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風の鳥瞰

 耳もとで風が鳴っている。右の耳と左の耳とでは風の音色が少し違って聞こえる。どちらもゴウというふうに聞こえるのだが、多少、右を抜ける風の方が高い音だ。風が向きを変えたのかも知れない。コントロールバーの右手を引いた。身体がハーネスの中に食いこんでいく。ハンググライダーはゆっくりと右旋回を始めた。

 眼下はほぼ緑だ。この山は冬はスキー場になっているが、今は雪もなく芝がいっせいに青い葉を太陽に向けている。ゲレンデの端にリフトが赤錆びたまま伸びている。黄色い何百というベンチが揺れている。二列に並んで止まったままのベンチは風が吹くときだけ冬の生命をとりもどしているようだ。裾野から頂上へと点々と続く鉄塔の向こうに、ゴルフ場が広がっている。その芝はゲレンデの芝よりも輝いて見える。幅の狭い林で区切られたコースが複雑に入り組んでバンカーだけが白い。キラリと一瞬反射したのは、ゴルファーの振り降ろすクラブだ。腹の出はじめた男は管理された芝の上を大股で歩いているに違いない。

 北村浩二はもう一度コントロールバーを引いた。右旋回を始めた機体がニュートラルポジションに戻っていく。安定している。ゆっくりと下降しているが風を真正面に受けて、セールがバタバタと規則正しく鳴っている。浩二はこれでしばらく楽しめるなと思った。このままなら五分や十分は何もしないでもまっすぐ飛行するはずだ。上を見た。セールを通した太陽の光は淡い。その光がセールの青や赤や黄色をすかして浩二の身体を包んでいる。ワイヤーにしばりつけたピンクのリボンが目の前で泳いでいる。それはともすればワイヤーから離れて勝手に泳いでいるように見えた。リボンはテイクオフに必要なだけだが、こうやってステンドグラスを通したような光の中にいると、もう一匹の生き物のように思えた。光と風の中の浩二とリボン。リボンはかつてはケンのものだった。

 

「グッド・ランディング。でも早かったのね。もう少し飛んでいるのかと思ったわ」

 息を弾ませながら道子が走ってくる。

「うん、ケンの奴のこと思い出しちゃってね。少し休んでからまた飛ぶよ」

「そうね。今日は風もいいみたいだから、休もう休もう」

 浩二がヘルメットとハーネスを外している間に道子はコントロールバーをたたんでいる。芝と雑草の境にハンググライダーはペったり伸びたような格好で置かれた。ヘルメットとハーネスが翼の中に放り込まれた。ついでに浩二は地面に両手をついた。そうやって地面のぬくもりを感じた。掌に芝がチクリと刺さる。しかしその下には土の感触と臭いがあった。今朝さわったときのような水分はない。

「上がだいぶあったまってきたな」

「そうよ、だってもう十時近いのよ。下で見てると暑いくらいよ」

 足元で歩くたびに芝やら雑草やらが足の分だけ沈んでいく。そしてすぐに元に戻っていった。浩二はその弾みがうれしかった。やっと長かった冬が終わったのだ。

「もうそんな時間になるのか。降りてきてちょうどいい時間だったのかな」

「そうよ、あんたは飛び出すといつまでも飛んでるんだから。まるで、もうこれっきり飛べなくなるっていうみたいにガツガツしてるんだから。もっと優雅にやんなさいよ」

「別にそういうつもりで飛んでるんじゃないよ。ただ俺はね、飛んじまったら降りるのが面倒くさいだけなんだ。だいたい君はだね、いつもそうやって俺のこと…」

「わかった、わかった。わかったからそんなことより早くコーヒー飲みに行こう」

 道子は笑いながら走り出した。コットンのスラックスが揺れている。丸い肉づきのいい尻がジャンプしながら走っている。Tシャツの袖が揺れて陽焼けを始めた腕が健康な道子の肉体を語っているようだ。浩二は走る道子を見ながら裸体を思い出した。

「早くおいでよ」

 ふりむきながら道子が叫ぶ。

「ちきしょうめ」

 浩二も走り出した。足の下で雑草が折れていく音がする。スニーカーが心地よく土にくいこむ。太腿の筋肉が伸びて縮む。手をあててみた。筋肉が手の中で別の生き物のようにふくらんでいた。道子の太腿も今こんなふうに弾んでいるのだなと思った。

「待て」

「嫌だよ、ここまでおいでだ」

 道子が舌を出してふりむいた。逃がすものか。浩二は両手をふり上げて走った。道子の足元で鳴る雑草の音が聞こえる。ザワザワと道子の足の動きにつれて鳴る雑草。その音が浩二のものと一緒になった。

「ほら、つかまえたぞ」

 道子の肩に手をかける。

「助けて」

 道子が大仰に叫ぶ。

「誰も助けなんか来るもんか」

 浩二は道子の肩を引き寄せた。もつれこむように二人は倒れた。草が頬に当たる。青臭い臭いがした。道子のあえぐ息があった。

「バカ、転んじゃったじゃないの」

「ハハハ、でもこうやって草の中にいるのもいいもんじゃないか」

 浩二の右手が道子の胸に這った。あまり大きくもないが、ちょうど掌に入る弾力があった。

「なあ、もう寝よう」

「バカバカバカ、何言ってるの昼間から」

「もう飛ぶのやめた。寝よう寝よう」

「ダメ」

 道子がパンと飛び起きた。縞模様のTシャツの肩に枯れた草がついている。浩二も同じように飛び起きると、それをはらった。それからゆっくりと肩に手を回した。足元で二人分の草が踏まれていく。道子の肩が汗ばんでいる。首筋に手をかけると、浩二の手の汗と道子の汗が何のためらいもなく溶けていった。

「ねえ、さっきケンのこと思い出したって言ってたけど、やっぱり忘れられない?」

「そりゃそうだよ。もう一年たったけど忘れることはないみたいだよ。本当は忘れてもいいんだろうけどね。飛んでるときに限ってふっと思い出すことがある」

 ケンの本当の名前は知らない。この山に来て初めて会った男だ。名前を知らなくても他の誰ともそうなるように、フライヤーということで親しくなった。フランス製のハンググライダーを持っていた男だった。腕は浩二よりも上だった。きりもみから立ち直るような男だった。いつもケンの技術を盗んでやろうと見ていた。白一色のグライダーにもあこがれていた。浩二の日本製のものとはどことなく風格が違っていた。ノーズ角は今はやりの広いものではなく、それよりやや狭いものだったが、気品があった。ああこれがフランス人好みなんだなと思っていた。そのケンが死んだのは一年前の五月だった。

 

 浩二の前をケンが歩いている。ケンが歩くというよりはグライダーが歩いていると言った方が適切だ。グライダーに隠れてケンの身体は膝から下ぐらいしか見えない。グライダーに足が生えているようだ。ノーズを下にして逆三角形に足がついている。それがユサユサ…ガクンガクンと歩いている。ケンが一歩前に出るたびに空気がセールにはらむ。ちょうど大きなうちわであおっているように空気を押しながら歩いていく。その後を浩二が追っている。身体の大きなケンに浩二はなかなか追いつけない。コントロールバーが肩に食いこんでくる。背負うグライダーの傾きをわずかに変えるだけで空気の抵抗が違ってくる。いちばん抵抗の少ない傾きを保とうとするのだが、歩くたびに角度が変わってくる。それをケンは無視して力で持っていける男だ。

「コージ、風向きが変わったぞ」

 先に丘の頂上に着いたケンが叫んでいる。浩二は中腹にグライダーを置くと、ふもとを見た。ゲレンデのふもとには野生化した芝と所々に背の低い潅木がある。その真中をジープ道が横切っている。道端に吹き流しが立てられていた。口の部分が白く尻尾が赤いふき流しはこちらに赤い部分を向けていた。上下左右に、白地は小さく赤地は大きく揺れていた。風が丘を登ってくる。ランディングエリアから吹き上げてくる風は浩二の顔に当たった。それはまぎれもなく真正面の風だった。

「いい風じゃないか」

 浩二は下からどなり返した。

 ケンはかがんで草をむしり取ると、それを頭の上に放り投げた。生まれたてのうす緑の数本が不器用に身をよじりながらケンの後に飛んで行った。丘の斜面からまっすぐに吹き上げている風だ。草の流れる方向といい速度といい、申し分ない風だ。ケンは機体を見渡した。セール、スパー、キール、コントロールバー、バテン、全て異常なしだ。カラビナを機体に着ける。スーッとグライダーのノーズが上がった。グライダーは翼を水平にした。コントロールバーが地面に着いていて、その真中にケンは腰をかがめている。斜面を見ている。これから走るべき斜面を見ている目は何か思いつめたような光を放った。飛ぶコースを頭に描いているようだ。グライダーが動いた。ケンは立ち上がった。両手でがっちりとコントロールバーを持っている。両足が広げられた。グライダーの左右をチラッと見た。それから再びまっすぐ前に頭が向けられた。ケンの身体が前に傾く。片足が出る。グライダーがグッと前に動く。次の瞬間、ケンは走り出した。大地を蹴る音がドッドッと響く。グライダーが浮き上がった。走り始めた貨車に飛び乗るようにケンは走った。コントロールバーを腹に抑えこむ。ザーッと空を切る翼の音が浩二の耳に届いた。

