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茜色の山

 あっ、と思ったときには前のめりにコンクリートの床に両手を突いていた。持っていた玄米の袋の口が開き、米が少し床の上にこぼれた。細引きがぼくの足元に落ちていた。

 「やあ、わりい、わりい、大丈夫か」横の障子が開いて、学生服の上に半纏を着たぼくより少し上くらいの男の子が顔を出した。やや下膨れの細長くて白い顔だ。障子の反対側の部屋の根太に結んだ細引きを、ぼくが来たとき突然引っ張ったのだと分かった。

 「ひどいじゃないか」といって、ぼくが米を拾いはじめると、男の子も一緒に拾った。別に怪我はないようだ、手も痛くない。

 「おれ、真也っていうんだ。こないだ越してきたんだ」

 つい最近まで、白髪のおばあさんがここで留守番兼雑用係りをしていたが、このごろ姿を見ないなと思っていた。米粒を拾い上げると、精米所へ行っていつものようにおじさんに袋を渡す。入口にモーターがあり、そこからベルトが天井の鉄の太い棒を回転させ、さらにその棒からの何本かのベルトが下がってそれぞれの機械を動かしていた。機械は唸りをあげ振動していた。

 「よしきた」おじさんは玄米を機械の一つに空けた。たちまち玄米は空中高く持ち上げられ、円錐形の筒の中に落ちてきた。眼の前の金属の篩を通るとき精白されて、こぬかが下に落ちる。ぼくは一連の光景が面白くていつも見とれる。

「あいよ」おじさんは五分つきになったお米を袋に入れ、ぼくはこぬかを集めて別の袋に入れる。

 「こんど新しい人が来たの?」

 「ああ、前のばあちゃんは娘のとこへ行くっていってな」

 「そうだよ、新しく来たんだよ」先ほどの男の子が横からぬっと顔を出した。ぼくは不愉快なので顔をそらせた。

 「ごめん、ごめん、ちょっとな、いたずらしたんだ」

 「こら、真也、下の子をかまうんじゃねえぞ。まあな、悪気があったんじゃねえから」

 「どうだ、おらちで少し遊んでいけよ」

 「真也、仲良くするんだぞ」とおじさん。

 「真ちゃんて呼べよ」といったが、ぼくは真也の誘いを断って家に帰った。

 配給の玄米をいつも農協の精米所で五分つきにしてもらうのだが、精米所への近道が事務所と留守番の家の部屋との間のコンクリートの通路だった。ぼくの家はK寺という大きな寺の境内にある小さな寺で、叔母と二人で住んでいた。昭和二十二年の春、ぼくは小学校五年生になっていた。前年、年の離れた姉が亡くなり、三年生のときには母が、そして、五歳のときには父が亡くなっていた。ぼくが一人になってしまったので、母の妹の叔母が来たのだった。極度の食糧難で、配給は僅かな玄米と高粱、粟、大麦、玉蜀黍の粉、甘味がなく半分腐った甘藷などだった。そこで叔母は家の近くの空地は全て開墾した。

 梵鐘が戦争に行ってしまった鐘楼の周りには前年に播いた小麦が生長していた。土曜日の午後その根寄せをしていると、

 「おう、よっちゃん」という声がする。善昭(よしあき)というのがぼくの名前だが、皆はぜんしょうとかぜんちゃんと呼ぶ。顔を上げると、その後、六年生だと分かった真ちゃんで竹馬にのっている。

 「どうだ、乗らねえか、おもしれえぞ」という。竹馬を作ろうと思ったことがあるが、竹が手に入らなくて諦めた。ぼくは聞こえないふりをしたが、本当は乗ってみたかった。放課後、近くの子が家から竹馬を持ってきた。皆は代わる代わる借りて乗ったが、いつもぼくまで順番が回ってこなかった。

