慈子(あつこ)
序 章
一
正月は静かだった。心に触れてくるものがみな寂しい色にみえた。今年こそはとも去年はとも思わず、年越えに降りやまぬ雪の景色を二階の窓から飽かず眺めた。時に妻がきて横に坐り、また娘がきて膝にのぼった。妻とは老父母のことを語り、娘には雪の積むさまをあれこれと話させた。
三日、雪はなおこまかに舞っていた。初詣での足も例年になく少いとニュースは伝えていた。東山の峯々ははだらに白を重ね、山の色が黝ずんで透けてみえた。隣家の
正月三日の東福寺大機院では院主主宰の
高校への通学道がこの東福寺の境内をよぎっていた。
歌はいずれも平凡だった。作品は一応披露されていたが、点を入れることはしないでただ感想を述べた。感想に世間ばなしがまじり、酒盃が往来し、一盞また一盞で陽気になる。院主の
先刻来、茶室脇の広間には綺羅を重ねた人の出入りがうかがわれる。炉中に炭を活け、奥さんの
歌はとりとめなく、談は馴染まない。
水屋の方へ抜けて出たが誰もいなくて、今
茶室に入ってみた。三畳の小間で、
呼ばれて広間へ通った。
実をいうと妙に落ちつかないのだった。心の内を何かしら流れるものがある――。
はて…と思い直した時「岩田さん」と奥さんは呼んだ。「もう一服差上げとおくれやす」ときこえて、私は点前の人を真直ぐみた。その人も私をみて、そして
慶入を
今一服を味わいながら奥さんに、お社中の方はこの辺のお嬢さんが多いんですかと遠まきに訊ねてみた。岩田良子の家はたしかこの寺域を東へ出、一帯に泉涌寺と謂われる
奥さんは私の問いを学校と結びつけ、かつて私が日吉ヶ丘高校の茶道部にいたことなどを大層らしく披露してから、ここにも何人か後輩がいる、あの人この人と教えてくれた。点前の人もそうであった。実は岩田さんという名をきき、この方をみて、学校の時分に一緒だった人を想い出したと名前もいってみた。姉ですといわれ、もう驚かなかった。
席中であり、それ以上のことは話さなかった。座には笑い声も起こって、さわさわと点前は仕舞われていた。それも、歌会の連中が賑やかになだれこんできて浮足だち、茶事はそのままご馳走のもち出しとなった。ご機嫌の院主は
席盃一巡の時、私はまた座をはずして廊下へ出た。
その人は水屋にいた。人から離れて、雪の消えてゆくのをみているふうであった。私に気がついて、すこし朱らんで目礼した。押しづよいかと思いながら、もう一度お点前でと頼んでみた。うなずいて、すぐ用意にかかったので、水屋から通り抜けて私は茶室へ入った。
湯はたぎっていた。寒いほどではなかった。明り窓ちかく雪のくずれる音が淡いかげを走らせていた。美しい人は背をかがめながら水屋口に姿をみせた。広間から佗びた
稽古のこと、雪の正月のこと、数年ぶりにこちらを訪ねたのだが、以前にお目にかかったこともあったのだろうかということ、久々の京都でなつかしいこと、東京でのくらしのこと、学校のことなど、あれこれ語っては答えながら、話は良子のことに触れてゆき、そして、「姉は亡くなりました」ときいた。声を呑んだ。
釜の鳴りがひびいた。
磬子は点前の手をやすめていた。それに気づきながら私は
水指の水が釜に
岩田良子は学校にいるうちから重く患いついて、卒業式にも出られなかったという。存じませんでしたと
茶は美味かった。
磬子さんと呼んで、我儘なおねだりをしたことを詫び、今度は奥さんに叱られに広間の方へ戻った。目礼して見送る人の、肩さきから胸から、目も
知りたいと思っていた人の消息を私は知った。哀しい辛いと嘆くような何ほどの関わりもなく過ぎ別れた人である。その上、昨日今日のことでもなかった。それでいて、死なれたかという気もちだけは底白いあきらめのようにいつまでも残った。
岩田良子には死なれていたが、生きている妹と逢った。姉の死を淡い絵空事に思った私が、東福寺を去って、妻や娘たちのいる久々ににぎやかな老父母の家へ戻ってゆけば、また磬子という人のことも、思いがけずみて過ぎた
なぜか私は来迎院へ寄らずに帰った。
二
年の瀬の
「
ああ、そうかと鋏を受けとり、足もとに気を配りながら池をまわって、山茶花を枝長に截った。そばに朱い実の千両の
雪はこやみがちに降りついでいた。 丈高い生垣に囲まれ、ものの底に佇むふうに慈子は
お利根さんは袖なしの
心もち前かがみに細い
来迎院の背戸越えにちょうど山ひだ一つ北側、夕暮れには西日が一とき山はらの深くまで朱く染める場所に
先生のお墓には来迎院から椿の古木と石楠花の
慈子はその椿に手を添えた。お利根さんは背をこちらへ向け、雪を積んだ観音寺の屋根をみていた。すこし明るんだ空の色が遠くにあった。
私は慈子の傍へしゃがみお墓に掌を合わせた。
つづいてお利根さんが
渓をこえてサイレンがきこえた。赤十字病院で正午を告げているのだ。その単調なかん高い音が私にいろいろのことを想い出させた。
私の昔通った高校は泉涌寺下の空の広い丘にある。一望に
訃報は関西出張の私と入れ違いに勤め先へ届いた。家族連れで出ていた私は名古屋、岐阜、大阪、岡山の仕事を仕上げ、妻や娘の待っている京都の家へ落ちついて次の日、先生の死を知った。葬送は
先生は四十六歳だった。
ものもいわず雨の庭へ出た。池の上に赤い花が幾つも飛び散っていた。私は茶室に入った。壁と畳の匂いが冷たい。涙で閉じてしまった眼の底から目くるめく青葉の色が雨まじりに渦になって吹きあげるのがみえた。
宏に逢いたかった――と先生はいい遺されていた。
あの日もお利根さんが先に立ってはげしい雨の中を観音寺の墓に参った。
「みんなに死なれて――」と絶句してお利根さんは合わせていた両掌で口を押えてしまった。
〝死なれた〟というふうないい方をその時私ははじめて聴いた。墓はまだ寂びしい一基の石柱であった。帰りがけ、白い赤十字病院の建物が雨中を今にも流れそうにけぶってみえた。〝死なれた〟という言葉が心に沈みつづけた――。
十年前――。雨があがって、朝はまだ灰色がかった空にかすかに光りが洩れ、ねぐら鳥が鳴きしきっていた。〝ひむがしに月のこりゐて
昨日もきた。その前の日もきた。誰も来ない間に教室の戸をあけるのも、そのままの足で泉涌寺の
視界が木の
金堂を一めぐりして、参道わきの
遠い朱い椿の花に眼を凝らしていると瞼の内に悔いとも哀しみともつかぬものがきた。手近な青もみじを散切って浅い流れに落としてみた。静かだった。思い屈した私は口をとがらせ両腕を前方へ突っぱって、静かな空気を汲みあげるような恰好をした。
「何を、なさってるの――」
来迎院の石段に立って十くらいの少女が私をみていた。少女はかすりの着物を朱いしぼりの帯でくくっていた。まだ花にならないつつじの生垣が門の奥に青々と満ちていて、娘を呼ぶ父親らしい声もきこえた。「はい」と答えた少女は、石橋の上の私から眼を放さなかった。あかるい眼だった。
少女の背後から私をみて、すこし朱らんだ顔で口をもぐもぐさせたのが朱雀光之先生だった。花鋏を右手に、
つぼみのいっぱい立った花つつじの大生垣をくぐり、池のある庭の広縁に腰かけて私は抹茶をご馳走になった。いつもの習わしに不時の客を呼び入れたそんな気軽さがあった。
先生は片手飲みで先にぐいと流しこまれ、にっと笑うと少女の運んできた藤の繪の茶碗をどうぞと手真似ですすめられた。少女は
どんな機縁がはたらいたか、「よかったら学校の帰りにまたお寄り」と誘われたまま、終業のベルをきくと足は赤土の丘を泉涌寺へ走ったのである。
朝、先生が茶を喫まれた茶碗が
「折しもあれ物の寂しき秋暮れて から、 「
はじめて「先生」と呼びかけた時、先生は思わず
慈子と逢った前年の夏、私の養父は
他家との諍いと家内の
六年後に私は妻と婚約し、
今――。遠い
師走、二十八日のことであった。
三
朱雀先生の墓前に花を運んだのもそうだが、京都へ帰るについては他にもあてがあった。大機院の歌会がその一つ、年来書きとめた茶の湯
この日、三味さんと私はそう
公衆電話で慈子を呼んだ。秋に、東京で逢って以来だ。
泉涌寺下のだらだら坂を上って、
年明けて、大機院歌会の次の朝、佐々木家の電話があり私は再度
原稿に添えられた三味氏の批評は
――戻された原稿を畳に置き、寒い二階に背をまるめて坐っていた。まだ小雪が散らついていた。階下で娘の声がはずんでいる。餅を焼くのか、甘い醤油の焙られる匂いが寒い中にまじってきた。冷えた腹に柔かな餅をふうふう噛み入れてみたくなった。慈子が待っているという気が、急にする――。とんとんと私は階段を踏んだ。
「ほうら、いらした」
「パパ、お餅の提燈ですよう」と板戸越しに娘が呼んだ。笑っている
餅を食ってから、オーバーの衿をたてて家を出た。次の日の午には東京へ、帰りの汽車に乗る予定だった。
慈子は留守だった。待っていたとも聞いた。公衆電話をはなれたが、悔いほどの気もちが一ときあかるい陽ざしの下で私の肩をすぼませた。雲間がきれいな青空に変っていた。仕方なしに寄ってみた八坂神社の境内は初詣の人波が渦になって、誰もが今年ばかりは傘を提げているのが妙だった。鳩が社殿からわずかな人の隙に舞い下りるにさえ白い雪しずくを散らすといって、若い女たちが声をあげる。拝殿の鈴を鳴らすざわめきよりそれが面白かった。しきりと慈子に逢いたかった。前日逢ってきた岩田
死んだ岩田良子について殆ど記憶がない。それが私を感傷的にしていた。あの妹とも同じように行き過ぎるのかと思うのだ。年恰好のそう違わない朱雀慈子とどこか想い比べがちに、美しく
慈子は、私に習って、変化の多い点前よりも単純で徹底した
「
主客とも余情残心を催し、退出の挨拶終れバ、客も露地を
井伊直弼「茶湯一会集」の眼目といわれる〝獨座観念〟の章が、もともと余情残心という思いで書かれたことも今の私は知っている。余情とか残心とか、それはまた武道的な発想でありながら、むしろ雅びな貴族的な魂の風韻を語るが如くに洩らされている。獨座大雄峯の境涯を超えたあるやさしみということに触れて、朱雀先生は武人
よきほどにて出で給ひぬれど、なほことざまの優におぼえて、物のかくれよりしばし見ゐたるに、妻戸を今すこしおしあけて、月見るけしきなり。やがてかけ
私は、先生が〝獨座観念〟の
雪のおもしろう降りたりし朝、人のがり(許へ)いふべき事ありて文をやるとて、雪のことなにともいはざりし返事に、「此の雪いかが見ると、一筆のたまはせぬほどのひがひがしからん人のおほせらるる事、ききいるべきかは。返す返す口をしき御心なり」といひたりしこそをかしかりしか。
いまは亡き人なれば、
先生はいわれた。この段だけをみると、
久しくおとづれぬ
誰かの噂ばなしに合点したような書きぶりで、これははっきり女のはなしである。心ならずも
朝夕へだてなく馴れたる人の、ともある時、我に心おき、ひきつくろへるさまに見ゆるこそ、今更かくやはなどいふ人も有りぬべけれど、なほげにげにしくよき人かなとぞおぼゆる。 (第三十七段)
男か女かなどというまでもなく、雪の朝の女、
「三十二段の月見る女だけはすこし趣が違うようだけれど、それは情景に兼好独特の潤色があるからで、振舞の優しさは三十七段のふと淑やかな気品をひらめかせる女と同じだと思う。朝夕の心づかいは何もこの段の女だけへの讃辞でなく、三十一、二、五から七段までを一人と意識した上での懐旧の情、嘆賞の声ではないか――」
雑踏を嫌ってみても、さすが正月でどう遁れようにもタクシーが拾えなかった。祇園石段下から
――第三十二段は多分つくり話かと先生は仰言っていたが、あやかしの多い徒然草の行き方ながら、あれは本当にそうかしらん、あの段の仕組みは存外兼好の立場を素直に出してはいないのか。そう、私は考えはじめていた。
四
雪の京都から東京へ戻ったのが正月五日、年賀状をゆっくりみたのは次の日曜だった。
霜が厚く、午ちかいのに外はまだ真白だと妻はいった。
意気地なくふとんにもぐりながら手にした年賀状の束が例年より重い。私宛て、妻宛て、連名のもの、おまけに二歳半の娘宛てのものまであるが、極く月なみで、すぐ飽きてしまった。とりあえずわきへ取りのけておいたのは
繪が描いてある。実は何の繪かよくわからないが、朱と緑を大柄に塗りわけてあって新春の感じがしないではない。細いペンの字で、〝おめでとうございます。夏きていただいたのにいなくって。ことしもいい年でありますように〟とあるばかりで、これでは近況も知れない。
千恵子は私たちが東京へきてからも二、三度季節の便りを寄越していた。暑中見舞か年賀状かいずれにせよ簡単な
そんな千恵子の賀状を抜き出して仔細らしく眺めたというのも、本人は忘れているに違いないが、岩田良子を私のところへ連れてきたのがこの藤舎千恵子だったから。
私の叔母は独身のまま三十年来、茶の湯、活け花の師匠をしている。門前小僧からはじめた私の茶の湯も中学時代には進んで稽古に励むようになり、創設されて間もなかった学校の茶道部では点前作法の指導をすら引き受けていた。千恵子はそこでの一年後輩だった。
同じような事情が高校へ入って二年めに再現し、自然、馴染みのある千恵子には助手役を勤めてもらわねばならなかった。そんなある日の稽古帰り、同じ祇園方面へ戻る電車の中で、私に紹介されたがっている友だちがいるともらわねいう話を千恵子はしたのである。
稽古のある日で、放課後、茶室のある第二校舎へ私は小走りに急いでいた。千恵子から頼まれていて、その日は茶室の用意をする前に、私に個人的に茶の湯を習いたいという何人かの生徒と逢うことになっていたのである。茶室つづきの作法室前にきていた三、四人の顔をみると、いずれも同じ中学出身の一年後輩ばかりで顔見知りだった。茶道部に入らず、家の方へ通ってくるという理由などわかるといえばわかるし、わからぬといえば何もわからなかった。比較的近所の人たちだし、叔母は、たとえ私の弟子になるといえど歓迎するにきまっている。話は簡単についた。
みな帰っていったが、さっきからすこし離れていた一人の女生徒だけは去らなかった。誰かの友だちで、話のすむのを待っているのかと思っていたが、千恵子は私をそこに引きとめ、改めてその生徒を呼んで、「岩田良子さん、です」と紹介した。唐突だった。千恵子は話し辛そうに同級生ですといった。何かしらその他にも喋った。
その間、岩田良子は顔を伏せたまま三、四歩はなれたところで千恵子の声を聴くふうだった。千恵子が要らぬ世話をやいて連れてきたというのではないらしかった。もじもじしていた。茶室に生けるらしい都忘れがハトロン紙から顔を出していて、早く水をやらないとと思いながら私は訳わからずに花の色に眼をとめていた。思い切った仕方だと思い、いずれにせよその場の成り行きを軽薄に感じる心の動きがあった。
だがどう眺めても岩田良子は軽薄そうにはみえなかった。背は千恵子より低いが、しなやかなからだつきが優しくみえた。服装も容姿もよく覚えていない。まるで淡いすがたでしかない。淡いすがたではあるが、受けた印象は気もちのいいものだった。髪も柔らかそうで、初々しく豊かだった。千恵子の姿などみるまに影とかすんでしまった。
私は都忘れの紫から眼がはなせなかった。しかし、千恵子が喋っているうちに早くも形づくられていた或る種の常識や、その常識を揺すられた戸惑いというものは、感情の外のかすかな分別となって残っていた。分別は良子の朱らんだ表情のためにたゆとう水明りほど危く揺らぎ揺らぎそれに耐えた。
結局、私はただ紹介に応じ、二、三良子と言葉を交しただけで、この初対面を打ち切った。茶道部員は私たちを横目でみながら茶室へ入ってゆきつつあった。惜しいなあ、と思う気もちをむりに払いのけるほどひそかな努力をしながら、良子が美しく清潔な少女であったことを私は終日忘れなかった。
それきり私は岩田良子について記憶をもたなかった。何らかの後日話があって然るべきと思うが、想い出せない。その不自然さを敢てしたとすると故意に良子の接近を拒んだのに違いない。来迎院への
それでも惜しいと想う心地は
妻が見咎めるまで私は呆やり藤舎千恵子の年賀状をもてあそんでいた。娘が葉書をとりあげていった。すこし離れたところで、「これは草とお花にちがいない、それもあまり上手に描けていないのにちがいない」と呟いている。妻も私も笑ってしまった。
私はようやく床から出た――。
パンを噛みながら、岩田姉妹のことを話した。「面白いおはなしね」と妻はいった。そんなすてきなお嬢さんに逢ってみたかったわともいった。それから、すこし焼けすぎたパンの焦げをナイフで鮮やかに払い落とし、ママレエドをたっぷりつけて娘に手渡した。茶の湯の稽古から私が久しく遠退いているのを、改めて「惜しいわ」ともいった。娘が聞きかじって、「ケイ子さんにあたしも逢いたい」と生真面目に口をはさんだ。妻は私をみて、にっこりした。
娘に磬子の名を呼ばれてふしぎな気分を味わった。
死んだ姉も死を告げた妹も同様に私だけが知っていて、妻や娘に関わりのない人たちだった。日曜日の遅い朝食の話題にしたことから、岩田良子も磬子も私たちの現実の暮しに関わりをもってしまった。もって差し支えはないが、それは魔法の壺に手を入れて一筋の糸を引っぱり出し、胸の
たった一本の細い糸筋ではあっても紛れもなく私の肉眼にはみえていた。私だけにでなく妻にも今はみえていた。そのことが驚きになった。朧ろだったものが、とにかく一本の糸で現実につなぎとめられ、はっきりしてしまった。
妻に女友だちのことはあまり話さない。話そうと心がけたこともあるがむだだと分るようになっていた。結果的にうまくなかったからむだという訳でなく、妻には話された女性が現実の存在として生々しく出現するらしいのに反して、喋っている私の腹の中では、そういう女性は所詮は別世間別次元の、頭で創った
岩田姉妹の話は淡々しく、妻にもそれは「おはなし」にすぎなかった。だからこそ逆に、「ケイ子さんにあたしも逢いたい」と娘が真面目くさって呟いた時、妻と一緒にわらいながら私も、もう一度逢いたいとかなり執拗に望んでいた。逢えば、また、妻や娘に告げるだろうか――と、秘かに否みながら――。
朱雀の人たちのことは決して話さなかった。親にも友だちにも知られない私一人の〝来迎院〟という意味は、幼いほどの判断のままにもただの独占欲とはまるで別の価値観を心に灼きつけていった。そうしなければ所詮は保ちきれない交わりとして、〝隠す〟というより〝守る〟という気もちで、先生やお利根さんのこと、
藤舎千恵子には返事を書いた。偶然、岩田良子の妹に逢い、良子の死をきいて驚いたということを書いた。私はこれを借りを返すような、中途半端だったものをきちんとかたづけるような気もちで書いた。だが筆の先から磬子が立ちあがる。
