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わがモラエス伝 第二章 第三章

 第二章 あうはわかれのはじめ

 

    1

 

 十八歳のころからモラエスは、甘いロマンチックな詩をつくった。

 詩作は一八七二年から一八八八年におよぶ。詩のほかに短篇小説のようなものも書き、リスボンの「夕刊新聞(ジョナルダ・ノイテ)」その他に匿名で発表した。モラエスのペンネームはいくつかある。処女出版になった『極東遊記』は澳門(マカオ)滞在中に「朝刊新聞(コレイヨダ・マニヤン)」紙上に、ア・ダ・シルヴァという匿名で連載した。本に纏めるに際して覆面を取った。爾後はすべて本名である。彼の死後、遺品のなかには、エルネスト・デ・アゼウエートというペンネームでの作品である、新聞の切抜が丹念に保存されていた。未発表の短篇や十四行詩の原稿もあった。切抜の日付によると、一番新しいのが一八八八年三月だから、モラエス三十四歳である。澳門への初航のころである。

 モザンビークやティモールなどで、海軍士官として勤める間に、せっせと彼は新聞に投稿したのであろうか。多く筆名を使っているのは、自分が軍人だったからだろう。

『モラエス案内』を編纂したとき私は、花野富蔵氏に頼んで、モラエスの詩を一つだけ翻訳してもらって載せた。

「詩の翻訳はとてもむつかしい。甘い詩なので、私のような老人では、とても感じが出せないので……」

 しきりに催促する私に、花野氏は苦笑するのだった。が、苦心のすえ訳出してくれた原稿を手にしたとき、氏の訳がみずみずしいのに私は感心したものである。

「この訳、とっても若々しくて美しいですよ。自称老人にはならないでください」

 と私は笑った。おそらく、花野氏の名訳の一つであろう。

 それにしても、その昔私を怯えさせた、あの髯づらの毛唐が、青年のころこのような詩を書いていたという事実を、私はとても面白いことに思った。

 

覚えている 

――マリーアに――

覚えている?…… かっと照るある真夏……

泉のほとりに行ったときのこと?

おぼつかない、うっとりする身の軽さで

濡れていない小石を選んでは、ひらりと跳びながら

 

腕ぐみしながらぼくはそれを見詰めて

湧きでる清水を追っていたが、やがて振りむくと

ぼくの唇に唇を高くさしのべて、ぼくの愛を

溢れさせた、湧いてくる水滴(しずく)のように

 

だのに、ああ、ぼくは渇きに死ぬ思いだった! いらだって

だが、おまえは落着き払って、いかにも美味(うま)そうに

にこっと微笑んでのんだ、ちびりちびりと

 

というのも、ぼくが(うつ)ろごころだったせいかもしれないんだ

それとも、歓喜(よろこび)に気もそぞろだったかも……

ともどもに、あの盃に口づけながら……

 

 とろりと藍を流したようだった夕凪の海が、西北の方からくれないに染まっていく。涼しくなるまでには、まだたっぷり三時間はかかる。士官室(キャビン)の開かれた丸窓(ポート)ごしにモラエスは、水平線上に白い布を引いたと見える、アフリカ大陸をぼんやり眺めた。

 右舷の彼方に、雲のように見えたマダガスカルの島影も遠く去り、日没までにはモザンビークへ帰航するはずであったが、気のせいか船足はひどくのろかった。たった二十日の沿岸巡視のための航海であったが、二十日が二か月にも、三か月にも感じられるくらい永かった。

 ジョーゼ・アレイゾ・リベイロ中尉と共有のベッドに、二十七歳のモラエスはごろりと横になった。卓子(メーザ)でつくづく眺めていた「夕刊新聞(ジョナルダ・ノイテ)」を、左手につまんでいる。航海に出る日の朝、郵送されてきたそれの文芸欄を彼はもう何度読んだろう。匿名で出した詩が載っているのだ。「夕刊新聞(ジョナルダ・ノイテ)」の読者の多くが、その詩に一顧だに与えなくとも、唯一人読んでもらいたい女性のために書いた詩。

 マリーア・イザベル。彼女はこの詩の作者名が、エルネストになっていても、きっと気づいてくれるはずだった。ヴェンセスラオ・デ・ソーザ・モラエスの作だ、と。

 彼女はどう思うだろう。

 大胆すぎると怒ってくるであろうか。誰にも見ぬかれる心配はないのだが……。

 マリーアに、と副題を付けたのはいけなかったろうか。つけなかったら、彼女には察しがつかなかったはずだし、マリーアに、としるしたところで、どこのマリーアだか他人には決してわかりはしないのだが……。

 彼女は狂おしいほどの気持を、この詩からきっと感じてくれたにちがいない。モザンビークの宿舎あてに、もうマリーアの手紙が届いているかもしれない。勤務に従って汗を流しているときには、さほど感じない船ののろさを、彼はいまいましく思う。

 マリーアとのことを、モラエスは誰にも打ちあけていない。妹のフランシスカにも、親友のリベイロ中尉にも。

 リベイロとモラエスはおない年で、海軍兵学校も一緒に出た。昇進も勤務も全く同じで、中尉になったのも、砲艦「パシエンシャ」乗り組みも、二度のモザンビーク駐屯も。いわば<仲間(カマラーダ)>である。

 モザンビークへは最初三年間の義務駐屯で一八七六年に来た。最初の海外勤務を終えてリスボンへ還ったときも、一八八一年に再度三年間のモザンビーク駐屯を命じられたのも、ジョーゼ・アレイゾ・リベイロと一緒だった。

 ギラギラ輝く強烈な白日にさらされる時間が、モラエスとリベイロでは逆になる。モラエスが勤務に立つときは、リベイロが非番である。パシエンシャ号の小さな士官室(キャビン)の一角を、二人で占める生活も久しくなった。

 そのリベイロだって、エルネストが親友のモラエスの匿名とは知らない。まして、彼が八歳も年長の、しかも人妻のマリーア・イザベルに恋いこがれて、宿痾の神経症を昂じさせているとは気づくはずもない。もしリベイロが、モラエスが人妻を愛していると知ったら、

「おお、神様。モライスにすばらしい乙女をめぐんでやってください」

 と、大げさにお祈りをしてみせるだろう。

 リベイロにかぎらないが、アフリカに駐在する海軍士官気質からすれば、人妻に恋するくらいなら、黒人娘を三人でも五人でも囲った方が道徳的だということになる。リベイロの女はササールという黒人娘だ。最初にモザンビークへ赴任したときから同棲している。

 今度アフリカへ来てからモラエスも、同僚並みに黒人娘を傭った。リベイロの女であるササールの友だちで、アルシーという現住民の娘である。執拗なリベイロの勧奨のせいもあったが、モラエスにしてみれば、マリーアを忘れようとする空しい努力が、アルシーとの同棲だった。

 この地方に多いバントウ族の農婦の娘であるアルシーは、色の黒いことと、いくらか唇の厚いことさえ気にしなかったら、結構美人だった。黒人系統というより、混血児(ハーフキャスト)を疑わせるくらいで、ラテン系の面ざしさえみえる。

 荒々しくアルシーを抱きしめながらモラエスは、彼女が黒人であることをしばしば忘れた。彼女を愛撫しながらマリーアを思っているためでもあり、アルシーのかすかに持つラテン系の面ざしのせいでもあった。遠い昔、アルシーの先祖の血のなかに白人のそれが混じって、一種のプアー・ホワイト化(ポルトガル人と黒人の混血。ただし黒人化するもの)したのだろうか。

 そうだ。アルシーがぶじの帰還を待ちかねているはずだ。無知で善良で気の長い彼女のことだから、正午過ぎから埠頭(カーイス)に迎えに出ていて、下級船員なぞにからかわれているかもしれない……、と思うかたわらから、新聞の活字の奥に、マリーアの金髪と憂愁の翳が濃くなればなるほど、美しさを増す顔が浮かび上がってくる。

 そこに澄んだ蒼い眸があり、くちづけを待ちこがれる慄える唇があるように。

 モラエスは、烈しい眩暈と頭痛とが、急激に萌してくるのを感じる。

 

 ぼくの唇に唇を高くさしのべて、ぼくの愛を……

 

 モラエスは目を閉じる。頭のなかに瓦礫を一ぱいつめこんだような不快感とめくるめく感じ……。こめかみがギリギリ鳴り、頭蓋骨がひびわれる思いがする。それが襲ってくると彼は、しばし痴呆状態になる。

「暑さがよくないのだ。毎日、毎日、灼熱で頭を灼いているようなものだからな」

 リベイロが、彼の持病に同情して、痛々しいと言った表情で慰めることがある。

「ふさぎの毛虫を脳髄のなかで飼っているのさ。ときどきもぞもぞはい出してくる」

 冗談のように言って大声で笑ってみせるのだが、笑いは空虚に響き、顔は神経症患者のように歪む。

 そう。モラエスは生涯痼疾にとりつかれていた。頭痛と恋わずらいだ。

 人の子が、多感な蒼白き時代に患い、青春の過ぎるのとともに克服する神経衰弱……。彼はそれを、遂に墓場まで持っていった。忘れたようにケロッとおさまっていたのは、わずかの期間だったにすぎない。

 もぞもぞうごくふさぎの虫、とモラエス自身が呼んだ痼疾は、海上勤務の間にも、陸上での執務のときにも、前ぶれもなくやってくるのだった。

 甲板で潮風にさからっての労働時や哨戒勤務のときだと、緊張しているせいかまだしもだったが、士官室(キャビン)や宿舎でくつろいでいるときにそれがくると、きまってしつこく苦しめられるのであった。

 彼は、狂人になってしまったマリーアの夫トーマスのように、自分も狂うのではないかと怯えることがあった。

 ジュセリーノ・デウス・ドン・トーマスはモラエスの一族で、遠縁の従兄(いとこ)にあたる。自分のなかには、その狂人トーマスと同じ血が流れているかもしれない……、と。

 美術家としての成功を夢みていたジュセリーノ・デウス・ドン・トーマスは、これからようやく芽も出ようという二十七の年に、精神病で倒れてしまった。三流画家に毛がはえたていどのところで……。

 ドン・トーマスは、極めて物静かな内省的な性格の持主であった。それはそこに、すでに狂気の萌芽をひそめていたからかもしれないけれども。

 ドン・トーマスは「サウン・マルティーニョの夜」とか、「洗濯するおんなたち」などの力作で認められ、驚くべき吸収力と勘のよさをそなえた、稀にみる素質にめぐまれた新進画家と評され、ポルトガル画壇に重要な役割をはたす存在になるだろうなどといわれていた。

 トーマスが狂ったということは、隣に住むモラエスの家にはすぐ伝わった。ちょうど彼が海軍兵学校予科の課程を、リスボン高等工業で終えた十七歳のころであった。爾来マリーア・イザベルは、<生ける屍>同然の夫を看病しながら、英語やフランス語やイタリア語の教授などして、女手一つで家計を支えている。

 もっとも、彼女の内職の語学教授は、ドン・トーマスの発病以前からだった。貧乏絵かきにすぎない亭主のみいりなどしれたものであったのだ。でも、発病前のドン・トーマスの前途には、新進美術家としての道が坦々とひらけているかに見えたから、マリーアも働きがいがあったろうが……。

 マリーアが美人であることは、少年のころからモラエスは知っている。皮膚も毛髪も薄黒く、小柄な体躯の多いポルトガル人のなかで、彼女のように長身で金髪であれば、目だたなければどうかしている。ドン・トーマス夫人にならない前から、ルア・デ・サン・ベントの街頭や、公共遊歩場(パセイヨ・ププリコ)を散策するマリーアは彼の目をひいた。

 ドン・トーマスが美貌の妻を得たとき、幼心にモラエスは淡い嫉妬を覚えたものである。語学にたけ、文学的才能に富むマリーアと、未来の栄光を約束されたと見えた従兄との結婚を祝福する気持は十分あったけれど……。

 隣家に新居を構えたトーマスの、しあわせな暮らしはどれくらいつづいたろう。マリーアの澄んだ声や幸福そうなトーマスの顔を、二階にある勉強部屋から聞いたり見たりしたのは、そう長い期間ではなかった。が、勉強に追われていた青年の日のモラエスには、新婚家庭の幸福に心を奪われるほどの余裕はなかった。

 従兄の発病を聞いても、生来楽天家である彼は、なにすぐ癒るさ、といとも簡単に断定したものである。病人のトーマスや、病人を抱えたマリーアどころではなく、モラエスは海軍兵学校の受験と、合格してからは学業の忙しさで夢中だった。

 はじらいを伴うマリーアのまなざしを、モラエスは意識しないでもなかったが、それは、病夫を抱え未来を喪った女が若さと春秋に富む青年に対して見せる一般的表情だ、と解釈していた。しかし、予習や復習に倦んだ目をふと窓外へ移し、庭で働いているマリーアをみつめたり、隣家の気配に心を奪われている自分を発見するたびに、彼は少なからず狼狽し、急いで幾何や代数の教科書をとりあげるのだった。

 深く碧いつぶらな瞳。看護やつれした愁い顔。すき通るような肌――。無心に洗濯などしているマリーアの、見え隠れする首筋や横顔を、二階から盗み見するのは、十八歳のモラエスのひそかな愉しみとなった。

 白い、肌もあらわな肩に金髪が乱れる。うるさそうに彼女が首を振るたびに、髪が陽光にきらめく。そのたびにのぞくうなじに目を凝らして、思わず吐息をつくような午後があったり、庭へ跳び出して来た彼女の、何枚も重ねた七つ襞のスカートが花びらのように開いて、健康な下肢がきびきび動いたりするとき、しびれに似た感動を覚えるのであった。

 ぴちっと身につけた婦人用黒衣(シレイ)が、皮膚の色をきわだたせる夕べなど、乳房のまろみさえ感じられて、いつのまにか彼女の裸身を愛玩しているかのような錯覚に捉われ、ひとり顔をあからめたこともある。

 ばかな! 八歳も年上の女だ。しかも人妻に、と湧いてくる夢想と淡い恋情を打ち消すモラエスだったが、どうやらそれは彼ひとりの片思いではなかったらしい。それに、モラエスが詩のまねごとというか、少年の甘い寝言というか、ともかく詩らしきものを新聞や雑誌に投稿し始めたのは、もとをただせばマリーアの影響だった。彼女の作品を読んだり、文学の話を聞く機会が多かったせいだけではない。むしろそれは、彼女がただよわせる文学的雰囲気の故であろう。美貌の才女に注目されたい、というロマンチックな願望が、モラエスのなかに潜在していたかもしれない……。

 マリーアのまなざしが一種熱っぽくなり、妖しいほどのきらめきを投げかけ始めたのは、いったいいつごろからだったろう。

 モザンビークへの初航の前、確か二十一歳のときであった。「ある狂癖のひめごと」という短篇を匿名で「朝刊新聞(コレイヨダ・マニヤン)」に載せたのを、散歩の途次の立ち話で、買物帰りのマリーアに、半ばてれながら、半ば得意気に告白したことがあった。彼女は、もう夫トーマスの再起不能を覚っていたはずであるが、表情はひどく明るかった。

「蔭ながら、あなたの作品が、いつも賞讃されるのを嬉しく思っていた」

 と彼女は、フランス語で祝福してくれた。マリーアのフランス語の、シュィザンシャンテー(大変よろこばしく思う)と言う、甘い柔かい響きが魅力的だった。ルア・デ・サン・ベントの街角にいるのに、まるでアラビダ高原か海辺――、エストリルの海岸のユーカリの並木道ででも、語り合っているような気がした。ほんのしばらくの立ち話……。それも、さりげない対話だったのに。

 もしリベイロにマリーアのことを告白したら、彼は同情して、親友の悲恋を慰めてくれるだろう。事実、ときどき打ち明けたくなって、がまんならなくなることがあった。マリーアの、情炎にも似た目に射すくめられた日の夕方――、あのときのおれの狼狽ぶりを話したら、リベイロは大きな体をゆすって笑いころげ、「パシエンシャ号」が傾くほど愉快がるかもしれない。

 モラエスは微笑した。こみあげた軽い笑いにも頬が歪み、筋肉のひきつりがこめかみに作用し、ギリッと音たてて痛む。船は静かにローリングしている。甲板ではリベイロが双眼鏡を大きな掌でぎゅっと握りしめて、モザンビークの方角に目を凝らせていることだろう。

 

    2

 

 リベイロは、ササールにひどく逢いたがっていた。彼はローレンソ・マルケースの港に上陸したとき、飲みすぎと食あたりで、下痢と胃痛をおこし、気持が弱っている。体の方はもうすっかりいいのだが……。わずか二十日の航海だったが、空と水と雲ばかりのなかにいると、彼のような武骨な荒くれ男でも、陸や街が恋しくなるらしい。とりわけ、女が……。いかにササールが漆黒で、この地方に棲むバーブン(猿の一種)に似た容貌だっても。

 それにリベイロは、ササールの歌に魅了されている。平板で抑揚に乏しい俗謡だが、その哀調を帯びた歌がササールはうまかった。あたりの空気を震わせて響く、むせび泣くような歌には、ルバ族の竹笛に似た情感があった。リベイロはササールに首ったけだが、ササールの方だってリベイロに夢中だ。約束を守って、モザンビークに再赴任して来たリベイロに、誠意のようなものを感じているのであろう。

 マリーアのことをリベイロだけにでも話したい、という誘惑にモラエスは何度おそわれたかしれない。マリーアが人妻でなかったら……、それに、愛のあかしを確かめ合う前の、プラトニックな関係のときだったら、あるいは告白できたかもしれないが、この前の三年間の、モザンビーク義務駐屯から開放されてリスボンへ帰ったとき、モラエスはマリーアの愛を得た。得たというか、がまんならなくなって奪ったというか、そのどちらともつかない、人目を忍んだ愛の営みであった。

 親友にも打ちあけられない恋――。片思いにも似た感傷的なものだったときならともかく、今となっては告白は禁物だった。マリーアとのことは秘密にしなければならない。カソリック教会に忠実な国に生まれたが故に……。ポルトガルの全家庭を縛ってやまないカソリックの戒律は、離婚と姦通を国王といえども許容しないのだ。

 マリーアは人妻である。ドン・トーマスがたとえ<いける屍>であっても、マリーアとトーマスが神によって結ばれた夫婦である以上、モラエスの介入する余地はいささかもない。国教の掟に背き、ポルトガルの社会から葬り去られる覚悟のできないかぎり、マリーアを本気に愛しているとは、リベイロにだって言えないのだった。

 しかし、あの日の狼狽ぶりだけはリベイロに語って、彼を大笑いさせてみたい。彼は爆笑のあげく、おれをなぐりながら笑いころげるはずだ。あの日、おれはマリーアと思わず視線を合わせたとき、二階から庭へおりる外梯子から転落したのだ。

 あの光景ならおれは、面白おかしく、鮮明に語ることができる。それに、この話はリベイロ好みだ。おれを本の虫だと思い込んでいるリベイロに、このモラエスだって、恋もすれば、愛ゆえに空虚(うつろ)ごころになることもある、と認識させるのは愉快なのだが……。

 海兵の卒業を間近にした五月の、ある暖かい夕方だった。散歩に出かけるときの習慣で、いつものようにおれは、外梯子を伝って庭へ降りようとしていた。もっとも、隣家の庭に今をさかりとブーゲンビリアの真紅と紫が咲き乱れていることと、緋桃の老樹に(もた)れたマリーアが、大分前から放心していたのを、階段を踏みながら意識していた。ためらいがちにおれは、緋桃の幹の方へ目をやった。階段はもう三分の二は降り切っていた。隣家の庭を一瞥するためには、そこで目をあげなければならない。でないと、境界にある塀が空間を截り、視界を遮ってしまうのだ。

 マリーアは、おれがドアーから姿を見せたときから、じっとみつめていたにちがいない。目が合ったときおれは、ひどい衝撃を感じた。灼きつくされるかと思うほどの視線であった。ああいうまなざしを、妖艶というのであろうか、ギラギラ燃える強烈さであった。無意識におろした片足が宙に舞って、おれの五体は投げ出されていた。

 あの目は哀恋と思慕の炎だった。おれは墜ちながら、周囲が真紅に焼け爛れる光景を見た。ちょうど、エジプトの砂漠に輝く夕陽を、初めて目にとめたのにも似て……。まさに目頭で火が飛んだ感じだったが、火焔の狂う目頭の印象は、その後しばしばあらわれて、立ちくらみや眩暈を誘うかのようである。

 おかしなことにおれは、転落するぶざまな恰好を彼女に見られなかったかと、地面に叩きつけられた瞬間ひどく気にしたものだ。リベイロの退屈をまぎらわせてやるために話すのだったら、せいぜい美人の注視を受けとめかねて、階段を転げ落ちたところまでだ。彼女が人妻であることと、その後の進展については語れない。つけ加えるとしても、ちょっとしたエクスタシーを覚えたね、くらいのところか。

 恋する女と視線が合ったことくらいで、エクスタシーを感じたり、セックスが分泌を開始する話なぞ、行動的実証派のリベイロは信用しないかもしれない。またもや<文士>のつくり話が始まった……、と言って。

 でも、立ち上がって五、六歩歩きかけてからも、頭のてっぺんまで貫く急激な刺激と恍惚とが揺蕩(たゆた)い、か細い分泌がつづいたのだ。濡れた股間の感触と後頭部を打った痛みとがあって、充実した快感とは言えなかったが……。

 マリーアがほんとうに好きなんだ。おれははっきり自分にいいきかせざるをえなかった。もっとも、カトリックの戒律を破って、地位も名誉も捨てるほどの決心はついていなかったが、マリーアの方は、すでに思慕の域を通り越し、はっきり愛欲のほむらを燃やしていた。それを、全身でかんじるのは確かに快いものであった。爛熟した女の目が、おれを一個の男性と認めて、哀愁のまなざしをからみつかせてくるのだから……。でもおれはまだ逃げ腰であった。

 いや、今だってそうかもしれないのだ。<いらいら、渇きに死ぬ思い>ではいるが、まだ祖国を捨てるだけの決意はない。彼女の体をえた今日だって、愛をつらぬく何の方針も立っていないのだ。アルシーと同棲して、狂気に近い激情をぶっつけるのも、マリーア恋しさのせいであるとすれば、すべてはおれのエゴイズムなのだが……。

 立ちくらみに眩暈――。それに習慣化してしまった頭痛と不眠――。これらの持病が、あの階段転落に発した肉体的障害とは言い切れないが、すくなくとも、執拗な頭痛の始まりはあのころだから、痼疾の原因は多分に精神的な要素がある……。

 

 新聞を顔の上に伏せ、丸窓(ポート)から射す夕陽を遮ったモラエスは、甘美なそうして苦痛の伴う追想にふける。

 頭痛はまだ去らない。船は烈しくローリングし始めた。モザンビーク海峡を斜めによぎっているからだ。横ゆれする船は、身もだえする女体のようであった。すぐ近くを、甲高い汽笛を響かせて貨物船が通った。マダガスカル島に向うフランス船ででもあろう。

 ブーゲンビリアの花が咲きほこっていた、五月の午後の出来ごと以来モラエスは、かえってマリーアから目をそむけていた。幸い海兵の卒業試験の厳しさと、卒業後の忙しさが救いになった。少尉に任官し、モザンビーク派遣の命令を受けたとき、彼はむしろほっとする思いだった。咆哮する野獣そっくりであるトーマスの狂気の絶叫や、憂い顔のマリーアから遠ざかれば、心の平安もえられるかもしれない、と考えたのだ。烈しい勤務と灼熱のアフリカでの生活が、甘っちょろい感傷など吹き飛ばしてくれるだろう……、と義務駐屯のモザンビークへ、彼は喜んで赴任したのだが……。

 初めての海外生活の多忙や珍しさで、狂おしいほどのマリーアへの思慕を紛らせえたのは、ほんの一年少々だった。遠くへ離れれば離れるほど、日数が経てば経つほど、彼女への思慕が烈しくなっていった。

 東アフリカへ出発する日の朝、ドン・トーマス家を思いきって訪ねた。長途の旅に出る以上、親類縁者への挨拶回りは当然の義務だった。狂える主人トーマスは、ベッドのなかであえいでいた。幽鬼そっくりの顔の、トロンとした目つきの従兄は、もはやモラエスが誰だかを識別する能力さえ喪っていた。マリーアは悲しげに、

「もう、あたしだけしか判らないのです。いいえ、あたしが何者なのかさえ判らないときさえあるのです。……かわいそうな人……」

と言った。

 アー、アー、アー、赤ん坊のような声をたてる従兄の病室で、<あなただって、かわいそうだ!>と叫びたくなるのをモラエスはこらえた。アフリカ赴任を機会に、マリーアを忘れようと思っていたからだ。

一路平安(ボン・ヴォアヤージュ)……」

 別れをつげ、玄関を出るモラエスの手を握りしめたマリーアの声が、アフリカへ来てからも耳を去らなかった。が、モザンビークへ到着したという儀礼的な手紙を出しただけで、ひたすらマリーアを忘れることに彼はつとめたものだ。

 最初の手紙はマリーアの方からきた。吟遊詩人時代の昔からの、ポルトガルの男女交際の習慣とは逆であった。もっともそれは、愛の告白というより、トーマスや自分の近況を述べたり、文学についての感想をしるしたものだった。文化果つる未開の植民地での退屈さもあって、モラエスの方からも手紙を書くようになった。マリーアに深入りすまいという自戒はすでにくずれていた。

 フランス語の教師であり女流詩人であるマリーアは、フランス文壇の動きにくわしく、まるで、自分自身がパリーにでも住んでいるふうな調子で、フローベールやドーデやゴンクールやゾラやモーパッサンやルナンやゴーティエのことを書いてくるのが、モラエスにおかしみを感じさせた。彼女の意見には、彼もまったく賛成であったが、フランスの新鋭ゾラの評価には異論があった。

 とくに、一八七七年にゾラが発表した、『居酒屋』に対するマリーアの評は頷けなかった。モラエスは何度も、ゾラをめぐってマリーアと意見を交換した。うまく言えなかったが、ゾラを手離しで賞讃するのは危険だと彼は思った。新しい文学とは、こういうものでいいのだろうか? という疑念があった。《即物的で露骨な、むき出しの写実が、ぶっ壊し破壊した後に、人生に何を寄与するというのか? 新しい文学が望まれるならば、ゾラ以上のものが必要であろう。実験的試みだけにすぎないならば、バルザックがすでにはたしている。読者を突き刺し、全肉全霊を感動させる、鋭利で多角的な表現を獲得しなければならない。嘔気、悪感、忿怒、嫌悪、恐怖、憎悪、愛、恋、恍惚、溺愛、絶望、悲哀など……、いな、空気や太陽や雨や風や匂いまで捉える必要がある。人間感情の振幅の微妙で複雑で烈しいのを定着させることは可能か? ゾラにははたしてそれがあるか? わずらわしいほど下手な事象の羅列があるだけではないか? 人間を、人生を、巨視的にまた微視的には捉える複眼が》……。などとモラエスはマリーアへ書いた。

