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本量さん

 赤い実のいっぱいについた棗の樹の横を入ると平屋建ての小さな庫裏があり、隣が小さな御堂になっていた。母が庫裏の障子に向かって声をかけた。少しして、

「待っとくれー」という間延びしたような声がした。御堂の方は障子が開いていたので、覗いてみた。中央に阿弥陀さまらしい小さな御本尊があり、その前に須弥壇、経机、座布団、その右に鐘という配置は家の御堂と同じだが、左にぽくぽくと軽やかな音を立てる木魚があった。わたしは一度あの木魚を叩いてみたいと以前から思っていた。この法然庵は村の寄合所を兼ねていたので、子供会の集まりで夜二、三回来たことがあったのだ。昼間来たのははじめてだった。

 障子が開いて、白い着物を着た横幅のある庵主さんが出てきた。頭はつるつるに剃ってある。

「じゃ、よろしくお願いします」母とわたしは深々と頭を下げた。

「まあまあ、心配しねえで、この本量にみんなまかせな」と庵主さんはいった。わたしは庵主さんの光る頭を眺めた。いつだったか、母に庵主さんは男か女か訊いたことがあった。女だ、と母は即座にいい、尼さんだから頭を剃るのだ、と説明した。

「名前は何というのかな」と庵主さんはいった。

「清光了証です」

「ほう、で、いくつかな」と訊く。わたしは、

「小学校五年です」と答えた。

「おう、そりゃたいしたもんだ、わしの頃は尋常科は四年でな、それから子守にやられて、それがやだくてな、いや、そんなことはどうでもええ、まあ、あがんな」といった。わたしと一緒に母も下駄を脱ごうとすると、

「おっかさんはこれで帰ってもらいます。一応修行ってことだからな」と、母を見た。

 わたしは母が縫ったさらしの白い着物を着ていたが、母はその襟元をちょっと直してからもう一度深々と頭を下げて帰っていった。

 修行はまず縁側と御堂の雑巾掛けだった。

「雑巾は出来るだけ固く絞って、わしはリュウマチ気味で手に力が入らないんだが、よしよし、そのくらい」と、わたしの手元を見ながらいう。

 それから、正座と合掌のしかたを習い、お経の稽古になった。

「仏説阿弥陀経は読んだことがあるかな」と、いいながら庵主さんはお灯明を点ける。

「ありません」と答えると、

「そうかそうか、まずはこのお経を覚えなくちゃな、わしが仮名をふっておいたから、後について読めばよい」

 庵主さんは折りたたみの経本を渡した。庵主さんはご本尊さまの前の座布団に座り、わたしはその後の畳に座った。庵主さんは鉦を二つ叩き、如是我聞一時仏在、と読んで休み、それから、わたしは、にょぜがもんいちじぶつざい、とひらがなを読む。

 その日は二時間ほどで終わった。帰りに赤い棗の実を袋いっぱいに採ってくれた。歩きながら口に含むと甘酸っぱい味が広がった。家にもあったが枯れてしまったのだ。このようにして、毎週土曜日の午後、二時間修業に通った。

 

 わたしの家は慶福寺という由緒ある浄土真宗の寺の寺中にある、西方寺という小さな寺だった。三年生のとき父が急死し、母と妹の三人暮らしになった。慶福寺を本坊と呼んでいたが、本坊の和尚さんは大きなお葬式のときは人力車に乗って出かけるが、村の小さなお葬式は、父の死後は法然庵主の本量さんが勤めていた。法然庵は浄土宗だが、本量さんは正信偈などの真宗のお経も全て読んだ。母も急遽(きゅうきょ)簡単なお経を読む資格を取ったのだが、やはり本量さんにお呼びがかかることが多かった。わたしが五年生になったので、母はわたしを坊さんに仕立てるのが筋だと考えたのだ。お経の稽古はその後、短い讃仏偈、重誓偈、往覲偈、それに帰三宝偈というお経を練習し、阿弥陀経のときは木魚の音が加わった。

