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鉄の警棒

 西条等は六十年安保回顧展が吉祥寺駅前のビルの一室で行われるというので出かけた。学校の教室の半分ほどの部屋で六十前後の女性が一人で受付をしていた。立看板の下に「六十年安保を記録する会」とあった。五月二十日午前零時五分、警官隊を導入して清瀬一郎衆議院議長が安保条約を強行採決した瞬間や、アイゼンハウアー米大統領の訪日の下検分のため来日した秘書ハガチーの車を取り囲んだデモ隊の写真、六月十五日国会構内に突入した学生たちに警棒を振り上げて襲いかかる警官隊と、逃げる学生の凄惨な写真、そのとき殺された樺美智子の写真など、写真が主だったが、投石を受けて凹んだ警官のヘルメットなどもあった。それらの中にそのとき用いられた警棒の実物があった。長さと太さは普通の警棒だが木の木目が剥げて何箇所か黒い鉄の部分が出ていた。西条はその警棒に吸い寄せられるように長い間見つめていた。

 西条等が山根加津子を知ったのは街の読書会のときだった。電車通り沿いの臼田時計店の二階の八畳間が会場で、二週間に一回、夜七時から大体、六、七人が集まって、マルクスの「賃金、価格および利潤」を読んでいた。チュウターは持ち回りで、一回に四ページくらい読んできて、内容の説明と解説をして皆から質問を受けるという形式だった。参加者は西条など学生が三人と、市役所や市内の企業に勤めている人が四、五人だった。三回に二回は大学の川辺先生が来た。先生の専門は哲学だったが、経済学にも造詣が深く、話は分かりやすく、面白いので、先生の魅力で会が成立しているようなところもあった。

 第六章価値と労働、を読んでいたとき、商品の価値、価格とはなにか、が議論になった。

 「商品の価値ってのは、それをつくるのに費やされた人間の労働だってことは分かりましたが、それだけなのでしょうか。私は乳業会社に勤めていますが、会社は農家から牛乳を買ってきて、それを商品としての牛乳やバターやチーズにしています。牛は高価な飼料も食べますが、牧場で草も食べます。農家から買う牛乳の価格は、それをつくるのに費やされた人間の労働だけなのか、それとも牛も労働しているって考えるのでしょうか」と、眼鏡をかけた、丸顔の、幾分小太り、といった感じの山根加津子が発言した。すぐに、  

 「それはさ、牛が労働するってのはおかしいな、牛が乳を出しやすいように、毎朝、毎晩、牛舎から牧場へ連れていって帰ったりさ、病気にならないように小屋を掃除をしたり、まあそういう労働かなあ」と学生の一人、哲学専攻の上村公夫がいったが自信がなさそうだった。それから数人が発言したが、単にそれぞれの感想を喋ったに過ぎなかった。

 「わたしは牛も労働してるんだと思いますね。草から牛乳をつくることは今の技術では出来ませんね。将来もまあ不可能かも知れません。それを牛はやっているんですから立派な労働ですよ」時計屋の主人の臼田さんがいった。臼田さんは耳のあたりから頭のてっぺんに毛があるだけで、あとはきれいに禿げ上がっている。

 「先生、どうなんでしょうかねえ」司会役の綿田がいった。綿田はその年の春卒業して長野県の南の端の町の高校の教員をしていたが、たまたま休みで来ていたのだ。

 「そうですね、価格には生産価格と市場価格がありますが、市場価格というのは生産価格を中心としてですが主として需要と供給によって決まる価格ですね。農家から買う牛乳は原料というものだと考えてみますと、原料の生産価格もここでマルクスがいっているようにそれを手に入れるのに必要な人間の労働の量だということになります。しかし原料のなかには生産に要する労働が非常に少ないものもあります。たとえば山奥に行って金塊を見つけたとします。金塊を見つけるのにかかった労働は山を歩いたくらいだからたいしたことはないですね。だからといって金塊がただ同然ということはありません。拾ったものと盗んできたものは生産価格はただみたいなものですが、需要と供給の市場価格で取引されますからぼろ儲け出来るわけです。資本主義の成立期には、例えば、イギリスやオランダはインドで取れた胡椒を極端な安値で大量に手に入れて、ヨーロッパで高く売って莫大な富を手に入れました。、イギリスはまたインドのただ同然のアヘンを中国へ持っていって中毒患者を大量につくりだし、禁断症状の中毒者にさらに高値で売り付けるといったやり方で巨万の富を築きました。中国がアヘンの持ち込みは止めてもらいたいとイギリスにいい、始まったのがアヘン戦争です。中国はこの戦争に負けたのでもう踏んだり蹴ったりです。こういう富を土台に産業革命が進行したのですね。牛乳の場合も原料の一種のように考えられ、この理屈の逆で生産価格がはっきりしないという理由で、市場価格だけで取引されているようです。牛が労働しているということではないですね。だから農家は、もともとれないと泣くような結果になるんだと思いますよ」川辺先生は一言一言ゆっくりと喋った。先生は訥弁だという人もいたが、西条は先生の話しかたになれてしまったせいか、心のリズムと共鳴するように素直に納得できるのだった。

 帰りは川辺先生と綿田が一緒だった。綿田は先生のところに泊まるらしい。

 「山根加津子さんはなかなか頭のいい人ですね。五人きょうだいの二番目だそうですが、兄が早く亡くなり、弟や妹の面倒をみなければならないので、高校だけで就職したらしいですよ。高校の先生がもったいないから大学へ行けと何度も家庭訪問にきたそうですがね」

 「どういう家庭なんですか」綿田がいった。

 「箪笥とか、そういう家具をつくる指物師っていうんですか、お父さんはそれでやってきたようですが、今は大量生産の大手に圧迫されて苦しいらしいんですね。それから数年前にお母さんが亡くなって、加津子さんはお母さん役もやってきたようですよ」

 「先生はどこからそういう情報を得るんですか」西条がいった。

 「それは哲学ってのは人間に対する興味が第一だから」綿田が口をはさんだ。

 「大学、高校懇談会というのがありましてね、その席にいた先生が山根さんのことをよく知っていたんですよ。国立のかなりの難関校にも受かるだけの力があったようなことをいっていましたね」

 ちょうどそのとき大学の正門前に来た。西条は二人と別れ、大学の暗い構内を歩いた。通路の上に太いヒマラヤ杉の枝が覆い、ただでさえ暗い夜を一層暗くしていた。ところどころに街灯がありその回りだけが明るくなっていた。ヒマラヤ杉の林を抜けると、今度は落葉した太い欅の木が何本もある欅の森にでる。そして寮の入り口を左に曲がる。寮には大学一年の秋から翌年の四月まで入っていた。寮は別に嫌ではなかったが、近代文学研究会というサークルに入り小説を書くことにしたことと、経済状態が好転したことが寮を出た理由だった。大学の構内の外は高校の敷地で、その高校の裏の家の二階に西条は住んでいた。 

 家主は昔小学校の教師をしていた七十歳くらいのお婆さんで、毎年十一月の終りから四月の初めまで東京の一人息子のところに行くので今は留守である。お婆さんの代わりは下の八畳間に小学生の一人娘と間借りしている熊井さんの奥さんがしている。熊井さんの亭主は山の中の小学校の校長先生で土曜日の夕方帰り、月曜日の早朝出かけていく。本当は校長住宅に入るべきなのだが、娘の教育のため不便な生活をしているのだという。娘はピアノを習っていて、朝夕玄関の横に置いてあるピアノを弾いている。

 玄関はお婆さんがいないときはほとんど閉切りにしてあるので裏にまわり廊下のガラス戸を開けて入る。ガラス戸は下の戸車が陥没して機能していないので重い。 「西条さん、鍵を忘れないでね」熊井さんの声がした。

 急な階段を上った左手の北向きの六畳間が西条の部屋だ。北向でも東側の階段の上の窓からは朝日が入るし、南側も廊下の上に窓がある。その右、つまり南西に四畳半があるが、ここは空き部屋である。

 壁のスイッチを押して電灯を点ける。カーテンが開いたままなので慌てて閉める。机の上には原稿用紙と英語の本と辞書が広げられたままになっている。卒論を書いているのだが、途中で思考が空転して先に進まないのだ。「エドガー・アラン・ポーと象徴主義、及びフランスのレジスタン文学について」というのだが、担当の角田先生に、

 「ほう、途方もない大テーマだね」といわれてまず出鼻をくじかれた。

 「はあ、もっとテーマを絞った方がいいでしょうか」というと、

 「いや、君が書くんだから、君の好きでいいけど」ということだった。

 何を述べたいか、という前書きと、全体の要約は英語で書かなければならないが、本文は日本語でいいのだった。

 あとで、川辺先生から、角田先生が、

 「田舎の大学の学生は自分の実力も知らないで、テーマばかり大きくて困る」といっているという話を聞いた。

 ポーはその詩論が象徴主義と関係があるのだが、まず翻訳を読んでから原文にあたる。ポーの英語は単語が難しい上、文も長いし、西条の英語力も不足しているので、この方法しかないのだ。西条は机の前に座ったが、本を読む気力が出ないので畳にひっくりかえった。

