているが、にもかかわらず意外にやすやすと人の世にたちまじわってもいた事が推量される。怖いは怖いながら、どこそこへ行けば鬼が住んでいるぞと人は承知していた。鬼は人の目にも泣いたり笑ったり、時には遊びにも加わり家来にさえなる存在だった。角や虎皮の(ふんどし)を必要としない鬼がいたし、その存在は昔びとに疑われていない。人と同じく鬼は口もきいた。

 京都の人にとって丹波丹後は山深い鬼の群集する異郷であった事を頼光(らいこう)主従の鬼退治の伝説は伝えているが、そういう鬼の子孫がくぐつらとなって人まじわりをして来るようになったのかも知れない。くぐつの職能は一に祈祷呪祝、二に売笑、三に舞戯唱歌をはじめとするわざおぎであったと言われている。日本の鬼の中には怖ろしい地獄の鬼や、天狗夜叉など幽鬼の類の他に、こういうくぐつの職能から逆に推測できそうな特色ある一味群集が実在していたのではないか。彼らは時の都人士(とじんし)の眼には十分超人的で怪力不思議を秘めた存在でありえたし、だからこそその鬼をもし使役(しえき)できたとすれば大した事であっただろう。

 僕は清経がこういう鬼使いであった事を信じたいのだ。清経の母は鬼、美貌の、才たけた女鬼ではなかったか。重盛の眼に、清経の母は寵愛に(あたい)する力ある異国の鬼ではなかったか。その息子の清経は母の縁にひかれて鬼を操る事ができたのではなかったか。力強い鬼、足の速い鬼、身軽な鬼、猛き鬼、そして母に劣らぬ美しい才たけた女鬼を清経もまた父重盛に倣って愛したかも知れない。先の「鬼とぞ」もただそれ位の意味で清経を魅惑した新しい女の素姓(すじょう)をほのめかしたものではなかったか。

 僕は西国柳ヶ浦の沖合で清経が人に知られず入水したとの言い伝えに、いつからか強い疑いをはさむようになっていた。そう、おそらく僕が清経に惹かれた最初はその逸早(いちはや)く一門に先立って選んだ余りに清寂な自殺のせいだったが、この数年ほどの内に、友人の教えてくれた平家物語飯島本の記事でつまずき、右京大夫集の安養寺本がほぼ確実に清経逃走を信じこませたのだ。飯島本の青葉の笛も陀羅尼もそれこそ鬼寄せのために実際に使ったかも知れない、(いず)れにしても、おそらくあの清経は横笛(おうじょう)も吹かず経も読まず、一途(いちず)に召し使う鬼にまかせて平家の陣中を一路東へ、丹波へ遁走したに相違ない。丹波には母も身を寄せ、恋人も都を捨て、ひょっとすると可愛い子どもも産まれていたであろう。義仲非力(ひりき)とは言え、東国に強大な頼朝が居り、都には平家を見捨てた法皇や公卿の暗躍がある限り、平家の挽回など清経はつくづく思い諦めていたとしても構わない。清盛なく、重盛なく、異腹の兄弟は華やかでも清経自身はまだ公卿の列に入っていない。鬼の子の野生の血に仏果を得ようの本願もなく、維義方の武勇に難儀を極めて九州の地を這うように逃げ惑った清経は、遂に思い決め、月明を頼りに心知った鬼を一声呼んで小舟を曳き、汐に乗って静かに静かに味方を漕ぎ離れて行ったのだ。平家物語には詳しく書かれているが兄の維盛がやがて清経の跡を追うように讃岐の陣から高野山(こうやさん)へひとり押し渡った、(あら)わに言えば逃げた、それと同じで、例なき事とも言えない。きつね塚、実はきよつね塚は僕を幾分にも納得させるに足りたのである。

 清経入水の感動はどうやら物語の世界から狂言の部類へ変質変貌してしまった。狐塚の話はそんな清経詮索に適切に終止符を打つ(てい)のものであって、興奮気味に先生に宛て和子の身柄に就き問い合わせの手紙を書いたりしたのは、清経に結着をつけたいからでもあったが、それどころか、僕を突き揺るがすまるで別のちからが働いていたとより思えないのだ。

 和子の薄笑いが僕の顔をなめまわした時、測るべからざる深い穴に足を滑らせたのを知った。

「鬼山へ行かはるんですか」

「――—」

「行かはりますか」

 確かめるように和子はまた訊ねてきた。慌ててこっくり首肯いてしまったが膝の下から震える心地がした。一礼すると和子は物静かに応接室を出て行った。

 引きとめられるのを断わって、東山にある親の家へ立ち寄った。丈夫だった父が急に去年の暮から弱りはじめ、この日頃は腰も立たぬ痛みに(さいな)まれるらしく床の上で苦い顔をしていた。眼つきだけは元気そうだった。物哀しい不安に襲われながら、僕は茶を()れている母の声にぼんやり返事をしていた。

 その晩、父のとなりでうたた寝して、また例の夢を見た。

 

 

   二、 へびの事

 

 確かめる心地にもならなかったけれど、あの女学生が矢田へ移る以前、KでなくてもしS村に住んでいたのなら、それも菊畑部落だったのなら、昔、僕らが「鬼さん鬼さん」とはやし、時にはむきつけに「鬼、鬼」と呼んだ鬼山紀子のあれは妹ではなかったか、遠い記憶の生々しいもつれの底に、絡めたように幼な恋の想い出をもつ僕は、清経よりも何よりもその事の一つで先生の手紙に奇異と怖れを抱いたのではなかったか。それを次に話そう。

 その近在、鬼山姓が比較的多いのは確かだが、菊畑の部落には紀子の家のほかにもう一軒、子なしの鬼山家があった。それに僕が母と戦火の厄を避けそんな辺鄙な山間に疎開できたというのも、別に身寄り求めての事でなく、同じ町内にいた人の紹介で、そのもう一軒の鬼山家の古い納屋(なや)に住みつかせて貰ったのだが、この紹介者の姓がやはり鬼山さんだった。結局は、だが何としても足場のわるい山かげの納屋暮しが辛く、間もなく、また人を頼んで同じ部落の長沢という山持ちの離れを借りて貰う事になった。ところが、住まいを移して十日もせぬうち、元いた鬼山家に火が出て、初老の夫婦が一度に焼死するという椿事(ちんじ)があり、何となく無気味にはじまった疎開暮しだったのである。

 菊畑は(たに)底の部落だった。

 杉また杉に蔽い尽された山塊が嶮しく畳みこむように北と南から押し迫って、その底を童女の帯のほどけたように小川が東から西へ流れていた。朝は明るく、夕は静かに、日の光はいつもこの川面(かわも)を滑るように流れていた。

 川ぞいの街道に並んでわずかな田畑があった。

 裕かな家ほど山裾に、貧しい家は山はらに、或いは白壁の倉を二つ三つ持ち、或いは土間に板を敷いただけの納屋住まいをする、それほど貧富の差のはっきりした土地柄だ。

 家財道具を積んだ僕たちのトラックが初めてこの土地に着いたのは、宵やみに消え残った雪が白々と透けて見える寒い寒い三月、そこは寒さの底とも言えそうな、部落の真中の十字路だった。街道をはさんだ右の山から左の山から先ず黒い小さな影が幾つもたかたか駆け寄って来た。あとから、ぼつぼつと提燈(ちょうちん)片手の大人たちが陰気に僕たちを見咎めて寄って来た。見馴れない厚いものを着込んで背をまるめたり腕を組んだり、ただ何となく僕たちを眺めていた大人も子どもも、迎えに出て来た鬼山老人の顔を見た途端、一歩も二歩もあとじさって、何やかや呟いていたのもふとやんだ。無造作な父の大声が(やみ)の中で淋しく聴こえた。老人を先立て南の山坂へ荷物を運びはじめても手伝おうとする者がなかった。提燈が(うつ)ろに翳っている中を、他所(よそ)の庭先を幾つも見てはじめは真直ぐに登るのだ、といきなり暗い杉の森に行き当たる。折れては曲りしてまだ先へ急な坂がつづく。やがて、雲衝く大樹が道の角に闇を蔽い、そこで岐れた小径(こみち)の奥がだった。切り立った崖にまるく半ば仕切られた窪の内には朧ろに二つ三つの()かげが見えた。

 見ただけで母も僕も怖気(おじけ)づいたほど古い農家のそのまた北かげの軒の低い納屋へ運び入れた家財は、所定まらぬさまで当座の古畳の上に雑然と溢れた。華奢な母の足どりを見兼ねたように流石(さすが)に手伝う人も出て、小一時間で荷物はみな運び上げられた。窪の口から納屋へ運ぶのは老人夫婦と、息子らしい男が一人、他に孫位な男の子と女の子が大人の仕事を見ていた。

 男はだが老人の息子とは違い、その子二人も孫ではなかった。同じ窪の内に僕らとそうも変わらぬ納屋ずまいをしていたもう一軒の鬼山家の人だった。

 誰もが余りに寡黙だった。お喋りな父でさえしまいには黙っていた。

 草臥れた僕は坐る所もなく、木にもたれ、冷たい手に息をかけた。足の先が凍ったように痛み、睡かった。

 肩に手を置かれてはっとした。いつか眼をつぶってでもいたらしく、幾つも年嵩らしい女の子が、微笑(わら)いながら、家へ入って暖まったらと言って呉れている夜目にも白い表情を、僕はぱちぱちして見直した。

 その家は僕たちのよりは幾らかでも広く見えた。軒もしっかりしていた。炉の傍で母親が一人火の()りをしながら(つくろ)い物に触っていたが、僕を見ると叮嚀にお辞儀をして火の傍に席をあけてくれた。紀子と自分で名告った少女は母親に僕の事を「(ひろっ)ちゃん」と教え、「徳夫(とっこ)と同い年やて」と付け加えた。

 女二人が並ぶと顔だちよりも声の優しくうるんだ感じがそっくりだった。

 紀子は朗らかに話し、僕の手を自分の両掌で包んで「ああ冷たい」とすこし大袈裟に驚いて見せたりした。少女の真白な手が寒さにも(いた)んでいなかった。紀子の眼がいかめしくもなく、けれどぱちっとはじけているのを僕はこの時はっきり見覚えた。

 年寄りは、今時分は本当に何もお愛想(あいそ)ができないと呟きながら小さな罐から炒り豆を紙に敷いて出してくれた。

 鍬、鎌、鉈、編んだ笠、簑、炉の自在や平たい鉄の釜、土間に転がった松薪やほぐれた柴の山、そしてそれらをみんな薄暗く見せる物の(くま)の濃い翳。物珍しさとはにかみとでわざと火に背いてまで家の内を見まわしていた僕は、ささ、ささという這いずるような音を耳敏く聴いた。

