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わがモラエス伝(抄)序章・一章

  序章 邂 逅 

 

     

 

 モラエスを私が愛してやまないのは、復讐と贖罪のためである。幼いころ私は、彼を非常に恐ろしい人として識った。それは、いわば生まれて初めて味わった恐怖や嫌悪の印象である。何とかその恐ろしさを克服したい、と少年のころから私は思いつづけた。恐怖感や嫌悪感の克服は、異形の紅毛人への、ひそやかな私の復讐であった。贖罪というのは、外国人に対して冷酷で排他的な、というより、西洋人との接触に不慣れだった徳島市民のなかで、モラエスが孤独な晩年を送らざるをえなかった不幸に対して、いくらかでもつぐないたいという気持である。言ってみれば、徳島の人間として覚える自然な感情である。

 封建的で排他性が強い、といわれる徳島、そして、南国であるにもかかわらず寒さが厳しく、夏は多湿で高温という奇妙な風土のなかに、ポルトガル人、ヴェンセスラオ・デ・ソーザ・モラエスが生きていたのは、むかしむかし、というほど遠い時代の話ではない。徳島市伊賀町三丁目の茅屋(ぼうおく)で、台所の土間に転落した彼が、額を割って死んだのは、昭和四年七月一日のことであった。

 私は大正も末期の生まれであるが、徳島に住んでいたモラエスを早くから知っていた。この場合、知っていたというよりは、知らされていた、という方が正確であろう。私の郷里は、徳島市から四十キロばかり南へ寄った農村である。そこで、履物商を営む父のもとへ、徳島市から嫁いできた母が、私にモラエスの存在を教えた。

 母の実家である庄野家は、徳島市大道(おおみち)に店舗を構える足袋問屋だった。そこで娘時代を送った母は、大正二年に神戸から移住してきたモラエスを、しょっちゅうよそ目に眺めていたはずである。庄野の家のある大道と、モラエスの住みついた伊賀町とは目と鼻の間で、表通りの大道と背中を合わせる裏通りが伊賀町である。散歩や買物のために出歩く、ズダ袋を提げてステッキを持った紅毛人の姿は、その六尺一寸七分という体ゆえに目だったにちがいない。

 乳房を含みながら私は、母の口から恐ろしい異人さんの話をよくきかされた。髯むくじゃらの、碧い目の、真赤な顔の外国人は、幼い私にとって一番恐い存在だった。

 世間によく、「そら、おまわりさんが来る!」とか、「ワン、ワンが咬みにくる」とかいって、子供を威かす親がある。泣きわめき、駄々をこねる幼児が結構それでしつけられるのだが、私の場合、それは「あれが来る」という言葉でなされた。どれほどしつこく乳房にしがみついているときでも、泣きじゃくっているときでも、「あれが来る、あれが来るぜ」と言われると、恐怖から私は、父母のいいなりにおとなしくなってしまう。「あれ」という、抽象的な言葉で私は、髯むくじゃらの大男を想像したし、グズグズいっていると、赤い顔の毛唐が、頭からムシャムシャ喰べに来ると信じた。そして今も私は、腺病質だった幼い日に、父や母が「あれが、あれが来るぜ」と威かした声を、ありありと思い浮かべることができる。

 実在のモラエスとの出合いも幼い日のことだ。ものごころづいたというには、いささかおさなすぎる日――、私は父母に伴われて、四、五日庄野家で滞在した。阿波踊でまち全体がどよめき、家並も道も揺れていた。幼心にもめくるめくような印象の夕――。私たち三人は、乗合自動車に揺られて庄野家へ着いた。

 軒にぶらさがった「いよや足袋」という()り看板、屋根の上には「まからん屋」と、切り出しの金文字が金網に張られ、大人の背ほどもある足袋型の看板とともに、二階の窓をほとんど隠していた。幼い私に、それらの看板の意味が汲みとれたわけはないが、威圧的な表構えは今でも覚えている。

「さあ、じいちゃんの家ですよ、着きましたよ」

 父の腕に抱かれた私に、はしゃいだ母の声が入ったころ、田舎の草屋葺の小さい家しか知らない私は、堂々とした、活気のある祖父の家に、すっかり気をのまれていた。しかも、不慣れな乗合自動車の疲労と昂奮あって、泣き出したいような感情だった。父に抱かれたまま店へ入った私は、ほとんど失神しそうな衝撃に捉えられ、ほんとうに泣き出してしまったのである。

 店内狭しとばかりに、天井まで積みあげた足袋の箱、箱。景気よく客に応対する番頭や小僧。好奇の目をみはっていた私の目に、土間の椅子に腰掛けた、異形の存在が映ったのだ。

 そこにモラエスがいた。

 後年、写真で有名になった殿中(でんちゅう)姿(でんちゅうは、ちゃんちゃんこのごとき、徳島ふうの袖なし着物、綿を入れている)ではなく、洋服だったと思う。毛むくじゃらの大男は、いよや足袋を買っていた。叔父や叔母が飛び出してきて、挨拶より先に私をあやし始めたし、番頭や小僧までが、私に愛想をいったようである。

「おう、おう、かわいそうに。……びっくりしたん。こわいことない、ない。どうもせえへん。どうもせえへん。おう、おう」

 叔母の声をききながら、父の胸にむしゃぶりつき、しゃくりあげながら私は、真白な髯におおわれた大男を盗み見した。

 なるほど赤い顔をだし、髯に囲まれた大きい口は、子供をとって喰いそうな感じだった。濡れたように赤い唇。かねて絵本で見覚えた大江山の酒童子を想像していた私は、大杯を持った絵本の鬼の方が、まだこの西洋人よりは、よほどましだ、と思った。

 もてあました父から、母の手に私はわたされた。母の胸に顔をぴたっとくっつけたまま私は、足袋を買う大男から、どうしても目をそらすことができなかった。

 モラエスは気づいた。

 私たち一行が、この足袋屋にとってたいせつな客らしいことや、幼児が泣き出したのは、彼を見た驚きであるらしいことを……。

 彼はすまなそうに微笑を浮かべたにちがいない。何か言ったかもしれない。ともかくきらりと目が光った。私にはばけもののまなこが輝いたように見えた。私はいっそう大声をあげた。

 モラエスは買物袋のなかから、徳島市一流の菓子舗“日の出楼”の若布羊羹(わかめようかん)をとり出して一本くれた、という。火がついたように泣きながら私は、モラエスの差し出した羊羹を、力一ぱい握りしめた。だが、このことは記憶にない。後年になって、父母から聞いた話である。

 モラエスは出て行った……。そそくさと。ほとんど逃げるようにして。

 羊羹を与えても泣きやまない幼児に、彼はきっとあきれたであろう。

「おじいちゃん、こんにちは!」

 到着の第一声を元気よく言うよう、父母から充分さとされていたし、私もちゃんと挨拶をやってのけるつもりだったが、泣きわめくことでそれをすませ、私たちは奥座敷へ通された。

「この子、モラエスさんにびっくりしたんよ。火がついたように泣いて……」

 叔母は、そこらにいる誰彼なしに言った。

 大人たちの会話のなかに挟まれる「モラエスさん」という耳慣れない言葉が、あの大男をさすことを、叔母の出してくれたお菓子を喰べながら、私は漠然とさとった。

「あの毛唐、いったい何文や?」

「十一文半じゃけんど、このごろ病気で足が腫れてのう、十一文半だったら穿けんらしいわ。ほんでも、十二文じゃ十三文じゃいうたら、別にあつらえんとないもんのう」

「西洋人は、夏でも足袋を毎日穿くんか?」

「靴下を年中穿いとるけんのう、癖になってしもうとんのだろうぞ」

「暑いだろうにのう」

 叔父と父は、そんなふうな話をしていた。

 夕食のとき酒をのみ、いい機嫌になった父は、私と従兄と母と叔母を従えて、さんざめく街へ踊見物に出た。街という街が、踊子と見物人でごったがえし、よしこの囃子の三味(しゃみ)の音が、どこの町筋からも流れていた。

 

 笹山通れば笹ばかり

 大谷通れば石ばかり

 (いのしし)豆喰って ホーイ ホイ ホイ

 踊る阿呆(あほう)に 見る阿呆

 おなじ阿保なら おどらなそんそん

  えらいやっちゃ えらいやっちゃ

  ヨイ ヨイ ヨイ ヨイ

 

 田舎の村の踊とは、またちがった雰囲気に、従兄と手をとり合って歩きながら、いつのまにか私は浮かれ、足を囃子の調子に合わせていた。

 四つ辻をまがったときである。

 私は、あの大男が歩いているのを認めた。踊のリズムに合わせていた足が瞬間こわばり、背筋が寒くなって私は、従兄の手を力一ぱい握りしめた。

「どうしたん?」

 従兄が思わず顔をのぞき込んだくらいの力で。

 私たちと反対側を、こちらに向かって大男は、踊の群れのなかを歩いて来る。私のいる町並の方が明るく、大男のいる方は暗いので、浴衣がけで踊っている踊子たちの後方にいる西洋人は、ぞろぞろ歩く見物人の頭の向こうに首だけが見えて、風船玉のようにゆらゆら浮遊していた。

 ――あっ? 首だけが歩きよる――

 心のなかで私は叫んでいた。実際そんな印象で、首から下が人波の向こうに隠れているとは思えなかったのである。

 モラエスが笑った。

 おや、ニコニコしている。恐いものみたさで目をやった私は、異人さんが笑っているのを奇異に感じる。――ごつい口だなあ……、心のなかで呟いた私は、あの口で子供を喰べるのだ……、と思った。

「手を離したらだめよ。迷子になるけん」

 母の声で私は、一人道端に突立っているのに気づき、急いでかけて行って母の手にすがりついた。

 大男の異人さんは見えなくなった。

 ――ボクを狙っていたのじゃないらしい――

 そんなふうな安堵感がきたが、堤燈が空間をゆれるのとそっくりだった、髯むくじゃらの顔がかなり長い間あとを曳いた。

 昔の阿波(あわ)踊は、現在のような大集団で踊るのではなく、囃子方を含めてせいぜい十人か二十人くらい。もちろん、闘牛場に似た円型の競演場や、桟敷と呼ばれる見物用の一段高い座敷などを設ける習慣はなかった。桟敷その他は戦後のことで、阿波踊が観光と結びついて生まれたものだ。昔の見物人は、町を流して行く踊子連中に、くっついて歩くのであった。

 歩くのに()けば立ち止まっておればよい。あとからあとへと、いくらでも踊の組が流してくる。徳島市の目抜通りである大道、籠屋町、新町などの大きな商店では、紺の暖簾(のれん)を軒にかけ、店内を片づけて赤い毛氈(もうせん)を敷き、上り(かまち)に水菓子などを器に盛って、来客に備えるのが当時の習慣だった。門前に一間床几(しょうぎ)を出して、麦茶、西瓜(すいか)、ぶどう、氷水などを、踊子の接待用に構える家もあった。

 父の取引先らしい一軒の店の前で、床几に腰をおろした私たちは、西瓜や氷水を御馳走になった。父は座敷へあがりこんで、そこの主人や番頭らしい人と酒を飲んでいた。幼い私や従兄では、喰べきれないほど出された西瓜(すいか)を、夢中で喰べながら、街をねって歩く踊を目で追う。

 狸でも跋扈(ばっこ)していそうな山里から、にぎやかな徳島へ、それも、この市最大の人出をみるという、旧盆の喧噪と乱舞のるつぼのなかへ急に来て、私は確かに神経を昂ぶらせていた。田舎の村にも阿波踊はある。しかし、踊の組はせいぜい五連どまりであった。百を超える踊子連が、洪水のごとく街を交錯する光景は地方ではみられない。びっくりするようなさんざめきのなかで、私はなぜかしら孤独で、踊りの昂奮にとけこめなかった。

 

 瓢箪(ひょうたん)ばかりが浮くものか、私の心もういてきた

 あと先ャ子供じゃ あぶない あぶない

  ヨイショ コラ ヨイショコラ

  行ケソラ 行ケソラ

  ヤットサ フィトサ

  ヨイヨイ ヨイヨイ

 

 私くらいの子供ばかりの組が、威勢よく踊って来る。大人も二、三ついているが、大人はほとんど踊らない。子供たちを懸命に踊らせようと、手ぶり身ぶりも滑稽に、踊っている子供の方へ向かってはやしたて、囃子ことばをどなるように唄って励ます。団扇(うちわ)と手を、やけに打ち合わしている人もいた。

“私の心も浮いてきた”とか、“イケソラ、イケソラ、ヤットサ、フィトサ”子供たちの可愛い唱和が、かろやかな手ぶり足ぶりにピタッと合っている。子供たちの母親や姉らしい人が、ぞろぞろ後ろから愉しそうに団扇を使いながら行く。踊と見物の洪水――、街はまったくそんな感じだった。

 西瓜を持ったまま、床几から立ち上がって見とれていた私は、不意に、パタンと西瓜をとり落とした。路面に落ちた西瓜が、血潮でも流したように無惨に飛び散った。

 子供ばかりの踊の組の後ろから、ぞろぞろついて来る見物に混って、ステッキを持ったあの大男が、大きい目を光らせているのだ。

 大男は、踊子のなかでもひときわめだつ美しい女の子の、綺麗な踊ぶりをみつめているようだった。あの子が狙われている……、と私は、叫びたくなるのをかろうじて押さえると、ヘタヘタと床几に腰をおろし、母の膝に打ち伏した。

「まあ、汚いお口で……」

 急いで母が、私の手と口を拭った。母のなすにまかせて、恐ろしさに耐ええたのは、狙われているのが自分ではないという安堵からだった。子供たちも大男も見えなくなり、あとからあとへ踊の群れが流れてくる。この店を目指して踊ってきた一組が、店の前で踊り出したのをしおに、私たちは腰をあげた。

 どれほど歩いたのか、幼い私には見当もつかなかったが、歩き疲れ、踊に酔った私は、父におぶさって人ごみを歩いていた。酒で赤くそまった父の首筋に、ときどき私は目をやりながら、必死の思いで背中にしがみつき、踊に目を奪われつつも、子供を狙う毛唐人の恐い顔が頭から去らず、

「もう()のう(帰ろう)。もう()なんか!」

 と、父母に訴えつづけた。

「もう飽いたんだろう。それに、ねむたいんぢョ」

 父母は人ごみを離れ、いきなり暗い横丁へまがった。

 暗闇の軒下で、髯の大男が待ち伏せしていはせぬか、ときおり前方の闇を透かしながら私は、明るい通りを通らずに帰る父母を、無情だと腹だたしかった。大男がいたことや、あの恐ろしさを訴えれば、父母はきっと慰めてくれると思ったが、従兄や叔母に笑われるにちがいないという思いと、田舎へ帰ってから、泣いたり駄々をこねたりするたびに、きっとまた「アレが来るぞ」とか、髯の大男が喰べに来る」とか言って、従来にもまして威かされると思うと、不安を口に出すことができないのだった。

