最初へ

わがモラエス伝(抄)

  第7章 阿波の辺土に

 (承前)

 

     

 

 モラエスは阿波の辺土に死ぬまで日本を恋ひぬかなしきまでに

 と歌ったのは吉井勇である。吉井勇には、モラエスをよんだ歌が多いが、これはその代表的なものといえる。

 第二次大戦後、アメリカ大使館に勤めたグレン・ショウーは、たびたび徳島にモラエスの墓を訪ね、

 永き世をコハルと寝るや墓の主

 と吟じているし、菊池寛とともにモラエスの遺跡をめぐった久米正雄は、

 モラエスもうつつをぬかす春の宵

 の一句を徳島に残した。

 いずれも、天涯の孤客モラエスを、ある程度捉えている。

 案内の者が、モラエスを語るとき、かつて存在していた遺品――「愛の門標」の説明文におけるコハル夫人の表現のごとく、半ばお国自慢的に、徳島におけるコハルとモラエスをのみ伝え、ヨネとの愛にはあまり触れなかったのであろう。

 まるっきり、おヨネの存在が抜け落ちている。死後三十余年を経た今日、モラエスは徳島の観光資源の一つに組み込まれ、その生涯は伝説化され、ますます偶像視され、業績と人間性は見失われつつある。今日でもかくのごとくであるから、吉井勇や久米正雄が訪れた戦前だと、日本賛美論者としてのみ語られた時代だった。

 蒐集品のなかに、西洋人にしては少し多すぎる日本の偶像があったところから、「日本人に魂を入れかえた、日本人以上の日本人」と呼び、日本崇拝者にしたてていったのは、昭和初年という、ファッシズムの時代のせいであった。明治天皇の写真。明治天皇と墨書した門標大の木札。将軍乃木の石膏像。天照大神と豊受大神の掛軸。おびただしい神社のおふだやお守。巻煙草大のガラス管に厳封した恩賜の煙草などは、彼を日本主義者とする証明の役を果たし、恩賜の煙草は、明治天皇に引見されたときもらったものを、家宝として保存したのだとか、神棚や皇居の方角を朝夕拝んでいたとか、蒐集品のなかにおける日本の偶像には、一つ一つ、もっともらしい伝説が付加されていったのである。

 彼の著作の邦訳も、多くは日本賛美の書として読まれ、徳島の片隅――市井の庶民のなかで、彼が体験的に身につけた、鋭い日本批判や、すぐれた観察は見逃された。

 彼が、「日葡親善の恩人」とか、「文豪モラエス」とかの讃辞で宣伝され、徳島人の自慢の種の一つとなったのは、その死後に属する。徳島の人びとは、生前の彼に対して、何等誇るにたる好意なぞ寄せなかった。あえて言えば、向こう三軒両隣の長屋のおかみさんやその亭主。二、三の少女や青年。仏壇の回向に月二回訪れていた尼僧、智賢尼などわずかの庶民たちが邪心なき親切さで接したにすぎない。

 スパイという猜疑の目や、西洋乞食という悪罵に耐え、徳島の風光を愛しながらその地の気候の悪さに悩み抜いた十七年――。まさにそれが、徳島におけるモラエスの暮らしだった。

 徳島に限ったことではないだろうが、外人が珍しい田舎町のことだから「毛唐人やーい」とか、「やい! 唐人!」などと下賎な言葉を浴びせられる。が、むりもないことだ、支那人とヨーロッパ人とを区別なく敵視し、同じヨーロッパ人に蛇と蝮のあることの見わけもつかないのだから……、と随筆のなかに書いている彼は、『徳島日記』のなかでも《ポルトガルの田舎で、着物姿の日本人が歩いているよりは、私がここ徳島に人々から愛されている(花野訳)》と好意的に述べている。彼が言うとおりにちがいない。たとえば、ポルト、たとえば学都コインブラ……、そうした市街やポルトガルの田園に立つ、和服姿の日本人を想像してみるがいい。想像できないか、さもなくば滑稽そのものであろう。比較の基準の問題にしかすぎないかもしれないが、徳島におけるモラエスは、ポルトガルにおける日本人ほどではなかった……。確かに。

 永き世をコハルと寝るや墓の主

 グレン・ショウーの句のとおり、モラエスは、コハルの墓に永遠に眠っているわけだけれども、この句、皮相の見解のそしりをまぬがれまい。俳句では、対象にもっとも鋭く迫った作品がある。晩年の彼を吟じ、徳島人としての追悼の念を凝集した佐野まもる氏の、「老いたるモラエス」の連作がそれである。

 

 老いぬれば遠流(おんる)の秋に住むがごとき

 郷愁がいのちなる身の去年(こぞ)なりしか

 母も()ず春らんまんをなげきしか

 天主(かみ)をすておのれ寂しみ蚊帳にありしか

 亡霊の妻をあこがれ月にぬれしか

 炭火とり涸れゆく血潮ぬくめしか

 みずからを死せり短夜の夢の果て

 

 モラエスの、阿波の辺土に骨を埋める日が近づき、私の「モラエス伝」もようやく彼の晩年に辿りついた。

 一八五四年(嘉永七年)の、リスボン生誕から見てきた彼も、すでに七十歳の老人である。日本風に縁起をかつぐと古稀の年にあたる。ライフワークの一つである『日本歴史』が、この年にリスボンで出る。その延長線上の研究である『日本精神』は完成に向かっている。《懐中にある金を勘定》し、《思いのままに進める限界》のなかで、かって気ままに生きたモラエスだが、去り行く日日は、いな、一刻一刻が、小さな宝石の一粒一粒の貴重さで愛惜されたろう。

 先を急ごう! 

 挿話と伝説の、枝葉を切り捨てながら……。

 老いが忍び寄り、死は迫りくる。……

 人妻マリーアに恋いこがれ、憂愁の虜となり、果ては烈しい神経症を患った青年士官は、今や救いがたい老人病患者と成り果てた。

 腎臓病――、心臓障害――。加えて高血圧とリュウマチスである。糖尿病の傾向もあった。《人を狂気にやる徳島の夏――。この暑さ、このむせっぽさ! 蚊の呪いもやってくる。》と嘆き、《私は短気となり、怒りっぽくなる》と言っている多湿高温の風土――。それでいて冬はめっぽう寒く、北風が吹き荒れる島国――。桜花らんまんの春や、天高い秋が嘘のような、極端に猛暑酷寒の推移を見せる地が、老人病患者にいいわけがない。

 斎藤ユキが新聞記者に語った談話筆記によると、モラエスは純日本食に徹した、とのことである。米麦混合飯を糊のように軟かく炊き、砂糖をぶっかけて食べるのを好んだ。尿から糖分が検出され、主治医であった富永医師に砂糖を厳禁されてからも、なかなかこの習慣はあらたまらなかった。雑炊も好物であった。菓子が好きで日の出楼の羊羹や麦菓子をいつも買っていたが、パンは口にしなかった。西洋料理を一人で食べに行くことはなく、コーヒーや洋食を嫌った。大好物は刺身……、などなど。

 花野氏の『日本人モラエス』には、「今日残っている彼の『家計簿』を見るとよく判明するのであるが、その日々口にしていた食物を拾ってみても、米、味噌、醤油、豆腐、油揚、蒟蒻、焼豆腐、煮豆、麩、凍豆腐、干大根、菠稜草、葱、京菜、春菊、豌豆、豆類、若布、ひじき、大根、人参、胡瓜、茄子……」とある。炊事を家政婦としての斎藤ユキが引き受けていた関係もあろうが、まず日本人並みの食品ばかりである。

 寝具はもちろん蒲団。日常は座布団に端座あるいはあぐら……と、これは何人かの、彼を訪問したことのある人びとが語っている。着物を愛用したこと、日本人のように下駄をはいたことは目撃者が多いし、和服に殿中(でんちゅう)の下駄ばき姿の写真が今日残されている。この写真が、リスボン市にある、ラウール・シャヴィエル作のモラエスの銅像の原型である。

 着物を愛用したのは、リュウマチスがひどくなって、洋服を一人で着にくくなってかららしいが、何枚かある写真で見ると、なかなか上手に着こなしている。室内で一人でいるときには、メリヤスのシャツだったと言う。

 

 ワタクシハ モシモ

 シニマシタラ

 机上の反古に戯れに書いてみたモラエスは、じっとその字を見つめた。横文字だと、ほとんどあらわれない慄えが、カタ仮名を縦書きにすると露わである。神経痛は腕にきてはいないのだけれど、四肢の慄えが自覚され始めてから久しい。狼狽した彼は、紙切れをこなごなに破って屑籠に捨てた。

 仮名文字の美を、みずくきのあとの美しさ……という、と彼に教えたのはヨネであった。が、みずくきどころか字のはしばしや横に引いたペンの跡が、ジグサグに波をえがいている。ざれ書きを破り終った瞬間、思いが執筆中の『日本精神』に移ってゆく……。

 自由自在に腕が動く間に、早くあの原稿を仕上げねば……、というあせりが湧いてくるのである。

 彼から言えば〈日本精神〉――、日本人自身が誇らしげに言う表現だと〈大和魂〉――である。ノリナガ・モトオリという封建時代末期の愛国的学者が歌った和歌"しきしまのやまとごころを人とはば 朝日ににほふ山桜ばな"を、折にふれて彼は思い出す。単的にあらわしえて妙だと思うかたわら、簡潔に集約しすぎて全体を捉えていないのでは…?…と疑問が起る。美しさといさぎよさ――。優美で平和なものと共存している戦闘的な日本人の心情――。死を恐れぬ愛国心と矛盾することなく在る幽玄、わび、さび……そして、梅や桜や菊を愛し、風光や建築の美を好む日本人――。ノリナガ・モトオリの歌をピラミッドの頂点だとすれば、その下に複雑で捉えがたい"やまとごころ"の奇っ怪な秘密がある。その要素を一つ一つ分析しようとしているのが、神戸時代から着手している研究であった。

 ノリナガ・モトオリの歌は、いつも決まって僧サイギョウの辞世の和歌を思い出させる。かつて、すぐれた武人だったサイギョウの出家遁世の晩年が、武官から世捨人を志したモラエスの共感を喚ぶのである。その西行は、花の下で春死にたい……、と歌った。花というのは桜であろう…?…同じ死ぬのならやはり春がいい……、と彼も思う。桜の季節に死ぬとすれば、まだたっぷり一年あった。

 当分は緑の季節だ。ふんだんに緑、また緑――と、日本の景色について、かつて彼が書いた初夏である。

 今日の夕ぐれ、墓参の帰途に眺めた眉山の、葉桜の緑の美しさが脳裏をかすめる。

 武人から文人に転身した人物では、西行より鴨長明が好きだが、

 ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月のころ

 という西行の歌は気にいっている。

 しかし、西行には長明の『方丈記』のごとき作品がない。『日本精神』の著作のなかで彼は、「芸術と文学」の章で、日本精神を芸術の面から論じた。

《頼朝の統治をこれも鎌倉の北条氏が継いだ。この時代に、失敗には終ったが二度の蒙古侵寇があった。こうした騒々しい擾乱と戦争との犠牲になっていた時期には、日本文学になんらの期待もできなかろう。まったくそのとおりだった。もし、たいした価値のない厖大な戦争物語に混って、世捨人の鴨長明が『方丈記』と題して書いた、三十頁ほどの、ちょっとした印象記が一二一二年に現れていなかったら、こうした時代は文学にとって全然役に立たなかったにちがいないといえるのだ(花野訳)》

 と、日本文学を歴史的に概観した部分で述べたのは、『枕草子』『方丈記』『徒然草』など一連の随筆集を日本文学における名作だと思うからであり、鴨長明びいきで彼に心酔しているせいでもあった。

 芭蕉にも興味があった。短詩型の俳句もまた、彼の旺盛な探究心をそそるものであった。芭蕉と、彼の創始した俳句とについて、『日本精神』のなかでは相当なスペースを与えた。俳句を翻訳することはむずかしかったが、ポルトガルの通俗四行詩とポルトガル四行詩の技法を使って、〈古池や……〉に代表される芭蕉の詩のいくつかを翻訳して引用した。たとえば、〈古池やかはず飛びこむ水の音〉…………を、

 〈Um templo, um tanque musgoso,

 Mudez, apenas cortada

 pelo ruido das rans,

 Saltando a agua, mais nada……〉といった具合に。

《松尾芭蕉は一六四四年、伊賀の国上野に生まれた。武家の家に生まれて幼少の頃は大名の邸内に仕え、若君の付添をしていた。付添以上で――友だちで弟子で――そして若君は文に巧みで詩をよくした。この若君が夭折した。すると、そのときやっと十六歳だった芭蕉は、主君の死に痛々しく胸を傷つけられ、頭を丸めて御殿を棄て、高野山という大きくて名高い仏教寺院に隠棲した。それから、まもなく自ら進んで、ほとんど宿るに家もない謙遜と貧窮との神秘主義(ミスティシズム)の生活に身を投じ、巡礼の僧として、そこからそこへとたえずさ迷っていた。あるときのこと、ある友達の家に足を停めていたとき、小さい庭の側に、日本語で芭蕉と呼ばれるバナナの葉むらがあった。芭蕉の名をつけたのはそのときからで、その名を全国に知られるようになった。天性、教養、同時にまた、非常に優雅な心を持っていたことから、芭蕉はその正しい道徳を熱心に説教せんとし、そのやさしい感情を伝える手段として、詩、すなわち「俳句」を選んだ。(中略)弟子たちが数知れずあったし、また、それらの弟子の方でもそれぞれ弟子を集めたので、芭蕉の一派は非常に大きいものとなり、国民の心の中に根を下ろして、驚くほど拡がって行った。日本でほとんどすべての人が、僅々十七綴音の小さい詩の暗示的魅力に惹かれて詩を作るようになったのはそのとき以来である(花野訳)》などと、放浪の詩人をくわしく語った。

 うまく翻訳してみても、しょせん母国の読者の理解は得られまい、と思う深遠な思想を秘めた名句は、

 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

 の辞世である。旅に死んだ芭蕉の末期(まつご)の詩魂が惻々(そくそく)と伝わってきておそろしいほどだった。世界じゅうをへめぐっての漂泊のすえ、旅に病んでいる老残の日々は、彼の芭蕉への理解を深めたようであった。

 芭蕉の遺詠のごとき見事な句を、自らものにするほど俳諧作法を身につけていないモラエスは、徳島で果てようとしている自分の気持を、短い、凝集した言葉で書き残そうと思い始めている。《ワタクシハ モシモ シニマシタラ……》と書いてみたのも、そうした感情からだった。万感をこめたつもりだが、できた文句は気にいらない。

 上手下手は別として、日本の市民たちはたいてい俳句をたしなむ。《日本人はなんて詩人だろう?》と思う。《詩によって喚び起されるおびただしい感情を、どうしてわずか十七綴音のなかに圧縮できるのだろう?》とも……。

 

 すでに執筆の終った「芸術と文学」の章の冒頭で、《日本そのものがことごとく芸術である》という意味のことを彼は大前提とした。そして、日本の芸術の特質を《旅行家の心を捉えて放さぬ、定義も説明もできぬ日本芸術の長所は、深い印象を起させるその単純さである(花野訳)》と書いた。《この大日本へ乗ってきた船を棄てて上陸しよう。ふんだんに芸術、すべてに芸術だ》と力説したあと、その説明として書きつらねた部分の原稿を取り出して読み返してみる。

《もしうっとりとしたいなら、それらの芸術はすぐ見つかるのだから――。市内や田舎を歩き回る。どこにでも芸術がある。店頭の道具類のやさしい並べ具合までが芸術だ。これらの道具のどれもこれも、たとえば子供の玩具が国民的な典型的な特質を保存しているなら、玩具といったほんのつまらぬ物までも芸術である。瀬戸物専門の店に売っているありふれた容器類を見ると、竹の把手(とって)のついた茶瓶も芸術だし、細かい模様の入った小さい猪口(ちょこ)もそうだし、円い火鉢もそうだし、いろんな格好をしていて、ときには、まるでなんか虫が食べでもしたように欠けた木の葉の形をし、皿も茶托もそうだ。実に驚くことは断然均斉を嫌うことで、自然が日本人の芸術的霊感を非常に旺盛にさしている。その他の店舗でも、たとえば扇子とか箒とか塵取りとか桶とかのありふれた道具も芸術である。小さい煙管すらも、なかんずく、女持の煙管すらも、なんて芸術的なのだ! ……面白い極彩色の表紙の小さい絵本すらも、なんて芸術的なんだ! ……市内を離れて田舎にはいると、道路の面白い格好が芸術的だし、耕作の有様もそうだし、灌漑の様子もそうだし、田舎の住居もそうである。宿屋で休憩すると、受ける歓迎が芸術的だし、通された部屋もそうだし、ちらっと目に映る小さい内庭もそうだし、出される食事もそうである。だが、わたしはあまり諸君を退屈させないように、これ以上は書くまい……。芸術。わたしはまだ言おう――他の著作で幾百回と書いてきたことを繰り返しながら――、ああ、芸術だ(花野訳)》

 いくら書きならべ、強調してみても、母国の人にすっと伝わりそうもない。しかも、《深い印象を起させるその単純さ》の美を、愚かにも見捨てようとしている日本――。西洋文明の移入が、《宿命的な結論》として、この国の芸術をむしばみつつあり、今や《悲しむべき困窮状態に》立っている。《やさしくすばらしかったりっぱな日本の芸術》の混乱をモラエスは憂える。この心配を彼は、

《今日、日本の兵士に相変わらず昔の武士の服装をしてもらいたいとすれば滑稽であろう。そして、このような例は無数にある。だが、すべての改革を熱望するものは、全国民の一部であるが……。日本の住宅を西洋の住宅、やさしい着物を綿ネルの上衣やズボン、下駄をアメリカ靴、格好のいい女性の服装を西洋ふうのへんな形の洋装に代えたところでどんな利益がある?……なぜピアノを弾いたりダンスをしたり牛肉を食べたりすることを習うのだ?……わたしは日本人にとって、その習慣、その風俗の美しい型を保存するのが、何より有益にちがいないと思っていたし、今でも思っている。誤っているかもしれない。が、現在のこの私の念頭を最も多く占領しているのは、日本の芸術がそれは神聖なものだのに、まるで芥かなんぞのように、日本の土地を掃く箒の力でたちまち消し去ろうとしていることだ! ……(花野訳)》

 と書いた。さらに、

 《近代、現代、現在の日本の時期にはいる。多くの著作が書かれ、教育が非常に普及する。だが、国民的、典型的な文学の独創性は……それは消えた。出版物がおびただしく作られ、主としていろいろな西洋文学からの翻訳、改作、模倣が書店に氾濫する。かくして、外国原書(英語が他のいずれの国語よりも著しく日本に普及しつつある)を読むことによって、日本の青年たちは、みんな欧米で現に書かれかつて書かれた書物から、多少でたらめだがめまぐるしい思想を獲得しつつある。

 ああ、あの難解きわまるカモンエスまでが翻訳されているのだ! ……白人の偉大な作家の名はもとより、……つまらぬ作家までが、その著作とともに現在すべて有名な人として知られている。文学が熱心で小さい学生の脳髄に魔力の働きをなしつつあることは確かだ。今日、中学校に通う青年たちが、東京や京都に行って大学に通い、「文学」の科目を終えようとする目的で、いたるところで準備している。まったく気違い沙汰だ! ……それで、日本文学はどうなるのだろう(花野訳)》とも。

 序章にあたる「最初の思いつき」の冒頭で、《日本精神(日本人はさりげなく大和魂と誇らしげにいう)――わたしは、日本人たちが事物を根本的に味わうとき、どのように見かつ感じているかを、本質的に掴んでみたいと思う(花野訳)》としるしてから、

「言語」「宗教」「歴史」「家族生活」「種族生活」「国家生活」「愛」「死」「芸術と文学」……と、九章にわけて考察してきた論考だが、取り出すべき問題には一応触れ終った。現在執筆しているのは、十章目にあたる「以上諸点の総括」の短章である。

 わずかな補正と削除の作業を加えながら、草稿を読み返していたモラエスは、用箋をかたわらへ押しやり、ノートを開いて思いつきを書きとめた。前後の脈絡なく、不意に浮かんでくる言葉や感想をメモするのは、青年時代の海上生活で身についた習慣であった。

 《この徳島の老人は、その文学的使命の最後に到達したと考えている。これ以上、日本についてはなにもいわない。これがおそらく、その最後の著となるにきまっている。そして、久しい歳月にわたって互に言葉を交わし慣れてきた、遠い見知らぬ友である読者を、しんみり偲んでいる(花野訳)》

 序章「最初の思いつき」に対応する、終章の想が成ったのは、ペンを置いた瞬間であった。九章にわたって述べた事柄を、「以上諸点の総括」で締めくくり、それで『日本精神』全一冊をおしまいにしよう! という予定がのびたのである。

 「そうだ、これは絶対必要だ」

 と彼はつぶやき、窓を開いた。小窓からは夜目にも鮮かに眉山が眺められる。黝々(くろぐろ)とした山巓(さんてん)の背景を成す空が意外に明るい。山ふところから霧が湧き、水蒸気が層をつくって浮遊して、この国の文人画家が好んで描いた山水図のようであった。五月の微風が、そこはかとなく薫風を運び入れて、ガラクタだらけの埃ぽい書斎の空気を浄化する。

 油絵の技法が移入されて、水墨画は片隅へ押しやられ、襖や扇子の装飾画と化した感のある日本の美術界だが、日本の山川草木の景色は、やはり墨一色の絵の世界である。山巓を頭だとすれば、肩や胸のあたりに雲状の霧をただよわせている眉山は、まさに淡彩の水墨画だ。「日本の美術、日本の文学、そして日本の伝統と生活様式は今後いったいどうなってゆくのだ?」と彼は、眉山に問いかけるかのように呟く。

 さしたる苦労なく終章の題が決まる。

「日本精神よどこへゆく」

 満足げに彼は微笑を浮かべ、「敷島」の袋から、一本を抜いて銜える。ヨネの好きだった煙草である。薫風に乗って煙がすうっと背後へ流れる。その、煙が消える畳のあたりに、今夜もヨネが来ているだろうか。

 「今夜は、とっても眉山が綺麗だよ」

 と言って、振り返りさえすれば、夢幻世界の女人はそこに現れるはずである。きっと、そこに……。

 

     

 

 一九二四年(大正十三年)五月三十日、モラエスは七十歳(セテーンタ)の誕生日を迎えた。

床のなかで目覚めてから彼は少しがっかりした。耳を澄ますまでもなく雨であった。その日彼は、隣人ジロウ・コイデと鳴門見物に出かける約束をしていた。五月三十日を選んだのはモラエスの方である。誕生日であることは告げなかった。個人個人の生まれた日を、ほとんど気にとめず、誕生祝いなぞしない日本人の習慣を知っていたからである。五月三十日を意義深く送りたいという願望は、いわば彼自身がくっつけている西欧の影であった。

 ジロウ・コイデは三十すこし前の青年である。ジロウが二郎なのか、あるいは次郎であるのか、モラエスは確かめたことはない。知っているのは、姓の小出という漢字と、長男であるにもかかわらず彼がジロウであることである。ジロウは養子である。すぐ近所のコバヤシ家の長男として生まれ、コイデ家へもらわれてきた。長男にジロウと名付け、長男を養子にやったコバヤシ家のやり口は、長年かかってモラエスが研究してきた、日本の風習や家族制度の知識からはみ出していた。

 コバヤシ家よりもコイデ家が裕福なのならば、この養子縁組も理解できるだが、事実はまるで逆であった。ただ何となくそうなったらしく、理由はしごく曖昧であった。日本人の曖昧さかげんにはいやというほどつき合ってきたモラエスだが、コバヤシ、コイデ両家の心底はまったく測定できない。親の方針と指示によって、結婚や養子縁組の決まる日本のことだから、ジロウ自身に主体性はなかったようである。明確な理由なく、ふとした機縁から二つの家庭が結ばれた特殊な(ケース)だと見えた。

ジロウの養母はモラエスより確かに十歳は年長だと思われる。小柄なよぼよぼのこの老婆は、若かりしころ封建君主ハチスカの邸に御殿奉公していたとか。封建制度が壊滅したのち、彼女は陸軍の将軍と結婚した。その亭主が戦死した。たぶん日清戦争? でだろう――。梅雨があける季節になると老婆は必ず戦死した亭主の軍服を虫干する。上衣、ズボン、羽毛のついた古めかしい軍帽、手元に遺留された軍刀などの武器や勲章などを……。どうやらそれは彼女の生き甲斐であるらしい。貧窮し、働けなくなった八十歳近い寡婦を、なおもこの世に繋ぎとめているもの。その数々の形見は、皺だらけの老女を一九〇〇年(明治三十三年)代へよみがえらせているのだろうか……?