 山根加津子は西条より一つ年上らしい。前回の読書会のあと、山根加津子が、

 「どんなことを勉強しているんですか」と訊いた。突然の質問にまごついたが、しばらく考えてから、

 「フランスのルイ・アラゴンとかポール・エリュアールとかナチスドイツに対する抵抗運動に加ったんですが、象徴主義という文学運動からでてきたひとたちなんですね。抵抗運動を通じて社会主義リアリズムという方向にいくんですが、象徴主義の元祖は推理小説の元祖ともいわれているアメリカのエドガー・アラン・ポーなんです。それでそれらがどういう関係にあるかを」といいかけて、これほどの大テーマをフランス語は片言程度、英語だってろくにわからないし、象徴主義の理解もおぼつかない人間にできるはずがないという気がしてきた。

 「いや、だけど駄目なんです。力がないから、もっと小さなテーマにしたほうがいいかなあ」

 「いいじゃないの、若いうちは気宇壮大でなくちゃ」といった。

 眼鏡をかけているとなんとか女史のようだが、はずすと、大きな眼がよく動いた。

 論文の提出期限は一月三十一日、日本文は四百字詰で五十枚から百枚まで、英文は、四百字詰一マス二字程度で八枚から十枚ということになっていた。一説によると、以前はすべて英文というきまりだったが、次第にその英文が何をいっているのか分らなくなり、読むのにとても骨がおれるので、日本文でもいいことになったのだという。十二月に入っても西条はまだ一行も書いていなかった。そして読書会の日になった。出席すると山根加津子のことで心が占められて論文は遠ざかってしまいそうなので、欠席しようと思っていた。

 夕方、五時過ぎに学生食堂に行き、テーブルに座ると上村が来た。

 「いやー、今日は夕方から寒くなったなあ。どうだ、論文のほうは進んでおるか」 「いや、まだぜんぜんだ」

 「西条は手回しがいいから半分くらい書いたのとちがうか」

 「一行も書いてないよ」。

 「それはそうと、就職のほうはどうだ、教員一本でいくんか」

 「まあ、そういうことだな」

 「新聞関係は止めたんか」 

 「うん」

 「ちょこちょこと、まあ、よく変わる男だなあ」

 「それより今日の読書会は行くのか」と西条がいった。

 「ああ、、例の読書会だったな、家庭教師の日がずれてな、行かれんのだわ。山根さんに会えんのが残念だが、西条は行くんか、うん、山根さんに会えて羨やましいのう。まあ、宜しくいっといてくれや」

 上村は一人で喋り納得して出ていった。上村は兵庫県から信州にきた変わり種だが、慇懃無礼というか、西条はどうも波長が合わなかった。部屋に帰ったが本を読む気が起こらない。どうせ何も出来ないなら読書会に行こうかと思ったが、欠席と一度決心したのを簡単に変えるのもふがいない気がした。そこで銭湯に行くことにした。が、心のどこかでまだ六時十分前だから、銭湯から帰っても読書会には間に合うと計算していた。

 銭湯は歩いて三分ほどで、夕食どきのためか割合すいていた。父親に連れられた小さな子供たちが何人もいた。男の子も女の子もいた。西条の眼は、そこに陰圧が働いているように女の子の可愛らしい性器に吸い寄せられた。西条は両親が早く亡くなり叔母に育てられ、子供の頃、叔母の一人娘の六つ年上の従姉と三人で暮らした。叔母とも従姉とも一緒に風呂にも入ったが、そういう意識がなかったためか、これといった記憶はない。もっとも大人の女性のそこは陰毛に覆われている。高校のころは、風呂はもちろん一人だった。むろん、大人の女性の性器を見たことはない。が、当然というべきか興味があった。それで、書店で医学書の立ち読みをし、性器は大陰唇のなかに小陰唇があり、そのなかは先端にクリトリスがあり、後のほうに尿道口と膣口があることを知った。しかしモノクロの写真ではイメージがつかめず、後は想像力で補うしかなかった。

 髪を洗い髭も当たったのでさっぱりした。六時四十分に部屋に戻ったが、案の定というか落ち着かないので読書会に行くことにした。このまえは、川辺先生や綿田と一緒だったので歩いたが、その春卒業した友人から譲り受けた古い自転車に乗った。読書会は学生は西条だけで、臼田さんを入れても四人、川辺先生は欠席、それに肝心の山根加津子が来ていなかった。西条は加津子が欠席なのかどうかを臼田さんに訊きたい衝動を抑えていた。

 「山根さんは少し遅れるそうです」臼田さんがそういう気持を忖度するように西条の方を向いていった。

 「会社で経理をやっている上、労働組合の役員もやっているので忙しいんですな」 「そうですか」西条は平気な顔で答えたつもりだったが、顔に血が上るのが分かったので横を向いた。

 「今日は山根さんの当番ですから」臼田さんが付け加えた。

 そうか、それは忘れていた、と思った。

 加津子は二十分ほど遅れてきた。化粧がいいのかこの前よりも綺麗に見えた。口紅も明らかにつけている。今回は次の「労働力」というところだった。労働力の価値、つまり労働力を生産するのに必要な価格は衣食住の価格、すなわち生活費のことだと皆は割と素直に理解出来た。あまり面倒な質問も出ず一時間ほどで散会になった。

 店のガラスケースの横が玄関を兼ねていたが、加津子が横にきたので、お茶でも、といおうと思ったが生唾ばかり出て、言葉にならない。道路に出てしまえば、帰る方向は逆なので終りだ。ガラス戸を閉めたときやっと声になったが、

 「あのう」といっただけだった。

 「なに」山根加津子は西条を見た。なんとなく笑っているようだった。

 「お茶、お茶は」頭が熱くなりまごついた。

 「ああ、喫茶店ね、行きましょう。五、六分かかるけどマリモはどうかしら」

 「いいです」重石が一挙にとれた感じがした。と同時に、加津子はよくマリモに行くのだと思った。

 加津子はそこにあった自転車を動かした。一緒に西条は歩き出した。自転車はあとで取りにくればいい。

 「川辺先生は今日はどうしたのかな」西条はなにか喋らなければ、と思った。  「ああ、そうね、先生がいなくてもちゃんと出来たじゃない。先生は家庭もあるんだし」

 「家庭がどうとかで休むことはないと思います。来客があったとか、別ななにかがあったのかなと思って」本当はそんなことはどうでもよかったのだが、言葉だけが出てきた。

 「ねえ、西条さん四年生だから、就職するんでしょう。どんなところへ行くの」 「まあ教員ですね、教員にしかなれないようですから。でもまだ分からないんです」

 「教員しか、ということはないでしょう。しゅんじゅうに富んでいるんだから」 「しゅんじゅうですか」

 「春、秋って書く春秋」

 「ああ、その春秋ね」

 西条は家庭事情を話さなければならないと思うと胸が苦しくなった。両親も実の兄弟姉妹もいないということがコンプレックスになっていた。

 「話を聞いて、変な眼でみる人は必ずいるでしょう。しかし、大事なのはそういう眼を気にしなくなる自分をつくることです」という川辺先生の声が蘇った。

 「新聞社とか放送関係とか受けようと思って求人案内を見たんですが、父親とか家族の収入という書き込み欄があるんですね。それから会社に損害を与えたときの弁済能力という欄もあるんです。ぼくは両親もきょうだいもないんです。だから収入もないし、諦めたんです」

 マリモは民芸調の喫茶店で木の椅子に座布団が置いてあった。隅のテーブルに四人の客がいただけだった。川の見える窓際の席についた。

 「家庭の事情で教員にしかなれないということね。西条さんも苦労したのね」

 「山根さんほどじゃありませんが、教員は家族調べも、収入調査もありませんから」苦労した、といわれるとつい反発したくなるのだ。

 「私は弟や妹が多いからね。それで教員の方はどうなの」

 「七月に教員採用候補者試験を受けて、Dは不合格ですが、ABCは一応合格で人事異動が終わった後の穴を、たとえば英語の教員でバスケットの指導が出来るものといった条件で埋めていくんです。ぼくはBでしたが、採用されるとしてもわかるのは三月ですね」

 「何処らへんになるのかしら」

 「分かりません。長野県内は確かですが」

 「もし駄目だったら」

 「どんな条件でもあるところへ行くしかないですね。大学に研究生ということで残る人もいますが、ぼくの場合は奨学金はうち切られてしまいますし、アルバイトだけで生活しなければならないから」

