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わがモラエス伝 第四章 第五章 第六章

 第四章 おヨネとコハル

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 日本へ移ったモラエスは、最初旅館ぐらしだった。

 すでに馴染になっていた神戸の宿に旅装をといた彼は、《美しい田畑で飾りたてふんだんに緑また緑の風景》のなかを歩き回った。《陶然となる風光に事欠くことなく》、《花と微笑とに埋まった》国の、《うき世を忘れるうっとりとした眺めのうちに》住むプランに酔い痴れて。

 一八八九年(明治二十二年)八月、初めて日本を訪れたとき、長崎からリスボンに在る妹フランシスカに、《世界じゅうに較べもののない美しい樹木の蔭で余生を送ることができたら……》と書き、一八九六年の執筆にかかる「日本の追慕」のなかでは、《ここで余生を送ろうという気違いじみた欲望を心に起すことにもなる……》と述べた感想を、今や彼は実現しつつあった。

 観たいところ、行きたいところがいくらでもあった。《晩夏の太陽が金色に輝く》季節から、《造化の女神が自然を黄金色に染める》晩秋まで、()かれたように旅に呆け、飽くことを知らなかった。

 驚いたのは在日同胞連中だった。

 目的も定職もなく、いきなり日本へ移住して来たばかりか、旅行ばかりしているモラエスを見て、半ばあきれながらも、捨てておくわけにもいかず、神戸にポルトガル副領事館をつくり、彼を副領事につける工作をして成功した。

 従来ポルトガル副領事館は関西になく、一八九四年からフランス領事館が事務を代行していた。したがって神戸駐在ポルトガル副領事館の新設は、モラエス個人のための創立といえなくもない。

「君の前歴からいっても、こんな仕事は少々役不足だろうが……」

「そのうち、もっといい仕事がみつかるかもしれない。東京駐在総領事の席だって空くかもしれないし……」

 などと、親切な関西在住の友人たちが言うのに、

「ありがとう。すっかり心配かけて……。役不足なもんか。日本でくらせて月給がもらえるなんて夢のようさ」

 とモラエスは感謝の辞をのべるのだった。

 最初の職名は、神戸・大阪ポルトガル副領事館臨時事務取扱。政府からの正式辞令は、一八九八年十一月二十二日付であった。

 翌一八九九年(明治三十二年)五月十二日には副領事に進み、副領事館の領事館への昇格に伴い、初代総領事となった。これは本国政府の配慮であろう。

 彼は神戸市海岸通に恰好の家をみつけて移った。家賃は二十五円五十銭であった。

 ここに、モラエスにおける久遠(くおん)の女性福本ヨネが登場する。大阪松島遊廓のくるわ芸者だった彼女を落籍、同棲するのである。

 ヨネは、松島の前には神戸の福原にいた。祇園や松島や福原に遊んだことを書きとめているから、日本に住みつく前からモラエスは、彼女を知っていたのかもしれない。

 彼と彼女とのなれそめの経緯はわからぬ。だが日本移住を決行する前から、モラエスはヨネと馴染んでいたと推定できなくもない。

 澳門(マカオ)時代からは、六度日本へ来ていて「日本の追慕」、『大日本』の著作がある。これらの本や書簡を点検するに、彼が絶讃し住みたいと語っているのは長崎である。ところが、移住を決めたモラエスは、まっすぐ神戸へ来ているのだ。長崎へ寄ったのかどうかさえ明らかでない。しかも、神戸へやって来た年の夏、和歌の浦から南紀へヨネと小旅行をしている。ブラジル領事館員ペトロ・ヴィセンテ・ド・コートに彼女を紹介したのもこのころである。

 一八九九年には、病気療養のため郷里徳島へ帰っていたヨネを訪ねている。お供はコートであった。一九三五年(昭和十年)コートは、このときのことを随筆風に描いた。そのなかでコートは、彼と彼女との出会いの挿話を語っている。ロマンチックな馴れ染めの光景ではあるが、作為がめだつ。

 私の同僚黒駒周吉の調査によると、この一八九九年にモラエスは三度来徳し、いずれも仲通町一丁目の旅館"志摩源(しまげん)"に投宿している。二度目がコート同伴の旅である。警察署への「外国人滞宿届」による調査だから信用できる。「届」では宿泊および旅行の目的は"見物"である。が、観光は名目であろう。福本ヨネがめあてだったにちがいない。

 神戸市海岸通の家へ、ヨネを引き取って同棲を始めるのは一九〇〇年(明治三十三年)十一月である。日本へ来て満二年目である。

 コートの描いている邂逅はこうである。

 モラエスとコートとは、徳島市をみおろすある神社の境内の茶店で、阿波名物の"焼餅"を食って茶を喫した。たまたま給仕に出たのがヨネであった。《徳島の娘おヨネと呼ばれし教養ある、稀れな美しき婦人(コート作、国沢慶一訳)》に一目ぼれし、ぞっこんほれ込んだモラエスは、翌年、彼女が大阪から芸者に出たのを落籍して《妻とした。六か年以上もモラエスは、彼女が常に病気で床に就いたのを忍んでいた。その時には相愛する二人の兄妹のごとくに生活した(コート作、国沢訳)》のだという。

 このコートの文章がやや定説化して、モラエスは徳島市の眉山(びざん)にある焼餅屋で福本ヨネと知り合ったとされている。ところがこれを、ヨネの妹斎藤ユキやその娘マルエは否定する。

 昭和三十年のモラエス生誕百年祭の少し前の話だが、私や黒駒周吉は、コート説を採る花野富蔵氏と立花マルエさんとに、第三者をも交じえて対決してもらい、専門家に速記をとってもらったことがある。

〔花野〕 焼餅屋で初めて逢った。

〔立花〕 焼餅屋というのは嘘です。絶対に焼餅屋へ行ったことはありません。

〔花野〕 私の説ではないんですよ。コートが言ったことです。

〔立花〕 絶対にございません。

〔花野〕 マルエさんが生れておらん先の話です。

〔立花〕 叔母さんは、焼餅屋にいたことはありません。

〔花野〕 コートというのはポルトガルの二世で、ブラジル領事館員なんです。モラエスはコートと一緒に徳島へ来たんです。焼餅屋へ寄ったこともコートが発表したんです。ポルトガルの新聞およびマカオの新聞で発表したんです。焼餅屋に行って休んで、そこでおヨネさんのことをいろいろ聞いてみると、大阪や神戸で芸者をしていたが、病気で帰っておるという話が出たのでしょう。

〔立花〕 いいえ、ちがいます。焼餅屋というのはつくり話です。

〔花野〕 徳島へコートがそのとき来なかったら、徳島のことを知るはずはない。くわしく書いておるところを見ると、来たことは事実なんですよ。

〔立花〕 焼餅屋へ手伝いに行っていたようなことは聞いておりません。

〔花野〕 これは私の説じゃないんですから。コートの書いていることをいっておるのですからね。コートの説ですよ。

〔立花〕 焼餅屋を経営していたことも、手伝いに行っていたこともありません。母からも、叔母さんからも聞いておりません。私の母のおっかさんが三味線のお師匠さんをしよったので、きょうだいみんなに芸ごとをつついっぱい(極力)教えてあったということは、母から聞いておりますけれども……。

 モラエスが愛した徳島の二人の女性――おヨネとコハルの写真はたくさん今日に伝えられている。もっとも徳島市戦災があったので、そのほとんどが複製である。モラエスの著書である。『おヨネとコハル』などの口絵写真から転写されたものが多い。

 モラエスの遺書の趣旨に添って預けられ、永代供養をされている彼の仏壇が、徳島市北山町の慈雲庵にある。この仏壇のなかに、おヨネとコハルの写真が一葉ずつ祀られている。彼が生前から朝夕拝んでいた遺影である。

 私の手許にも、コハルのものが一枚と、おヨネのものが二枚ある。コハルの写真は仏壇におさめられているものと同じだが、おヨネの二葉は仏壇に飾られているものと別の写真である。したがっておヨネの写真は、つごう三種類あるわけである。

 今、私の机上にあるおヨネの二つの写真は、モラエスの死体処理にあたった前田正一氏が、神戸駐在ポルトガル総領事エフ・エス・スーザーからもらい、前田氏の死後、県立図書館へ前田家から贈られたものの複製である。

 その一枚――。

 大名縞の模様の丹波ちりめんのお召。地味に感じられる帯――。写真だから着物や帯の色はわからないが、髪はつぶし島田である。モラエスの死後リスボンで発行された研究書『ウスアモレス・デ・ヴェンセスロウ・デ・モラエス』(モラエスの恋愛)の表紙に、この写真が使用され、カラー写真そっくりの彩色がつけられている。着色は着物が薄紫、帯は黄色である。

 胸許まで緊めあげた帯に、左乳下あたりから金鎖と金貨らしい装飾品をたらしている。金貨と鎖を除くと、関西の商家の奥さんふうである。ごりょうはんとでも呼べばふさわしい恰好――。ヨネ三十二歳くらいの撮影であろうか。しっとり落ち着いたけしきである。眉目秀麗。鼻筋がよくとおり、優しく澄んだ目とちんまりした唇とが、妖しいまでに魅惑をたたえている。これの台紙裏面には、モラエス自筆で"ヨネ"と書いてある。

 もう一枚――。神戸三の宮、中村写真館の台紙に貼られたこれは、撮影年月日が焼付されているから、ヨネ二十七歳の像と算定できる。

 束髪にかんざしを挿し、やや右向きに顔を振っているので、髪に半ば隠れた左耳の耳たぶの白さが鮮烈である。すっと伸びた形のいい鼻と、パチッとみひらいた二つの目が美しい。

 当時流行した花模様の刺繍のついた長じゅばんの襟を大きくみせ、着物は西陣のお召ででもあろうか。繻珍(しゅちん)の黒帯の上に、金貨と金鎖をつるしているのは前葉と同じである。前葉のお新造風に対してこれは、まさに洋妾(らしゃめん)らしい仕立である。贅をこらしたきらびやかな服装が、典型的な洋妾図(らしゃめんず)を構成してすごく色っぽい。これが写真でなく生身の女で傍にいるのならば、モラエスならずともとろけよう。

 斎藤ユキの語ったところによるとモラエスは、仲人をたて純日本風な結婚式を行ない、病身だったヨネのため、ヨネ用の女中二人を常時つけていたという。ちなみに、女中はいつも三人いた、と、これもユキの話である。

 日本の生活の(わび)や単純化された俳諧の素朴さにひかれ始めた彼は、閑寂と風趣を愛し、簡素な生活を日本風に営んだ。傭った女中のすべてに、松、竹、梅の名を付して便利だと喜んだとか。女中がいくら代替りしても、お松さん、お竹さん、お梅さんである。もっともこれは彼の創意とはいえない。命名はヨネだったかもしれないし、日本の中流家庭における女中名の単なる真似かもしれない。

 それはそれとして、四十六歳にしてモラエスは妻を得た。彼が、《完全な日本女性》と呼び《女神のようにたいせつにした》福本ヨネは同棲の当時二十五歳であった。

 摩耶、六甲の山々が緑に映え、西日のなかに高尾山が燃えているようだった。山裾から山腹まで家の建てこんだ神戸の街は、シンガポールや香港に似て、あらゆる点に西欧化が性急であった。残照の翳になった谷間と山裾の街とが、まるで藍霞のごとく拡がっている。

 竹のすだれをおろした窓辺をさけて、部屋の中ほどに文机を移したおヨネは、机に凭れて手習に励んでいた。筆を措くたびに彼女は、東の窓から入る微風が(なぶ)(びん)のほつれ毛を撫でつける。腕を上げると、黒い()の羽織と大名縞のお召と(あかね)色の二重しぼりの襦袢との袖口が、全部一緒に肩の方へ流れ、繊細で雪のような手がむき出しになった。

 左手で紙を押え、右の袂を気にしながら、真剣な面持で和歌をしたためるヨネをときどき見やり、モラエスはしきりにノートをしていた。抜書きしているのは、一八九八年に出たMartinのLeJapon vrai(真の日本)と、MazeliereのEssai sur I’histoire du Japon(日本歴史随筆)である。

 彼はごく最近になって、本格的な日本研究の書を書こうと思い始め、その準備にかかっていた。澳門時代の著作『大日本』が、日本のことがよくわかってきた今では、何となく色あせてみえるし、訂正を要する重大なミスもあった。『大日本』を、補筆改訂するのではなく、慎重に調査研究して別の本を書き、今度のものをライフ・ワークにしようと決心したのである。

 標題だけはもうできている。「日本歴史」と「日本精神」とである。

 この国の人が大和魂と呼んで自慢する思想と、その思想を培ってきた歴史とを解明する仕事は、かなり困難だが意欲をそそられるものであった。そのうえに日本人の生活を描いたら、日本研究三部作ができる。

 おヨネを先生にして、日本語の勉強をしているのも、やはり準備の一つである。自分の肌でじかに日本を感じるためにも、言語の習得は必須だった。往古日本との交易が盛んだったから、ポルトガル語がそのまま日化している例はおびただしいが、この国の言葉はかなりむつかしい。日本の出版物が自由に読みこなせる日はこないように思えた。仕方ないのでフランス語や英語で書かれた、日本に関する本を集めて読んでいるのだった。疑問が出てくるとヨネに糾したり、親しくしている日本人に英語で訊く。

 畳の上に、 tapete(タペーテ)(絨毯)を敷いたモラエスの書斎の卓子(メーザ)からだと、ヨネの居間が斜めに望まれる。横顔をみせている彼女に、

「おヨネしゃん、アンマリ……」

 と呼びかけて彼は言葉を切った。適当な日本語が急に思い出せない。

 Perseverante(根のよい)とかinjuslo,forcado(いずれも"むりな"の意)とかいったポ語は浮かんでも、急に根をつめてはいけない……と優しく言う日本語がみつからなかった。

「ええ、もうおしまいにしますわ。お夕飯の支度もありますけん。女中たちに指図しなくっちゃね」

 おヨネは嫣笑(にっこり)した、意思はうまく伝わったらしい。

 Catana()Cha()Bonzo(ボンズ)(坊主)やBionbo(ビヨンブ)(屏風)に代表されるポ化日語があり、日化ポ語は無数だ。

 ぼたん(ボタン)天鵞絨(ヴィロード)ぼおと(ボート)こっぷ(コップ)河童(カーパ)、ぱん(パン)しゃぼん(サボン)金平糖(コンフェイトカ)煙草(タバコ)歌留多(カルタ)……日本人の生活にとけ込んで、語源がポルトガル語のそれからきていることさえ気づかず、この国の人が日常語として使っている……。

 しゃべることと読むことは苦手だが、聞いて判断することには、モラエスもかなり熟練した。《食事のことなぞ、女中にまかせておけばいいのに……。床あげしたと思ったら、もうおヨネさんはすぐ働きたがる……》と思いながら彼は、ゆっくりおヨネさんの文机のところへ歩いていく。

 病身で、心臓の痼疾のあるのを承知で同棲した女であるが、少しむりをすると床に臥せる。まるで壊れやすい人形のおヨネさんだった。「すみません。かってばかりして……」小さい体をいっそう小さくして彼女は詫び、三日四日ときには十日も半月も床に就くのだった。

 ふかぶかと綿をいれた敷布団を二枚重ねた床の上で、手鏡をのぞいたり絵草子をくったりするヨネを、傍に坐ってニコニコしながらモラエスは眺める。朝晩床の上に坐って化粧をする姿や、その身だしなみのよさも好ましいものであった。

 今度は梅雨のさなかに風邪をひき、二週間近く療養した。床を離れたのは昨日である。

 いくらか面やつれしているが、かえってそれが彼女の顔を引き緊った美しさにみせる。

 硯を片づけようとするのを手で制して、モラエスは筆を受けとった。

「書いてみます? モラエスさんも……」

 と言ってヨネは、いたずらっぽく笑う。

 オテホン……。

 と言って彼も微笑する。

「お手本書くの……。例のね」

 気軽にヨネが書いた上に半紙を載せ、彼女の文字を透き写して彼は手習をする。

 あさカをにつるべとられて

    毛らいみず

 モラエスの気にいっている、チヨという女流詩人の俳諧だ。《生きとし生けるものに対する、えも言われぬ愛情の状態を巧みに表現した詩》だと、母国で発表した随筆に紹介したことがある。

 ポルトガル語だと、どうあらわすべきか。味わいの伝えにくい詩であった。

「ねーエ、モラエスさん。あたし、一遍徳島へ()に(帰り)たいわ。もう三年もいなんのですもん。ねえ、去んだらいけない?」

「カラダ ダイジョービ おヨネシャン」

 呟くように彼が答えた。

「モラエスさんが、ご一緒してくれたらええんやワ。ねエ、盆踊のときにかえりまひょうほら(それは)にぎやかなンよ。まえにお話したでしょう。阿波おどり……」

 モラエスは頷く。手は休みなく千代女の句を辿っている。

 師匠がヨネだから、教えられるひら仮名は萬葉仮名まじりだ。いは漢字の以、カは加の口を除いたもの、には尓で更にさかのぼると爾、などと彼女は講釈することがあった。いちいち覚えられないが、にやいは気にいった。欧文の筆記体に似て書き易いからである。濁音と半濁音はわずらわしく、おといが二つ(ずつ)あること、敬語の使いわけなど、まだのみこめないことが多くあった。

 筆を措いたモラエスはわらう。書体の恰好だけはなんとかできるのだが、優美さはいっこうに真似られない。緩急の筆づかいが困難なのだ。字をつづける部分や細く消えるように紙の上に淡く余韻をひくところなど、いくら練習してもだめであった。ぶきっちょに、芋虫が転がり汁液をたらしたような"書"になってしまう。

「あたし、あしたからお散歩のお供するワ。そして体をならすの。お盆までに大分あるでひょう。きっと元気になれるワ。ねエ、モラエスさん、そうでひょう。阿波へいねるんですもの……」

 はしゃいだ声でヨネは、徳島の盆踊のにぎやかさ、珍しさ、美しさをしゃべりつづける。うっとり夢みる乙女のような瞳で……。

 口調はしだいに熱っぽくなり、家郷へ思いを訴えるヨネ――。病後の弱った心と異国人との暮らしの不安とが、肉親への郷愁を呼ぶのであろう。ヨネの言葉のすべてが理解できるのではないが、彼女の表情と口調とから、モラエスは彼流に愛人の心情を思うのであった。

    2

 そうだ、ほんとうに徳島旅行をしてもいい。阿波踊は一度見物したいとかねがね考えていることだし、ヨネも元気づくかもしれない……。などと思うモラエスの耳に、窓辺にヨネのつるした風鈴が柔らかい響きを伝える。西日はすだれにまだ翳をおとしているが、心持ち涼しくなったような気配があった。ふと彼は、もう久しく自分の痼疾を忘れているのに気づいた。日本の風土が体にいいのか? ヨネの病気に心を奪われる日々が多いからか? 平穏な毎日が心のやすらぎをもたらしたのか? 頭痛も眩暈も睡眠障碍も拭い去ったように失せて、かれこれ三年が経っている。いつからそうなったのか、明確に思い出せぬくらいだ。病気で苦しんだ過去が嘘のようで……。

「三味線ひいて、近所の人と街を流して歩きたいワ。それとも踊ってみようかしら。踊りたいワ。本当(ほんま)に……」

 ヨネの心はすでにふるさとに飛んでいるようで、娘々した媚態をみせて彼に軽く半身を凭せていた。

 空が高く、陽光がふきこぼれる南の島の、鮮かだった緑の野山をモラエスは想起する。南国阿波と徳島の人びとは言う。

 西欧文明の潮流にまだ毒されることの少ない四国は、確かに緑の楽園だ。それに、南国といってもモザンビークやティモールや澳門ほど暑くはない。空の(あお)はあくまでも澄み、明るい太陽がふりそそぐ光景は何となくリスボンに似ている。

 ローマの七つの丘になぞらえて、リスボン市民が自慢する美しい丘とテージヨ河との間に展開する母国の首府を、一まわり小さくしたようだったトクシマ――。町の真中に山があり、丘があり市街をいくつもに()って川を流れる。封建時代にひらけた城下町だというヨネのふるさとは、川と橋と白壁の土蔵の町であった。

 ちょっと歩けば川があり橋があった。美しい河畔には土蔵がいらかをならべ、白壁を水に映して。土蔵は商人の藍倉だと教えられた。阿波の藍は日本の藍の約半分を生産するということも……。

 市街のいたるところに樹木が植えられているのも、リスボンに通じる。ちがうのは家並が低く、木と紙とでできた家屋の屋根が黒一色の瓦で葺かれていることであった。軒の低い建築様式は、このあたりを毎年台風が通るからだ、とこれも耳学問である。

 市街の西には眉の恰好をした山が聳え、市民たちの散策の場所になっていた。その眉山公園にも幾度か杖をひいた。中腹から望むと、家並の低い市街地の中央に、獣がねそべったようなかたちの丘が、欝蒼と樹々を茂らせて孤立してあった。封建君主ハチスカの居城の跡である。その城山の遙か北を大河吉野川が悠然と流れている。テージヨ河のような拡がりをみせて……。

 彼はトクシマへすでに五度行った。滞在は通算すれば一か月にもなろう。二年前の一九〇一年(明治三十四年)に行ったときは、讃岐(さぬき)の国へ渡り、日本の船乗りの信仰があついという金比羅神社に詣で、琴平から阿讃山脈を横ぎる清水越を経て、脇という小さな町はずれから小舟に乗った。吉野川を下って徳島市に至ったのである。

 西欧人をみなれぬ四国の人びとは、ヨネとモラエスの二人づれに怪訝の表情をみせ、応接にとまどうふうだったが、不愉快な印象はちっともなかった。親切で優しく、人情味豊かな土地柄とみた。外人との接触に悪く馴れた、横浜や神戸や大阪とちがって、人びとはおだやかで純朴であった。

 琴平の旅館では、ベッドがないという理由で、あやうく投宿を拒まれそうになった。

「この人お蒲団で寝みますの。神戸ででも、ずっとニッポンの夜具なんです・・・・・・」

 狼狽したようにヨネが説明すると、まったく呑みこめないと不思議そうな顔つきだったが、宿の主人(パトローアードナ)の手は膝のあたりでもみ手をしていたっけ。

 琴平も山の緑と町並の柳とが綺麗で、静かな町であった。トクシマは琴平よりもっと静かだ。まるで眠っているみたいに。

 アフリカやアラビアの砂漠に在る、廃市のような静寂の街が、旧盆には活気を呈して湧きかえるとか。踊の人波と三味や太鼓のかなでる音とが交錯して、人の群れが市街からはみ出しそうになる、と、いくらヨネが強調し力説してくれても、ちょっとモラエスには想像しにくかった。

「朝は流し、夜はゾメキといってね、朝早くから三味線をひいて静かに町を流して歩くの。でも夕方になると、いっぱい人が集まって来て・・・・・・」

 ヨネのおしゃべりをききながら彼は、この前の徳島紀行の際、吉野川の川舟から、沿岸がつつじの花でまっ赤に彩られているのを眺めたのを懐かしく思い出していた。新緑をバックに浮かび上っていたつつじは、血の色よりも濃い見事な赤であった。丈の高いつつじの茂みを彼は、多分野生のものだろうと思って、傍に立っていたヨネに訊いたものである。吉野川を東航して郷里に帰るのが初めてのヨネは、「さーあ」と答えて白い歯並をみせた。船頭に尋ねさせるほどのこともないので、あとは黙り込み、視界を切れるまで彼はつつじをみつめた。その光景を彼は、今でもありありと目に浮かべることができる。

「ネえ。踊ってみようか? こうするんぢョ。やすーい(簡単)んぢョ。ほら・・・・・・」

 ヨネは口三味線で調子をとりながら、部屋の隅までゆっくり踊っていく。

 ――阿波のとのさーま 蜂須賀候が・・・・・・

   今に残こせし あわ おーどり・・・・・・

    アー エライヤッチャ エライヤッチャ

    ヨイ ヨイ ヨイ ヨイ――

 窓のところでくるりと向きなおった彼女は、胸許でさざ波がゆれるように手首を小刻みに振っていたが、急に両手をすくっと上にあげた。袖口が肩にたぐり寄せられ、露わになった手が左右上下に素早く、自由奔放に差し出され、歪み、曲り、くねり、揺れる。

 足はひだり、みぎ、と蹴上げるようにピョンピョンと軽く交錯し前進する。裾が乱れ、薄紅色の蹴出(けだし)がチラッチラッとこぼれる。

 腰は艶めいた線の流動を描き、力を抜いた体全体が浮游しゆらめく。好きかってに肢体を動かせているようでいて、唄に手ぶり足ぶりが奇妙に調和していた。

 ――踊おどらーば しなよくおどれ・・・・・・

   しなの よいのを嫁にとる・・・・・・

    アー エライヤッチャ エライヤッチャ

    ヨイ ヨイ ヨイ ヨイ――

「ネーえ。こないしておどるんぢョ。教えてあんそ(あげましょう)」

 まぶしいものをみる目つきで、心を奪われているモラエスの両手をとり、

「こう、こう、こうよ。そしてネ、そうじゃないの。こうするんヨ」

 とヨネは教え始める。

 浮かれはしゃいだヨネのリードのままに、彼は手ぶり足ぶりを真似てみるが、下手な使い手が動かすあやつり人形にも似て、手足がひょこっ、ひょこっと不器用に動くだけだった。まるで蛙がピョン、ピョン前進する恰好である。

「あかんワ。こうぢョ。そらね、こうヨ、ダンスみたいに体を柔らかくして……。手はどうでもいいの。手に気をとられちゃダメ。手はぶらーん、ぶらーんでもいいから。足の方はネ、ワン、ツーウ、ワン、ツーウ。ワン……」

 モラエスは内心で、「(ウン)(ドーイス)、ウン、ドーイス、ウン」とつぶやいて真似てみる。

 ヨネは笑い出し、長身の彼の胸に倒れ込み、体全体をふるわせて笑う。棒立ちになった彼の体に、彼女の笑いが波動を伝え、抱き合ったまま二人は転がった。

 身もだえし、クックッと笑うヨネの口に、モラエスは唇を合せた。笑いのとまらぬ彼女の唇が、微妙な感触であった。

 全身運動に頬を上気させ、額に汗さえ浮かべている彼女の心臓が、びっくりするほどの烈しさで鳴っていた。執拗な口づけを苦しがって逃げるヨネの唇を、右に左に追う。急に彼は、青年だったころカスカイスの浜辺で、接吻を拒むマリーアの唇を強引に捕えた日を思い出した。福本ヨネの下顎の線は、どことなくマリーア・イザベルに似通っているのだ。

「へたやワ。ほんまにあかんワ。阿波踊はむつかしいのかしらん……。お習字のようにはいかんのネ。ああ、習字もカタ仮名をペンで習う方がいいのじゃないかしら。毛筆の練習しても仕方ないでしょう」

 あえぎながら言うヨネの声を、モラエスはまるできいていなかった。

 ……いけないわ……。モライス!

  モライス……。いけない。あたし……

 二十年もの昔、マリーアが叫んだ言葉を、彼は耳底によみがえらせて……。

 病後の身をいたわる気持から、軽く抱いているつもりだったが、ヨネは呻き声を放つ。やがて彼女はゆっくり燃え、柔らかい舌をためらいながら、すべり込ませてくるのが慣例であった。面やつれしているうえに、ヨネは少し痩せたようで肩の骨が角ばった感じだった。

 夕闇が窓辺に忍び寄り、風鈴がひとしきりさわいだ。短くて長い一ときが流れる。汽笛が数度、余韻をひいて空気を震わせるのに、ふとモラエスは心をうばわれた。汽笛はメリケン船のものである。日本へ住みついてもう五年になり、海上勤務と訣別して数年になるというのに、汽笛にだけは耳ざとい。福本ヨネという港をえて、深く碇をおろしてしまったいまでも、永年の習性は耳殻に生きている。日本の船。イギリスの船。アメリカの船。フランスの、オランダの……。

 神戸の埠頭から風に乗ってくる汽笛に、聞えるはずのない遠い昔をモラエスは聞こうとしている。建艦競走はおろか、貿易船さえ減少の一途をたどり、世界の海運競争の戦列から二歩も三歩も後退している母国の、訪れる予定もない汽船の響きが無性に聞きたいのだ。それは、ヨネが徳島の盆踊を思い、肉親に逢いたがる懐かしさに通じる。

「ポルトガルの船は、いつから神戸へ来ないのだろう……」

 口を衝いて出た呟きに、パチッとヨネが目を開く。体が急に固さを取りもどしたのは、意外に明るい残照に気づいたせいであろう。羞恥と狼狽をありありとみせて、一瞬身を離そうとあらがう、左手がそっと裾の乱れをなおす気配だった。

「何かおっしゃったの?」

 ややあってヨネが問う。

「ノン! キテキ キコエタデショ キ、テ、キ……」

 答えながら彼は理性のかえった女の、あわてて起き上ろうとする姿態に、中絶し、ひき裂かれた欲情がかえって燃え上るのを意識した。ヨネの病気の間、キョウダイとして過ごしたせいもあった。海上生活をしていた昔だったら、十日や半月、いや一か月、女体から離れていても平気だったのに。

 再び力をこめてきたモラエスの腕を軽く押しやり、自ら唇を求めながらヨネは、自分の体から彼の指を一本一本はずしてゆく。

「ねエ。こんばんよ。ネ、いいでしょう。おふろ……おゆうはん……。まだ明るいんですもの……」

 謳うような囁きで、駄々っ子がふしょうぶしょう母親の指示に従う具合に、言いくるめられてしまうモラエスだった。

 ヨネを得てモラエスは、昔「日本の追慕」のなかで、日本の女を最大級の賛辞で紹介したのが、決してあやまちでなかったことを確信した。

 綺麗でやさしく、親切で愛くるしいだけではない。天性の娼婦かと思うほどはしたない場合があるかと思うと、あるときには慈愛あふれる母親と化し、また教養ある婦人としてのつつしみを忘れない。外国領事館の公邸や友だちの居宅を訪問するサロン的交渉でも、ヨネはまず大過なくつとめる能力を持つ。それでいて高慢さや偏見は露ほどもみせない。体はひどく弱いが、よく働く。まるで好きこのんで女中になりたがるみたい……。床につく日数と労働の比率を勘案して、合理主義者の彼は、ヨネをたしなめたことがあった。働かなくともいいから寝込まぬようにして欲しい、と。

 ヨネは笑っているだけである。人形のようにじっとしてはおられないのであろう。床のなかで手芸なぞしたがるところは、ポルトガルの娘に似ている。それに料理の上手なことも。

「働かん方がよけいシンドイわ。遊んどったらかえって病気になるようぢョ」

 まったくヨネの言うとおりだった。心臓発作や烈しい咳は、労働や休息と無関係におこって彼女を苦しめる。能率論や合理性で割り切れる話ではない。

「すみません。ほんまに……」

 何度も詫びるヨネの、手を握ったり背を撫でたりするのも結構愉しみになった。つぶらな瞳が潤んできたり、長い睫毛が泪で濡れたりする。陰翳に乏しい曖昧な日本の男性の顔と違って、女性の表情は豊かである。とりわけヨネは……。

 彼女の教養のほとんどが、貧乏から脱出しようとあがいてきた雑草のねばりと、芸者として世すぎするに必要な遊芸の修業とからきずかれていて、学問的知識に欠けることには早くから気づいている。手習、礼儀作法、生花、茶道といった教養はあっても、画数の多い漢字や国文学や日本史などの知識は皆無だった。そのかわりに、迷信や俗信や諺にはくわしい。彼女から得た知識にもとづいてモラエスは、「最初の蟻」「楠公の白馬」「新年」「孝」など一連の随想風の日本紹介文を母国の雑誌に書いた。

《月はないが、まったく清浄な夜がきた。星だらけの……わたしが今いるこの国の鄭重な言葉を正確に使うとすれば、「お星さん」だらけの空だ。やがて、縁のぐるりに美しい提灯がともり始める。(中略)人びとは互に微笑をかわして、あたりの恍惚たる景色にじっと見惚れるのだった。と、みるまに、空の星に今一つの他の星が交わった。が、その星は青い炎を輝かして、地上すれすれにさまようては、気まぐれにも、あるいは水草の茎の上に、あるいは私の傍に群がっていた美しい少女たち「むすめ」どもの髪の上にしばらく止まるのだった。乱れ飛ぶ蛍だったのだ。

 優しいそれらの「むすめ」たちは、あたりの薄暗い光を浴びて、その白い浴衣も、その楽しげな愛くるしい顔も、珍しい手つきで空に舞う華奢な手も、濡縁の艶々しい板敷の冷やかな愛撫を悦ぶ小さい跣足も、まっ白だった。手は団扇を握っていた。腕はさし伸べられて、飛びかう蛍を捕えようとしていた。なかには、熱心な少女どもは「ちゃや」を出て、屋形船に乗り込み、蘆のうねるあたりまで輝く蛍の群を追っかけていった。

 二、三びき捕えると、二、三十ぴき逃げ去った。この情景は、一つの欲望、一つの野心を追っかける哀れむべき人類の幻想的な悲哀を胸に浮かばせる。もっとも、野心もなければほとんど欲望さえもなく、笑って、大自然の創造の華やかさを楽しもうとするこの国の庶民にとって、この情景についての概念はまったく哲学的にならないが……。手にはいる二、三びきだけで、たとえ二、三十ぴきは逃げても、たくさんだ。「むすめ」どもは細い金網の小さい籠にそれをいれる。そうして、絹の蒲団にはいって、瞼がまさに閉じようとするとき、あの二つ三つの星が座敷の中で輝くのを、ちらほらと眺めて楽しむのだ。

(中略)遂に女たちはわたしと一緒になって、わたしが誰で、どこから来て、どこへ行くのか、なんという名かと尋ねた。そうして、それと交換に、自分の方でも、その身の上話をふと打ち明けて話すのだった。(中略)

 その人は雪という意味の「おゆき」という名だった。京都市の単なる戯れ女で、よく招んでくれる、誰れか馴染の客に伴われて蛍を見に来ていた。四国の美しい町の徳島で生れた。

 幼いころは、盛大な藍商人の父と母と四人の弟妹と一緒に何不自由なく暮らしていた。ところがある日、十五歳のとき父が亡くなった。突然家長を失った家族は、たくさん物いりするばかりで働くすべを知らずに、貯えの小金を使い果たして、衣類、家財道具を売り払って飢餓と襤褸(らんる)との貧のどん底生活に陥ちた。かてて加えて母が患って、医者と薬という思いがけない費用が要ることになった。

 弟妹たちは学校へ行かねばならないのに、書物も衣類も買えない。こうした破局に際してお雪は、自分が美人であることを知っていたので、家族や近隣の人びとたちの褒め言葉を受けて、まず三年間を犠牲になり、またつづいて三年間を犠牲になろうと決意して、その若さと魅力とをもって京都の桂庵へ走り、身売の金を幾何(いくばく)か受け取って母と幼い弟妹たちとを奈落から救い出した。

 高価な着物をきて、人形のように美しく、髪と(かぐ)わしい香とで飾られた。そのとき以来、何かしらの卑屈と犠牲との代償にときどき大きな金を入手できたので、籠の鳥の贅沢な蟄居から、遠い家族に送金した。もはや母は貧に悩まないで、人に愛されている。弟妹たちも学校へ行っている。やがてちゃんと就職するにちがいない。お雪さんは、くよくよ考えないで、その運命を偶然な気まぐれに委している。そして、微笑みながら、あの蛍にその身を較べた。

 その大部分は川や水溜のほとりをはって、一ぴきか二ひきは空にのぼって、恋に夢中になり、他の一、二ひきは、追って来る人間の意地悪な手もとに、蟄居と間近い死とを見いだすのだ。

 ――「たしかにそれは孝行なのだ……」とわたしはつぶやく。そうしてわたしは、歓楽の巷で一瞥する、装いをこらして通行人に微笑みかける他の「むすめ」どもの多くの身の上と等しい、哀れなお雪さんの身の上を思ってみた。そして、最高の点まで高められた、あの「孝行」の感情について思いをめぐらすのだった。

 まことに、これこそはヨーロッパ人には全然解せないが、支那と日本では理解されて、ほとんど無意識に行なわれている国民の社会生活と宗教的指針との基礎なのである。

 ああ、キリスト教が妻のために父と母とを棄てよと人に教えると、この国の人に言ったら、どんなに日本人を驚愕恐怖させることだろうぞ!……

 ――「まったく孝行ですわ……」わたしの言葉を繰り返してお雪は言った。そうして言葉をつづけた。

 ――「あたしたちはみんな、見えじゃなしに、神聖な義務として、あたしたちができるとおり、知っているとおりに、孝行しているのよ。それがいいことだとは思っていないのよ。だから、あたしたちは、昔物語や支那の『二十四孝』で長々と話される孝行な子供たちのような、欠点のないりっぱな孝行者にはとてもなれないわ」(花野訳)》

 去年の六月末のあるむし暑い夜、京都の石山へヨネや女中たちを伴って、蛍見物した体験にもとづいて書いた作品である、お雪さんという女性とほんとうに出会ったわけではない。ヨネに代表される日本のむすめの、忍従の美徳を紹介し、論評したかったのである。ヨネは藍商人の娘ではなかったが、さしずめヨネはお雪のモデルであった。

「こんばんまで待ってネ。おふろへはいって綺麗にならなくっちゃ……」

 現実のヨネは、低く囁きながら彼に柔らかく体を(もた)せている。いつのまにか昂ぶりが鎮まり、心が平穏になっていくのにモラエスは愕く。実に見事な技巧である。アルシーや亜珍にはまるでなかった媚態だ。これも一種の「孝」がなせるわざだが、お金だけでヨネが傍にいてくれるのではあるまい。でも、「愛」――と呼ぶには、まだためらいがあった。

 モラエスはおとなしく、おヨネの愛撫に身をまかせていた。ポ語や英語はわからぬヨネだが、同棲の最初から彼女は、彼の言葉を理解しようと積極的であった。耳できけなかったら心で、心にも通じないことは肌で……。そこに彼はヨネの誠実さを感じている。彼の方もヨネの言葉に馴れようとつとめたこともあって、両者の意思がほぼ通じ合うまでには半年とはかからなかった。