 「ほら、高いなあ」と真ちゃんは挑発する。ぼくは思い切って鍬を置いて顔を上げた。

 「そうこなくっちゃ」真ちゃんは竹馬から降りた。地上から三十センチほどのところに削った薪を二本づつ針金で結わえてある。

 地下足袋を脱いで裸足になる。

 「思い切って乗る、ほい」といい、真ちゃんは竹をしっかり持った。

 「ほら、放すぞ、すぐに歩くんだ」

 ぼくはいわれた通りに前に歩いた。一歩、二歩、ちゃんと歩けた。

 「おっ、うまいじゃないか」、ぼくは調子に乗ってさらに歩く。

 「どうだ、面白いだろう」

 「面白い」とぼくは小さく答える。三十センチ高くなっただけで世界が違って見えた。真ちゃんもぼくの下に見える。一回りしたところで降りた。

 「どうだ、竹馬作らねえか、竹はあるぞ」

 「えっ、竹があるんか」

 「あるさ、来て見るか」真ちゃんは竹馬で歩き、ぼくは後をついていく。土曜日の夕方の農協は閑散として人気がない。真ちゃんは倉庫の裏に回る。軒下に沢山の竹がある。

 「これ、物干し竿だろう、売り物だろう」

 「古いものならいいんさ」といって、奥の方から黄色いのを一本抜き出した。表にあるのはまだ青みが残っている。ぼくは竹とついでに薪も貰って帰り、残った根寄せをした。

翌日、ぼくは竹を切り、薪に鉋を掛け、針金で薪を竹に縛りつけた。

 「その竹、どうしたんだやあ」と叔母。

 「真ちゃんに貰ったんだ」といったが、叔母の表情は厳しくなった。

 「売り物の物干し竿じゃあねか。半分に切っちゃって返すわけにもいかないし」

 「古いのならいいんだって」

 「どこもいたんでいないし、売り物になるわ、どこから来ただか油断のならない餓鬼だ」といったがそれ以上は追及しなかった。竹馬は完成し、ぼくは庭を乗り回したが、一人ではつまらないので、真ちゃんのところに行き、障子のところで呼んだが、返事はなかった。

 数日後、学校から帰ると、真ちゃんは黄色い門と呼んでいる山門のコンクリートの上で独楽を回していた。

 「あれ、竹馬は」と訊くと、

 「うん、あれは卒業だ、それより、独楽を回せるか、難しいぞ」といった。

 「やっぱり、怒られたんだ」といって、顔色を見るが、特に変化はない。

 「どうだ、回してみるか」といって、独楽を差し出す。大きな蜜柑くらいな木製の独楽だ。実はぼくは独楽を回せなかった。紐を掛けていると、

 「だめだめ、右利きは左巻きだ、時計と反対」といって、見本を示す。

 いわれた通りに紐を引きながら、投げるが縁が地面に当たって転がる。

 「そんなに、叩きつけないで地面に平行になるように静かに、紐も余り引かない」

 真ちゃんの指示通りに何回もやっているうちにやっとゆるやかではあるが回った。

 「回った、回った」と喜んでいると、今度は真ちゃんが回した。遥かに勢いよく回る。

 「紐を強く引きすぎない」という。

 何度も回しているうちに要領が分かると次第に失敗は少なくなった。

 「どうだ、喧嘩独楽やるか」といって、真ちゃんはポケットからもう一回り大きい独楽を取り出して、回し、続いて小さい方も回す。二つの独楽は接近し衝突して、小さい方が先に倒れた。

 「大きい方が強いな」といってぼくに大きい方を渡す。持つと大きい上にずしりと重いのでぼくは手から放す要領が分からない。やっとよろよろと回った。真ちゃんが小さいのを勢いよく回すと、衝突して大きいのは二メートルも跳ね飛ばされた。

 それから真ちゃんは煎り豆を出して、

 「食うか」といった。頷くと、一つまみを差し出した。煎り豆は硬いが、噛んでいるうちに次第に味が出てくる。

 「真ちゃんはどっから来たんだ」というと、隣町の名前をいった。

 「どうして来たんだ」というと、一瞬真ちゃんは、ぼくの顔を見て黙った。

 「うん、そりゃあ、まあいろいろあってな、おふくろがこの農協の口を捜したんだな。金平糖もあるぞ」といって、白と赤の突起のついた粒を二つ取り出した。口に含むと久しく忘れていた甘味が口一杯に広がった。

 「真ちゃんは何でも持っているんだな」というと、

 「そうさ、六年生だからな」といった。

 何日かの後、担任の先生が「近頃、六年生の間で喧嘩独楽が流行っているようだ。ただの遊びならいいが、勝った方が独楽を取り上げたり、食べ物を要求したりしているらしい、もしそういうところを見たらこっそりと先生に知らせるように」といった。ぼくはもちろん真ちゃんのことを思い出した。その後もぼくは飴やキャラメルや煎餅を貰っていた。