 うっとうしい陰雨がからりと晴れあがり、彼女が軍服に刷毛をかけ始めるのを傍見するたび、モラエスはギクッとする。

 《愛する一つの名を思い出し……追慕に慰めを求める……》彼同様の、希望なき〈仲間(カマラーダ)〉がそこにいるのだった。

 徳島に住み着いて間もないころの著作「徳島日記」に、彼はその老婆の話を書いたことがある。

《この婆さん、今ではひどく窮迫して、どん底に落ちて、兄にあたる老人と養子とで、この小さな長屋に住んでいる。その兄というのは、わたしの知人などに言わせると、いかにも両刀を腰にたばさんだ、りっぱな武士を目の前に髣髴させるそうだが、よぼよぼの身で、その家の裏の畑を自分の手で耕して、野菜や果物などを売っているのだ。その養子というのは、二十歳ころのりっぱな青年だが、昔の武家独裁の怠惰な退化を、今さらながらその顔に表していて、中学を中途退学した身で、庭を掃き、家を掃除し、食事の世話をする。婆さんは一日じゅう何もしない。追懐と追慕とにすっかり浸って、ひどくお粗末な着物を着て、夢に生き、幾十年か前に戦死した夫の軍服をときどき虫干するので……(花野訳)》と、母国の読者に紹介してから、すでにもう十年を経た。

 美しい御殿女中だったという妹――、両刀を腰にたばさんだ封建時代の武士の面影があるという兄――、いずれも頷きがたいほど老い、兄妹の前歴は伝説的でさえある。中学中退の養子、すなわちジロウは、モラエスと同じ棟の四軒長屋に住む猫背の小柄な徳島中学校の教師――、この教師もコイデというが、この同姓の教師の口ききで、市役所にやっと職をみつけ、いくばくかの給料を得ている。

 そのジロウを、モラエスが親友のなかに数えているのは、彼が親切で義理固いからである。親友と内心で呼称してみても、ジロウとそう交渉があるわけではない。近所に住んでいても、彼が勤め始めてからは、顔を会わすことはほとんどないし、来客ぎらいのモラエスの性質をのみ込んでいる彼が、訪ねて来ることもない。ただ、一年に一度か二度、県内の小旅行を試みるとき、道案内を頼んだり、旅行の予備知識をうるための説明を求めたりする。中学三年ていどの英語だが、日本語ばかりのカタコト会話とちがって、英単語まじりのジロウとの対話は役にたった。

 嬉しくなってモラエスは心ばかりの返礼をする。礼金を道徳的潔癖から厭う日本人気質に通じているから、いろいろ考えて品物を贈る。するとジロウからお返しがある。お礼のお礼では、二重手間だし、煩雑でむだのようだが、ジロウの返礼は金のかからぬ返礼であった。しかもそれが、なかなか気がきいていた。あるときは古切手、古銭、絵葉書、地図、引き札、浮世絵のたぐい。あるときは、何がしの神社や仏閣のお(ふだ)やお守。自らが釣ってきた魚。潮干狩の収穫物の貝。珍しくはないですか? と言って貝殻を拾って来て届けてくれることもある。勤め先の市役所でもらってくるらしく、なかなか変わった切手がジロウから届く。モラエスの趣味を熟知しているのだ。

 そうした利害関係での面の結びつきを抜きにしても、モラエスにとってジロウは好もしい。うすっぺらな同情心や好奇心を、ジロウはまったくと言っていいほど持ち合わせない。町を歩くモラエスに、挙手の敬礼をしてみたり、悪罵を投げつけて駆け去る少年たちや、こわごわちょっとうしろをつけてみる少女連のように、邪気がないのは救いだった。彼にとっても好もしい知人はジロウだけではない。

 隣のトミゾウ・ハシモトという大工の夫婦、ときどき遊びにやって来るフサコ・ハマモトという少女、毎日のごとくやって来るかと思うと二か月も三か月も来ないキミちゃんという小学生、隣に住みながら完全に彼を無視している体の教師コイデ等々……。

 夜の散歩の道すがら茶飲みばなしに寄ることのあるコウダという商店の主人、洋食を喰べに行く市川精養軒の親爺、日用の物資を買い慣れている数軒の商家の人たち、何がしの商店の小僧、ヨネとコハルの命日に読経に訪れる智賢尼など。

……まだうら若い尼僧智賢尼はかわいそうに不具だ。それを不具だというのは変なようなものだが、四肢耳目とも健全だのに、生まれつき鼻がきかぬ。「においなし」という小品に、その尼さんの話を書いたことがあった。

 日本の研究と紹介の原稿を書いていくうえで、判らぬことができると、彼はジロウ・コイデに尋ねる。ジロウで間に合わぬ事項は、知人のなかで唯一人のインテリである、県の公立図書館長を訪ねて教えを受ける。

 知人と呼び得る、二十人ほどの人々を数えあげながら、モラエスは少し眠ったようであった。仮睡のことを日本人は、うたた寝といい、副詞としてうつらうつら、あるいはうとうとと用いる。なかなかうまい用語である。そのうとうとしている間、ずっと雨音が耳についていた。小止みなく降る音が耳についていた間がっかりしつづけていたことに、目覚めてから気づく……。

 少し早い時刻だったが、床の上へ起き上がってあぐらをかき、雨のていどを聞きわけようと試みる。烈しくはないようだったけれど、外出には向かぬ天候らしかった。しかし、義理固いジロウのことだから、一応約束の六時三十分にはやって来るだろうと判断する。いつのことだったか、ジロウ・コイデが、鳴門の壮観は台風のときが最高です、と言ったのが思い出された。晴天下の渦潮だと美しいだけです、壮大で強烈な印象はえられません。台風下で眺めた人が少ないから有名になりませんけれども、画家のヒロシゲあたりが嵐の鳴門を一目みていたら、きっと傑作を残したでしょう、などと。

 篠つく雨の長崎の町を、人力車を駆って散策した昔や、印度洋の嵐と闘って「テージョ号」を指揮した時代が、自然に連想される。身づくろいをしながらモラエスは、雨を衝いて鳴門見物に出かける気になっていた。ジロウ・コイデは必ず来るはずだった……。

《日本人は西洋人とちがって、誕生祝いをしない。いつも集団を考える傾向があるので、誕生祝いの代りに、女児のための雛祭と男児のための端午の節句の祭をする(花野訳)》

 以前に書いた文章を想念に浮かべたモラエスは、西洋化の激しい日本のことだから、桃の節句や菖蒲の節句の行事が形骸化して、その意味を失い、個人個人の誕生の日を祝う習慣が風靡するかもしれない、と考えた。事実、誕生祝いといった習慣は、徳島のような田舎ではまったくみられないとしても、大阪や神戸、あるいは東京などの大都市の上流階級の間ではだいぶ盛んになりつつあった。

 日本の風俗習慣よ、そしてそのなかで培われた伝統よ、その総集成としての日本精神よ、お前はどこへゆこうとするのだ。破壊し、かなぐり捨て、性急に西欧文明を移入し、不必要有害なものまで吸収しながら……。混乱と支離滅裂の激動のなかで。

 かつて、五五二年に仏教が移入され、支那文明が急速に取り入れられて、強烈に日本をゆさぶった変革の時代のように、日本よ! お前は再び脱皮しようとするのか? 苛立ち、つま先だって、実にりっぱな、日本文化の歴史と伝統さえ見失って……。

 雨脚が穏かになった。屋根瓦をうつ音が跡絶え、こわれた雨樋を伝う点滴だけが賑やかである。日本の雨樋は竹製だから耐久性に欠けるけれど、なかなか雅趣に富む。しかし、この風流な竹の樋に金属製品が取って代り、日本家屋はその調和を失うだろう。今に均衡がくずれ、様式美を喪失するにちがいない。感性の柔軟な日本人は、摂取し模倣して呑みつくす。生半可なものであっても、科学の広範な知識と文明のもたらす生活様式とは、日本人自身を変革せざるをえないだろう。

 西欧のものとを折衷し、あるいは並用している衣服のように、建築の世界にも和洋折衷がはばをきかすにちがいない。〈和魂洋才〉という言葉さえつくりだした日本人だ。今に洋館に住む人口がきっと増える。春夏秋冬の変化の烈しい日本の風土――、洋館の構造はこの国の風土に背反しているのだが、湿度なら湿度、寒気なら寒気……と、それぞれに智慧をめぐらし、住みやすい日本式洋館をつくり上げるに決まっている。だがしかし、日本的調和と静謐(せいひつ)を失った家屋のなかで――、果てはきっとベッドまでを生活のなかに取り込んで、畳とベッドの折衷生活において日本人は何を思考し、日本精神はいかなる変貌を示すか……?

《それは将来の雲間の恐ろしく模糊たる、茫漠たるもの……。日本の未来? 日本の使命? 日本の運命?》

 際限なく空想がひろがり、転々し低迷する。これが最後の著述である、と宣言し、自らもそう思っている『日本精神』を、このほどやっと脱稿し、もう補正や推敲の余地はないと思っていたのに、まだその終りの章「日本精神よどこへゆく」の内容にこだわっているのだ。

 七輪に火をおこし、昨日斎藤ユキがつくって帰った味噌汁の鍋をかけ、タオルを持ったモラエスは裏の外庭へ出る。家のすぐ裏には、彼の管理に属する狭い内庭があって、種々雑多な植物がかって気ままに茂っている。からたちの垣根は蔦などの雑草がからまり合った堅固な防壁である。その片隅に裏木戸があり、そこを出ると長屋四軒の者の共有の広い外庭があった。

 外庭(キンタール)と言えば体裁がいいが、真中が空地で周囲は雑草の跳梁にまかせてある。隣家の大工が仕事場にしたり、鶏を放し飼いにしたり、長屋の者が交替で物干しに使ったり、犬や猫の遊歩場となったりする。

 その一廓に共同井戸がある。銭湯へ行く習慣を持たない彼は、暖かい日だと毎朝そこで冷水磨擦をする。双肌ぬいでゴシゴシやるのである。

 初めのころ、そうした習慣はもちろん、房房とした胸毛や肌の白さに目をみはっていた隣人たちも、このごろは慣れっこになって、上半身だけを洗う彼に、遠くから声を掛け、朝の挨拶を届けたりする。それを受けて彼の方も、「アア、オハヨウ。キョウ、イイテンキ……」などと怒鳴り返す。

 早起きの大工、トミゾウ・ハシモトが鶏に餌をやっているらしい。トーオ、トットト、トーオ、トットットと鶏たちを呼ぶ声がしている。鶏たちの方も喚声をあげ、ひときわ羽音をたてている。

 低くたれ下った鉛色の空から、再び雨滴が落ち始め、大急ぎで洗面したモラエスは、双肌ぬいだまま家へ駆けもどらねばならなかった。

 

「お早うございます。ひどくお天気が悪いですけど、どうします…?…」約束の時間より少し早く訪れたジロウは、どうするか? と尋ねながら、すでに足ごしらえをし雨合羽を持った遠出の装束だった。

「テンキ ワルイ。ジロウシャン オキノドク。テモ ワタシ ユキマシュ」答えてからモラエスは、「イイノ テスカ」と急いでつけ加えた。ジロウは、「ええ」と答えて微笑を浮かべた。

 市役所へ勤め始めてだいぶん経つのに、ジロウは時計を持たなかった。どうやら貧乏で買えないのだと見てとったモラエスは、彼に腕時計をプレゼントした。高価な贈り物をジロウはなかなか受け取らなかった。他にまだ時計を持っているし、すでに私は時計など必要としない生活をしている……。目覚まし兼用の置時計だって、幸田さんにあげようと思っている……などと、慇懃に辞退するジロウと一合戦のすえ、やっと受け取ってもらったのだったが……。

 神戸を去るときから、物質に対する欲を捨てていた彼は、蒐集品以外は簡単に人にくれてやった。それに、生来人に物を贈るのは好きだが、もらう方は嫌いだった。近所から餅や寿司や果物をもらうと、それと等価以上の菓子や日用の陶器などで返礼をした。祭祀のご馳走あるいは祭祀とかかわりない珍しい食品を、隣近所へ配る習慣と、それに対するお返しの知識は、まだコハルが生きていたころ学んだ。もらったものは、必ず仏壇に供える。これも、コハルやユキから見様見真似で覚えたことであった。

 初めは勤めを休んでまで、案内するつもりではなかったのだろうが、腕時計に感激してジロウは、ウィクデーである五月三十日という希望を、いとも簡単にいれてくれた。六月一日の日曜日だとつごうがいいんですけれど、日曜は人出が多いかもしれませんね……、とジロウは言った。人ごみをきらう、たぶんに嫌人家であるモラエスを知っての言葉である。

 雨はやまなかった。

 新町橋畔から出る阿波軌道の連絡船で、新町川を溯航し、本流である吉野川に急ぐ間も、雨脚は船縁を叩くのをやめなかった。

 吉野川の旧河川を開墾した、運河同然の新町川だし、市街地のなかを流れる川幅の狭い流れだのに、白濁した水面は鉛色の歯をむき、小さい発動機船は揺れ、うねりが襲ってくるたびに翻弄される。

 川口に徳島港を持つ新町川は、海水と淡水が混じりあい、干満によって水位の落差が激しい。港のあたりはともかくとして、川口とは逆に、吉野川の関門目指して溯っていく連絡船の操舵は苦心がいる。河底がひどく浅い場所があったり、市街じゅう橋だらけの徳島のことだからいくつもの、低く架った橋があったりする。甲板と船尾に客が行くことを禁じているのは、浮沈のていどを常に一定に保たねばならないからであろう。定員は五十名だが、満員になると船室が沈下し、丸窓が水面すれすれになり、ときどき河底をこすったりすることを、何度もこの船を利用したことのあるモラエスは知っていた。

 今日は幸い乗客はまばらだった。

 ほんのわずかの時間で本流へ出、すぐ吉野川を横ぎって北岸の古川(ふるかわ)へ着くのだが、海上輸送の客船のように、ちゃんと畳を敷いて、一人前の顔をした船室がある。二十人にたりない客が、畳の上に坐ったり寝ころんだりしている。本流へ出ると、少しゆれが烈しいかもしれません。丸窓(ポート)から眺めているモラエスにジロウが言った。「ワタシ タイジョウビ。フネ ナレテイマシュ」

 雨で濁った水面と川縁の石垣としか見えない外景に飽きていたモラエスは、髯を弄びながらジロウに答えた。

「ほうじゃったワイ。おれ忘れとった。モラエスさんは海軍にいたんじゃったのう……」

「ソウ カイングン! フナノリ ネ」

「世界じゅう、いろんなところへ行ったンでしたね」

「ソウ イロンナ イロンナ トコロ」

 心のなかで彼は、エジプト、モザンビーク、アルゼン、ザンジバル、アデン、コロンボ、シンガポール、ティモール、バンコック、サイゴン、ジャバ、マカッサル、ホンコン、マカオ、ナガサキ、ヨコハマ、コウベ……などと呟いてみる。

 船縁が何かにあたった。鈍い響きであったけれど、寝そべっていた客の何人かが怪訝の表情で首をもたげた。

「ハシケタニアタリマシタネ。ダイジョウビテス」

 あぐらをかいた姿勢のまま言う。

「わかるんですか。たいしたもんじゃなあ」

 首をめぐらし、窓を見上げたジロウは、橋がうしろに去るのを認めて感嘆する。

「何でもわかりますか…?…たとえばね、流木……浅瀬……衝突……と…?…」

 言ってからジロウは、「エーと、drift-wood それからsnal・lows a collision? 」と補足する。

「ワカリマシュ。ザイモクネ。ザイモク ゴーンテス。オトオオキイ。フナゾコ フネ タイヘンユレマッシュ」

 雑談をしていた乗客の二、三人が、モラエスとジロウの対話に好奇の目を向ける。先刻の音にびっくりして、首をもたげた連中は、再び枕に頭をつけ、これも西洋人の日本語に耳を傾けているようであった。

「ジロウ シャン。ニホンジン カイコクニッポン イイマスネ。テモ フネニヨワイヒト タクサン タクサンイマス ナゼテス。ワタシ ワカラナイ?」

 船はまだいくらも走っていない。にもかかわらず顔面を蒼白にしている人もいれば、睡眠を摂ることで船酔いから逃がれようと画策しているらしい客もいる。神戸から徳島への船旅では、嘔吐する人をモラエスは大勢見た。ヨネと徳島へ来たとき、大正元年に徳島へ移って来たとき、それに数年前、神戸へある財政的な用件を片づけに船中一泊の旅行をしたとき、いずれのときも、船酔で苦吟し顔を歪め、身をよじっている旅行者が大勢いた。婦人や子供ならわかる。体格のいい、大の男までが船に弱いのが、そして船旅を恐れるらしいのが、彼には不思議だった。採算をとるためにたくさんつめ込む三等船室――、安ペンキ塗装――、非衛生からくる悪臭――、小さすぎる内海航路の船――、それにしても……。

 ジロウは答えず、曖昧な微笑を浮かべた。日本人独特の逃げの表情である。不得要領な顔をみせるか、「さあ…?…」と弱々しく呟くときは、答に窮しているか、正答を知らないかである。

 モラエスの方も微笑して、そのあと口を閉ざした。乗客の好奇の目が集中しているのと、船に弱い人がすぐそのあたりにいるので、ジロウが困っているのに気づいたからである。今日モラエスは、少しジロウに教えてもらったり、議論を吹きかけたりしたいと思っている。書き上げた『日本精神』の結論的考察のうち、六つ七つまだ疑問点が残っているのだ。撫養の町へ汽車が着いて、二人きりになってからいくらでも対話できる……、と彼は考えて黙り込んだのだった。阿波軌道会社の汽車は、連絡船が着く吉野川畔の古川から出る。マッチ箱か、オモチャのような旧式な汽車――。その汽車のなかでだって語り合える。あいにくの天気で、汽車の乗り手も少ないはずだった。

 ローリングが大きくなる。小刻みな揺れ方ではなく、何となくゆっくり幅びろいローリングである。本流へ出たのであろう。

 ――久しぶりに船に乗った感じだ――

 とモラエスは思う。船というほどの船ではないのだけれど、海上で半生涯を送ってきただけに、横揺れと波の背に乗る船のすべり具合は快い。

 ジロウを促したモラエスは、甲板(コペルタ)というより船室(カマローテ)の屋根のような場所へ出る。新町川だと、つぎつぎ橋にさしかかって、背の高い彼は、そこに立って景色を眺めることなどできない。

 雨は小止みとなり、まるで春雨のようであった。吉野川の岸辺はけぶって、水量豊かな川面だけが眼下にひろがっている。雨で濁った黄海の色にも似た水面がうねって……。

 

     

 

 モラエスは鳴門へ二度目である。

 最初の鳴門行は、一九一四年(大正三年)六月十一日であった。徳島に住みついた翌年のことである。ちょうど世界大戦の真最中で、ドイツに対し、日本人が大いに敵愾心を燃やしていたときである。ヨーロッパ人であるということだけで、彼は多大の被害を受け、はてはスパイの嫌疑すら受けた。そういう時期だったから、要塞地帯に属する鳴門海峡を、紅毛碧眼の彼が自由に見物することは不可能であった。観光客専用の人力車に乗って、鳴門の海を遠望できる丘を一巡したにすぎぬ。肝心の大渦を眺めるためには潮も悪かった。

 

 一瞥にも似た観潮であったけれど、徳島から二〇キロの一日旅行は、充分「徳島日記」一回分の素材になった。そのなかで彼は、

撫養(むや)に着いたので、鳴門を見に出かける。それは四国と淡路に挟まり、その荘厳な景色で名高い海峡なのだ。撫養から鳴門の山へ行き着くまで、人力車で一時間の道程だ。俥が丹念に耕した肥沃な畑に沿うてゆく。やがて、やさしく樹木に覆われた丘阜(きゅうふ)が現われてくる。俥夫たちが俥に綱をつけて、曲がりくねった路を曵いてゆく。丘の頂上に着くと、急に眺望が展ける、波浪が岩にくだけ、真白に泡立つ渦にひっ掻かれて美しい藍色をたたえた海だ。目の前に淡路島が浮かんで、そこここに松の生えた小さい島が二つ三つ浮かんでいる。――情景は非常に上品な日本的なもので、このすばらしい自然の雅趣は、芸術家の筆も絵絹や瀬戸物や漆器に写しがたい(花野訳)》と書いた。

 ところが、十年前に「ポルト商報」に載せたその文を、まったくといってもいいくらい訂正しなければならぬ、という感想を、雨の日の鳴門からモラエスは抱いた。

 どだい《上品な日本的なもの》なんかではない。《すばらしい自然》はいいとして、《雅趣》なぞと言える穏やかな風景ではなかった。ジロウと二人して丘の上に立った彼は、世にも不思議な海の魔術を見た。直径二〇メートルもあると思われる大渦が轟音を響かせ、渦は渦を呼んで逆巻き怒濤し、外洋へなだれ落ちる。瀬戸内海と紀伊水道との海面に落差が生じる……、と知識はあったが、海全体がもりあがり、海峡が滝と化す壮観は思いもつかなかった。轟音は潮の奔流する音であり、逆巻く渦がうなりを発する響きであった。

 

 同行した小出治郎は、

「モラエス翁は、長い間立ちつくし、まるで、雨の降っていることを忘れているようでした。不思議なような景色を観ました、と傍らにいる私に、感動の声で言ったものでした。不思議だ、不思議だ、と翁は数回、繰り返して呟き、あかず渦に見入っていたのものです。それからポルトガル語でも何か言われました。後で訊ねますと E enorme!(エーエノールメ) と申されたのだそうで、日本語だとすばらしいという意味だ、と教えてくれました。 

 少年のころから今日までに、わたくしは何度も鳴門へは行っているのですが、あのときの渦ほどすばらしい渦は、後にも先にも見たことがありません。大きさも大きく、数も無数といっていいくらいたくさんでしたが、渦潮の音が何しろすさまじかったのです。小学唱歌に"八重の高潮かちどきあげて"と歌われていますが、ほんとうに歌のとおりでした。鳴門のことを、海の水門といいますが、大水で氾濫している大河の、奔流する響きのようで、天にも地にも轟くような渦潮の音を耳にして、感きわまったモラエス翁は、ご自分がわずかしか知らない日本語のなかから、不思議なという言葉を咄嗟に吐かれたのでしょうが、ほんとうに、不思議なような景色……、というのはぴったりしていました。それで、今でも翁の言葉をよく覚えているのです。」

 と、ずっと後年になって語っている。

 この鳴門紀行の道すがら、小出治郎はモラエスと、ずいぶんいろいろ話をした。ちなみに、二人は、鳴門海峡に臨む丘を徒歩で登った。人力車が丘の小径を登れなかったのである。

 俥を麓に待たせて、油紙の合羽を背負い、ステッキをついたモラエスと、雨装束に身を固めた小出治郎とは、おしゃべりを交しながら、雨を衝いて新緑を木蔭を行った。ときどき立ち止ってモラエスは美しい(ペーロ)といい、しだいに響きの大きくなる渦音に耳を傾けるのであった。

 近い将来に老衰とリュウマチスが昂じ、遠くへの散策は不可能となる、という予感が、モラエスにはあったにちがいない。作品のなかあるいは書簡のなかで、もうこれが最後となるだろうとか、最後となるにちがいない、などとこのころに多く書いているくらいだから、老疾は自覚的だったのだろう。すでに糖尿病を患い、老衰は進行をつづけていた。だが、これが最後の小旅行……、と決めての鳴門行であるかどうかはわからない。ただ結果的に、この散策は彼の最後の遠出となる。この日から数えて、五年と三十四日の大半の日々を、モラエスは老衰と孤独と戦って生きた。

 晩年、偏執と嫌人癖とが異常に昂じ、奇矯ともいえる生活に入った彼が、多くしゃべったのもこの散策であった。「モラエス翁には、ずいぶん親しくしていただきましたが、いろんなことをたくさん話し合ったのは、あの日が最初で最後でした。まるで翁は、話し相手がなくて鬱積していた不満を、一挙にぶちまけるようにしゃべったものです。」と、小出治郎は語っている。

 

 ところで、カタコト英語のジロウ・コイデと、カタコトの日本語に英語を若干混じえたモラエスの対話は、小出治郎の「モ翁の思い出」を手がかりにすれば、おおよその全貌を再現できなくもない。しかしそれは、いたずらにわずらわしいだけであろう。仏壇を毎月二回、ヨネとコハルの命日と同じ日、回向のため訪ねていた慈雲庵の智賢尼によると、「アナタ、ごキゲン、黒さん(黒猫)きげん、おとなりおかみさん、ごキゲン」と挨拶を述べ、雨天の日に訪れると、気の毒だということを「道悪い、かわいそう」と言い、「大丈夫」は「ダイジョウビ」ときこえたという。要するに、単語のブツ切りの羅列が彼の日本語である。小出治郎とは英語を混えて対話ができた、といっても、滑らかでスムーズな会話ができたわけではない。「奇妙というよりか、むしろ珍妙な」対話だったことは、新聞掲載の談話「モ翁の思い出」で小出治郎自らが語っている。

 今、私は、その珍妙な対話を再現する煩を避けて、重要と思われる一、二を摘記し、若干の考察を加えるにとどめておこうと思う。

 まず神道についてである。

――大学教育を受けた最近の青年たちは、神道についてどう感じているか?

――神社を守護している神馬の霊が、支那の戦争、そしてロシアとの戦争に参加し、日本の兵士たちの戦いを有利に導いた。その証拠に、二つの戦争の最中に神馬がその姿を匿したという人びとがたくさんあるけれども、若者でインテリであるユーもまたそう信じるか?

 ジロウ・コイデの返答は省略する。『日本精神』の「宗教」の章においてモラエスは、このことについて次のように記述している。

《日本人の宗教によって太陽、八百万神(やおよろずのかみ)、天皇、皇室、功労あった偉大な故人の霊を、りっぱなことを為遂(しと)げた英雄らの霊とともに神と祀る。神道は英雄の宗教であって、それら英雄の霊が地上に、つまり日本に留まって日本人を守護すると言えるのだ。大胆な大望を胸に懐いて、その懸命な努力の成果を信ずる愕くべき自負心の強い国民の、ああ、なんという神聖な宗教であろうか! ……

(中略)この祝福された自負は神道を愛国心に移し、日本を全世界の文明国中で最も愛国的な国にした。わたしは最高学府を出た近ごろの人びとが神道についてどう考えているのか、そしてある青年たちが向こうみずにも学位や外来思想の書物を買いかぶっているかもしれぬことなどについては知らない。だが、この国の実勢力の全総計を勘定して、全部の国民が今日においてもなお五十年前、幾百年前、幾千年前と同様に深く自負し深く神道を信じ深く愛国心を懐いている。わたしの研究ではそのことを知ればたくさんなのだ。支那との戦争、ロシアとの戦争に兵士らがいだいていったのはこの神道だった、そして、いつも勝利を獲た。そして、国家の馬として神々に仕えて大きな神社を守護する慣習となっている幾頭かの神馬がこの二つの戦争の最中に突然その姿を匿したと、この国民は言っている。そして、それらの神馬の神々が霊となって戦場を駆けめぐり、苦戦のなかで味方の兵士らを守護していったのだと断ずる。たしかに、日本人はこの神道によって異常な勇気、不抜の力、燦然たる愛国心を獲る、だからこそ、主として、神道は現に有名な大和魂という言葉の根源となったのであって、それによって日本人はその精神的部面の特徴において自ら他国民との区別をつけるのだ(花野訳)》

 次に結婚についてである。

――ユーは日本の若者には珍しく独身であるが、ユーもまた日本の習慣のとおり、妻を親ならびに仲人にまかせて求めるか?

――結婚したのちにおいて、もし子供が生まれなかったならば、日本の統計が示すように妻を離婚するか?

――日本的風習による結婚、そして婿と嫁は倖せなのであるか?