 廊下を近づいて来る足音が不意にした。

 ……オタケシャンデスネ、アノ オト

 一語一語を区切るように言う。

「そうでしょうね。お梅さんだったら、もうちっとゆっくりした歩き方ですワ」

 素早く起き上って、鬢のほつれを撫で上げながらヨネは鏡台の前に坐った。

「お夕飯のこと訊ねに来るンでしょう」

 顔を半ば後方にねじって言うヨネの、冷静さのよみがえった白い顔が鏡に写って、その白のなかにまだ(のこ)んの日射しの輝きがあった。

    3

 書きものに()んだ目をモラエスは、卓上に置いた伊万里焼の壺に移した。深みのある白に真赤な緋鯉が描かれ、すっと引いた水色にそれが浮いて、鯉は生きて清流を走っているふうに見える。構図はありふれているが、色は鮮かであった。女手のいない領事館は、庁用器具や装飾品の豊富で華美なわりに殺風景であった。額、塑像、焼物、壺なども雑然とならべた感じである。

 初代総領事が彼であるから、ほとんどの品を購入したのは彼自身なのだが、思いつきであれこれと備えるものだから、二、三年で部屋の調和がくずれてしまった。そのうえ、母国や澳門からおとずれた人の贈り物や、神戸在住の外交官仲間からのプレゼントがかなりの比重を占め、書架の上や書類戸棚の上でのさばっている。なかでも困りものは、日本の外交官や武官からのもらいものであった。人にくれてやったり処分したりもできないから、めだたぬ場所に置いているが、外人の好むものはきらびやかで、はでな色彩の品物、と頑固に信じ込んでいる彼等のプレゼントは、くずれにくずれた部屋のバランスをいやがうえにも破る。

 日本人は、日本の品物のよさを知らないのではないか? とモラエスは疑念を抱くことがあった。どんなつまらぬものにも、それはそれなりに美点をみつける日本びいきの彼だが、がまんのならぬほど俗悪なものもある。華美でありさえすれば西欧人が賞めると思い、美点を失いつつある日本商品――、人形や陶器や絵画さえ、日本古来の伝統美を忘却しているかに見えた。彼が何より嫌いなのは、半西洋化した装飾品であった。

 卓上の伊万里の壺には、領事館の前庭にある棕櫚(しゅろ)の葉を活けてある。濃い緑のそれに添える色花は、毎朝玄関を出るときヨネが渡してくれる習慣なのだが、このところまた彼女は寝込んでいて、草花は十日ばかり跡絶(とだ)えている、出勤の途中、花屋の前を通ることもあったが、自分で花を求めるのは何となく億劫だった。買物の用を弁ずるくらいのカタコトや手真似は何ともないのだが、西欧公館の者とみると、神戸の商人たちは理不尽にも、法外の値段を吹っかけるのだ。

 ヨネや女中に求めさせると安いものが、彼が買うと二割三割は高くなる。《日本の商店に陳列してある商品には、ほとんどと言ってもいいくらい、販売価格の表示がない。相手の服装や顔の色や目の動きをみて、「よろしい、勉強しておきましょう!」と言いながら、売りたい値段よりかなり高値を切り出す。勉強というのは安くしておくという意味だが、ちっとも勉強していない。客の方は、「高い、もっとまけろ!」と交渉する。商人の方は、符牒という"いろは"四十八文字を組み合わせた記号を商品に付してある。――その記号はたぶん仕入原価を示しているのだろう。それを横目でチラチラ眺めながら、客の交渉に応じる。客の懐勘定と商人の利潤勘定との接線が交わったときに、初めて取引が成立し、金銭と物品の授受が行なわれる。日本ではこれを駆け引きと言う。われわれ西欧人には理解しがたいことだ。客は安く買ったと思って満足し、たくさんもうかったと商人はほくそ笑む。しかもこの駆け引きを、彼等は、売手も買手も心から愉しんでやっている》と彼は、先日、リスボンの「ポルト商報」に書いたばかりだった。商人たちは、相手の客が西欧人だと、高値を吹っかけてきても知らないと思っているから、ちっとも(やま)しさを感じないらしい。

 モラエスには自分が吝嗇なのだとは思えぬ。日本の商品販売業のありようが不合理なのだ。依怙地になって「(フローレス)」を買わない。領事館で使っている日本人に買わせる手もあるが、草花の選択眼がゼロだ。色彩感覚が乏しいのか、花に対する鑑賞眼がないのか、どの男もからきしだめであった。壺との調和とか、室内の美観とかもまったく考えない。これも色調さえ美しければ、彼が喜ぶと思っているようであった。

「明日は、花屋のおかみさんと一合戦してでも、花を求めて来なければならぬ」

 呟きながらモラエスは立って、書架と書架との間の窓の鎧戸を上げた。眼下には神戸港が拡がって、藍色に澄んだ外洋まで見はるかすことができる。雲かと見まがう島影が淡く穏やかで、洋上に漁船が点々と浮かび、いとものどかな光景だった。満船大漁の旗をたなびかせ、帰港してくるまでには、まだだいぶ時間があるのだろう、漁船はまったく静止しているように見えた。

 一番近い埠頭では、メリケン船がさかんに積荷を降ろしている。その対面はオランダ船だ。これはもう一か月近く碇泊している。その向こうにイギリス船が二隻――。メリケン船の向こう、突堤の端の方にベルギー船。これは出帆を待つばかりの態勢である。藍一色の背景(バック)のなかに、朱、白、グリーン、黒、黄など各国の船が、二つの埠頭をはさんで動き、あるいは静止し、真夏の太陽に船腹をさらしていた。

 ベルギーのような小国の船がいるのに、久しくポルトガル船がやってこないのをモラエスは不満に思う。ときには、やるせないほどの寂寥に襲われることもある。

 澳門政庁と日本との間で最近、通商はさかんだったから、船は来なくても通商関係の仕事はあり、調査や研究の仕事は忙しいくらいだ。が、貿易は行なわれていても、積荷のほとんどは香港経由で、運送の利潤はそっくりイギリス海運会社のものになってしまうのだった。関西に住むポルトガル人は九十三人だが、そのほとんどが澳門の二世と日本の三世である。倦怠と郷愁とのけだるいムードが支配的である海外生活のなかに成人した二世たちは、国籍こそポルトガルだが、祖国に帰ったこともないものが多い。望郷のこころがあっても、それはイベリア半島に在る母なる国ではない。帰りたいと願う在日同胞の夢みる地は、南支の小さな植民地――澳門だった。たとえイギリス船に頼った貿易であっても、金を掴んで澳門へ帰りたい一念で働いている。かつて喰いつめ逃亡してきた南支への郷愁に支えられて……。

 彼等に祖国愛を訴えるむだを知りつつモラエスは、何度か「マカオ新聞」紙上で警告を発した。《眼前の小利を性急に逐うより、海上輸送力の確立を……。現状のごとくでは澳門を基地とした貿易は衰亡に至るであろう》と。また、愛国心を説き、光輝ある海軍王国ポルトガルの歴史を語り、変則的対日通商は、イギリスに利益をもたらすだけである旨を忠告した。事実、在日ポルトガル商社も個人も、大金を掴んで澳門へ帰るどころか、自らの遊蕩的生活を支え兼ね、果ては自棄と退廃とがさせる無軌道な商策に狂奔して、自滅してしまうのだった。酒食、女、賭博……、そして罪をおかしたり、なけなしの資産を失って外国船の下級船員に落ちぶれる者は数を知らない。

 モラエス自身が焦燥を覚えるくらい、在日同胞保護の仕事が山積するのは、喰いつめ者のポルトガル人が、次々と日本の岸辺に辿りつくからである。労働者、船員、破産した商人――、就職斡旋は毎月最低二、三件にのぼる。爛れた遊蕩の陥穽(かんせい)の底で血なまぐさい事件を起したり、詐欺や密輸の罪業を重ねる者もあった。

 リスボンからの逃亡者である自分が、澳門や香港からの喰いつめ者のめんどうをみるというのは、いったいどういうことなのか……、ときどきモラエスは自嘲するのだった。

 モラエスが、神戸・大阪総領事の責任において、たまには東京総領事館や公使館と連絡してその総力をあげても、在日ポルトガル人全員を救うことは困難だった。澳門政庁の指導が適正を欠くのはもちろんだが、植民地から奪うだけの母国の政策が、澳門自身をしだいに不毛にしつつあるのだった。

 今年の三月、日本政府主催による第五回産業博覧会が大阪で開催と決まったとき、会場内に、独立のポルトガル館をとるため、モラエスは東奔西走の活躍をした。

 日本とポルトガルとの貿易正常化をつかむ好機いたる、と彼は信じたのだ。澳門をよみがえらせ、東洋の門戸を不死鳥にするために、日本との通商を繁栄させねばならぬと思ったのである。澳門が衰弱していては、東洋に住むポルトガル人の前途はない。

 公使を動かし、澳門政庁を巻き込み、祖国に呼びかけての運動だった。ポルトのメネレス商会、コエリヨ・ディヤス商会、クレメンテ・メネレス・エ・ロペス商会など、本国の一流商社に出品を促し、「マカオ新聞」や「ポルト商報」で、日ポ通商関係、澳門と日本関係の過去と現状と将来の展望を論じた。また私信を精力的にしたためて、政府や商社や友人知己に奮起を慫慂(しょうよう)した。

 出先の一領事にすぎないモラエスの起した旋風は、母国の朝野の人びとの賛同を呼び、ポルトガル館の試みは成功だった。葡萄酒、オリーヴ油、コルク栓および原板、罐詰など、おびただしい商品が陳列され、かなりの取引が纏まったのだった。

 しかしそれも、一時的な活況にすぎなかった。日本商社の方に注文の意思はあるのだが、協商が纏まらないのだ。運送の足に乏しい母国の商品は、日本が要求する値段で折合えない。ポルトガル特産のコルク(かし)にしてからがそうであった。

 神戸港を眺めるのは好きなのだが、ベルギー船をみつめているうちに、えたいの知れない嘔吐感がこみあげてきて、力なくモラエスは椅子に腰をおろした。《暑気にやられたのだろうか・・・・・・。あるいは、食あたりだろうか・・・・・》ぼんやり考えている彼の耳に、出帆を告げるドラが衝撃を加えるように響く。ベルギー船が出るのだ……。

 机上に散乱しているのは、コルク柏の資料と、それについて考えを纏めつつある、日ポ通商に関する意見書である。

《日本の信用ある商社の幾つかが、依然としてコルク柏の継続輸入を望んでいて、それも大量に求めたがっているのだが、ポルトガル市場におけるこの商品の値段は、日本が他の国の市場で買いつけ得る価格を上まわる。

 私は日本に対して、ポルトガルが世界一のコルク柏の産地であることを常に宣伝しているし、近代科学産業が伸びつつある日本において、コルク栓の需要はますます増大することを先般の日本産業博に出品した各商社に注意を喚起してある。

 ポルトガルのコルク相場が、コルクの産地でもない他のヨーロッパの国々の相場より高いのは、コルクを自国の船舶によって日本へ運ぶことができないからである。

 とりわけ困るのは、ドイツ汽船がリスボンとポルトに寄港しての、日本向け航路を開始したことである。またイギリスと日本との間に結ばれた日英同盟の故もあって、イギリス人はポルトガルのコルクを自国の船で当地に運んで日本に奉仕し、愛国心から(?)ポルトガル人を閉め出している。

 日英同盟は、日本のためにもあまりよい条約ではないが、そして、近い将来必ず廃棄の運命にあるのは決まっているが、イギリスが同盟を廃棄する日までに、日本は船舶量を増し、名実ともに海運国になるであろう。この点は日本にとってわずかに幸いな点である。したがって、今に日本は自国の船でリスボンやポルトにおいてコルクの原板や、はては原木を買いつけるにいたるであろう。イギリスやドイツにおいて、ポルトガル産コルクから、精巧な機械によって優秀なコルク製品がつくられているように、やがて日本もすばらしい圧搾や洗滌の機械を据えつけて操業を開始するに決まっている。

 ポルトガルは、ポルトガル自身の関税表を点検すべきである。自国の得意とする産業を伸長し、発展せしめる考慮を払うべきである。

 いかなる老衰国といえども、幾世紀ものあいだ惰眠をむさぼり、ねむりこけているわけにはいかない。チャンスを正確に捉えて覚醒し、有利な産業を積極的に発展させねばならないだろう。覚醒が遅れれば遅れるほど、世界の桧舞台から閉めだされて孤立し、障害は破壊しがたい鋼鉄の障壁となって、ポルトガルの世界市場への進出を阻むであろう。

 東洋における交易市場の開拓者はポルトガル人であった。他に先んじ、率先航海し、四百年の長期にわたって活躍したではないか》

 文章の調子は、彼自身が激烈すぎると思うほどである。しかし、毎日毎日、神戸港を眺めて、他国の船の繁栄を傍観している彼にとってみれば、悲憤の念が萌すのはあたりまえであった。

 呼びかけの字句が強くなりすぎて、あとへつづける文章にモラエスは迷った。信頼すべき筋からの情報によって彼は、ポルトガル産コルクの大量発注が、ハンブルグの商社へなされたことを昨夜知った。<残念ながら……>と思う。切歯扼腕してみたところで、現状では手の打ちようがないのだ。

 できることは、政府へ公文書を提出し、「ポルト商報」紙上に連載している「日本通信」のなかで、祖国の人びとの注意を喚起することだけであった。

 おヨネの病状が思わしくないのと、コルク製品のハンブルグ発注とで、朝から不機嫌である彼を敬遠してか、館員たちはちっとも姿をみせない。ポルトガル二世が三人、日本人が二人いる事務室の方は、人気がないようにひっそりしていた。

 額に吹いてきた汗を拭ったモラエスは、再び棕櫚を投げ込んだ伊万里の壺をみつめる。草花を求めたいと思う心を、花屋のおかみさんとの駆け引きのわずらわしさを思う心がつきくずしていく。

 貿易の後進国日本をいためつけ、莫大な利益をむさぼっている西欧の五、六の国の商人――。その商人へのうらみつらみを、居留地の外人相手の日本商人が返済しているかのように、神戸のヨーロッパ人は金をしぼられる。なかには良心的な商人もいるが、だいたいにおいて大げさな値段を吹っかける。言語の障害があって交渉がめんどうになり、つい言い値で買ってしまうヨーロッパ人の方にも罪があるのかもしれない。

 それにしても、とモラエスは思う。

 手は団扇を取り上げ、気ぜわしく風をむさぼっている。

 花屋のおかみさんや八百屋のおやじでさえ、利潤を追求するのに貪欲な日本人のことだ。貿易商社の駆け引きも相当なものと考えねばならぬ。母国へだけ、日ポ貿易の重要性と安値輸出を説くのは酷かもしれなかった。信用ある商社が、コルクや葡萄酒を欲しがっているといっても、日本の商社は安く買いたがっているにすぎない。よしんば産地がポルトガルであっても、イギリスやフランスやドイツから輸入するのが安ければ、ポルトガルなどには目もくれないだろう。信用ある一流商社といえども、かなり手ごわい相手だと思われる。実際の商取引とちがって、彼の論は机上案だし理想論だ。

 現に、ハンブルグへコルク柏の注文がいき、日本の商社はイスパニア産に目をつけている。葡萄酒の方はフランスだ。

 明治初年の開港以来、西洋文明と外国商社にいじめられてきた日本人は、利潤を真剣に追求する本能のうえに、交渉の技術と合理性を加えてきた。その合理性がまた、符牒に代表されるような晦渋で曖昧な合理精神だ。要するに日本人は欲ばりなのだ……。などと思いながら彼は、ふとフランスの笑話を連想した。奇妙に頬が歪んでくるのが自分自身でわかるのは、艶笑小話(こばなし)だからだ。

 日本人を吝嗇よばわりできない。西洋人のなかで、一番吝嗇扱いされるのはポルトガル人なのだから。とりわけ、ラテン系の人びとからは、ポルトガル人だと言うだけで蔑視されるくらい、吝嗇の種族とされてしまっているのだった。

 けちんぼうなのではなく、ヨーロッパ人一般より、やや金銭的に合理性が強いだけだ、とポルトガル人は抗弁するのだが、小柄でずんぐりした体躯やスマートさを欠く骨格からも、ラテン系の人びとはポルトガル人を嫌う。間抜けで吝嗇な主人公が登場する小話では、主人公の国籍は必ずポルトガルなのだ。

 ある青年が娼婦を買いに行く決心をした。

 固く守ってきた童貞を捨てようというのである。倹約家の父親をうまく説き伏せて、最下層の娼婦なら抱けようかという何がしかの小遣いをもらった。

「お前が結婚するのよりは、安くあがろうというものさ……」

 父親は真面目な顔つきで言った。

 青年はいささか不満であった。幼いころから良きにつけ悪しきにつけ、万事相談している祖母に打ちあけた。

 思いつめたふうに告白する青年をみつめて祖母は、

「おお、かわいそうに。けちんぼうの父親を持っているばかりに、この年までまだお前は童貞だったのかい……」

 と、さもいとおしげに言った。

「ええ、そうなんです」

 はずかしさで頬を染めた青年は、蚊の鳴く声で答えた。

「いいとも。わたしがへそくりをたしてあげよう。下手に安物を買っても悪い病気でももらったら大変だからね。うんと、とびっきり上玉を選んで、一人前の男になっておいで。かわいい、わたしの孫や……」

 理解ある祖母に励まされた彼は、口笛を吹きながら、足どりも軽く玄関を出た。息子をみかけた父親が、陽気になっている彼をいぶかしんで呼びとめた。

 根が正直者の青年は、まんまと父親の誘導尋問にひっかかって、祖母から大枚をもらった経緯をしゃべってしまった。

「俺のおふくろともあろう者がむだなことを教えおったな。しかし、お前はその金を、まさか全部使いはすまいな……」

「いいえ、全部一晩で使ってこい、とおばあさんが……」

「あさはかなヤツよなあ。……そうじゃ。ええことがある。おれにその金を半分よこさないか。すばらしい女性を紹介してやろう」

 キョトンとした顔つきの息子に、父親は小鼻を得意気にうごめかして二階を見上げた。

「いい女だ。俺が保証する。病気の心配もない。第一安上りじゃ。すばらしくて安全度も高いというものだ」

 父親の視線のいっている窓を青年は見上げた。そこは、彼の母親の寝室であった。

「おばあさんともう一度相談してくる」

 きびすを返して家のなかへ入る息子の背に、

「おばあさんが何と言ったって、お前の持ち金の半額より絶対まけられないからな」

 父親が叫んだ。

 再び相談を受けた祖母は、しみじみと答えた。

「もっともな話よなあ。さすがにわたしの息子の言いそうなことじゃ。考えてみれば、大金払うて一晩きりの女を抱くってのはもったいない話。わたしの可愛い孫や。もっといい方法があるよ。安くて親切でいつでも間に合うのが……。わたしとしたことが、こんな簡単なことに気がつかなかったわい。さあ。こっちへおいで、お前の持ち金の四分の一でいいから……」

 やがて玄関へ出て来た息子に、せき込むように父親が言った。

「おばあさんは何と言った」

「もうすんだよ。おばあさんに男にしてもらった……」

 しごくのんびり答える息子に、父親は目をむいて、

「あきれたヤツだ。いくら何でも、俺のおふくろに手を出すとは……」と言った。

「冗談じゃない。お父さんは、僕のおふくろにいつも手を出しているじゃないか」

 息子はニヤリと笑った。

「ポルトガルのおふくろ」という小話である。モラエスは一人で笑い出していた。先刻の不快な嘔吐感は消えて、そろそろおヨネの面影が忍び寄ってくる。病みつかれても、身だしなみのいい彼女は、ちっとも不快感を与えない。静脈の薄くすけてみえる肌や蒼白んだ顔が、かえってなまなましい情感を訴えているようであった。

 真夏に病んだ彼女、今朝はさすがにもの憂かったのか、彼が出掛けるまでに朝の化粧をしなかった。ぐったりなり、寝乱れた髪のまま床にのなかにいて、軽い微笑と力ない視線を投げただけであった。<心配だから、もう仕事をよして帰ろう>と呟いてモラエスは、壁に掲げてある日本画の美人図をチラッと眺めた。清楚な感じの瓜実顔の女が、浴衣を着て団扇を使っている姿だ。年下の友人ピトロ・ヴェンセンテ・ド・コートが、「おヨネさんに似ているでしょう……」と、京都の美術商から求めてきて贈ってくれたものであった。

 彼の方は、ヨネとあまり似ていないと思っているが、コートの方はそっくりだと言う。<一度持って帰って、おヨネさんに見せようか……>と思う。「似てなんかいませんワ」と、あの甘い声が否定するか? それとも、「まあ、あたしを描いたみたい!」と、駭きの声を放つか……。

 ノックをして若い方のポルトガル二世の館員が、コートの来訪を告げた。

「もう帰ろうかと思っているのだが、一応通してもらおう」

 モラエスは答えた。私邸が同じ方向にあるので、朝夕たいてい同行するコートだ。今朝ブラジル領事館の前で別れたのだから、とくに変った話があるわけもない、多分、一緒に帰ろうと考えて、誘いに寄ったのだろうと思う。

「ほんとうですか? "デイユ"が神戸に来るって話」

 急ぎ足で入って来たコートは、挨拶や暑さの見舞を抜いて、いきなり言った。

 モラエスはしばらくきょとんとしていた。

「夕方、イスパニア船が入ったでしょう。澳門へ寄って来たのだそうですよ。その船の船員の話ですがね、"デイユ"が近々のうちに来るって言うのですけれども……」

 性急(せっかち)にしゃべるコートに、

「いいや、何も連絡はないよ……」

 と答えながらモラエスは、イスパニア船の乗務員からの情報だという話を、根ほり葉ほりコートからきくのだった。

 話は少しあやしかった。「デイユ」は、現在澳門港に駐屯する唯一の砲艦だった。「テージョ」のような旧式木造艦ではないが、貧相な小さい艦である。昔、モラエスが日本から輸入して、支那大陸に対する水道に面した丘の上に据えた、六砲身の山砲台とともに、澳門を守護する戦力ともいうべき「デイユ」である。その艦が日本へ何のため来るのだろうか。情報では出港準備をほとんど終えていたという。

 神戸に寄港しないとしても、領事館へは何かの通知があるはずだった。

「帰りながら話そう。その話がほんとうだったらうれしいのだが、"デイユ"が来る用件が日本にあるだろうか……」

 コートと肩をならべたモラエスは、買物をさせるためつれて来た、キムラという給仕を従えて歩き始めた。

 ……オカシ、ハナ、クダモノ、カイマシュ。花、私、選ぶ。アナタ、ハナ、モッテ、カエッテ、クダシャイ。アナタ、ヨイトコロ、イイミセ、オシエテクダシャイ……。

    4

 微風はあったが日射しはまだきびしい。神戸の街は、しおれた植物のように、ぐったり残照のなかに沈んでいた。夕方の散歩に人が出始めるにはまだ少し早い時刻だった。うつ向きかげんになって、遅れまいと懸命に歩く木村章三の、地面に落とした視線の尖端まで、モラエスとコートとの長身の影が伸びてさまざまな屈折をえがいた。

 しゃべることに熱中している主人と、その友だちの影を、ピョン、ピョン追っかけながら歩く木村は、領事館へ入ってもう二年もなるのに、西洋人と歩くのがひどく気はずかしかった。影の長さだけ間隔をおいて行こう……。お供であることは、距離をかなりおかぬかぎり一目瞭然だが……、などと彼は思っていた。

 昼間とちがって、かなり陽気に見えるモラエスさんの変化が、いったい何によるものであるかはわからないけれども、コート氏の来訪がその原因の一つであるらしかった。二人が何をしゃべっているのか、ポルトガル語をほとんど知らない彼には、話の内容はまるでわからないのだが、ときどき挟まれる「アサマ」とか「ミカサ」という日本語は耳についた。山の話をしているのかな? と想像しながら、木村は小首を何度もかしげた。

 元町へでもいくのかと思っていたのに、モラエスは元町を通り過ぎ港の方に向かっているようであった。

 背の小さい木村章三は、淡路島の貧農の三男に生れた。小学校をかろうじて出た彼は、神戸のある食料品店の小僧となった。山の手の住宅街を御用聞にまわっているうちに、モラエスの気に入られ領事館へ入ったのだが、主人になったポルトガル人に、自分のどこが気にいられたのかわからぬ。先輩であり通訳を仕事としている青山にも、その理由はわからない、ということであった。

「領事殿の、西洋人らしい気まぐれかな。それとも、君のなかに何か見どころを発見したのかな。僕にはさっぱりわからん。君の境遇に同情したのかもしれんし、年長者を傭うより安あがりだからかもしれないね」

 いつだったか、青山は言ったものである。

 青山も木村も、領事館の雇であった。日本の役所だと<雇>は正式の雇員(こいん)だったが、木村の場合はさしずめ臨時職員であった。モラエスにすすめられて夜間中学へ、今年の四月から入学したのだが、ポルトガル語はもちろん英語もカタコトである。店員奉公の期間が長かった関係で、十七歳の中学一年生である。

 コートの持ってきた情報は不確かであったが、幾分モラエスは元気づき、しきりにコートにしゃべった。《道徳的にも劣っていて信が措けない》と、彼はポルトガルの二世や三世を批評したことがあった。国籍こそポルトガルでも、母国語のほとんどしゃべれない同胞が多いなかで、コートだけはポルトガル語が自由に使えたし、知性も備えている頼もしい友人であった。しかし、本国を知らない二世であるコートに、彼が説くポルトガルの産業や貿易や海運の方策、あるいは祖国愛が、どのていど通じるのかは判定しがたかったけれども、コートはのみ込みも早く、他の二世や三世ほど傲慢でなかったから、雑談の相手としては手ごろな青年であった。

 街路樹のプラタナスの小さな木蔭に来たとき、コートが立ち止って額の汗を拭いたので、右手に引っ掛けていたステッキをついてモラエスも足をとめた。夢中でしゃべりながら歩いたため、従者であるキムラとの間がかなり開いていた。

 サイズチ頭を振り振り、急ぎ足で来るキムラの額の汗が夕陽に光り、猿のように醜悪な少年の顔は、まるでアフリカのバーブンだ。素直で実直、どちらかといえば愚鈍であったが、その愚鈍さをモラエスは愛した。まだ日本語が十分しゃべれぬ彼にとって、英語もできぬ少年は少々不便だったが、社交術にたけた、お世辞と追従の多い年配の日本人よりは、はるかに好もしかった。キムラの手にしている洗濯のきいた手拭を眺めて、モラエスは微笑を浮かべて言葉を切った。清潔好きの彼に迎合するために清潔にしているのではなく、少年自身きれいずきであった。

「今年はずいぶん暑さがきびしいですね」

 ハンカチをしまって、一息いれながら言うコートにモラエスは、

「そうだな。おヨネさんの病気も暑さのせいだ。暑い、暑いとしょっちゅうこぼしている。ぼくの方はアフリカや南支で暮していたせいか、日本の夏はそうこたえないのだが……」

 と答えて笑った。

 領事館を出たときから、コートに語りつづけているのは、今年四月十日に見た、日本海軍の観艦式の印象である。

 予備役の海軍中佐であり、語学が達者なモラエスは、神戸駐在各国領事の上席者として遇され、公私の会合にはいつも代表に推されるのだった。神戸港外で行なわれた観艦式にも、彼は外国高官の一人として招かれた。

 四月十日は快晴であった。

 戦艦七隻、巡洋艦二十一隻、駆逐艦十三隻、水雷艇二十三隻。四列縦隊に整然とならび、威儀をただした六十四隻の日本艦隊の正面を、ミカドの乗った「浅間」が、「都」と「千早」の護衛艦、巡洋艦「金剛」、駆逐艦「夕霧」、輸送船「呉丸」を従えて、大阪湾の波をけたてていく。少し遅れて、極東海域から参集した外国軍籍が、日本の儀式に光彩を添えて、紺碧の海に白波を湧き返らせる。

 イギリス戦艦「グローリィ」、巡洋艦「ブレンハイム」、ドイツ巡洋艦「ハンサ」、ロシア巡洋艦「アスコルド」、イタリア巡洋艦「カラブリア」、フランス巡洋艦「パスカル」……。

 事前にモラエスは、澳門政庁に対して、この観艦式へのポルトガル艦の参加を要請してあったのだが、本国海軍省も澳門政庁も、ついに、日本海軍の大行事を協賛する熱意を示さなかった。いや、熱意を示そうにも、自身をもって儀式に参加させうる優秀艦を、母国は極東海域にもたなかったのだ。

 ポルトガル海軍はすでに、モラエスが士官だった時代の実力さえ失っていた。せめて、澳門にいる砲艦「デイユ」でもと彼は、重ねて派遣方を要請した。

 ――イギリスの「グローリィ」や「ブレンハイム」ドイツの「ハンサ」など一流艦のなかに混じるには、わが「デイユ」はあまりにもみすぼらしい。貴官が知っておられるころの「デイユ」と違って、同艦の老朽ははなはだしい……。

 と、澳門政庁は返事をよこした。

 かつての海軍王国の誇りだけを尻尾にくっつけた、持たざる国の悲哀がこんなところにもあった。「デイユ」では国辱をさらすだけだと言う。<ポルトガル王国旗を、神戸港頭にひるがえすだけでも有意義ではないか>と彼は、力なく呟いたものである。

 三笠、初瀬、敷島、八洲、常盤、岩手、出雲、笠置、千歳、吉野、難波、高千穂……、日本海軍の偉容のすべてを眼前にして、ポルトガル海軍の老兵モラエスのなかには、悲哀と感動とが微妙に交錯し対立していた。昔、インド洋やモザンビーク海峡の波浪をけたてて、「パシエンシャ号」で走りまわっていた時代や、「テージョ号」や「ドウロ号」に乗組んでいたころの思い出がよみがえるのだ。古葡萄牙(ルジタニア)の血が内部でたぎってくるのを彼は意識した。が、祖国はすでに海軍国ではない。日本は、たった三十六年でこれだけの艦隊をつくりあげたというのに……。四十九歳の一外交官にすぎない彼が、いくら歯がみをしてみても、落日を旧にかえすわけにはいかぬ。苦い思いが、日本艦隊の堂々たる姿を眺めるモラエスをひたした。

「実にすばらしかったよ。それから、日本の巡洋艦のなかに、例の『鎮遠』と『済遠』がつらなっているのを発見したとき、ぼくはひどくショックを受けたね。そこにいるのが当然なんだが……」

 再びしゃべり始めたモラエスに、

「ああ、例の支那との戦争で日本のものになった甲鉄艦ですね、ドイツ製の……」

 と、コートが口を挟んだ。

「そうなんだ。ぼくはね、国籍を簡単に変えられるものなら、日本人になりたいと思ったものだ。賭けならば、ほんとうに日本の海軍に賭けるね。それにしても、ポルトガルもずいぶんおちぶれたものだ。実際甲斐ない」

 キムラが近づいて来たので、モラエスとコートは再び歩き始めた。

「そのときに、『デイユ』の老朽がかなりひどいものだという話を知ったんだよ。まだ四か月しか経っていないわけだ。ほんとうに『デイユ』が来るのだったら、修理のために、日本の造船所へ入るのかもしれない……」

 モラエスの語尾が震えたので、急いでコートは顔を見上げた。年長の友人の顔からは、先刻までの輝きが喪われ、沈痛の翳が萌していた。

「大丈夫ですよ。ポルトガルだって、いつまでも眠っていませんから……」

 言ってからコートは首をすくめた。このような空疎な言葉は、モラエスが一番嫌う性質のものだった。黙り込んだモラエスに歩調を合わせながら、コートは道を曲った。そこはもう港である。立ちならぶ倉庫と倉庫との間から海が見える。<イスパニア船を訪ねる気だな>とコートは思った。

《……そのときの光景こそは、実にこのうえもなく荘厳で雄大なものであった。ヨーロッパの港においてさえも、これほどのものはめったに見られるものではない……。(中略)ミカドのお召艦で、陪食の栄を賜ったもの実に五百人であった。実に力強い日本の将来を象徴するもののようであった(花野訳)》

 モラエスは母国に報じた文章のなかで、観艦式の模様を描いた自分の文章を思い出していた。「浅間」艦上にいたこの国の天皇、皇族、高貴顕官、諸将、関西の名士……、招かれていた神戸駐在の各国領事や各国公使官付武官たち……。日本の高官や将軍のなかには、今までに何度か交渉のあった人もいた。名前だけきいていた、ヤマガタアリトモ、イトウヒロブミ、といった人の顔も見えた。どの人の顔にも、日本を背負って立つ自信のほどが感じられるようであった。

「イスパニア船を訪ねるのじゃなかったのですか」

 突堤の一つに立って、港を眺めるモラエスにコートが訊いた。

「いいや。訪問したってしかたがない……。何となく海の匂いをかぎたかっただけさ」

 モラエスは答えた。

 相変わらず首を振っているキムラを、モラエスはチラッと目にとめた。首を振るのはこの少年の癖であった。物ごとを考え始めると必ず始まるのだ。花と果物とを買うのに、なぜ埠頭へやってきたのか、彼は主人の心を推測しているのであろう。

 波頭にくだける夕陽から、ふとモラエスはミカドの下賜品の煙草を思った。桐の小箱に入ったその煙草には、天皇家の紋章である菊の図柄が金色に刷られていた。その煙草が、あまりうまくないことは、澳門時代の昔、駐日ポ国公使に就任したエドワルドアウグスト・ロドリゲス・ガリヤルドの随員として、京都の御所でミカドの引見を受けたときにもらったので知っている。観艦式のあとの陪食のときも、それと同じものをもらった。領事館へ持って帰って、館員たちにわけてやったものだが、彼等もあまりよろこばなかった。

 よろこんだのはキムラ一人であった。淡路にいる老父に送るのだと、たった一箱の煙草を、少年は慎重な手つきで小包にしていた。大変貴重なものをいただいた。たいせつにして家宝としたい、とキムラの父親から礼状が届いたのを、青山に翻訳させてモラエスは何度も読んだ。そして、わかったような、わからないような、とまどいを覚えたものである。

 埠頭に立つとかなり風があった。

 煙草を(くわ)えてしきりにマッチをすっていたコートは、何度やっても火がつかぬので、あきらめたのかポケットにしまい、「そろそろ帰りませんか。おヨネさんが待っているでしょう」

 と言った。

 花を買ったあとで、何事も素直にきくキムラが、花を持って帰るのを拒んだ。最初その理由がモラエスにはわからなかった。

「おたくへ持って帰られた方がいいでしょう。奥様に持っていかれるとばかり思っとりました」

 何度もキムラは繰り返した。なるほどと合点がいくまでには時間がかかった。少年に教えられるまでもなく、連日のこの暑さでは、領事館へ持って帰っても、花は明朝までに生気を喪ってしまうに決まっている。

 花も果物もヨネに持って帰ることにして、彼はキムラと別れた。

「やっぱり、おヨネさんが元気でないとだめですね」

 説明されて、コートが笑いながら言った。

「そうかもしれない。でもおヨネさんのせいばかりではない、このところ妙に疲れている……。暑さのせいだろうか? それとも、神戸ぐらしに飽いたのだろうか?」

 自嘲するふうに言って、彼もわらった。

 しばらく元町界隈を二人は逍遥した。ときおり掘り出し物の飾られている馴染の古道具屋で、モラエスは行燈(あんどん)を買った。封建時代の大名屋敷からの出物だという、朱塗で円筒形の行燈だった。高さは二尺七寸五分だと、店のおやじが告げた。大名の調度品だったかどうかはあやしかったが、塗りはかなりいいと彼はみた。深い朱の色と細かい細工とが、日本の工芸美術品独特の調和を保っていた。

 ――あとでお屋敷へお届けしましょうか、と言うおやじを手で制し、彼は行燈を抱えた。

「装飾用ですか?」

 夕暮の迫った坂道を歩きながらコートが訊く。

「いや、実用品として使ってみたいのだ」

 無器用な男が、嬰児を抱いたような恰好で行燈をかかえたモラエスは、生活様式のすべてを日本風にしたらどうだろう、と空想をくりひろげ、見かけより重い行燈の重さを愉しむのだった。

 帰郷を楽しみにしていた旧盆を前にして、もう十日も寝ているおヨネはがっかりしていた。阿波踊の季節にでも帰らないと、ふだんの徳島は淋しい町である。幼いときから遊芸を叩きこまれ、芸者に売られた彼女には、肉親のほかには親しい友だちもない。人並の幸福を諦めて、紅燈の世界に生存の道を求めた彼女を故里によぶのは、山でもなければ川でもない。老いた母であり、斎藤家へとついだ姉ユキである。神戸からは小さい海一つ、たった一晩汽船に乗ったらゆける徳島だが、おヨネにとって徳島はひどく遠いところだった。

 以前は借銭という手桎足桎(てかせあしかせ)のゆえに。今は西洋人の妾という世間体のために。

 ひっそりした徳島市へ、モラエスと一緒に帰ることは、自分自身も、また、肉親たちもつらい思いをするだけだ、と彼女はこの前の帰郷で身にしみている。旧盆の雑踏のなかへ帰るのなら、ふだんのときほど目立たぬだろう。などと思案していたのが、宿痾の心臓発作でふいになり、彼女は闘病する気力も失っていた。

 金で買われた身だ。一人で帰ることなどできない……、と一度もねだったことのない彼女だが、初めのうちは一人で逃げて帰りたいと思ったこともある。運命を嘆き、やがて諦め、今はモラエスとの生活に安住して、いくらか幸福を感じ始めている彼女だが、旦那が西洋人であることはやはり悲しかった。神戸にいるかぎり、肩身の狭い思いをすることもないが、故里を思うと優しいモラエスさんもじゃまになる。今度元気になったら、秋にでも一人で帰らせてくれるよう頼んでみようか。――ワタシモユキマシュ――きっと言うだろうが。

 ダメデスネ。アワ ダンス……。

 枕許に坐って、黙っておヨネを眺めていたモラエスが言った。

「ええ、もういいんです。しかたないもン」

 弱々しく彼女は答えた。

 ライネン ユキマショ。おヨネシャン ビョウキナオル。

 ワタクシ イッショ ユキマシュ。

 煙草盆(たばこぼん)をひき寄せたモラエスが、長煙管であやめを喫っている。涼しくなってから、一人で帰らせてくれと言おうとしていた気勢をそがれて、おヨネはまじまじとモラエスを眺めた。

 ふしぎな人だ、と彼女は思う。言葉も満足に通じ合わないのに、彼には彼女の心のなかまでわかるようであった。

 おユキシャン デンポーデヨンダゲヨウカ。

 逢いたいと思う姉を、神戸へ呼び寄せてやるという。旅費も電報為替で送ってあげる……と。

 優しい言葉をきいたからだけではなく、下半身が熱っぽくなり、足の裏がほてってくるのをヨネは感じる。泪のあふれる寸前のように目が潤ってくるのもわかる。病気の療養で交渉のとぎれたあと、きまって彼女は燃えた。モラエスのたくましい腕のなかで、小さい体が溶けてしまうかと思うほど。