 昼休みに六年生の教室に行ったが真ちゃんはいなかった。放課後は職員室の隣の校長室の掃除だった。水を汲みに行くとき、職員室から真ちゃんの母ちゃんが出てきた。ぼくは慌てて挨拶したが、母ちゃんは困ったように眼を伏せ、軽く頭を下げただけだった。

 五月になり暖かい日が続いた。やはり土曜日の午後、ぼくは叔母と空地を耕し玉蜀黍を蒔いていた。金肥は買えないので、肥料はもっぱら前年の秋、取って積んでおいた草だ。ある程度発酵しているが、土のついたところはまだ生きていて根を出しているのもある。それを鍬でほぐして土に混ぜる。そのとき真ちゃんが来た。

 「こんにちは」と丁寧な挨拶をしたが叔母は生返事をしただけだ。

 「仕事が済んだら魚を取りにいかないかと思いまして」といった。叔母の方を見ると、仕事が済んだらいいといっているようだった。ぼくは急いで畝を立て、叔母が種を蒔いた。

 真ちゃんは農作業で使う箕と一抱えの藁束と竹の棒を四本持って来た。

 「その竹、竹馬んのだろう」というと、

 「小さいバケツ貸してくれや」といった。

 真ちゃんは藁束と竹の棒を持ち墓地の中をどんどん進み、ぼくは箕とバケツをぶらさげて後について行く。穂の出かかった一面の小麦の間に出た。そよ風が心地よい。二毛作で六月の下旬に刈り取り、すぐ水を入れて田植えをする。用水には水はまだ来ていないが、底の方に膝までくらいな水があり、鮒や泥鰌や田螺が住んでいる。真ちゃんは用水に沿って歩いて行く。

 「どこまで行くんか」というと、

 「もうちょっと先さ」という。

 川幅がやや広くなり、葦の茂みも深くなった。そのちょっと下流から両岸が石積みになっている。

 「ここだ」と真ちゃんはいって裾捲りをし、下駄を脱いで裸足になり、石積みのところから川に下りた。ぼくも同じように裸足になって下りる。やはり水は冷やりとする。

 真ちゃんは竹を川底に石で打ち込み始めた。四本を等間隔に打ち込むと藁束を水の中に沈め、藁の一本を引き抜いて竹に縛りつけた。藁束を全部使ったがまだ水面下だ。ただし、右端は開いている。

 「どうして端は開けておくの」というと、

 「そこに箕を当てて魚を追い込むのさ、それより藁が足りない、あそこんのちょっと借りてきてくれや」といった。

 すぐ横の田の畦に藁束が積んであった。ぼくは石垣を這い上がり、藁束を落とす。

 「怒られないかなあ」といって、見回すが人影はない。

 「出来た。ここに箕を当ててくれや、上から魚を追い込む」

 ぼくが箕を当てると少しづつ水位が上昇し、水圧で竹の杭が傾いた。

 「箕を傾けて、水を流せ」といったが、もう一度石で杭を打ち込む。真ちゃんは何処で拾ったのか手に棒切れを持って上流から魚を追って来る。ぼくは箕が重くなると傾けて水を流した。掌くらいの長さの鮒が一匹流れていった。メダカは数えきれないほどだ。そうして箕の中に何度も追い込んだが、取れたのは小型の鮒が二匹と泥鰌三匹と田螺数個だった。西の山に日が沈んだので帰ることにした。茜色に燃える山を見ていると、何故か、母が生きていたとき一緒によく読んだ「正信偈」というお経の後の「光明遍照」で始まる僅か四句の短いお経を思い出す。貰った鮒二匹を叔母に渡すと、こんなものといった顔をしたが、夕食の味噌汁に入れると結構美味かった。

 次に真ちゃんは網を持って現れた。農協の人にいらなくなったのを譲ってもらったのだという。網の両側に竹の棒をつけ、網の下には石を縛りつけて錘にして、何回も何回も追い込む。網の力はたいしたもので、今度は鮒が十匹とじんけん(おいかわ)も数匹とれた。