「うまいもんだ。万全のテイクオフだ」

 浩二はつぶやいた。テイクオフがうまくできれば飛行の80%は成功したようなものだ。グライダーはまっすぐに進みながら高度を上げていった。思ったより風の状態がいいようだ。動力を持たないハンググライダーは本来自分の飛び出した地点より沈下するしかないのだが、風さえあれば上に行ける。とんびのように翼をいっぱいに広げてケンのグライダーはだんだん小さくなっていった。リッジが出ているようだった。斜面上昇風とも呼ばれるリッジは、うまくすると山の幅以上出ているときがある。そうすると幅数キロに渡って上昇風の帯となり、そこで遊んでいることができる。この丘はせいぜい300~400mの幅しかないが、それでも充分リッジ・ソワリングを楽しむことができる。ケンは左右に小刻みなターンをしながら高度を上げていった。150mほども上がっただろうか。グライダーは旋回を始めた。リッジのパワーがなくなって、もうそれ以上は昇れないのだ。あとは旋回しながら高度を落し、再びリッジをつかまえてまた昇るということをしなければならない。とんびのように大きく回っているグライダーが陽の中に入る。そうするとグライダーは太陽にかくされて一瞬見えなくなる。次に太陽の中で金色に輝く物体になり、それからまた姿を現わした。青空の中で蝶のように光った。だが蝶のようにせわしなく羽を動かすことはない。翼をいっぱいに広げた鷹のように悠然としている。突然変異を起こした大きな鷹だ。ケンはその翼の中で下界を見渡しながら風の歌を聴いているのだ。浩二は重い機体を運んできた疲れが急に消えていくのを感じた。

「よし」

 再び自分の機体に戻るとかつぎ上げた。さっきよりはいくぶん軽くなったようだ。だが足元の芝は確実にグライダーの重さ分だけへこんでいく。しかしそれも快いと浩二は思った。自分の翼だ。自分の翼の重みだ。

 グライダーをテイクオフ地点の真中に置いた。息が弾んでいる。いつもそうだ。何度飛んでも飛ぶ直前というのは息が弾む。だがケンならそんなことはないのではないかと思った。あまり表情に変化はない。いつも大きく表情を変えない男だから、顔に出ないのかもしれない。それでもケンの目だけは光ってくるのがわかる。やはり同じことなんだなと思った。

 グライダーのまわりをぐるりと回った。セール、ワイヤー、パイプすべてOKである。三点支持で置かれているグライダーの中に入りこんだ。ノーズを持ち上げる。風が急に入ってきて浩二の全身をとりまいた。風がセールをバタバタと打ちながら通りすぎていく。目の前には新緑が息づいていた。名も知らぬ草が頭をいっせいにこっちに向けて揺れている。真正面の風だ。風速10メートル程度、絶好の吹き方だ。その下にはずうっと斜面が続いている。ここは冬スキー場の中級者用ゲレンデとして使われている。平均斜度15度程、最大斜度30度ぐらいだろうか。ここがそうだ、ここが30度の斜面だ。スキーをするときのスタートとは違った興奮を浩二は感じた。それから斜面の一番下にはほぼ平らなランディングエリアがある。その真中の吹き流しがシラスのように小さく見える。あの赤白のシラスが風向きを刻一刻とフライヤーに知らせてくれる。吹き流しが一本立っているだけでいかにも飛行場という雰囲気を漂わせている。ハーネスに着いているカラビナを機体につなぐ。カチッと小気味よい音をたててくいついていった。もうこれで浩二とグライダーは一身同体だ。セールは羽となり浩二はバランスを保つ重りとなって一つの飛行物体ができ上がったのだ。あとは走るだけで飛行する。浩二はこの瞬間が好きだった。カチッという音を聞いたときから自分が別の生物になったような気がした。変身するには何かきっかけが必要だ。浩二の場合それは音だった。

 グライダーを持ち上げる。両腕にその重みがグッと伝わってきた。ノーズを3cmほど持ち上げてやった。風がセールの下に入りこみ嘘のように機体が軽くなった。これ以上ノーズを上げると、今度は風にあおられてしまう。いい位置–ニュートラル・ポジションだ。だがちょっと気を許すと風はグライダーをひっくり返そうとする。そのたびにノーズをほんの1cmか5mm上下させてやってニュートラルをつかむ。もう大丈夫だ。もうこれで今日の風のニュートラルが判った。風が線になって浩二の身体を通りすぎて行く。風の流れが目に見える。そう思える日は浩二の身体のコンディションがいい証拠だ。グッと奥歯をかみしめる。上体を5cmほど前に傾ける。機体が前につんのめりそうになる。今だ。浩二はもっと大きく上体を前にやった。それからすぐに右足が出た。左、右、ドスンという地響きが身体全体に伝わってくる。自分の体重がいつもの数倍にも感じられる。風がグライダーをあおろうとする。さらに力を入れる。四歩目、それから五歩目。もう風にさからえない。全身がグーッと後方に引きずられるような感じを受けた。六歩目、足が地面に着いていない。ぶざまに両足とも空回りしている。浮いた。

 それはちょうど波に乗っているのと似ている。平泳ぎで沖をまっすぐに見ながら進む。遠くで波頭が砕けて白い花が咲いたように見える。そいつに向かって泳ぐ。次から次と上下しながら波が向かってくる。身体はそいつに弄ばれながら上下していく。グーッと持ち上げられて水平線が見える。次の瞬間には急激におし下げられて青い波しか見えない。飛び出したばかりのグライダーはそれと同じだった。翼全体に風をはらんだかと思うと、機体はいっペんに高度を上げた。そしてすぐに風が弱くなるとフワリと下降を始めた。浩二はコントロールバーを引いた。グライダーはスピードを出して下降していく。そして弱い風を翼いっぱいにためて再び上昇を始めた。風の波の中で浩二はピッチングをくり返しながら徐々に高度を上げていった。

 ケンはどこにいるのだろう。浩二はあたりを見渡した。だが下と左右しか見えない。その視野の中にケンはいない。きっと上だ。上を見上げるが大きなセールにじゃまされて何も見えない。セールが太陽の光に透かされて淡い色彩になっている。原色の赤や黄色が白味を帯びている。飛ぶたびにその色彩は違っている。今日が一番きれいな色だと浩二は思った。太陽の光は強い方がいい。ケンの翼の中はどうなっているんだろうか。ケンは真白いフランス製のグライダーだ。その中はどんな色彩になっているのだろう。白だから色彩なんかありはしないけど、何か別の色合いがケンのグライダーの中では見えるような気がした。それは空気の色かもしれない。

 風が耳もとをかすめていく。いや、かすめるなんて生やさしいものではない。吹き抜けていくのだ。まるで風洞実験室の中にいるように耳を打っていく。ゴウゴウといつまでも長く続く。それは強い音だが、しかし安定した音だ。浩二はこの風の音、身体に受ける風の抵抗でグライダーの状態を知る。それは動物的な勘のようなものだ。顔の左右に受ける風のわずかな強弱で一瞬でも早く風向を知ろうとする。鼻をぴくつかせ風の臭いをかぎとる。吹き抜けていく風の臭いはほとんどの場合無臭だが、時として甘い臭いを突き刺すことがある。それは女の臭いと同じような気がした。そう思える日はコンディションがいいのだ。浩二はその臭いをかぎながら、ゆっくりと下を見た。浩二が飛び出した斜面が広がっている。真中に巨大な三角形をした斜面、上が10mほどで裾野が幅200mほどに広がっているゲレンデだ。

 いま、浩二は誰にもじゃまされない大空にいる。いや、そうではない。ケンがいる。浩二はもう一度あたりを見渡した。ハンググライダーから水平に吊るされた身体ではそう自由が効かない。頭だけをゆっくりと回していった。見えた。斜め後を横目でにらんだはじっこにケンのグライダーの翼が片側だけ見えた。50mほど後だ。リッジのパワーがなくなって一度下降したところだろう。これからもう一度リッジに突っ込む気だ。浩二もその後に続くことにした。大きく旋回して斜面に向かった。ケンのグライダーがはっきりと見える。白い翼を白鳥のように広げている。左端のCABINの赤文字が鮮明に読める。ケンは丘の頂上に向かっている。滑るように丘に近づいている。左にターンした。左斜め前に突っこむような形でターンしている。と思うと急激に上昇しはじめた。セールの下に隠れていたケンが今度はこちらに向いている。コントロールバーを腹の下まで押し下げて、まるで鉄棒に乗っているようだ。白いヘルメットの中の陽焼けした顔が笑っている。視線が合った。何か叫んでいるが聞きとれない。たぶん早く来いと言っているのだろう。そのまま横滑りをするような格好でケンは高度を上げていった。もう浩二の視野から外れた。だいぶ上がっていったようだ。200mぐらいは上がったのかもしれない。いい風だ。いいリッジになっている。浩二も斜面をめざした。追い風に押されるようにスピードを上げた。機体が心もとない。何の重量感もないような感じだ。まるで真空の中を飛んでいるような気になる。だから追い風は嫌なのだ。下手をするとこのまま失速する。浩二はコントロールバーをグングンと引いた。追い風に負けないスピードが必要だ。丘だ。丘の頂上に来た。スピードを殺す。一瞬耳元の風が無くなった。エアポケットのような真空状態。今だ。浩二は体重を左にいっぱい持っていった。一瞬止まったグライダーがガクンと左に傾く。と同時にグンとノーズが持ち上げられた。ハーネスに身体がくいこむ。重い。さっきまでの無重量感が嘘のように吹き飛んでいく。両腕に思い切り力をかけた。斜め後に押し上げられるような格好でグライダーが一気に高度を上げた。風だ。風が塊りとなって浩二にぶつかってくる。息ができないくらいの風量が浩二をおし包んだ。息を詰めながら高度を上げていった。