磬子と逢ってからは良子の面ざしを想い浮かべるのが一層困難になっていた。目のさめるような紅梅衣裳が揺らいだ。
五
荒神は日本最古の鎮座と伝えられ、伝弘法大師作木造の御神体は重要文化財に指定されている。弘法霊夢を蒙り
朱雀光之先生が来迎院に来住されるまでの経緯をもちろん私は知らなかった。来迎院仏事一般の宰領は本坊から人がきていたようで、泉涌寺に
東京へ出てくると慈子は私をお茶の水へ呼び出す。本郷の勤め先からきてお茶の水橋を渡った角の喫茶店〝ジロー〟とか、駅の裏の〝レモン〟というジュースの店などをいってくる。
以前は〝レモン〟の近所に〝
来迎院ではきちんともの静かだが、東京で逢う時は、もの靜かなりに歩き方もさらさらとふだん着で町をたのしむほどの余裕がみられる。東京が好きかと思わず訊ねたこともある。しかし慈子はいつも首を横に振った。
二月になって、デスクへ慈子のいつもの電話が入った。
早めにきてしまった私は〝ジロー〟を通り越して足まかせに駿河台を歩いてみた。明治大学などのある辻へ抜けてゆくと高台らしく切り立った石段が二つ三つ駿河台下の通りに架かっている。町は灯の海で、寒くかすんだまま遠いテレビ塔にも朱い光が浮かんでいた。大きな犬に引っぱられて十くらいの少年が犬と同じようにはあはあ息して通りすぎた。新宿の方へ走り抜けてゆく快速電車のまぶしい光条が意外に近くみえた。
時計をみて振りむいたすぐ前の、静まった邸の潜り戸からすっと歩道に立ったのが
「どうして、いらしたの――」と慈子は訊ねた。けれど、べつに返事を待つでもなく、ここがお利根さんの実家で、今は兄に当たる人が主人でいること、東京では気らくなのでついこちらへきてしまうが、朱雀の本家は世田谷の下深沢にあるということを慈子は温和しく話した。そう話している口もとまで宵やみが濃くかぶってきた。
〝レモン〟までの道で、岩田磬子と逢った正月のことなどを話した。何かいいそうにして、ふと慈子は口をつぐんだ。
店は学生たちでいっぱいだった。いよいよ慈子の卒業論文に何を選ぶか、という話題がおかしいほどぴったりした。
以前から慈子は「南方録」偽書説に興味をもっていた。
また俵屋宗達が下絵を描き本阿弥光悦が奔放に歌を書き流した草花歌巻の成立に疑念を寄せていた。宗達下絵で光悦が書いたという伝承、さらに宗達に関する事歴が異様に乏しく名声にそぐわぬ点など、むしろ「光悦宗達同一人説」といってよい強い発想を慈子は抱いてきたのである。同種の疑いをもつ学者や古美術商もなくはないが、慈子は、この主題も南方録偽書説の検討同様、野心的だが今の力ではいささか「物語」になりそうだからと断念していた。
慈子が選ぼうとしていたのは、「日本古瓦文様の意匠史的考察」という、地味な主題だった。どこの博物館ででもみたことはある。唐草紋も蓮花紋も簡素に過ぎてすぐに閉口してしまう。だが慈子がカメラや拓本の道具を提げてそれらしい遺跡の古瓦紋様を取材にゆくかと想像するのも、それはそれで好もしい繪のようであった。「いや」と叱られるまでしばらく慈子をながめるような眼をしていた。
国鉄中央線の向こうの医科歯科大学がまた新しい工事をやっている――。一番古くなってしまった表通りの大病棟に規則正しく窓の灯が光っていた。突然慈子は訊いた、「
「兼好のことはぜひお兄さんが書いてほしいの」と慈子はわれにかえって急にそういい出した。
若い兼好の物語を書いて、と慈子は手紙にもいっていた。ただの思いつきだったろうか。もちろん光悦宗達同人説についても慈子は熱心に話していた。同じ人の筆先に生まれたかもしれない書と繪の揺らめく光彩に秘められた眩暈と疑惑の美しい詩。けれど――、慈子は結局繰りかえし「徒然草」のことへ話題を戻した。慈子の眼は光って、幽かに焦ら立ってさえいた。
上京を報せる二、三日前の手紙には、来迎院の暮しも負担になっている、泉涌寺の都合もあってどこか別の住居を考えることになるかもしれないと書いてあった。やっぱりそうかと思いながら、その一方、大学のことや週一回の個人教授で糺ノ森のミセス・ルウに英会話を習いはじめた話などが珍しくて、ついそれらの方を私は覚えていた。
慈子は私や妻の後輩として同じ文化史を専攻していた。私たちの恋愛についても研究室に残っている先輩同輩の口から何かをきき出しているのかしれないが、慈子は黙っていた。私も訊かなかった。妻と私、慈子と私に、重なり合わない別世界があり――、そして良くも悪しくもそのことを
お利根さん仕込みの、なだらかだが形をくずさぬ文字が朱雀慈子と署名している封裏を上へむけて、慈子の手紙は仕事のための伝票や葉書などの下に藏われてある。思い屈する日には私は秘かに慈子と書いた慈子の文字をものの下にながめてみる。妻の影のふと射すことがないとはいわぬ。だが、うしろめたさのような心の動きに対して私は烈しくいつも
――七時すぎかと私は呟いた。慈子の眼がすばやく私を捉えた。慈子――と呼ぶと「はい」といってすこし微笑った。〝レモン〟を出てタクシーに乗った。勤め先を通り過ぎ、東大の正門前で二人は車を下りた。
店を閉めた有斐閣の前を、編集の木崎と総務課の名田登茂子が歩いてきた。残業あとらしかった。眼だけで会釈したが、何かいいかけられそうだった。東大側へ電車道を越えながら烈しく気が滅入った。大事に抱えた鯛の鱗一枚を剥がれたほどに、勤め先の同僚などに慈子をみさせた不快がこみあげた。木に竹をついだみたいに私は来迎院を出る話のことを訊ねた。暗い月かげの曇り空に銀杏の大樹が
お利根さんの家というのが、留守居だけを置いて北野の紙屋川畔にある。そこへ慈子を連れて移りたいとお利根さんはいうらしかった。大学の方へは便利になるし、慈子も東京の本家に引きとられることを悦ばなかった。京都に住み残る条件の一つに、二カ月に一度は顔をみせにきて欲しいというのが、下深沢の祖父母のむずかしい注文であった。
墓を観音寺に定めたことは慈子を感傷的にしていた。親しい学友も増え、若やいだ学校の内外に魅かれて相応にそこへも入ってゆきながら、先生と私がいて世離れて培ったあの〝来迎院〟の昔が、何かしら祭祀さるべきもののように慈子を強いた。「父が望んでいるように思いますの」慈子はそういった。
木立の中のだらだら坂を三四郎の池まで下りていった。ぱしゃと小さな水音がすぐ静まった。
六
慈子、げんきですか。お兄さんと呼ぶことも忘れてきみは京都へ帰っていった。一緒に僕もいってしまいたかった。
あのあとすぐ、岩田さんから突然手紙をもらった。正月、大機院で逢った人です。卒業生名簿で勤め先を調べたらしい。
さて、きみを送ってから、突然という訳ではないけれど、思いの外に仕事が好調に進んで、それで余った時間をむだにすまいと覚悟をきめ、東大の国文科の書庫へ勤務時間中潜入することにしました。仕事の方でお世話になっている東大病院のえらい先生に紹介状をもらいました。
頑丈な赤煉瓦建の三階で、窓の外がすぐあの三四郎の池。木立に手の触れそうな小気味いい所だが、書物の冷えもあって部屋はひどく寒い。オーバーを着込んだ研究生らしい数人が思い思いに本を拡げていると、もうさほど余裕もないくらいの書庫なんです。しかし本はさすがに揃っています。
通いはじめて一週間になります。朝のうちに勤めの仕事をはかどらせて、午すぎるとそっと大学へ入ってゆく。が、まあ上の人にでも知れれば問題にされるでしょう。
徒然草は幾度も通読しているし、先生に教えていただいた素地もある。けれど、慈子がいうほど「徒然草執筆の動機」が推量できるものか僕には自信がない。想像するだけでなしに、やはり或る所までは本を読み、そう無暗なこともいわぬようにしたい。まとめて文献を読みノートもとって、創作や物語の方はそのあとにさせてもらうことに一人で決めておいて、僕は今手当たり次第に徒然草や兼好家集の文献を読んでは写ししているのです。
それだけでは慈子ががっかりするかと思ったので、片端だけど僕なりの収穫を「兼好の自讃」ということでまとめてみたから、一緒に送ってあげる。
いつまで暇があるか分らないが、東大へ出かけるのがむりになっても、時々は僕の「兼好考」を慈子に読ませたり、話したりしたいと思っている。それが何かの役に立つという予感がする――。
来迎院をいつ出るのか、報せて下さい。お利根さんを大事にしておあげなさい。寒い日がまだまだ続く。先生のお墓にお花をあげて下さい。大事になさい。
堀河天皇の
一体兼好の場合、物狂おしさに筆をまかせて剔ってきたような感想に秀れた発見がある。同じ祭のはなしでも、祭の果ての寂びしみに筆の至った心は光っているが(第百三十七段)、樹上に祭をみながら居睡る法師を諷して人の敬意を
第二百三十八段はそのしたり顔のまずしさを露骨にしているので好まないのだが、看過ごす訳にゆかぬのはその第七節である。武田祐吉氏の「徒然草新解」には、この段を〝兼好の諸道に通じ、世間にもうとからぬ有様が知られる。若いときは馬藝を習って関東出仕をも志し、年たけては道心ふかくおのづから行ひ澄んでゐるその人が如実に表れてゐる所〟と評してあるが、どんなものか。
武田評にあるように普通この段の第七節は、
二月十五日、月あかき夜、うちふけて千本の寺にまうでて、うしろより入りて、ひとりかほふかくかくして聴聞し侍りしに、優なる女の、姿、にほひ、人よりことなるが、わけ入りて膝にゐかかれば、にほひなどもうつるばかりなれば、びんあしと思ひて、すりのきたるに、なほゐよりて、おなじ様なれば、たちぬ。其の後、ある御所ざまのふるき女房の、そぞろごといはれしついでに、「無下に色なき人におはしけりと、見おとしたてまつることなんありし。情なしと恨み奉る人なんある」とのたまひ出したるに、「更にこそ心得侍らね」と申してやみぬ。此の事、後にきき侍りしは、彼の聴聞の夜、御つぼねの内より人の御覧じしりて、さぶらふ女房を、つくりたてていだし給ひて、「びんよくば、言葉などかけんものぞ。其の有様参りて申せ。興あらん」とて、謀り給ひけるとぞ。 (第二百三十八段ノ第七節)
千本の釈迦堂で
分り易そうで、この文章にはさまざまに疑念を挟む隙間がある。悟り深く行い澄ました老僧の振舞にしては生ぐさいのである。馬藝ならともかく、女色にひるまなかったのを自讃する坊さんでは
つづく〝其の後〟のはなしは行も改めずに書きつがれ、兼好自身で探りを入れに 〝ある御所ざま〟の辺りに顔を出している感じがするのだ。〝更にこそ心得侍らね〟というとぼけからは、にんまり笑んだ独り合点が胸に届いてくる。もしこのことがなければ、兼好道心のさりげない表れと読んでいいのだが、この後日話はむしろ色めきがちな青年の未熟な体臭をにじませている。それだけでなく、当夜の楽屋ばなしまで結局は手に入れて、得意気にそれでしめくくっている。
秘かにたのしみたい自讃の内容は、寄ってきた女を拒んだことだろうか。それよりも、寄って来られたこと、恥をかかずにすませ、その上、その高貴な辺りの人とも親しくなって楽屋裏まで知るに至ったこと、かなり高貴な御方にそういういたずらを心易くたくまれたこと、等をある人間関係の結ばれを背景にして、どうにも自讃せずにおれなかったのではないのか。この一段を書いた頃の兼好その人は年輩の法師であったに違いなく、それだけに露わに口に出せない秘めた想い出もあったろうが、この短い一節などは、隠しておくには心にも肉にも刻まれの深い記憶として、つい洩らされた自讃なのではないのだろうか。前の六つの自讃は兼好常套の韜晦かもしれない。
武田氏はこの事件を兼好出家後のようにいわれているが、
後半を武田氏の現代語訳でみるとこうである。
〝その後、ある御所方の
この事について、後に聞けば、あの
このまま読むと、少くも、暗がりの堂の中で兼好に絡まってきた美しい女房と、御所方でそぞろ
この〝御覧じしりて〟〝はかり給ひける〟〝人〟のことをすでに慶安五年の跋のある〝慰草〟では女と解しており、沼波瓊音氏以下塚本、藤田、佐成氏らが賛成している。だが諸家は一般にはこの貴人の男と女との別に、そう拘泥していないのである。
女づれで釈迦念仏の法会に出て
それにしても諸家が男か女かの一方に自説を寄せる程度で積極的にその〝人〟を誰か、どんな人かにまで追求していないのは、不可能ということより、兼好の自讃を〝すりのき〟〝立ちぬ〟の一事にかけて読むからである。その分ではいたずらをたくんだ人が男か女かは大したことでない。
だが、そんなことでは、自讃の内容をとり違えているのではないか。兼好の秘かな誇りは、実はこの〝人〟の重さ高さの方にかかっていたのではないだろうか。
〝人の〟は特に名前を秘した書き方のようである。〝更にこそ心得侍らね〟とにげる兼好はその時以前に心中思い当たる節があって、その人が誰かも知っていて、〝はかり給ひけるとぞ〟という感想よりも早く、ひそかに笑み頷いていたのであろう。
〝そぞろごと〟といえば、気がすすむまま喋りつづける話と解釈される。そういう話のできるのは親しみも深く敬意ももち合える同士ということになり、兼好は御所方にその程度に
〝むげに色なき人におはしけりと、見おとし奉ることなんありし。情なしと恨み奉る人なんある〟とは直接話法に直した兼好得意の
だがもう一方で、兼好をむげに色なき人だと皮肉をいい、情ないと恨んだのが実はその古女房当人だったら、この段はどういう意味をもつだろうか。もっと徹していえば、最初、法会のさなか兼好を悩ませた優なる女房とは、このそぞろごとの相手その人であったと考えても差支えない。〝古き女房〟――そのグループの中で主人の恩顧厚い才気と活気のあるやや年嵩な女房とみた方が当たっているし、それが〝優なる女〟であって何の不都合もない。優なる女だからこそ押し強くできたことであり、そぞろごとの相手にもなったのであろう。こう推量すると、兼好は少くもその女房と親密な間柄だったか、その後にはそう進むこともできた間柄か、いずれその口から貴人のいたずらを確認する機会をもったはずである。
すべて、どうとも釈れる筆法を意識して用い、しかも、この一件を自讃している。なぜこれが自讃か、なにを自讃したか、実は曖昧至極で、従来の評家は書いたのが兼好法師であることを忘れ、自讃にも何にも埒もない当然なことに引き寄せられて解釈している。思う壺で、もう一度兼好はにっと笑ったような気がしてならない。
二月十五日の夜も〝うちふけて〟いる千本の寺の御堂へ〝うしろより入りて、ひとりかほふかくかくして〟聴聞していたのは、まさしくその晩、兼好自身関心を寄せていたさる貴人ないし近侍の女房が参籠聴聞することを事前に知っていて、わざと出かけたかとも推量される。この推量に依れば、兼好の奇妙に人目はばかる、あるいはわざと人目惹きたげな顔隠した振舞が首肯ける。そこに演戯がある。さもなければ釈迦念仏の法会に、かなり学業進み出家の素地もあった兼好、比叡山
第二百三十八段の七節に対しては、従来兼好自讃の内容を女色に対する道心堅固と釈ってきた諸家の鑑賞ないし解釈を、否定したい。
兼好の当時の生活環境を具体的に組み立てることができれば、この〝劇〟的自讃の真相もさらに明るみに出ると思うが、どこまでの考証が可能だろうか。この事件の実際あった時期と兼好の周囲から、貴人と女房を浮き上がらせ、貴人は男か女かを推定することになるが、それはもはや、この段を読むだけでは不可能なのである。
第 二 章
一
紙屋川は幅二間の川床が路面深く沈んでいて、帯一筋ほどの流れが底をなめている。雨季には
梅の北野は過ぎてきたが、櫻の平野神社もすぐ近く、時候柄か紙屋川の水音は薄紅の花びらを浮かべ浮かべ流れていった。
先生の家へは中学生らしく正月や夏休みに遊びにいった。一間幅くらいな川添い道は右手がいきなりの川岸で、橋から一町足らずいった左側には長い板塀の家があり大きな青木立が水の上へ張り出しているのをトンネルのようだと思いながら潜ってゆくのである。その塀の内が慈子たちの移り住んだ先であった。手紙では、庭にいると紙屋川の水音がきこえるとあったし、表の道からはすぐ平野の境内がみえるとも書き添えてあったから、新しい住みかのたたずまいは何となくあたまの中では定まっていた。
〝淀屋寓〟と筆太に書いた古い表札の横に〝朱雀慈子〟と白い紙が貼ってある。
門には、軒から柱から、さらに門の内まぢかい百日紅の幹にも枝にも、青々とみごとな蔦が絡んでいた。慈子の声がきこえた。
お利根さんは引越しの疲れで、四月はじめの肌寒にひいた風邪をまだ癒しきれずにいた。そのお利根さんが泥棒を追っ払ったという話を慈子はしてきかせた。
引越して二、三日後だった。物音を聞き咎めた病人は暗い中で床の間ににじり寄り、たまたま出してあった小鼓をぽんぽんと打ったというのである。時ならぬ鼓の音に慈子ははね起きたが、灯もなく聴いたあまい余韻には声立てることも一瞬忘れたという。賊は勝手口に烈しくつまづいて逃げ去った。灯をつけると、お利根さんは床柱にもたれ鼓を膝に置いて細い涙を頬に伝わせていた。お利根さんのことが何か気がかりだと慈子は
前日、私は大阪で小さな座談会を取材してきた。ふつうなら大阪の支所に頼むのだが、――四月二十四日、嵯峨の厭離庵で稽古茶事をするが、花も見ごろ、早もみじも美しいことだから、と叔母からいってきていた。二十二日だけを社用、あとは休暇ということで妻にも奨められてきたのだった。
慈子の新しい部屋から庭に向いた硝子戸を引くと、苔肌をした水のない池と、川の方へ枝を張った巨きな樹とが、まず眼についた。
お利根さんもきた。銀ねずをもみほぐしたような微塵縞の
慈子は手際よく盆の上で茶を点てた。よほど部屋の内も整頓されていて、見覚えのものがさすがにやや所定まらずに新しい慈子のすまいを飾っているのがもの珍しく、
お利根さんは立っていった。
「どうなさるの、あのあと」と、慈子は坐り直して訊いた。
東大の方へは十日ほど前からいっていなかった。文献は大体読んで、これからは本文をしっかりという考えでもあったが、多少勤めの仕事の忙しさも戻ってきていた。けれど「徒然草」のことはいつも頭にあった。訊ねられるのも分っていたが、さてとなると流暢には話せなかった――。
周到に読めば徒然草全段は兼好その人を解説して余すところがない。だが他方、兼好の筆が入念に何か大切な部分を隠そうとしていることもある。第二百三十八段のような、自讃という極く内面的個人的な述懐にすら読者を自然とあやかすだけの
そこで兼好の内心にもう少し立ち入ってみるために、例えば第四十三、四段と第百四、五段などを読み直すのが適当かと考えていた。
この四段に就ては想像的描写の習作断片で、単なる擬古美文ともみられている。けれど、兼好に小説創作の自覚的衝動があったかどうかという根本の疑問を解決しなければ、この解釈では不十分すぎる。