 三回目は近所のいつも付紐のついた着物を着て子守をしている小学校三年生のしづ子が加わった。みんなはしづ子とは呼ばずにしっ子と呼んでいた。しっ子の父親は戦死したが、弟が無事帰還して母親と一緒になり、去年赤ん坊が生まれたのだ。しっ子は赤ん坊は眠ったからいいといい、道端の草の上に寝かせて裾捲りして川に入った。

 「ほら、いくどう」といって、しっ子は上流からじゃぶじゃぶと魚を追って来た。ぼくは真ちゃんと一緒に網を持つ。網は掬うのが難しいのだ。十分に追い込んだところで、錘のついた底の方を持ち上げる。その際、上部が水に入っていると魚が逃げてしまう。ふと眼の前に来たしっ子を見ると、赤い腰巻のようなものを付紐で絡げていたが、その下には何も穿いていず、股間が丸見えになっていた。そこにはおちんちんがなく一条の割れ目があった。一瞬ぼくの眼は強い磁石に吸い寄せられるようにそこに固定した。実に奇妙な感じだった。そのとき、真ちゃんが、

 「ほら、しっ子、おまんこ丸見えだぞ」といった。慌ててしっ子は手で前を押さえ、

 「すけべえ」といった。

網を上げると、鮒とじんけんと泥鰌が数匹入っていた。

 「あっ、ぼこがいない」突然、しっ子が叫んだ。確かに、道端の草の上に寝かせておいた赤ん坊の姿が消えていた。しっ子はすぐに川から上がった。続いて真ちゃんとぼくが上がった。反対側の穂の伸びた小麦畑の中に赤ん坊はいた。しっ子が抱き上げるところだった。眼を醒ましてそこまで這っていったのだ。

 しっ子は赤ん坊を背負い、場所を変えることになった。しばらく歩いて、鉄道線路の向こう側の川に行くと、別な子供たちが笊で魚を取っていた。

 「ここはだめだ」と真ちゃんがいって、更に歩いたところで川に入った。しかし何回やっても入るのは、数個の田螺だけだった。遠くで雷が鳴った。気がつくと、いつの間にか黒い雲が空を覆っていた。

 「おらあ帰る」と、赤ん坊を背負ったままのしっ子がいったとき、比較的近くで稲妻が光った。

 「あっ、ピカだ」、真ちゃんが叫び、一瞬で川から上がると、全速力で駆け出し、あっという間に鉄道線路の向こうに見えなくなった。

 「雷嫌いなのか」ぼくが呟くと、しっ子が、

 「男のくせにだらしねえなあ」といった。

右手でバケツを持ち、左手で網を持ったがかなり重い。網を開いてしっ子が半分持った。また雷が鳴り、稲妻がしたが今度は遠い。線路の近くの子供たちはまだ魚を取っていた。

 「真ちゃんは遠くから来たんだなあ」としっ子がいったので、ぼくは隣町から来たのだといった。

 「そりゃ、真ちゃんのかあちゃんの生まれた家だっておらちのかあちゃんがいってたど。どっか西の方のなんかが落ちたところから来たんだって」

 「なんかが落ちたって?」

 「分からね」しっ子はぽつんといった。

 墓地に来たとき、近くで稲妻が光り、すぐに物凄い雷が鳴り、大粒の雨が落ちてきた。しっ子は家に向かって駆け出したが、ぼくは網と水の入ったバケツを持っているので、走れない。それでも余り濡れずに家に着いた。途端に本格的な夕立になった。 

 六月の中旬に入ると農業用水に一杯の水が来た。こうなると釣りか本物の網でなければ魚は取れない。間もなく二週間の農繁休暇が始まり、ぼくは叔母と近所の農家に昨年の秋に続いて働きにいった。が、秋とは比べ物にならない重労働だった。まず、水田と畑の小麦を刈り取って、今は使っていない大きな蚕室に運び込む。麦は草刈鎌で刈るが、ぼくは大人の半分の速さだった。叔母は身体は小さいが平均以上のスピードがあり、しかも仕事は丁寧だった。刈り取った麦は、昨年の稲藁で束ね、十六束を大束にして縄で結び、それを少し離れた道のリヤカーの所まで肩に担いで運ぶ。大人は二束担ぐが、ぼくは一束しか担げない。その家の若主人は背負子で五束を担いだ。朝八時から正午まで働き、家に帰って、昼食を食べ、二時まで昼寝をして、二時から夜の八時過ぎまで働く。サマータイムというのが行われていて、八時半頃まで明るいので、時には、九時近くまで働いた。午前十時と午後五時に約二十分の休憩があった。唯一の楽しみはこの休憩だった。特殊な方法で保存しておいた配給のものとは全く違う太白とか農林何号とかいうぽくぽくの薩摩芋が出るからだった。そんなある晩、叔母と遅い夕食を食べていると、庭に誰か来た。出ると真ちゃんと真ちゃんの母ちゃんだった。