 この西洋人に抱かれるのがいやで、針の(むしろ)に坐るような思いをした昔があったのが嘘のようだった。(こわ)い髯、赫い顔、毛深い胸、執拗な愛撫……、嫌いだと思った彼のすべてが好ましいものに変化して、これがあたしの願っていた倖せなのかしら、と微笑の湧く日もあるヨネであった。

「たばこ欲しいワ。退屈なんデスもの……」

 いたずらっぽくヨネは言ってみる。イケマセン、ダメデス。タバコ、ビョウキニワルイデス。ヨネにはモラエスさんの答えはわかっているのだが……。

 モラエスは狼狽しながら煙草を消した。病人の枕許で喫煙し、刺激していたことを悔いたのであろう。

 優しい人だ、とヨネは思う。日本の男性の荒々しい一人よがりの態度とはまるっきりちがう。親切で優しいうえに、妾であるあたしを尊敬さえしてくれているようだ。わがままを言っても、病気で臥っても、いっこうに厭なそぶりもみせない。

 ヨネはまじまじとモラエスをみつめ、手を差し伸べて、不器用にあぐらをかいている彼の掌を捕えた。暑さと病気とのせいで、体力は衰えているはずだのに、体の方でかってに燃えてくるのを払いのけるように、握り合った掌の、しっとり吹いてくる汗の分泌の方に思考を集めた。

 おヨネシャン タバコホシガル。 ワタシ スウ イケナイ。

 ヤメマショウ。 ゴメンナサイ……。

 掌のなかにすっぽりはまる手を愛撫しながら、肩をすくめてみせてモラエスが言った。ヨネは軽く笑ってかぶりを振る。別に煙草が欲しいのではない。欲しいのはむしろモラエスさんだ。おあずけをくった犬の従順さで、恬淡(てんたん)としているモラエスさんに不満を感じるのは、きっと贅沢というものだろう、と自らに言いきかせるヨネなのだが妙に切ない。

「ええんぢョ。モラエスさん!」

 いくらか顔を赧らめたヨネは、つつしみを忘れた声で、モラエスの手を引いた。ええんぢョ。かまわんのぢョ。病気のときだったって。唇をもれる言葉より烈しい行為に、モラエスはおどろき、とまどい、やがて彼女の気持のなかにおぼれてきた。いたわるような優しい愛撫であった。

 ダイジョウビ、ダイジョウビ? ……。心配そうに目をのぞきこみながら言うのに、うん、と答えてヨネはニッコリ笑って目を閉じる。熱い息がうなじをはい、耳朶が柔らかく噛まれ、不器用な手が帯をまさぐり浴衣にかかるなかでヨネは、好きなようにして、死んでもええんぢョほんまに死んだって……、と心のなかで呟きつづけていた。

 ヨネはほんとうに死んでもいいと思った。いや殺されてもしかたないと思ったのかもしれない。金比羅さんの絵馬堂から飛びおりる気持で、ポルトガル人の妾になる決心をした彼女なのだが、意外に相手はいい人であった。徳島の金比羅さんの絵馬堂は山腹の崖ぷちにあって、自殺の名所である。そこから飛んで助かった人はないのだが……。洋妾(らしゃめん)になって彼女は、中年の小金持の日本人に囲われたのよりはるかにいい生活にめぐまれた。決心してよかったと思う。倖せというのはちょっとへだたりはあるが、この人の胸に抱かれたまま死んでも悔いない思いだった。

 それに、人並の幸福を夢みた娘時代のヨネは、すでに死んでいる。洋妾になったときにではない。馴染の客だった高等学校の学生が、肺病で死んだのを知った日、夢を夢みるヨネは消滅した。女将からしかられ、傍輩からはからかわれ、ねえさんたちからは夢中になってはだめよ、といわれながら、本気になって愛した学生さんだったのだが……。

 すすんで外人客をとったのも、学生さんとのむりな逢瀬を願ってのことであった。不義理な借金もかさんでいた。ヨネは何よりも金が欲しかった。ポルトガル船の偉い人だという、この人のお座敷を志願したとき、意地の悪い女将も愕いていたっけ。外人客は初めてのヨネだったからだ。彼女は、ポルトガルだろうがメリケンだろうがオロシアだろうが……、と捨鉢に言ったものである。

 初めての夜のモラエスさんは、いやに澄ましていたわ。あたしの体を抱こうともせずに……。もじもじして、およそ船乗りらしくないお客に、お金の欲しかったあたしは体をぶつけていった。あたしが嬉しく思い始めたのはすぐだった……。毎晩よんでくれてお金をたくさんくれるので……、やがてモラエスさんは支那へ帰ってしまった。

 でもすぐまた日本へやって来たんだわ。あたしと一緒になってくれって……。学生さんは死んでしまうし、病気はひどくなるし、モラエスさんの執心ぶりは恐いし、あたしは徳島へ逃げて帰ったのだわ。だのに、モラエスさんは徳島まで追っかけて来た。二度も。とうとう根負けして、金比羅さんの絵馬堂から飛びおりる決心になったんだわ……。その人に、今あたしは夢中になってるんだけど……。

 ヨネは急に目を開いてモラエスの顔をうかがった。今日彼が買ってきた行燈を、彼女も面白がり、今夜はそれをともしているので部屋はほのぐらい。行燈の柔らかい灯が、今夜の情感をそそったのかもしれない……、と彼女は思った。炎がゆらぐたびにモラエスの顔が、若々しく見えたり、老人のように見えたりするのは、炎の映し出す髯の色が、微妙に変化するからであるらしい。頭の芯までしびれたような陶酔にひたっているヨネの耳底に、ふるさとの盆踊のさんざめきがふときこえた。

 日本の娼婦の評判が西欧人の間に高いのは、代償以上に彼女たちが奉仕するからであろう、とモラエスは思う。金銭の追求に生存を賭け、貞操や追従(ついしょう)まで取引の手段にするところまでは、ヨーロッパの娼婦も支那の娼婦も同じだが、そこから先に日本の女たちの特質がある。遊芸の修行できたえたしなやかな体の、敬虔で従順で情熱的な一夜妻が、男性をそらすまいと奔命する技巧は、金銭的な合理主義者であるヨーロッパ人を愕かせる。

 西洋風の家に棲み、中国料理を喰い、日本の女を妻にできたら、男性の幸福は最大である、ときいたが、それがいつごろからできた言葉なのかしらぬモラエスも、うまい表現だと思う。しかし、その言葉より、もっとすばらしい境遇に彼は身をおいている。日本の家に棲み、日本料理を喰い、ヨネとの生活に人生の愉悦を味わっているのだ。

 急にモラエスは、ヨネはなぜ妊娠しないのだろう、と考え始めた。芸者だった昔ならともかく、今の暮らしで子供が生まれないわけはない。体が弱いのだからと決めて、子供をつくることなどまったく考えてもみなかったのだが、思えば奇妙なことであった。

 おヨネシャン、コドモ ホシイ? ホシクナイ? コドモ

 カワイ カワイイ

 唐突にモラエスはうわずった声をあげた。

 せき込むように語尾がつり上り、音程も抑揚もまるで狂った発声であった。彼の腕のなかで、ほとんどぐったりなっていたヨネが、急に目をみひらいて彼をみつめた。淡い光のなかでヨネの表情がこわばり、怯えのような色が浮かんだ。急に硬直したヨネの体を、言葉を促すように彼は二度三度ゆすぶった。

「欲しいワ。あたしだって……。でも、あかんの。あかんのヨウ。あたし、からだが弱いから……」

 ヨネが答えたのは、しばらく空虚な時間が流れてからであった。

 コドモ デキル。ダイジョービ。

 コドモウマレタラ ワタシ おヨネシャン ト ケッコン

 ケッコン シマシュ。

 モラエスは力をこめて言った。力をこめたのは声だけではない。全身の重量と腕の力とに狂気をこめた。細い、ポキポキ折れそうなヨネの裸身が、身もだえ、呻き、技巧を喪失する。鈍い頭の片隅で彼は、病中のヨネと兄妹(イラマーズ)でなくなったのが初めてであることを思っていた。

    5

 電報為替を受け取った斎藤ユキが、十歳のコハルと二歳のマルエとを伴って、看病にかけつけたのは、一九〇三年(明治三十六年)八月十九日だった。

「びっくりしたんヨ。急に電報でしょう。病気だというのも知らなンだけん……。あわててゆうべの船に乗ったンよ。お盆が近いからかしらン、よく混んでてネ。席をとるのがやっとだったの。心配で、心配で、どうなんだろうって思っていたンやけど、あんがい元気そうじゃな。……よっぽど悪いのかと思うて、悪い方へ悪い方へ、想像していたんぢョ」

 床に臥っているヨネの枕許で、背中からマルエをおろしながら、ユキは一気にしゃべった。

「わざわざスイマセン。ご心配かけて……。おっかさんも心配していたでしょう。それに、子持ちの姉さんにむりなお願いをして……」

 横臥したまま、ヨネは詫びるように答えた。

「おっかさんは船に弱いでしょう。やきもきしているワ。旦那さんが外国人で、あとは女中さんばかりじゃ、看病もかゆいところへ手が届かへんだろうって言って……。それで、わたしに早く行け、行け、やかましく言うの。何も準備せんととんで来たンヨ。マルエなんか連れて来て、あまり仕事できへんかもしれないけんど……。でも、乳呑児でしょう。まさか、おっかさんに預けてくるわけにもいかんけん、子守にコハルを連れて来たの。この子ちょうど夏休でしょう、それで……。一ン日じゅうでも、おぶっていてくれるので、思い切って二人とも連れて来たけど、いけなかったかしら……」

 言いながらユキは、傍の籐椅子に掛けて、二人の方に団扇で風を送っているモラエスの表情をチラッとうかがった。

 モラエスは柔和な顔つきで、先刻、日本風に久濶の挨拶をユキと交したときと同じようにみえた。しかしユキは、モラエスが心のなかでどう考えているかが、かなり気になっていた。女といってもコハルはいたずらざかりである。気むずかしいと思われるモラエスの機嫌を、そこねることをしないとは言えない。それに、病人のいる家へ、幼児を二人も伴ってくるのは常識はずれでもある。

「できるだけ戸外(そと)で遊ばせて、おまえやモラエスさんのじゃまにならンようにするわ。コハルにもよう言いきかせてあるの……」

「いいわよ。あたしだってコハルたちに会いたかったし、モラエスさんだって子供好きよ」

 言いながらヨネは、貧乏で子だくさんの姉が、コハルを伴って来たのは、嬰児(あかご)の子守をさせるためのほかに、成長ざかりのコハルの食費が助かることも勘定にいれてのことだろう……、と少し厭な気がするのだったが、

「それに、看護に来てもらったっていっても、そう用事はないの。病気だってひどくないし、顔をみたかっただけみたいなの。ほんとうは、あたしの方が阿波へ帰りたかったんじゃけんど、寝込んでしもうて。阿波踊に帰るつもりだったンぢョ。みんなに逢いたくってたまらなかったの……」

 と、さりげなく明るい調子でつづけた。

 貧しい、ささやかなみやげ品を取り出したり、マルエに乳房を含ませたりするユキは、夜航船の疲れも忘れたようにしゃべり始める。それに誘われ、しだいにヨネが快活になってゆくのを、微笑を浮かべてモラエスは眺めていた。

 コハル シャン ゴキゲン。 コハル シャン エエコ。 モラエスシャン オボエテル?

 部屋の片隅で小さくなっているコハルに、優しい声でモラエスは呼びかけた。何度か逢っているヨネの姪のコハルは、彼を見忘れてはいないとみえ、はにかみながらわずかに頷く。

 オボエテル? エライ ネ。コハルシャン エライ ネ。

 オカシ アゲマシュ。

 自分の声に体の調子を合わせながら腰をあげ、団扇を手にしたままモラエスは立ち上った。

 団扇の小さなそよぎでも、急に止めると暑気があたりによどむようであった。胸をはだけて嬰児に乳を与えるユキの顔や首筋に、汗がしたたりおちるのをモラエスはチラッと眺めた。暑さはもう二週間以上もつづいているのだが、今朝のむせっぽさは格別である。出勤にまだ小一時間はあるという時刻だのに、風鈴はコトともそよがず、早朝からガンガン陽が照っている。一日の生活を思うと、気が遠くなりそうな朝であった。

 立ち上ってみると、背筋や脇のあたりに汗がじっくり沁みているのがわかった。猛暑のせいであり、久しぶりに逢った姉妹の懐かしさをあらわにした話ぶりに、耳を澄ませていた緊張のせいでもあろう。気ぜわしくしゃべり合う二人を残して、モラエスはコハルの手をとって台所へ向かう。おタケさんに駄菓子を買いにやらせようと思ったのである。ヨネとユキの話をきいていたい気持はあったが、鉄砲玉のように飛び出すユキの阿波弁は、彼の理解を峻厳に拒んでいた。

「モラエスさんて、ぎょうさん財産あるの? そりゃ、外国のお人やけん、お金は持っていなさるじゃろうけんど……」

 団扇の風を病床の妹に送りながら、斎藤ユキは探るように言った。

「さあ……」

 ヨネは曖昧に笑う。

「おまえ、ちっとはもらって貯金でもしているの? 今のうちに、ちゃんともらうものもらっておかんとだめよ! 西洋人は気まぐれで、移り気で、ケチン坊じゃ言うもんな。いつどんなことで捨てられるやらわかれへんし、急に本国へでもいんで(帰って)しまわれてみ、あほうみるんはあんたぢョ」

「そりゃあネ、あたしだっていろいろ思うこともあるの……。捨てられたってしようないんじゃけん。体は人一倍弱いし、あの人の欲しがっている赤ちゃんは生まれそうもないし、家の仕事はあんまりできへんし……。欠点ばっかりでしょう。あの人にしてみたら、あたしなんかより若くって、うんと健康な人が欲しいでしょうし、ポルトガルへだって帰りたいでしょうしネ。あれこれ考えていたら、淋しくなって泣いてしまうの。あたしには将来なんてないンですものネ。でも、不安になったりするのは贅沢かしら、と思うときもあるワ。あの人、とっても優しいし、いい人なんですもの……」

「どうもごちそうさま。でもネエ。お金はちゃんともらって、貯金くらいしておかないと先で困るンぢョ。あとになって、なんぼ泣いてみてもしようがないんじゃけん。愛じゃへったくれじゃ言うてみたって、取るもん取っとかんとあかんけん。それよりネーエ、モラエスさん、わたしに少しはくれるかしらん。日当なんて言うたら、えらい水臭い話になるンじゃけんど、帰りにはちっともらって帰らんと困るの。米屋やら八百屋やらに借金(かり)がようけでけてしもうて……。徳島におったら、内職やら何やかやらで少々は稼げるンじゃけんど……。と言うたって、妹の看病に来ておって、お礼をくれと、言うて請求するわけにもいかんし。あつかましい話じゃけんど帰り(ぎわ)にあんた少し貸してくれない?」

「姉さんたら、お金のことばっかり言うて、いやらしいワ」

 しゃべりつづけるユキの言葉をヨネがさえぎる。病人の叔母におかまいなく騒ぐコハルと、栄養不良児で終日泣きわめくマルエは、今朝、モラエスに伴われて領事館へ行った。嬰児を背負ったコハルが、チョコチョコ小走りについていくのを眺めて、ヨネは自分の安息のひとときを与えようと気を使うモラエスの好意を、痛いほど感じたのだが、ユキの方はいっこうに平気である。子供が出払ってせっかく生じた静寂を、貧乏ぐらしを愚痴ることでつぶしている。妹を看病するどころか、かえって傷つけているのにも気づかず……。

「少しくらいのお金なら、あたしがあげるワ。変なことをモラエスさんに言われんぢョ。あとであたしがつらいけん」

「そりゃ、そうネ。まあわたしじゃって、あんまり、お金、お金とは言いとうないんぢョ。でも、もう毎日あくせくしているでしょう。つい、愚痴が出てしまうの。あんたがモラエスさんに義理だてする気持はようわかるけんど、おまはんの銭はもらえんワよ。もらうくらいならモラエスさんにもらわんと。おまえからもろうたら同士討ちじゃ……。もろうても有難味があれえへんもん」

 ユキはおどけた声で言ってわらった。子供のころ、ユキは陽気で楽天家だったが、あけすけに大声でしゃべるところに、その名残りがあるといえばいえる。ブツブツ子供を産み、産んでは夭折させてしまう貧しさのなかで、生来の明るさが萎縮し男性化したようであった。姉がガラガラ声で笑うのや、笑うと小鼻に醜い皺が寄るのを、うとましい気持でヨネは眺める。

 内海航路の小蒸気船のコックであるユキの夫の寿次郎は、勤めの関係でほとんど家にいないから、大勢の子供を抱えて、ユキは一人で苦労していた。甲斐性なしのぐうたら亭主と、ユキが悪罵する寿次郎は、バクチ好きの酒飲みで、金がある間は働かない。バクチと酒に稼ぎを全部消費してしまうわけではないのだろうが、彼が家に入れる金では一家はとても支えられない。ユキは内職に針仕事をしてみたり、通い女中や家政婦にもなる。市中の商店や近郊の農家の手伝い仕事にも行く。生活の苦悩が一つ一つの皺に刻み込まれたような姉の顔は、中年というよりも老婆に近かった。あれほど逢いたいと思っていた姉さんだのに……、と生活の差がつくりだしてしまった姉と、自分のへだたりにヨネは目を(みは)る。懐かしいという感情は、とっくに白々と乾いていた。

「わたし、もう、そろそろ帰ろうと思うとるンぢョ。おまはんもあんがい元気じゃし、わたしがおっても、別に用もないもン。何しろ、三人も女中さんをおいた結構な暮らしじゃけん」

 皮肉るように、また、うらやむようにユキが言った。ユキの言葉のとおりで、姉がいてくれねば困るということは何もない。仕事がなくて、ユキは十日ほどの神戸滞在に飽いていた。何がしかの小遣でももらって、社寺仏閣や市街地の見物に出歩くのならともかく、病人の傍にいて団扇で風を送る毎日である。

 家郷の話題もつき、亭主の棚卸しも終ってしまうと、ユキにはもう話の種もない。そろそろ徳島の家が気にかかり始めたのであろう。それに、一家の主人であるモラエスに、気骨の折れる応対をしなければならぬのが、粗野で教養に乏しいユキにはつらいのであろう。一日じゅう仕事をしないので肩がこる……、と嘆き始めたのは昨日からであった。

「そうね。帰ってくださっても大丈夫だけど。でもネエ、あたしの病気が軽いのが不平みたいネ、姉さんたら……」

 ヨネは微笑む。ユキからみれば、ヨネの心臓病など贅沢病に属するものにちがいない。

「軽いのは結構じゃない。それに、ここにいるのが厭だから言ってるンじゃないんぢョ。阿波にいたら、一日じゅうぐるぐる目がまわるような忙しさでしょう。内職、炊事、洗濯、その間には子供たちにガミガミ言わんならんし。あくせくあくせくしてるンヨ。それが、ここへ来たら、山奥の百姓が殿さまの御殿(ごてん)へ招かれたみたい。わたし、キョトンとしてしまって、何をしたらええのんか、何を言うたらええのんか、いっこうにわからんのンよ。これをせんといかん、いう仕事はないしネ。そのくせ疲れるんやワ。貧乏性に生まれついているのかしらんけんど……」

「何もそんなに気つかわんかってええやないの。ここにいて、あたしと話しとったら愉しいじゃない……」

「そりゃね。でも、やっぱりわたし帰るワ。お母さんのことも話したし、主人のことや子供たちの話もしたし、あんたの知っている人の噂話もしたし、人力車が徳島に増えた話までしたんじゃけん。もうここに坐っとっても話すことないワ。話がないから、ついお金の話になってしまうんやワ。あんたは嫌うけんど、わたしにしてみたら、あんたの生活がうらやましくって……、自然に溜息が出てしまうのンよ」

「あたしには、姉さんの方がうらやましいワ。貧乏じゃいうても健康ですし、ちゃんと結婚して、夫婦で働いているんですもの。それにコハルちゃんのようないい子がいて……」

「考えよう一つかもしらないけど、何にしても、今のうちにたくさんお金もらっておきなさいよ。それから、明日にでも帰ることにしますから、あんたからモラエスさんに言ってくださらない?」

「あたしが? お金を姉さんにあげてくれって言うの?」

「まさか。帰ってもいいかって尋ねてくれたらええのんヨ。黙っていても旅費くらいはくれるでしょう……」

 領事館の一室で、木村章三は困り切っていた。赤ん坊を背負ったコハルさんを伴って出勤して来たモラエスさんが、船を見たいといい出したコハルさんをつれて、外出してしまったのだ。

 木村の手にわたされたマルエちゃんは、半時間ほどニコニコしていたが、突然、泣き出した。青山に手伝ってもらって、不器用にあやしてみたり、ミルクを飲ませてみたり、はては背負って歩いてみたりしたが、いっこうに彼女の機嫌はよくならない。

「どうしたんでしょう」

「さあ」

 ともすると二人の声が泣き声に負ける。木村と青山があれこれやってみても、嬰児は顔じゅうを歪ませて泣く。

「小さい体やのに、大声で泣いて……」

 青山はあきれはてたという表情である。

「どこまで行ったんでしょう」

 木村章三は、自分の方が泣きたいくらいであった。

「もう帰ってきやはるやろう。負うたまま、港の方へいってみい。途中で出会うさかい」

 青山に押し出された恰好で、半泣きの木村は、体をゆすりあげゆすりあげ、そこらをよたよた歩いた。道往く人が、泣きわめく赤ん坊を背負ったサイズチ頭を振り返っていく。昔、幼い弟を背中にして淡路の山のなかを走り回った遠い日の記憶が、ふと彼の内部でよみがえった。駆けると弟は声をたてて喜んだものである。

 彼は暑さも外見の悪さも忘れて、全速力を出して走り始めた。背で身をよじって泣く嬰児の汗と、自分の汗とが混じり合い、背中がぐっしょり濡れて気味が悪かった。彼は、背中のたきぎに火をつけられたカチカチ山の狸の話を連想した。夢中で、狂ったように駆け、やがて舗道に"倒した。

 泣き叫ぶマルエを背負った木村が、口から泡を吹いて倒れているのを、モラエスとコハルとが発見したのは、彼が失心して間もなくであった。赤ん坊の右後頭部から血が流れていた。モラエスは人力車を呼び、コハルがマルエを抱き、彼はキムラを抱いて俥を近くの病院へ走らせた。

 幸いマルエの傷は小さく、出血の量から心配していたモラエスが、不満を感じるくらい簡単な処置ですんだ。泣きわめいていた嬰児が笑みを浮かべ、ご満悦のていで片言をしゃべり始めてから、木村章三はキョトンとした表情で目を開いた。コハルの背でキャッキャッと奇妙な笑い声を出しているマルエと、モラエスとを交互に眺め、木村はあたりを不思議そうに見回した。医者の診察室のベッドに寝かされているのが、まったく合点がいかぬ、といったふうに。

「もう大丈夫でっしゃろ」

 商売人のようなものの言い方をする医者が、木村を見おろして笑った。綺麗に撫でつけて七三にわけている医者の、右側の鬢に白毛が一本光っているのを木村章三はみつけて、わずかに心を慰めた。

 失心して病院へ担ぎ込まれたことに、彼はひどい屈辱感を覚えていた。それは、小学生のコハルを意識した恥かしさであった。

 のろのろベッドから起きながら木村は、コハルが右肩を小刻みに軽くゆするだけで、奇声を発して笑うマルエに腹をたてる。倒れたときに赤ん坊に傷をさせたと言われても、詫びる気持より憎悪の方がまさっていた。医者とモラエスとは英語で何か話をしていた。

「おまはん、てんかん()みエ?」

 モラエスから、私邸まで案内するよう命じられ、足早やに歩いている木村章三に、追いついて来たコハルが言った。怒った表情を隠そうともせず、

「てんかんなんかであれへんワイ。てんかんなんてしらへんで」

 烈しい語気で木村が言う。

「ほない言うたって、(かに)みたいにブクブク泡吹いて、アワアワアワ言うとったでエ」

 医者のベッドの上で気がついたときの屈辱感が、再び木村を捉えた。手をこんなにして、足をぶるぶる震わせて、てんかん()みやワ、とおしゃべりなコハルは言いつづける。恥かしさに顔をあかく染め、なぐりつけたくなる怒りを木村はかろうじて抑えた。彼はコハルの背の赤ん坊の尻を、うしろ手でいやというほどつねった。コハルは気がつかなかったようである。眠りかけていたマルエは、火のついたような泣き声をあげた。

「どうしたん。どうしたん。おう、おう、よし、よし……」

 片手に風呂敷包みを提げたコハルが、空いた左手をマルエのお尻のあたりにあててゆすぶる。幼児は泣きやまぬ。木村は嬉しくなってきた。

「こっちやで……」

 突然木村は、やみくもに道を五度曲った。帰るべきモラエス私邸とは反対に、東に向かって山手の市街地を歩くことになった。歩けば歩くほど家が遠くなる。

「これ持ってて」

 風呂敷包みを、コハルは木村の方へ差し出した。包は小さいが重かった。それに変な臭いがしていた。

 両手が自由になったコハルは、魔術師のごとく簡単にマルエを眠らせた。

「今朝は、どないしても泣きやまんかったのやけど……」

 木村は呟く。

「おしっこやウンコしとったんやワ。おむつ代えてくれんけん泣きよったんヨ」

 コハルはあたりまえだと言うふうに答え、風呂敷包みの中身は、木村が背負っていたときのマルエの排泄物だと教えて笑った。彼はまた腹がたってくるのを感じた。

「朝来たときより遠いワ。あんた道に迷ったんやないン?」

 小さな神社の玉垣の傍でコハルが立ち止った。木村は立ち止らず、神社の鳥居をくぐり抜けてどんどん境内へはいっていく。

「あんた、道に迷ったんやろ!」

 うしろから駆けて来てコハルが叫んだ。

「ちがうワイ。こっちが近道なんじゃ」

「ほんと……」

 首を振り振り歩く少年に寄り添うようにして、泣きべそ寸前の顔でコハルが小さい声を出す。先刻からもうかなり歩いているから、背負い慣れているとはいえ眠っているマルエの重さは、彼女にかなり苦痛を与えていた。

「あっ、あの山があんな向こうに見えとるじゃないン。あんたやっぱり道に迷うたんじゃ」

 なき声をあげて、こぶしをふり上げたコハルは、木村にむしゃぶりついた。肩から胸のあたりを撲りつづけるコハルの掌を、嗜虐じみた快感で少年は感じた。数にして三十くらいこぶしで打って来てから、彼の胸に顔をうずめて彼女はしゃくりあげた。藁か枯草かに似た匂いが木村の鼻をうった。綺麗じゃないけど、奥さんにちょっと似てるナ……と、すすり泣く少女を抱いて彼は思った。胸を、背負い帯できゅっと緊めあげた少女の体は、変に弾力があってくすぐったかった。

 ややあってコハルは、掌で涙を拭うと、神戸の背後につらなる山々に小手をかざして方向を見定めると、茫然と立っている木村を振りかえりもせず、西の方角を目指して歩き出した。

 一人で帰ろうと決心したのである。

 背からずり落ちそうになり、コハルの尻のちょっと上にひっかかった恰好で、マルエはぐっすり眠っている。気の強い()じゃ、と木村は思い、急いでコハルのあとを追った。駆け出してから彼は、ひどく空腹であるのに気づいた。領事館を出たのは十二時過ぎだったから、もうかれこれ一時のはずである。

 炎のような太陽は上天にあり、街路樹も建物も影がない。埃っぽい道を、どんどん歩いていく小さな子守っ子の真下だけに、まろみをおびた影があった。

 家までコハルを送り、奥さんからだ、とお竹さんから菓子の紙包みをわたされたとき、木村章三は烈しい羞恥を覚え、「さようなら」と叫んで駆け出した。領事館へ帰ってみたら、午後二時になっていた。

 翌々日、ユキは二人の娘をつれて阿波へ帰った。

 モラエスは、家計簿代りの手帳に、「ユキさん十七円」としるした。帰りの旅費の他に十七円を支払ったのである。

 徳島へ帰ったユキは、その後もたびたび神戸へ家事手伝いにやって来た。一年に一度くらいのわりあいで行った、と後年ユキは人に語っているが、一年に二度も三度も行ったことがあり、おわりころは、約三年間、連続神戸にいた。ユキの言によると、妹の看病がてら女中頭をつとめていたそうである。

 木村が転んだときうけたマルエの傷は小さかったが、傷あとは生涯彼女の黒髪のなかに残っていた。そのときの打撲傷のために、後年彼女はときどき頭痛がしたという。木村章三の卒倒発作は、彼が記憶しているかぎり、このときが初めてであったが、その後もときおりあらわれた。彼はモラエスのもとで六年勤め、淡路の村へ帰って役場の書記になった。第二次大戦後、公選初の村長を勤めた木村章三は、今は町制をしいた淡路の片田舎に健在で、英語に目を開いてくれたモラエスを、いまもって徳としている。

 神戸時代モラエスは、おびただしい日本の見聞と考察の文を母国へ書き送った。「ポルト商報」という日刊新聞に連載した文章を、『日本通信』第一巻として纏め、ポルトで刊行したのは一九〇四年(明治三十七年)である。モラエスはこの本のサブタイトルを、「日露戦争前」と付した。『極東遊記』や『大日本』につづく第三冊目の著書である。この『日本通信』第一巻には、一九〇二年から三年にかけて書いたものを収めた。明治三十五年と六年における、「日本見たまま」の記録である。さらに、三十七、八年の通信を一九〇五年に纏めて『日本通信』第二巻とし、副題は「日露戦争」とした。眠れる獅子に勝った国は、世界の人びとが白熊と呼ぶロシアにも大勝した。

 日本びいきのモラエスの文章は躍動し、母国の人びとの愛読をえた。「ポルト商報」では、爾後十余年にわたって、「日本からの通信」を連載することになる。日本の政治外交、通商、経済、社会、産業、美術、文芸など、ありとあらゆる日本の事象を報道し論評した「通信」は、遂に全六巻。モラエス最大の著作となった。最後の巻の刊行は一九二八年だから、日本年号では昭和三年である。すなわちモラエスの死の前年にあたる。結局彼は、神戸時代以降、生涯この『日本通信』を書きつづけたことになる。

 第五章 徳島へ……

    1

 貸家と墨書した木の札を、門柱に打ちつけ終ってから、米沢仁吉は「おや」と呟いて小首をかしげた。今日から空き家になったはずの家の玄関が、開いているではないか。

 几帳面なモラエスさんが、玄関の戸を締めずにこの家を去るはずがない。神戸を引き払うことになった彼が、別れの挨拶に来てくれたのは二時間ばかり前だ。

 いよいよ阿波へ発つ、とトランクを提げたモラエスさんは、まるで日本人のような律儀さで、家主である仁吉にカタコトの謝辞を述べたのである。

 サヨウナラ。

 モラエスさんは大きなガッシリした掌で握手を求め、満面の髯をほころばせ、大またにズシズシと足音をたてながら、仁吉夫婦の前を立ち去った。高い背をいくらか前かがみにし、青山という通訳を従えた肩幅ひろいうしろ姿を、仁吉は鮮明に思い浮かべる。あす港までお見送りにまいりましょう、と言う仁吉の好意を、慇懃に辞したモラエスさんの足どりは意外に軽かったし、目も輝いていた。

 おヨネさんの郷里へ移住するのがうれしいのだな、と仁吉は思った。

 西洋人とあまり交際のない仁吉の目にも、ぶ厚い唇の周辺がほころんで見えたし、皮膚の色艶までいいように思われた。もっとも、顔じゅう髯だらけなんだから、色艶がいいと思ったのは、仁吉の側の気分にすぎないかもしれない。仁吉の気分がいいのは、半月ばかりモラエス家の引越準備の手伝いに出て、いろいろな品をたくさんもらったからでもある。なかでも、記念にと言ってくれた有田焼の花瓶は、運送屋の若い衆を指図して、気苦労な整理と荷造の世話を焼いた、仁吉の苦労を償ってあまりある品だった。

 白人はケチン坊だと思い込んでいた仁吉は、何でも人にくれてやったり、簡単にクズ屋に売り払ったりする、モラエスさんの気風(きっぷ)の良さに愕いたものだ。コレ、イリマシェン。コレモ、イリマシェン。アナタ アゲマシュ としごくあっさりしていた。

 上等の普請でもない平屋の、それも日本家屋である加納町の貸家を、ポルトガル人が借りたいと言っている、と話をもってきたのは、田畑トラという桂庵である。おトラ婆さんと仁吉は旧知だった。若いころ、イギリスの貿易商の妾だったことのある彼女は、いくらか英語がわかり、西欧人の気心を読むのがうまい。神戸に在住する外人相手に、周旋業を始めてもうだいぶ経つ。

 おトラさんの扱うのは、家や土地だけではない。人間でも器具でも、あるいは日常の生活物資でも周旋する。女だけ扱うのなら女衒(ぜげん)だが、妾や女中にかぎらぬ。支那人のコック。朝鮮人の人夫。日本の男なら、下男、大工、左官、庭師、植木屋など。そのほかに、商社や公館の通訳や使用人の斡旋までする。家作を少し持つ植木屋である仁吉は、山の手のフランス人の屋敷の庭を引き受けたとき、田畑トラと知り合った。以来、彼女にはたびたびもうけさせてもらっている。

 異人に貸したら、多少内部を西洋風に改装されるかもしれないが、領事をしているほどの人ならずいぶん金持だろう、と胸算用した彼は、少し法外だったが、月三十五円と家賃を切り出した。トラ婆さんの周旋料をも計算しての、そして、少し値切られることを予想しての金額であった。

 ところが、言い値で貸借が纏まってしまった。相手がポルトガル総領事のモラエスさんだった。しかもトラさんは、モラエスさんからたっぷりもらったから、仁吉から周旋手数料をもらわなくともいいと言う。山に近く、道路より六尺ばかり高い石垣の上の家が気に入ったモラエスさんは、家主側の分の手数料まで引き受けてくれたのだ。

 よほどのちになって仁吉は、家が気にいったのはモラエスさんではなく、お(めかけ)さんのおヨネさんのほうだったかもしれない、と思ったことがある。愛人の希望をいれてモラエスさんは、不自由な日本家屋に住む決心をしたのだろう……、と。しかし、モラエスさんも、あたりの風光の良さや閑寂さが、かなり気にいっていたようであった。

 三十五円の家賃は、仁吉にとってありがたかった。建築に使った金が二年と少しで取りもどせた。言葉は通じなかったけれども、盆暮の挨拶や時候見舞など、ご機嫌伺いにつとめて出掛けた。モラエス家からもらう金で、家作を二軒殖やすことができたお礼のつもりだった。

 おヨネさんもよく気のつく人で、洋妾(らしゃめん)というより、さばけたところのある奥さんという感じだった。むつまじそうに散歩する二人を、山の手の住宅街で仕事をすることの多い仁吉は、何度見かけたかしれない。ぬけるように白い肌の、小柄なおヨネさんはよく病気をしていた。おヨネさんの病気の噂をきくたびに、西洋人のお妾はつらかろう……、と仁吉夫婦はよく話題にしたものである。だが、洋妾は掃いて捨てるくらいみかける神戸で、おヨネさんだけの美人は珍しい。

 おヨネさんがだいぶ悪いときいたのは、七月分の家賃を届けにきた、女中のお竹さんからだから、六月の末ころだった。一度お見舞に……、など言っているうちに、天子さまがおかくれになり、年号が大正とあらたまった。おヨネさんが死んだのは、大正元年になってすぐの八月二十日だった。知らせてくれたのはおトラ婆さんであった。見舞に行きそびれていた仁吉は、慌ててモラエス家へかけつけ、役所への死亡届や火葬の手続、葬儀屋やお寺の手配など、こまごました世話を焼いたのだった。

 看護疲れのせいもあったのだろうが、モラエスさんはひどく老い込んだ感じで、脇目にも痛々しいほどの嘆きようだった。西洋人は大袈裟なのだろうか、と仁吉が思うくらい泪を流して……。まるで玉手箱をあけた浦島太郎みたいに、一晩で相が変ってしまった、とおトラ婆さんが語った。

 通夜のあとモラエスさんは、肉親であるおユキさんまで遠ざけ、盛夏だというのに、襖を厳重にしめ切って、おヨネさんの死骸と一室に閉じこもった。

 納棺の準備がととのい、汗を拭き拭き坊さんもやって来たのに、モラエスさんは部屋から出てこない。早くしないと腐り始めるのに……と、おトラ婆さんはやきもきしていた。葬儀屋も坊さんも、ずいぶん待たされて困惑のていであった。

 二杯目の氷水をのみほした坊さんが、

「仏式で、おとむらいするのが気にいらんのではないのでっしゃろか」

 と言った。

「いいえ、あんたはん、妹はちゃんと遺言しているんです。寝棺におさめて、仏式でお葬式して欲しいとか、どの着物で、どの帯で、というふうに。それに、遺骨は徳島へ持って()んで、阿波で(まつ)って欲しいっていうことなんかも。モラエスさんは、妹の希望どおりしてくれるって、きっぱり約束してくださっていやはるんです。ようわかりまへんけど、モラエスさんはキリスト教を嫌っていなさるようですワ。教会へ行くの一遍も見たことありまへんし、この家にも、それらしいもの祀っていませんし……」

 おユキさんは狼狽したように早口で答え、女中に命じて氷水のおかわりを運ばせるのだった。慌てたのは、坊さんが腹をたてて帰ってしまいはしないか、と恐れたからであろう。おいそれと、簡単に来てくれるお寺さんがなくて、前夜仁吉はずいぶん苦心したので、その旨をおユキさんに伝えてあった。

「モラエスさんはヤソぎらいだす。ヤソ教信者には偽善者が多い、なんて言いなさってね。牧師さんとはまったくつき合いのない人だす。教会へはお詣りなさらんと、お寺さんへはよく出かけなさっていやはりました。京都の末慶寺や堺の妙国寺などへ、しょっちゅう参詣なさっていやはりましたさかい、仏式が嫌いや言うことはあらしまへん。どうぞ、もう少し待っていておくれやす」