小説的文章に違いはない。けれど、意識してああいう形式で兼好個人の秘めて憚りある感懐を表出したものと、私は考えはじめていた。小説は絵空事という考え方を兼好はまさしく逆用したのではないか。
第百四段にはすこし別の問題があると思うが、他の三段はいわゆる覗き見である。
あやしの竹のあみ戸のうちより、いとわかき男の、月影に色あひさだかならねど、つややかなる
心のままにしげれる秋の野らは、おきあまる露にうづもれて、むしのね
憧れを誘う世界を書いている。第四十三段の〝かたちきよげなるをとこの、とし
端的にいうと、兼好はこの身分の高下をかなり強く意識した人であり、彼自身の出家遁世にしても真の入信に依るより、僧という身分に出て却って世俗の階級を外へ超えようと願った形跡がある。
第四十三段以下一連の各段は、兼好が想像のうちに自身を高貴化した願望と憧憬の結晶だと私は理解したいのである。こういう白昼夢的な錯乱は、物狂おしい心で冴えた兼好の眼にはしばしば映ったに相違ない。いずれも極めて若い貴公子に擬しているのは意味深いし、殊に第百五段の男女の〝綺麗寂び〟の極限を示すような光景にはかなり兼好の体験の翳がさしている。
北の屋かげに、消え残りたる雪の、いたうこほりたるに、さし寄せたる車の
絵空事とはいい切れない現実感がそこにはある哀しみの漂った印象として残る。この印象が兼好の失せることのなかった青春時代の劣等感の息づかいなのだと考えたいのである。たとえば「兼好法師集」に〝冬の夜荒れたる所の簀子に尻かけて、木だかき松の木の間より隈なく洩りたる月を見て、暁まで物語し侍りける人に、思ひ出づや軒のしのぶに霜さえて松の葉わけの月を見し夜は〟とある一首の哀韻を斟酌すべきだろう――。
朱雀先生の書き入れのある古い和綴じ本に慈子と
兼好はこれらの文章を抹消することができなかった。それどころか、絵空事めいた叙述の背後に兼好はある体験をもっていただろう。体験は兼好にがっちり食い入っていただろう。想像の貴公子を
先生の本には思い出したように書き入れがしてあった。いずれもほんの一言二言で散見できる程度だったが、本を開いている時から第百四段の欄外に〝従者の眼〟と鉛筆書きしてあるのには鋭く眼がとまっていた。慈子はその本を私にくれた。
電話に呼ばれて慈子が立ってゆくとすぐに、なめらかな、慈子らしくもなく、京都弁に似た抑揚の英語がきこえてきた。どうやら翌日の誘いを叮嚀に詫びて断っているように聞きとれた。上気して帰ってきた慈子はミセス・ルウからお
それ、例の瓦――と机の上の拓本を私は指さした。法隆寺系の丸瓦では周縁に低く波文が陽刻してある。「連弁の中の双葉のところが表面がすこし窪んだ彫りになっているの。白鳳の
次の日午すぎ、慈子は嵯峨の二尊院の門の内で待っていた。
慈子――
声は小さかったが慈子は振り向いた。青い影が額から頬へ淡くながれて、慈子は小走りに寄ってきた。一瞬立ちくらんで、思わず両手で慈子を待ち受けた。
茶事の席から私はぬけてきたのだった。稽古を兼ねているので人も多く、
もう遠いことになるが、同じ構内に校舎のあった中学生の慈子とは、放課後に京都御所の前で待ち合わせ、嵯峨へもよくきた。光悦寺から金閣寺まで歩いて、さらに妙心寺、龍安寺までという長道中もあった。夕暮れのかげ濃まやかな広隆寺の松林を歩いたりもした。芝生の上で友だちと昼休みしている慈子を大学と中学を結ぶ
二尊院ではその頃拝観料をとらなかった。奥庭へ入って茶を
裏山へ入ると三條西
慈子は私の腕をつかんだまま蒼ざめたほどの横顔をみせ、石にみとれていた。
亀山公園から嵐峡へ抜けてゆく道、ことに途中の
嵐山の舟着き場の方へ下りてゆくと、戻り舟から一組の男女が岸に上がるところだった。あれが空くだろうと慈子をうながすと、慈子はにこにこした。舟から下りた人の一人が、岩田磬子だと気づいた。
あ、と思うまに船頭が割りこんできて、かげになって往き過ぎてしまうともう私は振り返らなかった。黄色く首まわりの開いた広い衿のワンピースで舟ばたを越えていた人の傍に、背の高い青年がいた。滑ってゆく舟の中で眩しそうにして私は嵐山をみていたが、慈子に呼ばれてすこし朱くなったらしい――。
「あの方、岩田
二
渋谷の日赤で簡単な取材をすませると、時間をはかりながら高樹町の方へ歩いた。五月雨も先刻から晴れ間になって、心のはずむせいか足も軽く前へ出た。
根津美術館の人けのない砂利道が底に雨みずを含んでざりざり鳴った。支那の巨きな石像が四角い帽子を被て肩をいからせ腋をつぼめて木深い辺りに立っていたりする。道の左側は木隠れて
岩田磬子は、砂利道がやや登り坂に迂回して美術館の前庭へ入ってゆく場所に待っていた。旧根津邸の玄関跡が遺っている。磬子はそれへは背をむけ、新緑がいっぱい渓の上を蔽い尽している方をながめていた。その横顔が私をみつけて微笑った。ブルーのコートで白い傘を軽く杖についていた。
小堀遠州の特別展で、せっかくだからと入ったが入念に観る用意はしてなかった。松屋
茶室の縁に腰かけて磬子の話をきいた。
婚約した先をわるくいうのではないが東京の人は気もちがさくさくしていて、「心配です」と磬子は朱い顔をした。こういう閑静な場所で木々にとり包まれてまたお目にかかれるとは思わなかったと、無数に雫する池の向うの
「あの時ご一緒の方、
「いややわ、嘘です――」と磬子は顔を伏せた。
なぜ慈子と一緒に嵐山にいたかを訊ねなかった。そして、慈子を知っているのは死んだ姉にも関係のあることだといった。「お電話したのもその為でした」と磬子は膝の上のハンドバッグを開けた。
根津美術館から青山南町の方へ電車線路沿いにすこしゆくと、柿右衛門の看板をあげた店などがあって、しかしどことなく外人向きの骨董店が目につく中に、ドイツ人が経営する〝アルト・ハイデルベルク〟という食堂がある。古色を帯びたビア樽の風格をさも思わせる黒い厚い材で表を構えた山小屋くらいの建物へ、重い扉を押して入ると、温雅な静かな雰囲気なのである。奥まった一室へ通う小廊下辺りには硝子戸ごしの微光が洩れ、よくふとった女主人の笑顔の傍で蓄音器が慎み深く異国の旋律をうたっていた。
ただ一組の外人が若い顔を寄せ合って食後の話をしていた。その傍を通りぬけて、青いペルシアの花瓶にフリージアを挿してある壁ぎわの卓へ磬子を誘った。
こういう場所で改めて眺めたセルロイドの
良子は定規をノートに挟んで遺した。ノートも極く普通のもので、見覚えあろう筈がなかった。磬子は姉の自筆であることを証言した。
紫式部日記を岩波文庫で買った。私も読んでみたかった。哀しいほど読めない。
買わなければよかったと思った。
あの空はさみだれのまままぶしくて丘の一本みち草分けてゆく
宿題を放り出して、定規でノートをあきもせず叩いていた。乾いた痛々しい音の連続。
今度は眼をつむって、自分の頬をぴちぴち叩いた。あかくなれ。
からだが熱い。
手当たりに開けた頁に骨を削ったような細い字で走り書きしてあった。磬子は黙っていた。
紫式部日記は古文の好きな何人かの同級生と時間をきめて輪読していたことがある。良子と逢った頃には多分三分の二くらい進んでいて、夏休み前には更級日記へ移った。こういう話は藤舎千恵子以外に伝えられるものはいない。歌は私のにまちがいなく、気に入らなくて忘れていた。察するに茶室前で逢って間もない梅雨どきのものらしく、〝からだが熱い〟というのも病状の自覚と考えられる。
頁を繰ってみると、新聞に書いた私の「更級日記と夢」とか短歌などが書き写されたり切り貼りしてあったりする。茶道部に入りそびれたことも書いてある。何度も顔は合わせていたらしいのに、どうして覚えがないのだろうか。とり分け、中ほどの一章など情ないほど記憶にないことだった。
二階の部屋から学校の裏が見える。あの木造の建物は美術コースの教室で、中に茶室がある。お茶というのはよほど楽しいのだろうが、藤舎さんは茶道部のこととなると夢中だ。この間、母たちと高島屋の帰りに大原女屋二階で抹茶をもらった。お茶室の用意がしてあった。学校の茶室より狭いようだった。ほてりがちなからだにお茶の苦みは妙になつかしかった。妹が神妙に両掌でお茶碗を支え顔を埋めるようにして碧い泡を最後まで啜った。お稽古したいかと母が笑って妹に訊いた。はにかんで何もいわなかった。私に訊ねないのが皮肉にさえ思えた。
学校を二日休んだ。二学期がはじまってから間もないのに、冷い汗と微熱が私の骨をくたくた煮ているのだ。医者にはまだ診せていない。どうなってもいいという気がしている。
遠くからみているだけで何故よさなかったかとつくづく後悔している。あの以前なら何処で出逢っても平静な顔をしていられた。それだけだったが、それでよかったと思う。不自然な紹介を頼んだばかりに、もう気づかれないまま顔をみていることもできなくなった。私の名さえ覚えていないみたいにみえる。わざと避けているのかと邪推しながら、夏休みに入るのがつまらなかった。からだの調子はわるくても、今日こそはと何か待っていた。みな空しかった。
九月に入ってすぐ、校内新聞が配られてきた。例のまとまった歌が載っていた。
最初の一連は、
別れこし人を
舗装路は遠くひかりて夕やみになべて生命のかげうつくしき
など。次の一連には、
夢あしき眼ざめのままに
うつつなきはなにの夢ぞも床のうへに日に透きて我の手は汚れをり
などがある。最後には、
灯の下にいつはり死ねる小蟲ほども生きやうとしたか少くも俺は
まじまじとみつめられて気づきたり今わらひゐしもいつはりの表情
などがあった。勿論、私の影など微塵もさしていはしない。その当然すぎるほど当然なことをなぜ私は哀しいなどと思うのだろうか。
私の友だちも新聞に歌を書いている。〝日曜の雑踏の中にまじり来てウインドばかり眺めて歩く〟 〝裏山に山鳩の声がひびきゐて木の葉ふみしめ歩みよるかな〟などである。私などはやはりこの友だちと同じ程度にみえるにちがいない。ちがいます! とどう叫ぶことができようか。
今日は登校する気でいた。昨日の夕方泉涌寺の方へいったりしなかったら熱もたいしたことなかったと思う。四時すぎていた。月輪中学下から参道の方へ散歩に出たのは病欠の生徒としては不謹慎だったのだろうが、出てゆく私をみて母も却って安心したような顔をしていた。〝拝跪聖陵〟の碑の所までいった時、ひょっこりあの人がわきから姿をみせた。制服をきちっと着て、紫色の風呂敷包みを学校の道具らしく四角くきゅっと抱えて。五、六米の所だったから顔を見合わせるなり私は火のように熱くなった。観音寺の鳥居橋の方からきたらしい。すぐにその方を振りむくと、小学生らしい可愛い女の子が追いすがるようにきてあの人の傍に立った。私はまた、ぽかんととして突っ立ったままいたものだ。「さいなら」とあの人はとても優しい声でいった。少女にいったので、私はその声を背越しに聞いた。「ええ」とうなずく少女の笑顔はよくみえた。まるで駆け抜けるようにあの人は私の目の前を即成院の方へ帰っていった。まばたき一つ私は受けることができなかった。私は怖いものをみるように少女の見送っているすずしい表情をみていたが、少女は私に一瞥もくれずに、急に元きた坂をかけて去った。
私はもう前へゆく勇気がなかったが、たった今あの人が帰っていった道を追って戻るのは耐えられなかった。参道の樹々が真黒に塊にみえた。重い足をひきずって白砂の上の泉涌寺金堂をうつろにみてきた。
同じ新聞を拾い読みしていると、三年生の中川櫻子さんが、「女性の道」という題で女性に聡明を切望した長い文章の最後に、こんなことを書いている。
"最後に愛の問題について少し触れたい。人生には永遠を貫くものと変転し進展するものとがある。愛は永遠を貫く世界のものである。真実に深い愛は決して奔放な形態をとるものでも、目新しい理論を必要とするものでもないのである。永遠の愛、と人間にいう事を許されるような愛は神と人との法則にしたがい、人間の本質に芽生えて、しっかり根をおろしながらつつましく咲き匂うのである。"
この人に、あの黙殺された瞬間の凍えるような絶望についても解説してほしいものだ。
学校のみえる丘が今も私には暗い灰色の重い土塊に思えている。
奥深い
中ほどまで漕ぎ出た舟はやがて木蔭を織り岩間を縫い、竿の先にはずみを呉れながらぐいぐいと嵐峡を上っていった。対岸の岩場に若い人が下りて水ぬるむのをたのしむさまがみえ、また顧みに山かげの路を語らってゆく人たちの声も二人はきいた。慈子も私も一つ舟ばたに寄ったまま黙っていた。
慈子の首がかすかに動いた。急に不安になった。眼のすみに花の色がしのび
「
岩田良子の手記をすばやく読みながら朧ろな良子のどんな表情より慈子の眼もとを想い出していた。碧い中を流れる一片の櫻色のように慈子の顔が目の前にあった。十年前、その慈子と私とで良子に苦いめをみせたことなどはどうしても想い出せなかった。けれど、妹の磬子にそう告げる時には思わず朱くなった。磬子の気もちが分っていなかった。弁解すべきこととも思えなかった。
岩田良子に悪意をもつ道理もなかったが、慈子を他人にみせたくない気もちが咄嗟の間に良子を無視させて過ぎたのだと思う。東大の前で勤め先の人に出逢った時も喫驚するほど慈子をかばう意識が燃えた。とすると、あの舟つき場でのすれ違いにも、私は磬子にどんな表情をしてみせていたか知れたものでなかった。
「差し上げよ思いますの。もろてもうた方がええ思て。母は何やかやいうてましたけど、あたしずっと仕舞うといたんです」と磬子はいった。また、「朱雀さんとは、ずっと」と訊ねた。磬子のいい方のどこか微妙な裂けめの中に姉から受けついできた朱雀慈子のきらっと光る像がのぞきみられて、私は小さな息を呑んだ。知られていることが手痛かった。利不利と関係なく、ただ慈子とは二人だけでありたかった。
上流で舟をすてると慈子と私は嵐峡館に入った。女中は川ぞいのくらい石廊下をくぐって、眼下に岩を鳴らす奔流のみえる閑静な小部屋に案内した。櫓をきしらせて保津川を下ってきた客船がすばやく木隠れに去ってゆく。鮎があるというので、頼んで、女中がいってしまうと、慈子は汗をながしたいわといった。
嵐峡館のすぐ下に舟遊びの人の舟休めの場があって、日ざかりの川ふちに怖わ怖わ足をぬらす人が多かったが、嵐峡館入口とある静かな坂道を上ってくる者はないらしく、切り立った山肌のかげの生簀では赤や黒の鯉も、銀鱗の鮎もゆたかな清水を我がもの顔にゆすりたてていた。「お料理はお風呂お上がりやす時分をみはかろうて」と女中は愛想よく山の上の湯殿へ案内してくれた。重い部厚な宿の下駄で砂利を踏みながら、慈子はいっそ軽やかな足どりで先に入っていった。
遅れて入ってみると、畳まれて乱れ籠に収まった女の着物がきちんとつつましやかに棚の下に眼についた。湯殿の中は明るいらしく、しんと静まって、慈子と呼んでも返事が来なかった。もう一度呼んだ声がしずまって、はいと小さな声が硝子戸越しにあった。
湯ぶねに沈ませた慈子の向うむきの優しい肩から背が思いのほか小さくなめらかに光っていた。首すじの白い翳りの向うに、湯だつけむりににじんで対岸のみごとな山々が、瀬の音を渓深くにたたえながら緑一色に、重なり、ひしめき、もみ合って、広々と窓いっぱいに明るく迫っていた。
ちからづよく撓う緋鯉のかたちが、鮮やかに水をはねる遠い響きを伴なってまばゆく眼の底を染めた。
三
〝従者の眼〟と朱雀先生が書き入れされていたことは指先を焼いたほどに忘れ難いのだった。東京へ戻ってから暫くは時間がなかったが、徒然草のことが従者の眼ということばになって頭にひっかかっていた。
第四十三段などで想像の貴公子を、〝廿ばかり〟と書いたとそう違わぬ年ごろに青年兼好を襲った体験が推測できると、私は紙屋川の家で慈子に話した。釈迦念仏の夜のこともこれと絡めて考えられそうに言ったのである。
体験の内容は眼にみえる現象や事件である必要がない。心に食いこんだ痛々しい
では、現実にそのような機会が兼好にあっただろうか。容易になかったに違いない。一種の動乱期とはいえ、やはり厳しい身分社会だった。家司兼好の運命は貴人の愛の営みにただ従者として随うくらいでしかなかった。理想と現実とは食いちがい、卑屈を意識した垣間見のポーズが想像の枠づけをする。〝従者の眼〟が兼好に備わってくる。その眼は第百四段や第三十二段に光っている。
荒れたるやどの人めなきに、女のはばかる事あるころにて、つれづれと籠り居たるを、或人とぶらひたまはんとて、夕づく夜の覚束なきほどに、しのびて尋ねおはしたるに、犬のことごとしくとがむれば、げす女のいでて、「いづくよりぞ」といふに、やがてあないせさせて入り給ひぬ。心ぼそげなる有様、いかで過ぐすらんと、いと心ぐるし。あやしき板敷にしばしたち給へるを、もてしづめたるけはひの、わかやかなるして、「こなた」といふ人あれば、たてあけ所
「
明らかに物語の筆致である。この一段を想像的描写とみる評家は少なくないし、首肯しやすい意見だが、兼好の家集に、〝秋の夜とりの鳴くまで人と物語してかへりて、ありあけの月ぞ夜深きわかれつるゆふつげどりや空音なりけむ〟とあるのにも似ていて、文章の情趣には兼好らしい独自の佗びた匂いがある。
兼好の筆は想像であればあるほど兼好その人の願望や姿が直接にそれにかぶっている。人物には直接兼好自身の幻像が乗り移っていて、却って没個性的な表現に転じているのである。そうでないと韜晦にならないのである。兼好の願望を象徴的に行為する人物を、現実の兼好が
光源氏と花散里を想わせ、第百四段にはつくりごとめかした曖昧さが多い。みごとな出来ではない。
兼好はしかし立場上もこれに似た従者としての経験をもったはずで、もたなかったという方が不自然である。だからこそ、主人の風雅な女遊びにまた若い
第三十二段をもう一度読んでみよう。
九月二十日頃、あるお方に誘われまして、夜のあけるまで月を見ながら、その辺を歩いたことがございましたが、(その方が途中で)思い出された家があったので、そこへ供のものに取次を求めさせてお入りになった。(戸外で待つ間その家の様子を見ると)荒れている庭に露が一杯下りているのも、趣深いのに、その上、わざとらしさを感じさせないほのかな香の匂が、しんみりとかおっていて、ひっそりと目だたぬ様に住んでいる様子は、まことに趣が深い。(内に入ったそのお方は)ちょうどよいくらいで出ておいでになったが、なおもその情景が優雅に思われて、(立ちさりがたく)物のかげから、しばらく見ていた所、(見送りに出たその家の主人は)お客の出られたあとの開き戸をもう少し押しあけて、月をながめている様子である。この時、仮にもし(その主人がお客を送り出すと)すぐに、掛金をかけて内に入ってしまったとしたら、どんなにかつまらなく感じることだろう。お客の帰った跡まで見ている人があるとはどうして知ろう、知らない筈である。このような優美な振舞は、(俄かに出来ることでなく)ただ不断からの心掛によるものだろう。その人は間もなく亡くなってしまったと聞きました。 (平尾美都子氏訳)
