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善人なほもつて往生をとぐ

 お盆の前の一週間は、朝七時から約一時間はお墓掃除だった。叔母はもっとずっと早く起きているのだが、私は七時より前には目が覚めなかった。

「よし坊、七時だぞ」という叔母の声に私はもぞもぞと動きだす。善昭というのが私の名前だが叔母はいつもよし坊と呼ぶ。

「芋虫ごーろごろ、じゃなくて、もーぞもぞ、だわ」と、いつもの皮肉だ。

 叔母は草掻きと熊手、私は鍬と竹製の箕と鎌を持ち出発だ。といっても二分もあれば目的地に着いてしまう。本寺の大きな本堂の西側なので、朝は涼しく、蔓草は露で濡れている。蔓草を鍬と草掻きで引っ張り、鎌で根元を切っていく。お墓の隅に蔓草を積み重ねると、今度は地面に残った根を鍬で掘り返す。広いお墓だとこれで大体一時間はかかる。お墓が小規模だと二つ、更に小さいのだと三つは清掃可能だ。御影石とコンクリートで固めてあるお墓は玉石の間から細かな草が生えているので、鍬、草掻き、鎌が使えないので手で取るしかないからかえって面倒だ。

 お盆にはお礼だといって、なにがしかの謝礼が入るのを叔母は当てにしている。父が小学校一年、母が三年のとき亡くなり、姉も四年のときに急死して、私が一人になってしまったので、母の妹の叔母が来たのだ。担当しているお墓は十二だ。私の家は浄土真宗の本坊と呼んでいる大きな寺の境内にある西勝寺という門寺である。十三日の夜は迎え盆といって、近くの人たちが大勢提灯を下げて来るが、これは掃除とは関係がない。関係あるお墓の主は遠くの人たちで、大体十三日の午後か十四日に来る。来ると、私は布抱という普段着の黒の法衣を学生服の上に羽織り、輪袈裟をかけて、短いお経を読む。そのなかの一軒である中町さんは毎年十四日の九時ころにやってくる。六十年輩と思われる、長身痩躯白髪の老人と、二十歳過ぎくらいの娘さんだが、これはふっくらとした色白の瓜実顔の美人、それと可愛い五、六歳くらいの女の子だ。三人は春秋のお彼岸にも来るので顔馴染みになっていた。墓地は小さく「中町家累代の墓」と刻んである中程度の墓石がひとつあるだけだ。そこへ、娘さんはショルダーバックから、黒漆に金文字の位牌をふたつ取り出して供え、花を挿し、蝋燭を点け、お線香を上げる。お経は大体、「我建超世願 必至無上道」ではじまる「重誓偈」を読む。これだとゆっくり読んでも五分、早ければ三分だ。位牌のひとつは、何々大姉とあるから娘さんのお母さん、すなわち老人の奥さんかもしれない。もうひとつは居士だから、男の人だが、どういう人かわからない。

「そのお経はどういう意味なのですか」と、突然、娘さんに訊かれて困った。

「ただ、読んでいるだけで、あのー、意味は分からないんです」といいながら私は顔が赤くなるのを覚えた。私はときどきお葬式にもついていき、大体は(にょう)はちという打楽器を打つ役だったが、他の坊さんたちがお経の意味の話をしているのを聞いたことがなかった。

「あのー、誰かに聞いておきます」というと、

「うちは隣町なので、たまには来てください。で、お経の話を聞かせてください」といい、家の場所を詳しく説明した。駅から歩いて七、八分で分かりやすいとのことだった。私は正月と盆のそれぞれ二日間、本坊の代務住職の老僧が回ることのない遠隔地の檀家の家を年賀と盆供養に回っていたが、これを叔母に話すと隣町にも行ったらどうかといった。しかし、隣町には老僧が行っているのではないか、というと、もし文句が来たらやめればいいわといった。一軒一軒、お経を読んで歩くので、叔母はいくばくかのお布施を当てにしている。とりあえず、秋のお彼岸に中町さん宅に行くことになった。

 とにかく、お経の意味を調べなければならない。

 夏休み後、村の中学の図書館で調べたがそんな本はなかったし、国語の先生に訊いても分からなかった。彼岸前の本坊の本堂の大掃除の後、思い切って老僧に訊いてみた。

「だ、大経にある、あ、阿弥陀様の、ありがたい、ち、誓いだ」老僧は吃りの癖があり、特に自信のない話のときがひどかった。

 お経の意味は分からなかったが、お彼岸のお中日は秋分の日だが、その前の日曜日に汽車に乗って隣町に行った。訊かれたらまだ分からないといおうと心に決めていた。駅前の大通りを旅館の横で左に曲がり、しばらく歩いた県道に面した庭のある平屋の家だった。

 あたりの風景には見覚えがあった。小学校低学年のころ、しばしば遊びに来た家が近くにあるはずだった。両親の親分と家と聞いていた。結婚の際、仲人のほかに親分というのを立てるのだという。おばあちゃんと呼んでいた色白の上品な人が亡くなってからはもうずっと来ていなかった。入口の黒い門を潜ると、踏み石の右には大きな井戸があり、左には枝を大きく伸ばした松の木があった。ある日あそびに行くと、武典さんというお兄さんがいた。武典さんは海軍の軍人で、戦闘機に乗っているということだった。戦闘機ってどんなもの、と訊くと、茶の間にあった黒板にチョークで次から次へと絵を描いてくれた。零式艦上戦闘機、彗星、天山、爆撃機銀河などは今でも思いだせるほどだ。武典さんは特別攻撃隊というので名誉の戦死をしたと聞いている。

 玄関のガラス戸を開けると出てきたのはあの老人だった。

「あの、お彼岸のお参りに来ました」というと、

「ごくろうさまです」とやけに丁寧な挨拶をされ、私は庭に面した廊下を通って八畳のお座敷に案内された。床の間の横に小奇麗な仏壇があった。正面に阿弥陀如来、右側に親鸞聖人の画像は形式通りだが左側には見慣れた黒漆の位牌が二つ置かれていた。お経は「重誓偈」と、もう一つ短い「讃佛偈」を上げた。老人は慣れた手つきでお茶を淹れた。煎茶だが湯冷ましを使う本格的なものだった。庭の植え込みには斜めに日が射していて、時々風鈴がなった。いつまで待っても娘さんと女の子は現れなかった。もの足りない気がするのは、最初から娘さんと話すのを期待していたためらしかった。

「あの今日はお孫さんは」と思い切っていうと、

「ああ、香代子と孫は外出しています」ということだった。娘さんとはいいにくかったので、お孫さんといったのだが、女の子はやはり孫だったのだ。するとあのもう一つの位牌は女の子の父親、すなわち娘さんのご亭主なのかもしれない。