 「私も労働組合の仕事をしてるんだけど、専従にならないかっていわれているのよ。専従になると東京へいくことになるから迷ってるんだけど」

 「今のところで専従はないんですか」

 「松本は専従は一人だから、東京の本部が足りないのね」

 「山根さんが東京へいってしまえば会えなくなりますね」

 加津子は西条をじっと見た。眼鏡が光って眼の表情は読み取れない。

 「西条さんだって何処へ行くか分からないんでしょう」

 西条は急に胸が詰った。やっと、

 「ぼくの場合は県内ですから、休みの日には来れます」といった。

 「そうね、私の場合も今すぐっていうわけでもないし。早くて来年の六月頃かしら」

 そのとき、先に来ていた四人の客が一斉に店を出ていった。

 「そろそろ、閉店ですが」ウエイトレスがいった。

 「明日の晩、またここで会っていただけますか」という言葉が素直にでた。加津子は決して断らないだろうという確信のようなものが湧いたからだった。

 「明日は会議があるから駄目、あさってならいい」といった。

 翌日の午後の三コマ目の授業は川辺先生の外書購読だった。受講生は西条と上村公夫と経済学科の志摩崇で、ドイツ語より英語のほうが必要だろうということで資本論を英語版で読んでいた。上村が欠席だったので、先生も入れて三人だった。

 終了後、短大前の喫茶店に行った。授業の後、喫茶店か先生の家に行き、さらに延々と講義が続くことが多かった。ただし、教室と違いリラックスした気分なので、遠慮のない質問が出来た。大学前の店は大学生が大勢来るが、こちらはすいている上に大学生は少なかった。

 「上村君はどんなところに就職するんですか」西条がいった。中央の新聞社や雑誌社をいくつも受けたらしいがどうも全部落ちたらしい。教員のようなうじうじした職業にはつかないと明言していたので一体どうするのか、と思っていた。

 「それですがねえ、先日、教員になりたいが、単位がなんとかならないか、といって現れたんですよ。上村君は教職の単位をとってないんですね。ぼくの力ではどうにもならないので聴講生になって単位を取るしかないだろうっていっておきましたがねえ。それはまあいいんですが、教員のような偽善者的仕事はしないって常々いっていましたので、どうして急に意見が変わったのかって訊いたんですよ。まあ、新聞社や雑誌社が全部駄目だったのでそういう意味では分かりますがね。仮にも、思想や哲学を勉強しようという人ですから内面的にどうなったのかということです。するとですねえ、突然、新聞は権力におもねるような記事を書いたり、ときの政府を擁護したり民衆を惑わす役割ばかりしてきたっていうんですよ。太平洋戦争中は軍部の提灯持ちの記事ばかり書いて国民を欺いてきた。そう考えるとやはり教員は真実を生徒に教えることができるから革命に貢献できるっていうんです。いくつも試験を受けているうちに分かってきたっていうんです。どうして分かってきたか、と訊くと、一緒に受験した人は皆、有利な就職ということばかりでジャーナリストの気概を持っていないというんですね。一体何人と話したのかというと二人だというんです。二人を皆というのはおかしいじゃないかといったんですがね。次に教師は偽善的仕事ではなかったのかと、と訊いたんです。すると教師は聖職ってことを馬鹿にしていたが、やはり授業は相手は生徒だけだし、その白紙のような心に命を吹き込む大変な仕事だと気がついたというんです。それから新聞は駄目だ、教師は素晴らしいということを一時間も喋って帰ったんですがね。彼の自我というものはどうなっているのか不思議に思いましたよ。一種の封建的メンタリテイーだと思いましたが、上村君はかなり珍しい」

 西条は食堂で、よく志望が変わる、といわれたのが浮かび、あれは上村自身のことをいっていたのだと思った。

 志摩は三年生で就職は当初企業志望だったが、川辺先生との交際のなかで、企業へ勤めるのは資本主義の召使になるだけではないかと考え、先生に相談したが、資本の現場というのは道徳的な善悪ではなく、資本の運動法則によって必然的にもたらされる現実があり、就職はそういう現実を肌で体験することになる、といわれ、やはり企業に就職しようと考え直していた。志摩は経済学の羽田先生の専攻であるシュンペイターの修正資本主義について質問した。

 マリモには七時五分前に着いた。時間が早いためか混雑していて、窓際の席は塞がっていたので、壁際の二人席に着いた。絶えず入り口を注意していたが、加津子は七時二十分になっても現れなかった。

 「ごめんね、遅くなって」加津子が周囲を見ながら入ってきたのは七時半だった。 「なにか食べるものとってもいいかしら。十二月は決算でしょう。大変なのよ」 加津子は座るなりいった。

 「夕食まだなんですか」

 「そう、おなか空いちゃって」加津子はスパゲッテイをとり、西条はコーヒーを飲んだ。

 「経理って何人いるんですか」

 「四人だけど、手が足りないのね。最後は税理士に見てもらうんだけど、私に税理士の資格を取れっていうのよ。税理士に払う謝礼が勿体ないっていうんだけど」 「それって、一種の合理化じゃないですか」

 「それはそうなんだけど、税理士の資格とれば独立できるじゃない」

 「難しいんでしょう」

 「公認会計士に比べればずっと楽らしいけど。それにふだんやってる仕事の延長みたいな感じもあるし。それはそれとして、西条さん、両親が死んじゃたって、どうやって大きくなったの。小学生のころから働いて、なんてことはないでしょう」 「まさか、叔母にみてもらったんです」といったが、詳しいことをいうのは面倒な気がした。

 「ふーん、叔母さんが来てくれたんだ。優しい叔母さんだったんだ」

 「そうでもないけど。姉さんといっていましたが、ぼくより六つ上の娘もいましたし。もう結婚しましたが」

 「わかった。自分の娘と差別したってことね」

 「まあ、そんなところです」

 「家はどんな家だったの」

 「小さな寺ですが、大きな寺に付属しているんで固有の檀家がないんです。松本あたりではあまり無いようですが、普通は付属している寺が二軒以上あって、檀家の半分とか三分の一とかを直接掌握していて、小さな法事なんかは付属寺だけで済ませてしまうんですね。ところが付属寺が一軒だと本寺と檀家の取り合いになります。本寺のほうは檀家はすべてうちのほうだと主張します。すると付属寺は檀家は一軒もないことになって生活できなくなります。父の在世中は運がよくというか、本寺にお坊さんがいなかったんですね。本寺の坊さんはお寺なんて嫌だ、といって京都だか名古屋へ行ってしまったんです。それで父が本寺のお坊さんを兼ねていたんです。父が死んだあと、本寺のお坊さんは帰ってきたんですが間もなく結核で亡くなったんです。それで本寺の縁続きの年寄りのお坊さんがきて代務住職になったんですが、戦争、終戦、戦後の混乱と続いてお寺は二軒はいらないという意見が多くなっているのが現状ですね」最初はなかなか言葉が出てこなかったが、話しているうちに次第に落ち着いてきた。

 「それで、お寺は結局どうなるの」

 「いずれ、廃寺にするってことですが、叔母が生きているうちは」

 姉は養子縁組という形で結婚して出ていったが、叔母は残った。娘夫婦と一緒に暮らすよりもお寺にいたほうが気楽なのだ。

 外に出て自転車を押しながら話した。十二月にしては暖かい日でジャンパーを着ていると汗ばんだ。

 「西条さんは孤児だといっているけど、しがらみはあるんだ」

 行く先のあてがなく歩いているうちに繁華街に出てしまった。バーとか赤提灯が軒を並べているが、酒を飲むだけの持ち合わせがなかった。 

 「時間はいいんですか」

 「私はいいけど、夜遅いのは慣れているから」

 ふと、今夜は熊井さん親子は校長住宅に出かけて留守なのを思いだした。

 「ぼくの部屋へ行ってみますか、散らかっていますが」というと、

 「そうね、見てみたいな」という。

 西条は二年前に恋愛めいた体験をした。相手は長野市の短大の学生で乗鞍山麓で行われたキャンプの際知り合った。小麦色の肌でよく喋り、動き、どことなくユーモラスな感じがあり、西条は一眼見て惹かれたのだが、キャンプが終わってみると別世界の出来事だったようで忘れていた。ところがある日突然手紙が来たのである。西条は飛びつくようにして会いに行った。映画を見たり山の中の湖に行ったりして五、六回会ったが、西条が話す文学とかさまざまな社会問題に短大生はほとんど興味を示さなかった。服飾や住居、食物、音楽に興味を持っていた。喫茶店で音楽を聞いているとこれはチェロだ、オーボエだというようなことをいう。何故分かるのかと訊くとテレビを見ているからだという。西条はテレビは電気屋の店頭でしか見たことはなかった。彼女の家には電気冷蔵庫も、ヒルマンとかいう自家用車もあるのだった。バケツで水瓶に水を汲んで落ち葉で飯を炊いている西条の家とは生活のレヴェルが違い過ぎた。結局、キスすることも、手を握ることもなく終わったが、キスの段階までいけば違う展開になっていただろうという友達もいた。