 ケンが左横に見える。リッジのパワーとグライダーの沈下速度とがちょうどつり合ったところに来たようだ。ケンのグライダーも動かない。ほとんど静止したように丘の反対側の山に向かっている。耳もとの風を聞いているといかにも速く飛んでいるような音だが、まったく動かない。これでちょっとノーズを下げてやれば急激に動き出すのだが、しばらくはそのままでいることにした。ケンと浩二のグライダーが二機とも大空で静止している。下から見るとちょっと異様な光景かもしれない。下にはランディングエリアを取りまいて三十人ほどの人たちがいる。家族連れでいたり、ペアでいたり、思い思いのピクニック気分だ。やはり赤い服を着た人が一番よく目立つ。青い草原に赤いシャツやトレーナーが点々と咲いている。丘の中腹ではこれから飛ぼうとするグライダーが黙々と登っている。もちろん上からはグライダーの中のフライヤーが見えない。大きな蝶が丘にへばりつくように五、六機登っている。今ごろフライヤーは汗だくになって機体をユサユサとゆらしながら持ち上げているに違いない。彼らがいっせいに飛び出したら、この静かな山あいもにぎやかな航空ショーになることだろう。

 高度200m。新宿副都心の超高層ビルよりもさらに高い所で、空中に貼りついている浩二とケン。しかもビル風などという乱気流の無い、安定したリッジのまっただ中だ。遠くに噴煙を上げている高い山が見える。その向こうはかすんで空と山との区別がつかない。雲が手に届きそうに近い。かすかに光っているのが湖だ。湖に続く川は山と山との落ちこんだ間を流れているはずだ。近くの山肌は植林された針葉樹が規則正しく並んで樹木の高さを隠している。それからこちらが枯れ葉色の丘だ。丘の中腹に別荘の赤い屋根が点々と見えている。赤い屋根に灰色の四角い大きな煙突、あの下はきっと暖炉だ。丘の下がランディングエリアになっている。幅100m、長さ200mの長方形のエリアだ。もちろんまっ平な場所ではない。丘と丘に挟まれた小さな盆地のような所だ。その南端が駐機場になっている。十機近くが思い思いの格好をして停っており、思い思いの色づけをされている。そのさらに南が駐車場。山道をほこりだらけで登ってきた車が置いてあり、ここからもくすんだ色あいが見える。その中で最も汚れたジープが浩二の愛車だ。頭を半分林の中に突っこんでプラモデルのように見えている。それから反対の北側がもう一つ小さな丘で、ジープ道がだらだらと奥山へ消えている。風が鳴っている。いつ切れるともわからない長さでいつまでも耳元で鳴り続いている。風は常に浩二の頭から肩、腕、腰、足、それからスニーカーをはいた足元へと順番に流れていく。風がすべてだった。グライダーから吊り下がって、上半身を反り身にして浩二は風の口笛を聞いていた。

 何で飛ぶのだろうかと思った。いつもではないが時々そう思う。どうして山へ登るのかという質問と同じで、答は決まっているのだが、ふと無性に本当の答を知りたくなるときがある。今もそう思った。こうやって大空に貼りついていることは、物理的には風とグライダーとのバランスの問題なのだが、そんなハードのことではない。ソフトが知りたいのだ。降りてゆっくりコーヒーでも飲みながら考えてみようかと思った。ケンにも話してみよう。ケンとそんな話はしたことがないけど、たまにはいいだろう。本当のことっていったい何だろう。浩二はそれは風かもしれないと思った。風に身をまかせ風の歌にひたりたくて飛んでいるのかもしれない。風はリズムをもっている。浩二がコントロールバーを強く引けばグライダーは急激にスピードをつけ、何も聞こえないほどのうなり声を耳におしつけてくる。いや耳ばかりではなく身体全体にだ。そしてコントロールバーをちょっと押し出してやると、風はうなり声をやめてブウブウブウと耳元をかすめる。そうやって風にリズムをつけて、浩二は風とともに大空を散歩しているのだ。ここでは太陽でも雨でもない、風だけが唯一の味方だ。そうやって風の歌を聞いて一体感を感じたいだけなのかもしれない。ちょうど台風の夜に無性に外に出てみたくなってしまう気持ちに通じている。ふるえながらも雨戸をたたく風の音を聞いていた子供のころを思い出した。

 ケンのグライダーが近づいてきた。横滑りしながら20mぐらいまで近寄ってきた。何かしゃべっている。風に消されて聞きとれない。笑っているから、たぶん最高じゃねえかぐらいのことを叫んでいるのだろう。白いセールの下で陽焼けしたケンの顔はおだやかな光を放っている。ふいにケンが片手を上げた。手をふった。

「バカなことするな!」

 驚いて声を張り上げたときにはもう手はひっこめられていた。何という奴だ。フライト中に片手になるとは。車の運転とは違うんだ。しかしケンは相当リラックスしているようだ。普段は慎重な男だが久々のフライトでよっぽどうれしいんだろう。

 疲れを覚えた。どのくらい飛んでいるのだろう。三十分、いやもう一時間近いかもしれない。ハーネスに抑えつけられて胸が苦しい。腕と肩の筋肉がガチガチに固まっているようだ。同じような風の音を聞き続けていて頭がボーとしてきた。息苦しい。こんなにたくさんの空気が取り巻いているというのに空気が足りないようだ。血液の鼓動が聞こえる。浩二は一度降りることにした。

 リッジを離れるとグライダーは下降を始める。大きく弧を描きながら降りていく。直径100m。人間のつくりだす雄大な螺旋だ。地上の風景が刻々と変わっていく。ゴルフ場が見え、別荘が見え、リフトに変わっていく。それからまたゴルフ場だ。ジェット機のような金属音もなく、プロペラ機の腹に響くレシプロエンジンの音もない。浩二の耳にはもちろん風の歌が聞こえているが、地上の人たちにはそれは聞こえない。何の音もなくゆったりと旋回しているように見えるだろう。事実浩二は疲れ切った身体であったが、ゆったりした気分で降り続けた。高度100m。この辺までならゆったりと降りていける。万一何か異変があっても、この高度なら態勢のたて直しがきく。だがこれから先が問題なのだ。一般の航空機もそうだが、事故の八割は着陸時に起きている。浩二はグッと奥歯をかみしめた。80m、グライダーはまだゆっくり降下していく。50m、コントロールバーを抑え続ける腕と手首が痛い。ランディングエリアの吹き流しが見える。相変らず尻尾を丘に向けている。40m、旋回をやめた。これから先は180度のターンを何度かくり返して高度を落とす。30m、もう展望が効かない。低い潅木や若草が風になびいている。20m、もう後もどりできない。この高度まで降りたら後は着陸するしかない。10m、人の顔がはっきり見える。カメラを構えている男がいる。そうだ、いいシャッターチャンスだ。高空を飛んでいるハンググライダーを撮るより、離陸寸前か着陸寸前を撮るほうが気がきいている。どんなにうまい奴でも離陸と着陸は神経を使っている。その顔つきを狙うのだ。5m、機体が小刻みに上下する。地表の乱気流をひろった。2m、浩二は身体を起こした。風がまともに身体にぶつかってくる。草がスニーカーに着きそうになるがまだ着かない。檻に両手でぶら下がっている猿のような格好で地面をめざす。1m、数本の背の高い草がスニーカーにぶつかってくる。そのまま、そのまま。今だ。グッとコントロールバーを押し上げる。セールがいっぱいに風の抵抗を受けて、ガクンとグライダーが落ちた。足元に大地の感触が帰ってきた。チョコチョコと二、三歩あるくとグライダーは完全に止まった。筋肉が一度にほぐれていく。いや逆に固くなっていくと浩二は思った。気分的には筋肉がほぐれていく感じなのだが、実際には急に固くなっていく。緊張がフッとゆるんだ瞬間に、首といわず肩、腕、腰が強い力で握られたようにコチコチになっていく。ハーネスを脱ぎ捨てると浩二は地面に大の字になった。煙草を一本取り出す。吐き出された紫色の煙が風にちぎられてすぐに消えてしまった。飛びながら吸ってみたいものだと浩二は思った。煙草をくわえながら大空を散歩する。これ以上のぜいたくはない。フッと口元がゆるんだ。

 ケンもそろそろ着陸する気らしい。リッジから抜けて弧を描き始めた。晴れ渡った五月の空にケンのグライダーが浮いている。白いセールが透き通るように輝いている。翼をピンと張って滑空している鷹のように、鋭角な翼の両端が浩二の目を射た。わずかにバンクをつけながら回っている。時々思い出したように強いバンクをつけて急降下してくる。遊んでいるな。いい調子じゃないか。くるりと回るたびに太陽の光がその動きに引っぱられて揺れているようだ。ケンのかき分ける風が光って見える。もう50mぐらいまで降りてきている。ケンの黄色いトレーナーの色がはっきりと見える。まだ旋回を続けている。さて今度はどんな降り方をするだろうか。あのまま最後まで旋回を続けてしまうだろうか。そうすることはかなり度胸のいることだ。地面に近づくほど旋回の範囲を狭くしてやらなければ、このエリアでは着陸できない。もう少し広いランディングエリアならば着陸に長い距離をとれるのだが、ここではそうはいかない。それに何といっても飛行場のようにダラダラと長い距離を使って着陸するのでは、どうも格好が悪い。浩二はそうしてしまったが、ケンにはバンク角を大きく取って地面に激突するような格好で着陸してほしいものだ。