はっきり従者の眼で実見した感想になっている。諸注は、仮托か事実か空想かに分れ、判断しがたいと読みすてる人もある。
原文は簡潔で、感動的でさえある美しい筆づかいだと思うが、おそらく、物語めかせる作為よりも、文中の今は亡き女性に対して讃嘆の気もちをはっきり真正面に書き、故人を惜しむ追慕とまで高まっているからであろう。女への敬愛が前面に出ており、叮嚀にほめている。従者の眼が主人の行為を平板に垣間見たのでなく、主人と一緒に女をいとしくみる眼で垣間見ている。第百四段に比べて、この段では兼好は従者でありながら自覚的に愛する若者の眼と魂とを兼ねてもいる。このことは、聡明で多感な青年兼好の内なる哀しみにもはっきり関係のある所で、この哀しみを汲みとらねば兼好出家に至る人間劇を洞察することができないであろう。それは卑小な哀しみといいすてられない、人間的な悲哀なのである。
〝従者の眼〟は本質的に徒然草の眼である。そのことをよくよく理解したい。と同時に、従者の屈従する視覚を超えて自立する一つの〝魂の眼〟を願った兼好のもがきがある。このもがきが徒然草前半の高い調子につながり、全編の健康で高貴な俗を支えたのである。
筆致も感情も違うが、この第三十二段と第百四段の女性に人格や個性の統一感を感じる。季節こそ違え家居のたたずまいや訪ね方にも同じといっていいほどの近似感がある。一方が体験で他方が仮りに想像だとしても、筆をもった兼好その人の頭の中では両者を統一する気もちが働いていたかもしれない。そう考えると、第三十二段では従者として感動的にみた女のもとへ、第百四段では自分が訪ねてゆくことを想像して描いたものだともいえるのである。つまり第四十三、四段や第百四、五段は、第三十二段の体験や感動が従者の埒を想像の中へ乗り超えさせて産まれたものと読みたいのである。兼好はそういう青年期を経て出家し、出家して後にもそういう青年期の体験を書かねばすまなかったけだし在俗の僧ではなかったか。
口語訳は何かしら僧である兼好を意識しているようだが、この第三十二段を軸にした徒然草前半の諸段は兼好の青年期を決して何十年も経てから書かれたものでないことを本文の筆致や記憶の鮮やかさから確認すべきである。ことに第三十二段は徒然草成立の一つの眼目ともみられ、月光にぬれつつ姿なき客を見送る女性は無視できない。朱雀先生が指摘されていた通り後に井伊直弼が獨座観念を語った時には、徒然草のこの段を念頭に浮かべていたかもしれない。この女性が故人であることにも特に注目しておきたい。
書きまとめたものは慈子に送った。その端にこうも書いた、〝この間、お墓参りできなかったのが心残りです。石楠花も咲いていたでしょうに。〟
葉書での返事は簡潔だった。〝第三十二段の解説ちからづよく興味深く拝見しました。これからが大変ですね。父の墓にはご一緒にと心こめておまいりをしてきました。椿でいっぱいでした。お利根さん、私たちに話したいことがあるそうです。お大切に。慈子〟
最後の一節に眉を寄せた。見当のつかぬことではなかった。
過ぎし春――、嵐峡館の鮎料理にも二人は箸をつける気になれなかった。慈子は私の背に顔を寄せ、ときどき烈しく
渡月橋へ戻って、電車に乗ってしまえば北野まではものの二十分、その間慈子は美しい笑顔も幾分甘えぎみに添い寄って、話すこともつねより多かった。別れてゆきたくなかったが慈子はいいえと首を振った。「何時の汽車になさるの」と聞かれ、思わず顔をそむけた。遠い比叡山の鋭くとがったかたちがきらと奔った。明日の今頃は、あのすえた匂いに塵が舞うぎしぎししたデスクと電話と同僚に囲まれているかと、月並な情なさではあっても腹の底をよじるようにその想いは夕暮れちかい春の空ににじんだ。
北野から東へ真直ぐ、市電で十分も乗れば大学である。慈子はそこまで送ってきた。烏丸通から歩いて、相国寺前の校祖碑をみて校内へ入った。東京へ出て以来はじめてだった。見馴れぬ新館が幾つかある中でも学生が群をなしてたむろする広場の様子などは昔のままで、かばいかばい妻の背を押すように昼休みの雑踏を分けて出て京都御所へ憩みにいったことなどが想い出された。日曜日の構内はさすがに森閑としていた。
妻を想い出したことは熱いものに触れたようで、遠慮がちにそっと傍に佇んでいる慈子のやさしい和服姿に今さら軽く戸惑いながら、ふと元の道へ戻ってゆこうとする自分をあわれみ哀しむ気もちが動くのだった。慈子に何かいいたかった。いってやりたかった。けれどただ慈子の肩に掌を伏せて、妻にもそうしたようにゆっくりゆっくり誘うようにはずむように校祖碑わきの
慈子と大学を歩いてきたことは私を感傷的にしていた。
父は黙っているのだがこういう別れ
がっかりして静かになった年寄り三人を気の毒に思う一方、今の電話が思いつめた慈子の必死の賭けかと胸が凍った。たとえ私が出ていたにしても、慈子よとはいわずに切れたはずの電話であった。それでもいい――慈子は暗い涙を隠して紙屋川の家の隅で息を詰めてはいなかっただろうか――。
京都駅から慈子を電話口に呼ぶ勇気もなく、私は九時すぎの夜汽車で東京へ帰ってきた。よく睡れなかった。睡れば夢の中に、奇妙な、しゅうしゅう奔る風の声ばかりを聴いた――。
お利根さんが何かを話す――。よくは分らなかった。が、慈子の葉書からもあの夢にきいた奇妙な風の声は甦ってきた。
荷物の中から妻は和綴じ本をみつけ、「ご勉強だこと」とわらった。「家集はなかったの、家集をもっと探っといた方がいいんでしょ」ともいい足した。旅に触れて話したことはこの程度で、ほかに両親や叔母の暮しむきをちょっと訊ねただけ、出張についてはご苦労様きりいわなかった。早のみこみとも鈍いともどうにもわるくはいえるだろうが、このあっさりした、くどさのないのが妻の天性のうち最も私の及び難いところであった。
岩田磬子の礼状のようなものが家の方へ届いた時、妻は勿論さっさと開けてみていた。九月に挙式して東京で暮らすということまで書いてあった。
四
綺麗だが細い硬い筆づかいで岩田良子は書いていた。糸ほどかぼそい文字を爪の先でもみほぐし、温い血の色をしぼってみなければ記憶の中の良子の顔が想い出せそうになかった。校内新聞から引いている中川という女生徒の愛についての文字は、それなりに今の眼には面白いのだが、良子がわざわざ書き抜いているのは痛々しかった。愛ということばを
愛は「関係」を要求する。関係は愛の不安と不毛のあやかしにすぎない。それで愛が増すのではない。消滅することが見えにくくなるに過ぎない。
〝結婚〟を愛の関係と呼んでも構わないが、愛さえあればどんな不足も補われるほど生易しい約束事ではない。身内の感情に根を支えられて、関係という名の拘束から関係を超えた和へ転じうる唯一の選びとったリアルな人間関係なのである。
私は気づいていた。
妻と慈子とが対い合い、結婚生活と〝来迎院〟とが対い合っている。妻と家庭とは現実であり、慈子と来迎院とは世離れている。身内の想いは
危うい調和、妻と慈子との中に立ちふさがり互いに盲いさせているだけで得られる調和というべきであった。
妻は慈子を知らないが、慈子は自分が妻でないことを知っている。妻を守る論理かと思ったものが、妻を
私は慈子とのたたかいの如きものを想像しなければならなかった。このたたかいには私だけが、慈子だけが
嵐峡館での慈子の〝提案〟は想い出しても平静なものだった。楽しそうな調子でさえあった。慈子は無頓着にそういい、そんな無頓着でいられることが私たちの兄妹めいた本当の間柄を直指している、とそう思ったほどだったけれども、慈子の突飛な提案を不謹慎と咎める気もちを幾分かは私自身が抑えつけなかったであろうか。あの
あの沈黙を支配していたのが感動か惑溺か恍惚か羞恥か、それはどうでもよい。むしろはっきりと、欲望のあったこと、遂げなかったことを思い知らねばならなかった。朱雀先生の死以来を顧て、自分にその身構えも期待もあったことが否定できなかった。慈子は先に湯殿を出た。外で魚をみていた。後姿が静かで、今、湯から出た人のようでなかった。女中の愛想のいい声が呼びかけ、その方へ顔をむけて微笑ったらしかった。
慈子の肌の残した感動が、十年にわたって慈子の心が私に与えたものより生々しかったことは
慈子を女として抱き、そしてもっとしっかり抱きたいと想うようになった時、私の世界にはあやしい翳がさしていたといわねばならない。誰よりも何よりも、あの慈子への欲望を飾るための誘惑の哲学を私は大切に育ててきたのだろうか。当の慈子がもしそう私を告発することがあったら、
嵐峡館の一部屋で、意味ありげな何
徒然草に没頭していった。半ば夢中で私は徒然草をあやつりはじめていた。
五
貴人讃仰の傾向が兼好にあるのではないかと考えてきたのだが、兼好少年時代の夢にすぎなかったのかもしれない。何となく〝上〟の人を想い憧れるということは誰にもありうることで、私が菊の御紋の
確証はないが、兼好には結婚に失敗したかと思われる形跡あり、という人もいる。即ち、
兼好は悪妻に懲りたことがあるのではないかと武田祐吉氏も同じ推測をしているのだ、が、兼好が嫌ったのは所帯染みた女なのであろう。男の死後、〝尼になりて年よりたるありさま、なき跡まであさまし〟という筆勢には変に実感さえこもっている。
だが、こうした事柄も徒然草執筆の時期を度外視していっては意味がないし、兼好の出家という一事を絡めてこそ考えねばならない。私は兼好の出家遁世を敬虔な入信というより、ある種の衝動と考えている。兼好が徳高く悟り澄ました僧であったと考えることも、遁世厭世の隠者であったと考えることも徒然草からすると当たらない。妙な買い
正和二年(一三一三)九月、小野庄に土地を購った時、兼好三十一歳と推定され、もはや兼好御房と呼ばれている。その前応長元年(一三一一)には東山清閑寺の
具守の子息が大納言具俊、娘が後宇多院妃で後二条天皇母でもある西華門院基子で、兼好はこの西華門院から後二条帝崩後に歌を召されている。兼好がこの帝を深く頼み、その
兼好が青年時に身を置いた環境を輪郭なりと理解しておきたいということは、徒然草を読み直そうと考えた日からの予定だった。徒然草成立に限っては
兼好は家集の中で二箇所この女房との歌の贈答を記録している。
堀河のおほひまうちぎみ(大臣)を岩倉の山庄におさめたてまつりにし又の春そのわたりのわらびをとりて、あめふる日申つかはし侍りし
さわらびのもゆる山辺をきて見ればきえしけぶりの跡ぞかなしき
返し(あめふる日……見せ消ち) 延政門院一条
見るままになみだのあめぞふりまさるきえしけぶりのあとのさわらび
兼好の主君だった堀川具守の死は正和五年(一三一六)正月十九日だから、この歌は翌文保元年の春のもので、兼好出家後のことだ。が、歌は感傷的で、何かしら此の三者に共通の想い出があって、残された二人の涙を誘っているように思われる。
延政門院一条が兼好の家集に書きとめられた「唯一の女性」の名であることから、第三十一段に書かれた雪の朝の人をこの一条に擬して考える白石大二氏他があり、山口正氏はこの第三十一段を徒然草の「眼目」とみているのである。注目したいのは、山口氏が眼目とする第三十一段は、私の重視するかの九月二十日のころ訪ねた女を書いた第三十二段にちょうど先行し、かつ、この両段いずれも「今は亡き人」として兼好の追慕を受けている。第三十一段は女のはなしと内海月杖、沼波瓊音氏らは早くから指摘している。この女を一条と推定するのはまだ早い。しかし、なぜ兼好が他ならぬこの一条に
この贈答がある限り、具守と一条、一条と兼好が何かの因縁に結ばれていたことは認められねばならず、女の歌は殊に素直で美しいまでの感傷をはらみ、なみなみでない知性と因縁が感じられる。
延政門院一条時(ママ)なくなりてあやしきところにたちいりたるよし申おこせて
おもひやれかかるふせ屋のすまゐしてむかしをしのぶそでの涙を
返し
しのぶらむむかしにかはるよの中はなれぬふせやのすまゐのみかは
この前詞はすこし読み難いが、兼好がすでに五十歳、延政門院の死んだ元弘二年(一三三二)のこととは私は
中新氏は延政門院死後に〝あやしきところ〟に
いずれにせよ、延政門院一条は兼好が家集に名を記した唯一の女性であり、二つの贈答歌からみてもあの女人酷評を敢てした兼好にとって、とてもただ人とは考えられない。いったい、この一条と兼好ないし堀川具守の間にはどういう因縁が存在したものか。
一条が仕えた延政門院は後嵯峨院第二皇女悦子内親王であり、母は大納言西園寺
もう予感以上の見通しがついていた。朱雀先生の心に潜んでいた徒然草に対する不思議を私はひきついだのである。徒然草を中に或る了解が先生と私たちにあり、また私と慈子とにあったようだ。さらに、この了解が多分私や慈子の知らぬ別の何ものかと先生との間にもあって、そこへ不思議に惹かれるらしいことに私は思い当たっていた。自分の徒然草考ないし兼好考が、先生のやや憑かれぎみに追われていた不思議の
〝延政門院一条のこと〟と書いて慈子に送り、七月、多分祇園会ころ京都へ帰ると報せた。
六
東京を発った朝は七月末には珍しくひどい雨であった。傘が用をなさなかった。午すぎには暑く晴れて、名古屋を過ぎる辺りでは
京都の家へ着くと、一休みしてすぐ祇園町の湯へ出かけた。空いていた。相客といえば髪を化粧前の女形のように白布で包み、片膝を立て、華奢ななで肩の辺りからまるい背骨のぽきぽき立った湯照りの背筋へ白粉の匂いをさせている、なまめかしい男が一人だけで、軽石でしきりと白い踵をこすっていた。女湯からののどかそうな遠慮のない高咄しの反響が却って静かで、雨の武蔵野をからがら朝早に発ってきたことも思われ、京都に今いる安堵と一緒にふしぎな疲れも私を物憂くさせていた。
石鹸入れを濡れたタオルでくるみ、それをまた薬局の赤電話わきへ置いて私は覚えてきた番号でダイアルをまわした。
お利根さんの声がめったになく大きかった。慈子は東京へいって留守だし、そのことは報せてあるはずと聞いて、血がひくほど胸が鳴った。昨日の晩は下深沢の方だけれど、今日あたりは――とお利根さんはかるく咎めるくらいの調子から、今にも東京から電話がくるか知れないし、念の為、明日もう一度と軽い咳をしながらもう穏やかなふだんの声であった。一時頃にうかがいますと約束したが、ちょうど今時分に慈子の電話を誰かが東京の勤め先で受けているかと思うと、いやな気がした。
慈子の手紙は確かにみていなかった。郵便事故か社内での故障かわからないが、いやな気がした。私たちの習慣めいた七月の帰洛は二十七日の娘の誕生日を祖父母と一緒に祝うのを兼ねている。それを慈子が忘れていたらしいのが、我儘にもふと佗びしかった。ただの連絡か、何かべつに書いてあったか、それを知らずに慈子と今度逢うことはたとえ泡ほどでも隙間ができているようで不安だった。
母にあっさりと
晩、妻と木屋町へ出て、〝嶋房〟という店で鯛を食った。妻は私の鯛にもちょっと箸を出しておいて自分は鱧を頼んでいた。
町の真中に泊り、遠い帰路を煩うことなく娘を祖母にまかせて二人で歩く、それが京都へ帰る楽しみの一つだった。もうそこに家があっても、町を歩いてきた私たちは名残惜しむほどの感傷さえもって、また目についた店の扉を押すのである。新橋の〝紅ばら〟もそうした馴染みの店で、小暗い店内の一つ一つの卓に紅い小さな灯を古風なかさで囲っている。堅固な大きな椅子に低く腰を沈めながらその晩は私がブランデーを、妻は銀の金まりでクリームを注文した。緑と朱のこまかにまじったヴローチが新しい薄茶のレース地に光ってよく似合った。静かな口調で妻は父や母の家のことを話し、ときどきにっこりした。あすは祇園会の〝あと祭〟である、「観にゆく」と訊かれ、頷いて、その時、急に私は慈子のことが不安だった。
翌朝――
三條
妻も、娘を抱いた私も人波で西側の果物屋に押しこまれながら、最後の南観音山まで見送り通した。
「来年も観ようね」と興奮しいしい私が受けとめた投げちまきをしっかり握ったまま、三つになる
寺町の
私一人が靴を脱がずに玄関からまた町へ出た。午すこし前の日照りが道をやわらかにしていた。にぎわいの中に御神燈の居ならぶかたちが陽ざかりながらに美しく、がらんと空いた電車の中で外向きにからだをよじって、寺町、
北野紅梅町辺りはものの影も濃く、静まりかえっていた。表の戸が一寸ほど開けてあって、奥で鼓の音がした。あれだなと思い、いつからお利根さんは鼓なんぞをと思いながら玄関のベルを押した。鼓は果してやんだ。家の中に慈子のいないということががっかり思い知られた。
座敷には祇園社の
「お茶室の用意ができてますよ。庭をまわっていって下さる」とお利根さんは立っていった。庭には夏木立がいっぱいの青葉を重ねていた。
茶室の戸障子は勝手口の他は開け放ってあった。台目畳の奥に下地窓があって、夏草のみえるのが涼しく、風炉わきに水を切ったばかりの伊賀水指。塗り蓋にも露が残っていて、いつの間にと思っていると勝手の戸が動いた。床脇に直ると、白い指がかかって戸はさらりと開いた。慈子が微笑っていた。
声が出ない。
菓子鉢が静かに膝前へ運ばれ、「ようこそ」の挨拶に拍子を合わせて会釈を返したまま、慈子の顔をぽかんとみていた。慈子は見返すふうにすこし首を傾げ、「よかったわ」と
「驚いたでしょう。あのお花も今朝の内にさがしてきましたのよ」と床をみる。鵜籠に矢筈草、姫百合、祇園守、
「お電話しましたの、お茶の水から。三時半頃でした。交換台がなかなか出なくて、だいぶ長く待って……。待っているうちに、あっと思ったのお誕生日のこと――。がっかり。で、一人で、レモンへいって二階の道路側に坐って。暑くてまぶしくて、汗もかいて、それなのに眼の前がうすぐらいの。窓から、下をみながらいつかもここにこうして坐ってたっけと考えてました。お父様がなくなって、東京へいったでしょ、去年の秋……。雨が降ってて、あの道に黄色くなった楓の葉がずいぶんと散ってました。学生がいっぱい往き来しているのに寂びしくて、雨で光った道をタクシーがタイヤをきしらせ、さあっさあって奔るのね、それが耳について――。……ほらあのお店、窓覆いに外の方へ幕を張り出してまあるい
