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末期の花—美佐乃覚書

  (1)

 それはほんの一瞬だった。美佐乃が布団を敷き終えて、挨拶して立ち上がろうとしたとき、いきなり手を握られたのだった。強い力で、敷いたばかりの布団の上に倒された。

 「困ります」と叫んだが、その口を唇で塞がれ、吸われた。

 「いいだろう、前から好きだったんだよ」真園さんが耳元でいいながら、帯を解きにかかった。

 「私がやります」と、そのとき何故いったか分からない。ちらっと、真園さんは一昨年奥さんを亡くされた、ということが頭を過った。母上様と一粒種のお稚児さんがいらっしゃるというから、女中兼養育係りとしての私ということもありうるかも知れないと思ったが、そのときはもう帯は解かれていた。下紐は簡単にほどけ、襦袢が開かれ、胸が露出した。真園さんが乳首を軽く、しかし執拗にしゃぶると、急速に快感が體を突き抜けた。

 「どうだ、感じてきただろう」といって、今度は腰巻の下に手を入れてきた。

 「お坊さんがそんなことをしていいんですか」というと、真園さんはちょっと笑い、私のその部分に触れながら、

 「わしは得度もしてないし、住職の資格もないから、まあ、お坊さんではないな」といった。

 私は急に力が抜け、むしろ、積極的に真園さんを抱くようにして受け入れた。いつかはこうなるかもしれないという予感はあった。終わったとき、

 「心配するな、わしに考えがある」と呟いた。

 どんな考えか、と聞こうとしたが、全身がけだるく、ことばを出すのが億劫だった。

 身支度をして部屋を出ようとしたとき、真園さんは再び抱き寄せ、接吻した。

 「わしにまかせておけ」といった。

 帳場に戻ると女中頭のお民さんが、

 「何してたのよ」と私を睨んだ。気づかれたのかな、と思ったが、鏡に写った姿は髪も乱れていないし、襟元もちゃんとしていた。

 「千曲のお客さん、お茶を飲みたいっておっしゃったから、さしあげて」お民さんの顔は普通に戻っていた。

 「ごめん下さいませ、お茶を持ってまいりました」と次の間でいうと、気配が消え、しばらく応答がなかったが、だいぶたってから、

 「そこに置いといて」と女の声がした。明らかに男と女のことをしていたのだ。夕方早くに着いた客で、男は五十前後、背は低く、小太りといった体格、女はまだ三十前の感じで、一目で夫婦ではないと知れた。

 「軍服の縫製会社の社長さんで、支那事変で景気がいいんだって」帳場に戻るとおかみさんがお民さんと話していた。

 「あの女は事務員か、なにかですかねえ」お民さんがいった。

 「さあ、そんなとこかしらねえ、あのね、ここじゃいいけど、あの女なんていってるとついどっかで出ちゃうから気をつけてね」

 「はい、気をつけます」お民さんはおかみさんの前では素直だ。

 町の小学校の高等科を出たとき、世話する人があって女中見習いとして、この長生館に来た。三年後、見習いが取れて、女中になった。それまでは社長の掴み金程度だった給金は月一回のちゃんとした給与になった。同時に住み込みの女中部屋を出て、すぐ隣の寮の一室に越した。四畳半の隅に流し台があって水道が敷かれ、豆炭用のコンロが置いてあったが、食事は旅館で取るのでほとんど使わなかった。たまの休みに湯を沸かしてお茶を飲むぐらいだった。

 そんなある夜、遅い夕食の箸を置いたとき、お民さんが、戸隠の部屋で社長が呼んでいるといった。戸隠というのは新館の一番奥の部屋で、前が庭になっていた。両手をついて声をかけてから襖を開けると、社長はコタツにあたり、お通しを肴にお酒を飲んでいた。横には、仕入れ台帳や金銭出納簿が積まれ、算盤もあった。会計は番頭さんが担当しているが、月に一回は社長が点検をするのだ。

 「どうだ、こっちに来て、一杯やれ」社長は杯を差し出した。

 「いえ、お酒はいただきません」

 「ここでは、そんなかたいことをいわなくてよし。薮入り前の晩には結構飲んだではないか。ちゃんと見ていたぞ」といって杯を取らせて、お酒を注いだ。

 それならば、と一息に頂き、お返ししようとすると、その手を握り、さらに一杯注いだ。

 「これで結構でございます」といったが、

 「飲みっぷりがいいぞ、さあ、飲め、駆けつけ三杯っていうぞ」

 社長は私の右手を抑えて飲むように促した。仕方なく口に運ぶと、更に注いだ。

 「さあ、これだけ飲め」社長は私の口元に杯を近づけた。

 仕方なく飲み干すと、全身が熱くなり、急速に酔いが回ってきた。

 「最近はどうだ、仕事は順調か、ここのところ、急に女っぽくなってきたぞ」

 私は杯を返し、お酒を注いだが、その手を引き寄せると、いきなり、私の懐に手を突っ込んで、胸の膨らみに触れた。私は驚いて、社長さんの手を引き抜こうとした。

 「なに、どのくらい女として成長したか見ているのだ」 

 「おかみさんがいらっしゃいます」私は思わず叫んでいた。

 「心配するな、今日は、お客の勧誘に東京へ行っている。まあ、今夜はわしのいうことをきけ、きかなければどうなるか知っているな」

 お払い箱、という言葉が浮かぶと同時に腕の力が抜け気力が萎えた。旅館が勤まらなかったということになれば家に帰っても居場所がない。父は脳卒中で寝たきりだし、母は雑貨店を営みながら、空き地にじゃがいもやさつまいもを作っている。弟は隣町の県立中学の三年生だ。社長が後の襖を開けると、二組の布団が並んで敷かれていた。私はそのまま引きずられていった。

 翌朝、お民さんが、

 「今朝は急に垢抜けしたわね」といった。それで、昨夜のことはお民さんも知っていたのだと思った。いや、お民さんも一枚噛んでいたのかもしれない。そうか、お民さんも似たような体験をしたのだと気がついた。私は他の三人の女中の顔を思い浮かべた。お浜さんとお菊さんはまだ二十台だろう、その気でみれば色気があるのだろう。もうひとり、お粂さんは五十前後でひょっとしたら社長より年上かもしれないから除外するとして、若い二人は私と同じような目にあっているのだろうか。見当がつかなかった。

 それから、私はしばしば社長のお相手をするようになった。必ずおかみさんが不在のときだった。社長は精力が強いというのだろうか、三十分も休めば二回目が可能だった。

 「だいぶ慣れてきたな、よく濡れるようになったし、張り合いもよくなった。どうだ、いいだろう」といった。

 「知りません」と私は社長の腕の中でいった。

 「赤ちゃんが出来たらと思うと心配です」というと、社長はしばらくにやにや笑っていたが、驚くべき話をした。お菊さんは、社長とお粂さんの間に出来た子供だという。

 「おかみさんは知っているのですか」というと、

 「うん、まあ知っている、暗黙の了解ということかな」

 そういえば、二人は丸顔なところと目のあたりが似ていたし、お菊さんの口元は社長に似ていた。

 「お粂さんはどうして、女中頭ではないのですか」

 「そんな露骨なことは出来ないだろう。実は、粂が来たときにはもうお民が女中頭だったのだ。群馬県の方の温泉旅館で働いていたが、母親が病気になって実家に帰ったが、間もなく亡くなったので、ここに来たのだ。だから、まあ、心配するな、悪いようにはせぬ」

といって、再び私の乳房をまさぐった。

 ある朝、廊下の雑巾がけをしていると、お民さんが通りかかり、

 「最近は、美佐乃ちゃんにご執心で、私なんかにはちっともお呼びがかからないのよ」といって、ちょっと睨むような眼をした。それで、お民さんが私の前、社長のお相手をしていたのは確実になった。そんなふうに私は二年ほど、社長のお相手をしたが、不思議に妊娠はしなかった。

しかし、私より、一つ若く、すらりとした優に五尺三寸(一五九センチ)はありそうな均整のとれたお涼さんが入ると、社長の関心は彼女に移った。社長も同じくらいの背丈だが、ときにはお涼さんの方が高く見えた。社長は、

 「これからの日本の女は体格がよくなければ駄目だ」といった。

 十月のある日、街の劇場に巡業芝居がやってきたので、みんなで見に行った。社長は出張中で、おかみさんと、お粂さんが留守番だった。なんでも平安時代という昔の話で、清盛という権力者の前で、白拍子の祇王が舞を舞うと清盛が気に入り、おめかけさんにした。妹の祇女も母親も一緒に引き取られた。三年後、仏御前という舞の上手がやってきたが、清盛は呼んだ覚えはないといって追い返そうとした。あわれに思った祇王が、せめて会うだけでも会ってやってくださいと清盛に頼んだ。ところが、その舞を見て感心した清盛は、仏御前に心を移してしまった。清盛は祇王に暇を出し、祇女、母親の三人は邸を出た。次の春、仏御前のつれづれを慰めよと清盛からの使者がやってきた。祇王は行きたくなかったが、母親の説得によってお邸に出向いたが、前とは違って格式の低い部屋だった。ともかくそこで今様を舞った。

 仏もむかしは凡夫なり、我らも終には仏なり

 いづれも仏性具せる身を、へだつるのみこそかなしけれ。

と、うたうと、聞いていたひとたちは皆涙を流した。祇王、祇女、母親の三人は都の外れの嵯峨というところに庵を建て、ひたすら来世を念じて住んでいた。秋のある夜、戸を叩くものがあった。開けてみると仏御前が立っていた、という話だった。

 ふと、隣を見ると、お民さんが眼に涙を貯めていた。その先のお涼さんもハンカチで眼を拭っていた。わたしは仏御前がお涼さんか、と思って見ていたので、意外な感じだった。

 それから間もなく、寝たきりだった父が亡くなった。自宅の六畳で、和尚さんを一人呼んでお経をあげてもらい、そのお寺の墓地に埋葬した。近所の人が掘った大きな穴に、お棺が縄で吊り下げられ、弟と、母と私がまずシャベルでひと掬いずつ土をかけ、それから近所の人が、一斉に土をかけ、上に白木の墓標を立てた。お斎の前に新当主となった弟が挨拶した。弟は電鉄会社に就職していた。お斎についたのは親類と近所の人など十数人だけだった。同じ頃、政友会や民政党などが解党して、大政翼賛会が創設されて近衛文麿総理が総裁に就任した。いよいよ非常時だ、と社長がみんなを前に話し、これからは、新聞くらい読まなければだめだ、お客さんのお相手をするにも必要だ、といった。

 真園さんが次ぎに来たのはそんな十月の終わりだった。夕食のお膳を部屋に持っていくと、いきなり抱きしめてくちづけをしてから、話があるといった。四歳の男の子の養育係りとして、来てもらえないか、というのだった。

