最初へ

全身芸術家・高村光太郎の実像

 今回の講演では、「全身芸術家・高村光太郎の実像」という演題で、お話をしたいと思っていますが、私は、ジャーナリストとして活動しているので、詩人でも、研究者でもない。ひとりの市井の読者として対応しているから、高村光太郎について、例えば、詩人として詩作体験を踏まえて何かを語る訳でも、評論家や研究者として、人物論を語る訳でもないということを予めご承知置き願いたい。私の話のポイントは、全身芸術家という聞き慣れないことばにあると思っていますので、このキーワードが、でてきたところは、注意して聞いて下さるとありがたいです。

 

 ジャーナリストは、間口は、広いが奥行きが無い。マージナルマン(境界上にいる人、例えば刑務所の塀の上を歩く人のようなもの。塀の内と外を視野に入れる)。専門家や体験者などの話を理解して、一般の人に判り易く伝える。専門家も、専門分野では、専門家であるが、それ以外の分野では、一般の人である。ジャーナリストというものは、不慣れな分野でも、専門家の話が判る程度には、勉強をしなければならない。それでいて、専門家が苦手な、一般の人にも判り易く伝えるという努力もしなければならない。最近は、知らないことを知ったかぶりするマスコミ人も増えて来たが、それは、ジャーナリストではない。私も、ジャーナリスト道を歩んでいるが、まだまだ、日暮れて、途遠しの感があります。

 

 しかし、私は、知っていることは、知っていると言うが、知らないことは、知らないと言います。あやふやな知識で、当て推量のようなことは、できるだけ、言わないように努めますので、よろしくお願いしたい。歳を取って来ると、若い人たちに馬鹿にされてはいけないという意識が働き、曖昧なことも、知ったかぶりをして主張しがちですが、気を付けようと、私は、思っています。ジャーナリストとは、ものごとをできるだけ客観的に見つめ、それを受け手(読者や放送ジャーナリズムの場合は、視聴者。視聴者の場合、ラジオの聴取者も入るので、できるだけ「耳だけで聞いても判る」ように原稿を書かなければならない。身近な例では、知識ではないが、ことば使いの例で、例えば、「約」ということばは、ニュース用語では、使わない。「およそ」を使う。「約20年前」では、「120年前」と聞き間違える恐れがあるから、「およそ20年前」というのが、原則)。伝えられた情報について、価値判断するのは、受け手である、という認識で、40年以上活動して来た。NHK時代は、本名で、ペンクラブでは、ペンネームで。きょうの話も、そういうことで、できるだけ客観的な情報をお伝えしたい。価値判断されるのは、皆さんであるということをまず確認しておきたい、と思います。

 

徳冨蘆花と高村光太郎

 そういう、私の経歴からすれば、伊香保所縁の徳冨蘆花より、兄の蘇峰が、ジャーナリストということで、同業者ということになる。徳冨兄弟は、兄弟仲は悪かったようだが、私も、蘇峰より、蘆花が好きです。ふたりの仲の悪さは、蘇峰の足跡を見ると、蘆花の中に兄の「表現」に対する考え方の違いを感じていたのではないかなと思います。「表現の自由」ということばは、今回のキーワードの一つになりますので、覚えておいて下さい。徳冨蘆花を記念する文学館が、伊香保にあるのは、蘆花の終焉の地ということなんですね。

 

 徳冨蘆花は、1898(明治31)年に愛子夫人とともに伊香保温泉を初めて訪れていて、1927(昭和2)年9月18日に亡くなるまで、およそ30年近くの間に、10回も来ていらっしゃる。余程、伊香保温泉が気に入ったのでしょう。伊香保温泉千明仁泉亭という旅館の離れが、お好みだったようですね。

 

 伊香保温泉と徳冨蘆花の縁は、1898(明治31)年に国民新聞に連載されて、全国子女の涙を誘って出世作となった小説「不如帰」の冒頭「上州伊香保千明の三階の障子開きて、・・・・」から始まっているそうです。小説「不如帰」は、連載開始から、わずか6年後の、1904(明治37)年9月には、東京座という芝居小屋で、歌舞伎役者の出演で、新派劇「不如帰」(徳冨蘆花作、竹柴晋吉脚色)として、上演されています。

 

 私たちの電子文藝館委員会が運営している「日本ペンクラブ電子文藝館」というデジタルライブラリーでは、蘆花と光太郎の作品のうち、これまでに、以下のものを掲載しています。

 

高村光太郎作品:

「『わが詩をよみて人死に就けり』ほか」

「暗愚小伝」

「九代目團十郎の首」

 

徳冨盧花作品:

「謀叛論」

「勝利の悲哀」

 

 詩人・高村光太郎

 このうち、高村光太郎作品の関連では、詩人の特徴を客観的に評価するために適切な高村光太郎論を掲載したいと思い、吉本隆明『高村光太郎』が欲しいと思いました。私の念頭には、若き日の吉本隆明が書いた『高村光太郎』が浮かんでいました。吉本隆明の諸作品には、『言語にとって、美とはなにか』や『共同幻想論』などの著作があるが、『高村光太郎』も、代表作の一つだと、私は、評価しています。いくつもの高村光太郎論を読んでみた結果、吉本隆明のものが、光太郎を深く分析しているように思えました。当時85歳だった吉本隆明は、ペンクラブの会員ではない。なんとか、コネクションを作って、こちらの意向を伝えてみたいと考えました。

 

 その一方で、高村光太郎の「暗愚小伝」(詩集『典型』版)を文藝館に掲載することを委員会に提案しました。この詩群は、1947年、雑誌「展望」に掲載されて、賛否を巻き起こし、さらに、1950年、詩集『典型』に所収されて、再び、賛否を巻き起こしました。

 

 高村光太郎自身で、己の育ちから、戦前、戦中、戦後までを、いわば、総括している。掲載の事情を明記した「序」では、「愚劣の典型」と自己分析している。この序文付きで、電子文藝館に掲載したいと思いました。

 

 「暗愚小伝」は自伝的長編詩(連作詩)で、戦争体験(戦争中のことだけでなく、戦争責任と戦後責任、戦後の総括まで)。戦争の讃美と戦後の悔悟がテーマです。詩人は、ことばで時代の精神をつかみ取ろうとしますが、それは、「表現の自由」な精神でなされた創作だったかどうか。時代の権力との関わり(光太郎も、戦時中、翼賛的な組織の要職に就く)が、どういう影響を作品に残したのか。