 西条の心臓の鼓動が急に大きくなった。自転車を走らせている間、喉が詰まっている感じだった。

 暗い家の裏のガラス戸の鍵を外して入り、階段の横のスイッチを押すと吹き抜けの天井の裸電球がぼんやりと廊下と階段を照らした。

 「わりといい所に住んでるじゃない」といった。部屋に入り明りを点けた。

・「確かに散らかっている」といいながら加津子は四囲を見回した。布団を敷く空間以外は本や衣類で足の踏み場もない。

 「この本棚は工夫してあるじゃない」西条が製材所で板を五枚買ってきて、まず畳に一枚敷き、その上に雑誌を三か所に積み重ねて板を渡すというふうにして、四段の本棚を作ったのだ。

 「番茶しかないけどお湯でも沸かすか」西条は下へ行って電気ポットに水を汲んできた。加津子が急須に番茶を入れてお湯を注いだ。

 「静かね。家なんか前をバスでもトラックでも通るから凄いわよ」

 お茶を飲み終えたとき、加津子の手を取ると、加津子のほうから身を寄せてきた。唇が眼の前にあり、眼をつむっていた。背中に回した腕に力をこめ唇を合わせると甘酸っぱい匂いがし、加津子の体温が伝わった。しかし合わせているだけで、それ以上どうすればいいのかお互いに知らなかった。  

 二週間後の日曜日の午後、西条と加津子は美ヶ原の下に二軒だけある旅館の一軒の玄関に立っていた。

 「いらっしゃいませ」仲居さんが丁寧に頭を下げた。仲居さんの後について廊下を歩いていると、頭がくらくらとして足元がふらついた。加津子はしっかりとした足取りで先に歩いて行く。加津子が予約しておいたのだ。広縁の間のガラス戸の先に庭の見える六畳間に通された。半間の床の間と一間の押入があり、中央に炬燵が作られていた。仲居さんが持って来たお茶を加津子が慣れた手つきで入れた。これまでの誰とも違う、西条だけのために入れている手つきで、くすぐったいような胸のあたりが熱くなるような気分だった。それから抱き合って長い間接吻をした。唇を合わせながら、唇を動かすことをいつか体得していた。

 「それにしても寒いわね」加津子がいった。曇り空で今にも雪が降り出しそうだった。暖房は炬燵だけなので肩のあたりが冷えている。

 「布団を敷きましょう」加津子は押入を開けた。襖には施錠がしてある。敷布団にシーツを敷き、毛布と掛け布団を載せた。

 「ちょっと後ろ向いていて」加津子がいった。何をしているか分かっていたが、振り返る気は起こらなかった。この上なく素直な気持になっていた。

 「いいわよ」加津子は布団に入り首だけ出している。

 「私も見ないから」

 西条は下着だけになって迷ったが、そのまま加津子の横に滑り込んだ。気がつくと加津子の裸の胸が眼の前にあった。何も着ていないのだった。感動に似たものがこみあげて、あわてて下着を取ろうとしたが、

 「いいわよ、あったまってからで」というので、そのまま抱き合って唇を合わせていた。胸の膨らみが下着を通して伝わった。起き上がって下着を脱いでいると、加津子も布団の中で、動いている。眼を向けると、

 「ストッキングを脱いでいるのよ」といった。

 今度は乳房が直接裸の胸にふれた。お椀状に盛り上った乳房の先に小さな乳首がついていた。叔母は夏の暑い時、よく上半身裸になったが、垂れた乳房の先に大きな乳首がついていた。あれは授乳したから大きくなったのだと思った。それを口に銜えて吸った。しかしそれからどうしたらいいのか分らなかった。

 「上に乗ってみて」加津子がいった。加津子の唇が少し遠くなったが思い切り吸った。しかし下のすっかり固くなったものは邪魔者のようで、何処に持っていけばよいのか分からなかった。解剖学書の写真を思い出そうとしたが、ぼやけるだけだった。

 「そこなんだけど」加津子がいって固くなったものを手で誘導しようとしたが、堅固な壁のようで手応えがなかった。

 「少し休みましょう」加津子がいい、横向きになって抱き合った。加津子は西条の頭を撫でていた。

 「眠ろう、少し」耳のところで声がした。

 吹雪の山の中を歩いていた。空と山と大地との区別がない上、東と西も不明だった。西条は子供の頃、正月と盆には檀家をお経を読みに回った。本寺の代僧が行かない遠隔地に行くようにと叔母がいったのだ。なにがしかのお布施を貰ったが叔母はそれが目当てだった。山の中の集落の十軒を回った後、次の目的地までは四キロほどあったが、途中の二キロは畑が少しあるだけで人家が全く無い山の中だった。ここで方角が分からなくなったのである。行けども行けども人家は見えてこない上、次第に道が険しくなり、深い山に入っていくようだった。西条は引き返したが同じ道なのかどうか分からずに途方にくれた。吹雪は止む気配はなく、暗くなりだした。 「どうしたの、うなされてるような声出してたけど」

 気がつくと暖かい床の中で、すぐ前に加津子の胸があった。

 「夢を見ていたもので」

 「どんな夢」

 「吹雪の中で迷った夢」

 「ねえ、ひとし、って呼んでいい」

 「うん」

 「ひとしも苦労したんだ。可愛い人」加津子は痛いくらいに西条を抱き締めた。 「気持がほぐれたのかしら、今度は大丈夫かもしれないわ」

 加津子は西条の手を秘部に誘った。明らかにそこの状態は違っていた。

 「ね」

 「湖のようだ」

 「もう一度上に乗って」

 そう簡単ではなかったが、乾いた壁ではなくぬるま湯に浸した若布の中を泳いでいるようだった。とうとう先端がある一点を捕らえた。間違いなくそこだと全ての感覚が訴えていた。

 「そこよ、そこ押してみて」

 しかしそれ以上先には進まないのだった。

 「もっと強く押して」

 「でも、痛いんじゃない」

 「痛くてもいい、痛いほうがいいの」

 加津子は西条の腰に回した腕に力をこめた。突然、門が開いた感じで一気に吸いこまれた。

 「痛っ」                    

 叫び声に思わず腰を引こうとしたが、それを加津子の手が押しとどめた。

 「そのまま、じっとしていて、大丈夫、もう痛くない」

 しばらく、動かないでいた。

 「重いんじゃない」

 「重いほうがいい、とっても気持よくなってきた。少し動かしてみて」

 腰を引き、また前進した。突然激しい快感が電流のように脊髄を走った。

 「しちゃう」

 「抜かないでそのままして」加津子の手が強く尻のあたりを抱きしめた。

 全身の痙攣が収まってきたとき、加津子のそこが強く西条のものを締めつけ、緩み、また締めつけた。それはこれまで経験したことのない甘美な感覚だった。

 気がつくと加津子は軽い寝息をたてていた。横になろうとしたが、加津子の手が腰から離れないので、一つになったまま横になった。

 「何か夢をみていた」

 「あれ、私眠ったのかしら。何かふわふわした中にいたような」

 再び長いくちずけをしてから仰向になった。

 「論文のほう進んでいる」

 「まだ書いてないけど、内容を縮小したからなんとかなると思う。それより中へしちゃったけど大丈夫かな」

 「いいの、好きな人の子供を生みたいって思うことがあるのよ。感覚みたいなものかな」

 「ええ?」

 「もしできたら生むと思うな、ひとしの子だから」

 「東京へ行く件はどうなったの」

 「うん、まだ迷っているんだけど。妹が東京で就職しているし、弟は東京の大学へ行ってるし、妹と一緒に暮らせば生活費も安くすむでしょう。東京は物価手当てがつくからお給料はいいのよ」

 「お父さんは一人になっちゃうんじゃないの」

 「末の妹が高三なんだけど医者になりたいっていってるのよ。だったらここの医学部にしなさいっていってるの。私立なんか出せっこないし。だけど点数が足りないかもしれないのね。その場合は西条さんの学部の自然科学科に入って編入試験受けるっていうのね。どっちみちここから離れないから」

 「お金を稼ぐのは女性二人のわけね」

 「弟は昼も夜も授業やってる昼夜開講制っていうのかな、そこへ行ってるから、一切自分で賄っているのね、だから全然お金は出していないの」

 「すると妹さんの学費だけか、国立だから授業料は九千円だし、医学部は実習費があり、参考書代が高いらしいが」

 「妹だって家庭教師ぐらいやるでしょう。だけど専従の話にのらなければ経理で東京か大阪へ転勤だっていうのよ。そろそろ結婚でもして辞めろっていう信号なのね」

 「結婚か」

 西条が仮にうまく就職出来たとしても、初任給は一万円くらいで、一人で生活するのに精一杯である。

 布団を片付け風呂へ行った。十人も入れば一杯になりそうな小さな浴槽だった。白髪の老人が二人入っていたが、二人の視線が気になった。部屋へ戻ったが加津子はまだだった。庭には赤松と灌木が植えられ、雪見灯籠があった。そこに雪が静かに落ち始めていた。午後四時になるところだった。最終のバスは六時だった。