 おトラ婆さんも言い添えた。

「須磨寺へも、よう散歩に行かれとったくらいですさかい、仏式がいやじゃなどは言わはれしまへん。なにしろ、なくなったおヨネさんとは、もう十年をあまる仲でしたよって、別れを惜しんでいやはるんでっしゃろ。昨晩からえろう嘆きはって、生きとる気がせえへん言わはって、傍で見とるんがつらいくらいですさかい」

 と仁吉も言った。

「末慶寺へは、ほんまによう行っとられました。住職さんとも心やすい仲だそうで、京都へ行かれると必ず末慶寺さんへお詣りしていたんですワ。それ、そこの上に掛っている額のなかの写真……、何でも偉い坊さんの七百回忌の記念写真だそうでして、末慶寺を開いた方のお祭の日に撮ったんだということです。招待されて参列しなさったんですよ。すぐおわかりになるでしょう。外国人は一人しか写っておりませんけん」

 おユキさんは、坊さんの背の方にあたる欄間の額を指差した。坊さんは体をねじ曲げて見上げ、葬儀屋の主人は額の下まで立って行った。雨のなかでの撮影とみえて、人びとは傘をさしている。椅子に坐ったモラエスさんはから傘をさし、ひどくむずかしい顔つきで写っていた。

 所在なげに、坊さんとおトラさんは末慶寺の話を始めた。二人の話で仁吉は、京都の松原西寺町にある末慶寺に、烈女といわれた畠山勇子の墓があることを知った。

 日本に来朝したロシア皇太子を、沿道警備に立っていた津田三蔵巡査が襲ったことがある。有名な「大津事件」だ。日本じゅうが大騒ぎするような大事件だったから、仁吉も知っている。事件のあとで、畠山勇子という東京で女中奉公をしていた二十九歳の娘が、死によって日本国民の罪をあがない、天子さまのご心配をやわらげたい、と遺書を残して京都御所の前で自害した。祖国のために自殺した乙女の心意気が、モラエスさんの心を捉えたのだろうか……。

 毎月のように末慶寺へ詣で、畠山勇子の回向(えこう)料を寄進していた、とおユキさんが語った。女性でもりっぱな"大和魂"を持っている、とモラエスさんは感心して、よく畠山勇子の話をするし、ポルトガルの雑誌に、畠山勇子の話を書いた、ということだった。おユキさんの説明は、たぶん死んだおヨネさんからのまたぎきだろう、と仁吉は思った。

「そう言えば、堺の妙国寺には、"堺事件"の犠牲者である土佐藩の志士のお墓がありますな」

 と坊さんは口を挟み、西洋では自殺は悪徳だとされているから、この家の主人公のポルトガル領事は、よけい愕き感心しているのかもしれない、などと感想を述べるのだった。

 この家の主人は、もうずっと"日本精神"の研究をしているのだ、ときかされ、坊さんは何度も欄間の写真を振り返り、「日本精神の研究を、ねえ」と呟くのだった。時間つぶしの雑談をききながら仁吉は、神戸市東遊園地に近いフランス水兵の墓地を、ベンガラのステッキを小わきにしたモラエスさんが、よく歩いていたのを思い出していた。そう言えば、今度おヨネさんが発病した日の朝も、モラエスさんは二人づれで、須磨の敦盛塚へ詣ったとか。家へ帰り着くなりおヨネさんは苦しみ始め、とうとう起き上れなかったのだと聞いた。敦盛の話なども、モラエスさんは知っているわけだな、おヨネさんが教えたのだろうか……、仁吉はぼんやり思った。

 おヨネさんの死をきき伝えて、親しくしている数人の外国人が洋間である応接室で待っていた。この方の接待は領事館の人たちがしていた。青山通訳が、「納棺はまだですか……」と、三度目訊きに来たあとで、

「米沢はん、一ぺんそっとのぞいて来ておくんなはれや」

 と、おトラ婆さんに言われた仁吉は、襖を一寸ばかり開いてなかをうかがった。

 顔を寄せたわずかな隙き間へ、死臭を含んだ重たい空気が殺到するようだったのは、仁吉の気のせいだったろう。モラエスさんは死骸の胸のあたりへ打ち伏し、何かくどくど呟いていた。傍に白紙が二、三枚ならべられ、黒ぐろとしたものが載っていた。仁吉は目を凝らした。おヨネさんの遺髪を切り取ったものだとは、しばらくわからなかったような気もするし、すぐわかったような気もする。遺髪って、あんなにたくさん切るものだろうか……、と思ったことと白紙と黒髪と対照が変に生ま生ましかったことを、今でも仁吉は強く記憶している。かたわらに鋏が無造作に投げ出されていた。

 仁吉は、そっと襖を閉め、みんなの居る部屋へ引き返した。

「もう間もなくらしゅうおます」

 ぼんやり彼は答えたのだが、おヨネさんとモラエスさんの、十二年の秘密をかいま見たような、遺髪の残像が網膜にこびりついた。几帳面で、時間を守るのに厳格な人だから、十時出棺というのを忘れているわけはないだろう、などと仁吉はしゃべった。納棺に時間がかかるのを知らないんですよ、日本の葬式の風習を知らない人だから、と言ったのはおユキさんであった。

 モラエスさんは、いったい何を呟いていたのだろう、と仁吉は煙管(きせる)を手にして考え込んだものである。ナミアミダブツ、ナミアミダブツと、お経のカタコトを唱えるふうにも聞えたし、なぜ先に一人で死んだのだ……、となじっているようにも聞こえた。もっとも、日本語じゃなくて、ポルトガル語だったのかもしれなかった。いずれにしても、この世のものでない無気味さを伴った、それでいて哀れっぽい調子の声であった。

 やがて、襖をあけてモラエスさんがおユキさんたちを呼んだ。

 切髪紋服姿で遺体を飾り、日ごろ愛用していたという繻珍(しゅちん)の帯を締めた、三十八歳のおヨネさんのなきがらは、白木の棺のなかで微笑を浮かべているようであった。

 死斑も、死臭も、おユキさんが丹念にほどこした化粧が消していた。遺体を粧っているうちに泣いたのか、おユキさんはまぶたを赤く腫らしていた。モラエスさんはうなだれ、ガックリ肩を落としていた。

 あらかじめ覚悟ができていた、と言っていたおユキさんも納棺ともなるとさすがに悲しさがこみあげるのか、急におろおろ動転し、あれこれと気を配るおトラさんと仁吉とがいなかったら、出棺はもっともっと遅れたにちがいない。あれも入れてやりたい、これも入れてやらねば……、とモラエスさんは、おヨネさんの愛用品を次々と取り出してくる。いくら入れても限りがない、不経済なことだ、厳しく言って止めさせたのはおトラさんであった。

 釘を打つとき、モラエスさんの太い大きい手が震えたのと、愕くほど大きい泪の玉が髯を伝ったのを仁吉は見た。よっぽどほれていたのだ、と彼は思い、相手が毛唐だろうがなんだろうが、これだけ悲しんでくれる人がいるんだから、考え方によれば倖せなおヨネさんだ、と内心で呟いたのだった。

 春日野の墓地で荼毘(だび)に付された遺骨を抱いて、阿波へ帰るおユキさんを、仁吉は兵庫の島上港まで送っていった。

「お墓ができたら、いっぺんお詣りに来てくれるそうですけんど、モラエスさんて、ほんまにええお方です」

 彼女は明るい表情で言った。一家の犠牲になり、洋妾(らしゃめん)として果てた妹の、骨壺を携えて帰るしめっぽさなど、その夜のおユキさんにはなかった。

 のちになって仁吉は、おユキさんがたくさんのお金と形見別けの品々とをもらい、喜んで帰ったのだ、とおトラ婆さんに教えられた。建墓の費用だけでも、五百円以上もらったなどと……。

 腑抜けのようになったモラエスさんが、領事館へも出かけず、家に閉じこもってぼんやりしている、という噂を伝えたのは、いつも家賃を届けにくるお竹さんという女中だった。お竹さんは新顔の女中を伴っていた。その新顔は、永原デンと名乗り、出雲今市の生まれだと自己紹介をし、お竹さんもお梅さんも旧盆に暇をとるので、今後家賃は自分が持参する、と歯切れよく言った。

 眉の濃い、目の大きなデンさんは、はきはきしゃべるだけでなく、身ごなしもきびきびしていた。白い歯並から、いくらか甘ったれた感じのまろみのある声が出る。それは、ちょうどころころ手鞠が転るような感じの声であった。今市は松江の近くだ、とも言った。初手(しょて)からひどく社交的で如才なかった。玄人(くろうと)出の女なのか、それとも、お屋敷女中の経歴が長いのか、そこらのところは仁吉にはわからなかったが、女中なぞさせておくのはもったいないほどの美人だった。

「仲居さんでもしておったのでっしゃろ。そうでなかったら、異人屋敷専門の家政婦さんかもしれまへんな」

 と、あとで女房が仁吉に言った。

 モラエスさんが気落ちして、神経衰弱みたいだときいた仁吉は、むりもない、あんなに可愛がっていたおヨネさんが死んだのだから……、と思った。一度お見舞を、と思わぬでもなかったが、訪問したところで、細かい点までは意志が伝わらないのも億劫だったし、仕事に追いまくられて仁吉は多忙だった。

 したがって彼は、デンさんが単なる女中ではなく、おヨネさんを失ったモラエスさんを慰めるため、おトラ婆さんが世話した女性だ、と知ったのはよほどのちであった。洋妾(らしゃめん)ののち添いか……、と仁吉は苦笑したものである。

 デンさんは確かに、小股の切れ上った美人だが、おヨネさんには及ばなかった、病気になるくらい故人を憶っているモラエスさんが、おいそれとおトラ婆さんの設計どおりになるわけはあるまい。何しろ十二年の関係なんだから……、とは仁吉の考えであった。

 ところがある日仁吉は、モラエスさんに寄り添って、しゃなりしゃなり歩くデンさんを見た。おヨネさんだったら小半歩遅れ、伏目がちに、つつましく従うだろう。仁吉は舌うちした。若いデンさんをえて、若がえったふうの元気な足どりのモラエスさんにも、気どったデンさんにも、デンさんを世話したおトラ婆さんにも腹がたった。

 四十九日もまだすまんというのに、西洋人は薄情じゃなあ、と仁吉の話をきいた女房が非難した。日本精神を研究しとるなんぞと言うても、毛唐はやっぱり毛唐じゃ、あんな助平爺とは思わなかった、と仁吉も悪口をたたいた。おヨネさんも浮ばれンねえ、と女房。化けて出てやったらええのじゃ、と仁吉。夫婦は死んだおヨネさんをあわれに思った。

 現職のままモラエスさんが、イタリア領事兼任になったという話をきいたのは、確かそのころのことであった。それは去年の秋ごろだったろうか。白髪が増え、髯が急速に白くなって、黒い髯は鼻の下だけになったモラエスさんは、老いてますます盛んなようで、ひところより脂ぎって感じられた。

 デンさんの郷里へ、領事を辞めて引越するときいたのは今年の春だ。デン女がモラエス邸へ上って六か月くらい経っていただろうか。デンさんは、遂にモラエスさんをとりこにした。モラエスさんの財産がどれくらいあるかは知らぬが、すべて彼女のものになるだろう。デンさんは若く、モラエスさんはご老体だ。小股の切れ上った女体に、いのちをすり減らすにちがいない、などと、ついいらぬ妄想に捉われる仁吉だった。

 四月のある日デンさんは、一人で郷里へ発っていった。二人で住む家を探しておくのだ……と言って。薮入りに帰る小娘のように嬉々として、別れの挨拶に来たデンさん――。仁吉夫婦は、思わず互の顔を見交わしたものであった。

 引越荷物の差配を、仁吉のところへ頼んで来たおトラさんは、

「梅雨になる前に、松江へ移ってしまいたい言わはって、モラエスさん慌てていやはるんです。でも、ぎょうさんな荷物でっしゃろ」

 と、仁吉の出馬を懇願するのだった。デンさんが神戸を去っても、もう二か月以上になる。たぶん、家も用意できたのであろう。放っておくわけにもいかぬので、仁吉はモラエス邸へ伺候することにしたのだ。

 仕事は昨日までかかった。

 整理と荷造りの間モラエスさんは、ナニモイリマシェン。ニモツ、スクナイノガヨロシイ、と何度も言い、必要な品だけを、自分で洋間の方に運ぶのだった。

 ソレ イリマシェン。アナタ ホシイ…… ホシクナイ。ソレ アゲマショ。

 モラエスさんは無欲で恬淡(てんたん)としていた。仁吉やおトラさんや、古くからいる下女のおマツさんに何でもくれた。勲章やメタルの類まで、知人や近所の子供に配ってしまった。運送屋の若い衆にでも、かなり高価なものをくれてやり、残りは、仁吉の呼んで来たくず屋に売り払った。

 コレ テイネイニシテクダシャイ。コワレル ワタクシ コマリマシュ。

 モラエスさんが言ったのは、おヨネさんを祀った仏壇を荷造りするときであった。思わず仁吉は、

「仏壇を持って、出雲へ行くんですかい?……」

 と訊いた。

 ノーオ ノーオ。ノーオ。

 ワタクシ トクシマ ユキマッシュ。オヨネシャン オハッカ トクシマデシュ。

 モラエスさんは、仁吉がびっくりするほど力をこめて言った。お墓が、お薄荷ときこえるような発音であった。おトラさんは、モラエスさんの口許をみつめて、ぽかんとしていたっけ。丁寧に仏壇の内部を片づけるモラエスさんを傍で眺めていた仁吉は、やっぱりおヨネさんの勝ちだ、と微笑がこみあげてきた。講談か何かで聞いたことのある、死せる孔明生ける何とかを走らす、という言葉を仁吉は思い浮かべた。

 仏壇を包装する途中で、おヨネさんの位牌や写真、白紙にくるんだ遺髪らしい包みなどを、仁吉は盗み見る機会(おり)があった。モラエスさんは、終始つきっきりだったし、位牌や抽出の整理は自らした。人の目に触れさせたくないふうだったから、"ヨネノケ"、"ヨネノカミ"と書かれた小さな包みが、抽出にきちんとしまわれているのを、彼がチラッと眺めえたのは、おそらく偶然だったのであろう。反射的に彼は、おヨネさんの野辺おくりの日のことを思った。

 仁吉は、自分のことのように頭がじーんとしびれ、胸が慄えた。モラエスさんの気持がわかる者は、この荷造作業に従っている大勢のなかでおれ一人だ、おトラ婆さんにもわからぬ。たとえ、おヨネさんの姉のおユキさんが来ていてもわからないはずだ。あの日の愁嘆場をかい間みていなかったらおれだって……、と彼は心に呟いた。

 綺麗な小箱があって、運送屋の小僧がひょいと取りあげ、ふたを開き、音楽がなり出したのでびっくりして床にとり落とした。隣室にいたモラエスさんが飛び込んできて、血相をかえてひろった。ふたをすると音が止まったのには仁吉もたまげた。こわれやすいものなんだ、とモラエスさんは言って、自ら包装してトランクにおさめた。あとで仁吉は女中に、細かい彫刻をほどこした塗りの綺麗な、魔法の小箱の名前をたずねた。ふたを開くと音楽がなり始めるので、自鳴琴というのだ、と教えてくれた。外国の貴婦人が首飾や宝石や指輪を入れておく、泥棒が盗もうと思ってふたに手をかけたら音がなる仕掛けで、元来はもっと大きい箱らしい。モラエスさんのは、そうした宝石保管用の実用品ではなく、単に音楽をきいて愉しむ用途のもので、海軍時代から持っているものだと聞いたことがある、とおマツさんは説明した。自鳴琴というのは日本名で、ほんとうはオルゴーとか何とかいう……、と笑った。長年モラエス邸に奉公しているが、外国語は片言さえ遂に身につかなかったおマツさんであった。

「仁吉っあん、モラエスさんやっぱりヤソでっしゃろか」

 声をひそめて彼女が囁いた。そのオル何とかいう小箱のなかに、銀色の十字架が綿にくるまれて入っているのを、おマツさんは一人こっそり自鳴琴をきいてみたときに見た、と。そらあたりまえや、何いうたって毛唐じゃから、と仁吉は関心を示さなかった。西洋人が、十字架の一つや二つ持っていたって不思議ではない。そこへモラエスさんがあらわれて、おマツさんと仁吉を手招いた。

 小さいものだが、運送屋にはまかせられないし、数が多いので一人では困る……、とほとんど手真似での話だった。

 品物は立体覗眼鏡――。こいつは仁吉も縁日で見たし、元町辺の商店で売っているので知っていた。薄い桐の木でできた組立式で、ふたのない長四角の箱。手前にメガネそっくりのカタチに桐の板がくりぬかれ、ガラスが貼られている。レンズというヤツだ。そこへ両眼をあて、所定の位置へ絵葉書を立ててみつめると、絵葉書の写真が立体的に見える。立ち木は丸味をもち、枝や葉まで厚みができる。川は道より一段低く写り、美人の写真は円ろみができ、額や鼻や目、それに頬から首のあたりがきわだち、唇にはふくらみがついて生きている人そっくりに眺められる。モラエスさんは、何枚かを仁吉に見せてくれた。

 一枚一枚、白紙に包んでほしいと頼まれた百枚以上ある絵葉書を見ると、そっくり同じ写真が、葉書大の紙の中央を境に左右にあるだけだった。おかしなもんだな、と彼は思った。変哲もない写真が二つ並らんでいるのを、レンズ越しに眺めると立体感が生じる。やくたいもない品物だが、不思議は不思議の仕掛けだ、と彼はおマツさんに言った。

 けっきょく荷物は、たった十一個になった。

 人にくれてやったり、くず屋に払い下げたものの方が多かったくらいだった。

 十一個のうち仏壇が一個、残り十個の大半は書物だ。大きな皮製の函があった。トランクの一種らしかったが、黒いその函は、西洋物の講談の挿絵で見る海賊の宝物函そっくりだった。

 コレ ブツダンヨリ ダイジ。ワタクシ タカラモノ。

 荒縄をかける運送屋の若い衆に、モラエスさんが言った。言われた方は怪訝の表情であった。仏壇よりもだいじな宝物、と説明されて仁吉は首をひねった。

 中身は、ぎっしり貝殻がつまっているだけなのだ。運送屋もそれを知っていた。ともかく、重いので一番へいこうした荷物だった。

 家具調度品のほとんどを処分し、書物と宝物と仏壇からなる十一個を、運送屋が運び出し、あとの掃除を終ったのは昨日の夕方だ。おマツさんは暇をとり、おトラ婆さんとどこかへ去った。婆さんが次の勤め先へつれて行ったのであろう。

 わずかの手回り品と毛布一枚で、神戸での最後の夜をすごし、今日挨拶回りをすませたモラエスさんは、骨休めのため有馬の宿へ発ったはずであった。

 忍び足で仁吉は、自分の貸家へはいっていった。豪華な家財で飾られていた屋敷だが、いっさいを運び出したので、化粧のおちた年増芸者のようにうす汚く、ただ荒涼としている。

 空き家の一隅に、モラエスさんがいた。

 奥の間の、東向きの窓の雨戸を一枚開いて、不器用な恰好で坐っているモラエスさんの背があった。

 訝かしく思い、何か忘れ物かナ……、と考え、仁吉は声をかけようと思って息をのんだ。身じろぎもせず坐っている白髪のうしろ姿は、迫った夕闇のなかで悄然と見え、声をかけるのがなぜかためらわれた。おヨネさんの居間にしていた部屋だ、と思いながら仁吉は、足音を忍ばせて家を出た。

 仁吉が自宅へ帰りついてから、烈しい夕立があった。雨は二時間ばかり降った。久しぶりの雨だったので、植木屋である仁吉は忙しかった。雨を利用してやらねばならぬ仕事が山とあったのだ。

 夕食後彼は、再び加納町の貸家へ足を向けた。念のために戸締りを見ておこうと考えたのだ。

 モラエスさんは、まだいた。

 どうやら有馬へ行く気はないらしい。五、六時間も前と同じ姿勢で坐っていた。眠っているのか……、と思ったが、泣いているようでもあった。ときどき肩が震えている。去りがたいのだ……、仁吉は諒解した。そっとしておいてあげよう。彼はあとずさりして玄関を出た。すっかり夜になった驟雨のあとの戸外はすがすがしかった。

    2

 もの思いに耽っていたモラエスは、パイプの火が消えているのに気づいた。この煙草の火が自然に消えたように、いつか自分もすうっと消えるにちがいない、と運命に従順な彼は考えた。急いでポケットのマッチをまさぐり性急に火をつける。桃の絵のついたありふれた日本のマッチである。煙をゆっくり吐き出しながら彼は、本物のマッチなら安く簡単に購えるが、再び自分を燃えあがらせるマッチは求めえられないだろう……、と思う。ほぼ完璧な日本娘である永原デンでもだめであった。ヨネほどの女性には、もう決してめぐり合えないであろう、とほとんど彼は確信している。

 あこがれの感情を抱き、骨を埋める地は松江……、と決めていたのに、出雲へ行く気が失せ、そこに若いはち切れるような体の、武家の裔だという永原デンが待ちわびているのに、不思議なほど気持が白々と渇いてしまった。

 敬愛するラフカディオ・ハーンが住んでいた松江。そこの人びとには、西欧人をたいせつにする風習がある、と彼に教えたのはデンだ。景色がよく人情もまた美しいことは、ハーンの著作で予備知識があった。日本へ帰化したハーンが八雲という日本名を選んだことも、出雲の国の伝承説話と結びついて理解でき、彼女が力説するまでもなくいいところだろう、と信じられた。郷里で暮したい、と言うデンの希望もかなえてやれる……。領事辞任と出雲移住とを考えたモラエスが、望郷のこころやみがたいデンに、あとから必ず行くと約束し、彼女を出発させてもう二か月経っていた。

 出雲へ……、ほんとうに出雲へ移るつもりだったのだ。官職を辞したのも、家の片づけに取りかかったのも、すべて山陰の静かな田舎まちへ隠遁する方針にもとづいていた。

 ヨネの遺骨を携えて徳島へ帰った斎藤ユキから、いただいて帰ったお金で妹の墓がりっぱにできました。ぜひ一度お詣りしてやってくだされ、と手紙が届いたのは、身辺の整理にかかって間もなくだった。そうか、お墓ができたのか……、とモラエスは呟いた。礼金とは別に五百円を骨壷に添え、この金子(きんす)でお墓を(こしら)えてほしい、でき上ったらすぐ知らせてくれ、必ず徳島へ参詣に行くから……、と彼は斎藤ユキに言ってあったのだ。

 ヨネが徳島に眠っているのだったな。

 売り払ってしまう本と、手許へ残しておく本を選別していた手を休め、彼は考え込んでしまった。おヨネさんのことを忘れていたのではない。仏壇を買ってきて祀っているし、この家は彼女の思い出で一ぱいだ、その人がまだ生ける人であるかのような錯覚さえあり、あらゆるところにおヨネさんの体臭がにじんでいる。おトラ婆さんの言いなりに、デンを迎えたのも、強烈なヨネの記憶を消したかったからだ。デンのなかに没入し、彼女の若い体をかき抱きながら、彼は苦い失望を味わった。ちょうど、マリーを忘れようとしてアフリカ娘アルシーを愛したときのように。

 デンにはデンの魅力がないではなかった、が、しょせんデンはデンであった。おヨネの印象をかき消すどころか、かえっておヨネのことが偲ばれ、思い出されるのだった。忘れることなど不可能だ……、と考えながら、おヨネの生活の名残りだらけの神戸を遠く逃れようと決めたのに、斎藤ユキの手紙は、モラエスの出雲移住の決意をつきくずした。

《徳島へ行こう……》

 おヨネの墓のある、あの南の島の城下町へ移住しよう! 急に彼は行先を変更した。愛する人の墓守となり、市井の片隅で世捨人の老年を送ろう……、と。

 徳島へ荷物を送り出してしまったのに、まだモラエスは迷っていた。

 阿波へ行こうか…?…それとも出雲へ…?…、と彼は何度呟いたかしれない。もう老婆になった妹フランシスカのいる、リスボンのことはちっとも思わなかった。革命によって、生涯を捧げる気であった王朝が滅んだ以上、祖国に対する義務は完了したと思えたし、ポルトガルへの郷愁も淡くなった。肉親の妹と老いの身を寄せ合って静かに晩年を送る……、という夢想をすることはあっても、実際に本国へ帰る気持は湧かない。

 山陰か……、四国か……、である。永原デンのもとへ赴く魅力より、死んだおヨネの呼ぶ声がわずかに勝っていた。生ける若い女性との生活より、死者の思い出に生きる晩年の静謐にひかれた。陰鬱な北国の冬の困難も疎ましかろう……、との不安も働いた。徳島には、すっかり娘に成長した斎藤コハルもいる。ユキの娘で、亡きヨネの姪にあたるコハルには、明治三十六年の夏以来一、二度しか会っていない。まだ縁づいていない、というコハルは二十歳のはずだ。

 ――彼女が身の回りの世話をしてくれないだろうか……

 ふと彼は、徳島移住を決めた心の片隅に、おヨネにつながるコハルへの淡い感傷がひそんでいるのに気づき、少年のように顔をあからめた。

 思慕とはいえない、恥ずべき野望だ。と思う傍から、娘になったコハルの上に、若かった時代のヨネの影像が重なって、永原デンがだんだん遠くなっていく。

 旧部下の青山が交渉してくれてある有馬の宿へ行くのもたいぎになり、もう一晩ここで過ごそう……、とモラエスは考えた。明日は徳島行の船に乗る。いわば、神戸最後の夜である。闇のなかで彼は、長い瞑想に耽った。

 おヨネが死んだとき彼は、自分の生涯が終ったと思った。初恋に敗れ、母国を《ただ遠くへと逃れて来て》やっと得た安住の世界が音たててくずれる、その音をモラエスは聞いた。「愛」という確かなものをちゃんと掌にしていたと思っていたのに、それはやはり、もろい、はかないものであった。生と死とをわけへだてる峻烈な審判の前に、「愛」がつかのまの倖せにすぎないことを、いやというほど知らされたのだ。

 電燈をつけようとして立ち上ってからモラエスは、今日の午前中でこの借家を返却したので、電燈会社の工夫がやって来て、引き込み線を切断して帰ったのを思い出した。新しい契約を家主との間に結んだ主人公がやってくるまで、十余年間暮したこの家は無人だ。表には「貸家」札が貼られて……。

 彼は力なく座わり、やがてそこに転がった。

 夕食を摂っていないのに、空腹感はない。公職をいっさい辞して隠棲するという彼の手紙に対し、本意を慫慂してきた母国の友だちに、《ぼくのような旧式な人間、とくにいずれの党派にも属しないぼくのような者にとって、公的生活におけるすべてが終結した。すでに、新人による新しい時代が始まっている》と返信したとおり、革命と反革命の動乱を経て、共和党政府に完膚(かんぷ)なく平定された王党に対しても、革命を成功させた共和党に対しても、私人となったモラエスには何の義務も責任もない。かつての親友で、上院議員であるペレス・ロドリゲス博士や外務大臣をつとめているアウグスト・デ・ヴァスコンセリヨの好意の「終身東京駐在総領事」に昇進せしめるという辞令も拒絶した。いろんなわずらわしさはもうご免だった。

 それにしても、生き残った者の悲しみは永い……、とモラエスは思う。《臨終の枕許に坐って泣き、言葉にならない心の苦しみをとりとめもなく唇から洩らしている取り乱した者たち。その嘆きと悲しみの涙が乾いて、やっと元の日常生活に帰ったとき、生き残った者は、さらに新しい悲しみにおそわれる。それは――追慕だ……。毎日、毎日、決して終らない執拗な悲しみ。この世を去っていった人びとへの追懐……》とノートに走り書きしたのを思い出す。好んで読んだ日本の古典――鴨長明の『方丈記』にならおうとしているモラエスだが、闇は幻想を呼ぶようで、ガラン洞の空き家は、すでに十年余前へのよみがえりをみせていた。

 ――雨戸を閉めなくっちゃ……、夜風は体に毒ですわ――

 あの甘い、耳にするたびに全身のしびれを感じた声がした。そうだ、雨戸を開け放したままだったな、と身軽にモラエスは立った。

 ――あたしがやりますワ――

 ヨネと争い、もみ合うようにして雨戸を閉めた彼の胸に、ゆっくりヨネが体を倒してきた。束髪が目の先でゆらぎ、髪油の香が鼻腔をくすぐる。柔らかい体を抱く。ヨネが身につけているのは、阿波しじらの浴衣だ。薄い生地をとおして、湯上りの肌が掌に戦慄を感じさせる。右腕に力をこめ、自分の方へ彼女の体を向けながら唇を寄せた。左手は襟許からすべるように浴衣の下を這って、裸身をまさぐっている。目の下に薄ぼんやりと白い顔があり、彼女のまぶたは閉じられている。ヨネは背のびをしているらしい、彼の手のなかでのけぞった恰好の不安定な姿勢だ。

 ヨネはあえぎ、やがて低く呻いた。

 力をいれすぎたらしい、と彼は後悔する。乱暴だった…?…、苦しかった…?…とやつぎばやに訊く。ゆっくりかぶりを振ってヨネは、

 ――ううんちがうワ、ええんぢョ。せこいんとちがうワ――

 と微笑した。

 モラエスは、自分の体を畳に倒しながら、さらに烈しく抱擁した。そのとたん、ヨネは消え、畳にとけた。いや、闇がひろがり、彼は一人ぶざまに"倒した。

 幻想だと思うかたわらから、いっそう生ま生ましい夢幻が拡がる。

 電燈がつく。ヨネは鏡台に向かって化粧している。彼がぬすみ見しているのに気づかないのか、双肌ぬいで懸命である。今湯から上ったばかりらしい。洗い髪が束ねられ、すっと右肩から背へ流れている。白い肌がほんのり桜いろをただよわせて……。

 ――暑いワ――

 独言がもれる……。団扇を左手がとりあげる。風がうごき、窓辺の風鈴が鳴った。

 ()っ! あの風鈴を荷物のなかへ入れるのを忘れていた……、とモラエスは現実にかえった。

 風があるのか、しきりに風鈴が可愛い響きを伝える。縁日でヨネが求めてきた遺品である。明日の朝、あれを忘れずにはずしていこう、と考えながら、彼はしばらく風鈴の柔らかな音に耳を傾けるのだった。

 つとめてゆっくり歩きながらモラエスは、何度もヨネに疲れないか、と尋ねた。少し長く寝込み、胸のあたりが心持ち薄くなったヨネだが、足どりはあんがいしっかりしていた。白い頬を上気させて、大丈夫よと答える彼女に、途中から引き返してもいいのだよ、何も須磨寺まで行かなくとも、言ってモラエスは立ち止まった。

 老松の影がくっきり地上にそのかたちをうつし、よく団扇に黒で印刷してある月と松の図柄の松のようだった。ヨネの体は松樹の影のなかにすっぽりはまったが、彼はかなりはみ出た。幹に体をもっとくっつけるといい、とヨネが言ったらしかったが、その言葉は充分通じなかった。扇子をひろげかけていたヨネは、それを左掌に握ると、彼の体を老松の根方に体で押した。抱擁の姿勢になったからモラエスは愕いた。人通りもある白昼の街道だ。しばらく経って、ヨネの行動が影へ入れ、という意味だった、と理解してから彼はてれた。狼狽をごまかすためにハンケチを取り出し、帽子を脱いで額を拭った。

 ――あらっ! まだ肩が出ているんだわ――

 地面の影をみて、おかしそうに彼女が笑った。少女ががまんし切れずにクスッと洩らす、あの忍び笑いだ。太い老松に体をくっつけたのに、右肩に日があたり、松の樹に瘤ができたような影が路上に在った。

 ヨネの笑い声が、モラエスの内部に、ほんの一瞬コハルの面影を呼んだ。

 叔母と姪だから、どこかに共通するところがあってもふしぎでない。ヨネの笑い声とコハルのそれはまったく同質であった。

 十五歳の春、一人で家事手伝いにコハルが来たことがある。小学生だったころと違って、娘らしさを加えたコハルは溌剌(はつらつ)とし新鮮だった。母親ゆずりの幼顔を一挙にかなぐり捨て、ヨネにだんだん似てくるのに彼は目をみはったものである。そのときコハルは、約二か月神戸にいた。その次はユキと一緒に来た。十七歳の秋であった。今度は、ユキにもヨネにも似ぬ顔になっていた。わずかの間における変化だった。くるくるかわる微妙な変貌――、そしてそれが不思議に愛くるしかった。

 ヨネが寝込むたびに、モラエスは徳島へ電報を打った。

 ユキが看病にやってくる回数がふえ、手真似まじりにもせよ話が通じるようになった。が、ユキの到着のたびにモラエスは淡い失望を感じた。何かのつごうでユキが来られなくて、代理としてコハルが訪れることを、心の片隅で期待するものがあったのだ。彼の方にも微妙な変化が起っていた。

 小娘のコハルに興味を抱くのは、愛するヨネに対する冒涜…?…と思わないでもなかったけれども。

 あれから、また二年……。どう変っているだろう。何でも打ち明けて話せるヨネにさえ、告白できない関心事だった。

 ――ステッキ持ちましょうか――

 地上にもり上った松の根の上にハンケチを敷き、腰をおろしていたヨネが言った。

 その声でコハルへの甘美な空想は終ったのだが、ヨネの顔を見てモラエスは胸を衝かれた。愛人の傍にいて別の女を思っていたからではない。大丈夫、大丈夫と答えて歩いて来たヨネの、うずくまった姿と心持ちうわ向いた顔に、この世の人とは思えないほどの憔悴を見たのだ。

 あれが、東洋的に言う死相だったのか――と、その後しばしば彼は想起した。

 それは一九一二年(明治四十五年)の六月二十日だった。晴れわたった美しい午前だった……。そして、その散策がヨネとの最後の外出となってしまった。

 そのとき彼は、即座に引き返さねばならぬ、と思った。疲れているのだ、須磨寺まではむりだから帰ろう。もう少し養生をして元気になったらどこへでも行ける、とすすめるモラエスに、ゆっくり立ち上ったヨネは、底抜けに明るい声で、――変なのネ、大丈夫よ。うち須磨寺へ行きたいワ。敦盛塚にお(がん)かけたいことがあるの……。この前にお詣りしたときにネ、今日はまだ恥かしくって言えないのですけれど、このつぎきたとき必ず申しあげます……ってお祈りしておいたの。だから、今日は行って、おねがいしなくっちゃ――

 と珍しく我を張った。

 ヨネは、松の樹の表皮を小石で叩いてはがし、

 ――あのねエ、こうして皮を取るでしょう。いろんなかたちをしているのをね、一番恰好が似ている動物にあてはめてみるの。鶴や亀のような皮がとれたら、とっても運がいいんですって……。うらないよ、一種の――。

 と言う話もした。せっかくの老樹を痛めては松がかわいそうだ、と彼はやがてやめさせた。鶴亀に類似した表皮は一枚もはがせなかった。

 ――ねエ、これ何かしら。いやねエ、蝉みたい。……これ、亀に見えなくって……?――

 などといらだっていた。彼はおヨネさんは体が弱っていると思う、と強く言ってみたが、彼女は先に立って須磨寺の方へドンドン歩いた。

 けっきょく須磨寺に詣でた。寺でも、敦盛塚ででも、ヨネは懸命に祈っていた。彼女が何を祈ったかは、痛いようにわかる。彼女はいきたかったにちがいない。もっと、もっと、今のわずかな倖せがつづきますように、と。

 敦盛塚に近い茶店で休んだ。そこで求めた一籠の水蜜桃が美味であった。ヨネはほんとうにおいしい、と三つか四つ喰べた。二人でたっぷり喰べ、ヨネはその残りを風呂敷に包んで持って帰った。帰宅し着換えをしている途中で、もう珍しくなくなった心臓発作が訪れた。彼女はそのまま床についた。今までにはなかった苦しがりようで、まったくつつしみを忘れた、痛ましい呻き声をあげて彼を苦しめた。またユキが呼ばれ、高名な医師の往診も受けた。どの医者も首をひねり、曖昧に返事をにごした。英語が通じないのかと思うくらい、彼等の受け答えは重かった。日本人の曖昧さかげんに、このときほど腹立ちを覚えたことはない。けっきょく、相当重態……、と不承不承なっとくするほかなかった。

 療養二か月――、寝ついた日と、くしくも同じ二十日、盛夏八月の午後ヨネは死んでしまった。

 モラエスはいつまでも、畳に"倒した恰好のままでいた。追想は果てしなく拡がって、ヨネの住んでいた、思い出だらけの部屋ともお別れだと思う心が、彼をいっそうやるせなくするのだった。遠くで汽笛が鳴った。

 (あうはわかれのはじめ)と、不意に言葉が唇を衝いた。漢語だと会者定離――そして生者必滅。

 相当夜がふけたはずだったが、時間の観念はまったくなかった。空腹も感じない、純日本風の礼装ともいえる切髪紋服姿に粧われて、白木の寝棺によこたわった、仏さまになってしまったヨネと、病気の日々が多かったにせよ、元気で「愛」を奏でてくれたヨネとが、モラエスの内部に交錯し明滅する。

 ――ヨネ、お前は充分満足だったのか……、いやそうではないだろう。むりやりにがまんしてくれていたのだったにちがいない。ね、そうだったろう。諦念からする献身の愛……。

 ――いいえ。もったいないくらいでしたわ。あなたは、あたしを敬ってさえくれましたもの。義理だの人情だの、いえ、損得勘定や諦めではありませんワ。ご一緒になって間もなく、あたしは自然に、そして本気であなたを愛しましたの。あたしもあなたを尊敬し、お慕いしていたのですもの。貧しい、そして何のとりえもないあたしに、王者の生活を与えてくださって、思い切って申し上げますワ。あなたは、あたしに「愛」というものを教え、そして与えてくださった、たった一人のおかたでしたの――

 どこからともなく、ヨネの返答が、情感に溢れた、激情を必死にこらえているような声が返ってくる。

 ――あなたは、あたしを棺におさめたとき、泪をポロポロ、まるで子供のように溢れさせ(こぼ)してくださいましたのね――

 つらかったよ、とモラエスは呟いた。とり残されたものの悲しみ……絶望……。どのようにしても(なご)まない落胆……。どんなにかして忘れようとつとめたのに。

 お墓ができました……と、斎藤ユキが手紙をよこした夜だった。荷造りの作業で疲れ切って、蒐集品整理の途中でモラエスは蒲団にもぐり込んだ。熟睡したらしい。その眠りのなかへ福本ヨネがあらわれたのだ。彼女はモラエスの寝床の横に坐ると、(うら)むがごとく嘆じるがごとく、あるときは柔媚(じゅうび)に訴えつづけた。一陣のそよ風にでも吹き飛びそうな、たよりな気な楚々とした感じのヨネだった。