 「実は、婚姻届を出して、再婚も考えたんだがな、二三の総代に相談したが駄目だという、そんなことで、しばらく頼みたいんだが、どうかな、いずれ籍は入れるように考えるから」

私は漠然と想像していたことなので、異論はなかった。

 「なに、社長との話はついている、身一つで来てもらえばいいのだ」

 「でも、一応、母とも相談しまして」

 「ああ、そうだったな、お父さんが亡くなられたんだった、お悔やみいたします」といって、真園さんは合掌をして、坊主刈りの頭を下げた。

 真園さんはバスで三十分ほど先の長楽寺という檀徒数八百余軒の浄土真宗という宗派の寺の跡取りだったが、お寺を嫌って飛び出し、二十数年たって帰ってきたのだ、と社長に聞いていた。この家は長楽寺の檀家で、社長は世話人会の会長でもあった。

 「あの、こんなこと訊いていいですか」

 「いいよ、何でもいってごらん」

 「あの、お寺を出た後、どうしていたのですか」

 「うん、わしは子供のころ、わけの分からないお経をむにゃむにゃといって、お布施を貰うのが嫌でな、普通の人は額に汗して働いているのに、詐欺じゃないかなんて思ったりして、それで中学を出たあと、東京へ行って、法律の専門学校に入った。法律で身を立てようと思った。自活するつもりだったんだが、親父が学費を送ってきた。とにかく一段落したら、帰ってこい、そして得度して住職の資格を取れ、といってな。しかし、そのうちに法律の勉強はどうも自分に合わないのではないかという気がしてきたんだ。まあ、学費は送って来るんで、遊びの味も覚えてしまってな、これではいけないと机に向かうんだが、法律は面白くない、そんな頃、西田天香という人の話を聞いたのだ。人は財産に執着してはならない、ひたすら他のために奉仕せよ、というのだ。これだと思ったな、若かったからかもしれない。そのまま京都に行って、一燈園という道場に入った。西田天香って知っているかね」

 「知りません」

 「そうか、まあこの話はまたぼつぼつしよう」

 それから、真園さんは私のお酌でお酒を飲んだ。先代の住職が亡くなったときに帰ったのだが、住職の資格がないのでお坊さんは出来なかった。隣の善教寺という門寺の住職が長楽寺の住職を兼務することになった。これは大変不愉快なことだったが仕方がなかった。しかし、その善教寺の住職も昨年急死した。そこで、急遽、富山県からご母堂様の弟という人を呼び寄せ、代務住職を依頼したということだった。住職の資格がなくてもお葬式に行くことはあったが、座る場所は代務住職の次だった。それはともかく、お経を読んで、お布施を貰うというのにはどうも馴染めなかった。それで、滅多にお葬式には行かなかった。

 「一燈園は、お庭の掃除、お便所の掃除、荷車の後押し、農家の手伝い、そういった奉仕活動だった」

 「そのお母様には話してあるんですか」

 「息子の養育係り兼、家事担当といってある」

 「でも、夫婦のようなことをしていたら変に思いやしませんか」

 「いや、まあ、それは何とかなる、それに歳だ、七十を越えている。心配することはない」それから、真園さんは眠くなったのか、ご飯を食べないで横になると、眠ってしまった。私は後片付けをし、布団を敷き、その上に引っぱり上げ、掛け布団をかけた。

 翌朝、お茶を持っていくと、まだ布団の中だった。眠っているのかなと思い近づくと、いきなり手が伸びて、布団の中にひきずりこまれた。

 「困ります、朝は駄目です」といったが、私の裾を割って手が入った。

 「誰も来はしない」といって抱きしめ、唇を吸った。気がつくと私も真園さんを抱きしめていた。

 数日後の午後、長楽寺に行くためにバスに乗った。停留所には真園さんが迎えに来ていた。筒袖の上着にもんぺのようなものを穿いていた。作務衣というものだそうだ。真園さんの後について行くと、二間(三・六メートル)以上もありそうな大きな石碑が立っていて、親鸞聖人御旧跡常光院長楽寺と刻まれていた。そこを曲がると、はるか正面に石の門が見え、その奥に黄色い門があり、後ろには大きな本堂が聳えていた。

 「これは役場だ」真園さんが指した右手には木造二階建ての建物があった。続いて、農協があった。

 「江戸時代にはこの道の両側には四軒づつ八軒の門寺があったそうだ」

 「今はどうなんですか」

 「今は善教寺一軒だけ、移転したり廃寺になったり、いろいろらしい」

 石の門を過ぎると、真園さんは右の道に入り、大きなもみじの木の下を歩くと、赤い門があった。門を潜ると、正面に三面ガラス戸の広間のような建物があった。

 「これは豊明殿で、集会のときに使う、庫裏はこっちだ」といって、左手の平屋の建物に向かった。

 「只今戻りました」ガラス戸を開きながらいうと、玄関脇の松の木がゆらぎ、地下足袋を履いた男の人が梯子を降りてきて、

 「おかえりなして」といった。

 「こちらは寺男をしてもらっている伊平さん」と、真園さんは私に紹介した。

 「梶田美佐乃です」というと、伊平さんは首だけを振るといった感じで、ぺこんと頭を下げた。

真園さんに続いて下駄を脱いだ。そこは四畳の取次ぎの間で、正面に床の間があり、大きな花器に松の木と南天と、枯れてはいるが花の紫色が残っているアジサイが活けてあった。襖を開けた先が、茶の間で、中央の炬燵に頭は白いが顔の色艶がよく、恰幅のいい老婦人が座っていた。

 「これから幸雄の世話をしてもらう美佐乃さんです」

 「何分よろしくお願いします」と私は額を畳にすりつけて挨拶した。

 「そうですか、まあ、よしなに」と女性にしては低い声がした。

真園さんは私の家庭のことを話し、ご母堂さまは黙って聞いていた。

 「それはそうと幸雄はどこへ行きましたか」

 「お砂場で自動車でしょう」

 「では呼んできましょう」といって立ち上がり、取次ぎの間に行き、伊平さんに何かいったようだった。

 奥から廊下を走る音がして、正面、ご母堂さまの後ろの襖が開き、水色のセーターの上に小豆色の半纏を羽織った男の子が現れ、手に持っていた玩具の自動車をいきなり走らせた。自動車は炬燵の座布団のところで止まった。玩具といっても大人の足くらいの長さがあり、前照灯もつく精巧なものだった。それから男の子は私に気がついてじっと見つめた。

 「こちらは、若の面倒をみてくれることになった美佐乃さんだ」真園さんがいった。

 「美佐乃です。よろしくお願いします」といって、ハンドバックから千代紙や折り紙、折鶴、折った奴さんなどを取り出した。

 「風船を折りましょう」といって、一番大きな紙で折り始めたが幸雄さんは興味がなさそうだった。

 「ほかにお土産はないの」といった。

私はゴム製の白熊の風船を出して、息を吹き込んだ。膨らんだ白熊は気に入ったらしく受け取ると、自動車のぜんまいを巻き、その上に乗せて一緒に這いまわり、

 「ぶー、ぶー、ぶー、ぶー」と大きな声を出した。

と、突然、しゅうと音がして、白熊はしぼんでしまった。

 「なんだつまらない」というと、自動車を持って出ていってしまった。

 「まあ、あんなふうで、わがままだが、頼みます」真園さんがいった。

 「総代さんや世話人さんにひき会わせるのはいつですか」ご母堂さまがいった。

 「それは後日、こちらに移ってから考えます」

 真園さんの後について、私の居室になるという部屋を見に行った。正面の襖の先は廊下で、その突き当たりの障子を開くと、押入れつきの六畳があった。障子を開けると濡れ縁があり、木立の先に築山があった。

 「ここを使ってもらう、西日しか当たらないのが欠点だが、どうかね」

 「こんないい部屋もったいないと思います」

 「ただ、ときどき幽霊が出るそうだ」

 「えっ、本当ですか、怖い」

 「私は見たことがないが、十年ほど前まで、遠縁の女の人が一人で住んでいた。病気で亡くなったんだがね、その後この部屋に泊まった人が幽霊が出るというんだ。まあ、真偽のほどは分からないがね」

 「泊まった人がいるんですか」

 「報恩講のときは遠くからお客が来るが、そういう人が見たという、まあ、眼の錯覚か夢かもしれないがね」

 真園さんはさらに奥の建物に誘った。廊下の階段を上がった向こうに、瓦葺、高床式、数奇屋風の立派な建物があった。廊下の左手に六畳の取次ぎの間があり、その奥が床の間付の八畳間で、三面に三尺の廊下が通っていた。

 「ここは常光閣といってまあ、貴賓室だ。報恩講のとき遠くからきたお坊さんたちが泊まる」

 取次ぎの間の廊下の反対側は浴室だった。まず、脱衣室があり、奥が、黒御影石の浴室で、中央に浴槽があり、手前に手押し式のポンプがあった。

 「焚き口は下にある。まあ、この風呂を沸かすのはあなたの仕事です」

いったん廊下に出て、階段を下りると、コンクリートの土間があり、焚き口の扉の横に、薪が積んであった。隣には流しと竈があった。外で声がしたので、ガラス戸から覗くと、幸雄さんともう一人の子供が井戸の傍の砂場で遊んでいた。

 「あれは誰ですか」と訊くと、

 「善教寺の息子だ。一つ違いなので、格好の遊び相手なのだ」ということだった。

 土間の横にもう一つ押し入れつきの六畳間があった。

 「これはまあ、女中部屋というか、泊まり客の世話をする人の控え室だ」

 それから、先ほどの茶の間に戻り、反対の南側に行くと、御殿という大きな建物があった。まず、奥行き一間半の濡れ縁があり、障子を開けた奥は二十畳の広間だった。更に一段上がった襖の奥は九畳の仏間で、帷の中には法然上人の骨肉の像が安置されているとのことだった。仏間の右は六畳の脇の間、その下の広間の隣はやはり六畳の余の間で、大きな金庫があった。真園さんは、長い渡り廊下を進み、階段を上ると本堂の縁側だった。木の扉を開けると、外陣という大広間だそうで、畳を数えると百十畳あった。真園さんは一段高い内陣というところの襖を開け、柱のスイッチを押して電灯を点けた。薄暗い光の中に、中央の金色の屋根が浮かび上がった。

