初 恋 原題・雲居寺(うんごじ)跡
一
木地雪子の父親が、あのへたな浪花節語りのなんとか愛八とわかったのは、高校一年の夏休み中だった。毎年、地蔵盆の
愛八は一見
だが愛八の人気は、へたな浪花節をやじり倒せるからではなかった。
一つには曲師のおばはんのふしぎな貫禄だった。めんどくさそうな無表情ながら、愛八にくらべても化粧気のない顔のつくりがふっくら大きくみえ、掛声がよかった。妙に励まされるような、言いがたい陽気があった。やじられて愛八が立往生したりやり合っているあいだ、知らん顔で三味線をチリチリ爪弾きつづけている
そんなわけで浪花節はたいがい、ほんのさわりを、そのかわり六、七曲はつぎつぎ語ることになり、目先は相応に変った。が、なにより浪花節をすませてから
今なら私は躊躇なく物真似と言う。ごく初期の猿若を考える。
途中、一つ二つ短い歌をうたったのが、節はへたな「内職」どころでなく面白かったし巧かったけれど、何ごととも意味はよう聴きとれなかった。
最期に人に矢を射かけられて梢から真逆様に落ちて猿が死んでしまう。とぐろを巻くようにはじめ丸く小さく、それがじりじりと伸びて伸びきってすっかり死んでしまうのを時間をかけて演じた。路上の客は声一つ立てえなかった。拍手は、一と呼吸のあとわっとわいた。
紋付袴を脱いで愛八は色の浅い襦袢姿になっていた。帯は黒いのをかんたんに締めていた。ぬいぐるみは着ない。扮装もしない。手拭いと扇子をたまに巧く使った。舞台といっても旧家のすこし引っこんだ表に、道路むきに三間と一間半くらいに造ったにわか桟敷のようなものだ。が、猿が、犬が、時に鳶や雀がそこで活きて働いた。そして最期に猿が死んで終る、それが愛八の藝だった。胸にこたえた。
ああいうのを何というか、私は大人に訊いたことがある。父はちょっと考えてから、「のろんじ、やな」と呟いた。
「どない字で、書くねん」とまた訊いた。父はよう答えなかった。
愛八が、はやくに松島屋の社中を破門された男という噂も大人はしていた。先代仁左衛門は世になく、関西歌舞伎の看板役者だった
卒業前の一年間私は雪子と同じクラスだった。が、向うはいつも眼から下は穴に籠っているような子で、教科書は上手に読むし、たいがいの男子より速くも走れるのにそばへ行くと穴にひっこんだ。それでも時として引っこめかねた頭をこつんとやるくらいのことはあったが、べつにいやな顔はせず、眼が合うと眼だけにこっと笑いさえした。しかし穴から出てくる風情はそぶりもなかった。修学旅行の
いないわけがない、入学式の日にもう私は雪子に迷惑をかけていた。式のあとクラスごとに教室に入るとすぐ、最前列に着席していた私は、担任の女先生に職員室の机から「茶色い袋」を持ってきてと頼まれた。教室は二階だった。私は教室を出るとせわしなく廊下を走って講堂の前の東階段へ急にまがった。正面衝突は免れたが、なぜかそんな時分に一人で上がってくる木地雪子(とあとで知った)の肩をかすり、あっとしびれたような無念の表情でその女生徒は粗忽な私をすばやく見た。
「あ、
雪子は電気に打たれたように左の腕をもう一方の手でぎゅっと握ったまま、「どもないか」と問う私へ形ばかり頷くととなりの教室へ、うしろの戸から肩をすくめて入って行った。
三年間、あの衝突一件だけが印象にあった。かすかな借りの意識だった。が、卒業すればしまいだ、木地雪子は高校へ進学しない生徒だった。勤めるかどうかも知らなかった。卒業式の日は黒いビロードの、ところどころ白いレースで飾った存外愛くるしい洋服を着ていた。すこし肉がついて背丈もあった。卒業生答辞を読んで自分の席へもどる途中、ふと雪子に見られているのに気づいてそう思った。髪を短く切りそろえていた。
高校一年の新学期は、教科書を拾い読むだけでもさまざまに刺戟的だった。生物、解析1、漢文、とりわけて日本の古典。万葉や古今の和歌と並んで「仏は常に
猿は馬の守り神だった。古代から武士は馬小屋に生きた猿をつなぎ、
――その夏休みも終り近く、八月二十一日から三日までが町内の地蔵盆だった。但しもうそこへ昼間から顔をだし、緋毛氈の
映画館があったのではない。交通どめした道の両側から適当な幕を紐でつり、
その伝では愛八の藝もあくまで仕出しだった。が、道具屋から借物の
京都ほど早くに小学区域が整い、まだいくつかの町内にひしと区切られた街もすくないが、その町内ごとにきっと地蔵か大日如来の小祠がお
万端大人の世話で定めの場所へ
各戸に応分の寄付を募って福引や余興の費用にあてた。軒ごとに思い思いの絵を描いた燈呂をかけ、それをまた一つ一つ見てまわるのが楽しみだった。お地蔵を祭った前の路上には五彩の大燈呂が高々と吊された。古いレコードを朝からかけっぱなし(蓄音機は例年私の父が据えた)、夜になると盆踊り唄に変る。東町も西町も同じ、裏ン町も同じだった。私は欠かさず盆踊りに出ていった。物足らなければよその町内へ出張った。余興も、今年はどこの町内が面白そうとわかるとどっと子どもが流れて行ってしまい、そうさせまい大人はいつも趣向に苦心が要った。
それなのに欠かさず愛八を呼んだのだから、チョンガレめく浪花節はご愛矯として、どれほど人気の「のろんじ」か、一度呼ばなかったらよそへもって行かれるのは必定だった。
毎度のとおりとは承知で愛八の時間まで、好きな青紫蘇をたっぷり、氷のかち割りもろとも
愛八の曲師をあい勤めるのが、今年は若い声やなと思った、それが木地雪子とは想像もしなかった。みな、しんとしてしまっていた。
雪子だと私にもわかったのは、愛八がぞろぞろ黒い着物を脱いで、さてまた猿酒を醸すか、と思った矢先へいきなり「娘、愛丸」をせまい舞台に手を取って引っぱり出し、「サービス」の藝を見せると道化そこねて大みえ切ったからだ。町内に同学年の男子はほかになく、しかし中学時代に机を並べた女生徒が四人もいて、さすがにさっきから「木地さんや」「木地さんやんか――」と囁きあうらしかった。
「愛丸」の雪子は神妙に、愛八の寂びれた小歌で短い舞を二つ舞った。面白おかしいものでなかった。やはりなにか物真似ではあるらしく、今なら、「いとし殿御の御座るやら、犬がイヤ犬が吠え
雪子の出番は私の中をあっという間に過ぎて行った。雪子がかつて見知らぬ
「お父チャンより、巧いやんか」
扇屋の「ドラ」が叫ぶと笑って拍手になった。雪子がどんな顔をしたか、一瞬眼をとじて見なかった。入れ代り急に親方のていで愛八がまた出てくると、やじが増えた。迎え撃つかまえで愛八はボクシングの恰好をしたが似合わない。のに、