 蛇――。

 だが、まだ真冬ではと戸の方へ怖わごわ首をのべた僕は、もう悲鳴をあげていた。やっぱり見たのだ、かなりの素早さで小蛇が今脱いだ僕の運動靴に這い寄るのを。

「阿呆――」と言ったのは紀子である。

 飛ぶように土間へ下りた紀子はわらをつかむほど造作なく蛇の尾をつまみあげ、鎌首をもたげるのを()いた手で逆に脅しながら、鞭をふるように戸の外へぷいと投げすててしまった。紀子は笑い、僕は年寄りの肩に手をかけたまま青くなっていた。荷物運びに飽いたらしい男の子がふらりと入って来るなり、誰にともなしににっと笑っただけで火の傍で横になった。ぱちぱち火がはね、静かで、うす暗くて、暖かだった。ふと我を忘れて寝たかったが、蛇を見た(おのの)きは消えていなかった。顔が青いと言い言い紀子は僕をじっと見た。

 トラックも帰って、寝は寝たものの流石に山の音にも驚きがちに、漸く明けた朝の景色の何と物珍しかった事。山の()を雲、鳥、もろともに飛びかい、広くもない窪の内に青やかに菜など植えならした露けさ。籠に伏せた鶏の声にまじって、つぶつぶと木々や草の葉を洩れて雫する音など、京都の町中ではついぞ覚えぬ事ばかりだった。父が、「どや、辛抱(しんぼ)できるのかいな」と、馴れぬ臥床(ふしど)で背や肩が痛むかとんとん叩きながら呟く。といって仕様もなく、母はもう、水は、焚き物は、干し物はと考え考えしていた。

 家主は、眉毛の真白な、その他はとりたてて言う事のない百姓だった。夫婦とも口かずの少ない人で、重そうに鍬というものを持ってみる僕を見ても、にっと愛想らしく笑うだけ。父たちはゆうべの礼に紀子らの家へも顔を出したが、主人はもう亀岡へ勤めに出ていた。母は紀子のために縫いとりのあるハンカチを二枚、徳夫には鉛筆を一ダース遣っていた。ここでも挨拶を受ける主婦の言葉少なさを父たちは印象的に思うらしかった。

 徳夫がこの春から同じ四年生である事を母はとり分けて思うふうに、僕の背を押して前に出し、叮嚀に、

「よろしい頼みますえ」

などと言った。徳夫は真面目くさっていて、姉の方が愛想よく首肯いた。

 その日の内に父は京都へ帰った。一緒に帰りたいと僕は大泣きした。納屋の前をちらっと徳夫の顔が走るのを見ながら、それでも泣いた。母まで少し泣いた。

 

 山の暮しで厭なのは、やはり蛇だった。

 寒い内から出ると言って母は嘆いた。

 或る日など、表の敷居の上を青大将に這われて、家の内と外にいた僕たちは腰も()え、声が出なかった。工合よく駆けつけた紀子が夕日にむかって縄を使うようにみごとな銀色の輪をまわし、はずみをつけて崖の上へ振り放った。魔性(ましょう)のけものは太い一条の弧と化してぎらぎら夕焼空の下を飛んだものである。

 この散々のあと、からがら僕らは山ふもとの長沢家へ移った。

 つくづく蛇は怖いと母は此の頃になってもうなされる話をするが、蛇だけは僕も馴れようがなかった。

 だから紀子がしたように、徳夫も蛇を使い、百姓はもちろんうんと小さい女の子でさえ蛇を見れば素早くつかんで投げすてるのは見るのも恐ろしく、恐ろしいと言えば何をいたずらされるか知れないので、一度だけ徳夫の握っている小蛇の尾に触って「ざらざらするのやねえ」と平気そうに言ってのけたが、顔色の方はどうだったか、あの鱗の(はがね)のような鈍い重い感触の臭みは到底忘れる事が出来ない。なんで無造作に投げすてるのか、一度ならずこの銀白の縄は木立に絡んで、みるみるからだを揺すり立てて青葉隠れに身をすくめてゆく、そんなさまの身の毛立つ無気味さは耐らなかった。

 前にも言ったが僕は満九つ、四年生になったばかりだった。アスファルトの他は歩いた事のない九つの子どもが、猿が走るか山水(やまみづ)が流れるだけかと思う位な嶮しい赤膚(あかはだ)の間道を、よじ登り滑り下って学校通いをするとなればどんな事になるか、たちまち息が切れ、つまずき、滑り、転び、顔も手も泥まみれで、打ち傷、すり傷だらけ、挙句(あげく)は仲間の置き去りで青くなる。するとどこかに木隠(こがく)れていた奴らが奇声をあげたり、物を投げたり、嘲笑うのだ。

 (と菊畑の人は呼んでいたが)の外を風呂桶のふちを踏むようにまわって、上の崖の道(これも子どもらはみなそう呼んでいた)へ出る。僕らは学校通いの朝ごとにそこから窪を見下ろし、時にはごつんと紀子の家の上へ石を投げた。奥へ南へ青くさいほど木や草や地苔の匂う岨道(そわみち)をまだまだ何倍も登らねばならない。杉とか樫とかの巨木がこんな狭苦しい渓ぞいの道のすぐ傍に眼じるしのように一きわ濃い翳を落としていた。いったいに峠までの登り()は奥の覗けない(あおぐろ)い斜面に隙間なく杉や槇が生い茂っていたが、峠へ出て(菊畑からあちこちを曲がりくねって来た街道と僕らは漸くここで顔を合わせた)、ものの一、二分も歩かぬ内にまた街道を()れ、滑り台位に急な下り坂へ紛れ()ってしまうと、今度は照りつける日差しに汗ばみながら、まるで粘土で出来た雨樋の底を滑り下りるような事になる。

 村の国民学校は、この峠をまるまる一つ越え切ったふもとからまだ二十分も田中道を歩いた先にあった。

 紀子が手に縋らせて息の切れた僕を引っぱったり、ほらここ、次はそこと、手をかけ足をかけるのまでいちいち教えてくれなかったら、また、ここに湧き水、此処に木の実、草の実などと息の入れ方まで教えてくれなかったら、殊にはじめの幾月か僕はとても通学できなかっただろう。教科書だけの鞄が重いとつくづく思っているその内に、百姓の子らは足早にもう一つも二つも先の山かげへ行っている。杉また杉の木の(くれ)に立ち(すく)んでいる僕の所へわざわざ戻って呉れるのは紀子しかなかった。

 そのくせ紀子に世話をやかれる僕が物笑いなのは当たり前だ。それに頓着していたのでは所詮置いてけぼりだし、耐らなく可笑しくなるのか、へっぴり腰で岩角、木の根を足さぐりに這って来る僕の方へ、笑いながら紀子が手を伸ばしてくれるのが、僕はいっそ嬉しかった。

 この峠を菊畑ではおとしめざまに鬼山と呼んだ。僕らが登ってきたとちょうど反対側へ似たような嶮しい山路を谷へ下りると杉戸部落がある。街道が開けてからの峠は物の影まで明るくなったが、以前はいろいろ妖しい事も起きがちだったと、菊畑でも、また学校のある(とうげ)下の部落でも(あん)に鬼山づれの(わだか)まり住む辺りを言いくたすのだった。

 具体的にこれという事も言うのではなかったが、峠から学校寄りにまた山中に紛れ入った間道がほんの数分は尾根沿いにつづくその途中、道を外れた崖の下十四、五メートルもの山腹に、大人の背丈に余るほどの岩穴が、苔むした頭をのぞかせていた。さも恰好そうな遊び場でありながら、腕白な村の子どもも何故(なぜ)かそこまでは下りて行かず、ただ、鬼の墓、鬼の墓と敬遠していた。

 紀子に「あれは」と訊ねてみたところ、みなをやり過ごして滑る斜面をそこまで連れて見せてくれたが、畳を四つ、五つは敷ける位の岩穴は肌寒げに苔をまとい、入口近くには松の若木に絡んですこし異様に仏桑華(ぶっそうげ)の朱い華が咲いていた。ただそれだけの、飾り気のない岩屋を何故忌むのか、紀子にそれを訊ねる事も妙に仕難(しにく)かった。

 

  あら浪の

  立ちはなれたる

  岩屋戸に

  こもりし鬼も

  やらはれにけり

 

 紀子はつまらなそうな僕を見てこんな歌を口ずさんだが、意味も分からず、何となくふんと鼻先でごまかして元の道に戻った。

 徳夫が心配そうな、物問いたげな顔をして待っていた。

 山の暮しに馴れるまで、紀子はいろいろな意味で僕の先生になった。木や草や、作物の名、また鳥、獣のかたちや鳴声、虫の()、水の音、風や雲の行方、また花の匂いかたち、果物の在り()など、田芹の匂い、柿若葉の美しさ、楊梅(やまもも)()るさま、露草の花の色など、僕は好んで先生の跡を追って覚えた。暗い山かげを行く時、嶮しい岩かどを踏む時、紀子は遠慮なしに僕を抱き緊めて、あたたかい息を頬に寄せ、朗らかな笑い声さえ立てた。紀子たちと親しむ事が人の爪弾きに逢っている事を僕も母も久しく気づかなかった。

 紀子の父を人はかげで藤次(とうじ)、藤次と呼んでいた。他所(よそ)の者は互いに友さん、義太郎(よしたろう)はんなどと言い合っていたのに。それは彼が峠向うの杉戸の出だったからだ。母親の方はだが菊畑でも(かしら)だった旧い家の娘だった。強いて夫婦になった(とが)で女も家を出され、男も元の部落を抜けねばならなかった。二人は殊さら人を避けて山に籠もり、母が実家の田畑のごくわずかを借りて耕すあいだ、父は亀岡へ出て青果市場に勤めた。藤次さんは色白で丈高いからだつきが山奥の男に見えなかった。