 加津子が髪をタオルで包んで戻って来て、鏡台の前でお化粧をはじめた。それを見ているうちに再び欲求が鋭くなった。後ろに行き肩に手をかけようとしたとき、

 「次のバス四時四十分だったわねえ」といった。

 「最終でいいんじゃないの」

 「そうなんだけど、六時から地区評(労働組合地区評議会)の婦人部の会合があるのよ。休んじゃおうかって思ったんだけど、やっぱり出たほうがいいかなって」 「休んじゃって」

 「でも、休めばかえってひとしのこと分っちゃうような気がして」加津子は西条の顔を見た。鋭くなったものを感じたのかもしれなかった。

 「じゃ、バスの時間まで五目並べやらない。碁盤が押入にあるのよ」といった。 五目並べを三回やったが三回とも負けてしまった。西条は三手か四手先しか読まないが、加津子はもっと先まで読んでいるようだった。論理的というか数学的頭のよさを感じた。

 

 暮れも押しつまってからようやく論文の最初の一章の構想がまとまりまず原稿用紙五枚ほど書いた。正月になると一日二日は本寺の代僧と檀家回りをし、三日から五日までは毎年行っている遠隔地の檀家まわりをしなければならない。遠隔地は本寺が回ってないことを叔母が確かめ、小学校五年生のときから西条に回らせていたが、最初、代僧はいい顔をしなかった。しかし、いつか黙認という形になり、さらに本寺の年始の品である割り箸などを持参するようになっていた。

 二十八日に二十枚まで書いたところで帰宅した。加津子には二度喫茶店マリモで会っただけだった。

 「論文が出来たらまた何処かへ行きましょう」といった。

 六日に松本に戻り、豆炭炬燵だけの暖房で論文に没頭した。ポーの詩論の説明だけで一週間に四十枚書いた。次はポーがボードレールに与えた影響だったが、ここは難しすぎるので後回しにし、十九世紀フランスの自然主義が社会主義リアリズムに与えた影響についての文献を読んだ。その間に一度短大前の喫茶店で加津子に会った。

 「論文のほうどう」

 「まあ、半分近く書いたから。それより東京の話しはどうなった」

 「結局行くことにした。だって、断れば経理のほうで大阪へ転勤だっていうんだもの。大阪よりもまだ東京のほうが近いし」

 「東京か、会えなくなるな」

 「でも、その気になれば汽車で帰れるから」

 「急行で四時間、鈍行だと七時間だからな」

 「行くとしても六月よ。話は違うけど十六日に岸首相がアメリカに新安保の調印に行くでしょう。今度の安保は、例えば日本の中にあるアメリカ軍の基地が攻撃されたとき自衛隊が動くとか、日本の防衛計画が日本だけで決められなくなったとか前の安保に無かった条項が入っているんだって。それで大変な年になるかもしれないんだって」

 「そういえばそんな記事読んだような気もするな」

 「新聞くらい読まなくっちゃ駄目じゃない」

 「読書会のほうはやってる」

 「この前は剰余価値の生産、というとこやって川辺先生も来て面白かった」

 「どんな話が出たの」

 「うん、まあいろいろだけど、剰余価値を生産しない労働もあるんだって分かったってことかな。商業とかサービス業とか、私の経理なんて仕事もそうなんだ」

 西条はコーヒーを口に運んだ。音楽が大きくなった。ドヴォルザークの新世界をかけていた。

 「今度いつ会える」

 「喫茶店で夜なら空いてさえいればいいけど」加津子はハンドバックからノートを取り出した。

 「それもだけど、この前のような会いかた」

 「そうね、二月の初めの日曜はどう、論文も提出した後だし」一瞬加津子の顔が赤くなったようだった。

 本当は今夜も誘いたかったのだが、熊井さん親子がいるから不可能だ。

 「それまではお預けね」加津子の差し出した手を思わず握った。暖かい手で体温が胸に伝わった。

 「冷たい手ね、でも精神的発汗作用で掌が湿る人は乾くとき熱が奪われるから手が冷たいっていうわ。情熱家なのね」加津子は片方の手で西条の腕を擦った。

 夕食のとき上村が横に来た。

 「どうだ論文のほうは」

 「半分書いたけど」

 「おれは六十枚書いたけど、哲学科で川辺先生の研究室で卒業するのはおれだけらしいんだ。論文を正式に提出すれば江本先生もみるだろう。それで一応下書きということで見て貰えないかといったら、いっそ発表会にしたらっていうことになって、西条にもやって貰らおうってことになったんだ。どうだ」

 西条は哲学科ではないが川辺先生と親しくつきあっているうちに弟子のような感じになってしまった。論文は角田先生に出すが、角田先生とはあまり親しくない。しかし哲学科のもう一人、吉井昌子はどうしたのか。

 「論文がまとまらないんだな、彼女は。それで留年するっていっているらしいんだ。論文も川辺先生が呆れておってのう。下宿の中学三年生の男の子の生活を観察した観察記録みたいなものらしいんだ。それなりには面白いんだが、卒論として認めるのは無理だって」

 結局発表会は二十四日の午後ということになった。

 一週間部屋に籠り切りで自然主義と社会主義リアリズム論を四十枚書き、計八十枚になった。西条の場合は序文と要約を英文で書く課題も残っている。ポーとボードレール、象徴主義、アラゴンなどとの関係は解説書の記述を西条の文章になおしただけだった。

 発表会は川辺先生の研究室で行われ志摩も聞きにきた。最初は上村の発表だった。「ドイツ国民に告ぐ、を中心にしたヨハン・ゴットリープ・フィフィテ」という題だったが、なにかの本から写しただけのような難解な用語が次々に出てきて何をいっているのか分からず、室内の暖房もちょうどよく、ついうとうとした。

 「というわけなんだけど、まだ実は自信が無いんだな、どうだ西条」

 突然、指名されて慌てた。

 「難しい言葉が多すぎて、なんというかなあ」

 「ドイツ国民に告ぐの解説はどうかのう、これは分かるだろう」

 「いや、ちょっと居眠りをしていたもので」

 「人の発表のとき居眠りをしているとは失礼な男だのう」

 「どうですか先生」上村は川辺先生の方を向いた。

 「実践理性の神的権威化ってどういうことですか」川辺先生がいった。

 「えーとですねえ、実践理性を神のように考えるというか、いや、改まって訊かれると、分かったつもりでいても分からなくなっちゃうなあ」

 「そもそも実践理性とはなんですか」

 「純粋理性に対して実践理性ですからまあ実際的な理性といいますか、実際に行動するときに働く理性というような」

 「上村君はカントの演習に出ていましたよねえ。一体何を勉強してたんですか。まず用語の意味を自分で十分理解していないと何事も始まらない。理解するってことは、誰にも理解できる易しい言葉で説明出来るということです」

 先生は、人間の社会には無条件で従わなければならない絶対的な道徳法則があり、この法則を断固実行するのが自由であるが、実践理性とはこの道徳法則に関わる理性であるというような説明をした。

 「いやあ、全く分かっていないことを暴露しちゃったなあ。しかし先生もう時間もありませんしどうしたらいいでしょう」

 「このままだとぼくも認められないし、江本先生には出せませんね。とにかく書きなおしてください。テーマもドイツ国民に告ぐ、だけに絞った方がいいですね。一週間延ばして二月六日にしましょう」といった。

 次に西条が発表した。原稿用紙を読んだだけだったが、川辺先生は、

 「十九世紀のフランスを中心にした自然主義のところは面白いですね」といった。 そのとき志摩が事務室からお茶を運んできた。煎餅が黒塗りの器に盛ってある。 「あの、これよかったら食べてくれということでした」

 「ほう、海苔巻き煎餅か、おれ、実は昼飯食ってないんだ。では早速頂きます」 「上村が昼飯食べないなんて珍しいじゃないか」西条がいった。

 「いや、今日の発表が気になって、原稿に手をいれていたら食欲がなくてのう」 「上村さんは意外に神経質なんですよ」志摩がいった。

 「エミール・ゾラの人間は遺伝と環境によってほとんどが決定されるというのは真理ですね、自由意思が働くのはほんの一割か二割ですよ。スピノザはあらゆるものは必然性の法則によって動いているといっていますがその必然性の法則を認識することが自由だともいっています。つまり遺伝と環境の法則を認識する主体は自由意思によって認識するのですがこの部分が自由なのですね。現代唯物論にも通ずるし実に面白い理論です」川辺先生がお茶を飲みながらいった。

