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マリの出征

 いつもの農業用水のところに来ると、マリはしばらく草叢を嗅ぎまわっていたが、対岸に眼を据えると、いきなり跳躍した。前脚と後脚がほとんど同時といった感じで対岸の地面に着き、何事もなかったようにぼくを見ている。川幅は一メートルぐらいだろうか。笹が茂り、みどり色がかった水がゆっくりと動いている。めだかの群れが泳ぎ、アメンボウが水の上をすいすいと歩いている。みずすましが水面を横切る。田植えが終わったばかりの田んぼで、蛙の声が喧しい。

 ぼくは学校から帰るとマリと散歩に出る。墓地を抜け、田んぼの間の畦道を進むと、この用水に出る。マリはいつ頃からか、用水を跳び越えることを覚えたのだ。手綱は十分の長さがあるので、マリは対岸、ぼくはこちら側を手綱を持ったまま、二十メートルばかり下流に歩くと石橋があるのでここで合流する。

 しかし、今日は違った。マリは歩き出さないで、伏せの姿勢をとってじっとぼくを見ている。用水を跳び越えろというのだ。もちろんぼくはこれまでも何度か跳び越えようと思った。が、立ち幅跳びではちょっと無理な距離に感じられるのだ。助走をつければいいのだが、生憎畦道は用水の手前で急に曲がっているので、直線部分は二メートルあるかないかである。ぼくは、走り幅跳びの姿勢をとってみたが、やはり助走距離二メートルでは短かすぎる。ぼくは小学校三年生で、五月に測定した立ち幅跳びの距離は九十センチだった。畳の短い方は九十センチだと母がいったので、試してみると案外簡単に跳べた。しかし後で物差しで計ると八十七センチしかなかった。マリの顔を見ているうちに二メートルの助走でも跳べるような気がしてきた。マリは茶褐色で耳が立ち、尻尾が巻いている。柴犬の雑種だろうが、柴犬よりは大きく秋田犬の血が入っているかもしれない、と母がいっていた。

 「ウー、ワン」、マリはぼくを見て一声低く吠えた。その瞬間、ぼくは跳べる気がした。助走はうまくついたが、踏み切ったところが、妙に柔らかく、つま先が沈むような感触だった。対岸に足が届かない、と思ったときには水の中に尻餅をついていた。ずぶ濡れだ、母の困ったような顔が浮かんだ。とにかく畦道に両手をかけて這い上がろうとしたが、ズボンが重くて足が思うように上がらない。適当な半ズボンがなかったので今日は長ズボンを穿いてきた。そのとき、マリが水の上に出たズボンの膝のあたりを口に銜えて引っ張り、躯全部がふわっとした感じで畦道に上がった。

 「ウー、ワン」、ぼくを見て、今度は安心したように一声吠えた。

 立ち上がると、ズボンから水が滝のように落ちた。肘とシャツは泥だらけだ。誰も見ていなかったが、泣きたいような気分だった。マリは散歩の続きが出来ると思ったのか、先に駆け出したので、ぼくは慌てて綱を握った。

 「だめだ、今日は帰る」といって、綱を強く引くと、マリは素直に家の方に向きを変えた。太陽は西の山の雲の中に隠れ、遠くの家々はぼんやりしている。その遠くで列車の音がすると、間もなく、汽笛が鳴り、蒸気機関車が向こうの堤の上に姿を現した。客車は六両で、後ろにもう一つ蒸気機関車がついていて車輪の間から蒸気を噴出している。ぼくはなんとなく、手を振った。すると後の機関車の機関室から青い色の服を着た人が現れて、ぼくに手を振ったように見えた。

 「オーイ」ぼくは叫んで、もう一度手を振ったが、その人は中に入ってしまった。いつもなら列車が駅の構内に入るまで見ているのだが、なにしろずぶ濡れなので着替えなければならない。ぼくが走りだすと、マリも一緒に走った。

 「どうしたの、いったい」母はぼくを見るなりいい、裸にして、手拭いで拭いた。

 「足が滑って、川に落ちちゃったんだよ」ジャンプしたとはいわなかった。

母は同級生の母親よりも年をしていた。それもその筈で、ぼくには十五歳も年の離れた姉がいた。東京の女子医専を出て、東京の病院に勤めていた。

 「姉さんと、どうしてたくさん年が違うの」と訊いたことがあるが、

 「もう、子供なんか出来ないと思っていたら、出来て、それがお前だったんだよ。そしたら、お前が三つのとき突然、父さんが死んじゃって」と母は答えた。

 ぼくには父の記憶はほとんどない。が、夜中に突然横に寝ていた母が起き上がって、隣の父の布団の方にいったのを覚えている。暗い豆電球の下に、祖母の顔があり、変な唸るような声がした。