 結婚ならびに家族生活について、モラエスは、おびただしい質問を投げかけた。「他人と家族まかせの結婚の方法もまた、日本人のあらゆる行動に顕著に現われる没個人性ともいえる、道徳的特性にもとづきはしないか?」とも尋ねた。

 小出治郎の談話「モ翁の思い出」が新聞に連載された昭和九年は、モラエス歿後五年である。会田慶佐による「徳島日記」の邦訳は、この年の六月から連載が始まっていたが、彼のライフ・ワーク『日本精神』の邦訳はまだ出ていなかった。花野訳の『日本精神』が出版されるのは翌十年六月である。その花野訳が出てから小出治郎は、自分が「モ翁の思い出」のなかで挿話として紹介した対話が、『日本精神』の各所に生かされているのを知った。もちろん、彼が言ったことばかりではなく、むしろ彼の方が教えられるような記述もあったけれど。

 モラエスを、好奇心の強い、風変わりで隣人に親切な西洋人、とのみ小出治郎は思っていたのではなかったが、彼のモラエス観がガラリと変わったのは『日本精神』を一読してからである。

――モラエスさんは、ずいぶんよく日本を研究していたんだな――と思い、――あの雨の鳴門見物のころ、モラエスさんはちょうど『日本精神』を書いていたのだ、それで、自分にいろんなことを訊いたのだ――、と気づいた。

 雨のなかに凝然と立ちつくし、逆巻く鳴門に魅せられていたモラエスの姿が、小出治郎のなかに親しいものとしてよみがえった。と、これは小出治郎が私に語った感慨である。彼は、「モラエスにおける日本精神研究の出典と『日本歴史』および『日本精神』成立過程の研究」を志し、市役所退職後の余生を、その資料蒐集にあて、比較文学研究としても面白いと思う、と言っていたが、昭和三十四年に六十四歳で歿した。

『日本精神』のなかで、モラエスは、十四回結婚をした徳島のある男の話を書いている。この男のことを示唆したのが小出治郎であることは、「モ翁の思い出」から推定できる。「得異な例だったのですけれども、モ翁も顔見知りのある人の話を私はしました。離婚を十三回もした、近所のある人の話なのです。しかもそれが、本人の意志ではなくて、母親のめがねに十三人の嫁がかなわなかった、という噂話です。すると翁は、私もそのような家庭を知っています、神戸でのことです。もらった妻がことごとく姑の気にいらず、四回結婚したのにだめで、わずらわしさから逃れるために、かわいそうにその人は遂に独身生活を選びました。と頬笑まれたのです。」(小出治郎「モ翁の思い出」より)

《だいたい、独身の日本人はいない。みんな結婚する、しかも早婚である。ほんの四、五日前、あまり教養のないある日本人がどんな日本人でも子供のないという事実を不幸と考えている、と言った。たしかにそうだし、いつだってそうだった。昔はそうした不幸を離婚によって癒した。妻を石女(うまづめ)と(しばしば不合理に)判断すると家庭を去らして他の妻に代えた。(花野訳)》

《日本の若者は結婚する年ごろがきても、そのことにはほとんど、いな、まったく気をとめない。それに興味がない。要するに、結婚を他人事のように思っているほどで、自分自身のことというよりも家族のことなのだ。嫁を世話するのも婚礼の日取を決めるのも、みんな家族である。結婚する前に家族がたいてい直接でなく、仲介の方法で未来の妻に関する道義上の性質とか、その他の事情などをあらかじめ知らせ、同じように嫁の家族に、婿について知らせる。たいていの場合、たとえば仲人の家で婿と嫁とが見合をし、婚礼の前に互いに知りあうように、また、その見合からどうしても嫌になるといったような場合には、できるだけ見合のときに互に拒絶しあうようにする。そして、遂に両人が結婚して家族になる……。こうした日本の結婚が幸福であるか? 観たところから推すと幸福であるらしい。(花野訳)》

《なんでも噂によると、ふつう姑の思いどおりになり、その気まぐれを満足させるのが一番むずかしいという。もし妻が家族を悦ばさないと一つの事件――離婚――が生じる。大日本ほど離婚のある国は世界じゅうどこにもあるまい。わたしは十三回離婚したという徳島の人を知っている。いま十四番目の妻と住んでいる。近所の噂によると、こうした災厄の多くは姑のよくない気質のためで、それが当然、家庭の平和をみだすのだということだ。むろんこの男の場合を例外としなければならない。日本の女はどこまでも辛抱強い。統計によると、日本における離婚の一年間の百分率がしだいに減少してきたという。

 習慣が改善され、姑が諦める。(花野訳)》

 

 七十歳の誕生日の夜、モラエスは久しぶりに、リスボンの妹へ手紙を書いた。欧州大戦ころ、そして、世界じゅうにインフルエンザが流行した一九一八年(大正七年)ごろ、そのころまではよくフランシスカに郵便を出したが、最近は通信の回数がめっきり減っていた。手紙で安否を気づかう好意の空しさ、加うるに老年がさせるものぐさ、理由はいくつも複合していた。大儀で徒労に近い営みを、ふと彼がする気になったのは、誕生日ということと、鳴門の絶景を眺めた感動とからであろう。

 その手紙のなかで彼は、いろんな感懐を述べている。

《今日という日を知っているだろう! 昔――その遠い過去となった少年の日には、この日のくるのを待ちかねた、嬉しく愉しい記念すべき日――、両腕一ぱいに、いや抱え切れないほどの贈物を、そこらじゅうにならべて、有頂天になっていた少年! 早く青年(モーソ)になりたいと思い、大人になったら、ああもしよう、こうもしたいと夢みていた若者(ジョーヴェン)も、今は老いた。

 お前、ぼくは七十歳の老爺(ヴェリーヨ)になったんだよ。

 嘘みたいだけど、現実は厳しくゆるがない。そして、過去を反芻してはかろうじて生きている。夢も希望も消えた余生を、追慕に頼り、追懐を杖にして……。老いさらばえてだけれど、ぼくは実に平和な毎日を送っている。リスボンに帰ることを希望しているお前には想像もつかない、いな、以前にはぼく自身さえ夢想もしなかった平穏で倖せな日日――、それがぼくの周囲に満ち溢れ、ぼくを捉えて離さない。やせがまんや偽りではない。

 信じておくれ、ほんとうなのだ。リスボンより徳島がいいと、いつもの、ぼくの決まり文句を言うと、またもやお前は失望し、涙を浮かべるかもしれないけれど……。かわいそうな兄さん――と呟いて……。でもかわいそうじゃないんだよ。いずれ死が待っている。そして、リスボンで死にたいという願望より、徳島で果てる願望の方がわずかに強いだけなのだ。理由はぼくにも必ずしも明確ではない。

 考えてもみておくれ、西も東も弁別できない嬰児時代の年齢を加えても、リスボンの空気を吸ったのは二十一年だ。日本でその二十一年をすでに呼吸した。ぼくには大日本がしみついている。それに、正直いってぼくには、お前やジョアキンやマリア・ドウスが暮らしていることを除けば、母なる国への郷愁も関心も失っているのだ。

 ルジタニアの歴史と伝統に訣別し、ルジタニア精神を喪失した祖国びとには、今さら接触を回復しようとは思わない。もしぼくが帰るとすれば、お前を一目見たい、お前と語り合いたいという一事だけなのだが、すでにもうときはすぎた。

 お前に便りする情熱さえ薄れ、大儀にさえなった今日、七十歳の老人は、少女だったころのお前に、こころのなかで語りかけ談笑して、それをも、至福な生活の日課のなかに繰り入れて愉しんでいる。今年もきっと、お前からの、こころをこめた贈り物が海を渡ってくるだろう。誕生日おめでとう! としるしたカードが入っているだろう。誕生日おめでとう!(パラーベンス.ペーロ.セウ.アニヴェル.サリオ)としるしたカードが入っているだろうね。ありがとう(アグラデシード)

 ところで今日、誕生日の徳島はあいにく雨だ。一日じゅう降りやまない。しかし、徳島だけでないのだよ。首都のある東京を中心とした関東地方は、大雨で被害さえあったくらいだ。しかたがないだろう、日本に住んでいて日本じゅう雨なんだから……。その雨のなかをぼくは、近所のある若者に案内してもらって、前に絵葉書を送ってお前にもその景色とおなじみになってもらった鳴門へ、彼の有名な渦潮を観に行ったんだよ》

 この書翰、かなり長文のものらしい。らしい、というのは全文が公表されていないからである。ポルト出版の、彼の小伝のなかに、以上紹介した部分が考証的に引用されているだけだ。文中にみられるように、本国へ帰還しなかった理由の一斑に言及した部分がある。それを、ポルトガルのモラエス研究家は重くみたのであろう。

 鳴門観潮については、「ポルト商報」のベント・カルケージャ宛の書簡に詳しい。《あいにくの雨だったけれど、雨ゆえに新緑の美しい鳴門の丘を再びぼくは登った。おそらくぼくはこのあと、何度も徳島の田舎をおもいのままに歩き回ることはあるまい。したがって、いやそうでなくったって、雨にけぶっていた満目緑また緑のあの美しさ! ぐっと吸い込んだ緑、あの微醺! 緑、緑、緑! そして眼下に展開した海峡と潮流とがつくり出した景観! 君、想像できるかい、海面の高さが内海と外洋とで二メートル近い落差を生じ、狂おしく逆巻きながら滝状の奔流となる光景を! 

 渦はこの瞬間にできる。

 海原に轟く音――。それも水面の落差が生む。何しろ君、潮は一秒間に七メートルの早さの激流と化しているのだ。私を案内してくれた若者の説明によると、最も巨大な渦だと、その直径が約三十メートルにもなるという。だが、これは、観潮に最もふさわしい春の〈大潮〉や秋季の〈大潮〉の時期の話だ。残念ながらぼくは、五月三十日の誕生日を記念して散策したので、それほど巨大な渦を期待すべくもなかったのだ。でも、とてもすばらしかった》

 大正十三年五月三十日金曜日、モラエス生誕七十年記念日の潮は〈長潮〉であった。干潮は午前九時四十四分だ。徳島人である小出治郎が、あとにも先にも、あんなすばらしい渦を観たのはあのときだけだ、と語っている大渦を眺めて、モラエスはカスカイス西方の景観〈地獄の口〉を思い出しはしなかったろうか、怒濤が、林立する奇岩を噛み、地軸をゆるがし海面に轟く波浪の響きを!

 ベント・カルケージャ宛の書簡のなかに、彼はカスカイスの〈地獄の口〉の絶景と同封の鳴門の絵葉書とを重ね合わせて、ぼくの眺めた奇勝を想像してほしい、と書いている。

 狂おしく逆巻く海――、轟音をかなでる海峡――、そこに彼はカスカイスの海岸を連想し、鳴門の海の波間に、きっと、マリーア・イザベルを見たにちがいない。

 マリーアと初めて唇を合わせた、カスカイス西方の〈地獄の口〉の海浜――。そこはまた、七十三歳でマリーアが死んだ海でもある。鳴門の海はひろがり、遠くカスカイスの海につづいている。紀伊水道――太平洋――東支那海――印度洋――紅海――スエズ――地中海――ジブラルタル海峡――カディス湾――大西洋――と。

 追慕に身をまかせて、自らを倖せだというモラエスだが、追慕のなかに生きつづけると言うことは、生涯忘却がないと言うことでもある。追懐に酔う幸福と裏はらに忘却を知らない不幸がある。三十年以上どこかへほうり込んであった、マリーアの形見の〈十字架〉が取り出され、彼の書斎の壁間に掲げられる……。〈知友から贈られたもので、壁間に掲げてあったが、翁自身の信仰には関係のないものである〉と、徳島県立光慶図書館の「モラエス文庫」に説明つきで展示されていた、鈍く光る銀の〈十字架〉が……。

 

     

 

 モラエスはふと目を覚した。

 耳底に、もの哀しいほど透明な犬の遠吠えが残って、それで目覚めたような気がしたのだが、ほんとうは木造家屋特有の、肩口にしのびよる冷気が眠りを妨げたのであろう。どこからともない隙間風が首筋に触れ、高さが二尺七寸五分あるという行燈(あんどん)の炎も心持ちゆらいでいる。封建時代の、大名屋敷からの出物で、かなり値打ちのあるものだというので、神戸元町の古道具屋で求めた古風な行燈の朱塗も、いくらか黒味をおび、徳島在住十七年の歳月がしみついている。

 これを買ったころは、まだヨネが生きていた――。澳門(マカオ)常駐の砲艦「デイユ」が、日本へ回航するという誤報を、年下の友人ペドロ・ヴィセンテ・ド・コートが息せききって駆けつけて知らせてくれた日の夕方、神戸の埠頭から元町界隈を散策していて、ちょっとした気まぐれから、この行燈を買った。装飾用ですか…?…というコートに、いや実用品として使いたい……と答えると、当時青年だったコートは首をすくめてみせ、おどろいた表情を示したものである。

 気まぐれから求めた行燈を、ヨネはことのほか気にいり、二人の夜の生活と切っても切れない品となった。ヨネを思い出すよすがにも……、と持ってきて、永らく放置していたのだが、最近、思い出したように火をいれ、そのほの暗さをモラエスは愛している。

 犬の遠吠えが、ひときわ高く風に乗ってきた。野良犬どもの声が鋭く夜気を震わし始めると、徳島の秋はぐっと深まる。秋と冬とのけじめのほとんどないここでは、秋らしくなったと思うともう寒さがきて、毎年のことながら老いたモラエスは当惑する。

 人口六万の田舎都市である徳島には、野放しにされている犬がひどく多い。六万人に混じるわずか三人の毛唐の一人である彼は、宣教師であるローガンやハッセルとちがって戸外に出ることが多く、移住当時はずいぶん困ったものだ。紅毛碧眼――、隠し切れぬ容貌と巨体の異邦人に犬が吠えかかる。彼の散歩に気づかなかった人たちが、犬の吠え声で集まってくる。野犬たちは、まるで、見物人を呼び集めるかのようであった。興味と不安とある種の期待とを、黄色人種特有の曖昧な表情の陰に隠した市民たちは、モラエスを遠巻きにし、ぞろぞろくっついて歩く。吠え声が仲間を呼び、犬たちは無数に増えて、かん高く叫ぶ……。街頭で犬にあやしまれぬための苦心の数々を母国の雑誌に書いた昔もあったが、いまでは路傍で吠えかけられるへまもしなくなったし、徳島の市民たちも彼をいっこう珍しがらぬようになった。

 それにしても、夜気の澄む季節の遠吠えは、不眠がちの近ごろでは夜ごとの苦しみだ。その上、寒さが体にひどくこたえた。熟睡していたら、隙間風の冷たさを感じないですむのだろうが……。

 下半身が鈍くしびれている。寝がえりを打った瞬間モラエスは、掛蒲団を首のまわりに引き寄せていた両手を離して呻いた。体を硬直させたまま、呼吸も身動きもできない疼痛にしばらく耐える。やがて横向きになると恐いものに触れるように、烈しく痛む腰のあたりへ左手をおろしてゆく。右手は震えて他人の手のようだ。ゆっくりと撫でまわしてみても、痛みはいっこうに止まらない。

 唐突に襲ってきた激痛が、何を意味するのかは、はっきり解っていた。最初の()の子祭の日に、炬燵のいれ初めをする風習のあるこの地は、十月でも暑い日があるにもかかわらず、十一月三日の、日本人が最も敬愛する先先代の天皇睦仁の誕生日を区切りに冬がくる。

 今年の亥の子さんの十一月十六日はもう近い。いれ初めだけしておいて、うんと寒くなるまで炬燵を用いないともいうが、モラエスにとって、亥の子祭のおとずれは、夏場よくなっている神経痛の到来だ。

 むせっぽい夏――。いたるところに蚊柱の立つ不衛生なドブ――。晩秋でも蚊帳がいり、蚊帳からすぐ炬燵になる。上水道は去年やっとできたが、それまでは、徳島市を囲む眉山の山裾に噴き出す水を、水売りが一桶二銭で毎朝売り歩く奇習があった。彼の借家の裏庭に、長屋四軒共有の井戸があるが、飲料用には使えない。吉野川の沖積土がつくったデルタの(まち)の徳島では、井戸という井戸すべてが洗濯用や浴用であった。

 西洋文明の跳梁から取り残された田舎まちを憧れて来たころのモラエスは、毎朝水がめをのぞき込んで、「水いります」という合図の木札を、玄関へ吊るすという風習も珍しかったのだが……。すっかり目覚めた彼は、徳島の風土の悪さが老衰に拍車をかけ、体のほとんど破滅に押しやっている事実を考えないわけにはいかなかった。

――まったくこれは、朽ちつつあるのだ……。

 腰を撫で、下肢をもみながら、七十四歳のモラエスは、疼痛を抑えて寝床の上に起き上る。

 リスボンにいる妹フランシスカへの手紙に、《老いさらばえたけれど、ぼくは実に平和な毎日を送っている。以前には、夢想もできなかったほど平穏で倖せな日日を……》と書き、やせがまんでないといつも強調するのだが、今の生活を見たら、フランシスカはきっと驚愕するだろう。……白髪のばあさんになった妹と二人、老いに身を寄せ合って暮らすことができたら……、だいじにしていた植木や金魚のことや、亡くなった肉親の誰彼の思い出話などを語ったりして……、と考えてみる。身体の衰弱は肉親の妹への懐かしさをよび、母なる国への郷愁をかきたてるようであった。〈くだらぬ老いのくりごとだ〉と呟き、《いかにせん徳島にいる、そして、風土の悪さをうらみながらも、ここが気にいっている》と自嘲する。

 モラエスはふと妹の手紙が久しく跡絶えているのに気づく。一九二八年(昭和三年)五月三日付で、七十四歳の誕生日を祝福する短信が届いたあと、フランシスカからの便りがない。彼の方からは三度出しているのに、病気にかかっているのではあるまいか…?…と思ってみる。おれほど老い果ててはいるまいが、さまざまな老疾が彼女にだってあらわれる年齢である。

 〈兄さんが想像していらっしゃるほどには、あたしは年を寄せてはいませんことよ。嘘だとお思いでしょうね、きっと! だったらリスボンへ、あたしをごらんになりに帰っていらしてくださいな。でないと、決してなっとくしていただけないのですもの……〉

 と、フランシスカは前便に書いてきていたけれども……。

 撫でるより、座り方の工夫をこらす方が疼痛がやわらぐようで、いくらかモラエスはほっとする。目を書架のあたりへやってみたが、電灯を消し行燈にしているから、書物の背はもちろん、そこにあるヨネの写真も見えない。ヨネが亡くなって十七年――、コハルが死んで十二年――と呟く。わりと長生きしたマリーアが、七十三歳で死んでからでも早や九年経つ。一人っきりで、おれもずいぶん長生きしたものだ……、と無量の感が湧く。

 老残の独りぐらしは確かにのんきだったが、孤栖(こせい)の生活より、たとえわずらわしくとも、老妻の存在がむしょうに欲しくなることがある。とくに、病苦にさいなまれている昨今の不便さと不安とは、偕老同穴というむつかしい日本語の意味を、しみじみとモラエスに感じさせる。それは、とも白髪で、福本ヨネに生きてもらいたかった、という彼の空しい願望につらなる。

 リスボンに在る親友ディアス・ブランコ宛に《強いリョーマチスに襲われ、病床に臥っているのです……、近々のうちに快方に向かうものとは思いますけれども、貴兄、いや私自身、いな誰もが、私が根本的によくなることは期待すべくもありません》と書いたのは一九二八年の一月であり、五月十四日には、《まだ病気がつづいていて以前にもまして悪く、書くことが骨折りなのです……、この六行ばかりの手紙を書くのがやっとこさなのです。私は、もう年をとりすぎました》と書いたくらいだから、晩秋から厳冬への苦痛は目にみえていた。それはもう、不安感とか怯えとかではなく、避けることのできない受難としてそこに迫っていた。

 日記と呼べるほどの記録をつけるのが困難になった彼は、一九二八年十一月五日のメモに、《ただ忍ぶだけだ》としるし、ディアス・ブランコには、《人生の最後の日まで、忍従で苦しまねばなりません》と、覚悟のほどを書き送った。「ねがはくは花のしたにて春死なん」という西行の歌が気にいっている彼は、夜気の澄む十一月の上旬を迎えて、何としても、もう一冬を生きのびたい……、と念願していた。

 もう一冬という希望は、まだやり残している仕事があるからである。仕事は執筆ではない。ものを書いて発表するという営みは、一九二五年(大正十四年)十二月に、『日本精神』の補記である短文を書いてからやめている。『日本精神』が完成し、その出版をみたからとはいえ、日本について書きたいこと、あるいは書き残したことはまだ多い。しかしものを書いて出版し、母国の読者に奉仕する義務も完了したと思えたし、纏まったものを執筆する気力も情熱も薄れた。

 仕残したことといえば、もう身辺の整理だけである。その整理について、モラエスには一つのもくろみがあった。

 いざるような格好で座机の前へ移動した彼は、脇息を引き寄せ、脇息と火鉢とで体を支えた奇妙な姿勢で机に向かう。夕食後やりかけたままになっていた作業を、眠られぬままにつづけようと決意したのである。久しく蓋をあけない硯箱の上に、乳白色の埃がつもり、書きさしの用箋の上には、乃木大将の石膏像と恩賜の煙草とが転がっている。用意しておいた反魂丹の空ら瓶をつまみあげる。ガラス管の冷たさに触れた指先は、アルコール中毒者のそれのように慄えている。

 やせて、カサカサになった醜い腕――。しなびた大きい掌――。額にも頬にも、深い皺と斑点がきわだって殖えた。皺にも斑点も老人特有の皮膚の変質だが、肉食生活を急激に、米飯中心の日本食に切り換えた栄養障害も加わっているかもしれない。

 試験管の三分の一大のガラス管を離したモラエスは、ゆっくり火鉢の方へ首を向ける。つとめて緩慢に体を動かすのは、急激な動作が疼痛を招くからであった。状態を凭せた火鉢をのぞき込み、震える指で火箸を握る。雪空めいた今日の曇り日は、今秋初めての寒さをもたらした。夕方来の寒さに辟易して、今年初めていれた埋れ火をかきたて、火を熾そうと思いついたのだが、冷え切っているうえに震えが加わって、腕も指も彼の意志を裏切る。

――去年より、今年はひどくなった。年ごとにいっそう悪くなる、まだ十一月の上旬だのに……。

 呻きにも似た呟きが洩れる。やっとの思いで掘りおこした火はもう蛍火――。木の実のように小さな赤い火に指先を近づける。灰は熱く、指先から掌へ、血が生気を恢復する。何本かの新しい木炭を熱灰の上に組み、丹念に蛍火をのせ終えたモラエスは、安心したように机に向かった。

――あの手紙は、もうシンガポールあたりだろうか……、それとも……。

 とモラエスは呟く。

 自分の書簡集を出版したいという、ディアス・ブランコに、連絡の手紙を出してもうだいぶ経つ。日本語からOsoroshiという単語を書名に選び、表紙絵その他出版に関する注意や希望事項を、こまごまとしたためた手紙がいま海を渡っている。浮世絵風の富士山を眺めているうしろ向きの花魁(おいらん)、花魁と富士の中間に菊の鉢植が三つ置かれている表紙絵――。絵は黒一色で刷り、表紙の地色をクリーム色にする。Osoroshi なる題名は、日本の毛筆で花文字ふうに書く――などと、好みに合った指定をした。〈恐ろし〉という書名にした真意は、母国の友人たちにも、出版屋にも理解がいくまい。まして、自分の文章を愛してくれる見知らぬ読者たちには……。

 〈恐ろし〉という異国の言葉を、ポルトガルの読者たちがどう受けとめるか…?…老醜の身を、無惨にも異国で朽ちさせている一同胞の、死への恐怖――とでも考えるであろうか…?…

 「おそろし……」と口に出してみる。

 ――おれは、この短い語彙に万感をこめたつもりなのだが……。それに、おれはほんとうに恐ろしいのだ。恐ろしさの中で、いまにおれは死ぬだろう……。

 瞑想をたち切る。火鉢の炭火がいつのまにか燃えてきた。疼痛はいくらか去ったようだ。腕を動かしても痛みがない。指先に綿をつまみあげて、反魂丹のガラス管を丹念に磨く。新しい脱脂綿を煙草の幅の倍に切る。菊花の紋章のついた煙草を、ゆっくり鼻先へ持っていってみる。タンスの奥深くしまってあった恩賜の煙草は、紙に包んであったのにへんな移り香がある。

 疼痛の襲来を恐れながら、ゆっくり立って電灯をともす。立つ動作より坐るときの方に苦心がいった。もう一度菊花の煙草を取り上げてみる。煙草は三本あった。ときを経た煙草は、いずれも異臭があり、黄色い小さな斑点がにじんでいた。印刷がいいのか、菊花の紋章が電灯の光を受けて輝く。斑点の最も少ない一本を、鋏で切りそろえた綿の上に置いたモラエスは、微笑に頬をゆがめながら、火鉢に手をかざした。

 天皇(ミカド)が人民に与えるこの煙草を、モラエスは何本か吸ったことがある。

 一八九七年(明治三十年)七月、まだ澳門港務副司令だった彼は、新任駐日公使エドワルドアウグスト・ロドリゲス・ガルヤルドの随員として、京都御所で天皇睦仁の接見を受けたとき、桐箱におさめられたこの煙草をもらった。まるで勲章でももらうような手続で手に入ったそれ。煙草好きのモラエスは、日本で一番いい煙草だと単純に考えて喜んだものだったが、吸ってみて、入手手続のぎょうぎょうしさよりもっと驚いた。いがらっぽく辛い味の、ひどくまずい煙草だった。

 一九〇三年にもこの煙草をもらった。神戸港外での観艦式に招待され、ミカドの乗っている「浅間」での陪食の宴があったとき、酒宴の引き出物として贈られたのである。そのときは一本も吸わず、領事館の部下たちにやってしまった。給仕として使っていた木村章三という少年がひどく喜び、郷里の淡路島へ送り、彼の老父から丁重な礼状が届いたものである。日本人がこの煙草を、天皇を敬愛するようにたいせつにする習慣を、モラエスはショウゾウ・キムラに教えられた。

 綿を下側に敷いた煙草を、何度もやりなおしながら、ガラス管におさめたモラエスは、ガラス管の口にコルクの栓をつめた。にかわを用いて密栓したのである。反魂丹の空き瓶を利用したとは見えず、ガラス管の中で、菊花の紋章が浮き、新しい高貴な輝きを放った。残りの二本を、両掌でこなごなにもむと、燃えている炭火のなかへ捨てた。煙が立ちのぼり、いがらっぽいにおいが、にかわの異臭にまじって室内に充満する。

 ――これでいい。だがずいぶん高価な一本になった……

 手を暖めながらモラエスは思う。これも、彼のもくろみには重要な資料なのだ。

 前にもらったことはあっても、今は手許にない恩賜の煙草を手にいれるため、彼はシベリアへ出征している日本の兵士に、慰問袋を十五個も送った。「オレイ クダサルナラ オンシノタバコヲ オネガイシマス」慰問文の最後に必ずかき添えて……。慰問袋がどのような人たちの手にわたったか、知るよしもないモラエスだったが、一人の上等兵が三本だけ送ってきてくれた。桐の箱にちゃんと入った一セットを期待していたのだが、三本で満足するほかなかった。一九二一年(大正十年)になってから、白紙にくるんだそれを、徳島の知人である、コウジ・コオダやジロウ・コイデなど、二、三の人びとに見せて回った。

「恩賜の煙草じゃあないですか!」彼等は、額まで持ちあげ押しいただいた。明治天皇の謁見を受けたときにもらったものの一部を、記念のために残しておいたのだ、とモラエスは、ぎこちない阿波弁で説明した。知人たちは感動をあらわにし、長く保存していたことを讃え、彼への尊敬を表明したものである。モラエスは、嘘をつくうしろめたさと同時に、徳島の人たちの単純さに好意を覚え、自分の計画があたったことを感じたものだった。

 皇大神宮の神符を貼った神棚に拍手をうつことも、このころから始めた。日本人に見せるための皇室崇拝。日本礼讃――、そして、その資料である日本の偶像の蒐集――。綿密に効果的に、モラエスのそれは続けられた。単なる好意から、蒐集に協力してくれるのが、ジロウ・コイデであり、尼僧チケンだった。

 自分の死後、おびただしい蒐集品のなかに、日本人の信仰に関する多くの品物が混じっているのを発見したとき、徳島の隣人や知人たちは、きっと愕き認識をあらためるはずである。日本人から与えられた迫害や屈辱感への、ほんのささやかな雪辱……。しかしそれはすでに、復讐というよりもむしろ、日本に溶けこもうとする彼の空しい努力ともいえた。天皇睦仁の写真。「明治天皇」と書いた木の札。「将軍乃木」の胸像。「天照皇大神」と墨書した軸。「豊受大神」のお札等々。お守りの類まで数えると百点もあろうか。恩賜の煙草もその一つである。