「県道を拡張するので、ここは移ることになりました」老人がぽつんといった。

「はあ、どちらへですか」

「長野市です。ちょうど手ごろな家が売りに出ていたので、暮までには移ります。また連絡しますから次からはそちらに来てください」といって老人は鉛筆で地図を描いた。

 帰りにあの親分の家に行ってみた。黒い門はそのままで、風花という表札も同じだったし、井戸も松の木も変わりがなかったが、ひっそりと静まりかえっていた。松の下には草が伸びていた。歩きながら、あの娘さんは香代子というのだ、と私はなんとなく納得していた。私より七つか八つ、もしかしたら十くらい上かもしれない。

 

 柿の葉が音をたてて落ちるころ中町さんから転居の挨拶状が来た。余白に正月にはお待ちしています、と柔らかい字で添え書きしてあった。香代子さんが書いたのかもしれないと思った。お経の意味を調べなくてはならなかったがどうすればいいのか分からない。お経の本の漢字をじっと眺めたが意味が浮かび上がってくるはずもなかった。

 正月の三日に長野市に出かけた。元日と二日は老僧と村の檀家への年始周りだが、三日目から老僧は近隣の村を一人で回る。長野市は汽車の駅で三つも先なので、老僧は行かない。叔母の命令で私が行っていた。今年の年賀の品は縫い針セットで、訪問先は八軒だったが、中町さんが一軒増えたので九軒だった。八軒を済ませた後、老人が描いた地図を片手に捜すと案外簡単に分かった。善光寺へ通ずる大道りと交差する道を右に曲がり、しばらく歩くと小学校があるが、その手前を左に曲がってすぐだった。やはり平屋のこじんまりした家だった。中町という表札を確かめて、玄関の格子戸を開ける。と、いきなり香代子さんが現れたのでびっくりした。黒のスラックスに白のセーターの上に赤い半纏を羽織っていてなんとなく気さくな感じだった。廊下の右には庭があり、奥に座敷があるところは前の家に似ていた。ただ座敷は六畳で床の間の部分が押入れになっていて、横にあの仏壇があった。読経の後、勧められるまま炬燵にあたるとガラス戸の先の庭の石灯篭の上や、南天の植え込みの下などには雪が残っているのが見えた。香代子さんは老人と同じように慣れた手つきでお茶を淹れた。

「あの、父と娘は散歩がてらの買い物に出ています」

「お幾つですか」

「この春入学なのです。こちらに来たら、そこの小学校に付属の幼稚園がありまして、入れました。集団生活に慣れないといけませんので」

 私はお経の意味を調べてないことをいわなければと思った。そういうと、

「いつでもいいんですよ、あまり気にしないで下さい」といってお茶を注いだ。

「お経に興味があるのですか」

「そういうわけではないんですが、浄土真宗の開祖は親鸞聖人でしょう。なにか親鸞は自分に極楽往生の道を聞いても無駄だ、自分は念仏が極楽への道なのか、地獄への道なのか知らないからだっていうようなことをいっているでしょう。念仏以外の行は何もできないので念仏を唱えているだけで、念仏が地獄への道であっても後悔はしない。自分はもともと地獄へ行くしかない人間なのだからとか。で、そんな変わった教えのもとになったお経ってどんなものか知りたいと思って」

 はじめて聞く話だった。後で、どこに書いてあったのですか、とか誰かに聞いたのですか、と質問すればよかったと思ったが、そのときは、何も知らない私が恥ずかしい気がして黙っていた。

 「映画はお好きですか」香代子さんは話題を変えた。嫌な話題になったと思った。映画なんかほとんど見たことがなかったので、答えようがなかったからだ。

「はあ、まあ」と曖昧な返事をすると、

「どんなのを見ましたか」ときた。隣町の劇場で一回、小学校の体育館で数回見たことがあったが、と考えていると、奇跡的に題名が浮かんだ。

「無法松の一生、でも、途中でフィルムが切れたりして、太鼓の音だけが耳に残っています」

「へー、渋いんですねえ、私も太鼓のシーンよく覚えている。今度、一緒に行きませんか。父は映画を見ないし、一人ではなんとなく行きにくいんです」

「でも、長野市までは遠いし、多分だめでしょう」私はやっといった。

「あら、お金なら心配しないで、わたし出しますから」

「いや、お気遣いなく」といって早々に退出した。

 家の環境から考えると長野市で映画を見るなんてとんでもない話で、叔母が許すはずもなかった。駅前の店でお汁粉を食べた。正月はお雑煮は食べるが、お汁粉は食べたことがなかったので、中学一年のときから、長野市の年始まわりの後の習慣になっていた。善光寺のお札を持った人などで店は混んでいた。

 

 その年の四月、私は高校生になった。千曲川の対岸の高校までの片道四キロを歩いて通った。入学当初は一緒に入った七、八人でわいわい話しながら歩いていったが、やがて一人が自転車に乗ると、次々と自転車通学になり三ヶ月もすると、歩いているのは自転車のない私一人になった。一人になると自然に足が速くなり、最後は四キロを三十五分で歩いた。七月の梅雨明けに大雨が降った。定刻に家を出て、千曲川の木の橋まで来て、私は息を飲んだ。橋がないのだ。いや、正確にいうと、橋桁は残っているのだが、橋板がないのだった。よく見ると、対岸の土手の上に橋板は積んである。増水した水に流されないように取り外してしまったのだ。二キロ上流の鉄橋を渡るしかなかったので一時間目の授業には間に合わなかった。

 高校に入って吃驚したのは図書館だった。独立棟で、村の中学の図書室とは比較にならない膨大な図書が書棚に並んでいた。私は中学二年のとき、偶然家にあった吉川英治の「太閤記」の第一巻を読みその面白さに取り付かれた。何とかして第二巻以下も読みたいものと思っていたところ、国語を教わっていた隣のクラスの先生が持っていることが分かり、借りることに成功、全巻を読み通した。家には外に島崎藤村の「破戒」の前半だけがあった。後半はとれていて、あちこち探したがなかった。河出書房の現代日本小説体系があったので、まず「破戒」を読んだ。それから「春」「新生」、漱石の「ぼっちゃん」「心」、鴎外の「高瀬舟」などの短編、志賀直哉の「小僧の神様」「剃刀」「清兵衛と瓢箪」などの短編から「和解」を読んだ。そしてある日、倉田百三の「出家とその弟子」を偶然に手にとったのだ。六幕の戯曲だったが親鸞聖人が登場しているので、読み始め、三日ほどでなんとか読了した。分からないところも多かったが、二幕の終わりに香代子さんから聞いた「自分はもともと地獄へ行くはずの人間なのだから」という話が載っていた。香代子さんはこれを読んだのかな、と思ったが少し違うような気もした。それと、親鸞に勘当された息子の善鸞が最後まで、阿弥陀如来を信じられないといっているのが印象に残った。

 また、「仏教大事典」があったので、浄土教というのを引いてみた。浄土教の根本経典は「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」と出ていた。私は「阿弥陀経」は空で誦すことができたが、他の二つは読んだことがなかった。もっとも、空といっても、口癖で覚えているだけなので、途中で間違えると後が出てこないのだった。内容は全くといっていいぐらい分からない。ただ夢のような浄土の風景が描かれていることは確かだった。