 父母の家のある大道の通りは、宵のうちの雑踏が嘘のようであった。踊子も見物も、新町の方へ集中してしまったのであろう。そこここの床几や涼み台に、浴衣がけや半裸体がいるだけで、ざわめきは全くなかった。

 私たちは家々の軒下を歩いた。私は将棋や碁を指している床几などを眺めながら、闇を透かした。私の予感は妙にあたった。大男がまたいたのだ。呉服屋らしい構えの店先の涼み台で、主人らしい人と話をしながら、彼は茶でも飲んでいるふうだ。父の背からそれをみつけた私は、目をしっかりと閉じ、背中にしがみついた。……そのまま私は眠ってしまった。一晩中、彼の大男に追っかけられる夢にうなされつづけ、納豆(なっとう)売のでんでん太鼓の音で目が覚めたとき、私はひどく安心したものである。祖父の家の二階で、しかも母のかたわらにいるのが、なかなか納得できなかったくらいだった。荷車や馬車の通る音や人の足音が、夜明けの大通りにようやくしげくなり、母が雨戸をくって、「いいお天気!」と、娘々した大声をあげるころまで、私は寝床で体を固くしていた。

 徳島市に滞在する間、私は祖父の家の二階と奥座敷でばかり暮らした。戸外へ出ると、大男に会うのに決まっていると思いこんで……。

 私がモラエスを、実際に見たのは、このときだけである。

 

     

 

田舎へ帰ってから私は、いっそうよく泣き、よくしかられる子供になった。

たえずびくびくして落ち着かず、夜泣きの癖のついた私は、母屋につづいた物置の暗闇に、よくつれて行かれた。

「まだ泣くか、早よう泣きやまんと、アレを呼んでくるぞ!」

 父が叱咤する。物置は不気味に静まりかえり、かびくさい臭いがたちこめていたし、アレと言われると、想像で漠然と怯えていた以前と異り、徳島で見てきた髯の大男がありありとよみがえった。

 道路に面した物置の板壁には節穴が二つあり、向かいの呉服屋の外燈の光りが射しこんでいた。「徳島から今ごろ、あいつが来るものか」と心のなかで呟きながらも、二つの節穴の光から、あの大男のギョロッとした目玉を連想しておもわず泣きやむ。

 話だけで紅毛人をあれこれ想像したころより、実物を知ったのちの恐怖はなまなましかった。髯や顔を思い出しては泣き、アレが来ると威かされて泣きやむ。そうした繰り返しのなかで、私の幼児期が過ぎていった。

 

 生きている大男には、その後会うことはなかったが、ある夕べ私は、便所のなかで髯の大男に再会した。

 便所にいれられた古新聞に、あいつの写真が載っていた。

 写真は、ほの暗い便所のなかで、生きもののように私を睨んでいた。無気味というより、心も氷る印象であった。

 額から頭のてっぺんまで禿げあがった、髪の薄い頭――、真っ白な髯でおおわれた顔――、目玉だけが光っている顔写真を、急いでこなごなに破ると、私は便所壺のなかへ投げ込み、脱兎のように便所から飛び出した。

 幼児期のような、うなされるほどの恐怖を抱くはずもない悪童になっていたが、やはりその顔はうす気味悪かった。

 今思えばそれは、昭和四年七月二日の新聞だったにちがいない。それには、モラエス死去のニュースが、社会面一ぱいに書きたてられていたはずだ。

 小学校へ上る年齢になって、幽霊やおまわりさんより恐い、髯の大男の記憶がようやく遠くなっていった。ときおり思い出すことはあったのかもしれないが、それがどのていどのものだったのかは定かではない。

 昭和九年、「徳島毎日新聞」に会田慶佐訳になる、モラエスの「徳島の盆踊」が連載され始めた。また「徳島日々新報」には、花野富蔵訳の「徳島日記」が連載された。文章の一隅に、鳥打帽子をかぶった彼の殿中(でんちゅう)姿の小さな写真が、カット代りに毎回載っていた。

 いやがおうでも私は、毎日あの髯づらと対面しなければならぬことになった。新聞は読めるようになっていたが、まだたくさん漢字を知らない私には、日本で初めて訳され、モラエスゆかりの徳島の新聞で公開された貴重な文章も、実際はほとんど理解できなかった。しかし私は、この連載によって、あの大男がモラエスというポルトガル人で、小説のようなものを書いた人だということを知ることができた。

 充分よめもしない訳文を、私が小説らしいものと感じとったのは、新聞の続きものは小説みたいなものという、ごく幼い常識だった。

 新聞を拡げるたび、目に入ってくるモラエスの写真は、幼いころのあの恐怖を、もう一度思い出させた。この顔が恐かったのだ、恐いと感じるのはあたりまえだ……、と私は思った。恐怖の原因を、写真の顔から探ることができるくらいには成長していたのだろう。しかしそれは、実感として残っている恐怖の思い出を反芻するという営みに終った。

「徳島日記」の訳文連載のころから、新聞にモラエスの記事が多くなり、いくつかの変った写真が紹介されたり、“文豪モラエス”とか、“日葡(にっぽ)親善の象徴モラエス翁”とかいう言葉が紙面を飾ったりして、昭和十年の徳島の新聞は、中央紙の四国版を含めて、競ってモラエス紹介にスペースをさいた。七月一日に行なわれた七回忌追悼法要をピークに、あらゆる角度からモラエスの大宣伝がなされたのである。

「モラエスさんて、ほんなに偉い人だったんかえ? ちっとも知らなんだわ。何して暮らしとんのかわからなんだもんね。また唐人が通りよるとか、西洋乞食なんていいよったもんぢョ」

 大々的な新聞報道から得た知識で母が、自分の知っているモラエスの話を、思い出して語ったりした。祖父の「まからんや足袋店」の店頭で、私がモラエスから、日の出楼の羊羹をもらった話も、きっとそのころにむし返され、記憶の反覆作用のなかで、私のこころの襞に刻み込まれたのであろう。

 

 今日徳島公園千秋閣のモラエス翁追悼法会

 日葡両国公使を(はじ)めとして、参加者一千名に上る大盛儀、仏式しめやかに執行さる。法壇に肖像、中央にモ翁のお位牌、外務、文部、拓務、鉄道各大臣其他からの花輪は所狭きまで、功績を偲び参列者の追慕と感謝。

 七回忌のときの新聞をみると、四段ぬきで紙面一ぱいに祭壇を写した写真の下に、以上のような見出しが、初号活字のわかち書きで組まれ、その日の法要がいかに盛大だったかを、こまごまと報道している。

 また、

 

“輝かしい文豪の存在”

“モ翁を憶う。その記念講演会で、スーザ領事演述”

“文豪モラエスを賛える”

“故モ翁を通じて官民各位に感謝。メロ駐日葡国公使の演述”

“親日文豪モ翁の英霊を弔う、広田外務大臣の弔辞”

“燈明に偲ばるる輝くモ翁の不朽の芸術”

“四国の片田舎に埋れた親日文豪逝いて七年、床しい追悼の催し”

などといった記事や、座談会の速記が満載されている。

「モ翁を偲ぶ座談会」という、七日間連載の長文の速記によると出席者は、

 日本文化聯盟、石川通司

 作家、花野富蔵

 東京外語教授、星誠

 葡国公使、リベエロ・デ・メロ

 駐葡公使、笠間杲雄

 国際文化振興会、団伊能

 日本文化聯盟会長、松本学

 作家、佐藤春夫

 文部省成人教育課長、松尾長造

 外務省書記生、会田慶佐

 神戸駐在葡国領事、エフ・エス・スーザ

 徳島市長、藤岡直兵衛

 徳島県学務部長、湯本二郎

 光慶図書館長、坂本章三

 モ翁の知人、前田正一

 モ翁の旧知、森房子

 といった顔ぶれである。現在の私の手もとには、このようなモラエス関係の文献や資料が揃っているので、歿後のモラエスが、誰によってどのような手続で評価され、紹介されたかということも、具体的にできるわけであるが、今はそれをしない。

 

 小学校時代に新聞で読んだ当時の記憶を辿ってみると、一個のモラエス像が、私自身に即したモラエス伝を書いている今日とは、もどかしいほどのずれがあるのである。

 ともかく少年の私が、そのころ理解したのは、〈寂しい暮らしをしながら、本をたくさん書いた人で、とても日本を愛し徳島を好きだった偉い人であったのだが、誰もそれを知らなかった。それが、死んでからわかったから、その功績を讃える式が行なわれた〉といった、しごく素朴なものだったのではないか? もちろん、理解力の乏しいときのことだから、それは仕方のないことであるとしても、モラエスという西洋人が、徳島で十七年も住んでいたことさえ知らない田舎の人々のなかでは、モラエスの法要や大宣伝も、どれほどの効果もなかったようである。

 新聞からモラエスの記事が、しだいに姿を消すとともに、私自身も、モラエスについてのすべてを忘れていった。そして私も、多くの日本人と同様に、戦争の烈しい歴史の歯車のなかへ捲きこまれた。

 中国大陸の大きい地図を買ってきて壁に貼り、日本軍が入城した都市に、小さな日の丸の旗の絵を、毎日あくことなく記入するといった昂奮と、出征兵士を日の丸の小旗を振って見送る毎日の生活のなかで、私の少年後期があわただしく過ぎていった。

 徳島市大道にあった祖父の足袋問屋が、叔父の急死につづいて倒産したのは、昭和の初年だった。祖父は、職業軍人だった末子にすがって生きていた。その庄野家の末っ子にあたる私の叔父、母の一番下の弟にあたる人が、上海方面の上陸作戦で戦死したこともあり、その当時の私は、支那軍に対して限りない憎悪を抱いていた。

 

 ちょうどそのころ、ふきすさぶファシズムの嵐のなかで、モラエスの著作の翻訳が次々と出版され、ゆがめられたモラエス像が形成されていった。日本人モラエス……、と言われ始めたのもその時代のことである。

 文豪モラエス、あるいは日葡親善の恩人モラエスが、どのような経緯で日本人モラエスに転化していったのか、知る由もない当時の私は、花野富蔵訳『日本精神』の新聞広告で、〈南欧詩人の“じゃば文”しかしその優艶の詩情はピエル・ロティと競い、神ながらの道を思想しては、カモンエスの象徴の哲学を逐うのである〉との紹介文を読み、西洋人と神ながらの道という取り合わせに、ずいぶん奇異な感じをうけたものであった。小泉八雲の『神国日本』のような本であろうか? などと思いながら……。

 モラエスが、皇室を崇拝した西洋人だとか、明治大帝の写真に朝夕跪拝(きはい)した人だとか、天照大神に拍手を打っていたとか、といったふうに強調され、“日本人に魂を取りかえた日本人以上の日本人”として紹介されていったのもこの時代である。

 軍国主義の教育のなかで育った私は、西洋人にしては珍しい人だと思った。偉い人としてモラエスを眺め始めたのである。もっとも、幼児期に感じた気味悪さだけは、心の襞から拭いきれなかったが……。

 内攻的で、人一倍恐怖心の強い私の性格形成には、確かに恐ろしい人モラエスが影を落としているにちがいない。だがそれはともかくとして、腺病質で閉鎖的に成長した私は、読書に親しむうちに、いつしか文学青年になり、少説らしきものを書いたり、同人雑誌に関係したりする年ごろになっていた。

 そのころのことである。

 私の加入していた徳島文学協会という文学集団の顧問のなかに、徳島県出身の文学者が何人かいて、その一人に花野富蔵という名があった。その人がモラエスの翻訳家で、外語や天理大の教授を兼ね、東京に住んでいる、といったことはすでに知っていた。

 古本屋を回るたびに私は、花野富蔵訳という文字と、モラエスという名前に気をつけるようになった。花野訳の新刊書は、もう品切れで入手不能となっていたのである。

 そうして、最初にめぐり合ったのが、「徳島日記」も収載した、第一書房版の『徳島の盆踊』だった。忘れもしないのは、定価一円五十銭のその本の、古本価格が一円三十銭という高値だったことである。

 探し求めていた本だったので、ともかく買った。その本の扉には、例のモラエスの写真――、昔新聞に連載された「徳島日記」のカット代りに使われていたのと同じ、鳥打帽子の顔写真が掲げられていた。この顔が恐かったのだな、写真を見つめながら私は、再び昔日の恐怖感を追想した。もう気味悪さなどあとかたもなく、懐かしい人にでもめぐり合ったような親しみさえあった。

 求めてきた古本を、いっきに私は読了した。ところが、読んでしまって私はいささか失望した。文豪という修辞にこだわったのか、小説的なものを期待したのか、一円三十銭を投じただけの文学的価値を、遂に発見できなかったのである。とはいえ、モラエスの著作に対する多少の理解は、この本との出合いにあった。だが私は、読んでしまった本を、書架片隅に押し込んだまま、何となく忘れてしまったのだった。

 

 話は昭和二十年へ、いきなり飛ぶ。

 私は郷里の村の青年学校の教師になっていた。

 あるとき私は、徳島県立光慶図書館を会場として催された読書指導者講習会に、出張を命ぜられて受講した。

 学生時代に多少図書館へ出入りしたことはあったが、図書館の内部というものはあまり知らなかった。講習の期間中、受講生である教師たちは、自由に書庫へ出入りする特権を与えられた。私はこの特権を最大に利用しようと考えた。ここの図書館のコレクションとして有名なのは、阿波国文庫とモラエス文庫だった。ふつうの蔵書のならんだ書庫を一巡し、文学関係の蔵書にどんなものがあるかを見たのち、日本的に有名な阿波国文庫の書庫を目指した。柴野栗山と屋代弘賢の旧蔵書を中心に、金にあかして蜂須賀家が蒐集したというこの文庫は、巨大な和漢書の集積で、とうてい私の手におえないことはすぐわかった。私はモラエス文庫を見る気になった。