 冷たいガラス管を見つめているモラエスの孤影が、行燈のゆらぎをうけて北側の壁にそった書架のあたりに写り、頭を上下するたびに大きくゆれる。本の上や書架の空間には彼が生涯かけて集めた蒐集品がのっている。清水焼や備前焼の置物。赤絵の皿……。光のとどかないあたりにも、ガラクタが雑然と並んでいる。

 障子の桟につるしてある「明治天皇」の木札の下に、煙草を入れたガラス管を置いたモラエスは、あまってしまった反魂丹の空き瓶をおヨネの鏡台の抽出にしまった。反魂丹の空き瓶は福本ヨネが風邪に飲み、胃痛に飲み、心臓発作のたびに飲んだ薬の空き殻――。たくさんあるそのなかには、斎藤コハルが婦人病や、結核の熱さましにのんだそれも混じっている。

 ――そうだ、あれはどうしてしまったのかな……

 火鉢の横へゆっくり座りなおし、壁の上部に掲げてあるマリーアの「銀の十字架」を眺めながらモラエスは考え込んだ。

 ――確か、一枚はとっておいたはずだが……

 と呟く。何枚かもらっていたマリーアの写真を、思い切りよく処分した遠い日を思ってみる。一番綺麗に撮れている一枚を、神戸から移ってくるとき、蒐集函の底へひそめてきたはずだったが、ずいぶん久しく取り出したことがない。あるいは、ふとした気まぐれから破り捨てたかもしれない……。今夜まで思い出すことがなかったのは、すでにそれがないからかもしれなかった。

 もし処分したのだったら、神戸にいた時代だろう……。ヨネを得て、人間らしい倖せを満喫し、至福に酔い痴れていた日日……、あの美酒(ネクター)を痛飲しているかのようだった夢心地でくらしたころだったら、あるいは最後の一枚を残しておくことなど考えなかったかもしれない。

 ――ともかく一度、蒐集函のなかを探してみよう……

 と思う。処分したのかどうかが定かに思い出せないくらいだから、あるいは忘れっ放しのまま残っているかもしれない。蒐集函のなかを探してみよう、と立ち上がりかけたモラエスは、くずれるように打ち臥した。

 激しい痛みがよみがえってきたのである。

 いざりながら、蒲団に転がり込んだ彼の右足に、愛猫の三毛が触れた。裾の方から入り込んでいたらしかった。モラエスは腰を押え、眠れそうもない目をむりに閉じる。下肢に身をすり寄せてくる三毛がじゃまっけで、いつも可愛がっている彼女だのに、蹴っ飛ばしたいような気持だ。しかし、猛烈な疼痛が下半身にあるので、見うごきすらできないのであった。

 ただ耐えるほかない。痛みの方がかってに通り過ぎてくれる何時間かを――。電灯の光が、閉じている目頭に殺到しているような感じだ。声を掛けて頼んだら、素早く消灯してくれる人が傍らにいたらいいのに……と、しみじみ思う。

 行燈の油がつきたらしい。ジジーイ、ジジーイと、虫の鳴き声に似た音がする。か弱い、いかにも心細い音であった。

 

     

 

 顔の上をわたっていく隙間風が冷たい。

 寒い……、などという季節にはまだ遠いのだが、とモラエスは思う。少し眠るといいのだろうが、間歇的に襲ってくる痛みと明るすぎる電灯とで、かえって神経が冴え、寒気をよけい感じてしまう。火鉢の炭火は燃えつきたであろう。ずいぶん時間が経った。行燈などとっくに消えている。

 蒲団のなかでは、三毛が膝のあたりまで這い上がってきて、胴を丸くして眠っていた。先刻、愛猫である彼女に腹を立てたのが、嘘のような可憐さを感じる。膝から腰のあたりまで温かい。下肢をずらすと、眠っているはずの三毛が、まるでくっついているかのように移動する。

 目を開いて、もうほとんど無用になった蔵書やガラクタの集積を眺めてみる。マリーアにもらった〈銀の十字架〉に視線が止まる。

 ――そうだ、マリーアの写真を探してみようと思ったのだっけ…?…

 と、ぼんやり考える。マリーアのごく若いときの写真だ。彼女がまだ結婚してない時代の……。あれは、いったいいつもらったのかしら…?…。モザンビーク勤務のころ、マリーアが郵送してきたのだったか……。

 記憶が定かでない。……思い出そうとモラエスは苛立つ。神経が冴えているのに、記憶が鮮かによみがってこないのはもどかしい。おれもずいぶん耄碌したものだ。

 ――あの写真は、おれが兵学校へまだ入らぬ前ごろに写したものだろうな…… 

 あるいは、すでに失って手許にないかもしれないマリーアの小照(しょうしょう)である。撮影の年代や撮影当時の彼女の年齢を推定してみたところでしかたがない、と思う傍から、妙に焦燥感がつきまとってくるのだった。

 

 伝統と栄光とに輝く海軍兵学校を、二十一歳で卒業したのは一八七五年(明治八年)である。フランスが共和国憲法を制定し、日本がロシアに樺太と千島列島とを交換してもらった年だ。

 日本の樺太放棄に関連して、モラエスが連想するのは岡本韋庵である。イアンは、独力で樺太探検を試みた徳島の男である。間宮林蔵の樺太探検の挫折に触発され、樺太島の極北エリザベス岬をきわめて、日本領という標柱を建てたという韋庵の名は、彼の古葡萄牙(ルジタニア)の血をこころよく刺激したし、樺太開拓使として明治政府に仕えたイアンが、黒田清隆と樺太経綸上で衝突し、名誉も地位も捨てて、郷里徳島へ隠棲したことも興味をひいた。

 その後、徳島中学校長となった韋庵は、教育者としても多くの業績を残した。モラエスの知人のなかにも、韋庵に教えられた人たちがいた。栄誉と地位とを捨てて徳島へ隠棲した韋庵とモラエス。その相似性ゆえに、ここのインテリたちは韋庵の話をよくモラエスに語るのであろうか。

 大先覚者ともいうべき、イアンの洞察力をかえりみなかった明治初年の幼なさを、すでに恢復したこの国が、自らを世界の五大強国の一つと自負しているのを、日本語修得のために用いた、小学国語読本巻三でモラエスは知っている……。開巻第三頁に、世界の列強日本をうたった詩が載っているのだ。

 岡本韋庵――。いい名前だ。栄誉を捨てた人にふさわしい。方丈のいおり。瞑想的な日本人が、好んでつけそうな名だ。だが……、イアン・オカモトは、同じ隠棲といっても郷里があり、故里人(ふるさとびと)がいた。郷党という言葉を日本人はよく使うが、ポルトガル語だとどう翻訳すればぴったりするのだろう…?…その郷党が、イアン・オカモトの場合はたくさんいて、官職をなげ捨ててきた郷土の先覚をあたたかく迎え、教育者としての地位を与えた。だが、おれの場合は……、とモラエスは思う。

 彼が毎日参詣するヨネとコハルとの墓のある潮音寺につらなる西方の丘に、イアン・オカモトの銅像がある。そこは、大滝山という丘なのだが、大滝と呼ぶにはいささか不似合な小さな滝があり、全山が遊歩道となっている。文人墨客が杖をひき、老幼男女が散策する小径のかたわらに、イアン・オカモトの銅像があって、徳島の町をみおろしている。郷党の手によって、追慕のために建てられたものだ。――同じ世捨人でも、似て非なるものがある……。おれを、ここ徳島に迎えてくれたのはヨネの墓石だけだ。それにおれは、異国の田舎にあこがれてきた旅人にすぎない。何の絆もない単純な生活……。それは確かに隠栖であり、何のわずらわしさもない。しかし、そうだ、もうよそう。これはやはり老いのくりごとというもの……。

 モラエスは、今夜、日が暮れてまもなく訪ねて来た図書館の館長が、

「モラエスさん、岡本韋庵先生を偲ぶ会という集まりがあるのですが……。あすの十一月九日は、韋庵先生の命日にあたりますから」

 と、出席をすすめてくれたことが、先刻からのとりとめもない思いにつながっているのに気づく。

 県立のその図書館長は、岡本韋庵が基礎をきずいたという徳島中学の出身で、母校の教師を勤めたこともある。図書館長になる前には、東京の大学か、その付属図書館かに勤めていたとか。たどたどしい日本語をあやつるモラエスに、難解な言葉はすぐ英語やフランス語を交えて説明してくれる親切な館長、坂本章三を彼は敬愛している。日本人に対しては、つとめて日本語で応対する主義のモラエスだったが、思わず議論になり、全部を英語でしゃべり合っているのに気づき、二人とも笑い出す、といった間柄になっていた。

 ふるさとびとをもたぬ自分の唯一の郷党――。そんなふうな信頼感を、ショウゾウ・サカモトに覚えている。徳島における最も文化的な紳士、坂本館長は、珍しいほど謙譲であった。外国人に対する好奇や不躾さは少しもない。それでいて、同情や憐愍の匂いすらなかった。

 得がたい友の出現がうれしく、手離さずに持ってきた愛蔵書や、蒐集品である浮世絵などを、その図書館へあげよう、とモラエスは思い始めている。

 がらくたばかりだから、もらってくれないだろうか。第一、この田舎都市の図書館では、自分の持っている外国の本なんか不要であろう。そんなはにかみもあって、ときどき図書館を訪ね、世界的な稀覯本(きこうぼん)であるカモンエスの詩集や、メンデス・ピントのPeregrinacao de Fernao Mendes Pintoの一七二五年版を持っている話はしたが、思いつきをまだ図書館長に告げてはいない。

 口頭で約束したり、話したりするよりも、このことを遺書のなかに書いておけばいい。と思い至ってモラエスは、遺書という語彙(ごい)と、それをやがて書かなければならない、ということに怯える。

 

 図書館長の方から、モラエスを訪れることはまれであった。彼の公務多忙ということもあったが、人の訪問を喜ばないモラエスの性癖をのみ込んでいたからでもある。したがって、五時を過ぎるとすぐ暗くなる山裾の伊賀町まで、回り道してショウゾウ・サカモトが寄ってくれたとき、夕食を終えて、三毛とぼんやり戯れていたモラエスは愕いたのである。

 寒いなかを外套(コート)なしで……、と思ってからモラエスは、図書館長が真冬でも外套を用いないことを思い出した。ショウゾウ・サカモトは、封建時代の武士の修練のような厳しい戒律を自らに課している。外套はもちろん、足袋、手袋、首巻など防寒衣料をいっさい使わない。毎朝冷水摩擦を励行し、下級職員より早く出勤して、公園のなかにある公衆便所の清掃を毎日つづけている。その他の私生活については、ほとんどのことをモラエスは知らない。むしろ、知らなさすぎるくらいだろう。図書館長の方だって、モラエスの生活の内面やその詳細は知らない。互に知らないのは、いわゆる交際が少ないからだが、古武士の気概を持ちつづけている点で、海軍軍人の成れの果てのモラエスと、大名ハチスカの家臣の末裔の図書館長とは、有無相通ずるものがあった。話もよくわかるし、語り合っていると愉快だった。日本語でいう、うまが合う仲なのだ、とモラエスは考えている。

 ショウゾウ・サカモトに会うのは久しぶりであった。玄関から、三和土(たたき)の土間に入ってきた客は、黙って立っているモラエスに、夜になって不意に訪れたことを慇懃に詫びた。たぶん、歓迎されないと思い込んだのだろう。相手に、そのような感情を抱かしめたという自責の念が、いっそうモラエスを黙らせた。愕きの表情を示していたのだろうか…?…あるいは怪訝の顔つき…?…。が、沈黙はかえっていけなかったようであった。久しぶりだのに、来客をすっかり恐縮させてしまったのである。

「もうおそいですから、ここで用件だけ」

と、上り(かまち)に立った客に、とうとう挨拶の言葉をいいそびれたモラエスは、日本語の歓迎の辞の知識のありったけを総動員し、やっと客を抱えるようにして座敷へ上ってもらい、むりやり安楽椅子へかけさせた。そして自分は、きちんと足をそろえている客の前へ正座したのである。客に椅子をすすめ、自分は座蒲団に座るのが、日本人に自宅で応接するモラエスの習慣だった。が、今夜は、外套なしの訪問客に敬意を表して座蒲団をはずしていた。

 今おもえば、あのとき、何だか妙に座蒲団を引き寄せたかった。……そうだ、今夜は、あのとき、すでに疼痛の前駆症状が始まっていたにちがいない……。下肢のしびれはいくらか治ったが、腰の痛みはまだとれない。撫でている手までしびれている。

「韋庵先生に、あなたが異常に関心をもっていらっしゃるので、お暇だったら……、と思ってお知らせにきました」

「ショウデスカ……。ソレワ アナタ オキノドク ショトサムイ アリガト。……ドンナヒト アツマリマシュカ?」

 応答しながらモラエスは、相手が「異常に」といったのか、「非常に」といったのか…?…とこだわっていた。「オキノドク」と言うより、「アナタ カワイソオ」の方が、寒さの中を訪ねてくれた人にふさわしい語彙だったかもしれない、という考えも浮かんだ。

 集まりに出るメンバーを尋ねるモラエスに、館長が、数人の名前をあげた。モラエスの知っていそうな人名を考えながら教えるのに、「オオ」「オオ」とモラエスはいちいち頷く。

 斎藤コハルが結核で死亡したとき、入院していた病院の医師。彼と同じ四軒長屋の一つから、弁当箱を小脇に徳島中学へ出掛ける猫背の教師など、ショウゾウ・サカモトが数えあげる名前を、興味深く聞いていたモラエスは、終りころになって頬がこわばり、自分の不興を親切な相手にさとられまいと、悲しいほど努力しなければならなかった。この館長とは何の関わりもなく、この人は何も知らないことだ、と思いつつ……。

 県立の図書館に事務所を置くという、韋庵岡本監輔(けんすけ)を追慕し顕彰する団体である韋庵会のメンバーのなかには、モラエスの好まぬ、いな憎悪さえ感じている二、三の人がいた。この地の郷土史家であり、考古学者を自称する人たちである。韋庵会の会員のなかに、それらの人がいるのは当然のような気がしたが、韋庵会への関心は急速に萎えていった。

 イアン・オカモトへの興味や、ショウゾウ・サカモトの親切と、自分の不快感とは別物だ。そんなふうな自省をしながら、つとめて感情を押えたモラエスは、

 「ワタシ タイヘン タイヘン……キョウミ アリマッシュ。テモ ヨル シゴトアルテショ。ヒト タクサン タクサン アツマルトコロ ワタシ イキタクアリマシェン……ヤメマシュ。イアン ハナシ ……ワタシ ヒルマ アナタニ キキニユキマッシュ。アナタ ハナシテクレマッシュ……」

 と慇懃に答え、微笑を浮かべた。

 ショウゾウ・サカモトは、また例の嫌人癖と諒解してくれたのか、あるいは、夜の著作という仕事のことを考えてくれたのか、用件だけ伝えると満足して帰っていったのである。

 六年前、この市出身の考古学の博士、リュウゾウ・トリイとその仲間たちが、ハチスカ侯の城址である城山の一角で、大々的に貝塚を発掘したことがあった。一九二二年だから、大正十一年のことである。県立の図書館へ出かけたり、徳島公園を散策したりするモラエスは、図書館にほど近い城山の東麓付近から、貝の化石の断片や弥生式土器の破片がときたま発見されることを知っていた。そのあたりは古代海浜であったらしく、露出した岩層には鮮やかな漣痕(れんこん)が刻みつけられている。

 砂礫岩の露出面に、波の痕がくっきりと残っている城山は、吉野川デルタの上に乗っかった徳島市の中心となり、往古このあたりが海岸であったとは想像しにくいほどである。その城山が古代人の遺跡であるらしいことと、文学博士鳥居龍蔵の声名とに知識のあったモラエスは、発掘事業に大いに期待をよせた。それに彼は、元来博物学に造詣が深く、本国では博物学者として認められている。学問的な詮索癖と好奇心から、彼はのこのこ城山の発掘現場へ出かけた。

「けがらわしい! お前らに何がわかるか!」

「日本人の遺跡をけがす気か!」

 そんな言葉がなげつけられ、まるで不浄なものでもしりぞけるように、徳島の考古学者たちは、モラエスをまったく近寄らせなかった。

 〈むりもない。おれが何者で、何をやっているのか、この人たちはちっとも知らないのだ〉発掘作業に心を残しながら、すごすごと彼は帰って来たものだった。

 そのときの自称考古学者たちが、岡本韋庵を偲ぶ会の幹事連だという。敬愛する図書館長のせっかくのすすめを、婉曲にモラエスが辞したのは、彼流の、西欧人としてのプライドからだった。無知な市民たちは、モラエスのことを西洋乞食と呼ぶ。毛唐とあざけられようが、西洋乞食と悪口いわれようが、ほとんど気にしないモラエスだが、蔑視と誤解に対する腹立ちはないでもない。狭量で無理解な自称考古学者達への反撥は、市民一般の呼称する西洋乞食モラエスの、いわば一種の抵抗であった。

 

 疼痛が間歇的にやってくる。

 腰が痛むのは夜具のせいではないだろうか…?…と、ふとモラエスは思った。

 一九〇〇年(明治三十三年)神戸で、福本ヨネを(めと)って所帯をもった日から、ベッド生活に別れ、蒲団にくるまって寝はじめてもう二十余年になるが、好ましいと思っていた畳も蒲団も、いつのまにか、ひどくうとましいものになってきた。

 今さら、ベッド暮らしにもどりたい、という積極的な気分もうごかないが、日本ふうに、徳島ふうに、と自らの日常生活を鋳型に容れてきた無謀さへの悔恨はある。「モラエスさん!」と親しげに呼びかけてくれる一握りの隣人や数人のインテリとの結びつきは、市井の庶民のなかに溶けこもうとするモラエスの、いたましいまでの努力に支えられていた。それらの人びとの理解は、素朴で一面もろいものだったけれど、せっかくの好意と敬愛を裏切ってはいけない、と徳島的生活に彼は義務観念さえつのらせていた。日常の暮らしから、つとめて洋ふうをしりぞけているのは、最初はエキゾチックな好奇や日本ふうへの魅力からだったけれど、今では好みでも実用でもなく、まったく一種の惰性であった。

 徳島へ隠栖した翌年の十月三十一日、「ポルト商報」に彼は、日本の夜具の話を書いた。その冒頭で、《どんな貧しい家にも必ずなくてはならぬ道具の一つ、とヨーロッパ人なら当然考えるベッド。その必要欠くべからざる寝台というものを、幸せなことにわたしは必要としない。わたしは、簡便で合理的な日本の夜具を用い、よろこんで日本の習慣に従っている》と述べた。

 蒲団を、日本人の智慧がつくり出した、最もすぐれた生活用具といい、日本人の発明品の最右翼に数えているモラエスのことだから、《夜がくると、どこの部屋にでも意のままに敷くことができる。そして朝になると、その蒲団をたたみ、押入のなかに蔵ってしまうので、すっかり、みえなくなってしまう》日本の寝床に、好奇より実用性をみていた。

 ――あの文章では、ずいぶん蒲団をほめたっけ……

 蒲団のなかで疼痛とたたかいつつ、彼の連想はしだいにひろがってゆく。

《寝心地がいいかどうかってのかね?日本人はそれが好きなのだからもんくはないわけだ。わたしも、蒲団にはいっていると気持がいいので大好きだ。習慣て恐ろしいもので、わたしにとっても、西洋ふうのベッドは、もう今では――なんだか、鼻のすぐ先が崖にでもなった危険な場所のような気がしてならぬ……。日本の蒲団は、広さにかぎりなく、おっこちそうな崖もなく、部屋じゅうに畳がつづいてあるので、その畳の上に、書物でも、煙草でも、時計でも、つまり寝ていて、ふと目の覚めたとき欲しいと思うものが、なんなりと並べられるのだ。なんて気持のいい寝床だろう! ……。(花野訳)》

 ――今だって、十幾年前と感想は変らない。手を伸ばせば、そこに煙草があり灰皿があり、薬缶と湯呑茶碗がある。老いて、病んで、手を伸ばすのが難儀になっただけだ……。 

 昔書いた文章を思い浮かべ、枕に頭をつけたまま、そこらを眺めて彼は苦笑する。

 今さらベッド生活にもどりたいと思わぬ。なまじ寝台など持ち込んだら、かえって落ち着かないだろうし、寝心地だって悪いだろう。二年ほど前のことだが、彼の後任である神戸駐在ポルトガル総領事エフ・エス・スーザーの首唱で、神戸や大阪のポルトガル人仲間が、「徳島で不自由な生活をしているモラエス氏に、ベッドを贈って、せめて夜なりとやすらかに憩ってもらおう!」と、運動を起したことがあった。

 ペトロ・ヴェンセンテ・ド・コートからの手紙で、そのくわだてを知ったモラエスは、「とんでもない」と、スーザーとコートに手紙を出したものである。不自由な生活ではないとは言わないし、しだいに押し寄せ老疾にさいなまれているのも事実だ。だが、ヨーロッパふうの寝台を恋しいと思ったことなぞない。日本に永年住んでいる諸氏が、蒲団の寝心地のよさと美点にまだ気づいていないのは残念である。それに、こう言っては諸氏の好意を踏みにじることになるのだろうが、わたしは昔から同情が大嫌いだし、それほど貧乏でもない。ベッド一台を(あがな)えぬほど、わたしが困窮していると思っているのかね…?…、といった意味の、ベッド寄贈辞退の弁であった。

 寝台で眠りたいと思わぬが、敷布団はもう一枚ほしいな。日本の上流家庭や旅館のように、敷布団を二枚重ねたらどんなものだろう……。

 いくぶん痛みは遠のいたが、上向きになると、腰骨に鈍い抵抗感がある。敷布団が一枚だからだと、思う。

 徳島にかぎった話ではないが、ふつうの家庭では敷布団を一枚しか敷かない。貧しい庶民の一種の倹約であろう。敷布団一枚といっても相当高価だからな。使えば布がいたむし綿だってやせる……。蒲団綿の打ちなおしといった知識をえたのは、やはりヨネからだったな。実際の仕事はお松さんが担当していたけれど……。

 徳島での彼の見聞の範囲では、入院でもする重病人でもなければ、宿屋の寝床のように、敷布団を二枚も用いることはない。もっとも、近隣の貧しい人びととしか交際がないから、頻繁に綿の打ちなおしをすることや、敷布団二枚を用いることが、どの程度贅沢であるかはわからなかった。

 徳島に住み始めたころ、寝具を三組新調したのだが、客蒲団と呼んでいた一組は、コハルの入院のとき古川病院へ運び、彼女の死んだあと病院が始末したのか、コッホ菌だらけのそれをもユキが持ち帰ったのか、ともかく彼の手にはもどらなかった。もう一組は、コハルが平常用いていたものだったから、通りすがりのクズ屋に売り払った。それから数年経ってだったか、古くなった一組をユキにくれてやって、新しいひとながれをつくった。以来ずっとそれを用いている。

 ――こいつも古びた。おれと一緒に……

 と呟く。もう一枚、敷布団を新調しよう。そうしたら、背筋や腰のしびれも楽になるかもしれない。ぼんやりモラエスは考えた。

 各地の花街で体験した夜具――。しっとり落ち着き何となくなまめかしかった色調――。スプリングや藁と違った柔らかさ――。弾力のある綿と絹のかもし出す温かい感触――。おヨネと神社仏閣を各地に巡って泊った旅先の宿での寝具――。そして、西洋人と日本人の夫婦という取り合わせが、まったくのみこめず、当惑と懐疑と好奇の目で、おそるおそる、それでも親切に床をのべてくれた女中たち――。いろいろな土地の、さまざまな宿――。そして、その思い出の数々……。

 上品で、どの日本婦人より美しく優しかったヨネ。亡き母マリア・アマリア・デ・フィゲイドイレより、妹フランシスカより、初恋の人マリーア・イザベルより、世界の誰よりも愛した福本ヨネ。

 どのような調度の部屋、どのような夜具にもヨネはふさわしかった。絹ずれの音がする……。ヨネの笑顔が……。はにかみと高貴な気品をたたえ、襟もとを軽く押えてすっと近づく。

 青畳を踏む柔らかい響き。行燈の火がゆらぐ。〈いや、行燈は、とっくに油が切れてしまっている〉と思う。瞬間、モラエスはわれにかえった。どこの宿にいるのでもない。伊賀町の方丈だ。古びた四軒長屋の……。

 汚くなった壁。乱雑な書架。ガラクタの集積。くすんだ額縁。「明治天皇」と書かれた木札。その下には、先刻つくりあげた反魂丹の空き瓶に密封した〈恩賜の煙草〉が転がっているはずだった。目を急に開く。電灯がまぶしい。マリーアの十字架が光っている。

 自らの体をいたわりつつ、モラエスは立って電灯を消す。瞬間おとずれた闇のなかで目をみはる。もうそこにヨネが来ていた。幻想でもなければ亡霊でも艶冶(えんや)な亡き人が……。床のなかでもモラエスは身をずらす。彼女の体を迎え得る空間が寝床のなかにできる。

 彼が促し、ヨネが頷き、上蒲団がわずかにめくられる。寝床の裾の方で眠りほうけていた三毛があわてて、モラエスの下肢をしきりに探る。

 ――寒かったろう――

 おヨネは微笑む。すっと彼女は床に入り、ぴたっと体をすり寄せ、クックッと笑った。ヨネの伝える笑いの波動が、くすぐったく、それでいて快く伝わる。

 ――寒かったろう。戸外(そと)は――

 もう一度モラエスが言う。ええ、とっても。と答えてヨネは、なおもクックッと忍び笑いをもらし、彼の体に微妙な反応を与える。

 

     

 

 なおもヨネは、クックッと笑い、モラエスの掌を、柔らかいその手で捉える。

 ――今夜、火鉢を使われましたのね。今年初めてでしょう……。急に、ずいぶん寒くなったものだわ。雪もよいよ、戸外は――

 ――そうかい。どうりで……。寒いと思ったよ。降るかな…?…でも、まだ少し早いね。十一月の初めなんだからな――

 答えながら彼は、喉を鳴らして笑っていたヨネが、いつのまにか嗚咽をもらしているのに気づく。泣いているのだ……。クックッという声と、体に伝わる微動は同じであったが……静かなひとときが流れる。

 ――ヨネ、ヨネがよく言ってたね。徳島では、初めの亥の子さんに、炬燵の入れぞめをする……、えんぎがいいからって――  

 ――ええ、そうよ。そうすると火の用心がいいの。お神さんが、火を守ってくださるのだわ――

 にこやかに答えるヨネの体を抱いて、身をよじらせたモラエスは、ゆっくり動いたのに、また疼痛を感じた。

 ――体の方がたいせつですわ。もう一枚、敷布団をおつくりなさいね――

 甘い響きの、うっとりするような声……。

 痛みはとまった。ありありとヨネの肌着が、肌着をとおして体が……、頬が、唇が……。突如、想念がプッツリ切れる。あれが見えてきたのだ。あれ。あれとしか呼びようのない、えたいのしれぬもの。背すじに水をあびたような厭な寒気がする。まったくいやなやつめ! 今夜はまた、いまいましいほどやつが早く現われた。あの目。ぎらぎら蒼く、いぶし銀のような……。素早くヨネは消えた。眉山の山裾の「潮音寺のごみため」と彼が名づけた人間の魂と骨との捨て場へ、ヨネは飛んで逃げてしまった。今宵は、まったくはかない、つかのまの逢瀬になってしまった。