 田植えが終わったころ、学校を早引けして、本量さんとはじめてお葬式に行った。藁葺の平屋の小さな家で、軒が低く、手を伸ばせば屋根に届きそうだった。縁側はなく、土間から上がると六畳の座敷だった。そこに顔に白い布を被った仏さんが横になっていた。本量さんとわたしはまず枕経に「我建超世願 必至無上道」で始まる重誓偈を上げた。本量さんによるとこういうお葬式は、枕経から納棺、葬式、埋葬、法事、寺参りを一度にやってしまうのだという。

「顔を見てやっておくんなせえ」と母親らしい人がいって、布を取った。仏さんはきれいな若い女の人で、鼻には綿が詰めてあった。

「おお、きれいな顔していなさる」と、本量さんはいって、「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と唱えた。

「それで、やっぱし、製糸の方でやすかい」

「岡谷で、倹番の男に手篭めにされて、孕ませられて、おろすのがうまくいかなくて」母親は小さい声でいって、目頭を抑えた。

「年は幾つで」

「数えで、二十歳です」

「可愛そうになあ、なんまんだぶ、なんまんだぶ」と本量さんは再び唱えた。

 それから本量さんは茶色の法衣を着て、五条の袈裟を肩に掛け、納棺勤行の往覲偈を読んだ。わたしは布袍という黒の普段着に輪袈裟のままだった。勤行が済むと、本量さんは慶福寺から来た「法名釋善久信女」という戒名を白木の位牌の表に、裏に亡くなった日付と行年、俗名を書いた。ひさ、という名前だった。

「この次からはな、戒名は了証がもらってくるんだよ」といった。

 竹の(たが)がはまった丸い木の桶が運び込まれ、仏さんは二人の男の人によって納棺された。頭に剃刀を当てる儀式があり、出棺勤行では帰三宝偈と正信偈を読んだ。次は野辺の送りで行列を作ってお墓に行き、既に掘られていた穴の中に桶は埋葬され、土を掛けるとき、二人で重誓偈を読んだ。

「この次からはな、埋葬は了証が一人でな」

「えっ、おらが一人?」驚いたわたしは反射的にいった。

「そうさ、おらではなく、わたしといいなさい」本量さんはきつい目をした。墓地からの帰りには緊張がとれたためか、稲田の緑が目に沁みた。

 家に戻ると、ひと七日の法事の仏説阿弥陀経を読んだ。最後はお斉で、里芋と厚揚げ、こんにゃくなどの煮物と白和え、きんぴら牛蒡、酢の物、麩の入った吸い物が出た。どんなものが出たか覚えてこいと母にいわれていたので、心の中で何度も品名を繰り返した。帰りに本量さんはお布施を貰った。法然庵に寄ると、熨斗袋のひとつを取り出して、

「西方寺の分だ」といった。裏を見ろというので、見ると「二十銭」とあった。

「最初のお布施だから、阿弥陀さまにお供えしてな」といった。それから本量さんは慶福寺へお布施を届けるのだといって外にでた。歩きながら、

「今日はな、お経の声もよく出たしまあまあだったな。とちったところはよく練習して」といった。

 

 七月に入ると、三日ばかり雨が降り続いた。三日目の朝、雲が切れて、雨はようやく小降りになった。わたしが庭に出たとき、突然、半鐘が激しくなりだした。

「水が出ただわ、きっと」と、横で草取りをしていた母がいった。

 道に出ると、消防の人が何人か駆けていった。学校に行くと、校庭の東側の一段低くなっている畑は一面水浸しだった。雨は午前中に止んだ。その日学校は半日だったので、午後、数人で堤防に行ってみた。物凄い水の音がして、大勢の人が立っていた。その間を潜り抜けて前に出ると、千曲川は川幅いっぱいに泥水が流れ、眼の下の支流に逆流し、支流の左手の千曲川に流れ込む直前の堤防が切れて、水が畑の中に流れ込んでいた。横には土嚢がたくさん積んであった。

「あがったぞ」というような叫び声がして、堤防の先から戸板が運ばれてきて、少し先に置かれた。蓆が掛けてある。

「土座衛門だ、りょうちゃんお経読め」と横の友達がいった。そこは松のとこと呼ばれている本村から離れた集落で、小さな番小屋のような家が十数軒並んでいた。母はそこの人を松のもんといい、ときどき持ってくる川魚を買っていた。間もなくサーベルを下げたお巡りさんがきた。大人たちの話からすると、その人は半鐘を叩いた後、様子を見ようと川に近づきすぎて濁流に呑まれたということらしかった。その半鐘はすぐ横に立っていた。決壊するのはいつも千曲川が蛇行したところに支流が流れ込むこのあたりなので、危険になったら半鐘を叩いて本村に知らせるために、この集落はあるということだった。