 ――なぜ出雲へ行っておしまいになるんですの? ねエ、ぜひ、徳島へ、あたしのところへおいでになって――

 ――ねエ、ヨネの最後のおねがい! 出雲なんかへ行かないで、あたしを見捨てないで、前におっしゃったでしょう。徳島はいいところだって。そして、年寄っておつとめを辞めたら、あたしと徳島へ行って住もうって、約束してくださったことがありましたワねえ――

 ――あたしは、モラエスさんのおいでを信じて、徳島で静かに待っていたのです。だのに、あんな女のところへ行っておしまいになるなんて嫌ですワ。がまんできなくなって、あたしとうとうここへお迎えに来たの。ねえ。モラエスさん! 約束して! きっと徳島へ行くって!――

 一晩じゅう、夢のなかのヨネは去らなかった。「徳島へ来てほしい」と訴えつづけるヨネと、彼は久しぶりにしみじみと語りあった。そして・・・・・・。

 恥かしいほどなまなましい、変な夢であった。<黄泉(よみ)の国>から訪れたヨネ、その細い体を抱いて、モラエスの方も思いのありったけをしゃべった。切髪紋服のあの日のままのヨネだ、楚々としているのは当然というもの。彼が《永遠(くおん)の女性》と呼んだ福本ヨネがよみがえり、ほんとうに《永遠の女性》を自らのものにしたのを識ったモラエスは泪を(こぼ)して、「徳島へ行くよ、きっと!」と叫んでいた。「うれしいわ」愛人はさめざめと泣いた。

 言語による障碍が取り払われ、追慕が追慕でなくなったヨネとの「愛」――、いつも健康で彼の思いのままになるヨネを得て、出雲へのあこがれがしなびていった。眠っているときでも、起きているときでも、ヨネはいつも現われ、彼の傍にいる。(うつ)し身の彼は齢を重ねて老いてゆくに決まっているが、<黄泉(よみ)の国>の彼女はいつも若く美しい。あるときは二十代の高島田であり、あるときは三十五歳ころの、(ろう)たけたつぶし島田であった。

 死者の亡霊がモラエスを捉えたのか、激しい追慕が虚像を生んだのか、彼にはもう、そうした詮索すら無用になっていた。

 彼が充分満足だったかと尋ねると、「もったいないくらいだった」とヨネは答えるのだが、おれがかってに妄想し、自分かってに答えているのだからな、と闇のなかでモラエスは苦笑をもらした。あと数時間したら、ヨネと住みなれたここを出て行くのだ。

 ――ほんとうに満足していたのですよ。それに明日は<とくしま>でお会いできますのね。うれしいわ――

 どこからか、あの彼を捉えて放さない声がした。

 ――でも、まだ迷っていらっしゃるのねえ。阿波へ行こうか、出雲へ行こうか、などと呟かれてますのね。荷物をお送りになってしまったのに――

 そりゃそうだ、追慕のなかで死者と語って晩年を過ごすべきか、デンの若い体を抱いて現実生活に歓喜すべきか……。徳島の城下町だって悪くないが、山陰のあの松江だって……、ここらが老残の日々(ひび)を決める運命の岐れ道だ――と、モラエスは心に呟く。その呟きは仏さまのヨネには筒ぬけだ。歯がゆそうな表情をあらわに、彼女が体をぶっつけてきた。()っ!と叫んで彼はヨネをだきしめた。激情をかろうじて押えているふうな肌が燃え、思いがけぬことにヨネは全裸だった。モラエスはとろける。とろけながら「徳島へ……徳島へ行くよ」と夢中の呻き声をあげた。

 夜の白々(しらじら)あけにモラエスは、ニキチ・ヨネザワの貸家――住み慣れた加納町の家を出た。門を出て振り返ると、「貸家」と下手な字を書いた木の札が門柱にとめられていた。

 徳島行の汽船は夜である。今さら有馬へ行く気はなかった。が、夕方までの時間をもてあましそうな予感がして、どこへ行こう……、とモラエスは迷った。考え込みながら彼は、ひどく空腹であるのを感じた。外人相手のホテルやレストランのいくつかが想念に浮かんだ。徳島へ行けば、うまい西洋料理ともお別れである。ビーフ・ステーキを腹いっぱいつめこもう、と彼は思った。生野菜も喰べよう。セロリー、アスパラガス、レタスと、久しく口にしなかった西洋野菜に、飢餓(きが)に似た食欲が湧く。ホテルで休み、食事が終ったら……。けっきょくすることがない。そうだ、須磨寺まで、散歩しよう。もうこれが最後なのだから、と決めたのは、目指すホテルが見え始めてからだった。

 その夜、年下の友だちペドロ・ヴィンセンテ・ド・コートと旧部下の青山に見送られて、兵庫島上の港からモラエスは乗船した。淡路の島影は闇に没してまったく見えず、海上には風波と軽いうねりがあった。

 ときに一九一三年(大正二年)七月四日――、モラエス五十九歳であった。

    3

 徳島へ着いて間もなく、モラエスは一つの短文を書いた。突然の総領事辞任と徳島移住に愕いた、母国の人びとからの照会文が殺到したから、一人一人に丁寧な返信をすると同時に、随筆を連載している母国の新聞に、徳島移住の理由を明らかにしたのである。

 生ける人びとから逃れよう。

 徳島へ……。

 愛する一つの名を思い出し、追慕の心を起させるあの墓の

  かたわらへ行こう。

 人は感情生活において、

 希望と追慕との二つの形で生きる。

 ほとんどの人生の旅路が終ろうとし、

 すべての希望の消えようとするとき、

 追慕に慰めを求めるのはあたりまえだ。

 また、ある友人の手紙のなかへは、

《ぼくの現在の心境は祖国を、ほとんど、いな、全然問題にしていない。ぼくは言語上の厳密な意味における王党ではないが、共和国のために働くことは全然できそうもないのだ。というのは、今更この旧いぼくのなかに「新思想」を若返らすことができないし、こうした急激な社会の変革に対する信仰をにわかに呑みこむことができないからだ(花野訳)》

 と書いている。

 母国の革命とおヨネの死――。この二つの事件が、あいついで起らなかったならば、モラエスの徳島隠棲は、少なくとも、もっと後年になっただろうと思われる。祖国と愛人を喪失した彼は、世のなかの人間関係のわずらわしさから逃亡したくなった。出雲移住を決めていた彼が、なぜ、突然行先を徳島に変更したかについては、モラエス自身は、愛するヨネが夢枕に立って、徳島へ来て墓守をしてほしいと懇請したからだ、と書いている。松江や徳島を考えたのは、日本固有のものがそのまま残っている、欧風化されないでいる日本の田舎へ行って晩年を送りたい、と述べているところからみて、地方でさえあればどこでもよかったのだろうと思う。たまたま永原デンの郷里とハーンの住んだ土地というので、出雲が第一候補として考えられ、ついで気心のわかった斎藤ユキとその娘コハルが住み、おヨネの墓所のある徳島が第二候補として想念に浮んできたのである。

 花野富蔵氏は、「モラエスのもとへは、おヨネの姉の斎藤ユキから、おヨネの墓ができたから参詣に来てもらいたいと再三言ってきていた。(中略)ユキは約束どおり墓ができ上ると、モラエスの来徳を請求してきたのであった。これも、モラエスの徳島行き決行を早めさした一つの動機になっているのであるが、これから考えても、モラエスの徳島隠遁が早晩実行されることは、すでにおヨネの死んだころから決定していたことを知るのである。(『日本人モラエス』と書いている。)

 モラエスは徳島へ移った。彼自身が書いているように、おヨネが夢枕に立ったのかもしれないし、斎藤ユキの手紙による墓参懇請が働いたのかもしれない。いずれにもせよ、母国の新聞に発表した「生ける人びとから逃れよう。徳島へ……」一篇から、モラエスの意志は充分汲むことができる。

 私が長いあいだ気にしていた一つに、モラエスが官職を捨てる決心をすることになった、ポルトガルの革命のニュースに対する日本の反応がある。王朝滅ぶの報を、日本のジャーナリズムがどのように国民に伝えたか?……だ。いろんな新聞を私は調べてみたが、モラエスにおける重大事件も、当時の大日本帝国の新聞は、世界史の片隅のできごととして小さく報道しているだけである。明治天皇を大帝と称して押したて、ようやく世界の檜舞台に登場した時代だから、皇帝と皇太子を人民が抹殺したポルトガルの事件は、意識的に小さく扱われたのかもしれない。

 ただ一人、この革命に関心を示したジャーナリストがあった。石川啄木である。私は何も、啄木とモラエスとが関係があったなどと奇矯の説をたてるのではない。当時啄木は、失意流浪の身を「釧路新聞」に託していた。

 ロンドン電報で知ってモラエスが愕いた母国の革命を、啄木もまたロンドン電報で知り、これを詳細に報じた。

 葡萄牙(ポルトガル)国王カルロス一世陛下及び皇太子ルイフイリップ殿下が去る一日リスボン市に於て兇漢の為めに暗殺せられたりとの報は、全世界を通じて異常なる感動を惹起したる者の如く候。倫敦電報の報ずる所によれば、同日午後陛下には皇后陛下皇太子殿下及び第二皇子マヌエル殿下と共に御遊猟の帰途馬車を駆つてリスボン市中を御通行中、四辻に待合せ居たる兇漢等が不意に騎銃及び拳銃を以て狙撃し奉り、父皇陛下は三発の銃丸を受けて即死し給ひ、皇太子殿下も亦三発の拳銃弾に当り数分後に敢なくも落命せられ、かくと見て身を以て第二皇子を蔽ひたる皇后陛下は御無事なりしも、マヌエル殿下亦御負傷ありし由に候。弑逆者中、三名は直ちに警官の為に射殺され、数名縛に就けりと申す事に候が(中略)

 カルロス一世陛下は御年四十六歳、「肥満王」と綽名(あだな)せられたる丈ありて体重四十貫に上り、現時世界の各国元首中の大関にて、文学上科学上の御造詣深く、二十年以前、前帝ルイ一世に次いで皇位を継承せられしが、政務に関しては寧ろ中立の態度を執られ、敢て干渉せられる事なかりしも、一昨年来同国の政治家甚だしく腐敗して、猟官の野心の為に議会の席を争ふが如き観を呈し、皇帝に左袒すべき保守党の腐敗殊に甚しく、立法の機関を殆ど用をなさざるの状況に至りしより、(中略)非常なる英断を以て一時同国の「憲法中止」を布告せられ、四百万円の議会費を財政整理費に充てられしが、国民の多数は却て帝の此挙を喜ぶ者の如かりしも、腐敗せる保守党は種々なる奸手段を用ゐて絶えず陰謀を企て居りし由に候。(中略)

 世界の裏面には、未だ人の知らざる一大暗流あり。此暗流、時に地殻を破つて地平線上に湧出するや、紫電閃々、懐剣光り、拳銃鳴り、爆弾飛び、鮮血淋漓(りんり)として(なまぐ)さし。兇漢或いは殺され或いは捕へられて、世は再び太平に入る如しと雖ども、地層幾尺の下、一大暗流や依然として一大暗流たり。(中略)若し、国際的戦争なきを以て世界の平和が維持せらるゝものとすれば、謂ふ所の「世界の平和」なるもの、或は夫れ軽装の美人が薄氷を踏んで舞踏するにも似たるべきか。(明治四十一年一月、現文のまま。中略と新字体は引用者)

 ほぼポルトガルの国情の察せられる文である。モラエスと石川啄木は遂に無縁のまま終るのだが、ポルトガル革命の報を、私はこの「釧路新聞」をみつけて読んだ。

 徳島へ着いたモラエスは、以前に何度か泊ったことのある旅館「志摩源」に落ちつき、やがて斎藤ユキの探してきた、伊賀町三丁目の借家へ住みつく。斎藤コハルという門札を掲げ、二十歳の新しい愛人との生活が始まる……。

 華やかだった神戸の生活を捨てて、急に徳島の長屋住いに転身したモラエスの奇異な振舞に愕いたのは、彼の友人知己だけではなかった。彼の日本からの「通信」を愛する多くの読者をびっくりさせた。この世の愉悦に、強烈な欲望を抱いているはずの南欧の詩人が、いきなり東洋的隠者の生活にはいったとのニュースは、読者の驚愕と同時に好奇を呼んだ。「ポルト商報」のベント・カルケージャは、早速モラエスに依頼して、<徳島での生活>の原稿執筆を求めた。徳島のモラエスは果たしてどんな暮らしをしているのだろう…?…幸福でいるのかしら…?…と。

 愛読者の興味と心配に答えるふうに、モラエスはどんどん原稿を書き送った。公生活から解放された彼には、執筆と読書と墓参しかすることはなかった。時間はたっぷりあり、徳島を珍しがる母国の人に伝えたいことはいくらでもある。やがて、「もののあわれを」「徳島のつれづれ」「徳島日記」「友への手紙」……と、のちに『徳島の盆踊』として一本に纏められた随筆が「ポルト商報」に載り始め、その新聞「ポルト商報」は一挙に売り上げがのびた。ベント・カルケージャの企画があたったわけである。

 ある友人はそれを愛読して、

「徳島は、よっぽどすばらしい隠棲地にちがいない……」と言ってきたし、一般の読者からも、「もっと、もっと徳島のことをくわしく教えて欲しい」との投書があいついだ。《昔、ずっと昔、わたしは異国情緒の魅惑に襲われ、かつ憑かれた。なぜなのかしら? それはわたしにも解らない。生まれ落ちるときから明らかに病的だったこの気質のためか、どこというあてどもなく、運命の星にみちびかれてただ遠くの方へ、遙か遠くの方へ逃げようとして船に乗りこんだような気がする……。わたしは逃げて、航行して、魂の襤褸を(なぜなら、魂は事物を愛するときそれをひっ掻いて跡を遺していくからだ)世界じゅうの見知らぬ国々に遺してきた。――水と空ばかりの――広々した大洋州にも、欝蒼たるアフリカにも、エジプトにも、アルゼンにも、ザンジバルにも、アデンにも、コロンボにも、シンガポールにも、バンコックにも、サイゴンにも、支那にも、ジャバにも、マカッサルにも、ティモールにも、など、などと……だが、運命はまた今一つの感動をわたしに保存してあったのだ、――すなわち、わたしは日本に着いた。日本に深く碇をおろして、――わたしはそれを気も狂わんばかりに愛した、わたしはそれを神酒(ネクタア)を飲むようにむさぼり飲んだ……》

 日本讃美と徳島紹介の文をかきつぐことに、彼はうちょうてんだった。神戸の生活を捨ててよかった、と思った。夢中で彼はかいた。《今では運命に満足し、自分の実行した精神的な自殺を悦んでいる(花野訳)》などと述べながら……。

 コハルが日本人の種をやどしていて、間もなく出産することや、彼女が彼と同棲しながら、愛人とむりな逢瀬を重ねていたことなど予測できなかったのだろうか。老いが迫まり、死がそこまで忍び寄っていることまで忘れ果てたように、徳島生活に耽溺し満足し、得意になって、まるで初めて実社会へ巣立った青年が、その身辺を知友に報じるような若々しい文章で、「徳島のつれづれ」がつづられてゆく……。

 やがて、といっても、徳島移住の一九一三年(大正二年)から十五年も経っての一九二八年(昭和三年)だが、次のような痛ましい手紙を書くにいたるのだが……。

《わが友、ディアス・ブランコ様

 貴兄の十月二十日付の手紙は、だいぶん前に受け取っていました。が、数週間前から強いリューマチスに襲われ、病床に臥っているのです。近々のうちには快方に向かうものとは思いますけれども、貴兄、いや私自身、いな誰もが、私が根本的によくなることは期待すべくもありません。この(とし)ではむしろ期待する方がむりというものでしょう。

 貴兄への返事を拒んだものは病気なのです。寒さはことのほか厳しく、それがひどく病気に患いするのです。それに、返事を拒んでいた理由がもう一つあるのです。

 それは、貴兄の、記念切手蒐集についてのご依頼に、貴兄の満足するようなお返事ができなかったことです。それについてのニュースですけれども、かつて私が神戸で読んだ英字新聞は、たぶん徳島では見ることができないでしょう。ともかく、あれには記念切手については何も記していませんでした。

 ご存知でしょうが、近ごろ私は、切手などを愉しんでいるヨーロッパ人(マカオ在住人を含めて)や日本人とは、何らの交渉も持っておりません。私に卵や魚を売る老婆のほかは誰とも交渉もなく、話すこともありません。

 貴兄の手紙を読んだとき、誰に相談を持ちかけたらよいかわからなくなりました。けれども、小さいころからしっている大阪のある貧しい女性や、ブラジルに十三年もいたところから、ポルトガル語をよく話す神戸の人などに連絡しました。ところが、これらの人からは、大阪の娘さんを除き今日まで何の返信もありません。が、もし切手を私あてに送ってきましたら、貴兄の方へ送付することにいたします。

 大阪の娘さんからは、一銭五厘のものと三銭のものだけ入手しました。でも検印がないのです。たぶん貴兄は、検印の押されたものを欲しがっていると思うので、この手紙にその切手を郵税として貼りました。だから、日本の郵便局は、それに検印を押すことでしょう。

(願わくば、この郵便が横道に迷わぬように)

 わかってもらえると思うが、大阪の娘さんからは、それ以上を望むべくもありません。神戸に住む男性から送ってきたら、すぐ貴兄に送付します。

(送ったところで、貴兄にはたいしたことにもならないかもしれませんけれども……)

 またの機会にもっともっとお話をしましょう。奥さまにどうぞよろしく。

 ご一同さまのご健康を祈っております。

さようなら

 一九二八年一月十三日

        徳島にて

ヴェンセスラウ・デ・モラエス》

《我が友へ  一九二八年五月十四日

徳島にて

 三月九日付の貴兄の手紙正しく受け取りました。今日にいたってもまだ病気がつづいて、以前にもまして悪く、書くことが骨折りなのです。そのうちに長い手紙を書きたいと思っておりますが、今のところ、この六行ばかりの手紙を書くのがやっとこさなのです。私は、もう年をとりすぎました。もちろん、此のままではありえないでしょうが、人生の最後と定められた日まで、忍従で苦しまねばなりません。(以下略)》

《私は病気です。うまく書けません。この手紙は即位式を記念する十銭切手を運んでいます。三種類ありますが、次々つづけて出します。W・モラエス》

 この短い日付なしの手紙は、アルフレッド・エルネスト・ディアス・ブランコが、一九二九年(昭和四年)七月、ヴェンセスラオ・デ・モラエスの死後リスボンで受け取った。すなわち、モラエスが最後に書いたものと推定できる書簡である。

 第六章 再びおヨネとコハル

    1

 神戸の家賃月額三十五円の邸宅とは似もつかない、徳島市伊賀町の棟割長屋。四軒つづきの二階建て一つ――。鴨長明にならって方丈に擬した茅屋。家賃月三円五十銭のその長屋を、《最初にぼくは、鴨長明がむすんだ草のいおり――その方丈という――を真似て隠者の日々を送ると述べたが、この徳島のぼくの棲家は、世捨人の日本人、長明の粗末な方丈に比較したらはるかに上等なのだ。『方丈記』の作者の住居からいえば、ぼくの家はまさに王侯貴族の御殿にもなろう。これで、まだまだぜいたくなのだ》

 とモラエスは母国の人びとに伝えた。

《もはや晩年――その人生の旅路の果てに近づいて、私は知るかぎり、できうるかぎり故国のために奉仕してきた。したがって、母なる国への義務と権利を放棄できるし、その口実も勇気もある。同国人であるポルトガルの人びとのしごく当然な冷淡さに葬り去られ抹殺され、かえって、孤独を楽しみ老残の身にあまる倖せを味わっている》

 とちょっぴり皮肉を言うかと思うと、

《私は(ゼロ)だ――。人生の目標も、職業としても、社会人としても零なのだ。零であることは、きわめて有為転変の烈しく複雑な生活ののちに、初めて得ることができる肩書だし、大変な特権階級にいる人間だけの手に届けられるものだ》

 と、詠嘆まじりに《零》の思想を振りかざす。《この老人が過ぎ去った歳月を追憶し、青春を取り戻し、それを判断し、それを解釈することが、充分できるのは、孤独で、貧困で、簡素で、全然野心のない生活をしているからだ。老年とは経験で、つまり平安、慈愛、融和である(花野訳)》

 いささか詭弁じみた表現だが、モラエスはたぶん本気でそう思ったのだろう。

《わたしが隠遁地として徳島を選んだ理由については、わけなく説明できる。

 二年たらず前の八月の夕べ、何ものとも知れず(註・ヨネのこと)わたしの両手を握りしめて、ちょっと懇願した。その者はかわいそうに、たくさんの身内――母、兄弟、姉妹――があるんだが、みんな近くにいないし、打ち明けて言うと、その者のことをあまりかまわなかったし、わたしだけがどんな苦労の場にも心から、その望みを満足させてくれる人だと、はっきり知っていたのだった。で、どうか、もっと生きさせてください、とわたしにねだった……。

 だが、わたしはその願いを聞いてやる力がなかった。それを満足させる力がなかった。その人は諦めの言葉を口ごもって、最後の努力をこめてわたしの手を握りしめて(今でも握られている気がするのかしら…?…)死んでいってしまった……。

 その人の逝った翌日、日本の風習に従い、その死体を神戸の火葬場で焼いた。

 姿の消えた哀れなる人の灰は、その故里徳島へ運ばれて、その街にいくつもある墓地の一つの、一つっきりの墓の壺に納められた。

 さて、いく月かすぎて、わたしは神戸で、職を完全に離れて独立し、完全に独りぼっちになり、職務も権利もなくなって、右の簡単な事実を、すぐ決行すべき義務だけが残った。

 わたしは、そのとき独りで呟いた――「自分の懐中にある金を勘定しろ、それから、気まぐれな振舞のできて、思いのままに進める限界を計るがいい」気まぐれといっても、空想的な美しさの、ありふれた意味でのそれではなかった。わたしの望みは小さかった(花野訳)》

 モラエス自身をして語らしめると、徳島移住の感慨は、およそ以上のようである。

 ところで、モラエスが徳島に住んだのは、一九一三年(大正二年)から一九二九年(昭和四年)までの十七年間である。そのごく初めにコハルの死――一九一六年――がある。徳島到着が七月五日で、コハルの死は十月二日だから、モラエスとコハルの交渉は通算三年三か月である。その間に、コハルを不身持を理由に実家へ帰していた歳月があった。したがって、彼とコハルの同棲はわずかの期間にかぎられてくるわけだ。……と、こうした詮索は措いて、《快活で、元気で、発育のよい》いくらかお(きゃ)んだった少女、とモラエスが言っている斎藤コハルを登場させねばならぬ。それも、もう少女ではない二十歳のコハルを。

 そのコハルだが、「もののあわれを」「徳島のつれづれ」……とつづく一連の随筆集――一九一六年に『徳島の盆踊』としてポルトで刊行された、徳島移住後の第一作には、下女あるいは手伝いの女としてしか扱われていない。名前ももちろん明記されていないし、おヨネの後添いというようなことは、微塵も感じられない。コハルにちがいない女が、『徳島の盆踊』に影をおとすのは、「徳島のつれづれ」が三分の一くらい進んでからだ。

 母国の人に、自分の住いを語っている部分に初めて出てくる。《二階は、前にも言ったように一室あるきりだ。階下にもやはり一室あるきりだが、もっとも、ここで使っている手伝いの女は、三つ四つと部屋を数えて――まあ、なんてみっともないことだろう! ――台所も便所も一緒くたにして、いろんなことに使っている。この小さな場所を、やはり部屋と呼ぶかもしれない》と。その次には、やはり「徳島のつれづれ」が三分の二くらい終ったところで、《さて、これでよしと、わたしは徳島で家をきめた。それとともに、毎日の雑用のために女を傭った》また《わたしの粗末な台所では、下女が台所を守護する荒神(こうじん)さんを祀っている》という具合である。

 『徳島の盆踊』を刊行した翌年の一九一七年(大正六年)にポルトで小冊子『コハル』、ついで一九一八年に、やはり小冊子『おヨネだろうか? コハルだろうか?』を公刊してからは、母国の人びとに、おヨネとコハルを手放しで語りはじめる。

《わたしの亡き人びと――この世からしだいに消えていったわが愛する親族や愛する友だちのおびただしい群をほとんどわたしは夢にみない。ほんの四五年まえに、わたしの目の前で、この無為に過ごしているわたしの余生の心の皺に、恐るべき苦悶を永久に刻みこんで死んでいった二人の日本の女性、おヨネとコハルもわたしは夢にみない。まったくなのだ。わたしは眠っていて、そうした亡き人びとを誰も夢みないのだ。だが、覚めると、毎日毎日、ほとんど毎時間、毎時間、それらの人びとを夢みる。そうして、茫然たる追慕の世界に生きている、覚めた者の夢は、眠っているときの夜の夢よりも、比較にならぬほど悩ましい……(花野訳)》

 モラエスはコハルを、

《美人とは言えなかったろう――それとはかなり距りさえあった。だけど、あのすんなりした姿態だとか、街の子らしい、立居振舞のきびきびしていることだとか、いつも唇をアーチにして、まっ白の歯並を覗かせてニコニコ笑っていることだとか、恰好のいい手足のよく均整(つりあ)っていることだとかには、人を惹きつける力があった。(花野訳)》

 と言っているけれども、写真でみるコハルの顔の輪郭はおヨネに似て瓜実だが、顔だちの方はむしろ平凡、人通りの多い街路を五十メートルも歩けば、コハルていどの女となら十人や十五人は行き交う。《すんなりした姿態》と《均整のとれた手足》については、残念ながら上半身の遺影では判断できぬが、いささか気になるのが顔の造りだ。鼻がやや大きく、唇はぶ厚い。鼻は団子鼻である。この女を、なおかつ美人といわねばならないなら白痴美的表情の妖しさをあげるほかない。だが、ただ一つ美点がある、目である。つぶらな双眸が綺麗に澄んでいる。

 実際のコハルの魅力も、そこらにごまんといる十人並の田舎娘の可憐さだったろう。おヨネの写真からは知的な美もくめるが、コハルのそれからは無教養で自堕落な女しか感じられない。しかし、《日本の女は、乙女でありさえすれば美しい。醜い娘は稀にしかない例外》だとするモラエスのことだから、残された写真を眺めて、私が、コハルの容貌をあげつらっても無意味だろう。

 艶覚妙昭信女――

 二十歳で逝ったコハルの戒名である。何となく色気の感じられる戒名である。《コハルの霊の念仏さるべき、美しい戒名、それはこうだ――「えんがく、みょうしょう、しんにょ」》とモラエスもその著『Ko-Haru』の中で述べている。

「うち、ほんまにどないしょう」

 何度か口にした言葉を、斎藤コハルは繰り返した。男は少し歩度をゆるめたが、黙ったまま先に立っていく。驟雨が水たまりをつくって、雨上りの道のところどころが光っている。

「こわいわ、どないしたらええん……」

 追いすがるような恰好で、やけに駒下駄をならしていってみる。道がぬかって下駄の音が鈍い。無造作に着流した銘仙の袂へ片手をいれたまま、男は空を見上げた。返事はない。どない……、と言われても麻太郎だって妙案はない。曇り空のもと眉山の上辺は闇に溶けて見えない。中腹から霧がさかんにわいて山肌を包んでいるのであろうか、空の色と同じ灰色一色にぬりつぶされている。その左手前の勢見山の金比羅さんの森だけが黝々と望まれ、本殿の灯がポツンと輝いている。

 十月にしてはひどく蒸すと思っていたら、夜更けて雨になった。雨だよ、相当烈しく降っているようだ、と玉田麻太郎が床の上に片肘ついて言った。言われて初めてコハルには雨の音が聞えた。ほんとう、すごい音ね。彼の胸に顔をうずめたまま言った。まだ激情のあとのほてりが残っていた。ちっとも知らなかったわ、でも降り出さない前にここへ来ていてよかった、と呟く。もうずいぶん前から降っていたようだ、と黒髪をまさぐりながら麻太郎が微笑した。ね、泊っていけよ。ほんとうに泊ろうかしら。こわいんだろう、あいつが……。そうでもないけど、黙って真夜中に抜け出してきたのでネ。じゃあ、やっぱり恐れているのだ、こわくないと言うんなら一遍くらい泊ってみろ、よし今夜は帰さないぞ。そんなやりとりがあって、若い二人は再び燃えた。久しぶりの逢瀬だったせいもあったし、身仕度してもどうせ雨で帰れない……、ということもあった。雨の間じゅう男はコハルを離さなかった。やっぱり帰るわ。階下の煙草屋の柱時計が三つ鳴ったのに愕いて、彼女は起き上った。男は何も言わなかった。急いで帰り支度をする横で、ゆっくり敷島を喫っていた。じゃあ、またね。コハルが言うと、送っていこう。ポツンと言って素早く着物を着た。伊月町四丁目の麻太郎が借りている煙草屋の二階にある部屋は、階段が二つあり、一つが裏庭へおりているので、夜更けて忍んでくるのには便利であった。裏木戸を押して雨上りの道へ出てから、困ったな、と麻太郎はボソッと言った。以来ずっと黙りこくっている。袂へ手を入れていたのは煙草をとるためだったらしい。立ち止った彼はマッチをすった。

 女のように色の白い、役者みたいに綺麗だ、とコハルが思っている麻太郎の顔が、ポーッと浮んで消えた。

「ねェ、何かいい方法ないかしら……」

 肩をすり寄せて囁いてみる。いくら愚痴ってみたところで、逃亡するよりほかに途がないことはコハルにも判っていた。

「しょうないよ。とにかく生んでみるんだな。今さらおろすわけにもいくまい」

「そうねえ」

「……もし、碧い目の子だったら……」

「バカっ!……」

 コハルは拳をつくり、バカ、バカと叫びつづけて男の背を叩いた。

「冗談だ。冗談だ。ごめん、ごめん」

 麻太郎はコハルの拳を逃げ、

「でも、その方が万事綺麗におさまるわけだ」

 と呟いた。

「いやよ! 合の子を産むなんて……」

 コハルは吐きだすように言った。

 彼女は妊娠五か月、ひた隠しにしていたのだが、二、三日前にモラエスさんに知られてしまった。もっとも、モラエスさんは彼女に愛人のあることを知らないから、自分の子だと信じているらしく、コハルに対して、急に、気味が悪いくらいやさしくなった。

 八月の初旬から出稼ぎに、九州の博多へいっている母親のユキがいたら、何とか相談に乗ってくれるのだろうが、ユキは働きのない麻太郎をひどく嫌っている。麻太郎は失業中で、もう一年近くぶらぶら暮しているのだ。その彼の手からもぎ離すようにして、彼女をモラエスさんに押しつけてしまったのはユキだった。

「むりに、とは言わないけど、お前だって知っているだろう……。世のなかはけっきょくお金だ。西洋人だからちょっと世間体が悪いけど、女中奉公と言うことにすりゃいいじゃないか。一つ家に暮らすのが厭だったら、おっかさんが頼んで通いにしてもらったっていいんだよ。夜こちらへ帰ってくりゃあ、らしゃめんだなんて言う人もいないだろうよ」

「でも……」

「どうしても厭かね。お前だっておヨネ叔母さんを羨ましがっていたじゃないか。しょっちゅう神戸の家へ行きたがって……。嫌いなら嫌いでもいいんだけど、モラエスさんのところへ行かなくっても、麻さんとは一緒にさせないよ。何だい、あんなのっぺりした、働きのない男……。おっ母さんは麻さんなんて大嫌いなんだから……」

「おっ母さんは、手紙でモラエスさんとしめし合わせたのね。そうだわ、きっとそうよ。そして、うちを叔母さんのあと釜にする約束で、モラエスさんを徳島へ呼んだのでしょう。決まってるワ。かってに荷物を送りつけてきて、徳島で住みたい……、とモラエスさんが言うの、困ってしまうわ、なンてうまいことを言ってるけど……」

「それはちがうよ。おヨネ叔母さんの墓ができたからお詣りしてくださいって、手紙を出しただけだよ。お前だって知ってるじゃないか」

「うちの知らない間に、手紙で行ききしとったんでしょう。いや! 妾奉公なんて真っ平やわ。相手が日本人だってもいやよ。お妾なんて! うち、ちゃーんとした結婚をしたいワ」

「ばかだよ、お前は。叔母さんがどんなにか倖せだったか、考えてごらんよ。人間万事お金なんだから。それに、モラエスさんなら気心もわかっているし、優しい、いい人じゃないか……。せっかく、倖せが向こうからやってきてくれたというのに、お前もずいぶんわからずやだよ、まったく。お前だけがいい暮らしができるばかりじゃなく、うちじゅう皆が、こんな貧乏暮らしから浮かび上れる、いい機会だのに」

 コハルは母にあらがい、ユキはしゃにむに娘を説得した。母娘のいさかいは三日三晩つづいた。「わがまますぎるぞ!今まで誰に大きくしてもらったんだ。いい気になりやがって!」父親はののしった。母の懇願と父の悪罵とに涙声で反抗しながらコハルは、お金持のモラエスさんをそんなに嫌っているわけではなく、彼のもとへ行ってもいい、という気持がひそんでいるのを意識していた。

 彼女だってお金は魅力だったし、いい暮らしへの憧れもある。もちろん髯もじゃの大男のモラエスさんの慰み者になるのはつらかったが、おヨネ叔母さんが長年一緒に暮らした人だ、という血のつながりに似た安心感もないではなかった。ただ、麻太郎の存在だけが、母のもくろみをうべなうことを拒んだ。

 それだのに、(いと)しい麻さんは、涙ながらに訴える彼女に、「おれだったらいいよ。しんぼうすら。だけどうんとみついでくれよなア。その西洋人からうんと捲き上げて……。それに、これっきりで切れるのは厭だぜ。ときどき逢いに来てくれなけりゃ。……恋人を毛唐に寝とられたあわれな男とござーい」

 といったふうに言い、自嘲をもらしながらも、モラエスのもとへ行け、とすすめるのだった。

 長い失業の期間は、麻太郎を遊び人同然にしてしまっていた。うちを連れてどこか遠いところへ逃げて……、と訴えても、金もないのにどうするんだ。その西洋人からうんと金をもらうのだな。年寄りのことだからどうせ長く生きる気づかいはないし……、などと、まるでヤクザか美人局(つつもたせ)みたいに伝法な口をきいた。

「え…?…おい。そんなしおらしい顔して、一緒に逃げて、なんて言うけど、その毛唐ともうできてるのとちがうか。以前にも再々神戸へいっきょった言うし、この間は"志摩源"で泊ってきたそうやないか」

「誰が、誰がそんなことを……」

 血が氷るような気持がしてコハルはあわてた。

「そら、顔色が変った。やっぱり……」

「嘘よ! そんなこと!」

 あえぐように叫んだ彼女を、麻太郎は荒々しく押し倒した。右手が頭髪を乱し、掌にその髪をぎりぎり捲きつけた彼は、彼女の頭を振りまわさんばかりにして、ほんとうか、まだ何でもないのか! 「志摩源」で泊ったというのは嘘か! と訊いた。

「おっ母さんが言ったのね」

「そうさ。コハルは西洋人のところへ嫁にやるから別れてくれだってさ。母親のあたしが、なっとくずくで、その西洋人の宿屋へ泊めたくらいだから……ってね」

 モラエスが徳島に着いた翌晩、コハルはユキに伴われ「志摩源」へ挨拶に出た。久しぶりだったので手ぶりまじりの話が長びき、モラエスの部屋と廊下を挟んだ六畳で泊った。泊ったのは事実だが、二つの床をとってもらって母と枕をならべて(やす)んだのだ。遅くなったというだけではなく「志摩源」のような高級旅館で泊るのは初めてで、珍しかったので泊ったのだ。一ねむりして目覚めてみたら、母の姿がなく、母の手回りの品も消えていた。そのとき初めて、宿泊が計画的なもので、母は帰ってしまったのだ、と想像がついた。彼女は狼狽し、逃げ出さねば……、と着物を身につけて出口を探したが、灯火を消した廊下は暗く、広い旅館の内部のかっては皆目わからなかった。けっきょく、もとの部屋へ手さぐりで帰り、着物を着たまま床の上でまんじりともせず過ごしたのだ。一度襖が開いて、廊下からモラエスさんがのぞいたようだったが、何ごともなかった。……と説明するコハルの体を、いつにない激しさで麻太郎が求めた。

「ちょっと待って! ねエ、信じてくれる。うちの話……」

「ダメよ。黙っていちゃ。信じるの…?…信じないの?」

「疑ってるのやったら厭よ! うち、ほんまにあんたと別れてしまう」

「信じる……」小さい声で麻太郎がいった。

 ……ああ、あのころ、もう一、二か月だったのだワ。それが判っていたら……と、コハルは自分の無知を悔む。麻さんの種を宿していると知っていたら、妾奉公なぞに上らなかったのに、自堕落な生活に落ちて、正気を置き忘れた麻さんは、金もうけの手段だからしんぼうする、なんて言うんだもの。

 麻太郎が水たまりに煙草を捨てた。ジュッと音たてて火が消えた。

 大粒の雨がポツン、ポツンと落ちてきた。

「また降るな、急がなけりゃ」

 麻太郎がコハルを促す。いつの間にか、大道(おおみち)を横切って眉山の山裾の町並まで来ていた。モラエスの、そして彼女の家へ帰るためには右へ曲らねばならない。

「じゃあ」

 と言って、麻太郎は柔らかく彼女を抱擁し、軽く唇をつけた。

「くよくよしないで、出たとこ勝負でいこうや。追い出されたら、そのときはそのときのことさ。お産はどうせ来春だろう」

 こともなげに言って麻太郎はきびすを返した。雨がきたので急いで帰っていく。その伊月町の部屋も、彼女が犠牲になって働いてえた金で借りている。生活費からこづかいまで……。そして、その小金を持って賭場に出入りしている麻太郎と、まだ関係がつづいているとユキが知ったら、どのように責めるだろう。それより、うちが日本人の嬰児を産んだら、モラエスさんはどうするかしらん……。