 「苦しいんですか」という母の声がしたが、答えはなく唸り声だけが続いた。記憶はここで途切れる。次は大勢の人が家に集まり、その一番奥に、父が顔に白い布を被って横たわっている光景だった。後ろで母の声がしたと思ったとき、黒い医専の制服を着た姉が入ってきた。制服というのは、後で母に聞いた話と重なっているのかもしれないが、黒くて、田舎には見られない颯爽としたといった印象が残っている。その次は、白木の棺が運び出されるところで、ふと見上げると姉の顔があり、その目から涙が転げ落ちた。父の死因はしんきんこうそく(心筋梗塞)ということだった。

 姉は耳鼻咽喉科医だった。恵比寿駅から西に十分くらい歩いた坂道の途中にある姉のアパートを母としばしば訪れた。階段を上がった二階の突き当たりの部屋で、入口に流しとガス台がある六畳間だった。窓は出窓になっていて、開けると鉄の手摺りが何本もあった。眼の下は家々の屋根だったが、少し先にはビルが立ち並び、電車の音がした。隣にぼくと同年の男の子がいて、よく遊んだ。この春休みに行ったときは、動力はゼンマイで、ヘッドライトも点く精巧な乗用車の玩具があった。ぼくは夢中になってゼンマイを巻いて走らせたが、その男の子はぼくに取られたと思ったのか泣き出し、ぼくは母に叱られた。

 そんなときマリはどうしていたかというと、裏の家に預かってもらうのだった。裏の家にはおじさん夫婦と小学校上級生の、のりにいちゃんがいた。のりにいちゃんはぼくと同じくらいマリと仲がよく、マリはペロペロとにいちゃんの手や顔を舐めた。

 学校から帰るとマリがいないことがあった。母に訊くと、のりにいちゃんが散歩に連れていったということだった。そんなときマリは薄暗くなるまで帰ってこなかった。母は心配することはない、といったが、ぼくはいつも黄色い門と呼んでいた中門のところまで出てみる。ぼくの家はK寺という大きな寺の寺中にあり家の北側はK寺の境内で、黄色い門の先には石柱の山門がある。そこをマリが駆けてくる。のりにいちゃんが走るとマリも走る。ぼくのそばまで来ると、マリは肩のあたりに跳びつく。

 「ほら」のりにいちゃんは綱をぼくに渡すと、ついでに頭をひとつひっぱたいていく。

 「いてえなあ」といいながら振り向くと、

 「あばよ」と舌を出して、逃げていく。

 のりにいちゃんは模型飛行機の製作が得意だった。市販のキットを買ってくるのだが、ゴムひもを動力にしたプロペラ機をよく作った。これは隼、これは零式艦上攻撃戦などと名前をつけた。

 日本はアメリカと戦争をしており、戦局が思わしくないという噂は田舎の村にも伝わっていた。山本五十六連合艦隊司令長官が戦死したときは、学校で追悼式があり、校長先生が「米英撃滅を誓い、黙祷」といい、全員が黙祷した。突然音がして、ぼくの斜め前の男子が倒れた。校長先生の話の最中に必ず誰かが倒れた。黙祷の後「海ゆかば」(注)を歌った。

 同じ頃、英霊が帰ってくるというので、全校の生徒が駅前の道の両側に並んで迎えた。まず軍服を着たおじいさんのような人が先頭に立ち、写真と白い布に包まれた遺骨箱が続いた。遺骨箱は黒い喪服を着た女の人が持っていた。

 「黙祷」年配の先生の号令がかかった。五月のよく晴れた日でこの日も何人かが倒れた。

 プロペラ機は、ぼくが飛ばすとなぜか間もなく地面に落ちてしまったが、のりにいちゃんの手を離れると高く上昇して、一回りすると、地面に格好よく着陸した。地面に置くと、ふわっと離陸して、また静かに着陸した。のりにいちゃんはよく指に絆創膏を貼っていた。キットには翼を作るためのヒゴと呼ばれる細かく割った竹がついていて、これを蝋燭の火の力で適度に曲げるのだが、その呼吸がもっとも難しく、火傷をするのだという。一度マリが草むらに落ちた飛行機を銜えてきたが、大事な翼の紙が破れてしまい、以後のりにいちゃんはマリに拾わせなかった。