――たぶん、秋の季のものだろう、私が水を一杯注いだその
お利根さんは喫み終って茶碗を前に置き、慈子は小ぶりの志野を両掌に包んだまま話していた。むしろ深めの、古朴な絵付を模した当世の作が慈子の
そして、――慈子が黙ってしまうと、つぎにお利根さんが話しはじめたのである。
――ながい話だった。お利根さんが口を
門の前からすぐ西大路へ抜ける辻になっている。まだ明るい青空が広い電車道の向うにあった。背に慈子の見送る視線を感じ、一度二度振りかえっては同じように
西大路へ出ると赤電話で妻を呼んだ。「風来坊さん、今どちら」と妻はわらった。嵯峨の野宮まで今からいってきたいというと「亡霊が出ますわよ」と冗談をいい、「こんな時間からじゃ蚊ばしらが立つかしらね」と真面目になった妻の声を聞いてそっと私は受話器を置いた。四時半を過ぎていた。
――お利根さんのながい話のあと、部屋へ戻って二人になると、慈子は泣きそうに私をみた。どんな感動が慈子をめちゃめちゃに捉えているか分った。慈子……。そして、もう一度そう呼んだ。声もたてずにきた慈子を抱きとめ、壁に倚ってちからづよく唇をひらかせた。お兄さん……
私は徳女の名を知っていた。慈子も気づいて、まだ私の腕からのがれもせず短冊の方をかえりみていた。
〝四季の茶屋〟のだったね――。「ええ…先月」朱雀先生のお墓に朱い椿も落ち尽してしまった頃、命日の墓参のあと途中でお利根さんと別れて、八瀬から大原へ無性に雨の色を山深くまで眼に染めてみたくて出かけたという。「手紙に書いてましたでしょ」といわれてはっと曖昧になって、私は短冊に気をとられるふりをしなければならなかった。
七
清涼寺の傍で車をすて、厭離庵の前から二尊院、そして落柿舎へとひとり歩いた。おなじ道を春には慈子と歩いた。日かげは斜めに小倉山をかげらせ、稲葉の青やいで輝きなびくのも夕映えの静かさにときどきふっと
宮の前には、小倉越えにきたらしい元気な男女の四、五人が息を入れていた。私は絵葉書などを売る店さきに腰をかけて、そういう人たちの妙に身のとりなしに戸惑ったような野宮見物を傍観していた。くるぶしの辺から蚊が立つのに思わず笑みながら、ずっと抱いてきた或る着想の中へはまりこんでゆこうとしていた。
徒然草第四十四段に、〝しかじかの宮のおはします
斎王の
すべて神の社こそすてがたくなまめかしきものなれや。ものふりたる森のけしきもただならぬに、玉がきしわたして、さか木に
ごく平常の一段のようであるが、私は徒然草前半、殊に第四十五段あたりまでに濃厚にみられる各段来意性の隠れた焦点かの如くにこの一段を読まずにおれない。
冒頭に〝斎王の〟と兼好がいう調子は「
この斎王とは、後宇多院の第一皇女
後宇多院の内親王であり、御兄後二条天皇の
内親王が最期の斎王に卜定された年、兼好は二十四歳の左兵衛佐(或いは尉)だった。そして、極論になるが、若き
文明年間、足利義政の高名な
何とか閲覧させてもらったものの逸書の断簡に過ぎなく、蝕傷著しい上ぴんぴんはねた癖のつよい字で、容易に読めない。分量は大したこともなく、破かぬように目で追ってゆくうちに、行を改めただけで前後のつながりなしに、〝後宇多のゐんの女一宮は徳治のはじめせのみかどのぎよ宇のさいわうにて、おほどかにかなしくしておはしゝかど、さらぬことありて伊勢へは御参りなくてやみぬ。みくしのはかけたるごとくのゝみや今はさぶと人も申す〟という文章がきて、つづいてこの宮が、性よく歌を好まれ、御父の院を催し参らせて歌のあそびしばしばなされ、その席には〝ならびがをかのかねよし御房ら〟召されることが多かったように書いている。後宇多院に歌の遊びの多かったのは事実のようで、兼好の家集にも記載があり道源や道我との交渉もこうした雅びごとにつながりがあった。奨子内親王のことは付会かと思われ、また兼好がならびが丘に住んだことは
そこで私の想像はこうである。
兼好は事実、後宇多院から幾度か歌を召されている。後二条帝に仕える以前にも御父の後宇多院に勤仕したことのあり得た兼好としては、内親王の斎王卜定以前から時には目をかけられる機会があったかと思われる。他方、堀川
兼好の内親王に対する讃仰を証拠だてる何ものもない。第二十四段前後の行間にそれを汲むというに過ぎず、「かぶきごと」の記事に頼る気はまるでない。事実としてももとより叶うまじき思慕であったのである。兼好は、斎王として野宮入りした内親王を惜しむより、帝と永別を誓われたりするもの哀れな行事に酔うことの方が多かったであろう。用を構えて野宮へも再三足をむけご機嫌を遙かにうかがったに違いなく、森のほとりに佇んで森厳かつ優しき極みのたたずまいに感動したのであろう。後二条帝
この時から一条との接近がはじまったのだろうか。一条が前斎王に近侍するようになると女たちの間では具守の名とは別に、もっと軽々しくではあっても、歌が巧みでどこか内省的な表情を崩さず、ぎろっと眼を光らせる青年
釈迦念仏の
具守と一条のことが前景にあって、背後にこの奨子内親王の姿が隠し繪になっているという推量は乱暴すぎるかもしれない。しかし、第二十四段は兼好の
延政門院一条は主君具守の愛人であり、貴女中の貴女奨子内親王にも近くいたのではなかったか。兼好の近寄れる限度のかつ実在した女性として一条は重大な意味をもっていると思う。
一条の事蹟は具守が死んだ翌文保元年(一三一七)春の返歌に尽きている。翌年には兼好兄の倉栖兼雄が死んでいるし、先立って花園帝譲位、後醍醐天皇即位のことがある。おそらく兼雄没直後に兼好二度めの金沢文庫へ
私は、同じこの頃に忘れ難い女性延政門院一条の死も加わったのではないかと想像する。理由は、ある。〝かのえさる〟と題した歌一首が「兼好法師自撰歌集」の恋の歌群にまぎれこんでいるのだ。
つらからば思ひ絶えなでさをしかのえざる妻をも強ひて恋ふらむ
〝庚申〟の歳に詠んだ述懐歌に相違なく、それも〝
つらくなると、あきらめきれずに、それ、山の
だがほんとうは、そんな小男鹿と同じように、あの、とうとう得られなかった思い妻、心の妻のことを、今も恋しく思い出しては泣けてしまうよ、と兼好は詠んだらしい。
兼好の生涯に〝
兼好と一条との出逢いに確証はない。二人の恋愛と堀川具守との関係もよく分らないのだが、こういう推量を私はしている。兼好の方が先に一条と相識で、まだ恋愛ほどのことでない時分に、それは多分釈迦念仏の事件からそう月日を経ぬうちに、具守が先のような理由で延政門院の方に働きかけ、かつ一条との間に手早い関係を生じてしまったのではないか。家集に、〝ふかくさにかよひしころあか月きぬたうつを、ころもうつよさむの袖やしぼるらんあか月露のふかくさのさと〟とあるのが、一条を里の方へ訪ねた兼好自身の体験かもしれず、同じく、〝つらくなりゆく人に、いまさらにかはるちぎりとおもふまではかなく人をたのみけるかな〟は一条と具守への弱い恨みであるのかもしれない。兼好のたのむ人は極めて権勢強い堀川具守であったから、或いは
私自身は兼好出家をこういう事件あって、せいぜい延慶二、三年(一三○九~一○)頃、内親王の野宮退下から一、二年の後、兼好二十七、八歳の時だと思うのである。
延政門院一条と具守の関係がそう長かったとは思わない。具守も六十歳前後のことで、普通の男女関係とは趣も違い、一条と出家した兼好法師との交渉も絶えていたということはなかろう。
延政門院一条との恋の本意ない挫折を主な動機として出家し、その一条の死により徒然草の執筆に入ったとする推定で、私は兼好の青春時代から出家、執筆開始を延慶年間から元応のはじめへ約十年の幅をみながら一連の時間的に縦につながる事柄として、かなり力強く理解できると考える。そして、この推定を補強するのには、徒然草の執筆方法と特に前半部分の各段来意性の問題に具体的に注目してゆくことが肝要だろう――。
――どれほどの時間が経っていたのだろう、野宮にはもう人影なく、疎林の奧の深い苔の
風が動くと汗のひそんだ肌が冷やりする。
「われ此の森の陰にゐて
なぜ〝野宮〟をと詮索するのでは余りに事を好みすぎるのである。ただ、徒然草第三十二段に切に心をとめられ、あの前後の文章を殊に愛された先生が兼好執筆の動機を不思議とされたについては、第二十四段にも特別な読み方をされていたかどうか、それが謡曲〝野宮〟を平常に謡われたこととどこかで結ばれていて、そして更に〝野宮〟の詞曲から源氏物語の世界へなにがしかの感情移入をされていたのか――などと、あふれる先生なつかしさに溺れそうに思いつづけると、いつか涙がとめどなく流れるのであった。
謡曲〝野宮〟の斎王はもとより奨子内親王ではなく、源氏物語の後の
「露うち払ひ、訪はれしわれも其の人も、ただ夢の世とふりゆく跡なるに、誰松虫の音は、りんりんとして風茫々たる、野の宮の夜すがら、なつかしや と私も風に和して、口ずさんでみた。
徒然草と源氏物語〝賢木〟の巻あたりとが紛れに紛れ、昔聴いた朱雀先生の声を耳の底に喚び起こしながら、私は明日も逢う慈子の顔かたちを虚空に両の掌ではさみ寄せるように想い描いていた。それは、またお利根さんを想うことであり、お利根さんがつい先刻私たち二人に話してきかせたことを想い出すに他ならなかった。私をはじき出すようにこの嵯峨野へ走らせたのはお利根さんの話だったのだ。徒然草考をとりまとめたいというのでも、浪漫的な想像にひたる為でもなかった。ある予感の如きものがあって、その輪郭をぴったりと蔽いとるかのようにお利根さんは私たちに古い遠い物語をしてきかせたのである。それが、来迎院と徒然草と慈子と私とをはじめて一つの座標の中へ結び合わせた。野宮への予感が何故、どのように私を前から捉えていたのかが、分った。
だが、何よりも私や慈子に感動を残したのは、お利根さんの物語がどう私たち二人を運命づけるかはかりしれないということだった。
偶然とか必然とか奇縁とか妖しいことばがきらきらとぶちまけたように頭の中で散乱したけれど、もっと底ぐらい感動の強さは一揺れもせずにずしりとどこかへ沈んでいた。その重さに私は慈子を置いたまま夢中で野宮へきたはずであった。
天龍寺の大門を僧が二人がかりでぎぎ、ぎぎと閉めていた。松の
ボートが幾つも浮かんでいた。
第 三 章
一 お利根さんの話(一)
お二人ともそのままで……。今日はながいことお話しできなかったことを宏さんもご一緒に聞いていただきます。お父様がおなくなりになって一年過ぎてしまいました。なくなる前にお頼まれしたお約束をいま果たさせていただきます。
あなた方お二人ともきっと私が感じている以上に、お父様のことをお年を召した方に記憶しているのではないでしょうか。ご丈夫でなかったのですし、お考え深く静かでいらしたから、お若いあなた方、殊にまだ高校生だった頃に逢われた宏さんの眼には、「先生」というお気もちでお慕いなさるのも加わって、事実以上にお年を召した方だったかもしれません。けれど、その先生はまだ四十六歳でいらしたのです。若死にといってもおかしくない、残り惜しいご病死でした。私にはあの方のもっとお若い時分が却って今も眼にうかんで参るのです。
宏さんが私たちの
お父様は今のお祖父様の実のお子ではなく、ご生家は田倉といい、式部官をなさっていた田倉
朱雀と田倉とは当然疎遠となり、田倉家は宮内省勤めから実業の方へ転じてしまわれました。これが大正七年のことですが、すこし遅れて、大正十年十月、謙之様の奥様、今の
朱雀はもと神祇職と申しましていいお家柄で、淀屋の方はもちろん格式の点ではとても対等とはゆかなかったのですが、博之様と私どもの祖父との頃からお親しくさせていただいたらしく、祖父の直明が大学である程度の名前を得ましてからは、謙之様も時々家の方へおみえになり、あげく父の正明に、お前の妹をと望まれたと聞いています。お祖父様も私どもの父もどこか隠逸を好まれるという所があってウマも合ったのでしょうか。それでも、お祖父様は大正三年以来宮内大臣の波多野敬直様を補佐されて宮中のご信任も篤く、博之様がなくなり、大正九年波多野大臣の退官でご自分も閑事に就かれると共に子爵貴族院議員まで拝されました。大正十四年の
この時のご事情というのが、慈子さんのご両親にも私にも関係があるのでして、これからがお話の本題と申していいかと思います。
さて、お父様は、お母様ゆずりのご体質というのでしょうか、お若くからご丈夫ではありませんでした。あのように温厚でいらしたのですし、むしろお小さい頃のお父様といえば、また御病気なのですよと家で報告するのがふつうなくらいでした。そのつど母はいそいそとお見舞いに上がるのです。私の母は光之様をよほど好きなようでした。もって生まれた澄んだ眼をすこし伏しがちに翳らせて熱っぽいお顔でよくお部屋に坐ってらしたお父様を私は覚えています。ご本を読むというより、ご本をひろげたまま思い耽るというふうでした。想像力の豊かな方で、時たま肇子さんや私にお話しなさることがありました。そんな時、もしこの場合にこうだったら、あとはこうなってゆくのではなどとご自分で想像なすったことをどんどん眼に見えるように話されました。
かぐや姫のお噺などは特に上手でした。最後に天上へ上ってゆく姫のことを羨ましいと仰言って結局は人間と天人とは別ものなのかしらねと寂びしいお顔をなさり、どう、誰かが天から迎えにきてくれたら喜んで
もっと大きくなられたあとでお聞きしたお話としては更級日記の中の一節を独立の物語に直されたものが記憶されています。お父様はそれを中学の雑誌に一部だけ発表されました。やはりお力がつづかなかったかそのままになりましたが、お話のつづきは肇子さんも私も聞いておりました。〝竹芝寺縁起〟といって、日記の作者が父の任国
お話が横へ
またお話が外れましたが、そういうことは、いずれあとのこととして。お父様は小学校の時に一度
大学をご卒業になるとやがて宮内省勤めでした。昭和十四、五年のことです。世情は穏やかそうで、そうではありませんでした。朱雀の家では殊にあのご時世を厭われるふしが強く、むしろ世間に背くようなご生活であったのを私は覚えています。お父様のお勤めは怠りがちでした。ご発病、ご転地、またご転地というぐあいにはかばかしい様子ではまるでありませんでした。
一方、妹の
こう申しますと、お父様のお悩みがお生まれのことにあったかと思われます。確かに、それをはじめてお知りになった時にはお顔の色がみるみる変りました。この私が実は口走ってしまったのです。
ちょうど
幸いとこのご兄妹はお顔だちなどよく肖ておられました。ご性格はちょっと違っていましたが、端正なお人柄については陽気な肇子さんの場合にも紛れもない所でした。お兄様はよく、あれが入ってくると黙ってても何んとなく辺りが晴やかになっていい、と仰言ってました。お年がすすむにつれ仲睦まじいので、私などはよく自分の兄につまらない、つまらないと厭味をいったものです。私の兄は、慈子さんよくご承知でしょう、あんな豪気な男ですもの、年もお父様には二つほど下でしたのでお静かそうなお父様のお友だちということにもならずじまいで、私ばかりがどちらが家と分らぬくらいに往来していました。私も肇子さんと一緒に光之様といわず、お兄様、お兄様とお呼びして過ごしたのです。
光之様の秘密を知ったのは年若な娘の私には堪らない負担でした。ことに、お二人が顔を合わせていらっしゃる所へ入ってゆく時や、お二人で私のことを話される時や、肇子さんが楽しそうにお兄様いじめをなさる時や、二人きりの時にお兄様のことを話し合う時や……もうどんな時にも、それを知っているだけで私は息苦しく、その息苦しさの中ですこしずつお兄様のお顔がまっすぐみられないようになってゆきました。
私が京都へ参っておりましたのは、その当時奈良においでだった
お父様のご旅行の目的はむしろご休養にありました。私が参りました時は奈良の方は終られて、紙屋川のこの家に、むしろ所在なげに坐ってらしたのです。お家元のご様子をお父様は訊ねられました。けれどそれにご興味があったのではなく、むしろ私がお家元の帰りに、法隆寺と中宮寺へ寄って参りまして、殊に中宮寺の弥勒様がとてもけっこうでしたことを申し上げますと、すこしお顔を朱らめたようになさってとてもご熱心にあの仏像のことを話されました。その当時、あの仏像については寺伝の如意輪観音説と弥勒菩薩説とで議論があったものらしく、一しきりそんなお話が出ましたのも、お父様が『大和古寺巡礼』などを手に寺々を今巡っていらしたばかりだったからなのでしょう。
そんなお話を致しましたのも実はこのお茶室の中でした。やはり夏でした。さっき
あの仏像、どことなく
お父様は私の質問には直接お答えになりませんでした。そして、こちらへ出がけにつまらないことで肇子を泣かせちゃってと弱ったように薄笑いなさったのです。肇子さんは自分もご一緒したいとお兄様にせがまれて断わられ、お母様にもとめられなさったのでした。肇子と一緒じゃ何んとなく恥ずかしいし、気も疲れるだろうしねと仰言るのですが、満州事変や支那事変のご時世でしたから、ご兄妹とはいえお気兼も幾分あったかもしれません。私はまた大和の寺々をお二人が睦まじく訪ねてまわられるのを想像しまして、ありもしないことに胸の騒ぐ羨しさを自分でかきたてておりました。お兄様は肇子さんのような奥様をおもちになりたいのでしょう、と私はいってしまいました。いった方の私が朱くなりましたのに、お父様はうむと生真面目に思案顔をなさるのです。おなぶりになっているような錯覚にとらわれ、私は夢中で喋ってしまったのです。
お父様はお点前畳をついと立って来られてぴしりと私をお打ちになりました。打たれなかったら私はまだ喋りつづけていたのでしょう。
お父様の出てゆかれた茶室で私はしばらく泣きました。そして
二
墓をめぐって地苔が散り敷いた花のように拡がっていた。樹々の蔭を淡く洩れてきた光の繪が苔の緑にしみじみ馴染んで、墓前にささげた
この日、妻は「どこへ」と訊ねた。泉涌寺と聞くと「いこうかな」と本当にいきたそうな顔をする。およしともいわなかったが黙っていた。ちょうど大学時代の友だちから誘いがかかり、妻は電話口で愉しそうだった。私は祈るように靴ぬぎに佇んでいた。いってらっしゃいというふうに妻はわらってかるく手を振った。家を出たが、よろよろと、みじめだった。振り払いたくて途中八坂神社へ寄った。拝殿に向ってどんな手を合わしたとてみじめな心が晴れる道理はなかったが、祈るという動作だけに想いを鎮めようとするうちには、慈子のくらい涙の玉がほうっと光を拡げて私を誘うらしかった。