 私の読後感としては、「真珠湾の日」の「天皇あやふし」の一語が、強烈のせいか、電子文藝館編の作品群(戦争中の詩が、3編あるにしても)の読後感と、それほど大きな違いは、感じられなかったが、こちらは、自ら編した作品群であり、今回の文藝館編も、戦時中、戦後とも、当時の時代的な国民精神のありようを詩人らしく自らの直感で、鋭く、あるいは過剰に掬い取ったものと改めて、受け止めた。先達から「鞭打たれている」のは、きな臭くなってきた今を生きる私たちであるという思いが、さらに強く感じました。それにしても、よくぞ、「記録」してくれたと思いました。

 

 電子文藝館には、いま、「『わが詩をよみて人死に就けり』ほか」、というタイトルで掲載されていますが、当初は、委員会の提案者によって、「高村光太郎作品 抄」と題されていた。その後、縁があって吉本隆明さんにお目に掛かり、電子文藝館への『高村光太郎』の掲載を承諾して頂きました。掲載に当って吉本さんの作品の方は、原題通り『高村光太郎』を生かし、先に掲載してあった方は、抄録なので、吉本作品を「高村光太郎 抄」とした際に、詩を集めた「高村光太郎作品 抄」のタイトルのままでは、読者にとって紛らわしいので、私の発案で、詩などの抄録の方は、「『わが詩をよみて人死に就けり』ほか」、といういま使っているタイトルに改めました。

 

 「『わが詩をよみて人死に就けり』ほか」のうち、戦争賛美の詩「真珠湾の日」では、光太郎の天皇賛美「天皇あやふし」が、強烈に印象に残ってしまう詩ですが、戦争への参加に伴って、予想される被害から一家代々、つまり、祖先や家族を守ろうという意識が、天皇賛美「天皇あやふし」ということばに象徴されています。「真珠湾の日」を読んでみましょう。判りにくい所は、注を入れます。

 

「真珠湾の日」

宣戦布告よりもさきに聞いたのはハワイ(あたり)で戦があつたといふことだ。つひに太平洋で戦ふのだ。詔勅(しょうちょく)(天皇の命令)をきいて身ぶるひした。この容易ならぬ瞬間に私の頭脳はランビキ(蘭引・ポルトガル語に由来、江戸時代のアルコール蒸留する器具。3層に分かれている、アルコールを入れた鍋のような1層、薬缶を逆さにしたような2層、同じく蓋の無い薬缶を逆さにしたような3層、そこには、冷たい水を入れる。1層に当たる鍋を下から加熱し、2層に当たる蒸留層に上がったアルコールは、逆さになった薬缶の底越に、3層の冷水で冷やされて露となり、薬缶の口のような所から流れ出るという仕組み)にかけられ(つまり、アルコールの純度を高めるように、精神が純化されて)、昨日は遠い昔となり、遠い昔が今となつた。天皇あやふし。ただこの一語が私の一切を決定した。子供の時のおぢいさんが、父が母がそこに居た。少年の日の家の雲霧(うんむ)(もやもやとして、はっきりしないもの)が部屋一ぱいに立ちこめた。私の耳は祖先の声でみたされ、陛下が、陛下がとあへぐ意識に(めくるめ)いた。身をすてるほか今はない。陛下をまもらう。詩をすてて詩を書かう。記録を書かう。同胞の荒廃を出来れば防がう。私はその夜木星の大きく光る駒込台でただしんけんにさう思ひつめた。

 

 ここには、天皇に連なるものを守ろう、という強烈な、いや、狂信的な意識があります。「身をすてるほか今はない。陛下をまもらう。詩をすてて詩を書かう。記録を書かう。」というのは、個人的なものをすべて捨てて、天皇を守ろう。「詩をすてて詩を書かう」。個人的な詩も捨てて、近しい家族や遠い祖先とともに自分が生きる同時代そのものの詩を書こう。天皇守護に象徴される同時代に生きる国民の精神を記録しようということなのでしょう。客観的に見れば狂気の果てでしょうが、国民精神の真髄を知りうるのは、詩人の直感しかないと詩人は思い詰めていたのではないでしょうか。それは、評論「戦争と詩」で、より、はっきりします。

 

 評論「戦争と詩」は難しい漢語を羅列している作品ですが、空疎なことばで、まず、己を、そして、世間を鼓舞しているだけのような気がします。民族擁護=天皇信仰の精神を高揚させ、「皇国の存亡にかかはる真実の一大決戦」「皇国二千六有余年の意義を堂々と天下に実現するための聖戦」などと、当時の国民総動員運動の、手あかにまみれたことばを詩人が使っています。詩人自身の血が通った言葉を使っていない。時代の狂気が、詩人のことばを摩耗させているように思えます。ただし、そういうことば尻を押さえるようなことを言っても始まらないと思う。「詩精神の精粋(せいすい)(細密で美しく混じりけの無いもの)」、すなわち、「詩における『気』」という光太郎の表現は、この部分だけは、本気であろう、と思います。戦争賛美、戦意高揚の「詩精神」=「詩における気」というのは、光太郎にとって、例えば、「戦争」を「美」に置き換えれば、光太郎の詩に対する本音であろうと思います。手あかにまみれた言葉を使いながら、「置き換え」れば、「詩における美とはなにか」(純粋さの追求)ということを光太郎は必死に語りかけようとしているように思えます。悪を善と読み替えるのに似た行為なんですね。

 

 「神聖な戦争時代」には「美の高度が高まり、美の密度が加はり、しかも到る処にその鋒芒(ほうぼう)(刃物の切っ先、鋭さ)があらはれ」、「美が人間を清浄化してゆく過程」を実にしばしば目睹(もくと)(目撃)する、と光太郎は言います。つまり、光太郎のなかで、「戦争」は、「美」と同化してしまっています。「美が人間を清浄化してゆく過程」は、戦争とは、関係が無くても、戦争を美と置き換えれば、光太郎にとって、それこそ、至高のものであったろうと、思われます。戦争中の共同ヒステリを詩人はより突出してしまったのでしょう。

 

 「みづから身心に痛感しながら(これ)を口にするすべを知らない一億自身の詩に言葉を与へるためには、詩人みづからが真に戦ひ、真に行ひ、真にまことを以て刻々に厳毅精詣(げんきせいけい)(厳正にして、きちんと行き着く)を期せねばならない」。

 

 適切に表現することばを持たない一億の国民の替わりに、詩人は、詩のことばで、国民の心を純粋に代弁する必要がある。ここには、詩人としての光太郎の自負がある。そういう自負心の発露が、当時の世相のことば、権力のことばで鎧ながらも、「衣の下の鎧」ならぬ「鎧の下の衣」として、私には、透けて見えるような気がします。

 