<彼女がゾラに共鳴するのは、境遇のせいではないだろうか>

 ゾラが『居酒屋』に続いて書いた、『愛の一頁』を読みながらモラエスは思った。マリーアが淋しいのは判っているし、鬱積した感情を文学に向けている彼女のことだから、ゾラやゾラに追随する人びとの一連の作品にある、一種むきだしな人間性の把握の仕方に、無意識的にひかれるのではないか、という想像はできた。廃人を抱えた三十路女の欲望を、そこに見るのは思いすごしであろうか。そう思うかたわらから、マリーアの空閨のもだえが、直接自分の、彼女への思慕と苦悩につらなっていることにモラエスは気づくのだった。

 全ヨーロッパの婦人のなかでも、もっとも家庭的で地味だとの定評があり、真摯なカソリック教徒であるポルトガル婦人――。その最も典型的であるリスボンの中流家庭の主婦であるマリーアが、男が読んでも一種の刺激を覚える写実的小説に感激するのは、充たされないものを小説に求めているからだと思われた。情熱的なスペイン女と、対照的に引き合いに出される母性的なポルトガル女。ジプシーがスペイン女の情熱的性格の代表なら、ポルトガルの洗濯女は母性的性格の象徴だ。

 ピアノが弾けてフランス語が話せて、刺繍や編物に達者であることは、ポルトガル娘が花嫁となるための必須条件だった。その上に菓子づくりが上手なら万点の資格がある。テーブルクロースやナプキンなど、少女のころから刺繍して貯めたものを、嫁入りにわんさと持参する風習はかなり古い。手芸を愛好する伝統が、家庭的女性をつくり出したのか、あるいは、世界中の海をかけめぐって留守がちだったルジタニア(ポルトガルの古名)男の家を、女手ひとつで守った歴史が地味なポルトガル婦人を形成したのか、そこのところは男性であるモラエスにはわからない。彼の母がそうであるように、マリーアもよく働く。しかも彼女は、家庭の作業のほかに病夫の看護と、フランス語やイタリア語や英語の教授業を兼ねている。フランス語はすべてのリスボン娘が習いたがる。マリーアが生活に困らないゆえんであった。

 ポルトガルが世界に誇るにたる文学者といえば、詩聖と呼ばれるルイース・デ・カモンエスだ。彼は、叙事詩、詩劇、叙情詩と、おびただしい作品を書いた。一五二四年にリスボンに生まれたカモンエスは、初め宮廷に仕え、反対派の手で投獄されたり戦争で片目を失ったりした。のち澳門(マカオ)で役人生活をし、マラッカなど東洋の島々を巡り、一五八〇年リスボンで死んだ。対話形式の牧歌や悲歌や十四行詩(ソネット)などの、豊かな叙情が若いモラエスには魅力だったが、海賊的好戦的ルジタニアの血統と、冒険好き探検好きの民族の末裔であるポルトガルの男子一般と同様に、カモンエスの長篇叙事詩『ウス・ルジーアタス』も好きであった。

 探検家ヴァスコ・ダ・ガマの、印度(インド)航路発見の偉業をテーマに、海軍国の歴史を巧みに唱いあげ、ルジタニア人の勇敢さと栄光を讃えた民族詩が『ウス・ルジーアタス』だ。日本へ漂着して鉄砲を伝えたと自称する、フェルナウン・メンデス・ピントの『巡暦録』やベルナルド・ゴーメス・デ・ブリートの『海難史』などともに、十八世紀以前のポルトガルが産んだ海洋文学である。

 十九世紀に入ってからは、アントーニオ・フェリシアーノ・デ・カスティーリヨがある。<吟遊詩人>時代と呼ばれる、感傷性や悲哀性の強い、沈鬱な文学が流行した一八四〇年から一八五〇年へかけての、ポルトガル文壇の総帥である。マリーアが研究している「コインブラ論争」は、このカスティーリヨと、コインブラ(ポルトガルの学都、歴史の古い大学や図書館がある都市)の写実派の若い作家たちとの間に行なわれた。かつて文学をカスティーリヨに学んだアンテーロ・ケンタールが、老師カスティーリヨを猛烈に批判した。古いローマン派の誇張的表現と感傷過多を攻撃したのだ。が、口火を切ったのはカスティーリヨの方で、写実派に対するカスティーリヨの批判から論争がおこったのである。そして、この文学史的事件は、ポルトガルの十九世紀の文学史を、前期と後期とに区分する明確な分岐点をなした。

《……ポルトガルの文学は、あなたのご意見の通り、「コインブラ論争」まで立ちもどり、カモンエス以来の伝統と断絶をそこで窮めるべきでしょう。近代文学に逆行するかのようですが、やはりカモンエスの時代の自信を、ポルトガル文学は恢復する必要があるかもしれません。新しい文学の呼び声がありながら、その胎動すらみられないのは、「コインブラ論争」が徹底的に深められず、ごまかしと妥協に終った悲劇にもとづいていることについて、あなたの考察に賛成です。ただ、この論争を単に、世代論で片づけるのでは困ると思います》

 などとモラエスは、マリーアに書き送ったりした。独創的な意見なぞ持ち合わせての文学論ではない、書物でえた受け売りにすぎない、フランスの新しい文学運動への異論も書き送った。要するに内容は何でもよかった。マリーアと手紙を交換することが目的だった。

 文通の間に、アフリカ生活がどんどん経っていった。

 

 ……ジュセリーノがいけないのです。毎日とてもひどい発作で、あたしはもうほとんど絶望しています。ゆうべも、おとといも、そして今夜も徹夜で看病です。あのおとなしい、柔和でさえあった人とも思われないほど、ジュセリーノは暴れるのです。叫び狂う夫をベッドに押さえつけ、懸命な力をこめて発作の通り過ぎるのを待つのですが、腕がしびれ、狂暴に荒れる病人に押し返され、はね除けられ、胸板も折れるような感じです。一緒に狂ってしまった方がどんなに倖せであろうかと、ひとり涙が溢れ、心が痛むばかりです。

 病人の方は平気なもので、嵐がおさまると、自分の胸に打ち伏しているあたしをみて、不思議そうに顔をみつめるのです。ほんとうに、とても不思議だといった目つきをして……。そして、あたしの涙が頬の上に落ちるのを、とても変だと考えるらしいのです。

 狂っているというのに、思索する人のようです。まるで考えごとをしているような仕種と目つきなんです。ほんとうに考えているのでしょうか。あたしが何であるかさえ、もう、まるっきり思い出せもしないのに……。その上、あたしの涙が冷たいので、いやがるときさえあるのです。イヤ、イヤをして……。赤ん坊がするように首を振って。

 キョトンとして、世にも不思議だ。と、いった子供そっくりの顔つきを、まじまじと眺めていますと、あたしはがっかりさえしてしまうのです。

 涙も白々と乾き、あたしは笑ってしまう。この人は自分が狂っていることすら、すでに気づかなくなってるのだ……、と。

 服を着替える暇もなく、つきっきりのあたし、あたしの方がずっと不幸かもしれません。ジュセリーノは太平楽です。悩みも何も忘却しているのですもの。あたしは少しやせ、大変疲れています。

 あまりのご無沙汰をしてしまったので、どうしているだろうかと、きっとお心を痛めてくださっていると思って、かえってご心配をおかけするような手紙ですけれども、出さないよりは……と、あたしの赤ン坊が、嵐のあと、スヤスヤ眠っている間にペンをとりました……。

 

 マリーアの手紙を手にしてモラエスは、胸をつかれ、自分も狂いそうに思った。

 やつぎばやに慰めの手紙を何本も出した。看病で生命を縮めないように……、などと書いて。

 マリーアからは、二か月も三か月もたよりがなかった。

 手紙がこないことによって、かえってマリーアの嘆きともだえが聞こえるようであった。それにかぶって、よく耳にしていたトーマスの、たけり狂った発作時の大声が、怒濤のように耳底に湧きかえる。

 マリーアが、古い恋の歌をかきつけて送ってきたのは、そのころであった。

 詩のほか何も書いてなかった。ポルトガル最古の文学といわれる、吟遊詩人パイオ・ソアーレス・デ・タヴェイロスの『女の友のうた』のなかの一つだった。やさしい、貴族的な、それでいて大胆な古歌である。その詩に対する『男の友のうた』のなかから、何か一つを選んで返信しようと彼は考えたが、ふと思いついて、ダンテのソネットの一つを書き送った。

 

 嘆け 恋にうち慄える人よ 君よ

 しばし見よ 悲しみのわれほどに深きはなし

 わが愁いのうたをこそきけ 君よ。

 されば面にも涙にも悩みこそしらるれ

 わが苦悶(くるしみ)を開かん鍵は御身の手に。

 心弱きゆえに愛の神に見離されしは宿命(さだめ)

 けだかくほまれ高きやさしの君。

 失うなかれ 自負と誇りと愛を。

 ああ よき人に神恵(めぐみ)ぞ満ちん。

 されど今は(いと)しき御姿はなし

 わが喜びは失われ(いたず)らに嘆くのみ。

 うつせみの身はやすからねども今決意(こころ)せん。

 秘事(ひめごと)を捨て よろこびもあらわに

 消えなんとする愛のうたを高らかに唱わん。

 

 マリーアの書いてきた古歌をモラエスは、あらわに求愛できない立場にある彼女の、一種大胆な愛の告白と受け取った。意外な感じも、とまどいもなかったのは、すでにして、こうした日のくることを彼自身が予期していたからというより、むしろそれを希求していたからであろう。

 モラエスは本当に決意した。もう何もはばかるまい、忘却を誓うより、愛の炎に身をまかせよう、と。その方が、苦悩もいくらか少ないような感じであった。

 というものの、カソリックの国の人妻への手紙である。ポルトガル語では危険が伴う。ダンテの詩も、イタリア語のままであった。

 

 ああ どこのどなたが このあたしを癒してくださるというの

 おてがみでの言伝てなどご無用です

 ただ一つの あたしのねがい それは

 一日も早く お姿を見せて下さること

 ことばなぞ まことにはかないものですから

 

 あたしの身と心とを灼く火をお消しください

 この火は誰にも消せない火 あなたのほかは

 このあたしの目に もし涙がありましても

 お姿がはっきり見えますように

 

 あなたこそ あたしの光

 そして あたしは あなたのお姿を仰ぐため

 とても 目をだいじにしているのです

 みつめていらしたわね いつだったか

 あたしの髪の毛が一本 うなじにほつれ五月の風になぶられるのを――

 

 マリーアは、またしても詩を書きつけてきた。フランス語だったが、スペインの古詩からの翻訳のようであった。しかしそれは、いつかの夕べの光景を生き生きと歌いあげたかのようで、あの日の羞恥と狼狽と幸福感とを、モラエスの内部によみがえらせるに充分であった。

 せきを切ったような恋情が、アフリカの太陽よりも烈しく、モラエスの身と心とを灼いた。マリーアが、夫のトーマスの近況にまったく触れなくなるのに時間はかからなかった。フランス語の手紙が、毎日のように――、ときによっては、一週に五通も届くのであった。彼の方も出した。マリーアに負けないだけの量の、フランス語の恋文を。

<あなたのお姿を見たい>と、マリーアはいつも書いてあった。それは、まだ兵学校の学生だったモラエスに、彼女がそそいでいたまなざしにも似て、彼の心を射るのだった。モラエスもマリーアを見たいと思った。が、指折るまでもなく、モザンビーク駐屯の義務年限は、まだ十五か月も残っていた。

 マリーアのほむらを鎮め、自らを灼く火を消す手だてを、一年三か月の勤務と、一か月近くかかる海原(うなばら)がさえぎっていた。

 印度洋、紅海、スエズ、地中海、ジブラルタル海峡、カディス湾、大西洋――。リスボンはあまりに遠い。南回りの喜望峰経由なら四十日の航海――。ほとんど絶望的だった。

 

    3

 

 一日が五十時間にも感じられる、とモラエスは書いている。

 彼の宿痾の神経症がひどくなったのは、このころからだった。同僚のリベイロの証言を信ずるならば、それは一八七八年の九月のことである。

 デラゴーア湾沖での砲術演習のさなかに、初めてモラエスは卒倒発作をおこす。彼自身も同僚も、それを暑さと過労のせいにした。その年の九月の気温はひどく高かったし、演習は実戦さながらの烈しさだった。

 その後彼は、しばしば執拗な眩暈と頭痛に苦しむようになる。

 といっても、決してモラエスは病身だったわけではない。あまり大きくないずんぐりした体躯の多いポルトガル人のなかでは、彼は長身のほうだったし、充分な胸囲と頑健な肢体とを持っていた。十五世紀から十六世紀にかけて、七つの海を制覇した勇猛なルジタニア人を彷彿させる骨骼を備えていた。

 神経症以外、彼は病気らしい病気をしなかった。もっとも、恋わずらいと晩年のリョーマチスや腎臓病は除かねばならない。とくに後者は老疾に属する。それに、競漕や遠泳や武術、あるいは陸上の競技や訓練でも、モラエスにかなう者はいなかったくらい元気だった、とこれもリベイロの話である。

 一八七九年、中尉に進んだころのモラエスは、まだ童貞であった。私が言うのではない。リベイロやアマロ・ジョーダ・デ・アゼビエード・ゴメスなど、モラエスの<仲間(カマラーダ)>がこもごも語っているのだ。彼等は、モラエスはリジボア(リスボンは、ポルトガル語の発音では正しくはリジボアである)にいいなずけがいると信じていたそうである。多くの海軍士官がするように、原住民の娘を囲ったり、プアー・ホワイトの女性と同棲したりしなかった、と彼等は力説しているのだが、航海の港、港で、全く娼婦に触れなかったかどうかは、リベイロにしろゴメスにしろ断定は不可能だろう。ただ彼等は、モザンビーク赴任していた最初の三年間におけるモラエスが、女性関係において謹厳だった、と言っているのだと思う。

 宿痾となったノイローゼの発端は、往復書簡によって、彼がマリーアと愛を誓ったころと符号する。まだ紙とペンの上での告白とはいえ、カソリック教国での人妻との恋であるから、これはすでに姦通であった。モラエスの苦悩も想像できなくはない。

 マリーアがどれだけ真剣だったかは、まったく判定のしようがないが、初期においては、ちょっとしたアバンチュールではなかったろうか。相手は異国で軍務に服する青年である。少々大胆な表現を弄しても、精神的な交際にすぎないかぎり、あるていどの安心感もあろうというものである。露骨なまでに悶々の情を寄せている彼女の手紙からみて、淋しさをフランス語の恋文にまぎらせたとも考えられる。

 マリーアはともかくとして、モラエスは本気であった。

 一年と三か月の日々を、苦悩と痼疾に耐えてモラエスが、モザンビークでの生活を一日一日と追いつめえたのは、手紙を書き手紙を受け取るという営みと、リスボンへ還れば、そこに確実にマリーアがいるという希望にささえられてであろう。最初の海外駐屯をつとめあげて帰国したのは、一八七九年十二月十日。モラエスは二十五歳であった。

 

 船は烈しくゆれている。

 モザンビークに近づいたのである。

 緑樹の間にスレートや煉瓦の、褐色や赤が隠見するほどにはまだ接近していないだろう。が、もうそろそろ起きねばならない、とモラエスは思う。「パシエンシャ号」の乗務員のなかで、一番声の大きいゴメス少尉の、水兵に何か指揮している声が伝わってくる。

 モラエスは少し眠ったようであった。烈しい痛みは去っていたが、後頭部はまだかなり鈍い。

 半身をもたげて丸窓(ポート)からのぞく。

 水量の豊かなモザンビークの(ポールト)は、印度(インド)洋に臨んだ東アフリカ屈指の天然の良港である。大陸部とは、モザンビーク水道によって切断されているが、島全体に発達した古い町で、その構造がリスボンに似ている。テージョ川に臨んだ七つの丘と七つの谷とに発達したリスボンの街は、板と石畳が特徴である。コバルト色の空のもとに、あかるい太陽に反射する赤い屋根やピンクや白や青や黄の壁の色、それにコルク樫や先祖が移植した椰子の木の緑――。鉄格子の入った窓――。そのリスボンの街づくりを、そっくりまねたかのようなモザンビークである。

 十五世紀の昔から、ポルトガル領東アフリカの首都として栄えたここは、インド航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマも、ルイス・デ・カモンエスも、メンデス・ピントも、東洋への往復に立ち寄った古い港である。最近はデラゴーア湾に臨んだローレンソ・マルケースに殷賑(いんしん)が移りつつあるが、本国にたとえると、モザンビークはリスボンにあたり、ローレンソ・マルケースは、リスボンに対するポルトである。

 モザンビークの町にも丘が多く、建物も本国風の煉瓦建築がかなりある。もっとも、アラビア系の回教徒や印度人やバントウ族がたくさん住むので、軽易な木造や土づくりの家もあるのだが、ごちゃごちゃとかたまった家並の低い原住民の住居は、椰子や街路樹や丘の緑に隠されていた。(ポールト)には多くの船が集い、終日クレーンがうなりを発して、岸壁に並んだ倉庫のあたりには、点々と椰子が空高く伸び、港の背後の丘の緑が、港の色をエメラルドにみせていた。

 モラエスの仮の住居であるポルトガル風の、十八世紀ころに建った家も丘の上にある。初めおどおどしていたアルシーも、すっかりリスボン風の生活様式になれて、清潔好きのモラエスの気質までのみこんだ。

 丸窓(ポート)からは陸地はまだ見えなかった。

 黒人の小船が、くれないに染まった港内をすべるように走って、薄桃色の空が遮るものもなくひろがっている。

 モラエスは再びベッドに頭をつけた。寝たまま眺めると、丸窓(ポート)の外は空だけであった。

 あの日も、紺碧の海が無限にひろがっていた。ここにある印度洋ではない。テージョ川の河口と大西洋とがとけ合っているカスカイスの海だった。「夕刊新聞(ジョナルダ・ノイテ)」に載せた今度の詩、<覚えている>にうたったような真夏ではなく、一八七九年の十二月だった。この前リスボンへ還って間もなくのことであった。

 ユーカリや椰子の並木道を散策するときも、リスボンとカスカイスに囲まれたエストリル海岸でも、マリーアは少女のような身の軽さで、岩から岩へ跳びはねながら、うっとりと明るい表情で楽しそうだった。

 ポルトガルのモンテ・カルロと呼ばれるエストリルの海では、真冬だというのに泳いでいる人があった。夏は冷たくて五分もつかっていると身震いするのに、冬は逆に水温が高いので有名なこの海水浴場は、一年を通じて水泳が可能だ。ここにあるカジノや海水浴場は、クリスマスイブには最高の人出をみる。一番寒い一月でも、カスカイスの気温は二十五度ていどであるから、フランスの金持が別荘を争ってここに建てる。

 トーマスの看病を家政婦にまかせて、一日暇をつくったマリーアは、いつもの地味な黒衣(シレイ)を脱ぎ、まるで乙女のような服装をして、エストリルの浜へ遠出してくれた。若々しい彼女は、モラエスに年上の人妻をまったく意識させなかったものである。

<地獄の口>という、怒濤が奇岩を噛む、カスカイスの西の方にある名所を見物したのは昼過ぎであった。亭々と波間に立つ奇岩を一望できる岩陰で、マリーアは嬉々として弁当を開いた。料理自慢のマリーアの、用意してきた食べものの味は見事だった。初めて、粗暴でぎこちない仕種で彼女を抱き、唇を合わせたのもその岩蔭でだった。

 マリーアはあらがった。彼の分厚い胸を突き、身もだえしながら、たくましい腕から逃れようとするように。

 モラエスは意外の感に捉えられた。アフリカへの手紙は、あれほど大胆で熱っぽかったのに。

 一層彼が荒々しい行動に出たのは、羞恥を捨て切れないというより、カソリックのきずなから踏み出そうとして迷っている彼女に、かえって心をそそられたからであった。

「なぜ……」

 あえぎながら、それでも鋭く彼は言った。

「いけないわ。モライス……。モライス、だめよ」

 慎しみと恥じらいを失った若者の抱擁のなかで、首を右にまげ、左にまげ彼の唇から逃れながらマリーアは絶句した。

 ほんとうに避けようとしているような、逆にあふりたて、そそりたてるような仕種であった。

「あたしがいけなかったんだわ。許して、モライス! 悪い女だわ。あたしって……」

 なお言いつづけようとする女の唇を、彼は狂暴におおった。

 マリーアの碧い目の奥に彼は、期待と感動と悔恨とが交錯するのを見た。

 夢中の挙動の間にモラエスは、マリーアが首にかけていた金の鎖をひきちぎっていた。岩の上に銀の十字架が落ちたのに、マリーアは気づかなかったようであった。うっとり目を閉じた彼女は、情事に慣れた人妻らしく、微妙な変化を体いっぱいにみせて、しばし媚態をくずそうともしなかった。鈍く光る<十字架(コンタス)>を、モラエスはそっとポケットへ拾った。

「許して……」

 マリーアはもう一度言った。呟くように小さい声であった。

 マリーアの眸に、雫のような涙がもりあがり、頬に一筋流れたのは、静かでけだるいひとときが流れてからであった。

 どういう話をしたのか、黙って坐っていたわけではないが、会話の内容はほとんど思い出せない。何度か接吻を繰り返しているうちに、どちらからともなく饒舌を取りもどしたのは覚えているのだが……。

 ホテルへ入ったのは夕方であった。逡巡と抵抗感はないでもなかったが、まるで夫婦者のように堂々と部屋へ通りえたのは、散策だけでは別れがたかった情感のせいでもあり、飛翔にはやる二人の渇きのせいでもあった。

 二階の窓から、暮れなずむカスカイスの海が見えた。

 ちょうど、今丸窓(ポート)から眺めている海のけしきとそっくりであった。

 入港の迫った「パシエンシャ号」は、しだいに生気を取りもどし、喧噪と活気が充満し始める。モラエスはゆっくり腕時計を見る。休憩時間はまだ一時間もあった。

 そうだ、あのときも腕時計を見たっけ。泊るわけにはいかないマリーアのために、何度も何度も……。それほど時間を気にしていたわけでもないのに。

 精神的なというより、むしろ宗教的な苦悩に耐えていたのであろう、蒼ざめたマリーアの顔が、長い間うつむいていた。深々したソファーに凭れ込んでモラエスは、彼女のうなじをまじまじとみつめていた。

 苦しい、長い時間だった……。

 マリーアの顔に、一瞬決意のような輝きが浮かび、思いつめた表情が潤っていくのを、胸の隆起に頬をくっつけたまま、割合冷静に彼はうかがっていた。

 悔恨はなかった。空が紫からピンクに、そして(あかね)に染んでいくのを目にとめながら、彼はほとんど感動していた。惜し気もなく裸身を残照にさらしたマリーアの白皙のすべすべした皮膚に、薄く紅がさし、しっとり潤おう肌を、じっと彼は抱いていた。マリーアのほうは、嬰児に母親がするような仕種で、日焼けしたモラエスの裸身をまさぐり、ときどき小さな叫び声をあげた。彼はしなやかな肢体にジプシー娘を連想し、白い肌にまといつく金髪にパリジェンヌの幻想をみた。

 カスカイスの景観、<地獄の口>を眺めたのは昼だったが、現実の<地獄の口>に二人はいた。いや、カソリック信者一般からいえば、汚辱と堕落の断崖をすでに転がっていた。

「あたしたち、とうとう地獄の門をくぐってしまったのね」

 思いつめたふうにマリーアが口にしたとき、モラエスはギクッとした。衣装箱のなかへ脱ぎ飛ばした上衣のポケットに、マリーアの<十字架>が入っているのを、瞬間想念に浮かべたからだ。ポルトガルのすべての国民が、熱心なカソリックの信徒であるというしるしの十字架である。

「こうなる前だって、ほんとうに地獄の苦しみだった……」

 モラエスは答えたが、辿りつくべきところまで辿りついて彼は、<薔薇の門にしなくては……>と心のなかで呟きつづけた。

 

 愛しき人よ ぼくのすべてを

 君にささげん 光と風と夢と……

  ぼくの欲しいものを全部

  愛しいあなたに

  名声も 黄金も 栄誉も 才能も

 

 彼は低く口笛を吹いた。流行歌だった。

 すべてが終って、すべてが始まろうとしている、とそのとき彼は思ったものだが……。

 あのとき、確かマリーアはうっとりとして――、にっこり微笑んでいた。

 身づくろいをしたあと、あの<十字架>を渡した。マリーアは蒼ざめ、放心して、切れた鎖をまさぐっていた。つっ立っている彼女を眺めるのが息苦しく、彼は窓ぎわに寄ってカーテンを開いた。すっかり暮れた海と、カジノのまばゆい耀きが、夢のなかを思わせた。マリーアが、スペイン娘からポルトガルの主婦に還っていくのを、彼は背中全体で感じていた。

 その翌年の一八八〇年は、一年中リスボン勤務だったから、人目をさけて郊外をあるいたり、夜更けの街角で忍び逢ったりもできた。再三家を留守にできないマリーアだったが、それでも何度か、エストリルの浜辺やアラビダ高原を逍遥した。

 愛の始まりから、結末のわかっているロマンスだった。破壊と背信の苦悩が大きければ大きいほど、冒険心もそそられるし、歓喜も大きいのだが、夢中になり求め合ったあと、きまってマリーアはトーマスのことを思い浮かべるようであった。彼女が人妻であり、トーマスが病人である以上、それはどうしようもないことであったが……。

 このまま時間が静止して、この倖せが永遠につづくのだったら、などと夢中で口走っていた彼女が、そそくさと帰り仕度を急ぎ始めると、モラエスは白々とした苦悶がかえってくるのを覚えるのだった。しょせん<地獄の口>の奥は地獄であった。

 破局はあんがい早くきた。緑に蔽われたシーントラの町に遊んだとき、空気の澄明な保養地の宿で、日帰りの予定を二人は破った。帰らなければというマリーアに、モラエスが短気な怒りをぶっつけたのだ。彼はマリーアを帰らせなかった。

 激情と激情をぶっつけ合う一夜が明けて、リスボンへ帰ったマリーアは、ベッドから転落して、ほとんど虫の息になっているトーマスを見た。家政婦は夜までという約束どおり帰ってしまっていた。もう半日帰宅が遅かったら、トーマスは絶命していたにちがいない。

 彼女は罪の意識に怯えた。

 ……逢えば逢うほど苦しくなり、それでいて、お逢いせずにおられないあたしですが、瀕死の状態にあるトーマスを捨てることはできません。すでにトーマスを裏切ってしまってあたしは、心から悔悟し懊悩しています。

 あたしを、おあきらめください。罪と穢れとに満ちたあたしのことを、おあきらめくださいまし。そして、新しい幸せと、あなたの未来をお祈りさせてくださいまし。この、愚かなあたしのことなぞ、二度と再び思い出さないでくださいませ。

 さようなら。あたしのいとしい人。あたしに倖せと慰めと勇気を与えてくださった方。

 あたしは、ひたすら神様にざんげして、あたしのジョセリーノのために生きる決心をいたしました。さようなら。ほんとうに……。

 乱れた字の走り書きを、約束の場所にしていた公園の薄闇のなかで、モラエスに手渡したマリーアは、うしろも見ずに走り去った。

 モラエスの哀願も画策も空しく、遂にマリーアは、トーマス家の主婦の垣根をはりめぐらして、ただひたすらおののいていた。

 上官にすすめられるままにモラエスは、三年間の駐屯の約束で、再びモザンビークへの()についた。一八八一年の三月である。マリーアは出航の見送りにこなかったのはもちろん、彼が挨拶のために玄関を訪れたときも、かたくなに扉を閉ざして逢うのを拒んだ。