 汗が引いて肌寒くなってきた。背筋をブルルと悪寒がかけ昇る。ほっペたにプツンと何かが当たった。草だ。肌寒くなったのは汗が引いたせいだけではない。風が強くなってきたのだ。枝がだいぶ動き出した。これだから山の天気はあてにならない。つい一時間前は逆の風だったし、やっと安定してグライダー好みの風になったと思ったら、今度は強すぎる。プツン、プツンと今度は二、三本の草が浩二のほっペたを狙った。ザワザワと丘の草が波打っている。まずいな、もうちょっとでケンが降りるというのに。ケンは20mぐらいまで降りてきている。あとちょっとだ。急に風が強くなったのでケンは旋回をあきらめてターンに入っている。強引には降りられないと判断したのだろう。浩二の頭の上をまっすぐ通過していく。普通ならばザーッという音とともに通過するのだが、ケンのグライダーはバタバタという音をたてている。わずか20m上空でもここより風が強いらしい。両腕もいっぱいに伸ばしてコントロールバーを押しつけている。ゴーッという突風が浩二の身体を打った。浩二は自分のグライダーが飛ばされないように抑えた。スキー用リフトのベンチが大きく振れだした。赤白の吹き流しが狂ったように踊っている。グライダーの動きが不安定だ。左右にガクガク揺れている。時々前に進まずまったく止まってしまう。グライダーの落下速度と風の揚力がつり合ってしまったのだ。歯をくいしばっているケンの顔が見えるようだ。つり合いが破れるとグライダーは急に前進する。しかしそれはスムーズなものではない。波乗りしているように上下にピッチングしている。だがそれでもグライダーは着実に沈下している。がんばれ、あと5mだ。ケンが身体を起こした。風の強いときは早めに身体を起こして、どんな条件にも素早く対応するという定石通りだ。落ちついているな。そう思ったら少し胸が軽くなった。ケンは懸垂するように両腕を開いている。そうだ、そうやって風を身体全部で感じてコントロールするのだ。負けるな、もう少しだ。

 ゴーッと再び強い風が浩二を打った。少しよろめいた。

「ケン!」

 降下していたグライダーが一瞬2、3m上空に持ち上げられた。ケンの両腕が万歳をするようにまっすぐ上に上がった。次の瞬間にはケンの姿はグライダーの影になって見えなくなった。ノーズが真下を向いて巨大な扇のようになって地面に突っこんだ。ドスーンという腹に響く音が、空中と地面を伝わって浩二に届いた。音が聞こえるのと、浩二が走り出すのとどちらが早かったのかわからない。草が足にからんで転んだ。浩二には転んだという意識がなかった。再び走り出したのも意識になかった。ただ、走り出した後で、自分のグライダーが風にあおられてひっくり返るのだけがわかった。

 

「ねえ、なに考えているの。ねえってば」

「ん」

「嫌ね、人の話まじめに聞いてよ」

 目の前で冷めかかったコーヒーがうすい湯気をたてている。その向こうで道子が怒ったような顔をして浩二をにらんでいた。

「ごめん、ごめん。ちょっと考え事をしていたもんだから」

「まったく人の話をうわの空で聞いているんだから、頭にきちゃう」

「ごめんよ。ところでどんな話だっけ」

「忘れちゃったわよ」

「何だ、じゃたいして重要な話じゃないんだ」

「そりゃあ、そうだけど」

 道子がコーヒーカップを唇に持っていく。小さく開いた唇に白いカップが触れた。柔かい肌と肌が触れ合うようにコーヒーを飲んでいる。浩二はその唇が好きだった。

「ところでなに考えていたの。ケンのこと?」

「そう。あいつのグライダーから持ってきたリボンを見ると、どうも思い出しちまって」

「でも、それは浩二がどうしてもと言って持ってきたんじゃない」

「うん、そうなんだけど。何かこう、もうちょっとやんわりとぼくの気持ちの中に、あのリボンが残ると思っていたんだけどな」

 ケンがいつも使っていた風見用のピンクのリボンを、浩二はクチャクチャになったケンのグライダーから外してきた。道子には止められたけど、浩二はそれを無視した。形見のつもりだったのかもしれない。しかしその時の浩二にはそんな重いという意識はなかった。

「じゃあ、外したら」

「いや、いいんだ。あのリボンを見ているとケンのこと思い出すけど、妙に安心するときもあるんだ」

 形見というのはもっと重く心にのしかかってくるものだろうけど、反面ケンの使っていたものということで安心することもある。強い人間の残した物を欲しがった昔の人のような気持ちが浩二にもあるのかもしれない。ケンのようにもっとうまく空を飛べたら。浩二は安心感の方が次第に強くなっていくだろうと思った。

「あら、あれヒロミじゃないの」

 道子がドアの方を見た。山小屋風に作られたコーヒーショップの木造りのドアを開けて入ってきたのは確かにヒロミだった。ほっそりとした腰を細めのGパンに隠している。連れの男がその後からのっそりと入ってきた。

「まあ、また彼氏が変わったみたい。お盛んね」

 ヒロミは確かまだ短大に行っているはずだった。去年あたりからこの山に出入りしていて、ほぼ毎週のように来ている。飛んだり飛ばなかったり、飛ばない日の方が多いかもしれない。一緒に来る男たちも様々だった。ハングをやっている奴もいたし、シティボーイ風のハングなんか絶対にやりそうもない男とも一緒だったこともある。グライダーは持っているが車は持っていないようなので、男たちは足がわりにされているのかもしれない。しかし、ヒロミならば誰だって喜んで足がわりを務めるだろう。細身のボディと、化粧はちょっときつすぎるが整った顔立ちをしている。サーフギャルのような軽薄な言葉もない。ハンググライダーをやっている女の子というのもまだまだ珍らしい。それに何より、意外と簡単に寝てくれる。浩二は道子の横顔をチラリと盗み見た。このことはまだ道子は知らない。ヒロミが気がついて手を振った。連れの男は視線を外さずに軽く頭を下げた。ヒロミより二つ三つ年上の感じがする。眼つきの鋭い男だ。今度はレーサーでもひっかけたのかなと浩二は思った。

「ねえ、今度の彼氏ちょっとイカすじゃない。浅黒い顔って、私好きなんだな」

 少し離れたところに座った二人を見ながら道子がささやいた。

「それにあの頑丈そうな身体もだろう」

「バカ!」

 道子がおおげさに手を振り上げた。木造りの窓から強い光が射している。空気が動いた。チリがキラキラと反射してその光の中だけを飛びまわった。

 ヒロミとは二度寝たことがある。道子が一緒に来なかったときだ。連れの男とケンカしたらしく、ヒロミのグライダーを帰りがけに運んでやった。固いジープのシートの上でヒロミは居眠りをしだした。ドアも何もないジープの中でよく眠れるものだと浩二は感心したが、ふとそれを口実に誘ってみるかという気になった。モーテルで一眠りしてそれから帰るという浩二の提案をヒロミはあっさりとOKした。長いハンググライダーを二機も積んだジープは案の定モーテルの車庫には入りきらず、入口に放り出して部屋に入った。国道からまる見えの位置に置かれたジープは仲間が見ればすぐに浩二のものだとわかる。しかし構うものか。そんなことを道子につげ口するような奴は一人もいない。皆似たりよったりだ。ヒロミは着やせのする女だった。Tシャツやトレーナーの上からは想像もつかなかった豊かな乳房があった。浩二は片側ずつ両手で抑えて、伸び始めた不精ヒゲを押しつけた。陰毛は薄かったが体液はどの女よりも多い。テクニックはまだ下手くそだったがそんなものは時間の問題だとすぐにわかった。これじゃあ男がいろいろ変わってもしょうがないなと浩二は思った。

「何ヒロミばっかり見ているのよ」

 道子の声に浩二はハッと我に返った。

「いや、何。しかしヒロミはいつ見てもいい女だね。いい女に眼を奪われるのは男の本性だよ」

「浩二は誰にだって眼を奪われるでしょう」

「そりゃあ、そうだ」

 ハハハと二人で笑い合ったが、道子の眼は一瞬チクリと浩二の腹の底を見抜いたようだった。二度目はいつだったかあまりよく憶えていない。たくさんの女と寝て、たくさんのよくわからない愛の言葉を吐いて、今日まできてしまった。どの女も最初の夜はよく憶えている。しかしそれから後の交渉はほとんど忘れてしまっている。それでいいのかな……。本当はもっともっと一回ごとのセックスを大事にしなければいけないはずなんだと思った。でも、ベッドの中で女の名前を間違わないだけ立派なものだとも思った。意外と自分でもわからないうちに大事にしているのかもしれない。

「俺ももう三十になるもんな」

「え、なに突然」

「急に自分の年を思い出しちまったんだ」

「どうしたの一体。あっ。わかった。ヒロミと自分の年を比べたんでしょう」

「そうじゃないよ」

「じゃあ、どうしてなのよ」

 どうしてなのか浩二にもわからない。ヒロミを契機に他の女のことを思い出しているうちに、急に自分の年に気がついた、と言ったら正直なのかもしれない。煙草をとり出した。いつもならカチッとオイル臭い音とともに道子のジポーが飛び出してくるのだが、それはなかった。道子はヒロミの方を見て知らん顔を決めている。しようがないから浩二はズボンのポケットをゴソゴソかき回してマッチを取り出した。マッチを見て浩二はハッとした。ホテルのマッチだ。あわてて火を点けるとすぐにポケットにしまった。道子は気づいていないようだ。フーッと煙を吹き上げる。白く濁った煙が天井に昇っていった。天井にとどく前に拡散して空気と一緒になってしまう。しかし、このマッチは一体誰と行ったときのものだったんだろう。ことによったら道子と行ったときのものかもしれない。自信はないが可能性は高い。そうしたら、あわててしまうことはないじゃないか。そう思うと急におかしさがこみ上げてきた。ああ、俺も年だな。もうそろそろモラトリアムも終りか。

「道子」

「何よ」

 あい変らずそっぽを向いたままだ。

「俺が年のことを言ったのはね、もうモラトリアムもお終いかなって思ったからなんだ」

「……何なのそれ」

 やっとこっちを向いた。浩二はうまくいったと思った。道子は好奇心の強い女なので、自分の知らないこととなるとすぐに興味を示す。その興味がなくならないうちは他のことを忘れてしまう。