 あれこれ今になって想うに、杉戸は他から我から、ともに交渉のごく薄い部落には違いなかった。(あなが)ちな想像にまかせて言うなら、やはり杉戸が鬼の丹波の中でも殊に鬼々(おにおに)しく、祈祷呪術的な怪異のわざを久しく保ちつづけた一族一味の根拠の一つであったのかも知れない。菊畑などに比べて確かにもっと狭隘(きょうあい)で、もっと山の迫り方も嶮しく、さながら四面四囲(しめんしい)みな山壁(さんぺき)の底に冷え冷えと溜り水のように渓水(たにみづ)の淀んだ所であり、耕す田畑はわずかのようだ。むしろ昔は専ら狩り暮したのであろう、山襞のあちこちに(しし)を伏せる柵の数が菊畑より三つ四つも多く見受けられた。そうなのだ、杉戸は昔からよほど世離れた部落だったのだ。何となしあやしげな人声(ひとごえ)を聴きかすめながら、それでも僕は紀子に甘えていた。

 表立ってこれという違いのあるには時代も変わり根拠も薄弱だったろうが、つまりは気分の上で互いに避ける、その度合が他所との場合よりは濃く、それも、はっきり見られた。その影響が菊畑在の鬼山二軒に、必要以上にひっそり暮させていたのではなかったか。鬼が(まつ)られ避けられ、嫌われてゆくまでに幾つもの時代を経たであろう。なまじ都の人にまじわって怖れいやしまれて暮すより、山深く鬼の子孫でさもあるふうにひっそりかたまって心もち(かたく)なしく寂しげに生きる方が(さち)多かったかどうか、いやそのような想像もみな僕一人の想い(みだ)りにすぎないのかも知れない。

 そんな僕でも田舎に馴れるにつれ仲間と一緒にわざと紀子を「鬼さん鬼、鬼」と木ぎれや竹の先でつついたりもした。それは専ら紀子の温和しい弟を(いじ)めるのに使う手だった。徳夫は疳のつよい子で怒ると青筋を(ひたい)に浮かべ、顔つきもひくひくひきつってくる。棒の前に立ちはだかって黙って姉をうしろへかばうのだ。自分のからだに棒の先が当たるのはじっと耐えるのに、うしろの紀子の方へ棒が伸びると徳夫はからだごと棒にぶつかって妨げようとする、それが一番苛めやすい方法と知っているみなはわざと弟を無視して、紀子にからかうのだ。

 姉は徳夫に放っておきなさいと何度も声をかけていた。優しい声だった。意地になって打ち据えてくる程の棒の先でない事は、する方もされる方も承知なので、姉には弟のかばい立てが可哀想に思えるのだろうが、僕は紀子に優しくされる徳夫が何か(ねた)ましく、先に立っても紀子の方へ物を投げてみたりした。

 麦の穂が出揃う頃、稲の穂の熟する頃、山には(しし)が出た。

 部落では(さく)を構え、ビミビミミビと鳴る奇妙な(しし)寄せの笛で尾根からふもとへ猪を狩り出すのだが、たまたま仔牛のその仔ぐらいな猪が柵に追いこまれると総出で騒いだ。僕にはそれが意外に物寂びた、哀れな催しのように思えてならなかった。

 山の中の物珍しい事なら他にも沢山書きたいのだが、一つだけ千里様を祀る小さな催しの事なら簡単にすむから書き添えておく。

 八月三十一日、寒村とはいえ流石(さすが)に酷暑の時分に近在の村々では軒の大わらじを下ろして家の前で焼く。家族総出で焼け切った灰を踏むと息災だという。夕暮れに近づくと家々の軒にまた新しいわらじが吊され、この時、「おんばら、さんばら」と老人は悠長な、だが僕などには薄気味のわるい(まじな)いを呟くのだ。わらじには足指の当たる辺りに二筋三筋朱い端切(はぎ)れを編み入れるのが習いで、きっと鬼の足を流れた血の色くらいの意味なのだろうが、こういう習慣が都会者(とかいもん)には一番居ずまいの悪い、異な心地のするものに違いなかった。

 紀子の家でもちゃんとわらじを吊っていた。

 僕の父は山の中に住みついて居れる人でなかった。それでも週に一度、十日に一度は牛肉や新聞、電球などを自転車の荷台に積んで京都から遙々通って来てくれた。元気だった父は、亀岡から先がまだ二里の上もある山坂でさえペダルを踏んでやって来た。

 父が来ると次の日、悪い奴はきまってこんな事を言った。

「お(とう)が来よって、何しよったんじゃい、知っとるか」

「知らん。何もしてはらへん」

「うそつけ、帰ってよう見てみい、赤いもんが干したるじゃろが」

 うすうすどんな種類の悪口か気のつく年頃だった僕も、そう深くこだわった事はなく、やっぱり父が来ると嬉しく、帰って行く日はよく泣いた。

 その父がある日藤次(とうじ)さん(と僕らはもう呼び馴れていた)と一緒に、父は自転車を曳き、藤次さんの方は買い物の包みを手に提げて、ぶらぶら帰って来た事がある。めったにない機会にどうウマが合ったのか、それからは父が来ると藤次さんを呼びにやらされ、二人はよく縁側で将棋をさしたりした。母屋では、何とやら眉ひそめがちにするのを僕ももう気づいていたし、母も幾分気にしていたが、父は元来が構わない方で、「何やね、ええが。どうもあらへんがな」と問題にしなかった。「こんな山ん中の男にしては、藤次さんはよう勉強しとるで」などとも言っていた。そう言えば藤次さんは囲碁の呉清源九段に似ていた。その割りによく負かされた。父は地声が大きく、藤次さんは極端に無口だった。

 父はどういうものか菊畑まで通う道筋の、あちこちに知り合いをつくっていた。弁当を開き、茶を所望(しょもう)し、蔭を借りて休み、世間話をし、時にはパンクした自転車を修繕する、そういう時に馴染んだ農家へ、父は貴重品扱いだったその頃の電球や真空管を売っては親しくなった。米麦とも交換した。そのうちになみ以上のつき合いまでする家もあった。中でも矢田のお宮近くに警防団長で石塚という家があって、座敷に上がり主人と将棋をさしてくる位の間柄になり、亀岡づとめの藤次さんまで誘っていたのである。

 仁和寺の傍へ越して来た鬼山和子の姉というのが、僕はこの石塚へ嫁いだ紀子に違いないと()うから思っていたのだ。

 

 紀子とは最初の頃ほど一緒に過ごす事がすくなくなっていた。逢っても紀子は前ほど朗らかに「(ひろっ)ちゃん、宏ちゃん」と呼びかけなかった。妙に徳夫まで寄りつかなくなり、「新しい本があるで」と誘っても生返事をする。家へは他の腕白たちが集まるようになって、母は襖が破れたり、障子の桟が折れたりするのをはらはらして見ていた。

 僕は(かえ)って紀子の事を心の中で呼ぶようになっていた。

 昭和二十一年の秋はじめ、烈しい雨台風が丹波へ来た。生憎(あいにく)、一人仲間に遅れて学校を出るはめになった僕は、真赫(まっか)に土砂をえぐる出水(でみづ)のしぶきにぐしょ濡れになりながら、嶮しい山坂をものの役に立たない傘を小脇に、息を詰めて登りはじめた。幾折れにも深まる山の襞々(ひだひだ)、尾根尾根は灰色に揺れに揺れ、凄い風鳴りで今にも暗い空が落ちて来るかと思った。二十分も這いずりざまに進むと、急に片側が谷底へ雪崩(なだ)れた(そわ)へ出る。気も(くじ)け、僕は滑る足を踏みしめ踏みしめあの岩穴までのがれようと下りて行った。だが足は、岩かどを中へ踏み込もうとして釘づけにされた。紀子が、人もなげに濡れ髪を額にまつわらせ、すこし膝を投げ出した横坐りのままで、上半身素裸になって上着を力いっぱい絞っていた。力をこめるただむきから肩のまるみ、背や胸の血の色をさした柔らかな肌は、僕の母などのさも色白とほめられるよりももっと艶やかに光っていて、十三、四の少女の乳房の優しさは、おらび()ぶ嵐の中の、さながら花の幻であった。

「どうしたのん、はよお入り」

 紀子は驚くふうもない。自分もみなに遅れたと言うが、

「ほら、あんたも脱いで絞らな。風邪ひくえ」

 言い言い紀子は裸のままで僕の濡れそぼった上着を手早く手伝ってぬがせた。絞るとシャツが粘土色の薄あかい(まだ)らになった。紀子は自分のぬいだものと一緒に、(ほら)の奥のまだ乾いた岩肌にひっかけて仕舞うと、「さあなあ、ちっとは小やみになんのやろか」などとさほど迷惑そうにもなく呟きながら、僕のすぐ横に膝小僧をかかえて坐った。はだかの肩さきが触れ合うその優しいはずみが温かかった。

「寒いやろ。風邪ひいたらあかんえ」

 僕はなるべく紀子の方を見ないように、谷底へ突き立つ雨脚の太い白い翳を見つめていたが、思わず肩をすくめたその肩を抱きよせて、紀子は「ほら、抱いたげる、ちょっとは温かいえ」と微笑(わら)った。僕は腕の中でからだをよじって正面から紀子を見、そのまま持ちあげたようなまるい胸に顔を押し当てていった。

「いやあ、あまえたやな」

 耐らなく恥ずかしかったが、恥ずかしさと同じぐらい嬉しいと言ってしまえば嘘かもしれない、何処かしら紀子に触れた肌から肌へ溶け崩れそうな心もとなさが、そのままの夢であった。体臭といってもまだ十三、四の少女の匂いには、雨に打たれた辺り一面の強い木々の匂いもまじっていた。僕は唇を殊さらまるくつぼめ、(くち)の先と舌の先とで甘えた音をさせて紀子の乳首を啜った。しなやかな双つの腕が、膝坐りして優しく僕の頭のうしろを抱き添えていた。眼を胸の真中に強く押しつけ、汗ばんだ真暗闇の底へ底へ僕は沈んで行きたかった。

 風が募っていた。髪をすき流すように吹き募る風に乗って雨が細い縞目になって真白に飛んだ。紀子は僕の頭を押さえるように上から腕に巻き、静かに話しはじめていた。何やら昔噺(むかしばなし)めいて、だが声音(こわね)は沈んで物錆()びていた。