 「この中にいらっしゃるのが、本尊の阿弥陀如来様、この右が宗祖親鸞聖人様、それからこちらは掛け軸だが、七高僧様」といって、今度は左手に移動した。

 「こちらは、覚如上人様、で、最後が当山開祖の西念房様、ま、このくらいは覚えておかないとな、一週間に一度はお掃除をします」

 「一週間に一度でいいのですか」と訊くと、

 「常光閣、御殿、豊明殿と、やって、本堂は縁側が一日、外陣が一日、内陣が一日、庫裏は毎日」といった。

 さらに南側の襖を開けると、位牌がぎっしり並んだ余の間だった。阿弥陀如来様の真後ろは階段になっていて、地下通路か秘密の通路のような廊下が走っていたが、西側は障子なので割と明るかった。歩きながら、真園さんは、

 「内陣掃除のときはここもやります」といって、いきなり抱きしめ、接吻をして、

 「今夜は泊まっていきなさい」といった。

 「でも」といったが、真園さんの目がそう命令していた。

 「幽霊が出ます」というと、

 「いや、私も部屋へいきます」といって、じっと私を見つめた。

 夕食は伊平さんの奥さんの糸さんが来て用意し、茶の間の炬燵の上にお皿を並べ、お給仕をした。

 「私がやります」というと、

 「まあまあ、今日はお客さんだから座っていりゃいいんだよ、これからは毎日やることになるんだから」といった。

 真園さんとご母堂さま、幸雄さんと私が炬燵で、伊平さんと糸さんはその横の卓袱台で食べた。食べる前に、

 「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし」、

と皆で唱えてから、いただきます、といって、お箸を持つのだった。麦飯に、味噌汁、湯豆腐に魚の干物と茄子漬けに梅漬けだった。幸雄さんはご母堂さまの横でスプーンで器用に食べていた。

 「代務住職の方はどこにいらっしゃるんですか」と訊いてみた。

 「この先の光雲寺という寺の住職も兼ねていてな、いつもは夫婦でそこにおる、なに檀家はない、むかしは尼さんがいた尼寺だったのだ」ということだった。

 夜遅く真園さんが来て、私の布団に入った。正副総代会長に再婚のことをそれとなくほのめかしてみたが、今のところ無理ということだった。體を重ねたのは三回目だったが、これまでで一番濃厚で長かった。

 翌日は午前十時から隣町の集会場で話をするというので、ついていった。真園さんは作務衣姿のままだった。着くと、真園さんはまず、箒を借りて、玄関周辺をきれいに掃ききよめ、次にお便所の掃除をした。手伝おうとしたが、一人でやるのに意味があるのだといったが、やはり見かねて私は井戸から水を汲み、ブラシを洗った。真園さんはタワシで便器にこびりついた便の滓まで丁寧に擦り取った。二十畳以上はありそうな広間には二十数人が集まっていた。

真園さんは西田天香さんの話をした。ある観音様の境内で、弟子にしてくれという人がいた。天香さんは弟子になるには全てを捨てなければならないというと、その人は身一つの他は何も持っていません、と答えた。天香さんはいや、あなたは持っている。お握り二個と今夜の泊まり賃を持っているのではないか、といった。すると、その人はこれがなければ野宿しなければならないし、腹が減って動けなくなります、と訴えた。天香さんはいますぐ、お握りと、お金を、もっと困っている人にやってしまいなさい、今は暖かいので、この大門の軒下で寝ても凍えることはないし、奉仕をすれば、いのちをつなぐ食事はついてくるものです、といって、近くの蕎麦屋から箒を借りてきて、これでこの周辺を掃き清めなさい、といった。天香さんは帰りにお蕎麦屋さんに二食分の代金を払い、あの人に何か食べさせてくださいと頼んだ。翌日行ってみると、その人は「ありがとうございました、おっしゃる通りでした。夕食と朝食を食べさせてもらっただけでなく、お店のご主人が、今時奇特な人だ、ちょうど一人辞めて手が足りなかったところだ、ぜひうちで働いてほしい」といった、という話だった。

 終わったあと、二三の質問が出た。その一つは真園さんは大きなお寺の跡取りに生まれて何不自由なく育ち、俺たちとは身分が違うがどうか、というものだった。

 「それなんです。私は小さいとき、お経を読んでお布施をもらうことが理解できませんでした。どんなに貧しい人でもお布施を包んでくれました。何だか詐欺を働いているような気持ちになりました。長じて、東京にいたとき西田天香先生に出会ったのです。ただ、奉仕する、その心に打たれました。これだ、と思いました。そこで、全てを捨てて一燈園に行きました」そういって合掌した。

 私は真園さんて分からない人だと思った。こんな立派なことをしたり、いったりしているが、私を手篭め同様にしたのはどういうことだろうか、男女のことは別なのだろうか、もっとも、私の方にもその気はなかったとはいえないのだからおあいこかもしれないのだが。真園さんにそういうと、親鸞聖人がお若いとき、煩悩に苦しみ女性を抱きたくなった。そのとき夢に観音菩薩が現れて、私が女になって抱かれましょう、といったという話をした。

 その年の十二月の始めに、普段着三着とよそ行き一着に着替えと身の回り品だけ持って長楽寺に越した。よそ行きは社長が、まあ、縁づくようなものだからといって作ってくれたのだった。街には、“みよ東海の空明けて旭日高く輝けば”の紀元二千六百年の歌が流れていた。

 翌日は朝から眼が回るほど忙しかった。三度の食事の用意から片付け、庫裏の掃除、洗濯、御殿などの週一回の掃除、さらに庭の落ち葉掃き、草取りもしなければならなかった。庭といっても広大なので、次々に場所を移っていくのだった。真園さんもときどき大きな熊手で落ち葉を集めて燃した。ご母堂さまはもっぱら竈の火を焚く係りだった。

 「いままではどうしていたんですか」と訊くと、

 「糸さんが来ていたのです」ということだった。

 数日後の午後、庫裏の入り口の赤い門の前を掃いていると、三十過ぎくらいの、すらりとしたお涼さんに似た都会風の女性が真園さんを訪ねて来た。女性は御殿の余の間で真園さんと長いこと話していた。私がお茶を持っていこうとすると、ご母堂さまがやめておけといった。夕方、真園さんは、ちょっと出かけてくる、といって女性と連れ立って出ていった。そして、その夜は帰らなかった。特別な関係の女性なのは明らかだった。

 その夜、私は體が火照ってなかなか眠れなかった。二人が縺れ合っている妄想が浮かび、何度も寝返りをうちながら、つい自慰をしてしまった。

  (2)

 昭和十八年四月、幸雄さんが国民学校(小学校)一年生になった。はじめは私になつかなかったのだが、近くの用水に魚を取りにいって、足をすべらせてずぶぬれになって帰ってきたとき、着替えさせて、體を暖めるために抱きしめてから、私の布団にも入るようになった。去年の旗拾いのときは、旗の方ではなく私の方に走ってきてしまい、連れ戻さなくてはならなかったほどだ。学校の方は順調だったが、自動車に凝っていて、善教寺の息子と、本堂の南側の縁側から、常光閣の奥の廊下まで、ブーブーブーといいながら運転手の真似をして走り回るのだった。そのため、下唇の皮がむけるので、絶えず塗り薬をつけなければならなかった。お涼さんに似た女性はその後は訪ねて来なかったし、真園さんも何もいわなかった。四月、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、五月にはアッツ島の守備隊が玉砕したと報じられた。戦局はいよいよ苛烈になっているらしかった。

 九月、ご母堂さまが突然倒れ、そのまま意識がなく、三日後にお亡くなりになった。隣町の谷口医師の診たてだと、脳卒中ということだった。脳の中に大量の出血があったのだろうという。葬儀は御殿で、近隣のお坊さん三人が来て行われた。弟で代務住職の光雲寺さんも一緒にお経を読んだ。会葬者は百人くらいで、お斎は豊明殿で行われた。真園さんは挨拶したが、その後胸が苦しいといってしばらく横になっていた。翌日はお骨収めだった。長楽寺の墓地は本堂の裏ではなく、西の山の中腹の松林の急坂を登った雑木林の中にあった。総代さん数人と世話人代表として長生館の社長も一緒だった。真園さんは息が切れるといって何回も休んだ。墓石の下にある霊安室にお骨を収め、光雲寺さんと真園さんが読経した。幸雄さんは小さな手で合掌していた。墓地からは善光寺平が一望された。英霊が帰ってくるようになっていたためか、地味な葬儀だった。

 十一月にはマキン・タラワの日本軍が玉砕した。翌十九年一月には学徒動員というのが始まって、どこそこの檀家の家の中学生が名古屋の軍需工場に行ったという噂が入るようになった。

一月の終わりの雪が降る寒い朝だった。伊平さんと三人で雪かきをしていたのだが、本堂の前をかいていた真園さんが苦しいといって、突然しゃがみこんでしまった。伊平さんが背負って庫裏に運んだが、顔は真っ青で、問いかけにわずかに首を動かすだけだった。私がすぐに電話して、谷口医師がタイヤにチエーンを巻いたオートバイで駆けつけたときには脈はほとんど触れなくなっていた。谷口さんは強心剤だかの注射をしたが、一時間後に胸が動かなくなった。

 「ご臨終です」といって谷口さんは合掌した。心臓の血管に血液がいかなくなる心筋梗塞だろうといった。

 「普通予兆というものがあるんですが、何か気がつきませんでしたか」と訊かれ、そういえば、と、ご母堂さまのときのことを話した。

 「そのときに手当てしておけば、あるいは違っていたかもしれませんが、残念です」といった。

当主が住職ならば葬儀は当然本堂で行うのだが、真園さんは住職ではなかったので、葬儀は数日後御殿で行われた。お坊さんの数はご母堂様のときと同じだったが、約二倍の参列者があった。幸雄さんは泣きもせず、涙も見せなかったが、ほとんど口をきかなかった。おおきな衝撃に耐えているのは明らかだった。誰が知らせたのか分からないが京都の一燈園から来た人が、西田天香さんの弔辞を代読した。自分よりも二十歳以上も若いあなたが先に帰光されるとは悲しみに耐えない。しかし、あなたの純粋な滅私奉公の精神は多大の影響を与えたし、これからも与え続けるだろう、といった内容だった。帰光の意味が最初分からなかったが、少し考えて亡くなったという意味だと気がついた。墓地への埋葬は雪溶けまで待つことになった。

 私はとうとう、幸雄さんと二人になってしまった。籍が入っていなかったので、名実ともに養育係り兼留守居役になった。留守居役の最大の仕事は葬式などの連絡を電話のない光雲寺に伝えることだった。それまではこの役は伊平さんが主にやっていたが、腰が痛いなどといって、いい顔をしなくなっていた。真園さんが亡くなったので、私を軽く見て態度が変わったのだと思ったが、そうとなれば私が連絡するしかなかった。距離は半里(二キロ)もないのだが、西の山の麓なので、半分は上り坂だった。最初、自転車を使ったが、坂がきつく、歩いた方が楽だった。