 そういう光太郎の詩人としての精神構造は、戦後も、同じ構造のまま、正反対のことばとなって迸り出て来ます。短いので、そのまま引用しましょう。

 

「わが詩をよみて人死に就けり」

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。

 電線に女の太腿がぶらさがつた。

 死はいつでもそこにあつた。

 死の恐怖から私自身を救ふために

 「必死の時」を必死になつて私は書いた。

 その詩を戦地の同胞がよんだ。

 人はそれをよんで死に立ち向つた。

 その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた

 潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

 

 多分、光太郎は、時代の狂気や荒波に翻弄されながら、時には、先頭に立ち、時には、後ろにつきながらも、いつも、「『必死の時』を必死になつて(詩を)書い」て来たのだろうと、思います。純粋さは、ある時代では、時局に協力して、戦争翼賛となり、ある時代では、己の言動で、人を死に追いやったという苦悩となり、というところで、いくら詩人の直感で、必死に書いたからといって、それで、免罪されるものではないことを光太郎自身がいちばん良く知っていたでしょう。時代に翻弄され続けたのは、光太郎の全身、体全体が、純粋さを求める芸術家だったからだろうと思います。そういう全身芸術家としての、その自己批判の書が、「暗愚小伝」だろうと思います。全身芸術家については、詩人光太郎だけでなく、彫刻家光太郎についても、後ほど述べます。

 

 私は、藤井貞和「言葉と戦争」に所収されている論文「戦争責任論争と問題点」というのを読みました。そのなかに、藤井貞和はこう書いております。

 

 「戦争をあおりたてるような作品を書いたか、書かなかったかのレベルが問題なのではなく、作品一篇に内面の省察がどこまで深く遂げられているか、否か、ということが、たしかに、戦争責任論の核心であるにちがいない。だから、作品一篇に内省なくして、国家の詩を書きうる人は、戦後の人民の詩を書くこともできるのであって、そのようなよこすべり的文学状況が臆面もなく横行してゆくところにこそ、文学的近代の弱点が露呈されている。ひいては戦後責任の問題にほかならないのだ」。

 

 「暗愚小伝」で高村光太郎は、己の戦争責任を踏まえて、「戦後責任」をとろうとしたのだと思う。戦時中の作品を封じ込めようというのは、戦後責任の在り方に関わる問題。高村光太郎は、「暗愚小伝」で、己の戦争責任と戦後責任の2つの責任を総括したのだと思います。私は、それに注目して、それをきちんと受け止めることは大事だと思う。決して、「偉大な詩人の旧悪や恥部をさらした」ことにはならないと思う。高村光太郎は、「暗愚小伝」を再録した詩集『典型』に付した「序」を、次のように結びます。「最後の審判は仮借なき歳月の明識によって私の頭上に永遠に下されるであろう。私はただ心を幼くしてその最後の巨大な審判の手に順うほかない」。高村光太郎の遺志は、むしろ、戦争中の責任を隠すのではなく、堂々とさらし、戦後になって、いかに、それに苦しみながら、戦後責任を果たそうとしたかを凝視して欲しいということだろうと思います。そういう弱さを率直に告白した光太郎の遺志は、後世の私たちをこそ鞭打つのではないでしょうか。再び、同じ轍を踏むなということですね。

 

 旧約聖書詩編第23章ダビデの詩の引用が許されるなら、

 

 「あなたの鞭、それがわたしを力づける」ということです。聖書に書かれた「あなた」は、「ヤハウェ」のことですが、ここでは、「あなた」とは、高村光太郎のことだ。光太郎の鞭に打たれて「力づけ」られるのは、今を生きる私たちだろう、と思います。

 

 大事な問題なので、いくつか、高村光太郎の戦争責任ついて書かれた文章を紹介したい。例えば、本多秋五は、『物語・戦後文学史』で高村光太郎を取り上げて、次のように書いています。

 

 「こうした未解決の重要問題は、われわれの眼前の壁かなにかに、しかとピンで貼りつけておく必要がある」。

 

 文学者の戦争責任問題は、未解決のまま、戦後70年が経ってしまったという現実があります。問われた誰一人も、結局筆を折らなかった。追及した側も、さまざまに屈折した後、腰が砕けてしまった。文学には、決着のついていない問題がいくつもあります。文学者の戦争責任という問題もそのひとつだろう、と思います。だから、同じような課題が、いつの時代にも、文学のテーマになるのではないでしょうか。高村光太郎は、戦争中と戦後と、まさに身体を張って、戦争責任問題を提起して、「戦意高揚、戦争賛美という過ちを犯した」と後世にメッセージを残した。その課題をきちんと伝承し、私たち自身の問題として、課題に向き合わなければならないのではないか、と思います。

 

 伊藤信吉も、高村光太郎の総括について、書いています。

 

 「この詩人の落ち込んだ『暗愚』の世界や『愚の典型』は、同時にまたより多くの人々に共通するものであった。従って私どもは、なぜ時代の風潮にまきこまれて戦争の波に身を投げたかについて、むしろその根底的な原因を究明しなければならないし、二度とふたたびそこへ落ち込まぬことを考えなければならない」。

 

 草野心平は、「光太郎の生涯は矛盾に充ちた人間形成の道程だった」と詩集のタイトル『道程』を意識しながら述べ、その上で、「これ(戦争)は光太郎の全生涯のなかで最も大きな事件だった」と日本詩人全集の『高村光太郎』の解説で書いています。高村光太郎と戦争責任の関係を封印したら、高村光太郎論は、まっとうな像を結ばなくなるでしょう。だとすれば、「戦争」との関わりを抜きにして、高村光太郎を論じても、軸を抜いた独楽のようなもので、廻りはしない恐れがあります。当然のことながら、高村光太郎も、後世に作品を残している。ご本人も、作品を「封印」した訳ではないのです。高村光太郎の著作は、どこでも、読む気になれば、読める訳ですから、それを受け止めることは、高村光太郎を辱めることではないと思います。むしろ、私たちは、高村光太郎の「苦い体験」を今こそ、生かすべきなのではないのでしょうか。

 

 高村光太郎は、出自や生真面目さ、詩人の直感力から、戦争中は、時代の空気を読んで、狂気の使命感を抱き、戦後も、時代の空気を読んで、人一倍、戦争責任を感じて苦しみ、「暗愚小伝」やそれを含む『典型』で、自分なりに、総括しようとして、逆に「火に油を注ぐ」ような結果を招いてしまいました。高村光太郎は、戦後、知人宛の私信で、「時間が一切を裁断するでしょう」と書いているように、後世の判断に預けてしまおうという気持ちもあったのでは、なかったか、そんな気がします。戦争の時代を記録する作品を現在、あるいは、将来に生かすという意味で、高村光太郎の詩群は、今後とも有用に活用すべきなのではないか、と思います。

