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ある国語教師の決断

 電話の主が最初は誰か判らなかった。中学校時代の恩師だと確信するまでにしばらく時間がかかった。

 前回お会いしたのは5年ほど前。久しぶりの同窓会の席だった。2次会でゆっくりお話しを聞きたかったが、できなかった。次の予定があって1次会だけで失礼した。それ以来のお声である。

 先生宅に来ないかとおっしゃる。先生宅への訪問は40年ぶりぐらいだろうか。浜松から出てきた先生が30代で建てた家。それまでにお住まいになっていた教員住宅とあまり変わらない造りだが、リフォームしたらしく明るくなっていた。

 客間のテーブルの上には本が山積みになっていた。『金子光晴全集』、『川端康成研究』、『日本現代詩大系』…。

 それらを前にして先生はおっしゃった。

「この本をもらってくれないだろうか」

 あ、死ぬ準備をしているな、と思った。先生はたしか75歳を過ぎたはず。もっと上かもしれない。蔵書の整理に入ったのだと気づいた。

「俺の教え子でこの本をもらってくれる奴といったら、お前しかいない」

 もちろん全部引き取らせてもらうことにした。

 詩らしきものを真剣に書こうとして45年ほど。それなりに必要な本は買い集め、図書館で調べもしたが、会社勤めの合間では限界がある。加えて技術系の仕事をしていたので、そちらの専門書に時間を取られた。テーブルの上の本は、その存在は知っていたものの現物を見るのは初めてのものばかり。早期に定年退職して、ようやく自分の時間を思う存分使えるようになった。長い間なおざりにしてきた詩論研究にはもってこいの本ばかりである。なかでも一番興味を引いたのは『日本現代詩大系』全10巻。河出書房が1950年から2年以上を費やして刊行したもの。近代詩の創世記から1950年時代の現代詩まで、福澤諭吉から草野心平・八木重吉まで、100名に及ぼうかという詩人の作品が抄録されている。解説は中野重治、三好達治など錚々たるもの。狂喜した。

 この中から著作権の切れている作品を選び出して、電子文藝館に載せようとすぐに思いついた。忘れられた詩人、今では滅多に読むことができない作品のオンパレードである。かくて、一般には馴染みがないと思われる乾直惠、藤田文江、杉浦伊作などの作品が並ぶこととなった次第。

 先人の紹介はまだ緒に着いたばかりだが、これからも日本の現代詩に一時代を築いた作品群を紹介できればと思っている。

 別れ際に先生がおっしゃった。

「俺は詩が好きだったけど、自分で書くことはしなかった。読んでいるだけで嬉しかったんだ。教員の薄給から工面して集めた本ばかりだよ」

 頭をガーンと殴られた思いがした。そうだった、昔はそういう詩の愛読者が大勢いて、その人たちが詩集を買ってくれていたんだ。今は見向きもされていない。その主因が詩人の側にあるとしても、この半世紀の系譜を電子文藝館で紹介できれば、少しは詩の復権に寄与できるかもしれない。そんな思いも頭をよぎった。

 後部座席に積み上げた本の重みで、クルマが沈んでいるのが判った。アクセルを静かに踏み込んだ。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2010/09/21

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村山 精二

ムラヤマ セイジ
むらやま せいじ 詩人。1949年北海道生れ。詩集『帰郷』(2006年 土曜美術社出版販売刊)で第39回横浜詩人会賞受賞。

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