 夜は二人だけで、大伽藍の中にいるのは寂しいし、不安なので、一緒に住むようにと何度もいったのだが、いつも

 「わしはここの方がいい」という答えだった。光雲寺さんは五尺七寸(百七十センチ)はある大男だが、奥さんは四尺八寸(百四十五センチ)くらいの小柄な人だったが、

 「ごいんじょがああいうから」といった。ごいんじょ、というのは御院主が訛ったことばだが、この奥さんは最近自分の亭主をそう呼ぶようになっていた。代務住職だからそう呼んでもいいのだが、真園さんが亡くなってからすぐなのであからさまだ。

 三月下旬にお骨収めをした。雪がまだ残る松林の中を幹や枝に摑まりながら登った。総代さんが二人同道した。幸雄さんがお骨箱を抱えていたが、登るときは伊平さんが代わった。墓地にも雪は残っていた。霊安室に幸雄さんが自ら納め、光雲寺さんが読経した。

 「これからは美佐乃さんがお稚児さんの養育係りだな」総代の一人がいった。もともとそういうことだったのに、と私は思ったが黙っていた。すると、

 「まことに責任重大ということだから、そのつもりで頼みます、次期住職になるお稚児さんだから」と続けた。そうか、そういうことか、と思ったが、急に昨日と違う日常がはじまるわけではない。下の田んぼには麦踏みをする人々の姿が点々と見えた。このあたりは二毛作地帯で、冬、小麦を育て、夏は稲を育てる。若い人たちの多くは出征したので、農作業をするのはほとんど年輩者だった。

 戦局はますます困難になっているらしかった。七月、東条内閣が総辞職し、八月、テニアン、グアムの日本軍が玉砕した。十月から隣組で、アメリカ軍の本土上陸に備えて、竹槍訓練が始まったが、私はお寺の留守居役ということで訓練を免除された。同じ月の下旬、突然東京の杉並区の国民学校三年生約三十名の集団疎開を引き受けることになり、豊明殿の入り口にトタン張りの臨時の台所と、反対側に厠を造る工事が始まった。内部にも二つの仕切りが入り、二十畳の部屋が三つ出来た。同時に食糧増産のため、空き地を開墾して、小麦を作ることになった。やはり伊平さんに頼むしかなかったが、私もはじめて三又なるものを握って土を掘り起こした。腰が定まらなくてふらふらし、すぐに息切れがしたが、伊平さんから、呼吸に合わせて、ゆっくりやればいい、と忠告され、次第に慣れた。

 工事が終わった翌日、女の先生二人に引率された男子十六人と女子十一人がやってきた。生徒たちは村の小学校に通いだした。村全体では約六十人の生徒を受け入れたという。役場からの説明では迷惑をかけないようにするということだったが、鍋釜から包丁、まな板、食器に至るまで提供しなければならなかった。布団は送られてきたが、数人分が足りなかった。困ったのは厠で、便槽はすぐにいっぱいになった。そのため、大きな貯め池を新たに作って、生徒の手で、バケツでそこに移してもらうことになった。最初生徒たちは嫌がったが、伊平さんが模範を示し、二人の先生も協力したので、ともかくすべりだした。

 三月九日夜、東京が大空襲にあい、一面焼野原になり、数万人が焼け死んだと噂されたが、間もなく杉並の方は無事だと分かった。四月、アメリカ軍が沖縄に上陸した。更に空き地を開墾して、こんどはさつまいもを植えることになった。三又や鍬で土を起こし、農家から分けてもらった堆肥を入れ、苗を植え、水をかける。生徒たちも四年生になり、水を運んだりして手伝った。五月二十四日、再び東京が大空襲を受け、杉並区にもかなりの被害があり、家が焼失したという知らせが来た生徒もいたし、家族と連絡が取れなくなった生徒も数人いるらしかった。学校の校庭もすべてさつまいも畑になった。六月下旬、沖縄は戦闘が終わり、アメリカ軍に占領された。近くの松代にトンネルが縦横に掘られ、大本営が移ってくるという噂が流れた。

 「いよいよ本土決戦です。長野県全体が要塞になります」と引率の先生の一人がいった。

 「要塞って、長野県が最後の砦ということですか」というと、

 「最後なんていわないでください。その前に敵を殲滅しなければなりません」といった。

 バスやトラックは木炭自動車になっていたが、幸雄さんはそれらの絵を感心するぐらい巧みに描いた。細かいところまで、観察しているのだった。また、御殿の余の間にあるオルガンで、いくつかの曲を上手に弾いた。

 八月六日、広島に新型爆弾が落とされた。新聞は「広島へ敵新型爆弾、B29少数機で来襲攻撃、相当の被害、詳細は調査中、落下傘つき、空中で破裂、人道を無視する残虐な新爆弾」と報じた。次いで九日、長崎にも新型爆弾が落とされた。八日にはソ連が宣戦布告し、北満州に侵攻したと報じられた。お盆の十三日には敵の艦載機が来襲して、隣町の工場や、一部工場になっていた女学校に爆弾が落とされた。私ははじめて、星のマークをつけた敵の飛行機が頭上を通過するのを見た。そして、八月十五日の正午、御殿に全員が集まって天皇の詔勅を聞いた。ラジオは雑音が激しくて、何をいっているのか聞き取れなかったが、先生の一人が、

 「日本は負けたのです。神国日本が負けたのです」といって、うう、うう、というように声を放って泣き始めたので驚いた。私はそうか、負けたのか、と思ったが、異様な緊張感から解放されてほっとしたというのが、正直なところだった。生徒の一人が、

 「東京に帰れるの」といい、もう一人の先生が、

 「そうかもしれませんが、日本は負けたのです。それに東京は一面焼け野原だそうです。家はないかもしれません。家族といぜん連絡が取れない人も何人かいます、これまでどうりの生活をして、連絡を待ちましょう」といった。

 生徒たちが去った後、私は広間にぼんやりと座っていた。ミンミン蝉や油蝉の鳴き音が急にやかましく聞こえた。と、隣の部屋でオルガンが鳴り出した。「ウサギ追いし、かの山、小鮒釣りし、かの川」、ふるさとの曲で幸雄さんが弾いているのだった。  

 昭和二十二年四月、衆議院と参議院の選挙が行われた。前年から女性も投票できるようになっていたが、驚いたことにあの西田天香さんが参議院の全国区に立候補していた。私は迷わず西田さんに一票を入れた。五月三日には新憲法が施行された。日本は天皇陛下が統治する国ではなく国民主権の国になり、いかなる場合でも絶対に戦争をしない国になったとラジオでいっていたが、興味を持ったのは十四条だかの解説だった。すべての国民は法の下に平等で、人種、信条、性別、社会的身分や門地によって差別されることはない、というのだった。真園さんと私とでは身分が違うから結婚できなかった。これは差別だろう。日本がそういう差別をしない国になるとしたら、それは素晴らしいことだが、現実感がなく、何だか信じられなかった。しかし、財閥が解体され、農地解放が行われ、世の中は変わりつつあるようだった。

 昭和二十三年、小学校六年生の冬、幸雄さんは風邪をひいて、何日も四十度近い高熱が続いた。往診に来た谷口さんは肺炎を起こしているといった。私はほとんど眠らないで看病したが、熱はなかなか引かず、幸雄さんの衰弱がひどくなったとき、谷口さんはやっと手に入ったというペニシリンを注射した。すると奇跡のように熱はみるみる引いたのだった。

  (3)

 昭和二十七年、幸雄さんは高校に入った。大地主だった総代の二人は農地解放で没落して、辞任し、新たに事業家として実績を伸ばした別な二人が就任した。その新総代の一人が、京都の本山の高校に出したらどうか、と提案したのだが、幸雄さんが承諾しなかった。私から離れるのが嫌だったのだ。私もほっとした。幸雄さんが京都に行ってしまえば、私の居場所がなく、長生館の社長はまた女中として働けばいい、といってくれたが、今更という気がした。長楽寺には光雲寺さん夫妻が住む手はずになっていた。

 幸雄さんは、絵がうまく、音楽もオルガンのほか、アコーデオンとギターを弾いた。運動能力も優れ、特に野球が好きで、一時、中学の野球部でピッチャーをした。中学生では珍しく、カーブとシュートを投げることが出来たが、総代と世話人の一部が猛反対し、退部した。怪我でもしたら大変だし、将来の大寺の住職の訓練としてもふさわしくない、というのだった。一方、国語、数学、英語などの一般教科はそれほどでもなく、県都長野市にある名門高校は無理ということで、近くの普通高校に進むことになった。幸雄さんは中学二年頃から背が伸びだして、百七十センチを超えるすらりとした体型になった。眼鏡をかけているのが欠点といえばいえたが、彫が深く、整った顔だちだった。それに絵もうまいし、音楽にも堪能、スポーツも出来るとなれば、女の子にもてないわけがない。戦後の農村の子供といえば学校に行く前に桑摘み、帰れば畑か田んぼの手伝い、というのが普通だったが、結構暇な時間のある子はいるもので、その代表が幸雄さんだったが、そうした女の子の何人かが出入りするようになった。たいていは幸雄さんのアコーデオンかギターに合わせて、ラジオから流れてくる流行歌を歌ったりして時を過ごしていく。高校入学後もそうした状態が続いていた。当然、勉強の時間は少なくなる。定期試験の前に虎の巻を見て少しやるだけだった。中学のときに比べて成績はかなり下がった。大丈夫なの、と訊いたが、皆同じようなものだという。

 そのうちに、檀家ではない温室を沢山持って花を栽培している家の、一つ年上の千恵子という隣町の女子高に行っている子が出入りするようになった。體つきはすっかり大人で、色香が溢れているような感じがあり、お勤めの娘さんのような派手な服を着てくることもあった。ああいう子が近づくと危ない、と思うと私はますます気になった。あるとき、御殿の余の間にお茶を持っていって、障子を開けると、抱き合っていたのが急に離れたような不自然な感じで二人とも座っていた。

 「あまり遅くならないうちに帰った方がいいわね、家でも心配するでしょう」というと、

 「はい」と短く答えた。

 私は、真園さんを涼子さんに似た女性が訪ねてきたとき以来の胸のざわめきを覚えた。いや、胸が痛くなるようなざわめきとは違って、鳩尾からお臍のへんが、かっかっと火照るように熱くなった。何としてもあの子を幸雄さんから離さなければならない、と思った。たまたま、法事の依頼にきたその家の近所の檀家の主婦に訊いてみた。

 「まあ、いろんな噂はあるわな、高校生なのに派手なもの着ていたり、社会人みたいな男と歩いていたり、何か普通と違うわなあ」といった。

 「家の人はどう思っているんでしょうね」

 「なんせ、忙しいからな、あの家は、何人かが手伝いにもきているし、小遣をやって放っておくだねえですか、それに親父にはおめかけさんがいてその子供もいるって噂です。ここだけの話にしてもらいたいだが」ということだった。