泉涌寺道でつねなりの素足に下駄をはいた岩田磬子と行き逢ったのは偶然だった。もうそこが家だと教えたが、それ以上は言葉を控え、坂上の方を見返るように
慈子は日光を避けまっすぐ顔を向けて待っていた。磬子と出逢ったことなど一言も口にしなかった。何の花を慈子が
新しい来迎院では、金をとって含翠庭を人に観せ、抹茶券を出していた。客はなかった。慈子は気にかけなかった。縁に腰かけ、茶を喫んだ。十三、四の少女が初々しい叮嚀さで縁側に敷いた緋の毛氈へ茶と干菓子を運び出した。
水の滴る音がしていた。庭石にしみ入りそうな葉洩れの光が金色の縞目になって、
小さなめまいが眼の底からきて青い庭に拡がっていった――。それから慈子は一人茶室の方をみに立った。私は縁にいて、首をまげて書院の中を見入れた。
書院は右奥中央に床の間があり、縁からみた正面と左側が襖になっている。襖には金銀の砂子を光らせ百人一首の小色紙が貼りまぜてある。儀同三司母、右大将道綱母、大納言
書くのも大変だが、部屋二つに華やかに雅びに貼るのはまた大騒ぎで、先生と慈子と私とが後に立ち、こういう仕事は人並はずれて上手なお利根さんが、ああ大変、ああ騒々しいと嘆き嘆き汗を流して、盛んな雑音にめげず思うまま優しく貼っていった。それでもどうしたことか二枚だけ残ってしまった。その一枚が紫式部の〝めぐりあひてみしやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな〟で、もう一枚が大中臣能宣の〝御垣守衛士のたく火の夜は燃えて昼は消えつつものをこそ思へ〟だったのである。先生はお利根さんの書いた色紙をながめ、「これはもらっておくよ」と仰言った。お利根さんは残った二枚を墨流し紋様の色紙にそれぞれ慎重に貼り、衛士のたく火の方に光之と書き添えていただいて、結局書院は
その時はべつに何とも思わなかった、ただ懐かしげな遊びくらいに思い思い、美しくなる座敷のさまを慈子とならんで眺めていたのだったが、昨日のお利根さんの話を想い出すにつけて、残ってしまった二枚の色紙のあのような処分にも、朱雀先生とお利根さんの言葉にならない歴史がふと露頭していたかと胸衝かれて思うのである。
書院の床の間は一間半、右には青紙下張りの土壁に小障子が組まれ、左には合わせ壁半分に荒目格子の引き窓が小さく切ってある。床そのものの左一尺ばかりは豊かに櫛形に土壁をくった張り出しになっていて、櫛の歯に当たる柱と、床がまちとが木なりの
「――どうかなすって」と声がした。慈子は含翠軒への内露地を隔てた
高校三年の秋の初め不注意から急にからだをそこねて、二十日余りも学校を休んだことがある。大学進学を控えて大事な時期であったこともあるが、久しぶり来迎院に顔を出した私をみるなり先生は声を励まして叱りつけられ、すぐと表情を和らげ、まだ丸坊主だった私の頭を抱き寄せて「だめじゃないか病気なんかをして」と涙ぐまれそうに仰言った。お利根さんもさも安心したふうに病中のことを訊ね、慈子は始終寄り添って、口かずは少いながら嬉しそうに光った
十月はじめ、月の明るそうな宵をえらんで、私は慈子と庭へ下り、石燈籠に灯を入れていった。まず庭正面の
先生は
女二人が書院の奥へ入ったので甘えるように私は先生の横に坐った。
先生は姿勢を崩さないで、押し黙ったまま
ガラスの小鉢に白玉を盛って生砂糖をふりかけた簡素な月見の菓子を慈子は運んできた。つやつやぬれた真白な小団子の一つ一つに、もう月明りがきれいに光っていた。
我記長安城裏遊 夢回欸乃一声舟 可憐不似繁花地 紅蓼白蘋蘆荻秋
とある床の間の詩懐紙は、秀吉の忌避に触れて博多に流された紫野大徳寺の古渓蒲庵の客懐であった。床の前に皆を招いた朱雀先生は、〝
月明りだけではさすがに覚束なく、床前の書院中央に一つ燭台を置き、縁側には、昔はそんなものを持って夜警にまわったものか、振ればがらんと鳴る鉄鈴のちょうど握りの上が受皿になっていて蝋燭の立つという珍しい手燭が用意してあった。それらにも灯をともし、その頃稽古中だった
茶の湯のたのしさが、あのような八方破れな演出の中で満喫できたことを私は久しく忘れなかった。
あの時、慈子は五年生だった。まだ手も小さかった。ふさふさした髪が小さく
誰もが多くは喋らなかった。
――慈子は顔を
脈絡を欠いて想い出は次から次へときた。
来迎院というものがなかったら私はもっと自分を分り易く顧ることができただろう。それあるばかりに私のリアルな世界はどんどん狭まりやつれ、イデアルな世界、〝来迎院の世界〟は涯てもなく拡って、しかも
「行きましょう」と慈子の方が腰をあげた。
門前の石橋を越える時、青もみじに埋もれた
大学へ上がってからも来迎院へはよく出かけた。
先生は私の恋愛と結婚をどう考えていて下さったのだろうという重大な不審が、温いまま汗ばんで冷えてゆく慈子の手を通してもくもくふくれ上がった。
慈子は私の手を握って
三 お利根さんの話(二)
――東京へ帰りましてからも別に何事も起こりはしませんでした。それでも私はしばらくためらった後でしか朱雀へ顔を出すことができませんでした。その頃、お家は牛込にありました。私が参りますと叔父も叔母もよくきたといってくれました。
あの日、私から
お父様はまたお加減がわるかったのです。もう馴れたことでしたので私はそのままお部屋へ参りました。利根かと仰言って枕もとへ坐らせ、ご自分はうつむけに両肘ついて前髪に
京都でもそうでした。私ははいとお答えしながら、お部屋にこもっているお父様の匂いを感じていました。
一、二年してお父様は大学をご卒業、たぶん昭和十四年時分かと思います。その頃には肇子さんも私も学校とは縁が切れておりました。肇子さんは時には婦人雑誌の令嬢紹介などに写真が出たりしまして、世間的にも知られた本当にお美しいお嬢様でした。もっともお父様は肇子さんがそんな風に写真で人目にさらされるのをとても不快がられ、顔色までお変えなすって
お父様はご卒業後半年くらいは何となく過ごしてらしたのですが、秋半ば頃になるとお祖父様のおすすめで宮内省にお勤めになりました。もう私はあのことはすっかり忘れてゆきました。
先を急ぎますので途中のことは飛ばしてお話を前へ進めましょう、そう、ちょうどこの前の戦争の始まる年でしたから昭和十六年の秋、お父様はそれまでと違って胃のお工合がわるく、お勤めも滞りがちになっていました。お父様はもともと快活な方というのではなかったのですが、お勤め以来は殊に頻りに物を思いつめられたふうにいっそうお静かで、私どもの顔もごらんになることは少なく、お部屋に籠もられがちでした。それが胃に障ったのでしょうか
前にも申しましたようにお祖父様もお静かなご日常で、よく父の所へもお話にみえていました。時局のことはご禁制で、話といえばご趣味のことが多かったのです。父は専門が歴史なものですから、お祖父様はその方のことをよく父に話させてお聞きになっていました、考えてみますと、朱雀家と淀屋家とはまことに幸せな縁組を交したものでした。二つの家を一つに合わせたようなゆるし合った雰囲気でしたから、父だの叔父だのと区別なしにみなが身内同志にぴったり結びついていて遠慮がありません。それだけにこの二つの家を一つにみたてた壁一重の外に対しては、どうしても背を向けたようなよそよそしい眼で世間をみる習いさえあったものかと私は思うのです。
忘れも致しません十二月七日の晩になって突然肇子さんが私を訪ねてみえました。お顔色が蒼うございました。二人きりで話したいと仰言るので自分の部屋へお連れしました。当時二人は
肇子さんは勝浦から届いたお兄様のお手紙をもっていらっしゃいました。お兄様は、もう大人になったお前だから話すが僕はお父様の本当の子ではなく、お父様には甥でお前には従兄妹に当たる者である。久しく誰もが隠していたことだから知るまいが、やはり知った上で正しく朱雀の家をお前が嗣がないといけない、言うまいと苦しんだが、隠しているとよけいお前とも心の隔てができそうでそれは我慢ならないのだ、お前は僕のこの世で一番愛する人だ、事実だけを知った上で、平静にこれまでどおりにしていておくれというようなことがきちんと書いてありました。詳しく知りたければ利根さんにお聞きともあり、お父様には黙っていた方がいいとも書いてありました。
お兄様らしくなく衝動的になさったことと私は眉を寄せ、肇子さんはまた私がお兄様には告げて自分には黙っていたことを責められました。お兄様のお手紙ではただ自分が朱雀家を嗣ぐのは順でないから肇子さんにということだけを書いてあるようでした。お兄様にとってそれがそんなに急なご用件だったでしょうか。ご縁談こそありましたが、それで心急いで仰言ったのかもしれません、たしかにお手紙は熱っぽく濃まやかなお苦しみの調子が
私から聞くだけのことを聞くと肇子さんは帰られ、翌日のうちに勝浦へお兄様のお見舞いに出かけてしまわれました。その日こそはあの真珠湾攻撃の当日だったのです。ようやく私には、以前の失策が思いもうけぬ暗い翳をふくらませかけているのに気づきはじめました。肇子さんはすぐ帰ってみえましたが、私にはただ、この間の縁談は断わったとだけお話があってお兄様のことには触れられず、まことに何気ない感じでした。はじまった戦争のお話もわざとのように何一つありませんでした。
次の年はまだ景気のいい年でした。戦勝のニュースが新聞を賑わせつづけていました。お父様はすっかり官途から退かれ、すこしお肥りになってお家で読書なすったり、時々小旅行をなさいました。肇子さんや私をお連れになることもありました。日光から中禅寺湖の方へ、ご一緒にまぶしい翠の若葉にぬれるように歩いた記憶があります。霜降の滝壺まで三人して下りた時の寒さも覚えています。そして、その時お父様が肇子さんをかばうように抱きかかえて空いっぱいにけぶる瀧しぶきから守っていらしたのが忘れられません――。
お父様がお元気になられたように、肇子さんも一段とお美しく大人びておいででした。お歌にも
それやこれやは戦争中とは申せ若い人のいる場所では自然のことで、やはりありふれた家庭的な現象ではあったのですが、爆発的な事件は十八年の春に起こりました。肇子さんが妊娠なすったことをご両親に打ちあけられたのです。肇子さんと並んでお兄様が頭を
さすがに私もこの所は詳しくお話しできません。肇子さんのお腹の中にいらしたのが
お父様はすぐ淀屋の私方へお預けになりました。もっともお祖父様、お祖母様の他に事情を知っていたのは私の父だけでした。突然お父様が家へお出でになり、しばらく一緒に暮すということで離れへお入りになった時は私は嬉しいと思いましただけで、一層深いことまで察しをつけることもなかったのです。父はあんまり
そのうちに、今度は突然肇子さんが勝浦へ移られました。しかも、なかなか帰ってみえませんでした。お父様にそのことを申しますと、そうかと仰言ったなりで向うをむかれました。
肇子さんのお手紙をいただいて私は本当に驚きました。肇子さんは実に率直にそのことを告白され、後悔していないことを書き綴っておいででした。自分があの方を兄として以上にお慕いして来られた幸せを今はひとり出産を待ちながらかみしめているので、もし許されるものならあなたからあの方に自分は元気でちからある暮しをしていると伝えてと書いていらっしゃいました。お手紙が率直であればあるほど私の驚きは深刻でした。私の中でこどもとおとなが必死にせめぎ合うような興奮と怖れとが騒ぎ立ち、私は自分の部屋の隅にちぢこまって震えました。
お二人の愛と情熱が暗いものであったとは想像したくありません。それでも、私の中のあの少女らしい幼さの限度を超える所がこの事件にはありました。私は肇子さんが切々と頼みかけられているご伝言を、もうあの離れのお部屋へ自分一人でお持ちすることができませんでした。
お父様は何も仰言らず、一つ部屋にご謹慎の恰好で耐えておいででした。私はようやく心を決めて肇子さんのお手紙をそのままそっとお傍へ置いて参りました。読んで下されば私がまちがって伝えることもなく、そのことでお父様のお顔を朱らめさせたり、私もどきどきせずにすむと思ったのです。にげるように出てゆく私にお声もかかりませんでした。ご夕食の時、お父様はそっと私に目礼され、その謙虚な眼づかいとお静かなお悦びに私はやっとこのお二人の愛のいきさつを全部ゆるす心地になりました。あのお手紙はお父様の宝でした。おなくなりの時、私はお父様のお胸に肇子さんのあのお手紙を挿し入れて差上げました。肇子さんがなくなった時、ご遺言にただ一通のお父様からのお手紙を胸の上に載せてほしいとございました。そのお手紙というのは実は私がお父様にお書かせしてそっと勝浦までお持ちしたものでした。
お祖父様もこの事件の処置にはご当惑のようでした。父は進んで結婚させておあげになればいいと申したらしいのですが、そこまではご決心も届きかねました。お祖父様はお怒りのあまりお父様を畜生呼ばわりまで一時はなさったのです。それもご無理でないくらいご兄妹らしくご成人になったのですから、やはり根本は私のお喋りが祟ったのです。もしお互いにもう少しずつ時期がずれて事実をお知りであったら起こりようのないことだったでしょうし、どちらがお幸せだったか分りませんが、お父様ご自身も申され、肇子さんのお手紙にもありましたように、相い寄る気もちを兄妹という制限とも自由ともつかぬ日常の中で確かめ合い愛し合われた僅か一年ほどの時期が、此の世ならぬものであったということを心に
お祖父様は秘かにご出産をすすめ、その上で肇子さんに誰かご養子を迎え、お父様にはその段階で嫁を迎えて分家させようと思われたらしいのです。お父様へのお怒りもさることながら、傷ついた肇子さんを外へ出すのがご
慈子さんのお誕生日は十月十六日です。けれどそんなお報せは表立ってはなく、父がそっと朱雀の方へ出かけるのを私も黙って見送っておりました。
十月末でした。正しくは十月二十七日の晩のことでした。私たちは慈子さんを挟むようにして一つのお部屋で
お母様のご自殺は唐突でしたが、理由はありすぎるほどだったと申して宜敷いでしょう。ご不幸なことでした。私は動顛して泣くことさえ忘れていました。けれど心のどこかでは
前夜に私へ頼みごとをなさったり泣かれたりほのめかしをなさったとは私は思わないのです。遠い
もしあるとすれば、こういうことをお母様はしみじみ仰言いました。あの方、お父様のことですが、あの方と自分とは兄妹でも従兄妹でもあり、また恋人同士で夫婦でさえあったのだけれども、今、こうして私たちの娘の顔をのぞき、遠く流れる潮の響きを聞いていると、こういういろんな現在での関係とはまるで違った遠い昔からの配慮というかはからいというか、血でも約束でもない結ばれの深さが感じられて、あふれそうな恋しさ慕わしさもその深みに戻って直接に感じる時、ああこの世のことなんか何だっていいんだ、自分は一番いいことをしてきたのだ、あの方とは絶対に一つなのだと信じないではおれない、と――。
私は運命ということを仰言るのだと思いました。けれど、運命という言葉に寄せてあんなに誇らしげでお嬉しそうな確信が語れるものでしょうか。私は今では慈子さんのお母様が死も怖れず、むしろ欣然としてどこか「本来のお家」へ帰っていかれたようなあの夜のご自殺の意味に思い当たるのです。いいえ、このことについては慈子さんが、それに宏さんもご自身でお考えになればいいので、私がまずく解釈すべきことではないのでしょう。お母様がどういうお覚悟でなくなり、お父様が何を考えられてその後を、殊にあの来迎院時代をお生きになったか、それは否応なしにお二人に先立たれてしまった私たちの自分の問題として考えつづけねばならぬことなのです。
私はとてもうまくは話せず、かんじんな部分をあまりに手短かに申し上げてしまいました。どういう次第で結局、お父様が私たちをお連れになってあの
何も何ももはや説明などしたくない気もちです。お父様は私たちを心から愛して下さったのです。そしてお父様のお胸の中で私たちへの愛を支えていたのは、やはりお母様の仰言っていたあの深い遠いはからいなのでした――。
四
泉涌寺の金堂に
〝みてら〟と尊称されてきた皇室の
当時、先生のお仕事のことは本当によく分らなかった。強いてうかがったこともないのだが、慈子と私とが一緒に御陵の責任者としての先生に叱られた記憶はふと懐かしく心和ませるものだった。黙しがちな慈子にせめてもそのことを喋らせたくて私はいった、あれは失敗だったなあ、ほら……。
金堂に対い合って
慈子をかばい、先に立って一足一足灌木喬木の下の積もる落葉を踏みしだいて下りた先は、本坊の奥、
不遜といえば、二、三年後だったが、来迎院へいってみるとお利根さんも留守で、慈子一人書院の陽あたりに障子に背もたれしながら膝に紙を展べて繪を描いていた。
日光の下でみる神像はすばらしいものだった。丈は三尺ほど、上半身裸像だが胸と首を
この像が一番好きで親しみやすいと少女は離れた位置から透かしみるふうにいった。そういういい方のできるのが私には異様だった。私は昔から神体や仏像に対しては幾分かの感受性をもっている。確かにそれはある特別なもの、だった。中宮寺の弥勒をあたかも一彫刻作品として眺めることもなさったらしい朱雀先生の若い頃と思い合わせてみても、案外、慈子にはさらりとした若い合理主義の方が受けつがれていて、超越的なちからや神祇祭祀には
すると――、すると〝私たちの来迎院〟という特別な感じ方は何なのだろう。遠い遠い以前からのあの〝はからい〟と慈子の母はいい放って死に、朱雀先生は〝はからい〟の不思議を来迎院で立証しようとされた。突き当たってくるようなこの一年の慈子の無言は言葉にならない無量の意味に裏うちされ、私を呼ぶ烈しさはただあの〝はからい〟に身を寄せる姿勢から生まれている。
お迎えを待つだけだねと笑って先生は来迎院に入られた。
わたしは〝バッターさん〟の美しさに見飽かなかった。繪もみて下さいなと慈子はいった。デッサンはふしぎに像のかたちより陰翳の方に重点がおかれ、鉛筆描きの濃淡が指さきに触れて崩れそうに白い紙に光っていた。
お利根さんが帰ってきたと思ったら先生も一緒だった。叱られもせず、「お、戻ったか」と立ったまま像を見下ろして、「博物館で人に観てもらってる方が良いのかも知れんぞ。うちにはまだ四体も眷属さんがいて御本尊を護ってござるからな」と
「私には妙な癖があって、よく狭い畳目の一つなどに眼をとめてみつめる。みつめるうちにその畳目一つが実はこの世界と同じ巨きさと豊かさとをもった別の世界のように思えてくる。そこには洒落た街角で別れを惜しむ恋人たちもおれば、土の家の暗い煖炉で薄粥を炊く火もある。緊迫した国際会議もあれば、眼のかすんだ老婆が寒さを厭うて呟く貧の愚痴もある。要するに、何もかも似た別の世界が指の幅一つの狭い畳目の上に拡がっている。