「りょうちゃん、お経」と別な一人がいった。わたしはお経を読んでもいいと思ったが、経本が手元になかった。

 その日の夕方、松のもんが家に来て、母と何か話していた。

「若おっしゃんがお経を読むってっ聞きやしたのでお願え出来ねえかと思いやして」一目で松のもんと分かる小柄な男の人がお勝手口に立っていた。着ているものも布なのか藁なのか判断がつきかねた。土座衛門になった人の父親ということだった。

 本量さんをお願えするだけのもんがねえで」

「行ってやれ」と母がいった。

「一人で?」

「そうさ、可哀そうじゃねか」

「おありがとうござんす」、男のひとはわたしに手を合わせたので、わたしも慌ててお辞儀した。

 わたしは布袍を着て、男の人の後についていった。午後から顔をだした太陽は西の山の近くにあった。大きな欅の木の前を過ぎ、桑畑の中を進んだ一番奥の物置かと思われるような小さな家だった。土間に蓆が敷いてあり、そこに仏さんは横になっていて、その前に座布団が一つ置かれていた。隣は囲炉裏で鍋がかかっていた。わたしは環袈裟を掛け、座布団に座った。仏壇と香炉はあったが、燭台も位牌もなかった。父親が顔にかかっていた紙のようなものを取ると、髭が生え始めた感じの若い男の人だった。わたしは枕経として重誓偈を読んだ。別な男の人が削った丸太のような棒と筆を持ってきた。

「これを立ててやりてえんで何か書いて下せえ」といった。戒名を書けということらしかった。わたしは困ったが、本量さんが名前を入れているのを思い出して、訊くと、かずと、だといい、漢字は分からないという。しばらく考えて、「法名釋善和信士」というのを思いついた。戒名という大事なものをわたしの一存でつけていいものかどうか迷ったが、とにかく心を決めた。下書きをしたいというと、茶色に変色した新聞紙を持ってきたので書いたがひどく薄い。墨を、というとしばらくして小指の先くらいのものを持ってきたので、とにかく磨った。下書きをしてから、丸太に書いた。本量さんよりは下手だが間違ってはいない。

「おありがとうござんす」と、みんながわたしに手を合わせたのでお辞儀をした。それから帰三宝偈と正信偈を読んだ。次は出棺かと思ったら、埋葬は明日だという。ふたたびみんながわたしに手を合わせた。お斉はなく、それで終わりだった。来たときと別な男の人が送っていくというので、一緒に出た。太陽は沈んでしまっていた。男の人は手桶をぶらさげていた。家に着いたが男の人は玄関から入らないで、お勝手口に回った。顔を出した母に手桶を渡した。一尺はありそうな大きな鯉が入っていた。

「こんなもんで申し訳ねえだがなんとか」というと、母はこんな大きなもの見たことがない、といった。

 数日後、本坊の寺男をしている伊平さんがきた。

「こないだ松のもんのとこへ行きなしたなあ。御院主さんが勝手に戒名つけられたら困るといいなして、どんな戒名つけたのか持ってこいって」伊平さんは早口で喋った。

 立派な戒名をつけてもらったということで、その家では大変喜んでいるという噂が伝わっていた。しかし、戒名は慶福寺でつけることになっているというのだ。母が応対したが途中からおろおろしだした。伊平さんが帰ってから母は考え込んでいたが、詫びを入れなければならないことになるだろうといった。

「やっぱ、本量さんに間に入ってもらうだなあ」ということになった。

 夕方、母と行くと本量さんは縁側で団扇を使って涼んでいた。

「そうかそうか、でもな、一人でよくやった。松のもんはわしが行くこともあるが、葬式を出さないこともある。よしよし、わしが謝ってやろう」

 本量さんはすぐに仕度をして下駄を履いた。本坊の庫裏は山門から通ずる長い通路の先に赤い門があり、そこから更に歩く。母も入れて三人で取次ぎの四畳でしばらく待つと、伊平さんが来て、奥へ案内した。秋の報恩講のときは三日間は詰めきりになるので間取りはよく知っている。隣が十二畳でその奥が床の間つきの八畳だった。そこの座卓の前に住職は白い着物を着て座っていた。亡くなった父より少し上だというから五十歳くらいかもしれない。頭は額の上は禿げているが、剃っているのではなく坊主刈なので、両側の頭髪がやや伸び白いものも混じっていた。