 しかし、気がかりだった「重誓偈」の出所は分からない。ある日思い切って中年の男の図書館の先生に訊くと、「仏説無量寿経」の一節ではないか、お寺ならそのお経はあるだろうから調べてみたらどうか、といった。そこで、家の小さな御堂を探すと上下二巻のその経本が出てきた。上巻から見ていくと半分くらいのところに出ていた。ついでに「光顔巍巍 威神無極」ではじまる「讃仏偈」も始めの方に出ていた。しかし意味は分からないままだ。

 一方、勉強の方はどうかというと、一番困ったのは英語だった。村の中学の英語の先生は生徒管理には全く関心がなく、私語をしていようが跳ね回っていようが一切注意をしないで、数名の女子の生徒だけを最前列に呼んで授業をした。高校の入試に英語がなかったこともあって、私は女子の中に行くわけにもいかず、英語の時間は遊ぶか、本を読んでいた。その結果、be動詞の変化もろくに知らないまま高校に来た。ところが高校では殆どの生徒が英語の基礎知識を持っていた。授業は読本と文法に分かれていたが、文法の教科書には日本語は一切書いてなかった。読本の方の試験は教科書通りに出る日本語訳の問題があったので、訳を丸暗記して、見当で書いたが、文法は全く分からなかった。成績は両者をまとめてつけるので、なんとか単位不認定だけは免れた。二年になると授業の一部が能力別編成になり、当然というべきか英語はA,B,Cと分けられたクラスのCクラスに入った。これではいけないと一念発起して、高校受験用の文法中心の参考書を買ってきて、徹底的に読んだ。これだけで、六月に行われたCクラス用のテストで七十点をとり、八十人中一番になり、二学期にはBクラスに入った。そして、三学期には待望のAクラスに入ることが出来たのだが、何故か、三年生になると能力別編成はなかった。

 話は前後するが、一年の終わりのお彼岸に中町さん一家はお墓参りに来た。女の子は四月からは二年生ということで、新一年生を迎えることばを二年生を代表していうのだと香代子さんが嬉しそうにいった。三つ編みにした髪が可愛らしかった。ようやく、暖かくなったが、お墓の杉の巨木の下にはまだ雪が少し残っていた。お参りが済んだ後、

「今、また逢う日まで、という映画が来ているんです。見に来ませんか」といった。

 長野市で映画を見るなんて夢のようなことなので、すぐに返事はできなかったが、「叔母に」、ということばを省略して、

「訊いてみます」とだけいった。すぐに叔母にいうと、

「そんなとこへ行くのは不良だわ」といって取り合わない。

「中町さんが映画代は出してくれるって」確信はなかったがそういうと、意外そうな顔になった。

「あの、じいさんがか?」

「さあ、一緒にいくのは娘さんの方だと思うけど」早く返事をしないと帰ってしまうかもしれないと気があせった。

「まだ、いるのか」

「庭を散歩してるけど」庭は福寿草は終わったが、クロッカスが咲き、水仙とチュウリップが伸び、蝋梅が黄色い花をつけていた。と、叔母は急に立って縁側に出た。

「まあ、すみませんです。こんな坊ですがよろしくお願いします」といった。叔母は他人が相手となるとがらりと態度が変わるのだ。

 次の日曜日に中町さん宅へ行くと、香代子さんが萌黄色のコートに毛糸の白い帽子を被って出てきた。盛装した女の人と町を歩くなんて面映い感じで、人々の視線はむしろ、学生服の上に変てこなマントを着た私に集まっているような気がした。映画館の前には道路にまではみ出す行列が出来ていた。

「この程度なら十分座れるから、もう五分遅いと無理ね」

「お嬢ちゃんはお家ですか?」

「ええ、連れてこようかとも思ったんだけど、小学校一年生じゃちょっとね、それに行かないっていうし」

 後ろの席が取れた。最初は時代物だった。「また、逢う日まで」は愛し合う若い男女を戦争が引き裂くという筋で、ヒロインが空襲で亡くなる場面では涙が出た。ガラス窓を隔てて接吻するシーンも切なかった。香代子さんはハンカチを目に当ててずっと泣いていた。

気がつくと私の右手は香代子さんの左手によってしっかりと握られていた。

 三時過ぎに近くの食堂に入って、中華丼を食べた。とろみのついた各種の具は珍しい上に美味だった。

「あの、我建超世願ではじまる重誓偈というお経、仏説無量寿経という長いお経の中にあることが分かりました。だけど意味は分かりません」

「別に急がなくてもいいのよ、人は死ななければならないとき、死の意味というか、逆にいうと生きる意味を求めるでしょう、そういうことと関わりがあるのかと思って」

「お父さんは学校の先生ですか」

「あら、よく分かるわねえ、今は週三日非常勤ということで行ってるだけだけど」

 香代子さんは長野市内の旧制中学以来の名門高校の名前をいった。

「国語の先生ですか」

「英語です。戦時中は敵国のことばということで嫌な思いをしたらしいけど」

 英語とお経は私の頭の中では結びつかない。意外だった。一瞬、苦手な英語を教えてもらえるかもしれないという考えが浮かんだが、いや、余りにも出来ないので呆れられるに違いないと思い返した。それからずっと考えていたことを思い切って口にした。

「あの、中町さんでは他人行儀すぎるし、香代子さんでは変だし、お姉さんと呼んでもいいですか。姉とか、妹とかがいればいいのになって、ときどき思うんです」、いってしまうとすっきりした。

「え、びっくりするじゃないの、そうね、いいわよ、私も弟が欲しいと思ったことがあるわ」香代子さんの顔はほんのりと赤くなったような感じだった。

 何故か、急に気が楽になり、自然に話しができるようになった。香代子さんは近くの印刷会社に勤めて、校正の仕事をしているのだという。帰りはほかほかと暖かい真綿に包まれているような感覚だった。こういうのが恋というのかな、とも思ったが、しかし年が離れているから恋の筈はない気がした。

 二、三日後、こういった幸福感を伝えたいと思って、御礼を兼ねて、とても楽しかった、という内容のはがきを出した。しかし、返事はなかなか来なかった。四月も半ばになってやっと来たがわずか数行だった。

  暖かくなりましたね。いろいろととりまぎれてお返事おそくなってごめんなさいね。

  また、いい映画が来たらお知らせします。叔母さまによろしくお伝え下さい。

 私は何度もそれを読み返した。要するに、私が感じているほどには香代子さんは感じていない。単純に一緒に映画に行く弟のようなものが出来たということでしかないのだ。ただし、また映画に誘うというのだから、期待は出来る。しかし、映画館の中で手を握ったのは何だろう、いとしい人の手と間違えたのではないか、など、いろいろな思いが次々とやってきたが、とにかく、一定の距離を置くという意味だと解釈するしかなかった。