私は妙に気が動顛していた。そのくせ正確にからだだけが人をかきわけていた。なんとなくぼうっと舞台のかげで、父の藝の終るのを待ち顔の雪子の
「木地――」
低声で呼ばれて雪子はちいさく振向いたが何者も認めえなかった按配に、また背をむけ、ただ佇んでいた。雪子が着物姿なのにやっとはっきり気づいた。胸が急に早く打った。
二
毎日曜ご苦労さまでした。愛聴また愛聴じつにたのしませて頂きました。梁塵秘抄の各歌謡、耳新しさにいまさらの如くおどろかされし事もさる事乍ら時折りの後白河院観、これがまた大いにわが意を得た次第でした。もつともつとつゞくものと思つてゐましたのに、けふで「千秋楽」とはがつかりでした。せめて三時の再放送で余韻を味はふ事に致しませう。まづは右のみにて……
都合百首を撰んで話した六週め、最後は千秋楽のためしに「近江なる千の松原 千ながら 君に
数日前、その最終回分の録音に放送局へついてすぐ、ロビーでKという女優を見かけた。ぽつんと、ソファに腰かけていた。待ち時間なのか、私の約束も午後一時にまでちょっとあったから、すこし離れて局側の相棒を待った。
本業は歌手らしいが、Kの歌をうまいと思ったことがない。ドラマでは時おり眼をみはる演技を見せた。美しい。が、顔は蒼澄んだ黄色をしていた。ほっそりと伏し目の表情にそんな顔色が暗い沼のように光ってうつる。沼のほとりに木があれば、登って覗きこみたい静かさで、Kは、
彼女に心ひかれて十何年になるか、ある不当に虐げられた女性の恋と結婚とを、テレビでねばりづよく演じていたのが最初だった。息をのんで観た。歌わせるとやや軽薄になる顔が、見ちがえるほどの暗さ重さで底光りしてヒロインの苦渋と敢闘を支えていた。そして支えきれなかった。妻に気づかれず、あの時、私は涙ぐんだ。
Kは視線を感じたらしい、一度眼が合い、だが両方に折良く、いや私にはもうすこしべつの期待もあったが、とにかく待ち人があらわれた。
エレベーターでも一緒になった。会釈した。右の眼に並んで、ちいさな
Kはあれ以来、たわいないホームドラマばかりに出ていた。歌に専念したいという顔写真入りの囲み記事を見たこともあった。今逢った、ああも丈高い女とは思ったことがなかった。
ディレクターは、また一週間のうちに局へとどいた反響のいくつかを聴かせてくれた。私の方へも同趣旨の電話があったと話しながら、以来、ともすると木地雪子のことを考えている自分が少々わずらわしい。――あれは前回の放送がすむとすぐだった。日曜の朝十一時すぎ、家中で遅い
「いまのご放送、
若くはない女の声だった。「いえ」と言ってあとがなく、妙な愛想を言うのもいやだった。
「そうですか――どうも、ぶしつけにお呼ひたて致しまして。失礼さんでございました」
また「いいえ」と返事し、どこからかけているか訊ねた。案の
後白河院と源資時。そして、梁塵秘抄――。その中にこんな歌があった。
冬
冬が来ても柞の紅葉よ、散るなよ。散るな散るな。色美しいまま見ていたい――。苦しい暗い季節へ運命が動く。風が吹く。その予感に
こんな歌もあった。
東屋、その妻そして棟。しかも「つま」は妻で「むね」は胸。妻とも、
源資時の名前は早くに知っていた。ただ、知っていた。
平家物語に
さてその「生仏」という人物のことは今もって明らかでないが、校者(山田博士)は源資時の法名を「正仏」といったのが誤り伝えられたかと思う。と言うのも資時入道正仏は
いま手もとの同じ本をみると、昭和二十六年一月十五日発行の上巻が六拾円、下巻は九拾円で、新制中学三年生三学期の早々に年玉をはたいたのをはっきり憶えている。晴がましく頬紅らむ心地で買い求めてきたその本は、同じ教室にいた女友達が黙って一と晩家へ持ち帰り、それぞれに、絵ともつかぬ文様を色鉛筆で描いた紙カヴァーをしてきてくれた。今もそのままの形で二冊、座右にあるが――。
源資時は平家物語の巻第七「主上都落」の後段および巻第八「山門
歯痒いほど、それきり、ではあったが幼な思いに、もし法皇がここで安徳天皇ともども平家にかすめ取られていたら源平のその後の命運はどう変っていたか、厳島に平家の幕府ができてもいたかと、それほどきわどい一度きりの機会だけに、せまる義仲、落ち行く平家、といった転変の烈しさとは異る、主従二人の「道行」とも呼んでみたい
美声は
*
譬えて申すのもナンですが、今、皇太子や天皇がいわゆる流行歌、歌謡曲のファンかどうか、私は存じません。ましてその種の楽譜や歌詞を
ところが梁塵秘抄の御口伝を読みますと
歌を唱えば、
後白河院は、誰がより正しく唱うか、誰が、誰からそれを正しく
ところが師匠は見つかったが弟子がどうしても育たない。絶望のあまり「遺恨なり」と院は口伝の中で
師匠の方、これは、五条尼とも呼ばれる
乙前が八十四という年の春、急に病が重くなったが、まだ持前の元気さで、どうという変化もなかったから、持ち直すだろうと思っているうちに、間もなく危篤、という話。御所の近くに家を与えてあったので、急いで忍んで見舞ってやると、娘に抱き起され、挨拶をした。大分弱っているので、二人の久しく親しい
像法転じては 薬師の誓ぞたのもしき 一たび
二、三途もくりかえしそう唱って聴かせたのを、お経を聴くよりも嬉しがり、こうお聴かせいただいてこそ、苦しい命も生き返りそうでございますと、手をすって泣く泣く喜んだ有様を、互いに哀れに感じながら、その日は帰った。
その後、
また一年の間、千部の法華経を読みとおし、次の年二月十九日の命日には、あれは今様をこそ尊いお経以上に
その後も、命日ごとに、必ず乙前を思って、後世をとぶらう今様を唱ったことだ。
ま、こんなふうに後白河院は語っています。梁塵秘抄の全巻が、さながら河原住みの遊女乙前への供養かとさえ取れる――。
*
そんな話をしたのが放送のたしか、四回めだった、そして五回めに「源資時」について話した。「遺恨」とまで絶望していた優秀な弟子がとうとう登場したのは、梁塵秘抄がいったん仕上がった嘉応元年に
三
――雪子は私を無視したかったらしい。
高校一年の夏、地蔵盆の、宵のことだ。
が、私もさりげなく雪子のまうしろへ触れるほどに近寄った。わずかな袖幕に雪子ひとり隠れ、私は雪子のかげに隠れて、愛八が演じているあいだは誰も私たちを気にかけなかった。
雪子は妙に白い着物を着ていた。背に、黒い変った
雪子は振向かなかった――。
木地雪子を振向かせるのに、足かけ三年かかった。どこにそんな
「愛丸」の名で雪子が寄席にまでたまに顔を出すようになると、ためらいなく九条の山辺の教室を脱けでて新京極へ直行した。木戸銭を、親の財布から勝手に用立てたこともあった。