 ポルトガルの国旗などで飾られたモラエス文庫は、特別な利用者だけにしか入室させない、というものものしさで珍重された部屋だった。

 説明文を読みながら私は、モラエスの全蔵書一八一六冊と、遺品数千点を丹念に見て行くうちに、一種不思議な感動に捉えられるのを覚えた。

 新聞に何度か紹介されたガラス管いりの恩賜の煙草や、明治天皇の写真もあり、前者には、〈菊花御紋章入の恩賜の手巻煙草一本を、ガラス管に収めて宝蔵せられしもの〉と解説があり、後者には、〈机上に奉安して、朝夕礼拝されたもの〉とかかれてあった。天照皇太神のお礼。豊受大神と天照皇太神の墨書の軸物。おびただしい神社や仏閣のお守などもあった。

 ところが、私を捉えたのは、彼の皇室崇拝の遺品ではなく、毛布や外套や帽子や、十一文半の黒足袋のような、モラエス自身の身の回り品や、多くの写真や家具や蒐集品であった。

 蒐集品には珍妙なものがあった。

 子供のころから晩年にいたるまで、世界各地で拾い集めたという無数の貝殻。旅行先で、記念のため釣銭を受け取って保存したという古銭。四四六一枚あると説明された古切手。この古切手の解説はふるっていた。

〈物をたいせつにされた翁は、一枚の古郵券でもその生命を永久に尊ばれ、決して捨てなかったものである〉と。

 三千枚に近い絵葉書。アルコール漬の蛇。海軍士官時代に船内勤務のつれづれに愛用したというオルゴール。写真一七五枚つきの立体覗眼鏡。陣笠。行燈。刀剣。脇息。自筆の門標。領事許可書。石の地蔵尊。乃木将軍の石膏胸像。青銅古鏡。槍。瓶入の灰や神社の鳥居の腐った木片の一切れ。とうとう私は、講習会をほとんどさぼって、モラエス文庫にとじこもった。

 モラエスが日本語を習ったという、尋常小学新体読本巻一には、ローマ字で書き込みがあったり、女の人からきた恋文らしいカタカナの手紙があったり、モラエスの神秘な生活のすべてが、ここにむんむん閉じこめられているようであった。

 手帳に私は、カタカナの手紙を写した。

 文字は下手くそだったが、文章には老人のモラエスの身を思う情感がこもっていた。末尾に「イズモ イマイチニテ デン」と署名があった。

 印象深かったのは、幾本かの煙管(きせる)と彼の著書である十五部二十冊の原書だ。

 煙管は、長煙管、中煙管、鉈豆(なたまめ)の三種類あった。原書の方は読めるわけもなかったが、日本の風俗画を表紙にあしらったそれらの本は、何かエキゾチックな匂いが立ちのぼっているようであった。誤植をなおしたのか加筆したのか、たくさん書き込みや訂正や抹消があった。

 鈍く光る銀の十字架(コンタス)が一つ、他の遺品とある一種の違和感があってめだった。〈知友から贈られたもので、壁間に掲げてあったが、翁自身の信仰には関係ないものである〉と説明されてあった。

 モラエス文庫にいりびたっていた私は、講習の期間が終って帰るのが、なんだか惜しいような気持さえ覚えたものであった。

 

 戦争は週末に近づき、日本の大都市という大都市が、アメリカの空襲で壊滅し、B29が白昼堂々と飛行雲を曳くころになって、県立光慶図書館では、出張図書館という名目で、蔵書を田舎の各学校へ疎開することになった。

 私の勤める青年学校でも、そのいくらかを引き受けることとなり、リュック・サックを背負った生徒をつれ、乗車制限をしているにもかかわらず、満員の汽車で、何日かかかって本を選んだ。

「モラエス文庫を、うちの学校へ預からせていただけませんか。もし空襲であったら大変ですから……。責任もって保管します」

 ある日私は、すでに親しくなっていた、岡島という図書館長に言ってみた。

「いや、あれはだめです。動かしてはいけないことになっているんです。今度の疎開は一般書だけですから……」

「それは判っていますが、もし焼けるようなことがあったら、とても惜しいと思うのです」

 神秘めいた遺品の数々を研究してみたい、とかねがね思っていた私は、かなり強引に交渉してみた。

「トラックを一台必ず工面してきます。運賃も出します。戦争のすむまでまかせてください、おねがいします」

「いや、あれはあかん。それにこの図書館は山の下だから、たぶん空襲は大丈夫だと思うのだ。今度も子供室の床をめくり、床を掘ってね、朝日や毎日といった大新聞の輪転機を預かる話ができているほどだ。新聞社筋でも、ここは焼けないとみているんだ。一般書の分散だってねえ君、疎開という趣旨より、交通制限で田舎の人が図書館へ来にくくなっただろう、それを補うのが目的なんだよ」

 閲覧業務を休んでしまった図書館の一隅では、輪転機を保管するための穴堀工事がすでに始まっていた。

「そうですか、残念だなあ」

 という私に、

「ここは大丈夫だ。かえって君の村の方があぶないかもしれんぜ、空襲はなくても、艦砲射撃というヤツがあるからな。それに、君が応召したあとをどうするのだ」

 図書館長は断定的に言った。

 艦砲射撃と応召を持ち出されると、私は黙って引き下るほかなかった。海岸に比較的近い私の村では、山を越した奥の村々の縁者をたよって、人びとが荷物の疎開を急いでいた。

 割当量の一般書の引き取りも終り、私の学校に県立図書館出張所の看板ができた日の夜、正確にいえば昭和二十年七月四日未明、前夜から始まった米空軍の焼夷弾攻撃で、徳島は完全に焼き払われた。山の蔭の図書館もむろん壊滅した。かつてモラエスの住んだ伊賀町の長屋も、図書館に保管されていたモラエス文庫も、すべてが永遠に失われて……。

 

     

 

 空襲につづいて敗戦がきた。

 戦後の虚脱と解放感のなかで、文化国家再建がうたわれ、民主化の嵐が、徳島のような地方も襲った。

 往時の阿波藍商人のおもかげをとどめていた白壁の藍倉や、古い城下町のたたずまいは失われ、徳島市は一望瓦礫の廃市であった。

 モラエスは『徳島の盆踊』のなかで、

《この徳島には石を愛する人が多い。そういえば、私たちヨーロッパ人も石を尊重する。自分の愛する女、わけても自分の愛する妻に持たせるため、珍重するダイヤモンドやサファイアの類は、石を愛する私たちの習慣のあらわれでさえあるから。

 ところが、日本人の好きな、少なくとも近年まで愛してきた石は、微細で小さい粒の、貴金属にはめこんであるようなピカピカ光るものではない。それは、大きな岩石から採ったものか、あるいは河床や山奥から拾いだした石塊であって、自然の輪郭を極力保存したものなのだ。宝石の希少価値と同じく、珍しいとか、運搬に骨が折れるとか、重量があるとかすればするほど、その石は値段が高いのである。

 徳島市は、これを一言にして言えば、木と紙とでつくられた小さな建造物の、一台集合体を上部にのっけている巨大な石である。たとえ、他日恐るべき災厄が、この市を灰塵とするような日があっても、再起のために、なお一つの手段が市民の手に残されている。――それは、自分たちの持っている石である。まるで、破産したポルトガルの貴族たちが、再起の手はじめを、宝石類の売却から始めるように、徳島の市民たちも、庭に置いた石を、競売にかけるようなことがあるかもしれない……(花野訳)》

 と、書いているが、徳島市民たちが庭に置いた石は、焼けただれて再建の資にならなかった。

 炎のために変色し、表面がボロボロこぼれる庭石が、徳島市復興の資力にならなかったとしても、三十年後の壊滅を、いみじくもモラエスは予言している。

 モラエスの文章のごとく、木と紙でつくられた小さな建造物の、一大集合体である徳島市。その木と紙が燃えて、瓦礫がしだいに取り片づけられ、昔よりももっとちゃちな木と紙のバラックが建ち始めるころ、私は青年学校の教師を辞めた。

 戦時下に行なった、軍国主義教育への自己嫌悪と反省の末であったが、何よりも私は自由になりたかった。生涯宮仕えはすまい、そんなふうな結論を出して私は、さっさと「依願退職」の辞令を手にして田舎を捨てた。

 貸本屋でもして、喰う方はやっていけよう、と思ったのだ。幸い蔵書をかなり持っていた。書物を焼いてしまったバラックの住人に、本を貸すことは大きな文化運動だと考え、小さい家の店先を借りて、「アテネ書房」の看板を出した。

 一軒のバラックの三分の一を、板壁で仕切った私の店は、たった二坪半という小ささであった。昔アテネは、国こそ小さかったけれども絢爛たる文化を生んだ。おれの店も小さいけれど……。そういった気負いが店の名前になった。

 借りたのは店先だけだったから、寝るところのなかった私は、眉山の山麓に焼け残った潮音寺に転がり込んだ。そこには、先輩にあたる文学仲間の禅坊主がいた。彼は自分の寺が戦災にやられた直後、無住だった潮音寺に移っていた詩人である。

 焼け残った建物はどこでもそうだったが、潮音寺にも何十組かの戦災者が住みついていた。本堂の広間も、幕や板ぎれで仕切って住み、寺は狭いくらいだった。私が借りる専用の部屋なぞあるわけはない。私は住職代理である友人夫婦の部屋で、一緒に寝ることにした。友人の方も禅坊主のこと、「ああ、よし、よし」というぐあいで、夫婦の蒲団に重なり合うように自分の蒲団を敷いて寝た。

 ある日、井戸水で顔を洗いながら、ふと私は思い出した。この潮音寺にモラエスの墓のあることを……。

 戦争で縁切れになっていたモラエスとの因縁が、潮音寺に下宿したばかりに復活した。モラエス流にいえば奇縁とでもいうのだろうか。……モラエスは私は捉えて放さないのだ。

 モラエスの墓のある潮音寺が、寺ばかり多い寺町の、いったいどこにあるのかも知らなかった私が、その朝、初めてお詣りをすることになった。

 墓はなかなか見つからなかった。見つからないはずで、モラエスの墓碑は、斎藤コハルの墓の背面に刻んであるのだ。斎藤コハルがモラエスの、最後の妻であったということは、すでに知っていたが、艶覚妙照信女という碑面の裏に、モラエスの名が刻まれているなどとは思い掛けないことであった。

 庫裡(くり)へ引き返して、私は友人に訊ねた。詩人坊主の気軽な案内がなかったら、私はモラエスの墓を発見できなかったにちがいない。竿石をくるりと回すと、ヴェンセスラウ・デ・モラエス之墓と書いた方が正面を向き、斎藤コハルの戒名が裏向きになるのだ。荒涼とした焼跡の一角にある潮音寺の墓地は草茫々で、こけむした小さな墓標と、あの髯の大男とは、私の心のなかでなかなか結びつかなかった。

 

 潮音寺に住んでいたばかりに私は、モラエス翁顕彰会再建のメンバーの一人にされてしまった。話を持ちこんできたのは、焼けた図書館の司書で、私も旧知の佐々木氏だった。

「敗戦のどさくさで、顕彰会の人たちの誰がどこにいるのやら、さっぱり判りませんけれども、ともかく七月一日の命日には、お経だけでもさしあげたいのです。宗旨は違いますが、私も本職が坊主ですから、ご一緒に唱和させていただきます。住所の判らない方も、新聞に案内を載せてもらいますから、いくらか集まってくれると思うのです。前田正一さんだとか、森房子さんだとか、住所の判っている人には通知をしておきますから……」

 佐々木氏は、そんなふうに言った。

「花野富蔵先生が、板野郡へ疎開されていますから、通知してあげてください」

 私と友人とが、ほとんど同時に言った。

 私の友人が坊主修業をしていた興源寺という寺で、花野氏がモラエスの翻訳をやっていた時期があったとかで、彼は花野氏と古い知り合いであった。

 戦争の末期、疎開したまま徳島市の近郊に住みついた花野氏とは、氏が潮音寺へふらりとやってきたとき以来知り合い、花野氏は私の店を、知友との連絡場所に使ったり、古本を漁りに来たりしていた。私の方も、一冊も焼かずに持ってきたという氏の蔵書を見せてもらうため、疎開先の、農家を改装したらしい家を訪ねたことがあったりした。

 敗戦の打撃で、すっかり老い込んだような感じの花野氏に、モラエス忌の通知や顕彰会再建の便りが届けば、ずいぶん喜ぶにちがいない、私と友人は話し合ったものである。

 昭和二十一年七月一日、潮音寺の本堂に住む戦災者たちに、昼間だけ部屋を開けてもらい、彼等の家具類を寺の幕で隠し、本堂正面だけを仕切った殺風景な部屋で、供物らしい供物も祀られていない祭壇ができた。どこで探してきたのか、モラエスの小さな写真が置かれ、十八回忌にあたる供養が行なわれた。参会者に出すものといえば、番茶だけという貧しい法要だったが、それでも十七、八人が集まった。友人が導師となり、図書館の佐々木氏も衣をつけて読経し、参会者が焼香する間も、式場の幕の向こうを、たえず戦災者が出入りした。彼等が煮炊きするにおいや、食事を摂る食器の音などが響き、ときおり甲高い声で徳島駅前の闇市のぜんざいの話や、闇商売の話がきこえた。

 荒れ果てて、ばけもの屋敷めいた寺は、戦災者が建物内部で木を燃やして煮炊きするため、天井も壁も黒くすすけていた。参会者のささげる香煙が、ゆらめく法燈のあたりへ立ちのぼり、古びた写真のモラエスの顔を、ひどく神秘的な陰翳でくまどっていた。

 初めてモラエス忌に参列したのに、潮音寺に住んでいたばかりに私は、走り使いや会場設営などの雑用を背負わされるはめになった。しかし、敗戦の廃墟のなかで、十七年も前に死んだ西洋人の法要をするということが、何か有意義なうるわしいものに感じられ、会の成功がひどく気になるのだった。

 その日読経を終えた友人は、参会者に一揖(いちゆう)したとたん、くるりと祭壇の方へ向いて、衣の袖でローソクの燈を性急に消した。参会者が気分をこわしはしないかと、思わず心配になるほど素早い、あざやかな消し方であった。おそらくローソクは貴重品だったのだろう。

 ぶじ法要が終り、戦災の日の思い出話や、それぞれの人の避難先の話や、近況談に花が咲いた。話は衣料難や食糧不足といった、日常の苦しさに移り、モラエスの生きていた、昭和初年の良き時代の追懐になった。あのころはよかった……と、人びとは競って口にした。晩年のモラエスさんを、西洋乞食などと悪口いう人もあったものだが、なかなかどうして、今の我々の方がよっぽど乞食じゃないか、とか、今の暮らしは乞食以下だよ、といった嘆きも出た。これで、これからの日本はどうなっていきますか、と空虚に響く声で憂える老人もあった。