 四月下旬の土曜日の午後、足は駅の方角に向いた。汽車通の何人かの同級生が不思議そうな顔をしたので、親戚に行くのだと説明した。長野駅で降りたが、目的地は中町さんの家しかなかった。近くまで行くだけだと私は自分自身に弁解し、善光寺に向かって歩いた。小学校のところを左に折れると昼下がりの小路は静まり返っていた。とうとう中町家の前まで来た。家に特別変化はなかった。香代子さんが出てくれば、何というべきか決めてなかったので、急に、誰も出てこなければいい気がした。ふと新しい表札が出ているのが目に入った。

 中町英輔、香代子、とあり、その横に風花和代とあった。この前までは中町という表札だけだった。和代というのは、小学校二年の娘だろう、確か、かずちゃん、と呼んでいた。

風花というのは何だろうか、もしかしたら、亡くなった父親の苗字かもしれない。そのとき、小路の先から人が来たので私は足早に大通り向かって歩いた。

 とにかく、香代子さんは私が思っているほどには、思っていないのだ、と私は何度も自分自身にいいきかせ、このことは忘れようと思った。

 

 夏休みに二週間ほど土木関係のアルバイトをした。お寺関係の収入は全て叔母に預け必要に応じて貰っていたが、何々に使うからと一々説明するのが面倒だった。それに、叔母は一言必ず疑惑のことばを口にした。夏休み前のある夜、話しているうちに、肉体労働で得た収入なら、全て私のものになるという約束をとりつけることに成功したのだ。そこで、土方に行くというと、そんな人聞きの悪いことをしなくても、といったが無視した。

 近くに、通称丸田のターさんで通っている土木の仕事をしている家があり、そのターさんに、働きたいというと、すぐに話しはつき、翌日から息子の岩男さんと一緒に村内の製材屋に行った。井戸のところから堰を掘ってU字溝を埋め、その蓋を作る仕事だった。すでにU字溝は埋められていたので、もっぱら蓋を作った。鉄板の上に川砂を楕円状に置き、真ん中にセメントと水を入れ、二人一組でスコップで練ったコンクリートを 鉄枠の中に流し込んで、固まったら枠を外す仕事だった。私の他に数人の男の人が働いていた。弁当を製材所の隅の板の間で食べ、そこで、二時ころまで昼寝をして、六時には上がりだった。

 次は中町さんのいた町とは反対側の町の真教寺というお寺に行った。ターさんの家の自転車を借り、十五分だった。総門から本堂までの参道の煉瓦を取り除いた後、掘り下げて小石を敷き、コンクリートを流してその上に洗浄した煉瓦を並べなおす仕事だった。曹洞宗のお寺で、住職は東京の大学の先生をしている、と岩男さんがいった。

「曹洞宗というのは禅宗だなあ」と岩男さんがいったので、

「道元というお坊さんが開いたんだ」と日本史で習ったばかりの知識を披露した。

「お宅は浄土真宗だわな、お経なんかも違うだわな」

「多分、でも、詳しいことは分からない」

「お寺にいても、宗派が違えば分からねだなあ」という。本当は浄土真宗のことも分からないのだ。

 お昼は本堂で食べ、そこで昼寝もした。製材所と違い、涼しくて快適だった。二日目に五十くらいの年恰好の住職が自ら麦茶を運んできた。もんぺのようなズボンに付紐のついた着物のような上着だったので、岩男さんに訊くと作務衣というもので、禅宗のお坊さんがよく着るのだという。

「こちらは、家の近くの西勝寺の息子さんで」と岩男さんが私を紹介した。

「そうですか、御先代はよく存じ上げています。仏教会でよくお会いしましたから。そういえば似ていなさる。亡くなられてからどのくらいですかな」

「十一年です」といってから、質問してみる気になった。

「大学では何を教えておられるんですか」

「まあ、日本仏教史とでもいうようなことです」

「東京へは通えるんですか」

「大学へは週三日行けばいいので、行ったら向こうに泊まります」

「あの、浄土真宗に重誓偈というお経があって、これは仏説無量寿経というお経の一節だと分かったんですが、ある人に意味を訊かれているんです。無量寿経というお経には一体何が書いてあるんでしょうか」

「いや、これは本格的な質問だ。そうですな、一言でいえば、はるかな昔、世自在王仏という如来、仏様がいらっしゃって、この王仏の下で、王様という地位を捨てて、一心に修行していた法蔵という方がいらっしゃった。で、法蔵さんが四十八の誓いを立てられ、五劫という長い長い時間思惟され、この誓いを全て成就された結果、阿弥陀如来となって今も西方浄土にあって法を説いておられるというのです。重誓偈というのは四十八の誓いを立てられた後、もう一度重ねて誓ったということです。適当な本を用意しておきますから帰りに庫裏にお寄りなさい。さすがは西勝寺さんのご子息だ」

 何だかくすぐったいような気分だったが、岩男さんの私を見る目が違い、他の男の人たちも何だか感服しているようだった。

 夕方庫裏に行くと、奥さんのような人が厚表紙の本を持ってきた。「浄土三部経講義、柏原祐義著」とあった。何度もお礼をいって風呂敷に包んだ。

 難しい本だったが、とにかくお経は読み下し文になっていた。鉛筆の走り書きの便箋がはさまれていて「浄土真宗では四十八の願のうち特に第十八願に重きを置くようです」とあった。まず、光顔巍巍の「讃仏偈」は法蔵菩薩が四十八の誓願をする前に世自在王仏を讃えた詩のようなもの、「重誓偈」は誓願をした直後に重ねて誓ったやはり一種の詩であることが分かった。第十八願は「たとえ、われ仏となるをえんとき、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生まれんと欲して、乃至十念せん。もし生まれずんば正覚を取らじ。ただ五逆と正法を誹謗するものを除かん」というのだった。解説を読んでも分からなかったが、どうもポイントは「乃至十念」にあるようだった。中国の善導という坊さんが十回念仏を唱えることと解釈したというが、親鸞は極楽浄土に生まれたいという願いを十回起こすことと解したという。ただし、十という数字に特別な意味はないとあった。しかし、正直いって何かピンとこなかった。まあ、要するに南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生できるという考えの根拠であるらしいことだけは想像できた。最終日に本を返しにいくと、住職は庭木にホースで水をやっていた。

「どうかな、何か分かったかな」という。

「いや、難しくてよく分かりませんでした」

「人間は喉が渇けば水を飲みにいけるが、庭木はひたすら雨を待つしかない。そこで人間が水をやる、これも仏道だよ」

「はあ、仏道ですか」

「仏道を習うというは、自己を習うなり、自己を習うというは、自己を忘るるなり、といってな、分かるかな」

「はあ、仏道というのは自分を忘れるということ」

「そう、その通り、飲み込みがいい、すまないがちょっとそこのポンプを押してくれ」住職の目の先を見ると、井戸とポンプがあり、ポンプの先は鉄骨の上のコンクリートの水槽に繋がり、住職の手のホースは水槽の蛇口へと続いている。ポンプを押すと水は楽々と水槽に入っていく。