 幸雄さんに、どういう子なの、と訊くと、花を作っている家の子だと答えたが、突然、

 「男女で話していれば、すぐ不良だというのはひどいじゃない、千恵子さんはそういうふうに見られて困るという話をしているんだ、ほかに相談する人もいないっていうから」といった。

そのときはその語気に押されて私は黙ったが、以後も相変わらず訪ねてきた。そのたびに私は體の中心が熱くなった。訪ねてこないようにと親に頼むことも出来ないし、まさか総代さんに相談するわけにもいかなかった。初秋の土曜日の午後、総代さんの家に届け物をする用で隣町へ行った帰りに農協の店の前を通ると、千恵子が売り子をしていた。千恵子も私を認めて、

 「あっ、幸雄さんのお母さん」といった。私は思わず店に入った。

 「ここで、働いているの」

 「土曜日の午後だけです。手伝ってくれといわれたので」

 「お家の人は知っているの」

 「ええ、まあ」と曖昧になり、困ったような顔になった。それから私は何かいおうとしたが、何をいっていいのか、ことばにならなかった。

 数日後の夕食のとき、不意に、幸雄さんが、

 「千恵子さんに何をいったの」といった。

 「何って、農協で会ったときのこと、何もいわないわよ、そうね、お家の人は知っているの、とはいったけど」

 「そうじゃなくて、学校ではふだんのアルバイトは禁止じゃないのか、とか」

 「そんなこと、いわないわよ、第一、私が千恵子さんの学校の規則なんて知っているわけないじゃない」

 「派手な服を着ていていいのか、とか」

 「そんなこともいわないわよ」

 幸雄さんは黙ったが、なお疑っているふうだった。私は千恵子は嘘を創作しているのかと思った。普通は何々をしたのにしなかったとか、はいかいいえ、という単純な範囲の中で嘘をつくのではないだろうか、千恵子は普通とは違う、何となく異様な気がした。

 更に二ヵ月後、本堂前の大銀杏の葉を近くの檀家の人と片付けた数日後だった。幸雄さんを本山の高校にいれたらどうか、といった総代さんは会計も兼ねていたが、会社の社長秘書という人から電話がかかってきた。電話では話しにくいから社まできてもらえないか、という。社長は不在で、社長室に通された。

 「幸雄さんのことですが、最近何か気がつくことはありませんか」と四十台半ばくらいの男の人はいった。私は千恵子のことが浮かんだが、

 「特にありません」と答えた。

 「実は、マンドリンを買いたいで始まったのですが」

 「あ、それは、お願いしました。高校でマンドリンクラブに入ったものですから」

 「そのあとも、マンドラを買うとか、ま、マンドリンの大きいのがマンドラだそうですが、チェロ、コントラバスとか、辞書を買いたいとも、私も一々社長にいうこともないと思い、いってないんですが」といって、机の上から帳簿を引き抜いた。

 長楽寺学費、という項目で支出が並んでいた。

 「ま、ざっと、三万円弱です。毎月の生活費として、お渡ししている以外にです」

 「そんなに」私は驚いた。高校の授業料は三百五十円、会社などの初任給は四千円くらいと聞いていた。

 駅までの道を歩いたが、頭が混乱していた。一体何に使ったのか、チェロやコントラバスは見たこともない。買って学校に置いてあるのかとも思ったが、巨大なコントラバスを個人で買うなんてありえない。

夕食のとき何気ないふうに訊いてみた。

「お金がずいぶん要るみたいね」

「うん、まあ」といい、一瞬狼狽したような表情が走ったが、それきり、一言もいわないので、私は話の接ぎ穂に困り、聞き出すことができなかった。

数日後、社長である総代さんから電話があった。秘書から概略は聞いた、何か分かったかという。もう少し、待って下さい、と私は答えた。しかし、適当な機会がないまま年を越した。元旦の朝は光雲寺さんが来て、善教寺の息子と三人で、勤行(読経)をして、朝食後、村内の檀家に新年の挨拶に回る習慣になっていた。千恵子の家の回りにも何軒かの檀家がある。私はまた棒を呑んだように胸が苦しくなったが、仮に千恵子に会ったところで、それだけでは別にどうということはないのだと思いなおした。事実何事もなかったようだった。

総代さんからはその後二回ほど電話があったが、もう少し待ってください、と答えるしかなかった。年が明けてから千恵子の姿は見えなかったが、どこか別なところで会っているのかもしれないと思うとまた胃のあたりが苦しくなった。二月、極寒の季節が過ぎて雪の間から福寿草が芽を出した。そんなある日、去年、法事の依頼に来た千恵子の家の近所の主婦が人参や大根を持って訪ねてきた。

 「千恵子ちゃんのことだけど、高校やめたそうです。詳しいことは分からねだが、男関係だって噂です。ここのお稚児さんとも親しかったんだってなあ。でも相手は違ったらしいで」

 「幸雄さんはただ相談にのってただけですよ。それで、今どうしているんですか」

 「家にいづらくなったかなんか、叔父さんが東京にいるそうで、東京の高校の夜間の定時制にいったそうです」

 私は胸のつかえが一気にとれて楽になった。夕食のとき、

 「千恵子さんは東京へ行ったっていうじゃない」といってみた。

 「うん」といったが、しばらくして、眼に涙が溜まった。

 「どうしたの、話してごらん、楽になるよ、ま、先にご飯食べちゃいな」といって、私はタオルを差し出した。

 後片付けをして茶の間に戻って炬燵にあたると、いきなり、

 「隠していてごめん」といった。

 「うん、うん、どういうこと」と出来るだけ優しく私はいった。

 話は脈絡がなかったが、千恵子は最初、困っている友達を助けたいからお金を三千円貸してくれといったので、マンドラを買うからと言ってもらった金を貸した。しばらくするとまた貸してくれといった。千恵子はチェロを買いたいといって貰ってくればいいじゃない、といった。一旦は断ったが、頼む、と何度もいったので、結局、そのようにした。ある日曜日、長野市に映画を見にいったが、途中で、千恵子はぐあいが悪いといって、トイレに行った。なかなか帰ってこないので、心配になって行ってみると、洗面所で、吐いていた。映画は終わりまで見ないで帰った。と、そこまで話して躊躇っているふうだった。

 「交わってから、赤ん坊が出来たってすぐ分かるものなの」といった。

 「え、何」私は吃驚した。幸雄さんは再び躊躇っていた。

 ある日、私のいないときに千恵子から話があるから家に来てくれと電話があった。千恵子の家に行くのははじめてだった。千恵子は入り口で待っていて、別棟の二階にある自分の部屋に案内した。六畳ほどのこじんまりとした部屋で窓際に机と椅子があった。そこで、とにかく男女の交わりをしたというのだ。私は半信半疑だった。

「だって、おちんちんがちゃんと千恵子さんのとこへ入ったの」と思い切って訊いた。

「うん、まあ」と何となく曖昧だった。

「入ってなくて液が出ちゃうこともあるんだよ」

「入っていたと思う」ということだった。

 それからしばらくして、赤ちゃんが出来たから、堕ろさなくてはならないので、費用を出してくれといってきた。そこで、コントラバスになったというのだった。秘書の人はコントラバスを知らないようだったという。千恵子は別な男と関係し、妊娠したので、堕胎の費用を幸雄さんに出させたのは明らかだった。私は洗面所で吐いたのは悪阻で、妊娠初期に悪阻が来ると説明した。幸雄さんは次第に私の説明に納得した。

「ごめん」といっていきなり私に抱きついてきたので、私は背後の座布団の上に倒れた。私よりはるかに大きくなった幸雄さんだった。私と幸雄さんとは十九しか違わない。血の繋がりはないし、真園さんの生まれ変わりの幸雄さんを受け入れたって少しもおかしくはない。隣の部屋から布団を持ってきて横になり、幸雄さんのものを優しく私の秘所に誘導した。終わったあと、私の上でじっとしていた。重かったが苦にならなかった。

 「これからはしたくなったら私の中にしなさい」

 「うん、よかった。千恵子よりずっといいよ」といった。

私はその頭をしっかりと抱いた。「行者宿報にてたとえ女犯すとも、われ、玉女の身となりて犯されん」かつて、真園さんに聞いたそんな言葉が浮かんだ。

  (4)

 昭和三十年四月、幸雄さんは本山の大学に入学した。ほとんどが、お寺の跡継ぎになる学生が集まる学科だそうで、長楽寺は親戚の有力者を通して、大学側にいろいろと頼んだらしいが、詳しいことは分からない。手はずどおり、長楽寺には光雲寺さん夫妻が入り、私は長生館に戻った。女中頭のお民さんはそのままだったが、他の女中は全て代わっていた。社長は町長になっていて、家にいるときは夜でも来客があった。

 「どういう用か玄関先でよく聞いて、緊急じゃない人は私とか奥に取り次がないで欲しいの、社長も夜くらいはくつろぎたいのね」とお民さんがいった。

 「でも判断できないときはどうすればいいでしょう」

 「私がいるときはもちろん私でいいけど、いないときは番頭さんか、直接社長さんにいって」

 お民さんは結婚していて、用がないときは午後八時には帰ってしまうのだ。

 そんなわけで私が直接社長の部屋に行くことが多くなった。社長は六十を少し過ぎて頭には白いものがかなり交じっていたが、すこぶる元気だった。

 「いろいろおっしゃいましたが、社長はもうお休みになりました、というと諦めてお帰りになりました」と、金のことで話があるといってしつっこかった中年の男が帰ったことを報告したときだった。社長は手酌で一杯やっていたが、

 「まあ、こちらへ来てお酌をしてくれ」といった。杯に注いでいると、

 「まあ、一杯やれ」と杯を押し付けた。

 「まだ、仕事中ですから」といったが、

 「どうだ、長い間の一人寝は寂しかろう。今夜あたり、ここで寝ていったらどうだ」といって私の手を掴んだ。

 「困ります」

 「別に困ることもあるまい、亭主や旦那がいるわけでもなし、それとも嫁にでもいきたくなったか。まあ、お稚児も大学に入ったことだし、貰ってくれる人があればそれもいいな。それとも誰かいい男が出来たか」

 「誰もいません、ちょっと離してください」私は手を引き抜こうとして、力をこめた。社長の左手に持った杯の中身がこぼれ、私の手が抜けると、はずみで社長は後ろにひっくり返り、床柱に頭をぶつけた。