 モラエス翁顕彰会再建の申し合わせをしたのち、一同は揃って墓参した。墓の前で一応解散のかたちとなり、寺へ引き返したのは、花野富蔵氏、友人の禅坊主と私の三人であった。

 私は、私の部屋でもあり、友人の部屋でもある四畳半の狭い部屋で、花野氏としばらく話をした。

「斎藤コハルさんや、福本ヨネさんの遺族は、もういないのですか。それとも住所が判らなくて通知状が出せなかったのでしょうか……」

 私は、斎藤家や福本家の人たち、一番にかけつけるべきだと思われる遺族が来ていなかったのを、不満にも疑問にも思っていたので尋ねた。

「それなんですよ……」

 言いかけてから花野氏は、声をおとして口ごもるふうであった。

「遺族はいるんですよ。ちゃんと……。コハルの母親のユキという人も、コハルの妹と弟も、生きているはずです。それに福本の方の遺族も……。でもね、戦災の以前から、もう住所がわからなかったんでしょ。向こうの方から身を隠してしまったようなぐあいでね、前から転居先不明なんです。それに、住所が判って通知を出しても、おそらく来ないでしょうね。本来ならまっさきにきて、モラエスさんを弔うべきなのですが……」

 低い声だった。

「行方不明ですか、戦前から……」

「ええ。あの人たちは来ませんよ」

 断定的に花野氏は繰り返した。

「どうしてですか……」

「法要に来にくいわけがあるのですよ……。いろいろ複雑な事情があってね」

 花野氏はそれっきり黙り込んでしまった。思いなしか暗い表情を浮かべて……。その複雑な事情というのを、根ほり葉ほり追求したい気がしたが、氏は語りたくない様子だったので、そのうちわかるだろう、と思って私は質問を抑えた。

「モラエスさんの死だってね君、実際はよく判らんのですよ。彼は、深夜一人で死んでいたんですから……。誰も見ていないわけだし、発見は翌朝でね。当時、自殺だとか誤死だとか、やかましくいわれてね、他殺の噂さえあったほどだ……」

「病死じゃなかったんですか」

 友人が訊いた。

「病気ではありましたがね。死因については私もいろいろ疑念を持っているんです」

 花野氏は曖昧に答えた。

「こんな時代になってしまったから、もう二度と再びモラエスの本を出版することはできないだろう。モラエスは大のアメリカ嫌いで、ずいぶん悪口を書いていますからね……」

 花野氏は悲観的な話をした。そうでもないかもしれませんよ、と友人と二人で慰めながら私も、占領下の日本で、モラエスの翻訳を出版するような時代はこないだろう、と内心では思っていた。

「モラエスは、日本の国粋主義の讃美者でしょう……」

 私は口にした。当時の私のモラエス観からすれば、しごく当然な質問であった。

「いや、それほどでもありません。そんな面も確かに否定できませんけれども、それを強調せざるをえなかったのは、やはり時代のせいなんです。何でも自由に出版できた時代じゃありませんでしたからね。私はできたら、モラエスの真実の姿を紹介しなおしたい、そんなふうに考えているんです。私だけが、彼を歪めて伝えたわけではありませんけれど、一斑の責任はあるんですから……。とくに翻訳については、自分の手でぜひ訂正しておきたい、と念願しているわけです。あのころのことですから、社会的なことや歴史的なことで、とりわけ皇室やイデオロギーのことで、翻訳から抜かしたり、伏字をよぎなくされた部分もありましてね……」

 花野氏は、そんなふうに語った。

 それでも私は、古い日本主義者のモラエスを、もう一度紹介しなおすなど、とても不可能だ、と心ひそかに考えていたし、今日再建を決議したモラエス翁顕彰会も、はたして永続性があるものかどうか、大変心もとないものだと思った。人びとが飢えと不安に慄えている、昭和二十一年七月一日の時点では、モラエスどころの騒ぎではない、というのが正直な感想であった。

 第一、拠りどころであるモラエス文庫は焼けてしまったし、焼失した図書館は県庁の片隅で仮住居で、蔵書らしい蔵書は皆無、建物もいつ復興するのか目ども立っていなかった。今日の十八回忌だって、幸い潮音寺が焼け残り、その焼け残った寺に、モラエスびいきの詩人坊主がいたから、何とか執行できたのではないか。それに図書館の方だって、古い職員の佐々木司書がいたから、モラエスの命日を思い出したのだろう、とくに佐々木氏は僧侶兼業の人だから……、などと私は思いながら、白髪のふえはじめた花野氏が、潮音寺を出て行く姿を、わびしい気持で見送ったものだった。モラエスの本の出版を、後年私が熱心に斡旋したのは、このときの花野氏のうしろ姿が、いつまでも心に残っていたからである。

 敗戦国の日本では、モラエスの本が出版できるかどうかという一事は、その後長く、私の自問する宿題になった。私はモラエスの事蹟を尋ねたり、話を訊いて回ったり、著書を読み返したりした。

 

 モラエスの本は、そのすべてがポルトガル語で書かれていて、神戸で出した『茶の湯』以外は、リスボンあるいはポルトガルで出版されている。日本語に訳して、日本人にも読ませたい、と交渉した人に生前のモラエスは、

「私の本は、母国ポルトガルのために書きました。日本人が読んでも興味はないでしょう。日本人なら誰でも知っていることを紹介しているだけです。それに、日本人が読むと、私流の、まちがった独断的な解釈も多いでしょう」と答え、婉曲に拒んだという。

「日進月歩」を合言葉に、しだいに発展する明治、大正の日本に住んだモラエスは、衰弱していく母国を憂え、人びとを刺激し鼓舞激励するために、日本の研究と紹介をしたのではないだろうか。そう思って読めば、『日本歴史』や『日本精神』や『日本通信』には、日本讃美の文章のなかに、〈東洋の小さな島国日本でさえこうだぞ! 輝かしい伝統と歴史を持ち、かつては地球上の二分の一を支配した海軍国ポルトガルよがんばれ! 世界一の植民地保有を誇った母国は亡びつつあるではないか!〉と、烈々の愛国の情熱を吐露しているような気がした。

 おそらくそうにちがいない、日本を誇張的に紹介した彼の真意は、ポルトガル人の奮起を促す目的だったろう。とすれば、敗戦によって自信と誇りを失って、虚脱と混迷のなかにいる日本人に、モラエスの著書を読ませることは、日本独自の、日本人さえ気づかないような、伝統や思想を反省させ、気づかせる効用があるかもしれない。かつてモラエスが、母国の人の自信と希望恢復のために執筆した本は、日本的なものすべてに絶望している日本人自身に、希望と勇気を与えるかもしれない、と私は、彼の著書を読み返しながら思った。

 第二芸術論だとか、日本美の再発見だとかいった言葉が、ジャーナリズムをにぎわせるころになって私は、そうした評論を書いている人たちの意見が、それら、なにがしの大学教授といった人だけの創見ではなく、三十年も昔に、モラエスが取りあげ考察しているのを知って、大変面白いと思ったことがある。

 日本の芸術や建築、とくに絵画や短詩型文学に多く論及している『日本通信』の完訳を、私は花野氏にすすめたりした。発表のあてもないモラエスの翻訳を、コツコツつづけている花野氏に、そのころの私は、一種の憧憬を感じていた。

 モラエスに憑かれた人――だ、と思って。

 そして、私自身もまた、すでにモラエスに憑かれていることなぞいっこうに気づかず……。

 

     

 

 継続して行なわれるかどうか、私が危惧していたモラエス忌は、毎年行なわれるようになった。モラエス翁顕彰会も、形式的ではあったが再建された。

 戦後の世相はまだ落ちつかず、年一回の法要を営むのがせいいっぱいで、顕彰事業らしい仕事はしようにもできなかったけれども、梅雨あけを告げる雷鳴が、雨雲がを吹き払う季節がくると、徳島の新聞はモラエスの記事を大きく取りあげる。そして、七月一日のモラエス忌は、徳島の年中行事の一つとなった。

 そのころのモラエス忌は、人の集まりも悪く淋しかった。その淋しいモラエス忌に、私は二度ばかり出かけたように思う。

 私の経営していた「アテネ書房」は、貸本屋から古本売買業に変貌してゆき、店が忙しくなったのを機会に私は結婚した。仲人は、潮恩寺の例の詩人坊主だった。たぶん彼は、下宿人である私の同居がうるさくなったのであろう。実に熱心に世話を焼いてくれた。

 平凡な見合結婚だった。狭い店を改装して畳を二枚いれ、私の新婚生活が始まった。古本と同居の蜜月は半年くらいしかつづかなかった。新刊書店の復興に押され、あわてて新刊雑誌などをならべてみたがすでに手遅れだった。そのうえ、都市計画に、店の半分ほどがかかって、取りこわされることになったため、私たち夫婦は田舎へ引っ込み、貸本業を兼ねた新刊書店に転向した。

 その間に長女が生まれ、私の徳島市へ出る機会は少なくなっていったから、モラエス翁顕彰会ともしだいに縁切れになった。生活に追われつづけていた私にしてみれば、死人のモラエスどころではなかったのである。

 

 前後六年ほど、失敗つづきの書店経営をやり、厖大な借金をつくった私は廃業した。この時代は、戦時下同様モラエスを忘れていた歳月であった。いや一度だけ、思い出すことがあるにはあった。

 私の年長の友だちに、有馬という小説を書く男がいる。モラエスの住んでいた伊賀町の近くで育った人である。阪神行の汽船会社に勤める有馬君は、そのころ体が弱く、毎日のように熱を出して会社を休んでばかりいた。ある日、彼が喀血したというので、暇をみて見舞に行った。薄暗くした部屋で、床のなかに蒼白い顔を横たえて本を読んでいた有馬君は、私をみると本を置いて力のない微笑を浮かべた。

「弱ったなあ」

 と言うと、

「いや、たいしたことはない。喀血は今までに、もう何遍となくやっとるから経験ずみじゃ。好きな本でも読んで、しばらく静養するつもりだ」

 思ったより大きい、元気な声で答えた。

 茶を運んできた有馬君のお母さんは、私に茶をすすめながら、彼が先刻投げ出した本をゆっくり閉じた。

「これモラエスさんの本と違うかえ?」

 母堂が尋ねた。

「そうですけど……。ああ、そうや、お母さんは、モラエスさんを見たことがあるでしょう……」

 突然、気負い込むように有馬君が言った。

「そりゃ見ましたよ、何度も。それに、お前は記憶にないだろうが、私はお前のお蔭で、モラエスさんのところへ謝りに行ったことがあるのですよ」

 母堂は、一度閉じた本を開いて、口絵の写真を眺めた。何事かひとり頷きながら有馬君のお母さんは、しばしそれに見入っていた。そこには、例の鳥打帽子に殿中(でんちゅう)姿のモラエスの写真があった。書名を尋ねずとも、『徳島の盆踊』であることが私にはさとれた。

「ぼくのために、モラエスさんに謝ったって……、いったいどないしたの?」

「こんなにして、お前は平気でモラエスさんの本を読んどるけんど、子供のときお前は、モラエスさんに石を投げつけてな……」

「へーえ」

 有馬君は床のなかで、身をよじるようにして素頓狂な声を出した。

「気の毒なことに、モラエスさんの額から血が出てね……」

「それで謝りに行ったの……。ぼくは全然記憶がないんだがなあ……。ぼくも相当な悪童やったんやな」

「ええ。ほんまに悪い子でしたよ。餓鬼大将の親玉で、もうまあ、ずいぶんと困りました。モラエスさんのところへお詫びに行ったのは一遍きりだけれど、近所へはよく頭をさげに行きましたよ」

「子供のときのいたずらとはいえ、気の毒なことをしたもんやなあ。モラエスさんてすばらしい人やのに」

「まあ、あのころの新町小学校の男の子で、モラエスさんにいたずらしなかった子はいないやろうけど、お前は額に傷つけたんやから……。女の子まで混じって、唐人、唐人いうて囃したてて……」

「こらあかん。モラエスさんの本を置いてあったばかりに、お母さんからおこられてしもうた。今日から、ちっと心して、地下のモラエスさんに謝りながら、この本を読まんといかんわい」

「もっともね、石を投げつけたり、悪口言って囃したてるのはちっちゃい子でね、それも、モラエスさんが徳島へ来た当座のことやったわ。あとは誰も気にしなかったし、かまいつける人もいなかったようでね、モラエスさんの方も、すっかり徳島にとけ込んどるふうやったし、見慣れているうちには珍しゅうなくなったのじゃろうか」

「ボクは小さかったから怖かったんですよ。母の実家が大道の足袋問屋でして、そこへ来ているのを見ましてね。つかまえられて喰べられてしまわないかと思って……。ボクは徳島に住んでいなかったから、何度も見たわけではありませんが……」

 そのとき私は、モラエスの容貌より、戦災寸前のモラエス文庫を見て感じた、えたいのしれない感動がよみがえるのを覚えた。一見、汚ならしい感じの、奇妙な遺品の数々を私は思い出していた。神秘な生活のにおいが感じられた、モラエスの徳島生活を偲ぶ遺品も失われたのだ、と思いながら。

 

 やがて書店の経営に失敗した私は、先輩の世話で県立図書館に就職した。本好きの文学青年である私は、図書館づとめがひどく気にいった。再び宮仕えはすまい。との敗戦の年の決心などすっかり忘れていた。昭和二十七年九月のことである。

 この図書館就職が、再び私をモラエスと結びつけてしまう。モラエス風にいえば、《輪廻(りんね)はめぐる》である。

 戦災で焼け、再建された図書館は、昔の県立光慶図書館の後身ではあるが、名称も変わり、まるっきり昔のそれと違っていた。もちろん、モラエス文庫は壊滅していたし、就職の翌年の五月ごろまでの私は、モラエスとの因縁が再燃するなどとはつゆ気づかなかったのである。ところが、私の担当事務のなかに、モラエス翁顕彰会事務局の仕事が含まれていた。顕彰会の事務所が図書館にあることなど、とっくに忘れていた私であったのに。

 

  第一章 モラエスワルツは

 

     

 

日本へヒョッコリ来たばっかりに

阿波の女に魂をぬかれ

来なけりゃよかった徳島などへ

モラエスワルツは 頭が悪つ

 

おヨネやコハルと寝たうれしさに

母国は消えたわ忘れたわ

情痴にふけった女は死んで

それが苦労の初めになった

 

きづよく一人でがまんをしては

お墓に詣って十七年

なんとか生きたが病気にゃかてん

モラエスワルツは 体が悪つ

 

母国へ帰ろと気づいたときは

すでに老いぼれ口惜しや

中風にかかって手足もたたず

好色ワルツは 戒めワルツ

 