 

 そういう私の思いを、いわば、裏書きするような文章に巡りあったことがあります。高村光太郎没後50年、2006年の文章です。書いているのは、高村光太郎研究家の第一人者、北川太一。

 

 「昂進すれば盲いた理性はむしろ狂気に類する。どうすれば、容易に陥りやすいその狂気を克服しうるのか。光太郎は自らの暗愚のみならず、富国強兵と立身出世を車の両輪として推し進めてきた『この特殊国の特殊な倫理』が、如何に人間性を埋没させ、へし折ってきたかについて、告発する。光太郎一人の問題でも、此の国のみの問題でもない。歴史は螺旋を描いて変転する。半世紀を隔てて再び世界の人心は荒廃に瀕する。この詩群の暗示するものは、現に眼の前にある。ありうべき人間の生について、愛について、戦争について……。このかけがえのない人間の生の記録から読み取らねばならないことは、いまも限りない」。

 

 だとすれば、先の本多秋五の卓見通り、「われわれの眼前の壁かなにかに、しかとピンで貼りつけてお」いた「古証文」は、没後、50年以上経った、今、生かされようとしているのではないか。戦後70年の今年。この決して古びてはいない証文を生かすも殺すも、私たちの問題なのです。己の「戦争責任」を認めて、戦後も、戦争中の作品を隠さずに、時代の多くの人々に共通する問題として、苦しみながらも、総括したというように、「戦後責任」をとろうとしたのが高村光太郎です。それ故に、戦後も、国民的な詩人として、広く愛唱されたのが、高村光太郎ではないでしょうか。戦争責任を見据えながら、戦後責任を取ろうとした高村光太郎の功績を世に広めることは、高村光太郎の全体像を描こうとする時、必要でこそあれ、不要というようなことは無いと思います。そういう認識の流れは、私だけの独断ではなく、先に引用した文学者たちの言論からも、うかがわれる通りです。以下、それを踏まえて、私の光太郎像を述べてみたい。

 

 全身芸術家としての光太郎像

 掲載裏話と称して、光太郎の戦争体験(戦争責任と戦後責任の取り方)の問題を長く論じたが、私の高村光太郎論のハイライトは、実は、彫刻家としての高村光太郎論なのです。

 

 「智恵子抄」詩人というイメージは、詩人としても、光太郎の全体像ではないのです。既に述べてきましたように、戦争責任と戦後責任の取り方まで含めて、初めて、高村光太郎の全身が、見えて来ます。さらに、光太郎は、詩人だけではない活動をしました。それは、彫刻家としての活動である。

 

 光太郎は、彫刻家の父親・高村光雲(上野公園の西郷隆盛像の制作者)を批判した。嫌った。家も継がなかった。因に、高村光雲の家は、弟の豊周(とよちか)さんが、継ぎ、その後も、光雲の孫(光太郎の甥にあたる)高村 (ただし)さん=日本大学芸術学部写真学科卒業後、コマーシャルフォトグラファーとして活躍=が、住んでいました。光太郎と智恵子が住んでいたアトリエ付きの家は、光雲宅の近くにあったのですが、1945年の東京の空襲で焼けてしまいました。現在は、跡地を示す看板が、教育委員会によって掲げられているだけです。欧米に遊学し、彫刻家としては、ロダンをこそ、父と呼んだほどです。高村光雲よりロダン。光太郎は、ロダンの子なのです。詩人としてよりも、彫刻家としての方が、実力は上だと評価する人もいるほどです。吉本隆明さんも、光太郎は、彫刻家として優れていたと、私が、インタビューしたときに、おっしゃっていましたが、それは、後ほど述べたい。

 

 光太郎を詩人として、彫刻家として知った上で、光太郎の全体的な実像を結ばなければなりません。ことば(言語感覚)+目と手(視覚と触覚)の表現者=全身芸術家としての光太郎の登場です。今回の講演を引き受けたのは、彫刻家としての光太郎像こそ論じてみたいと思ったのが、本当の動機です。

 

 その場合に、興味深く読める作品として、「九代目團十郎の首」がある、と思っています。これは、電子文藝館にも掲戴されていますが、短いエッセイなので、全文を引用したい、と思います。歌舞伎や顔相の用語などに若干の注を施しました。

 

「九代目團十郎の首」

 九代目市川團十郎は明治三十六年九月、六十六歳で死んだ。丁度幕末からかけて明治興隆期の文明開化時代を通過し、國運第二の発展期たる日露戦争直前に生を終ったわけである。彼は俳優という職業柄、明治文化の総和をその肉体で示していた。もうあんな顔は無い。之がほんとのところである。 明治文化という事からいえば、西園寺公の様な方にも同じ事がいえるけれど、肉体を素材とせらるる方でない上に、現代の教養があまねく深くその風丰(ふうぼう)に浸潤しているので、早く世を去って現代の風にあたる事なく終った團十郎よりは複雑である。團十郎はこの点純粋の明治の顔を持っていて、女でいえば洗髪のおつま(注―後で、説明します)のような其の世代の標式といえるのである。五代目菊五郎についても素より團十郎と同じ事が言えるわけであるが、菊五郎の方は余りに多く俳優であり過ぎて、その現われ方がむしろ旧幕の延長として意味があり、当代の文化一般を肉体化していたような趣のある包摂的な團十郎に比べるといささか世代の標式とはなし難い。私は今、かねての念願を果そうとして團十郎の首を彫刻している。私は少年から青年の頃にかけて團十郎の舞台に入りびたっていた。私の 脳裡には(はや)くすでに此の巨人の像が根を生やした様に大きく場を取ってしまっていた。此の映像の大塊(たいかい)(大きな塊)を昇華せしめるには、どうしても一度之を現実の彫刻に転移しなければ ならない。私は今此の架空の構築に身をうちこんでいるけれど、まだ満足するに至らない。私のもまだ駄目だが、世上に幾つかある團十郎像という記念像もみな物になっていない。浅草公園の「暫」(歌舞伎の「暫」の主人公・鎌倉権五郎に扮した像)はまるで披け殼のように硬ばって居り、歌舞伎座にある胸像は似ても似つかぬ腑ぬけの他人であり、昭和十一年の文展で見たものは、浅はかな、力み返った、およそ團十郎とは遠い藝術感のものであった。其他演劇博物館にある石膏の首は幼穉(ようち)で話にならない。ラグーザの作というのはまだ見ないでいる。團十郎は決して力まない。力まないで大きい。大根(下手な役者)といわれた若年に近い頃の写真を見ると間抜けなくらいおっとりしている。その間ぬけさがたちまち潑刺(はつらつ)と生きて来て晩年の偉大を成している。一切の秀れた技巧を包蔵している大味である。神経の極度にゆき届いた無神経である。彼の第一の特色はその大きさにある。いかにも國運興隆の大きさである。彼の実際の身の丈けは今の吉右衛門よりも小さい。五代目菊五郎と並んだ写真では菊五郎の方がわずかに背が高い。その短軀(たんく)が舞台をはみ出す程大きいのである。彼は肥っても居ず()せても居なかった。彼の大きさは素質から来ている。深みから来ている。血統から、荒事師の祖先から来ている。絶体絶命の大きさなのである。團十郎の顔はぽかりと大きい。その一つ一つがゆったり出来ていて、此は(くま)(歌舞伎独特の化粧、登場人物の性根などを類型化した化粧、窓から差し込む天然の光や蝋燭の光という、電気が無い時代の不十分な灯りしかない、薄暗い舞台で、クライマックスを観客に印象づけるための表情を、いわば固定化したような化粧)取られるために生みつけられた特別製の素材(化粧のし易い、十分な広さのある顔)であった。 其上に舞台上の修練(演技)によるあらゆる顔面筋の自由な発達があった。すべてが分厚で、生きていて、円融無礙(えんゆうむげ)(仏教語。完全で、円満融通)であった。