「お友だちの昔に返してくださいまし……」

 ドアーの向こうで、泣いているマリーアの気配があった。

 マリーアへの手紙を、モラエスはモザンビークから書きつづけた。が、マリーアは何の返信もよこさなかった。

 リベイロの仲介でアルシーを傭ったのも、マダガスカル島でフランスの娼婦におぼれてみたのも、強い酒に親しむようになったのも、二度目のアフリカ生活が始まって半年くらい経ってからだった。

 もっとも、ごく最近になってマリーアは、ときおり手紙をくれるようになった。感情的なことは何も書いてない。時候見舞的な儀礼一辺倒のものである。まれに、再び研究し始めた「コインブラ論争」などに、ほんの少し触れてくることもあったが……。

 黒い強靭なアルシーの肌を、いじめ抜くような愛撫に憂いをやるなかで、<覚えている>という詩をモラエスは書いた。マリーアに捧げる詩だ。郵便で彼女に届けず、新聞に発表するのは大胆な行為だったが……。自らを押し殺している彼女のこころを、何とか呼び起こしたいばかりに。

 

 握ったまま眠ったので、新聞がクシャクシャになっていた。皺になった線のちょうど真上に、<ああ、ぼくは渇きに死ぬ思いだった! いらだって>と、活字が残照のなかでゆらいでいた。

 おれは今だって、渇きに死ぬ思いだ。ほんとうに……と、モラエスは思う。洗濯女をもう一度ジプシー娘にするてだてはないものか……。

 烈しい音をたてておろされる(アンコーラ)が、船全体をゆすぶる。「パシエンシャ号」が港内へ入ったのだ。

 碇の吐き出されるすさまじい金属音が、頭痛の去りやらないモラエスの頭いっぱいに響く。上半身を起こした彼は、首を軽く振ってみる。振ったら頭痛が消えるわけでもなかったが……。

 ものうさは消えているし、起き出して勤務ができないほどの頭痛でもない。リベイロが、ササールに逢いたがっているほどには、アルシーが恋しいモラエスではないが、久しぶりの帰港だ、嬉しくなくはない。大きい欠伸(あくび)をした彼は、ゆっくりベッドをおりた。「夕刊新聞(ジョナルダ・ノイテ)」を丁寧に折ると、読みかけの書物の間に挟んだ。

 下船の用意はすでに終えてあった。ベッドをたたむ。たたむとそれはソファーになる。リベイロなら、口笛でも吹きつつ士官室(キャビン)を片づけるであろう、とモラエスは微笑する。笑うと起こるこめかみの反作用は消えていた。浅い眠りだったが、やはり睡眠の効用はあったのであろう。陸地がぐんぐん丸窓(ポート)に近づいてくる。もう人影が肉眼に入る距離であった。

 ササールとアルシーが海軍の建物の構内近くの、倉庫の壁にでも凭れているにちがいないと、少し目を凝らしてみたが、船足の方が速くて民間埠頭はすぐ後方になった。マリーアから手紙がきているだろうか……。アルシーのことより、「友だちの昔におかえしください」という人妻にばかり捉えられている。

 タラップを足早に上りする水平の足音が、うるさいくらいになる。モザンビーク入港と同時に、久しぶりに解放される荒くれどもは、満面の髯をほころばせて、ゆっくり甲板へ上っていくモラエスに敬礼した。

 海はもう鉛色で、周囲はすっかり暮色だったが、暮れなずむ空が意外に明るかった。めざとく彼をみとめたリベイロが、軽く片手をあげて合図する。リベイロから何か指示を受けていた下士官が去ると、彼は靴をならして近づいて来た。

「どうだ眠れたか……」

 声は生真面目だったが、目が笑っていた。

「うん。いくらか……」

 つとめて快活な声でモラエスは応える。疲労は綺麗に消えていた。

「アルシーが今夜は眠らせないから……」

 リベイロが大きな掌で肩を叩いた。

 確かにそうかもしれない。どのように烈しく愛撫しても、アルシーは疲れを知らぬ。単純で、動物的で、それでいて未開の沃土にいどむような魅惑もある。それは、文明も文化もないのに、西欧人をひきつけてやまぬアフリカ大陸に似ている。征服し奪いながら、罪の意識を拭い切れないアフリカ支配に似て――。

「ササールだって待ちかねているよ」

「そうなんだ。おれだって待ちかねている。海の上を歩いて行きたいくらいだ。畜生!」

 モラエスの反撃に、リベイロが澄まして答える。陽気な声だ。

「取舵!」

 艦長の張り切った声が、指揮塔からふってきた。モラエスとリベイロは顔を見合わせて首をすくめる。左舷に埠頭が迫って、出発時以上に、「パシエンシャ号」が慌しくなる時間が近づいていた。

 

    4

 

 十六世紀の初頭につくられた三つの城砦が、モザンビーク経営の記念物として保存されているのが象徴するように、ここは奴隷貿易基地として発展した。一五〇五年以来、政府は植民を行なっているが、住民のほとんどはバントウ族である。モザンビークの町は小さな島にあるけれど、大陸部の方が広大で、七十七万平方キロもあり、ポルトガル本国のおよそ八・七倍にあたる。

 モザンビークの大部分は、ザンベージ、リンポーポサービなどの大河の、下流の低湿な海岸平野で、西につらなる台地地帯とともに開拓は充分ではない。ポルトガル政府にかぎらないが、西欧諸国のアフリカ開拓は、文明と文化をもたらさない。奪うだけである。かつて、奴隷を積み出すためにのみアフリカ大陸が存在したように。

 モザンビークは、エチオピアやケニアやポルトガル領アンゴラほどの未開地ではないが、機械文明の投入がないから、原始産業を一歩も出ない状態で低迷している。そのくせ人口密度はアフリカでは高い方だ。南アフリカ同様気候のいい地方だから住みよいのであろう。代々の総督が無能だったとは、モラエスだって思わないが、本国の指導や経論はよくなかった。四世紀にわたって掠奪方式がつづいている。与えたものはカソリックだけだ。

 海岸や川岸やデルタ地帯の農園では、サトウキビ、サイザル麻、ココナツ、茶、タバコ、柑橘、落花生などをつくるが、あまり大がかりなものはない。現住民たちは棉づくりや米づくりで生計をたてたり、マングローヴの樹皮や蜜蝋の採取に従ったりするが、平均に貧しく、鉱山地帯の労働者になる者も多い。ポルトガル政府は、植民地に対して何の施策ももっておらず、むしろ広大な植民地をもてあましている。

 かつての植民地の多くを、売却などによって他国の手にわたしつつあるから、モザンビークだって、やがて他国の手中に帰するかもしれない、とモラエスは不安を覚えることがある。もっとも、まったく開発しないポルトガルが領有しているよりは、セイロン島がイギリス人の手によってよみがえったように、植民地行政に熱心な国が管理する方が、住民のためには幸福かもしれなかった。

 開発されていないのは、農業や林業だけではない。鉱産資源に富むザンベージ川中流のテーテ周辺にしたところで、石炭や金を小規模に採掘しているにすぎない。モラエスの所属している軍艦は、モザンビーク政庁に属し、貧弱な国土で、掠奪同然に利潤を吸いあげる商社を保護していることになる。産業は零細だが、資本投下はほとんどないからまるもうけであった。

 モザンビーク港も、デラゴア湾のローレンソ・マルケース港も、ベイラ港も、そうしたアフリカ物産の積出地である。

 ポルトガルの海軍は五隻の砲艦を主軸とする艦隊で、モザンビーク海峡からデラゴア湾に至る沿岸警備にあたるほか、ザンベージ川航行の終点であるテーテの町まで川をさかのぼって、警戒と保護にあたる。バントウ族はおとなしい種族だが、ときおり小さな反乱や、無益な抗争を起こすことがあったし、どこの国の船ともしれない怪船が、密貿易のために出没したり、海岸地方の農園を襲撃することもあった。

 

 ササールやアルシーが生まれたのはテーテの町である。奥地の炭坑で黒人が反乱を起こしたとき、「パシエンシャ号」はテーテに派遣され、五か月ばかり後方警備にあたったことがある。一八七六年のことで、モラエスもリベイロもまだ少尉だった。そのとき、テーテの町はずれでリベイロが、ササールをみつけた。

 鎮圧戦が簡単に終って、モザンビークへ帰って間もなく、リベイロはササールと同棲したのだ。リベイロが呼び寄せたのか、ササールの方が追っかけて来たのか。

 アルシーという友だちがいるので、モラエスが面倒をみてくれるなら呼びたい、とササールはそのころから口にしていた。

「その友だちと二人して、リベイロに世話してもらったらいい。リベイロ少尉は精力絶倫だからな」

 モラエスは笑って答えたものである。

 マリーアとの文通が、ようやく頻繁になりつつあったころの話だから、黒人娘なぞ問題にならなかったのだ。ところが、今度モザンビークへ来てからのモラエスは、いとも簡単にテーテからアルシーを呼ぶことに同意した。

「失恋か……」

 何かとなげやりで憂鬱そうなモラエスに、リベイロがさりげなく尋ねたとき、

「そうさ。いや、初めから相手がなかったのかもしれない……」

 と、彼は弱々しげに答えた。

「片思いか、古風だな、文士は……」

 リベイロは大声で笑った。

「女を抱くんだな。いちずに女体に耽溺するといい。失恋なんてくそくらえだ。正義感や道徳心なんぞに捉われるから悩むのだ。悩むから頭痛や不眠になるんじゃないのか。性欲だって吐け口がなけりゃ、頭へもこようというものさ。どうだ、ササールの友だち、アルシーとかいったっけ、あの娘を呼んでみようじゃないか」

「うん」

 にえ切らない返事だったが、リベイロの強引な斡旋を、モラエスはむしろ喜んでいるようにみえた。

「黒人娘だからどうだこうだと思うのは、心に偏見を持っているからだ」

 リベイロは、議論を吹きかけたことがある。

「そうじゃない、色が黒いことだとか、人種が違うだとかいうことにこだわっているのではない。結婚する気もない女と、それにいつか別れなければならないのが決まっているのに、一緒に暮らすのが罪だと思うんだ。欲望を満足させるだけなら、娼婦を抱いた方がまだしも気が楽だと言うものだ」

 と、モラエスはむきになった。

「同じことさ、主観の相違にすぎない。商売女より、一人の女との同棲を選ぶ方が人間的だし、愛情も伴う。少なくとも清潔だろう」

「それはかってな理屈だ。黒人の娘にだって未来がある。それを理不尽にふみにじっていいわけはない。君の方には、代償だって与えるんだし、彼女たちの方が白人に抱かれたがっている、と思うエゴイスティックな意識があるんだ。未開地の女に対する恩恵だ、くらいに思っているんだろうが、白人の優越感と現住民蔑視が君のなかにあるね」

 三時間議論しても、いや一晩中やっても結論の出ない問題だ。植民地支配者と被支配民族、白人対黒人、文明対非文明――。十六世紀から今日につづき、未来へ解決が残されていく人類の課題だった。

 リベイロが白人一般の思考に立っているとしたら、モラエスの方は、それより少し黒人に同情的なだけだ。同情の裏に憐憫と共存する優越が潜在している。

 アルシーとはうまくいっているようであったが、病気のほうはあまりよくないようである。アルシーとの同棲生活で、モラエスの対黒人観がどう変化したのか、尋ねてもみないリベイロだったが、モラエスが苦しんでいるらしいのは判る。苦悩はアルシーによっても救われないようで、以前よりひどい不眠と頭痛があるらしい。

「病気休暇をとって、一度リスボンへ帰ったらどうだ」

 今日、下船前のあわただしさのなかで、リベイロはモラエスにすすめてみた。

「くるしいけれど、勤務に差し支えるほどひどくはない……」

 と彼は答えた。

「病気療養をしてこいと言うわけじゃないが、ここの気候がわざわいしているように思うのさ。それに、リスボンの彼女を、もう一度くどいてみたらどうだ。本気にさえなったら、なびかない女はない、とフランスのデューマが言ったそうじゃないか。もう一度、体当たりしてみるんだな。くよくよ思いわずらっているうちに、彼女が結婚でもしてしまってみろ、アフリカ勤務を生涯呪うことになりかねまい。少々荒っぽいが、体を奪ってしまうという手もある。昔の宮廷詩人のような、花よ、星よ、風よ、じゃ心細い。世はあげて行動の時代だ」

 慰めるように、また励ますように言ったのだが、

「だめさ」

 モラエスは吐き出すように答えた。

 ローレンソ・マルケースで下痢に苦しみ、ひどいめにあったリベイロは、生まれて初めて病者の心情と苦痛がわかる気持だった。

 リベイロとモラエスは、笑いながら肩を叩き、互の体をササールとアルシーの方へ押し合ったのだが、手を振って別れてから、アルシーと肩をならべて丘をのぼって行くモラエスの姿を、リベイロは見つめた。彼のうしろ姿は、まるで処刑場へひかれて行く罪人のようだった。

 目を妖しく輝やかせ、体一ぱいに喜びを表しているアルシーと、悄然としたモラエスとの対照が、リベイロにはやり切れないものに映った。

 その夜リベイロは、ランプの芯を何度も截って、ティモール島の長官に、最近任官したばかりのマイヤー大尉に手紙を書いた。マイヤーはモラエスとも共通の親友で、兵学校で一級上であった。

 モザンビークの風土は、モラエスの体によくないらしく、彼は例の神経症をひどく昂じさせていて心配である。アフリカの暑さと乾燥した空気とは、貴官もご承知のとおりで、健康な自分でも耐えがたいくらいである。最近モラエスは、好きな生物学の研究の方も手がつかないふうだが、ティモール島へ行けば、また珍しい植物の採集などに気分がまぎれるにちがいない。それに、ティモールの気候は、ここよりはいいと思う。なんとか彼をティモールへ転属させてやって欲しい……、とずいぶん長文の手紙になった。

 

 丘の上の薔薇窓のある古い煉瓦づくりの家で、やせて碧い目を窪ませたモラエスは、アルシーを抱いて痴呆していた。

 期待していたマリーアの手紙は、二十日間の留守の間も届いていなかった。五週間もたよりがない勘定である。

 妹のフランシスカからの手紙がきていた。

 

 兄さんからお手紙をいっこうにくださらないものですから、お母さまも、私たちもとても心配しています。お母さまは、昨夜も一昨夜も、兄さんのことが、気になって睡れなかったそうです。

  こちらから、私たちの手紙が届いたら、短いものでも結構ですからお返事くださいね。そして、せめて二週間に一度くらいは、私が差し上げているこの手紙のような、長い手紙をくださいませね。

  ご機嫌はいかが……、ほんとうはあまりよくないのじゃないかしら……、体が悪くって、まったく沈み込んでいらっしゃるのでしょう……、ご病気で苦しんでいるのが目に見えるようです。お母さまは、きっと悪いんだわ、と、毎日おろおろしていらっしゃいます。

  手紙のこないのは元気で多忙な証拠だと、お母さまを慰めてみるのですけれども、私だって心配なものですから、慰めの言葉に確信が抱けなくて、女三人でため息ばかりついてしまいます。

  とにかく近況をおしらせください。

  それから、この前のおたよりに、ダル・エス・サラームの植物園を見物すると、書いていらっしゃいましたが、もうご覧になられましたか、お忘れにはならないと思いますけれども、絵葉書、きっと買って送ってくださいまし。各地の絵葉書を、私がどんなに待ちこがれていることか……。

  今に、兄さんの貝殻の蒐集より、私の絵葉書のコレクションの方がたくさんになりますから……。でも、兄さんだって絵葉書を集めていらっしゃるのでしたね。だったら決して忘れませんね。あたしも海軍士官と結婚しようかしら……。そしたら世界中の絵葉書と、世界中のお人形のコレクションができあがるんですけど……、冗談です。それに結婚なんてまだ考えたこともないのです。ほんとうよ。遠く離れて、心配ばかりして暮らす海軍士官の旦那さまじゃ、兄さんと旦那さまと二人分の心配で、私の方こそ神経衰弱になることでしょうね。フフフ……変なこと書いて、おかしいでしょう。でも、もう私だって大人ですもの。

  そうそう、ダル・エス・サラームって、<天国>という意味のアラビア語だそうですね。偶然本で読みました。アラビア人が開いた町なのでしょうか。植物園はすばらしいのだそうですが、モザンビークからはずいぶん遠いのですか? 地図でみると大分離れているようですけれども、ローレンソ・マルケースよりは近いのかしら。

  エミリアが兄さんの貝の蒐集品を、一か月くらいかけて整理しました。一所懸命数を勘定してみたらしいのです。一種類一点で数えると、六三二だそうです。そちらでもう七〇くらいはみつけましたか? そうすると七〇〇種を越えるのですけれども……。

  貝の採集もできないほど、体を弱らせていないことを祈っております。

  貝殻のことより、兄さんがたいせつにされていた魚のこと、きっと知りたいでしょう? どうなっているかと思って……。でも、お教えしないでおくわ。家族のことさえ忘れている兄さんがいけないのよ。

  魚が心配でしたら、長い長いお手紙くださいまし。そうしたらお教えするわ。兄さんのお部屋のものは、皆そのままにしてあります。魚の瓶は、陽が射さないように朝晩場所を変え、一日に一回、水をとりかえて……、ご指示を忠実に守ってね。お池の方の魚は……、もう教えません。二か月も、お手紙くださらない罰です。

  植物たちのことも知らせません。お手紙くださらないなら、水をやるのよしますから。今年は、とても暑いんですのよ。

  私たちは元気です。おたよりくださったら、もっと元気になるのですけれど。

  さようなら。

 あなたのシーカより
   一八八三年六月二十日

 

 フランシスカは、もうシーカ(女の子の愛称)と呼ぶのがてれ臭いくらい大人びてきた。そろそろ結婚の年齢である。エミリアの方だってそうだ。フランシスカとエミリアは三つ違いだった。

 恋人にでも宛てたような調子の妹の手紙は、沈みがちのモラエスの心をなごませた。フランシスカも、エミリアも、それに母も、マリーアの存在につゆ気づいていない。もっとも、人妻を愛して、それもマリーアに思慕して、息子が苦悩し、病気を昂じさせていると母が知ったら、嘆きのあまり病気になるだろう。

 いそいそと、夕餉の食卓をととのえているアルシーを、モラエスは乱暴に抱きしめ、軽々とベッドへ運ぶ。彼女は悲鳴をあげ、足をバタバタさせた。アルシーの足になじまない靴が飛び、フランシスカの手紙で、いくらか平静になっていた気持が惑乱する。

 靴が壁にあたった烈しい音がそそるのか、身もだえて苦しがる黒い肌が煽るのか。

 アルシーの腰にまとった絹のグリーンの布が、鋭い音をたてて破れ、もう一つの靴が床に落ちた。苦痛に耐えている従順さが、急にがまんならなくなり、それが憎悪に変わり、なごんだ気持をひきさく。

 マリーアから手紙がこないことが、アルシーのせいででもあるかのように、怒りをぶっつける営みのなかで、モラエスは泪を流した。わけのない、いわばかってな泪である。アルシーが、不思議そうに彼の表情をうかがっている。おどおどした、潤んでいるが情緒に乏しい、うつろな眸だ。白痴的な目に、彼はトーマスの目をみた。

 アルシーは、智慧をしぼって、期待にこたえようと空しい努力をくり返す。その一つ一つが、マリーアをよみがえらせる。モラエスは笑い出す。どうやらアルシーは、今度の航海のため、彼が性に飢えていると判断したらしい。無知な、彼女らしい愛情である。

 声をあげて笑ったあと、モラエスはぐったりなった。いつもの柔らかい情感はない。アルシーの方も困惑の表情で、無意味に彼の髯や髪をまさぐってみたり、背を愛撫したりした。かつて、マリーアがした仕種そっくりのそれは、彼がこの黒人娘に教えた愛の技巧だった。わずかな旅でも、男というものは、これほどまで情事に渇くのかとアルシーは考えているのかもしれない。疲れを知らない黒い肢体は、激しい、それでいて規則正しい呼吸をくりかえしていた。

 卓子(メーザ)の上に置いた舟型のランプが、ジジイ、ジジイとなき声をたて、一瞬明るく炎をゆるがせて消えた。

 夜気が忍び込み、涼しさが回復し始める闇のなかで、滑稽ともいえるいまの自分の姿を自嘲し、がまんできなくなってモラエスは、ゲラゲラ笑い出した。洞窟そっくりの煉瓦づくりの壁に、彼の哄笑はいつまでも響いた。

 アルシーが低い声で何か言った。土語で、充分ききとれなかったが、夕食はどうするのかと言ったか、あるいは酒はいらないのか、と訊ねたのであろう。彼は酒を飲まずにアルシーを抱いたのは、今夜が初めてであることに気づいた。

 食卓の上の料理は冷めてしまっただろう。酒は欲しくないが腹は空いていた。

 便船がえられたら、この休暇の間に、ダル・エス・サラームへ旅行しようとモラエスは考えた。そこの植物園を見ることは、年来の希望である。隣国のモザンビークで暮しながら、ダル・エス・サラームへ出掛けない手はない。生物学は小学時代から大好きなモラエスである。文学はいわばマリーアの影響だが、植物学や動物学は、先天的に好きな専攻学科でもあった。海兵時代から、リスボン生物学会に籍をおいているのも、生物学者になりそこねた韜晦(とうかい)と自己満足である。

 リベイロを誘ってみようか、でもあいつは行かないだろう。仕事と女と酒のほかには、何の興味もない軍人である。でも、旅行好きだが……。一人ででも行ってくるか、アルシーとたわむれて過ごすだけではつまらない。のんびり植物を見て歩こう。体のためにも。

 アルシーがそーっと身をひき、起き上がろうとするのを、モラエスはもう一度抱いた。空虚さをむりに充足させようとして。

 開け放った薔薇窓の、鉄格子ごしに見える空は、宝石をちりばめたように満天の星であった。

 

  六月二十日づけの手紙大変うれしかった。ちょうど航海に出掛けていた留守に着いていた。ローレンソ・マルケースまで行っていたのだ。

  手紙を出さなかったのは、その航海のためで、ぼくはとても忙しかった。したがって大変健康だったと言うしだい……。いや、そう言えば嘘になるかな?頭のいいシーカの目をごまかすことはできないと言うものだろう。でも、元気だったんだ。ほんとうに。

  夏の休暇――たった二週間きりの休みだが、その休暇をたのしみ、有効にに使うため、<天国>へ来ている。そう、ダル・エス・サラーム見物だ。もっとも、今日の夕方、ここへ着いたばかりだから、植物園は明日のたのしみと言うわけ。

  リベイロ中尉、知っているだろう。ジョゼ・アレイゾ・リベイロだ。この前、家へつれて行ったから覚えているだろう。

  彼と二人での私事旅行だ。

  もう街の見物はすませた。見るところなぞほとんどない。小さい町で、市街らしきものは一握りの、ちっぽけな区域だ。タンガニーカの主都とは思えないくらいだ。古城や寺院もたいしたものではない。が、港は綺麗だ。モザンビークよりはるかにスマートで活気がある。ただし、うんと暑い。赤道に近いのだから当然だが。

  夜がふけると、町並や市街地のほぼ中央にある広場まで、猛獣たちがのこのこ出て来て、夜気を震わせることがあると、ここのホテルのボーイの話だ。したがって夜更けの外出は厳禁だと言う。すぐ近くが密林なんだ。

  まず、文化果つる田舎町だね。

  ところで、ぼくの体のことだが、ほんとうに安心してよろしい。ほんのちょっとした不眠、それに、睡眠不足で頭が痛むだけなんだから。

  寝つけないので、つとめてコーヒーをのまぬようにしているが、コーヒーの産地にいて、ここのうまいコーヒーがのめないのはまったくばかげている。コーヒーを味わうのは朝にしている。もし夕方にでも口にしようものなら、一晩中ねむれなくて死の苦しみだ。

  空気が乾くのも、暑いのもよくない。リスボンも今年は暑いそうだが、リスボンの暑さなどものの数ではない。お前には、アフリカの灼熱は想像できないと思う。

  それに、雨がほとんどない。印度のゴアや、ティモール島の方が、スコールがあるから楽かもしれない。それでも、東南アフリカは、アフリカのうちでは棲みよい地方だ。

  海と空の藍の間を、ぼくの乗組んでいる「パシエンシャ号」は、波をけたてて走り回っている。

  仕事はほとんど海上だ。たまさかに、テーテまで、ザンベージ川を遡行(そこう)することもあるが、だいたい印度洋上か、モザンビーク海峡で活躍する。

  海上から眺めるアフリカ大陸の岸辺は美しく、異国情緒ゆたかだが、熱帯のせいで潤いに欠ける。それに、奥地へ入ったら地獄だ。勤務で浪の背に乗っているかぎりにおいて、ぼくは健康で快適なのさ。少なくとも病人ではないね。

  ぼくに与えられている小さい船室の住いは――、キャビンを四人で占領している――とてもいい。そして、かなりぜいたくなものだ。つらい生活でないことを納得してもらいたい。

  陸へ上ると不眠が襲ってくる。一種の呪いだ。疲れ切るまで読書をしたり、ものを書いたりする。

  頭を酷使するから、よけい頭痛が訪れるかもしれない。頭痛がくると、今度は痛みで眠れない。

  おそろしく頭がさえているのに、ガンガン痛む。充分熟睡できないから、頭痛とか眩暈といった症状もあらわれるのだろう。

  で、つとめて航海を希望して、紺碧の海に出る。

  印度洋の空と海を、シーカにみせてやりたいくらいだ。

  水平線の彼方に、白っぽく暗黒大陸が横たわり、双眼鏡だと、空中にぽっかり漂っているような、キリマンジャロの雄姿が望めるときがある。

  赤道直下の高峰キリマンジャロ――

  五九六九メートルの山は、上辺だけをみせてぽっかり浮かんでいる。赤道の直下にあたるのに白雪を()せて……。

  不思議だろう。

  シーカの想像を絶する景観だと思う。キリマンジャロの積雪は、氷河時代の太古からのものを、そのまま残しているのではないかと、悠久の時間に捉われることがある。

  ともかく壮大な眺めで、エジプトあたりの神秘的な美しさとは、また違うものだ。

  陸上勤務は、月のうち五日か一週間くらい、あとは海上での生活だから……、日曜日がうまく休暇になることもあれば、今度のように纏めて、五日から十日ていどの休みになることもある。

  ぼくの借りた巣のことは前に知らせたね。やはり、あの丘の上の家だ。一七五五年の大震災のときに残った、リスボンの古い建物とよく似ている。いくらか熱帯ふうに工夫をこらしてあるが、建物様式は十八世紀リスボンふうだ。バントウ族の娘の女中と、中国人のコックがいる。家具調度も決して下品なものではない。