「うまく出来ていますね」というと、それには答えず、

「自己を忘るるというは万法に証せらるるなり。これはちょっと難しいが、天地万物の法と自己が一体になること。しかし、われわれのような迷い多い人間はなかなか自己を忘れられない、そこで座禅をする」といった。

「和尚さんでも迷いがあるんですか」

「それはそうだ、坊主なんて迷いの塊だ。しかし、お宅の方の親鸞さんも同じことをいっている。如来に賜りたる信心だ。阿弥陀如来を信ずる心も如来に貰ったというのだ。おのれが信じているのではない、如来によって信じさせてもらっているという。人間は生まれようと思って生まれてきたのではない。如来の力によってこの世に出させて貰ったのだ。人間は本来はおのれなんてない。そして命が終わればかの国に帰る。おのれというものがあると思ってもそんなのは一瞬の迷妄に過ぎない、ということだ」

「如来に貰った信心ですか」

「そうだ。唯円というお弟子さんの書いた歎異抄という書物にある。貸してやろうか」

「いや、学校の図書館で見ます」

 借りるとまた面倒な問答に巻き込まれそうなので、図書館といったのだが、あるかどうかは分からなかった。

 日当二百円で十四日分、二千八百円を得た。高校の授業料は月三百五十円だった。

 

 お盆に中町さん宅に行った。夕方で、家の中には熱気が残っていたが、入ってくる風は涼しかった。家には老人だけで、香代子さんの気配はなかった。

「あの、香代子さんは」お姉さんというのも変だし、娘さんもおかしいので、恐る恐る名前をいったのだが、老人はそれは気にしてはいないようだった。

「香代子には縁談がありまして、孫といっしょにそちらの方に行っております」

 今日はとにかく「重誓偈」の説明が出来ると思って来たのだった。やはり再婚するのだ、と思うと、胸の中が急に空虚になった。娘が相手に慣れるようにと連れて行ったのだろう。

「香代子さんにお経の意味を訊かれていたのですが、少し分かりました」といって、私は無量寿経の話をしたが、老人は聴いているのかいないのか、目を植え込みの方に向けたまま、相槌もうたない。英語の先生だから、お経には興味がないのだ、と考え、帰ろうとすると、

「香代子に話しておきます」といった。香代子さんのいない中町家なんて、抜け殻みたいなものだ。次回からはお経を読んだらすぐに帰ろうと思った。

 図書館で、古典文学全書の中に「歎異抄」を発見した。香代子さんがいった、親鸞が自分に極楽往生の道を訊いても無駄だ、といった話は第二章に出ていた。「出家とその弟子」の話の出所も多分同じだろうと思った。真教寺の住職がいった、如来に貰った信心は、第六章の親鸞は弟子というのは一人も持っていない、なぜなら、人はわが力ではなく、如来の力で念仏しているのだから、の話の中に「如来よりたまはりたる信心」とあり、第十八章中の法然の信心とその弟子である親鸞の信心とは全く同じかどうか議論になったときの法然のことばとして、「源空が信心も如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり。されば、ただ一つなり」とあった。源空は法然上人のことであり善信は法然の弟子になったときの親鸞の名前だと解説してあった。また、日本史で習った有名な「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は第三章にあった。

 丁度、生徒会の新聞が随想を募集していたので、この話を書いて投稿したところ掲載され、国語の先生に注目された。

 秋のある日学校から帰ると香代子さんから封書が届いていた。封書を鋏で開くとき何故か手が震えた。

「朝晩は寒いくらいになりましたが、お元気でお過ごしのことと思います。さて、私ごとですが五月ころ再婚の話がありまして、父も勧めますし、会うだけは会ってみようということで、和代を連れて何回か会いました。その方も再婚なのですが、子供はおりません。信用金庫にお勤めの普通のサラリーマンという感じの方なのですが、前の奥さんとは離婚ということですが、何故離婚になったのか、何もおっしゃらないので、一切分からないのです。お宅へも伺いましたが、お母様と妹様の三人暮らしなのですが、お二人ともそれについては何にもおっしゃいません。こちらからあまり訊いても失礼かと思い、訊きませんでした。年は私より一つ上で、年恰好は丁度いいのですが、先夫と違って戦争中は陸軍に召集されましたがずっと内地にいたそうです。喫茶店で会っても余り話しはないのです。私が嫌いかというと、そうでもない様子なのですが、何か、頼りないのです。そして、何よりも、和代がなつかないのです。和代は善昭さまの方がいいといっています。結局、いろいろ考えましたが、和代と二人で先夫の思い出と共に生きていこうと決め、この話はお断りすることにしました。

 また、父からお経の話を聞きました。先夫は大学在学中に海軍に招集され、特別攻撃隊で沖縄戦で戦死したのですが、大学のときの研究テーマは日本思想史でした。日本思想の中核は鎌倉仏教にあるとよく申しておりました。源信、法然、親鸞、道元、日蓮などが、日本独自の優れた哲学を生み出したというのです。しかし、宗教であって、哲学とは見なされていないのは残念で、自分は是非哲学として再評価したいというのです。しかし、話は難しくて私には半分も分かりませんでした。夫はこれで死んでいくのは無念であると何度も申しました。

 夫の戦死後、その意志を継ごうなどと考えたこともありましたが、私の能力では無理なようです。でも、まだ意思だけは残っていますので、あのようなことをいいました。また、お会いした折、いろいろと教えてください。夜もだいぶ更けました。ご自愛とご研鑽をお祈りいたします」

 読み終わったとき、生きる張り合いのようなものが静かに沸きあがってきた。が、返事を書こうとして、机に向かったが一向に文章が浮かんでこなかった。この種の手紙はもちろんはじめてだったが、そもそも手紙というものを書いたことがほとんどなかった。ともかく、三日ほどかかってようやく書きあげた。

「お手紙ありがとうございました。私はまだ高校生で世の中のことも人生のこともよく分かりませんが、はじめてご主人のことを読みまして、あの特攻隊で亡くなられたのかと思い感慨がありました。私の親戚といいますか、亡くなった両親の親分というのを勤めたという家に小さいころよく遊びに行きましたが、一度だけ、そこの確か武典さんという人に会ったのを覚えています。海軍の軍人さんで、飛行機に乗っているということで、零式艦上戦闘機とか彗星とかの絵を黒板に描いてもらいました。余りに上手なので、もっともっととせがんだのを覚えています。武典さんは特攻隊で戦死したと聞いています。そこのおばあさんが亡くなられてからはもうずっと行っていませんが、そんなことを思いだしました。またぜひお会いしたいと思います。和代さんも大きくなったでしょうね。ではお会いする日を楽しみにしています」

 和代さんのことを書いたのは「善昭さんの方がいい」というのに対して何か書かなくてはと思ったからだ。縁談については何度も書いてみたが、不自然な文章になってしまうので、一切何も書かないことにした。投函してからは学校から帰るとすぐに郵便受けを覗いた。そして、一週間後再び封書が届いた。