「むかあし、まだ鬼が人にまじって暮していた時のことです。ある殿さんを、好きになった鬼がいました。殿さんの方は気味わるく思うばかりでした。それは鬼が蛙ややもりをとって食べるからです。鬼は、蛙ややもりを食べるのをやめにしました。殿さんはそれでも()い顔はしませんでした。角があって見苦しいと言うので、鬼は痛い思いをして利鎌(とがま)で角を削って捨てました。殿さんはまだ厭じゃと他所(よそ)を向きました。鬼は強い鬼歯にも涙をこぼしこぼしやすりをかけました。まだ何やかや鬼はしんどいめをしたのですが、やっぱり殿さんはつれない一方でした。殿さんにはみめよい女房がありました。その女房のまるい顔やらまるい肩やらが殿さんは好きでした。可哀想に殿さんは鬼に女房だけが好きじゃと言うたそうです。鬼は怒って女房をとって食べました。それから白粉(おしろい)を沢山塗り、きれいな着物に着かえて殿さんの所へ行きました。殿さんは女房が恋しい、女房に逢いたいと言うて泣いてばかりいました。鬼はとうとう殿さんに腹を立てて、つい殿さんをひっとらえて鵜呑みにしてしまいました。鬼の腹の中で殿さんは死んだと思った女房と逢いました。手をとって二人はおいおいと嬉し泣きに泣きましたので、鬼の口からその声が洩れて聴こえました。鬼の腹の中だとて二人で居たら極楽やと言うて殿さんと女房は毎日毎日楽しゅう暮しました。鬼にはその様子が四六時中聴こえました。口惜(くや)しいて口惜しいて鬼はとうとう大きな石を頬ばってのどをふさいでしまいました。ああ熱い熱い、そう言うて腹の中で二人がのたのたするうち鬼は息が出来んで死んでしまいました。殿さんと女房は(あつ)がって、はだかの恰好でようようお尻の穴から外へ()うて出ましたて」

 紀子は僕を坐り直させ、顎をつかんで自分の方へ顔を向けさせると、にっと笑って、「あんな。この岩屋が死んだその鬼のお尻の穴やて」

 言うなり自分からわっと声をあげて僕をまたぎゅっと抱きしめた。僕は吃驚(びっくり)して紀子の乳房に顔を押しあて、少し震えはじめていたが、そのまま身動きもせず眼をつぶっていると、急に、眼の底から朱いたいまつが一つ二つ三つと燃えて、近づいて来た。

「それからまた、これも昔、里のお姫さんの所へ通う鬼がありました。お姫さんは鬼を(きろ)うて無理難題をもちかけ、もちかけしましたが、そのつど鬼は何とかしてみなやり遂げたそうです。最期にお姫さんは、三日三晩のあいだ、戸の外に立って大声で休まず鶯の鳴き声を真似るように、自分は耳が遠いから小さな声ではあかんと言いつけました。ためしに鬼がホーホケキョと鳴いてみせると、それは(たに)の鶯の鳴き声や、峯の鶯の声で鳴けと言われました。鬼は峯で鳴く鶯の声を聴き覚えなかったのでさあ困ってしまいました。仕方なく『ホーホケキョウホケキョウ』と二声ずつ鳴き鳴き鬼は咽喉の声をふり絞ってお姫さんの家の前で三日三晩を過ごしました。『ホケキョウ、ホケキョウ』と唱えつづけたのですから沢山な仏さんが飛んで来て有難そうに聴いていました。けれど鬼の声があんまり大きいものやからみな閉口して帰って行きました。お姫さんはといえば自分は耳に栓をつめていました。三日三晩たってお姫さんは耳の栓を外すと外はしんと静かでした。鬼はのどから血を吐いて土の上で死んでいました。お姫さんは鬼の屍骸(しがい)をさっさと捨てさせました。仏さんも一人も飛んでは来なかったそうですと」

 紀子の声が暗闇の奥からぎんぎらぎんぎらと響いていた。火影(ほかげ)も四つ五つと次第に大きく朱々(あかあか)と近づいていた。赤や青や黒の、どれも怖いほど沈痛な顔をした鬼たちがたいまつをかかげて輪になり、輪の中に死んだ鬼が背をまるめて横たわっていた。紀子が寄ると鬼たちは輪をひらいた。鬼の屍骸に顔を寄せ、紀子は泣きながら「オンバラ・サンバラ・ビシュラノ・オンロロ・シアリンソワカ」と低声(こごえ)で唱えはじめると、鬼も和して陀羅尼を唱え、火は動き、闇に包まれた渓々峰々の濃い影が悲しむように揺らぎ揺らいだ。紀子は僕の方を恭々(うやうや)しく顧みて涙の顔で招いたが、怖くて僕は首を横に振ってしまった、とみるみる紀子の顔がすさまじい赤鬼となり、鋭い二本の角がたいまつに照らされ銀光を放った――。

 我に返った時、一番に涙で歪んだ母の顔を見た。僕は家の寝床に寝かされていた。

 岩穴から上半身はだかで乗り出すように突っ伏した僕を家までかついで帰ったのは宇市つぁんという老百姓だったそうだ。話に尾ひれがついて、宇市つぁんが僕を見つけて急いで下りて行った時、光るものが僕の傍から飛んで走ったとか、僕ののどに血がついていたとか、そんな事が耳に入るものだから、母は急に京都へ帰りたくなったらしく、次に父が来た時、温和(おとな)しい母が噛みつくようにその話をしていた。

 紀子の事は一言も喋らなかった。紀子も素知らぬふりで、時には徳夫と一緒にふらりと本を読みに来た事もあった。あんまり知らん顔なのでいよいよあれは僕の悪い夢だったかと思いこみそうで、その実、紀子に抱かれたあの温かい感触、生々しい肌の匂いまで忘れる事はできなかった。怖ろしさと恋い心とで紀子の顔を見ると、とっとっと胸が鳴った。紀子が日一日と美しく見えた。

 戦争は敗けてもう一年以上も経っていたが、母の希望はいろんな事情で直ぐに叶えられそうになく、そのうち秋も過ぎて行った。暖房用の(まき)をめいめいが教室まで運ばねばならぬ季節が直ぐに来た。そういう奉仕をしないと酷寒の季節、暖房のすべのない時代だった。

 夕ぐれ、(なた)一丁(いっちょう)さげ、途方にくれて僕は山に入った。前の冬は紀子か徳夫かがこういう手伝いもしてくれたのである。だが、なぜか今度は素直に頼めなかった。紀子を見たい、傍に寄りたい、でも二人きりは怖い、僕はしょっちゅうそんな妄念に悩まされていたが、その頃では、本当に台風のあの日、紀子が僕を抱いて乳を吸わせたりしたかどうか確かめてみたい、という気もちにも捉われていた。

「紀子ちゃん」と以前のように呼べない。お姉さん、とか、もっと近しく例えば僕が夫で紀子は妻というような憧れがからだ中に渦巻いていて始末がつかなかった。徳夫を口実に紀子の姿を見に行こうという下心がちゃんと自覚されていて却って焦ら焦らが胸の内を刺すのだ。僕はわざと足早に紀子らの家の横を通り抜けて、やけくそに崖の道へ登って行った。木枯しまじりに、粉雪(こなゆき)さえ降り()めそうな空模様だ。僕の鉈はむやみに(くう)を切った。時には立木にがちんと突き立ったりした。そんな僕のうしろに徳夫がそっとついて来ていた。

「来いよ」

 一言呼びかけておいて徳夫は勢いよく先に立った。僕は慌てて、あとを追った。

 押し分けるように徳夫は巧みに木深(こぶか)い踏み分け道のかすかな跡を辿って、まだ来た事のない小高い崖下まで僕を連れ出したのである。指さされて、僕は崖の上から手頃な枯木が頭を出しているのを見つけた。あ、そうか。

 僕は物問うように友だちを顧みたが、徳夫の姿は影もなかった。

 臆病な僕の足はもはややみくもに眼の前の灌木の(むれ)にわずかな隙間道を見つけて踏みこんでいた。夕やみが梢にも枝間(えだま)にも容赦なく(かげ)を張りめぐらしていた。踏み入れた僕の足は、まんまとはかられた獣のように(くう)をさぐってからだごとずるずると呑みこまれて行った。山が生きた暗い口をあけて引きこむ、その歯の硬さや舌触りのあやしさを僕は夢中で感じた。どさっと行き当たった岩肌に痛い爪を立てて踏み直った時、僕はこの巧妙にたくまれた滑り台が、ちょうど徳夫たちの家を見下ろすあの崖のまだ十メートルも上にかかっていた事を知った。屋根だけが見えて紀子たちの姿はなかった。

 崖の道までようよう下り立った僕は、急に暗い足もとをかすかに這い退()く物の気はいに飛び上がった。この寒さにまぎれ残って力弱げに身を隠そうとする生黒(なまぐろ)いそれが確かに蛇だと見るが早いか、遮二無二(しゃにむに)僕は鉈を叩きつけ、あとじさりざま大きな樫の木の幹にしがみついてしまった、と、木のかげに紀子の脅えて(みひら)かれた大きな眼が震えていた。

 この日から僕は二度と村の学校を見ずに終った。高い熱とうわごとの幾日かが過ぎると、今度は急激な腎炎の症状が襲いかかった。散り()めた雪もよいを冒して遙々京都まで僕を連れ戻った母の機転がなかったら、僕は死んでいた。

 病が()えても丹波へ戻る気もちは一雫(ひとしずく)もなかった。

 家財の引揚げなどで母は父と一緒に一度ならず菊畑へ足を運ばねばならなかった。が、あの徳夫の突然の死を僕に告げたのは、床もあげて、なつかしい以前の小学校へ通い馴れはじめた翌春だった。京都で聴く徳夫の名も、事故死も、なぜか絵空事めいて僕には想えた。だがこの絵空事の全体に、透かし繪のように、突きたてた鉈を揺すって烈しく輪にねじれた黒い蛇のもがきもがく姿が浮かび、その向うから僕を咎める蒼く(みひら)かれた紀子のあの眼が覗いていた。

 

 紀子のあの眼と、鬼山和子が僕を見た眼と、それは酔ったような頭の中で一つになったり二つになったりした。和子が紀子の妹であることは、ありうる、としても、だが、詮索などあやかしにすぎない。僕は紀子の事だけを想っていた。

 広島へは、大阪を夜の十一時過ぎて()つ夜汽車だった。眠れない寝台の上で僕は紀子と再会した時の事を想い(めぐ)らしていた。

 母が丹波はもういやと言い出したのは確かにあの台風の直後だった。父が直ぐには母の望みを容れられなかった事情というのは、その頃、父が矢田在の石塚などの手引きから亀岡町近郊で何かの事業に手を出していたからだ。仕事の中味は知らなかったが、終戦の時から手際のよい仕方でヤミ物資も扱い馴れてきたらしい父の活動範囲がそこまで拡がっていたという事なのだろう。けれどその冬、僕が大病をしてしまったのではもう仕様もなく、僕たちはすっかり丹波と縁を切った、とそう僕自身は思っていた。