  文化も文明も何もないが、モザンビークは未開の地ではないから、生活は何ひとつ不自由でない。野菜も肉も果実も魚も新鮮でうまい。困難はただ一つ、ここの酷暑にぼくの体が順応しないことだ。だからと言って、眠れぬほどのご心配はご無用にしてくださるよう、母上にお伝えください。ぼく自身ちっとも苦にしていないのだからね。

  ところで、絵葉書は忘れないよ。安心しろ、ぼくのアッパー。植物園を二日がかりで見物したらケニヤへ行く。リベイロがぼくへの義理だてで、まるで関心のないダル・エス・サラームへお伴してくれた返礼に、彼のケニヤ旅行に随行する予定だ。これもほんの五日くらいの小旅行で、あまり奥地へは行かない。

  リベイロは、酒を飲みに街へ出ているが、もうそろそろ帰ってくるだろう。あいつのような頑健な体とのんびりした性質が欲しい、とついうらやましくなるときがある。

  ところで、縁談の方どうなんだい。いい人があるのなら、ぼくのことなど気兼ねせず結婚してほしいね。平凡な人でもいいから、母上やお前たちと一緒に暮してくれる人がいいと思う。軍人はあまり感心できない。リスボンにいつもいる人がいいね。エミリアだって、もう適齢だろう。姉妹いっしょに結婚してもいいじゃないか。二人とも好きな人があるなら、朗らかに、そら、小さかったころ、何の隠しだてもせず、無邪気に何でも相談し合ったように、ぼくにきかせてくれるね。あまり力にはなれないかもしれないが、お前たちのことを、ほんとうに愛しているぼくという存在を忘れないように。

  ぼくの方だって、もし恋人ができたら、一分間隠さずに知らせるだろう。もっとも、海外勤務が終らないと、きっと結婚する気にならないと思う。ぼくは男だからいいが、シーカたちは早くいい人をみつけるがいい。

  義務駐屯の三年もほとんど終り、あと八か月でリスボンへ帰ることができる。たぶん一八八四年の三月には、ぼくの魚やぼくの植物と対面できるだろう。それまで殺したり枯らせたりしないようにたのむ。留守部隊長、フランシスカ閣下。生物たちは正直だから、手を抜いたらすぐ露見するんですぞ。

  母上に伝えておくれ。ぼくのことは、ほんとうにご心配なく……、と。

  リベイロ中尉がご帰還らしい。口笛と足音が聞える。明日からの見物がたのしみだ。では、後便をたのしみに待っておくれ。さようなら。愛しい妹よ。フランシスカ。

   一八八三年八月五日

ソーザ・モラエス
 

    5

 

 モラエスは、西欧人らしい合理主義者で、そこからくる理屈っぽさと、それに付属する詮索癖を生涯持ちつづけた。とくに詮索癖は旺盛であった。

 また、彼は筆まめだった。彼の死後、『おそろし』という彼の書簡集が出版されているが、彼の残した多くの書簡から、筆まめだったことを証明することは容易である。それに、書簡の多くが長文である。そして、淡々と思いのままに書き流していく方法が、彼の著作の語り口に似ている。作品と書簡との執筆上に、明確な差異が認められないことは、彼の作品が、"たより"的性格をおびているからでもあろう。それは、何も『日本通信』全六巻にかぎらない。基本的な彼の執筆態度のなかに、通信の姿勢がある。

 モラエスは妹フランシスカあてに、おびただしい量の手紙を残した。なかには、妹あての書簡と同文のものを、「ポルト商報」や「朝刊新聞(コレイヨダ・マニヤン)」などの日刊紙に掲げたこともあった。特定の個人にあてた通信が、読者を予想した新聞の原稿たりえたのは、内容が長文であるばかりでなく、各地の風物や習慣を、見聞の範囲で描写しているからであろう。

 ところで、一八八三年八月五日に、タンガニーカのダル・エス・サラームの町から出した手紙は、フランシスカの手に入らなかった。同地から八月六日に投函した絵葉書の方は、後年までアルシーが保存していたから別だが、五日づけの長い方は、モラエス自身がリスボンで受け取った。

 手紙より一日早く、正確には二日半早く、彼の方がリスボンへ帰って来たのである。

 リベイロとケニヤ地方を旅行するどころか、ダル・エス・サラームの植物園見物がせいいっぱいだったらしく、モザンビークへとって返し、病気療養の許可を取ったモラエスは、まさにいのちからがら、イギリス商船に病身を託して母国へ辿り着いた。

 自分で受け取った手紙を、彼が妹に見せたかどうかはわからない。徳島県立光慶図書館の「モラエス文庫」のなかに、アフリカ時代を偲ぶ唯一の資料として、この手紙が保存されていた。

 

 一八八三年八月三十日、ともかく彼はリスボンへ帰還した。熱帯生活に堪えきれず、義務駐屯年限を残しての帰国である。

 神経衰弱が最もひどかった時期で、リスボンへ帰ってからも病状は一進一退だった。恢復には六か月を要した。それも、睡眠障碍がやっととれたという程度である。ゾラの『ナナ』と『家常茶飯』を読んだ。が、病気のせいもあって、あまり面白くなかった。

 フランシスカが、ジョゼ・ゴンサルヴェス・パウル騎兵少尉と婚約し、下の妹エミリアが、アントニオ・フランシスコ・ダ・コスタと結婚した。コスタは実業家で、二人は新居をモラエス邸の隣に構えた。モラエス家と庭つづきの家で、ジュセリーノ・デウス・ドン・トーマス家、すなわちマリーアの家の反対側にあたる。

 マリーアと、帰還したモラエスとの間に、どのていどの交渉があったのかは不明である。

 エミリアの結婚式は、一八八五年二月で、三月二日には、病気療養休暇の期間が切れた。不眠だけはなくなっていたので、モラエスは三度モザンビークへ向かう。

 アフリカに帰任してみると、神経衰弱のなおっていないのがあらためて判った。風土が体に合わないのだ、と思わなければならない。リベイロのはからいもあって、モラエスはティモール島へ転属することになった。

 黒人娘アルシーは、すでにテーテへ帰り、同族の若者と結婚していた。モザンビークとモラエスを縁切りにしたほうがよい、というリベイロ中尉の独断的処置であった。

 丘の上の下宿も他人が入り、彼の荷物はリベイロの部屋で埃をかぶっていた。アルシーとの生活を偲ぶいっさいが失われていたが、かえってモラエスはほっとした。アルシーとの別離の方法が、重たく心のなかによどんで、どのようにしたものかと迷っていたのだが、すべてが終了していたのである。

 アルシーは喜んでテーテへ帰った。感謝しているとモラエスに伝えてくれとのことであった、とササールは明るい表情で言った。

 モザンビークには十日あまりしかいなかった。

 

 南太平洋のボルトガル領、ティモール島庁の長官は、アルフレッド・デ・ラセルダ・マイヤー海軍大尉である。

 兵学校で一年上級だったマイヤーは、モラエスの親友である。ティモールへ来て、療養がてら、好きな植物採集や、南洋の生物の研究をしてはどうか、という慫慂を拒む理由はなかった。公務の方は、マイヤーの相談相手になってくれるだけでよく、ほとんど仕事はないと言う。

 衣類のはいった旅行鞄一つと、書簡のつまったトランク一個を提げて、モラエスはモザンビークを離れた。

《さあ元気をだせ、しっかり働くのだ! 南太平洋が呼んでいる》

 と、彼は日記に書いている。一八八五年四月十五日のことである。

 恋に悩むノイローゼの青年も、すでに三十一歳である。

 

五月二日 快晴

  海すこぶる静穏。三十日以来陸影を見ず。飛魚(とびうお)の頻りに飛ぶのみ。頭痛不思議に消え、もう五日も薬を忘れている。身心平穏。

五月三日 快晴

  すでに東洋の海へ入った。アフリカの海とは、色から匂いまでちがう。

  空気に湿度があり、甘く柔らかくねばりがある。マイヤー大尉の好意が理解できる。ティモールは、きっと健康にいいだろう。頭痛まったくなし。

五月五日

  豪快なスコールを満喫。初めての体験である。身も心も洗われる思い。雨の爽快さと、海天の(あお)のすばらしさ。

  二時ごろ午睡。昼寝で二時間も熟睡したのは近ごろ珍しい。

  夕食後頭痛烈しく、薬を用いる。睡眠と頭痛は無関係であるらしい。これも初めての経験。便乗客であって、艦内の仕事を持たないのが悪いのかもしれない。体がすっかりなまってしまった感じ。

  ブランデーを飲んでむりに眠る。

五月九日 晴

  四時目覚む。頭鈍く薬服用。習慣性のある麻薬だが、いたし方もなし。

  南太平洋の朝は白い。したがって目がすぐ覚めてしまう。朝食うまし。食後よりデッキに出、終日寝椅子でぼんやり休む。空気と水の碧に心も染むようである。立ちくらみに眩暈。坐っていると平穏。

  夕方、くれないの水平線上に島影を見る。島名定かならず。海図を開くも、士官や水兵に尋ねるのも億劫で、寝椅子を離れず。海上平安。食欲なく、酒を飲んで眠る。

五月十日

  夢のなかで頭痛。その烈しさで目覚む。覚めてみたら、痛みだけは本物だった。時計をみると、まだ午前三時。睡眠剤をのんで再び眠る。朝食ぬきで正午までベッドに転ったまますごす。

  珍しく曇天で、ローリング烈し。もうフロレス海へ入ったのであろうか。してみると、昨日の島影は、カンゲアン諸島かバリー島であろう。

  バリー島へ一度行ってみたい。何となく魅惑的であるから……。もっとも、行ってみれば失望させられるかもしれないが。

  ジャワやモルッカ諸島も実見してみたい。

  このあたりは、すべてポルトガルの先人が発見し、開拓した島々である。足跡いたらざるはない。ポルトガルの歴史とともにあった島々である。マラッカ占領は一五一一年――。モルッカまで足をのばしたのはそのすぐあとだ。もっとも、開拓というには気はずかしい。収奪と圧制による香料貿易で、莫大な利潤を一人じめにしたにすぎないのだから……。それと、必要以上に熱心な布教を押しつけ繰りひろげただけだ。歴史的に懐かしいと思うのは、単なる昔への郷愁であろう。植民地競争は厳しく、祖国は破れたのだ。

  オランダにマラッカを奪われたのは一六四一年で、フィリッピン支配はスペインに先んじられ、一六四一年以降はまったく振わない。結局残ったのは、これから向かうティモール島だけ。

  軍人の手で植民地支配を継続した失敗だ。柔軟さと長期的計画性とに欠けていた、出先機関の経営の拙さであろう。

  政府も、あまりに涸落の早かった過去の苦い体験を、充分勘案すべきなのだが、圧迫と収奪のみに急で、なんら方針を変更しようとしない。

  モザンビークがその典型だが、アンゴラやギネアやゴアも同様である。サン・トーメやブリッイペの島嶼にしたって、植民地経営としては()の下である。ティモールだって同様であろう。マイヤー大尉の苦労が目に見えるようである。

  多くの植民地をしだいに失いつつ、起死回生の施策もなく、いたずらに落日に赴いている祖国は、しょせん老衰国か……。

  薬と酒のせいか下痢。食欲乏し。薬が切れると頭痛がやってくる。不愉快のかぎり。それに、少々怒りっぽくて困る。

  今日も、些細なことで、この船の士官Kと口論した。眩暈と頭痛が(おこり)のようにやってくるばかりでない。議論すると頭へ血がかっとのぼって体が震える。

  昂奮は心が安定していないからだ。精神の振幅がひどく、つらい。シンガポールで、思い切って手紙を出しておいた。ついでにフランシスカとリベイロにも。

  リベイロが懐かしい。彼だと純粋なので議論しても、怒り心頭ということがない。たとえ口論となり、主題が平行線を辿っても、あとがきわめてさわやかである。ちょうど、数日前の海と、曇天下に浪だっている今日の海くらいの差がある。

  Kだって、祖国の未来を憂えているのだろうが、まるで観点が違うのだ。あまりわからずやなので、腹立ちのあまり黙りこみ、もう二度と口をきかないことにした。

  小さな台風の圏内にでも入ったのであろうか、ひどく横ゆれする。本を読む気もしないので眠ることにしたが、さてどうしたものか。薬にするか? 酒にするか? 不眠症もこうひどくなると、酒で睡眠剤をのむようにでもしなければ効かないかもしれない。苦しい。

五月十一日 雨のち曇

  ブランデーを大量に飲むも眠れず、けっきょく薬を使う。それもうまく効かず、眠りは浅かった。一晩じゅう、夢のなかで議論していた。

  昨日の夕方の、K少尉との論争のせいであろう。もっとも、夢の相手は、ゴメスだったか、リベイロだったか、少なくともKではなかったような気がする。あるいは、マイヤー大尉だったのかもしれない。

  濃いコーヒーを飲んでみたが、昨夜のアルコールが残っているのか、睡眠剤の残滓(ざんし)か、まだ頭がすっきりしない。

  どうやら船は台風圏を脱したようだし、お客の身分だから、起き出したところで何一つ仕事はないのだが、じっと寝ているのもつまらぬのでコーヒーを鯨飲。まるでバルザックだ、といっても作品を書くわけではない。

  夢まで、植民地経営の論戦を繰りひろげたのは、昨日のKとの口論のせいではなく、ティモール政庁長官付という、今度の新しい任務に、少し気負い立ちすぎているからかもしれない。

  病気のための、転地と割り切ってしまえないのは、やはり性格だろうか。用があるわけでもないのに、上甲板や機関室のあたりをうろつく心情もそれだ。これはやはり、一種の(さが)であろう。単なる客、冷静なる傍観者になれないのだ。

  徹底する根気もないのに、あれこれと思いわずらって疲労する。つくづくエキセントリックな性格だと、自分が嫌になる。

  ――ところで、今思い出せる範囲での、夢のなかの対話はこうだ。

 「現住民との、平和的で協力的な共存なんてありえないね。スローガンとしては美しいし、理想はそうあるべきだがね」と相手。

 「理想だけじゃないよ。具体的にそういう政策をとらないとだめだと思うね。十六世紀の昔から、ぼくたち西洋人は植民地諸国に何をもたらしたというのだ。カソリックを教えるのもいい、土民宣撫を、宗教に置いたのを非難するのではないが、布教し文明を与えるというのは名目だけじゃないか。大勢の宣教師たちが、東洋の果てまでやって来て、彼等がいったい何をしたかということが問題だろう。そりゃ、高邁な理想に支えられた聖人もいただろうし、現住民に心底から敬慕されたりっぱな牧師もあっただろう。ところが、現実の統治の上では、カソリックの精神とまるっきり逆のことをやっているじゃないか。

  布教によって魂を奪い、開発に名を藉りて土地をとりあげ、生産物を強奪した、と言われても仕方ないのじゃないかね。彼らを救うどころか、徹底的に苦しめている。そのうえ、何かといえば、鎮圧、掃蕩、黒人狩だ。虫けらを踏みつぶすようにして、まるで現住民なんか一人もいなくなってもいい、といったやり方だ」と、ぼく。

 「何も、良民まで抹殺するというのじゃない。土民の知能が向上し、文化水準が高まることは望ましい。そうすることによって、我々だって利益を得ることはできるのだから。だが、彼等を、白人並の人間だとみるのは、現段階において甘いんじゃないかな。甘いというより、明らかに誤りだ。黒人たちは、文化や文明を受けいれる素地さえないのだから……。人間らしいのは外見と骨骼だけだ。動物同然だよ。まったく。十六世紀の昔から、我々は、彼等を人間的に扱おうとして裏切られてばかりだ。温情政策で成功した(ためし)はないじゃないか。あまり同情的だと、植民地経営はその成立の基盤を失うね」

 「良民という概念なんだが、それがもうまちがっていると思うな。白人に協力する者だけが良民なんだろう。主体性のない、無気力な……。白痴の状態に置いて、彼等固有の文化や伝統まで滅ぼし、文化や文明はほとんど与えない。要するに彼等の正当な進歩や発達を阻止して……」

 「土民たちがかわいそうだという、甘いヒューマンな気持だけじゃ、複雑で過酷な現実には対処できないね。植民地経営ってのは実にむつかしいんだ。土民たちも幸福で、我々も利益を受けるなんてのはありえないよ。すべて祖国の発展のためなんだから。君の主張は、まったく非現実的で、詩人らしい空想に過ぎないね。それに、下手したら外国にしてやられる危険性が伴うんだ。マラッカを盗まれてしまったようにね。同情は禁物なんだぜ」

  ――ばかばかしいから、もう書かない。もっとも、こんなに整理されたかたちの議論だったわけではない。徹頭徹尾支離滅裂。まったくお話にならぬ。要するに、現住民を人間だと思ってはいけないという論法だ。

  人間扱いをしないから、失敗の歴史を繰り返してきたのに。

  白人は黒人を圧迫し、しいたげ毒している。肌の色によって人間を区別し、虫けらや牛馬のように扱って許されるわけはない。今にして反省せねば、西欧には天罰がくだるにちがいない。その証拠に、ヨーロッパ全般が今や凋落し、衰弱しつつある。

  白人が根拠のない優越と偏見を捨て、施策をあらためないかぎり、事態はますます困難を加えるだろう。

  Kに代表されるような、頑固で高慢な偏見は根づよい。長官であるだけに、マイヤー大尉もやりにくかろう。政府の方針は依然として、弾圧と欺瞞と掠奪なのだから。

  それにしても、このところ症状が烈しすぎる。太平洋の空気を爽快だと感じたのはほんの数日であった。ティモールの風土と気候に、はたして体が順応するか。病気にいい土地かどうか、少々不安になってきた。

五月十四日 快晴

  湖のような海。ラードを流したような、とろりと碧い海に波頭が白い。それにこの明るさ。陶器の破片を洋上に布置したかのように隠見する環礁――。色鮮やかな家々や蛸樹や椰子――。海豚(いるか)の群や波を切るカヌー。ポルトガル人好みの敷石道も見える。この辺の土民は、バントウ族のように漆黒ではない。

  気温はきわめて高いが、適当に涼風もあり、湿度もちょうどよい。しかし、症状はひどくなる一方。

  毎晩熟睡できず、悪夢の連続。石斧(せきふ)で頭蓋骨を砕いているかのごとき痛み。目の先に光の小さな点が無数にちらつき、その微細な光点が渦巻きゆれている。あと一日の航海がつらい。

  薬まったく効かず、頭痛やむひまなし。下痢が続き、昨日は血便。熱もあるようだがはかってみない。もの憂いかぎり。

  元気をだせ!

  光輝あるルジタニアの末裔!

 

 リスボンの家へ、療養休暇で帰ったときより、もっとひどい状態のモラエスは、ぐったりなってティモール島へ着いた。

 埠頭(カーイス)に彼を迎えたアルフレッド・デ・ラセルダ・マイヤーは、驚愕し、モザンビークのリベイロ中尉に手紙を書いた。

<まったくひどい。蒼ざめ、震える体で、歩行さえおぼつかない珍客到着――。昔だったら、他人がちょっと触っても怒鳴ったはずの、例の愛読書のつまったトランクさえ、まったくかまいつける力を失って……>と。

 到着と同時にモラエスは、島庁が経営する病院へ入院した。診察した軍医は、むちゃだ、と三度呟いた。衰弱が顔に出ていたからである。愁い顔のマイヤー夫妻は、ベッドの横で小さくなっていた。

「リスボンへ帰るべきだっただろうか」

 マイヤーがいった。

「わからない」と軍医は答え、脈搏は正常だし、心臓だって悪くない」と、いいわけするふうに言った。

 頭痛と眩暈と耳鳴と全身倦怠感を訴え、睡眠障碍が死の苦しみだといっていたモラエスは、その夜から極度の嗜眠(しみん)におちた。眠りつづける溷濁(こんだく)状態は五日つづいた。

 朝夕に病院を訪れてマイヤーは、そのたび軍医に大丈夫か、あの眠りは覚めるのか、と尋ねた。「内臓はちっとも悪くない。患者は健康体だ」と、軍医は確信もって答えた。ティモール政庁病院で行なえるかぎりの、あらゆる精密検査はマイナスと出ていたのだ。疲労の回復とともに、すぐ正常になると軍医は観測していた。ほんのちょっとした神経衰弱だ……、と。

 嗜眠からよみがえった病人は、烈しい頭痛に苦しみ出し、昏々と眠っていたのが嘘のような不眠状態を示し、自信家の軍医を狼狽させた。どこも悪くないはずだのに、と彼は、マイヤー長官に、自分の手におえない旨を告白した。

 病人は少し元気になった。病院の窓から海を眺めたり、見舞に訪れるマイヤーをつかまえて、長時間にわたって議論をふっかけたりするくらい……。半月あまり経ってから、モラエスは初めて戸外を歩いた。

 入院二十三日、軍医が治療できたのは、結局下痢と血便と嗜眠だけであった。薬瓶を片手に政庁へ出勤したり、土民の部落を視察したり、密林へわけ入って植物を求めたりするモラエスは、依然として痼疾に悩んでいた。

 本国政府の指示のとおり、旧態依然とした植民政策をやっているマイヤーを、モラエスは歯がゆく感じた。沈鬱な表情の頭痛もちが、唇を震わせて説く柔軟政策を、マイヤーはときに反撃し、ときに共感を示して論議した。

「何より体がたいせつだ。ゆっくり健康を恢復してから、いろいろ君にやってもらわなくちゃならん。軍人としても君はりっぱだが、君のなかにある文人気質と、官僚にはない鋭い洞察力と計画性に期待しているんだ。現住民の鎮撫や教育方面にね」

「とにかくね、彼等がいかに非文明だっても、非人道的な手段は避けようじゃないか。人間的な立場で……」

 小舟に乗って遠くの部落を訪ねたり、宣教師の布教ぶりを調査したり、モラエスの態度はかなり積極的であった。ピラスという島民の青年と、語学の交換学習を行ない、厖大なデーターを付した"ティモール統治に関する若干の考察および産業振興策"を書いた。本国政府へも意見書を提出したり、武官マイヤー総督を助けるモラエスは、まるで文官のようであった。従来、実績のあがらなかったティモールが、飛躍的な変化を示し始め、マイヤーの評判が本国政府で重視されるのに時間はかからなかった。マイヤーは、モラエスのすすめをいれて、ピラス青年を登用した。マイヤーは、島民の受けもいいようであった。

 黄胡蝶(おうごちょう)の熱帯喬木が、黄色い花を咲かせるティモールは、とくにモラエスの体に悪い風土ではなかったが、暑さはやはりこたえた。《ジャスミンは美しいが、香りが強くて頭痛をかきたてる》と、彼はフランシスカあての手紙に書いているし、《アフリカよりはしのぎやすいが、熱帯だけに、欠点もある。月夜の明るさと太平洋は気にいったのだが、原色でいろどられた自然は、ぼくの神経をいらだたせる。リスボンの街を箱庭にしたようなこの町は、煉瓦で囲った小さな花壇をそれぞれの家が持ち、ハイビスカスやジャスミンやカンナやオウゴチョウを植えているが、こぢんまり整いすぎてわびしい》とリベイロに報告している。

 マリーアには、《このつぎリスボンへ帰ったら、ぼくは必ず君と結婚する》旨を書き送っているが、マリーアは返信をよこさなかった。その憂いをモラエスは、「マングローヴの茂み」という小説の執筆にまぎらせた。病気は一進一退だったが、一八八五年十一月に、脳腫瘍の疑いがあるから、リスボンへ帰って専門医の診断を受けるようすすめられ、あまり頭痛が永びくこともあって、植物採集の方を果さぬうちにリスボンへ帰還した。

 リスボン帰港は一八八六年一月十三日であった。先に婚約していた妹フランシスカが、モラエスの帰省の機会に式をあげ、フランシスカ・パウルになった。

 大学病院および海軍病院で精密検査を受けたが、脳腫瘍ではないとの診断がなされた。リスボンへ帰ると、不思議なくらい睡眠障碍は薄れ、頭痛も消えるのであった。

 砲艦「ドウロ号」乗組を命ぜられ、四月十三日には大尉に昇進した。役目は砲術長であった。

 マリーアに手紙を送り、何度も結婚を迫った。カソリックを捨てる決心が、いよいよかたまってきたのである。ポルトガルを捨て、フランスへでも移り住む気持だった。二人の妹が縁づいたので、気分にもゆとりが生まれていた。

 ポルトガルという国は面白い国で、離婚と姦通には厳しいが、売春は公認の宗教国である。乙女の純潔と人妻を守るために、売春は必要悪だという。娼婦ならごろごろしている制度のなかで、カソリックの戒律と道徳が息づいている。

 その当時、マリーアとモラエスが、会ったかどうかはわからない。ただ、マリーアが動揺しつづけたことは、彼女の手紙から判定できる。想像の域を出ないけれども、フランシスカの結婚式には、親戚としてマリーアも出ただろうから、話くらいならする機会もあっただろう。マリーアは迷っていたし、モラエスの方だって、背信を決定するについては、少なくとも逡巡があったはずである。

 その年の八月、モザンビークの、ザンジバルとの国境に近いトウゲンで、現住民の叛乱が起こった。かなり組織的な蜂起で、現地軍は苦戦であった。本国から急遽援軍が派遣され、そのなかに「ドウロ号」も含まれていた。

 モラエスにとって、四度目のモザンビーク行であった。「ドウロ号」には、のちに彼と生涯の親友となる海軍軍医セバスティアン・ペレス・ロドリゲス博士が乗っていた。

 一九一三年、モラエスが神戸の総領事を辞めたとき、慰留し、終身東京駐在総領事に推薦しようとした人である。ロドリゲスは生物学者としても、医者としても高名で、ティモール島勤務の体験を持っていたから、モラエスはすぐ親しく話をするようになった。

 病気の手当を受けたし、ロドリゲスの生物学者としての知識は、モラエスに多くの示唆を与えた。ロドリゲスの方も、人道主義的な思想においても、二人は共鳴するところがあった。モラエスの神経衰弱治療のために、東洋がよいとアドバイスしたのもロドリゲスであった。年齢はロドリゲスが二つ上で、兄弟のような交友が始まる。モラエスはこの友人に、その著書『大日本』と『茶の湯』を献題している。晩年失意のころのモラエスに、あらゆる援助を惜しまなかったのが、ロドリゲス博士であった。

 砲艦「ドウロ号」はトウゲン湾に急行し、叛乱鎮圧の戦列に参加した。武力弾圧反対論者である砲術長の指揮する砲火が、掃蕩に重要な役割をはたしたのは皮肉である。

<黒人狩>を嫌った彼は、戦闘で武勲をたてたことに相当拘泥(こうでい)したようである。《いかなる場合であっても、ヨーロッパ諸国が行なっている対黒人鎮圧戦争にぼくは賛成できない。それは非道の行為であり、非人間的精神を露呈しているものといわねばならない。現住民たちが、自分たちの父祖の地を愛し、白人勢力を追放したいとする心情は賞讃すべきであろう。ところが、賞讃のみしておれない現実の壁に遭遇することがままあるので、まったく困惑することがある》と書いている。