 芸者ワルツの替歌である。

 歌はあらかじめつくられてあったものではない。墓掃除という、陰微でシンドイ作業のなかで、ふと口をついて出た。

 モラエスワルツという言葉に、頭が悪いとひっかけたのは、黒駒周吉であった。最初耳にしたとき私は、何のことだかよくわからなかった。

「どうだ、わからんか。石頭め! このあたまという文字をあてるんだ。モラエスは、あまり頭がよくなかったのさ。そう思わないか」

 泥まみれの手で、黒駒周吉は自分の頭を叩いてみせた。

 雑草のなかへひざまずき、草をむしっている黒駒の上にも、墓石にとりすがるような恰好で、竿石を洗っている私の上にも、真夏の太陽が照り、頭が燃えるようであった。

「七月一日なんて、くそ暑いときに死にやがって、ほんまに頭の悪いヤツじゃ。さっさとリスボンへ帰っておりゃいいのに……」

 口汚くののしりながら、しごく神妙に、一本、一本ていねいに黒駒は草を抜いている。

 モラエスワルツの合唱は、低くなり高くなり、ときにはやけくそじみたどら声になって、見渡すかぎりの雑草と墓と、くずれた土塀のつづく寺町の、墓石の聚落のなかから虚空に散っていく。

「この苔おちよれへん。もうこのくらいでええか……」

 一〇〇メートルばかり離れた井戸から、せっせと水を運び、モラエスの墓石をタワシでこすっていた私が言った。

「どれ、綺麗にならんか」

 草のなかから黒駒が、まぶしそうに見上げて答える。やがて彼は、汚れた手をだらんとのばしたまま寄ってきた。

 額も頬も、泥と汗にくまどられて、西部劇のインデアンか、歌舞伎の荒男そっくりの黒駒が、処置なしだな、といった表情を示して、

 ヴェンセスラウ・デ・モラエス之墓

 と刻んだ、和泉砂岩の碑銘をみつめる。

 竿石には斑点状の苔がくっつき、綺麗になった部分とひどく対照的だった。ふと私は、複製によって今日に残された写真ででもあらわな、モラエスの顔のシミを連想した。高齢な老人によくみかける斑点が、晩年のモラエスにも多く出ていたという。

 私たちの頭上には、じりじりやきつけるように日が輝き、作業を中止して立っている間も、汗の玉がいやおうなしに噴き出してくる。墓石も雑草も、陽光のもとに畏伏し、時刻が正午に近づいていることを、翳を失った日射しが示していた。

 徳島県立図書館奉仕係である黒駒と私は、朝からモラエスの墓の掃除にかりたてられていた。どのように、どのていどやれという命令が与えられたわけでもなく、傍に監督の上司がいるわけでもないが、県立図書館に事務所を置く、モラエス翁顕彰会の仕事が自分の分掌事務のなかに含まれているという理由によって、奉仕係の下っぱである二人は、強制労働同様の作業に従い、はかばかしく進まぬ仕事に倦んでいた。

 徳島の夏は、梅雨の終りと同時にくる。暦の上ではともかく、陰雨の降りやむのはきまって六月の末である。そして、梅雨あけには、これもきまって大雷雨がある。六月二十五日ごろ墓所清掃と、黒板の業務予定表に記入して以来、始めてのモラエス翁顕彰会の仕事を担当する私と黒駒は、しとど降る雨空を眺めて、作業を一日のばしにのばしてきた。「雨が上らにゃ、明日はみの笠つけて墓掃除か……」退庁間ぎわに黒駒が嘆いたのは昨日だったが、暮れ方から遠雷がひびき、夜半には豪雨が雷鳴を呼び、太平洋上はるかに去った。

 昨日の雨空や雷鳴が嘘のような、何ひとつさえぎるもののない紺碧の空から、赤黄色の太陽が、地上に満ちた水分という水分を、むさぼり取るように輝き出すのを待って、バケツ、クワ、タワシ、鎌などを携行した私たちは、潮音寺の墓地へ来てもうたっぷり二時間は経っていた。

 作業は一日の猶予も許されない。モラエス翁第二十五回忌法要の行なわれる、七月一日は明日であった。

 暑さは数日前からで、むしむしする湿潤な空気のなかで、気温はぐんぐん上昇していたが、太陽が顔を出してみると、さすがにそれは苛烈であった。まさに真夏の到来である。徳島の夏はいっこうにからっと乾かない。寒暖計がのぼり、湿度計がのぼる。一日じゅう肌がべとつくのは多湿な風土のせいだ。《徳島の夏は人間を狂気においやる》と、モラエスはその著「徳島日記」のなかで述べているし、《――夕方になると、すこしそよ風が吹くが、蚊の呪いも襲ってくる。わたくしたちは洗濯した浴衣で街頭へ逃げだす。この暑さ、そのむせっぽさ、この暑さのためにわたくしたちは生活の難さを思い、短気になる。また、ものに堪える力を生む一種の麻痺状態、なかば無感覚な状態にもなる。同時に、とくに貧しい階級は、怠惰、狂気、破滅に引き入れられることが多い……(花野訳)》と、「友への手紙」に徳島の夏を描いている。

 

 同じやるなら綺麗にやろう。義務的儀礼的にするくらいなら、最初から墓掃除などやらぬがいい。黒駒周吉と私は決めていた。

 誰に頼まれたでもない。が、ただなんとなく徹底的にやろうと思ったのは、担当している仕事への責任感や愛着からではない。まして、モラエスへの敬慕や愛情ではさらさらない。言うならば、日本の片田舎、徳島の陋巷に老い朽ちた一人の毛唐への憐憫一片の情である。そまつな、小さな墓石、その下に彼の残骨のいく切れかが埋められているという事実ゆえの……。

 雑草は驚くばかりの草丈である。刈ったり、抜いたりしておいても、一雨か二雨あれば、すぐ元通りの状態になる。背の低い墓なら、一週間で萱草のなかに埋没してしまうだろう。

 芸者ワルツの替歌は、そのほとんどを黒駒周吉が口から出まかせに歌った。私たち図書館の若い職員の間にちょうど、替歌づくりが大流行していた。詩人志望の黒駒は、わけても替歌づくりの名手であった。その彼が異様な声で「モ、ラ、エ、ス、ワルツは、ア、タ、マが、ワ、ル、ツ」と歌ったとき、アタマというのが、ほんとうにのみこめなかった。「え、え、何だって……」私はきき返したくらいだった。

 ちょうどそのとき私は、バケツの水を、何杯も何杯も、墓の上からそそいでいた。

「色香に迷うって言うけどね、死んだ女の墓守に、徳島くんだりまでやって来て、老いさらばえて惨死するなんて、悲劇だが、見方を変えれば美談でもあるね」

「そうだなあ。死んでまでモラエスを引き寄せ、徳島へ走らせ、とうとうここにつなぎとめたのは、福本ヨネなんだからな」

 黒駒が、背後に立つ福本ヨネの墓を仰ぎながら、しんみりと言った。福本ヨネは神戸駐在総領事時代のモラエスの妻である。そのおヨネの墓と斎藤コハルの墓は、二メートルと離れていない。

 モラエスは、斎藤コハルと大正五年まで暮らした。同年肺結核でコハルが死んでからは一人ぐらしで、コハルの母ユキが家政婦として世話をやいた。コハルはユキの長女であり、福本ヨネの姪にあたる。コハルの墓をモラエスは、ヨネの墓を望み得る地に建てた。そのコハルの墓にモラエスは借り住いである。彼女の戒名のある面の真裏に碑銘を刻んで……。よくいえば比翼塚、悪くいえば兼用墓。徳島の人はうまい言葉を発明した。

 (いわ)く。回転墓――。

 故老は、これをうまく説明する。

 コハルの戒名が前に回っているときは、モラエスは確かに裏面だが、モラエスの墓という碑銘が正面を向いているときは、コハルの方が裏だ。回転墓だから裏も表もない、――と。

「死んだおヨネがモラエスを走らせた。と、今君が言ったが、死んだモラエスも、ボクたちを走らせているじゃないか」

 私は笑った。「そうだ」と黒駒も笑う。私は、自分の言葉に酔い、しだいにおかしさがこみあげ、タワシを握ったままゲラゲラ笑いころげ、隣の墓に腰をおろして腹を抑えた。

「美談か……」

 と黒駒は呟き、

「墓に詣って十七年じゃなくって、墓を守って十七年だからな。たいした執念さ、まったく。おヨネさんは、きっといい女だったんだ。だから頭までいかれたんだろう。まるで脳梅毒症状だ。まあ、あまり利口な人のすることじゃないな。利口なヤツは耽溺できねえから……」

 とつづけた。

 笑いを抑えて私は立ち上った。幼いころに覚えたうす気味悪さの主は小さな青石となり、目の下に在る。墓を洗いながら、ザマーみやがれ、といった復讐じみた快感が、私の心のなかをふとかすめた。

「利口でねえから、頭が悪つさ」

 彼は真面目な顔つきであった。

「頭も悪かったのかもしらんが、この墓も頭がワレトルがな」

 私はオドケて言った。

 ここで、モラエスの墓石について、少し語っておこう。それに、撫養石(むやいし)についても。

 撫養石については、さほど薀蓄を傾ける必要もあるまい。色は緑青。したがって青石といわれるが、これは正しい呼称ではない。徳島県撫養町(現在は鳴門市内)付近で多量にとれる和泉砂岩の一種。墓石用としては最低の、質の悪い石材である。何よりも耐久力に乏しい。雨風と歳月にさらされると、水を吸引したベニヤ板同然、二ミリ乃至四ミリの厚みで、ボロボロと板状になってはげる。

 幸いモラエスの墓は、墓石の表裏や側面はぶじだが頭をやられている。空襲の際に焼けて亀裂が生じたのだとも、博徒が鉄火場にのぞむとき、墓石の小片を欠いて携行すれば、勝負運がつくので、壊わす者があるのだともいう。もろい岩質の撫養石は、しだいに頭の角が欠け、上辺が醜くくぼんでいる。

 頭がえぐりとられているほかに、回転をさせて拝む墓のことだから、墓の下部、台に触れている部分がまるく磨滅している。回転墓などと呼称してみても、回転用の金属軸など入っているわけではなく、礎石の上に載せたふつうの竿石を、ぐるぐる回すわけだから、石が傷むのは当然である。

 モラエスを詣りに来た人は、モラエスの碑銘を前にしておがむし、斎藤コハルの遺族が来ると、彼女の戒名を表面にする。噂の域を出ないが、斎藤家の人たちは、コハルの戒名が裏側になることを好まぬ、と黒駒も私も前任者から聞いていた。「この墓は、コハルの墓ですけん、コハルの戒名が前に出とるのが正しいんです」と、斎藤ユキがよく口にしたという。

 裏を向いているときにはモラエスの墓が判らないからか、台石の正面に、横がきで、「ウェンセスラウ・デ・モラエス之墓 西暦一九二九年七月一日歿」と刻んである。ところがこの文字はあまりにも小さく、よほど気をつけないと目につかない。私も、墓を洗い始めてから初めて気づいたくらいだった。

《斎藤ユキには、いくばくかの金を与えてあるから、自分の骨をコハルの墓に葬ることを、許してくれるであろう。墓石は別に要しない。コハルの墓石の裏面に、名前の死歿の年月日を、日本文字で彫り込むだけでいい。ただしこれは、あらかじめユキの同意を得て実行すること》という、モラエスの遺書に従って、奇妙な回転墓ができた。

 斎藤ユキの同意を求めるには、モラエスの葬儀のいっさいを世話した方面委員、前田正一や近隣の人びとの説得があったという。

 ところで、斎藤コハルとモラエスの墓は潮音寺にあるが、それに、モラエスが金を出してやった斎藤千代子の墓もあるけれども、潮音寺は斎藤家の菩提寺ではない。斎藤家の菩提寺は安住寺という。安住寺も寺町にあるが寺町の西のはずれで、潮音寺とは五〇〇メートルもへだたったところにある。それに、潮音寺は臨済宗で、安住寺は真言宗だ。戦災で焼けていた安住寺が復興してからは、モラエスの法要も安住寺の方で行なわれる。

 斎藤千代子はコハルの妹だ。「きもの……それとも、お金?きもの?というモラエスの小品のなかに出てくる少女で、大正七年、十三歳で死んだ。彼女はモラエスに可愛がられ、彼の家へしょっちゅう遊びに来ていた。あるとき、

「着物を買ってあげようか? それともお金をあげようか?」とモラエスが言うと、単純明快に「お金!」と答えた。《貧は幼ない少女に経済を教え、合理主義者にさせる》とモラエスは述べ、《彼女は、私の金をいくばくか盗んだこともあったが、()のいい少女だった》と描いている。

 ついでにいえば、コハルと千代子の間に、マルエがあり、末弟を益一という。父は寿次郎。ユキと寿次郎夫婦の間には、もっと子供があったらしいが、夭折したとかでつまびらかでない。モラエス歿後までいたのは、マルエと益一の姉弟と、母親のユキである。

 

「草抜きもかなわんが、墓洗いも大変じゃのう。どれ、分業はやめて共同作業といくか」

 黒駒もタワシを掴むと、私とは反対側をゴシゴシやり始めた。

 昭和二十八年六月三十日午前十一時四十五分。小さな墓石の両側にとりついて、まるでそれを愛撫するかのように、また反面いらだたしげに、ゴシゴシやりながら、口から出まかせの「モラエスワルツ」を歌う私たちを傍見した人があったら、狂気の沙汰と驚いたであろう。もっとも、正午に近い真夏の墓地を、散策するような酔狂者があるわけはなかったが……。

 徳島で死にやがって、ほんまに徳島なんかで死にくさって、おれたちにまで迷惑かけることないやないか。死んでもう二十四年になる外国のオッサン。もう汗びっしょりや。帰りに新しいランニング・シャツを買わんとあかんワイ。めんどうかけくさって。ほんまに暑うてかなわんぜ……。ボヤき、ワメき、それでも懸命の作業。神妙な顔をして。

 綺麗にみがきあげてやろう。愛犬家が犬を洗うにも似た心構え。おれなんかが、パリーやリスボンの女にほれて、ヨーロッパの片隅で死んでみろ、誰ひとり鼻もひっかけてくれへんやろうに。考えてみたら倖せな毛唐や。おれたち、何んで、この毛唐の墓洗わされるンや。おれ、じいやおやじの墓なんて洗ったことねえぜ。第一、ここ四、五年詣りにもいっとれへん。黒駒が嘆く。