 肝心のところはポーの詩論なので、意外なところを取り上げられた感じだった。 「ほう、西条もなかなかやるじゃないか。しかし英文学なのにフランスというのはどういうことかなあ」上村がいい、西条が黙っていると、

 「ええと、それはそれとしまして、吉井昌子さんはどうなるんですか」と続けた。 「論文は下宿の男の子の観察記録なんですが、母親が朝何回起こしにきたかを、統計にとったり面白いといえば面白いんですが、そこからなにか法則が出てくるわけでもないし、卒論とは認められない、といったんですが、じゃもう一年留年するっていうんです。留年しなくてもまだ一月あるから別なものを書けないかというと、書けないというんです」先生がいった。

 「吉井さんは甘えているんだな。そんなものが卒論になると考えるなんて非常識ですよ。実はぼくはですね、この話を吉井さんから聞きまして、そんなのは卒論にならないといってやったんですが、いいかたが足りなかったのですかねえ」

 「社会心理学や行動心理学ではこういう論文はいくらもありますよ。哲学科は正式には哲学・心理学科だから素材そのものがいけないのではないですがね。学問的方法論がないんですよ」

 「はあ、そうですか。しかしなんだなあ、志摩君は来年だからなんでも川辺先生に相談するといい」上村は恐縮したように肩をすくめた。

 二月にしては暖かな日で快晴だった。もっともこの辺りは太平洋型気候で冬は晴れのことが多い。東京や名古屋が雪のとき同じように降る。この前の宿から八キロほど南のやはり山沿いの宿の一室に午後二時頃着いた。加津子の都合で遅くなったのだ。次の間と床の間と広縁がついた八畳間で日が一杯に射しこんでいた。

 「もったいないような部屋だなあ、高いんじゃない」

 「普通よ、今はオフシーズンだし、それからここ会社のお偉かたがよく使うのよ」加津子は眼鏡を炬燵の上に置いた。

 オーバーコートを衣紋掛けにかけ終った加津子の手を取り、そのまま畳に崩れ落ちた。西条が力を緩めても加津子は背中に回した手を緩めなかった。

 「ごめん下さい」という声にやっと離れた。

 広縁に置かれた椅子に掛けてお茶を飲んだ。ガラス戸の外は枯山水風の壺庭で竹垣があり、その向こう側の松の巨木が枝を張り出していた。竹垣の下には雪が残っていた。

 「こっちへ来て」

 西条は加津子の手を取った。

 「こんなところで駄目よ」といいながら寄ってきて、西条の膝の上にフランネルのスカートに包まれたお尻を乗せた。お尻は意外に大きくかつ重かった。

 「重いでしょう」

 「いや」、といったが間もなく太腿が痛くなってきた。

 「あっちへ行きましょう」加津子は膝から降りて、次の間の押入を開け、炬燵の横の日の当たっているところに布団を敷いた。そのまま抱き合ってくちずけをした。そのうちに、加津子の舌が入ってきた。それを捕らえて絡ませた。それはこれまでにない新鮮な感覚だったが、加津子はどこで覚えたのだろう、と思い、不思議そうな顔をしていると、

 「会社で男の人達が喋っているのを横で聞いていたのよ」といった。

 加津子の顔に斜めに日が当たり、睫がはっきり見えた。西条はブラウスのボタンを外した。加津子は一枚づつ脱ぎ、とうとうブラジャーだけになった。

 「寒くない?」

 「寒くない」

 「それも取って」

 加津子は背中に手を回した。乳房が露になり、その右側に日が当った。この前は布団の中だったのでこれほどはっきりとは見えなかった。

 「おおきなおっぱい」

 「標準より少し小さめかな。銭湯に行くと本当に大きな人がいるわ」

 西条も急いで下着を脱ぎ、加津子の腰に手をかけた。 

 「全部脱いで」

 ガーターを外したり、ストッキングを脱ぐのに手間取った。

 「立って」

 加津子は布団の上に立った。やや太り気味の裸体は豊かだった。成熟した女性の裸体をみるのは初めてだった。背中の産毛が日を受けて金色に光った。加津子は西条の手をとって引き上げた。西条の眼のすぐ下に加津子の頭があった。しっかりと抱き合いくちずけをした。胸の鼓動がはっきりと伝わった。そのまま布団の上に崩れた。十分に濡れており、今度はその場所はすぐに分かったが、やはり簡単ではなかった。ゆっくりと何回か試みた後、

 「あっ」と加津子は短く叫び、その瞬間入っていた。

 「そのまま動かさないでじっとしていて」加津子は手に力をこめた。

 完全に二人は一つになっていた。セックスは存在の根源的な寂しさを救済するが、同時に存在は本質的に孤独なものであることを認識させる、というどこかで読んだ一節が浮かんだ。

 「気持ちよくなってきた。一応あれ用意してきたから」

 「あれって」

 「コンドーさんよ」といって加津子はハンドバックから白っぽいケースを出し、薄いゴムの輪のようなものを出した。

 「女性用もあるけど男性用がずっと簡単らしいから。これどうやるのかしら」

 加津子は巻いてあるゴムをほぐし長くして、西条のものに装着しようとしたがうまくいかない。仕方なく巻き戻そうとしたが簡単ではない。結局使えなくなり、加津子は新しいのを出した。どうもほぐしてはいけないらしい。西条も手に取って調べた。巻いてあるのと反対側を装着して、巻きほぐしていけばいいのだった。

 「分かってみれば簡単ね、でも二人ともはじめてだってことよね」

 「そう」言葉にも興奮して激しく抱き合った。

 終った後も快感が最初のときよりも深く長く続いていた。

 「論文の英語で書く部分どうしたの」

 「自分で書いて川辺先生に見てもらった。かなり直されたな」

 「何から何まで川辺先生ってわけね」

 「結婚しよう」急に加津子がいとおしくなり、これまで十分熟していなかった言葉が突然現実のものとなった。

 「そうね」

 「気のないような返事」

 「私は東京へ行くでしょう、ひとしはとにかく長野県だしどうするのかと思って」 

 「今じゃなくて、二年とか三年とか先、もっと待ってもいい」

 「そうね、事情が変わるかもね。でも心変わりってこともあるから。わたしは大丈夫だけど」

 「ぼくは絶対いい、加津子のほうが心配だな」

 「じゃ約束、指切りもいいけど、そうそう、もう一度入れて。入らないでしょう、柔らかくなってて」

 「そんなことはない、また固くなってきた、ほら」

 「じゃ、入れて」

 今度は内側から引力が働いているかのように素直に吸い込まれた。

 「結婚しよう」

 「うん」

 そして装着しないまま果てた。それから眠くなり、一時間ほど眠った。

 四月二日、長野市から西へバスで五十分ほどの山村の高校に初出勤した。三月の二十二日に翌日面接するから出頭せよ、という電報が学校長から来た。まず県庁の教育委員会に出頭して辞令を貰い、バスに乗った。県道脇、クリーム色の鉄筋コンクリート三階建ての建物が高校の校舎だった。校舎の向こう側、つまり南側には山がほとんど垂直に聳えていた。北側も急傾斜の山で、まさに谷底の地形だった。

 学校長は中背のがっしりとした躯つきの人で頭が大きく、頭頂部がきれいに禿げ上がっていた。宿直室で面接をしたが、まずサークル活動と学生運動の経験を訊いた。西条は近代文学研究会というのに入って小説を書いた、といった。学生委員とわだつみ会の経験もあったが大学の説明会の助言どおり省略した。するとどんな小説を書いたのかという。大学に入る前九か月ほど村役場に勤めた経験を書いたといったが、それには返事をせず次に卒論の内容を説明せよという。西条はエドガー・アラン・ポオーについて話し始めたが、途中でもういいと遮り面接は終った。どうも思想調査ということらしかった。各学年普通科二クラスと農業科、家庭科が一クラスづつの高校だった。

 宿は学校前の旅館だった。旅館といっても普通の泊り客はほとんどなく高校と中学の先生が三人下宿していた。荷物は一旦家に送り、必要なものだけを旅館に送った。

 二日は職員会で全職員の前で紹介された。新卒者は英語と数学、音楽、美術で計四人だった。新任職員を代表して中年の農業の先生が挨拶した。三日が始業式で四日が入学式、五日から授業が始まった。授業は普通科三年生二クラスと一年生一クラスで十五時間、農業科一年生一クラス三時間で計十八時間だった。普通科は大学、短大、看護学校などへの進学希望者が半分くらいいるとのことで、進学向の教科書を使っていた。読本と文法に分かれていたが、三年生の読本はステイーブンソンの「旅はロバを連れて」など原典からの抜粋がほとんどでかなり高度だったが、西条が困ったのは文法で、練習問題の半分くらいが分らなかった。しかし俗に先トラという教師用の指導書があり、なんとか授業を進めたが、質問が来ると立往生だった。「次回までに調べてくる」といったが、毎回「次回まで」というのも余りにもふがいないと考え、なんとかごまかそうとすると必ず泥沼にはまった。もっとも本格的に泥沼状態になったのは七月頃からで、六月までは表面的には平穏な日が続いていた。