 その後も、砲艦「ドウロ号」は沿岸警備のため、トウゲン湾に碇泊した。モラエスは勤務の余暇に、同湾の干満調査や海藻類・貝類・石蚕類など微生物の調査、蒐集、分類を行ない、本国の学会に発表し、生物学者としても認められた。後年、正しくは一九五五年(昭和三〇年)リスボンで催された生誕百年祭は、ポルトガル生物学会の主催である。

 リスボン帰任は一八八七年六月。トウゲン湾の十か月にわたる戦いからの凱旋というわけだが、実際は例の神経衰弱によって、アフリカ生活にもうこれ以上耐えられなかったのである。

 モラエスの病状には軍医ロドリゲス博士も、すっかり匙を投げた恰好であった。頭痛は執拗であり、不眠は頑固で、薬も注射もまったく効かない。やっと寝つけたと思うとすぐ目覚めるといった毎晩で、瀕死の病人と見紛う衰弱であった。ロドリゲスはモラエスに帰国を慫慂(しょうよう)した。

 リスボンへ帰ってまもなく、ティモール島に土民の蜂起があり、マイヤー長官夫妻が惨殺された。

 モラエスは驚愕と悲しみに捉えられ、茫然自失した。モラエスの、そしてマイヤーの土民対策の惨敗である。鎮撫と開発の実績を高くかわれたマイヤーだったが、従順なはずの土民は突然、島庁を襲ったのである。しかも、庁内へ武装島民を誘導したのは、モラエスのすすめでマイヤーが傭っていた下男のピラス青年であった。

 未開人はしょせん未開人か、と病床でモラエスは呻吟した。マイヤーを殺したのが、まるで自分であるかのように思えて、爾来彼は苦しみつづけた。

 ティモール島の暴動は二日で鎮圧され、ピラスは極刑に処せられた。モラエスは《黒人をいっさい信用しない》と、病床から友人リベイロに手紙を書き、《マイヤーの母親と顔を合わせることの多いリスボン暮らしはつらい》と日記に書いた。

 

    6

 

 一八八七年はモラエスにとって最悪の年であった。病苦や、マイヤーの死の衝撃だけでなく、恋人マリーア・イザベルとの決定的破局があったのである。

 カソリックを捨てよう。ポルトガルの社会から葬り去られても良い、という覚悟がようやく定まった。地位も名誉も財産も、老いた母や妹も捨て、狂人トーマスの手からマリーアを奪い、愛をつらぬこう。どのような非難や白眼視にも負けまい。《ぼくは必ず君と結婚する》とティモール島から出した手紙のとおり……。行先は東洋……。モラエスはすっかり決めていた。

 マリーア四十一歳。モラエスは三十三歳であった。彼はためらうマリーアを説得しようと懸命に努力したのであろうが、けっきょく彼女は宗教と洗濯女の道を選び、彼の愛はついに容れられなかった。

 

 私は、「ある異邦人の死」という小説のなかで、マリーアとモラエスの悲恋を簡単に扱った。短篇だったせいもあり、彼の晩年に取材した作品だったからでもある。

 その小説で私は、

「モラエスは初恋につまずいた。生家の近くに住むマリーアという人妻であった。愛情において二人は深く触れあったが、結果は悲恋に終った。以来彼の女体遍歴が始まる」

「モラエスを苦悩に追いやり、ついには国外逃亡すら決意させた人妻マリーアは、精神病の夫を看病しながら、自らも発狂せんばかりにモラエスを愛していたが、彼の手に鈍く光る十字架をのせた。ポルトガルの、すべての家庭がカソリックの信徒であるという厳しいしるしの――」と書いた。

 この二つの文章の間には、ポルトガルがカソリックの国で、離婚が認められていないことと、初恋がモラエスの二十一歳の年に始まって三十三歳の年に終ったこと、この間にモザンビークやティモールで勤務したことの、ごく短い文章が挟まっているだけである。

 二人の永遠の別離を、「彼の手に鈍く光る十字架をのせた」との一行だけですませるのは、そっけないというより、不親切だと思われないでもなかった。しかし、マリーアがモラエスとの結婚よりも、カソリックの戒律を選んだ事実だけが重要だ、との気持が強かった。

 その十字架が遺品として残され、<知友から贈られたもので、壁間に掲げられてあったが、翁自身の信仰とは関係ないものである>と説明付で展示されていたことは、「モラエス文庫」を私が調査した話のところですでに語った。

 ところが、「ある異邦人の死」を読んでくれた人から私は、「モラエスとマリーアは肉体関係があったのかどうか?」と、よく尋ねられるはめになった。なかには、そのところが一番重要だ。と追究する人もあった。

「それはご想像におまかせします」

 と、私は慇懃(いんぎん)に答えることに決めていた。

《運命に追いたてられ、逃げ出す思いで祖国を離れた》と、澳門(マカオ)へ赴任したときの気持を彼は、『大日本』のなかで告白している。その述懐と失恋と十字架とが、一つにつながるものかどうか? と問う人もあった。

 私の「ある異邦人の死」を、某放送局がドラマにしたことがある。局側の希望もあって、原作が陰惨すぎるので、少しメロドラマふうに脚色してもいいか、と脚色者がいう。結構だけれども、どういう部分かと尋ねると、マリーアとの決別のところだ、と笑って答えた。一行きりじゃラジオでは困るだろうな、と私も笑った。

 できあがった脚色部分は、次のとおりである。まさに現代的メロ・ドラマであるが、快諾した以上仕方ない。想像力ゆたかな脚色者に、今度は私の方がOKをもらって引用する。

 

 効果(駆けてくる足音止まる……)

モラエス (あたりに気がねして、急いでささやく)マリーア! マリーア! やっぱり貴女だ。昨夜なぜ来てくれなかったのです……。ああ、ゆうべの僕の苦しさといったら……。(だんだん大声になる……)船が岸壁を離れるまで僕は希みを捨てず、苦心して手に入れたこのパスポートを握りしめて待っていたのに……。あの気狂い夫のそばで、看護婦同然、いや、もっとひどい仕打ちを受けながら暮らすのが仕合せだとでもいうのですか!

マリーア しっ。誰か来ますわ。大きな声でおっしゃらないで……。

モラエス かまやしない。そんなことより僕は……、僕は……。

マリーア (優しく)かんにんして、モライス……。わたしだって、わたしだって、どんなに苦しみ、迷ったか。船の汽笛を聞きながら、どんな思いをしたか、口ではとてもいえないわ。わたしの泪を見ながら、何の涙か、いいえ、それが涙であることさえ、ジュセリーノは知らないんです。あたしが妻であることさえ、あの人は気づかず、まるで赤ん坊みたいに笑っているんです……。たとえ、あの人が生涯なおらない気狂いであっても、あの人を捨てて、自分だけの幸福を望むなんてできなくなってしまったの……。わたしを愛してくれ、外国へ逃げようとまで言ってくれた。私の可愛い人を与えてくださったことを神様に感謝し、ざんげして、一生ここに埋ずもれてしまおうって、だんだんそんなふうに考えて決心したの……。たとえ、どんなに苦しくっても、わたしは耐えなければいけないんだわ。

モラエス (冷たく)ああ、何とでもお言いよ。よくわかったよ、マリーア。貴女はやっぱり、僕のことなんかちっとも愛してなんかいなかったのさ。へーん。大変ごりっぱなことをおっしゃいましたねえ。神様にざんげだって? 結構ですよ。何でもおやりなさい。貴女には、人間らしく生きることの喜びや尊さがわかりゃしないんだから……。……神様に愛されて気狂いと暮らすんだな。エスさま萬歳! だ。カソリックがなんだ。キリストがなんだ。こんな国は、もう僕の故郷などと思わない。僕は出て行くよ。二度とお目にかからないよ、マリーア。どうもありがとう。いろいろ勉強になりましたよ!

マリーア まあ、モライス……。(泣く)

モラエス (涙声になりながら)泣いてなんかくださらなくて結構ですよ。何もかもグッバイってね。ハハハ……。(駆け出す)

マリーア あ、モライス、ちょっと待って!

モラエス 今さら何も用などないでしょう。

マリーア (息を切らせて追っかけながら)まっ、まって。おねがい……。あっ。(つまずいて倒れる)

モラエス (思わず馳けより)どうした? どうしたマリーア? 大丈夫? けがはなかった。(二人の烈しい息しばらく)

マリーア (泣きじゃくりながら)これ、これは、私が生まれたとき、ひいおばあさまが、わたしの首にかけて下さったものなの。一日だって離したことがないの……。だから、これを、わたしのかわりに……。ねえ、後生だから……。

モラエス (すなおに)う、うん。……銀の十字架だね……。ありがとう。記 念にもらって行くよ。じゃあ。

マリーア モライス!

<音楽>

 

 一行が五分のドラマになろうが、一時間のワイド番組に脚色されようが、いっこうさしつかえないのだが、このラジオ・ドラマの、マリーア役の声優嬢に、私と脚色者はさんざんやっつけられた。

「モラエスとマリーアは、清純な恋愛関係だったのか。それとも、別離以前に姦通の事実があるのか」と。

 原作も脚色も、二人の作者は明確な判断を持っていないのじゃないか。どちらかに決めてくれないと演技にならない。マリーアのイメージが出せないのだ、と、なかなか元気なお嬢さんであった。

 ――肉体関係があった、と思ってほしい。

 ――それは作者の想像か。

 ――想像ではない。事実なのだ。

 ――確かめようがないだろう。

 ――証拠物件があった。

 ――十字架?

 ――いや、マリーアとモラエスの往復書簡があったのだ。

 ――往復書簡? それは、マリーアからモラエス宛のものか?

 ――それもあるが、モラエスが出したものもあったのだ。

 ――それはおかしいではないか。リスボンへ出したモラエスの手紙が、なぜ徳島にあったのか?

 ――マリーアが、一括してモラエスの手許へ送り返してきたのだ。送ってきたのは、一九一六年(大正五年)ごろだから、モラエスは徳島に住んでいた。マリーアは、モラエスの手で焼却してくれと手紙を添えていたそうだ。

 ――モラエス文庫に残っていたのか。

 ――いや、モラエス文庫から意識的に除けられていた。たぶん、光慶図書館長が除いたのだろう。モラエス文庫を整理し、紙きれ一枚にいたるまで目をとおした。同館の多田という司書が、館長に命じられ焼却した。幸い多田司書はフランス語が読めたので、個人的な興味から、そのうち何通かを自分が保存したり、コピーをとったり、意訳をしたりした。消息不明だった多田司書を、私と、私の友だち黒駒周吉とが探し出し、会ってそのことを確認した。

 ――よくわかった。マリーアの感じを放送のときに出してみせる。

 

 マリーア役嬢と私は、ほぼ以上のような対話を交した。往復書簡の内容についても、かなり詳細に伝えたのはもちろんである。電波にのった彼女のマリーアは、ほんの数分の出演だったが、実に見事な出来ばえであった。

 元光慶図書館多田司書の、ちょっとした気まぐれによって、その概要が推察できるモラエスの初恋について、私はかなり客観的に叙述してきたつもりである。十字架の説明のなかの、<知友から送られたもの……>という、知友と表現した説明文作製者多田元司書を、黒駒周吉は苦心して訪ねあてた。知友って誰だろう? 判っていたのに何かのつごうで隠したのではなかったろうか? と、私と黒駒の素朴な疑問から出発した調査であった。

 私は、私の勤めている図書館の前身にあたる光慶図書館の、「モラエス文庫」創設者たちの悪口をいうつもりはない。その人たちは私の先輩であるばかりでなく、モラエス研究の先駆者であり、貴重な遺品の分散を一応防いでくれた功労者である。

 しかし、ここで明らかにしておかねばならないことがある。モラエスの遺稿や日記や書簡、それに一部の図書を、それらの人が焼却した事実である。それは、反日本的なものと、革命後のポルトガル政府批判および王朝讃美に関するものと、若干の左翼文献などである。マリーアとの恋文のごとき反道徳的と目される、あるいはモラエスの私的秘密に類するものも含まれる。要するに、親日文豪モラエスの遺品らしからぬものは抹殺されたのである。

 初めに私は、遺品のなかに、瓶入りの灰があったことを紹介した。

 この灰は、モラエスが海軍軍人として忠勤を励んだ、ドン・カルロス一世時代の、ポルトガルの王国旗を焼いた灰である。「モラエス文庫」の遺品の説明文によると、

<翁が保存していたポルトガル王政時代の国旗を、翁死後スーザ領事が発見し、通訳山城哲氏に命じて寓居前路傍において焼却せしもの。これを傍見せし方面委員、前田正一氏が採集保存し、瓶におさめて後日同氏により寄贈されたるもの>であった。

 前田正一は、郷土史研究家であり、モラエスの死体処理や葬儀の世話をした人である。モラエス死亡当時、徳島市方面委員として、冨田浦地区を担当していた。この灰は、前田正一という第三者の傍見があって証拠品となった。また、無価値な反古として、焼却等によって処理したものが若干ある旨は、遺品遺稿の整理を担当した多田司書が日刊新聞「徳島毎日」に公表した「モ翁の遺品を整理して」という小文にみえる。

 

 マリーア・イザベルとの初恋は終った。

 一八八八年二月、モラエスは、海軍輸送船「インデアナ号」で、南支那のポルトガル領澳門(マカオ)へやって来る。《ほとんど逃げ出す思い》で。

 

 マリーア死去の報告を含む、妹フランシスカ・パウルの手紙が徳島に届いたのは、一九一九年十二月であった。

 マリーアは、一九一九年(大正八年)に、カスカイスの海で死んだ。入水自殺か転落によるものか分明でない。その前年の十二月に夫トーマスが歿している。マリーアも発狂していたとの説があるが採らない。

 一九一六年に斎藤コハルが死んでからのモラエスは、徳島で一人暮らしであった。マリーアの死んだ一九一九年のモラエスは六十五歳である。マリーア行年七十三という勘定になる。

 翌一九二〇年一月、モラエスは「ある諺」という小文を書いた。

 

 仏教からきたにちがいない日本の諺について語ろう。

 会者定離――という漢語と同じ意味の、

<あうはわかれのはじめ>

 と、いう言葉である。

 

  (ポルトガル語訳の原文は略)

 

 しかし、表面的な語彙そのものより、この諺の内包する思考内容は烈しく深刻なのだ。

<逢う>という、二人の人間の邂逅にまつわるさまざまな条件反射――。予測を拒絶する事実――。それは、ごく些細なつまらぬ小事件から、深淵で波瀾万丈の事態まで含み、長期的だったり、一時的だったりするあらゆる人間関係をつくり出すが、けっきょくは破綻的な悲劇に終るのだ。<わかれ>が必ず付随するわけで、愛情を軸とする邂逅において、とくにそれはいちじるしい。

 愛情曲線の増大と上昇は、情熱的抛物線状を描く。その軌跡と座標は必ずしも一定していないが、下向線を辿ることは、上昇気流が分解し冷却するのと同断で、愛の終着駅は別離である。

 この言葉が表現している思想は、確かに仏教的であるが、邂逅が訣別を予測しているのだという教えは、やはり真理であろう。生あるものは必ず死を迎え、形のあるものもやがて無に帰するという、仏教の無常観を単的に表わしている。仏教においては、享楽も悲哀も苦悩も愛情も欲望も、そのいっさいが空であると説く。人間的葛藤は、それが肉体的であれ、精神的であれ、すべて一時的な現象であって、すべて幻影にすぎないというわけだ。

 愛の高まりを座標に持つ幸福な邂逅も、不幸や辛酸や苦痛を伴う人間相互の遭遇も、結果的には悲劇的訣別に赴くのに、なぜ、わたしたちは遭遇を希求し、情熱を燃やし、苦悩を伴う(はか)ない愛欲に身をこがすのか……。

 彼と彼女――。男女の性情の葛藤と矛盾と軋轢をのがれ、愛の実存に楽しい静謐を得るとき、すでに悪魔の黒い手が忍び寄っていて、甘い、美しい囁きに終焉を告げる。死こそ、何人も拒むことのできない真理である。死は別離を宣告し、愛するものを奪い去る……。

(著作権継承者諒解のもと、ポルトガル原語とともに原文を一部省略いたしました。)

 

 

 第三章 マカオから日本へ

 

    1

 

 友人ペレス・ロドリゲス博士の、病気療養には東洋がよい、というアドバイスはあたった。澳門(マカオ)へ来てからのモラエスは、アフリカ時代ほど神経症が烈しくはなかった。

 痼疾である頭痛や不眠を南支の気候がやわらげたうえに、東洋のもつ異国情緒が、珍奇なものに夢中になる性癖の彼を捉えた。新しい公務が多忙だったのも幸いした。全治とまではいかなくとも、苦しい症状を忘れる日々の多かったことは、妹フランシスカあての書簡から察せられる。

 神経症の方はまずまずというところだったが、もう一つの痼疾に、三十四歳の海軍大尉は依然として悩む。

 いうまでもない、例の恋わずらいである。生涯彼と絆の切れることのなかった……。

 捨て去り《逃げ出す思いで》ポルトガルを離れた彼であり、《二度と踏まぬ決心》のリスボンの土だったが、望郷のこころがなかったわけではない。《帰るまいという決意と望郷との葛藤》と、一八八八年、澳門に着いて五か月目に彼は書いている。

 気まぐれで、好色で、偏狭で、徹底した自由人で、自己矛盾をちっとも苦にしなかった個人主義者モラエスも、女性への愛においては、一貫して、誠実、敬虔に終始した。それは、絶対的傾倒であり耽溺である。終生変らず持ちつづけたもの、それは蒐集癖と恋ごころであった。

 移り気の性質は、彼の関心をしばしば変転させ、矛盾と自家撞着に満ちた思想を平気で表明させた。そのモラエスの気まぐれぶりと無定見さは、ゾラに対する批評や、心の赴くままにとりとめもなく叙述した彼の作品からも窺うことができる。

《すべてを細大洩らさず書きならべて、自然をあるがままに描写するのは煩瑣だ》とゾラの写実主義を非難した男が、《わたしは心に思想を懐いたとおり提示する》と、ゾラ以上に煩瑣な叙述をする。一つの文章の内容が反転し三転するのは、自己矛盾と移り気に原因しよう。

 描写が明快簡潔でないのは、表現力の拙劣さとみられぬでもない。頭もあまり良くなかったのであろうか。通信的、報告的な文章が多く、日本の随筆文学と似かよった文体で、後年彼が『方丈記』や『徒然草』に傾倒したのも頷けるというものである。

 澳門時代の著作『極東遊記』にしてからが、日本と中国を詳細に叙述して煩瑣である。が、煩瑣ではあっても迫力があり、晩年の『おヨネとコハル』とともに文学的香りの高い作品である。澳門滞在六年の体験に支えられているから、極東に対する理解と把握の仕方も凡庸ではない。文筆家としての彼の名を、母国に高めたのもこの処女出版であった。

 出版の世話を友人のヴィセンテ・デ・アルメイダ・デーサがした。

 後年モラエスは、『大日本』の再版を希望するデーサの求めに応じなかったことがある。それは彼が日本を深く知るにおよんで、作品の誤謬に気づいたことによるが、たびたびの交渉にも応じぬモラエスに業をにやしたデーサは、無断で一九二六年に再版を強行した。それを知ったモラエスは激怒し、年来の親友と絶交してしまった。母国の友人たちに彼を非難した書簡をいくつか送っている。このデーサとの不和は決定的で、モラエスがいかに『大日本』の再版を嫌っていたかを物語るものである。

 ともあれ、デーサの斡旋による『極東遊記』の出版は一八九五年で、収載した作品は、澳門へ着いた年から書き始め、そのほとんどを「朝刊新聞(コレイヨダ・マニヤン)」に連載したものである。一番早く書いたと思われる「纏足(てんそく)」は、一八八八年の八月執筆で澳門赴任半年目の作である。

 モラエスはこの本を纏めるにあたって、ヴィセンテ・デ・アルメイダ・デーサに献題し、《この著書の献題は君にせざるをえなかった。もっとも、この著にその値打ちのないことは百も承知している。(中略)どうかこの書物を、この極東の貧しい思い出の品として、はたまた、故国の友だちに贈る習慣となっている、あの夢のような絵模様のある、まったく実用に向かない異国趣味たっぷりの陶磁器として受納してくれたまえ(花野訳)》と書いた。

 一方、リスボンにあってこの出版の斡旋をしたデーサは、序を寄せて次のように述べた。

 

《本書の冒頭に集録した短篇のいくつかは、すでに二三年まえア・ダ・シルヴァの匿名で「朝刊新聞(コレイヨダ・マニヤン)」紙上に発表されたものである。

 最近、余は著書の希望を通させたいと思って、同紙を主宰するあの優れた文学者ピネイロ・シャガスに面会して、著者の新印象記執筆を求めたとき、この人と話しあう(よろこ)びをもったすべての者にとって魅力となっている、あの淡白さと善良さとですぐ次のように余に答えた。――「よく知っているよ。ピエル・ロッティの翻訳だね。ずい分巧く訳せている。むろん、よろこんで執筆をお願いするとも」

 この勘違いは、なにさま、あの名高い批評家の口から聞かされたので、あの当時『支那遊記』の表題で発表されていた卓抜な記述と描写とが、当然受くべき最高にして熱烈な讃辞を意味したのだった。

 ア・ダ・シルヴァは翻訳家でないし、また、この名が彼の本名ではない。彼はポルトガル海軍の士官であって、ヴェンセスラオ・デ・モラエスという。いな、むしろ、あの大家がピエル・ロッティと定義しているので、ポルトガルのロッティと呼んでもよい。

 というのは、余は彼の最初の文学作品を知ったころから、そう考えていたからだ。彼のひどく謙虚な気持は、その異名を承認するのを拒んだが、それは、彼が久しく本名を明かすのを拒絶していたのと同じ謙虚さからきているのだ。

 今や彼は、当然作家の位置に据えられて、褒賞受領を承認すべき者としての神聖な位置にいる。(中略)

 今や忽然とヴェンセスラオ・デ・モラエスが、われわれの前に姿を現わした。そして、一躍、海洋作家群の座席中の最高の座を占めたのである。

 勤務の都合上、ほとんど常にリスボンを離れて住んでいるが、もともとリスボン児である彼は、彼を識るすべての者から深く尊敬されている。というのは、お世辞抜きにして、彼は善良な海軍士官という形容を受けるにたる人物であり、同時にまた彼は黄金の心の持主であるとともに、最も卓絶した気質を持った騎士でもあるからだ。

 彼は憂い顔で、痩せていて金髪で、物思いに耽ける碧い瞳をしていて、ひどく引込みがちで気の弱い男である。

 彼にこの『極東遊記』の冒頭へその本名を出させるには、まったく一合戦しなければならなかった。そして、その合戦のすったもんだのいきさつは、ちょっと言葉で言い表せないほどなのだ。

(中略)彼のごとくピエル・ロッティの塁を()した者が、今までわれわれポルトガル人の間に現われたのを知らない。ロッティに比較されても、何も彼は模倣者でない。模倣者などとはまったく隔絶した存在である。

 ヴェンセスラオ・デ・モラエスに看取される特徴は、その憂愁の翳であり、人間の惨さに対する深い同情であり、かつ、他の者どもがつまらぬものと考えている些細な事実――しかも深く研究するとき、それは重大な一つの世界を包蔵しているのであるが――に対する鋭い把握である。

 ロッティには懊悩し嫌悪している点があるが、彼にはそれがないし、色男ぶった自惚(うぬぼ)れの鼻持ならぬ高慢ちきもないし、己が天分に対する独りよがりの自尊心もないのだ。

 そればかりではない。このポルトガル作家は、ただ道徳主義者と文学的観察者とのプリズムを通して物を見るばかりでなく、社会的生活と具象的な種々相との、ひどく散文的な事どもをも扱っている。「日本の追慕」のなかには、あの珍しい国について語り得るかぎりの、いっさいの事物に関する完全な映像がある。

 余はあれほど僅少な頁のなかに、あんなにおびただしい事物を書きこんだ旅行者や貿易家を、かつて知らないほどなのだ。

 日本と支那との、このアジアの著名な両国間の戦争<註・日清戦争>が多くの人の注意をこれら両国に向けさせている現下にあって、この書物のごとく、楽に、しかも恍惚として、それらの両国民の実相を正しく知らせうる書物は一つもないであろう。(花野訳)》

 

『極東遊記』のなかでモラエスは、中国の貧民階級やあわれな庶民に焦点をあて、その悲惨な生活に満腔の共感と愛情を傾けている。また、その背景をなす南支の自然をいきいきと描いているのだが、澳門の生活はそう好きではなかったらしい。

 怠惰な国と呼び、中国の非衛生な生活環境を烈しく非難している。貧富の差の激しさからくる、庶民の非文明ががまんならぬものに映ったのであろう。《南支那は日本のように美しくないんだよ。支那で暮らすくらいなら、ぼくはいっそリスボンへ帰って、テレイロド・パーソの"記念碑"と、あそこの並樹道を見て暮らす方を望むね》と、彼はフランシスカあての手紙のなかで述べている。

 澳門へ着いたモラエスが、初めて受け取った私信は、フランシスカ・パウルが一八八八年八月十四日に出したものであった。

 

  シンガポールからの短いお手紙受け取りました。ほんとうに短いものね。兄さんは、船がすぐでるのでお暇がないからっておっしゃったわね。

  仕方ないわ。わたしの第二回目の手紙着いたそうね。ぶじに。わたし嬉しいわ。(中略)

  こちらからお手紙差し上げれば、すぐ兄さんからもお返事もらえるといったふうに、わたしたちの間にきちんと手紙が取り交されるのは、いつになったらできるでしょう?兄さんは、澳門に着いたら一週間に一度は、きっとおたよりくださると言ったわね。

  それはほんとう?

  わたし、あてにしているわ!!