 團十郎の顔は全体には面長である。横から見ると、後頭よりも顔面の方が勝っている。正面から見るとやや鉢開き(鉢開き坊主、鉢坊主、托鉢して歩く坊主。頭が大きい上に、面長)の形をしていて頰が何処までも長く、滝のようにつづいている。前額の高いのを除いてはこれといって目立つ急な突起は無い。顴骨(かんこつ)(けんこつの慣用読み。頰骨(きょうこつ)のこと。ほほぼね)も出ていない。下顎(したあご)にも癖がない。その幅のある瓜実顔(瓜の種に似た、色白く、中高。鼻筋の通った、やや細長い顔)の両側に大きな耳朶(みみたぶ)が少し位置高く開いている。おだやかな眉弓(まゆゆみ)(眉毛)の下にある両眼は、所謂(いわゆる)「目玉の成田屋」ときく通り、驚くべき活殺自在の運動を()った二重瞼の巨眼であって、両眼は離れずにむしろ近寄っている(團十郎家伝来の「睨み」の出来る眼、七代目松本幸四郎から血を引く十一代目、十二代目の團十郎も、その息子の当代海老蔵も、九代目の血を繋がないが、やはり眼が大きく、「睨み」は、お得意である。江戸の庶民は、新年の舞台で、團十郎に睨んでもらうと、向こう1年、無病息災と言われた)。(以下は、顔の解剖学的な専門用語が、ポンポンと出て来るが……)眼輪匝筋(がんりんそうきん)(眼輪筋=主として眼窩(がんか)、めだまのあなからまぶたを輪っか状に囲む筋肉)は豊かに肥え、上眼瞼(じょうがんけん)(うわまぶた)は美しく盛り上って 眼瞼軟骨(がんけんなんこつ)(まぶた)の発達を思わせる。眼瞼の遊離縁(ゆうりえん)も分厚く、内眥(ないし)外眥(がいし)(まなじりの両端)の釣合は上りもせず下りも()ない。そして涙湖(るいこ)涙阜(るいふ)(涙をためる下瞼の内側を湖に例えれば、その(おか)というか、岸辺のような部分か?)が 異様な魅力を以て光っている。下眼瞼(したまぶた)の下に厚い脂肪層が一度陰影を作り、それから直ぐ鼻翼(びよく)(鼻先の左右両端、こばな)の上の強いアクサン(アクセント)となる。此の目玉に隈を入れて舞台で彼が見得を切る(江戸歌舞伎の典型、荒事の出し物だろう)時、らんらん(光輝く)と言おうかえんえん(火が盛んに燃え上がった)と言おうか、又城外の由良之助(「仮名手本忠臣蔵」の城明け渡しの、城外の場面で、主君の仇討を決意する)のように奥深くじっと見つめる時、それは世紀の奥を貫く眼だ。鼻梁(びりょう)(はなすじ、はなばしら)は 太く長いが、別に高くはない。高過ぎて下品になる鼻ではない。むしろなだらかで地道である。顴骨(かんこつ)(ほほぼね)から鼻の両側に流れる微妙な肉、そして更に下顎に及ぶ間延びのした大顴骨筋とそれを被う脂肪と、その間を縫うこまやかな深層筋の動きとは彼の顔に幽遠の気を与え、渋味を与え、或時は悽愴(せいそう)直視し難いものを与える。團十郎は鼻下長(びかちょう)(鼻の下が長い)である。彼の長い鼻下と大きな口裂(こうれつ)(口の開き)と厚い唇とはあらゆる舞台面上工作(化粧?)の根拠地である。彼の口辺(こうへん)(口の辺り)の筋肉の変化と強い(しん)(眉を上げて人を見る)、唇溝(しんこう)(?→「見得」のさまでしょうか)の語るところは筆で書けない。此所は造型上でも一番手こずる難所である。とにかく清正(加藤清正)の(ひげ)は此所に楽に生え、長兵衛(幡随長兵衛)の決意は此所でぐっときまり、鷺娘(さぎむすめ)(舞踊劇の娘役)の超現実性も此所からほのぼのと立ちのぼるのである。そしてあのムネスウリ(?)も及ばないめりはりが此所から出るのである。滝壺のようにとどろく声が生れるのである。團十郎の首はまだ出来ない。

 

 詩人は、直感で、若い頃から見続けた團十郎の舞台から、この役者の藝の本質的な部分を見抜いて、ことばで表現をし、彫刻家は、團十郎という名優の顔つきを観察し、目(視覚)で、藝の本質と顔つき、表情、演技を脳裏に焼き付け、さらに、彫刻家が、手(触覚)で、脳裏に焼き付いている映像を再現するというプロセスを経て、團十郎という役者の藝論の歴史(藝の蓄積)を具体的な胸像に盛り込もうとしているということだろう、と思う。まさに、光太郎のような全身が芸術家としての機能を発揮できるような人ではないと、こういう藝当は出来ないと思います。その辺りを私なりに、分析してみましょう。

 