 父のしていた事はだから何も知らない。それどころか僕はすぐ忘れた、すっかり丹波の事は忘れて行った。それからまた揺り返しのようにときどき古い事を懐かしむようになった時、僕はもうあの頃の紀子より二つも三つも年嵩(としかさ)になっていた。大学受験の苦しい勉強に()められ、どうあがいても灰色の日常を明るくするもうそれ以上の気力も体力もなく、頭の中は解析の難しい数式や、難渋な英作文の文章がのたのたと巣食う場所だった。想い出して悦ぶ青春はなく、丹波の山奥での疎開暮しがしみじみした想い出の唯一のものだった。紀子は心惹かれた少女として、少女の面影のまま真白な印象を甦らせていた。

 挙句(あげく)、僕は勉強に祟られ、病気をした。夏休み中の愚かな無理が秋口、さも当然のように(むく)って来て、大事なほぼ二ヶ月をも登校できずに終った。結局、目ざす大学の受験はあきらめ、担任教師のはからい一つで市内の私立大学へ無試験の推薦を受け、秋の末には、すぽっと納まってしまったのである。(むな)しい幕切れだった。羨む人も多い中で僕はやっぱり虚脱感に襲われずにはすまなかった。

 師走初めだった。所定まらぬ奇妙な感情にまかせて、僕は京都御所北側にあるその大学へ足をむけていた。風がすずかけの枯れ葉を舞わせていた。比叡山の頭が寒々と光っているのを遠眼に確かめながら僕は大学の門の前まで市電に乗ってきた。キリストという馴染まない異国の使徒に神の息を吹きこまれた大学、その表門の簡素なかたち、それを蔽って(おお)きな樹木がゆさゆさ揺れていた。御所の塀に沿って高々とぬきん出たみごとな巨木の壁も、相国寺の奥から波打って吹きよせる寒風(かんぷう)にも、これまで聴き慣らってきたと同じ何かのある事、むしろ何の変わった事も認められぬ事を僕は馬鹿馬鹿しく実感した。

 僕は門の前からとことこと元の道を歩いて引っ返した。

 寺町から南行すると東側に古い寺々が軒を連ねている。僕は一軒一軒、門の前に(たたず)んでは由緒や来歴を綴った木札を読んだ。

 やがて立命館大学や京都府立医大も近い辺りで女子学生のグループと出逢った。近くの寮から今出て来たらしく、華やいだ声が人少なな通りにびんびん響く、そんなにも威勢のいい顔、顔の中から一つの顔が僕を見つけるとびくっと後退(あとじさ)るように動かなくなって、その顔が次に物を言う顔に替った瞬間、紀子の真白い美しい顔を近々と僕は見直していた。

 わずかな立話の中で紀子はくどい説明をしなかった、ただ二人の間にまる七年という空白のあった事を指摘して、敗戦後の七年が山に埋もれた百姓の娘を華奢な京都の女子学生に変えた魔術にはどうぞ御喝采をというふうに、朗らかに笑った。それから真面目になって、僕がやっと病床を離れたばかりなのを知っていると言った。問い返すひまもなく、紀子は行かねばならなかった。過去完了の世界が身近に素知らぬ顔をして生き(なが)らえていたのをはじめて知った。父を(いぶか)しむ思いがこの時、唐突に芽生えた。

 その晩、母のいる所で紀子と逢った事を喋った。父は僕の顔を見たが何も言わなかった。それ以上の口を出す事でない、僕はそう何故か思って黙った。

 次の土曜日。紀子は東山七条まで出て僕の学校帰りを待っていた。

 智積院(ちしゃくいん)の玄関から右へ細々と石だたみを踏んで行くと、東に拡がる侘びた松林が山風を運んでいて、奥の方に美術学校の校舎が木隠(こがく)れて見える。古い塔の礎石(そせき)にこつこつヒールを踏み当てたまま紀子はいたずらそうな眼をして僕を見た。

 訊ね合う仕方で埋めねばならない、そんな久しい空白が拡がって見えるのに、紀子は順繰りに逆戻りして戦争の匂いのする古い菊畑へ話題を移すのを面白いとは思わない。紀子の眼には勉強やつれのした高校三年生の青っぽい表情だけが映るのである。昔に惹かれて甦るものは紀子にはないかのように大人びた高飛車な口をきいて自分はいよいよほんものの先輩だと言って笑うのである。

 同じ大学で紀子は日本史を専攻する二年生だった。どうしてこんな事になったのか、問い返すもうそんな気がなかった。少年のような声さえあげて紀子は松にもたれた僕の眼の前へ両掌を突き出し飛びかかるみたいにかけ寄った。愚かしげに手を握られ、ごつごつした木の肌を背中に感じながら紀子の美しい、滑らかな石に似た皮膚の艶を眼近(まぢか)く見た。松の木ごと僕を抱きしめ、「とうとううちら逢えたなあ」と女の声が静かに言い切ったが、ふと(わきま)え得ない気がした。

 日吉神社から太閤坦(たいこだいら)へ、なだらかな土の坂がつづいている。豊国廟(ほうこくびょう)の胸を()く石段の直ぐ手前から右へ入ると、山の腹を鉢巻を巻くようにゆるゆる上り坂になった道が追い追いに繁った灌木の渦に隠れてゆく、そんな山の深みへ紀子は腕を絡めるふうにして巧みに僕を連れて入った。

 かさかさ渇きながら灌木の繁みは灰色の厚い幕になってうるさいほど顔に触れ足に絡む。そのわずかな隙間にまだ柔らかな山の肌が枯草の匂いと一緒にさほども寒くなく残っている場所を紀子は上手に見つけ出して、僕を坐らせた。自分はすこし離れて向うむきに木立に顔を押しあて、()っとしている。僕は黙って、そのくせおどおどしている自分の他に、もう紛れなく、昔抱かれたあの温かだった少女の綺麗な胸のかたちをぎらぎら眼の奥に甦らせている自分、の居るのを当分に見比べた。ある(つぐな)いの犠牲(いけにえ)である自分だと悟り切ったように、身じろぎもせず坐っていた。だが、とうとう「紀子ちゃん」と呼びかけ、その瞬間見返った紀子の顔を蔽った両掌の指の隙から何という黒く光る眼が僕を見据えた事であったか、あっと腰を浮かすのを紀子は山犬のように素早く飛びつくと()けるような乱暴な(くち)づけで僕を(あおぐろ)いめまいへ突き飛ばしてしまった。軟らかにうごめく唇と舌との律動に脅える僕を(なだ)めるように、紀子はそんな姿勢のまま手早く自分の胸へ僕の手を誘い寄せ「ほら、覚えてるか、覚えててくれたか」と唇の先ですり寄せた声を、のどの奥まで(あえ)いで吹き入れた。

 紀子は山を出ると、自分一人はタクシーで七条通を西へ消えた。

 しびれたからだを熱いぬらぬらした空気がゴムのように厚ぼったく囲んでいた。ともすると僕はゴムのはずみに負けて真直ぐ立って居れないような、足の先から斜めに宙へ浮きそうな手ひどい錯乱の波動をじんじん聴いた。十分にも足りない祇園までの市電の中で腰をかけるのも妙に(はばか)られ、()いた座席をよそに窓の鉄枠にしがみつきながら、外の家並が真赤に見えたり薄紫に見えたりすると思い思いしていた。

 紀子を愛していただろうか、あのような再会の仕方は僕から愛などという心のふくらみを奪った気がする。一度ならず受けたからだの感覚が生々しいためらいにまかせて遂に力ずくで恋の方を鎮めていた。紀子を想う事は自分のからだの一部に熱い刺激を加えるそれ以外のものになり得ないで、スリリングな惑溺(わくでき)だけが紀子に逢いに行く僕の足どりを肯定した。

 勿論、僕は多くの事を紀子から聴いた。あの物静かな紀子らの母親が病死していたという話は、中でも苦しげな紀子の表情とともに印象的だった。

 時世の魔術を僕はたやすく肯定した。鬼山の藤次(とうじ)さんはあの頃からただの貧農ではなかったが、僕の父がやがて亀岡での仕事を手伝わせ、藤次さんは頑張った。彼は亀岡と菊畑の二重生活から徐々に亀岡に多く住むようになった。だが、三、四年の内に紀子の母は或る日、しばらくの亀岡滞在から山へ戻ると呆気なく死んだという。

 一つの死に就いて問いながら、僕はどうしてももう一つの死、あの徳夫の死に就いて訊ねてみる事ができなかった。紀子の眼が、さあその事を訊ねなさいよというふうに語りかけていると感じれば一層僕は尻ごみしてしまう。徳夫は、なぜ僕を誘ったのだろう、山の中へ置き去りにしたのだろう。ただいたずらだったのか。僕には分からない。

 徳夫が死んだと聴いた時、やっぱりと思い、死んだのでなく僕が殺したのだと思い、徳夫は蛇に変化(へんげ)していたと確信して、つまりは紀子を鬼と信じて、怖れ、また恋していた。どこかで差別や軽蔑さえも、していた。

 それもだが忘れゆく、また忘れやすい年頃に当たっていた。僕の(なた)が黒い蛇を殺した。それだけがただ一つの事実であって、それが一体何だというのだ――。

 紀子は弟ほどかどうかやはり学業は秀れていて、鬼山が亀岡での新しい仕事を波に乗せていた頃、高等小学校を出ると、一年の空白のあと京都西郊の私立の女学校へ三年途中入学する事ができた。そして、そのまま同じ女子高校へ進んだのである。亀岡からは汽車通学で一時間かからなかった。その意味では僕の父は鬼山父子にとって結局は恩義のある人だったが、それにしても父のこういう陰徳を僕が迂闊(うかつ)なのか、母もそうなのか、全く関知せず、父が確かに紀子らに就いて話題にさえした事のまるで記憶になかったのはどういう事なのか。紀子は僕の病気を知っていた、路上の再会を本当に悦んでいた、だが、偶然としか思えないこの機会の以前には僕に逢おうとは試みていなかったのだ。

 

 僕は我慢も折れて臥し寝していた父の老い病みのさまを広島へ向かう汽車の中で想い浮かべた。剛気な若い頃の父は僕の誇りだったのに、いつ頃からか少しずつこの父を(あなど)り嫌ってきたようだ。剛気と思ったものが通俗な親分根性でなくもなかった。根はどこか怠けている人ではなかったか。家族を大事にはしたが尊重していたと思わないのだ。