「かか勝手に、戒名をつけられたらここ困る、だ出してみろ」、住職は少し吃るのだ。

 本量さんが目配せしたのでわたしは用意した戒名を書いた紙を出した。住職は硯箱を出して、別な紙に「法名善和」と書いた。

 信士、信女は松のもんにはつけない、これを、も持っていけ」といった。それから母が用意した一升瓶を出すと、急に柔和な顔になり、銘柄を見てこれは上物だというようなことをいった。住職は酒が好物なのだ。今度は吃らなかった。本量さんが、

「お礼を」といい、三人は一斉に頭を畳につけた。会見はそれで終わりだった。

 次は信士のついていない新しい戒名をどうするかだった。わたし一人では持っていきづらい。前の戒名で喜んでいるというのだからなおさらである。そんなわたしの心中を察するかのように、本量さんは、

「よしよし、わしも一緒にいってやる」といった。

 その足で松のとこに行った。集落の少し手前の桑畑の中に墓地があり、そこへ本量さんは入っていった。見覚えのあるわたしが書いた丸太の墓標が盛土の上に立っていた。

「ほうほう、立派に書いたわ」といっただけで墓地を出た。あの物置のような家に来て、本量さんが声をかけると小学校に行くすぐ前くらいの女の子が出てきた。

「家のもん呼んできてくれや」と本量さんがいうと走り出し、間もなくあの父親がきた。

「こんなとこまでわざわざ」と背中を丸めた。

 本量さんが用件をいい、わたしが「信士」のない戒名を差し出すと、父親の表情は明らかに変わった。

「だけんどな、墓標はあのまんまでいいから、もし誰かが見にきたらそのときでいい」と本量さんがいうと安心した顔になった。

 帰りに決壊した堤防を見た。切れた部分の底には土嚢が積み上げてあり、その横を数日前の濁流が嘘のように水が静かに流れていた。左側の畑はかなり水位は低くなっていたが、それでも広大な湖だった。自然に水が引くまで待つしかないので、今年はもう畑は使えないのだった。

「今年はもう駄目か、なんまんだぶ、なんまんだぶ」と本量さんがいった。

 

 六年生になった頃から、ときどき本坊の住職の人力車の後について葬式に行くようになった。本量さんと三人のこともあれば、もっと大勢のこともあった。いずれにしてもわたしは一番後ろで(にょう)はちという打楽器を打つ役だった。本量さんはわたしの前で鉦を叩いた。重誓偈などの短いお経はそらで読めるようになっていたが、仏説阿弥陀経のような少し長いお経もそらで読めるようにと土曜日の午後は大体法然庵に通った。間もなく、ひととおり読み終わるまでに一時間以上かかる仏説観無量寿経というお経の稽古もはじまった。これが一番長いお経か、と訊くと、この倍以上の仏説無量寿経というお経があるとのことだった。

 初秋の頃、稽古が終わると、本量さんは薪を割ってくれといった。薪は一尺足らずに切った丸太で、斧は家のものより重かったがよく切れた。一通り終わったところで、本量さんは風呂を沸かすから入っていけといった。裏の小屋の中にある風呂は真新しい木の桶の中に竃の本体がとび出ている珍しいものだった。二人で井戸から手桶に水を汲んで桶に入れた。

「面白いお風呂だなあ」というと、

「寄付してもらっただよ」といい、新聞紙に火を点け、細く割った木切れを入れ、それから割ったばかりの薪を入れた。

 先に入れというので遠慮せずに裸になった。家の風呂は底が鉄板の五右衛門風呂なので湯に浮いているすのこの板を一々沈めなければならないので面倒だが、これはそんな必要がないので楽だ。ただとび出している竃に触れると熱い。