 まず、先の文章に、あったように、大づかみに、團十郎の顔は、「純粋の明治の顔」であって、「女でいえば洗髪のおつま」(吉田俊男著『天下之怪傑 頭山満』という玄洋社の頭山満の人物伝らしい本が、1912(明治45)年に刊行されていて、そのなかに、「怪傑頭山満対洗髪おつま恋物語」、おつまのことばとして、「頭さま」は大切の大切の旦那様、とある。当時の人は、洗髪おつまと言えば、例えば、芝居の「お富さん」のように、誰もが、知っていたのでしょう)のような其の世代の標式であった。つまり、團十郎の顔は、彫刻家の直感から、時代や世代を代表するスタンダードとなりうるような顔だと光太郎は言うのです。

 これまで、いろいろな人が作った團十郎の顔(首・かしら)や胸像は、皆ダメである。「青年の頃(から見続けた)團十郎の舞台」の印象の蓄積を一つの顔(首)に詰め込まなければ、團十郎の顔は、作り上げられない。小柄な團十郎の大きさは、顔の大きさでもあるが、藝の大きさでもあるからです。

 

 「その短軀(たんく)が 舞台をはみ出す程大きいのである。彼は肥っても居ず()せても居なかった。彼の大きさは素質から来ている。深みから来ている。血統から、荒事師の祖先から来ている。絶体絶命の大きさなのである。」と光太郎は断じました。初代から、代々の團十郎の体を通して伝えられて来た、そういう江戸歌舞伎の荒事の精粋を表現しなければ、九代目團十郎を表現したことにはならない。そういう大きさを表現した團十郎の首は、未だかつて無い。ならば、自分で作り上げよう。光太郎は、そういう決意表明をしているのです。

 

 代々の藝の精粋を表現する九代目團十郎の顔を凝視する光太郎は、顔の細部を解剖学的に分析しつつ、その特徴のよって来たるところは、團十郎代々の藝の蓄積であると見抜いたのです。先ほど触れたように、光太郎は、團十郎の顔面の筋肉などを目、鼻、口と細部にわたって、解剖学的に精査する。そして、そのひとつひとつが、荒事の「隈」という化粧や、様々な役柄に取り組んだ名優の演技の工夫の果てに、生み出された成果だと言います。

 

 歌舞伎の辛抱立役の由良之助、清正、長兵衛などの実事、あるいは、可憐な娘役の鷺娘という女形など、舞台の修練が生み出す歌舞伎役者としての風貌、そういうものが、幾重にも重なり重なりして、團十郎の顔を作り上げている。若い頃から團十郎の舞台を見続けた光太郎は、若い頃からの歌舞伎好きとして、詩人として、彫刻家として、そういう藝の印象を團十郎の顔の上に、浮き彫りにするような塑像に作り上げたいと思っている、そういう全身芸術家の血が通った文章が、全身芸術家の鋭い感性が、横溢しているように私は思うのですが、肝心の團十郎の首は、まだ、完成していない。そういう時点で、この文章は書かれているのです。是非とも、光太郎作の九代目團十郎の首を見てみたいものだと思う人は、私だけではないでしょう。皆さんは、いかがですか。どこかにあるのであれば、是非とも見たいと思いませんか。

 

 その後、智恵子の発病で、光太郎の團十郎の首作りは、中断する。智恵子の病は、当時は、精神分裂症と呼ばれたが、いまでは、統合失調症と呼ばれる。現在の治療方法なら、智恵子の病気は、治ったのではないかといわれています。しかし、智恵子は、病を深めて、亡くなってしまう。光太郎は、智恵子の発病に責任を感じて、誠心誠意、看病します。その愛情の結晶が、後に、「智恵子抄」としてまとめられる智恵子との日々を読み上げたいくつもの詩編となります。

 

 東京のアトリエには、光太郎が、己だけが作りうる團十郎の顔と思いながらも、作りかけのまま、未完成で團十郎の首の塑像が残されていました。しかし、その後、看病に追われ、手を加える暇のないまま、塑像は、乾いて、ひび割れてしまいます。最後は、東京の空襲の際に焼失したアトリエとともに、この世から消えてしまいました。光太郎作の團十郎の首は、とうとう、後世に残されなかったのです。従って、私たちは、團十郎の首を見ることが出来ないのです。私は、光太郎が、この文章の通りの狙いを生かし切った團十郎の首を作り上げる、その首を見ることが出来れば、光太郎の彫刻家としての力量をまざまざと感じることが出来たろうにと、残念に思っています。

 

 因に、彫刻家・光太郎が、残した作品では、手、裸婦坐像、裸婦像、乙女の像、父光雲像などがあるが、いちばん有名なのは、青森県と秋田県にまたがる十和田湖の湖畔に建つ「乙女の像」でしょう。智恵子の面影を残して、乙女の像は、いまも湖畔に立っています。

 

 光太郎は空襲で家を焼かれた後、1945年から戦後の1952年まで晩年の7年間を岩手県花巻市にある小屋「高村山荘」で、独りで過ごしました。その小屋の近くにある文学館兼美術館(1977年に開館)である高村記念館には、十和田湖畔の「乙女の像」の原型をはじめ、父親の高村光雲をモデルにした「父光雲像」などが展示されているということです。

 

 さらに、私たちは、この文章のおもしろさを理解するためには、九代目團十郎という人のことを知らなければならないでしょう。

 

 九代目團十郎と歌舞伎

 九代目團十郎(1838年=明治維新の30年前、幕末期に生まれ、1903年=明治36年没。1874年からおよそ30年間、九代目團十郎を名乗る。七代目團十郎の5男):明治期の歌舞伎の第一人者。「明治の劇聖」と呼ばれた。「容貌、風姿、音調、弁舌に優れ、立役、女形、敵役のいずれにもよく、時代、世話、所作事の何を演じても卓越した技芸を示した」(服部幸雄「歌舞伎事典」)。12人いる代々の團十郎のなかでも、傑出した團十郎でした。初代、二代目、四代目、五代目、七代目=歌舞伎十八番、九代目=新歌舞伎十八番、十一代目、十二代目(講演時は存命、その後、無念にも病没した)。

 

 九代目は明治期の歌舞伎の改良運動に中心になって取り組みました。歌舞伎=当時の欧化主義の風潮の中で、歌舞伎は、国劇として不十分だ、旧派・旧劇(荒唐無稽)として、演劇「改良」の対象とされました。歌舞伎では、史実を生かした「活歴(かつれき)もの」(歴史劇)が、九代目らによって作られましたが、あまり成功しませんでした。

 