 ボクかてや。おやじは健在やが先祖の墓なんて洗ったことはない。第一、祖父の命日さえしらへん。タワシで墓洗いするなんてヘソノオ以来のコッタ。互いに悪罵を投げ合いながら、手はゴシゴシ。思い出したように、モラエスワルツ。他の歌が出ることもあったが、私たちはモラエスワルツがひどく気にいった。作業をつづけるうちに、奇妙な陶酔と感動が、じわじわ私たちを包み始めていた。モラエスワルツも、口から飛び出す悪口も、ずいぶん低劣な口ぎたないののしりだったが、私たち以上に、かつてのモラエス翁顕彰会係が、墓掃除に丹念さを加えたとは思えなかった。私たちが落としている苔は、決して二年や三年でついたものではなかった。

「おい。ボクたち文学青年やから、少し感傷的になっとるのとちがうか。それとも、やっぱりモラエスを尊敬する心がちっとはあるんやろか」

 ふと私が言った。黒駒は答えず、

「そうや、ええことに気がついた。ひとつ綺麗な水汲んでくるワ」

 バケツを提げて、潮音寺の後庭の方へ去った。

 

「なあ。この墓をバケツのなかへつけて洗おうやないか。中腰になってやるのはかなわん。それに、いくら水ぶっかけても、すぐ乾いてしもうて、うまいこと洗えんやないか」

 水を汲んできた黒駒が言った。

「そらええ案じゃ」

 二人は、竿石を抱えてバケツへ入れた。小さい墓標だが、持ってみると、かなり重たく、ずっしりした感じだった。

 三十分もかかったであろうか。何度もバケツの水を取り換えてタワシでこすると、さすがに苔むした竿石も、いくらか輝き、洗っただけの効果があり、あたりの墓のなかでひときわ目だった。

 台石の上に墓をのせ終った私と黒駒は、ともかく満足であった。

「この石はな、あまり水を吸わせると弱くなるのやけどね」

 私が言う。

「綺麗になったやないか」

 と黒駒。私は撫養石の性質について一席ぶった。

「そうか。あんがいもろいのやな。でも、まあええわ。来年まで、誰もこんなに念入りな掃除はせえへんやろから」

 黒駒はしごくご満悦の態であった。

 午後は二人で草を抜いた。

 草は墓の周囲のみを抜けばいいのではない。七月一日には、墓参者が多いので、くずれた土塀の入口から、福本ヨネの墓の前を通って、鍵の手に曲り、モラエスの墓に至る通路全部を、整地し草を刈るのである。抜いた草が、たちどころに生気を喪い、太陽でしおれ、乾いていくのが励みになった。

 

 おヨネとコハルに鼻毛をぬかれ

 ここに冷たい石になり

 見知らぬ者に掃除をさせる

 これを苦労といわずにおられましょうか

 

 玉の汗をしたたらせ、地にはらばい、草抜く生者を、磨きあげられた、死人の象徴にすぎない撫養石がへいげいしている。奇妙な姿勢で、奇妙な感情で、奇妙なほど丹念な除草作業を、やめようともしない私たちを、地下のモラエスは何と思ったか。

 作業を終え、疲労困憊して帰るころになって、黒駒も私も、頬やら腕やらを、やぶ蚊にさされているのに気づき、顔を見合わせてニガ笑いした。

 

     

 

 いよいよもって悪縁だった。

 好むと好まざるとにかかわらず、死人のモラエスは、妙に私をひき寄せる。

 何はともあれ私は図書館員であり、モラエス翁顕彰会の一係員である。事務担当者である以上、墓掃除も祭壇づくりもやらねばならない。「暑いときやし、まあ適当にしておけや。少しはやっておかんと、顕彰会は掃除もせん、と悪口いうモラエス信者もあるんだ。何も図書館がしなくとも、てめえたちがすりゃいいんだが、墓掃除と法要は図書館の仕事に決まってしまったような習慣が、いつのまにやらできちまってね」直属上司である主任が、今朝、私と黒駒を慰めるように言った。

 かつてモラエス文庫が図書館に保存されていて、法要の世話と顕彰会の事務所を引き受けていた戦前からの習慣が、今日におよんでいるわけだ。が、毎年なにがしかの人が集まり、見も知らぬ毛唐の法要を営み、二十五年もつづいているのは、モラエスのなかに何かそうさせる魅力のようなものがあるのか、不幸な境遇のなかで淋しく死んだ外国人への、徳島市民の庶民らしい共感なのか。

 モラエス歿後二、三年して、長崎県から徳島県へ転任して来た湯本二郎という学務部長があった。長崎でシーボルトの顕彰に功があった人で、徳島へきてモラエスのことを知るや、さっそく力をいれて顕彰事業の計画をたてた。

 外務省を動かし、駐日ポルトガル公使にまで働きかけての、大々的なモラエス七回忌追悼法要の発起も、モラエス記念館の計画も、すべてこの学務部長から出た。七回忌法要は一応成功をおさめ、花野富蔵訳『日本精神』も、その記念出版として刊行された。モラエスの著作の邦訳刊本第一号である。

 ところが、モラエス文庫を中心にして大記念館をつくり、松江の小泉八雲記念館の向こうをはろうという計画は、湯元学務部長の突然の退職に阻ばまれ、設計図ができただけに終った。資金の見通しはまったくついていなかった。責任を感じたのであろう、基金にして欲しいと湯本氏は、退職金のなかから千円ほどの金を県に託して去った。昭和十二年、モラエス歿後八年のことである。その後計画は進まず、寄付金は集まらなかった。

 戦争につづく敗戦。モラエス記念館建設は机上プランに終始し、なかにおさめる予定であったモラエス文庫の、蔵書一八一六冊と数千点の遺品も焼けた。

 湯本氏の託してあった金は、寄付金募集用趣意書の印刷代や、毎年の法要に使われていたが、敗戦の際まだいくばくかが残っていた。残金は県の金庫に眠ったまま、戦後のインフレで貨幣価値を失った。爾来、徳島県では、図書館の予算のなかに、法要に要する実費を組むのが恒例になった。

 私と黒駒が担当したときの、すなわち昭和二十八年度の予算は、たった千五百円であった。法要通知用の葉書を買い、安住寺の会場借上料とお布施、なにがしかの花でも買って供えると、予算は綺麗におしまいである。墓掃除のために、人夫を傭うことなど、とうていできない相談であった。

 

 墓掃除に持参した用具と、図書館の物置へしまったのち、私と黒駒は浴室へ飛び込んだ。風呂がわいているのではないが、そこには水洗いの設備がある。

「コハルさんの遺族を、今から探しに行ってみないか」

 体を拭きながら、急に黒駒が言った。

 シャワーを浴びていた私は、すぐ答えなかった。水しぶきを頭から浴びながら、心地よいしばしの瞑想に身をまかせ、バケツの水をぶっかけたときの、石塔の心を思っていた。そして、水滴越しに、名前とは逆に真白な黒駒周吉の裸身をぼんやり見ていた。黒駒は、肌の白いのと、房々とはえ揃った胸毛を自慢にしていた。それは、同性の私が眺めても、みとれるほど見事であった。

「おれたちにわかっているのは、マルエさんがどこか市内へ稼いでいるということと、ユキさんと益一さんが、戦争末期に大阪方面から徳島へ帰って来らしい、ということだけだが、堀淵あたりで尋ねたら、あんがいわかるかもしれないぞ。堀淵は戦災を受けていないから、昔のまま住みついている家だってあるかもしれない」

 と黒駒は、潮音寺の墓掃除の帰途買ってきたランニング・シャツを着ながら言った。

 堀淵というのは、モラエスの住んでいた伊賀町の裏山、徳島市の背後に聳える眉山(びざん)の連峰の南端、金比羅山の山すそのあたりから、市街を西から東へ貫いて海へ注ぐドブ川に沿った町の名である。正確には、徳島市富田浦町堀淵という。

 モラエスの著書によると、堀淵、指矩町(さしがねちょう)、掃除町の一帯はいかにも汚ならしい貧民窟で、貧窮と労働に追われる人びとが住まっていたように描かれている。が、堀淵を貧民街と呼ぶのは妥当を欠く。市内には、もっとみすぼらしい、貧乏人の聚落はいくらでもある。しかしそこは、決して豊かな家づくり盛んな人びとの住む一劃ではない。堀を挟んで、この市の遊郭秋田町の大門に対する堀淵は、商売や株で失敗した人が、一時的に身をひそめたり、遊郭の帳場や下働きで世すぎする人が多く住まっていた。遊び人、失業者、さもなければ大工、左官、石工、人夫といった人たちの街――。軒が傾き、平家建の屋根は瓦がところどころめくれ、ペンペン草もはえていようという、八軒長屋や四軒長屋の町である。

 おそらく家賃が安かったのであろう、悪臭のあるドブに沿って、間口の狭い家が軒をすり合わせるように建っていた。大道の繁華街で足袋問屋をしていた、私の母方の祖父が、跡取息子の夭折につづく営業不振から、一時ひっそくしていたのも堀淵の近くだ。正札販売、一銭もまけないから「まからん屋」だ、と屋号をつけ、明治維新後、わざと仏滅の日を選んで、下駄の行商から身を起こしたという変り者の、庄野の祖父は士族の出だった。

 大道で手広く庄野家が商売をしていたのは、おそらくモラエスの死んだ昭和四年ぐらいまでだった。昭和初年の金融恐慌や不況のせいだったのだろうか、ともかく庄野の家は一度没落した。したがって私は、庄野家が隆盛だったころ、大道の家で泊った記憶は一二度しかない。そのうちの一回が、恐ろしい唐人さんとの出会いだった。

 そんなわけで、庄野家の店舗が大道にあったのは、私の幼児のころまでだったが、堀淵に近い長屋にいた時代にも、伊賀町のすぐ東の通りである幟町で小商売をしていた晩年も、私の実家の者や親戚は、庄野家の祖父のことを、大道のおじいさん、あるいはまからんやのおじいさんと呼んだ。祖父のひっそくしていた町は、堀淵のすぐ隣の定普請町(じょふしんちょう)というところで、ドブ川のある道に接していた。堀淵の道は、日の出小路と俗称されていたが、日の出の呼称におよそ似合わないゴミゴミした小路で、朝日が汚いドブに射すと、キラキラえたいのしれない水蒸気が立ち、メタンガスを噴き上げていた。

 私が確か小学二年のときであった。没落した商人とはいえ、町内の顔役だった祖父は、このドブ川をさらえて、コンクリートのふたをし、堀を道路にしてしまう運動に奔走していた。ところが、金がたりず、工事は堀の途中までであった。「堀淵の人が寄付を出さんのじゃ、貧乏人が多いけんのう。ようけ貯め込んで、(ぜに)のある家もあるんじゃが……」と、祖父は嘆いていた。

 日の出小路は、日の出町と改称され綺麗になったが、堀淵の一劃はそのまま残った。日の出町という町名は、祖父が命名したとか。士族であることと、この町名をつけたことが、戦後数年経って死んだ祖父の自慢だった。

 この祖父に私は、モラエスのことをいろいろ訊いてメモしたことがある。もちろん戦後のことであるが、十一文半の足袋を介して、モラエスに接していたから、かなり面白いことを憶えていた。

 モラエスは祖父が武士の裔であるというので、尊敬してくれていたという。家業が失敗したのちも手ばなさなかった、家重代の宝という一振の日本刀があった。二階の押入から従兄と刀をそっと持ち出し、抜いているところをみつかり、こっぴどくしかられたことがある。名刀だとのことで、南紀重国の銘があり、二尺四寸五分だった。この刀は、母の末弟、私の叔父が日華事変の初期、上海上陸作戦に携行し、戦死したとき失われた。祖父はこの刀を、モラエスに一度だけ見せたことがある、譲ってくれとせがまれて困った、と笑った。その話が出たとき私は、

「日本刀は二本あったのでしょう」

 と訊いた。明らかに祖父は狼狽した。

 庄野の家には、家宝の日本刀が元来二本あったはずで、一本は叔父が昭和十二年に戦死したとき運命をともにしたのだが、もう一本の小林伊勢守国輝は残っている、と私の父母は考えていた。昭和十五年に、私の兄が出征することになったとき、母がこの一振をもらおうと交渉に出て、それが大正末期に売りはらわれていたことが明るみに出た。「生活に困って、内緒で売ってしまっとったんじゃと……」母が、父に報告するのを耳にしたとき私は、定普請町の祖父の二階の押入の日本刀は、一振しかなかったことを父母に言った。

「大道の店をたたんだときに、売ってしもうたんだろう」

 と父は言い、兄のために刀を求めるのに苦心した。戦争がかなり進み、昭和新刀と呼ばれた新しいものはあっても、古い刀は容易に手に入らなくなっていた。

 祖父と私が、庄野家の日本刀について語ったのは、確か昭和二十二年のことだと思う。昭和二十一年七月の、戦後第一回のモラエス忌のあと、モラエスの挿話を、ぼつぼつ採集しようと思っていたころであった。

 祖父は、一本の方は、家計が苦しかったから、大正のころすでに手ばなしていた、と低く答えた。

「モラエスさんに売ったんじゃないんですか。しつこくせがまれて……」

 と言うと、

「ばかな、毛唐なんぞに……」

 とやや声を荒げた。しかし私は、祖父の目の奥の、不安と狼狽を見逃さなかった。

「売った方の刀の銘は、小林伊勢守国輝だったのじゃないのですか」

 さらに私は追及した。

「ちがう。いい刀だったが、うちにあったのは無銘じゃった」

 祖父の声は心持ちうろたえていた。

 私は追及をやめ、話をさりげなく他へ移したが、昭和二十年の徳島の空襲以前にモラエス文庫へいりびたり、遺品を丹念に調査したことのある私は、生前のモラエスが居室に飾っていた日本刀が、小林伊勢守国輝の作であると知っていたし、祖父が大正末期に売却したそれも、小林伊勢守国輝の作品であることを知っていた。祖父は刀屋を通じて、ある名家へ売った、と二度ばかり力説した。

 モラエスの遺品である刀剣を見たとき私は、それをどこかで見た記憶があった。それがどういう記憶であるかは、どうしても思い出せなかったが、戦後モラエスのことを、祖父から訊き、談たまたま庄野家の日本刀にいたって、ふと同じ銘だったことを思い出したのだ。

 しかし、その祖父も死んだ。

 伊勢守国輝を、モラエスに譲渡したのではないか? という疑念も確かめる詮はない。祖父は否定していたが、何となく私は、あの刀は……、と思い黒駒周吉に語ったことがあった。