 「いたたた、痛いじゃないか」

 「すみません」、私は背後に回って背中を起こした。と、社長は素早く私の着物の裾に手を入れて太ももに触れた。

 「やめてください」といって、反射的に社長の腕をぴしゃりと叩いた。

 「何をする。それが、女中風情が社長にすることか、わしは町長でもある」と、怒り出した。

 「すみません」私は両手を突いて謝罪した。

 「もうよい、帰れ」ということで、襖を閉めて退去した。反射的とはいえどうしてあんなことをしたのか。やはり、幸雄さんのことが頭にあったのだ。他の人に肌を許してはならないという本能のようなものが出来ていたのだ。それにしても解雇にでもなったらどうしよう、家には母は健在だが、弟夫婦とその子供が二人いる。私のいる場所はない。それから毎日心配だったが、何事もなく、社長の態度にも変化はなかった。やはり、私の身の振り方は総代会や世話人会で決まったことなので、社長の気まぐれでどうこうすることは出来ないのだ、と思い少し安心した。

 しかし、六月の終わりに帳場に呼ばれた。社長と番頭さんが座っていた。

 「ひとつ頼みがあってな。S温泉に長寿荘という家の親戚の旅館がある。そこで、人手が足りなくて困っている。それも経験者を求めておる。しばらくそこへ行って貰いたいんだが」といって社長は私の顔を見た。こういう形で仕返しはきたのか、と思ったが、私としては拒否出来ない、素直に従うしかない。私は承諾した。

 S温泉は県都から弟が勤めている私鉄で約五十分かかる終点で降りて、さらにバスで十分の奥信濃の高原の入り口に位置していた。夏は登山ハイキング、冬はスキーの基地となって賑わう。長寿荘は長生館よりもやや小さめの旅館だった。ここで私は働き始めたが、七月半ばから団体客が入り急に忙しくなった。八月はじめ、幸雄さんが夏休みで帰宅したという知らせが入ったが、忙しくて会いに行くどころではなかった。八月下旬になると団体客は減りはじめようやく自由な時間が出来た。京都に帰る前に一度長楽寺へ行こうかと考えているとき、幸雄さんから電話が入り、ここに訪ねて来るという。

 その日は朝から娘のようにうきうきしていた。私の體が幸雄さんの肌を知っていて、そういう期待もうきうきの中に含まれているようだった。午後三時ころから待っていたが、なかなか現れず、六時ころようやく到着した。しかし大学の友人だという男の学生と一緒だった。高原を歩いて来た帰りだという。私は少しばかりがっかりした。

 「連絡しなかったけど、もう一人頼みたいんだがいいかな」といった。同じ部屋に泊まるのだから食事の用意だけであり、問題があるはずはなかった。結局、十分に話す時間がとれないまま、幸雄さんは帰った。ただ、帰り際に一度、京都に来て欲しいといったので、萎えかけていた私の心はさっと明るくなった。

 京都行きは修学旅行生で賑わう十一月の下旬に実現した。午後三時ころ京都駅に着くと、幸雄さんが迎えに来ていた。幸雄さんの部屋は本山の広大な敷地の外のアパートの二階だった。下足を脱ぐだけの玄関の左手に簡単な流しとガス台がありその隣が洗濯用の水槽、トイレと続き、奥が押し入れつきの四畳半になっていた。

 「ずいぶん小さな部屋ね」というと、

 「慣れれば苦にならない、それにあまり部屋にはいない」といった。風呂は近くの銭湯に行くのだという。それから大学で会合があるといって出かけた。夕食は近所の食堂で食べてくれという。外に出ると、何軒かの食堂があったが、パン屋でサンドウイッチと牛乳を買ってきて食べた。部屋に戻ったがすることがないのでお掃除をした。箒で掃き、雑巾でガス台から水洗トイレまできれいに拭いた。それから押入れを開けて布団の確認をした。誰かが来て泊まってもいいように敷き布団二枚とかけ布団二枚、毛布四枚を送ったのだが、全て揃っていた。敷布と枕カバーは洗濯した方がいいようだった。幸雄さんは十時ころ酔って帰宅した。高校時代、煙草は吸ったがお酒は飲んだことがなかった。飲みすぎたらしく、具合が悪いといってすぐに畳の上に横になったので慌てて布団を敷いた。パジャマに着替えてすぐに寝てしまったが、夜中に吐いた。私は洗面器を持ってきたり、吐瀉物を生ごみ容器に片付けたり、水を飲ませたりした。吐いてしまうとすっきりしたらしく、朝まで熟睡した。

 翌日は土曜日で、午前中、私は敷布や下着などを水槽で洗ってベランダに干した。ベランダからは本山の巨大な建物がすぐ前に見えた。午後は本山の中を案内して貰った。団体客の後ろについていけば、説明が聞けるというので、そのようにした。豊臣秀吉の伏見城の一部を移したという白書院は広々としていて、薄暗い中に金襴の豪華な襖絵が光っていた。能舞台、虎渓の庭、聚楽第の遺構を移したという飛雲閣を見、親鸞聖人像が安置されている巨大な御影堂、阿弥陀如来をおまつりしている阿弥陀堂と回って、最後に彫刻で飾られた聚楽第の遺構の唐門を見た。夕食は駅前のデパートの最上階のレストランで食べた。

 「京都見物が出来るなんて考えたこともなかった」

 「なんだかんだとうるさいとこだよ、夏はうだるように暑いし」

 「大学でどんなことをしてるの」

 「弦楽部に入っているけど高校のときの方が面白かったな」

 「大学の勉強ってどんなことするの」

 「今は教養課程だから高校の続きみたいなことかな、勤行の時間というのもあるし」

 私は眼を窓外に移した。京都の夜景が一望の下に広がっていた。私の生涯にもこのような幸せな瞬間があったのだ、と思った。

 その夜は久しぶりで同じ布団に入った。二人とも全裸になっていた。私は燃えたが幸雄さんはもう一つ気がのらないようだった。終わったあとも黙っていた。

 「どうしたの、元気がないようだけど」

 「うん、こんなことしていていいのかなって思って、親子だし」

 「でも、血の繋がりはないんだよ、私は幸雄さんは真園さんの生まれ変わりだと思っているよ、事実生まれ変わりなんだから」

 「他の人はみんな親子だと思っている。だからやっぱりおかしいんじゃないか」

 「好きな人でも出来たの」

 「そんなのいないよ、千恵子で懲りたし」

 「したいときはどうしているの」

 「それはそういうところもあるし、いろいろだけど、こんなことはいけないことじゃないかな」

 「そういうところって、祇園てところ」

 「祇園は格式が高くて無理だよ、まあいろいろ」

 私は幸雄さんが、私から離れていくのを感じた。親子なら親から離れる年齢なのだ。しかし、夫婦のようでもあり、恋人のようでもあるので、ややこしいのだ。

 翌日は竜安寺、金閣寺、大徳寺大仙院、銀閣寺、法然院、清水寺、などを見た。燃えるように赤い紅葉がどこの寺でも見事だった。

 この年の十月、左右の社会党が統一し、十一月には日本民主党と自由党が合同して自由民主党になった。

幸雄さんは昭和三十五年、一年余計かかって大学を卒業したが、大学院に入ったので帰宅はもう二年延びることになった。

 その五月、新安全保障条約の強行採決に反対するデモ隊が連日、国会を囲んだ。六月にはアメリカ大統領の秘書官ハガチーが羽田空港でデモ隊に囲まれてヘリコプターで脱出し、警官隊と衝突したデモ隊の中にいた東京大学の学生樺美智子が死亡した。しかし新安全保障条約は自然成立した。

 十月、長生館の社長が脳梗塞で倒れ入院した。一月には病状が固定したということで、退院したが、寝たきりになった。それとともに私は長生館に戻り、社長の世話をすることになった。

  (5)

 昭和三十七年二月、光雲寺さんが渡り廊下から落ちて打った傷がもとで亡くなり、一人になった奥さんはそのまま長楽寺に住むことになった。そして三月下旬、幸雄さんが帰宅した。得度がすみ、ゆきおではなく、こうゆうさんになっていた。住職の資格も取っていた。私は長楽寺に戻った。

 五月、長楽寺代務住職としての光雲寺さんの葬儀が本堂で盛大に営まれた。そして、九月、新住職の就任式である晋山式が花火を上げて華やかに行われた。この日のために新たに誂えられた金襴の七条の袈裟はまばゆいばかりの豪華なものだった。一キロほど離れた隣の浄土宗の寺から、十数人のお坊さんが散華をしながら歩き、沿道は見物人でいっぱいになった。幸雄さんは先導のお坊さんの次で、豪華な袈裟に緋の法衣も華やかな上、背が高いので、もっとも目立った。

 「おうおう、立派になんなして、美佐乃さんの苦労も実ったってもんだわ」と隣の人がいって、ハンカチで目頭を拭った。私も目頭を拭いながら、誇らしい気持ちになっていた。十二月、寝たきりだった長生館の社長が亡くなり、同時にお民さんも退職したという。

 晋山式の次は結婚だった。宗祖親鸞聖人の衣鉢を継ぐ浄土真宗では、結婚は重要な事柄である。会計を務めていた総代さんは筆頭総代になっていたが、候補者の人選を進めているようだった。一年後、神奈川県の同宗の寺の娘さんが有力になった。檀徒数約1千軒の由緒ある寺の二女だという。

 ある日、村でただ一人の総代さんの奥さんが訪ねてきた。総代世話人会で、私のことが議題になっているというのだ。

 「家の人が行ってこいというので来たですが、美佐乃さんは長生館に戻れないかっていうです」

 私は吃驚してしばらくことばが出なかった。結婚に際して、姑のような人が二人もいるのはまずいというのだ。光雲寺さんの奥さんは年だし、行くところもないだろうから、出て行くとすれば私だというのだった。

 「私だって行くところはないですよ、社長さんは亡くなって次の代になっているし、女中頭のお民さんは辞めたし」

 「いや、今の社長さんにそれとなく当たったら、引き受けてもいいとう感触だったそうです」

 「正直いって、私も四十の半ばを過ぎたし、無理です」

 「そうですか、じゃ、そのように伝えます」といって帰った。

 その後、伊平さんの奥さんの糸さんに訊くと、更に別なことが分かった。私が育ての母親ということは認められないのだという。つまり、名刹の母親が宿屋の女中上がりというのでは困るというのだ。幸雄さんが、私を「お母さん」と呼んでいる以上、その妻も「お母さん」と呼ばざるをえない。と、いって今更、幸雄さんに「美佐乃さん」と呼ばせるわけにはいかないから、出て行ってもらうのが妥当だという。どうしても長楽寺に残るというなら、女中の美佐乃に戻るしかない。村の総代の奥さんは帰りに、伊平さんの家に寄ってそんな話をしたという。