学生服は目立った。それに愛丸の出番では入りがまるで無い。五人以下のこともあり、そのうち二人くらいは寝転んでいた。
「はだかにならんけエ」
きまってそんな声が露骨にとんだ。小屋ががらんとしているぶんよく笑い声も響いてなまなましかった。六十がらみ、地下足袋に
どんなものを着て「のろんじ」を見せたか、正直言って寄席で観る愛丸の物真似には乗れなかった。漫才式にだれかと掛合うか、もっと唱えばよかったのだ。愛八ででもあるならそんな演出ぬきでいま少し客を黙らせただろうが、愛丸では、いくら敏捷でもすることにもう一つ変り映えがなかった。いっそ闇屋風情が酒をあおって這いずって追うのを、身軽に愛丸も這って逃げた桃尻の丸っこさが新鮮だった。ちょうど猿だったか、犬を演じていたのだったか私は不覚にも見ていて眼に涙をためた。むろんおかしくはない。が、つらいとか哀しいとかで涙したとも思えなかった。とても寒かった。「かぶりもの」を、あれで愛丸はつけていたのかもしれない。覚えない。
だが、私は容赦されなかった。あつかましく楽屋へ忍び入ったのが執拗いと、同じ阿兄に京極筋の人だかりへ張り倒されたことがある。ぶいきなトンボメガネが宙を舞い一瞬向いの安映画館の看板絵に吸いこまれ、もう次の瞬間踏みつぶされていた。だれがそんな醜態を見て通ったか、当の雪子がその場にいたかさえメガネなしではただ夢うつつに、私はよろよろ走り去った。
いったい愛八、愛丸の藝だけが際立って珍しい、のではなかった。わらじ履きに烏帽子をかぶり、背に笹を挿し腰蓑をつけて、短い竹筒に小豆を入れたコキリコという物を打ち合わせては、拍子面白くひなびた小歌を二つ三つ唱ったあと手鞠を使い、手品を見せ、最後に意味不明の早口言葉をまくし立てながら引いて行く
寄席に限らなかった、家の近所へも飴売りの当世紙芝居とは別に、
「愛丸」は意外に早くもとの木地雪子にもどった。
「藝は、売り急いだらあかんにゃ」
私がしたり顔をすると雪子はうすら笑った。尻を追ってただもう一緒に道が歩きたいだけの私を、無恰好な物
のように見た。
短い食べもの屋勤めなどを雪子は二度三度繰り返していたが、続かなかった。遊んで暮せる家と思えないのに五条の西へ洋裁を習いに行きはじめ、私は学校帰りに河原町の角まで遠まわりして辛抱よく雪子の姿を待った。待つ場所がじりじり西へ動いて、白百合洋裁学校と名前は大層な塾の近くまで行くようになる、と、ぽかっともう雪子は通学をやめてしまう。
織田
電話は間がもてず、向うは簡単に切ってしまう。手紙にした。葉書の方が
私は性懲りなく手紙を出しつづけた。季節の話や近況ではすぐ種がきれ、このごろ読んだ本の話が主になり、あなたも本を読むかなどとたわいなかった。返事はなかった。「愛丸」時代の藝に触れ、「のろんじ」と平仮名で書いて、大人はそう言うがそうかとはじめて訊ねた時、雪子は珍しく封書で返事をくれた。但し、
高校二年の地蔵盆に、雪子は思ったとおり「出演」しなかった。前のように曲師は三味線の上手なおばはんだった。あれが母親だろうか、と思いながら物足りなかった。へんに気がふさいで、盆踊りにも出なかった。
「えろ珍しおすな」
母は他人のような口つきで息子をからかった。
その晩、出番を終えて帰って行く愛八を花見小路(当時は疎開跡)まで追いかけて、「木地さん」は病気かと訊いた。
「あんた、誰やね」
「――」
頭をさげて私は名乗った。
愛八は合点してちょっと睨む眼つきだったが、「病気やない」と、あとは聴く耳もたぬ容赦のなさ、三味線を提げた女を顎で促して去って行った。なかなか男っぽかった。
自分のしていることが、わからなかった。木地雪子の何に惚れこんだのかがさっぱり自分で理由にならず、そのことに
何をして愛八の家では暮しているのか、雪子の母らしい人が「遊垣」の家を出入りするのを私は見ていなかった。表は雨ざらしの格子囲いで、かがまないと通れない
夕方になると、雪子が家を出そうな先々で待ち伏せた。きまって縄手の、南座裏の青物市場へ買物に行くのがわかった。回数は
縄手では雪子の家から近過ぎた。露骨に迷惑な顔をされた。が、逆向きに古川町へ出かける夕方は、私の方で道順を替えてもらわないと
雪子は承諾の返事は一度も与えなかったが、
古川町というのは、有名になってしまった中京の錦通を小さくしたような、東山界隈では知られた買物筋だ。知恩院下の大きな石の太鼓橋西詰を北へ、白川からは斜めに左へ逸れて、家並のあわいを窮屈に三条通まで小路が突き抜けている。昨今石畳を敷いたが雪子が買物に出かけていた時分は泥道だった。そこへ魚屋、肉屋、惣菜屋、八百屋、駄菓子屋、漬物屋、豆腐屋、揚げ物屋などが店先を洗い流すものだから、つねの日でも下駄をとられそうにしるく、雪や雨の日は、大屋根に幕を渡しても傘提げた人の往き交いで
店には裸電球がぶら下がり、釣銭混じりの
私は袋町よりすこし
金は無い。物を遣ることはできない。喫茶店やうどん屋に誘う才覚も余裕もなかった。私が待っていないと雪子が物足りなく思ってくれる、そうなるのをただ心待ちに待ち佗びながら、手紙はとうに種ぎれで、文字どおりからだを張り雪子が家を出てくる機会を狙うしかなかった。とうとう雪子にも「あほやなあ」と言われた。私はそれすら「前進」と思った。酬いは何もなかった。
愛八はほとんど家にいない。雪子は寝たままの「年寄」と二人らしかった。
「おじいちゃんか」
高校二年になりかけていた私がそんなあどけない訊き方をして、それがどう聴えたのか珍しく雪子はくくと笑った。だが祖父とも祖母ともよけいなことは喋らなかった。まったく癪にさわるほど雪子は喋らなかった。ものを訊きかえすということもない。むりに口を利かせようとすると「ええねん。も、帰りよし」と言いだす。「も、来んといて。ナ」とも言った。
そう言われたくなかったから私ひとりが喋った。くそまじめに喋った。学校の、雪子が知るはずのない先生や友達のことも話した。苦手の解析や化学の時間に、当てられた問題が解けず黒板の前でどんなさまに立往生するか、それをみんながどんなに嗤うかといったことも少々大袈裟に話した。高校に近い
「しまいに、あんたが困るのえ」と雪子は言った。口つきが、すこし優しかった。
たしかに困ることが増えていた。
木地雪子があの愛八の娘と、みなもう知っていた。聴きづらい叱言も出た。「藝人の子かて、ラジオ屋の子かで同じやないですか」と開き直ってみるが通らなかった。「かったい」が、公然と大人の口に出てきた。簡単な辞書をひくと路傍にいる者ないしからだの故障で正坐できない者といった説明があり、私はめったになく憤然とした。だが黙っていた。