 「真也がお宅のよっちゃんと働きたいというので、今行っているお家に紹介してもらえないかと思いまして」と母ちゃんがいった。

 「いつも善昭がお世話になりまして、お役にたてるかどうか、お話してみましょう」叔母が切り口上でいった。

 「お願いします」二人が頭を下げた。

 「でも仕事はきついですよ」叔母がいった。

 翌朝、三人で行くと、真ちゃんはすぐに採用になった。真ちゃんはぼくより少し身体が大きかったが、仕事はぼくと同じか、ぼくよりも出来ないくらいだった。ぼくは内心ほっとした。いくら子供でもスピードが大人の半分で、仕事も下手となれば、ひけめを感ずる。ぼくは多少の優越感のようなものを味わった。しかも真ちゃんは田圃の真ん中で、立っていることが多かった。それは立ちんぼといって、一番軽蔑される格好なのだ。

 「今度来た息子、まるで案山子だっていうだねか」おやつを運んで来た六十過ぎの大奥さんが若主人にいっているのが聞こえた。ぼくは大奥さんの言葉を真ちゃんに伝えるべきかどうか迷ったが結局黙っていることにした。

 ある朝行くと井戸端のところでしばらく待たされた。麦刈りは終わったので、次の仕事のはずだった。叔母だけがすぐに呼ばれて何処かに行った。そのうちに大きな茶色い牛が二人の男の人に連れられて門を入ってきた。

 「子供は見ね方がいいなあ、あっち行っててくれや」若主人がいった。

 真ちゃんとぼくは蚕室の前に移動して、植え込みの陰から覗いた。若主人がいつも門の横にいるこの家のやはり茶色い牛を引き出した。大きな牛は暴れようとしていたが、男の人の一人がしっかりと鼻のところで手綱を持っていた。

 「どうどうどう」と掛け声がした。

 と、男の人が手綱を緩めると、突然、大きな牛が小さい牛の後ろから馬乗りになり、その瞬間股間から一条の赤い棒のようなものが小さい牛のお尻に突き刺さった。そして数秒後には何事もなかったように若主人が用意した飼葉桶のものを食べていた。

 「種付けさ、すげえな」真ちゃんがいった。

 「種付けって?」

 「子供をとるんさ」

 「ふーん」ぼくはすっかり感心した。真ちゃんは何でも知っている。もっと何か訊こうと思ったが、うまく言葉が出なかった。

 結局その日は馬耕のために予約しておいた馬が手違いのため翌日ということになったので、なみちゃんというぼくより六っつか七つ年上の女の人と真ちゃんと三人で山のりんご畑の草取りに行くことになった。なみちゃんは背はぼくより少し高いぐらいだったが身体つきは大人で、仕事も普通の大人並に出来た。お昼は後で誰かが持ってくるということだった。畑は西の山を少し登った傾斜面にあり、約千坪だという。三十分くらいで着いた。りんごの木の間に葱とかじゃが芋、玉蜀黍などが生育していて、そこの草を取るのだった。りんごの下は草が掻いてあった。草掻を使うが、作物のそばは手で取るしかない。穂の出かかった長い草や、つる草を引っ張って取った。真ちゃんとぼくが並び、なみちゃんは少し離れたところにいた。珍しく快晴で、強い日が前夜降った雨で濡れた地面の水分を蒸発させるので、凄く蒸し暑かった。

 「こんなの三人で全部やるなんて無理じゃねえか」と真ちゃんはいって、ときどきりんごの木の下で涼み、ぼくにも休むようにいった。ぼくは気がひけたが、近くになみちゃんの姿が見えないので、りんごの下に入った。急に汗がだらだら出た。