 

 鐘楼の梵鐘が戦争にいくことになった。

 「戦争に行くってどういうこと」と母に訊くと、大砲や軍艦になるのだという。軍艦になるって鐘は水の中に入れればすぐに沈んでしまうだろう。母にそういうと、高温でどろどろに溶かすのだという。ぼくは鐘が真っ赤になっている様子を想像して怖くなった。

 土曜日の午後、出陣式が行われた。本当は送別式だったのだが、名誉ある出陣なので、送別式はまずい、というお達しがあったのだという。鐘楼には羽織袴の檀徒総代のおじいさんが何人もいて、K寺の代務住職の和尚さんがお経を読んだ。K寺の住職は空席で、ぼくの父が代務住職を勤めていたが、父の後この和尚さんが来たのだ。写真で見る父と同じくらいの年齢で頭はつるつるだった。檀徒総代の一人が懐から紙を出して、お国のためになって欲しいといった文を読んだ。それから土木の請負をしているターさんが地下足袋姿で現れて、ロープで鐘を縛り、天井に吊した歯車のいっぱいついた滑車にロープを通すと、もとの鐘の太いロープを斧で切った。ターさんはイヘイさんというお寺の仕事をするおじさんと滑車の鎖を少しづつ引いた。鐘はゆっくりと地面に下りてきた。ターさんはロープに太い丸太を二本通した。地下足袋を履いた人がもう二人現れて、四人で鐘を担ぎゆっくりと階段を下りた。鐘楼の先にはトラックが止まっていた。荷台にはすでに梵鐘がいくつか積んであった。ターさんたちはトラックから四角い台を次々に下ろし、階段状に組み立て、そこを一段づつ担ぎ上げ、荷台に運び入れた。ぼくがいちばん見とれたのは歯車のいっぱいついた滑車で、あんな重い鐘を静かに地面に下ろすなんてどんな仕掛けなのだろうと思って見ていると、ターさんが来て外してしまった。トラックがエンジンをかけたとき、マリが二声吠えた。マリも別れるのが寂しかったのだ。もっとも梵鐘はお盆に鳴っただけだ。撞くのはいつもイヘイさんだった。鐘のない鐘楼はガランとして空家のようだった。

 「よし坊、いくぞ」突然、のりにいちゃんがぼくの手からマリの手綱を取って駆け出した。マリも一緒に駆けていく。よし坊というのはぼくのことだ。芳雄と書くのだが、学校では皆、ほうちゃんと呼んだ。発端は担任の市屋先生が、将来お坊さんになれば、ほうゆうさんでしょう、といったからだ。市屋先生は中年の女の先生で、いつも袴を穿いていた。のりにいちゃんはぼくをよしおと呼ぶ数少ない一人だ。ともかくぼくも駆け出した。のりにいちゃんは墓地の方へ向かう。田んぼに出て畦道を進む。いつもの用水のところで、軽々と跳び越え、マリも跳び越える。しかしぼくの足は止まった。

 「こんなとこ、跳べねのか、駄目だなあよし坊は」のりにいちゃんは向こう側で、にやにや笑っている。跳んでみようか、と思ったが、前回の失敗が頭に残っている。やはり練習をしてからだ。

 「思い切って跳んでみろ、ほら、簡単だ」、といい、ぼくがためらっていると、

 「意気地なしだなあ、よし坊みたいなのがいるからアメリカに負けちゃうんだ」といった。ぼくは頭が熱くなった。よし、何が何でも跳んでやる、と決心し助走の姿勢に入ったとき、突然、マリが跳躍して、こちら側に着岸した。綱が伸びきって、不意をつかれたのりにいちゃんが、前のめりに水の中に落ちた。すぐに這い上がったが、ずぶ濡れだ。

 「ちくしょう、突然跳びゃあがるから」

 マリが細く長くなき、路に仰向けにひっくり返った。お腹のところだけ白く、その手前にはおちんちんもある。よしよし、とお腹をなでると、起き上がって、伏せの姿勢になった。ぼくは何といっていいか分からないので、黙っていると、のりにいちゃんは一人で、上流の方に歩いて行く。家に帰る近道なのだ。

 「ごめん」やっと声が出たが、返事はない。なんだか泣いているような感じだった。

 家に帰って母に話すと、さっそく謝りにいった。

 「よし坊もマリも悪くないって、怪我もないから、いいって」と母がいった。

 