「そう信じたらいいじゃないか。何しろ現物は空襲で焼けてしまったんだから……」

 そのとき黒駒は、笑いながら答えたものである。

 

 堀淵という、ドブ川沿いの汚い町に関連して、祖父のことを私は語りすぎたかもしれない。この堀淵には斎藤家があった。

 ほとんど流れない、ブクブクあわを噴き、メタンガスを発散するドブを見て、斎藤コハルは育ったはずである。もっともこのドブ川も、コハルの少女期には、私の知っているものよりは、いくらか綺麗だったかもしれないが……。

 コハルの母、斎藤ユキの家を、私は庄野の祖父から教えられたことがある。小学生のころのことである。散歩の途次祖父は、

「人間浮き沈みがあるからのう。じいが、今、貧乏しとるからって心配するな。この家のおばはんなんかな、子あらい(子供を育てる)がせこうて(苦しくて)、ずいぶん貧乏しとったが、ひょんなことでのう、外国人の財産もらいよった。それで一遍に金持になりよったんじゃ。何千円ももろうてのう。それでも寄付は出さんのじゃ、人間いつ運が向いてくるかわからん。じいだってのう、もう一回くらい金持になるかもしれんぞ」

 (ひさし)が玄関におおいかぶさるような、家並の低い長屋の一軒を杖で指さして言った。

 隣近所の破れ障子が、醤油で煮しめたような色であるのに、その家だけは、真白な新しい紙を張り、長屋に似合わぬ建具をいれていたのが印象的であった。何千円という金額の響きも、確かに私を驚かせるものを持っていた。昭和初年の、何千円だった。

 空襲で日の出町、定普請町、秋田町と、あたりの街は焼かれたが、堀淵、掃除町、指矩町など、ドブ川沿いの家々は残った。

 戦前からみすぼらしかった一帯が、そのまま残ったものだから、戦後の堀淵はさらに貧しく見える。

 斎藤ユキの一家が、いつごろからこの堀淵に住んでいたのか知らない。ともかく、コハルはここに育った。コハルの歿後ユキは、伊賀町のモラエスの寓居へ、ここから通って家事手伝いをした。コハルの妹マルエが、どこかへ嫁いでいったのもここからのはずである。斎藤ユキが息子の益一とともに、大阪方面へ去ったのは、七回忌の前というから、昭和八年か九年のことであろう。益一の就職のための引越とも、モラエスに関連して、徳島にいづらくなっての移住ともいう。

 真偽はわからない。ともかくそのころから、モラエス唯一の遺族と呼ばれていた、斎藤一家は、(よう)として行方不明となり、モラエス文庫を保管し、モラエス翁顕彰会の事務所を置く図書館とも縁切れになった。

 モラエスさんのことを、いろいろ訊かれたり、訪問する人が増えたので、ユキさんがうるさく思い始めたのだ、と好意的にいう人と、夜逃げのように身を隠したのは、死後モラエスさんの声名があがったのに、モラエスさんに充分尽さなかったのを恥じたのにちがいない、との説をたてる人とがあった。

 徳島で平気で暮らせないはずだ、との悪評を裏がきするような転居であったともいう。

 その斎藤ユキが、徳島へ帰っている、と私や黒駒に伝えたのは、果物屋の小母さん、森房子氏である。

 

 コハルさんの遺族を探してみよう、と黒駒がいい始めたのは、汗まみれの体を拭いつつ唐突に思いついたことではない。

 私と黒駒とが、「モラエス翁二十五回忌法要のおしらせ」というガリ版刷の葉書を、顕彰会長の知事名で発送したのは数日前である。そのとき、黒駒の口から、斎藤家の住所を調査して、法要の案内をしようとの議が持ちあがった。

「法要に来にくいわけがあるのですよ……、いろいろ複雑な事情があってねえ……」

 戦後初のモラエス忌のとき、声を低めて花野富蔵氏が言ったまま、かたくなに口をつぐんだことを、反射的に私は思い出して、そのときの様子を黒駒に告げた。

「へーえ。花野さんが、そんなふうに言ったの……。おかしいなあ。やっぱり何かあるのだろうか」

 黒駒は首をかしげたが、どのような理由があれ、モラエスにつながるコハルの遺族が、顕彰会と没交渉であり、法要に出席しないのは不都合だ、と彼は結論した。

 私の思いも同じであった。

 斎藤家と顕彰会あるいは法要との関係を、できるだけ調べると同時に、法要に出てくるような、正常な状態に持っていこう、と二人は相談した。

 見ず知らずの、図書館のおれたちが、墓掃除をしたり、法要の世話をしたりしているのに、かんじんのコハルさんの弟妹が、知らぬ顔じゃけしからん。徳島市内にいるというのに。戦中戦後のあわただしい時代ならともかく、戦後は遠くなりにけりの今日だぜ、七月一日という命日を忘れるわけもないやろう。法要のことは、毎年新聞に大きく出るのだし……。それに、モラエスさんの死んだときには、相当遺産ももらっているというのに……。

 団扇をついかいながら黒駒が、ゆっくり体を拭いている私に言いつづけた。墓掃除くらいは遺族がすべきだと、今日の労働から黒駒は思い始めたのであろうか。

「よし、一緒に堀淵へ行ってみようか。ぼくは、元斎藤ユキさんの住んでいた家を知っているんだ。あの辺で、マルエさんがどこへ嫁にいったのか訊いてみよう」

 疲労はかなり残っていたが、声だけは元気に応じた。

 遺族を探して、巷間に伝わっている、さまざまな臆説の真偽を確かめてみよう、と私もいささか興味をかきたてられていた。

 モ、ラ、エ、ス、ワルツは

  ア、タ、マがわるつ……

 どら声を張り上げて、団扇で顔をあおぎながら、浴室を出る黒駒につづいて、私も靴をはいた。

 仕事を終った主任が、手拭をさげて浴室の方へ来た。

「それなんや?」

 主任が私たちに訊く。

「モラエスワルツ。新作です。要するにモラエスは、あまり偉い男じゃなかったという……」

 黒駒が説明して、歌ってみせた。

「こいつはいいや」

 コンクリートの渡り廊下で、腰をおりまげるような姿勢をして主任がゲラゲラ笑いころげた。

「モラエスワルツもいいけど、おれが尋ねたのは歌じゃない。お前さんたちの顔さ」

 笑いをようやく抑えて、主任が言った。

「ああ、これ……」

 黒駒はアゴを抑えて、主任が言った。

「潮音寺のやぶ蚊ですよ。モラエスワルツなんかつくってね、悪口いいながら掃除しよったから、モラエスさんの精霊が蚊に化けてきよった」

 黒駒は笑い、私は一番ひどく腫れている腕を、主任の前につき出して見せた。

「やぶ蚊にやられたのか。スゲエことさされよったナ。実際あそこは蚊が多いからなあ。おれはまたうるしにでもかぶれたのかと思った」

 さも愉快だといったふうに主任は、再び笑いころげるのであった。

 

     

 

 黒駒周吉と私とは、斎藤コハルの遺族探索に出かけたが、わずかの地面に小さい家がゴミゴミとならんでいる堀淵は、いくらか迷路じみて、斎藤家の旧居を知っている私も、とまどうくらいだった。

 斎藤ユキの旧居には、昭和二十五年に移って来たという人が住み、両隣りは戦前からだというものの、昭和十五年ころからの住人で、斎藤ユキとか、斎藤マルエなぞいう人は聞いたこともないという。

 次々あたりの家を訪ね、大正時代から住んでいる一軒をみつけたのは、午後八時にもなってからだ。

 その家は、堀淵でもとりわけみすぼらしいボロ家で、襖や壁を映画の広告や新聞で貼っていた。玄関まで蒲団を敷いて子供を寝かせてあった。大家族であることが、一目で見られた。蒲団の裾と壁とのわずかな空間にうずくまるようにして、旧式ラジオを聞いていた顔色の悪い男が、せき込むように訊く私たちの言葉に、

「さあね。うちは昔からここに住んでいるんじゃけんど、去年、年寄が死んでしもうたけんのう。家内が知っとるかどうか……」

 と、ものうげに答えた。

「おーい。カアちゃん、斎藤いう家が、昔この辺にあったかのう。昭和八、九年に大阪へ越していった家じゃ、ちゅうんじゃが……」

 男が奥の方へ声をかけた。

「へえ、何ぞい? おおけな声だして……、せっかく子供を寝かせよるんに」

 奥は台所かと思っていたのに、そこにも夜具をのべているらしい。もぞもぞ闇にうごく気配がして、乳呑児を抱えた女が胸をはだけ、乳房を含ませながら出てきた。

 化粧気のない、肺病やみのような女をみて、あっ、と私は驚いた。

 出てきた女は、私の知っている愛ちゃんという女だ。学生のころ、私たちがよくたむろした、徳島駅前の喫茶店に彼女はつとめていた。

 テーブルにおかれた植木ごしに、カウンターのあたりに立っている愛ちゃんを、黙って眺めるだけで、私たちは慰めを覚えたものだ。戦争で荒廃した時代――。代用コーヒーをすすりながら、日本の運命を語り合った私たち――。青春を公に捧げることによって、国の青春をよみがえらせるのだと教えられ、人生二十年と叩きこまれていた私たちが、その喫茶店へよく集まったのは、愛ちゃんのせいだった。

 彼女は、その若々しい優しさで私たちに生きる希望と勇気を与えてくれた。黒いまつげにかこまれた、つぶらな目の明るい少女だった。私たちは彼女をマドンナと呼び、何人かで彼女を張り合っていた。といっても戦時下の学生のことだ、顔をみつめるのと、軽い冗談をかけるだけの、実に淡い恋情であった。

 常連のなかでも、鈴木という私の同級生が、彼女に一番接近していた。鈴木は愛ちゃんと映画に行ったとか、接吻したことがあるとかの噂があり、閉鎖的で内向型の私なぞ、彼女にあこがれながら、軽口のひとつもいえなくて、ひどくうらやましかったものである。

「おい、鈴木がな、愛ちゃんに少しのぼせとるんじゃが、あんまり接近しないうちに注意してやってくれ。君は鈴木の親友やから……。彼女、おれと小学校の同窓なんじゃ。美人は美人やが、何しろ彼女、家が堀淵やからな。うるさいことになると困る」

 と、クラス・メートの賀川から言われたとき、私はいささかギクッとした。

 じめじめと荒廃したドブの町から、綺麗な服を見事に着こなし、清楚な感じの愛ちゃんが通勤している……。堀淵と美人とのイメージが、私の内部では重なりにくかった。

「おれが何とかして誘惑したい、と思っておったのに……」

 力なく呟く私に、

「あほう。やめとけ。遊郭にも近いやろ、彼女ませとるんじゃ。誘惑するどころか、誘惑されるぞ。澄ましとるけんど、だれにでもさすんじゃけん」

 賀川が声を励ました。

 翌日、私はためらいながら、賀川の言葉を鈴木に伝えた。

「やいとるんとちがうんだぞ。嘘とおもったら調べてみい」

「ほうか。知らなんだのう。堀淵か。もっと早よう賀川が教えてくれたらよかった……」

 鈴木はしょげていた。

「彼女な、家を教えんのや。夜、送って行っても、大道三丁目か、金比羅さんの石段の下で追っぱらわれるんでな、おかしい思っとったんじゃ」

「やったんか」

「いや、それは大丈夫や。学生の本分は忘れとりゃせん。キッスだけじゃ。でも、結婚してくれって、ボクの方から言うてしもうた」

「あほうじゃなあ。よく調べんと……」

 私は鈴木に、愛ちゃんのいる喫茶店へ行くのをやめるよう忠告した。私も、もちろん立ち寄るのをよした。

 一年ばかりたって、愛ちゃんが悪い男にだまされて、淡路の遊郭に売られて行き、家の方で大騒ぎしている、と賀川が教えてくれたことがあった。

 その愛ちゃんが、うすぐらい電灯の下で、いぎたなく眠りこけた四人の子供の枕許に坐り、薄い胸をはだけて乳をのませているのだ。幼児は、私のような素人目にも、栄養障害があらわだった。

 ラジオをいじっているのは亭主であろう。美人だった愛ちゃんのおもかげが、眸だけにしか残っていない。やつれは、たくさん子供を産んだことだけが原因ではあるまい。戦中、戦後を、彼女は彼女なりに生き抜いてきたのであろう。

 彼女は私に気づかないようであった。名乗るほどのこともないし、主人らしい人物もいるので、私は黙っていた。黒駒がいろいろ質問している間に、私は彼女の顔が、写真で知っている斎藤コハルに似通っているのに気づいた。

「市役所へ行って、戸籍簿を繰った方が早いのとちがいますか。斎藤という家と、あたしのところとは、何でも遠い親戚だそうですけど、ずっと以前からつき合いがないんです。母でも生きていたら、いくらかわかるんでしょうけど……。ユキさんという人は、全然知りません。マルエさんは、確か(おき)()の方へお嫁に行ったと聞いていますけど……」

「沖の洲のどこか聞いていませんでしょうか。それから、何という家へいったのか……」

 と黒駒がきくのに対して、私と同じくらいの年齢だのに、すっかり年を寄せた彼女が小首をかしげている。

「さあ、古いことですし、戦争もあったことですから。……ひょっとしたら、タチバナというのかもしれません。でも、これはあやふやですわ」

 首を傾けるしぐさと、アクセントの端々が、喫茶店に勤めていたころの、少女の愛ちゃんを私の内部によみがえらせるのであった。

 疲れきった体を、行きつけの喫茶店に運び、私と黒駒周吉は嘆息した。

 意外に、遺族探しは困難であった。

「戸籍簿か……。でもいいサジストしてくれたな。あのおばはん」

 コーヒー茶碗を傾ける彼に私は、おばはんになってしまった昔の愛ちゃんを語った。

「へーえ。きぐう……ってヤツだな。人生は小説よりも奇なりか」

 黒駒は笑ってから、

「タ、チ、バ、ナ、マ、ル、エ、か。いい名前だな。あんがいこれ確かな姓かもしれないよ。たちばなってのはね」

 とつづけた。

 その翌日、ともかく二十五回忌法要を終り、森房子に、マルエさんの嫁ぎ先が、立花であることを思い出してもらい、私と黒駒は市役所の除籍簿を繰ったのだが、一枚、一枚除籍簿を繰るというしんきくさい仕事を、ここにくわしく描写する必要はあるまい。