  いかがです。ご機嫌は? あまり感心しないのでしょう、ほんとうのところ身体が弱くて憂鬱なんでしょう。それが目に見えるようだわ。

 (中略)わたし困るわ。お魚のこと。兄さんが発ったときと同じようにして置けって言うのでしょう。わたし気骨が折れて仕方がないわけ。ほんとうに困ってよ。

  本月の五日はとても暑くて、バラ色をしたものやその他、二、三匹死んじゃったの。そう、兄さんがお発ちになるときちょっとエラが赤味がかっていたのがいたでしょう、あれよ。(中略) それから、充分注意していたんですが、三匹ほどエミリアの後庭の滝のところへ逃げてしまったの。

  ご免なさいね。植物は綺麗だわ、青々と繁って。

  エミリアは、今度はお手紙を差し上げないと言ってたわ。でも、来週書くと言って、子供の写真までとってあるわ。

   ――さようなら。私のアッパーよ。

妹フランシスカ――(会田慶佐訳)
 

 澳門から、のちには日本から、モラエスはフランシスカによく手紙を出した。マリーアと別れてしまった寂しさを、妹への発信にまぎらせたのであろうか。今やフランシスカ・パウルは、リスボンにおける懐かしい人であった。家郷にある肉親へ……、というより、まるで恋人に近況を報ずるごとくだった。

 このフランシスカの手紙によると、リスボンを捨てたはずのモラエスが、飼育していた魚をずっとそのままにしておくよう指示している。《ほとんど逃げるようにして》母国をのがれたと書いたのは、一八九六年だから、最初のリスボン出立のときには、再び帰らぬという決意はなかったのだろうか? 魚をそのままにしておけというのは……。

 ところで、もう一人の妹エミリアには、あまり手紙を書かなかったようである。フランシスカに出せば、母親にも、隣に住んでいるエミリアにも通じたからであろう。

 エミリアには、ジョアキンという男児と、マリア・ドウスという女の子が生まれ、後年のモラエスは、この二人の子供を深く愛した。しばしば贈りものをし、手紙を出している。エミリアが早く死んだ上に、エミリアの夫、アントニオ・コスタも若死にしたから、二人の遺児がひとしおあわれだったのであろう。しかしながらモラエスは、ジョアキンとマリア・ドウスの、成人した姿をついに見ることがなかった。

 澳門の生活を、フランシスカに報じた手紙がある。そしてこれは、一部分を修正して「朝刊新聞(コレイヨダ・マニヨン)」に掲載され、のち『極東遊記』に収載された。「ぼくの家」という作品である。サブタイトルは"妹への手紙"となっていて、執筆は一八九二年三月である。

 

《澳門でのぼくの住い。まったく煩わしい住い。ぼくがくる日ごとに一日じゅう、忙しく歩き回って家のなかを探したり道具を持ってきたり、こまごました物どもや台所の煮物鍋や水を運ぶバケツや、燈火をつける一箱のマッチの置場へ降りていったりしているとは、おまえは、よもや、そのリスボンの巣では想像すまい。

 そのおまえの巣。祖国でのたまさかの憩いのときには、ぼくはぼくの巣と呼んでいた。(中略)その後、ぼくは他の棲家を、しかも、多くの棲家を持った。しかし、これらの棲家は、おまえが想像するとおりずいぶん変てこな棲家なのだ――流浪し、浮漾(ふよう)して、今日は海と空との二つの青の間を、明日はどこかの熱帯国の異国情緒をそそる岸辺を縫うて、浪の背に乗ってすべっていく棲家である。

 だが、ぼくが衣類のはいった二個の旅行鞄と書籍のはいった一つの箱とを持って支那の国土を踏んだとき、陸上に憩いの家を必要として、初めて困り果てた苦しい骨折は、おまえにも解るだろう。

 さあ、しっかりしろ! 元気をだせ! 活動するのだ!

 最初の仕事は、むろん家の選択であった。すべての国のすべての借家と同様に、共同住居の平凡な家を、ある横丁の小路でみつけたのだ。外側は貧しく黄土で彩り、パセリー色の緑の格子窓が浮かんでいる。内側は、純白の石灰の漆喰壁が部屋部屋の壁を一様に覆うて、回教風アラビア風の空気を与え、ぼくの目を奪わずには措かないのだ。

 ぼくの両隣は幸いなことに支那人だ。ぼくの生活ぶりとはほとんど接触点がないし、生活上、風俗にも習慣にも言語にも感情にも信仰にも互いに相似たところがないので、このヨーロッパの隣人「番鬼(フアンクアイ)」(西洋人)が、その隠れ家でしていることにほとんど興味がないにちがいないのだ。(中略)彼等の家庭はまったく目の届かない蟄居だ。だが、ここでも、香港(ホンコン)その他の西洋文明に侵されている港におけると同様に、支那人たちの風習のある点を西洋に譲らざるをえなくなってきている。(中略)

 ところで、両隣のことを話そう。

 家長は年の寄った、でっぷり肥えた支那人だ。ほとんど家にいないで、たぶん業務か贅沢三昧かで日々を戸外で送っている。だから、この家長はまったくのところはほとんどぼくは興味がない。ぼくは女たちの方をよく注意しているが、それは三四人いて、たぶん全部が、支那の風習によって彼の妻なのだ。なんと素敵な人形だろう! 花瓶に焼き付けるか団扇に描くに適した、なんと美しい連中だろう! ぼくの隣のこれらの女たちは、雄鳩に忘れられた雌鳩の群が鳩舎にいるように、たいへん仲よく一緒に住んでいる。すべてが主人の妻であるが、一人が第一夫人、蜂房の女王蜂である第一夫人であるらしい。そして、その他の女たちが、その女王の侍女で奴隷女にも似た第二、第三、第四夫人らしいのだ。一日じゅう、彼女らは互に髪を結いあって(だが、まったく手のこんだ結髪なんだよ!)頭髪の黒い編毛のなかに小さい花を並べてつけるとか、ずいぶん変った"化粧"、たとえば剃刀で眉毛を剃ったり、歯を磨くときに銀の(へら)で舌を引っ掻いたりする身躾みをやっている。それから、一人が短い物語本を読む、というよりも単調な語調で唄うと、他の女たちがじっと耳を傾けている。小さい纏足に金と絹との、歩行にまったく向かない装飾物の靴を履き、ときには立ち上って、なんの当もなく家の中を歩き回ることもあるよ。(中略)

 ぼくの家には、内庭の土間が、それも、四方を塀で囲んだ小さい土間があるが、水のない空井戸を思いださせるものだ。そこの遥か上の方の、ずっと高い真上のあたりに、青空のほんの小さい切っ()がみられる。ぼくはこの狭い底に特に注意を、あらゆる注意のなかで最も細かい、いかにも厭世家らしい注意を集中した。緑色の釉薬(うわぐすり)を掛けた支那焼の植木鉢のなかで、弱々しい植物が二つ三つ日光を渇望して生育しているのだ。打ち明けて言うと、乏しい日光を叫び求めるように、かよわい枝を高く伸ばしているいじらしい様子を見ると可哀そうになるんだ。だが、日光はそんな植物の叫びなんかに耳も傾けないで、朝のうちにちょっと光をやるだけで、たちまち塀に遮られてそそくさと消えてしまう。それらの植物のなかには、ベゴニヤ、蘭、ゼラニューム、薔薇、小さいヒマラヤ杉がある。その他は生粋の支那原産のもので、花はすばらしくいい。砂地に根をおろすものもあれば、こまかい小石を好んで安住の地にするものもあるし、その吸収根を(よろこ)んで水中に沈めるものもある。支那の植木屋の丹念な手で不具に歪められて、船や動物や昔噺の竜の恰好をしているのもある。幾世紀も経つ太い幹をしているが、高さが四、五十センチにもたりない侏儒(こびと)の植木もある。果実をつけたマヨラナみたいに小さい蜜柑の木もある。女の足と、植木の枝とを萎縮させるこの趣味は、たしかに支那の特性だ。

(中略)ぼくが独りっきりでくらしていると思わないでおくれ、ぼくの宮殿はまったく一人の賓客を迎えるにふさわしいものと思っている。彼は狗竜という名だ。黒色に灰色の斑点がはいった長い縮れ毛。角ばって狐に似た顔つき。揃った白い歯並を覗かせている大きい口いっぱいに唾液の溜ったまっ黒い舌。生粋の支那犬。この犬の肉を中華の国の多くの国民が、すばらしい御馳走にするとよく聞かされている……。

 ぼくは狗竜の身の上をすこしばかり話したことがあるので、解ってくれているはずだ。ぼくの澳門在住の最初の三年間の忠実な同伴者、それをぼくは出帆の鐘が鳴ったとき棄てるというよくないことをしでかした。なんという病気かしらないが、吹出物が出て、瘡蓋(かさぶた)になっていたので、この番犬をリスボンへ伴れていくのが恥ずかしかったのだ。偶然にも今は回復してまるまると肥えて綺麗になっている。まる五か月の間、澳門を留守にしたが、ぼくを旧友だと、忘れずにいた。ぼくらは再び以前と同じ生活に帰って、爽快な夕方、ともに戸外に出て、竜舌蘭が生え、竹薮があり、頽ちた層楼の古い骨組の残っている小径を逍遥するのだ。

 さて、亜行と亜周とについて、すこし話そう。亜行は料理人(コック)というより"万屋(よろずや)"で、管理人、執事、秘書役、その他、なんでもござれのおびただしい役目を兼任している。誠実な男で、理屈に合ってさえいれば何でも用を果たしてくれ、ポルトガル語をすこしばかり話すので、ぼくたちの家計上の問題を感心によく呑みこんでくれる男なんだ。亜周は苦力(クリー)で荒仕事を引き受けていて、水を家に運んだり、箒を握ったり、ぼくの"人力車"を曳いて、ぼくを町へ運んだりするかわいそうな男なんだ。

 もうこれで、すっかりおまえに東洋におけるぼくの全領土について話した。ぼくは楽に寝そべっている。このだらけた怠惰の国にふさわしい無精椅子――竹製の寝椅子の上に寝ころんで、ぼくは考える。ぼくは妄想する。すると、造物主が気まぐれを、二つ三つぼくに示してくれるのだ。まったくぼくは感動を覚える。これはある創造が生まれる瞬間の喜悦なのだ。(中略)

「ああ、ぼくの! 美しいぼくの家よ!」

 ――おまえはたぶん、ぼくがどんな身勝手な享楽でこの叫びをあげているか解っていまい! いつも寝椅子の上に長く伸びて、葉巻をあとからあとから休みなく味わって、道具類に一つ一つ愛をこめて目を移して楽しむのだ。

 真白い壁にかけた日本の額は、ぼくの心に、かつて楽しく歩き回ってきた、あの不思議な日本の国の愉快な追憶をもたらす。書棚には、ぼくのよい友だちである書籍たちが整列している。仕事机である広い机の上に、日本の瀬戸物の植木鉢の美しい植木が芽を吹いている。片隅の花瓶には新鮮で香りのよい花、紙、ペン、インキ壷、煙草、いつも使うこまごました品々が、ぼくのだらしなさのままに、ごたくさと群り積み重なって、孤独の静かな平和が、ぼくの精神的労働である執筆に誘う。友達の狗竜はぼくを理解してぼくと楽しむらしい。足許に寝そべって尻尾を振る。(中略)

 ――妹よ、おまえ聞いてくれる? すくなくとも、ぼくに対するおまえの親愛の情の芳香を、ぼくのために保有していておくれ。ぼくには、ぼくの家、美しいぼくの家も、まるで墓場のような気がすることがあるのだ(花野訳)》

 私的な生活環境については、この一文によってわかるであろう。晩年の、徳島での孤独の生活とは大違いである。憂愁とけだるいムードがにじんでいるのは、モラエスが怠惰の国と呼んでいる南支のもつ雰囲気と、彼自身の神経症患者らしい精神の所産だろう。初恋のマリーアを失った失恋の悩みや望郷の念も、底に流れていたかもしれない。孤独と憂鬱な日常とを描いているが、ここにある憂愁は一種の見せかけのようである。孤独ではあったのだろうが、徳島生活における孤独とは質的に相違するのだ。

 コックがおり、下男がいる。それに、わがモラエスは隠している。中国風の住いで、中国的生活に没入していることは報じているが、亜珍(アツチャン)を妾にしている事実を……。

 黄土で外壁を塗り、パセリー色の格子窓があり、内部を純白の石灰で塗った家で彼は、二人の使用人と一匹の犬とだけで暮していたのではない。

 亜珍との同棲は一八八九年で、澳門着任の翌年である。長男ジョーゼの出産は一八九二年だから、モラエスは三十八歳だ。「ぼくの家――妹への手紙」を書いた年である。

《ぼくが独りっきりでくらしていると思わないおくれ》と、狗竜と一緒に住んでいる様子を細かく書いているが、亜珍なぞ身辺にいそうもない調子だ。アルシーのときと同じである。妾のことだから妹や「朝刊新聞(コレイヨダ・マニヤン)」の読者にまで知らせる必要がない、と言えばそれまでの話である。軍人としての公的生活の制約がさせたわざだろうが、すくなくとも、日本ムスメ――おヨネとコハルを、手ばなしで母国の人びとに語った、晩年のモラエスはまだここにはない。

 

    2

 

 モラエスと亜珍(アツチャン)の間には二人の男児があった。次男ジョアウンの出生は一八九三年である。ジョーゼの生まれた翌年にあたる。モラエスは、二人の子供を自分の籍にいれ、澳門のカソリック教会で洗礼を受けさせた。まだ国教であるカソリックを捨てていないのである。日本移住後のような、仏教への関心もまったくみられない。

 亜珍は黄氏である。本名を黄育珍(ウオンヨツクチャン)という。亜珍(アツチャン)は通称である。

 同棲後モラエスは、亜珍のことをほとんど書き残していないが、正式に家へいれた一八八九年十二月の二か月前、「呶個媽(ヌコママウン)」という作品を書き、亜珍を次のように紹介した。

《亜珍はぼくが幾度も澳門で見た支那の少女である。

 亜珍には物語の主人公になる性質はない。それどころか、もし履歴をいうべきだとすれば、貧乏なこの国を祖国にしている娘どもの大部分のものに共通した、ありふれた過去を背負っているにすぎない。

 出生地は不明だ。多分、広東(カントン)か、あるいは、南支のどこかの村落で生まれたのだろう。広東のある人売市場に出され、まだ幼少のとき、ある支那女から四、五枚の墨西哥銀(メキシコぎん)で買いとられてから後のことならはっきりしている。

 人身売買――。ここではあまり珍しいことではない。きわめてありふれたことなのだ。ちょうど汚水が増水して氾濫するように、あばら家に子供が溢れ、生活が苦しくなると親たちは、子女養育の義務を放棄する。安い値段で、まるで豚か鶏の代価で売却される。

 亜珍を求めた"女将"は澳門へ来た。彼女はわりあい幸福に育った。女将の待遇がよかったのは、亜珍同様に買い求めた多くの女の子が女将の資産だからだ。何も知らない。年端もいかない小娘たちを、気永く育てると、おびただしい利潤を産む商品に仕上がるわけだ。健康で丈夫に育てるだけではだめで、優美で華奢で色白の、(すさ)んだ商売にも姿態のくずれない、ほっそりと上品で美しさの失われない、美しい娘にしなければならない。この奇妙な小娘飼育業を、くわしく紹介したいところだが、そうもいかぬ。あまりにも下劣な行為の伴う秘密な商売だから……。

 ぼくが亜珍を知ったのは、彼女が十六歳のときだ。とくに美人とはいえなかった。まず十人並の容姿で、あまり目だたない存在だった。――よわよわしげで、支那民族全体の業病である貧血があらわである上に、その若さも、陰微でじめじめした裏長屋の、暗い黴だらけの部屋に閉じこめられ、日光と空気に飢えている日蔭の花であった。

 ほっそりとして優美などとはお世辞にも言えない。ただひょろっとした体で、胸も男の子のようにぺちゃっとして、乳房のまろみなぞ感じられない蒼ざめた小娘だった。ただ、手だけが、くらべるものもないくらい美しかった。碧玉のように透きとおった優美な小さい手――。支那の女だけが持つ美しさ。加えて、人のよい小娘らしい単純な表情に斜めにつり上った(まなじり)の黒い輝きが、魅力あるアクセントをなし、顔の単調さをひきしめていた。

 その亜珍が、突然家庭におさまった。人通りの乏しい小路の茂みの蔭の家で、年寄った一人の下女と、モルカス島産の一匹のオウムとの家族構成で。

 夕方になると、ぼくのちょっとだけ知っているヨーロッパ人の船員が、その家をおとずれていた。亜珍は、その男にとって、植民地での荒んだ労働の道づれであり慰藉の人形であった。

(中略)だが、汚水の腐食のなかからは、決して蓮の清純な花がすくっとのびることがないのだろうか。いや、汚濁の社会からだって、可憐な花序が生えてくる。――亜珍はそうした、蒼ざめた蓮の花の一つだ……。(以下略)》

 

 花野富蔵氏はその著『日本人モラエス』で亜珍のことに触れ、「広東のある人売市場に出ていたのを、ある支那の女が購入して養育したのであった。モラエスはこの元の所有主である女からのべつ強請(ゆす)られていたが、あるとき、モラエスが支那沿岸の巡航から帰宅してみると、家のなかががらん洞になっていて、その少女とすべての道具とが消えてしまっていた。たえず機会を窺っていた例の支那女がモラエスの留守を幸い、少女亜珍を伴れだして、ある支那の富豪に売ったのだった」と書いている。亜珍の裏切であり、彼女の育ての親、呶個媽(ヌコママウン)の商品二重販売である。泥棒同然――。いやそれよりも悪質な行為だが、当時の中国での、白人相手の女衒(ぜげん)のことだから、これくらいのことを平気でやる強欲婆さんもいただろう。あるいは、このような商法は日常茶飯事だったのかもしれない。

 

 晩年の書斎、徳島市伊賀町の陋屋の二階の壁に、モラエスは"マリーア・イザベルの銀の十字架"と、"テージョ号の写真"を掲げていた。

 写真は古ぼけて変色したキャビネ版だったが、愛蔵の望遠鏡でそれを、しばしば眺めてモラエスは、独りぶつくさつぶやいたり、瞑想に耽ったりしていたという。

 砲艦「テージョ号」は、三本マストの木造老朽艦で、永く澳門港頭に放置されていた。リスボンへ運んで修理しないことには、腐蝕と老朽は度をますばかりでどうしようもないのだった。同艦を母国へ回航することは、澳門政庁にとっても海軍省にとっても、久しい懸案事項だった。が、回航は至難の業で、長い海上体験をもつ荒くれどもも尻ごみする仕事だった。

 モラエスは、自ら進んでこの仕事を買って出た。

「嵐にあって、海のまんなかでバラバラになるぞ!」

 とか、

「よした方がいいのじゃないかね。(ふね)もだいじだが、人間の方がもっと大切だ……」

 とか言って、無鉄砲な航行だと忠告する同僚が多かった。

《断乎として船出しなければならない。

 自分がやらなかったとしても、いずれ誰かがこの任にあたらねばならない。遅れれば遅れるだけ老朽が増し、回航は一層困難になる。

「テージョ号」は半身不随の老婆にも似て、みすぼらしくあわれだが、もしリスボンへ曳航(えいこう)できたら、老婆は壮年のよみがえりをみせ、祖国ポルトガルの保有船艦を補強することになろう。幸い自分は、古葡萄牙(ルジタニア)の船乗の精神を失っていないし、勇敢で優秀な部下を持っている。

 さあ、断行するのだ。

 万に一つの可能性を信じて……》

 一八九一年八月二日、老朽砲艦「テージョ号」艦長として乗り組んだ、三十七歳のモラエスの決意の辞である。

 花野氏も、「モラエスは、痩せこけた老馬ロシナンテの背に跨って、正義のいくさに出発するドン・キホーテの情熱を思い出していた。むろん、『テージョ号』の行く手にも、『ドン・キホーテ』のそれと同様に、無数の冒険が待ちうけているにきまっている。(『日本人モラエス』)と書いている。

 烈しく、異状なほどの「テージョ号」回航への情熱は、祖国愛や「テージョ号」をあわれと思う心だけに根ざしているとは思えない。それもあったろうし、若さと自信からの気負いもあったろう。しかしそこに、一つの賭けの気持が汲みとれないだろうか……。

 モラエスは、《万に一つの可能性》を確信して、今ひとたびリスボンへ帰ってみたかったのではないか?……。目的は一つ。マリーア・イザベルの翻意を願って。

 いつ木端微塵(こっぱみじん)になるか、あるいは擱坐するかもしれない、中風患者の足どり同然の艦で、南シナ海を、ボルネオ海を、ベンガル湾を、アラビア海を、そして紅海と地中海をつっきる危険な行為に、わがモラエスは、ひたすら初恋の復活を賭けていた気配がある。

 ぶじリスボン回航に成功したら、もう一度マリーアを口説いてみよう。二人の行先は日本――。そこで亡命者のようにひっそり生きよう――。僥倖を祈るこころは、恋愛の成就を願うこころにも通じて、モラエスを壮図にかりたてたようだ。

《わたしは、かつて三本マストの「テージョ号」を指揮した。古ぼけた煙突と痛んだ機関との貧弱な木造船を――。もっとも。傷だらけの機関は、器用で腕の確かなシモインス・ピレスのお蔭で救われての話だが……。

 まっくらな夜だった。

 わたしは、シンガポールに入港しようとして胸をおどらせていた。海はうねり、うねりだけが、手にとるように感じられる暗夜だった。

 灯台や碇泊船や船渠や家々の数知れぬ鈍い灯の明減が、かえってわたしを不安に誘った。巨大な万華鏡を思い出させるような猥雑な光のきらめきが、眼界に拡散し、眩暈に似た動揺を与えた。わたしは灯を見なかった。というより、その光源からわたしは目を避けた。わたしには何も見えなかった。

 意志のままに命令を発し、何者かの魂に導かれるままに船を進ませた。わたしは、わたしをとりまく、自然の慈悲に愛されていることを信じていた。

「テージョ」は闇をつんざき、眼前の見えるともない障碍を一つ一つ避けて、暗夜の洋上に浮游する亡霊に似た、忌わしい怪物同然の漆黒の船の間を、まさぐり、すり抜けながら、進行しつづけた。のろくさい老婆「テージョ」は、そのとき、多くの群集に囲まれ、群衆に君臨し、群集をリードし魅了するヒーロー。朗らかできびきびした、快活で若い女王を思わせた。当惑もせず、急旋回もせず、海蛇のような動作で、しごく巧妙に進みつづける。

 なぜかわたしは、胸が高鳴るのを感じながら、碇綱をおろすよう指示した。いく時間かののち、夜が明け放たれ、わたしたちが艦をとめた場所が明らかになったとき、この古ぼけた三檣船がこれ以上有利な碇泊場所のないくらいの好位置を占めているのを知って、わたしたちは感動したのだった》

 

《太陽が輝き、海が乳色にひろがるある美しい朝、セシエル島の首都マエへ入港した日の感激を、しばしばわたしは思い出す。牙をむき、老朽艦にいどみかかる荒海を制覇しての、堂々たる勝利の入港であった。この行を共にした二人の士官(気の毒に、両人とも今はすでに亡い……)は、キャビンで朝食をとり、命令しておいた航海業務に何の異状もなかったことを、わたしに悟らせようとして、わざとだらだら雑談のときを過ごしていた。

 わたしは、気づかぬふうをして、両人を職場につかせようとせず、独りブリッジにいた。視界には、樹脂の芳香を微風にのせて送ってくる、深い熱帯樹の林と黄色い砂地とで輝く陸地があった。わたしは、ただ勝利に酔っていただけではない。足許にある記号のはっきりしない方位牌に注意はしていた。操舵手はたえず額に手をかざして研究し、有効適切な航路を報告し、両舷の測深係はレンガ・レンガに測錘をたらしていた。

 船の近づくにつれて、陸地はしだいに大きくなり、周辺の風光が拡大され、輪郭が鮮度をましていった。何ものかがわたしを導き、わたしを護って、進むべき航路を教えてくれた。わたしは、わたしの力によって航海の複雑な手続を行なったわけではない。命令すべき事項はまるっきり考えていないのに、本能的ともいうべき調子で口をついて出た。

 大いなる愛と、危険を避けようという希望とが、わたしに行動をとらせ、困難を除き、救い、航海を容易にしてくれたのだ》

 

    3

 

 碇をあげてから、「テージョ号」はいくらも進んでいなかった。前方にコモリン岬がみえ始めていたが、セイロンの島影はまだ視野を切れていなかった。アラビア海は、不思議なほどおだやかであった。甲板を歩いていたモラエスは、急に立ち止まった。艦いっぱいに拡がっていた機械の振動が、不意に微弱になるのを感じたのだ。

 彼はひどい不安を覚えた。

 急激に頭痛が押し寄せる気配を感じたときのような。あるいは結滞のおこる寸前のような。

 ポケットから葉巻をとり出してくわえたが、手が震えて火はつかない。煙草を喫いたいという欲求があったわけではない。不安をしずめ、シモインス・ピレスの技術なら、機関の故障もすぐなおすだろう、とむりになっとくさせようとしたのである。しかし、かなり重大な故障であることがモラエスにはわかった。

 「テージョ号」のことなら、澳門に残してきた亜珍や、リスボンで別れてしまったマリーアの体よりよく知っている。南シナ海の台風(サイクロン)とたたかい、闇夜のボルネオ海をくぐり、運命をともにし、生命を託している艦のことである。痛みも嘆きも苦しみも、自分の体のそれのように感じとることができる。「テージョ」が棲家であり、リスボンへの距離を短縮する乗物であり、愛してやまない恋人でもあった。

 軽い、それでいて鋭い振動が、機銃が乱射されるときのように、あたりの空気をかきまわした。それが、葉巻を喫いつけたばかりのモラエスの(あしうら)に、シャックリのような波動を伝えた。かと思う間にシャックリ状の振動は艦全体をおおい、二、三度ぎくしゃくとゆすぶり、きしませ、全長を弓なりにのけぞらせるようにした。「テージョ」は悲鳴を虚空に放ち、急に静まりかえった。

 胸もとにぶらさげた双眼鏡をわざと無視するように、モラエスは目をあげた。紺碧の水平線の彼方に、白雲がいくつもの弧を描いて浮かんでいる。幸い洋上はさざなみだけであった。

 ――難破も擱座も切り抜けてきたら、今度は漂流か……。

 モラエスは苦笑した。ひっそりした艦は、すべての機能を停止して、空と海との藍の間に漂っている。

 誰も報告にかけてこない。全員が機関室の方へ集まっているのであろう。測深係も定位置にいない。たくましい裸身をむきだしにした、シモインス・ピレスたちは、汗をポタポタ落しながら、懸命に修理を急いでいるはずであった。ゆっくりモラエスは歩き始めた。機関室へおりる狭い梯子段の途中で、煙草の火が消えているのに彼は気づいた。

 この危機をどのように切り抜けるか、万一の場合はどうするか、いろいろ考えねばならないことがあるようでいて、思考も言葉も湧いてこない。ピレスたちと一緒になって、汗と油にまみれる覚悟はできていたが、モラエス自身が手を汚したからといって、故障がなおるというわけのものではない。ピレスの腕と、澳門出発以来たびたび享けてきたような僥倖を信ずるほかなかった。

 

 消えた葉巻をポケットにしまうと、上体をかがめ、背中をまるめて機関室におりた。監視要員を除き、乗務員全部が集まった狭い室は、人いきれと熱気で、くらくらっと眩暈しそうだった。

 ピレスは機械の下にはい込み、ジャイメ・デ・アレンは天井にへばりつき、ジョゼ・セ・インソは、旧式の無恰好な発動機に馬乗りになっていた。インソの顔はまるで黒人同様であった。

 士官から簡単に報告を受けたモラエスは、心配顔でつめかけている余分な人間に、てきぱきと指示をくだした。部下たちは、命令された部署へ赴くため、ましらの身軽さで梯子段をのぼっていく。

「どうだ……。見とおしは……」

 のぞき込むようにして、モラエスはピレスに声をかけた。床にはらばっていたピレスは、少しうしろに身をにじり、海老(えび)なりに体を曲げて首だけ振り向いた。

 汗と油でくまどられ、まだらに黒くなった顔のピレスは、白い歯をむいて笑った。心配しないでください、という意思表示である。

「厄介なことになったな……」

「まったくでさ。少々うるさい故障になりやがって。こりゃ、暇がかかりますぜ。まだ、どこが気にくわねえのか見当もつかねえんです。二個所ばかりは撫でてやったんでがすが、どうやら傷は三つや四つじゃねえと言っとります」