 ぼくは黄色い門の横で二メートルの助走をつけて一メートルを跳ぶ練習をした。間もなく簡単に跳べるようになったが、ただの地面と川岸は違う。ぼくは用水に行って踏み切りの土の様子を調べた。しっかりした土に草が生えているところと、窪みにごみが溜まっているところとがあった。この前失敗したのはごみを踏んだためだろうと思った。更に練習を重ねて、一メートル十センチ以上跳べるようになったところで挑戦した。川幅は一メートル物差しがほんの少し足りない程度だから、一メートル五センチくらいだろう。水はゆっくりと流れ、メダカが泳ぎ、ミズスマシが水面を横切り、アメンボウが歩いている。ぼくは助走をつけて跳んだ。踏切の感触は十分で無事向こう側に着地したが、勢い余って、前の田圃の中に両手を突き、穂が出かかった一株の苗を倒してしまった。慌てて真直ぐにして根元に泥を寄せた。マリもぼくの後から跳んだ。シャッツにもズボンにも泥が飛んでしまった。

 「もっと高く跳ばなくちゃな」、横にのりにいちゃんぐらいな年恰好の男の人が立っていた。いい終わるとその人は立ち幅跳びで跳んだ。舞い上がるといった感じで、着地しても上半身がわずかに前傾しただけだ。次に二メートルの助走をつけてこちらに跳んだ。やはり上半身が少し揺れただけだ。

 「おにいちゃんは何処から来たの」というと、

 「駐在所に今度越してきたんだ、みつよしっていうんだが、みっちゃんでいいよ」といった。駐在所は駅前から続く道の際にある。

 「じゃ、おとうさんはお巡りさんなんだ」

 「うん、でも悪りいことをしなけりゃ、つかまえない、悪りいことすればつかまえる」

 ぼくは何か悪いことをしただろうか、そうだ、たった今、苗を倒してしまった。それを見ていたのだ。しかしぼくの心が分かったように、

 「だいじょうぶさ、苗を倒したくらいじゃつかまえない、それより、今度戦争ごっこやろう、面白いぞ」といい、それからマリを見て、

 「いい毛皮してるな」といった。

 戦争ごっこというのは、四対四とか五対五くらいに分かれて、それぞれの木と赤か白かを決め、木に鉢巻を巻いておく。相手の鉢巻を先に取った方が勝ちというのだった。取ったらポコペーンと叫ぶ。負けた方は相手に人数分の賠償金を支払う。賠償金はパッチン(メンコ)だった。みんなは武田信玄、上杉謙信、織田信長、山中鹿之助といった武将の絵がかいてあるパッチンや双葉山、羽黒山、安芸海などのお相撲さんの絵、戦艦長門、陸奥の絵のパッチンを沢山持っていた。足りなくなったら駄菓子屋から買ってくる。ぼくは小遣というものを貰ってなかったので、のりにいちゃんから分けてもらった。大将はみっちゃんとのりにいちゃんで、少し遠くの子も加わった。攻撃隊と守備隊に分かれるが、小さい子は大きい子に敵わないから、同じくらいの躯格好の者が戦うことになる。柳の枝を切って小銃に見たててダダダダっとやるが、相手が近づくと刀に変えて振り回す。隙をみて足の速い子が植え込みの陰からとび出して鉢巻を取る。結び目は一つと決まっていた。境内には木が多いので隠れるところはいくらもあった。みっちゃんが大将の組が勝つことが多かった。大体はみっちゃん自身が攻撃隊で攻めてくる。力が強いので、二人くらいがみっちゃんにかかるが、実はみっちゃんは囮で、守備隊を木から離し、その間に俊足の子が忍び寄って鉢巻を取りポコペーンとやるのだ。

 最初、マリも一緒で、ぼくの組が勝ったが、犬はいけないということになり、何故かぼくの組は負けることが多かった。みっちゃんの組に入っても同じだった。躯が小さく、力も弱いので、攻撃隊を阻止できないし、足も速くないので、敵を牽制できないのだった。

 戦争ごっこが飽きると本堂の軒下でパッチンをした。このパッチンはのりにいちゃんがずば抜けてうまかった。相手のパッチンをひっくり返すか、下に潜り込ませれば、取ることができる。戦争ごっこで失ったパッチンをのりにいちゃんはかなり回収した。ぼくは下手なので、手持ちはたちまちなくなり、後は見学ということになる。のりにいちゃんが相手のパッチンの状態をよくよく観察して、ここぞという所に叩くと魔法のように相手の丸いパッチンはひっくりかえる。強いパッチンは蝋が塗られ、端が擦られて薄くなっている。