 四月十六日に最初の給料を貰い、土曜日の夕方長野市の喫茶店で加津子に会った。加津子は少し痩せたようだった。

 「残業が多い上、組合の会議があるのよ」といった。

 給料袋をそのまま加津子に見せた。一万一千三百十円の本給に住宅手当が若干つき、そこから税金や年金積立、健康保険料などが引かれ、中身は九千円余りである。 「こういうのってわたしが最初に見ちゃいけないんじゃない。まず、仏壇に供えるとか」

 「いいんだよ、だっていずれ結婚するんだもの」

 西条は他人の家にお経をあげに行くが、自分の家の本堂の如来様にお供え物をしたことは長い間なかった。

 西条はそこから引越のとき借りた千円を返した。

 「東京へは何時行くの」

 「六月からだから五月の終りね。そうそう上村さんから就職の挨拶状が来た。東京にいるのね。東京に出てきたらお会いしましょうだって。わたしが東京へ行くってこと知ってるのかしら。ひとしは話してないわよねえ」

 「何もいってないけど」

 上村は二月の中旬、突然「農山漁村文化連合」というところに決まったのだ。  「いやあ、やはり初志貫徹やなあ。ジャーナリズムは諦めておったがのう。まあ、西条も頑張れや」といった。「新しい農業経営」「養蜂家必携」といった本を企画し執筆者を依頼し刊行する仕事だということだった。

 上村は加津子にそれ程関心があるようには見えなかったが、意外に気があったのかもしれないと不安になった。

 「いま、国会で新安保条約が審議されているでしょう。この前話したようにこれは絶対に通しちゃいけないものなのよね。だからここに署名して」

 加津子は署名用紙を取り出した。「日本を再び戦争に巻き込む新日米安全保障条約に反対する」とあり、西条は空欄に名前を書いた。

 「説明文もよく読んで」

 「いいよ、加津子の頼みだから。それより今夜はいいんでしょう」

 「それが駄目なの、明日、東京で組合の各分会の代表者会があるから、一番の急行で行かなければならないのよ」

 全国に五つか六つある工場の組合は分会といい、本部は東京本社にあるという。末の妹は医学部に合格したといった。五月の連休に会う約束をして長野駅で手を握っただけで別れた。

 五月の連休中は加津子の都合がつかなくて、会ったのは二一日の土曜日の夕方だった。男性の中で男性と同じような仕事をしているので気になったが、一週間に一度くる手紙はそういう心配を吹き飛ばした。

 「西条先生には彼女かどうか知らないけどすごく手紙がくるから」と宿のおかみがいった。

 六月からの新住所は調布市でバス、トイレつきの六畳に妹と二人で住む、とあった。西条はいつもすぐに返事を書いた。

 五月二十日、午前零時五分、新安保条約が衆議院で清瀬議長が警官隊を導入し、廊下に座り込んだ社会党議員をゴボウ抜きに排除して、討論なしで強行採決された。

 

国会周辺には安保反対の一万七千人のデモ隊がつめかけている様子を二十日朝のテレビが伝えていた。デモ隊は昼間から夜にかけてさらに増えて十万人になったという。長野駅前の中華料理店で食事をしたがテレビはデモの様子を流し続けていた。 「こんなとき東京へ行って大丈夫かなあ」

 「国会周辺でしょう、調布や府中は関係ないわよ」

 本社と東京工場は府中にあるという。

 「府中や調布って新宿から行くの」

 「八王子で京王線に乗換えれば簡単なのね」加津子は詳しく説明した。

 「何時行くの」

 「三十日の月曜日かな、それまでに荷物を送っておいて、もっとも荷物なんてあまりないけど」

 「じゃ、今日が会える最後ってこと」

 「最後なんていわないでよ、わたしもときどきは帰るし、ひとしが東京に来ればいいんだから」

 その夜は善光寺裏の旅館に泊まった。

 四枚の敷き布団を互い違いに敷いて裸になって抱き合って寝た。夜中に加津子がずいぶん遠くに行ってしまった夢をみて眼を覚まし、となりで寝息をたてているのを確認して安心した。

 朝、眼を覚ますと加津子が薄い緋色の花模様の浴衣姿で鏡台に向かっていた。

 「お風呂に行ってこようと思って」後向きのままいった。

 横座りなので左膝から太腿が露になっていた。前日の疲れはすっかり取れていた。 「ねえ、もう一度布団に入って」

 「駄目よ、もう朝だから」

 西条が手を伸ばして浴衣の裾を引っぱると、太腿はさらに露になった。下に何も着けていないのだった。布団から這い出して腰のあたりを抱くと、上半身が西条の腰の辺に倒れた。浴衣は半分脱げ、加津子の秘部がすぐ眼の前にあった。小陰唇の内部は小豆色をしており、その下にしっとりと湿った鮮やかな桃色の洞窟の入り口が見え、それはなにかの花の芯、たとえば皐月の花のようだった。子供の頃、皐月の花を取って吸うと甘かった。西条は思わず舌の先を触れた。しかしそれは海水のように塩辛かった。気がつくと西条のものも加津子の口の中にあるようだった。が、変にごつごつした感じで必ずしも心地よいものではなかった。

 普通の体位になり、乳首を強く吸った。

 「もうだめ、早く下にも入れて」といった。

 堪えきれなくなり、

 「このままいい」というと

 「待って」といい、慌てて腰を引き、避妊器具をつけた。

 果てたあとも長い間お互いの秘部を愛撫した。

 「もう離れたくない」

 「わたしも」

 「また会えるだろうか」

 「会えるわよ。先生は結構休みがあるでしょう、夏休みとか。ひとしが東京へ出てくればいいのよ」

 「ずいぶん先の話だなあ」

 「我慢して、私も我慢するから、お金はわたしが出してあげる」

 加津子はまた激しいくちずけをした。

 十一時頃長野駅で見送った。加津子は陸橋を上り、向こう側のホームに降り、手を振った。ペイルグリーンのブラウスに薄めの鴇色のスーツが眼に焼ついた。ほどなく間に列車が入って来た。

 その後お元気ですか。三十日に東京に来ました。まず驚いたのは東京は暑いことです。松本はセーターを着ていて丁度いい陽気ですが、こちらは半袖のブラウスでなければ過ごせません。七時四十分に家を出て、二十分ほど電車に乗り会社には八時十分頃着きます。仕事はどうということはありません。今日上村さんが来ました。取材に来たついでに寄ったのだそうです。学生の頃より丸くなった感じで気障りをいうのが少なくなりました。昨日はデモに行ってきました。国会の周辺はすごい人でこの人達が皆安保反対で一致しているのかと思うと感激でした。デモの後、文京公会堂で行われた集会に参加して竹内好という先生の話を聞きました。五月二十日の衆議院での強行採決は民主主義の徹底的な破壊で、いまや安保以前に民主主義の擁護という点で全国民が一致して行動しなければならない、というような話でした。明日はストで国電、都電などがストップします。京王線は動きますが、わたしは組合専従ということで朝国分寺の駅に応援に行きます。ではお会いできる日を楽しみに。   六月三日                 加津子

 今日の日曜日は妹がデイトに行ったので、一人で深大寺に行って来ました。調布市内にあるのですが、少し離れているので行きはバスで帰りは歩いてきました。奈良時代からの古いお寺だそうで、山門などは重要文化財になっているのだそうです。お寺の裏に神代植物公園があります。ここの薔薇は見事で赤、白、黄色、緋色、ピンクなどありとあらゆる種類が咲いていました。家族づれやアベック、老夫婦など沢山の人が散策を楽しんでいました。あの安保反対のすざましい熱気は全く別世界のことのようでした。そういうわたしも人から見れば安穏な一人に見えるだろうと思いました。そのときそうだ、人間にはこの両面が必要なんだ、と気がつき、ふと。小野十三郎という詩人が、動中の静、高速で回転している独楽は静止しているように見えるが、こういうときにこそ詩が書けるといっていたのを思い出しました。いままでのわたしはどちらかといえば安穏のほうにいたのかも知れません。もっと政治ということ、動の方にも向かっていかなければならないということではないかと。今どうすればいいのか分かりませんが、とにかく次のデモに行ってみようと思いました。帰りに深大寺そばを食べてきました。信州そばより旨いということもありませんでした。

