なぜ高村光太郎なのか
電子文藝館招待席に「高村光太郎作品抄」を、最初は2006年末か2007年初頭に提案して、委員会の了承を得られた。当時の電子文藝館委員会委員長からは『戦争文学全集』(集英社)の光太郎戦争詩のコピーや鶴岡善久氏の評論のコピーなどを頂戴して、大いに励まされた。しかし、実際に形になったのは2008年の10月になってからである。
「作品抄」には『道程』より「冬が来た」、「道程」、『智恵子抄』より「人に」、「樹下の二人」、「人生遠視」、「千鳥と遊ぶ智恵子」を選び、さらに太平洋戦争中の詩と敗戦後の詩を選んだ。太平洋戦争中の詩には「十二月八日」、「真珠湾の日」、「彼等を撃つ」を選び、最後に評論「戦争と詩」を置いた。敗戦後の詩としては「終戦」、「報告(智恵子に)」、「わが詩をよみて人死に就けり」を選んだ。
これらの詩、評論を選んだ意図は、「高村光太郎ほどの男がなぜ?」という思いである。もちろん、光太郎以外にも当時の多くの詩人が戦争賛美詩を書いた。その中でも光太郎は日本文学報国会の詩部会長に就任し、際立った動きをしたのみならず、戦後は、他の多くの詩人が口を噤んでしまった中で、詩によって多くの若者を死に追いやった自責の念から岩手県の山村で自炊の生活を送ったのである。立派な男だと思った。戦後創設され、私も会員である詩人団体の創設会員であったことも、招待席に作品抄を載せたいという動機になった。
詩は本来、他に比べて批評意識の強い分野であると思っている。初期の光太郎は欧米留学を通じて、特にパリでは強い批評精神が培われている。それがなぜ易々と戦争讃美詩を書いたのか、その精神構造が判らないだろうかと思った。そこが判れば、付和雷同しがちな現在の我々への警告になるのではないか…。光太郎研究は数多く行われてきたが、その面での解明は意外に少ないようにも感じていた。
戦後、詩人の戦争責任がある意味ヒステリックに論じられた時期があった。それはそれで必要なことだったとは思う。しかし戦後60年を過ぎた今、弾劾の季節は終わって、同じ過ちを繰り返さないためにも、詩人が批評精神を失くしていくのはなぜかが問われなければならない時期に来ているのだと思う。それを自由に発想でき、書けるのは、戦争も戦後も知らず、冷静に見つめることができる我々の世代だろう。70年安保の反権力パワーは、その後の高度成長期に行方不明になってしまったが、光太郎を読み直すことで所在が判るのではないか、とも思っていた。
この掲載に対して、声を出せない故人の負の部分を公表すべきではないという意見があった。それはそれでもっともな意見だろうが、私は違うのではないかと思っている。やっていないことを弾劾しているのではない。光太郎自身が「暗愚小伝」として1947(昭和22)年の『展望』19号に書き、しかも3年後には詩集『典型』で再録していることなのである。『典型』の「序」では、「これらの詩は多くの人々に悪罵せられ、軽侮せられ、所罰せられ、たわけと言われつづけて来たもののみである。私はその一切の鞭を自己の背にうけることによって自己を明らかにしたい念慮に燃えた。私はその一切の憎しみの言葉に感謝した。私の性来が持つ詩的衝動は死に至るまで私を駆って詩を書かせるであろう。そして最後の審判は仮借なき歳月の明識によって私の頭上に永遠に下されるであろう。私はただ心を幼くしてその最後の巨大な審判の手に順うほかない」とまで述べている。立派な詩人だと思う。
戦争詩を書いたか書かなかったかというレベルで光太郎を考えているつもりはない。作品に対する取り組みの深さに感動しているのである。私は戦争を体験していないが、戦時中に光太郎詩を読んだら、勇んで戦地に行ったかもしれない自分を発見しているのである。その言葉の持つ真摯さに感激する。それほど詩を深く見つめる光太郎だからこそ、戦後はその〝暗愚〟を深く内省したのだろう。ある意味では狂気に至る詩の怖さを感じさせる。それを光太郎詩は我々に示しているのだと思う。作品抄は、同じことを繰り返すなと言っていると思っている。
防衛庁が防衛省になり、海外派兵が現実となった現在、没後50年の高村光太郎はどのように我々を見ているだろうか。真摯に光太郎詩と向き合うことで、我々の現実に向かう姿勢も問われるのだと思う。高村光太郎の戦争詩を隠蔽することは光太郎自身が望んでいないし、正しい道ではない。
著者ホームページ:ごまめのはぎしり
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2009/06/12
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