 公務の暇をみては、自転車を市役所へ走らせ、確か二か月くらいかかって、斎藤寿次郎二女、マルエという文字を発見した、としるすだけでよかろう。

 幼児からモラエスに関心のあった私はともかく、黒駒もまたモラエスに捉えられた。

 モラエスワルツはざれうたであり、単に替歌にすぎない。それに、悪意に満ちた歌詞のようであるが、それはモラエスを愛惜するもののうたである。そのときは、そうと気づいていなかったのだけれども。

 墓掃除や法要の世話も大変だったが、モラエスの孤栖の晩年の苦労に比したら、ものの数ではあるまい。頭のつかえる敷居をくぐるたびに、首をすくめて前かがみにならねばならぬ家屋で、日本食を喰い、気候と風土の悪さに耐えた努力を思うと、なぜ本国へ帰らなかったのだろう? と疑問が湧く。

 旺盛な詮索癖の持主である黒駒のお蔭で、私はモラエスについて多く知ることができた。その点、黒駒周吉は、モラエス顕彰の功労者というべきであるかもしれない。

 

     

 

「また、モラエス忌がやってきましたが、どういう要領でやるのですか」

 梅雨の終りころになると、きまって若い同僚が尋ねにくる。曇りの空を眺めて私は、酷暑がそこまできているのに気づく。開口一番私は、

「死せるモラエス図書館員を走らす」

 と笑いながら、墓掃除と法要の段取りを細かく説明する。清掃作業に汗を流し、やぶ蚊にさされるのは、私たち同僚の初夏の恒例行事である。

「シンドイ仕事やなあ」

 聞き終ると、新米の顕彰会係は必ずこぼす。死後三十年にもなる見知らぬ毛唐の法要を、なぜおれがせんならんのやろ、と誰しも一度は思うそうである。

 ところが、世話係を経てみると、たいていの者がモラエスに関心を持つから不思議である。それを私たちはモラエス病と呼んだ。

 法要を担当するのだから、いくらかは伝記に通じておかねばとか、あるいは遺著の一冊でも読んでおかなきゃ……、とかいった気持になるのであろうか。

 モラエスにとりつかれた司書は、何も私と黒駒だけではない。徳島県立図書館に就職したら、一度モラエス病を通過する。まるでハシカを患うように。

 二年に一人くらいの割合で、新しいモラエス病患者を養成するから、モラエス翁顕彰会係を経た職員も増えた。ここ当分の間、モラエス忌が空中分解して、徳島の年中行事から姿を消すことはあるまい。

 黒駒や私は、すでに顕彰会事務の大先輩であった。仕事のやり方を伝えたのち、私はモラエスワルツを教えることがあった。

 日本の女の魅力のとりことなり、追慕と孤独と病苦のなかでのたれ死にした毛唐の生涯は、日ごろ老人の気持なぞ思ってみたこともなく、また、モラエスになんの知識も持たない若い司書をギクリとさせる、と一人の後輩は語った。この男はのちに、モラエスの生涯を主題にしたスライドをつくった。

 殿中(でんちゅう)姿のモラエスの板画をつくった者や、石膏像を作製した者もある。黒駒周吉は、詳細なモラエス文献の索引を完成した。

 戦後の混乱のほとぼりもさめないころ、花野富蔵氏と親しくなった経緯は先に述べたが、昭和二十九年に私は、花野氏訳の『日本精神』出版の斡旋をした。当時流行した新書版の一冊である。

 戦後の邦訳第一号であった。戦後の邦訳出版はこれっきりで、その後、本はでそうもない。モラエスの愛読者もいるにはいるらしいが、思いのままに、とりとめなく綴っていく、随筆とも小説ともつかない彼のエッセイは、今日の読者むきではないのであろうか。

 新書版の出版が決まり、花野氏の原稿を預かって徳島を発った日は雪であった。汽車の窓から私は、東海道線の沿線に降りしきる雪を眺めながら、生涯をモラエスの著作の翻訳一筋にすごしてきた花野氏同様、私もまたモラエスに憑かれている……、と気づいたものだった。

 この出版には、私の知人の鶴見俊輔という哲学者が、東京の方でずいぶん骨を折ってくれた。西下した鶴見氏と途中で落ち合い、持参した原稿をわたした。自分の書いたものを見てもらうように、おずおずとそれを差し出したのであるが、しばらく読んでいた彼が、

「これ面白いよ。ユニークだな。モラエスという男はね、実に無思想なんだ。その思想のないところがひどく愉快でね」

 と、ずり落ちそうになる眼鏡を、指で押し上げながら、童顔めいた顔に微笑を浮かべたとき、私はひどく安心した。

 昭和二十九年にはこの出版のほかに、徳島市眉山山麓にモラエス翁顕彰碑が建てられた。徳島市長の建立である。

 

 モラエスは一八五四年リスボンに生まれた。父をヴェンセスラオ・ジョゼ・デ・ソーザ・モラエス、母をマリア・アマリア・デ・フィゲイレイドという。モラエスの書いたものによると、家系のなかには軍人や高級官吏が多いという。生まれたのはリスボン市トラヴェーサ・ダ・クルース・ド・トレル街四番地。三階建の自分の持家だった。二人の妹があり、フランシスカ・アドリアナ・パルミラ・デ・ソーザと、エミリア・レジーナ・ペルペトア・デ・ソーザという。

 一九五五年(昭和三〇)は、彼の生誕百年祭の年であった。ポルトガル生物学会によって、リスボン市でその催しがあった。徳島市でもそれに呼応して、徳島県とモラエス翁顕彰会の手で、百年祭式典をかなり盛大に催した。

 そのとき、県費十余万円を使って、『モラエス案内』という記念出版物をつくった。A5版一五〇頁の、伝記をかねた研究紹介の書誌だった。それの編纂が私に命じられた。役所内の公務として担当したにすぎないのだが、以来私は、「法要の先輩」から「モラエス通」の一人に格あげされた恰好となった。

 黒駒と二人で、いくらか調査はしてあったが、戦災で全てが失われた徳島で、モラエスの事蹟や遺品を探し、研究書や伝記をつくるのは大変であった。とりわけ、当時の新聞や写真を探すのは困難を極めた。それにモラエスの生涯には、疑点がいくつか付随している。疑点があるというより、むしろわからないことだらけであった。

 生誕百年祭式典の当日までに間に合わせるよう、一か月ほどで編纂した『モラエス案内』では、真偽が充分確かめられなかったこともあり、異説はすべてそのまま残さざるをえなかった。

 たとえば死因である。誤死説と自殺説が対立したまま、死後三十年も生きているし、他殺説さえある。調べてみても、三つの説には、どちらにでもとれる要素があった。『モラエス案内』では曖昧に扱うしかなかった。

 もう一、二例ひこう。

 生涯母国へ帰らなかった理由。日本移住と徳島永住の原因。いずれも、従来の説の、日本が好きであった、というだけでは決め手にならない。

 さらに、モラエスと斉藤コハルの関係である。とくに、コハルの生んだ麻一の父親は誰であるか。さらに永原デンの存在。

 もっと重要な疑問がある。

 徳島市民がモラエスを迫害したという説と、正反対に仲よしだったという説。石を投げていじめたという人。誰一人かまいつけなかった、彼は市井の片隅でひっそり暮していただけだという者。彼の死後に多数出現した、モラエスと親交があったと自称する人びとの存在……などなど。

 こうした疑問をも含めて、彼の徳島生活を明らかにしなければならない。そのためにも正しい伝記を……と、ほとんど義務観念のように私は思いつめたのである。

 自ら進んでモラエスに接近し、没入していったとはどうしても思えないのだが、若干の興味を、その生涯に抱きつづけてきたのは否定しない。それを私は、私流に復讐と贖罪のために、彼を愛してやまないのだと言う。いわば、私の彼に対する錦の御旗である。

 

 いきなり本文というか、彼の生涯のどこかへ入っていきたいのだが、残念ながら因縁話がまだ残っている。私の家は夫婦共稼ぎなので、二人の子供のために子守の小母さんを傭ったことがある。小母さんの姓を加納といった。この小母さんが、娘時代モラエスの家の近くに住み、昭和四年六月に彼から頼まれて蒲団を縫ったことがあり、散歩の途次、歩行の自由を失って倒れていた彼を、自宅まで送り届けたこともあるという。

 小母さんとモラエスとの関係は、最初私も知らなかったのだが、『モラエス案内』編纂の際、アルバムに複製した余分の写真を貼っておいたのを、長女が小母さんに見せた。それが機縁になって、私がモラエスのことを調べていることを知り、誰にもしゃべったことがないという挿話を、いくつか教えてくれた。

 幼児期の私は、モラエスの写真に怯えたものだが、三歳になったばかりの私の次女もまた、彼の写真をひどく恐がった。ふつうのアルバムだと思って、モラエス資料を写真帳を開いたときだとか、『モラエス案内』の表紙を目にとめたときなどの、彼女の恐怖の表情と泣き声はすさまじかった。

『モラエス案内』の表紙には、例の鳥打帽子に殿中(でんちゅう)姿の、髯むくじゃらのモラエスの像が、大きく刷ってある。かつて私が、もっとも嫌いだった写真だ。

「これね、モラエスさんの写真よ。恐くないの。モラエスさんは偉い人なの……」

 笑いながら、小学三年生の長女が妹に説明する。

 もっと恐い顔のもある。頬の両側へ髯がたれている晩年の写真。これは無帽だから、額から頭の中央へかけてはげ上り、大きな目がギュッと飛び出した感じであたりをにらんでいる。大人だって、気の弱い人は恐ろしい顔だと思うにちがいない。

「モラエスさんの写真を思い出してね、この子、毎晩夜泣きするの、困ったわ……」

 思いがけない時刻に、それも一晩に二度も三度も大声をあげて泣く幼児を、もてあましかげんで妻が嘆く。

 遺伝するのかな、恐怖というヤツ、とか、書斎へ入ってきて邪魔をしないから助かるよ、などと笑っていた私も、モラエスの写真のついた書物などを、なるべく放置しないようにしなければならなかった。

 ちょうどそのころ私は、子守の小母から聞いた、死ぬ少し前のモラエスが蒲団を新調しようとしていた、という話をもとにして、彼の晩年――昭和三年の秋から翌年七月の、死の日までを素材にした小説を書いていた。夜具をつくった話を聞いて私は、彼はもっと生きようと意志していたのだ、と信じた。自殺なぞするわけない、と。そして、「ある異邦人の死」という作品と、つづいて「毛唐の死」という作品を書いた。

 そんなわけで、書斎にしていた四畳半の部屋の机の上にはいつも、なにがしかのモラエス資料が載っていた。それは、何十枚もの写真であったり、昭和初年の新聞の切抜であったりした。

 ヨチヨチ歩いて来て、机の横に立った次女が本をめくる。口絵を見て、泣きながら逃げ出す。なにげなく本箱から本を抜き出し、手にした本が『モラエス案内』であることに気づき、ひきつったように、体を小刻みに震わせたこともある。まるで、幼児の私同様に。

 しかし私も妻も、モラエスを(おど)かしのタネにはしなかった。

「このおじいちゃんはね、もう死んでいるのよ。恐くないのよ。ね、見てごらん。笑っているんだよ」

 などと説得してみても、「ウン。ワラッテル、ワラッテルケド、オコットル。コワイ……」と泣く。周囲をへいげいしているかに見える大きな目の奥に、人生の疲労と、老いのさせる澄明な慈眼を感じるのは、私だけのことであった。

「ねえ。この子の目につかないところへ資料を置いてよ。とくに写真なんかほうりっ放しにしないでちょうだい」

 妻はすっかりまいっていた。

 やがて次女の方も、書斎の入口の襖を開いてみることはあっても、室内へ入って来なくなった。敷居の上に立って、こわごわ中をうかがっている。

「オトウチャン。モラーちゃんイ ナ イ? 噛まないネ。モラーチちゃんは、モウシンジャッタンダよネ」

 と私に呼びかけるのだが、一歩も足を踏みいれない。彼女には、モラエスとは発音しにくいらしく、モラーチあるいはモラーちゃんと呼び、ひとりで恐がっていた。

「平気よ。とっくに死んじゃっているから、噛みになんか来ないのよ」

 長女や妻がいくら言っても、次女の恐怖は薄れないようであった。偉そうに、妹に説明している長女の方だって、幼児期にモラエスの写真がごろごろ家じゅうにあったら、これもきっと怯えて夜泣きくらいしたであろう。

「姉ちゃんはよかったね。姉ちゃんの小ちゃいころには、モラエスの写真がまだ家になかったから……」

 と、ある日私は長女に言って笑った。上の娘の幼時には、私はまだ書店をやっていて、ちょうどモラエスを忘れるともなく忘れていた時代である。

 次女の夜泣きに業をにやした私は、

「どうだ、おい。モラエスの写真を引き伸ばして、壁や襖にベタベタ貼ってみたらどうだろう。しょっちゅう眺めていたら、免疫性ができて泣かなくなるかもしれない」

 と、冗談半分に妻に言ったことがある。

 私の言葉に対して、妻は断乎として答えた。

「冗談じゃないわ。あなたはこの子を発狂させてしまいたいの」

 夜泣きし、四肢を細かく痙攣させている幼児を抱きしめるようにして、「恐くないわ、もう泣かないで……」とか、「また夢をみたの、急に大声を出して、おうおう、よしよし」と言ったり、子守唄を歌ったりする妻の声と、唐突に泣く次女の声を襖ごしに耳にしながら、私はモラエスの小説を書きつづけていた。

 そして、ペンを走らせる私の心のなかで、捌け場を失って鬱積した情念が、執念ぶかくくすぶりつづけるように、芸者ワルツのメロディとモラエスワルツの歌詞とが鳴り響いていた。

――続く――

 

 なお此の「ペン電子文藝館」小説館にはすでに遺族希望により長編『わがモラエス伝』中の第七・八章「阿波の辺土に」「夢は枯野を」が独立の一編として掲載されています。 編輯室

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佃 實夫

ツクダ ジツオ
つくだ じつお 小説家 1925・12・27~1979・3・9 徳島生まれ。昭和41年河出書房刊『わがモラエス伝』と、昭和44年集英社刊『定本モラエス全集』(花野富蔵訳)編集により、志賀直哉・井上靖・遠藤周作らとポルトガル「インファンテ・ドン・エンリケ勲章」受章。「定本阿波自由党始末記」などの著書がある。

掲載作は、9章ないし終章に及ぶ表題作中の序章と第1章に当たる。 *なお此の「ペン電子文藝館」小説館には、すでに遺族希望により長編『わがモラエス伝』中の第7・8章「阿波の辺土に」「夢は枯野を」が独立の1編として掲載されています。 編輯室