 「モラトリアムってのは、直訳すると支払猶予期間ってことなんだ。もうちょっと詳しく言うと、非常のときに法律によって借金の支払いを一定期間猶予することなんだけど、俺なんかその期間中だったなって気がしていたわけ」

「何だか良くわかんないけど、どういうこと」

 だんだん興味を覚えたらしい。しきりに足を動かしている。

「つまりね。青春というのは長い人生から見ればモラトリアムなんだな。社会という支払い機関に猶予をもらっている状態なんだ」

「わかるような気もするけど、こういうこと、つまり社会が刑だとすると今はその執行猶予中ってわけ」

 道子は目を輝やかせて乗ってきた。意外と道子はこういう観念的な話も好きだ。

「刑はよかったな。まあそんなようなものかな。俺、実際にはとっくに働いているけど、会社人間っていう意識もあまりないし、社会人っていう意識もない。そういう奴のことをモラトリアム人間って言うらしいよ」

「まあ、浩二はそうでしょうね。浩二は自分の好きなことしか気を向けないんだから。そこへいくと私なんか立派なもので…」

「仕事もよくやってるし、ハングなんか単なるレジャーって言いたいんだろ。それはよくわかってる。で、俺の話だ」

 道子が浩二の煙草に手を伸ばした。一本つまみ出すと唇に持っていく。浩二はすかさずマッチに手をやって、やめた。道子はひもつきのジポーをスラックスの後ポケットから引っぱり出した。ライター全体の三分の一もある大きなフタがカチッと開かれる。とたんにオイルの臭いが浩二の鼻をついた。

「いつまでもモラトリアムでいるのは気が楽だけど、そろそろそんな年ともおさらばなのかなと思ったんだ」

「それ、年と関係あるの」

「あるみたいだよ。みんな若いときはモラトリアムなんじゃないかな」

 ライターに火が点く。風に吹かれても消えない強力な炎が道子の顔を赤く染めた。

「浩二も大人になったのね。うれしいような悲しいような。ねえ、それ、ケンが死んじゃったからそう思うんじゃないの」

「そうかもしれないね。結局ケンはモラトリアムのままで死んじまったんだな」

 道子はほほ杖をつきながら煙草をくわえている。薄く開いた唇から白い歯が見える。

「でも、モラトリアムやめるって大変ね。浩二、会社人間になるの」

 煙草をくわえながらニヤリと笑う。

「そうは言ってやしないけど、もうちょっと人生について深く考えようかと…」

「ははは、浩二らしくないからやめなさいよ。浩二はハング馬鹿が一番似合ってるよ」

「……」

 道子の煙草の煙と浩二のそれが一緒になって天井に昇っていく。浩二は天井を見上げた。ほとんど風のない喫茶店の中で、煙はわずかに左右にゆれるだけで広がっていく。外で動いている風がグライダーを押し上げるだけの力を持っているのに、ここにはそれがない。同じ空気なのに、ここの空気にはなんの力もない。それがモラトリアムなのかなと浩二はふと思ってみた。

 結局、俺も、ここの空気のようにいつまでも喫茶店の中にばかりいるわけにはいかないのだろうか。いつかは外へ出なければならない…。それが自分にとっていいことなのか悪いことなのかははっきりしなかったが、そのうちには選択を迫られるように浩二は感じた。それはおそらく道子なのだろう。道子とはもう五年のつき合いになる。道子とは遊ぶことばかりに専念してきた。ジープで野山を駆け回ったり、スキーに行ったり、結局はハンググライダーまでも一緒にやるはめになってしまった。お互いに結婚などということは考えないで、ともかく楽しければいいじゃないかということでここまでやってきた。しかし、それがここのところ浩二にとってはちょっと違ってきた。もちろん今までも結婚のことを考えないわけではなかった。学生時代の友人や会社の同僚たちが次々と結婚していくのを見て、馬鹿だな、と思う反面うらやましくも思っていた。しかし俺はまだまだ、もうちょっともうちょっとと伸ばしているうちに、もう三十になろうとしている。やはり自分の年齢を考え始めたのかもしれない。それともケンのことが引き金になったのだろうか。ケンは好きなことをやって死んでしまったのだから、それはそれでいいのだろうけど、何か借金を残して死んでしまったような気もする。天井の煙はいつの間にか消えてしまっていた。浩二は軽い頭痛を感じた。ガラにもなく考えこんでしまったらしい。

「どうしたの浩二、そんな顔して」

「ん」

「今日は何か変よ。いつもの浩二らしくない。考え込んでいるみたいで」

「じゃあ、何かい、俺はいつも何も考えないアホかい」

「ハハハ、そうは言ってないけど、近い」

「おい、こらちょっと待て。何ということを」

 浩二も笑いながら右手を上げた。道子が両手を合わせて、拝むように浩二を見る。

「何か、こう頭が重くなってきた」

「そうでしょう。浩二は考え込むようなタイプじゃないんだから、似合わないよそんなの」

「そうかもしれんな」

「ねえ、そろそろ出ましょうか。そして飛ぼう。今度は私も飛ぶわ。飛んで頭を空っぽにしよう。こうやって地面に足が着いてると頭が重くなってくるわ」

 そうかもしれない。地表は重たいことばかりだ。立ってるだけで身体が重くなってくる。飛ぶしかないか。飛べば頭が確かに空っぽになる。二人は立ち上がってドアに向かった。ヒロミがゆっくりとこっちを見ているのが浩二の左目の端に写った。

 

 浩二はゆらゆらと空を泳いでいた。平泳ぎのように両手を前に出し、横にかき分ける。足を縮めて一気に後を蹴る。そうすると、地上2mほどの空間を浩二の身体がフワフワと移動していくのだった。同級の小学生が道を歩いている。頭上スレスレの所を浩二は平泳ぎで「やあ」と声をかける。相手は当り前のような顔をして返事をする。浩二はそれからまた泳いでいく。電信柱がある。電信柱のちょうど真中ぐらいで浮いている。それ以上の高さになることはない。黒く焼かれた電信柱の横で泳法がクロールに変わる。狭い路地を過ぎて小川に出る。小川の橋の上で今度は立ち泳ぎをしてみようと、身体を起こしたとたん、浩二は小川に向かってまっ逆さまに落下していく。そこまでくるといつも夢は破られた。

 

 風が吹いている。長い冬の生活を強いられていた草花や木々が、たまりにたまったエネルギーを発散するかのように一斉にゆれている。丘をおおいつくす植物たちが、それぞれの色で春をかみしめているようだ。木々は葉をいっぱいに開いて太陽に向かっているし、名も知らぬ小さな花は、そのうすいピンクの花びらを風におしげもなくさらしている。浩二は今すべてのものがまぶしいのだと思った。空は青く輝き、雲が太陽を反射して浮かんでいる。道子はふくよかな笑顔を浩二に向けている。浩二は俺も同じように輝いた顔つきを、今しているのだろうなと思った。何も自分をしばりつけるものはなく、自分の目に見える全てのものが自分の意のままになる気がした。空も地も道子も、そして風さえも自分に好意を向けている。ああ、俺は自然なんだな、と浩二は思った。人間として自然の中にいる。自分は人工的な人間としているのではなく、自然の中の人間という自然なのだと思えた。草むらに寝そべった。トレーナーの背中を通して芝か何かがちくりと刺さる。それが心地よかった。

「道子、ハンググライダーって自然だな」

 道子も浩二の横に座る。

「そうよ、とても自然なスポーツよ」

「何で自然なんだと思う」

「自然の中でするスポーツだからじゃないの」

 浩二と同じようにあお向けになりながら答えた。

「違うな。音がないからだよ。エンジンの音がない。自然のエネルギーをそのまま使っているからエンジンなんかいらないんだ。だから音がない。だから自然なんだ」

 浩二は長めの草を引き抜いて口にくわえた。草の先が風にゆれている。

「おや浩二さん、今日はバカに哲学的じゃない」

「そういう日もあるさ」

 上空を三機のグライダーがゆっくりと回って弧を描いている。ここから見ていると何の音もせず、のんびりと飛んでいるようだ。しかしフライヤーの耳元では風がうなりを上げているだろう。それでもその音はエンジン音ではない。自然のエネルギーの音だ。彼らは風に頬をたたかれながらも、その音を楽しんでいるだろう。眼下に広がる風景と、グライダーのわずかなきしみや、風圧の中につり下げられて、一番楽しい時間の中にいる。女の腹の上で過ごす時間よりもいいものに違いない。少なくとも浩二はそうだ。道子やヒロミやその他大勢の女たちの肉体の上では感じられないものがそこにはあった。

 ハンググライダーは理論で飛ぶ。揚力と沈下力の関係式でグライダーは飛んでいるし破られれば落ちる。それだけのことだ。その冷静な二つの力の関係式に浩二はとりつかれているのかもしれない。しかし女と浩二との間には理論なんてものはない。あるのは感情とかけひきだけだ。

 だが、それら二つとも浩二は好きだと思う。単なる有機質としての浩二と、脳を持つ浩二。そのどちらも自分にとって必要なように。その二つの中で浩二はバランスをとっているように思えた。道子と他の女たちとの間でバランスをとるように。