 

 マリのおちんちんから赤い唐辛子のような肉が出ている。

 「マリのおちんちんが変だよ」と母にいうと、

 「お嫁さんが欲しくなったんだよ」といった。

 「どうしてお嫁さんが欲しくなるの」と訊くと、

 「一年に何回かこうなって、さかりがつくっていうの」と答えた。

 母は夜、ぼくが寝る前に綱から放した。マリは待っていたように一瞬で姿を消し、朝起きても、犬小屋は空のことがあった。しかし学校から帰ってくると、マリはいつものように眼をつぶって昼寝をしている。頭を撫でて、

 「お手」というと、なんだか面倒くさそうに、手だけさし出す。いつもなら少なくとも、小屋から出てぼくの手を舐めるのだ。

 「マリは毎晩何処へ行ってるの」

 「何処へ行くんだろうね、どっかにお嫁さんの犬が出来たんだよ、お嫁さんになる犬を連れてきてやればいいけど、それも出来ないしね」

 「お嫁さんの犬とどうするの」

 「お嫁さんの犬のお尻にもう一つ穴があってそこにおちんちんを入れるんだよ。こうび(交尾)っていうんだけどね」

 「ふーん」ぼくは感心してしまった。犬というのはなんて妙なことをするのだろう。しかし、それ以上は訊いてはいけないような雰囲気を感じたので黙った。

 しかし、そのうちにマリは憑き物が落ちたように普通になった。

 ある日、学校に算数の教科書を忘れたので取りにいった。母は明日にすればいいではないか、といったが、気になった。教科書は薄暗くなった教室の机の中にあった。学校の門を出た左側に忠魂碑という石の碑が立っている。その碑の下に二匹の猫が重なっていた。

下が黒と白のぶち、上は黒猫だった。何をしているのかと思い近寄ると、二匹はぱっと離れて逃げ去った。その瞬間、猫はこうびをしていたのだという考えが閃いた。犬だけではなく、猫も同じことをするというのがショックだった。と、そのとき碑の裏側から人間の声がした。

 「こら、忠魂碑の前で何故敬礼しない」三人の上級生が現れた。

 「します」ぼくは吃驚して慌てて最敬礼をした。朝夕、通り過ぎるときは敬礼する規則になっていた。

 「先生は誰だ、いってやる」と上級生はいい、ぼくは大変なことになったと思い、顔から血が引いた。

 「誰だ」真ん中の背の大きいのが怒鳴った。

 「市屋先生」ぼくは小さな声でいった。

 「なんだ、市屋か、旦那も先生だったけど、戦争に行ったんだぞ。毎晩旦那がいなくて寂しくてなあ、おめえ、抱いてもらっただろう」といった。

 「おめえ、そんなこというな、出征して、お国のために戦っているんだぞ」と横のちょっと小さいのがいい、それからぼくの方を向いて、

 「それより今猫が何してたかおめえ知っているか」といった。

 「こうびです」ぼくは、たった今気がついたことを少し得意になっていった。

 「おめえ難しいこと知ってるなあ。あれはなあ、おめこやってたんだぞ。人間だって同じだぞ、おめえのかあちゃんだってやってるんだぞ」といったが、そのとき三人目が二人に何かいった。お寺、といった言葉が聞こえ、急に三人は興味がなくなったように忠魂碑の向こうに行ってしまった。

 人間だって同じだぞ、という言葉が耳の奥で響いていた。道々その言葉を反芻したが、人間はそんなことをする筈がないという結論に達した。

 

 英霊が頻繁に帰ってくるようになった。そんなある朝、市屋先生が、

 「南の島で名誉の戦死をされましたとし子さんのお父さんの英霊が今日帰ってきます。みなさん黙祷いたしましょう」といった。みんなもんぺに赤い半纏を着たとし子の方を見たが、とし子は別に泣いてもいなかった。

 その日の午後、三体の英霊が帰ってきた。白い布の箱を持っているのは、三人とも黒の喪服ではなくもんぺ姿の女性だった。とし子のお父さんは二番目ということだったが、箱を持っている女性はとても若く、お姉さんといった感じの人だった。さらに一週間後の午後、臨時の全校集会があった。壇上に黒枠の写真を持った市屋先生が上った。遠くでよく分からなかったが、写真は軍服姿の人だった。