伊勢物語などで、「かたゐおきな」という、ただ下賎の老人というにとどまらない、何らか所作や歌謡を伴っていわば「
どこを通り抜け潜り抜けて――「かたゐ」や「のろんじ」が愛八や雪子の身に生き延びてきたか、あの資時へも思い及んで私は
四
後白河院の弟子資時は平治二年(一一六〇)八月に生まれ、実父と目される少納言入道
「保元二年の年、乙前が歌を
それに歌い
むしろ私が気にしたのは、そういう
壱岐の父母のことは知る由もない。「つねに消えせぬゆきの島」という今様があり、「壱岐」は当時「雪」と音通だったことだけ、いやこの女が「あそび」だったことも、判っている。「あそび」は遊女の訓みだしなにを驚くこともなかった。が、私が読んだ「禁秘抄別紙」には「あそびへ」と一字
だが、資時のことを問われて一瞬木地雪子かと想ったあんな電話を受け、また女優のKを見て雪子を想い出してからは、まるでべつのことも、私は考えていた。もしあの「あそびへ」の「へ」が「め」でも
むかし垂仁天皇の子孫で
諸国に人をやって比自支和気を尋ねたところ、円目王に聞くがいいという者があった。さて王の妻はたしかにその氏人ではあったけれど、彼女の
古い本に、「遊部は幽顕の境を隔て、
もし、
なにも壱岐や資時の血筋を「遊垣」という苗字一つにからめて、あながちに昭和の愛八や雪子に通わせたいのではなかった。ただ、そうも想い寄ってみながら、彼や彼女のいわば猿真似が、所詮二代三代で創れたはずのないわざおぎだった、面白かった、と無性になつかしまれた。
私の育った家は鴨川東、名高い祇園花街でも乙部と呼ばれた区域と背を合わせていたし、子どもの頃の乙部には、いかにも
そんな界隈を「いい場所」「なにか、カナメみたいな」京都の「急所、秘所」と言い囃す友人がある。京の町の真中に住むその男にすれば、そこは洛中ならぬ京の「かたゐ」の洛外だった。どことなく
逢えば、私は彼に言うのだ、その鴨の河原の久しい歴史とはつまり鴨川そのものの歴史ではないか。そして「鴨川」の認識こそ「京都」の、洛中と洛外との、認識ではないのか。
だが、話は噛みあわない。こういう話題になると京都の人は応じない。いつも、そして彼でなくても、「
歴史的に鴨川は怨みと血で
「資時」のことで、電話はあの一度だったが、手紙はまばらに何通か来た。たいがいは答えようのない厄介な質問だった中に、ご存じと思うが資時の墓というのを見知っているので、お教えする、という一通が眼をひいた。写真も一枚添えてあった。眼を
「ご放送をお聴きした者です」とだけの名のりだった。墓の所在と消印は京都「東山」だった。――あの電話の人ではないか。まちがいないと思った。そう思いたかった。
妻に手紙を見せた。
「当ってたな」
「ほんと――」と、妻は写真を見つめたまま呟いた。
妻は、しかし、そんな墓を知らない。墓は萩の寺高台守境内の山なかに、
妻と「当った」と頷きあったのは、そもそも小説というものを書きだした時分、用意もなく「資時」を狙って、彼が出家後の住まいを『
農臣秀吉の妻が、未亡人になってから、徳川の援助を受けて高台寺を立派にした。みごとな蒔絵の
むろん日本の藝能を私がやたらごっちゃに考えているのは、然るべく筋道を正されねば済まぬことだった。
師の
今様狂いの名に隠れて、さながらの
「でも――この方、よく、こんなの撮れたわねえ」と、まだ妻は写真を眺めていた。
「――」
よく資時の墓などと知っていた、どんな人なのかと妻は言いたかったのだ。名前と住所くらい書き添えてくれるとよかったのにと、私も呟いた。
五
雪子を振向かせるのに、三年かかったと書いたその三年間を如何ように
休みならきっと逢ってくれる、というわけでもなかった。
私は知恵をしぼっていつも空しい口実を探したものだが、あの日はそれもうまく行った。平安神宮に近い市の美術館で、会津八一博士が蒐集されていた「中国漢唐美術展」に雪子とそっくりの
祇園
「ころばせ、やろ……」
たしかに雪子が傍へ戻っていて、そう呟いた、と思う。「
デート、という言葉がもう使われていたかどうか憶えない。私の気もちば一貫して「逢う」だった。書げば「逢ふ」と書きたかった。その次に「歩く」だった。
もっともこの二年半、木地雪子にひたすら愛を捧げていたというのではなかった。手一つ握る度胸もないのに、たわいない女友達なら何人もいて、のらくら付合っていた。「平家物語」にカヴァーをつけてきてくれた子と一緒のところを、逆に雪子に見つかったこともある。が、雪子は黙ってよこを向き、一緒にいた方がかえってぶつぶつと雪子のことを
――期待外れだったのか、美術館を出てからも雪子はさしたる感想を洩らさなかったし、私は私であとの時間をひき延ばす手立てに頭を痛めていた。
粟田坂の下までもどると、懐勘定しながら、あまりの寒さに私はうどん屋へ雪子を誘い入れた。
「
「親子でもええにゃで。俺は、かしわ好ッきゃないしな」と見栄をはりながら、しめて百九十円、三ツ星の岩波文庫が二冊買えると思っていた。正直、惜しむのではなかった、それほどのことを雪子と二人でできるのに感奮を禁じえないのだった。
コレクションに唐時代の立女の俑があって、それは雪子とまるで
「愛八に肖てた」とはさすがに言いにくく、だが「お父さんに」とも言っていいのやらどうか、判じかねた。
「遊垣て、おもしろい苗字やな。どこの名前や」
何県に多そうな、という意味で言ったつもりだったが、雪子は私をちらと見て答えなかった。私がなお、遊ぶという字のついた苗字「あんまり見んナ」と言うと、そんなことない、沢山あると、それでも私には耳馴れない例を幾らか挙げて雪子は笑った。
「へえ。よう知ったはんな」と思わず私は敬語を使ったはずみで、「遊垣さんて、何、お商売したはんの」と、返事があるはずのないことをまた訊いた。訊いてせわしく自分で手を横に振って、「えにゃえにゃ」と質問をとり消した。雪子は澄ましていた。
私は瞬く間に玉子丼をからにした。雪子は親子を半分ほど食べて、多いという顔だった。
「おなか、えェの」
雪子が頷くと、私は、置きかねている丼鉢を手軽に奪いとり、自分の箸であっさりさらえてしまった。
眼が合った。
あきれたように雪子はぼうと私の顔を眺めていた。
「ごっ
「ありがとう」と雪子もちいさく頭をさげた。ふつうなら「おおきに」と言うところだ、どうもわきまえ難い何かを、はしばしに雪子は
外へ出ると、考え抜いた挙句の、「その山をちょっと登ると、尊勝院てあるの、知らんやろ」と誘った。粟田山だ。
「知ってる」