 あいつが、あれが、まだ、じっと見つめている。貧欲な目、汚ならしい目つき、蒼く底光りする爬虫類のまなざし……。監視し、強迫し、おれを破局へ追いつめていくもの。これもまた、おれの精神(こころ)がかってにえがき出した魑魅魍魎(ちみもうりょう)か妖怪変化の類であろうか。ばかな! そんな! ……と思う。おれは何かに怯えねばならぬ理由なんぞない! ……と。

 しかし、その、実体不明の〈あれ〉は厳としてそこにいる。魑魅魍魎であろうが、妖怪変化であろうが、恐怖感の反作用としての幻であろうが、何だって同じだ。そいつはしょっちゅう現われ、おれを怯かし、強迫し、嘲り、じりじり追いつめてくる。平気だ、負けるものか。歯ぎしりする思いでそれと対決しながら、そいつにあやつられているような恐怖を覚える。おれに殺到する機会をねらっている無気味なやつ――。おれの老衰をほくそ笑み、死を待ちうけているやつ――。お前は死神か! いまいましいやつめ! 思わず叫び声をあげたくなる。

 そいつが、斎藤ユキの顔に重なり、亜珍に変わり、木偶人形の妖婆に三転する。安達が原の鬼婆のような……。

 ――ヨネ! ……助けてくれっ! 骨の髄までしゃぶられ、残り少ない財産まで奪われる――

 悲鳴をあげながらモラエスは、やるものか、一銭だって! と思う。またしても、下肢から太股のあたりへかけて、鈍い痛みがひろがってくる。痛い、耐え切れないほど……。モラエスは呻く。呻く。呻きつづける。

 敷布団なんかつくるものか。耐えてやる。生きぬいてやる。十年でも、二十年でも。おれは、光輝あるポルトガル海軍の軍人だ。負けはせぬ。自らにいい聞かせるモラエスの、下半身は疼痛を通りこして麻痺状態だった。

 ――ヨネ、すべてを、あるがままに見ているお前にはよく解るだろう。今もお前は、逃げるように姿を消してしまったが、いったいあれは何なんだ。そら、あそこから、じっとおれを見つめているあれ。まるで、このおれを取り殺そうとでもするように……。近ごろおれは、ほんとうに殺されそうな予感さえするのだ。ヨネ、どうなんだヨネ。これはおれの思いすごしだろうか…?…ヨネ、お前はどう思う――。

 墓場へ還ってしまった仏のヨネが、モラエスの問いに答えるはずがない。

 蒼く無気味な、怪獣のまなこのようだった二つの光が浮游していたあたりに、灯の消えてしまった短檠(たんけい)がほの白い。犬の遠吠えが、突然夜気を震わせる。臓腑にしみいるような、もの悲しい鳴き声である。余韻が長く糸をひいて、別の遠吠えを呼ぶ。野良犬が町並を走って行く足音が聞える。一匹や二匹ではない。類は類を呼んで、深夜の市街を駆け抜け、わがもの顔に跳梁しているのである。

《徳島の犬は、だいたい、野飼で自由に放ってあるのが習慣らしい。首輪も鎖もほとんどない犬が多い。街じゅうどこででも自由に眠る。毎日、二三度、人間の華客(とくい)先をなれなれしそうに訪れる。庭の垣根を潜り、塀を乗り越え、内庭に侵入して、くんくん嗅ぎながら、塵芥を求め、ここで骨の切れはしを、そこで甘藷のかけらを、といったふうに貪り喰う。そして、公衆衛生を管理する役人か何かみたいな態度で、堂々とまじめくさって出ていく(花野訳)》

 と、昔書いた随筆で主人公の位置を与えてやった徳島の野良犬たち――。《初めは、私の顔つきにびっくりして逃げた。今は愕かないで、きょとんと見つめている》人間に可愛がられたり、ご馳走されたりする習慣を知らぬ四つ肢の遊民たち――。おい! 少し静かにしないか。手足の不自由な老人が一人ここにいて、痼疾に苦しみ、不眠をかこっているというのに……。

 ぶつくさと独りごちるモラエスを嘲るように、キャン、キャン、キャンと鋭い声が、前庭に湧き起る。何か獲物をくわえて、一匹が駆けて来たのであろう。それを追いすがって来たらしい一、二匹が、獲物をめぐって争奪戦をしている様子――。叫び声はますます烈しくなる。

 

 一九二五年(大正一四年)の九月、モラエスは脱稿した『日本精神』の"自序"を書いた。《わたくしはこの前の著『日本歴史』を出版した後で、この『日本精神』をも出版し、かくして、日本民族に関する研究の小論を完成せんとする考えを起した。これが『日本精神』のできたわけである。国民の歴史と国民の精神とは大変異なったものではあるが、たしかに、一つの目的に向かって、互に相扶けながら結集したものである(花野訳)》と。

 一番苦心した章だ、と告白している『日本精神』の最後の章「日本精神よどこへゆく」で、

《ときとして、不完全で不十分なかよわい精神が個人、国民を破滅に導く。また、ときとして、正しく組成され正しく均衡のとれた精神が(さん)と輝いて光栄に導く。かくして、日本精神、大和魂が、もしその姿のとおりとすれば、いつまでも、いついつまでも進んでゆくのであろう。だが、われわれは空想を()け容れてはならぬ。いつまでも、いついつまでも、たとえ予期せざる障碍が出現するとも、それを征服することができるだろう。いつまでも、いついつまでもだ! ……だが、どこへ進んでゆくのだ……(花野訳)》と書き、

《今や活動力と精力とのまことに特異な天賦を表して世界の土俵の上に姿をみせている日本国民、その日本人たちの希求するとおりの神々の国民、その国民たちこそは、その出てきたところの、明らかにその昔の民族的遺伝をもたらしてきたところの、大陸と他のあらゆるアリアン民族とを収攬すべき、はたまた、ヨーロッパに侵入し、アフリカに侵入し、アメリカに侵入して、その血と思想との影響によって西洋の腐爛した民族を更正させて、全世界にひろがるべき自己の運命のすばらしさを持ってきたのであるか……(花野訳)》

 あるいは、

 《われわれの精神をして東洋に好奇の目なざしを投げさし、はたしてこの歴史的時代に際して、一度ならず白人を救いにくるという輝かしい役目をまたはたすと信じられる、あるアジア国民のあることを、われわれが発見するのを待っている(花野訳)》

 と述べているが、けっきょく「日本精神よどこへゆく」かは見究めがつかなかったのだろう。《この質問に対する回答を、幾千年の混沌を経たある日に声明されるまで保留しておく――(花野訳)》と文を結んでいる。

 しかし彼は、「序章 最初の思いつき」のなかでさりげなく、日本および日本人への疑惑と不安をしるしている。それは、《おとなしい日本人が突然怒りっぽくなる。……わたくしは、日本人の――ときとしては微笑に押し隠されている――憤怒が恐ろしい。国土の怒りっぽさ、気候の敏感さ……、美しいものを怒りに変える特徴……》という個所である。

 日本に長く住んで、気候と風土をつぶさに知って、彼は風土を抜きにして日本人の性格は考えられない、という確信をかなり頑固に抱いていたようである。それは、この著書以外の『日本歴史』や『日本通信』にも随所にみられ、《人間を狂気においやる徳島の夏。この暑さ、このむせっぽさ!》と、高温多湿の風土と自殺との関係を考察した「徳島日記」のなかの一文も同様である。

 さて、活字にすることを意図して書いた彼の最後の文章は、一九二五年(大正十四年)十二月の「日本における教育・解題」である。これは、ポルトガルの雑誌「新教育」へ昔書いた「日本における教育」全文を、明治維新以後の日本の教育面から日本精神を考察するための一章として、『日本精神』の補遺として末尾に加える旨の短文である。

 労作『日本精神』が纏まった。出版は翌二六年であった。ときにモラエス七十二歳。

 その年の暮れ近くになって、日本年号が大正から昭和と改まった。

 一九二八年(昭和三年)、長年「ポルト商報」に連載していた『日本通信』が完結し、第二輯全三巻の刊行をみた。生前における最後の出版物である。「日本だより」と訳してもいいこの著作は、けっきょく、つごう六巻となり、彼の最大の著述となった。

 

 徳島県立光慶図書館長坂本章三が、岡本韋庵を偲ぶ会の案内のため、モラエスを訪ねたのは、一九二八年十一月八日の夜のことである。執筆多忙を理由に、彼はこの勧奨を辞したが、彼の執筆は一九二五年十二月の、「日本における教育・解題」で終止符がうたれている。原稿を書く仕事が多忙だったわけはない。

 そのころ彼はある知人に、インテリは嫌いだ、つき合いたくないと語り、考古学者、鳥居龍蔵の門弟を自称する人たちへの不快をもらし、岡本韋庵を偲ぶ会には、それらの人も加わっているので、ショウゾウ・サカモトからすすめられたが出席する気にはなれなかった……と、腹立たしそうに言ったという。ところが阿波の辺土に朽ち果てた、この異邦人の遺骸を手厚く葬り、献身的に世話を焼いたのは、鳥居龍蔵の在郷の高弟、郷土史家前田正一だったのは皮肉である。

 前田正一が、伊賀町を含む富田浦地区担当の方面委員として、また一隣人として、よくその死の処理をし、克明な記録を残した話は、彼の死を扱う章で、いきおい出てくるから今は措く。

 しかし、ポルトガル王国旗を、神戸駐在ポ国総領事エフ・エス・スーザーが焼却したのを傍見した前田正一が、ひそかにその灰を集め、後日「モラエス文庫」に寄付した挿話その他で、すでに前田正一を私は登場させておいた。

 また、モラエス翁顕彰会を結成し、彼の法要を毎年開催する美風を開いたのも前田正一であった。もちろん、県立図書館長坂本章三の名も逸することができないけれども。

 さもあらばあれモラエスは、地元の郷土史家やインテリともまじわらず、ほとんど独習と体験とで、厖大な日本観察記録を残した。民俗学や郷土史に関心を寄せたことは、『日本夜話』や「徳島のつれづれ」によって察せられるし、民俗学者佐々木喜善と文通があったことでもわかる。モラエスの遺品のなかには、佐々木喜善の、著者よりの献呈本『紫波郡昔話』があった。日本の古謡、俚言に注目し、あるいは口承文芸や民俗習慣を重視したモラエスは、そこから日本人の精神史を探る営みを、かなり執拗に繰り返しているのである。

 にもかかわらず、徳島の民俗学者や郷土史家とはすすんで接触をもたなかった。そして、その理由を彼は、《この研究の妨げになる》からだと述べている。この研究とは、『日本精神』執筆のことである。

 予定どおりの著述を仕上げた彼は、《自ら何等の義務を課することなく》悠々自適、平穏の毎日を送った。しだいにつのり、烈しさを加えてくる老疾は《耐え忍ぶだけだ》と悟り切っていたようだが、冬期、雨期、そして酷暑の夏は苦しかったであろう。

 悠々自適といっても、生きている以上、世俗事を超越し、社会とかかわりなく暮らすことは不可能である。さまざまなわずらわしさがおとずれる。年代的には逆行するけれども、省略することのできない二、三を、ここにしるしておかねばならない。

 鳥居龍蔵の貝塚発掘現場へ見物に出かけ、追っ払われたと同じ一九二二年(大正十一年)十一月には、皇太子の四国巡幸があり、ひそかに歓迎しようと徳島の市民のなかに混じっていたモラエスは、群集につまみ出され、警官の罵声で虫けらのように追われる。

 その翌年の一九二三年には、親交久しかった在リスボンの友人ヴィンセンテ・デ・アルメイダ・デーサーの、『大日本』無断再版に憤慨し、遂にデーサーと絶交する。この話は、すでに「第三章 マカオから日本へ」の冒頭にしるしたから繰り返さない。

 さらに同年。東京発行の在日ポルトガル人の雑誌「A・B・C(アーベーセー)」は、「一種の、徳島におけるパイヴァ・コーセイロ」であるとモラエスを論難した。パイヴァ・コーセイロは、一九一二年(明治四十五年)リスボンで反革命を起したポルトガル王党の、残存軍連合の首領である。パイヴァ・コーセイロの反乱は、その年から約十年つづく血で血を彩る革命と反革命の導火線となり、母なる国を果てしない混迷に追いやった。もちろん、コーセイロは共和党政府によって掃討されたが、彼が王家再興に名をかり、外国の武力援助のもとに反乱を起したことをモラエスは悲しみ、コーセイロを《野心家》とよび《治安攪乱者》とののしったくらいであった。

 コーセイロの乱から十幾年も経て、徳島にいる世捨人である自分が、祖国にある王党と秘かに連絡をとり、謀叛をたくらんでいるように見られ、「A・B・C」誌で非難されて、モラエスは憤慨よりむしろ唖然とした。祖国に弓をひく人物! となぜ東京の同胞の目に写ったのだろう。まったく何の野心もない自分だのに。しかも、「A・B・C」誌は、かつて自分も多く執筆した雑誌だのに、とモラエスは、リスボンの友人への手紙で嘆いている。自分の真意は、いくら説明しても同胞に解してもらえないだろう、しかたのないことだ、実にばかばかしい話だけれど、とも追記して……。

 一九二五年(大正十四年)にはペトロ・ヴェンセンテ・ド・コートが、細君を伴って久しぶりに訪ねてきたし、その翌年にもやって来た。また、その一九二六年八月には、広東から亜珍(アッチャン)が、ジョーゼとジョアウンの二人を連れて来徳した。モラエスのメモによると、亜珍の滞在は十数日におよんでいる。コート夫妻も亜珍も、老いたモラエスの身を案じての来訪であった。

 コートは半ば友情、半ばエフ・エス・スーザーの命を受けて、神戸のような都会地へ移り、専心療養してはどうか、とすすめに来たのである。亜珍の方は、二人の息子もぶじ成人したことだし、香港か澳門でめんどうをみよう、世話をしたい、と申し出たのである。

《どうあろうとも、たとえ狂愚と嘲られても、ぼくはここ徳島、他のどこよりもいいこの徳島に住む……》と、モラエスの決意は固かった、と後年コートは語っている。

 

《……なぜ、ぼくが祖国を捨てたか? とのおたずねですけれども、ぼくにもその理由が充分わからないのです。ともかくこれには、いろいろたくさんな原因が重なっていたらしいし、ある本能的、宿命的志向が働いていたらしいのです。たぶん人は、これを、きっと錯乱だと呼ぶだろう。ぼくだってそう思うのです。その精神錯乱が、ぼくをここ徳島の片隅で暮らす心を起させたらしい……。いずれにもせよ、ぼくはこれを変更する意志をまったく抱いていないのです。貴君がすでに想像され、予見されているとおりの状態で、きっとぼくは生き、そして死ぬでしょう。でも、何者といえども、ぼくのこの決心をまげることはできないのです……。》

 と、アルフレッド・エルネスト・ブランコ宛に、たよりを寄せているのもこの時代である。

 ポルトガルの文人が徳島に隠栖していることを、日本の新聞が報じるのもこのころである。その先駆は「東京日日」であった。推定の域を出ないが、東京外語の安部六郎が新聞記者に、モラエスのことを教えたのであろうと思う。安部六郎が、その師ピント博士の示唆を受けて、徳島にモラエスを訪ねたのは、大正十二年八月十二日である。そして安部により「モラエス訪問記」がポルトガル語でかかれ、リスボンの文芸雑誌「ルジタニア」に載ったのは一九二四年(大正十三年)であった。そして、「東京日日」に、モラエスの記事が載るのが大正十三年である。

「知られざる日本の理解者」と題した、その「東日」の記事をみてみよう。

「日本を最もよく、ふかく多く伝えて正しき日本の理解を欧州人に強いた外人に、ラフカディオ・ハーンとマックス・ノルドウとヴェンセスラウ・デ・モラエスの三人がある。その前者二人は、日本人の間にも相当知られているが、モラエスの名はあまり知られていない。ハーンの歿後、日本人の生活の奥に潜む情を、社会の流れの裏にゆく物のあわれを、民族日本の伝統の魂を、自然の美の広き鑑賞を、かくもふかく示す人はポルトガルの文豪モラエス氏である。しかも、外国人でありながら、日本人になりきって、永き年月の悲喜を、観察をのべ、一方では科学的に史的に、冷たき解剖と判断を我等の国に加え、温かき印象を述べる人が徳島市に隠れ住んでいることを知る人は、徳島の人はもちろん、日本人でも指を屈するほどしかない」

 モラエスを〈ポルトガルの文豪〉と呼称すること、この「東日」の紹介記事をもってその嚆矢(こうし)とする。

  第八章 夢は枯野を

 

     

 

 モラエスの声名あるいは文名は、だいたいにおいて彼の国からの逆輸入である。日本でわりあい早くモラエスの存在を識った安部六郎にしても、ピント博士に教えられてである。

 一九二六年(大正十五年)ジュネーブで開かれた国際連盟の会議の席で、同会議長のポルトガル国裁判官ゴメス・ダコス将軍から、モラエスが本国で著名な文学者で、日本の徳島に住む、と教えられたのは、同会議へ出席していた駐仏大使石井菊次郎子爵だった。

 石井菊次郎から外務省へその話が伝えられ、「大阪朝日新聞」「徳島毎日新聞」などの記者たちのモラエス訪問が行なわれた。インタビュー記事が、いっせいに各紙に掲げられたのは翌二七年である。

 その一つに、大阪朝日新聞野上渓三記者の「モラエス氏訪問記」がある。

 モラエスは、おヨネとコハルのことを"友だち"と語った、という。野上記者のインタビューでも、モラエスは同じように言っている。

<仏壇に飾られてある三十歳ばかりの面長の美人の写真について、「あの方は?」と尋ねると、

「あれは神戸にいたころの友人、おヨネさんという人の写真です。ともだちです。徳島の人です」

 おヨネさんが死んだときは狂乱せんばかりに悲しみ悩み、のちその姪コハルさんと同棲したが、コハルさんの死にもおくれた過去を包むように、

「この仏壇はともだち(おヨネさんのこと)が持っていたものです。キリスト教徒がきて、見て驚いています。(仏壇を指す)日本については多くは知りませんが、書いたものは十二、三種ありましょう(と二、三を示して)古いものにはだいぶまちがいもあります。若いときから国を出て、もう生まれたポルトガルにも知人も少なくなりましたし、それに遠方だから帰ろうと思いません……」

 と語る言葉は悲痛だが感情は平淡で、膝の上の白猫を愛撫してニコニコしているところ、万里の異郷にあるを忘れたような静かな生活だ。耳は遠いが目はたしかで、万一の場合はコハルさんの母親が見ると言っていた>

 と、野上記者は訪問記を結んでいるのである。この「大阪朝日」の一文は、かなり的確に晩年の生活を捉えていると思われる。今その二、三を摘記しておこう。

 文豪と呼ぶのはぎょうぎょうしいが、と前置して野上記者は、代表的著作を紹介したあと、

 <……伊賀町三丁目の住居に訪れる。二階二屋の間に、二間を樫の樹が暗く蔽いかくして、玄関先には蘭やカニサボテンなど数種の盆栽を置きならべた異様に物さびた住居である――

 戸があかない――隣の細君を煩わして裏より案内してもらう……>と書きおこしている。<二階を見るとたくさんの図書があり、壁には掛物、広重の絹絵、思い出の種らしい写真のかずかず、過去の生活をここに封じこめているらしい。黒い筒袖に袖なしを着て無造作に帯をしているところ、まったく裏店の貧乏親爺で、身分のあった人とも思われぬ。

*               *

 モラエスは素朴な日本語で語る。(中略)……文字はわからぬなりに、朝日新聞はよく見ていました。村山さん(引用者註=大阪朝日新聞社長村山龍平)とも二三度遇って知っています。朝日新聞の訪欧飛行はよくやりましたな。……さようです。徳島へ来たのは大正二年ですが、二三度神戸と大阪へ行ったほか老年になったので旅行もしません。本年七十三歳です。日本の食物はなかなかよろしい、何でも食べます。日本食ばかりたべていますが、徳島でも西洋野菜がよく手に入るようになりました。刺身もよろしい。

*               *

「うつぶして……」の御歌の色紙(朝日新聞付録)が額に入れてかかげてある。天井にはバナナ七八つ、隅には粗末な花瓶に寒菊が乱れ咲いている。>

 朝日新聞付録の御歌の色紙を掲げてあったり、加賀の千代の俳句「朝顔につるべとられて……」を毛筆で書いたり、著作のなかに俳句、短歌などを多数引用したりしているモラエスだが、そして、芭蕉の俳諧に傾倒している旨を、しばしば述べているのだが、日本の詩歌に対する理解力はどのていどだったのだろうか。

芭蕉の辞世の句"旅に病んで夢は枯野をかけめぐる"の深遠な思想がやっと理解できるような気がする、と彼が書いたのは一九二四年(大正十三年)七十歳のときだけれども。

さもあらばあれモラエスは、旅に病んで、夢は枯野を……の状態にあった。《もはや晩年――その人生の旅路の果てに近づいて》《ごらんのとおり故国へ帰らず、徳島で死んで、この市の多くの墓地の一つに、日本の亡き人びとの群に混じって、貧しくて人目につかぬ墓を持つにちがいない……》と、自ら悟っているモラエスだが、まだ《漠たる不安》と《えたいの知れぬ怯え》はあった。捉えがたい、その漠たるものを彼は《あれ》と呼んだ。

 ――ヨネ、答えてくれっ! あれはいったい何なのだ…?…なあ、ヨネ。近ごろおれは、格別あれがよくあらわれるように思えて落ち着かぬのだが――

 ――ご自分で幻を描き、独り怯えていらっしゃるのですワ。そりゃ、姉は昔からあんな人ですけど……根はいい人なの。貧乏で子だくさんでしょう、つい、お金に欲太(よくと)くなるのですの。安達が原の鬼婆に較べるなんて、ひどいと思いますワ。それから、あの亜珍(アッチャン)っていう方だって、もうお年でしょう。昔とは性格だって変わっていると思いますワ――

 姿はないのに、おヨネの答えが返ってくる。

 ――いや、そうじゃない。ユキにしろ、亜珍にしろ、おれの財産が欲しいのだ。愛や献身ではない。打算だ! 一種のたくらみだ! それも、実に卑劣な――

 亡き人の返答を、烈しい口調で切り返す。

 ――まあ。そんなにきめつけてしまって――

 おどろいたヨネの声が、どこからともなく聞え、ふっと遠くなって消えた。幼な児がだだをこねる仕種のように、モラエスは首を振りつづける。

 「何を苛立っていらっしゃるの。何が不安なの。死がそんなに恐いかしら……」はるか、はるか遠くで、小首をかしげてヨネが笑っているような気がする。

 死なんぞ恐くない、といえば嘘になろう、とモラエスは呟く。死が恐くなければ、残り少ない財産のことなぞ思いわずらう必要はないはずであった。大和魂の精華と、この国の人たちが誇る従容として死を迎える、武士道の死生観にはほど遠い。精神的な自殺は、すでに敢行したつもりだが、甘いものであった。しょせん、おれはやはり西洋人だ、日本人にはなれぬ。栄誉と野心は捨てたが、遂に金は捨て切れなかった。ちゃちな、ちっぽけな金利生活者――。西洋文明からの逃亡者――、これをなお合理主義と呼べば、合理主義が泣くだろう――。それに、真底から死を悟っているのならば、わずかばかりの財産なんか、この地の社会施設に寄付したっていいのだし、近隣の貧しい善男善女に分けてやってもいいのだ。ユキにくれてやったっていいではないか、とモラエスは思ってみる。

 コハルの死んだあと斎藤ユキは、女中ともなく、家政婦ともなく、彼の身のまわりの仕事を果たすため出入している。以前には、週二回とか隔日だとか取り決めたことがあったけれど、そして、それで用がたりていたのだが、近ごろは毎日手伝いに来ている。朝ちょっと来たり、一日じゅういたり、午後顔をみせたりする。しょっちゅう軽い腸カタルを患い、ほとんど慢性化してしまった胃腸病患者であるモラエスは、どろどろに炊いたかゆを好んだが、ユキの炊き方は、ときに固すぎたり、軟かくて水っぽかったり、ひどくむらがあった。彼の嫌いな副食を平気でつくるかと思うと、かゆに麦をまぜたり、まるで、好んで意地悪をしているふうであった。

 ユキに炊事や洗濯を頼むまい、とときおりモラエスは考えることもあったが、実際問題として、ユキなしでは暮らせなかった。とくに、めっきり衰弱した最近では、腹だたしさを感じながらも、コハルの母、ヨネの姉という特権を振りかざして、押しかけてくるユキの手伝いを拒むわけにはいかないのだった。

 ユキにしても、モラエスの身のまわりの世話をしてうる家政婦料は、斎藤家を支える貴重な収入であった。

 好意の押し売りにも似たユキの援助が、非情で冷酷な、財産めあての計画的行動であったことに、まったく気づかなかったわけではなかったが……。だがおれに寄生し、老後のめんどうをみる代償に、あわよくば全財産を――と、ねらい始めたのはいつごろからであろう。寄生虫そのものである貧しい老婦の野心は、ヨネの看病のため何度も神戸へよび寄せていたころ、すでに芽生えていたのだろうか。

 だから、徳島への移住をすすめ、コハルを押しつけたのだろう。そればかりではない、コハルの死んだときには、六十二歳のおれに、まるで小娘にすぎないマルエをもらってくれ、と臆面もなく言ったのだ。この人を取り逃してはいけない。無知なりに、せいいっぱいの智慧を働かせ、金蔵(かなぐら)同然のこのおれを、手許にひきつけることをたくらんだのだ。

 栄養があって、経費が安く上るという麦飯(むぎめし)を、あの女の好意……、と思った時代もあったが、今ではなにもかも見通しだ……。考え込むにつれて、彼の内部にユキ嫌悪の情がきざし、憎悪にふくれ上ってゆく……。ユキだろうか……、それとも亜珍だろうか……。ユキの幻影も亜珍のまぼろしもあるわけではないが、生者の執念はそこらへのさばり出て、亡き人との語らいを妨げる。死者の使いのようなあいつ……。夜ふけの寝室に不意に現われ、迷い浮游しているヤツ。眠りを妨げる犬どもの遠吠えより、ヨネとの逢瀬を妨げる不気味なあいつはいまいましい。

 幻影をふり切るようにモラエスは、ガバッと起き上った。三毛が不意に投げ飛ばされ、不興気に、ひどく間のびした声を出す。むりに眠りから引き離されたときの人間の、あくびに似た声であった。

 ――あっ! そうだ、あのときからだ――

 急にモラエスは気づいた。それは、広東にいる亜珍が、ジョーゼとジョアウンを伴って来日し、半月ばかり滞在して帰ったあとのことであった。

「支那の(ひと)帰ったん?……」

 そっと入ってきたユキが言った。

 亜珍と愛児とが来ている間じゅう、まったく寄りつかなかったユキだったが、嗅覚の発達した犬のように、亜珍の出発をかぎつけてやって来た。「日光を見物して、今ごろは横浜から乗船しているだろう……」答えてモラエスは微笑した。