「こわいわ」

 と、コハルはもう一度呟いてから、伊賀町三丁目の道を悄然と歩き始めた。

    2

「モラエスさん、あんた、うちを愛してくださっているわけじゃあないのね」

 烈しく言ってコハルは、体を蔽っているモラエスを突き除けるようにした。うちだって好きな人は別にあるのよ、と心の中で呟いて。

 いたずらをとがめだてられた幼児のように頬を染め、やがて大きな体を小さくしてモラエスは、ゴメンナサイ――と言った。

 知らなかった……、とコハルは悔む。そうであって当然かもしれないのだけれども、この人からは、まだおヨネ叔母さんが消えていないのだ。うちに夢中になっているのかと思い込んでいたのに、うちをとおして叔母さんの面影を追っている……。いや、うちのなかに叔母さんを感じようとしているのだワ。今、はっきりそれがわかった。何とこの人は、うちに向って「ヨネ」と夢中の声でもらしたのだもの。

 ばかにしてるワ。そりゃ、うちだって、モラエスさんに抱かれながら麻さんのことを思って、つらい、切ない苦痛に耐えているんだけど、でも「あささん」なんて声には出さないわ。

 長じゅばんの襟許を押え、すっくと立ち上ったコハルを見上げて、モラエスは困った表情だった。それをチラッと目にとめてから彼女は電灯を消した。ほんのときたまだが、いくら頼んでも明りを消してくれないことがある。皓々とした部屋での営みが恥ずかしく、死んでしまいたいような気がしてコハルは悶える。それを眺めて、彼はゆっくり燃えあがるようだった。悪趣味やワ、と何度かコハルは訴えたことがある。でもいっさい聞き入れてくれなかった。彼の老いの性がさせるのか、西洋人好みなのか、そこらのことはコハルにはわからなかったが、お金のためだ、と固く目を閉じてがまんした。

 でも、今夜はしんぼうできないわ。こんな明るいところで叔母さんと取りちがえられたんじゃ。

「さあどうでもしてちょうだい! おヨネ叔母さんだと思い込んでもいいわ。それでモラエスさんがうれしいのだったら……、うちはええの、なんだってがまんするワ」

 闇になった瞬間に叫んで、ぎこちなく坐っているモラエスの上半身に体をぶっつけてみる。言葉がうまくつうじたのかどうかはわからなかったが、彼は優しく抱きとって、やがてゆっくり床の上に彼女を横臥させた。

 肩から胸、胸から乳房へと愛撫してきた掌が、もう七か月のふくらみを示している腹部でとまった。ぐるぐる三、四度まるく撫でまわしてから、ふくらみの最上辺部をぎゅっと押えた。いつのまに身を起したのか、押えているのは双手だし、彼は全身をかけ、ひどく力をこめている。

「赤ちゃんが死ぬワ、止めて! 止めて」

 苦しがるコハルの意志を無視したかのように、大きい二つのぶ厚い掌が、嬰児を押しつぶさんばかりに喰い込む。逃げようにも、身をよじろうにも、下肢は彼の足で押えられているし、腹部の圧迫感はすさまじい。少しゆるめてはぎゅっと押えてくる掌のうごきが、

 ――誰の子だ、誰の子だ、言え、白状しろ! おれの子じゃないのだろう。さあ、言え、誰の子だ――

 と責めたてているようであった。言葉が通じないのがもどかしくて、モラエスさんは怒りをこんなかたちであらわしたのだ、と身を(よじり)ながら思う。

「赤ちゃんが死んでもいいの、許して……、そんなにあたしが憎いの……」

 黙っているモラエスの呼吸が激しい。コハル、お前はおれと一緒になったとき、もうこの子をみごもっていたろう……。な、そうだろう。心のなかで彼はそう言ってるにちがいない、とコハルは絶望した。

「ああ」と呻いてから、ばかな、モラエスさんがそんなことを知っているわけはない、七か月にもなるとは知らないはずだ、と思いかえす。

 でも、なぜだろう。身重のうちをだいじにしてくれていた、昨日までのモラエスさんとまるっきりちがう。苦しい。まるでむちゃやワ。

 止めて! という叫びを発する気力も薄れ、苦痛に喘ぎ、ほとんど喪心しているコハルから、突然モラエスは手を離した。

 彼は、しばらく乱れた呼吸をととのえるようだったが、静かに衣服を身に纏い、海軍時代から愛用していたというマントをはおって立ち上った。

 やがて、二階への階段を上る静かな足音がした。その、大男の彼の重みに耐えかねて、ミシ、ミシと鳴る階段の悲鳴を、遠いもの音のようにコハルは聞いていた。

 戸外では師走の風が枯葉を飛ばし、伊賀町の狭い町筋を吹き抜けていく。一九一四年(大正三年)がついもうそこにきている。

「おお、寒む」

 コハルは呟いて起きた。失心に似た状態でどれくらいいたのだろう。ずいぶん長い間だったような気がした。全身が冷え切っていた。モラエスは怒ったのだ、と思う。もう眠ったのか二階はひっそりしている。恐い、と彼女は、そこに玉田麻太郎がいるかのように訴えてみる。今夜のモラエスさんはほんとうに怒ったのにちがいない。お腹の嬰児をさいなむようなことをして、うちを責めたてたんだワ。いくらモラエスさんが寛大でも、情夫があると知ったら……、そしてその人の子供を宿していると知ったら……、と彼女は思いつづける。

 長火鉢に肘をつき、細い華奢な指先に火箸を握る。埋れ火はたっぷりあったのだが、鉄瓶の湯はしだいに冷え、掌で触れることができるほどになっていた。それをおろし、コハルは乱暴に灰をひっかきまわす。圧迫をうけた反動からか、胎児がしきりに動く。この家へ来たとき、もうすでにみごもっていたとはモラエスさんは気づいていないはずだけど……。でも、疑いは持っているにちがいない。夜中に忍び出ることがあるのも、あるいは気づいているかもしれない。うちって、ほんとうに悪い女やワ。でもおっ母さんがいけないんだワ。麻さんとの仲を裂き、うちをモラエスさんに押しつけて……。

 母親のユキは、娘の妊娠ですっかり安心し切っている。コハルが、髪の紅い、碧い目の子を産むと思っているのだ。モラエスさんの愛を娘が完全に捉えたと信じて……。合の子を産めば、将来必ず悲劇になるとコハルは思うのだが、母の方はモラエスを繋ぎとめた、と考えて大よろこびなのだ。コハルの倖せや生まれてくる子のことまでは考えていない。金づるを、そしてお金を引き出す口実のできたことにうちょうてんなのだ。

 流産したらいいのにとか、胎児が死なないかしら、と考えたこともあるコハルだが、白黒の決着をつけるためには、玉田麻太郎の子供をぶじに産みおとさねばならぬ……、と今は決心している。彼の子を産んだら、モラエスの手から解放されるだろう。母親の愚痴やモラエスの怒り、あるいは暇をとるためのゴタゴタがうるさくっても、と。

 モラエスは不安定な精神状態のまま寝床にもぐり込んだ。若くて健康なコハルが身ごもるのは当然なのだが、何となく彼には不愉快なことに感じられる。自分の年齢を思うと子供なぞちっとも欲しくなかったし、またぞろわずらわしい世俗事に巻きこまれそうな予感もあった。娘の妊娠を知ったユキが、大ぎょうに喜びを訴え、いばり始めたのも苦々しい。それに、自分が徳島へ来る以前に、すでにコハルは妊娠していたような節があった。今日このごろの腹のふくらみ方からも、充分疑っていいことであった。日中、あるいは夜更け、彼女はよく外出する。そして帰って来たとき変になまめいたものを感じさせる。きっと愛人があるのだとモラエスは考えたが、それを確認するのは恐ろしかった。

 寛大になろう……、と決めてもうだいぶ経つ。裏切を媒介にして別離を迎えるのはご免だ、と思う。マリーア、亜珍(アツチャン)、二人の愛人に次々そむかれ、日本へ流れついて、せっかく安らいだ気持になっていたのに……。漠然とあれこれを思いわずらっているうちに、モラエスは眠ったらしい。

 眠りは浅かった。

 仮睡に似た眠りのなかへヨネがあらわれた。

 ――ねエ、コハルを許してやってちょうだい。今晩のようにいじめないで……。だって、いけないのはあの子じゃないんですもの。ねエ、判ってくださるでしょう。コハルだってかわいそうなのよ。モラエスさんには、なにもかも、ちゃんと見とおしでしょう。なにもかも……、そりゃ、あの子にだって悪い点があるワ。でも、あの子って、いいところもあるでしょう。やさしくって、よく気がついて、ものおじしないで、いつも快活で。それに人一倍勝気よ。その割にお人よしだけど――

 おヨネは彼にとりすがって、泪を流さんばかりにかきくどく。優しくヨネの肩を抱いてモラエスは、判っているのだ、うん。ただ、老いのせいか短気になって……などと短い言葉を挟む。

 ――どうしたん…?…。なにがおかしいの? 急に大声で笑ったりして――

 だって、考えてもごらんよ。おかしいとは思わないかい。冬の夜の夢にはちゃんと冬の衣装で現われるのが……、とモラエスは説明する。夏は浴衣、春には春の……。そしてヨネには着物がよく似合う。

 雨戸を操る音にモラエスは夢から醒めた。階下で、忍びやかにコハルが出て行く気配がした。跡を()けたら、なにもかもわかるのだが、と思う考えをすぐ否定したのは、そうした行為の果てに在る、別離、紛争、破局、葛藤などさまざまなわずらわしさと、再び一人ぐらしになる孤独への恐れからだった。

 起き上ったモラエスは時計を見た。午前一時だった。その夜、コハルは遂に帰らなかった。明け方まで彼は寝もやらずにいた。足どりも軽く、そして忍びやかに帰る足音を聞こうと、さまざまな情念にさいなまれながら待っていたのだが……。

 眠られぬままに、彼は起き出して机にむかった。今夜の夢をくわしく書きとめておこうと思ったのだ。

《床のなかで、眠りについてから、わたしはほとんどおヨネの夢をみないのに、こん夜、あの哀れなヨネの夢をみた。辻褄の合わない話だけれど、昼間わたしが語りかける追憶のおヨネさんよりなまなましい感じで、おヨネはこの徳島のわたしの家にいた。が、それは確かに変な、辻褄の合わない話である。

 わたしたちは長い時間を語った――ポルトガル語だったのか…?…そこいらがどうもはっきりしない。あるいは、昼間わたしたちがしゃべり合っている、あの亡き人とわたしだけが解しうる言葉だったのか…?…おヨネはわたしに、ある二人の女――はっきりさせておこう。それはコハルとコハルの母ユキである――について、こころをこめて語り懇願した。

 二人の女に、ちょっとしたあるいけない事実があり、わたしがそれを気にしているものだから、そのわたしの心配をときほぐすことができなくとも、せめて諒解だけでもえたい――と、こういうおヨネの心底であった。

 おヨネは、女の哀しさと貧しさからくる、日本の女性の苦しさを語った。まったくおヨネの言うとおりだった。わたしは、いちいち頷いて、まったくそのとおりだと同意を示した。おヨネはなおも語りつづけた。わたしは、もっと愉しいことを話したくなり、彼女の長談義をさえぎってこう言った。

「ヨネ、お前の言うとおりだよ。わかっているのだよ。それよりね、お前はここにこうしてわたしと一緒にいるだろう。わたしはお前を見ているし、お前の話をきいているよ。……だから、お前は死んじゃいない。いや、死んだにしてもふたたび生き返ったのだ……どうか、もう二度と死なないでおくれ。そうして、お前のふるさと、この徳島へやって来て、寂しくくらしている、このわたしの孤独を慰めておくれ……」

 と。

 おヨネはなんとも答えなかった。ただ、微笑を浮かべて、ニコニコ笑っているだけだった……。わたしは、わたしの頼みを繰り返した。

 彼女は優しくわたしの掌を執り、

「だいじょうぶよ、あたしはどこへも行きません。ほら、こうしてここに、あなたと並んでいるじゃありませんか……」

 と、涼しい、あのかろやかな余韻の響く声で答えた。

「でも、コハルをかわいがってやってくださるのを忘れないで……、あの可哀そうな子を……」

 泪を溢れさせんばかりに、おヨネはあわれな姪のことを重ねて懇請するのだった》

 夜中に出かけたコハルが帰ったのは翌々日の午前十時だった。まる一日と二晩の無断外泊であった。この日以後、彼女はしばしば外泊するようになる……。

 公的生活ばかりでなく、私的生活でもいっさいを捨てたのだから、感情の赴くままに嘆きや悲しみを現わすまい。寛容に徹しよう。積極的な世捨人となろう、と自らを(ゼロ)の人――と呼びながらモラエスは、遁世のこころざしを貫こうと決意するのだが、コハルの背信のにおいと、コハルを失ったあとにくるであろう孤独とに怯える。最初から一人ぐらしをすればよかった……、と思う。そう思うかたわらから、(のこ)んの生命(いのち)をかきたててくれるコハルの体への愛着が募ってくる。彼女に没入することによって、おヨネへの回帰を試みているとき、モラエスは己れを忘れ、年齢を忘れ、神戸にいるのか徳島にいるのかさえ定かでなくなるのであった。

    3

〔三十番議員〕交通ト文明ノ進歩ニ伴イ、徳島ヘ外国人ガ上陸スルノハ時代ノ趨勢デアリマス。最近ニオキマシテ、或ル「ポルトガル」人ガ徳島ニ住ンデオリマス。コノ外人ガ涙ヲ流シテイル現場ヲ見マシテ対話ヲイタシマシタ。ソノ外国人ハ元「ポルトガル」海軍ノ軍人デシテ、最近マデ神戸ニオリマシテ、総領事マデイタシタ高官デアリマス。日本ニ来テ、モウ十幾年ニナルソウデアリマス。ソノ人ハ「ポルトガル」語ガ得意ナワケデスケレドモ英語モ話セマス。日本語ハオオヨソノ処シカ分ラナイ、シタガッテ対話ニハ非常ニ苦痛ヲ感ジマシタケレドモ、要スルニソノ言ウトコロハ、「ドイツ」国ノ探偵人、イワユル間牒デスネ、ソノ独探ダト誤解サレテ甚ダ残念ダト言ッテイル。警察官ニ色々ト証拠書類ヲ提示シタニモカカワラズ、「ドイツ」人トシテ冷遇サレタ、ト、コウ言ウノデアリマス。ソノ外国人ハ神戸デ本県生マレノ女性ト久シク生活ヲ(トモ)ニシテイタソウデアリマシテ、ソノ婦人ガ不幸ニシテ故人トナッタノデ、ソノ婦人ノ墓ヲ当地ニ建テソノ墓守ニ来タ、トコウ申スノデアリマス。恩給ヤ年金ガツイテイルノデ「スパイ」ナドシテ報酬ヲ得ル必要ハマッタクナイ、マシテ自分ハオオイニ日本ビイキデアルカラ、日本ノ害ニナルコトヲスルワケガナイ。ニモカカワラズ、徳島市民カラ迫害サレ、警官ガ四六時中アトヲツケテ自由ヲソクバクシ、カツ監視シテイル、ト言ウノデアリマス。モチロン、唯今ハ戦時下デアリマスカラ、外人ヲ警戒スベキハ言ヲ待チマセンケレドモ、ソノ人ノゴトク身分ノ判然トシテイル場合、冷遇スルドコロカ、ムシロ厚遇スベキデアリマス。

吾々同邦ガ異郷ヲ旅行シマシテ、各地デ好遇サレルト言ウコトハ、非常ニ同邦トシテ喜バシイコトデアリマス。ソレト同様ニ外国人ノ来マシタ際ニハ、充分コレラノ点ヲ……(中略)

〔議長〕E書記官

○参与員(E書記官)

 三十番サンノ御尋ネノ、外国人待遇ニ関シマスコトニツイテ御答ヲイタシタイト思ウノデアリマス。御質問ニヨリマスト「ポルトガル」人ヲ警官ガ冷遇ヲイタシタト言ウコト、カツ現ニ行動ヲ監視シテ自由ヲ拘束シテイル、市民モ迫害シテイル、モット優遇スル必要ガアルデアロウ、ト言ウ御意見、コレハシゴク賛同ヲイタシマスシダイデアリマス。言葉モ通ゼス外国ニマイリマシテ、冷遇サレマスルト言ウコトハ本人ニ取リマシテモ、スコブル苦痛迷惑ノコトデアリマスト同時ニ、外国人ニ対シマシテ、日本ノ一部ニオイテカカル待遇ヲ与エマスルコトハ、国交上ソノ他ニモ影響スルコトキワメテ大ナルモノアリト存ズルノデアリマス。シタガイマシテ、今後トモ外国人等ノ来マシタ場合ニハ、デキルダケ優遇スベキデアリ、ソウアリタイト私モ同様ニ存ジテオルノデアリマス。

唯今、問題トナッテオリマス事項ニツキマシテ、御答ト若干ノ説明ヲイタシタイト思ウノデアリマス。デ、問題トナリマス警察官ノ場合ニオキマシテハ、警察官ノ職責トイタシマシテ、マズ人間ヲ警察上ノ観察点ヨリ視察ヲスル、ソノ意見ヨリ見マスレバ、英語デアルカ、フランス語デアルカ分ラヌヨウナ言葉ガ発セラレマシタ場合ニオキマシテハ、或ハドイツ語デハアルマイカ、或ハロシア語デナカロウカ――本県ニオイテハ、英仏両国語以外ノ外国語ヲ解スル警官ハマダイナイノデアリマスカラシテ、ドイツ語ヲシャベルト、コレハ敵国語デアリマスカラ、一応警戒ヲ要シマスシ、モシロシア人ト言ウコトニナリマスレバ、直ニ連想ヲイタシマスノハ、彼ノ過激主義デアリマス。カカルコトガ警察官ノ立場トシテハ第一ニ頭ニ閃クノデアリマス。ソコデ、モシソウ言ウヨウナ者デアルトイタシマスナラバ、コレハ要視察人トイタシマシテ、充分ニソノ者ノ行動ヲ視察シナケレバナラヌ。第一何レノ者デアッテ、イカナル径路ヲ経テ本県ニ来タカ、本県ニハ何ノ目的ヲモッテ入リコンダカト言ウヨウナコトヲ調ベルト言ウ職責ヲ有スル。ソウ言ウ関係ヨリイタシマシテ、言葉モ分ラナイ徳島ヘ来マシタ天涯ノ弧客ヲ憐ムト言ウ考エヨリハ、マズモッテソノ人間ガイカナル者デアルカト言ウ、警察上ノ立場ヨリ観察スル、コウ言ウ考エヨリ、スナワチ端的ニ申シマスレバ職務ニ忠実ナルアマリ、或ハ過酷ナル待遇ヲイタス場合モアリウルワケデアリマス。モシ、シカリトイタシマスレバ、職責上ノ熱心ト言ウ点モアルコトデゴザイマスルカラ、コノ点充分御酌量ヲ御願イイタシタイト思ウノデアリマス。モチロンコレハ、一般論的ニ警察官ノ職責上カラ申シアゲタコトデアリマシテ、クダンノ「ポルトガル」人、コノ人ハ、「ウェンセスロオ・モラエス」ト申シマシテ、マチガイナク「ポルトガル」国ノ人間デアリマス。ソシテ、先ホド三十番議員サンノ説明ニモアリマシタトオリ、同国ノ予備役海軍中佐、元マカオ港務副指令、前神戸駐在ポ国総領事ト言ウ高官デアリマス。退任以前デシタラ、閣下ト尊称シナケレバナラヌ高官デアリマス。デアリマスガ、経歴ガイイカラ、自由カッテニシテヨロシイトハ警察ナラビニ当局トシテハマイリマセン。ソノ上、コノ人物ニツキマシテハ、「ポルトガル」本国政府カラノ要請モアリマシテ、特殊ナ事情モアルノデアリマス。ソレニツイテハ、唯今、一件書類ヲ取リ寄セテオリマスルカラ後刻、担当ノS書記官カラ詳細御答エイタスコトデ御諒解ヲ得タイト思ウノデアリマス。コレニ関連イタシマシテ、英語ノデキルヨウナ警官ヲ、コノ徳島「ステーション」等ニ配置シテハドウカト言ウ御尋ネノヨウデアリマス。外人ノ出入シマストコロニハ英語ノデキル者――英語ノミナラズ、今日ノヨウナ時勢ニオキマシテハ、朝鮮語、支那語ト言ウヨウナモノノ理解ノデキマスル警察官ヲ配置イタシマスルコトハ、何ヨリノ急務ト考エルノデアリマス。タダ、申シ上ゲルマデモナイコトデアリマスガ、英語ナリ或ハフランス語ナリ、ロシア語ナリ、色々ナ外国語ヲ充分ニ会話デキルクライノ人間ヲ傭オウトイタシマスルニハ、ヤハリソレダケノ待遇ヲイタサナケレバナラヌ。コノ点ニオキマシテ、セメテ県ノ警察部グライノトコロデ、ソレゾレノ外国語ニ堪能ナル通訳ヲオキタイト言ウ考エハ有シテオルノデアリマス。

コレラノ点ニツキマシテハ将来ノ御協賛ヲエマシテ実現イタシタイト考エテイルノデアリマス。ヨロシク御願イイタシテオキマス。ソレデハ、アトS書記官カラ、補足説明ヲイタシマス。

〔議長〕S書記官……

○参与員(S書記官)

御尋ネノ「ポルトガル」人、ウェンセスロウ・モラエス氏ニ付イテ、ソノ経過並ニ観察結果ヲ御答エイタシマス。ナオ事個人ノ、シカモ元外国高官ノ私事ニワタリマスルノデ、同氏ハイササカモ怪シイ人物デハナク、観察結果モマタ何等警戒スベキ点ノ有リマセンコトヲ初メニ申シ上ゲテオキマス。

  ………………………………

○参与員(S書記官)

引キ続イテ御答エイタシマス。ウェンセスロウ・モラエス氏ハ――以下モラエス氏又ハ単ニ氏ト申シマス。――昨年七月ニ本県ニ来ラレ、以来ズット徳島市ニイルワケデアリマシテ、伊賀町三丁目ナル斎藤コハルト言ウ女ノ借リテイル家ニ同居、ト言ウ形式ニナッテオリマス。実際ハモチロンモラエス氏ガ一戸ヲ借リ、家事手伝人トシテ身辺ノ用ヲ弁ズル女性ヲ傭ッテイルモノト想像サレマスケレドモ、形式的ニ知人斎藤方ニ長期滞留ト言ウコトニ相成ッテオリマス。

スデニモラエス氏ノ前歴ニツキマシテハ、E書記官ノ答弁ニモアリマシタノデ省略イタシマスケレドモ、要スルニ、氏ハ相当ナ地位ニ在ッタ方デアリマシテ、ナンダカ急ニ総領事ヲ辞メテ徳島市ニマイッタコトニ成ッテオルモノデスカラ、「ポルトガル」本国政府モ心配シテイル模様デアリマス。昨年ノ十月デアリマシタガ、「ポルトガル」国澳門(マカオ)政庁ヨリ我ガ国ノ外務省ニ対シテ、「モラエス氏ガ狂気シテ徳島市ニオルラシイカラ、至急調査ノ上適当ナル保護ヲ加エテイタダキタイ」ト言ウ要請ガアリ、外務省カラソノ旨ヲ県ニ伝エテマイリマシタ。サッソク、徳島警察署ニ命ジテ調査セシメタノデアリマス。同署デハ、英語ノデキマス高等警察係田上刑事ヲシテ調査ニアタラセマシタ。田上刑事ガ斎藤コハル方ニ赴イテミマスト、精神異状デモナンデモナク、徳島ノ土地柄ト風光ガ気ニ入ッタノデ余生ヲココデ送ルツモリデアル。ト言ウコトデ、別ニ怪シイ節ハナイ旨復命ガアッタノデアリマス。モラエス氏ノ方モ自ラ、県庁ヘ来庁サレマシテ、コレハ昨年十月四日ノコトデアリマスガ、片面ニポルトガル語、片面ニ日本文字で姓名、住所並ニ旧肩書ヲ付シマシタ名刺ヲ持参サレテ、自分ノ過去及ビ現在ヲ、ソシテ徳島滞留ノ目的ヲ英語ト日本語ヲ混ゼテ述ベラレ、決シテ怪シイ者デナイ旨力説サレタノデアリマス。

田上高等警察係ノ復命モアリ氏ノ人品イヤシカラザル点モ充分監察シ、同氏ノ述ベルトコロヲ諒解イタシマシタノデ、知事官房ヨリ外務省ニ調査ノ結果ヲ書面デ回答イタシマシタシダイデアリマス。

ソノ回答ガ「ポルトガル」本国外務省ニ通ジタノデアリマショウカ、本年二月ニイタリ、同国ノ日本公使館ヨリ、老齢カツ孤独ナル一人暮ラシニツキ引キ続キ同氏ノ身辺保護ヲ依頼イタシタイ。ト言ウ文書ガマイッテオリマス。県並ビニ徳島警察署デハ、ソノ要請ニモトヅイテ氏ノ保護ト監察ヲツヅケテオリマスシダイデ、マッタク悪意ハナイノデアリマス。

シタガイマシテ、氏ヲ「ドイツ」人ダト誤解シタリ、「スパイ」デアルトカトハマッタク考エテオラナイノデアリマス。氏ガ警察ノ行ナッテオリマストコロノ保護ヲ目的トシタ監察ヲ、自由ノ拘束或ハ圧迫ト感ジラレマシテモ「ポルトガル」国政府ノ希望モアリマスコトデスカラ、ココ当分ヤムヲエナイノデアリマス。別ニ冷遇シテオルワケデハアリマセンノデコノ点充分ノ御理解ヲ願イタイノデアリマス。タマタマ、担当ノ田上刑事以外ノ徳島署員が監察ヲ代行イタシマシタ折ナドニハ、或イハ多少ノ行キ過ギガアッタカ、トモ思ワレマスノデコノ点ハヨク調査シ徳島警察署ヘ注意ヲ与エテオキマス。

市民カラノ迫害ト言ウ点ニツイテデアリマスガ、外国人ト見タラ小石ヲ投ゲルヨウナ心ナイ人間ガアリマスコトハ残念デアリマスガ、モラエス氏ニカギラズ、他ノ二、三ノ外人宣教師ニ対シテモ行ナワレルコトガアリマスヨウデ、困ッタコトデアリマス。七月ノ欧州戦争ノ勃発以来、心ナイ国民ノ一部ノ者ハ外国人ニ敵意ヲイダキ、特ニ、八月二十三日ノ我ガ国ノ対ドイツ宣戦布告後ニオキマシテハ、西欧人ガスベテ「ドイツ」人ニ見エルノカ、モラエス氏或ハ宣教師ノローガン氏等ノ玄関ヘ投石スル者ガアル模様デ、コレモ外国人保護ノタメ、厳重ニ取締ルヨウ徳島警察署ニ通達イタシテアリマスケレドモ、コレハ無知ナゴク少数ノ市民ガ、愛国心ノアマリ発作的ニスル挙動デアリマシテ、深クトガメダテスルホドノ悪意ヤ計画性ハナイモノト想像イタシテオリマス。ナオ、コウシタ点ノ具体的事実ノ有無ニツイテ、所轄署カラ何ラ報告ニ接シテオリマセンカラ、トカクノ風聞ハ耳ニ挟ミマスケレドモ、彼等外人ノ生命ヲ脅カスヨウナ大ガカリナル暴挙ハナカッタト判断シテイマスシ、今後モナイダロウト考エテオリマス。ナオ、念ノタメニ申シ上ゲルノデスケレドモ、現在徳島県ニハ五人ノ西欧人ガオリマシテ、ソノ内三人マデガ徳島市居住デアリマス。モラエス氏以外ハ全部宣教師デアリマシテ、「アメリカ」人モシクバ「イギリス」人デアリマス。ドイツ人ハ現在居留イタシテオリマセン。

次ニ、モラエス氏ニ対スル徳島警察署ノ監察シマシタ点ノ、二、三ヲ御報告シタイト思イマス。ホトンド氏ノ個人的ナ、イワバ私事ニ渉ルコトデアリマス。(以下略)

(大正三年議会議事録)
 

弓町をぶらぶら歩いて来た徳島警察署高等警察係の田上刑事は立ち止って腕ぐみした。モラエスさんと会うのが、今日は何となく気重だった。同棲していた斎藤コハルが一昨年急死し、急にガックリなり、背をかがめて暮らさねばならぬ日本家屋がもたらしたらしい猫背がいっそう猫背になって、老い込みの激しいモラエスさんと顔を合わせるのはつらい、自分の任務であるモラエス氏監察が、しだいに厄介でうっとうしいものとなってきた彼は、担当を誰かに変更してほしいと署長に申し出てある。そして、申し出てもう何か月にもなるのだが、適当な後任がない、という理由でそのままである。

 いっそ知らないでいた方がよかった……、と田上は思った。職業柄の詮索癖と野次馬根性から、死んだ斎藤コハルの情人のことを調べあげてみた。いろんなことが判って田上は、調べるんじゃなかった、と後悔しているのだ。きのうモラエスを訪問したとき、斎藤コハルが二度目に産んだアサイチという幼児が死んだことを教えられた。別に嘆いているふうはなく、老いた西洋人は淡々と語った。

 その子はコハルと日本人の愛人の子だが、斎藤ユキの籍にいれられていたこと。出産のあった大正四年(一九一五年)九月十五日の一か月ばかり前にユキが、「今度はきっと丈夫な赤ちゃんが生まれますよ。大麻はんへ御願(おがん)かけて来ました。名前も一字いただいてきたんですよ、男の子が生まれたら麻一、女の子だったら麻子ってつけますけど、ええでひょう」とか「モラエスさんに似て、色の白い美しい子が生まれますワ。きっと……」とか言ったが相手にしなかったこと。出産の日ユキは狼狽して、その子をモラエスの目に触れぬようつとめた。日本人の子だったのでユキがうろたえたらしいが、日本人の子供が生まれるにきまっていることを自分は最初から知っていたこと。コハルの愛人は伊月町のあたりにいたらしいが、自分は名前も顔もしらないこと。結核体質のコハルの産んだ子だからアサイチも虚弱だったのだろう、かわいそうに日本風に数えてまだ四歳だった……などと。

 大麻さんというのは国幣中社大麻比古神社のことである。古代阿波の西方を開発し麻の産業をつかさどった氏神を祀る。別に安産の神様というわけではない。そこへ祈願し、名前の一字を受けて来たという、その「麻」という漢字と、伊月町あたりに住んでいた若い男というのが田上の頭にひっかかった。そこらが職業柄とでもいうのだろう。あいつじゃないかな…?…とピーンとくる男が伊月町にいたことがある。彼が担当した事件ではなかったが、親しくしている同僚の扱った、ちょっとした賭博の現行犯のなかに、確か麻太郎という男がいた。

 モラエス宅を辞去した彼は、一年ばかり前の賭博事件の意見書類を調べてみた。玉田麻太郎という名があった。当時二十六歳である。無職とあり、本籍は富田浦の堀淵。斎藤コハルの生家の近所である。なーンだ幼な馴染か……、と田上は微苦笑した。調べなければならぬことはまったくなかったが、伊月町の所番地を手帳に控えると彼は署を飛び出した。モラエスさんの愛人に子供を孕ませたひどいヤツだ。一遍顔をみてやる……。せかせかと彼は足を動かした。

 伊賀町三丁目から署へ帰り、伊月町二丁目へ行くのは逆戻りである。何のためにむきになっているのだ、と自問する内心の声に、彼はモラエスのためだ、このごろ、ちょっと追い込みすぎて気の毒だからな、と自答してから、いやモラエスさんのためやない、おれの好奇心だ、趣味だ、それにほんのわずか真相を明らかにするという職業意識も働いていると思い直した。

    4

「麻さんが、また何ぞ悪いことしましたんで……、最近は真面目に働いとりましたのに……」

 玉田麻太郎が下宿していた煙草屋の老婆は、彼が市内のある商店に住み込みで勤めていることと、勤め始めて一年に近いことを告げてから、心配そうに言った。田上は私服だったが、警察の者であることを告げたのは拙かったと思いながら急いで、

「いいや。そんなのじゃないんですわ。犯罪なんかとは無関係なんです。ただね、昔のことをちょっと知りたくって……」

 とつけ加え、斎藤コハルのことを知らないかと訊ねた。

「ああ、あの()……。でも、どうしたんですか、コハルさんはおととし亡くなったと聞きましたワ」

 老婆は不審の表情を浮かべた。田上は重ねて説明をしなければならなかった。老婆は何度も頷き、やがて、思い出し、思い出し、語り始めた。

「年寄ってしもうて(どん)になっとりますケン、忘れてしもうとることもありますケンドの。ほれでも麻さんは、うちの二階に三年ほどおりましたケン。ほれに、麻さんは悪い人じゃないんですワ。初めはお酒も飲みまへんでしたナ。そりゃ、うちにおった(しま)いごろはだいぶ生活が荒れとりまして、旦那はんに隠してもしょうごわへんように、バクチは打つ、大酒はのむ、女狂いはする……、まンでヤクザになってしもうて、あげくのはてに警察のご厄介になったンだそうですケンド、とにかく大分ヤケになっていたンですワ。……そりゃ、やっぱり、コハルさんのせいもあるんじゃケンド、コハルさんやって可哀そうな娘でな。蓮っ葉で自堕落なところはありましたケンド、根はやさしーいとこのある、ええ娘でしたケン」

 老婆の語る玉田麻太郎と斎藤コハルの話は、記憶がいささか不確かだったり、想像まじりだったりしたが、岡目八目的な観察もあって、田上は自分のカンがおおよそ当ったのを確認することができた。

 まず部屋を探しに来たのはコハルである。コハルの顔を老婆は見知っていたが、どこの娘で何をしているのか、また名前も知らなかった。顔を知っていたのは、彼女がこの界隈の道をよく通ることがあったからである。

 住み込みで女中奉公をしている堀淵の斎藤コハルという者だが、主人の住いとして間借りをしたい。主人は左官の年季奉公をしていたが体を悪くして、今はぶらぶらしている。体をこわしたと言っても悪い病気ではない。などと問わず語りにしゃべった彼女は、老婆の出した条件を簡単にのみ、二階を丹念に見て帰った。中二日おいて男と二人で部屋を見に来、男の方も気に入ったのか即決し、部屋代一年分を前金で払った。金を出したのはコハルの方であった。その日の夕方、日が暮れてから二人で越してきた。

 トランク一つ、風呂敷包み二個という、ひどく手軽でみすぼらしい引越だったが、やがて蒲団屋が新調の夜具を、荒物屋が炊事用具や日常雑貨を、という具合に届けて来た。

 新所帯を持つのだな、玄人女の同棲か、内縁の若い者同士に間貸は危ないかな……、と老婆は思ったが、一年分の部屋代を先どりしているので目をつむる気になった。

 コハルは、「志摩源旅館」につとめているので、ときどきやって来るがほとんど泊まれない、旅館女中は朝が早いから……、と嘘をついた。この嘘は間もなくばれたが、老婆に不服はなかった。若い二人は気前よく心づけやみやげをくれるうえに、男はひっそりと暮らし、部屋を傷める心配もなかったからである。

 男はよく外出したが、コハルのやって来るときは忠実に在宅していた。それは、日時の約束がきちんと守られていることを示すと同時に、玉田麻太郎の方がコハルにぞっこんほれ込んでいるのを感じさせた。

 男の方が受け身の立場だった。女が勤めを持っているという制約のほかに、男の側には、養われているという負い目がある。それでいて現状に甘んじている無気力さが、麻太郎を蝕み怠惰にしていた。病気療養中という話は嘘だと思われた。そして麻太郎は、ただ女を待ちわびていた。

 コハルのおとずれだけが、当時の麻太郎には生き甲斐だったにちがいない。男妾(おとこめかけ)といえば言えるし、美人局(つつもたせ)同然の隠微な三角関係なのだが、暗い翳りは微塵もない。納得ずくで割り切っているらしかった。ふてくされたところは麻太郎にもコハルにもあったが、晴れて所帯を持てぬ哀れさも感じさせた。いるのかいないのかほとんどわからぬ静かさで暮らしている麻太郎が、久しく現われぬ彼女に苛立って、部屋のなかを歩き回っているのが察せられることがあった。そのときは、決まって天井がミシ、ミシと鳴る。また、急ぎ足で、そそくさと外出先から帰ることがあった。外でしめし合わせてくるのか、それとも、約束の刻限に遅れかけて急遽帰宅するのかはわからないが、追っかけるように、コハルが裏階段を上る忍びやかな足音が響く。

 話声は定かには聞き取れないが、女をなじる言葉がきれぎれに伝わったり、男に甘える嬌声が混ったりする。泊れぬ事情にある恋人とのつかの間の逢瀬を、待つ身の麻太郎がどのように過ごすのか、恋人にうしろ髪をひかれながら、西洋人の住む長屋へ帰らねばならぬコハルの気持がどんなものなのか、漠然と老婆は思いやったことがあったが、そういう話を若い二人と交したことはない。

 コハルは夜更けに来ることもあれば、夕方ちょっと駆け込んでくることもあった。買物に出た足でやって来るらしい昼間は、主として掃除や洗濯に従った。

 左官の修行中だったというのが頷きがたいほど、玉田麻太郎はのっぺりして、まるで、新町辺の呉服屋かなんかの若旦那みたいだった。遊び人の世界に足を踏みいれていることは、すぐ察しがついたけれども、別に仲間が訪ねて来ることもなく、無口でおとなしかった。二階でごろごろ寝て暮らしている間は、バクチですって金のないときらしかった。好きでないのか、酒はほとんど飲まない。遊侠無頼の巷に出入するのが、あまり似合わなかった。

 麻太郎が働く意欲を持たぬ優型(やさがた)の無気力な男で、コハルの稼ぎにたより、男妾の生活に甘んじていた点を老婆は言ったが、語調には、いささか彼をかばうふうがあった。

 彼がぐれ始めたのは、コハルが妊娠してからである、と言って老婆はちょっと笑った。

最初(はな)から遊び人の麻さんを、あの人がぐれだしたンは、なんて言いますと、旦那はんは妙に思いなはるでひょうケンドな。ほんまにそうなんぢョ」

 と補足して、

「碧い目の赤ン坊を、自分の愛人が産むかもわかれへんのでっしゃろ。なんぼ割り切って、美人局みたいな暮らししよっても、麻さんにしてみたらいやなことやろうし、切ない、つらーい気持だったンでひょう。そのころのことだったと思いますケンド、『おばはん、おれもうせっぱつまってしもうた。ふつうやったら嬰児(ややこ)が生まれるちゅうことはめでたいのにのう』とあたしに言うて嘆くんですワ。西洋人の嬰児が生まれると面白うないし、日本人の赤ン坊やったら、モラエスという人に、コハルさんの不義がバレてしまうでひょう。不義がばれて、嬰児かかえてお払い箱じゃったら、たちまち、二人とも暮らしに困るでひょう。そんで、せっぱつまった、言うて……」