「お手紙拝読して驚きました。その武典というのが私の先夫なのです。世の中には偶然というのがあるのですね。もっともよく考えるとありうる話ですよね。武典さんのお宅は前の私の家の近くで、小さいころから知っていました。私より四つ年上で、おにいちゃん、おにいちゃんといって可愛がってもらいました。トランプの手品や剣玉やヨーヨーを教えてくれました。また男の子なのにお手玉も上手でした。私が女学校二年になったとき旧制の高等学校に入って、女学校を卒業したときにはもう大学生でした。確か、昭和十八年の十月だったと思います。突然私の家に見えまして、そのころはまだ健在だった母と三人で話したのを覚えています。戦争が苛烈になり、大学生にも学徒出陣という名の召集令状がくることになったので、戦争に行くことになるだろう、といいました。まだ空襲もなかったし、英霊となって帰ってくる人もそれほど多くなかったので、とにかく無事に帰ってくればいいと、なんとなく思いました。帰りに母は私に駅まで送っていくようにいいました。二人だけになると何を喋ったらいいのか分からず、武典も無口でした。それに非常時ということで若い男女が連れ立って歩いているだけで白い目で見る風潮があったのでなおさらでした。とうとう駅に着いてしまいました。武典はじっと私の目を見つめました。私も見つめました。「戦争に行っても必ず無事で帰ってきて下さい」と私はいい、「必ず帰ってきます」と彼はいいました。それから鞄から封筒を出して、「後で読んで下さい」といいました。やがて改札となり、機関車が入ってきました。彼は乗ると間もなく窓から首を出しました。私は手を振り、彼も振りました。汽車が遠ざかってから、封書を開きました。大学生になってはじめて帰郷したとき、久しぶりに成長した私を見て、自分はこの人を生涯の伴侶にするのだという考えが天啓のように閃いたとありました。しかし、学徒出陣が決まり、戦争に行くことになれば、生命の保証はない。戦争が終わって無事帰還したら、そのとき、ということで、今日その話に来たというのでした。隅に鉛筆の走り書きで、私の母は快く了解したと書いてありました。私は子供のころ、よく、大きくなったら武典さんのお嫁さんになるといっていたことを思いだしました。そして、武典と私は切れない糸で繋がっていたのだと思ったのでした。

 こんなこと長々と書いて御免なさいね。偶然の一致に吃驚してつい書いてしまいました。つづきはまたお会いしたときにでもお話します。お勉学にお寺のお仕事にお元気でお励み下さい」

 私は武典さんの顔を覚えているわけではなく、色の白い、背の高い人という漠然とした印象しかなかったが、和代さんが子供だとすると何となく似ているような気もした。もちろんすぐに吃驚したという返事を書いたが、その返書は来なかった。

 次に会ったのはお正月である。老人、香代子さん、和代さんと三人が揃っていた。夕食を食べていけということばに甘えてご馳走になったが、香代子さんはそのことについては何もいわなかった。ただ、老人の妻、つまり香代子さんのお母さんは急性膵炎という比較的珍しい病気で急死したという話が出た。入院して、三日目に亡くなったという。帰りに香代子さんは「ひめゆりの塔」という映画を見に行こうといった。

「和代も一緒にどうだ、もう二年生だからある程度は分かるだろう」と老人がいった。

「どう、行く」香代子さんがいうと、

「うん、行く」と答え、私を見上げた。

 数日後の日曜日にこの前と同じ映画館で三人で並んで見た。夏休みのアルバイト料があったので、今回は香代子さんに迷惑をかけなかった。香川京子主演で看護婦として陸軍病院に配属された沖縄師範女子部と第一高等女学校の生徒たちが薬品も包帯も不十分な中で必死に看護活動を続けながら、次々に死んでいく沖縄戦の実態を生々しく描いたものだった。間に特攻隊の映像もあった。体当たりする前に集中砲火で日本の戦闘機は一機また一機と炎上して墜落した。香代子さんは、ずっとハンカチを目に当てていた。和代さんは途中で眠ってしまった。

 この前と同じ喫茶店で三人であんみつを食べた。

「お父さんはあの戦争で亡くなったんだよね」和代さんがいった。

「そう、だから二度と戦争はしないってことね」

「お父さんてどんな人だったのかな」

「優しい人だった。戦争になんて行くような人じゃなかった」

 外に出ると雪がちらついていた。二人は門松の残った繁華街を手を繋いで帰っていった。

 

 一月の中旬分厚い封書が来た。

「その後お元気のことと思います。和代もいましたし、やはり面と向かっては話にくいので、お手紙にします。それに書いていると心の整理が出来、落ち着いてくるのは不思議です。昭和十八年十月二十一日、学徒出陣壮行式が東京の神宮球場で行われ、私は母と出席しました。あの広い球場は白のたすきに学生服の出陣の学生さんで一杯になり、観客席も満席で、小雨が降っていました。女学生や専門学校の女子学生のような人もたくさんいて、泣いている人もいました。先生が大声で泣くなといっていました。いろいろな人の演説を聞いているうちに、戦争に行くということは帰ってこないということもありうるのだと思うと私は胸が詰まり、武典さんが望むなら、戦争が終わってからではなく、すぐにでも結婚してもいいと思いました。帰りの汽車の中でそういった意味のことをそれとなくいうと、母はしばらく考えてから、父と姉(年の違う姉がいてU市に嫁いでいました)に相談してと答えました。それから私は中町姓を継がなければならないといいました。武典は十二月、海軍に入隊しました。翌十九年海軍航空練習生となり、四月か五月ころ幹部候補生試験に合格し、海軍少尉に任官したと連絡がありました。松島航空隊などを経て、秋には千葉県の木更津航空隊に移りました。武典から私が望むなら結婚したいという意思表示があり、町の旅館で近親者だけが集まってささやかな式を挙げました。仲人は父の同僚でもあった中学校の先生にお願いしました。私の方は両親と姉、武典方はお母様とお姉さま夫妻と叔母さん夫妻でした。すぐ上のお兄様は出征されて中国戦線に従軍されていました。

籍の方はとりあえず風花姓を名乗り、戦争が終わった時点で再度両者で話し合って、入籍することになりました。

 式後すぐに木更津に向かいました。基地の近くの民家の離れが新居で、十二月まで暮らしました。武典の仕事は訓練生に航空機の操縦を教えることでした。戦局が苛烈になり、戦死者が急増しているので、自分のような未熟なものが教官を務めなければならないのだ、といっていました。千葉県は年末になっても雪が降らず、菜の花が咲いて暖かでした。戦時下といっても海産物は豊かで、新鮮な魚が簡単に手に入りました。正月に一緒に帰省して千葉に帰ってから間もなく鹿児島県の鹿屋基地に転属になりました。このとき特別攻撃のことを聞きました。フィリッピンのレイテ沖海戦のときから採用された作戦で敵艦に体当たりするのだそうです。それでは生きて帰ることはないではないか、といいますと武典は頷いて、不可抗力、とだけいったのを覚えています。そんなのはいやだと私は泣きました。武典は黙って考え込んでいました。