 僕らの手の届かない所に父はかげぐらい別な人生を営んでは来なかっただろうか、と僕はよくそれを想った。

 紀子の母の死を自殺ではなかったか、原因は僕の父にあったのではないかと想像した事もある。隣村の、殊にみなに()まれていた杉戸部落の若者と恋をし、敢て山中(さんちゅう)に小屋をかけたような人だ。その人がどのような事情でか僕の父と暗い交渉をもったとすれば、言い(にく)い事だが、暴力的、強圧的な働きかけの結果とも推量され、紀子の母は夫へのつぐないに自殺したのかもしれない。たまたま藤次さんの知る所でなかったか、或いは知りながら隠忍したものか、おそらく亀岡の事業を全く父から譲るといった結末を生んだものとも想えたのである。父と藤次さんとの間には、主従とも差別とも言えそうな感覚がかすかに生きていただろう。それは紀子が同じ京都にいて僕の家へは一歩も近づかなかった事から察せられる、と、あれこれこんな想像をしている僕自身の暗いいやな性格こそ紛れもない、と言わねばならないのだが――。

 紀子はだが次の年、僕の入学前に急に姿を見せなくなった。僕は紀子を探し出す大した方法ももたず、かと言ってそのために丹波まで足を向ける気にもならなかった。嫁にでも行ったか、よかったというかすかな安堵が、奇妙な、恋らしい一抹未練の翳も落としはしたが、明らかに僕は何の損もしていなかった。損得づくで紀子の肌の記憶を評価している僕は紀子との理由のない別れを哀しむ純情さに遠かった。

 丹波の時代から再会の此の頃までに僕は例の歌詠みの先生、いやもっと沢山な人や知識と触れた。清経との出逢いもこの七年間の内だった。古典を好んで読み、とりわけ能舞台に感動し、若き清経の死に心惹かれた僕と、紀子に誘わせて高校生の内に童貞を捨て、女の失踪を好都合に思う僕とが居た。それを(あざ)み、(うべな)い、思い捨て、結局忘れて行った僕がさらにもう一人居た。この事件にはまたしても父が、という想像もしたが、詮索する気がなかった。

 大学へ進んでからそれとなくキャンパスを見まわし、文学部の名簿を見て、そう熱心にも見なかったためか、僕はついぞ鬼山紀子を同じ大学の女子学生と確認する機会がなかった。紀子は本当は――、とつい怖い想像をして見た時もすかさず他へ気をそらせ、僕にはもう何も顧みない姿勢が固まっていた。

 

 

   三、 鬼の事

 

 卒業前に妻と識り合い、一年の大学院生活を恋に見捨てて、一切の京都を簡単に放棄した。東京での新しい暮しがはじまった時、僕は鉛筆のように細くて、眼つきも尖った一会社員に変貌していたのである。

 仕事は医学書の出版であり、過去とは百歩も遠かったが、却ってそれを幸いに思い切って同僚の仲間入りをして行くゆくうちに四、五年経ってしまえば何という事もなかった。徐々に昔が甦ってきた。野暮なまで堅苦しい編集の作業のかげに沈んでいた趣味もぽっかり浮かんできた。逆に今の仲間から少しずつ身を退()いて行った。たとえば清経の死をあれこれ詮索したりするのがいい道楽に変わってきた。筆まめに、僕は興を惹かれた調べもので不審があればよく手紙で人に問い合わせた。つてがあれば事をわけて叮嚀に教示を乞うたりして、返事も大概は貰えた。つまりはだんだん勤め人の暮しに馴染んでゆくのだろう、どんな勉強もあてがあってするのではないのだが、確かにそうしている、その事自体が目に見えない何かの埋め合わせには違いなかった。

 清経の入水を崇高清寂な美しい死と感じた昔の僕が、いつか自分の手でその感動をうすめるための詮索をしていた。謂わば道化に結末を導いていた。この推移の中に、もう何かしら生きる事の確かさを思い捨てはじめた虚ろな僕の影はさしているのであり、謡曲が解釈した清経死よりも、こんな斜めな眼で見る清経像の方にやっぱり僕は今、親しみを感じているのである。

 と、まあとかくする内、もう二、三年前だが、僕は或る日、女の人からという伝言をデスクの上のメモに見つけた。五時ちょうどにもう一度電話をするから在席願うというのだが、その当時の僕の仕事や交際の範囲で特に思い当たる人もなく、それでももしかしてと思い思い再度の電話を待ってみたのは、メモを置いてくれた同僚が「声のきれいな京都弁の女性だったぞ」と強調したからだ。索莫(さくばく)とした日常、たとえ間違いでもこの附言を確認してやろうと思い立ってみるだけで、とにかく一つの事件だった。

 再び電話口の向うから僕の名を呼んだのは、紀子に違いなく、驚いた事に彼女は或る中学の担任教師として修学旅行の途中と言う。何かめまう心地がした。

 生憎(あいにく)と雨が降りはじめ、傘のない僕は難渋しながら暗い、勝手知らぬ真砂町辺の旅館を探し当てて行った。

「石塚先生、どこ行かはるのん」と女生徒の一、二にまとわれながら、笑顔の紀子は鮮やかに用意の傘を押し開いて白いレインコート姿で小走りに出て来た。「いやあ」と(はや)したてる声も構わぬそんな紀子のすこし肉づいたまるい肩の辺を見ながら、やっぱり黒いあの()に見据えられる瞬間を畏れ畏れ、とにかく僕はタクシーを拾った。

 池袋へ走るタクシーの中で、紀子は腕を絡ませてきただけで口をきかなかった。そうか。僕は紀子が亀岡矢田の石塚へ嫁いだのだとこの時、合点した。だがどういう経路で先生になったものか分からない。紀子は果して大学をちゃんと卒業したのだろうか。

「今でも、おやじと――」

 怒ったように外を向いて紀子は答えなかった。

 女はすでに三十になっている。顔色も艶やかで、働いている人に見えなかった。比較的ましなレストランの二階に、ほっと向かい合って顔を見合わせても、どちらからもさて挨拶の仕様がなく、僕は紀子を珍しいもののようにこそ見てはいたが、多少迷惑という気もちも抑えられなかった。

 紀子は黙ったまま僕の眼をのぞくような顔をした。

 妻を失った鬼山の藤次さんが父や石塚の肝煎(きもいり)で後妻を迎えた事、その後妻が菊畑の山で変死した事、紀子自身も僕の父の世話で望まれて石塚の息子と二十六の時に結婚した事、その直後に紀子の父もまたあやまって山の中で死んだ事、かっきりこれだけの事実を簡潔に紀子は話した、この五、六年間もの報告を手早く済ましておくというふうに。驚いた事にこの時紀子は唇を噛んでいた。臆する所なしに涙のたまった眼で真直ぐ僕をみていたのだ。

「奥さんは」

「うん、まあ――」

「お勤め」

「いや、家にいる。こどもの世話があるし」

「――何人」

「二人。下の男の子は今年の正月だった」

「――可愛い」

「いいねこどもは。ほんとにいい」

「奥さん、若いんでしょ」

「いいや。一つ下です」

「きれいな人。大学時代からの」

「そう。別に美人でもない。あんまり丈夫じゃないんでね」

「心配」

「気が重い。年寄りと一緒だとね、何かといいんだけど」

「そやけど、よう気は合うでしょ」

「ああ、好みの合う方だろうな」

「幸せそうやね」

「何にも、――別に」

「背の高い人」

「いや高くない」

(ひろっ)ちゃんの好きな人やさかい、きっと賢い人で、上品で、行儀ようて。――そやろ」

「迪子が聴いたら、びっくりするよ」

「みちこさんて、言わはるの」

「そう。西宮の生まれで、大学では一年下にいた」

「――—」

「のんきな奴でね、迪子は。こどもは母親に似てみなおっとりしてるよ。上は女の子でもう幾つだったかなあ、迪子の健康の事もあるし一人でよす気だったのが、つい寂しくってね。二人めが男の子で迪子も大威張りさ」

「――、京都へは、いつ帰るの」

「いや、東京暮しも悪くないと僕は思ってる。わずらわしい事もそりゃ勤め人だからあるけどね。迪子は――」

「みちこ、みちこて、そんな言わんといて!」うつむいたまま低声(こごえ)で紀子は叫んだ。調子に乗っていた僕は思わず顔色が変わった。

「あなた――、紀子ちゃんとこは、こどもは」

 返事はなかった。

 二人が坐っている窓辺の席から大通り越しにネオンサインが夜空に突っ立っているその中には矢印がついてこの先二百メートルにホテルのある事を麗々しく教えるのもあって、紀子は黙ってその方を見ているらしかった。

 本当に京都へはもう帰らないのかと紀子は横を向いたまままた訊ねた。返事次第では何を言い出すか判らない、そんな予感がして僕は尻すぼむ心地だった。

「あんたて、ええかげんな人やなあ」と囁く口調で言い切ると紀子は真正面から眼がしらを崩すように微笑して、「な、今日、わたしとつきおうて」と甘えた。このまま、ただすむと思うているのかと、甘えの裏側から手強く迫ってくる暗い記憶に負けまいとするのだが、心よわく見る紀子の顔は濡れそぼった窓の外の宵闇をはねかえして、もう今はつやつや光って見えた。何とこの女は見るたびに美しいのだろう――。

 娘がからだ具合をわるくしているので、と、僕は婉曲に断りにかかった。

「そんな事言うたら、ほんまにわるなるえ」きっとなって紀子は眉をあげた。「ほんまに具合がわるいかええか、そんな位、分からへんと思うてんの」

 紀子は乗り出すようにテーブル越しにきらきらにらむのである。

 僕を愛していたと紀子は言った。

 紀子は現在の夫に就いても黙っては居れなかったが、真面目な、だが尋常な銀行員の事を良くは言わなかった。夫を(おとし)めて言う事で今の今僕に愛情を説得できるかのように、結婚生活は本意(ほい)なく強いられたものだとまで言った。強いたのは僕の父かと想像し、想像がそこへ及べばどうしてもまた紀子のあの春先の急な失踪や、その後の先生暮しなどを訊ねるか喋るかするのが、順序だった。だが、黙っていた。紀子も、紀子は蒼ざめるほど興奮していたのだが、喋らなかった。頑なにも見えた。

「な、ええやろ――」

 優しい、胸にひびく声音(こわね)で紀子が頼んでいた。同じ口実を低声(こごえ)で僕は呟き返した。

 口実が嘘であろうと本当であろうと、もう一度紀子の言いなりになってしまえば、もはやぬきさしはならない。レストランのボーイや客の方を心弱くうかがいながら僕はテーブルのふちをつかんでいた。