 夏休みは何時からですか。今からお会いするのが楽しみです。お金がなかったらいってください。送ります。ではお元気で。

      六月五日                加津子

 今日の午後アメリカ大使館前のデモに行ってきました。アメリカのアイゼンハワー大統領の日本訪問の日程を打ち合わせるためにハガチー新聞係秘書が来るのに抗議するデモでした。六月二日を上回るデモで東京には二十万人以上が集まったそうです。なんでも飛行機から降りたハガチーはすぐ車に乗ったがデモ隊に囲まれ動けなくなりヘリコプターで脱出したのだそうです。わたしのいたところからは見えませんでしたが、六時少し前アメリカ大使館の裏門に車で逃げ込んだのだそうです。 これだけの人間が日本がアメリカの基地になり、アメリカに従属する安保に身を挺して反対していることに感動しましたが、子供のころ祖母に連れられていった天理教の大集会の空気にどこか似ているようにも思いました。皆が一つになっているという感動です。宗教と政治は違うはずだ。どこが違うかということを考えました。デモも宗教の集会も隣の人はどこのどういう人で何を考えているのかも分からなくても成立します。しかし隣の人はどこのどういう人か、何を考えているかお互いに知っていてこそ協力とか連帯が成り立つのではないか。そういうのが政治ではないか、などと考えました。

 とにかく今日は疲れました。ああ、それから今日の午前中にまた上村さんが来ました。やはり取材だそうです。「よく来るんですねえ」というと「ええ、山根さんの顔を見たくてねえ」ですって。

 また書きます。

      六月十日夜               加津子

 六月十五日午後七時頃国会構内に突っ込んだデモ隊と警官隊が激突し警官の暴行により多数の負傷者が出たが、そのなかで東京大学の女子学生、樺美智子が死亡したというニュースが九時のテレビニュースで伝えられた。

 翌十六日、山の中の高校はこの話題でもちきりだった。

 「先生、おれたちこんなふうに普通に授業やっていていいだかい」と三年生の一人がいった。

 「しかしなにをやればいいのか分からない」というと

 「授業をやめて決起集会をやるとかさ」という。

 「集会の目的というかスローガンはなんだろう」

 「安保反対」

 「安保の内容はどんなだろう」

 「おい、安保って何だっけ」

 「警察の暴力反対でいい」

 「あの何だっけ、ああ、樺美智子さんをお悔みする会」

 「授業やりゃいいだ」

 といった調子で結局授業をやった。職員室でも終日この話題でもちきりだった。 翌十七日、十一時過ぎに授業から戻ったとき電話があった。

 「上村だけど元気かやあ。山根加津子さんだけど怪我をして入院したらしいんだ。今朝別の用で山根さんの会社へ電話したら、一昨日例の大デモのときらしいんだけど怪我をしてT病院に入ったっていうから、そこへ電話入れたら外科に確かに入院してるっていうんだな。西条は山根さんと親しかったらしいから、まあ、おれほどではないがな、とにかく連絡したほうがいいと思って」

 西条は電話を聞きながら足が震えた。どういう応対をしたのかも覚えていない。とにかくそれほど重体というわけではなさそうなのでひとまず安心した。そして自分の席にもどるまでの間に、今日は金曜日だから明日土曜日の午後の列車で東京へ行きどこかで一泊して日曜日にT病院に行こうと決めていた。幸い給料はもらったばかりだ。

 十八日の夜西条は上野駅近くの朝食つき一泊五百円の木賃宿に泊り、翌日新橋駅から六月の太陽が照りつける中をT病院まで歩き、十時頃着いた。受付で訊くと昨日の夕方退院したという。東京の地理が分からないので新宿駅まで歩き、京王線で調布に着いたときは一時を過ぎていた。駅前でうどんを食べて一休みした後、町名と番地だけを便りに捜したがこれが大変で三時頃やっと鉄筋コンクリート三階建てのアパートに辿り着いた。部屋は二階だったが留守だった。鍵がかかっていて押しても引いてもびくともしない。とにかく今日中に長野市まで帰らなければ月曜日の授業に間に合わないので、大急ぎで上野駅に戻り、五時過ぎの列車に乗った。上村に連絡して会い、夜行列車に乗る方法もあったのだが思いつかなかった。

 帰るとすぐに松本市の住所に手紙を出したが返事はなかった。上村に電話すると退院して松本の自宅に帰ったらしい、とのことだった。松本の自宅には電話がないので連絡の方法がなかった。電報を打つのもためらわれた。次の日曜日は模擬試験の監督だったので動けず、気になりつつ宿に戻って再度手紙を書き、二十七日朝投函した。二十九日三十日と待ったが返事はなかった。

 七月一日、宿に帰ると山根香代子という人から手紙がきていた。異常な胸騒ぎを覚えつつ部屋に入るとすぐに封を切った。

 前略

 わたしは山根加津子の妹で香代子といいます。姉加津子は六月十五日のデモに行き学生たちに襲いかかった警官隊の暴力に巻き込まれて怪我をして東京の病院に入院しましたが経過がいいというので退院して松本の自宅に帰りました。しかし、翌日また具合が悪くなり市内のM病院に入院しました。それからは病状は悪くなる一方で最後は呼吸不全から意識不明になり六月二十七日午後六時二分に亡くなりました。本日葬儀を済ませ、遺品を整理しておりましたところ貴方様のお手紙が出てきましたので拝見しご連絡申しました。

 生前のご厚誼ありがとうございました

    六月二十九日夜               山根香代子

 七月二日土曜日午後四時松本駅に着き南に二十分ほど歩き、町名と番地と道路沿いの家という条件で捜した。家は簡単に分かった。ガラス戸を開けたところがコンクリートの三和土になっていて左側が障子だった。奥は仕事場になっているようだった。すぐに高校生かと思われるような少女が顔を出した。顔は面長で丸顔の加津子とはあまり似ていなかった。

 障子の内側は十畳間で簡素な祭壇が設けられ加津子の遺影が飾られていた。眼鏡をかけやや横向きに微かにほほ笑んだ写真だった。その下に白い布に包まれた骨箱があった。あの加津子がこんな骨箱に入ってしまうなんて悪い冗談のような気がした。西条は線香に火をつけた。写真は気のせいか幾分やつれて見えた。不思議に涙は出なかった。西条の部屋にやって来たときはもっと丸い顔をしていた。はじめての接吻の感覚が生々しく思い出され、次は読書会で喋っているときの様子が浮かんだ。

 「姉は警察に殺されたんです」後で声がした。

 西条はテーブルを挟んで妹と向かい合った。末の妹の香代子で今春医学部に合格したのだった。

 「昨日までは兄とすぐ上の姉もいましたが帰りました。父はシヨックで寝込んでしまいましたので失礼します。樺美智子さんが亡くなったと伝えられた頃、姉たちは一旦は帰ろうということで何処か近くでテレビを見ながら夕食を食べていたんだそうです。ところが国会正面で抗議集会を開こうとした学生達に再び警官隊が襲いかかり次々と学生が倒れる場面が中継され、薬を集めて助けに行こうということになり現場に行ったんだそうです。しかし、助けるというような状況じゃなくて自分が逃げるのが精一杯で、姉は棒のようなもので頭を殴られ、気がついたら救急車の中だったっていうんです。だれがやったか分かりませんがこれは殺人です。樺さんの死は大きく報じられましたが、姉の死は取り上げられません。わたし悔しくて」妹は声を詰まらせた。

 「何日も経ってから症状が出るんでしょうか」

 「外傷性硬膜下血腫というんで、人によっては一か月も経ってから症状が出ることもあるそうです」

 「ぼくは実はお姉さんと結婚の約束をしていました。とても今はお姉さんの死を受け入れるような気持ちになりません。お骨を分けて頂けないでしょうか。終生のお守りにしたいのです」

 妹はすぐに立ち上がって骨壷を抱えてきた。箱の中の薄青い瓶の蓋を開くと白というより灰色がかった骨がいっぱいに入っていた。五月に会ったばかりの加津子との余りの落差に一瞬くらくらとして眼の前が真白になった。眼を閉じ呼吸を整えると風景が正常に戻った。端にあったお椀状の丸い骨を取った。頭の一部かも知れないし骨盤かもしれなかった。妹が蓋のついた小さな茶褐色の瓶のような容器を持ってきて、白い布で包んでくれた。

 松本駅に着いたとき川辺先生のことが浮かんだ。先生はまだこのことを知らないだろう。しかし、先生を訪ねるにしては西条の心は余りにも重すぎた。列車が動き出したとき布を解き蓋を取った。底に丸い骨が一つあった。そのときはじめて涙が溢れた。涙は際限もなくいつまでも流れつづけた。 

 日米新安全保障条約は六月十八日、自然成立していた。

 (附記)「このとき、警官隊が用いた警棒は、外見を樫製のようにみせかけてつくられた鉄製のものであって、きわめて危険な武器である。これらのうち一本は証拠物件として社会党議員団が保管している」(日本の歴史第九巻 ほるぷ出版)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2001/11/26

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崎村 裕

サキムラ ユタカ
さきむら ゆたか 作家 1937年 長野市に生まれる。「煩悩」で第21回日本文藝大賞自伝小説賞受賞。