「さあ、行くわよ」

 道子がパッと飛び起きた。仁王立ちになって、腰に手をあてて浩二を見降している。逆光になって顔がよく見えない。

「おお、行こうか」

 浩二は額に手をかざす。道子が大胆に笑っている。飛ぶ気だな、と浩二は思った。道子は飛ぶ気になると、いつもこういう顔になる。

 道子が先にたって駐機場に向かった。道子の背越しに黄緑色をした丘が見える。しかしよくみるとその丘の色は、枯れた草の黄色と新しく成長を始めた草とが混然となったものだ。点描法で描かれたように筆の先ほどの面積で交互に置きかわっている。若い草の中でも成長の早いものは他の倍ぐらいの背たけになっている。それがチョコンチョコンと群から頭を出している。風に吹かれるとそいつだけが大げさな身振りをする。長い茎に、陽も余計に反射されている。黄緑色の丘の中で、それだけはキラキラと白く光って見えた。丘のふもとがランディングエリアになっている。その真中に赤白の吹き流しが立っている。竿の先で勢いよくクネクネと身をよじっている。広いエリアの真中で、たったひとり何かに反抗するかのように赤と白の布切れは踊っていた。

 浩二の機体はもう組み上がっているので、道子の機体の組み立てを手伝うことにした。袋づめになったグライダーの片方を持ち上げる。袋は直径20cm、長さ8mもある。それを太腿に挟んで抜いていく。ズルズルとたくし上げていく。少し冷えた身体がまた汗ばんでくる。抜きとられたカバーが蛇の抜けがらのように浩二の脇の下にたまった。汚れ気味の赤色のカバーがだらしなく草むらにはいずっていく。腕が痛い。もう少し余裕のあるカバーにしてやればよかったと浩二はいつも思う。道子のグライダーを買ったときに、カバーは浩二のお古で間に合わせた。それがいけなかった。道子は放り投げられたカバーをただ畳んでいくだけだったが文句も言えない。

 折り畳まれたグライダーは単なる化学繊維の固まりでしかない。ベルクロストラップで四、五カ所をしばられている柱みたいなものだ。ウィンドウサーフィンのセールも畳まれればこれと大差はないだろう。極端に言ってしまえば色あざやかなビーチパラソルを畳んだのと変わりはない。ただ大きいだけだ。だが、このでくの坊は空を飛ぶことができる。

 キングポストを立ててセールをサラサラと広げていく。道子のグライダーのセールの色は、内側から青、赤、オレンジ、黄、黄緑となっている。これが左右対称に色分けされていて、浩二はなかなか好ましい色合いだと思っている。この色合いについては二人とも納得して買った。これが空中に浮かぶと、グライダーが浮いているというより色が浮いているという感じになる。それがいい。派手な色合いのグライダーほど見ていて楽しい。以前、真黒なセールのグライダーを見たことがあるが、空を散歩するという楽しさが全然伝わってこなかった。飢えたカラスが獲物を狙っているようだった。

 組み上がったグライダーを担いで道子が先に立って歩いている。その後に浩二が続く。死んだケンが先に歩いているときは膝から下は見えていたが、道子の場合足首ぐらいしか見えない。三角形のグライダーだけがゆっくりと丘を登っているようだ。道子のグライダーの左端にはハーネスがぶら下がっている。右端にはヘルメットが下がっていて、歩くたびにクロスバーに当たった。カチンカチンとアルミにぶつかる音がする。浩二はその音に合わせて登っていった。

 汗がふき出してきた。普段はあまり汗をかかない浩二だったが、この時ばかりは汗だくになる。俺は何でこんなことしているのだろうと浩二は思った。頭を空っぽにしたいから飛ぶのかもしれない。確かに道子の言う通り地面に足をつけているときは頭が重い。一度飛んで頭を空っぽにしてしまうと、その味が忘れられず、また飛びたくなる。山に行っている奴も同じような感じを持っているのだろう。

 女にもてたいからだろうと勘ぐる奴もいるが、それもまったく否定することはできない。現にハングをやっているからというだけで近づいて来る女はたくさんいる。しかし、それだけだったらウィンドウサーフィンでも、ヨットでも同じことだろう。だが俺はそんなものはやりたくないと浩二は思った。飛ぶことと舟とはまったく違うのだ。人間の能力の中で、走るという延長線上に自動車が出現してきた。同じように泳ぐという能力の延長線上に舟がある。サーフィンもヨットも皆同じことだ。だが飛ぶということは、本来の人間の能力にはないものだ。そこに浩二は魅かれているのかもしれない。

 確かにハングのおかげで女たちはよく遊んでくれた。呑み屋に行ってそれとなくハングの話をすると、店の女の子はこっそりと看板まで待っていてくれと言う。ハングの話をもっと聞きたいというのが口実だったが、本心は知れている。どうしてこうも女というのは珍らしいものが好きなんだろう。いやいや、そんなふうに悪く言っては遊んでくれた女の子に申し訳ない。夢を追いかけているのかもしれない。自分の知らない世界をのぞいてみたいという純粋な気持ちからだ。だが、それにしてもどうしてどの女もすぐに寝てしまうのだ。それが自分の知らない世界ならいざ知らず、とっくに何人もの男たちと知り尽くしている世界なのに。スナックでアルバイトをしていたカズミは人妻だった。二人の子供がいると言っていたが、とてもそんなふうには見えなかった。腰の線もくずれていなかったし、腹にしわも寄っていなかった。若いときに子供を産んだのだろう。二十五、六という感じだった。カズミにはいろいろな場所の利用法を教わった。車の中はもちろん、ヨットの中、寝台車、風呂場、果てはデパートのトイレの中。良く考えつくものだと感心したものだった。今でも時たま電話がくると「ねえ、今度はどこにしようか」だ。いっそのことハングで飛びながらなんてのはどうだい。

 ハルコとノリエとは結局三人で寝てしまった。同じ会社の子たちだ。三人でドライブをしているうち、ハルコが「私モーテルって行ったことない」なんて言い出すものだから、ついその気になって入ってみたけど、案の定だだっ広いダブルベッドに三人でもぐり込むことになってしまった。刺激的といえばこれが一番刺激的だったかな。

 ユキコとはアナルの攻め合い。バックでユキコの腰を抱いていると、アナルが大きく開くものだから指を入れたら入ってしまった。それからはもう会うたびにお互いにアナルの攻め合い。ホモって本当にいるんだなと実感させてくれた女だった。

 ミチヨとは小便のかけ合い。頭から足まで、あげくの果ては膣の中までいっぱいにして。結局、浩二はいい女に出会わなかったのかなと思った。もちろん遊びとしていろんな女たちとつき合ってきたのだからそれもしょうがなかろう。そんななかで、道子だけはノーマルな女だった。そこにほれたのかもしれない。

「何をぶつぶつ言ってるのよ」

 道子が丘の上で叫んでいる。いつの間にか道子は登り切ったらしい。

「何でもない、すぐ行くよ」

 

 浩二は空気を切り裂いていた。スピードを上げた。翼の先端でぶつかった空気が、急激に速度を早めて後へ流れていく。翼の上の方に当たる空気は粗く、下で当たる空気は密度を高めている。そうやって空気の密度の違いでグライダーは上昇する。航空力学の初歩の理論だ。浩二はふとそれを思いだした。だが不思議な気持ちになった。当り前と言えば当り前の話だが、現実に自分がその中にいるとそんなふうには思えなかった。見えない空気に自分が突っ込んでいくのだと思った。地中に自分の身体分だけのスペースを開けて潜っていくように、空気に穴を開けてその中に潜り込んでいくように思えた。自分の体積の分だけ空気を押し広げていく。その方がずっと安定しているように思えた。

 自分はペニスなのかもしれない。膣を押し広げて潜り込んでいくあの感覚に似ている。抵抗する膣が最後にはスムーズに自分を受け入れてくれる。空気も同じだ。巨大なペニスと化した翼が空気の中に入っていく。だから浩二は飛びたいんだなと思った。

 煙を噴く山が見える。灰色の山から灰色の煙をかすかに上げている。上の方は空気と混然となって境目がはっきりしない。だが確かに煙の粒子たちは空気の中に入っているのだろう。煙の根元の方ははっきりと空気と境を保っている。ゆらゆら揺れながらも空気の中に自分の体積を確実に持っている。

 山は空気の中につっ立っている。家も木々も見える全てが空気の中に確実に立っている。その中で浩二と道子だけは空気の中に浮いている。不思議と言えば不思議なことだが、立っていようが浮いていようが空気を媒体としていることに変りはない。不思議でも何でもないと浩二は思った。

 前方に道子のグライダーが見える。ターンをくり返している。コントロールバーの左端に身体を持っていったかと思うと、グライダーは急激に左下に落ちていく。それからすぐに身体を右に持っていく。落下をやめたグライダーがニュートラル・ポジションに戻っていく。そして今度は右に。そうやってターンをしながら上昇気流を見つけているようだ。うまくなったものだ。浩二に初めて連れてこられた当時は、飛ぶどころかまともにグライダーさえ持てなかった。テイクオフには何度も失敗するし、腕はすりむく顔はぶつける、いつやめると言いだすか待っていたものだった。あるときなどは着地に失敗して顔の右半分をお岩さんのようにふくらませてしまったことさえある。それでもやめなかったのだから、浩二の影響というより、根が好きだったんだなと思った。ふと浩二は、自分がペニスとして飛ぶのだったら道子は何として飛ぶのだろうと考えた。膣が膣の中へ飛ぶというのはどうも。一度聞いてみよう。

 ガツンと身体がハーネスにくい込んだ。上昇気流だ。コントロールバーを力まかせに引き寄せた。ランディングエリアの吹き流しがグングン遠のいていく。セールがバタバタと鳴っている。風が耳の中まで渦を巻いて入ってくる。鼻が急に冷たくなっていく。来た。いい風だ。

「ィヤッホー」

 道子に向かって叫ぶが届かない。だが道子も風をつかまえたようで、浩二に顔を向けて笑っている。小刻みにターンをしている。上がっている。やはり上昇気流をつかまえたのだ。