以前はこれを想像の遊びと呼んでいた。まあ私には一種の玩具のようなものだった。
だが、年がゆくにつれて、そう簡単にこの遊びを考えてはいなくなった。果してこれは想像に過ぎないのだろうか、真実そういう世界がそこに実在することを自分は直観しているのではなかろうか、そう考えはじめた。いつ頃からか覚えない。しかしこの転換は非常に私の内側をも変えたという気がしている。想像の遊びから直観の……遊びだろうか、遊びじゃない、これは一種の救いではないかと私は考えた。
結論を急がずに、その先を話そうか。私はもう墨のしみや畳目に満足しなくなった。そこでは巨大な空間の拡がりは直観できても時間の方は停止している。世界を突き揺がす時間、宇宙的、超天文学的な脅威に充ちた時間の圧迫を欠いている。想像をたのしむにしてもこれが私には決定的な欠陥と思われた。
私は別の工夫をしてみた。どういうことかというと、私は一人で静かに湯に入るのが好きだが、その際、湯の面にからだの一部、たとえば手首をくの字に折りまげたりして、そこを湯へ少しずつ沈めてゆく訳だ。すると湯肌の脂にはじかれながらついには豆粒ほどの陸地を露出するだけになる。これが私のみつけた新しい世界なんだ。ずっと沈めると危く陸地は呑みこまれようとする、しかしかすかに浮かせると汐ははしるように引いてゆく。この汐のさしひきに内在するものを超越的なほど無量の時間だと私は感じた。
――私は、ついに私の直観力が、この一見無意味な動作が現前してくれる豆粒米粒ほどの世界において、単に地球の歴史ばかりか、太陽系の、宇宙の、歴史をさえ実現させ得ることを悟った。例えば洞穴人の驚嘆すべき絵画からマチス、ピカソまでの歴史ひとつをとっても何万年というじゃないか。所が、私のこの世界では、汐の眼にみえないかすかな動きにもそれ位な推移は呑みこまれてしまうのだよ。われわれ人間の一切の歴史を微細な一点と化してしまうほどの、それ以前にも実在したであろう凡ゆる歴史、文化、欲望、意見の限りない出現と消滅の繰りかえしが、この世界の上で実現している――。勿論、時間の無限と併せて私は空間の拡がりも遙かに拡大し、同時に一切の具体性を認識の中で確保したわけだ。だから、私たちが今この来迎院という場所で話しているのと寸分違わぬほどの小さな事柄までが、この世界のどこかの時点、場所に確実に包含され実現されていることになる。
この直観によって私は先ず人間の歴史そのものが、一回きりのものなどである筈がなく、地球自体も勿論宇宙の歴史ですらたとえ何十億光年の何万倍もの寿命であろうと、それをさえ無にしてしまうほどの消長の繰りかえしがあったことを信じられるようになった。そこでだよ、だとすると、今私たちが現実と呼びその故に真実だと考えている凡ゆる事柄が、仮りに真偽はおくとしても、あたかも無限をかすめる翳よりもはかない位のものではないかと思うことができるようになった。つまりリアリティなんてものは無い、すべて翳であり、条件のついた現実である。直観だけがよくこの全てを洞察する。過去も未来も相対的で、生前死後などといってもまことに小さな、つまらない、あってもなくても良いようなものだ、そう思われてきたのだ。
夜空の星を仰ぐだけでこれ位の想像は拡がるといえばそれまでだが、それだけじゃない。私の腕の上にたまたまできた世界、それを私は実在の具体的な世界と直観し得た途端に、こういう破壊的なほどの内包を有した無限世界が、時間のうねりの中で縦に持続するとともに、無限の場にあって無量数に併存していることを咄嗟に信じた。
おかしいか――。われわれの今の眼からみれば湯に浮かんだ世界などバカげた空想の産物に思える。けれど、その世界が真実在し、その世界からわれわれのこの世界を考えるとしたら同じようにバカげたものであろうじゃないか。だがわれわれは自分の存在を可能にしている自分たちの世界をバカげているとは考えていない。そして、われわれにとっては狭苦しい豆粒大の世界と想うものが、そこに住む人々にとっても狭苦しいのかどうかを考えるなら、元来これらの世界の大小広狭など無に等しいことで、拘泥りようのないのが分る。
私は超現実的な話をしているようでも、その現実自体が本質的に非現実で翳の如きものだということを考えるべきなんだ。つまり、無限無量に世界が併存している。私たちが広大無辺と思っているこの地球太陽系宇宙そのものがどうして別の世界の誰かの入浴中に肌の上にぽっちり出現した一世界でないと断言できるだろうか。
そういう訳だから私はリアリティということを考えない。考えないというのがいいすぎなら拘泥らない。生死も考えない。すべてあるはからいに応じてこの無量の世界の中で生き代り生き代りしているのではないか。誰もその
そこで私が考えもし、感じもするのは、こうだ。人は世界から世界へ輪廻する。ある世界へ早くきて早く去る者も遅くきて早く去る者もいるが、所詮同じ世界から世界へと生まれ変ってゆく。そこで、例えば愛し合った二人の一方が余りに早く去り、残った方が愚図愚図していると、遅れてゆく者より一足早く先にいっていた者がまた次の世界へ出ていかねばならぬことも生じてしまう。それでは淋しいので、愛する人に死なれた者には何がなし早くあとを追ってまた一つ世界で一緒になりたいというふしぎな願いが備わっているのだ――。
無限の併存といったが、同じ場を重ねられず並び存することだろうか。そうでなく、私たちのこの現在と全く同時同所に別世界の現在が重なっているのかもしれない。私たちに分らないだけで、やはり無量の世界が今この部屋を同様に占めていないとはいえない。つまり、私たちだけが生きている訳でなく死んでいる訳でもない。謂わば絶対の生も死も実は永遠の翳だ。それを直観すれば不安はない。
それでは何が必要なのか――。愛し合う身内がどのような結ばれに変っていようともこの永遠を通して共に生き、生き続けるべく、務め合うこと、だ――」
話し終って先生はにこっとされた。お利根さんを連れて奥に入っていかれた後姿をよく覚えている。先生もまたどこかに不遜な魂をもっておられたのであろうか――。
先生、と心に呼びながら御陵への道を慈子に腕を貸して、ゆっくり登りはじめた。ある冬の朝の想い出がまた別の色彩をもって甦ってきた。
孝明天皇陵までの坦々とした道の途中、ふと左へとんぼ返りに急な石段が崖上へのびている。後堀河天皇の観音寺陵につづく隠れ道である。簡素な丸木鳥居の奥のうず高い山陵に赤松が一本抽きん出ていて、忍び
高校卒業前の正月だった。親の寝正月をいいことに朝早の雑煮のあと家をしのび出て私は来迎院へ飛んでいった。暮の内に小雪が降っただけで
今、その慈子が横を歩いている。巨きく年輪を
――幼かった二人は手をとり合ってまずこの後堀河天皇陵へまで飛び上がってみた。やがて元の道へ戻って、上の孝明天皇陵まで素早く上って、それでもうどこへ寄り道もならず、ざくざく小砂利を鳴らして帰るよりなかった。が、先の観音寺陵へ通う石段の下に〝竹木を伐らぬ事〟 〝鳥獣を取らぬ事〟などとある宮内省の布告板のかげから、ちょっとした雪水の溜りにつづいて細々と山中へ誘われてゆく小径がみえた。行こうかというより早く山に包まれてしまった二人は先ず左の崖上に観音寺陵の白い玉垣をみつけた。
しばらくは谷間へ惹きこまれそうな下り路で、
並んでゆけない路がますます細くなって、霜に荒れた笹を踏み踏み谷の途切れの急な斜面を陽の明るい方へ登っていった。もう御陵はこんもりと背後に退いていた。そう長くない斜面を登り切った所から二人は浅くゆったり窪んだ、一枚のまるで繪皿をのぞきこんだ。杉木立に鷹揚に包まれ、乾いた茶色に冬芝を敷きつめた山窪は暖かそうな陽だまりになっていた。しだ葉に縁どりされた七、八米四方のきらきら明るい、子供部屋のような深山の窪の入口に佇って、息をはずませやってきた二人は、一瞬ぽかんとした――。
あれ以来、誰がここへ訪ねてきたであろう。この私は一人できたことも、妻を連れてきたこともなかった――。
慈子は疲れていた。歩けるのと私は二度三度たずねた。しかし、慈子にも私にも、今の今二人してゆく先があの二人だけの山窪でなくて何処であり得ただろう。
今、真夏の御陵裏は樹々の繁りも厚く、幾度も足もとの草むら笹むらを自分の足で分けておいては慈子の手を引いて進まねばならなかった。鳩には昔に変らず驚かされた。鮮やかな青い花をつけた草が浅い谷の水音をいっぱいに隠しているのがあやしく足もとを心もとなくさせていた。蝉の声があふれていた。
辿りつめて立ったあの窪の入口、昔そこで息をはずませた場所から、眩ゆい青草をはなやかに花の色が彩った、浅いゆたかな一枚の繪皿が紛れなくのぞきこまれた。杉の影にゆったり蔽われて仰ぎみる木洩れ日は、色とりどりの
慈子が草を踏んで、しっかりした足どりで窪の底へ下りて行く。白のハンドバッグがきれいな腕の下で揺れた。
ここを
山鳩の声が一きわ静かに、風をさえぎり、流れていった。
五
お利根さんの死は唐突にきた。けれど死者の用意は周到だった。お利根さんは
九月末になってお利根さんはいい
お利根さんの荷物を受けとって淀屋家の主人はほうという顔をした。午までで大学を
私は外出していた。少し町を歩いて、それから一度駿河台の家へ慈子は戻った。すぐ奥へ呼ばれた。寛いでいた筈の主人の姿はなく、奥さんから慈子は、今日一日はわるいけど家にいて下さらないと頼まれた。そう申して出ましたのよといわれて、よく訳も分らない。ときどき無い話でもないお見合いかと思ったが、そんな素振りはお利根さんにもこちらへ着いた時の淀屋の人たちにも、なかったのである。奥さんまでが気ぜわしく外出した。慈子は家からもう一度私に電話したが、まだ戻っていなかった。
夕食過ぎて、奥さんはときどき時計を気にしていた。六時過ぎに電話が鳴った。奥さんが出て、一言だけはいと返事して、あとを続ける間もなく電話は切れたらしく、すぐ慈子の方をみて「ちょっと」と呼ぶなり奥へ入った。
動顛したまま東京駅へ走った。特急券は時間をはかって奥さんが用意していた。胸の中が骨に当たってごろごろ鳴った。涙を堪えていると歯がかちかち鳴った。慈子は何か分らず憤っていた。腹を立てていた。絶望していた。からだが浮いて、どしんと響いて、何処かに突き当たるようだった。
汽車の中でお利根さんが兄に宛てている遺書を読んだ。字はもの静かに墨の色を匂わせていた。やすやすと書かれていた。慈子はそれにさえ腹が立った。そのせいか、なかなか読み切ってしまえず、二、三行も読むとまた初めから読み直した。それでも頭に入らなかった。
なぜ死ぬかという不審をどうか持たないでいただきたい。そして数重ねたご迷惑の最後のお願いごとをききとどけてほしい。私の死が哀れにみえたりしないことが今の自分には小さな望みだが、それよりも私の死で慈子さんが生々しい衝撃を受けないようにしたいと思っている。それで、わざと東京へやるが、申し訳ないがぶざまでないよう事を調えた上で呼び戻してあげてほしい。これがお願いである。何もかも一応後の人がみて分るように始末をつけてある。その為にすこし今日という日が遅れてしまったくらいである。至らぬ所はどうか慈子さんの為に良く良く気を配ってあげてほしい。私の意見はといえば、慈子さんには慈子さんの道があり、それをどう選ぼうとやってゆける人と思うけれど、差し当たってはたとえ大学の中途ででも、何とかして外国へ留学させてほしい。唐突なようでも今の慈子さんには必要なことと思っている。肇子さんたちの死に惹かれて逝くかとお思いなら、まあその通りである。どんなに安らかではあっても最初の死者も最後の死者も多少つまらない。あの方のことを実は少々羨しいと思い思い、早く先へ逝っている人たちの所へ還りたいと
お利根さんの遺書は兄に当たる人に宛ててほぼこういうふうに
父や母を背後に庇って手を拡げて立っているお利根さんを慈子は朧ろにみた。その微笑が慈子の胸を衝き戻していた。まあというほどの父母を堰かれた咄嗟の哀しみに
お利根さんは慈子に、〝死なれた〟という哀しみを直接与えたくなかったのであるらしい。自分と朱雀兄妹とを一くくりにして、そこで三人の物語は〝終った〟のであることを慈子に納得させようとした。慈子は生きてゆく者であり、死ぬ日とてももっと別の意味で新しい死を選んでほしいとお利根さんはわが身を〝死なれた者の最後の死〟ときっぱり断ったのである。慈子にはお利根さんの愛情が腹立たしい中でよく理解できた。遺書は慈子のことばかりを書いていた――。
京都駅から車は
「お母様――」
そう呼んだのを慈子は覚えていた。生まれてはじめて使うことばだった。自分の声に愕いて、慈子は血の気を失い死者の床の傍で震えた。お利根さんは
慈子への遺書が枕もとに置かれ、胸を一突きに貫いた
茶室には、あの、
野辺送りは慈子の祖父母の方へは報されなかった。淀屋夫婦と朱雀慈子とだけの人目だたない葬儀のあと、遺骨は慈子の願いで観音寺の墓に先生と一緒に埋められた。母から遺されていたものの内、お利根さんに宛てた遺書と
淀屋教授はとにかくも一緒に東京へくるよう勧めた。この儘で移り切る訳にはゆくまいし、お祖父様のご意見も十分お聞きしなければなるまいが「何はともあれだ」と語調を強めてそれをいった。奥さんも、言葉を添えた。疲れで、慈子は何かからだの様子も変であった。紙屋川のせせらぎを枕もとに聴く淋しさの中で、慌しい決心の一つくらいにもう
紙屋川の家の、慈子の机にはこまごまと説明のついた品物や証書の類が一まとめにしてあった。先生からのものも、お利根さん自身のものも慈子の為に遺され、迷惑したり思案にくれたりしないですむだけの手続きもよく行屈いていた。先生が
東京へ戻ると慈子は淀屋氏と一緒に下深沢の祖父母を訪ねた。祖父も祖母もお利根さんの死に涙ぐんだ。誰よりも何よりもお利根さんには感謝していた。有難かった、申し訳ないことであったと、
慈子は朱雀家を嗣ぐ者であり、一方淀屋家に子がなかった。淀屋氏は朱雀老人の顔色をうかがいながら慈子を娘として育てたいと申し出た。老人は妻を顧てから、朱雀の家は自分の代で絶えたものと考え、それが自分の至らなかった罰と思うといった。それから、「朱雀というのは、父から聞いた話だと久しく続いた
慈子は淀屋籍に入ることになってしまった。疲れていた。どうにでもという気もちだった。ただ、祖父の話にも新しい淀屋の両親の話にも父のことは洩れ落ちた木の実かのように拾い上げられないのに気づいていた。そうなのか、父はそんなにも人に赦されていなかったのか――。
慈子は話がそうとまとまってゆくにつれて父のことを考えた。父がなつかしく、父が気の毒だった。〝来迎院〟の意味が慈子をかつてないほど揺さぶってきた。遠い来迎院、かすんでゆく来迎院でいいのだろうか。父の寂びしみはただ父一人のものであるのだろうか、父と母とお利根さんとだけの寂びしみであるのだろうか、自分にもお兄さんにも、誰にでも意味のある重い重い寂びしみであるのではないのか――。慈子は
真向かわねばならない問題がとりのけてあった。お利根さんが遺書の中で外国留学こそ慈子の為の最上のはからいと書いていたこと……。それを想い出し、さて、何故か――とは考えるまでもないことだった。いかにお利根さんが慈子を世のつねの母親の不安でみていたかが、この思いがけない発想にはあふれていた。若い娘を外国へ出す以上に危い場所に慈子は立っていると、お利根さんは考えていたらしい――。兄は大学で名を成している人であり、その庇護を得られれば留学は夢でなく、経済的な心配は慈子の身の上にはなかったのだ。夢、怖い夢は〝最後の死者〟が背負ってゆこうと考えていたのだ。朱雀先生がみんなにかけた夢の呪縛からお利根さんは身を以て慈子を解き放とうとしたに違いなかった。
慈子はすべてを埋解し、反射的に父のことを考えた。宏は、宏はといっていた父の顔が、母を愛して以来自分とお利根さんに看とられて死ぬまでの父の生涯が、眼の奥へきてぱっと拡がった。
茶室で私たちに話してきかせたお利根さんの物語には、すべて〝死なれた者の最後の死〟 で洗い流してしまえるものばかりがあったとは、慈子は考えなかった。慈子の母が最期に洩らしたあの、深い遠い〝はからい〟が安らかな本質的なものであるなら、慈子は私へ結び合わされたことを父や母の有難い遺産と考えたいのだった。慈子は私と離れがたくなっていた。お利根さんの死によって父のことがもう捉えようもないほど巨大な波になって慈子の中でうねった。先生と私とが慈子の中で一つに重ね合わされていったし、そのことでこそ慈子は、父が世に赦されない以上はきっとお兄さんも人に赦されないだろうと思い当てたのである。
慈子は疲れた。
慌しい
兄に宛てたのとそう違わない書き出しで、慈子への遺書はお利根さんのあの口調そのままに
お母様がなくなつたあと、お父様のお傍に私が住むことになりましたいきさつはもうくだくだしくて申上げたくもありませんが、さうなりますについての私の気もちは、不十分ながら慈子さんには覚えてゐていただきたいと思ひます。不十分と申しますのは、多分私の申すことが舌足らずで、きつぱりしないといふことを自身でも思ふからですが……、お母様の勝浦でのご最期には赤ちやんだつた慈子さんとご一緒に私が立ち会つた訳でしたし、私はひどい衝撃から遁れるすべも分らぬまま、お母様は私にご自分の代りをと望まれたと思ひこむやうになりました。慈子さんをよろしくとお遺しになつたのは、またお父様のお残されになつたお哀しみを和らげられるのはあなただけよといつていただいたのだといふ気が致しました。それは私の心のどこかにあつた願ひを都合よくとりまとめた幻惑ででもあつたのでせうが、やがてお母様は私自身だと自分でも説明のつかない重ね合はせを私は心の中で成し遂げて参りました。お父様をみる眼も気もちも流れる風のやうに急に色をかへてゆきました。
お父様は私を赦して下さつたのですが、結婚といふことを私が望みませず、お父様もつひに一度も仰言いません。そのことが周囲の事情をよけい難しくしたといふことはござゐました。なぜ結婚しないかといはれれば強ひて答へられませんでした。二人には先に逝かれた方のことが頭にありましたものの、
私は慈子さんがどう感じるか不安でした。もちろん薄々は私がお父様のお傍に参るらしいこともご存じだつたでせうし、殊にこの数年来は私のことを昔通りにはお利根さんと呼び辛さうになさるのも気がついてをりました。不安でもあり、優しい慈子さんを存じてゐますだけに、嬉しい予感もありました。さう呼んでいただく機会はありませんでしたけれど、不安を裏書きするご不快さうなお顔もまた一度として私はみないですませることが叶ひました。