「わしも一緒に入らせてもらうかな」という声がして入り口の障子が開き、裸の本量さんが入って来たので驚いた。

「おめえはまだ母ちゃんとお風呂に入っているかやあ」という。

「いや、最近はたいてい一人です。母は妹と入っています」

 洗い場で湯を使い、湯に入ろうとしたので、わたしは慌ててとび出した。

「まあまあ、そんなに慌てなくてもいいだわ」という。

 身体を洗っていると、背中を流してやるという。

「背中は一人だとうまく洗えないだわ。まだなあ、細い背中だなあ」

 本量さんは後に回り垢すりをして石鹸をつけ、湯を流す。久しぶりの感触だった。

「母ちゃんはたまにゃ、流してくれるかやあ」

「はあ、まあ、たまにわ」

 本量さんの膝がときどき背中に触れた。終わったので湯に入ると、今度は本量さんが洗う番である。

「背中流しますか」遠慮がちにいうと、

「そうかい、じゃ、頼むわ」とすぐに返事がきた。

 本量さんの背中は母のよりも広かった。上下は似たくらいだったが幅があった。

「終わりです」というと、本量さんはいきなり振り向いた。目の前に大きなお乳があった。母のよりも大きいが垂れていて、乳首は桜色で小さかった。

「わしはなあ、ぼこを産んだこともないだけど、どういうんだかときどきお乳が張ってなあ、わりいが吸ってみてくれや」

「えっ、吸うんですか」

 本量さんはじっとわたしを見ているので、仕方なくその小さな乳首に唇を当てた。

「もっと強く、思い切って」というので、その通りにしたが無論何も出ない。

「あー、極楽、極楽、自分じゃ吸えないし」

 本量さんはわたしの頭をしっかりと抱きかかえたので、手の所在がなくなり、お乳に当て、なんとなくまさぐると何か小さいしこりのようなものに触れた。

「何か硬いものがありますよ」

「そうかやあ」と本量さんも触り、

「どうってことねだねか」といった。それからいきなり全身を強く抱きしめたので息が詰まった。

 わたしはもう一度湯に入って先に上がった。待っていると再び何か変なことが起こるような気がしたので、帰るというと、

「今日はありがとな」という声がした。

 その年、繭価が暴落して、わたしのお布施も減ったが、母の和服の仕立て代に大豆や薩摩芋、粟、黍などの雑穀を持ってくることが多くなり、現金収入が乏しくなった。高等科に進めるのかどうか心配になったが、母はそのくらいの貯えはあると笑った。その秋は肺病で死んだ若い人の葬式が多かった。

 稲刈が終わった頃、法然庵に泥棒が入った。そのうちに被害はたいしたことはないが実は本量さんは手篭にされたのだという噂が伝わってきた。手篭ということばはどこかで聞いたような気がしたが、何となく隠微な響きを感じ、母に訊くと、

「女の人が男に乱暴されることだわ」と答えた。

「乱暴って、殴られるってこと?」

「うん、まあそんなことだわ」と母はいった。

 わたしは心配になったので土曜日ではなかったが法然庵にいった。本量さんは別に変わった様子はなかった。

「怪我をしたんじゃなかったんですか」

「別になんでもないわ、たいしたものは盗られなかったしな、こんな貧乏な庵に入ったって駄目だわ」ということだった。

 

 高等科二年の夏休みに京都の本山に行って得度することになった。もう法然庵には通っていなかったが、本量さんはお餞別を持ってきた。

「わしの得度は浄土宗だから、本願寺じゃなかっただが、似たようなもんだわ、京都の夏は暑いから冷たいものを食べたくなるが気をつけてな、わしも腹下ししてひどいめにあったから」といった。

 熨斗袋を開けると一円札が五枚入っていた。はじめて汽車の長い旅をした。トンネルに入ると、蒸気機関車の煙が窓の隙間から、もうもうと入ってきて、数間(数メートル)先が見えなくなった。名古屋駅前の旅館に一泊して、翌日の午後京都に着いた。親鸞聖人をおまつりした西本願寺の御影堂は向こう端の人が隠元豆くらいに見えるほど広く、数えると外陣だけで四百四十畳もあった。