「なんでや」と私は不興気に反問した。目算が狂った。雪子は、知った人のお墓があると言い、それでも、私の登って行きたそうなそぶりに逆らわなかった。
あの日、雪子は妙なものを着ていた。焦げ茶っぽい石炭袋で造ったようなもんぺは、あの時節、まだ見なじんでいたけれど、上に、まるで昨今はやりのポンチョのような、端々に毛糸のふさをつけた紅い色目の、織り地か編み物かを前に後に
女の子の着物をそれ以上
尊勝院は贅沢な忘れ物のように、うっとり夢うつつの静かさで冬日だまりの中にあった。なにが美しいのでも尊いのでもない。お寺と思いたくなけれぱだれぞ二、三流の
坐った尻がすじすじに痛いほど木目の干上がった縁側に、真南を向いて並んだ。左にむっくり粟田山がふくらんでいた。幸福だ幸福だ。そう胸の奥で吠えながら歯の根が鳴った。
「雪子――、か」
呼ばれたと思ったか、雪子は片脚をぶらんとひとつ前へ揺った。呼びそびれたのだった、私は「わりと、ええ名前やな」とごまかした。雪子は顎を引きぎみに明るく首をよこに振った。頬から熱くなり、そしてなぜか心しおれた。
花園天皇陵の上へ木高い杉の梢が二つ
眼をとじ、そして手を雪子の肩に置いた。かすかに身
巨大な予感に堪ええず、気はいを慕って私は顔をその方へゆっくり向けた。眼はとじていた。眼の底がやさしく
短いが、定規ですっと線を引いたようなキスだった。今までたくさん眼に見てきた人の唇の形など、ただの幻だった。離れぎわ、雪子は歯をそっと私の下唇に当てて、噛んだ。
眼をあけて、抱き寄せた。雪子は身をよじり、私の胸の下で惜しみなく顔を日光にさらしたその瞼に、次に鼻に私は
ここに山が――、支えた腕一本で雪子の胸を我が胸に押し当てながら波うつ紅い空をかき探って二つの乳房をかわるがわる掌におさめた。雪子の舌が顫うように唇の
我に返った時、二人は
「待って」
前花緒の片っ側がゆるんだのを、こぶこぶの赤土道に坐りこんで締め直そうとしたが、巧く行かない。
「――貸しよし」
雪子ははじめて口を利いた。私の手からちびた下駄を取りあげ、ヘアピンで上手に前緒を解き捨てるとハンカチを一瞬見はからいにくきっと糸切り歯で引き裂いた。なるほど――とも思わず、いっそ幸便に私は雪子を眺めていた。人心地がついてきた。雪子は姿佳く
「なんでや一一」
男は、とかくそんな
雪子は手仕事にかかりきりだった。
俯いた横顔のとくに鼻の恰好が優しい。下駄などかまわない、つっと寄って、起たせて、抱き締めたいと思った時雪子はこっちを見て、足袋はだしの私の足を出せと催促した。無器用に、足だけ出した。雪子は.平手でぱんぱん赤土を払うと、ほどよく締まった花緒を、あてがうように両手ではかせてくれた。
「どうえ」
私は照れて、起ってみて、爪先をこんこんやった。
「よろしな」
呟きながら、にわかに顔が火照った。雪子はすたすた道のわきへそれて行って、松の根かたの白いものをすくうと向うむきに手を
「一一」
なにかの返事とはちょっと判じかねていた。と、雪子は「ちょっと待ってて」と言い残し、またすたすたと、もっと木深い崖の蔭へ足もとを確かめ確かめ姿を消した。それは何とも思わなかった。雪子もすぐ帰ってきた。眼が笑っていた。あ――。
合点した。
なにも言うな、私はそっと指一本を口もとへ立て、そして真直ぐ両手をのべた。雪子はポンチョを頭からその場へ脱ぎすてるととびこんで来た。雪で洗った掌が冷たく、力をこめて
――将軍塚は荒れていた。見おろす街の広さも言い合わず、寒風に吹かれてただ佇んだ。愛宕山の奥の方まで晴れわたり、高島屋にも大丸にもアドバルンが上がっていた。眼を南へ移して行くと、
山頂の、大日堂が固く
雪子は、一歩一歩おもちゃの兵隊のようにゆっくり脚をあげて歩いた。ポンチョが風をはらんで丸く膨れると、私はうしろから「タンク・タンクロー」だと笑った。そんな戦時中の漫画がまだ記憶にあった。首と手足とを文字どおりの球体にすくめて、弾丸のように転げて奔る血気の少年だ、「やってみよか」と雪子は斜面へ今にも身を投じるふりをすると、それが本気かと思える迫力だった。
将軍塚は
「
中学三年のもう卒業前のある日、どの先生の提案だったのか五つの組が全部で長楽寺の裏山から将軍塚へ、そして清水へ抜ける散歩を楽しんだことがある。それは憶えていた。のに、木地雪子も一緒だったという実感がてんで稀薄だった。
あの日、私はかなりいい気分で、終始ひとり歩いていた。前にうしろに友達の賑やかな声を聴いてはいたが、どっちへもつかず離れず、間隔をはかる気味に、黙然とかつ何ごとか自問自答しながら歩いた。
「えろ静かやな」
担任の男先生に肩を叩いて追い越された時も眼で頷いただけだった、但し何を思っていたのか全部忘れている。なにも考えてなどいなかったと思う。「さみどりはやはらかきもの道深く垂れし小枝をしばし
雪子もあの時、やはり私を追い抜いて行ったという。うしろから見下ろしぎみに寄って行くと当時まだまる坊主だった私の髪がだいぶ伸びていて、数本のうしろ毛が新聞マンガの「屋根うら三ちゃん」みたいに突っ立ってておかしかった。すっと脇をかけ抜けようとすると、その「三ちゃん」がいきなり交通巡査の止まれみたいに右手一本で阻んで、よく見ると指先に光る物を摘んでいた。紫色と茜色を中に二たすじ三すじこめた、やはりガラスのおはじきだった。
「やる」
そう「三ちゃん」はえらそうに言い、雪子は抗わずに受け取った。そして先を行きながら振向いて見たけれど、知らん顔をしていたそうだ。
「あれ、まだ有るえ」
「――」
皆目憶えていなかった。すこし間が悪かった。私は代りに、さっき将軍塚で雪子の拾ったのが欲しいと言った。言いながら照れたが、半分以上本気だった。雪子は爪先で立ちどまると、怒ったみたいに赤い顔をしてもんぺからおはじきを取り出し、ぎゅっと堅く一度二度掌に握りしめて、私の
「おおきに」
雪子は頷いた。頷く、という仕草がなにより似合う少女だった。
「
私は声を張った。めったにない雪子が言いだした冒険だ、もう、一歩を踏み出していた。足もとに道はなかった。二人は落葉の
一味同心――か。
こりっと歯に当ててあの雪子が食べ残しの
思いがけず難渋した。深くあるまいと臨んだ渓流の真上に、下り切れない崖があったり迂回するうちにもとへ戻っていたりした。背丈に余る大笹原の底を三、四十メートルも先に立ってかき分けかき分け、蛇ぎらいの私はつくづく冬でよかったと思いながら、ともすると下駄なりに湿気た土に乗って滑った。雪子の方が逆にうしろから笑って支えてくれた。だが、前後左右をすっぽり笹に囲われたままわずかに見あげる樹々や尾根のはざまに青空を仰ぐ気分は、なにがなし