 大酒呑みに急傾斜していく麻太郎を、老婆はハラハラしながら眺めていたが、若いのだから、心をいれかえて働け、と何度も注意をしたと言う。コハルの腹が目だつにしたがって、しだいに麻太郎はすさんでいった。

 ほとんど泊らなかったコハルが、傭主の西洋人にしかられ、追い出されて来た、と何日か滞在したことがあったのもそのころだった。

「なあ、おばはん、コハルとおれが不義しよるんとちがうんじゃ。おれの方が、あいつに恋人奪われたんじゃ。あの西洋人を叩き殺したろうか思うて、夜もねむれんときがあるんじゃ。もちろん殺しに行ったりはせえへんケンドな。おれの方が、コハルと先にでけとったんを、あいつが、あとから横どりしよったんじゃ。ほれを、不貞を働いた、日本人の子どもを産んだケン、言うて、あいつめ、とうとうコハルを、ほんまに追い出しくさった」

 酒に酔った麻太郎が、泪と汗で顔をぐっしょり濡らして老婆に訴えたのは、二時間ほどしか赤ン坊が生きていなかったという初めての出産のときだったのか、二人目の麻一という子のお産のあとだったのか、老婆の話は前後の関係が怪しかった。

 斎藤コハルと玉田麻太郎との、ひそやかな愛の巣――、伊月町二丁目の隠れ()終焉(しゅうえん)は、コハルが麻一という次男を産んだ直後だった。モラエス家を追われ、実家に帰っていたコハルが、母親ユキの目をぬすんで、愛人の許へ忍んでいたところへ、ユキがどなり込んで来て麻太郎と大喧嘩になったのだ。ユキは泣きくずれるコハルをむりやりつれて帰り、麻太郎はどこかへ飛び出して行った。

 ひと月ばかり経って、麻太郎は荷物を取りに来たが、コハルは遂に老婆の前に姿を現わさずに死んだ。麻太郎が賭博であげられたのは、ちょうどそのころであった。

 伊月町の隠れ家から、深夜の町をコハルが辿ったであろう同じ道を、伊賀町のモラエス家へ向って歩みながら田上は、煙草屋の老婆がモラエス氏の名を口にのぼすとき、必ず「モラエスという人」と、「いう人」をくっつけ、ふつう一般の市民が呼ぶように「モラエスさん」と言わなかったことをふと思い出した。

「モラエスという人にしてみたら、コハルさんは間男した女ですし、麻さんは大金を払っている妾と関係したけしからん男かもしれまへんケンド、麻さんにしてみたら、モラエスという人は、自分の女房も同然の女を、金でつらはって横どりしたけしからん西洋人ちゅうわけでっしゃろ。どっちが悪いともいえまへんワ。コハルさんにしたって、いやいや洋妾(らしゃめん)になったちゅうことですし、それを承知のうえで、麻さんが好いてくれとったんですケン、モラエスという人がお金でしばろうとしても、だいたいこれはむりな相談でしたわなア」

 といった述懐も、何かずっしり胸に響くものがあった。

    5

 伊賀町は道幅が狭い。植込と生籬(いけがき)が多いうえに、眉山(びざん)の山裾がおおいかぶさって狭く感じられる。山が迫っているので暮れるのも早い。秋晴れの空は明るいのに、路上はすでに薄暮の気配だった。

 モラエスの住む四軒長屋の前も樹木が多い。玄関脇の狭い前庭に、どの家もおびただしい庭木を押しこめている。薄暗い玄関に立った田上刑事は、格子戸に掛けた手を止め、「ほーう」と呟いて門札を見つめた。

 昨日の夕方まで、そこには「斎藤コハル」という標札が掛っていた。その斎藤コハルが死んで、まる二年になるのに、門標はもちろん、借家人の名儀も依然として彼女だった。徳島移住の初期から、斎藤コハル方に滞留という形式で、モラエスはここに住んでいる。彼女が死亡した以上、何等かの届出を要するのだが、前例を重んじる日本の役所の習慣と怠慢から、徳島県当局や徳島市役所、そして徳島警察署も、暗黙のうちに彼の居住を認めている。公式な手続きなしに居住権が成立したような恰好だ。門標がコハル名儀であろうが、他の何人(なんびと)の名前になっていようが、この家は厳としてヴェンセスラオ・デ・モラエスの借家であったけれど……。

 今日は、「斎藤コハル」という門標が「モラエス」と変っている。下手くそな墨の字は、この家の主人公の自筆らしい。木の有りあわせの杉板である。仔細に眺めると、コハル名儀の門標をそのままにし、その上へ新しいものを打ちつけてあった。変ったことをしたものだナ…?…と田上は思った。

 外国へ行ったことのない田上は、西欧人もまた木札の門標を掲げる習慣があるのかどうかは知らない。反射的に彼が想念に浮かべたのは、ネーム・プレートである。故人の標札の上へ重ね打ちしたのは、いったいどういう料簡だろう。日本人なら、死んで二年にもなる女名前の標札など取り払うはずだ。手先が不器用で、ものぐさなモラエスさんらしい作業ではあるが……、などと田上は考えた。彼はいつだったか、裏庭で不器用に鋸を使うモラエスを見とめ、思わず近づいて手伝ったことがある。武骨ともいえる大きい手に鋸を握り、小さな板ぎれをひく西洋人の姿は、滑稽というよりあわれだった。

 どういう心境の変化から門標を出したのだろう…?…と思う田上の心のなかに、小さな金槌で門標を打ちつけているモラエスの姿が浮ぶ。滑稽といっては失礼だろうが、あまりいい恰好ではない。

 実際、徳島の風光と習俗のなかに身を置いたモラエスは、あらゆる点でそぐわない。まるで、宿屋のおしきせの浴衣を、長身の者が着たときのようにちんちくりんである。上り(かまち)に腰をおろしたり、玄関先の畳に坐ったりして、招かざる客である田上にモラエスは応対するのだが、どのような服装、どのような姿勢(ポーズ)でいても滑稽味が伴う。日本家屋そのものはもちろんだが、家具や調度品や日常の雑貨類とも、この老いたポルトガル人はなじまない。家のなかだけではない。外光のなかを歩み、あるいは佇んでいる姿も似合わぬ。モラエスと徳島の景色(けいしょく)とが分離してしまって……。

 田上が、この家を初めて訪れたとき、斎藤コハルという標札はまだ新しく、掲げられたばかりだった。

 あれから五年になる……、と田上は考えた。定期的に、あるいは断続的に、この家の(あるじ)の監察にしたがって、彼の方も年をくったわけだ。その間に洋妾(らしゃめん)のコハルが死に、モラエスは老いた。田上の仕事の反面には、外国元高官の保護ということがあったが、これはあくまでも名目で、本務は監視であり、危険防止であった。モラエスにかかり切りというわけではないが、つかず離れずの位置に身を置いて、徳島署勤務の歳月がいたずらに流れていく。元来、田上は関東の出である。生地は茨城県――。巷間でいわれるイバラギ巡査である。確かに茨城出身の警官は多い。しかし、それがなぜであるか田上は知らない。漠然と思うのは、農村の次三男が多いのに土地が狭く、すぐそこに東京があるから……、ということである。

 彼自身がそうであった。高遠な理想があったわけでもなく、野心を抱いての離郷でもなかった。ただ職を警察畑に求めて東京へ出たにすぎない。巡査として東京で二年。横浜署で六年を勤めて刑事になった。刑事になったのは、徳島転任に伴う昇進である。赴任は明治四十一年だから、もう十年の徳島署勤務が過ぎ、東京や横浜時代より長くなった。

 最初凶悪犯相手の仕事をしていたが、明治四十四年新設の高等課へ回された。大逆事件に代表される一連の思想混乱の世情に即して、思想犯や国事犯の予防と取締を目的に、新しく全国に設けられた課である。便宜的に高等警察と呼ばれている。田上のほかに二名の刑事が配置されているが、平穏ぶじの地方都市だから、暇で刑事課の遊軍のような存在だった。

 開店休業同然の高等課の初仕事が、こと国際問題にもかかわる、というモラエス氏保護観察であった。

 横浜署に六年もいたのだから、多少外国人の扱いになれているだろう、少しは英語もできるし……、と田上は課長からモラエス係を押しつけられた。課長は英語ができない。他の刑事や巡査部長たちも同様であった。独学同然の、はなはだ心もとない英語だったが、県知事官房からの特命もおびて、田上はいやでもモラエスと接触せざるをえなくなった。その仕事は議会で問題になったし、日本が欧州大戦に参加した初期には、徳島市民がモラエスに対して神経質になったりして、ずいぶんと田上も気を使ったものである。

 少なくともその初期においては、徳島警察署はもちろん、田上自身も、モラエスに対して疑惑と偏見を抱いていた。

 無知な市民一般のごとく独探とまでは疑わなかったにしても、治安と危険予防の義務が、保護に先行するかぎり仕方のないことであった。日本の政府ならびに官憲には、大公使館を筆頭に、領事館から一貿易商人にいたるまで、外国人は多かれ少なかれスパイ行動をする、という固定観念がある。よしんば、意識的な諜報行為でなくとも、なにげない通信の断片や行動が、結果的に密偵行為に該当する事例は少なくはない。ポルトガルは同盟国側についたからよかったが、注意をおこたらぬにしくはなかったのである。

 怪しめば、モラエスは果てしなく怪しかった。元武官であり元総領事であり、本国向けにたくさんの郵便を出すし、向こうからも届く。貝殻を蒐集しているにすぎないというが、しょっちゅう海岸線をさまよう。鳴門観潮に出かけたり、吉野川を川舟でさかのぼったりもする。観光といってしまえばそれまでだが、外国人にしては出歩きすぎた。第一、彼が徳島へ来た理由も奇矯であったし、生活の目的と内容が不分明だった。

 モラエスの弁明によれば、今度の戦争を含めて、国際上、外交上の事項にまったく興味なく、世間的にも処生上にもなんら野心を抱いていない。老いの身に若干の関心をひくものは、世界の列強に伍して旭日昇天の勢いで発展する日本と日本人に対してである。いかにして日本は、今日の日本となりえたか? そして、日本および日本人はどこへ行くか? だ。他に、自分を徳島につなぎとめているささやかな理由がある。かつて、自分をほんのわずかの間、愛してくれた女性の墓がここにある。彼女の霊を慰め墓を守るため、その亡くなった女の姪の家に寄宿し、余生を静かに送っているのだ……、いっこうに他意はない、というのである。

 何度か訪問を繰り返すうちに田上は、世捨人を自称し、日本の女性が好きで、徳島が気に入った、という風変わりな毛唐の心情も頷ける気になった。署では、田上の報告から、楽隠居の身分の、好色な西洋人という解釈が生まれている。

 終結のヤマの見えてきたヨーロッパの戦争が、日本人の緊張をほぐし始めている雰囲気のせいもあって、田上刑事はモラエスに好意と同情を寄せ始めている。斎藤コハルの病死以後はとくにそうであった。

 職業柄がさせる警戒心は、モラエスの朴訥(ぼくとつ)な人柄や柔和な態度の前に溶け、逆に、えたいの知れぬ魅力が徐々に田上を捉えている。やはり無害でおとなしい外国人であった、自分の調査報告は誤っていなかった……、と田上は内心よろこんでいる昨今である。

 モラエスの家の格子戸は開かなかった。留守らしい。格子戸の内側から施錠し、裏口から外出するのが彼の習慣である。一、二歩あとずさりした田上は上天を仰いだ。暮色が地をはい、伊賀町一帯を下の方から包み始めているが、十月の空は意外に明るい。

「まだ墓地にいるのかナ……」

 と田上は呟いた。

 人通りの多い昼間をさけて、夕方潮音寺へ墓参するモラエスなのだが、いつもだったら帰宅している時刻である。懐中時計を取り出して時間を確かめた田上は、もう一度門標に一瞥をくれて歩き出した。

 潮音寺へ行ってみよう、と思ったのである。

 伊月町の煙草屋で確かめたことを告げようと思ってではない。むしろ、玉田麻太郎の話は己れひとりの胸に畳み込んでおく決心だった。上司にも報告せず、同僚にも語る気はない。貧しい家庭で乙女になった斎藤コハルもあわれだし、モラエスに愛人を奪われてぐれたという玉田麻太郎にも同情できる。事情を知らずに、コハルを傭ったモラエスも不幸だったのだ。金銭を目的に、娘を洋妾にした母親の斎藤ユキだって深くとがめられない。どこにでもある、日本の下層階級の生活の一断面にすぎない話だ。

 奇妙な三角関係の渦中の女性コハルは、モラエスの側からいえば不義の子である麻一を残して逝った。忘れがたみであるその子供はきのう死んだ。彼女をめぐる葛藤も愛憎も終りである。いっさいを死が清め、時の流れが押し流した……、という感想が田上にはあった。そして、モラエスも麻一の死去に伴って、さまざまな感慨を抱いて、コハルの墓を拝んでいるにちがいない、と考えたのである。

 モラエスに会って、そのうえでどうしようというのでもない。田上が慰めの言葉を口にのぼしたところで、モラエスの心がなごむわけもないだろう。だが、何となく足が潮音寺へ向かって行く……。

 いつだったかモラエスは、

「蛇と蝮カタチ同じです。蝮、毒を持っています。蛇、無害です。しかし、蝮を嫌うように蛇も嫌われます。きっと外見が似ているからです。ヨーロッパ人もこれと同じです。外見同じ、中味違います。確かに悪いヨーロッパ人います。ほんのわずかですけれど、残念ながらいます。これらの人たち、日本に有害です。これ蝮……。わたし、蛇です。日本ならびに日本人に害与えません。でも、カタチ同じです。日本人みわけつきません。ヨーロッパ人、みんな、みんな蝮と思っています。蛇である私も一緒に嫌われます。仕方ありません」

 と、田上に言ったことがある。

 石を投げる者や悪口をはやしたてる者があって、モラエスの外出がはなはだ危険だったころの対話であった……。蝮と蛇――、なるほど、と田上は、うまい比喩に感心したものである。

 蛇を自称するモラエスは、田上が予想したとおり潮音寺にいた。ほんとに蛇そっくりの恰好で……。

 初めての人が見たらキモをつぶすであろう。彼は、コハルの墓に抱きつき、接吻しているのである。墓に巻きついた蛇――、というよりも、和泉砂岩の小さな墓石を飲み砕こうとしている大蛇のようである。

 異様な光景だが、田上は見慣れている。

 洗い清めた墓の表面上部へ、まるで、生ける人の額に接吻するかのように、唇を寄せるときもあれば、墓石にとりすがって泣いているときもある。今日のように、竿石を抱いて接吻の雨を降らすのも一再ではない。

 墓を()めるような風変わりな墓参の仕方は、徳島の人びとの噂にのぼった。墓から精気を吸う紅毛人……、という妖怪譚として。しかし暗夜に墓所をあばいてむくろを喰う妖鬼の怪談と違って、白昼――、しかも堂々たるモラエスの行為は、事情を知ったうえで眺めると、むしろユーモラスである。巷間の噂は、接吻の習慣にうとい徳島の人たちの、田舎者らしい観察にすぎない。陰惨さなどちっともないのだ。

 異様なのは詣り方だけではない。

 清掃の仕方だって一種独特であった。しきみや花を供え、線香をたくのは日本人同様だが、墓石の洗い方が風変りである。水盤を軽々と持ち上げ、すっぽり水桶につけて洗う。竿石も猫足も同様である。丁寧なのか、偏執狂的なのか、そこのところは田上刑事にはきめかねた。

 つるべ落としの秋の日が落ち、あたりが急速にたそがれてゆく。老樹の陰に立ちつくしてモラエスを眺めていた田上刑事は、足音を忍ばせるようにして墓地を離れた。薄暗くなり、いくらか冷え冷えとしてきたのに、モラエスはまだ墓石を抱擁しつづけている。磨きあげ、洗いあげた蒼い墓碑を抱いて。

 きっと、何かを語りかけているにちがいない……。

 喉のかわきを覚えた田上は、大工町の交番へ寄って茶をもらった。死んだ人間の表札をいつまでも出しておかず、自分の名前を掲げるよう、モラエスに伝えたのは、今朝伊賀町と弓町の戸口調査に回った、ここの若い巡査だった。

「そうか、それで……」

 と田上は、熱い番茶をいれてくれた、その巡査に言って、表札が二枚重ねながら新しく出ていた話をした。

「そうですか。もう、出してくれていましたか」

 といって巡査は口ごもり、田上の顔をうかがいながらつづけた。

「いいのでしょう。西洋人名前でもカタカナで表札を出すのなら……。どうせ、あの西洋人があそこに住んでいるのは事実ですから……」

「いいだろう。外国人は表札出してはならぬという法律はないしさ。それに彼は、今では一人あの家に暮らしているのだから……」

「職業を尋ねましたらね、チョジュツギョウっていうのですけれども、何なんですこのチョジュツとかいう職は? 代書人みたいなものですか。どういう漢字をあてるのかもわからなくって困っているのです」

 今月初めて外勤へ出たばかりの、若い巡査が真剣に訊く。微笑を浮かべながら田上は、著述業という字を教えてやる。

「代書人や公証人みたいな職業じゃなくってな、小説家や新聞記者のような仕事だ。自分でものを書いて、それを売って暮らしているのだよ」

 という田上は、

「あのモラエスとかいう西洋人も、自分でそんなふうなことをいっていましたが、ものを書いて、それが売れるんですか…?…」

 若い巡査は目をみはっておどろいていた。

 茶を三杯のんでから田上は、外国人については、直接本署で扱うことになっているから、このあと戸口調査等を必要としない、と、モラエスについての概念を与え、礼をいって大工町の交番を出た。

    6

 刑事、田上健二郎は、大正九年まで徳島署高等課にいたが、高松へ転出し、やがて関東へ転勤した。田上の去ったあと、徳島署のモラエス係は自然に廃された恰好になった。正式には、福永という高等警察係に引きつがれたのだが、福本刑事はモラエスをほとんど訪問しなかった。

 モラエスの死後六年近く経って、田上は徳島へ旅行する機会があった。彼はわずかの時間を利用して、徳島県立光慶図書館のモラエス文庫を訪ねた。

 彼はそこで、<愛の門標>と解説された、モラエスの二枚重ねの表札を見た。手にしたそれを、田上元刑事は長時間眺めた。

<(下)はコハル夫人と同棲時代に用いられたもので、文字は夫人の自筆。(上)は夫人の歿後、翁が自書したものを、その上に釘付にしたもの。輪廻を信じ来世を信じていた翁は、亡くなったコハル夫人の霊が、命日や盂蘭盆に帰って来たとき、自分の表札が見えなかったら悲しむであろう、とし、いつまでも離れず一緒にいるという愛の気持を、二つの門標を重ね打ちすることで示したのである>

「失礼ですけれども、この解説の文はどなたがつくられましたか…?…」

 と田上は訊いた。

「当時の館長だった坂本章三氏が、全部解説文をつくられたと聞いています」

 案内していた司書が答えると、彼は「そうですか」といい、何かいいかけてやめた。

 文庫の見学をすませた田上健二郎は、館長室で茶菓の接待を受け、ほんの十分ばかり憩った。

「遺品やら遺稿やらが、揃って保存されていてよろしいね。地下のモラエス氏もよろこんでいるでしょう」

「前々館長の坂本先生のご苦心の結果です。何でも坂本先生は、モラエス文庫の鍵は自分でお持ちになって、見学者があると自ら案内されたそうです。それも、誰にでも見学させていたわけじゃなかったそうで、相当厳格な基準をもっておられた、と聞いています。今はそう厳重にはしていませんけれども、坂本先生のご意志はついでいるつもりです」

 三代目にあたる館長が答えた。

「それじゃこれで……、どうもありがとうございました。モラエス文庫が拝見できて倖せでした」

 礼を述べて去る田上を、館長は建物の入口まで見送った。玄関に立った田上は、前庭に亭々と立っている公孫樹(いちよう)の老樹を見上げ、

「館長さん、あの<愛の門標>の解説はいただけませんな。それに、コハル夫人という、この夫人という表現もどうでしょうね」

 と言い、怪訝の表情の館長に挨拶して、足早に立ち去った……。

 昭和十一年になって、花野訳の『おヨネとコハル』が出版された。

 広告で知った田上健二郎は、すぐその本を求めた。それが、ポルトガルの人にどう読まれ、日本人がどう読むのか、田上にはほとんど見当がつかなかったが、モラエスという、一異邦人を理解する鍵になる本だと思った。読み進むにつれて彼は、自分自身のモラエス観が、そして本署に提出した観察記録が、まったくといってもいいほど誤まっていなかったのを知った。しかし彼は、モラエスさん自身は、あれで結構倖せだったのかもしれない……、と思い、老いた西洋人に対し、卑俗な同情を寄せ、あわれに思った自分自身が、いくらか滑稽に思えてくるのであった。

 もちろん、自分の抱いていた同情心の薄っぺらさにも気づかざるをえなかったし、せっかくのモラエスとの長い交渉の期間を、まるで無為に過ごしたことへのかすかな悔いもあった。偏見と義務感とを抜きにして、もっとあの老外人の内ぶところまで踏み込んで、親しい隣人として付き合っていたら、得るところが多かったにちがいない、と田上は考えたのである。

 そういう意味では、斉藤コハルも損をしている、と彼は考えた。周囲の事情のせいや、恋人玉田麻太郎の存在があって、どうやらコハルは身の処し方を誤まったようである。福本ヨネについてはこの本でしか田上は知らぬわけだったが、奥ぶかいところで、ヨネはモラエスにつながっていると思われ、『おヨネとコハル』一巻から、モラエスのおヨネへの愛が惻々(そくそく)と伝わってくるのを感じた。

 冒頭に置かれている「コハル」という章も、「おヨネだろうか……コハルだろうか……」も、徳島の城山に在る正午を告げる号砲に、コハルの死をまつわらせて語っている「午砲(ドン)」も、母国のポルトガル市で小冊子として出版され、のちに『おヨネとコハル』として他の文と一緒に纏められた、と訳者の「あとがき」にあったが、コハルの短い生涯とその不幸な死を語り、コハルを迫念している文章のなかに、モラエスにおけるおヨネが大きく影を落としているのを田上は感じた。どうしてだろう、といぶかしく思うくらい……。コハルの方はよく知っていて、生前何度か話を交わしたこともあるが、福本ヨネはちっとも知らないのに……。

 おれ自身が、コハルという女を毛嫌いしているのだろうか、と田上は自らに反問してみる。しかし、そうではなく、モラエスの文のせいにちがいなかった。「午砲(ドン)」を、彼はこう書き出している。

《まったく、「また、コハル」だ――すぐ前に出版しておいた二つの著作のなかで、コハルについて語っておいたのに、さてさて、今また、その女のことを話そうというのだから。打ち明けたところ、こうしたむりじいは、わたしの読者を退屈させるのが関の山だし、不快にさせるくらいが落ちだろう。どうでしょう。読みたくはないですかしら? まったく、わたしのよくない癖だもんで……。

 ああ、すべてのものが、希望と空想と幻想とにはちきれる人生の春に――二十三歳に――この世から消えた、かわいそうなコハルよ、かわいそうな徳島の娘よ!……》

 と、まったくコハルを語っているようである。ところが、すぐおヨネが登場する。

《四年前、いま一人の徳島の女、おヨネの苦しみと死とに接したと同様に、またコハルの苦しみと死とにも接した惨めな宿命をわたしはいつくしむ》

《わたしは別々の時代に、たまたまこの二人に出逢って、長らくこの二人と同棲した。この二人こそは、煩わしい世俗事のなかで、愛情の一と仕種、慰めの一と言、あらゆる好意と情味との一と衝動を、いつもわたしに期待させてくれた、この広い日本中で唯一の女たちだった。その後、二人とも逝って、二人とも残っていない》

「おヨネだろうか……コハルだろうか……」では、

《死んだ者が、その昔生存しいていたころの嬉しい追憶を今も胸に懐いていて、たとえば鳥、たとえば虫と、他の体に化身して、この地上にもどれるものと信じているのが日本人ではあるまいか……。

 われとわが胸に問うたこの最後の質問のあとで、わたしは、突然心臓の鼓動の停まるほど激しい、なんかしら悲しい気持に襲われた。ほんの一瞬が過ぎた。まもなく落ちついたが、こうした言葉しか口にすることができなかった――「おヨネだろうか……コハルだろうか……」――この小句によって、苦痛に結ばれた震える唇の低声が釈かれた》と書いている。別なあるところでは、《またも、コハル――そして、あのおヨネだ》と述べ、他の文で《再びおヨネとコハル……だ。わたしの読者は、もうあきたかしら?……》と、読者に気兼ねしながら、あくことなく亡き愛人を語りつづける。

 花野訳のその本を真ん中あたりまで読んだとき、田上健二郎はひとり苦笑して頭をかいた。モラエス自身が自分の後姿(うしろすがた)を、第三者の目で眺めたように描いた「潮音寺のごみ溜」という短章があり、かつて田上がかいた観察記録とほとんどたがわないのだ。

 ――たとえば墓掃除について、

《そうだ、珍しい話があるよ、――徳島に一人の気違いがおってね(もっとも、徳島にはたくさん気違いがいるがね)、潮音寺のこの墓地で、武勇を奮うのが大好きだという気違いが一人おって、ここへ来ると、着ていたものをすっかり脱ぎ棄てて、しっかりと墓に抱きつき、上の石碑を除け水と花を入れる水盤も除けて、そのヘルクレスのような大腕力を振って……》

 ――服装について、

《その人は、垢と埃とに汚れた、しっくり身に合わぬ粗末な紺のフランネル服を着、田舎くさいフェルトのネクタイに猫の毛をいっぱいくっつけているので、一と目で、女手の世話をちっとも受けていないのが解った。頭には、縁なし帽。手には、太いベンガラの粗末なステッキ……》

 ――さらに、外貌について、

《明らかに、ヨーロッパ人で老人だった。が、たしかに宣教師ではなかった。異教徒や未信者を惹きつけることを商売にしている宣教師のすべてに共通した特徴の、例の傲慢とも昂然ともみえるあの重々しげな態度がなかったからだ。否な、それどころか、わたしのすぐ目の前にいるその人には、自分自身をも他の人をもいっさいのものを棄て去ったふうがほのみえて……。

 (もつ)れた、捲毛になった頭髪は肩に垂れていた。うっちゃらかしの長い無精髯は、ときどき風に揺れて顔の形を変えていた。髪はまだ金髪だったが、髯はほとんど白髪で、しかも、それはかつては金髪だった髯のまっ白になりきらない、藁色に近い白さだった。髪と髯とが、むりやりに、容貌を変なものに見せていた。そうして、ほんとうの容貌は、あの毛の群りのなかに、恥ずかしそうに隠れていた。幾歳かしら? 六十五歳? 七十歳? それとも、もっと上かしら?……蛇の形に太く盛りあがって深い皺に刻まれている黒ずんだ顔には、血管がくっきり描きだされ、死んだような瞳の光は、ちっとも、はっきりしていない……》

 という具合であった。もちろん、この文章にも、「再びヨネとコハル」があらわれる。

《もう少し歩いてみよう。ごく親身にしておった二人の女の墓をお目にかけたいのじゃ。ほらこれがそうだ。右のは、七年前に死んだおヨネの墓。すぐそこにあるのが、その姪で、三年前に死んだコハルの墓。この墓は二つとも、わしが注文して拵えさせた。この二人の女をまつるためにこうして墓を拵えてやる義務があったのじゃ。しょっちゅうここへ訪ねてくるのも、二人の不倖せな友だちに逢うためじゃ。人というものは、生きている友だちがないと、死んだやさしい友だちで、その悩みを慰めるものなのじゃ。友を慕う心はその友の欠点を忘れさせ、長所ばかりを思いださせる。漠として果てしのない物思いのなかに、たちまち溶け去っていく、今は亡き人びとの聖らかなあの幻影ほど苦悩する心魂をやさしく揺すぶるものがまたとあろうか?……だから、この潮音寺の墓地で、いつか、このわしが、日本の習慣の火葬にされて、わしの灰を墓に入れられることになるが、他の灰と一緒じゃから、孤独にはならないわけじゃ。変なことをいうようじゃが――子供っぽいと笑うがよい。……なにさま、久しい間、独り暮らしをしているが、墓での独り住いは恐くてならん。(中略)

 墓は、たぶんいつの日にか、わしの灰を受けとるために、いま一度、開けられるにちがいない……。

 老人は、それ以上言うことはないといった様子をした。わたしは呑みこんだ。別れの挨拶に手をさし出し、自分の名前を告げて、その名前を訊ねた。すると、躊躇せずにこう答えるのだった――ヴェンセスラオ・デ・モラエス。

 追記――さて、その老人とわたしとが、なぜ一つであり、同一人物であるか、お解りになりましたか?……

一九一九年六月、徳島にて》

 一九一九年は大正八年である。田上が徳島警察署を去る一年前にあたる。母国の読者にモラエスが、自分を語っている短章にはちがいないのだけれども、田上は、自分にあの老西洋人が直接語りかけているような錯覚を感じた。

 第二次大戦中、田上健二郎は出征してティモール島に駐屯した。若き日のモラエスが勤務をした島である。《ジャスミンは美しいが、香りが強くて頭痛をかきたてる》あるいは《原色でいろどられた自然は、ぼくの神経をいらだたせる》などと、モラエスが手紙にかいたことや、ここで彼が猛烈な神経症を患ったことなどは知るよしもなかったが、モラエスの略歴を知っていた田上は奇縁を感じた。

 ヒビスカスやジャスミンやカンナやオオゴチョウが花咲き、ポルトガルふう煉瓦づくりの建物の多い島から、不思議に生命を拾って田上は復員した。陸海両軍の作戦から見捨てられ、孤立したまま敗戦の日を迎えたティモール島守備隊――。来襲するグラマンの攻撃、そして飢えと風土病、坐して死を待つに似た、みじめな戦いの日々であった。

 復員後彼は、検察畑に転じた。

 生きて帰ったら、徳島の、あの「モラエス文庫」をもう一度訪れよう。ティモールの空を眺めて、彼は思ったそうである。田上が、その夢想を果たしたのは、戦後も十二年を経てからである。もちろん、「モラエス文庫」は米軍の空襲で滅んでいた。

『日本精神』の新書版を携え、はるばる徳島の県立図書館へやって来た田上健二郎は、「モラエス文庫」の失われたことにひどくがっかりしていた。私は、彼と一緒の潮音寺のモラエスの墓地に詣で、伊賀町界隈をしきりと懐かしむ彼と、その辺を散策して一夕を過ごした。

 東京へ帰ってから田上検察官は、図書館長と私とに礼状を寄こした。「モラエスさんとおヨネさんを思うたびに、私は、近松秋江の『黒髪』を連想するのですが、いかがなものでしょうか。そして、あえかに悲しい情痴の世界をかいま見たような気持になります。『おヨネとコハル』一巻を、モラエスさんは、自ら"追慕の文学"と規定していますが、あれはやはり"恋愛の文学"であろうと思います。呵々」と、その末尾に書き添えていた。

 秋江の『黒髪』の世界と、モラエスにおけるおヨネおよびコハルの世界とは、似て非なるものと私は思ったが、黒髪という語彙は、つぶし島田の、さらには束髪にかんざしの揺れている、写真で馴染んだ福本ヨネの豊かな髪を私の内部に喚んだ。それは、房々と黒い髪がそこにあり、香りがあえかに匂ってくるような、妖しい、そして、つかの間の幻想であった。

 大名縞の丹波ちりめんのお召。胸許までキューツと緊めあげた帯――。帯には金貨を鎖でつるして――。合わせた襟の左右に乳房のまろみさえ感じられる。眉が濃いのは化粧のかげんだろうが、はっきりした双の目は眉墨の黒さに負けていない。小さな可愛い唇から、今にも微笑が(こぼ)れそうな――。

 おヨネは、モラエスを捉えたばかりではない。木村章三や米沢仁吉によき印象を残し、田上健二郎を捉え、そして、私もまた……。

 植木屋の老爺、米沢仁吉はいみじくも言った。洋妾(らしゃめん)は掃いて捨てるくらいみかける神戸で、おヨネさんだけの美人は珍しい。

    7

「夢みつつ」という短篇を脱稿したときモラエスは、その作品を、かつての同僚(カマラーダ)たちに捧げようと思った。

《人生の旅路において、砲艦「パシエンシャ号」に乗り組んでいたわたしの同伴者たちなる、同じ行路におけるわたくしのかつての同僚(カマラーダ)たち――アマロ・ジョータ・デ・アゼヴェーオ・ドメス、ジョゼ・アレイゾ・リベイロ、ジョゼ・ア・セレスティノ・ソアレス、ジョアン・エメ・ジェ・デ・アモリン、イパシオ・エフ・ブリオン、エンリーケ・デ・セ・カルヴァリヨサ・アタイデ、アリスティデス・バエス・デ・ファリヤ、アメリコ・ペ・ピント・ゴーランの諸君に》

 と、ずいぶん長い献題になった。

「夢みつつ」は、白昼夢にも似たおヨネとの交渉を、神戸時代の回顧をも混えて書いた短章であったが、書きながらしきりに昔の<仲間(カマラーダ)>のことが思われたからであった。

《ああ諸君よ、わたしと同じ年ごろで、同じ学校で、同じ級で、同じ職務で、海の上を進み、そこここの植民地で生涯の長い歳月を送り、数しれぬ他国の港を訪れ、船の着くところどころで異国情調のひどい放浪の花と茨とを摘みとったけれども、今は、はや老い果てた――だが、ああ、恐ろしく、おびただしい亡友のことは言わないのだが!――年老い果てた、かつ、現在すでにほとんど改革されているが、金帯(ひも)に埋まった制服の袖を着けるか、すくなくも、楽な任務を与えられて、リョーマチなんどの持病をかこちながら、故郷の気持のいい太陽に日向ぼっこしている往年の若者だった諸君よ……ああ、諸君は何を夢みるのか?……(花野訳)》

 と、「夢みつつ」の冒頭で旧友に呼び掛けた彼は、《ああ、諸君よ、徳島の単調な幾長夜の間、悩ましい生涯のこの最後の章に、この店じまいに、わたしが夢で苦しんでいるとは、どうか思わないでくれたまえ!……(花野訳)》などとことわりながら、夜ごと、そして昼間もみる、たくさんの夢を、筆の赴くままに叙述していったのだ。

 埋れ火に掌をかざし、母なる国ポルトガルにいる<仲間(カマラーダ)>の顔を一つ一つ思い浮かべようと、モラエスはしきりに苛立っているのだが、リベイロにしろ、ゴメスにしろ、海軍士官だったころの、まだ童顔さえとどめた往年の若者の(かお)は浮んでも、彼等の老いた風貌はなかなか空想できない。数えるまでもなく、母国へはもう二十八年かえらない。彼等ともそれだけの歳月を距ててしまって会い会わないわけだった。一九一九年(大正八年)が暮れようとし、徳島の町々を、お正月のしめ飾りを売り歩く農夫の声が、烈風に消えていく季節である。

 島国である徳島は、四国山脈が高いせいか冬が寒い。加えて季節風が吹きすさぶ。

「しめ縄、いらんでーえー。おしめ、おしめ。若葉にうらじろは、いらんでーえー」

 今日も一日、その売り声が、北風のなかであわれに響いていた。すこし甘ったるい、そして間のびした「いらんでーえー」という売り声は、本来余韻を引いて家々に届くはずだのに、ともすると風に語尾が消されるようであった。

 しめ縄売りの声は、七時ごろに()絶えたのか、八時ごろまでは聞えていたのか、原稿に没頭していたモラエスは気づかなかった。

 ふと彼は、まだコハルが生きていたころ、朝早く売りにくる威勢のいい若者――、それも男性のしめ縄売りから、正月飾の材料を求めると、新しい年の縁起がいい、と彼女がよくいっていたのを思い出した。明日は、もう二十九日だ、そろそろしめ縄などを求め、おユキさんに頼んで、新年を迎える準備をととのえてもらわなくては……、と考える。

 リベイロは、今でも顎鬚をはやしているかしら…?…、そして、その髯はもう真白かしら…?…モラエスは唐突に思った。

 正月行事の用品とリベイロの顎鬚とは、何か連想を喚ぶ要素があるのだろうか。海老(えび)じめや、しめ縄から髯を考え始めたわけでもないのだが、ともかく彼は、旧友の老いた顔を空想することにのめり込んだ。

 アマロ・ジョータ・デ・アゼヴェード・ゴメスは、どちらかというと若禿で、額の広い方だったから、白髪とならずに、すっかり禿げあがっているかもしれない。見事だった両頬の髯は健在だろうか…?…真っ白になっているかしら…?…あるいは、まだ胡麻塩ていどかしら…?…ゴメスの風貌のおよそは、何とか想像できる。

 生涯の三分の一、あるいは半分を、アフリカのそこここ、あるいはインド、あるいは澳門、あるいはティモール、あるいはマカッサル、あるいはサイゴン……等々で過ごし、砲艦や海防艦や縦帆船や横帆船で暴風雨(テンペスターデ)と戦った僚友たち――。海上の単調と植民地の荒涼に耐え、ときに風土病や日射病に悩んだ、そして、港々の雑多な人種の女や黒人娘に愛を求めた往年の伊達(だて)男たち――。その、貴公子然としていた士官たちのなかにも、年寄くさくなって、すっかり腰の曲ったのも一人や二人はいるにちがいない。誰が引退した、誰が死んだなどという消息は、比較的早く知らされていても、二十八年という別離は気が遠くなるほどの距りであった。

 火鉢の縁から手を離したモラエスは、机の下から望遠鏡を取り出して目にあてた。手慣れているので、焦点はすぐ合った。砲艦「ドウロ号」上の二枚の記念写真を、障子の桟にとめてある。一枚は白一色の服装だから、ひどく髯がめだつ。髯の一番濃いのは、舵側に片肘を凭して双眼鏡を左のポケットのあたりで持っている彼自身だが、他の連中の髯も相当なものである。腕ぐみしたり、横顔をみせたり、気どったポーズをとったりしている旧友たちを、レンズが実景さながらに見せる。もう一枚は黒服の正装――、金ボタンや金帯(ひも)の輝きまでよみがえる。当時流行のカイゼル髯が多い。全体にあてていた焦点を、一人一人の顔にあてる。彼等が、それぞれ語りかけてくるような気がする。

《尊敬する昔の同僚諸君よ!》と、モラエスの方も呼びかける。《諸君の往年の勇姿を(みつ)めることによって四十幾年前の若さで諸君を眺め、ご同様にわたし自身をも見たい。しらずしらずの間に押し寄せ、わたしを圧しつぶす老衰を追っ払うためにも、青春のあの時代を追慕していたいのだけれど……》リベイロの唇がかすかに動いた気がした。呟きは耳殻にまでは届いてこなかったが……。

 (こうべ)をめぐらせて、望遠鏡を壁に向ける。

 彼が艦長となって、澳門からリスボンの海軍造船所まで回送した三本マストの老朽艦「テージョ号」の、前景写真がそこに掲げられている。写真は変色しはじめて褐色の部分があったが、細心の注意を傾注して、嵐のインド洋を突っ切ったときのことを、その古ぼけた写真はありありと想起させる。

 砲艦「テージョ」の回航に、マリーアとの再会を賭けた青春の日の感懐をも――。

「テージョ号」の、キャビネ版の写真の隣は書架だ。

『現代の日本』『日本歴史知名辞典』『日本の王政復古』『武士道』『日本の諸事』など、日本に関する仏書、英書の類が雑然と列んでいる。その書棚の上段に、写真立てに入れたヨネの写真がある。

 望遠鏡は、ずいぶん長い間そこに向けられていた。無意識に手が、ピントを定めたり、ぼやけさせたりしていた。

 漠然と心に抱いていたエッセーのテーマが、しだいに凝集してきたのは、その放心のお蔭であった。書き上げた「夢みつつ」の他に、もう一篇、短いものを、ポルトの出版社に送らねばならなかった。

 芸のない話だが、《再びおヨネだ》と彼は呟く。ヨネとコハル、それに徳島の話――。目下のところ、それ以外には書きたいモチーフはない。『日本通信』を書きつづけ、「ポルト商報」に送りつづけているし、ライフ・ワークを意図している『日本精神』も進んでいるけれども、随筆の読者の期待も充していかねばならない。とっておきの、ヨネの最後の日の話を書こう。あの敦盛塚へ詣った話を……。

「敦盛塚」と題はすぐきまった。あわれな、あの平家の公達(きんだち)――、日本風に勘定して、わずか十六歳で従容として死を迎えた平敦盛の話。そして、その悲劇の若武者を葬った墓所へ、ヨネと散策し、祈念した話。

 まだペンを持っていないのに、《事件は、十二世紀の終りころに起った》と書き出しの簡潔な文章が浮んできた。すらすら筆が運びそうであった。敦盛塚の話のあと、ヨネの話に転換する方法も、苦労なくいきそうであった。《数年前の、神戸在住のころ、わたしはたびたび、敦盛の墓所へ詣でた。そこを訪ねた最後から二番目の日、その日を、わたしはどうしても忘れることができない。最後の参詣は、わたしが神戸を離れ、ここ徳島への旅の小さな貨客船に身を投じた当日だったのだが、最後から二番目にあたる参詣は、あのかわいそうなおヨネさんとわたしとが、一緒に歩いた最終の日であった。一九一二年六月二十日、からりと晴れた日の朝であった》と、こうしてはどうであろう。

 敦盛の知識をわたしに与えてくれたおヨネ――、そのおヨネの死と敦盛の死とを、織り混ぜて纏めてみよう。そして、この小文で、わたしのヨネを、母国の人びとに語る最後にしよう!