 不快感を隠そうともせずユキは、舌打ちを二、三度繰り返し、癇性に掃除を始めた。玄関先や裏口に塩をまき、食器から(たらい)まで、塩を使って神経質に清めていたユキ……。そのユキに彼は、今おもえば言わでものことを言ってしまったのである。

「アノヒト。モウ トシワカクナイ。コレカラノコトシンパイ。カントンテ ケコン シテホシイ タノミニキタノテシュ。ムカシ ジブンニゲタ。テモ イマ アノヒト。ワタシノ オカネ。ザイサン。ホシイ。オカネ ホシクテ ケッコン シテクダシャイ イイニキマシタ」

 そんなふうに説明する彼に、ユキはせき込んで尋ねたものである。

「それで?……モラエスさん、なんと言ったんですの。あんた、まさか、広東へ行くなんて、約束せえへんでしたやろな。そらあ、子供さんは可愛いでひょうけんど……」

「ワタシ ドコヘモ ユキマッシェン。カントン ホンコン マカオ コウベ オオサカ ミンナ ミンナ キライテシュ」

 やっとユキは安心の表情をみせた。亜珍が来徳したときモラエスは、澳門(マカオ)に住んでいたころ生まれた子供二人を、ある支那の女に預けておいた。子供が大きくなったので、その女がおれにその子たちを見せるためにやって来た――、と言ってあった。ユキがその話を、単純に信じたかどうかは不明だったが、亜珍の来訪について、ユキの諒解を求めねばならぬ筋合もない、と彼は亜珍とジョーゼとジョアウンを、伊賀町の自宅に泊めた。

 その間ユキは寄りつかなかったのである。

 日本人は支那人を嫌う。ちょうど、ラテン系ヨーロッパ人が、ポルトガル人を蔑視するように――。

 だが、亜珍に対するユキの感情には、日本人が支那人に対する嫌悪の上に、利害の意識が加わっていた。ジョーゼとジョアウンの母親が、亜珍であることを、ユキは本能的に悟ったようだった。

 張り合う相手は、出雲今市の永原デンだけと思い、デンとのことは十余年前の、遠い過去の話だと思っていたユキにとって、子供を二人も、それも男の子を産んで育てた亜珍の出現は、まさに青天の霹靂(へきれき)だったろう。驚愕から、一種の惑乱におちていたユキが、ヤレヤレ支那女が帰ってくれた、とほっとし、食塩で家じゅうを清めている最中に、再婚を望み、その話のために亜珍がきたのだ、などと告げたのは拙かった。ジョーゼとジョアウンの養育費こそ送りつづけたが、亜珍がおれを裏切った経緯(いきさつ)や、亜珍の背信を許す気など、まったくないことをユキは知らない。説明しても理解できないだろう。再婚の希望を、亜珍が抱いていることを告げたのは実に拙かった。

 今ごろやっと気づいたのだが、ユキの必死の献身は、あの日――、食塩で掃除をしていた日から始まったのだ。それに、もし企みありとすれば、その計画を実行に移したのもあの日からだ……。おれに尽し、尽すことによって繋ぎとめる、というより、おれに恩を売り、おれを義理人情でがんじがらめにし、おれから一銭でもしぼり取ろう、生きているうちに、できるだけたくさん金をもらっておこう、という執念にも似た、ユキ流の必死の献身が……。

 それにしても、とモラエスは思う。

 コハルだって背徳の裏切を犯した。そのうえ、情人の子を二度まで産んだ。その不貞女コハルをおれは許した。病院へ入れたばかりではない、心から許す気持にかりたてられたし、口頭でその意志をコハルに告げた。彼女の死後、多くの追慕の文を書き、ときには亡き彼女を夢みさえしている。だのに、亜珍は許せず、コハルは許せるのはなぜだ……。

 亜珍は裏切のほかに、二人の愛児と家具調度品のいっさい――、彼の蒐集品を除く財産の、すべてを拐帯逃亡した窃盗行為があった故か…?…コハルはすでに死に、亜珍は生きているからか…?…一方が支那女で、一方が日本婦人だからか…?…モラエスは自問する。亜珍が家具を奪ったからだけで憎い、と彼は思いたくなかった。泥棒されての憎悪では、一にかかって吝嗇(りんしょく)に集約されるではないか。

 マリーアの背信につづいての亜珍の裏切りだったから、よけいこたえたのだろうが、それじゃ、おれの方から捨てたアルシーはどうなる……。結果的には嘘をつき、だましたことになる永原デンはどうなる……。デンを裏切って、おれはコハルと一緒になった……。

 デン女のことに連想がいくと、忘却の彼方へ押しやってあることだのに、モラエスはつらくなってしまう。いつかデンから手紙がきた。「ワタクシノ イエノ チカクニ タバコヤノ デモノガアルノデス ソノイエハ タバコガカナリウレマスシ ホカノ ダガシヤ カ ナニカヲ カネルコトモデキルシ チョウド テゴロデス ワタクシモ ダンダン トシヲトリマシタノデ ロウゴノコトモ カンガエタク コノイエヲ ナントカシテ カイタイトオモイマス……」ついては、いくばくかの援助を御願いできないだろうか、モラエスさんのほかには、このような相談をする人がいないので、思案にあまって……、とデンは書いていた。

 煙草屋の売家を求め、自活の道を講じようという考えを、利溌で勝気だったデンらしい計画だと思ったが、具体的なことに触れてないし、そう切迫感も感じられなかったので、そのまま放置した。そのうち、追っかけて何か言ってくるだろう……、と思って。

 だが、デンからの音信は、それ以後ふっつりと切れてしまった。彼女、その煙草屋なるものを買ったのだろうか、家族のもとに身を寄せているのもおりづらい、と述べていたが……。神戸で別れてから十年余にもなる。いったい、何をして暮らしているのだろうか……。まだ一人身なのだろうか……、などとモラエスは考えこむ。長い歳月が挟まってしまった今では、デンがいくつになったのかさえしかと判らず、(かお)も想像しにくい。ほんのわずかの月日をともにしただけだったからか……、愛情を抱いていなかったからか……。

 ――どうしているかしら…?…倖せじゃなさそうだけれど――

 モラエスは呟く。カタカナならば、読めることを知っているデンは、カタカナのたよりをよこす。三年に一度くらい……。年賀状がきたこともある。通り一遍の時候見舞がくるかと思うと、哀婉の情をこめた、読むのが気はずかしいような手紙をよこすこともあった。だが、音信不通になって、もう三年になる。

 ――幸福に暮らしているのならいいけれど――、もう一度呟く。

 先刻、寝床から投げ出された三毛が、いつ上ってきたのか、膝の間で胴をまるくして目を細めている。

 心地よさそうな愛猫を抱き上げたモラエスは、座蒲団の上にそっと載せ、寝巻きの上に殿中(でんちゅう)をひっかけて立ち上がる。階段口の襖をあけると、音もなく三毛が主人の足をかいくぐり、素早くかけ下りた。不眠の苦しみもさることながら、小便が近くなって困るわい、と老いをいまいましく感じる。

 ヨネの、あれを取り出すため階下(した)へ来たのだ。用便はそれに便乗したにすぎない、自らに弁明しながらモラエスは、日本便所の使用が、すっかり板についた自分に満足する。

 下弦の月が内庭を冷たく照らし、長年丹精してきた盆栽類も手入れが怠りがちとなり、荒涼としたたたずまいに見えるのは、小便所の小窓からの外景という条件と、空気の澄んだ晩秋の夜半の季節感からだ、とモラエスは考える。しごく当然のことを考えたのは、生物学者らしい感覚や論理主義というより、詮索癖と理屈っぽさのせいであった。

 それにしても、くだらないことを、あれこれ思いをめぐらす余裕があるのは、それだけ用便時間が長くなったのだ、と気づいてモラエスはおどろく。

 竹柄杓を器用に使って手を洗う。手水(ちょうず)の飛沫が、思いがけないほど大きい音をたてる。南天や八つ手を密植したその辺は、月の翳になって黝々としている。寒い、と呟いて彼は急いで引き返した。

 

 仏壇の戸をゆっくり閉ざす。

 なかに飾った、おヨネとコハルの小さな写真は、いたずらっ子をとがめるような目つきで、微苦笑を浮かべ、呼びかけているようだった。両手に、仏壇の抽出から取り出したガラス管をにぎったモラエスは消灯してから、部屋の隅にひっそりすえられている仏壇を振り返った。

「コハル、おやすみ」

 声に出して言って彼は、急な階段に足をかける。十一文半の足には華奢すぎる階段がきしみ音をたてる。両手にした六本のガラス管の感触が快い。

 三毛は、もう、乱れた寝床の上に帰り、不在の主のぬくもりを懐かしむようにまるくなっていた。ゆっくり二階へ引き返したモラエスの影が、行燈がゆらぐたびに大入道のようになり、壁いっぱいに倒影する。

 行燈はいいものだ、と思う。

《「行燈」とは漆塗りの(わく)に紙を貼った、円や円筒型のもので、種油を使う簡単なランプなのだ。まことに「行燈」は優雅なもので、そのなごやかな淡い光や夢のようなおぼつかない光は、火鉢を囲んでやさしい言葉を交したり、粋な女たちが巧みに弾く三味線に聞き入るときなどにはふさわしいものだ(花野訳)》

 ずいぶん昔だが、行燈のことを「徳島のつれづれ」のなかで、母国の人びとに伝えたことがある。でも、このよさは、実際に使い、この燈影の下で、やさしい日本の女と、とりとめもなく語った者だけが識るものかもしれない。

 ヨネも、この短檠(たんけい)のほのかなあかりを好んでいた。あたたかく優しい、ほのぼのとした感じがただようのを。

 机の前の座蒲団を引き寄せると、寝床と机との狭い間に座り、脇息に片手をのせた。誰も見ていないからあぐらだ。袷の裾が大きく開いた下手なあぐら。袷はところどころほころび、綿も少しはみ出している。肩にひっかけている殿中(でんちゅう)も同様だった。ユキに言えば縫ってくれるのだが、また何がしかの小銭を与えねばならない。洗い張りして縫いなおすと言い出して、二円は要求するだろう。<裁縫だけは苦手だ>苦笑しながら、はみ出した綿をひきちぎって捨てる。ほころびた着物の裾に、毛むくじゃらの、肉食で養った過去を持つ太い脛があった。

 炎がゆらぐ。

 ちょっと行燈をみつめ、安心したようにモラエスは、手にしたガラス管を畳の上にならべる。畳も古びた。青畳の匂いや感触をたのしんだのも遠い昔である。疑心暗鬼の生みだす、いやなヤツはもう現われないだろう。仏壇から持ってきたガラス管は、そのための護符である。

 夜ふけはモラエスだけの世界……。いや、もう一人いる、ヨネだ……。

 亡霊ではない。追憶の世界はモラエスの世界……。六本のガラス管のなかにヨネがいる。ガラス管は、すべて反魂丹の空き殻――。透明のガラス管のなかに福本ヨネが実在し、ガラス管のなかからヨネが出現する。神戸時代の三十歳ころのヨネ――。いや、いつも彼の望みどおりの年齢であらわれるヨネ。つぶし島田に大島の髪油を匂わせ、薄化粧の顔にはじらいを添えて……。

 

     

 

 大名縞の模様のついた丹波ちりめんのお召。ヨネが気にいっていた外出着である。足袋の白がモラエスの目に沁みる。

 帯をしごく音がする。帯が畳をする。帯が落ちる。しごきが何本もほどける。着物が(くう)に浮かび、一瞬ひるがえって落ちる。あふりで心持ち灯影がゆれる。(えんじ)の長襦袢の背をみせて、ヨネは手早く着物を畳んでいる。畳みながら、いつもの、かろやかな声で彼女が話しかける。静かな、ゆったりした口調だが、幾分陽気であった。

 ――結婚式の夜ね。覚えていらっしゃるかしら……。覚えていらっしゃるわね。そら、黒紋付の着物をお召しになって……。あなたの和服、とっても似合っていらっしゃったわ。でもね、あんなふうに、あたしと三三九度のお盃ごとをしてくださるとは思いもかけませんでしたわ。黒紋付はよかったんだけど、澄ましこみ、神妙な顔つきでしたわ。きっと、緊張していらしたのね。そのせいかしら……、盃ごとの所作は上出来じゃなかったわ。大きな掌が震え、お酒が袴にこぼれて……。あたし、おかしくなって、笑いを押えるのに一所懸命だったのよ。大きいあなたと、小さなあたしが正面に坐って、日本ふうに挙式したのは傑作でしたわ。笑っちゃいけない、笑ったらだめ。いま笑ったら、なにもかもおじゃんになるかもしれない。あたしは、そればかり思っていたの――

 ニコニコ耳を傾けていたモラエスが口を挟む。

 ――得意になって、いや、面白がってかな。昔は黒紋付をよく着たものだったな。そら、覚えている。ポルトガルの世界一周巡洋艦、「サン・ガブリエル」が神戸に寄ったときね、「常盤花壇」へ乗務員を招待したことがあったろう……。純日本式料亭で、日本ふうに接待したものだから、さすがの荒くれたちもびっくりしていたっけ。今でも、よく覚えているんだけど、あの晩おれは、黒紋付の羽織袴で挨拶のスピーチをしたんだ。日本の着物を着て、ポルトガル語をしゃべるのは変てこでね、吹き出しそうで困ったものだった。あのとき、ヨネは綺麗に黒紋付を着せてくれたのだったな。もうおれは、一人で着物が着られるようになったんだよ。ずいぶん勉強したことになるね――

 ――そうね。偉いわ。でも、あれからもう十何年ですもの。あたしが死んで、そう、ちょうど十八年ですもの――

 蒲団にもぐりこもうとしていたモラエスはギクリとなる。

<ヨネ、いけないよ。それを言っちゃ。歳月と生き死にを語るのはタブーのはず……>心に呟いてヨネをみつめる。

 ――そうでしたわ――

 ――そうだよ。ヨネはここにいるじゃないか、ちゃんと――

 ――ええ、あたしはいますわ。あなたのなかに。だから、今夜も、こうして――

 ヨネの体がすべり込んでくる。

 ――あなたが、一番りっぱに見えたのは、神戸駐在各国領事の代表として、神戸市庁落成式でご挨拶なさったときよ。あたしには、外国語はわからないけど――

 ――あのときおれは、フランス語で祝賀演説をしたのだった。フランス語だと、語感がとても美しいのでね。それに、あのころ使っていた通辞のミスター青山は、フランス語の通訳がうまかったからね――

 ――そうでしたのね。その話、前にうかがったことがありますわ。青山さんて、いい人でしたね、あたし今でも覚えていますわ――

 ――神戸の市庁舎落成式というと、ヨネと一緒になって何年目くらいのことだったかな?

 ――そうね。ちょうどあたしが三十五でしたわ――

 ――また、年のことをいう――

 ――ほんと。でも、あなたの方から――

 ――そうだったな。ところでね、さっき話に出た黒紋付、おれは、あれをどうしたんだろうね。神戸を引き払うとき、いろんなものを人にくれてやったので、たぶん、そのとき誰かに……。おトラさんが持っていったのかな。それともミスター米沢に――

 ――モラエスさん、あんた、ほんとうに忘れてしまったの――

 胸にくっついたヨネの顔が、顔全体で笑いの波動を伝える。

 ――思い出せなくって…?…。教えてあげましょうか。記念の着物だからって、あたしの寝棺に入れてくださったのよ――

 モラエスは、呀っ! と思う。そんなことまで忘れてしまっているのだ。《残されたものの苦しみを救う方法が一つある。忘却だ。忘却の彼方へなにもかも押し流す。だが、わたしは、この恥ずべき忘却という卑劣な手段に身をゆだねたくない。苦しくとも――どんなに苦しくとも、追慕に生きる》と、ヨネが死んだのちに書いたことがあるが、記憶の襞から、いつしか剥落し、まったく消え失せている重大な事柄がいくつかあるらしい。耄碌したものだ、と自嘲する彼の耳に、

 ――でもしかたないわね。モラエスさんとのことだけ追憶して、ただ、じっとしているあたしだけど、楽しかったことやうれしかったことしか覚えていないの。つらかったこと、苦しかったことは忘れてしまって――

 と、ヨネの声が耳朶をくすぐる。

 ――楽しいことばかりだったのだよ。もっとも、ヨネは病気に苦しめられたかもしれないけれど、少なくともおれの方は、毎日毎日が楽しかったな――

 ――あたしも。でもネ、あたしが一番楽しかったのは、あなたの胸に、ゆっくりと、優しく抱かれてねむったとき……、最初借りた海岸通の家でも、加納町のあの家でも、こうして――

 ヨネは、モラエスに体を託して目を閉じる。モラエスは、うっとりと過去の世界に生きている。手にはガラス管のなかから取り出したヨネの遺髪があり、指先がそれを優しくまさぐっている。

 遺髪は、ときどき取り出して愛撫するため、いたんで変色している。十八年を経たそれは、嘔吐を催すような悪臭があるはずだが、モラエスは気にならない。自ら遺髪を切り取り、小さな紙片に、"ヨネノケ""ヨネノカミ"と書き、ガラス管に貼ったとき、"ヨネノケ"と書くと、ハーンの『怪談』や『源氏物語』の抄訳などでえた知識である"もののけ"などへ連想がいくので、苦心して"毛"という漢字を練習したことを思い出す。

 今は漢字もだいぶおぼえたが、あのころは、ほんのわずかしか知らなかった。"毛"なんて、おぼえてしまった現在だとやさしい部類に属する字だが、辞書をたよりに一人で習うのは大変だった。"髪"という字はついに書けなかった。結局"髪"はカタ仮名で書いたのだが、それらの紙片もインクの色があせた。死に結びつくことになった発作の日、その日は敦盛塚へ散策したのだが、出掛ける前までヨネは縫物をしていた。帰宅したら、その縫物をつづけるつもりだったのだろう。遺品となってしまった名残りの糸と針とを、一本のガラス管にいれてある。その糸は朽ち始め、色も変わってしまった。

 ガラス管は、すべて反魂丹の空き瓶である。ヨネがのみ、コハルがのんだ……。六本の試験管に似たガラス管には、頭髪、脇毛、爪、糸と針が入っている。あとの二本は恥毛で、長いものと短いものとを、二本に分けてある。

 ――あなた……。ネエ、出雲へいらっしゃったほうが、お倖せだったのじゃなかったのかしら――

 ふとモラエスはわれにかえる。寒い。ひどく寒い。愛撫している形見の恥毛は、長いものばかりを集めた方だ。今夜はずいぶんヨネと語った。

 ――ばかなことを……。もし出雲へ行っていたって――

 モラエスは力なくつぶやく。遺毛をまさぐっている指先が冷たい。

 ――今晩は火鉢にお火がないのですね。寒いでしょう。とっても冷えるのに――

 ――いいんだよ。ヨネさえそばにいてくれたら――

 ――でも――

 ――着物をたくさん着込んで、足袋を穿いて、三毛ちゃんを炬燵(こたつ)代りにすれば、そう寒いとも思わないのだよ。火を使うのはやめたんだ、危いからね。ほら、見てごらん、指先がこんなに震えているだろう。炭火を扱うのは、とっても危いと思ってね。そのうち、行燈だってやめなくっちゃ、と考えているんだ。火事でも起すと大変だ。何しろ日本の家は、紙と木ばかりでできているのだから――

 ――姉さんが、炭を買ってくれないのでしょう。それに、火を扱っちゃ危険だと言ったのでしょう……。火事になったらどうします、とモラエスさんをしかりつけてーー

 ――そりゃね、ユキさんも言ったよ。しかし、炭にしろ油にしろ、ユキさんが買ってきてくれなくなったって、手に入れようと思えば簡単なんだよ。玄関先へでも、軒先へでも、「スミトセキユ トドケテクダサイ。タケイチショウテンサマ」と書いて貼っておけば、家の前を御用聞が通るんだから……。その辺で遊んでいる子供たちだって、頼めばそのくらいのおつかいはしてくれるさ。でもね、まったくユキさんの言うとおりだ。おれだって、実際危険だと思うから、火を扱うまい! と決心したんだよ。近所の人たちを、火事なんぞに巻き込んでは大変だものね。ヨネだってそう思うだろう――

 ――でも、ユキ姉さんたらひどいわ。炭火が危いと思うのなら、湯たんぽでも何でも、ちゃんと用意してくれたらいいじゃない……。モラエスさんも、そう言ったらいいのに。悪い風邪でもひいたらどうするのです。寒くなるのよ、これから――

 ――大丈夫だよ、そんなに心配しなくったって――

 長く語ったので、ヨネは疲れたらしい。黙り込んで、じっと体をもたせている。モラエスも疲れた。ヨネと対話して、疲労を覚えるのは久しぶりであった。

 ヨネの胸へ片手を入れる。柔かい円ろみに触れる。もう一方の手のなかに、小さなヨネの体がある。柔肌がぴたっと彼の胸にくっついて……。

 手にしているのは、実は遺毛である。だが、追慕の織りなす幻は際限もなくひろがり、モラエスの夜を蠱惑(こわく)的にする。身も心も潤ってくるのをモラエスは感じる。ガラス管のなかの遺品はいつものように彼をエクスタシーに導く……。

 

<マリーア、マリーア>

唇から初恋の人の名がもれた。

無意識のうちに、ひとり口を衝いて出た言葉だった。おヨネの遺品を握りしめていた手がとまどう。ふつふつと熱い血が湧き上ってきた。遠い昔だ、マリーアも死んだ。心に言いきかせてみても、苦汁の思い出がよみがえる。

 目が壁間に飾った<十字架>にいく。

 走馬燈のように、思い出が駆けめぐる。

 連想が永原デンに飛ぶ。先刻、彼女の手紙のことを考えていたからだな、と思う。それとも、マリーアに裏切られたことと、デンを裏切ったこととの対照的な事件が、裏切という行為を軸に連想を喚ぶのであろうか。

<今夜は、どうもおかしい。マリーアやデンのことを、あれこれ追憶するなんて……>

 とモラエスは不安を覚える。もっと現実的なことを考えよう。

 目を閉じて彼は、日本人が応接机と呼ぶ丸テーブルの上のものを、一つ一つ思い浮かべてみる。短冊箱。絵葉書たて。木彫の巻煙草入れ。達磨形にくりぬいた木の灰皿。牝兎と牡兎の焼物。北側の壁にそった書架に溢れた書物。そのあたりに置いてある人形や置物。東の窓の下は、蒐集した貝類の標本棚。ヨネが使った鏡台もある。座机の上は硯箱と原稿の書きさし。高い机の上には、オルゴール、望遠鏡、日本刀、立体覗眼鏡などのガラクタが雑然とのっているはずであった。

<将軍ノギの胸像は、壁に掛けた方がいいかな>

 椅子の上で眠っていた三毛が、寒いのだろう、脱兎のごとく飛びおり、蒲団の裾へもぐり込んできた。

 回想をたち切ってモラエスは、おそるおそる首を起してみる。首すじに隙間風が触れる。もの悲しい遠吠えが、今夜も冬空を震わせている。心配していたとおり、腰に痛みがやってきた。激痛の予感に怯えながら、うす暗い室内を見回す。電灯を消して行燈を愛用しているのは、瞑想にふさわしいからだが、炎がゆらぎつづけ、燈芯のジージーイ、ジージーイと燃えつきる音は、衰えゆく虫の鳴き声に似ている。

<行燈も今夜かぎりにしよう。おれは、もう不具者同然なんだからな>

 内心で呟いてモラエスは、目の前で行燈が倒れ、あたりへめらめらと燃え移るのに、半身不随で体がきかず、大火になってしまう光景を想像する。苛立しい思いで焦燥し、遂に自らも火炎のなかに巻き込まれて、紅蓮のなかで悶死する姿まで見える気がした。

 毎夜恒例になってしまった疼痛がきた。

 ぶつくさ呟いていた声に、呻き声がとって変わる。マリーア、十字架、カソリック。亜珍、ジョーゼ、ジョアウン――デン、裏切、無心状。火鉢、行燈、火災――死と、とりとめのないイマージュの断片が頭のなかをかけめぐる。

 今夜は、どうも変だ、と再びモラエスは考えた。生も不安、かつ苦痛だが、死はなお恐ろしい……。行燈の消えた闇のなかに、孤独がいっぱいひろがって……。

 長い海洋生活に耐え、鍛えに鍛えてきた体だ、いわば筋金がとおっている。しかも、一貫して規則正しい生活をおくってきた。この体が、そう簡単に朽ちてたまるか! 祈るような思いで、腰を撫でながらモラエスは、周囲から殺到する恐怖とたたかう。

 この肉体が亡びるものか……。運命に反逆するように叫ぶ。唇は、いつしかナムアミダブツ、ナムアミダブツ……、と唱えている。念仏を唱える彼の内部で、日本移住以来信仰している仏教と、リスボンへ捨ててきたカソリックとが葛藤していた。

 

<西洋乞食の、のたれ死に……>

 自嘲するように、"西洋乞食"とモラエスは呟いてみる。

 徳島の人たちが、自分のことを"西洋乞食"と呼んでいることを知ったのは六年前の、一九二二年(大正十二年)十一月二十八日のことである。三度も会ったことのある明治大帝の孫、摂政裕仁の徳島巡幸をかいまみて、英明といわれる青年皇太子の多幸を祈ろうと、深く頭をたれた市民の群に混じった彼は、世界の帝国主義国家に伍して、ぐんぐん頭角をあらわしだしたこの国の、国威と国力とが、ここに参集しているような、日本じゅうの民衆の「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を代償として、やっとあがなわれたものであることをぼんやり考えていたのだ。

「こらっ! あっちへ行け! こんなところへきたらあかん!」

 突然、警官からどなられ、「西洋乞食め、近よるな!」「けがらわしい!」と、群集の罵倒と投石で、追われる野良犬のように逃げ出した。なかには、「シーッ、シーッ」と、犬猫を追うと同様の声をだす人があった。

 あの人たちの目、目、目……。

《ポルトガルの田舎で、着物姿の日本人が歩いているのよりは、私はここ徳島の人びとに愛されている(花野訳)》と、好意的に書いたことのあるモラエスのなかに、"独探"とさげすまれ、迫害されたころの屈辱がよみがえったものである。

 その屈辱の時代にだって彼は、日本人を愛し、日本人を理解しようとつとめたものだ。

《無知な日本の庶民には、ヨーロッパ人はすべて有害なものとして映る。紅毛碧眼の白人というだけで……。ちょうど、蛇と蝮とが似ているために、無害なる蛇もまた憎悪を受け、蛇蝎視されるように。まったく無害である私もまた、白人であるが故に嫌われる》

 のろいの小石で額を割られ、玄関に投石されながらも、《旺盛なる日本人の愛国心の発露は、さらに白人に対する人種的な敵意、敵愾心となって燃えさかり、愛国的自負心に昂められる》と賛美さえした。

 ヨーロッパ人が珍しい徳島では、「毛唐人やーい」とか「やい! 唐人!」などと、下賤な言葉を浴びせられるのには慣れていたが、"西洋乞食"と呼ばれていることは、彼にとっては一種のおどろきであった。物乞いをして生きているわけではないが、貯金利子と印税で食っているのを知らない市民の目からすれば、ぶらぶらしている西洋人は、乞食にも見えよう。<スパイの嫌疑がやっと消えたら、今度は乞食か……>皇太子に危害でも加える危険人物――、とでも思ったのだろうか。それにしても、"けがらわしい"という一語は、完全に彼をたたきのめした。