「
「なんでや。気になンのか」
「ならへんけンど、どない思たはるのやろ思て」
「だれが」
「あんたが」
「腹は借りモンやンか。親子て、所詮、他人
「――」
「俺は、そう思うンやが」と
「早いこと貰いよし、
「貰うよ――」
「――」
実の親たちが結婚した同士でなかったらしいことは、幼い日から疼く
「花、咲くのかな」
「四月には――」と、雪子の声が沈んだ。
左に聴えていた水の音がいつのまにか右になり、遠くなり、聴えなくなった。西向きに下りてきたつもりなのに、山は一層深くなっていた。
高台寺の裏山へ出るのではないか。私がそう呟いてから暫くして、東大谷一面に息をのむ墓波がざわざわと急に見えてきた。
そんなことは知らぬ顔に、山墓地が見えてほっとしたか雪子はいっそふんふん鼻を鳴らすくらい愉快そうに歩いていた。もう、道らしい小道も行く先々へ曲り曲り伸びていて、どうやら木の間にぽつぽつと
「――」
雪子が高く指さしたのは霊山観音のちょうど後頭部だった。まちがいのない
決断の
「
野放図に葉を広げた羊歯の
同じなら大きく見て行こう。
私は雪子の手をひき、最初の回廊を跨ぎ越すように池の上の崖っぷちへ出て、そろそろと進んだ。立ちどまり、遠く、四条の街の方を小手をかざして斜めに見た。また行きかけ、つと、雪子が私の腕をうしろから引いた。二、三間はなれた巌の根方に、苔に裾をからまれ
六
説明らしい説明も抜きに、差出し不明の墓の写真など、いたずらと言わぬにしても、根拠の知れない無視していいものだったし、この種の手紙はときどき受け取った。架空に創作した人や場所を、実はと追認してくれる式の便りも幾通かもらっている。
ただ今度の手紙に、高台寺内の「
「そうなのかなあ。しかしこれ、墓、かなア」
「話、うますぎるわね」
「そこまで俺の調ベも、届いてないし」
「だいち、高台寺の奥なんか入ったことないんでしょ」
「――まあ、ね」
ほっほと妻は機嫌よく笑って台所へ立ち、手に
からからとフライパンで妻は
暫く前、娘は課外授業に国立小劇場で前田流平曲の演奏を聴いてきた。それで、その前座の「那須与一」はまだ大学生かという女性二人が
「なんて人だった」
「名前おぼえてない。右眼の真横にこんな――
「――」
面白いと思ったのは、当日の舞台装置だった。ただ荒削りの
「いい学校だな」
「え」
「そんなのに、連れてってくれてさ」
「でもないのよ。みな、ウエエと嘆いてたもん」
ふっふと空をむいて思いだし笑いしながら、娘は、その資時とかいう人が平曲の節付けをした時分に、もう女の人でも「あんなの、語ってたのかしら」と呟いた。即答できなかった。
私が通った高校に近く、
とすれば「平曲」の中でも、勇壮活溌な
受話器を抱いて隣の部屋へ妻が隠れると、私も娘を勉強机の前へ追い返し、さて坐り直して一升瓶を傍へ引きつけた。
――それにしても寺に墓地があり、鉤蕨のようであれ賽の河原のただ石積みであれ墓地に少々変り種の墓があるくらい、雪子が指さすに当らない何でもないことだった。そこかしこ青木や梅もどきの眼にしむ赤い実に彩られて、遅い
但し雪子も蕨なりの石墓にばかり惹かれていたのではなかった、ためらいなく横を通り抜け、雨樋がななめに垂れた建物の方へ私の先を登って行く。その後姿にべつに変りはない。のに、なぜか、いそいそとというふうに見えた。思わずあとを追った。足もとに淡い緑の
軒の浅い五間に三間の
「やめとこ――」
私はもはや片脚を
「――」
この期に及んで雪子に呼びかけるうまい言葉がなかった。と――、「鳴り高し鳴り高し」と
上がれ。身振で示して雪子はもう上にいた。昏い、と呟くと穏やかに奥から
「雪子か」
ぼうっとものに囲まれて愛八が坐っていた。燭をよせて、車座の中から愛八は私に会釈すると隣に一つ席をつくった。人の輸がくつろいだ。雪子が私の背の方へすこし離れて坐る、と、愛八は突如
とね
と名指されて、女がひとりいきなり「
ころびあひけり とうとう
か寄りあひけり とうとう
「とうとう」と囃し声に乗りあって「総角」の
するとみなが和した。
そそり上げよ
誘われて私も下腹巻に薄青の
谷から行かば 尾から行かむ
袖を
尾から行かば 谷から行かむ
そして太刀と笹を打ち合わせ合わせ、私が謡うと雪子は足踏みして声佳く和した。
これから行かば かれから行かむ
かれから行かば これから行かむ
弥生の春の花
翻り
檜張戸や 翻り戸
「良し」「良し」と
――もとのままの雪子が、そっと私の手を引いていた。夜が明けるように、荒れた部屋から花頭窓の外がほのかに白いと、はじめて気づいた。
畳という畳をみな起こした
七
高台寺の奥を犯した事件は予想外に咎められて、高校の卒業証書も、後日担任の自宅へ母と同道でもらいに行くはめになった。推薦入学のきまっていた大学に、もし入学を取消されてはと親も学校も手をつくし、新聞沙汰は免れなかったが仮名で済んだ――。
私ひとりせめて墓地の方へ出てしまっておれば、かりに山坂を坊さん一人に追われようが敏捷な雪子は苦にしなかった、それに思い当って言われたままにすべきだった。同じなら雪子をまず遁がしてやれぱよかった。のに、にやにや笑いさえ浮かべてわざと糾問者の正面へ下駄を高鳴らせ、
――「措かんかい」で、もう済まなかった。
雪子のことは、親類の大人も乗りだし、残りなく押し潰しにかかった。「高校生の分際で」をとび越えて、ことは迂遠に「太閤さん」の検地や刀狩から大袈裟にはじまり、それを言うならいよいよ秀吉がただ無法に決めつけた差別を、二百年かけ四百年かけて徳川や大名が、いや「僕ら」百姓町人もこぞってもっと非道に、もっといわれなく手前味噌に煮つめてしまったという話に「尽きるやないか」と私は抗弁した。大人は、だが「それが政治いうモンやないか」と、もっともらしいが曖昧な、それで話がぐずついてくると要は愛八らが筋目立った藝人でないというだけの、手前勝手に酷薄な言い草を、幾通りにも繰り返した。
場合が場合だった。私の
抗弁するにも人の下に人をつくらず、職業に貴賎があるのか程度しか言えず、それしきでことは済まない。親は賢く雪子を棚に上げて、ただもう「愛八はあかんにゃ」で押しとおす。
なるほど壽海や我當が「
愛八の藝こそひよっとすると成田屋や松島屋のよりずっと久しい由緒来歴に守られているのかしれぬ。それを正しく書くのが本当の「歴史」というものだ、自分は愛八や雪子の身が体しているのかもしれぬ、不思議なそんな「歴史」に敬意のようなものを感じている、といったことを高校生の私は朧ろげにも言いたく、だが言い表わすすべを知らなかった。言いえないまま押しまくられ、何度か父に顔を張られもした。くそ、と思った。大恩ある育ての親を、だ。