 ピレスの冗談が、アレンやインソの快活な笑いを呼ぶ。モラエスも士官も頬をゆるませた。ピレスが軽口をたたき始めると、事態は峠をこして好転に向かっているのが常であった。困難な作業の途中だと、ピレスはものも言わない。白い歯をむくことがあっても、それは笑いでなく、怒りなのだ。

「こちらはO・Kだ!」

 言ってからアレンは、片手を離してピレスを指差し、

「この野郎セイロンでよくねえことをしたらしいですわ。女泣かせがすぎるんでさ」

 哄笑とともにアレンは左手も天井の鉄環から離した。床にはらばったピレスの、ほんのちょっと上でくるりと空中回転し、モラエスのすぐ前に綺麗に直立してみせ、大真面目の顔で厳正な敬礼をした。そして、再び快活に笑ってピレスの尻たぶをつついた。

「セイロン女のケツをおっかけまわす暇に、もっとお機械さまを撫でといてくれりゃよかったのさ」

 アレンのひやかしにピレスは、

「まったくだ。セイロン港にいるときに、むずがっといてくれたら、修理はもっと簡単だったな。波の上じゃどうしようもない。もっとも、セイロンのイギリス女に血みちをあげとったのは、おれじゃなくってアレンですがね」

 と半ば弁解の口調で、機械の下に首をつっ込んだままで応じた。

 下卑た用語や、乱暴な口調で彼等が応酬を繰り返している分には、事態はそう深刻でないようであった。モラエスはピレスに、いろいろ注意や助言を与えた。どうやら衣服をかなぐり捨てて、油だらけになる必要はまずなさそうであった。インソがどなり、ピレスが大声でインソにどなり返す。アレンがピレスの伝言をインソに中継することもあった。手伝いの者の応急補修作業はともかく、患部追求はピレスとインソの任務である。

 急にうめきに似た奇声を発したピレスは、匍匐(ほふく)したままうしろにさがり、士官とモラエスを手で招いた。中腰にかがんで二人は、ピレスの説明をきいた。

「自信あるか」

 モラエスはゆっくり言った。

「なおすしか手はないでしょう。短艇で逃げ出すには、陸地も近くって便利ですけど、艦長は『テージョ』を見捨てる気持はないはずですから……、もちろん我々だってですよ。それに、こんなのんびりした海上で、せっかくここまでもってきた艦をおっぽり出しちゃ、ルジタニアの先祖が泣きまさあ」

 最初は、蒼白な顔をしていたが、しゃべっているうちに、ピレスは本来の彼を取りもどしてくる。上官に応答する口調から、がらりと船乗り言葉になり、てれくさそうに微笑した。

 モラエスは腕時計をみた。

 午後一時である。昼食の用意はできているのだろうが、合図はなかった。浮游し始めて、もうかれこれ三時間になるわけである。

「十時間あれば大丈夫か」

 とモラエスは言った。設備のいい港でおこったこの種の事故なら、部品さえ買ってくれば、ものの一時間もあればなおるのだが……。

「大丈夫と思います。夜にかかるので厄介ですけれども……」

 自信に乏しい返答であった。

「午食にして、一つゆっくりやってくれ」

 ピレスに言ってからモラエスは、アレンに他の仕事を命じ、彼を従えて甲板へ出た。身が軽く、曲芸師のようにしなやかな体のアレンに、マストの上でやってもらいたい仕事があった。

 海はあいかわらず凪いでいた。

 小さい波頭に熱帯の日が輝いて。

「テージョ号」は機関の機能を失って、漂流しているとは見えなかったにちがいない。マストもブリッジも、指揮塔も、外見のすべてには何の異状もないのだ。

「テージョ」は、健康な人間が結滞をおこしているのに似ていた。

 機関室の熱気から脱れてきた肌に、微風が快かった。が、急に甲板に出て、灼熱の陽光の下でマストを仰ぎつづけているうちに、モラエスは眩暈と頭痛を感じた。

 結滞なら、簡単になおるのがふつうだが、そのまま絶命するケースだってないでもない。テージョの場合はどうであろう……。

 きざしてくる不安を、振り捨てるような仕種で首を振るモラエスの目の先を、銀粉をふりまいたと同様の、微細な光点が舞い、拡散する。<眩暈だ。それも烈しい……>よろめきながら彼は、甲板の柵に身を支えた。

 遅れの昼食を告げる合図の鐘が、いつもと変らぬ、間の抜けた響を伝えた。モラエスはそれを、いらいらした、いくらか神経質な心情で耳にとめた。マストの上で作業を始めたアレンを、額を押えたまま軽く見上げたモラエスは、水平線の方に目を移した。艦はゆるやかなうねりに乗って、心持ちゆれているようであった。

 故障はなかなかなおらなかった。

 ピレスの約束した十時間は、あっというまに過ぎた。

 食事を告げる鐘が八度鳴って、半休業状態のまま、乗務員は八遍食事を()った。その間にピレスは、三度しか食事に上ってこなかった。一度はアレスがパンをちぎって、油まみれのピレスの口に運んだ。ピレスとインソとアレン、それに士官たちも、睡眠をほとんどとらなかった。二日目の夕方、風が強くなり、空が鉛色に変わってきたうえに、烈しい潮流のため艦は東南に流され始めていた。たとえ小さな嵐でも、仮死状態の機関を抱えたままではたたかうすべもない。修理は一刻を争うどたん場に追いつめられていた。

 モラエスも食事を三度抜いた。漂流の始まった最初の二回の、午食と夕食とは病気のため――。翌日の夕食は、嵐との戦闘準備の忙しさで。

 頭痛――。それに烈しい眩暈――。絶望的な睡眠障碍――。久しぶりに襲った痼疾は、まる一昼夜彼を苦しめた。

 船医など乗っていない小さな艦だから、手当は自分でしなければならなかった。慣れているが、一定の時間が経たぬと癒らぬのがわかっている症状だった。鎮静剤を彼はかなり多量にのんだ。薬の作用は不眠に輪をかけたようであった。精神の状態も、航行不能になった。「テージョ」の艦長としての焦燥が伴って最悪だった。士官から伝令がくるたびに、彼は苛立った。が、ふらふらする体で機関室へおりていっても無意味だ。かえってピレスのあせりを助長するだけである。彼はひたすら耐えた。《大いなる愛と、何ものかの加護》にすがって。

 脳髄もくだけ去るかと思った痛みも、二日目の昼すぎに薄らいだ。淡い眩暈が残っていたが、モラエスは部署についた。帯状になった鉛色の雲が、水平線の彼方からしだいに拡がり、南の方から色と密度とを濃くしてきた。

 乗艦以来モラエスは、澳門に残してきた亜珍のことをあまり気にかけなかった。従順であるが、魅力に乏しい支那女を心配するより、初恋のマリーアを追想する方がはるかに甘美だった。訣別以来三年になるマリーア・イザベルの面影は、「テージョ号」がリスボンに近づくにつれて濃くなる。愛を恢復するてだてを、幼児が積木をこわしては積み、くずしては積むように、彼は丹念に組みなおしていた。

 マリーアが病夫とともに、南仏で転地療養しているなどと、まる三年音信不通になっているモラエスに判るはずもなく、また、亜珍の腹に、長男ジョーゼが育ちつつあることなぞ、すでに心がリスボンに飛んでいた彼はつゆ気づいていなかった。

「テージョ号」が漂流を開始して、まる三日経っていた。三日目の夜は台風であった。風とうねりに翻弄される旧式砲艦は、海岸に浮かんだ一片の木の葉だった。《深夜のアラビア海は狂い、魔神は怒りにうち慄えるかのようだった。「テージョ」は悲鳴をあげ、身をくねらせ、あるいはぎくしゃくと不器用に逃れようとした。「テージョ」の全身が、一晩中ガタピシ音たててきしみ、生きた心地はなかった》とモラエスは書いている。

 乗務員もかなり動揺したにちがいない。独りピレスだけが冷静かつ懸命だった。モラエスは、何度か絶望し、死を覚悟するのだった。が、嵐がたかまるにつれてピレスは陽気さを取りもどしていった。蒼白になっている<仲間(カマラーダ)>を慰めるためだけではない。ピレスの手は、着実に患部をなおしていったのだ。たけり狂う風浪に挑戦するように、「テージョ」の機関は雄哮(おたけ)びを発した。振動が仮死の船体に蘇生を伝え、安定を保つために碇を深くおろした三本檣の砲艦は、全速で風向に身構えた。

 風がうなり、波しぶきが蔽うなかを、艦は汽笛を鳴らしながら駆け抜けた。暴風圏をつっきる「テージョ」は、古代神話の英雄さながらであった。《「テージョ」は悠々としていたし、嬉々として嵐に刃向っていった》モラエスは、終始沈着だったジョゼ・シモンイス・ピレスを深く徳とした。後になって、一九一九年七月、徳島で書いた作品「きもの……それとも、おかね? きもの?」の冒頭に、"ジョゼ・シモンイス・ピレスさま"としるし、この作品を、元「テージョ号」機関長ピレスに献題した。

 アラビア海の嵐のあと、比較的ぶじな航海がつづき、老朽艦はリスボンに辿りついた。ときに一八九一年十月七日、モラエスは三十七歳。十月二日付の少佐昇進の辞令がリスボンで彼を待っていた。

 

 もう一度、花野氏の著書『日本人モラエス』を引こう。「もし初恋のマリーア・イザベルの裏切がモラエスに与えた苦杯が、彼を"一人前の男"にしたものと仮定すれば、艦長として初めて"テージョ号"を指揮した苦心は、たしかにモラエスの魂を練りあげ、彼の精神生活に深さと広さとを与えて、"一人前の人物"に仕上げさしたといえるのである。(中略)作家生活においても、もはや"詩人"を脱却して、文明批評家的な、ジャーナリスト的な相貌を現わしていた」とある。(ちな)みにこの『日本人モラエス』の発行は、昭和十五年十一月二十八日である。

 リスボンに帰着したモラエスは、ゆっくり郷里に滞在する暇もなく、再び澳門に向かうことになる。澳門港務副司令に任命されたのである。十月七日に帰って、同月二十六日のリスボン出立である。澳門帰任は年末の十二月二十三日であった。

 ついにマリーアに逢う機会はなく、「テージョ号」回航に賭けた希望はついえた。ここに、運命に従う従順な運命論者モラエスが誕生する。後年、彼は《むかし、ずーっとのむかし、ぼくは異国情緒の魅惑に襲われ、それにとり憑かれた。なぜなのかしら? そのことはぼく自身にも解らないのだ。生まれ落ちるときから明らかに病的だったこの気質のせいかもしれないが、ぼくはどこという当てどもなしに、運命の星にみちびかれて、ただひたすら遠くの方へ、遥か遠くの方へ逃げようとして船に乗りこんだような気がする》と述懐している。

 

 澳門港務副司令、海軍少佐のモラエスは、明けて三十八歳である。一八九二年があわただしく過ぎる。

 陸上の雑務、南シナ海での沿岸巡航、澳門政庁直営の癩患者療養所への食糧輸送、密輸や麻薬の取締り、シャム王国や英領シンガポールへの外交的訪問――。それにポ領ティモールへ事務連絡にいく。

 ティモール政庁を訪ねるたびに、モラエスは独り胸を痛める。土民に惨殺された親友マイヤー大尉夫妻の血が、平和に見える島全体ににじんでいる気がするのだ。テージョ号でリスボンへ帰ったとき、母国へ移葬された彼の墓標にぬかずいてきたが、マイヤーの老母と語るのがつらく、出発のあわただしさを理由に、ろくに話もせずにきた。マイヤーの母はモラエスをみると、きまって死児の齢を数え始めるのだ。

 ――あの子も、生きていたら中佐か大佐になって、本国勤務が許され、わたしたちと一緒に暮しているかもしれないのに……。

 と、悲嘆にくれる姿は、自分の手でマイヤーを殺したような、罪の意識が消えやらぬモラエスに、鋭い痛みを与えた。

 癩療養所への食糧輸送も、病める者の苦悩を知るモラエスに痛みを覚えさせる仕事であった。作品「癩者」のなかで彼は書いている。

《婦人の療養所は芝草に覆われた峻しい二つの隆起の間にある過路環島(コロワン)の清らかな風景の片隅にある。(中略)女の羞恥の惨めな残滓に引き留められてかじっと動かない。老耄の老婆、元気な女、五つ六つの子供も含めたあらゆる年齢の女――全部で二十幾人。うごめく膿潰、(むく)れ上った顔、漸懐した手足、痛々しげに身を動かし、叫び、「今日は」と金切声をあげる(くず)れた肉体。もし、この苦難をもなお生と呼べるとすれば、ここで生きている。ここで、澳門から送られる食物を受け取って、遂に、ここで死ぬ。そして、腐爛した屍骸を包む屍衣代りの土がある。ときどき澳門から来て、その腐肉を抱き、接吻せんばかりに親切に世話して、満足と愛情を与えるカノシヤ派の尼僧たちと倶に楽しむために……(花野訳)》と。

 夏にはジョーゼが生まれた。

 澳門に永住しようという決心はついていなかったが、子供が生まれてみると、亜珍も単なる性の吐け口だけの存在ではなくなる。黄土で彩られた家のなかで、愛児と亜珍とを愛して、安住の世界を形成しようとモラエスはつとめたようである。

《荒々しい海上生活者であるぼくたちは、たとえ一時的なものでもいいから、安息所としての家庭を持つべきである。家庭――。それは、慰安と憩と活力とを与えてくれる》と書いたのも、亜珍と法律にもとづいた同棲をしたのも、マリーアに裏切られ、祖国を捨てた彼にとって、本心からの行為だったのであろう。

 

 一八九三年六月

  七 日 澳門出発

  八 日 午後一時香港発

  十二日 午前七時長崎着。雨、人力車にて領事館へ。午後七時長崎発

  十四日 午前五時神戸着。午後二時半神戸発

  十五日 午後七時横浜着

 モラエスの、二度目にあたる日本訪問時の「航海日誌」である。

 日本初航は一八八九年八月十三日であった。このとき彼は長崎から、リスボンに在るフランシスカにあてて、《ここ長崎の世界中に比較しようもない美しい森の木蔭で、これからの人生を送ることができたら、どんなにいいかもしれない》と書いた。

 その日本へ再び来たのである。

 ここで、彼の語る日本の印象を辿ってみよう。抜萃は「日本の追慕」からで、訳は花野氏である。

 

 再び日本へ来、またも長崎に姿を現わして幾時間か滞在した。激しい暴風が雨を伴ってきた。最初に目にとまった人力車に乗って、吹きつける雨に礼装を濡らさないような幌のなかに閉じこもった。煩わしい公式の挨拶めぐりののちに、四年あまり前にいったことのある、脳裏に強く彫りこまれている場所、――たとえば、茂木という漁村、丘陵に散らかった絵のように美しい茶屋、民衆が祭典に蝟集(いしゅう)していた珍しい路、名高い諏訪神社……を再び見ようとした、かねて()てておいた計画もだめになった。

 あの諏訪神社は、今もはっきり覚えているが、日本での午後を過ごすことにしていたぼくたちの散策地であった。(中略)神秘で欝蒼とした神社がそれにつづいていた。右手には、市を俯瞰できる広々とした展望のきく名高い公園が拡がっていた。松、杉、巨大な樟などの古木が、あの夏の午後に楽しい樹蔭を撒いていた。炉端に並んで、手軽な葦簀(よしず)張りの、優雅な茶をひさぐ小店「ちゃや」から、花のように新鮮でニコニコした可愛い女中たちが正装で出てきて迎え入れる。そして、丁重に愛想よく腰をかがめて、冷たい飲物を召せと薦める。

 ぼくたちがいつも決まって訪れるのは、その「ちゃや」だった。ぼくたちは腰をかけた。すぐ、レモン水のはいったコップ、渋い日本茶を注いだ小さい茶碗、カステラ、煙草、煙管が出た。いつも同じ二人の可愛い女中がぼくたちに給仕し、ぼくたちとともに笑い、ぼくたちの煙管で喫い、ぼくたちの菓子を齧った。むろん、ただの村娘だったが、いずれにしても、ぼくたちが最初に出逢って、最初の日本語、初めて見たこの国の風習の手続きを習った。最初の日本の女だった。それらの乙女たちと一緒にいるということで、どんなにぼくたちが有頂天になっていたか、まったく諸君は想像もできまい。

*          *

 ぼくの友達はその一人を好いていた。――ぼくたちの逗留――、儚さに似た、結ばぬ恋だ。ぼくの方は、両人があまり華奢すぎ、あまりに優しすぎて、どちらかの一方に片寄ることができなかったので、両方とも好きだった。ぼくが振られたのでないというりっぱな証拠があるんだよ――今にも降り出しそうだった夕方の別れのとき、その二人の乙女はぼくを神社の出口まで見送ろうといってきかなかった。そこでぼくたち三人は、まるで薬味瓶の組合せセットのように、ぼくを真中にして両人の女が寄りそい、柔らかく凭れかかって、ぼくがたいせつに握っていた一本の紙製の傘のなかに、人形のような小さい頭をいれて、彼女たちだけが知っている近道を降っていったのだ。そして、彼女たちはほとんど泣かんばかりに、追慕を意味する日本語を長々と喋って、ぼくの幸福とぼくの再来とを懇願し、いよいよ別れなければならなくなったとき、ぼくに訣別の接吻に、その新鮮な二つの唇を与えたのだ。……

 それだのにぼくは、あの諏訪神社を再び訪れて、優しい両人の「むすめ」が、あれから四年を経ても、まだあそこでレモン水を売ったり、遠く旅立つ外国人たちに優しい接吻をやたらにくれたりしているかどうかを、確かめることができなかったのだ。

*          *

 四年あまり前のこと、運命はぼくを日本の土地へ伴れてきた。まず姿をみせてぼくの展望を遮ったのは、美しい長崎湾に近隣する山々と緑の島々であった。(中略)

 あの慌しい航行で受けた印象は、まるで眩暈そのものであった。立ちならぶ樹木の茂み、轟音をあげて鳴る珍しい滝、囁く小川、美しい田畑で飾り立てた、ふんだんに緑また緑の風景。花、虫、ありとしあるもの、丁重な男と優美な女とからなるこの国の活気に溢れた驚嘆すべき生活ぶり。異国情調たっぷりな不断の遊楽。珍奇な品々の生産……。

 支那に永らく住んで、その背景の単調、その沿岸の不毛、ピエル・ロッティが「黄色の地獄」といった支那の不潔な部落を見慣れた者にとって、この日本との対照はまったく驚異に値するものだった。

*          *

 ぼくは横浜へ行ってしばらく滞在した。公務に引きとめられていたからだ。横浜はホテルの居心地と、大きい一片の炒肉(ロースト・ビーフ)の美味とを享楽できる人間にとってのみよいところである。しかし、横浜の日本はあまりにも日本的でない日本なのだ。

*          *

 イギリス人、アメリカ人、フランス人、ユダヤ人と、世界じゅうの行商人どもが、すでにずっと以前からこの国に侵入し、横浜港を選んで駐屯し、自国の製品や他国からの転売品を捌こうとした。ごった混ぜの商業的世界主義的相貌のまち。横浜の市民は、日本国じゅうで、すくなくともあまり丁重でなく、さほど誠実でないと考えられる。

*          *

 ぼくのつれづれの心を惹きつけたのは、外国人用の「特許地区」でなかった。ぼくはそこから遠く離れて散歩していった。まもなく出発することを考え、再びこの感銘の国に帰ることがなかろうと思ったとき、ぼくの意欲は未来の追慕の種子を手あたりしだいになんでもかんでも脳髄のなかに投げ込みたい貪婪(どんらん)に変わっていた。日本生活の内部にある、ほんのちょっとした微細なものでも、それが目新しいもの、思いがけないものであれば、ぼくは惹きつけられ、うっとりさせられるのだ。だから、諸君はぼくが街中に出てどこという当てもなく、いつも疲れた足を曳きずって、民衆の波に紛れこんだり、果ては、最も奥まった、最も無分別な繁華街のあたりまで歩いていったことを知るだろう。

*          *

 日本の女は、それがたとえどんな賤しい出身の娘であっても、乙女であれば、たいへん美しい。醜い娘は稀にしかない例外である。分別くさい人形に似た小さい頭をぐっともたげ、空を翔る鴉を想起させる漆黒の房々した髪を高々と結った、小さくて華奢な女。そのしなやかな体を最も美しい姿で賞するには、色染の絹の広い長袖の縫物、「きもの」を着て、絹の長い帯で腹を緊めて、その帯を背後で大きく束ねて結んでいる姿をみれば充分である。

*          *

「むすめ」の魅力は、人類のなかでもっとも美しい顔つき、卵型の小さい顔をしたえも言われぬ優美さにある。いつも微笑をたたえている桜桃の恰好をした薔薇色の唇の新鮮さである。扁桃の実の形に裂けて、顔に彫りこまれている可愛い目に燃える黒い炎――この表現を信用して欲しい――である。その物腰の優美さである。白椿色をした「むすめ」の手には、往々驚くほどの線の調和がある。人種的に小さいその足は素足なので、現実と思えない伸々した一つの輪郭、一つの動作、一つの表現とさえいえるものを獲得している。

*          *

 日本の男に目をとめるならば、それは審美上日本の女にひどく劣っている。日本人は小さく筋肉が貧弱で弱々しい。むろん、日本の男性にも日本人らしい特徴はあるが、その特徴が表われているのは、その醜さの点にある。

*          *

 自然がすこぶる華麗で、予想外な装飾を惜気もなく思い切って使っているので、陶然となる風光に事欠くことなく、うき世を忘れるうっとりした眺めのうちに、そこで余生を送ろうという気違いじみた欲望を、この心に起すことにもなるのだ。

 

 モラエスは日本に憑かれた。

 日本の片隅で老いさらばえ、徳島市伊賀町の茅屋で惨死するなどとは思いもかけず……。

 

    4

 

 澳門政庁とティモール島庁の命で、鋼銅砲購入交渉のため、モラエスは日本を訪ねたのだが、商談はうまく纏まらなかった。交渉相手は、軍務局長児玉源太郎だったが、製品に余剰がないという。しかしモラエスは、澳門政庁から彼にまかされた価格が、日本の当事者の気にいらないのだ、と判断せざるをえなかった。後進国日本から買えば安かろう、と思うだけポルトガルの懐具合が貧しいわけであった。

 公務は遂行できなかったが、彼個人にとっては収穫の多い旅になった。滞在も長かったので、日本の各地を歩いた。東京、横浜、日光、鎌倉、江の島。関西では京都、奈良、大阪、堺、神戸などで泊った。日本の女に触れたのもこの旅でであった。

《東京でのこと。ある一夜、一度、あの有名な遊郭のヨシワラを訪れたが、ぼくはそれが近づいてくるにつれて、しだいにある漠然とした敬意、ある解しがたい感に襲われてくるのだった。と、こう思って欲しい。諸君は別にこれを不思議に思わないだろう。数日前ぼくは、日本の画家の作品に感得しただけの、日本へ来たことのない七十歳の老人ゴンクールの書いた『歌麿』を読んだ。(中略)

 歌麿が常套手段に使う色調の企みで描いて、蚊帳のなかにまだ起きている三人の女と、蚊帳の外の三人の女とが話しあっている構図の女たち。着物を脱いで、大波に戯れたり、濡髪を(くしけず)ったり、貝類を拾ったりしている女。要するに、享楽の巫女にふさわしい、すばらしい肉体の裸体をして、空想する心をその喜悦で輝かしている。遊女の絹衣装のこの上もない豪華さのために、眩しいほどきらびやかな吉原美人との親密な交際が示唆した、生命が躍動し動きに充ちたおびただしい無数の題材なのだ。歌麿の芸術的敏感を鼓舞した題材は、たとえそれがいかに卑しいものであったにしても、この偉大な放埓者の創作によって神聖なものとされたのだ。(中略)

 歌麿が繁く通っていたころ、今から一世紀ほどの昔には、まだおびただしい美人が、まるで絹ぐるみの巣のなかに住むごとく花と歓喜とのうちに暮していて、王姫のごとく教育され、読書、書道、技芸、音曲、茶の湯、香の燻き方にいたるまで教授されていた。(中略)同席を許された「げいしゃ」たちは、彼女らに奴隷にも似た尊敬を払った。彼女らの足下にたわいもなく跪いたのは、街の放蕩者ばかりでなくて、大名たち、文人たち、さらに貴顕の花とともに才能の花、取巻の幇間、画家、流行の歌人俳諧師の群である。

 この吉原をぼくは目指した。

 貧しい車夫が曳く流しの人力車で到着したのだったが、彼はぼくに、目眩む魔法の電飾のよう、夜闇のなかに描き出されている大きい発光体の方を指示した。直角の四辻に仕切った多くの街でできているこの吉原の廓は、かつての姿をほぼ伝えているらしい。

 呆然とする外観だ! 木造三階建の同じような家並が両側に並んで、まんなかに植込の庭がある長い遊歩路、光の奔出。ぎらぎら輝く電燈の灯。瓦斯(ガス)を使った大燭台、(中略)果てしなくつづいて、遠く彼方のぼんやりした、浮彫のなかに溶けこんだ階下に照り輝いてみえる。こちら側、あちら側の、美しい色合の輝く虹に似た光に注意するがよい。その光が、彼女ら女郎衆であって、細い格子だけで街頭と隔てられ、一人ずつ並んで姿をみせ、建物ごとに二十人、三十人、四十人さらにそれ以上と一群れになっているが、全体としておびただしい姿の妖艶な一隊をなして、信じられないほどすばらしい制服をつけているのだ。

 彼女らは絹蒲団の上に坐っている。各自が小さい煙管、火鉢、のべつに覗く手鏡を前に置いている。古めかしい昔風の豪華な着物を着て、まったく架空な品々の宝庫である髪飾をし、化粧品で顔を晒布(さらし)みたいにまっ白にして、下唇を黄金色にしている美しい女たち。

 人肉の宗教の空想的な偶像。しかし、彼女の顔に漂う悲惨な特性が、彼女を見つめる通行者に送る微笑、職業的な微笑を凍結させる。

 現代の哀れな遊君たちよ、おまえたちの威光の失墜したことが予想され、予測されるのだ。おまえたちはもはや、かつて百年の昔、この同じ場所に坐って、歌麿に微笑を送った彼女たちにふさわしい後継者でない》

 モラエスは、ふとペンを止めた。

 日本のことを書いていると、次から次へと過剰なくらい鮮烈な印象がよみがえってきて、ペンのすべるのがまどろっこしいぐらいだ。ヴィセンテ・アルメイダ・デーサの仲介で、「朝刊新聞(コレイヨダ・マニアン)」に日本旅行記を連載し始めてからもう三か月になる。リスボンからの手紙では、その「日本の追慕」の評判はひどくよいという。しかし、自分の見聞や体験や日本に対する評価などが、母国の人びとに正当に享けいれられているかどうかは、きわめて疑わしいと思われるのだ。