 團十郎の改良運動は、不成功でしたが、日本の近代演劇の基礎を築いた、と言えます。演劇改良運動は、国劇→新国劇(島田正吾、辰巳柳太郎などの名前を覚えている人もいるでしょう)、旧派→新派、旧劇→新劇などに繋がって行きます。歌舞伎の一部も、九代目によって、洗練された「肚藝」という演技術の工夫など生かされ、歌舞伎の近代化にも寄与しました。「新歌舞伎十八番」の制定は九代目がやりました。いまも上演されるのは、「紅葉狩」、「鏡獅子」などがそうです。幕末から現代までの歌舞伎の流れを見ると、本流は、河竹黙阿弥流の歌舞伎でしょう。歌舞伎400年の歴史に繋がるのは、こちらでしょう。これは、いわば、「旧派・旧劇」(荒唐無稽)の勝利で、今日の歌舞伎隆盛は、この流れに乗った成果でしょう。

 

高村光太郎と吉本隆明

 歌舞伎の藝論だけではなく、彫刻論でも、優れた團十郎の藝談を構成している高村光太郎は、詩人であり、彫刻家であり、目も手も鋭敏な全身芸術家、ことば+目と手の表現者=全身芸術家であるがゆえに、人一倍「時代」に翻弄されました。光太郎の場合、プラスもマイナスも、きちんと見ることが大事でしょう。それが、ジャーナリストの眼。すでにざっと触れただけで、読書好きの人のために、先ほど、わざと、余り中身に触れずに残しておいた吉本隆明の『高村光太郎』論を紹介したい、と思います。

 

 高村光太郎は、吉本隆明が「近代的自我の典型的な屈服」と鋭く分析したように、当時の第一級の知性の「典型」でしたので、高村光太郎を取り上げるのは、ほかの文学者を取り上げるのとは、ちょっと違うと私は、思っています。世代は違うけれど、戦争中、軍国青年であった吉本隆明も、戦争賛美の詩を書き、光太郎にも一時心酔したし、そういう戦争翼賛の詩を書いたことをいまも隠しません。

 

 吉本隆明『高村光太郎』を読むと、高村光太郎の特質が改めて良く判る、と思います。若き日の吉本は、次のようなことを書きました。

 

 「高村の戦争の屈服にいたる過程が、日本における近代的自我の典型的な屈服をあらわしている」と。その上で、「戦争期における現代詩の全崩壊という日本的特殊性」があり、「現代詩人たちは、自我の解体、喪失を原因として、狂躁的な庶民そのものへ、擬ローマン的な屈曲と、擬ファシズム的な挫折へと追い込まれていったのである」。そして、詩人たちはそれをきちんと解決しないまま、現在に至っています。

 

 高村光太郎たちが直面したのは、「日本的な庶民性」であり、その手強さを前に、「庶民的な挫折、屈服」を強いられ、特に、高村光太郎などは、独特の「閉じられた美意識」ゆえに、「高村の超越的な倫理感は、ここに超越性の極限までおしつめられ、おしつめられたところで、積極的な主張にまで転化してい」ったのであるから、高村光太郎が抱えた課題は、決して、過去の蓋をすべき「臭いもの」などではなく、現在の私たちが、対峙しなければならない課題であるべきだ、というのです。殊に、普通の人たちよりも、言霊を操る詩人たちは、より真摯に高村光太郎の課題を総括しなければ、戦後の詩作活動は、始まらなかった筈です。特に、戦後70年、プレファショの色合いがいちだんと濃くなり始めたいまこそ、新たにこの課題に立ち向かうべきなのだと思います。

 

 むしろ、高村光太郎は、「戦争責任」を感じ、「戦後責任」をとろうとするために、「自分のような暗愚を繰り返すな」というメッセージを後世に残した真摯な人だという、私たちの思いは文学史上の高村光太郎の位置を正確に捉えていると言えるのではないでしょうか。

 

 光太郎の戦争体験から、戦争責任論を隠して、「智恵子抄」の詩人として、思い描こうというのは、光太郎の苦しくも、真摯な遺志をないがしろにするものだと私は思っています。当時、こういう人は、少数派だった。そのようなメッセージを残した高村光太郎を私は、きちんと見据えたい、と思います。戦後、文学者の「戦争責任」問題を追及した吉本隆明も、例えば、壺井繁治と高村光太郎の評価の違いについて、「自己批判しなかったのは高村ではなく壺井であり」と書いています。戦前、翼賛的な言動をしていた壺井は、戦後になって、高村光太郎批判を書いています。戦前には、自分も光太郎の横に並んでいたのに、それを知らぬ顔をして黙り込み、戦後は、そういう自分を棚に上げて、自己批判もせずに、他人事(ひとごと)のように、他人(たにん)を批判していると、吉本隆明は、こういうのですね。

 

 吉本隆明と高村光太郎の共通性。高村光太郎は、祖父、父から受け継いだ「庶民性」ゆえに、また、詩人の鋭い感性ゆえに、独自の美意識ゆえに、当時の「時代感覚」(最近の流行言葉でいえば、「空気」でしょうか)を読み切り、後世への「記録」として、翻弄される詩人の無様さを歴史に残したのではないでしょうか。東京の下町(佃島・月島)の船大工という職人の息子=吉本は、世代は違うものの、江戸の残映が滲む、東京の下町の仏像彫刻師という職人の息子=光太郎の「日本的な庶民性」を鋭く見抜いたのではないでしょうか。

 

 この吉本隆明の『高村光太郎』を読む際に、補助線となるような便利な本があります。09年5月刊行の鹿島茂「吉本隆明1968」が、興味深い、と思います。

 

 1968年の吉本隆明。1968年は、戦後のターニングポイント。特に、団塊の世代にとっては、青春期から、現在の老年期まで、吉本隆明と同伴する形で歩んで来た人が多いのではないでしょうか。そういう問題意識で、鹿島茂は、吉本隆明と自分、自分に繋がる同世代への共感を込めて、吉本隆明の思想を分析しています。鹿島によれば、吉本隆明の『高村光太郎』を分析した論が、実は、「吉本隆明による吉本隆明」論になっていて、吉本隆明は、高村光太郎に自身の影を見つけて分析しているというのです。だから、すでに触れて来たように、光太郎分析がほかの評者よりも鋭いというのです。従って、鹿島の吉本隆明論は、1968年にターッゲットを絞りながらも、吉本隆明による高村光太郎論に大幅に紙数を割いています。

 