 戸ごとにたてられた、日の丸のはためく町並を、とぼとぼ家路へ辿りながらモラエスは、外国人をまるっきり理解しようとしない日本人のなかで、自分が暮らす味気なさと、自らが漂泊の一異邦人であることを、はっきり覚らざるをえなかった。

 明治天皇に、三度拝謁の光栄に浴した、と徳島の人たちに話したらどうであろう。信じがたくて彼らは、トッパクロウと思うだろうか。トッパクロウとは、大嘘あるいはほら吹き野郎の意味の徳島方言である。信用しない者には、恩賜の煙草を証拠の品として見せたらいい。彼らは、きっと愕くにちがいない。今にして思えば、三度ももらった、あの桐箱入りの<煙草>を残しておけばよかった、などと、そのときモラエスは思った。<あなたたちよ、徳島の市民たちよ。あなたがたが西洋乞食と蔑視し、けがらわしいと悪罵したヨーロッパ人に、あなたがたが、最大の敬意を捧げている明治大帝は三度もお逢いなされたのだぞ!>心のなかで繰り返し、繰り返すことによってわずかに忿懣を慰めたものである。

<西洋乞食の、のたれ死に……>

 モラエスは、もう一度ゆっくり口に出してみる。旅先に病んだ芭蕉の魂魄は、どこの曠野を彷徨したのだろう。みちのく、あるいは武蔵野、はたまた北陸の荒涼たる海岸か…?…日本に住んだモラエスの、まるっきり知らない地方である。彼とは無縁にすぎた地方を、漂泊の詩人芭蕉は吟行し、旅に生き旅に死んだ。その旅も、どちらかというと淋しい地域を選んでいる。おびただしい門弟があったとはいえ、心さびしい人だったのであろう。《それにひきかえ、わたしの、日本における足跡は、だいたい南国的明るさに満ちた地方にかたよっている。ふんだんに緑また緑の、うっとり見ほれさせる山河や、空と海との藍に、身も心も染むような海浜――だった》南欧に生まれたのが故の性癖によるのであろうか。

《人生のいまわのときが迫って……》七つの海をめぐり、地球の片側ほとんどに足跡をとどめたにもかかわらず、旅先で病んでの夢は、大海原(おおうなばら)をかけめぐる壮大なものではない。日本の辺地を好んで歩いた芭蕉の小さな旅の方が、そして、いまわのときに、日本の吟遊詩人の脳裏にえがかれた夢の方が巨大で深遠である。《人生の旅路の果てに近づいて》モラエスは、痴愚ともいえる奇矯小心の気質に思いいたる。二十一歳のころ、短篇「ある狂癖のひめごと」を書いた時代から、ちっとも進歩していないことになる。《久遠の女性》を追い求め、女に振りまわされながら悩みかつ歓喜し、かつ苦しんできた女体遍歴の旅――、そしてヨネ。ヨネの死――。

《生ける人びとから逃れ》徳島に辿りついたというのに、まだ悩み、かつ苦しんでいる。《すべての希望の火が消え》つきようとしているのに。

 ――ヨネ。もう長くは生きられまい。約束どおりおれは、ヨネのところへきっと行くよ――

 今夜もまたモラエスは、己れの生命の火をかきたててくれるガラス管を握りしめている。泪を浮かべ、夢幻のヨネをかき抱き、弱音を吐きながら……。夢精にも似た陶酔と追慕のあと、空虚な疲労をもてあますモラエスの掌のなかで、ガジッ! 音たてて反魂丹の空き管が砕けた。掌にささったガラスの破片を、左手でとり除く。まるで、他人の掌のように感覚が鈍い。

 せっかくもり上げ、つくり出した蠱惑(こわく)の夜の雰囲気が急速にしおたれ、孤独と不安とが密度を濃くしてくる陰欝さのなかに、はたして七十四歳の冬が越せるか…?…と疑問が湧いてくる。西行法師の遺詠にならって、桜花の下で死にたい、と思っているのだが……。疼痛が烈しい。ヨネがいなくなった。

 またしても<あれ>、あの(いや)なヤツが現われるのだろうか……。

 冬が恐い。季節風の吹きすさぶ厳寒が……。悲鳴に近い呻き声をあげて輾転する。枕頭のガラス管が、その反動でころがる。

 助けてくれっ! 護符までが逃げる。

 

     

 

「これだけお残しになって、あと全部、おだしになるのですか」

 銀行員が、ゆっくりモラエスに問いかけた。

「ショウテス。ゼンブ……」

 出納台に体を支えたモラエスが頷く。

 毎月一回、利子相当額しか貯金をおろさないモラエスにしては、今日の払い戻しは高額である。曖昧な微笑のなかに、困惑の表情をただよわせた若い銀行員が、払い戻しの意図を探ろうとするような目つきを一瞬くずす。

「承知いたしました。しばらくお待ちになってください。」

 慇懃に頭を下げる。そして出納係は、支店長の机の方へまっすぐ歩いていく。

 とりなおしたステッキでよろめく足を支え、待合椅子へ寄りながらモラエスは、若い出納係の背をみつめる。

 座高の高いモラエスは、待合用の長椅子に掛けていても、カウンター越しに、支店長とその銀行員が、何か話しあうのが望まれる。

 去年の四月に起った金融恐慌を、全国の銀行の二日間一斉休業と、田中政友会内閣による三週間の支払猶予勅令(モラトリアム)とで乗り切ったものの、なお恐慌をつづけている経済界の事情を知っているモラエスは、年末を控えた今日、この地方銀行で、いきなり二万八千円の貯金を払い出すのは困難かもしれないと思った。一番打撃を受けている徳島銀行では、去年の臨時休業のあと、四国銀行の援助下にかろうじて営業していたが、今年五月、遂に阿波商業銀行と合併した。そのほか、小さな貯蓄銀行あたりでは、混迷と動揺をつづけているという。

 支店長の顔が曇っている。額が険しい。

 いくらか蒼ざめ、緊張した顔の支店長が、若い銀行員を先にたてて土間へおりて来た。

「ここでは何ですから、どうぞお上りになってください」

「さあ、どうぞ」

 丁重な物腰だが、思いつめたふうな、一種の強引さがあった。モラエスの予想どおりだ。銀行貯金を危険だと決め、全額引き出しにきた……、とでも思ったのだろう。支店長も、若い銀行員も、おかしいほど狼狽している。

 大銀行ならば、さしずめ応接間で用談というところだろうが、ここには、そんな気のきいた部屋はない。支店長机の横の狭い空間に、来客用の椅子が二、三脚あるだけである。銀行員に片手をあずけ、不自由な歩を運んだモラエスに、支店長が椅子をすすめる。たどたどしい英語に、日本語も混じえて、支店長は慇懃に懇願する。当銀行は金融恐慌の余波による危険性はないし、払出しにはいつでも応じるから、緊急に必要でなければ何とか貯金をつづけておいて欲しい、……と。

 頷きながらモラエスは、英語とカタコトの日本語をしゃべる。しゃべりながら彼はめんどうくさくなった。支店長と一合戦までして、全額払い戻す必要もない。

「ああ、そうですか。それでは、二万三千五百円は残してくださる、とこう言うわけですか。それはどうも……。ごむり申し上げまして……。早速おききとどけくださってありがとうございます」

 ほっとした表情もあらわに、支店長はニコニコしながらもみ手をする。

 「ええ、よろしいですとも。法的な手続きさえできていましたら、この貯金はどなたにでもおわたしできますし、いつでもお支払いいたします。で、今日は、四千五百円だけお持ち帰り、ということでよろしゅうございますね。ほんとうにどうもかってなお願いをいたしまして……」

「四セン五ヒャクエン チイサイ オカネ クダシャイ。五エンテハンブン アト 一エン 五〇シェン 一〇シェン 五シェン 一シェン クダシャイ」

 支店長とモラエスの間にある唐火鉢に、真赤な火が(おこ)っている。支店長が早口で部下たちに指図し、あわただしく金勘定が行なわれる間、火鉢に手をかざしたモラエスは、黙って炭をみつめていた。

 炭火の燃えるのを見つめる……。火災を招くことを慮り、自ら暖をとることをやめているモラエスの目を、赤い火が射る。カッカと熾った火鉢の火が……。

 支店長机の上に重ねられた金を、モラエスは用意の信玄袋にいれ、書類に署名をすますと戸外へ出た。冷たい十二月の風が、土埃と枯葉を吹きあげる。寒風のなかで待ちくたびれた車夫が寄ってくる。モラエスは黙ったまま五十銭銀貨を二枚握らせた。車夫はおどろきの表情を示し、ついで卑屈に頭を何度も下げた。見事なお追従(ついしょう)笑いを浮かべた車夫は、抱えるようにして彼を人力車にのせた。

「まっすぐお帰りになるので……」

 車夫が振り返って訊く。長年ひいきにしている俥屋である。銀行の行き帰りに、いろんな用を果たすモラエスの習慣をのみ込んでいる。

 彼が徳島へきたころ、車夫はまだ若く、小気味よくいなせだった。言葉づきも身ごなしも、そして服装も(いき)であった。初めモラエスは、人力車をコハルに言いつけると、必ずこの車夫を呼んでくるので、コハルの情人を、この男か…?…と疑ったことがあった。もちろん疑いはすぐとけた。人力車で外出している留守の間に、コハルは決まって男のところへ駆けつけるのがわかったのである。車を曳いて走っている勇み肌の男が、コハルと忍び逢えるわけはない。それにしても、同じ俥屋ばかり傭ってきていたのは、この車夫のいなせな風体に、コハルが岡ぼれしていたからにちがいない。コハルの死後も彼は、ずっとこの車夫を呼んでいる。馴染というだけでなく、何となくこの男が気にいっているからである。

 車夫もずいぶん年を寄せた。老いた、というほどではないとしても、往年の(いき)でいなせだった風貌は薄れた。何しろもう二十年近いのだからな、とモラエスは思う。

「アブラカミ カイマシュ。アナタ オシエテクダシャイ。アメノトキ カッパニスル アレテス。アノアブラカミテシュ」

「へい」

 車は威勢よく、徳島の目抜通を走り出す。その背へ、

「ヒノデニモ ヨリマシュ」

 と声をかける。日の出楼の若布羊羹と、カタパンと呼ばれる駄菓子は彼の好物だ。カタパンは、麦粉でつくった砂糖気の少ない落雁風の菓子である。わずかに入った生姜(しょうが)が、阿波三盆糖の特徴とうまくバランスを保っている。自由に散歩に出歩いたころモラエスは、いつも、このカタパンを三十銭ずつ買ったものだが、菓子の買い置きも()絶えがちの昨今である。

<人力車で、街を走るのも最後かもしれない>

 眉山の緑を仰ぎながら、車上のモラエスは考えこむ。

 町並がうしろへ飛び、眉山が家並の影に隠れる。三十四銀行前から、車は一路南に向かって走る。走る俥の上でモラエスは、膝の上へ載せるには重すぎる信玄袋を、座席の横において、ただ何となく押さえつけていた。

 

 自宅の前で俥を帰したモラエスは、裏口の錠前をはずしてなかへ入ると、急いで戸締りをした。どこもかしこも閉め切っているので、家のなかはうすぐらい。買物の品を包んだ風呂敷包みと、金の入った信玄袋とを長火鉢の傍へ置いた彼は、無精椅子と名づけている籐の寝椅子に体をなげかけた。籐椅子は確かに安楽だが、そこから立ち上るのを大儀にさせ、積極的な行動をそいでしまう。

<一応これで、用意はととのった>

 と呟いたモラエスには、大仕事が終ったときのような安堵感があった。久しぶりの外出だったにもかかわらず、疲労はあまりない。銀行へ行って来なくては……、と思いつづけていたのを、やっと果たしたからである。それに今日は、朝からユキが休んでいるので、ちょっとした解放感があるうえに、不思議に疼痛だってない。

 昨夜までのモラエスは、まる十日も遺書を書くことに全力を傾けていた。遺産の分配やら、死後の処理に関する希望やら、ずいぶん長文の遺書になった。

<もう、いつ死んでもいい>

 ほんとうにモラエスは思った。書かねばならぬと考えつつ、遺書を書かねば……、ということに怯え、一日のばしにしてきたのだが、やはり手の動くうちに仕上げねばならなかった。籐椅子に転がったまま、ぼんやり瞑想に耽っている彼の耳に、城山の頂上で打ち上げる午砲(ドン)が響いてきた。遺書はでき上がったが、まだ何か為残したことがあるような不安がわいてきて、無精椅子の魔力から体をもぎ離す。

夢遊病者のようにモラエスは、信玄袋を持って二階へ上って行く。裏窓の雨戸をわずかに開いた彼は、銀行へ出かける前に手文庫へしまった遺書を取り出し、丁寧に机上へひろげる。

埋葬は、絶対キリスト教様式によらず、純然たる仏式によって、徳島で火葬にすること。所有の蔵書、版画、掛軸、額の類を、徳島県立光慶図書館へ寄贈すること。

仏壇を、慈雲庵主の智賢尼に託して追念してもらうこと。

 ここらあたりは、おそらく問題ないであろう。古武士のような風貌の、温厚な図書館長の顔が浮かぶ。十一月の初旬に、ショウゾウ・サカモトが訪ねて来たことがあったが、それっきり会っていない。とうとう、岡本韋庵を偲ぶ会の話はききのがした。いずれにもせよ、愛着をこめた蔵書を託すに、ショウゾウ・サカモトはふさわしい人だ、と思う。

 仏壇をあずけようと思っている智賢尼は、「においなし」という短篇で、母国の読者に紹介したことがあったし、大谷という梅の名所の近くにある尼寺慈雲庵へは、二度ばかり杖をひいたことがある。仏壇を預かって欲しい、という意志はすでに伝えてある。

「そりゃ、お仏壇はお預かりしますわ。でも、斎藤様が何とおっしゃるか……」

 その話をもち出したとき、智賢尼はそんなふうに答えた。

「ブツダン。ワタシ カイマシタ。ワタシノモノテシュ。アナタ オネガイ シマシュ

力をこめていう彼に、尼は微笑して頷いたものである。

 一昨年の春、梅林を見がてら訪ねたとき、

「ワタシ シニマシタラ ココニウメテクレマシェンカ。ココキレイ ワタシ キニイリマシタ」

 さりげなく切り出したときも、尼は微笑して頷いた。

「ええですとも。でも、お体をだいじにしてください」

「ダイジョービ。ダイジョービ」

 不安の翳が、智賢尼の微笑のあとを通るのを見て、大丈夫だと力説し、彼も笑った。

「ワタシ カエリマシュ。アクシュ シマショウ」

 はにかみながら尼は、ぎこちない仕種で手をのばした。蒼く透きとおるような小さな手は、彼の掌にすっぽり入った。

「サヨナラ……」

 慈雲庵の前庭から、村道へ下る坂道をスタスタとくだった。智賢尼は、いつまでも立って見送ってくれる気配だったが、彼はわざと振り返らなかった。<何でまたおれは、握手など求めたのだろう。世捨人同士なのに……>尼の掌のぬくもりを懐かしみ、いとおしく思う不徳な気持が動き、彼は独り狼狽し、心持ち頬を(あか)らめたものである。

 その日からのちも智賢尼は、ヨネとコハルの命日に必ずやってきた。だが彼は、仏壇の件も、慈雲庵の片隅に埋葬してもらう件も、再びは口にしなかった。ひとこと書き添えておけば、あの日のことを、尼はきっと思い出してくれるはずであった。

 できれば灰はコハルの墓に埋めてもらいたい。墓石は別に要しない。コハルの墓石の裏面に、名前と死歿の年月日を、日本文字で刻むだけでたりる。ただしこれは、あらかじめコハルの母、斎藤ユキの同意をえて実行すること。万一同意が求められない場合は、そんなことはまずあるまいと思うが、そのときは、きわめて質素な墓石に、簡単に名前と歿年を日本文字で刻み、全費用八十円を越えない範囲で、わが愛する妻、福本ヨネの墓にできるだけ近づけて建立すること。これもできないときは、灰を智賢尼に託して、同庵の適当な場所に埋めること。

<これでいいだろう>

 英文の遺書を読み返しながら思う。

 しかし、「わが愛する妻、福本ヨネ……」という意味が、死後のあと始末をしてくれる人に通じるだろうか…?…、と不安がよぎる。

 コハルの墓に埋めて欲しいというのは、そこからだと、ヨネの墓がちゃんと望めるからなのだが……。「わが愛する妻、福本ヨネ」という意味を、正確に受けとめてくれる第三者はないだろう……、残念ながら。

 そこで、やむなくコハルの墓へ……、なのだが、難関はユキである。

<おれの財産が、自分のものになることを期待しているユキに、遺産を贈らないのだから、ユキはおれの骨を拒むかもしれない>

 ユキにはやらない。あれほど思いつめ、決心して書いた遺書だったが、もしゆとりが生じるようならば、いくらか贈るよう付記した方がいいかもしれない。仔細に検討を加えながら考える。強欲なユキだ。一銭ももらえぬとわかったら、コハルの墓へは入れてくれまい。おれが金を出して作った墓だけれど……。

 ポルトガルには何等財産なく、遺産は、伊賀町の家にある動産類その他と、三十四銀行徳島支店の貯金二万三千五百円。現在借金はひとつもないが、将来負債が生じた場合は、死後ただちに支払って欲しいこと。

 家のなかにあるものは屑屋に売り払うこと。無価値なものは、焼却その他の方法で廃棄してもいい……。

 あれこれと思案しつづけてきたものだけに、遺漏はないようだった。

 貯金二万三千五百円の配分は、永原デンに一万円。ジョーゼとジョアウンの二人に五千円あて。慈雲庵へ仏壇の永代供養料として五百円。家のあと片づけに三千円をあてる。三千円あれば充分だと思うが、いくらくらい要るのかちょっと見当がつかない。亜珍にはやらない。ユキにも遺さぬつもりだったが、残金が生じるのならば、それをユキに与えよう。<五百円くらいなら残るかもしれない>三千円のなかには、そのていどの余剰金ができそうであった。

 すべてを清算したうえ、余剰金が生じたら斎藤ユキに贈ること。ただし、残金ができなければ贈与しなくてもよい。ユキには、生前いくばくかの金は与えてあるから……。

 遺書の末尾に、そうつけ加え、やっとモラエスは安心する。

 夜ごと現われて、不眠がちのおれを苦しめた金の亡者も、きっとこれで姿を消すであろう……。それに、いくらかやらぬことには、コハルの墓への埋葬を承知すまい……。

 何度も遺書を読み返し、検討をくり返していたモラエスは、思い切ったふうにペンを持った。

 一九一九年八月一二日

 思案にくれていた遺書の日付だ。

 一九一九年八月一二日に意味があるわけではない。ただ何となく、十年前に遺書ができていたように作りあげただけだ。早くから死を覚悟していた、とこの日付から、あと始末にあたってくれる人びとは信じるだろう。モラエスは満足した。

<六十五歳の夏、すでに遺書ができていたことになるのだが……>

 と呟き、七十五歳の夏まで生きられまい……と思う。<この冬が大変だ>暗澹とした気持になる。遺書を厳重に密封しながらモラエスは、近づいてくる一九二九年を、死の足音のように感じる。昭和四年がそこにきていて、人びとは、一週間後に迫った元旦を迎えるためにあわただしい。

 烈しい北風が、樹々を震わせて通りすぎる。火の気のない部屋はジーンと冷えてくる。ふと、昼食を忘れていたのに気づき、風呂敷包みのなかにカタパンがあるのを思い出す。身ぶるいしてモラエスは、あわてて殿中(でんちゅう)を着込み、肩に外套をひっかける。

 寒い……。

 ジョーゼとジョアウンの出生証明書を手文庫から取り出し、所定の手続きをとってきた貯金通帳と、厳封した遺書二通を、先刻買ってきた油紙にくるみ、丁寧にひもでしばった。油くさい匂いが、七十歳の誕生日の日、ジロウ・コイデと雨中を鳴門に遊んだ追想を喚び、ついで、四国遍路の姿を連想させた。へんろたちは、荷物にならなくて安価である油紙を、雨合羽代りに携行し、雨天に遭遇すると背にはおる。

 ――西洋へんろ、西洋乞食、西洋へんろ――。

 歌うように呟いてからモラエスは、厭な思いをふり切るように急いで立ち上った。西洋乞食と呟くたびに、あの日の、うちのめされた屈辱がよみがえるのだ。城山の貝塚発掘の日――。そして、皇太子の徳島巡行の日が……。

 痛みのやってこないうちに昼食だ。よろめく肢体をふみたてて、モラエスは階段に向かう。

<火の気を自ら絶ったおれはしかたないが、三毛はつらかろう……>

 振り返って愛猫を探す。どこかへ散歩に出かけたのか、三毛の姿はない。閉め切ってあったはずだのに…、と鈍い頭の片隅で思う。外套がずり落ちそうになり、あわてて肩へ手をやって押える。急に手を動かしたせいで、右肘に痛みを感じる。

 肩にひっかけた外套は、遍路の雨合羽に似ている。まさに西洋乞食だ。聖蹟巡礼といえばきこえがいいが、四国めぐりの巡礼は乞食同然だ。同様におれも、愛の巡礼とは名ばかりで、異国に老いさらばえた一人のへんろにすぎぬ。階段の途中でひと休みしていたモラエスは、微苦笑しながら階下へおりて行く。

 

     

 

 冬の午後を、籐椅子でぼんやりすごしたモラエスは、夕食後、二階の書斎兼寝室で机に凭れ、死をめぐるあれこれについて考えてみた。

 おれが死んだからといって、ペトロ・ヴェンセンテ・ド・コートやスーザー総領事が駆けつけてくれるとはかぎらぬ。あと始末をしてくれるのは、おそらくこの四軒長屋に住む隣人たちと、二、三の徳島の知友であろう。遺書は、神戸駐在ポルトガル総領事と徳島裁判所とに宛てるが、親しい隣人たちにも、徳島で火葬にしてもらいたい旨を伝える必要があるかもしれない。

 古びた西洋紙の、メモ用に裁断しようと思っていた紙をみつけ出したモラエスは、机上の傾斜した、ふつう簿記机と呼ばれる座机の上に、その紙をひろげた。ほぼ新聞一枚大の用紙に、三段にくぎる横線をひき、上段にポルトガル語で、下段に英語で、そして残った中段に訳文を書いた。

 ワタクシハ モシモ

 シニマシタラ ワ

 タクシノカラダ

 ヲ トクシマ 

 ニヤイテ クダサレ

 トクシマ

 大正二子ン七月廿九日

      モラエス

 文は以前から考えてあった彼流の辞世だった。年号を大正と書いたのは、昭和という年号より、大正の方が親しみ深く、書き慣れているからであった。大正二年の七月とは、彼が徳島へ移住した直後である。結果的にいって、徳島に骨を埋めることになる運命を考えると、最初からここの土となるつもりだった、と明示しておく方が、あと始末にあたってくれる隣人たちへの、せめてもの礼儀だ……、と彼は思ったのである。

 書き上げた紙を、一階玄関の間の東南隅の、南面の壁にアラビア糊で貼り、その上を風呂敷で被いかくし、風呂敷は画鋲で押えた。

 それを、しばらく眺めてからモラエスは、戸締りを点検し、二階へ上った。

<すべて完了。だができるだけ生きたい>

 万年床の上にころがった彼は、死の準備を終えた安堵の底から、猛烈な生への要求がくすぶってくるのを感じた。

<もうこのうえは、指先の動くかぎり著書に手をいれ、できるだけ誤りを正しておくことだ。おれの死後、母国で再版が出されることもあるまいが、徹底的に筆を加えておこう>

 新しい著述への情熱を失ってからモラエスは、手許にある著書の加筆訂正をぼつぼつやっている。ポルトガルの印刷屋は、まったく誤植がひどい。同じ単語を二つも三つもダブって拾ったり、同一文章を二行も三行もならべて刷って平気だ。そのうえ、国外に住む彼の場合、校正は他人まかせだったから、誤植はことにひどかった。

<文字に対する愛情がうすいのだ……>

 彼は、文字をたいせつにする日本人の言語への身構えと、文字に冷淡かつ無造作なポルトガル人気質との差を、印刷物の活字にみる。

 化粧の匂いが、かすかに漂ってきた。

 ヨネがおとずれたのであろう。

 モラエスは、つとめてゆっくり目を開く。入口のところにコハルが立っている。

 ――何だ、コハルなのか。ヨネかと思っていた――

 コハルは悲しそうな表情だ。消え入らんばかりの風情である。

 ――モラエスさん。あたしを許してくださいね。それに、ほんとうは二階はきちゃいけなかったのでしょうけれど……

モラエスは答えなかった。

 ――あたし、今でも後悔していますの。ほんとうよ。きっぱり言えるわ。それから、こんなこと言える義理合いではないんですけど、母を許してやってくださいね――

 震えながらコハルが訴える。なぜ彼女は震えているのだろう……。おれに気兼ねしているのか、それとも恐れているのか。

 ――今ごろ、なんだってそんなことを言うんだね。おれは、何も怒ってなんかいないよ。許すも許さぬもないだろう。コハルに罪なんかない。おれはそう思っているんだ。それに、ユキさんだって、別に何も悪くないよ。ずうっと親切にしてくれるしね。もっとも、勝気で頑固な性質は、近来ますますひどくってね。まあユキさんも年をくったからな、むりもないだろう。おれの方だって、年寄ってずいぶん気が短くなったな。意見が対立したり、小さな衝突を招いたり、そんなことはあっても、これはまったく老いのせいでね。おれは、ユキさんに対して怒ったりなんぞしていないよ――

 ――でも……

 ――大丈夫だよ。最後まで、必ずめんどうをみる……と、ユキさんも言ってくれているし、おれもそうしてもらうつもりだ。今日もね、いろいろ考えたあげくなんだけど、ユキさんに、お金をあげられるよう、遺言状に書き添えておいたよ。昔とちがってね、おれもすっかり貧乏になってしまって、そうたくさんはあげられないけれど……。わかったろう。ユキさんにおれが感謝していることが……。安心していいんだよーー

 ――あたし、モラエスさんがお気の毒で……

 ――そう思うかい。でもね、あんがいそうでもないんだよ。大いに倖せだった、とはいえないかもしれないけれど、結構たのしい余生だったんだ……。人間の幸福なんてね、たぶんに主観的なものなんだな。そして、客観的にみればね……

 コハルが小首をかしげている。

 ――ごめん、ごめん、言葉がむつかしくなったね。でもね、理屈を言うつもりじゃなかったんだ。ともかく、もうおれは、ただ静かに死の日を待っているだけだ。死んだら、お前たちのところへ行って、ヨネやお前と一緒に、仲よく、幸福に暮らしたいとたのしみにしているんだ――

 ――寒いでしょう、火の気なしの毎日じゃ。もうすぐお正月ですのに……。師走の風ってずいぶん冷たいわ。そうそう、足が腫れて足袋も穿けないんですって……。大丈夫かしら…?…――