 異国情調(エキゾチシズム)だけは、なんとか伝え得ているという自信はあるが、言語、風俗、習慣、国民性、政治形態など、あらゆるものがヨーロッパの理解を絶する日本を、詳細に紹介しようと思えば思うほど、ペンの力の虚しさが意識にのぼってくる。表現力の貧しさはあるとしても、彼は力一ぱい日本の印象を語っているつもりである。だが、どのように、日本の風光のすばらしさを描写してみても、あるいは、日本むすめの魅惑的特徴を列挙しても、彼自身の感じた驚きそのままを伝えることは困難であった。

 母国の読者たちがもし日本の緑のなかに坐し、日本むすめに接触するならば、自分の印象記の表現が決して過剰な叙述でないと理解し、むしろ、まだ強調がたりないと思ってくれるだろうが……。

 百聞は一見にしかず――という東洋の格言が、想念に浮かぶことがしばしばだった。一度も見たことのない人びとに、小柄で可愛い「むすめ」の紹介はどう伝わる。その姿態、服装、優しさが……。たとえば、と彼は考える。紙製の傘とか、木でつくった履物とか、絹でつくった長袖の縫物「きもの」とか、いろいろ表現に工夫をこらしてみても、その品物を想像せよということは、読者に対してむりな注文だった。

 ヨシワラの話を書き綴りながらペンを止めたのも、やはりそれだ。母国の人びとが、自分の文章を読んで、どういう街を想像するだろうかと、ふとこだわる気持が動いたのである。ある人は、パリーのそうした街を反射的に思い浮かべたり、リスボンやポルトの歓楽街から類推するだろう。《目眩む魔法の電飾》という表現だと、カスカイスのカジノの明るさを思う人もあろう。

 モラエスは言葉の虚しさに衝きあたったまま、横浜で求めてきた煙管を取りあげた。日本の煙草を味わいながら、ふしぎな魅力をたたえた国の印象を反芻するため、しばしの瞑想を愉しもうという寸法である。

 隣室は静かである。二歳になったジョーゼは早くからベッドに入り、むずがっていた十一か月の嬰児であるジョアウンも、亜珍に抱かれて眠ったらしい。

 母親となってからの亜珍は、いくらか怠惰の習性もあらたまり、ようやく優しさを示し始めた。無知なりに彼女も愛に目覚めたのであろうか。相変わらず魅惑に乏しい体だが、すでに彼女も二十二歳である。彼が引き取ってやってから、もう満四年も過ぎた。出産と授乳による胸の隆起は、貧弱だった肢体に変化を与え、人妻らしいなまめかしさと落着きを感じさせる。根気よく彼女を導いてきて、やっと満足できる状態に辿りついた、とモラエスは思っていたのだが、どうやらそれは、日本の女を知る前の、妥協と諦念による充足だったらしい。

 ――亜珍にくらべ、あの日本のむすめたちや、げいしゃたちはどうだ。その魅力は比較のしようもない――

 木彫の灰皿に煙管を打ちつける音が、ひっそりした書斎に陰にこもった響きをたてた。

 神奈川の茶屋で逢った芸者のことが、ゆっくり、そして鮮明に思い出されてくる。彼はその「げいしゃ」から、"一夜妻"という日本の言葉を教えられた。

 生活感情が違い、言語が充分通じ合わないので、女のする説明はなかなか判らなかった。それでも彼女は、ゆっくりと、甘い、うっとりするような声で、言葉の意味を囁きつづけた。

 耳朶をくすぐった、一種熱っぽい、それでいて柔らかだった女の口調が、まだありありと耳底に残っている。

 了解がついてみると思わず微笑がわいてくるほど、味わいのある言葉だ。なんとうまい適切な語彙なのだろう。言いえて妙、含蓄ある表現であった。そして、彼のその一夜妻の、献身と奉仕とは実にすばらしかった。

 ポルトガルの母性と、スペイン女の情熱と、パリージェンヌの優美とが、そこに渾然と輝くのを彼は見た。今や彼は、慎み深い妖艶の俘囚だった。

 神奈川の芸者は小稲といった。「日本の追慕」の中に彼は、《「げいしゃ」コイネさん、(訳すと、米のできる植物のまだ小さいもの)彼女の話をはぶくわけにはゆかない。コイネさんは、ぼくのよんだ芸者であった。ある日、ある茶屋へ伴われて、そこでぼくは彼女を紹介された。その後ぼくは、一人でその茶屋へ行きしばらく滞在した。それは、彼女と一緒にいる愉しさ、こころよさ、それにあたりの景色の美しさに惹きつけられたからである》と、彼女のことをくわしく描いた。

 芸者は、自分をたまたま招んでくれた客を、《唄と音楽で幾時間か楽しませる職業である。日本の俗謡をきかせ、洗練された繊細な指先で、日本のギターである「しゃみせん」をならし、料理を給仕し、「さけ」をつぎ、一つの微笑を、さらに、あわよくば一つの望みを客に起させるのが勤めだ……。彼女らは、その使命を誇りにしていて、遊女たちと一緒にいることを悦ばない。遊女が入ってくると、彼女らは役目を終えて出て行く》と彼は説明したあとへ、小稲さんとの邂逅を描写した。

 いつのまにか火の消えている煙管を投げ出し、ゆうべ書きあげたその原稿を、彼は読み返してみる。それを書きながら彼は、日本での体験が生ま生ましくよみがえってきて、深夜ひとり昂奮し、急にペンをおいて亜珍にいどみ、苦い失望を味わった昨夜の狂態を思い出した。

 永久に妻となるかもしれない女が、旅先の一夜妻に劣るのはどういうことなのか。単に国籍の違いだけではない何かがある。それを、彼はもっともっと究めたいと思った。日本について語りたいことは無限にあるようだったが、たった二度の旅行では、日本を深く知ったとは言いがたい。日本をよく知りたい、と彼は考える。一人コイネさんだけの魅力に捉えられたのではない。日本のむすめ、げいしゃ、ゆうじょ、じょちゅう、ひとづま、少女……。日本の女性のすべてに憧憬と追慕を彼は感じている。いや、魅惑は日本列島全体から、むんむん息づいているようだった。

 唐突に彼は、東洋の誇るべき哲人である孔子が述べた名言を思った。四十にして惑わず、というその言葉は、東洋風の悟りの境地を見事に表わしている。

 二十日前の五月三十日の誕生日で、ようやく彼も不惑に達した。しかし不惑どころか、四十歳にしてますます迷いそうな予感があった。女なしでは生きられない自分の狂癖を、モラエスは歌麿と吉原の遊女たちとの交友に対比してみる。漁色家(ドンファン)とか好色とかいう言葉に規定される卑しい情感ではない。もっと神秘的で高尚で聖い愛欲の探究なのだ、と……。

 隣室に灯がともった。ジョアウンを寝かせたら、茶をいれて欲しいと命じてあったので、亜珍が起き出したのだ。カーテンの向こうで身づくろいしている彼女の長身の影がゆれている。

 京都で求めてきた宇治の茶を、久しぶりにのみたいと思ってのことだ。にがいけれども、舌の上をころころ転がるような柔らかいうま味が、コーヒー党の彼にもようやくわかりかけてきた。日本人はよく茶をのむ民族だ。貧乏人の家庭でも愛飲常用すると聞いた。それにひきかえ、支那では茶は貴重品である。末期(まつご)のいまわの際に、小さな湯呑に一枚の茶の葉を浮かべて、それを喫して死ぬる者は、まだ最下層の貧民ではない。茶の葉をめぐるいろいろな挿話や伝承や、珍奇な人間愛憎の物語や笑話もある、一服の茶のために、女房を売った風流人譚など……。

 モラエスは再び煙管を手にした。

 コイネさんの物語は、充分満足できる出来ばえではないが、描写が具体的だから、「朝刊新聞(コレイヨダ・マニヤン)」の読者たちを、あるていどよろこばせることができるかもしれない。と彼は思う。《さらさら鳴る絹の音、きしきし軋む木材の音、静かな床板を擦る足音がする。コイネさんは上草履を部屋の入口で脱いで、まるで家庭の小さい妖女のように唇辺(くちべ)に微笑を含んで、ぼくの方へ近寄ってくる。

 まあ、なんと優雅な姿だ!

「旦那さん、今日は……」

 優美だ、ただ優美である。やや黄褐色がかった皮膚、ほっそりした体、いつも新鮮な桜桃の唇、漆黒の眉毛と頭髪、羚羊(かもしか)のように他人の瞳を避ける(しと)やかさを持つ栗色の目。その商売道具である「しゃみせん」を手にしてくる。坐った。絃を一本ずつ鳴らして調律した。低い唄声がその唇からでた。指が動いてその数知れぬ小使命を果していた。じっとぼくを見つめた。ぼくに微笑みかけた。すこし休んで、小さな銀の煙管に火をつけたり、美しい縮緬の袂を口もとに持っていったりした。ぼくはこの、区切点の多い、短い区切の文章によって、彼女の表情と仕種のゆらめく緩慢さ。まるで神秘な修業に専念する異教の僧のように、自分の職務に対して(おごそ)かなほどの、連続的な所作を諸君に想起させたいのだが……(花野訳)》

 

 茶を捧げるような姿勢で、亜珍が部屋へ入って来た。またノックを忘れているが、今夜はとがめだてすまい――、思いながらモラエスは、自分の文章に自らひきこまれていた。ほんのりと、日本の椿油の匂いがした。みやげに買って来て与えたのをつけたのだな、と思う。先刻、腕を折り曲げて髪をいじる影が写っていたのを、頭の片隅に浮かべる。それでいて彼は、亜珍のただよわせた匂いに日本の女を錯覚し、こころが慄え湧きたつのを意識した。

《お喋りしたり、笑ったり、黙って景色を眺めたりで、中断するので長い時間のかかる食事。コイネさんは、日本の礼儀作法に従って、食べなかった。ただ、米で造った日本の酒を注ぐだけだった。そして、ときどき、ぼくたち両人は仲よく盃を交したが、それは、この国では、愛しあう一つの様式なのだ》

 亜珍が傍らに立ち、ゆっくり茶を差し出した。彼女をねぎらう簡単な言葉を唇にのぼせただけで、モラエスの目は原稿を追いつづけていた。

《夜になった。ぐるりと巻いた紙製の円筒のなかに納まっている灯がぼくたちを照らしていた。隣の部屋部屋にも、ほのかな灯がちらついていた。家のなかの生活が、ちょうど幻灯の白布のように映写され、ぼんやり溶けた黒い影によって、白い紙の障子の上に現われてくるのを見るのはおかしくも珍しい》

 所在なげに、まるで木か竹のように亜珍はつっ立っている。仕事のじゃまをすまいと、彼女なりに気を遣っているのだろうが、壁に身をよせて、ねそべっている狗竜の域をあまり出ない。

 モラエスは目を閉じる……。やさしい色調の壁と、簡素を粧って実は豪華な家具調度品と、ほのじろく照らされた青い畳とが、日本の演劇の回り舞台そっくりに現われてくる。神奈川の茶屋とか、京都の待合とかいった、特定の場所ではない。日本の国に共通した華やいだ、それでいて粋な雰囲気の部屋――。たとえばそれは、海岸の美しい、茅屋(とまや)と「茶屋(ちゃや)」、漁夫と「芸者」の、鄙びた堺の街の小さな店の座敷でも、もう少し艶めいた吉原や神戸の福原などのどこかでもよかった。

 黒塗の低い卓子の上には、珍奇で異国趣味たっぷりな料理の数々が載っている。酢や日本製ソースにつけた生まの魚の切身。名も知らぬ果実。初めて見る奇怪な形の野菜。透明な湯のなかに漂っている、僅少の野菜と底に沈んでいる貝。焼いた魚肉。原型の想像できないまでに切り刻まれた果菜。すべてが淡彩の瀬戸ものの皿に盛られた……。

 日本製ホークである箸。日本の棒の食器は少々厄介で扱いにくい品であった。「はし」を器用にあやつって、操作に不慣れな西洋人のために、女中や芸者が食事の手助けをしてくれる。

「亜珍も、茶を持ってきたらいい」

 目を開いて、瀬戸ものの湯呑を、不器用に大きな掌で囲みながら、彼はやさしく言った。救われたふうな表情をみせ、身をくねらせて亜珍が台所へ去った。

《別れのとき、ぼくはコイネさんの手を握った。なぜかしらその手は、――あれほど小さくて、あれほどきれいで、あれほど清潔だのに、「しゃみせん」を激しく震わせる所作のために、永久的な肉腫をかたちづくり、静脈を膨れさせていた。その手は、ぼくにある悲哀を浸みこませた。ぼくはなんの躊躇もなく、なぜというわけも知らず、無意識に、その手に接吻した。長くその手に接吻した》

 モラエスは口に茶をふくみ、その懐かしい味をいとおしむように、ゆっくりゆっくり咽喉におとしていった。

 彼はペンを取りあげ、長い間迷った。適当な文句が浮かばないせいでもあり、書き込みなどせぬ方が余韻があって、いい作品になりそうな気がしたからである。しかし、このままだと読者の劣情を刺戟し、その空想が無限に拡がりそうだ……。そればかりではない。懐かしさのあまり筆がすべりすぎて、コイネさんを傷つける恐れさえあった。

 作者が自作に感動し、ある種の刺戟を受けて昂奮し、妄想をくりひろげるのはおかしな話だが、読者に誤解を招きそうな芽は刈っておくべきだ、と彼はさんざん迷った末、コイネさんの最大の魅力は、彼だけの記憶の襞にしまいこむことにした。

 湯呑が空らになっているのも気づかぬ真剣な面持ちで彼は、別れの接吻の描写の前へ、一言だけ補正挿入することに決めた。

《ぼくは別れまで、決して不愉快なある無作法な行為で、コイネさんを怒らせなどはしなかった》……と。

 亜珍がゆっくり茶を、ソファーにもたれてのみ終えるのを待って、モラエスは机上の灯を消した。窓から、思いがけないほど明るい月光が射し込んで、亜珍のシルエットを床に刻んでいた。

 円筒の「あんどん」に、華奢な白い手が伸び、あかりをともす様子がよみがえる。長い袖をゆらめかせて、素早く点火された瞬間を境に、部屋は急な変化をみせ、彼を夢み心地にしたものであった。隣の部屋との境にある、彫り込みのある木と木で挟まれた「ふすま」が、彫りにそって辷るように左右に開く。

 淡い光がようやく届くあたりに、絹の「ふとん」がのべられ、小さな箱である女子用枕と、縫いぐるみの男枕がちんまり寄り添っている。夜具は、日本の風土に合致したものとしてつくられ、艶めいた色調は、日本のおんなの英知と工夫を息づかせていた。艶治(えんや)でしっとりと落ち着いた憩の雰囲気であった。

 亜珍が軽く呻いた。

 素肌に手をすべり込ませるのが、いらいらするほどもどかしかった。ソファーは「ふとん」にくらべようがないように、中国服も「長じゅばん」のようではない。

 片づける暇がなくて、亜珍が頭で倒したあたりに置いていたらしい湯呑が、大きな音をたてて床にころがった。急にモラエスは、モザンビークでアルシーを抱きながら、リスボンにいるマリーアを錯覚しようと焦ったある夜を思い出した。どこか似ていた。床に落ちたのが、靴であると瀬戸ものの湯呑であるとの相違だった。

 亜珍の匂わす髪の椿油の香りが……。そればかりでなかった。日本のおんなを夢みようと、空しい努力をしている彼をそそるように、亜珍は唇に日本のべにをひいているらしい。

 荒々しい挙動で髪を掴み、モラエスは亜珍の顔をぐっと仰向かせ、眼下へ引き寄せた。彼女は悲鳴をあげ、悲しげな目で彼をみつめた。月光で確かめるまでもなく、彼女は「京紅」をべったり唇に塗っている。貝殻にはいった高価なそれを、今晩一晩でほとんど消費したのにちがいない。日本のことばかり話題にして、夢中になっている彼の歓心を買おうとしてのことだろう。

 白々しくなる気持を振り払って、日本おんなの匂いに没入しようとモラエスは思った。それに、亜珍の心情も解らぬではない。彼女は何度か呻き、柔らかく身をくねらせ、狂気のようにしがみついてきた。珍しいことだ。いや、初めて彼女がみせる媚態だった。モラエスは夢中になり、腕のなかでぐったりとし、嗚咽(おえつ)をもらす女体を抱きつづけた。

(パイ)! (ぱい)! (ああ、どうしよう! どうしよう!)」

 亜珍は叫んだ。彼女はいつだったか、今夜のようだった狂おしい夜の記憶を、たぐり寄せようとあせっていた。……そうだわ、黄さんという、お金持の広東の貿易商とのときだった、あの人は、あたしを産んでくれた、ほんとうのお(つか)さんを知っているって囁いたのだわ。(わたし)はそれで夢中になっちゃったんだけど……、でも、黄さんの話……ほんとうなのかしら、広東へ逃げて来たら結婚してやる。お母さんにも逢わせてやるって……。それに、妾には一人兄さんがあるんだっていっていたっけ。ほんとうかしら。

 あの人も黄姓だったわ。妾は黄育珍(ウオンヨツクチヤン)。同じ黄なら、あの人が私のお(つか)さんを知っているってのも、嘘でないかもしれないわ……。

 彼女を育てた女将は、モラエスに彼女をわたしてからも、彼の目をぬすんで、たびたび呼び出しをかけ、彼女の好まぬ商売をさせることがあった。黄さんもその相手の一人だった。モラエスに悪いと思って、一度亜珍は頑固に抵抗してみたことがあった。

 女将は、憎々しげに彼女を見据え、

「へーん、なんだい。えらそうぶってさ。誰にいったい大きくしてもらったんだい。大きい口をきくじゃないか。あたしの言いつけがきけないのなら、シンガポールかインドの蛇つかいに売り飛ばしてやるから」と怒鳴り、

「へん。なんだい、つかったからって、ちびるもんじゃあるまいし……」

 いいながら、彼女の長い髪をひきずって、そこら中を歩き回った。土間でひき回され、痛みと切なさで亜珍は泣いた。

 モラエスは、亜珍の瞳に涙が溢れ、切れあがった(まなじり)がうるんでいるのを、奇妙な感動で眺めていた。今夜は不毛の燃焼ではなかった、と思って……。

「ねえ、(わたし)のおっかさんが、広東にいるって友だちが教えてくれたんだけど……。ほんとうかしら。妾、どんなにか逢いたいかしれないんだけど……」

 低い声で亜珍はいった。

「いいおっかさんだ。少し欲ばりのようだけど……。広東だって? だって、上海林檎(シャンハイりんご)を持って訪ねてくれたのは、昨日だったじゃないか……」

 不意に彼女は、このわからずやの、礼儀作法をやかましくいう、けちんぼうのくせにベッドだけはしつこい大男に憎悪を抱いた。

 突き飛ばされ、大ぎょうに床板を響かせて転がるモラエスの耳に、

「あたし、あたし、あの……<呶個媽>のことなんかいっていないわ! あたしを産んでくれた、ほんとうのママウンよ!」

 金切声を発した亜珍が、扉にぶつかり、狂ったように戸外へ飛び出していく跫音だけがきこえていた。

 翌日、けろっとした顔つきで亜珍は、ジョアウンのベッドで乳房を含ませていた。

 亜珍が二人の子供と家具調度のいっさい、モラエスの蔵書と蒐集品だけを残して、拐帯逃亡したのは、その日からちょうど十一日目だった。

 

 翌、一八九四年七月モラエスは、澳門政庁とティモール島庁の委嘱を受けて、再度、大砲購入の目的で日本を訪れた。彼にとって三度目の訪日であった。

 日清戦争がおこったのは、彼の日本滞在中のことであった。《後進性を回復し、背のびしつつ伸び、着実に地歩を固めている日本を凝視し、見ならわねばならぬ》とモラエスが母国の雑誌に書いたのは、一八九三年(明治二十六年)のことであったが、近代国家としてのかたちをととのえ始めてまだ二十数年、重工業がやっと緒についた国へ大砲を買う交渉に派遣されて、四十歳の彼の胸中は複雑であった。

 むかし、むかし、ポルトガル人ディオゴ・ゼイモート、メンデス・ピント、クリスヴァン・ボラリヨの三人が漂着した種ヶ島で、小銃を伝えた国日本――。長い封建と鎖国の制度を解いて統一国家となって日の浅い新興国日本――。その小国が、世界の人びとが眠れる獅子と呼ぶ、四億の人口を抱えた国と戦うという。対清宣戦を知ってモラエスは、大砲購入の交渉をほとんどあきらめた。前年不調に終ったと同じ商談を行なうには、時期的に最も拙いと思ったのである。

 ところが、日本当局は売ってもいい、との返事である。鋼銅製の六個の砲身からなる山砲台一基の売買契約は、あっけないほど簡単に纏まった。戦いを始めたばかりの国が、武器を売ってもいい、というのはどういうことであろうか。金が欲しいのだろうか、あるいは外交的虚勢……。いや、この国はほんとうに余裕と自信をもっているのかもしれない、とモラエスは思った。彼は、戦いの意義を明文化した宣戦の詔勅に目をつけた。内容を熟知し、進んではそこに秘められた意図を把握しようと思ったのである。彼は、日本の対清宣戦の詔勅を、ポルトガル語とイタリア語に翻訳した。英文からの重訳である。

 モラエスのこの翻訳は、のちに日本の聖戦の趣旨を世界に宣揚したと評されるようになり、日本賛美者モラエスを傍証することになるのだが、彼の死後、日本人がかってに評価したのにすぎまい。ところが、第二次大戦下の日本では、ポルトガル人のモラエスでさえ、八紘一宇の精神を理解し皇道の精髄を体顕した、まして日本臣民においておやと叱咤され、死と破局の戦いにかりたてる材料の一つに利用された。

 モラエスは、一九二三年(大正十二年)に徳島で執筆した、『メンデス・ピントの日本』のなかで、この山砲購入交渉を想起して、《"種ヶ島"は日本の近世の戦争方法を一変した。剣と槍との戦いは、この小銃によって攻撃と防禦の革命をもたらす。日本の国の九州の豪族たちの軍事的手段に、おそるべき重大変革を与えたそれは、またたく間に各地に伝播した。築城はもちろん、用兵にも変化をもたらし、全国各地に散在する豪族たちを統一的に支配する、封建制度の確立を促進さえした。ここで、"種ヶ島"について、わたし個人のごく私的な挿話を語りたい。一八九四年のことである。わたしは澳門政庁の命令で、日本の砲兵工廠からポルトガルの植民地のため、山砲数門を購入する用件で日本政府と交渉した。そのときわたしは、内心苦笑を禁ずることができなかった。三百五十年の昔、日本人に初めて火砲を伝えた者は、ポルトガルのディオゴ・ゼイモート、メンデス・ピント等だったのに……。時代は変転する。そして、世界の歴史の主役はときどきいれかわる……。日本へ初めて鉄砲を伝えたのはポルトガル人で、日本から始めて山砲を求めたのもポルトガル人で、しかもそれはわたしだった……》と、書いた。

 

 中佐に進み、港務副司令のまま予備役に編入されたのは一八九六年であった。その年一ぱいを彼は、『大日本』の執筆に没頭した。

 一八九六年は明治二十九年である。三国干渉と遼東半島返還はあったが、島国日本は眠れる獅子清国との戦に勝っていた。この戦勝が、『大日本』におけるモラエスの論調を規制した。文章はいささか昂奮ぎみとなり、日本に対する同情的肯定的解釈が多くなった。

 Dai-Nipponという標題に添えて、漢字で"大日本"と墨書したこの本に、なぜ"大"という字をつけたか。その理由を自ら解説してモラエスは、一八八九年に初めて日本を訪ねたとき、日本の庶民階級である車夫、馬丁、女中、小僧にいたるまで皆「大日本」と自称し、自尊心と民族興隆の意気のみなぎっているのに感嘆し、日本の未来の発展を(ぼく)し、あえて"大日本"とした、と。ところが、彼の日本研究が深まり、日本に住むようになってから、『大日本』はモラエスの気にいらぬ著作になった。「まちがいが多い」というふうに変っていったのである。

 この本は、ヴァスコ・ダ・ガマの印度(インド)航路発見四百年記念事業の一環として、東洋各地の研究紹介のための叢書が、リスボン地理学会によって企劃され、その一冊としてモラエスに依頼されたものである。すでに『極東遊記』に収めた「日本の追慕」という長文の作品を、リスボンの「朝刊新聞(コレイヨダ・マニヤン)」に連載して好評を得ていたから、日本をえがく自信はあっただろうが、九六年一月に起稿して、九七年六月出版だから、ゆっくり執筆するゆとりはなかった。後年、再版をめぐって友人デーサとの不和を招くのが、この『大日本』である。『大日本』の仕事が終ってから、一八九七年、九八年と、つづいて日本へ公務出張があった。

 一八九八年の訪日は六度目にあたる。

 港務副司令を免じ、本国帰還を命ず、と、いう電報が、駐日ポルトガル公使館へ届いたのは、一八九八年六月八日である。たまたま日本滞在中であった彼は、澳門政庁へすぐ返電を打った。

 ――帰国の意図まったくなし、軍と官を辞し、日本へ移る――

「いいんですか?」

 と、返電を依頼された澳門二世である駐日公使館員が、いぶかしげな表情をみせた。

「いいともさ、日本はいいところだ」

 と答えてモラエスは笑った。

 

 魅惑の国"ニッポン"をモラエスに教えたのは、ルィース・デ・カモンエスの民族詩『ウス・ルジアーダス』であった。長篇海洋叙事詩『ウス・ルジアーダス』は、ポルトガルのすべての青年の愛読書だが、モラエスもまたこれを愛読した。とくにその一部分である「美しい愛の島」の挿話を愛誦した、と彼は、のちに書いた「徳島日記」のなかで告白している。

 (なれ)になお知られぬ国多かれど

 ときにいたらずば現われじ

 さあれ(たえ)なる群島(むらじま)

 神ぞ忘れじわたつみに。

 果てしなき(うしお)を越えて

 支那よりぞ目ざしゆくは――日本ぞかし

 清き白金(しろがね)を産み

 (きよ)(のり)()に照らされつつ  (花野訳)

「美しい愛の島」の詩はこれだけだが、この詩を青年時代から愛誦し、日本にあこがれを抱いた、とモラエスは述べている。マルコ・ポーロの昔から、金銀を産む仏教国日本は西欧人の憧憬の(まと)だったが、その日本を実際に見てモラエスは、ますますその魅力にとりつかれた。日本初航以来、日本に住む倖せを空想していた彼は、ほんとうに日本で暮すことを決心したのである。

 一度澳門へ引き返し、慌しく日本移住を敢行した。ときに一八九八年(明治三十一年)十一月二十二日、モラエスは四十四歳であった。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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佃 實夫

ツクダ ジツオ
つくだ じつお 小説家 1925・12・27~1979・3・9 徳島生まれ。昭和41年河出書房刊『わがモラエス伝』と、昭和44年集英社刊『定本モラエス全集』(花野富蔵訳)編集により、志賀直哉・井上靖・遠藤周作らとポルトガル「インファンテ・ドン・エンリケ勲章」受章。「定本阿波自由党始末記」などの著書がある。

掲載作は表題作の「第二章・第三章」である。なお当電子文藝館には「序章 第一章」「第七章 第八章」が既に掲載されている。