 この御影堂で入所式をしたあと、桂離宮のそばの西山別院というところに移って二週間の講習が始まった。六時起床、布団を畳み部屋の隅に積み上げて、洗面をし、次は各班に分かれて宿舎と本堂と庭の清掃を約三十分かけて行い、七時半から朝食、各班の当番が厨房から班員の分を手桶で運んできて、盛り付ける。九時から十二時までは、仏教概説、浄土三部経概論、真宗学初歩といった難しい題名の講義があった。昼食後は二時まで休みで、二時から五時まではいろいろなお経の読み方を習った。暑いので講義中居眠りをする人が多かったが、平らな板を持ったお坊さんが回ってきて、背中を叩いた。わたしは午前中は叩かれなかったが、困ったのは午後だった。みんなと一緒に大きな声を出していると、ときどきぼおーと気が遠くなるのだった。危ないな、と思った瞬間背中に衝撃が来た。夕方はまた一時間かけて掃除で、それから夕食、消灯は十時半だった。意外にわたしのような子供も多く、女の人もいた。住職が急死して、急遽、家族の誰かが得度するということらしかった。男女は別棟に寝起きしていたが、講義や掃除は一緒である。起床から就寝まで当番が行事鐘というのを叩く。本堂の横の釣鐘を一つ打ち、だんだん打つ速度を速めていって、最後に一つ打つのだった。ある朝起床の行事鐘を打っていると、そばでわたしと同じくらいな年恰好の少女が聞いていて、

「なかなかうまいじゃないの」といった。

 わたしはどぎまぎしてしまい、何か言おうとしたが言葉にならなかった。

「家でも打っているのね」という。

「いや、(にょう)はちを打っているから」と、やっといった。

「そうかあ、お葬式に行くんだ、偉いね、わたしは行ったことないけど」という。

「じゃ、どうして得度するの?」わたしは少し落ち着いて、少女を観察した。丸顔で前髪を上げてピンで留めてある。背丈はわたしくらいである。

「父が去年亡くなったの、お寺は代務のお坊さんがやっているから困らないけど、母が行ってこいっていうから」

 こんなことから少女と言葉を交わすようになった。少女の家は神奈川県の大きな寺で、わたしと違って女学校というところに通っていた。女学校は高等科と違って、英語とか代数、幾何、といった科目があるという。わたしはローマ字は習ったが、英語とどう違うのか質問した。

「それはね、ローマ字は日本語だけど英語は全然違う言葉なの、英国とかアメリカの」ということだった。教科書を見せてもらったが、確かに全く分からず、少女の朗読を聞いたが鳥のさえずりのようだった。わたしは夕食後、少女の部屋に行き、英語の初歩を教えてもらうことにした。大人も一緒の六人部屋で、大柄なおばさんが、

「ここは男子禁制だからみつかったら叱られるよ」といった。少女が説明すると、三十分だけならいいということになった。わたしは、これは机です、これは本です、あれは手帳です、わたしは鉛筆を持っています、といった文を習った。少女はまた夏目漱石という作家の「坊ちゃん」という本を貸してくれた。部屋に帰って読み始めたが、たちまち引き込まれて、気がついたら消灯時間になっていた。中学校という未知の世界も新鮮だったが、そこの先生も人間的で、主人公の正義感に溢れているが無鉄砲な人柄も面白かった。世の中にはこんなにも面白い世界があるのかと思った。

 最終日の前日、剃髪があった。床屋さんが来て頭に石鹸をつけて剃刀で剃るので、全員つるつるの青白い頭になった。ただし、女子の子供は剃らないので、みんな羨ましがった。

「いいね、女の子は」と少女にいうと、

「髪の毛なんか、すぐに元に戻るよ、わたしも剃ったことがあるけど三ヶ月で元通りになったよ」といった。

「どうして剃ったの」

「本当は去年ここに来ることになって、どうせ剃るんなら家で剃った方がいいってことで剃ったんだけど、事情が変わって今年になったの。それで問い合わせてみたら女の子供はいいってことが分かったの」

「去年、剃ったままで学校へ行ってたの」

「鬘を被っていたのよ」といって、わたしの頭をしみじみ眺めた後、

「でも何となく変ね」といった。

 最終日、本願寺の御影堂で大谷光瑞門主より剃刀を受けた。といっても、後ろから剃刀を二度軽く頭に触れただけだった。それから親鸞聖人のお墓のある西大谷というお寺に参拝して終わりだった。