 望遠鏡の始末をすると、坐りなおして彼は机上の新しい用箋に向かった。言葉が過剰なくらい溢れてくる。筆が滑りすぎると気づくごとに、ペンを止めて"敷島"に火をつける。この煙草も、ヨネが好きだったもの……、と思う。書きつづけ、そして小休止の煙草のたびに、ヨネへの情感でこころが潤ってくる。葉書より小さい写真のヨネが、写真立てのガラスを抜け、ふくれ上り、やがて等身大になって歩み寄ってくる。

 

畳を擦る足音がする。

 この畳もずいぶん古びたな……、と思う。表がえや新調の、青畳の匂いと感触を愉しんだ日々が遠ざかって、万事にものぐさになったことにモラエスは気づく。これも忍び寄ってくる老いのせいか…?…頭の片隅を老衰の自覚がかすめる。漠たる不安が急に体のなかを吹き抜ける。まだ六十五歳だのに……。呟きながらモラエスは怯えた。

 ヨネの追慕に身をひたし、遠い昔を懐かしむこころが、ごく自然に――、というより、いとも簡単に、コハルのことに移る。

 ヨネを追想する行為に関連してコハルを思うのではなく、ヨネとコハルを一緒くたにしているらしい……、とモラエスは思う。ヨネと話していると思っているつもりなのに、相手がいつのまにかコハルに変っていることがある。もちろんその逆のときもあった。どちらでもいい、と考えているのではないけれども、これはヨネ、これはコハル……、と区別して追想しているのが、ついつい入り混じる。亡き者たちは変幻自在だ。

 微妙な変化をみせて、その日その日に、あやしいほど潤い方の移り変りを示し、彼を魅了し俘囚とするヨネ……。その柔媚な体を抱いているつもりが、弾力のあるまだ固い小娘のコハルの体になっていることがある。おかしなもんだ、と思うのだが仕方なかった。自分を裏切り、背信をつらぬいて、日本風にいう間男(まおとこ)の子供を産んだコハル。そのコハルを許すまい、と決めた日があったが、そう長くはつづかなかった。赤貧と病苦と、この世の不幸のすべてにさいなまれているコハルを見て、いつしか彼は寛容になった。

 不身持さえあらたまるのだったら、この女と生涯のおわりをともにしてもいい、と彼が思い、女の方もこころから悔悟したかに見えたとき、コハルにはすでに死が忍び寄っていた。肺結核の病菌が跳梁して彼女は死んだ。日本へ帰化し、コハルと結婚する夢想がふっとんだのである。運命は皮肉なもの、と観念としては知悉していたのだが……。彼は内面では自らを嘲笑し、外面に微笑を浮かべた。そうするしかしかたなかったのである。

《零の人》を志し、世の俗事――さまざまなわずらわしさは、きれいさっぱり立ち切ったはずではなかったのか…?…と、反省がゆっくり湧き、隠者の思想がよみがえってきたのは、コハルの死から、よほどの日数を経てからであった。

 ヨネとコハル――先だった二人が、定かな区別なく、モラエスの世界――追慕と夢幻の世界へ現われ始めたのはいつころだったのか…?…明確な日は不明だが、「コハル」を書き、つづいて、「おヨネだろうか……コハルだろうか……」を執筆したころからにちがいなかった。追念すべき相手は確かに二人なのだが、二人の女性が混淆し、亡き愛人というある理想像をつくり出した。理性のうえではそれが自らの妄想の生んだ虚像、とは判っているのだけれど……。

 無器用な手つきで火箸を握り、炭をつぎたしたモラエスは、ミシミシ階段を鳴らして階下へ降りた。襖を開いたのを、眠っていた三毛が耳ざとく覚って、蒲団の上から脱兎のごとく階段を駆ける。<三毛ちゃん>と呼んだり、たわむれに<遊郭>と名づけている牝猫だ。用便のために縁側へ出た主人公に、鼻先で障子を閉められたので、彼女は所在なげに階下の六畳をうろついているらしい。ひどく間のびした鳴き声が、部屋のあちらこちらでする。用をたしながら彼は、寒がりの愛猫が戸外へ出たがっているのは退屈のせいだろうか…?…とぼんやりと思う。

 ミケちゃんと呼んでみるのは、徳島の人たちが、「さん」を「ちゃん」と転訛して使っているのに馴染んだせいだが、だいたいは幼児語のはずの言葉である。神戸では女中を、お竹さんとかお松さんというふうに「さん」と呼んでいたのに、ここでは、大人になってからでも「ちゃん」づけである。コハルにしても、死の瞬間まで「コハルちゃん」と親しい身内から呼ばれていた。「さん」だと、ポルトガル語のSennora(セニョーラ)だが……。

 居間へとって返すとき彼は、仏壇からコハルの小さな写真を持って来た。書架の上の、ヨネの写真の隣に置いてみる。何となく安定しない。しばらく考えたすえ、画鋲で障子の桟にとめた。砲艦「ドウロ号」上の、<仲間(カマラーダ)>との記念写真のちょっと下へとめたのである。名刺の半分もない小さい写真だから、そこに置いても不安定であった。まるで、中空を浮游しているみたいに。

 それに写っているコハル自体も、魂の抜けた人のような、何となく力ない顔つきで撮れている。夭折を知っている目で眺めるからではなく、コハルの写真はどれにも死相のような翳がさしている。どれもこれも元気がなく、うかぬ顔つきで精彩に乏しい。

 望遠鏡のピントをそこに集中してみる。

 いくらか大きくなり、鮮明になった写真の主は十八歳のコハルなのだが、そのなかに彼は、古川(こかわ)病院十九号室で、死に瀕していた彼女をみてしまう。《熱がしょっちゅう増し、咳がふんだんに殖え、苦痛が絶えず増加して、痩せ細り、呻きつづけていた、かわいそうなコハル!》を。

 コッホ菌が肺臓内を跳梁し、蕃殖し、蝕むそれと戦い疲れ、ベッドにぐったり伸びていたコハル――。髪は汚くなり、頭の下に水枕、額の上の氷嚢を載せ、聞く者の心臓をひき裂くような呻き声をあげていたコハル――。女らしさも、つつしみも、身だしなみの優しさも忘れ果てて、まったく別人と化したコハル――。

 だが、気分のいいときもあった。母親のユキに、寝たままで髪をくしけずってもらったり、伯母のトヨに西瓜の小片を口に入れてもらったり、彼の掌に、病みおとろえた小さな手を重ねたり……。淋しそうな表情ではあったけれど、微笑を浮かべて、とりとめもなく語る夕べがあった。……コハルは全快を信じていたにちがいない。二十三歳くらいで死んではたまらない……、などと力をこめてしゃべったっけ。医者――徳島で一番権威のある古川(こかわ)博士やその配下の医者たちの方も、職業的方便と外交辞令とから、患者の全快をちっとも疑っていないような顔をするし、口に出して言いもした。<治るって? ばかな! いったい結核患者を根治させる方法が日本にあるのか? サナトリウム療法なら、いくらか利き目があるらしいが、医薬では結核菌はまだ滅びない。世界じゅうの医者が結核根治薬を渇望しているのだけれど、そうした医薬はまだ発見されていない>という常識はあるのにモラエスは、病人を慰め力づけ、将来の計画をしゃべりたて、「退院したら……」と、力をこめていうコハルの仮定の話に、大真面目で相槌を打ってやったものである。そうした病室の明け暮れのうちに、ふと彼の方も、<あるいは治るか>と空想するときがあった。

 急によくなり、咳が止まり、熱が消え、苦痛が去り、全快して病院を出て行く……。だが空想を、モラエスはすぐ断ち切らねばならなかった。退院後の、家庭のなかでの日常の暮らしの話や、未来の生活設計を語り合っている間にも、執拗な病菌は、コハルを高熱の世界へ拉致してしまう。

 三十七度五分……三十八度……八度五分……三十九度、そして四十度……。咳が増え、苦痛は耐えず昂進する。病みほうけて、人間の体でなくなり、腕は優美なまろみを失い、膝はうつくしい曲線を歪め、腰のきれいな膨らみがとがった骨と皮に席をゆずった肺病やみ。女性の魅力という魅力のすべてがなくなり、皮膚の下の骨骼だけがうごめいて、それでも、なおかつ生存を主張していたコハル……。

 駕で運ばれた入院の日――、それは一九一六年(大正五年)の八月十二日、徳島の盆踊の初日の夕刻だったが、その日からコハルの死は定まっていた。もっとも、人は皆、あらゆるかたちの死を常に背負ってはいるのだが、と毎夕見舞に訪れながらモラエスは思ったものである。

 ――「あたしが退院したら……」とコハルが話しかける。本気で信じていたのか…?…薔薇色の未来を夢想することによって死と闘っていたのか…?…ともあれ、その言葉を、素直に受容しよう、と彼に思わせるだけの懸命さのおしゃべりであった。コハルは、自らの過誤と不身持を、心から反省している、とモラエスは思った。結核による発病という事態が起らなかったら、再びめんどうをみることのなかったはずの女であった。

 タマダとかいう愛人との間も、うまくいかなかったのであろう。実家にしばらくいただけで、けっきょく彼のもとへ帰って来た。貧乏で、子だくさんで、狭い堀淵の借家で発病し、充分な加療もできないとあっては、許しがたい裏切を犯したコハルだが、モラエスの気質として放置しておけなかった。うやむやのうちに引き取ったのだが、伊賀町の家へ帰って間もなく喀血した。おびただしい血であった。ぐったりなったコハルを抱き起したとき、阿波踊のさんざめきが風に乗ってきたのを、今でもありありと覚えている。

 一九一四年(大正三年)四月三日、コハルは、流産同様のお産をした。つづいて、翌年の九月十五日、彼女はアサイチを産んだ。いずれの嬰児も、まぎれもない日本人の子であった。アサイチは、狼狽を隠し切れない母親ユキの子として届けられ、この世に生存する権利を獲得したのだが、やつぎ早やの二度の出産は、病菌の巣喰っていたコハルの発病を早めたのであろう。アサイチを産んだ娘を、黙ってユキは連れて帰り、訣別を宣告する彼の言葉を、コハルはうなだれてきいていたのだが……。

 あのころから、おそらくもう微熱はつづいていたにちがいない。医学の知識に乏しいコハルは気づかなかったのだ。金の指輪を指から抜いて、彼女はそれを返そうとした。返却しなくともいい、おヨネさんの形見だし、記念にあげよう、という彼に、いただけませんわ。もうお別れするんですもの。と力なく微笑むコハルに、いいよ、君が持っているといい。モラエスはきっぱり言った。結婚のしるしの指輪を返す、と言う義理がたさと、二度まで他人の子供を産んだ不貞とが、彼の理解ではつながらなかったものだが……。

 十九号室のベッドの上で、もう人間の体、とくに女性の肉体とはいえなくなってからも、細長い痩せた指にその金の指輪がはまっていた。ほんのちょっとした動作にも、その指輪は辷り、踊って、ときには蒲団の上や床に転ろげ落ちそうであった。

 母親のユキが、何かのつごうで病院へ来られず、父親が付添っていたある夜のことである。コハルは、執念にも似た懸命の力をふりしぼる動作で、片方の手の指輪を抜き、父親にわたした。「これを、おっかさんに手わたして……」と力ない声で言って。

 贈主であるモラエスの方を見向きもせず。……当然の権利をコハルが行使したまでだ、と彼は考えた。病人は、もう長くは保たない、と医者は近親の者に告げていた。その宣告を、コハルには秘密にしていたのだが、彼女には彼女なりの、ある種の予感があったのであろう。遺贈された(オーロ)指輪(アキール)は、貧乏な斎藤の家にとって、きわめて貴重な財産になるはずであった。

《ああ、あの指輪(アキール)!……悲劇的な歴史があの指輪にあるのだ!……二十年の昔、もう一つの指に、も一人の女に指してやるために、大阪のある貴金属商で買ったあの指輪。四年前に、そのときすでに冷たくなって、かさかさしていた死骸の、そのもう一つの指から、それを抜きとったのはわたしであった。そうして、いままさに墓場に運ばれんとしていたその死せる愛人の、親しい姪コハルに、わたしはそれを与えた。

そうして、いま、瀕死の女、コハルは、その所持する唯一の宝なる金の指輪を抜いて、母親に贈る……

 悲劇的な指輪の歴史……(花野訳)》

 すでにコハルは、生きる権利と義務を放棄して食欲を失っていた。日本のスープなる吸物(すいもの)さえ、ほんのわずか唇に触れるだけ。葛湯だってスプーンの一さじ……。新鮮で高価な果物も眺めて微笑むだけであった。高熱の去るときはなく、饒舌どころか、唇をもれる言葉も影をひそめ、呻く力さえ失っていた。だが、《まだ堂々と死に抗していた。苦痛を鎮めてくれる薬を飲みつづけていた。食べ物を拒んだ、が……(花野訳)》そして、弱々しい微笑と泪を浮かべていた。

《冨田浦のおてんば娘を、激しい病苦の、極端な殉教の光輪で浄めた神聖な涙、神聖な涙よ!……

 あの涙はなにを語ろうとしたのか?……ああ、神聖な涙、万有の価値にもまさる双眸の涙よ!……あの涙の奥底の意味を把握せんとして讃美するとき、この理性は、底知れぬまっ暗闇の深い断崖の周壁を辷り落ちるような、眩暈の責苦にあうのだ!……(花野訳)》

 ほんとうに、あの泪は何を訴えようとしていたのだろうか…?…おれに対する謝罪、あるいは感謝と考えて、優しくつとめて優しくしてやったのだが……。望遠鏡のなかで、コハルの映像がゆらぎ、いつしかぼやけている。老いて涙もろくなったモラエス自身の目がうるんだのだ。

 涙腺がたるんでしまったな、とモラエスは苦笑し、<感傷家め!>と呟く。望遠鏡を投げ出し、Pateta!(ばか!)Pateta!と自らをののしってみる……。

 Pateta!

    8

 コハルの病苦が烈しかったあるとき、苦痛とその死とを、かわれるものなら代ってやりたい、モラエスは考えたことがある。ベッドに呻吟する、二十三歳の女性を傍観するしかない看護が耐えがたくって……。

 その感慨は、「コハル」のなかにも書いた。

《苦しみがいや増すにつれて、ますます、役にたつなら犠牲になりたいと思う熱望に駆られるのだった。救えるものなら、どんなこともしよう。この生命で救えるものなら、大よろこびでさし出すものを!……たとえばこう叫べるものなら――「さあ、()てコハル、もう癒ったぞ!……自分の家へ行け、両親のもとに帰れ。だが、わしが、おまえの代りになって死ぬから、寝台の上の蒲団はそのままにしておくのだぞ!……」――さりながら、造物の法則は、そうした交代を許さない。まして、この結びあった二つの部分が、希望と欲望とに溢れた二十三歳の娘と、この世になんの望もないひからびた六十三歳の老人であるという、きわめて特殊の場合では……(花野訳)》

 そう思ったのは事実だ。だが、三等十九号室で、コッホ菌にさいなまれているコハルを、あわれと感じるこころと裏はらに、彼女に、そして病菌に嫌悪と恐怖を覚えたのも事実だった。その正直な気持を、文章にしておかねば嘘になる……、と考えたが、「コハル」「おヨネだろうか……コハルだろうか……」「午砲(ドン)」と書きついだ一連の作品では、どうしても書けなかった。それらの作品を発表してから三年を経て、やっと彼は「半分のバナナ」という随筆に結核菌への恐怖を語ったものである。

《病院の貧しい食事は拒むが、夕方ごとにわたしが持って行ってやる細々したもの――果物、菓子、卵などの品々――はたいてい、受け取った。あるとき、バナナを一つわたした。受け取ってくれた。そこで、もし一つ食べられなければ、半分を食べるように、残りの半分はわたしが食べるからと勧めた。哀れな女は、一所懸命に努力して、むろんわたしの望みに従おうとの嬉しい下心から承諾した。――女は震える手をその果物に差し伸べて、口に運び、噛みとって半分を指に残して、約束どおりそれをわたしに手わたした。

 そのとき、わたしの方でもその果物を噛み始めた。だが、突然、それに対する大きな嫌悪が、筆にできない嘔気が襲うた。わたしの意志に反して、あの細菌に侵されて、毒に荒された食物に反抗する自己保存の、惨酷な、動物的本能だった。そこで、わたしの唇が、病人の歯が小さい平行畦の印象を遺していた果肉の部分に達しないうちに、わたしの手は、残りのバナナを気持わるげに捨てた。

 場面は、ほんの瞬間だった。コハルは、何もいわなかったが、その目が急に輝いて、かつて見たことのない驚愕と不満との恐ろしい表情をみせた。(花野訳)》

 半分のバナナを捨てた行為は、コハルに対する裏切にも似た惨酷な仕打ちだったが、モラエスの方も、いまわのきわの彼女から、きわめて深刻な打撃を与えられた。

「ありがとう、ありがとう! あまり、せこ(苦し)すぎる。せこい。もう、こんばんかえります」

 あえぎながらコハルは、手を彼の方へ差しのべて言った。感謝の辞だ、「苦しいから、今夜、天国(あるいは仏)に帰る」ことを告げたのだ。死者には、絶命の予感が働くのであろうか…?・…今晩……と、自ら告げた死期と、彼女は五時間しかたがわずに、はかなくなったのである。

 もう死ぬ、と告げてからの一夜――。コハルは完全にモラエスを無視した。親しい身内の者のなかに還ってしまったのである。彼女は付き添っていた伯母のトヨに、母親を呼んでほしい、アサイチの顔が見たい、と頼んだ。そこにモラエスがいなかったら、アサタロウ・タマダに別れが告げたい、と彼女はトヨにいったかもしれない口ぶりであった。

 仕方のないことだ……、心に何度も呟きを繰り返し、病室の隅っこへ、固い木の椅子を持ってモラエスはしりぞいた。舞台はすでに回転して、療養費のすべてを負担し、もしなおったら……、と患者と対話していた主役は退場すべきときが迫っていた。ただ黙って彼は、その場の推移を見守ることによって、刻々死に向かっている女の、無意識な、彼に対する残酷な行為に耐えるほかなかった。

《まもなく、母親を呼んだ。すると、「まるえ」を伴れて訪ねて来た。これはコハルの妹である。「まるえ」は、一年くらいの赤ん坊を抱いてきたが、それはコハルの子にちがいなかった。

 なぜなら、コハルには一人の男の子が……父親なし児が、つまり、口説き落として棄てた、冨田浦町の、どこかのならず者の、別れた父親との子があったからだ……。

 母親はその子を寝台の縁に置いて、腕をさし伸ばして病人にその子を見せてやったが、その子は、すっかり晴着でめかしこんで、拵えたばかりの「きもの」を着て、玩具の乳首を啜っていた。コハルは、なかなか言葉もでなくなっていた。ひとこともいわなかった。深い、痛々しい思いを伝えようと、目を大きく、かっと見開いて、長い間、しげしげとその子供を見つめていた。そうして、その大きく、かっと見開いた目から大きな涙が湧くと、頬の上にしばらく停って遂に散らかった……。母親も泣いていた。妹「まるえ」も声をあげて泣いていた。看護婦も頭を垂れて泣いていた(花野訳)》

 控え目に、自らの感情をまじえず、その場の情景を彼は母国の人びとに伝えた。自分の恥にもなる挿話だったが、どうしても抜かして、コハルの死を語る気になれなかったのである。

 子供のことを<愛の結晶>という。

 斎藤ユキの末子として入籍された麻一が、コハルと玉田麻太郎の<愛の結晶>なら、生前のコハルはしょせんモラエスのものではなかったわけであった。

 マリーア……亜珍(アツチャン)……コハル……裏切られてばかりのモラエスである。だが、老残の日々のなかで、追慕の世界で、モラエスは生前以上の福本ヨネをわがものとし、そして斎藤コハルをも獲得した。もう、誰のものでもない、確実に彼のものである二人の日本の女性を――。

 一九一六年(大正五年)から一九二〇年にかけてモラエスは、「コハル」以下十八篇の作品を書きつづけた。おヨネとコハルを追慕し、二人の女を母国の人びとに手ばなしで語ったのである。

 コハル…おヨネだろうか……コハルだろうか・・・午砲(ドン)(またもコハル)…日本の三人心中…日本の異国情調…潮音寺のごみ溜…きもの、それとも、お金? きもの?…久松留守…半分のバナナ…夢みつつ…敦盛塚…笑いつ泣きつ…わが追慕の庭で…等々の十八篇である。一本に纏めてポルトで出版するにあたり、『おヨネとコハル』と題した彼は、その開巻第一頁に、

 将来の文学は敬慕の文学である。

(ピエル・ロッティによる。その「北京の昨今」二百二十三頁にある孔子の言)

 と書いた。

 徳島の風土に慣れ、日本食を喰べるのはもちろん、その調理も上達したモラエスは、週に二度ばかり斎藤ユキを家政婦として頼むほかは、買物、身づくろい、掃除、洗濯、炊事……とたいていのことをやってのけた。老いとともに無精になり、往年のダンディ気質や日本の生活を愉しむ趣味は薄れたが、そこらの、一般庶民たちと同じように暮らした。

 湿度の高い夏のむせっぽさと厳しい冬の寒さは、何年たっても馴染めなかったけれど、徳島生活の日々が重なっていくなかで、『日本通信』の執筆は、神戸時代のそのままのペースでつづいていたし、雑誌「セロインス」の書きちらした随筆は、『日本夜話』として纏めてリスボンで出版した。ライフ・ワークを意図している『日本歴史』も、力をこめている『日本精神』の稿も進んでいる。

《自分の懐中にある金を勘定しろ! それから、気まぐれな振舞のできて、思いのままに進める限界を計るがいい》と、神戸を去るとき考え、もっとも気にいり、もっとも合理的だと思われるように設計した<晩年>は、コハルの死を除き、ほぼプログラム通り進行していた。したがって、そう深刻な不満はなかったし、充分な預金の利子と印税で暮らす隠者の生活は快適でさえあった。

 日本食がわびしくなったときは、夜更けてから、新町橋畔の西洋料理、市川精養軒へ行く。徳島では珍しい三階建のそこには、腕のいいコックがいて、洋食らしい洋食で彼の胃の腑を満足させてくれた。

 西洋料理への未練を断ち切れないのに、それに親しむことを徳島の市民たちに知られたくない彼の気持を、彼以上にのみ込んでくれている精養軒のおやじは、モラエスが行くとカンバンにしてくれる。それに、夜が更けてから、高価な精養軒の洋食を喰べに来る日本人はいない。

 明日にそなえての清掃が終り、打ち水されたコンクリートの床――。人の気のまったくない、森閑としたレストラン――。そこの片隅でモラエスは、一人ひそかに西洋の味をむさぼる。味は確かによかった。海軍時代の(ふね)での食事、司厨長や料理兵たちが腕によりをかけた献立よりうまい徳島の西洋料理――。

 たった一人、ぼそぼそ洋食を摂る西洋人を、帳場のかげで精養軒の主人は満足気に眺める。おやじもまた料理人であったから、本場の味を知っているはずのモラエスにほめられると、次にはもっと工夫をこらし、いい材料を用意して、と思うのであった。その反面おやじは、顔中髯だらけの、その髯のなかへ、そしてぶ厚い唇に、自分の焼いたビーフ・ステーキなどが呑み込まれる光景を気味悪く思ったりした。あたりが静かなのと、明りをほとんど消しているので、そこで深夜の食事を摂る老西洋人の姿から、ふと彼は鬼気迫るものを感じたりするのだった。

 なにもかもたいらげると、この次の食事にやってくる日と時刻を告げて、オイシカッタ、と背をこごめてモラエスは、暗闇の街路へ忍びやかに紛れ込む。

 食事の時間に、堂々とやってきてほしいと思ってすすめた昔もあったが、「わたしが出入りしていると、お宅へ日本人が食事をしに来なくなります」といったふうなカタコトを述べ、西洋料理を喰べる習慣を捨てていたのだが、お宅の調理があまりにも上手だから、などとお世辞をいったりした。よほど変った外国人だとおやじは思い、モラエスの希望どおりにすることに決めて久しい。

 余談かもしれないが、ごく晩年になってからも彼は、市川精養軒へ肉料理の出前をときおり依頼していた。斎藤ユキはじめ多くのモラエス身辺の人が、「モラエスさんは、徳島へ来てから洋食はまったく口にしなかった……」と新聞のインタビューなどで語っているが、モラエス死後、かなり高額の、市川精養軒の領収証が残されていて、多くの反古(ほご)と一緒に、徳島県立光慶図書館に保存されていた。

 だいたいにおいて、斎藤ユキが、モラエスの死後述べた挿話は嘘と誇張が多い。信憑性がまったくないとはいえないが、あまり信用しない方が無難である。洋食を嫌った話もそうだし、コハルが最初産んだ嬰児が紅毛碧眼だった説や、その嬰児をモラエスがアルコール漬にして保存し、可愛がりたいと言って困った……、という話など、など。

《もしもぼくが、著述家――しかも、ひどくお粗末な――になっていなかったとしたら、今ごろきっと葡萄牙(ポルトガル)で提督、おそらく上院議員になって、共和党の倶楽部に加入して、けっきょく、――「祖国の父!」になっていたのだ……今は、このとおり、ぼくは恐ろしく異ったものになっている……(花野訳)》

 一九二一年(大正十年)十一月十四日、六十七歳のモラエスは、リスボンにいる友だちへの手紙のなかに書いた。書いて投函してから、しばらくの間、彼は悔いに似た感情に支配された。《未練たらしい》と思い《本心を誤解》されるかもしれないと考えたのだ。

 徳島に安住の世界をえた、とはいうものの、人生の歯車がどこで歪んでしまったのだろう…?…と思うこともあったし、淡く(はる)けくなったはずの母国が強烈鮮明に浮かび上って狂おしくなる夜もあった。ただ、ポルトガルへ帰ろう、と積極的になれず、提督や上院議員や大臣の席を得ようと思わないだけである。そうした夢想が、こころの片隅をかすめることはあっても、徳島におちついた尻を持ち上げる気はない。実行力と情熱――という点ではすごくおとろえている。澳門(マカオ)から、さっさと日本へ移ってきた積極性や、しゃにむに徳島移住を敢行した情熱は今はもうない。

 せめてもの慰めが新町橋畔の市川精養軒での食事である。ほの暗い、閉店後のレストランに坐って、西洋の匂いをかぎ、味わい、白髪の老婆となった妹フランシスカと、食事をともにしている空想をする、まるで、リスボンの、あの煉瓦づくりの高級食堂にいるかのように。

 フランシスカに代って、もう死んでしまったもう一人の妹エミリアが現われたり、エミリアの遺児であるジョアキンとマリア・ドウスが食卓を一緒にしたりする。ジョアキンは快活であったが、ときどき、憂愁やる方なき表情をみせる。青年だったころの、自分の(かお)をそこに見ている……、と思いつつ、ジョアキンの健啖ぶりを、モラエスは微笑を浮かべて眺める。空想の世界のジョアキンは、実に健啖であった。「おじさん、おじさん……」と呼びかけながら、よく喰い、かつ、よくしゃべる。マリア・ドウスの方はおとなしく優しい。会話の内容も知的で、母親のエミリアよりも、女学生だった時代のフランシスカのような感じだった。ふと、マリーアが忍び寄って来ることがあった。が、初恋の人妻の面影は意識的に追い払う。そのマリーアも、一九一九年(大正八年)に七十三歳で死んだ。もう二年も経っている。

 ヒレ肉を喰べながら彼は、マリア・ドウスがすでに母親になっている事実に思いあたる。しからばジョアキンはすでに青年(モオーソ)ではない。父親、そして壮年となっている。中年にさしかかっているジョアキンやマリア・ドウスは、苦心をしてみてもなかなか空想できない。

 ふと卓上をみつめてモラエスは苦笑した。三人前の料理が綺麗になくなっている。

「モラエスさん、あんたは、洋食の喰いだめができるんですかい」

 いつだったか、精養軒のおやじがあきれ顔をしたことがあるのを思い出す。<何しろ、ジョアキンのヤツが健啖なもんで……>と心に呟いたものだが、ほんとうに唇にのぼせて説明したら、ここのおやじもおれを狂人にしてしまうだろう。徳島の人たちの一部には、彼を気違い視している者がいるのだから……。

 リスボンへ帰る気力も体力もないが、妹フランシスカには会いたい……。フランシスカはこの世に在る唯一の肉親だった。そして、多くの肉親と知友が死んでいったことへ、彼の連想は移っていく。

 マシャ・ド・サントス、ジョゼ・カルロス・デ・アイヤ、アントニオ・グランジョ、フレイタス・ダ・シル、ボテリヨ・ヴァスコンセロス等の、親しかった、そして母国の政治の上層部に位置していた人びとが暗殺されたのは、十月十九日と二十日の政変によってである。ポルトガルが、共和国になって以来初めての大反乱であった。

《ポルトガルが滅んでいる。しばしば言われているように、奈落に向かって進んでいるのではない。すでに奈落そのものになっている。そして、溺死者のように、最後の苦悶にあがいているのだ……(花野訳)》

 反乱の報をきいたモラエスは、母国の友人への手紙に書いた。

 その年には、ポルトガル海軍の飛行士、ガーゴ・コウティニョとフレィレ・カブラによって、リスボンから大西洋横断飛行成功があり、冒険好きの彼の、古葡萄牙(ルジタニア)の血を、久しぶりに、そしていくらか、かきたてたけれど、祖国が奈落そのものではどうしようもなかった。同じ年、日本が日英同盟を破棄した。《日本のためにいいことだ》と彼は、『日本通信』のなかで詳しく論じた。

《共和党の倶楽部に加入して……》とか、《提督、おそらく上院議員になって》などと書くのではなかった。《けっきょく――『祖国の父!』となっていたのだ……》という痛烈なつもりの皮肉は通じないだろう。<誤解>を恐れ、<未練>を自嘲する彼のなかに、いま一つの<未練>を悔むこころが湧く。そしてそれは、すでに<誤解>されているらしい節があった。

 ――コハルシャン ノ オハッカ ヘ ワタクシ シンダラ イレテ クレマシュカ――

 と彼が言い、「え、ええ、いいですとも」と斎藤ユキが答えた取り決めがそれである。なんだか、コハルにほれ、背信をつらぬいた彼女に、まだ執着があるような印象を、彼はユキに与えているらしい。

 病みながら生きようとし、心から悔悟したかに見え、「あたしが退院したら……」と薔薇色の未来図をえがいていたコハル――小娘だった時代の《お(きゃ)んで快活であった》コハル――と伊賀町に新居を構えたころのコハル――等と、好ましい面ばかりの彼女の思い出を、組みたてたりこわしたり、幼児が積木細工に親しむような熱心さでコハルを追憶していたころ、彼女の墓が潮音寺にできた。ちょうど、「コハル」を執筆していたときであった。

 斉藤家の人びとや、コハルの伯父や伯母と一緒に、新墓へ彼もぬかずいた。

 長女の墓に祈りつづけるユキに、自分の骨を受け入れて欲しい、とモラエスは頼んでみた。ためらいがちに、ユキとユキの身辺の人たちの気持を忖度するふうにいったのは、以前、福本ヨネの墓へ葬ってもらいたいと依頼したとき、福本家のおばあさんや家族たちから、「とんでもない! お墓にまでモラエスさんの名を刻み、お寺の過去帳の、いずれ私たちの名前も載るなかへ、日本人でもないあんたを混ぜるなんて!」と烈しい口調で拒まれていたからである。

 ユキは即座に、

「え、ええ、……いいですとも」

 と答えてから、祈念のため合掌していた手をほどき、「なぜ……?」と、いった表情でモラエスを仰いだ。磨きたてた青石の色と葉桜の新緑とが映っているユキの顔は、幽鬼のような蒼さだった。その表情のなかにモラエスはいくばくかの感謝の念と、金主に等しいこの西洋人を手離すまい……、という決意が交錯するのを感じた。

「まだ、少し幼なすぎますけんど、コハルの代りに『まるえ』をお宅へ上らせまひょうか…?…」ユキが申し出てきたのは、それからまもなくであった。そんな必要はない、と彼は答えたが、一夕「まるえ」と明神さんの森のあたりを散策しながら、彼女の気持を訊いてみた。姉の後添い、という意味でならいやだが、炊事や掃除の家政婦的な仕事なら母と二人で引き受けてもいい、と、気持がいいほど「まるえ」ははっきりした返事をした。コハルとまるえでは、すでに世代が違う感じだった。それでいいのです、と彼は答えた。以来ユキとまるえは、ときおり手伝い女としてやって来るようになった。

 モラエスは、《わたしが徳島へ来たときには、二つの墓のうち、おヨネの墓だけが立っていた。そのとき、わたしの灰も、ヨネの灰と一緒に、同じ墓石に入れられたいものだと考えた。このわしの好意も、まだわしの死なないうちから、前もって母親や兄などの近親者から断られてしまった。そうして、まるでわしが、聖器窃取者か、不名誉な涜神者かなんぞのように、ひどい腹立ちでわめきちらされたものだった……(花野訳)》

 と書き、さらに、

《その後、コハルが死んで、そこが見える墓が立った。で、そのとき、わしは母親に訊いた――「コハルの墓だって、やはり、わしの灰は断りなさるんじゃろう?……」――ところが、断らない、いいというんじゃ。で、このことは、他日がくればじっこうされるかもしれないが、きっぱり言うと、こうした約束はほとんど信用のできんもんじゃ。それから、まもなくコハルの父親が死んだ。まもなく、コハルの息子が死んだ。ざくッ! ざくッ! と二度、コハルの墓が(あば)かれて、亡き人の灰のなかに、その二つの灰が加わった(花野訳)》

 と語っている。

《コハルはほとんど教養のない、性質のよくない女であったが、ぼくをいくらか愛してくれたし、ぼくというものをかなり理解してくれ、ぼくを比較的慰めてくれた(花野訳)》

 とは友人への書簡の一節である。

《彼女はずいぶん親切にしてくれていたが、後に、無分別なことをしでかしたので、やむなく、その親切を(ことわ)らねばならなかった》コハル――。

《彼女は悪い女だったし、ずいぶん不快な思いをぼくにさせたが、徳島においてぼくをいくらか大切にしてくれ、ぼくもずいぶん信頼していた、たった一人の人間だった……(花野訳)》コハル――。

 だが、《悪い女》であり、《不快な思いをさせた》コハルも今は浄化された。背信の罪の消えたコハルは、彼の内部で、彼の好みの《理想の女性》への甦りをみせて……。

「コハルの墓へ葬ってもらいたい」のは、そこから、おヨネの墓が見えるからであるが、ユキの誤解をとくのは厄介だから、《わが愛する妻よねの望める地へ葬ってもらいたいのだ》と、「遺書」にだけは明記しておこう、と思いつめているモラエスだった。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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佃 實夫

ツクダ ジツオ
つくだ じつお 小説家 1925・12・27~1979・3・9 徳島生まれ。昭和41年河出書房刊『わがモラエス伝』と、昭和44年集英社刊『定本モラエス全集』(花野富蔵訳)編集により、志賀直哉・井上靖・遠藤周作らとポルトガル「インファンテ・ドン・エンリケ勲章」受章。「定本阿波自由党始末記」などの著書がある。

掲載作は表題作の「第四章・第五章・第六章」であり、当文藝館で全編を通し読むことが出来る。