 「きっと、直接はいいにくかったんで、わたしに伝えろということだったんじゃねえですか、それにしてもひどい話だよなあ」といって、同情するような眼をした。

 「それから変な噂もあるで、まあ、噂だから当てにはならねだが」

私が何なのか訊いてもなかなかいわなかったが、とうとう

 「間に合ってるじゃねえかっていう噂です」といった。

 「どういうこと」

 「だから間に合っているじゃあねえかってこと」

 私はどきりとした。體の関係はときどきだが、また復活していた。しかし、そんなことは分かるはずがない。

 「きっと、出ていかせたいんで、そんな噂を誰かが流したんですよ、ひでえやり方だよなあ」といった。

私が幸雄さんに噂の部分は省いて話すと、

 「本人がそういっているのか、周りが騒いでいるだけなのか分からないが、もし、本人がいっているんなら見合いのときはっきり断るよ。おかしな話だ、まったく」といった。

 その見合いは東京のホテルで行われ、筆頭総代さん夫妻と光雲寺さんの奥さんが同行した。予期した通り私には声がかからなかった。

 幸雄さんは相手の娘さんを気にいったようだった。しかし、肝心な話がどうなったのか一向に分からなかった。一週間後、返事をする前に、思い切って訊いた。幸雄さんは、娘さんが、私を「お母さん」とは呼べないというのは周囲の意見でもあるし、本人の意思でもあるといった。

 「今、急にどうってことは無理かもしれないから、だんだんに説得するよ。もっともこちらでいいといっても、先方で断ることもあるから」ということだった。

 総代さんを通じて返事を出すと、折り返し先方も交際したいといってきた。まず幸雄さんが横浜に行き、次に、娘さんが長野に来ることになった。娘さんは由希子さんといって貿易会社に勤めているということだった。私が、会いたい、というと、幸雄さんは私を母親として紹介してないから困るといった。

 「だって、ここには来ないの」

 「今回は善光寺かなんかで会って、ホテルも予約してあるんだ」

 「じゃ、分からないようにして、行く、それならいいでしょう」というと、幸雄さんは納得した。

 晩秋のよく晴れた日の午後、幸雄さんと同じ電車に乗った。長野駅で降りると幸雄さんは改札口付近で待った。由希子さんの特急電車は十五分後に到着する。私は少し離れたところに立った。幸雄さんは売店に行ってたばこを買い、私の方に歩いてきて、

 「もう少し離れてくれないかなあ」といった。

 特急電車が着いて大勢が降りてきた。誰が誰やら全く分からない。ふと気がつくと幸雄さんは小型のボストンバックを下げ、ブルーのスーツを着た背の高い女性と話していた。帽子の先が幸雄さんの目のあたりだから、女性としてはかなりな背丈だ。全体的にふっくらとしていて、色香がこぼれるような感じだった。そう、あの千恵子に何となく似ていた。幸雄さんはこういうタイプが好きなのだ、と思った。二人は歩きだした。幸雄さんは私の方を一瞥し、私はあわてて人ごみの中に隠れた。何も隠れることはないのに、と思うと情けなかった。二人はそれからタクシーに乗って去った。

 縁談がまとまり、十二月始めに結納が行われた。仲人は長野教区の所長夫妻、父親代わりとして、筆頭総代さん、母親代わりとして、光雲寺さんの奥さんが同行して、先方に赴いた。式は来年の五月下旬の日曜日と決まったという。そして、かねてから準備が進んでいた常光閣と豊明殿を除く部分の全面改築が始まった。豊明殿は広すぎて冬を過ごすのには不向きなので、三人は常光閣で過ごすことになった。

 「私は女中部屋で寝起きするのは嫌です」と、光雲寺さんの奥さんがいった。すると、幸雄さんは八畳の客間を使うので、奥さんは隣の取次ぎの間ということになる。私が女中部屋ということになると、客間までは、土間を通り、階段を上り、廊下を通過しなければならない。そして、取次の間には奥さんがいる。私が客間に忍んでいくのは不可能になるが仕方がなかった。

 「じゃ、幸雄さんの身の回りの世話もお願いします」というと、

 「それは美佐乃さんがしなさい」と、いった。

 「でも、女中部屋からは遠すぎて不便です」

 「改築の期間だけです、がまんしなさい、それに美佐乃さんの身の振り方についてはいろいろな意見が出ています。ここにいられるだけ幸せだと思いなさい」といい、私は黙るしかなかった。

 しかし、生活が始まると、幸雄さんが女中部屋で過ごす時間が多かった。ただ、體を重ねるのは奥さんの眼が光っているようで、何となく遠慮した。それまでは、奥さんは私の最初の部屋で過ごし、幸雄さんと私は茶の間か、隣の六畳で寝起きしていたのだ。この間、幸雄さんは数回横浜や鎌倉に出かけた。

 四月下旬に新しい庫裏と御殿と渡り廊下が完成した。私の部屋は玄関脇の六畳間ということになった。隣は十畳の洋間で、その西が八畳の座敷、更にその西は六畳間で、ここが光雲寺さんの奥さんの部屋、私の部屋の北が、お勝手と風呂場になっていた。二階は八畳間が二つと六畳間が一つあり、新婚夫婦専用である。御殿は前の造りをほぼ踏襲したが、渡り廊下の横に六十畳の大広間が出来た。いずれ古くなった豊明殿を取り壊すためという。

 五月の連休明けに幸雄さんと一泊旅行に出た。といっても先に幸雄さんが去年買った西ドイツ製のアウデイで出発し、私は実家に行ってくるという名目だった。目的地は私が前にいた長寿荘だった。ここも主人が亡くなり息子の代になっていた。私が先に着き、帳場でおかみさんと話していると、幸雄さんが到着した。高原をドライブしてきたのだという。ここの人はみな二人は実の親子だと信じているので、不都合なことは何もなかった。

 「実は頼みがあるんだが」と、夕食の後、お茶を飲みながら幸雄さんがいった。結婚後はしばらくの間、幸雄さんも、私を美佐乃さんと名前で呼ぶというのだ。

 「必ずそのうちに説得するから、頼む」と頭を下げた。何となく由希子さんとの話し合いが想像できた。多分私を母親だと紹介できないままなのだろう。結納のときは紹介しなかったから私は出席できなかったのだが、進展がないままなのだ。いや、総代や世話人の意向もあるから不可能なのかもしれない。私の立場はかつての養育係り兼女中なのだ。

 「もう一つの頼み、結婚後は幸雄さんではなく、御院主さんと呼んでもらいたいんだ」

 「何だか急に他人になるみたいだね」

 「向こうの家がそういう習慣だから、分かって欲しいんだ」

 「じゃ、由希子さんを何て呼ぶの」

 「それは奥様でいいんじゃないかな」

 「で、由希子さんは私を美佐乃さんと呼ぶのね」

 「ま、そういうことだが、しばらく我慢してくれ、総代世話人会で、長生館に帰せという結論になったんだが、私が首を縦に振らなかったんだ。頼むよ」

 私は體全体の力が抜け、地面の中に沈んでいくような気がした。ふと、むかし聞いた法の下の平等を思いだした。日本国民は身分によって差別されない。日本は差別する国のままなのだ、と思った。幸雄さんはそんな私の後ろに回って肩を揉んだ。

 「うん、これはかなり凝っている」などといいながら、なかなか上手だった。

 「どこかで、習ったの」

 「うん、由希子さんが趣味でマッサージを習っているんだ」

 「由希子さんとはもう経験したの」

 「まだだよ、そういうことはとても潔癖なんだ、うっかりしたことをして機嫌を損ねたら大変だから」と、いった。

 一つの布団に入っても気乗りしなかったが、幸雄さんがサービスに努めたので、次第にほぐれてきた。いつか私が上になり、幸雄さんのものをしっかり私の中に確保していた。

 結婚式は本堂で行われた。読経の後、全員外陣に着座し、仲人の教区所長が表白文を読み上げた。

「敬って西方願主阿弥陀如来の尊前に申していわく。それおもんみれば夫婦は人倫の本にして婚姻は万姓の始めなり。その礼典の重きいずくんぞ敬慎せざるべけんや」といい、次に新郎新婦の名前を読み上げた。真園さんのいとこの息子という人が二人と、娘という人が一人来ていた。先方は当主の大学の講師もしているという住職にお内儀、長男夫婦に長女夫婦、叔父、叔母という人を合わせて十数人が着座した。私は末席に座り、幸雄さんの養育係り兼お手伝いさんと紹介された。私が着座するかどうかが問題になったが、幸雄さんの一言で決まったとのことだった。幸雄さんは七条の袈裟姿で、新婦は打ち掛けだった。

 式は無事終わり、披露宴と続き、二人は二泊で越前方面へ新婚旅行に出た。いつお葬式があるか分からないので長くは空けられないのだ。その夜は先方の多くが泊まったので、てんてこ舞いだった。

  (6)

 四人の生活が始まった。光雲寺さんの奥さんは光雲寺さんと呼ばれることになり、私は美佐乃さんになり、幸雄さんは御院主さん、由希子さんは奥様で、由希子さんが幸雄さんを呼ぶときは、こうゆうさん、幸雄さんは由希子さんを由希子さんと呼ぶことになった。

 それまでは食事といえば、ごはんに味噌汁、焼き魚に卵焼き、漬物、野菜いため、烏賊や野菜の天麩羅、納豆、たまにはすきやき、しゃぶしゃぶ、といったところだったが、由希子さんはそれだけでは変化に乏しく、ときにはフランス料理を食べたいといった。ポタージュにコンソメ、魚のムニエル、ブイヤベース、ブイヨンなど聞いたこともないことばをいった。

 「やっぱりね、田舎の宿屋の女中さんでは無理ね」とあからさまにいい、ときどきフランス料理を食べに幸雄さんとアウデイで出かけた。

 「長野は田舎ね、フランス料理店はあまりおいしくないし、イタリア料理店とかスペイン料理店はないんですもの、おすしもまずいし、まあ、海がないんだから仕方ないけど」などと、ぶつぶついった。

 ある日二人が出かけた後、二階に上った。二階の掃除や布団干しは由希子さんがするので、久しぶりだった。手前の六畳、次の八畳はきれいになっていたが、奥の八畳には二組の布団が敷かれたままになっていて、その一方には枕が二つ仲良く並んでいた。私は突然體が熱くなり、反射的に布団を押入れに入れた。階下に下りてから余計なことをしたと気がついたが、今更元に戻すわけにもいかない。そうだ、ついでに掃除もしてしまおう、それならば、布団を片付けた言い訳も立つと考えふたたび二階に上った。特に散らかってもいなかったが、屑籠を片付けようとして見ると、使用済みのスキンが入っていた。私は再び體が熱くなった。中身を捨てればスキンを見たことになるし、そのままにしておいても見ただろうということになるので、屑籠には触れなかった。