「ノ・ボ・ル・ヨー」

 かすかに風に乗って道子の声が浩二に届いた。

「オー・ケー」

 言葉を区切って浩二も答えた。二機のグライダーは大きく弧を描き始め、五月の青空に舞った。

 

 ケンのリボンが揺れている。そのまわりだけ時間がゆっくりと過ぎているようだ。耳もとを風がうなりを上げて通り過ぎていく。セールも気流の中でバタバタと打たれている。しかしケンのリボンのまわりだけは風がゆっくりと流れているようだ。ワイヤーにしばりつけられたピンクのリボンは上下左右に弧を描くようにまわっている。生まれてからずうっとそうだったように泳いでいる。浩二はそのリボンに自分をだぶらせた。浩二自身もリボンのように何かにしがみついて、ゆっくりと流れてきたのかもしれない。学校を出て、会社に入って、たくさんの女たちと寝て、妹が結婚して子ができて、オイルショックがあって、コンピューターが出てきて、ジョン・レノンが死んだ。いつも自分のまわりは風のように荒く過ぎていった。しかし浩二はそれらからとり残されたように生きてきたなと思った。自分のまわりのできごとにあまり深く入り込んだ憶えがなかった。いつも一歩距離をおいていたように思えた。かと言ってまったく無関心でいたわけでもなく、ただリボンのようにヒラヒラと生きてきてしまったような気がした。熱するということがなかったのだ。ハンググライダーが気流の中でもて遊ばれていても、セールの下のリボンはそれにひっついてヒラヒラとしている。グライダーが上がれば上がる。下がれば下がる。いつも一定の距離をおいてヒラヒラしているだけだ。そう気がついて浩二は苦笑した。ケンの残したリボンに教えられたな。風が浩二の頬をなぐって流れていった。

 高度が落ちた。山肌をなめている自分のグライダーの影が六畳間ぐらいになった。上昇気流から外れたようだ。コントロールバーを引いてスピードを上げた。蛇のようにゆっくりと山肌をなめていた影が、驚いて逃げるとかげのように走り始めた。風が高音になる。頭を振った。耳鳴りのように風が音程を変える。リズムをつけて頭を振る。耳もとで鳴る風にリズムと音程がつく。まるでコンサートだなと浩二は思った。たった一人で聴く大空のコンサート。自分でリズムをつくり音程をつくり、演奏し聴く。眼下を走る影はそうすると音符か。五線紙上の音符はだんだんと小さくなっていった。

 

 海岸線を浩二と道子を乗せたジープが走っている。小石を蹴る音が津波のように聞こえてくる。海に注ぐ小さな川を一瞬にして渡った。水しぶきがジープの後から追いかけてくる。フロントウインドーを倒しているので、風がまともに当たってくる。

 助手席で道子が何やら騒いでいるのだが、風とジープのエンジン音と小石の立てる悲鳴でよく聞きとれない。浩二はアクセルを離した。ジープが勢いよく小石にのめりこんで止まった。

「何」

 ジープのダッダッダというエンジン音だけが聞こえる。シフトレバーがその音に合わせて小刻みに左右にふれている。

「あっちの砂丘に行ってみようよ」

「OK」

 浩二はシフトをローに入れた。小石がフェンダーにけたたましくぶち当たる。石にタイヤを取られて車体が斜めになったまま走り出した。

 秋だ。長い海岸線には釣りをする人たちがポツンポツンといるだけだ。ジープはその後をうなりを上げて走り抜けた。古着屋で見つけた米軍のジャケットを通して風が冷たくつき当たる。

 砂丘の砂はかなり粒子が細かい。タイヤが見る見る食われていく。そして止まった。

「だめだ、こりゃあ。スタックしちまうぞ」

四駆(よんく)のローよ。ハイじゃ無理でしょう」

「了解」

 アクセルをふかす。わずかに前進する。それからすぐにバックだ。そしてまた前進。振り子のようにジープを前後にゆすってやる。砂が噴水のように四本のタイヤからふき上げる。と、見る間に急に前進しだした。

「出たぞ」

「レッツ・ゴー」

 砂を巻き上げて、風を乱してジープは走った。

 渚に満潮の波が広がっている。浩二はその中に突っ込んだ。波しぶきが頭から降ってくる。何も前が見えない。波の抵抗でスピードが落ちていく。ジープをターンして再び砂浜に出た。

「バカ、何するのよ、冷たいじゃないの」

 髪からしずくを垂らして道子が口をとんがらかしている。

「でも気持ちいいだろ」

「風邪ひいたらどうするのよ」

「あとであっためてやるよ」

「バカ」

 ボディのあらゆるところから水を垂らしてジープは砂丘に向かった。

 前方に小高い丘が見える。浩二はふと飛んでみようかと思った。

「ジャンプするぞ、つかまってろよ」

「OK、飛んでみて」

 一瞬、砂を蹴る音が止まった。エンジンの音も風の音も無くなってしまったようだ。目の前の砂丘は見えない。秋の深い空が見えた。それからすぐに水平線が見えた。目の前に広がるはずの水平線が、やけにかたまって、小さな沼のはずれのように見えた。

 ドスンという音とともに道子が前のめりになるのがわかった。浩二も危うくハンドルに胸をぶつけそうになった。しばらくの間、二人は何もしゃべらなかった。

「飛んだわね」

 道子がポツンと言う。

「ああ、飛んだ」

 浩二はハンドルに上体をおおいかぶせて答えた。エンジンの鼓動がハンドルに伝わって浩二の身体を小刻みに動かした。

「俺、本当に空を飛んでみたい」

 

 真下に愛用のジープが見える。愛用とは言ってもほとんど洗ってやったためしがない。オリーブ・ドラフに塗られているので汚れがまったく目立たないのだ。それでもこれまでは年に一度位は洗ってやった。シートを取り外して車外といわず車内といわず、思う存分水をかけて洗ってやったものだ。それがここのところまったく洗っていない。浩二が本当に空を飛ぶようになってからは、ジープは汚れ放題汚れ続けた。林の中に頭を突っ込んでいるジープは、うっかりすると樹木と見違えてしまう。自分のジープだからこうやって空から見ていても判るのだが、他のフライヤーなら判るはずがない。たまには洗ってやらんとな、と浩二は思った。重いグライダーを二機もかついで、片道300kmもあるこんな山の中まで毎週毎週やってくる。ただガソリンを食わせるだけでは済まない気がした。思えば道子との出会いもジープであった。道子をジープに乗せる前もいろいろな女の子たちを乗せていた。だが、フルオープンで走るジープに誰も似合う者はいなかった。ある者は変に気取ってみたり、怖がったり、寒がったり、自然とジープの轟音に釣り合っていると浩二が感じられる女の子は誰一人いなかったのだ。最後に道子を乗せてみた。道子はジープの持っている乗用車とは違った条件を、すべて自然に受け入れた。首都高速を走るときでも、腰まで水に浸かりながら河を横断するときでも、何のてらいもなく、気取りもなく遊びとして素直に乗っていた。それ以後、浩二がジープで遊び回るときにはかならず道子の姿があった。米軍の水兵帽とジャケットを着て。

 身体が上下にピッチングを始めた。ノーズもケンのリボンも揺れている。乱気流だ。ジープに見とれて林に近づきすぎた。浩二はあわててコントロールバーを握り直した。下界の林も丘もスキー場のリフトも揺れて見える。上下に揺れる風にワンテンポ遅れるようにグライダーは揺れた。浩二はコントロールバーを強く引いた。耳もとを流れる風が強くなる。グライダーは風を追いかけるようにスピードを上げた。グライダーの右端が持ち上げられる。上昇気流のはじっこが当たっている。浩二は身体を右に持って行った。機体はわずかにピッチングしながらターンを始めている。地面が斜めに傾いて見える。樹木も草もジープも傾いて流れて行った。風も浩二の身体を斜めに通り過ぎて行く。風の音がピユーと高くなった。ピッチングが無い。乱気流を抜けたのだ。浩二は機体をニュートラル・ポジションに戻した。

 道子のグライダーが見えない。今のターンでだいぶ高度を落としてしまったようだ。浩二は再びリッジに戻ると上昇気流に乗った。道子のグライダーが前方の上空に見える。ノーズの先で見え隠れしている。浩二より30mぐらい上空にいるようだ。浩二は上昇気流に乗って道子を追いかけた。その光景が何かに似ていると思った。そうだ。海底から海面を泳いでいる道子を追いかけているのと同じだ。

 スキンダイビングは道子に教えてもらった。海底まで潜って、青い魚を追いかけたり、水中で踊ってみたり、海の中の道子は陸上や空中にいるときよりも生き生きと見えた。呼吸法を浩二に教えているときの道子は文字通り水を得た魚のようだった。浩二はそれに一種のいらだちを感じていた。常に道子より優位に立っているという先入感がそうさせたのかもしれない。口では男女平等とは言っていても、内心では女を見下していたのだろうか。浩二はそのとき、そのことをあまり深く追求しないことにした。ただ、それ以後は道子の得意なことはあまりやらないようにし、浩二の分野へと移っていったのである。それがジープであったり、ハンググライダーであったりしたのだ。

 道子を追いかけながら、この光景は海と同じだなと思った。そう言えば空から大地を見ていると、時々錯覚に陥ることがある。海面で水中メガネを通して海底を見ていると、陸地と同じように、丘があり、平地があり、海草は林のように見える。陸地も海も同じ地球の一部なのだから、あたり前だろうが、自分が今、本当は飛んでいるところなのか、海面に浮いているところなのか、ふとわからなくなるときがある。そんな時、浩二は無性に不安になった。自分は本来は陸地を歩いているべきなのに、空にいたり海にいたりする。何か間違いを犯しているのではないだろうかと思った。魚は水に棲み、鳥は空に棲む。人間だけが天地水、果ては宇宙までも自分の勢力の中に入れた。浩二は錯覚に陥るたびに人間の間違いを自分一人で背負ってしまったような気になった。