 ふふ、ふふふと紀子は笑い出した。席を立ち、ハンドバッグを持ち、それでもふふふと含み笑う声が途切れなかった。

「覚えてよし」

 のけぞるようにあげた尻を椅子に落としたその間に、紀子は静かに先に店を出て行った。慌てて支払いを済ませ、追って出た池袋の街のもうどこにも紀子の真白なレインコート姿は見当たらなかった。

 雨が白い糸の束になっていた。

 

 京都で逢ってきた女学生は紀子が少女の頃の面差しを写したようだった。ひょっとしてあれは紀子その人があの応接室で僕と向かい合っていたのかもしれない。先生は鬼山和子の姉が同業とは注釈していなかったが、紀子も今は何人かの母であるのか、石塚とはうまく行っているのだろうか。池袋以来の無音(ぶいん)(たす)けられ、僕は我ながら陰湿な笑いを洩らしていた。広島へ向かう汽車が尾道(おのみち)をさっきに過ぎていた――。

 今度の出張は広島市での小児科学会の取材が目的だった。

 勤め先は医学の研究書や教科書を出版する堅い職場だが、詮ずる所、僕はこれで理解を絶する健康と病理との腑分けに魅せられてきたらしい。殊に小児科は僕の愛着する守備範囲だし、会社も広島まで出て行くのを難なく許してくれた。

 学会場は平和記念館の講堂と公会堂とを使っていた。原爆公園は五月の花で溢れていた。

 一日めは、叮嚀に研究発表を聴き、馴れた勘を働かせて演説の中から出版企画のヒントをつかもうと努めてみた。僕の双眼鏡は暗くした会場の中で、司会者、演者、質問者の眼の色まで覗きこむのだ。

 それにしてもこれは出版企画のためのほぼ予備的な作業にすぎないし、今の今、実の()る事はすくない。ざっと一わたり、勘よく見渡して、あとは顔なじみの教授や研究者と飲み食いし、喋り、新しい原稿執筆を頼み、催促し、親しみを添えてくる、それで大体十分なのだ。その十分さがようやく分かっていた僕は、ためらいなしに二日目の朝はタクシーで宮島へ走った。

 よく晴れて、暑い。気もちはよかった。がらがらに()いた渡船(とせん)から遠い朱の鳥居のかたちが立ち招く女の姿に見えた。

 厳島は神社というより風変わりな展望台なのだ。デザインが佳い。緑の山、碧い海、朱い鳥居、この平凡な色どりを奇妙に野放図な廻廊の無数の常夜燈でまとめている。

 だが、何よりも何よりも平家納経の前、探し当てた宝物館の奥の奥で僕は息を呑んだ。寒くなった。一門があげて寄進したこの一つ一つの経巻に(ほどこ)された夥しい豪奢には、(るい)のない情熱、平家でも源氏でもない時代の情熱、一瞬にして虚無に崩落する乾いた情熱の結晶がある。明日は灰になると知り尽してする栄華の演出に経文の功徳はなかった、(かえ)って六道の苦患(くげん)は平家がさんざめいたこの瀬戸の内海(うちうみ)で現出されたのだ。

 清盛は肉の厚い雄渾な書法を駆使して法華経の序品(じょぼん)を涙ぐまれるほど美しく書いているが、いったい何を想ってこれほどの華奢を思い立ったのだろう、何百年の後に僕のような青年に、これら経巻一つ一つの(ゆえ)に平家の方が源氏より懐しいなどと妄想させる事もあるのを知っていただろうか。清経奉納の一巻もあるはずだが、どれがそうなのか分かりもせず、此処ではそんな詮議も実感にならなかった。

 経巻の近くに、安徳天皇の御玩弄(ごがんろう)とやらの雅びな幾品(いくしな)かを見ていると、(しき)りに娘や可愛い盛りの建日子(たけひこ)の事が想われる。耳ちかく波騒(なみざい)のひたひた迫る心地で、暗い宝物館の奥に佇みながら、僕は古い昔やら此の頃の事やらとりまぜとりまぜ、何故(なぜ)か思い乱れていた。

 (おびただ)しい絵馬や献燈の中にもしや清経の名を(いん)したものがないかという詮索心も働いてはいたが、丘の上の荒れ放たれた絵馬殿(えまでん)では何も見当てる事はできなかった。暗さも手伝いそこでの実感はひしひし何か寒いという事だった。

 石燈籠の方も意外にみな新しかった。

 陽のうららに酔うように社殿を左の(みさき)の方へ抜けて出て、ひたひた鳴る波の(みぎわ)まで歩み寄った。三々五々の観光客も岬に隠れてしまうと人影絶え、もう岩国辺りの山影がかすんで見えるただの海辺になる。磯の匂いは急に強くなって岩を叩く波しぶきの白さが淡い(あか)の色を漂わせたりする。何を(すなど)る人なのか小舟を島かげの手頃な岩に寄せ、自分は膝まで(しお)に漬かった若い男を見つけると、何だか僕は声をかけたくなった。

「あの――、あの朱い小さな鳥居の立ってる島は何ですか」

 漁師は眩しそうに眼だけ挙げた。

「あれが、きつね塚――」

「きつね――」と絶句しながら、たぶん稲荷なのだろう、それなら狐で可笑(おか)しい事はないと思った。陸前(りくぜん)の松島でも、たしか「沖の狐島」「磯の狐島」とわざわざ舟の客に教えていたのを覚えている。ただこれは、島というより巨きな岩、のかたちが奇妙で僕は来た時から眼をとめていた。おそらく畳二つに満たない裾まわりを岩石にかためられ、六、七尺位のこんもり頂き近くにだけ苔肌のわずかな土の色も見えた小島の、こちらへ向いた胸もとが自然に(えぐ)られた(どう)のように窪んで、さもそこを拝殿の如くに二尺そこそこの小さな朱の鳥居が配してある。(みぎわ)からおよそ三十メートル位波の上で、鳥居に懸けたごく小さな(がく)の文字が読めない。双眼鏡を宿に置いてきた迂闊さを悔やみながら僕はその島に近寄ってみたかった。

 風が鳴った。

 (こう)ばしい松風に惹かれて顧みにうしろの山を見上げていると、崖めいた急峻に、山査子(さんざし)緋木瓜(ひぼけ)の花が優しく咲き乱れて、中に白木造りを草屋根で()いた小さな(ほこら)の、(うず)もれたようなのが見えた。祠の扉は僕の頭越しに真直ぐ波間の稲荷に向かい合っていて、眼に見えぬ注連縄(しめなわ)を張り鎮めたように空が青々と晴れ上がっていた。

 若い男が手繰(たぐ)るように波しぶく岩の下から黒い縄をぐぐっと引いた。あっとあと退(じさ)るのを構わず彼は黙って岩の上の魚籠(びく)へ身をもがいた太い生きものをねじ入れた。そうか、あれが安藝(あき)の海うなぎなのだと、ほっと一足踏み寄る僕を見上げて、男は鋭い身ぶりで山の上を指さした。

「あれは蛇塚」

 僕の眼にちかっと飛びこんだあれは一体何だったのか。ゆっくりと(ほこら)の扉が()いたように見えてその瞬間、見渡す限り朱い小さな花の咲き群れたのを僕は見た。(おびただ)しいエゾ菊の野にも見えるこの朱々(あかあか)しい印象はまた(くま)なく黒い無数の微塵(みじん)を散らして生ける如く(あや)しく華々しく、微動していた。花を揺する涼しい風がなかった、花びらをむらす甘い匂いもなかった。花はらを限る遠い山や里の景色もなかった、花野を貫く静かな小道もなかった。僕は何故(なぜ)か一匹の猫のようにこの朱く燃えた海に身を沈めて眠る、と思った。膝から崩れてゆくかすかな感覚を一方でひきとめながら、物憂い猫になった僕は瞼のうらに浸みた朱い印象に温められ、やすやすとどこかの深みにわが身を落としこんで行った。

 波とも葉ずれともつかぬ寂しいものの音を耳のかげで、女の吐く息のように、僕は聴いた。声はやがて心もち分別ありげにはっきりとこう聴こえた。

「夢のまた夢でございます、なあ」

 すると、もうすこし年若な男の声が相槌を打つように強い調子で「夢のまた夢でございますなあ」と言い、追いすがるように老人ともう一人誰か女の声が口を揃えて「夢のまた夢でございます、な」と添えた。(わらべ)の澄んだ可愛い声音(こわね)が「夢ノマタ夢デゴザイマス、ナア」と歌うようであった。どの声も一つことを、ただそれだけを言って、いかにも(さわ)りなくそれが話し合って聴こえた。嘆息でも感傷でも、かと言って冗談でもふざけでもない声の調子は、叮嚀で物静かで、心涼しく(ことわ)りをあきらめた微笑のような明るさを匂わせていた。それこそは、僕があの夢の中でしかと聴き分け得なかった襖の向うの談笑に似ていた。

 暗い海からもがきもがき浮かび上がったように我に返ったとき、「夢のまた夢でございます、なあ」の語尾のふるえの美しさを、かすかに耳の底に聴き覚えていた――。

「お気がつかれましたか」と、そう声をかけて顔を寄せてきたのは聴くも怖ろしくあれは蛇塚と教えた男と気づくより早く、あの鬼山の徳夫の幼な顔に変わって、「さ、お(とも)を致しましょう」と僕を小舟に乗せた。

 ()(あやつ)る徳夫の腰に昆布のような肌黒い蛇がうねって、あっと驚く()に舟は小さなきつね塚の横腹へ真一文字に突き立ち、あとはただ暗やみをしゅうしゅうと風立つ音に脅えて僕は気を失って行った。

 

   うらめしや

   思ひは鬼と

   なりぬとも

   さすがに君を

   くひはころさじ

 

   あら浪の

   立ちはなれたる

   岩屋戸に

   こもりし鬼も

   やらはれにけり

 

 黄金(きん)(いと)を揺するようにあわれに女の声が唄えば、さわやかに哀感をたたえて若い男の声が和していた。女も男も闇の底にひそむか姿なく、僕は奈落へ落ちゆく石くずのように、まことあてどない落下の感覚のままひびく歌声を聴いていた。

 歌声が途切れ、優しい手に抱かれたかと思う間に、僕はやすやすとあの、あの夢に見つづけた襖の前に立っていた。家の内の明るさに変わりはない、変わっていたのはどこまでも襖が思い切りよく()け放たれて、代りに、談笑する家人の声も姿もない事だ。淋しいなどと言うも愚かな、とり残された心地がした。