 少女と手紙の交換を約束して、住所を教えあったが、帰ってみると別世界の出来事だったようで筆を取る気にならなかった。少女から来た手紙には女学校で合唱班と占い班に入ったとあり、あまりにもかけ離れた雰囲気を感じ、つい返事を出しそびれた。

 

 九月、本量さんがお乳の手術をするために隣町の病院に入院した。母のはなしだとお乳に腫れ物が出来て、左の腕がうまく上がらなくなったのだという。お見舞いに行くと意外に元気だった。八畳の部屋に四人が寝ていたが、本量さんは一番奥で、白い着物を着て布団の上に座って、本を読んでいた。

「ありがとな、前にお風呂に入ったとき、何かあるっていったじゃねか、あれが急に大きくなってきてな、近所の人が医者へ行け行けっていうんで来たら、すぐ手術だっていうだねか、わしも吃驚しちゃって」

「手術はいつしたんですか」

 今日で、ちょうど七日たったわ、局部麻酔で、目隠しされてるから眼は見えねえが、話はみんな聞こえるだわ。メスだとかガーゼだとかな」

「でも、元気そうでよかった」

「わしは手術のその日の夕食からお粥が出てな、みんなにうらやましがられた。左手が使えないから右手だけで食べた」

 本量さんは枕元からりんごを一つと小刀を出した。りんごの季節には少し早かった上、りんごは貴重な果物だった。

「これ剥いて食べな」といった。四つ切にして皮を剥き、本量さんと二切れづつ食べた。甘酸っぱいりんご特有の味が口の中に広がった。

 

 その年の秋から千曲川の堤防の大改修工事が始まった。急角度に右に曲がっていた堤防の角度を緩やかにして、堤防の下から三分の二に石垣を積み石の隙間はコンクリートで固めるのだという。農閑期なので、大勢の村の男たちが働きに出た。結構いいお金になるのだという。しかし工事が始まって間もなく二人の死者が出た。二人とも三十歳台で、そのうちの一人の若い奥さんは野辺の送りのとき掘った穴の中に落ちそうになり、男の人に抱きとめられた。

「おめさんはまだ入っちゃ駄目だ。子供がいるだねか、しっかりしろ」男の人がいった。

「すまねえす。眼の前が急に暗くなったもんでついふらふらっと」奥さんの眼の周りは赤くなっていた。

 帰り道で、男の人たちは弔慰金は僅かなものらしいなどと話していた。

 もう一人は独身で、六十過ぎくらいな母親が出棺のとき棺に縋って離れずに手間取った。本量さんは庵に戻っていたが、体調が優れず、葬式に行く回数が減ったので、その分わたしが勤めることが多くなり、学校を早引けする日が重なった。休むと何をやったのか分からなくなるので嫌だったが、どうしようもなかった。高等科から行ける隣町の農業学校に進みたかったのだが、入学試験もあるし、入学してもこんなに休んでいては退学になってしまうかもしれないと思った。中学校は汽車で幾つも先の駅の県庁所在地の町にしかなく、中学校に行ったのは村長さんの息子とほんの数人だった。

 年が明けると本量さんの状態は一層悪くなった。少し歩くと息切れがひどいのだという。

「あれはな、癌という病気だわ、腫れ物が出来てあっちこっちに広がるんだっていうわ、きっと肺の方へ行ったんだ」と母がいった。

「それでどうなるの」

「どうなるって、助かった人は少ないって。巫女さんに祈祷してもらったら直ったなんて話もあるがどうだか」母は遠くを見つめる眼になった。

 休みの日に法然庵に行くと、近所の女の人が出て来て、

「今、休んでいなさるから」といったので、そのまま引き返した。正月に降った雪は日陰の道に凍りついていたが、母が買ってくれた金具を打った下駄は滑らなかった。軒下にはたくさんの氷柱がぶら下がっていた。