 「さっきんの見てただろう、人間の赤ん坊って何処から生まれるか知ってるか」真ちゃんは地面に腰を下ろしたままいった。

 「さあ」ぼくは不思議だと思ったことはあるが、特に本格的に考えたことはなかった。

 「お腹から」

 「お腹からどうやって、お腹がぱくんと割れて出てくるなんてありっこねじゃねか」

 そういえばその通りのようである。

 「しっ子のあそこ見ただろう、あそこが割れて出てくるのさ」

 「やっぱり割れるんじゃないか」

 「そりゃあそうだけど、もともと割れ目があるところが割れる方が自然じゃねか」

 なるほど、そういうことだったのかとぼくは思った。しかし、大きな赤ん坊が出てくるには相当割れなければならない。

 「痛いだろうな」

 「そりゃあ、そうさ、だからお産の苦しみっていうんさ」

 ぼくは真ちゃんを尊敬した。本当にいろんなことを知っている。

 「暑いね、少し休まなけりゃね」なみちゃんが草掻を持ったまま現れた。麦藁帽子の下は手拭で覆っている。

 「何話していたの」なみちゃんは飴玉を一つづつくれた。

 「ちょっとまあな」真ちゃんは照れくさそうに横を向いた。

 「赤ちゃんは何処から生まれるかっていうことです」ぼくがいうと、

 「ばか」と真ちゃんがいって目配せした。なみちゃんは一瞬赤くなったようだった。

 「それで、どうなの」となみちゃんがいったので、ぼくは今聞いたことを繰り返した。

 「なみちゃんは大人だから、知っているさ」真ちゃんは少し興ざめしたようにいった。

 「そうね、女学校でも詳しく習ったから」といってなみちゃんはお産がいかに大変かという話をした。余りにも真に迫っていたので、なんだかお腹が痛くなってくるようだった。

 「なみちゃんは経験あるんか」と真ちゃんがいい、なみちゃんは

 「まさか、ないわよ、でも分かるの、大人の女だから」と胸を張った。

 十一時過ぎに肺結核の手術をした後、療養しているという若主人の弟がお弁当を持ってきた。弟はひょろりと細長くて、いかにも農作業には向いていないという身体つきをしていた。去年の秋は数回お握りが出たので期待したが、小麦粉に味噌を混ぜて焼いたお焼きと薩摩芋だった。六畳間くらいの番小屋でお昼を食べた後、昼寝をした。眼が覚めたとき真ちゃんは眠っていたが、弟となみちゃんが居なかった。窓から覗くと、二人は下のりんごの木の下に肩を寄せて座り何か話していた。

 午後のお茶の後、立ち上がった真ちゃんが突然座り込んでしまった。顔が蒼白で、冷や汗が吹き出ている。

 「日射病だな」と弟がいって、なみちゃんと二人で小屋に連れていった。六時前だった。

 「今日はこれくらいにするか」と弟はいい、お仕舞いということになった。真ちゃんはふらふらしていたがなんとか歩いて帰った。

 しかし真ちゃんは翌日も翌々日もその次の日も来なかった。馬が来て、小麦を刈った後の土を掘り返した後、水を入れ、今度は牛を使って代掻きをすると、いよいよ田植えだ。早乙女という若い女の人が三人来た。ぼくの仕事は苗代で取った苗を適当なところに配ることだった。叔母もなみちゃんも、もちろん田植え要員で、二人は早乙女の人と同じくらい手際がよかった。十時の休みには待望のおにぎりがでた。畦道脇の堆肥を積んでおいた空地に筵を敷いて食べているところへ真ちゃんが来た。

 「大丈夫なの」と若奥さんがいった。

 「ちょっと、熱が出たもので」真ちゃんはおにぎりを一つ貰って食べた。やはり顔は青白い。それから、畦道に座って見学していたが、まだ熱があるといって、間もなく帰った。

 田植の次の日は一日雨降りだった。その翌日、蚕室に入れておいた小麦をまる一日かけて電動脱穀機で脱穀すると、主な農作業は終りだった。約二週間の労賃として、玄米一袋と大豆と黍を貰い二人で背負って帰った。夕食時に叔母は、