 武典は戦闘機を操縦して任地に向かい、それを見送ってから、私は一人実家に帰りました。二月、しばらく鹿屋で暮らすことになり、武典のお姉さまと一緒に汽車を乗り継いで二日かかって鹿屋に着きました。そこの旅館で十日ほど過ごしました。やはり暖かで、二月なのに雨が降りました。土手にはたんぽぽやすみれが咲いていました。そのときみごもったのが和代です。すでにマリアナ諸島はアメリカ軍の手に落ち、サイパン島からB29が東京などを空襲していました。鹿屋基地にも艦載機による空襲がありました。硫黄島では激戦が続き、次の目標は沖縄だといわれていました。二月の終わり、戦局はいよいよ苛烈になりここは基地があり危険だからと説得されて郷里に帰りました。敗戦後鹿屋基地で航空機の整備員だった羽瀬さんという人が訪ねて来て分かったのですが、三月十八日に出撃命令が出されました。アメリカ軍機動部隊が根拠地のウルシー湾を出港して沖縄方面に向かったからです。特別攻撃でしたが、帰還の可能性が零ではない身を挺して攻撃する挺身攻撃だった可能性もあるそうです。武典たちは二十〇日の未明に鹿屋基地を飛び立ちました。父母と妻をよろしくが最後のことばだったそうです。戦死の公報が入ったとき、覚悟していたためかそれほどの衝撃はありませんでした。父は四月から生徒を引率して愛知県の軍需工場にいくことになり、私も近くの軍服の縫製工場で働くことになりました。妊娠しているのに気がつきましたが働き続けました。いずれ本土決戦になれば、自分も死ぬのだからと特に悲壮感もなく思いました。

 だいぶ遅くなりました。外は雪のようです。武典が何を考え、どういう思いで死んでいったかについてはまだまだ未整理ですが次の機会に書いてみたいと思います。ではおやすみなさい」

 私はどう返事を書いていいのか迷ったが、戦争体験のない自分だが、激しく心を動かされたとだけ書いて出した。

 それからしばらく連絡がなかった。春のお彼岸には老人だけが墓参りに来た。香代子さんは急用が出来たということだった。

 

 五月、新緑の季節である。連休の一日、香代子さん、和代さんと三人で新潟県境の野尻湖に行った。柏原(現黒姫)駅で下り、まず小林一茶の生家を見学してから、国道を横切って山道を歩いた。落葉樹が一斉に芽を吹き、落ち葉の間からは蕨が覗き、たらの木の芽が伸び、がれ場には山蕗が生え、独活(うど)も生長していた。香代子さんは山菜を採るのも目的だったらしく、用意した布製の袋に蕨を摘んで詰めた。たらの木は棘がある上に背が高いので先端の芽は採りにくい。私が難渋していると香代子さんはザックから鎌を出して渡した。鎌で茎を引き寄せれば簡単だ。私はもっぱらたらの芽、香代子さんと和代さんは蕨を摘んだ。一時間余りで、袋は一杯になった。

 それから、杉林の中を一時間と少し登り、道が平坦になったと思ったら、目の前に湖が現れた。対岸には売店や桟橋があるが、こちら側には施設もないし、人の姿もない。正面に鳥居のある島があった。

「お弁当にしましょう」といって香代子さんは草の上に油紙を敷き、ザックからお握りと弁当箱を出した。私は持ってこなかったので、ご馳走になった。家は通常麦飯なのだが、叔母は特別白米を炊くといったが、断ったのだ。私は麦茶を入れた水筒とゆで卵を持ってきた。

「善昭さんは学校へ行っているんだよねえ」和代さんがいった。

「そう、高校三年生なのよ、和代も小学校の次は中学校、それから高校よ」

「善昭さんがお父さんになるなんてことはないよねえ」

「もちろんないですよ」私は吃驚して、急いで断言した。

「よかった」和代さんは安心した顔になった。

 当たり前のことのはずなのに、私は何か裏切られたような、寂しい気持ちになった。

「あの、高校でも歌声なんてやっています?」香代子さんがいった。

「歌声? やっていませんが」

「そう、職場じゃ盛んなんですよ。昼休みなんかに屋上に集まって歌うの。カチュウシャなんか知っていますか?」

「さあ、カチュウシャ可愛いや、なら知っていますが」

「そうじゃなくて、ロシヤ民謡の、歌ってみていいですか」香代子さんは低い声で歌いだした。

  りんごの花ほころび、川面に霞たち、

  君なき里にも、春はめぐりよりぬ

  君なき里にも、春はめぐりよりぬ

 

  カチュウシャの歌声、はるかに丘を越え

  今はなき、君を尋ねて、やさしその歌声

  今はなき、君を尋ねて、やさしその歌声

 

 独特の哀調を帯びた旋律は心に食い込むようだった。

「和代、一緒に歌おうか」といって今度は、<夜霧の彼方に別れを告げ、雄々しきますらお出でてゆく、窓辺に瞬くともし火に……>という「ともしび」を二人で歌い、さらに「トロイカ」「ぐみの木」「原爆許すまじ」と歌った。

「原爆許すまじ、は東京の日比谷高校の木下という先生が作曲したんだそうですよ」

 そういえば、そんな記事を新聞で読んだ気もしたが、田舎の高校にはそういった雰囲気は全くなかった。

「風花家にあった武典さんの日記をこの間貰ってきて、読んでいるんですけど、難しいのね、一体どういう気持ちで死んでいったのか、知りたいんです。分かってきたらまたお手紙に書きますね」

 それから、対岸まで歩き、ボートに乗った。最初香代子さんが漕ぎ、途中で私が代わった。湖には何艘ものボートが浮かび、ヨットも走っていた。

「私たち、どういうふうに見えるかな。善昭さんはまあ弟でしょうね、ということは和代にとっては叔父さんてことね」

「お兄さんの方がいいよ」和代さんがいった。

「それじゃ、お母さんの子供ってことになるじゃない、それは無理よ」

「無理でもいいよ」

 私は何となく和代さんに受け入れられたような気がした。

 

 七月の夏休み前に分厚い封書がきた。

「その後、お元気でお過ごしのことと思います。武典の日記を読みましたが、女学校しか出ていない私にとっては難しいのですが、なんとか、私なりに分かったことを書いてみようと思います。書いているうちに、分からなかったことが分かってくることもあるからです。旧制高校時代まず親しんだのは西欧の文学だったようです。スタンダールの赤と黒、フローベルのボバリー夫人、ゲーテの若きヴェルテルの悩み、親和力、トーマス・マンのトニオ・クレ−ゲル、魔の山、ドストエフスキーの罪と罰などいろいろと読んだとありました。