 そのうちに妙な噂が流れるようになった。堤防工事には生贄がいるというのである。働き盛りの男が二人も死んだのは生贄を捧げなかったからだと。母に訊くと、

「今時、なんてばかばかしいことを、明治もとっくに終わって大正の御世だっていうのに、徳川さんのご時世じゃないわ」という。なおも生贄とは何かと訊くと、

「生きた人間を殺して、水の神さんに供えるっていうんだわ、ああ、恐ろしい、噂を人に話せばまた広がるから、黙っているだわ」といった。

 学校でもそんな噂が密かに囁かれていた。

「人身御供は松のもんの小学校二年だかの娘だっていうだねか」一人が放課後そんなことをいった。

「まさか」と別な一人がいったが、みんななんとなくありそうなことだという顔つきだった。家に帰って母に話すと、

「わしもそう聞いたが、とんでもないことだわ、駐在さんも噂の出所を調べているっていうわ」といった。わたしはひょっとしたら前にお葬式に行った家の娘ではないかと思って訊くと、そうらしい、ということだった。わたしは父親を呼びに駆けていった娘の姿を思いだしていた。小学校四年生になる娘の兄が妹をかばって暴れているという話も伝わってきた。しかし、噂はそれ以上は広まらなかった。

 三月になると毎日雪溶の水が屋根から落ちるようになった。ときどき大きな音をたてて雪の塊が裏庭に落ちた。雪が円い形に溶けた庭の陽だまりに福寿草の芽が出たかと思うと翌日はもう咲いていた。すぐにクロッカスが芽を出し、横の黒い土の間には芍薬が赤い芽を出していた。堤防工事も始まっていた。六月の梅雨時までに目鼻をつけなければならないのだった。

 農業学校の試験は午前中が漢字の書き取りと、分数少数の四則計算に歩合算で、心配していた鶴亀算や植木算は出なかった。午後は面接で、農家でもないのに何故志願するのかと訊かれた。お寺の仕事をするには農家の仕事をよく知っていなければならないからだと答えた。経験はあるかと訊かれたので一通りはあると答えた。事実、家の周りの空き地にはジャガイモや玉蜀黍、大豆、きゅうり、茄子、トマト、南瓜、大根などを作っていた。間もなく合格通知が来た。

 

 四月になったある朝、本坊の伊平さんが来て、いきなり、

「本量さんが土手に」といった。ただならない雰囲気にわたしはすぐに着替えると、伊平さんの後に続いて駆けた。大きな欅の木の前を通り、桑畑を抜けた。他にも何人かが駆けていた。土手が見え、道端には切石が沢山積み上げてあった。土手に上がった。新しく盛り土した堤防が緩やかな曲線を描いていた。

「あそこだ」誰かが叫んで、盛り土した下の方に走り出した。

 石を積み上げるために掘った溝の中に本量さんはいた。白衣を着て、手に数珠を掛け、正座して合掌していた。

「息をしていねえ、死んでいなさる」鼻の所に手をやった男の人がいった。

「さっきまではお念仏を唱えていなしたのに」見覚えのある法然庵の近所の女の人がいった。

「おめさんが見つけただわな」と男の人。

「とうちゃんに今日出れねえから代わりに出ろっていわれて、わしに出来る仕事かどうか見に来ただがさ。いっくら呼んでもお念仏いってなさるだけで、とにかくみんなに知らせなくっちゃと思って。どうやってここまで来なしただかなあ」

「人身御供になりに来なしただわ」誰かがいった。

「なーんまーんだーぶー」一人がいうと一斉にお念仏になった。

「なーんまーんだーぶー、なーんまーんだーぶー、なーんまーんだーぶー」お念仏が続いているとき雲が切れて突然朝日が本量さんの背中に当たり、影絵のようになった。

「西向いていなさるだなあ、西方浄土だから」と誰かがいった。みんなに押し出される形でわたしが一番前に出た。本量さんは痩せて細い顔になって、かすかに微笑んでいるようだった。重誓偈を上げようとしたが、本量さんに習ったお経だと思うと急に込み上げるものがあってすぐには声にならなかった。眼を閉じて深呼吸した。上げ終わったとき、サーベルをガチャガチャいわせて駐在さんが自転車で到着した。

 

 ある日記を参考にした。ただし以後の日記は記述が簡単で、工事が完成するまでに死者が出なかったのかどうか分からない。村史には重傷者が数名出たとある。生死は不明。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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崎村 裕

サキムラ ユタカ
さきむら ゆたか 作家 1937年 長野市に生まれる。「煩悩」で第21回日本文藝大賞自伝小説賞受賞。

掲載作は2004(平成16)年11月「構想」37号に初出。