お父様のお考へになつてゐたことが本当は何だつたか私にはお伝へできません。分らなかつたといつてもいいほどです。あの〝はからひ〟といふことを、ご両親といふものからこぼれ落ちてゐらしたお父様は、他人である私や宏さんを通して確かめようとなさつてゐたのでせうか、それがあのそもそもの
それでもお父様はやはり何事の奥底にも
お母様の想ひ出は私にもまことに強烈でした。最初の死者はお幸せでした。死なれた者の最後の死を迎へる心地はただただ淋しく気のせくものです。
長い間には哀しい日、辛い夜もありました。そんな時にはお母様があのやうに
慈子さんはこれからどうなさるのでせう。どうなさるにしても、あなたは私たちの死とは無縁な方です、いいえ、さうあつていただきたいのです。兄にも申しましたが、思ひ切つて外国へ勉強にでも遊びにでも出かけて下さい。お気もちに染まない提案かもしれません……、遺書のかたちでかういふことを申しては大なり小なり慈子さんの進退を窮屈にするかと心苦しいのですが、押して、さうなさつて下さいと申上げます。
喫茶店〝ジロー〟の奥は学生であふれていた。煙草の烟が夕ちかい陽かげにただよって動かない。ながい話の途中から慈子は蒼ざめていた。ふと途切れた所で慈子は立っていった。なかなか戻らなかった。そして戻ってきた慈子の額は、汗ばんで、蒼かった。「早く。お願い」と慈子はいった。幸いすぐ傍に病院があった。
医者は出てきて、「奥さんですか」と訊ねた。はいと答えた。「流産です。手当てはすみましたから二時間ほど休んでお帰りなさい」と医者は率直にいって去った。処置室と書いた扉の前で震えた。人けのない病院の夕方は廊下の奥にものの影がたまっていた。膝がしらに風穴があいたようであった。
六
更級日記よりと付記した朱雀光之先生の「竹芝寺縁起」はこう書きはじめてある。
〝武蔵の国は蕭々として広い。見わたす限り葦や
朱雀先生十六、七歳頃の作品であることは、古樸な表紙の「憧憬」という名の同人誌の薄青い謄写刷インクの匂いにも、幼い手が刻んだらしい各頁の文字のかたちにも察しられた。書き出しを読んで私は安堵した。先生のお声が感じられた。文章はこの荒涼とした世界の住人のことに触れてから、突然こんな描写につづく。
〝武蔵野も南によつた、対岸には下総安房も見えようといふ海沿ひに、
〝武蔵はもと竹芝坂に住んでゐた酒つくりの土民であつた。彼の仕事といへば代々伝へられた酒造りに精出し、酒を
それからこの青年の風変りな酒つくりの方法や小屋の中での男の奇妙な、昆虫じみた動きが手短かに面白く書かれ、季節の推移についても、〝こひじのやうな赤土は霜柱を立てて一足ごとに心地よくくづれてゆく。生い茂る荻の間を野菊が彩り、秋草の名残も日と共に枯れ枯れてゆくと、呼応するやうに富士は白さを増し、遠い日に映えて
〝彼はあまり口を利かぬ男だつた。一人住居の為だが天性がそのやうでもあつた。しかしその為に人から疎んぜられる事もなかつた。〟
〝海風が潮をふくみ浪がつよくなりだす夏がやつてくると、昼は酒小屋で昼寝をしたり、坂の上に立つて光る海やまぶしい雲の向ふにかすんで見える島などを、すずろに眺めるのである。人が田草をとり、水をひくのに苦心してゐる時も、彼は酒瓶にとり囲まれて、瓶のへりにかけた柄杓が風のままに東や南や西へ北へと流れうごく様をのんきに眺めては、充された気持になるのだ。沢山の瓶の一つ一つの柄杓がさうして動くのは、のどかな落ちついた彼の生活のあらはれのやうであつた。一人、口笛を吹き、土地の歌を口ずさむのは、彼のわづかな楽しみのやうであつた。〟
更級日記では火たき屋の火たく
〝彼は十二、三で親を失ひ、天涯孤独なまま十九まですごしたが、
武蔵野を去ってゆく二十歳の青年の黒い小さな影を大地に印して、先生の作品は一応結ばれている。物語としてはこれより後段がはでに展開する所であり、寝殿造の竹芝寺に武蔵の姓を得た酒つくりの青年と帝の姫宮とが睦み住むに至るまで書かれるはずであったろうが、これだけの一章にも先生の想像力はうかがわれるし、一種の哀韻と純朴さとを光らせた武蔵野の中の孤独な青年の物言わぬ風貌が、ひいき目にも私には懐かしく心惹くものに思えてならない。
この作品を書かれた時、先生はまだお利根さんから話を聞いておられなかった。それだけに、この寂光の天地に孤り在るふうの青年に興味を覚え、二十歳という時の身の上の変化も、勿論
竹芝寺縁起ではやがて時の帝の〝いみじうかしづかれ給ふ〟
〝御垣守衛士の焚く火の夜は燃えて〟という先生自筆の歌をお利根さんは床の間に掛けて自決した。お利根さん自身の切ない思いを寄せた感傷と思ったが、私などの思い寄らない機会に、先生がかつて慈子の母である人を愛された頃の思いに近く、また一切の事の起こる以前の作品で竹芝の男が内親王を秘かに思慕する心としても、この歌が古くから先生の魂の中へ先取りされていたことを、お利根さんは察していたのかもしれないのである――。
風の中を明るい色の木の葉がテニスコートに落ちていった。基礎医学研究室の巨きな建物と
慈子から連絡がなかった。どう仕様もなかった。
あの日、慈子はベッドから私をみると、「御免なさい」といった。二人とも流産ということには触れなかった。窓の外にはもう夕まぐれの気はいが忍び入っていたのを慈子は詫びたのかもしれない。私は、慈子の手を床の中にさぐって、粗末な毛布の上に顔を伏せた。慈子のもう一方の手が私の髪から頬へきて動かなかった。時が移っていった。
慈子の妊娠を思い設けぬことといってはならなかった。しかし、流産はどうだったか。すでに起きてしまった事実としての慈子の流産をどういってみても所詮は繰り言だった。どうしても自身に問いかけねばならぬことといえば、それを安堵しているのか哀しんでいるのかであった――。
慈子は毅然として病院の前から帰っていった。それ以上の見送りは望まなかった。後姿の上に私は、慈子のからだを
慈子はどうするのであろう。そう思いながら、私は、一度も、自分はどうするのであろうと考えないでいることに気づいていた。この傲慢と卑怯は憎むべきであった――。
昼体みから仕事に戻る時間がすこし過ぎていた。バドミントンやバレーボールを娯しむ人の影も失せていた。早足に、しかし無意識に私は一つの小石を蹴り蹴り赤門の近くまできていた。慈子から連絡はなかっただろうかと、まだ考えていた。
階段で総務課の名田登茂子と行き逢った。突!として登茂子は
あの祇園会の京都から帰った私の所へ登茂子は曖昧に笑いながら慈子の手紙を屈けてきた。封は切ってなかったが
いま烈しくいい
二、三日して慈子は電話をしてきた。家の中であるらしく不用な音響を省いてしまった慈子の言葉だけが鮮明な繪のように耳の底に届いた。口調に変った所はなかった。なつかしげな響きが濃まやかにさえなっていた。
その夕方、私は〝レモン〟の二階で一時間半待って、すっかり諦めた顔で力なく階段を上がってきた慈子と、逢った。ジュース一杯を飲み切るだけの余裕しか慈子にはないらしかった。すっぱいレモンの味が口の中に残っていた。想像を超えたいろんな生活の変化が慈子にはあるらしかった。
満足な話が殆どできなかった。大切な、互いに確かめ合いたいことが幾らもあったようで、それで却って互いにみつめ合うだけで終ったような心残りの多い時間を費し、お茶の水の駅前でさようならといい交してきた。
かつてない身近さと、漂い寄ってくる無気味な
電話はおりおりにデスクへ届いたのである。ようやく同僚にも何かをいおうとする者があった。他でもなく慈子の電話を周囲に気兼ねしながら受けることに私は屈辱を覚えた。慈子ははじめに「今はよろしいの」とかならず訊ねる。そんな遠慮をさせ、そんな遠慮をしてまでも慈子にダイヤルを廻させているまるで別な二つのものをその一声から私は感じた。
慈子、おいで、私の所へおいでと大声でそう呼びたい――。
しかし私の声は低く、叮嚀で、弱々しく体裁を繕っていたのである。世のつねを深く超えたもの――そんなふうに私たちは考えていたであろうに、魔術の溶けてゆくように世のつねの姿かたちで私たちは電話をかけ、喫茶店で逢うというのか――。
十一月最初の土曜日、池袋で逢って、清瀬まで電車に乗った。この電車は私の住むベッドタウンを走り抜けている。清瀬はその町より遠く、私には妻や娘のいる家が電車の窓から小さく確かに見分けられた。だが、あれが僕の家とはいわなかった。
清瀬平林寺裏の
淀屋の家ではアメリカヘゆく話が出ていた。淀屋教援は比較文化史学の国際ゼミナールのために、明春早々にロサンゼルスへ発つことになっている。その際慈子を同行させワシントンへ足をのばして、個人的にも親しいスウェンソンという老教授夫妻の家に一、二年滞留させようかと教授は考えていた。
先方の意向をたずねたり、旅券その他の心用意もしているらしい――、慈子ははきとした返事をしていなかった。ロサンゼルスまでならと
あなた――と慈子は杉の蔭へ入って私を呼んだ。「お名前をつけてあげて」と、細い指で杉の木目に目にみえぬ文字を書いている。慈子にも似たような心の闘いがあるのだと思った。何かしら必死に
〝朱雀宏之〟と慈子は指で書いた。絶えてゆく家のすでに生命絶えた生まれざりし者のために慈子はそんな命名を私に望みながら、遙かな木の間の青空をふり仰いだまま唇を噛んで泣くのだった。「みんなと一緒に住んでいますわ、私たちを待っていますわ」と、私から離れていきながら慈子の優しい肩のむこう側で途切れた声がそれをいった。「よかったと思います。それなのに、哀しいの」ともいった。
秋の午後は遠い所から色を消すように日がかげって、足もとにばかりほっと朱い光がたまっていた。影を踏んで枯れ芝の森の道を帰っていった。電車は空いていた。私の下りるべき駅を過ぎてしばらくして、慈子はそっと頭を私の方へかしげて「御免なさい、送っていただいて」と詫びた。
慈子――、「はい」と慈子は坐り直して私をみた。
近いうちに京都へいって、大学の方の始末をしてきますと池袋で別れ際に慈子はいった。〝京都〟ということばがひびくと、二人の傍を流れる雑踏が瞬間灰色に沈んだ。
その京都四条、花見小路角にある〝農園〟という店で書いていると断わった慈子の手紙は数日後に前触れなくデスクヘ届いた。できるだけ目立たぬようにと撰ばれていても、原稿や校正刷を往来する郵便物と違って慈子の封書は特別なまじり物のように光ってきた。今度の旅ではむりかと思うけれど、あの墓石に両親とお利根さんの名を刻ませたく石屋に相談したと書いていた。書体や石にも依るのだが、とにかく工賃は一文字幾らと勘定するのだとその手紙ではじめて私は知った。もう一度ご一緒にお参りをしたいと書かれてあれば、やはり私は何かのかたちで二人して葬ってやりたいもののことを痛々しく胸凍らせて想わずにおれなかった。
農園へは友だちと一、二度きたことがあります。この近所にその人は住んでおります。それで、ひょっとするとあなたのお家とお隣り同志なのかもしれないなどと思い、それが懐しくて、墓参りの帰りに落ちついたこの店へきてお
大学のことは決心がついていないのですよ。金田教授はせめて籍を残して休学にするか、できれば今年の単位だけでもとっておいたらと仰言います。古瓦の為にもそうしたいと思うのですが……。
七
東山は
岩田磬子の結婚通知が届いていたのは九月下旬であった。動め先に比較的近い駕籠町のマンションに住むらしいことを心にとめたが新しい姓も覚えていなかった。妻はふしぎな御縁ねえと葉書をながめていたが、なるほどそんな感想を
磬子の夫は結婚すると二ヶ月たたぬうちに社命を受けてどこだか東南アジアヘ赴任してしまった。一年ということなので留守番をするはめになっていると磬子は話した。よく似合う和服なので、それだけでも目立った。赤門前のそう人ごみしない喫茶店へ案内してみたが、磬子の心ははかりかねた。
はじめて逢って一年経たないが、正月に感じた岩田磬子のことが秋の
お茶の先生をしたいと思うが、何を心がけて用意したらいいか教えてほしいと頼まれた。似たような相談は
朧ろであったとはいえ、磬子と逢った時から姉良子の面だちを忘れていった。大機院の
磬子の部屋からは昏く底籠もった小石川
佳い風炉釜が据えてあった。磬子は平点前で食後に手早く茶を点てた。直して下さいといわれ、気のついた手癖を一つ二つ注意した。だが、巧いものだった。その巧さが磬子を守っていた。私は謹直に話し、やがて辞した。「今度はいつお目にかかれますかしら」と温和しくいう。何をしにここへきたろうと思い、磬子の穏やかな微笑にも私ははじかれるような心地でマンションの階段を急いで下りた。大塚から護国寺への急な坂が乗ったタクシーを激しく揺すった。
年の初め私は、今年はとも思わなかった。奇妙な放心状態だったのかもしれない。磬子と大機院で逢ったのは、やはり何かしら今年を暗示する出来事であったように思える。晩れてゆく一年の目くるめく推移が殆ど家庭を離れてあったのは奇異なのだろうか。妻も娘も穏やかな当たりまえな極く普通に過ぎてゆく今年と思っているはずなのを、私はやはり奇態に意識した。しかし、私の知らぬ、妻の、娘の、別の一年があり得てもいいので、そこまで私にはみえていないのかもしれない。妻との一年は平和だった。それが私たちの現実で、心の奥へ拡がるもう一つの世界とは別のものだ。それでいいのか、いけないのかと私は問わない――。
徒然草、どうなっていますのと慈子に訊ねられた。
兼好考を建前に、自然と朱雀先生の内部に光を当ててきたかの思いを私は抱きはじめていた。慈子を東京に迎えたものの、頻りに佗びしく遠ざかりゆく予感がする頃になって、この
兼好はなぜ徒然草を書き初める気になったか――。これが朱雀光之先生の問いかけだった。ちょうど一年前、雪の墓参の頃から湧き水のように底白く光ってくるこの問いかけを私は自分自身の問いにしてきた。お利根さんの〝死なれた〟という傷嘆の声が物語めいた想像の糸をかすかに
徒然草の中に巧みに隠された法師兼好の人間的秘密は徒然草全篇の価値を勿論何ら損いはしない。徒然草を書こうと思い立った時の兼好、三十六、七歳の兼好は、まだまだ生々しい青年の気風と共にそれを枯淡なものにさせてゆこうとする諦観の深みをも兼ねはじめていたと考えていいだろう。やがて兼好は小野庄を手ばなす決意を固める。それは、ようやく〝従者の眼〟からもがき遁れた兼好の〝魂の眼〟が、最初に見出した意味の深い決定であったかもしれない――。
〝斎王〟を徒然草の焦点ではないかと思い、朱雀先生の〝いまはなき人〟とはこの斎王に至る副人物であろうと推定していた時は、まだまだ先生の〝ただあれだけの感想〟を超えてゆけるものと私は自負していた。束の間の自信だった。先生には先生の〝斎王〟があり、斎王と〝いまはなき人〟とは一重ねだった。
遅れて届いたあの七月十一日付の部厚な手紙をときどきとり出して読んだ。
梅雨あけの空が京の町を
道が雨上がりにしるくなるにつれて渓川は清らかさを増すようです。西に
三千院下でバスを下りますと山川添いに登り坂です。水車が水草に絡まれ、小さな畑を
〝蛍籠とうから夢とけじめなく〟とあやまり読んでいたことも慈子の手紙で私は知った。〝とうから〟と、〝どこから〟と、どっちが深い意味に添うか私には分らないが、今でも〝とうから夢とけじめなく〟との嘆息をふりすて
慈子は三千院の裏山から岐れて鳴り響く
なぜでしょうか。なぜ私は雨の匂いのする大原の里へ無二無三に参ったのでしょうか。加茂大橋の
話したいことがあると、お利根さんはやっぱりいっています。話される中味より、「話す事がある」というそのことにからだが震えます。震えながらお呼びしています――。
お逢いしたい。いつもお傍にいたい……。がまんできません。書いているだけで
きっと今夜は嬉しいのですわ。なぜって、この二十三日に東京へ参ります。東京……、決して好きな街ではないのに、いつから私はこの「東京」を呟くたびに熱くなるようになったのでしょう。
読みかえしません。息をつめて慌てて封をしますわ。読みかえしたらきっと裂いてしまいます。その方がいいのです。でも、それではこの慈子が裂けてしまいます――。
慈子の口はしっかり
この手紙を読まずに、夏、京都へ発たねばならなかったことがどんな隙間になっていたか、よく分らない。秋の京都で一人過ごしてきたあと、慈子はすこしずつ
このような日常を本意なく佗びしく思うらしく、家の外からかけてくる電話では、抑えた話しぶりにもすこしずつ慈子のはっきりした気もちが伝えられていた。大学を半途で投げ出すのも厭だし、そうする理由もないと思うのである。古瓦の拓本も集め歩いていた。文献も河原町や寺町の古本屋に探させたほどで、面白いのが何点か手に入っている。
何より慈子を渋らせているのは、やはり私たちのことだった。東京へきてしまったのはよくなかった、あの家でもう少しお利根さんと
十二月になった。格段の忙しさだった。逢う時間がなかった。歳末をとりまとめの編集会議や忘年会がつづき、取材の穴理めで残業になる日が重なった。パパの顔をみないで寝てしまう娘は朝起きるとすぐ不足をいった。「ガマン、ガマン」と笑いながら妻は、もうすぐお正月で京都へ帰るんでしょと娘の鉾先を和らげ、これビタミンよ、これはお酒の前に呑むのよとポケットに薬の用意も欠かさない。「でも、十日は大丈夫よね」と念を押された。まちがいない、十五日のボーナスもまちがいないと私は請け合った。
十二月十日は婚約した日なのである。結婚式のなかった二人には、婚姻届出日よりこの日を
温かいということが家庭的ということかのように、婚約記念日はよく晴れていた。
家具、漆器、木工、文房、竹具、織物など美しい限りの美しさを誇らかに
会場の一角を小柴垣で囲って
娘も温和しくなったしもう一まわり見直してゆきたかった。木工の〝たる源〟は親しい知り合いであり、
高島屋のぞいてくるつもりさと朝の電話を切った時も、「そうなの」と言葉すくなだった。慈子の眼は私をさがしていた。ハンドバッグが不安げに揺れ、胸へあてている手がとても白く美しい。呼ぼうとして、はっと口のなかで慈子という名が
「ひどいわ――」
私はそう聞いた。慈子は、あかくなって、
>
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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