 「このたび、市屋先生のご主人が南方戦線で名誉の戦死を遂げられ、御遺骨が昨日戻られました。ご主人はこの春、出征されるまで、隣町の小学校で教鞭を取っておられました。昨日は日曜日だったのでお知らせできませんでした。みなさん、先生のご主人のご冥福をお祈りし、米英の撃滅を誓って黙祷いたしましょう」と校長先生がいった。戦局が苦しくなっていることは子供心にも分かり、私語はなかった。最後に、「海ゆかば」を歌った。

 次の時間は算数だった。最初に市屋先生は、

 「わたしの主人のためにみなさんありがとうございました」といったが、普段と特に変わったことはなかった。

学校から帰ると、入口の十畳間に黒い陶製の燭台や香炉がいくつも並んでいた。

 「真鋳の燭台と香炉を供出することになったんだよ」と母がいった。

 「供出って何」

 「戦争に行くんだよ」と母はいい、ぼくは梵鐘と同じなのだと理解した。

 家の御堂でお経を上げた。K寺の本堂に比べれば小さいが中央に阿弥陀如来様の立像があり、右には親鸞聖人の画像、左には蓮如上人の画像があり、それぞれに二つの燭台と一つの香炉があった。毎月父と祖母の命日にはお経を上げる。お経は「帰命無量壽如来、南無不可思議光・・・」で始まる「正信偈」で十五分位かかるが、そらで上げることができた。それから燭台と香炉を十畳間に運んだ。中央の燭台は大きくかなり重かったので母と二人で持った。運び終えたとき母が、

 「マリも出征することになったんだよ」といった。

 「えっ、やだよそんなの」とぼくは反射的にいった。しかし、出征って軍用犬になるのだろうか、地雷を見つけたり、伝令をつとめたり、格好はいい。だけど地雷が爆発すれば死んでしまう、マリが死ぬなんて考えられない。

 「戦争が終われば帰ってくるんだよね」といったが、戦争は終わるのだろうか。人間だってみんな死んで帰ってくるではないか。眼の前が暗くなった。

 「で、何時なの」といった。

 「うん、それはまだ分からないの」ということだったので少し安心した。マリのところに行くと、まだ何も知らないのだろう。ぼくの手と頬っぺたをぺろぺろ舐めた。

 

 五時間目の国語の授業で、市屋先生がぼくの梵鐘と燭台などの供出のことを書いた作文がとてもよいということで朗読した。外にも二つ朗読したが、ぼくのものが特に優れていると褒めた。みんなぼくの方を見たので、別段嬉しくもなんともないという顔をしていたが、すぐに頬の筋肉が緩みそうになった。これを母にいおうと思って帰ってくると母は泣いていた。目が赤かった。

 「マリが連れて行かれちゃったんだよ」、ぼくは吃驚して犬小屋に行くと、綱だけが残っていた。母は泣きながら、マリは殺されて毛皮になるのだといった。

 「満州や寒いところの兵隊さんが着る外套になるんだって。昼近くに男の人が二人来て、マリも何か気がついたんだね、嫌がって暴れたんだよ。そしたら一人がいきなり紐のようなもので首を絞めたんだよ。マリがぐったりすると袋の中に入れて持って行ってしまった」

 駐在所の前にトラックが止まっていて積み込まれたのだという。

 「トラックはもういないよ」という母の声を背後に聞きながらぼくは走っていた。駐在所の前にはトラックもいなければ、人の姿もなかった。ただ藁屑がたくさん落ちていた。ぼくはここで殺されて毛皮になったのかと思い、それらしい痕跡を探したが何も発見できなかった。さらに用水の方に向かって歩いた。用水に架かる石の橋の上に白と黒の犬の毛らしいものが落ちていた。マリのような茶褐色の毛はなかったが、それらを拾い上げてみた。そのとき汽笛の音がして、堤の上に貨物列車が現れたが、涙でぼんやりとしか見えなかった。ふと、こんなとき姉がいたらどうするだろうかという考えが浮かんだが、耳の医者だから耳の治療しか出来ないだろうと思った。立ったとき泣声が出て、それからは際限もなく声が出た。

 

 (注)「海ゆかば」は大伴家持の長歌の終わりの「海ゆかば水づく屍 山ゆかば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」(万葉集四〇九四)の歌詞に荘重な曲をつけた歌で、太平洋戦争中もっともよく歌われた。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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崎村 裕

サキムラ ユタカ
さきむら ゆたか 作家 1937年 長野市に生まれる。「煩悩」で第21回日本文藝大賞自伝小説賞受賞。

掲載作は、2003(平成15)年6月1日発行「小説と詩と評論」321号に初出。