 「美佐乃さん、二階のお掃除は私がやるからいいといったでしょう。嫌ねえ、夫婦の寝室を覗いたりして、どうせお掃除をするんなら、屑籠も捨てればいいのに、気が利かないのかしら、あなた少し足りないんじゃない」と、先に帰宅した由希子さんが階段の途中からお勝手にいる私にいった。

 「すみません、つい、いつものくせでお掃除をしてしまいました」私は旅館にいたときのことばになっていた。

 「いつものくせって、もう一ヶ月以上もたっているじゃない」

 「いくらなんでも、少し足りないとはひどいじゃないですか」

 「あら、足りない人だと思ったから、正直にいっただけよ、有難く思いなさい」由希子さんは奥に行ってしまった。

 今度は頭が熱くなった。頭から私をただの使用人だと思っている。こんな女とは到底一緒に暮らせないと思ったが、さればといって行くところもない。結局、私が我慢するしかなかった。

 真夏になった。朝晩は結構涼しいのだが日中は三十四度とか三十五度くらいになる。特に午後の二時から三時頃は茹るような暑さで、起きているだけで汗がだらだら出る。

 「もう少し涼しいと思ったけど昼の暑さは変わらないわねえ、美佐乃さん、アイスクリームでも出来ないの」といった。

 「ありませんが」

 「ないのは分かってるわよ、出来ないのって訊いているの」

 「出来ません」

 「田舎の女中さんはしょうがないわねえ、じゃ私が作るから材料があるかしら」と冷蔵庫を開けた。

 「牛乳と卵と、生クリームがないわねえ。農協の売店かお菓子屋さんにないかしら、電話っと、電話は駄目か、美佐乃さん、買ってきてくれません」

 農協に電話はあるが、売店にはないし、お菓子屋さんにはない。それに生クリームなんか売っているはずがない。

 「売ってないと思いますけど」

 「あなたねえ、思いますじゃ駄目なの、確かめたわけじゃないでしょう。ちょっと行ってきてよ」

 日傘をさしてかんかん照りの外に出た。もちろん行くだけ無駄である。情けなかったが親鸞聖人御旧跡の石碑の前のお菓子屋さんは檀家なので、行くだけ、行ってみることにした。

 「そりゃあ、何となく分かるでなあ、みんな美佐乃さんに同情してるです」と、女主人に慰められて帰ってきた。由希子さんは、翌日の午前中に幸雄さんと長野市のデパートに行って生クリームを買いアイスクリームを作った。幸雄さんは午後はお葬式だった。

 「家でアイスクリームが出来るとは思いませんでした」と、光雲寺さんの奥さんはしきりに感心して食べたが、私は食べながら涙が出た。しかし、私の意志を通すなら、食べるべきではないのではないだろうか。そう思った私は翌日から一切手をつけなかった。すると由希子さんは、

 「食べる食べないは自由だけど、あなたって人はひとの好意が分からないのね。まあ、女中さんあがりだから仕方ないけど」といった。

 二年後の春、由希子さんは出産のため実家に帰った。長女誕生の知らせに幸雄さんは病院に駆けつけたが、お葬式の依頼があったので一晩泊まっただけで帰ってきた。

 「どうでした」と、私はいつの間のか幸雄さんに敬語を使うようになっていた。

「何だか変な感じだった。顔は猿みたいだし、これが人間の自分の子かって」

一週間後に退院したが、もう一ヶ月は実家にいることになった。二階の掃除はまた私がし、布団の上げ下ろしもしていたが、ある夜、敷き終えた私を幸雄さんがいきなり押し倒した。

 「だめです。由希子さんは勘がいいから何か気がつきます」

 「当分帰ってこないよ」といいながらスカートの下に手を入れた。

そうだ、これは由希子さんに対する仕返しなのだ、と思った私は積極的に幸雄さんを受け入れていた。私は四十八歳になっていた。終わった後、幸雄さんは

 「自分勝手で、気は強いし、気位は高いし、本当に疲れるよ」と呟くようにいった。

  (7)

 一九八九年一月、昭和天皇が亡くなって年号が平成と改まった。私は長野市から私鉄で二十分ほどの街の私立の老人介護施設で働いていた。去年、乳癌の手術をしたが、七月に受けた検査で肺への転移が発見された。再手術をしなければあと半年ほどの命だと告げられたが、再手術はしないことにした。

 長楽寺ではその後、長男と二男が生まれ、光雲寺さんの奥さんは亡くなり、由希子さんと私との間は険悪になる一方だった。長女を連れて帰宅してから、由希子さんは、幸雄さんと私は只の間柄ではないのではないかと疑いだした。数年間、幸雄さんはのらりくらりとかわし続けたが、とうとうあるとき、肯定してしまった。それからは毎日が地獄だった。

 浅間山荘事件があった年の秋、「出て行け、この淫売の恥知らずめ、二度と来るな」といわれ、外に出たが、行くところはなかった。長生館は規模を縮小していたし、五十も半ばを過ぎた女を雇うわけはなかった。長寿荘も同様だった。仕方なく、母が亡くなって弟夫婦だけになった実家に帰って一晩だけ泊まった。二人の子供は独立していた。私は幸雄さんとのことは省いて、追い出された経過を話したが、途中で涙が止まらなくなった。弟は行く先を捜してみると約束してくれた。

 翌日は長楽寺に戻るしかなかった。お勝手口から入り、自分の部屋で着替え、すぐに風呂場の掃除を始めた。由希子さんは私を見たが何もいわなかった。私が行くところがないのを知っているのだった。幸雄さんは、

 「とにかく喧嘩しないでくれよ、絶対に口答えしないで、下手に出てさえいれば、由希子だってかっとならないんだから、頼むよ」というだけだった。

 また、あるとき二年生になった長女の恭子さんが何を思ったのか炊事をしていた私に、

 「ねえ、美佐乃、来るという字はどう書いたっけ」と訊いた。私は吃驚して、

 「それは奥様に訊いて下さい」といったが、いないというので、小学校で教わった通り「來る」と鉛筆でノートに書いた。

 数日後だった。

 「美佐乃さん、恭子に何を教えたんですか、あなたに教わったばかりに×になったじゃありませんか、大体人にものを教える人間だと思っているの、ばかはばかなりにおとなしくしてりゃいいのに」と怒鳴りつけた。私はついうっかり、

 「小学校ではそう教わりました」といってしまった。

 「あなたは使用人の分際で口答えする気、あなたみたいな淫売が恭子に何か教えたと思うだけで鳥肌が立つわ。顔を見るのも嫌だから、出て行ってよ」といった。後で、今の字は「來」ではなく「来」なのだと知った。そのときも一晩弟のところに泊まった。このような事件が何回かあり、ようやく弟が見つけてきたのが今の介護施設だった。

 私は、ある秋の日の午後、お勝手のテーブルの上に「お世話になりました。美佐乃」とだけ書いた紙を置いて外に出た。幸雄さんと由希子さんは習いだしたゴルフに行っていた。二男の和親さんだけが学校から帰って二階にいた。三人のおやつはテーブルの上に用意しておいた。荷物はたいていのものは弟のところに運んでおいたので、ボストンバッグ一つだった。看護婦とか介護関係の免許はないので、介護補助員という名目で、給料は安かったが三食宿泊つきなので、文句はなかった。幸雄さんからはその後、五万円を送ってきたが、それだけで会いには来なかった。実にあっけない長楽寺との縁切れだった。いや、一度だけ、由希子さんが訪ねて来たことがあった。五年くらい経った晩春の頃で、庭には皐月が赤と白の花をつけていた。来客があるといわれ、応接室に行くと、由希子さんが座っていた。私は驚いて声も出なかったが、立ち上がった由希子さんは、

 「美佐乃さん、本当にごめんなさい」といった。私は少し心がほぐれ、話だけは聞くことにした。幸雄さんはその後、長野市に結成された管楽器と弦楽器の軽音楽団の一員になったのだが、そこの女性と深い仲になっているのだという。

 「こうゆうさんはどんなに強くいっても暖簾に腕押しって感じのふにゃふにゃなのです。そのうちに、あなたを苛めて追い出したのが苦になってたまらなくなってきたのです。どうか許してください」といって眼にハンカチを当てたままふかぶかと頭を下げた。そして、ほんの気持ちです、といって、熨斗袋を差し出した。私は断ったが、押し付けて、逃げるようにして帰っていった。中には十万円が入っていた。

 私は、年金には加入していなかったので、そういった収入は全くない。體が動く間は働いて、いよいよ動けなくなったら、介護を受ける身になって、ここで死なせてもらうように理事長さんに頼んである。去年弟が亡くなったので、身内といえば、弟の二人の子供だけだが、甥は名古屋に姪は東京にいる。遺産は何もないので気楽といえば気楽だ。

 しかし、私の生きた意味は何だろうと、ときどき考えることがある。長楽寺の跡取りを戦中戦後の困難ななかで、育てたこと、これは誰が認めなくても確かだ。だが、私にとっての私の生きた意味とは何か、これが分からない。いろいろ考えた末、つたない文章ながら、私の来しかたを書いてみることにした。医者のいうところだと今は十一月なので、あと二ヶ月の命だが、息切れはひどくなったもののまだ體は動いている。横のテーブルの上にはドライフラワーのセンニチコウ、ケイトウ、ムギワラギク、スターフラワーを松の根の間に配した、フラワーアレンジメントのオブジェが飾ってある。そう、私には趣味というものがなかった。ご亭主が病院の院長である理事長さんからドライフラワーを教わったのだ。理事長さんは、優しく、

 「美佐乃さん、何か一つくらい趣味を持たなければ駄目よ」といってくれた。私は最初に長楽寺に行ったとき、取次の間で見た紫色の残る枯れたアジサイの花を思い出した。ドライフラワーは移ろう美を時間の中に閉じ込める技術だ。だからドライフラワーは末期の花ではなく最盛期の花を使う。末期の花とは何だろうか。そう、この覚書き風の手記こそ私の生涯の終わりの花、末期の花なのだ。そう思わなければあまりにも悲しすぎる。日本はやはり差別する国。ただ、国民健康保険という国民皆保険の制度のおかげで医療費の負担が軽いのはありがたいことだ。私は蛍光灯の下でペンを置いた。書くということは人生を時間のなかに閉じ込めること。これから、つたない文章に手を入れてくれる人を見つけなければならない。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2008/08/20

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崎村 裕

サキムラ ユタカ
さきむら ゆたか 作家 1937年 長野市に生まれる。「煩悩」で第21回日本文藝大賞自伝小説賞受賞。

掲載作は「構想」44号(2008年6月「構想の会」刊)初出。