顔も知らぬ生みの親が、もし愛八らのようであって私はかまわなかった。いきなり愛八が父親でもよかった。そうであるのかもしれぬとすら、私はあのとき妄想した。真の身内とは何だろう。袋の口を紐でひき絞るぐあいに、その問いは私ののどもとを締めつけた。あの一瞬、少くもあの一瞬雪子こそは、わが身内わが血肉だった。
あの朝早に、ことがこじれて松原署へ突きだされてしまってからも、雪子は、私のことを行きずりに自分が誘った名前も知らぬ相手と言いはり、姓名住所を頑固に喋らなかった。が、雪子がどう私を庇おうにも近在の前評判が高過ぎた。
「ほななにか。俺のほんまの親はどうやのン。どこの誰とも、この歳になって
「あほ。言うてえェことと悪いこととあるで、
「へえ。俺に罰当てるよな、そんなお人が、よその巣穴へ雛なげこむみたいに、生んだ子ォ
「
「
「――」
聴きよい喧嘩でなかった。父も母も青くなって胴震いしていた。
私が頑固になったのは、父が叔父と語ろうて雪子のところへ
――雪子にも愛八にも、その後、私は会えなかった。三月のうちに二度行き三度行って、表戸が釘づけしたように
四度めに出かけて、中から戸が開いた。洋服なのですぐわからなかった、地蔵盆の宵に曲師を勤めたおばはんだった。顔を見られた眼がちょっときつかった。
身振りで入れと言われた。
土間が冷えきっていた。
あとについて、洗い物に布巾を掛けた籠など置いてあるせまい流しを通り抜け、井筒の脇の隠し戸をとんと押して下駄をぬいで上がった。名ばかりの濡れ縁の右が焼板塀に囲まれた坪で、左のガラス戸をあけると寝たきりの床が老人の匂いをさせていた。老婆だった。見たところ
天井は黒かった。押入の襖は渋い無地だった。花やかなものはなにもなかった。めくら縞の薄い座蒲団を出された。
その前に「おばさん」と呼んで、ともかく、雪子に迷惑をかけた詫びを私は畳に手をついてした。どうしてくれるとも言わず、おぱさんは黙りこくっていた。耳たぶを垂れたお婆さんは意外にふっくらとした白い指さきだけ振って、もうよいということを呟いたらしかった。
雪子がこの家にいないこと、曲師のおばさんが、愛八には、父親違いの姉に当ることがわかった。雪子が愛八こと遊垣専一の娘ともどうとも言わなかった。私は逢いたいと頼んだ。両手をついた。沈黙の壁の厚さに凄みがあった。おばさんの顔が見にくかった。寝たままの人は、奇妙に愛らしいような嗄れ声で、雪子に聞いた親子丼のことを私の口からも聴きたがった。
食べ足りなかっただけという思いが私にはあって、あれで雪子の気もちが
くどくどと年寄は、雪子が一夜明かして泣いていた、だが悦んでもいたのだと私に告げた。そういう話をおばさんは
今にしてあの時、だれ一人、私にしても、結婚の二字をけっして口にしなかったのに、思い当る。雪子の居場所を知って私がどうする気だったか、皆目思い出せない。
それでも、雪子の母が一つ違いの雪子の妹を
木地というのは雪子の母が育った家の苗字だった。雪子は自分の意志で愛八のもとへ身を寄せていた。なにも訊くなという無表情で、今さら木地という家を探しまわらぬがよいと、おばさんは脅すような口つきをした。寝床の中で老婆がしくしくと顔を蒲団に隠した。
愛八が帰ってくる様子はなかった。
くらい坪庭の笹から南天の実へ建仁寺の小鳥が一羽二羽寄ってきて翅を鳴らしていた。ひどく寒かった。半ば背を押される心地で外の小路に出た時、彼岸過ぎの粉雪が散ってきた。
父も母も、私立大学へ私が推薦されてしまったのに、半ば閉口していた。浪人も迷惑だがどこか国公立の学校へもぐりこむものと楽観ぎみだったのが、万事塞翁が馬式に思っていた私は、入学許可が暮のうちに内定すると、もうどこへ願書も出さずじまいだった。一緒に担任の自宅へ卒業証書を受けに行った日にも、母がその辺の愚痴をこぽしはじめると、そもそも「お前なら推薦でいくで」と私の眼の前で三年間の成績をおさらえしてみせたご当人は、頭を掻くだけだった。推薦を受けたうえはよそへ行かれて困るのが当の大学より、高校側だった。担任教師だった。そんなやりとりのお蔭で、高台寺一件を大人同士蒸し返しそうにない成行に私はほっとしていた。
翌日、今度は思いがけない中学時代の国語の先生から呼び出しがあった。無いことだった。新京極の裏寺町で一寺の住職を勤める一方、私が習っていた時分は立命館の夜学でも太平記を講義していた。この時はもう常勤の講師になっていた。
生徒はかげで「ヘンコツ」と呼んだが、偏屈というよりけったいな
先客は、木地雪子だった。これは、予想もできてなかった。立ち疎むのを見上げられて、眩しそうにうへっとでも呟くと私は敷居際に両膝をついてしまった。
「ナ、お前。これ読めるけ」
紙切れ一枚に、坊さんのわりに巧くない筆で、烏丸丸太町――と書いたのを先生 はひらひらさせた。
ほっとした。
「からすま、まるたまち、でっしゃん」
雪子がくすくす笑った。先生はわざと渋面をつくって、
「それやからお前は、
仕方なく雪子を見た。
「からす、まるまるふとるまち――やて。どっかの就職試験に、そないに書いた生徒がいたんやて。それだけで受かって来たいうて、今、
「百点
「言います――」
「そうか、そな、よろしと。さ、こっち
雪子のよこに手焙りをはさんで、さすがに紫色でふかふかの座蒲団があいていた。畏まるひまなく、「この子の親爺とは、よォ知っとンにゃ」
先生はくいと雪子をまるい顎でさした。先客と思ったが、客というより、この寺の住人のような寛ぎも雪子のそぶりに見えてふと
「どや。えやろが、もう。先々ちゅうこともある、わるいことは言わん。この辺が、汐時やて。二人とも、ここでやめとけ。この子はその辺承知しとったンやが、お前の方はもともとどっかチョロイよって。
えろ永いあいだなにかとご苦労はんやったそうなが、――結局そのチョロイとこにこっちが(と先生は雪子を見た)負けた。負けてよかったて思わんではないンやが、――それにしてもきついアク落しも、してしもたことや」
一と息あった。そしてもう一度、「この辺で、モ、得心せんか――」
俯いたきり雪子を窺った。雪子は鼻すじを傾けてしんと黙っていた。つまりは別ればなしらしい、雪子なりに話は付いている風情だった。
「ご迷惑、かけました。ぼく、なんや今はナサケない気分ですけど――そない
「逢えるもンなら、それでもえやろ。お前も、そやな」