 道子のグライダーと並んだ。海で二人で泳いでいるときは、抱き合ったり足をつかまえたりできるが、ここではそうはいかない。二機が仲良く同じ風に立ち向かうだけだ。それもあまり近づくことができない。空中衝突なんて考えただけでもいい気がしない。しかしふと、浩二は心中するならグライダーもいいものだろうなと思った。人類始まって以来の心中方法である。高度50mもあれば確実に死ねる。問題は心中する理由がないだけだ。

 道子のグライダーが横すべりしながらターンに入っている。もっと高く持ち上げられる上昇気流を探しているのだ。セールの先端がわずかに揺れている。気流が少し変わってきたようだ。浩二はそれを見ていて、ずいぶん不安定なものだなと思った。鳥のようになめらかに飛ぶにはグライダーは大き過ぎる。道子がコントロールバーの中に吊り下げられて前後左右へとせわしく身体を動かしている。重心をわずかに動かすだけで機体の動きが変わってくる。そうやってしかグライダーは飛べないのだ。浩二は海面から水中メガネを通して見た海底を思い出した。波間に揺られながら海底を見ているときは、一番安定した状態だ。だが今は違う。海底も陸地も同じように丘があり林があるが、今は最も不安定な状態で見ている。結局、海にあき足らなくなったのは、道子の得意な分野だったということもあったけど、その辺の違いもあったなと思った。いつも不安定なものを求めてきたように思えた。ジープで砂丘を走り回るのも、海底まで潜ってみるのも、何かしら不安定な要素がともなう。その不安定さの究極がハンググライダーだったのかと浩二は思った。魚のように海を泳いだり、走る機能の延長線上にジープがあるのは、いくらその中に不安定な要素があっても、人間の本来持っている生の能力の化身だ。だが鳥のように空を飛ぶということは、そうではない。

 ゴルフ場が見えてきた。どのコースにも人影が見える。連休を利用しての遊びなんだろう、いつもより人が多い。白いバンカーの中からキラリとクラブが反射する。グリーンの中ほどには赤い旗も見える。小さな細長い林で区切られて、18のコースは見事に組み合わされている。その中でゴルファーたちは安定した仕事と、安定した家庭、そして安定したレジャーに興じているのだ。何が面白いのだろうと浩二は思った。キャディをあごで使って、じっと止まっているボールを打つ。風が吹けばボールの方向だけが気になり、風を楽しむなんてことはない。ただひとつの穴にボールを入れるためだけに、多くの時間と金をかける。整備されたフェアウェイを歩き、仲間たちと談笑する。その中には何も不安定なものはなかった。だが、そういう人たちが実際に社会を動かしているのだ。中小企業のオヤジであったり、一流会社の重役であったり、あるいは町工場の工員であっても、そういう人たちが社会の主人公なのだ。たまの休みに自然の中の空気を吸いたいと思ってやってくるのだろう。彼らは安全でなければならないのだ。安全に遊んで次の日は職場に家庭に戻らなければならないのだ。不安定な要素などあってはならないのだ。そこが自分とは決定的に違うと浩二は思った。浩二も一応働いてはいるけど、夢中になって仕事をやったという記憶はない。遊ぶ金が無くならないように会社に行っているようなものだ。仕事も今の会社でなければならない必然性はない。ただ同じ会社にいた方が給料が上がりやすいから、同じ所にいるだけなのだ。家庭なんかもちろん無い。自分でかせいだ金は自分で勝手に使えばいい。不安定なものが好きだなんてことは、要は恵まれているから言えることなんだなと浩二は思った。

 だが、これから先はそうはいかないだろう。道子と結婚することになれば、今の狭いアパートで暮すという訳にもいかない。子供ができたらなおさらだ。自分の金は自分で勝手にするなんてことは考えられない。そうすると俺もあのゴルファーたちと同じように、安全で整備された遊び場でしか遊べないということになっていくのだろうか。仮に道子と結婚するとして、その後ハンググライダーを道子自身がやる気があるのか無いのか、聞いてみなければわからない。もし道子が自分はやらないと言い出したら、俺はどうするだろう。やるかもしれないし、やらないかもしれない。はっきり続けるとは言い切れない。所詮はそんな程度の_不安定さへの欲求_なのかもしれない。浩二はそう思ったとき、何かひとつ、自分の時代が去っていくような気がした。

 しかし、それも仕方のないことなのかもしれない。これまでは好きなことやりたいことをやってきた。やれたというだけで幸せだったように思える。その弁償としてこれから他のものにしばりつけられるのだったら、それも可と考えよう。案外その中にも面白いことはあるのかもしれない。だからみんな同じように結婚して子供を産んでいくのだろう。何の面白みもなかったら、人類が今までまったく同じくり返しを続けてくるはずがない。ただ自分が知らない世界であるというだけなのだ。飛ぶことだって同じだ。人はいろいろとハングについて質問してくるけど、知らない世界だから聞いてくるのだ。知ってしまえばどうということはない。至極あたり前の世界なのだ。結婚という自分の知らない世界をのぞいてみるのもいいことじゃあないか。浩二は何かふとふっ切れたような気がした。

 耳もとの風が止まった。今まで何も聞こえないぐらいうなりを上げていた風が、嘘のようにパタッと止まった。一瞬、浩二はキーンという耳鳴りを感じた。クラッとめまいがした。まずい、追い風に乗ってしまった。グライダーの進行速度と風の速度がつり合ってしまったのだ。ぼんやりと考えていたら、自分の置かれている状況を忘れてしまった。こんなことは今まで無かったことだ。浩二はあわてた。早く追い風から抜け出ないと失速してしまう。あらん限りの力を出してコントロールバーを引いた。手応えがない。まるで陸の上のボートのオールを操作するように、何の抵抗もなくコントロールバーは浩二の腹に引き寄せられた。まだ追い風のスピードの方が勝っているのだ。浩二は思いきり上体を前に突き出した。両手をいっぱいに伸ばしてコントロールバーを腰まで持っていった。唇をかみしめた。奥歯がガチッと鳴った。腕の筋肉が固くなっていくのがわかった。

 耳もとで風がブウブウと鳴り始めた。それから次の瞬間にはピユーと鳴った。グライダーは浩二が今まで経験したことがないようなスピードで滑り出した。涙が出た。目尻にたまった涙が真横に飛び出して行った。膝がふるえた。ハーネスの中で浩二は小刻みにふるえた。ターンをしなければ。ターンをして風と正対しなければ、失速する。浩二は少しずつ身体を左に持って行った。セールがガツガツとゆれている。もう少しだ。もう少し左へ。ノーズがわずかに向きを変えた。それから急激に左旋回に入ろうとした。浩二はパッと重心を右に変えた。

 風が規則正しく鳴っている。ゴーゴーと安定したリズムで浩二の顔をなでている。浩二は自分でも信じられないくらい心臓が高鳴っているのに気づいた。それから奥歯もガチガチと鳴り続けている。歯をかみしめて抑えようとしたが、思う通りにはならない。フーッと息を吐いた。何度も続けて吐いた。そのたびに筋肉の固まりが少しずつ溶け出ていくように思えた。浩二は頭を振った。今日はこれでヒャッとしたのが二度目だ。だいぶ神経も参ってきたようだ。今日はこの辺で降りようと思った。道子のグライダーが前方100mぐらいに見える。浩二よりも20mほど下だ。二人ともだいぶ長いこと飛んでいる。もう一時間近いだろう。浩二は道子のグライダーをめざした。

 目の前に一羽のカラスが近づいてくる。いつものせわし気なはばたきをしている。カラスというやつはどうしてああも下品な飛び方をするのだろう。もう少しゆったりとした飛び方をしてもよさそうなものだ。本物の鳥なんだから。驚いたようにガアガアとわめき散らしながら近づいてくる。浩二は苦笑した。自分は危うく失速しそうになったというのに、下品であろうが何であろうが鳥は鳥だなと思った。しかし、それにしてもカラスが珍らしがり屋だというのは本当のことのようだ。グライダーで飛んでいると、本物の鳥が興味深げに近づいてくることはよくあるけど、カラスが一番しつこく追いかけてくる。

「おい、俺はもう降りるんだ。あまりしつこくつきまとわんでくれ」

 濁った目をしてカラスが浩二を見ている。その目を見て浩二はハッとした。誰かの目に似ている。そうだ、ケンの目だ。落ちて死んだケンが同じ目をしていた。赤く血を滲ませてケンは目を開けていた。

「あっちに行け」

 言いようのない悪感が背筋を走った。浩二はグライダーをターンさせた。だがカラスはノーズの先から消えない。そのうち羽をいっそうばたつかせて、リボンを口ばしで突つき始めた。

「こら、何をするんだ、やめろ」

 浩二はコントロールバーを強く引いて、逆方向に旋回させようとした。風が耳もとでうなる。カラスがグライダーの視界から消えた。地平が傾むく。ゴルフ場も遠くの山脈も斜めに見えた。そしてニュートラル・ポジションに持って行こうとしたとき、目の前に道子のグライダーがあった。赤・黄・グリーンと鮮やかに色分けされたセールに、自分のノーズが突き刺さって行くのが見えた。

 

 

著者ホームページ:ごまめのはぎしり

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/08/18

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村山 精二

ムラヤマ セイジ
むらやま せいじ 詩人。1949年北海道生れ。詩集『帰郷』(2006年 土曜美術社出版販売刊)で第39回横浜詩人会賞受賞。

掲載作は1985年『中央文學』通巻301号に初出。