「夢のまた夢でございますなあ」と聴いた海底の声々の(ぬし)が、あれこそ瀬戸の海に沈んで果てた平家の人たちのものと悟った僕は、その平家に迎えられない今は異端の鬼の群に身を絡められた即ちこの僕が清経なのだと知った。

「今お判りか」

 忽然(こつねん)と眼の前に紀子が立った。

 振り向いたそこには徳夫も手をついて控えていた。

「あの人たちは、あなたの身内ではないのです、さ、行きましょう」

「せめて一度でも」

「いいえ、なりません。それに、これは幻にすぎないのです。あの人たちとてわたくしが生みだした、ただあやかしの幻なのです」

「――—」

 徳夫がつっと立って庭に面した障子をからから、からからと開け放って行くと、もうその所からざあと凄い山の風がなだれてきて、明るさに溢れていた家はかき消すように影薄らいで行くではないか。一際(ひときわ)烈しい物音が天上で轟いた時、僕はただ一人あの丹波の鬼山峠に()っていた。紀子も徳夫も、居なかった――。

「お父さん」

 えっ、と息をつめ声の方を透かし見たが、珍しい仏桑華(ぶっそうげ)の濃青い葉を織って一条の鉄線が()めぐりに絡み絡み、みごとな真紫(まむらさき)の花びらを顫えさせているばかり、鋭く(とが)った六つの花びらに包まれ暗い触手のようなおしべの一本一本が僕を誘っていた。と(たちま)鉄線花(てっせんか)は仏桑華にまつわる一匹の小蛇となって光る()ですくと首をもたげた。紛れもなかった、「お父さん」と呼びかけたのはこの小蛇だ――。

 立ち(すく)む僕の前で、蛇は鮮やかに身をもがくと見るや鬼山和子の姿に変わって行った。

「待ってたわ、お父さん」

「――—」

「もう帰さないわ、お父さん」

「ど、どうして、きっ君」

 射すくめるふうに離れた所から和子は僕を見つめ、急にあの薄笑いの()に変わると手にもった朱い仏桑華の一枝(いっし)をふと突きつけた。やわらかな五弁の緋の色の真中から花粉をかすかに光らせた二、三寸もの細長い舌のようなしべが一本ちろちろと伸びて動く。ぺたりと僕は尻をついた。

 和子は花の小枝をゆっくりと輪にまわしはじめた。

 すると強烈な焔の匂いが立ちこめ、輪の真中で幼い和子の顔が紀子に見え、徳夫に見え、その父親にも見えてやっぱりそれも和子なのだった。山の音が轟いて焔のかたちを揺すると、朦朧と今度は若い清げな風体(ふうてい)の男が焔の中に浮かび上がる。苦しげに息を吐く青い顔が一目で清経かと知れて紛れなくそれが僕自身の顔と見つけたその時、喘ぐ僕の首へ鞭うつように鱗も鋭い銀白(ぎんぱく)の蛇の腹が絡みついた。

「よ、よしなさい」と辛うじて子を叱る親の声も夢中に叫ぶと、忽ち消えた幻のかげから和子が無残に仏桑華を(なげう)って駆けよって来た。震えながら、「お母さんは」と訊ねると、少女は眼を伏せて答えず、僕をうながしてあの岩屋の中へ誘い入れた。

 石を十も積み寄せたか、粗末ながらも訳ありげに、あれがあの紀子の遺髪を埋めた形ばかりの名残りの塚だと和子は言った。

「死んだってどうしようもないのにって言い言い、お父さんのことを恋しいと呟いただけで、むりむり身をもがいて死んだわ。わたしを抱いて、わたしの胸に顔を寄せて、昔、こんなふうにお父さんを抱いてあげた、とそれでも最期にすこしわらって、さすがに君を――」

「――でも、あの人は何も――」

「言わなかったって言うのね。調子いいわ、お父さんて」

 東京へ出て来た紀子は逢う以上の事をあの時は思っていなかった。だが、これが和子の父親かと思うと耐らなかったのだ。表へとび出すと雨の街を紀子は夢中で飛んだ。ただもう僕のあの脅えた眼つきを見るのが辛くて。

「君のことも、あの人は言わなかった――」

「お母さんね、お父さんの口からわたしのことをウソだなんて言われたくなかったの。それが怖かったの。わからないの」

 紀子は妊娠した事を僕の父に告げたのだ。生まれる子は紀子の妹とされた。いずれは宏と、という位な父の言葉を信じもし、子を(おろ)す事は拒み通した。出産の経緯も知らない石塚は息子の嫁に紀子を望んだが、ここにも父の画策があった筈である。

 妻との結婚をまだ若いと言って母は反対したが、父はとめなかった。母の反対を(おさ)えさえした。紀子が秘かに待っていた僕の卒業を、僕らは新生活の出発点と切り換えて東京へ出たのである。僕の頭の中に自分の事も、妹実は娘の和子の事も何一つ翳さえとどめていない事が、だまされた紀子を絶望させた。

 和子は遺髪を抱いて一人鬼山へ戻り、遺言通り岩屋に埋めた。有り合わせの石を積み、小さな塚を築いていると、和子のうしろに影が立った。驚いて振りむくと、そこに死んだはずの母と、母の弟と祖父とが小さな和子をとり巻くように立っていた。和子は三人からふしぎな鬼のはなしを幾つも聴いた。三人はやがて三匹の蛇になって和子の築いた塚の中へ消えて行った。和子は自分が蛇を使う鬼になったのを知った、何もかも、みな知った。九歳だった。

 魔呪の力量は徐々に蓄えられた。

 中学一年の秋、学校へ中年の女先生が転任して来た。この先生はやがて職員に同志を募って小さな短歌会をはじめた。先生は歌の指導をもと勤務していた京都の仁和寺(にんなぢ)近い中学の教頭先生に受けていた。

 ある雪の降る日、京都の歌の先生は、地味なオーバーの肩先を硬い粉雪(こゆき)でキラキラさせながら自動車に送られて和子の学校の門の前で下りた。和子はその先生を会議室の窓ごしにもう一ぺん確かめた。ものを言う時すこし眼を細め、叮嚀な表情で一息一息ごとに念を押すふうにその婦人は同好の先生たちに話しかけていた。

 和子のまどわしは、この時からはじまった。和子が丹波の山中(やまなか)で描き出すすべての幻は僕の夢の中から先ず筆を下ろされたのである。僕はあのふしぎな夢を繰返し見るようになった――。

 和子の話しているあいだ僕はこの少女が自分の血を分けた娘である事を半ば信じ半ば疑いながら、意外なほど優しい表情が和子の眼にも額にも唇の上にも見られるのをまじまじ見ていた。僕は東京にいるもっと幼い娘を想った。眼の前の和子ほど美しくもなく、温和しいごく普通の女の子にすぎないが、気遠いばかりになつかしく今は想われるのである。和子は逸早(いちはや)く察して、自分はそのの事なら逢っていると言った。

「ついこの間、お(うち)の近くで蛇を見たって話してた事があったでしょ、それがわたしだったの」

 そういう無気味な事も和子が言う以上、今は信じない訳にゆかず、確かに僕らの住んでいる辺では滅多に見ない蛇が、近くの草叢にいて人だかりがしたという事は妻や娘から僕は聴いていたのである。

「みな騒いでたの。石をぶつける子どももいて、わたしはすぐ隠れたわ。するとあの子一人がその場に残って、黙ってしゃがみこんで、わたしの隠れている辺をじっと見ているの。そうっと顔を出すとふしぎそうな顔で、怖そうにもせずわたしを見てたわ。そして、何も言わずに行ってしまった――」

 本当に娘だったか、まるで嘘なのか分からない。その日、朝日子(あさひこ)は勤めから帰った僕に「お父さん、蛇ってほんとは温和しいのよ」とだけ喋ったが、正直言って僕はとんでもないと首を振ったのである。

 丹波(たんば)が蛇の産地かどうか知らないが、疎開していたわずか二年足らずの体験から()しても全く常住不断、蛇は人の暮しに間近く出没していた。蛇を売る商いも実際にあり、そういう商人は丹波から近江(おうみ)へかけて殊に数多いと聴いていたが、ものの(かげ)りのような生臭い何かのにおいに恥じて自ら世間の交りを避け、深い谷の嶮しい山のほら穴を穿(うが)ったふうに小屋をかけて暮してきた、そんな蛇使いの鬼たちの部落が或いは今まで残っていて、たとえもうそれがかすかに尾をひくばかりの暗い伝説になり切っているにしても、相変わらずひっそりと、侘びしい春秋(しゅんじゅう)を迎えているとしたら紀子やその父たちの一族こそはそうではなかったのだろうか。僕はそうも思い当たっていた。

「でも、もう帰しておくれ」

「いいえ、お父さん、お母さんが待ってるのよ。ほら」とうしろを指さされた顔の先に、髪を逆立て銀光燦爛(ぎんこうさんらん)たる二本の(つの)を傾けた異形(いぎょう)の紀子が僕の父を鷲づかみに宙に浮かんでいた。死相もありありと、踏み鳴らす鬼たちの足音は山々を揺すり、闇を焦がす無数の青い()むらに隠れてしゅうしゅうと物の動めく無気味さが、巨大な輪となって僕を包んだ、と急にしびれたように闇の底へ崩折(くずお)れて、何か堅いものにどさっと叩きつけられるに似た痛み。我にかえると其処(そこ)はうらうら陽ざし穏やかな安藝(あき)の宮島の磯ちかく、僕は元の場所に倒れ伏していた。

 顔をあげて見ると、幾分汐も早めに波立つばかりの海づらに狐島がない。

 はっと立って顧みた崖の中途に蛇塚もなかった。

 (すく)んだ僕の耳に凛々(りんりん)と鳴る、それは紀子の遙かに呼ぶ声だ。波の上を小舟が遠のいて、和子や徳夫を(とも)に控えて舳板(へいた)に立ち手招きする紀子があこめ姿の可愛い少女であったのは、僕の見た最後の幻なのだろうか、未来永劫(みらいえいごう)あの声と姿とを夢に見つづけるのだろうか。      (完)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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秦 恒平

ハタ コウヘイ
小説家 1935年京都市に生まれる。1969年小説「清経入水」で第5回太宰治賞受賞、第33回京都府文化賞受賞、元東京工業大学授、日本ペンクラブ理事の時電子文藝館を創設した。

掲載作は1969(昭和44)年「展望」8月号に初出。ホームページ→「作家 秦恒平の文学と生活」