 ――いいんだよ。火鉢で暖まるなんてのも、一種の習慣だからね。どうやら、もう慣れたよ。でも、足の腫れはひどくってね、なかなか足袋が穿けないのだ。穿けてもね、今度は足袋のコハゼがかからなくって――

 ――つらいでしょうね。ひどいわ、おっ母さんたら、火を扱うのを禁止するなんて――

 ――いいんだよ。ユキさんのせいじゃない。おれ自身が、危いと思うから使わないんだ。炭火を(おこ)そうと思えば、何もユキさんの手を借りなくったってできるのだよ。ほら、こうして、煙草を吸っているくらいだからね――

 寝床の上へあぐらをかき、火鉢の上でマッチをする。一本、二本、三本、手が震えるのでなかなか火がつかぬ。(くわ)えたキセルをぐっと噛む。刻み煙草に、やっと火がつく。

 マッチの残りかすが、火鉢のなかで一瞬燃えあがる。室内がほの明るくなり、ただよっている煙草の煙を浮かび上らせて、もとの闇にかえる。

 コハルの座っていたところにおヨネがいる。いつのまに入れ変わったのだろう。それとも、最初からヨネだったのだろうか……。モラエスは苦笑する。

 ――やっぱりヨネだったのか――

 ――ええ――

 ――遺言状が仕上がったよ。銀行の方の手続きも完了だ。なにもかも準備ができたわけだ――

 ――もっと強くならないといけませんわ――

 ――うん、そうかもしれない。でもね、日本ふうにかぞえると、あと七日で七十六歳だ

―― 

 ――気持まで弱っていらっしゃるのね――

 声はヨネのようでもあり、コハルのようでもあった。外套にくるまったままモラエスは、蒲団のなかへもぐり込む。不思議に今夜は痛みがない。久しぶりに安眠できるかもしれない。そんな予感が、モラエスを幸福にする。

<墓参に出かけなくなって、もう何日くらいになるだろう……>

 急に墓参のことが気になり始める。今日、銀行へ出かける前に、ちょっと潮音寺へ回ればよかった……、と悔やむ。帰りは大金を持っていたからしかたなかったけれど。明日でも、俥をやとって歳暮詣(せいぼまい)りに行こうか。墓掃除の方はユキに頼むことにして……。殿中(でんちゅう)と外套を着込んだままで蒲団のなかにいるのに、火の気のない部屋はめっぽう寒い。コハルはもちろん、ヨネもいつのまにかいない。

 

 としがあらたまり、春が去った。

 身うごきもできないほど悪化した病苦のなかで、ともかくモラエスは生きていた。

 東京の公使の命をうけて、神戸からスーザー総領事夫妻が見舞にきた。良い医者のいる神戸か大阪へ移るように、とのポルトガル公使からの慫慂(しょうよう)であった。ペトロ・ヴェンセンテ・コートのすすめをきかず、リスボンから書簡を寄せての、友人ペレス・ロドリゲス博士の勧告も辞し、徳島を動こうともしないモラエスを憂えて、エフ・エス・スーザー自らが乗り出したのだったが、モラエスは頑なに拒絶した。

 友情はありがたいけれど、好きかってにしたい。というモラエスに半ばあきれ、半ば不安を覚えながら、スーザー夫妻は引きさがらざるをえなかった。

「東京の公使ともよく相談し、なるべく早く、モラエス氏を神戸へ引き取るよう努力しますから、この次、わたくしが来る日まで、どうかモラエス氏をお願いします。今は、何とすすめても承知してくれませんので……」

 領事の通訳は、隣人たちにスーザーの意志をそのように伝えた。

 主治医である富永医師は、心配だった厳寒をぶじくぐり抜け、日増しに軽快に向かっている、つききりの看護人のない点は不安だが、病気そのものは、さほど危険だと思えないと答えた。領事は医師に、可能なかぎりの処置をして、彼の病苦をやわらげて欲しい、と懇請して徳島を去った。

 神戸へ帰ったスーザーは、モラエスの近況を東京の公使に報告すると同時に、モラエス宛に、ぜひ東京か神戸で充分療養をして欲しい旨、再度の忠告を手紙でした。

 モラエスは丁寧な電文で、徳島を離れる意志はない、とユキを使いにやって打電した。

 東京駐在の公使、カーネイロは、スーザーの手紙を読んでいっそう不安を増し、乃公(おれ)が行ってすすめれば……と、はるばる徳島を訪ねたが、かえってモラエスの意志を頑なにしただけであった。

 ペトロ・ヴェンセンテ・ド・コートがあきらめ、エフ・エス・スーザーがさじを投げ、カーネイロはあきれ果てて見捨てた。

 家のなかでならば、やっと歩けるようになったのは五月である。澄みわたった青空に鯉のぼりがおよぐころ、モラエスは杖にすがって外出した。五か月ぶりの墓参であった。

 彼は、その帰り道で倒れた。加納寓と門札の出た家の前であった。自宅へ、もう一丁少々だった。

 家のなかから見ていたのか、琴の音がとまって、娘さんとその母親とが走り出て来た。彼は、この娘さんを知っていた。色の白い、小柄な美人である。最近、裁縫学校を卒え母娘で仕立て物をあずかり、その手間賃と、母のうける亡父の恩給で暮らしていた。母親も、眸のあかるい綺麗な人である。

 二人は、大きい体のモラエスを抱き起し、わが家の門までつれて行った。門の建つコンクリートの上に座り込み、モラエスは足腰を撫でた。

「あらっ、下駄がきれてるわ」

 杖をひろって来た娘さんは、鼻緒の切れたモラエスの超特大の下駄をなおし、家の近くまで送ってくれた。

 雨期がきた。陰鬱な梅雨のつづく間、モラエスの病状は進行しつづけた。梅雨の晴れ間に彼は、一度だけ外出した。加納家へ礼に行き、蒲団の新調を依頼して帰った。

 その日、わが家へたどりついてからモラエスは、片足の自由を失った。厠へ行けなくなった彼は、用便のたびに、ユキの手を借りねばならなくなった。

 大便をとるのが一円。小便が五十銭。炊事一円。買物や雑用が一回二十銭。ユキは、えんりょえしゃくなく、もぎとるように金をとった。以前手渡していた賃金の、およそ三倍にあたる高騰ぶりである。壁一重の隣の大工、橋本富蔵の日当が一円で、相当な稼ぎ手だというのに……。

 もっとも、作業ごとに単価を決め、一つ仕事をしてもらうたびに、対価を支払う制度はモラエスの発案だった。彼はユキに、最初は日当一円を払っていた。縫い物など裁縫の賃を別としての一円である。やがて、それは二円に増額された。食事を一度にたくさんつくり、二時間たらずで帰っても、掃除、洗濯、炊事と終日働いても二円。ちょっとやって来て、ろくすっぽ仕事をしなくても二円。不合理だと思って彼は、作業別能率給の制度を思いつき、渋るユキをやっと説き伏せた。去年の春の話である。

 当初、一日の賃金は、炊事の一円のほか、買物や洗濯などで五十銭、合計一円五十銭ていどでたりた。

 厠へ行けなくなってから、一日の総賃銀は四円、五円、六円と上昇するばかりである。ときどき、いざりながら二階へ上ることもあったが、ほとんどの時間をモラエスは、階下の籐椅子ですごした。起きているでもなく、寝ているでもない何日かがすぎる。

「帰っても、ほんとうに大丈夫ですか……」

 心配そうな声で、ユキは念を押して帰って行く。ユキが帰ってしまうと、実際モラエスはほっとする。うるさくないからである。よろめきながら戸締りをすませ、籐椅子で夢幻の世界を浮游して楽しむ。が、ユキがいないと、たちまち困った。何をするにも、体を動かさねばならない。したがって何もしない。ただ、夢み心地でじっとしているのである。

 用便だけはしかたがない。便器に用をたし、衰えむくんだ腕で、痛みをこらえて庭へ捨てる。南側の小窓は、彼の肩くらいのところにある。用をたすたび小窓をあけるのは、かなり苦痛であった。懸命の努力で捨てるのだが、うまく窓を越えず、飛沫が体にはね返ったり、敷居や畳を糞尿で汚したりした。

<蒲団はいつできるだろう。新しい蒲団で死にたいものだ……>

 そんな考えが浮かぶ。

 せっせと針を運ぶ。加納の娘さんの白い腕や指先の動きさえ、まぶたにえがくことができる。そうかと思うと、蒲団を縫っている娘さんは、おヨネになったり、コハルになったりする。

<とにもかくにも、蒲団ができるまでは生きていよう。代金だって払ってないのだから……>

 ユキに内緒で、ユキ抜きで夜具を注文したことに、わずかだが快感が湧く。

 目覚めているとも、眠っているともつかぬ日々がすぎる。終日体が疼き、健全なのは、頭脳だけのような気のする毎日である。その頭脳だって、もう、とっくに壊れているのかもしれない。

 リスボンで出す予定の、書簡集『おそろし』(Osoroshi)について、アルフレッド・エルネスト・ディアス・ブランコか、出版屋から手紙がくるはずだのに、いくら待っても着かない。妹フランシスカからも、通信があっていい時期なのだが、これも久しく届かぬ。毎日でも郵便箱をのぞきに行きたいのだが、動くのはおっくう、かつ苦痛である。

 籐椅子のモラエスは、回想によって生命の火をかきたて、燃やしつづける。

 あるときは、砲艦「ドウロ号」で、モザンビークの戦に赴く砲術長時代の姿であったり、「インデアナ号」や「テージョ号」の指揮をとった澳門(マカオ)時代だったりする。  

 日本への初航のころや、神戸時代を回想する彼から、何十年も帰らぬ母国だけが遠く、淡く、(はる)けくなっていく。

 

     5

 

「モラエスさーん!」

 柔らか味のある、それでいてかん高い声が、夕暮の静寂を破る。

 籐椅子に、死んだように転がっていたモラエスは、かすかに身じろぎした。二度、三度と呼びつづける声が、悲しいもののようにきこえる。

 立ち上り、よたよた玄関へ出て行く。

「あけて! あけてちょうだい!」

 君ちゃんの声だ。ときおり、ほんとうにときおり、思い出したように、彼のところへ遊びに来る少女だ。待ち切れないのか、君ちゃんは雨戸を叩く。トン、トン、トン、音が大きく響く。

 土間へおりたモラエスは、急いで下駄をはこうとするが、指が腫れ上がっているのでうまくいかない。

「ドナタテシュ……カ キミチャン テシュカ……イマ ……イマ アケマシュ」

「あたしよ、君子よ、早く!」

 (かんぬき)をはずそうと、右腕に力を入れたため、足先に力が入ったのか、右の鼻緒がプツンと切れた。少女はとび込んで来て、ペコンと頭を下げた。日向くさい髪がゆれ、太陽のにおいとでもいいたい健康な体臭が鼻をうつ。

「これ、あげます」

 半紙にくるんだ包みを、少女はつき出すようにモラエスに差し出した。

「ソオ。アリガト スミマシェン……」

「柏餅とちまきよ。男の節句ですから……」

 少女はにっこり笑う。彼も微笑を浮かべ、包みを受け取る。掌が、包みを持った手が、小刻みに震えている。モラエスの顔をみつめていた少女の目が、震える手を捉える。怯えた目つきになり、少女の微笑が消えた。

「アリガト アリガト ネ。ワタシ イマ ヒマテシュ……ウエヘ アガリナシャイ」

「ええ。……モラエスさん、病気なおらんの?」

「ダイジョービ ダイジョービ」

 導かれて少女は居間へ上った。少女に籐椅子をすすめたモラエスは、夏座蒲団に座った。主客が対座した格好だが、何も話すことはない。黙って微笑を浮かべているモラエスを、少女は同情のまなざしで見、ときどき思い出したように、力いっぱい籐椅子をゆすぶって体をはずませる。まったく外出しないので、少女に与える駄菓子の用意もない。籐椅子が彼女のお気に召したのを見て、わずかに心を慰めるモラエスである。

「ああ、忘れてしまうところやったわ」

 少女は、袂へ手を入れて何かを取り出す。チリ紙にくるんだ小さな包みを、ゆっくり膝の上でひろげた彼女は、なかの物をつまんで差し出した。五つばかりの貝殻である。小さな掌の上で、貝は美しい光沢を放っていた。

「綺麗でしょう。津田の海岸へ遠足に行ったんよ。モラエスさんに上げよう思って、拾ってきたの」

 貝殻が、震えのとまらぬ大きい掌の上にならべられる。

「この、ビリビリふるえる手、なおらんの?」

 少女は、いささか気味わるげだ。

「ワタクシ モウ トシヲ トリスギマシタ……トシヨリ ミンナ コンナニ ナリマシュ。テモ……」

 すぐ治ると言おうとして言葉をのんだモラエスは、美しい色彩のものを選んで拾ってきたらしい、小さな貝殻をみつめた。《書棚の傍に、もう一つ棚があって、わずかばかりの貨幣と貝殻を蒐集したものがある。たとえ、子供じみたものでも、ことごとく、これ思い出の種とならざるものはない。それは、まさしくわたくしの姿だ。わたくしは、こうして生き、こうして死んでゆくのだ(花野訳)》と、ずっと前に書いた文章が脈絡なく思い出される。

 いつだったか彼は、君ちゃんを二階へ案内して、そのおびただしい貝類の蒐集品を見せたことがあった。少女は目を輝かせ、好奇と疑問とから、いくつかの質問を放ち、風変わりな宝物に愕いていた。何のために、いつ、どこで、どのようにして、これを手に入れたのか……、と言って。

 たどたどしい日本語での説明によって、少女の疑問が氷解したかどうかは判らなかったが、「ふうん」、「ふうん」と少女は頷いたものである。それを覚えていて、彼が宝物と呼ぶコレクションに、さらに新種を加えようと、これを拾ってきてくれたのであろう。

 力をいれ、情熱をこめてきたコレクションだが、蒐集品はすでに意味を失いつつあり、今に無価値な貝殻の集積にすぎなくなるだろう。が、少女に礼を述べ、綺麗だとお世辞を言う。何の変哲もない、ありふれた貝殻だが、幼児の好みそうな色とかたちを備えている。

《貝類は子供のころから、今日にいたるまで集めている。気違い沙汰かもしれぬ。私はすでに子供のころから、母が故里の海浜から拾ってきてくれた貝殻をだいじに蔵っておいた。船に乗り、世界を股にかけ、ヨーロッパの港やアメリカやケープタウンの町やシンガポールやモザンビークやアンゴラやポートサイドやセーシェル諸島やマニラやティモールやバタヴィアや支那や、最後に日本で貝殻を蒐集した。

 貨幣もまた、やはり右に挙げたのと、似たりよったりの国々で手にいれたものばかりだ。ただ、入手方法が異なっているだけだ。船が港に着くと、すぐ何か買物をする――それは、見慣れぬ土地に支払う最初の貢税のようなものだ。その受け取った釣銭で、ほとんどそれだけで、この貨幣の収集が仕上がったのだ、長い船路の旅に出掛ける若人たちに、ぜひわたしを見習ってくれるようにと忠告した。なかでも、貝殻の蒐集が面白い。すばらしい旅の思い出にもなるし、いくら時が経っても形も色も変わらず、これらやさしい、数々の小さきものどもが、ほんのわずかの金でたくさん手に入るのだ。

 仕事が嫌になって手持無沙汰のときには、よく、蒐集した貝殻に瞳を投げて、心からこの遺骸(なきがら)に、讃美の辞を与えようと、ちょっと、柄にもなく、博物学者気取りになる(花野訳)》

 と、自慢したことのあるコレクションに、最後の新品が追加されて、モラエスはほとんど感動していた。

 部屋はうすぐらく陰気だが、少女の囲りだけが明るい。<健康なものは美しい>ふとモラエスは思う。朽ち衰えてゆくわが身にひきかえ、育ちざかりのこの小学生には、彼を圧倒する輝きがあった。

<もう、若さを回復する手だてはない>と、ものうい哀愁が湧く。最近では、おヨネの遺品に触れても、追憶の世界に耽溺しても、生命の躍動もなければ感激もない。

 モラエスは、少女の膝に目を落とした。短い着物の裾から、まるい、さくら色の膝小僧がのぞき、籐椅子から跳躍すると、不意にふくらはぎが見えたりする。

「いのち!」

 祈りにも似た叫びが口を衝いた。急に立ってモラエスは、どこにそんな力がひそんでいたのか、と思われる烈しさで少女を抱き、羽がいじめにした。

 ウウッ、少女は呻き、恐怖を満面に浮かべた。血の気のひいた少女の顔が、彼の腕のなかで烈しくゆれる。刺戟がほしい。生命をかきたてるものが……。

 少女は、全身でモラエスにあらがい、彼の腕を逃れようとした。怯えた目が、モラエスを突きさす。腕がしびれる。少女の強い一撃が加わる。モラエスはよろめき、片膝ついて倒れた。反動で、少女の方も小窓の下へ転がった。そこは、雨もりで自然に朽ちた畳のように、尿の飛沫で変色し、悪臭を放っているところだ。起き上ろうとして、少女は手をついた。こぼれていた大便が手に付着した。泣き声をあげて、少女は玄関へ駆け出して行った。

 

 珍しく玄関が開け放しになっているので、道行く人がのぞき込む。玄関の戸は、君ちゃんが開けっ放して帰ったままだ。喪心の状態からさめてモラエスは、よほど長く倒れたままだったことに気づき、力なく起き上って戸締りをした。

 引き返してくると、さっき、君ちゃんが倒れたあたりで、こぼれた大便を三毛が嗅いでいた。急に怒りを覚えて彼は、三毛をつまみ上げ、壁になげつけた。

 猫は悲鳴をあげ、背をふくらませて主人に身構えた。薄闇のなかで目が光っている。だっとモラエスは猫を襲う。二度、三度、狭い室内で、猫と老人とが葛藤をくり返した。精悍な少年のような身ごなしで、猫を追っていたモラエスは、やっとのことで三毛を捕えた。息がきれ、汗が吹き、あえぎながら彼は、愛児をいつくしむように飼育してきた三毛に憎悪を感じていた。

 三毛の健康を、むさぼりとってしまいたい。健康な者への嫉妬がこみあげる。後肢を持って、三毛をぶら下げたモラエスは、ぐるぐる振りまわし、悲鳴を愉しむ。いくらか、血を逆動するような快感があった。

 ひき裂かんばかりに、二本の後肢を両手で開く。ぐっと力がこもる。真二つにひき裂けるかと思った瞬間――、三毛は前肢を空にけって、宙を回転して身をひるがえした。

 空を切った前肢の跳躍は成功した。モラエスは思わず手を離した。三毛は主人に飛びかかり、前肢で烈しく顔を打った。あっというまに三毛は、彼の肩のあたりを跳びこえ、脱兎のように縁の下へ逃げ込んだ。

 茫然と立っているモラエスの額から血が伝い、ぐったりなって彼は、籐椅子にくずれ込んだ。

 

 烈しい雷鳴と、どしゃ降りの雨脚が、屋根を叩く音でモラエスは目を覚した。

 雷は、梅雨あけの前触れであり、酷暑への合図でもある。籐椅子に転がったままでもモラエスには、眉山の連峰の谷間に霧が湧き、きれぎれに、濃緑の山肌が見え隠れする姿が想像できる。十七年、慣れしたしんできた山である。春夏秋冬の――、そして雨や風に、微妙な変化をみせる山容の秘密は知りつくした。

 ふと、三毛はどこへ行ったのだろう、と思う。数日前から、三毛の姿をみない。理不尽な暴力をふるった主人に、あいそをつかして出奔したのだろうか。

 口笛を吹く。唇の半分は硬直したままだが、それでも口笛は鳴った。以前だったら、三毛が飛んで出てきてじゃれついたものである。三毛はあらわれない。

 口笛をくり返す。愛猫は姿をみせないが、口笛がうまく鳴るので、モラエスは変に複雑な感慨に捉われた。今朝まで、確かに口笛など吹けなかった。吹こうとしても、唇がわなわな震えるだけであった。動脈硬化は顔面にまできたか……、と諦め切って十日ほどになる。ユキとの会話が困難となり、舌ももつれ気味だったのに、顔面神経の変調が不思議に()えている。自然に治ることもあるのだな、という喜びとうらはらに、まだ死なないのではないか……、と不安になる。

 去年の暮、すでに死の準備を終えた彼は、どうやら、己の死期をはかる点において誤ったようであった。歌人西行にならって、春まで……、と思っていたのに、梅雨がすぎたのにまだ生きている。半身不随――、ほとんど動けないのに、生きて酷暑を迎えようとしている。動けないことをいいことにして、斎藤ユキの家政婦料はますますつり上った。遺産分配に指定した貯金以外の金は、その大半がユキの手にわたった。

 信玄袋に、いっぱいつまっていた小銭が、もう残り少ないのである。

 <もし、秋まで命があったら……>

 いったい、どういうことになるのだ。

 <秋がすぎ、今一度冬を迎えるとしたら……>

 モラエスは狼狽した。もう金がないのである。貯金はあっても、すべてが、法的な遺産贈与の処理を終っている……。

 もっとも、遺産を贈与してしまっているわけではないから、銀行貯金に手をつけられなくはない。だがしかし、そのためには遺書を書き改めねばならない。金額の数字的訂正では、せっかく一九一九年八月一二日付にした意味が失われる。歳月を(けみ)するほどに貧へ赴き、遂に贈与額を減らさざるをえなかったことが、金額訂正ではあらわになる……。そのうえ、懐勘定と理想の生活とを、うまくマッチさせてきた計画的晩年に、自らの手で汚点をつけるのはつらい。合理主義者としての自負を捨てることは、どう考えてもがまんのならないことであった。

 病気とたたかって生きるのも苦しかったが、半身不随の身で、金のない生活はみじめで、まさに想像を絶する苦痛だ。死なないとすれば、遺産贈与の額を減らし、遺書を書き改めねばならない。だが、ペンを持つ機能を失った今、それはほとんどむりであった。

 その夜モラエスは、一晩がかりで、信玄袋の底に残った小銭を勘定してみた。

まるっきり動きの鈍い、枯木のように病み衰えた、不自由な指先が少額貨幣をまさぐる。昨年の歳末に、三十四銀行からおろしてきた四千五百円が、予想外に減っていた。だが、

手伝いのユキを断れば、当分何とかしのいでいけそうだった。

 六月二十八日の夕方、やってきた斎藤ユキに、もう来なくともよい、とモラエスは彼女の家事手伝いを強く拒んだ。

 体が不自由だのに、一人っきりでどうするのだ、とユキは抗弁したが、言い出したら説得など耳に入れぬ性質を知っている彼女は、向かいに住む銀行員岩本朋三郎を訪ね、事情を語り、それとなく気をつけてほしいと頼んだ。さらに、壁一つ隣の大工、橋本へも同じことを依頼し、老いてますます頑迷の度を加え、気むずかしくなったモラエスのことを愚痴た。そしてユキは、三日間脚を運ばなかったのである。

 隣の大工は、玄関の外から一度声をかけたが、なかから、元気なモラエスの返事があったので安心し、体の不自由なモラエスさんに、わざわざ玄関の戸を開けてもらわなくても……、と考えた。銀行員岩本は三十日の午後、ユキに頼まれていたのを思い出し、玄関までモラエスを訪ね、上り框に腰をおろして雑談した。心配することもなさそうな様子だった。

 斎藤ユキが休んでいることを知りながら、隣人たちは、一人ぐらしの西洋人のことを忘れるともなく忘れた。

 

 六月三十日の夜――。

 懐中電灯を持ったモラエスは、玄関を開けて外へ出、郵便箱をのぞいた。何も入っていなかった。戸締りをして座敷へ上ってから彼は倒れた。上り框の敷居につまずいたのである。懐中電灯が、そこらへころがった。

 どれくらいの時間倒れていたのか、下腹部の冷たさで、ふとモラエスは意識を回復した。よろめく足を踏みしめて、壁にとりすがった彼の、メリヤスシャツのなかから大便がころがり落ちた。小便も漏らしていた。

 籐椅子まで行こう、と気をとりなおしたモラエスは、部屋のあちこちにころがる脱糞を、初めて見るもののように、ひどく物珍しげに見やった。

 戸締りを厳重にするのは、彼の昔からの習慣だったが、閉め切った家のなかはむし暑く、糞尿のにおいが立ちこめて、ムッと鼻をつく。

 <臭い>

 呟きながら壁ぞいに、いざって行くモラエスの目に、神戸から持ってきたまま、最近はほとんど飲まずに置いてある、アグワルデンチの瓶がうつった。ブランディの一種である。夕食を摂ったのかどうかが、彼にはうまく思い出せなかった。

 強いアグワルデンチが、じーんと沁みる。空腹も、鼻をつく悪臭も、そして、むし暑さも忘れるようであった。

 ――あなた、そんなきついお酒を召し上がってもいいのですか――

 ――ああ、ヨネ――

 籐椅子により添ってきてヨネがたしなめる。

 ――このごろ、とても寝つきが悪くってね―― 

 悪戯をみつけられた子供のそれのように、モラエスは首をすくめ、苦笑した。

 ――いけないわ。あなたは、あんまりお酒を召し上がらないはずですのに――

 今夜のヨネは、とりわけ美しい。つぶし島田の簪がゆれて……。

 ――ほんの少し……、睡眠薬の代りだ。ヨネ、ヨネもちょっとどうかね。とてもおいしいよーー

 モラエスはヨネにグラスをわたした。ヨネは楽しそうに、何杯か飲んだ。

 モラエスは、ヨネを抱いた。籐椅子が、かすかにきしむ。

 笑っているヨネの目もとがほんのりあかい。ヨネを抱いたまま、空いた手でグラスを傾け、口にふくんだ酒を、ヨネに口づてに移したり、何遍もグラスに注いですすめたりした。

 二本のアグワルデンチを、深夜ひとりラッパ飲みしているのを、モラエスは気づこうともせず、伊賀町の茅屋でヨネを追慕している現実を忘れ、ひたすら神戸市加納町の領事私邸を錯覚した。

 ――のどが、のどがヒリヒリする……、お水が欲しいわーー

 おヨネがふわっと立ち上がった。

 ――足もとがひどくふらついているよ。危いね、ヨネは……。どれわしが水を……

 モラエスは立ち上がった。

 大便の山を踏んだ。

 おヨネの着物の裾を踏んだ、と彼は思ったにちがいない。

 モラエスは水を汲みに行く……。薬罐をぶらさげて……。

 神戸加納町の家は、居間から台所への廊下が長かった。よたよた、とモラエスは歩む。伊賀町の方丈には廊下はない。部屋を出るとすぐ三和土の土間であった。

 モラエスは落ちた。

――つづく――

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/04/26

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

佃 實夫

ツクダ ジツオ
つくだ じつお 小説家 1925・12・27~1979・3・9 徳島生まれ。昭和41年河出書房刊『わがモラエス伝』と、昭和44年集英社刊『定本モラエス全集』(花野富蔵訳)編集により、志賀直哉・井上靖・遠藤周作らとポルトガル「インファンテ・ドン・エンリケ勲章」受章。「定本阿波自由党始末記」などの著書がある。

掲載作は、『わがモラエス伝』の一部で、「ある異邦人の死」の表題により第41回芥川賞候補作となる。