書きもの机の向うから覗きこむように先生は雪子の反応を促した。雪子はひたすら静かなまま、もっと俯いたのか眼でものを言ったか、私にはわからなかった。
「今、――どこに」と訊いた。雪子はびくっと上体を揺った。私を見、すぐ先生の方を見た。急いで私は手を横に振った。
ことんと沈黙の穴に落ちこんだ。雪子は憂鬱そうだった。私もだった。先生のまうしろの壁に無造作に掛かった二行の書をぼんやり読んでいた。雲ハ無心ニシテ以テ
もう帰れと言われた。いっしよに雪子も席を起つのを先生は
「思う所はお前にかて有るはずや。が、それはもっともっとしてから、文章に書きなさい。それもお前の、道、ちゅうもんやないのか――」
どこから廻ったか
とっとと戻って行く先生の法衣の尻が幾筋にも引き
八
常安寺の先生とは近年二度つづけて出逢った。二度とも出版社の年忘れパーティのさなかで、二度とも私の方がうしろから肩を叩かれ、「読んどるで」「きみ、古典の現代語訳もやれよ」と大声が耳に残ったきり、片掌の塩をなめなめ、枡酒の手もとも危なかしく入道雲のような頭をまた人波に沈めて行った。なつかしかった。が、あとは追わなかった。まっとうな背広姿がふっとおかしく、「きみ」と呼ばれたのも、あとになってくすくす笑えた。
先生が、多分、へたながら浪花節も語った愛八と懇意だったことはその周到な太平記研究とも繋がっていたのだろう。謡曲の詞章の研究や、「平曲」以来の語り藝と結びつく「明徳記」だの「曾我物語」に学界がおどろく
――雪子とあの日、はじめて四条の喫茶店に入った。白いブラウスの上に緑色の尻まで隠れる毛糸のコートを着ていた。下はやはり
「コーヒー、好き」と雪子が訊いた。先刻来の沈黙をかつがつ自分から破るという感じだった。私は改めて一と口すすって「たいして」と返辞した。カップも恰好よく持てなかった。
「
「眼ェつむって、ついて
人さし指をしっかり
私は頷いた。頷いた気持は、信心とでも譬えていうしかなかった。雑踏する高島屋の一階を斜めに通り抜けると、河原町を南向きに二人は歩きだした。今にも落ちて来そうな雲の低さだった。
歩いてばかりいなかった。市電にも郊外電車にも雪子が言うまま乗ったり降りたりした、と思う。が、どこをどう経廻り歩いたか言うことはできない。
下
かと思うと、武家屋敷というほどの堂々たる家々が棟を並べていた。定紋が打ってあった。一人は犬を連れて、朗らかに笑いあう中年過ぎた女の人たちに、雪子の方からていねいに声もかけていた。
かと思うと、窮屈な出会いがしらに何度か人にぶつかり、そのつど呻くように
そこがどこか、どこであっても同じ京の街なかだった。
突然家の中へ入った。天井は低く、土間の土も真黒ではあったが台所の柱も
雪子は上がり框にひとり待たせて黙って奥へ姿を消した。人声がして、やがて、雪子をすこし華奢にしたような、眼の横にちいさな
「疲れはったやろ」と雪子がやさしい。
私は元気に首を横に振った、と思う。それより尿意に悩んでいた。足袋がすっかりだめになっていた。そう言うと、雪子はちょっと思案していたが、意を決したように似た足袋を探してきた。すぐ履き替えて便所へ行った。濃い植物の匂いがした。朝顔に叩きつけるように私は、「措かんかい、とは何じゃい何じゃい」と呟いていた。
また歩いた。
出来て間もない、何階もそして幾棟もの集団住宅の庭を、雪子は私をつれて突っきった。
さっきから、雪子が何を考えているか、察しがついている、つもりだった。雪子の殆ど我武者羅な歩きっぷりは、それがもはや力ずくの、別れの儀式――。
雪子は時々ぎらぎらした眼で私を見た。私も、どうくたびれようが雪子がもう良しというまで歩く気だった。走れと言うならはだしになっても走る気だった。京都
という名の土という土を踏み抜きたい気だった。二人はいつか鴨の河原を黙々と、足もと突っかかりかかり歩いていた。顔へ、胸へ、雨が落ちてきた。
川がどっちへ流れているかも私は無視していた。夕暗に時おり白く光る雨脚に打たれてどっと雪子が水際に坐りこんだ時、遠い北山の雪が一瞬の夕日に桃色に映え、すぐまた墨の色に沈みこんで見えなくなった。
――何かから夢中で遁げるように、川下の巷を振切って
腕一本で雪子の背をわずかなりと庇う庇う隣りに
気違いじみた若いアベックに声をかける者はない。
霧を巻いて河原は刻々闇に冷え、いくらもいた小鳥の影もなかった。
いやな街だ。
すぶ濡れの雪子を力かぎり抱きながら、つくづく、そう思った――。
――大学を出ても雪子と逢わなかった。四回生で知りあった妻と一緒に京都を捨て、東京で結婚した。
木地雪子が、まだ私が一年間大学院に籍を置いていた間に、それはちょうど、私が妻の卒業を待っていたような間に病死したらしいことを、結婚後七年めの夏の休暇で親の家へ帰って、聴いた。話してくれたのは、むかし「平家物語」や「徒然草」に手づくりの絵カヴァーをかけてくれた人だった。独身で、開業医の経理をあずかるかたわら裏千家の茶を人に教えていた。今も絵は好きと言いながら、わずかな立ち話の間も陰気になっていた。雪子のことをもっと聴きたかった。が、
その晩、夢を見た。夢の中で私は高台寺の墓地を上って行く女を追っていた。そして、急に姿を見喪った時、眼の前に金網の破れがあった。とびこみながら性急に「雪子」「雪子」と呼んだ。そう呼んだつもりだった。のに、まるで違う名前が山辺にこだまして、するとわざと隠れているのか、ほどよい木蔭から名を呼び返された。知らぬ名だった。が、それはもう私の名前に相違なかった。
「なぜ、わしを置いて行く」
「ほっほ……ちゃんとわたくしのあとをつけておいでだったではありませぬか。わるいお方が付きまとうと、さあ、父上の前で言いつけましょうか」
私は苦笑した。
妻が揺り起こした。
「いやな夢、見たの一一」
そうでもないと返辞して寝返りを打った。妻の横で、まる五つになる娘もかすかに夢の中で身
東京へ帰るとすぐ、夢そのままに『雲居寺跡』の出を書きだしたが、二年かけて、結局中絶した。若かった女優のKを、はじめてテレビで観たのがその時分だった、切ないドラマを気迫で演じていた。右の眼に並んで、ちいさな黒子があった。
それからでも十何年かたち、一一まだ資時の小説は書きだせない。
しきりに木地雪子を夢見たかった。将軍塚で雪子が拾ったガラスのおはじきを、鴨の河原へ、今度埋めに行こう、ぜひ行こう。
そう思い思い、今夜も酒の量を過ごした。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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