 「真ちゃんはピカにやられたんだっていうわ」といった。

 「ピカって?」と訊くと、

 「広島に落ちた新型爆弾、原子爆弾の原爆病だって、人にも移るっていうじゃねか、これからは遊ばね方がいいわ」といった。

 次の日から学校だった。夕方真ちゃんのところに行くと留守だった。農協の人に訊くと隣町の病院に入院したという。叔母にお見舞いに行くというと、移るかもしれないからやめろといった。

 しかし、真ちゃんは数日後退院した。学校の帰りにこっそりと寄ると、六畳間の奥の三畳間の窓の下に布団を敷いて眠っていた。顔色は相変わらず青く、少し痩せたようだった。

 「やっぱり白血病だって。副腎何とかホルモンをやればいいんだっていうけど、ここじゃ出来ないから、長野の赤十字へ行けって、人に移ることはないけど」

 真ちゃんの母ちゃんは入り口の六畳間でぽつりぽつり話した。何でも、父親の仕事の都合で広島県のどこかに越したが、父親は戦争に行って戦死し、真ちゃんの姉ちゃんが女学校の学徒動員で広島市の工場で働いていたので、会いに行った。旅館に泊まり、朝飯を食べ終えたとき、ピカが落ちた。旅館は爆風で倒れたが、幸いに掠り傷一つ負わなかった。しかし、姉ちゃんを捜して、一面の瓦礫となった街を歩き回ったため、放射能というのを浴びたのだという。姉ちゃんは結局行方が分からず、多分死んだのだという。

 「真也は子供だから、病気が出たのかもしれないなあ、この病気になった人は大抵死んじゃう」といって母ちゃんは目頭を抑えた。

 「死ぬなんてだめだ、みんな死んじゃう」ぼくは姉のそのときを思い出して涙が出た。

 「おい、よっちゃん」という声がしたので行くと、真ちゃんは布団の上に起きていた。

 「今度、いい網貸してくれるっていうから、魚取りに行くじゃねか、綱で引っ張りあげるんさ、楽だしたくさん取れるぞ」といった。しばらく話すと疲れたといって横になった。

それから真ちゃんは長野の赤十字に入退院を繰り返した。

 「真ちゃんの母ちゃんの実家には資産家がいるっていうからいいわ」と叔母がいった。

 最後に会ったのは九月の運動会の帰りだった。駆けっこで珍しく六人中三位になって赤いりぼんを貰ったので、見せに寄ったのだ。少し小さくなった真ちゃんは意外に元気で布団の上に起き上がり、

 「何だ、おれなら一等さ」といって、戸棚から白や紫のりぼんを出して見せた。ぼくはだいぶ良くなってきたのかなと思った。

 「中学に入ったら、野球をやるぞ、これからは何といっても野球さ、あー、早く治らねかな」といって、枕もとの「野球少年」という雑誌を見せた。そこには川上とか大下、青田、スタルヒン、若林といったプロ野球の選手の写真が載っていた。プロ野球はラジオでも中継され、学校でも話題になっていた。ぼくはつい暗くなるまで、読み耽ってしまった。

 

 十月のある日、学校から帰ってくると、農協の横に真ちゃんの母ちゃんが立っていた。

 「今、眼を落としたとこだよ。会ってやって」といった。

 真ちゃんは入り口の六畳間に横になり、顔に白い布を被っていた。農協の人と親類のような人がいた。母ちゃんが布を取ると、すっかり痩せて小さくなった真ちゃんがいた。皮膚は土のような色だった。そのとき不思議なことが起こった。ぼくが知っている一番短いお経が突然口から出たのだ。「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」と唱え、それから南無阿弥陀仏と自然に声が出た。

 「よっちゃんはお坊さんの卵なんだなあ」と母ちゃんがいった途端、その眼からぽろぽろと涙が零れた。

 ぼくは家の縁側に鞄を置くと、真っ直ぐに墓地の外れに行った。そして田圃の先の日が沈んだばかりの茜色の山に向かって、大声で、

「あー」と叫んだ。声は重く穂を垂れた稲田の中に吸い込まれていった。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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崎村 裕

サキムラ ユタカ
さきむら ゆたか 作家 1937年 長野市に生まれる。「煩悩」で第21回日本文藝大賞自伝小説賞受賞。

掲載作は、2004(平成16)年4月「構想」36号に初出。