 しかし、中国近代史の本を読んでから、西欧に対する見方が変わったようです。一八四〇年から四二年に行われたアヘン戦争ですが、インドを完全に植民地化したイギリスは次に中国を目指し、貿易を始めましたが、絹織物や陶磁器に加えてお茶の輸入が膨大になり、それに支払う銀が不足しがちになりました。そこで目をつけたのが只同様に手に入るインド産のアヘンでした。これを中国に持ち込むと中国人にアヘン吸引の風が広がり、逆に中国の大量の銀がイギリスに入ってきてイギリスは大儲けしました。アヘン吸引者は廃人同様になるので清王朝の中国はアヘン吸引者を死刑を含む厳罰に処すことにしたのですが効果は上がらず、イギリスにアヘンの持ち込みを禁じました。これを不服として起こったのがアヘン戦争です。清国はこの戦争に負け、さらにアロー戦争、清仏戦争、日本との日清戦争にも負け、世界の強国が次々と入ってきて中国は半植民地国になってしまいました。

 武典が疑問に思ったのは、こういうことを平気でやる西欧とは本当に合理主義と自由主義、ヒュウマニズムの国なのだろかということでした。二十世紀には東南アジアの国々の殆どは植民地になっていました。インド、ビルマ、マレーシア、シンガポールはイギリス、ベトナムはフランス、インドネシアはオランダ、フィリピンはアメリカです。最後に残った大国が中国だったのです。太平洋戦争の大義名分の一つ、西欧列強のくびきから東亜を解放するというのはそのこと自体は一理ありました。「東亜侵略百年の野望はここに潰えたり、今、聖戦のとき来る」です。しかし、実際に日本がやったのは解放どころか、西欧列強以上の侵略による対外膨張策、植民地化でした。武典は満州国建国の際の鉄道爆破事件や、南京での虐殺、重慶の無差別爆撃などを知っていたようです。その結果アメリカをはじめとする欧米列強との軋轢が生じ、にっちもさっちもいかなくなって始めたのが太平洋戦争でした。武典は家庭環境から幼少時より漢籍に親しんでいたので、中国人をちゃんころといって馬鹿にする風潮にずっと違和感を感じていたようです。

 日本とは一体どんな国なのか、という疑問から、日本の古典を読むようになりました。倉田百三の「出家とその弟子」はこの頃読んだようです。道元の「正法眼蔵」は難解だと日記にあります。唯円の「歎異抄」も出てきますし、親鸞の「教行信証」からの引用もあります。また、天皇は大元帥陛下といって、軍の最高指揮権である統帥権があるとされていましたが、これは明治政府がつくったもので、皇室の伝統は和歌などにみられるように文化であり、平和主義だと考えたようです。

 その国がたとえどんな国であっても、その国が自分の国である以上、その国のために命を捧げる、というひとがいるが、自分はこの考え方に納得できない、といった文があります。この頃、哲学者の田辺元博士についての言及があります。人は直接神に結びつくことは出来ない。国家というものを媒介にして結びつく。この三つは三位一体だが、絶えず流動して、離れる傾向があるので、離れないようにしっかりと結びつけておくのが学問の役割、というのだそうですが、国家が媒介というのはおかしい、と書き、博士は哲学は死の稽古といい、いつでも死にとびこんでいける覚悟があってこそ、生というものがあるというが、それでは国家は死の媒介者か、と書き、戦争は相手が死んで、こちらが生き残れば勝ちだが、その反対は負けなのだから、基本的には生き残る方法を用意しなければならない、と書いています。

 海軍に入ってからは、軍隊は徹底的に人間性を破壊し、人間をものを考えずに機械のように命令に従うだけの存在につくりかえるところだ、という文があります。しかし、自分は自分が存在しつづけるために日記を書く、とあります。木更津時代、いきつけの一杯飲み屋の女将にやはり将校さんでも死ぬのは怖いのねといわれたとあります。しかし、死ぬのが怖くない人間はいない。死ぬのが怖いから死なないように用心するのであり、用心というものがなければ人は簡単に死んでしまう。そういう人間が死ねるのは、死に値するもののためだけのはずだが、この戦争のために死ぬのは犬死だ、とあります。日記には私のことも書いてありますが省略します。そして、日記帳はこの木更津時代で終わっています。多分、一緒に帰省したときに風花家に持ち帰ったものと思われます。

 鹿屋時代のものは走り書きのメモ帳しか残されていません。たいへん読みにくいのですがなんとか私なりに解釈して脈絡がつくように書きなおしてみました。絶対他力とは生も死も一切は阿弥陀如来の力によっているということを信ずることだ。人間は自分の意思で動いているようでもそれ自体が如来の意思なのだ。しかし、死ぬことが確実な特別攻撃とは何か。如来の意思なのか。否、断じてそうではない。どんな攻撃でも生き残る可能性が残されているのが戦争だ。生死は運であり、それが神意であり、如来の意思のはずだ。と、どうしても納得できない自分とは何かと考えているうちに、実は納得したい、信じたいと思っている自分に気がつく。「出家とその弟子」の親鸞の息子の善鸞も信仰というものを持ち得なかった。信じることの出来るのが悪人なら、信じられない人間が善人なのだ。善鸞は善人なのだ、だから善鸞なのだ。そうか、信じない人間でも救われる、それが、善人なほもつて往生をとぐ、なのだ。無謀な戦争を始め、破局が近づいているのに戦争を止めない国、そういう日本を信じられないのは当たり前なのだ。では、そういう日本を信じている者とは何者か、悪人は阿弥陀如来を信ずるほかない。「教行信証」に、出家のものは国王に向かって礼拝せず、父母に向かって礼拝せず、六親につかえず、鬼神を礼せず、とあるが、出家のものを念仏者といいかえてみる。いや、もうこの辺でやめよう。善人なほもつて往生をとぐ、これで十分ではないか。

 このメモ帳は、整備員だった羽瀬さんが持って来て下さったのですが、今回はじめて読みました。といいますのは走り書きでとても読みにくかったのです。絶対他力とは親鸞が達した信仰の境地のようです。最近羽瀬さんからお手紙がきて、奥さんを亡くされたそうです。近々長野市にこられるそうです。その折にでももっと武典のことを聞いてみようと思っています。いよいよ真夏ですね、身体に気をつけて勉学にお仕事にお励みください」

 

 私は、この手紙を読んだ時点では理解したとは到底いえない。分かってきたのは大学に入って、「わだつみ会」などの活動をするようになってからである。私はときどき、「善人なほもつて往生をとぐ」と声に出していってみる。すると何故か心が落ち着くのだ。香代子さんのお父さんはその後亡くなられ、香代子さんは和代さんを連れて羽瀬さんと再婚して東京に移った。おそらくお孫さんにも恵まれたことだろう。

(題名の表記は「新潮日本古典集成 歎異抄 三帖和讃」によった)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/11/21

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崎村 裕

サキムラ ユタカ
さきむら ゆたか 作家 1937年 長野市に生まれる。「煩悩」で第21回日本文藝大賞自伝小説賞受賞。

掲載作は「構想40号」(2006年6月)初出。