 その分析の一つの柱として、鹿島は、「吉本の言葉を受けて、敢えて極論するならば、智恵子が発狂し、おのれのピューリファイ(清浄)願望のレフェランスを失った光太郎は、その狂った智恵子に代わるピューリファイイング・ソースとして戦争を選びとった」、あるいは、「(自我を確立させるために)光太郎が選び取ったのが、長沼智恵子にほかならなかったのですが、しかし、その姿勢自体に無理があったため、智恵子は発狂し、光太郎は、支えを完全に失って、江戸庶民的なものに回帰すると同時に、デカダンな生活をピューリファイするものとして「戦争」の力に縋らざるをえなくなったのです」と繰り返し書いています。つまり、高村光太郎的な特質は、智恵子を狂気に追いやり、自分は、時代の狂気たる戦争(戦意高揚)にのめり込んだということだろうと思います。

 

 智恵子の死に伴う、光太郎の空白感が、後の戦意高揚の詩作に繋がったという形で、智恵子の死と戦争翼賛への高村光太郎ののめり込みを指摘する評者は、ほかにもいますから、これは、高村文学を理解するための重要なメルクマールというのは、大方の共通の認識なのではないでしょうか。

 

 吉本隆明の「高村光太郎」のうち、軸となる「戦争期」「敗戦期」「戦後期」という部分は、電子文藝館でも読むことが出来ます。

 

 吉本隆明は、戦争期に自分が影響を受けた文学者のうち、横光利一の病没、太宰治の自殺(吉本は、学生時代に自殺する前の太宰に会いに行って、会っています)、保田与重郎の沈黙、小林秀雄も然り、とした後、光太郎を取り上げて、次のように書きます。

 

 このうち、「戦後期」:「ひとり、高村光太郎のみは、悪びれず戦争責任に服し、改訂すべき思考を改訂し、改訂すべきではないとしんじたものを主張したまま、文学活動をつづけ、その強靭さは、別格をなした」と吉本は言うのです。

 

 電子文藝館へ『高村光太郎』論の抄録掲載の許諾を得るために、2009年、私は本郷にある吉本隆明の自宅を訪問しました。光太郎の戦争体験について、私の考えを説明したほか、1時間あまり話をした結果、吉本さんからは快く、電子文藝館への掲載を許可して頂きました。

 

 吉本隆明インタビュー(09年11月)の印象を書き留めておきましょう。吉本さんは、当時85歳で、眼が不自由、足腰も不自由で、外出時には、車椅子を使っていました。大きな拡大鏡で、本を読んだりしているという話でしたが、記憶力が抜群で、1時間を越えるインタビューでも、何も見ずに、詳細なエピソードが語られました。光太郎の弟で、実家を継いだ豊周さんを、親しみを込めて「ほうしゅうさん」と呼んだり、知友の北川太一さんと光太郎のものと見られる彫刻、ペンギン像を東京の骨董屋で見つけて、ふたりで共有する相談をした話がおもしろかった。光太郎の筆(光太郎の字は、特徴が顕著なので、真似易いように思われる。「暗愚小伝」も、没後50年を記念して、北川太一監修で、肉筆版で出版されています。これは誤字も含めて、光太郎の肉筆のままで、刊行されている)と思える箱書きもあるペンギン像だった、という。是非とも、欲しいと思ったそうです。吉本さんから、ペンギン像の値段は、聞かなかったけれど、ふたりで出し合えば、買えない価格ではなかった、ということでした。しかし、話し振りからは安くもなさそうだった。本物かどうか、もうひとつ納得がしたいので、一晩だけ、骨董屋の許しを得て、品物を預かり、近くに住む豊周さんに「鑑定」してもらったそうです。そしたら、あっさりと、首の彫り方が、光太郎とは逆方向だから、贋作です、と即座に断定されてしまい、がっかりしたということでした。もちろん、購入はしなかった。

 

 吉本隆明は、当時、文京区の本駒込に住んでいましたが、生まれ育った佃島・月島界隈から出た後、都内を移り住みました。一部を除いて、御徒町、田端、千駄木、本駒込界隈という地域に集中して転居しています(参考。「吉本隆明の東京」という、おもしろい本があります。吉本の転居の足跡を追いかけ、吉本の業績とリンクさせているユニークな本)。吉本が、集中的に転居を繰り返したところは、本郷台とか、駒込台とかいう高台で、若い頃から散歩は好きだったという吉本自身は、左の坂を下りれば、東京の都心へ繋がり、右の坂を下りれば、下町に繋がる。そういう東京のふたつの顔を見るための中継地のような位置にある場所ばかりに住んでいたという意味のことを書いています。吉本隆明は、自分からは書いていないし、先のインタビューでも、時間が無くて、聞けなかったけれど、私の目には、吉本隆明は、高村光太郎の住居を中心にした円を描くように、光太郎という地球の周りを月のように廻っているように見えてしょうがないのです。まあ、それは、私の推論でしかない。インタビューに応じて下さった吉本さんは、表情も若々しく、体の不自由さを感じさせない、さわやかさがあった。吉本隆明は、私がお会いした3年後、2012年3月、逝去。私は、あの表情は生涯忘れないであろう、と思います。

 

 繰り返しになりますが、日本ペンクラブ電子文藝館で読むことができる高村光太郎関連作品は、以下の通り。

 

 「わが詩をよみて人死に就けり」ほか

 「暗愚小伝」

 「九代目團十郎の首」

 (吉本隆明『高村光太郎』抄)

 

 高村光太郎の命日(4月2日)は、「連翹(れんぎょう)忌」と呼ばれる。地面に垂れ下がった枝から新たな根を生やす「レンギョウ」のように高村光太郎の作品は、時空を超えて、どこからでも、私たちの中に根を生やしてくるように思います。

 

 電子文藝館では、「吉本隆明と高村光太郎が、同時に読める」という読書環境を構築しています。著者からの許諾作品と著作権消滅作品が、同時に読めるということと、高村光太郎の「戦争体験と文学」という文脈(コンテキスト。編集方針、趣向)で、作品が、掲載されているという二重の意味で、新しい試みと言えるのではないか、と電子文藝館を運営している者として思います。この講演で朗読した作品の多くは、日本ペンクラブ電子文藝館で読むことが出来ます。      (了)

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2015/07/10

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

大原 雄

オオハラ ユウ
おおはら ゆう ジャーナリスト・評論家。1947年 東京に生まれる。『ゆるりと江戸へ ~遠眼鏡戯場観察(かぶきうおっちんぐ)~』(1999年 現代企画室刊)がある。→ホームページ「大原 雄の歌舞伎めでぃあ」。

掲戴作は、2010年9月18日、日本ペンクラブ伊香保文学サロン(群馬県渋川市伊香保町の徳冨蘆花記念文学館で開催)に日本ペンクラブを代表して参加し、行なった講演内容をベースに、戦後70年の時点から加除筆して修正したものである。講演口調は出来るだけ残すように努めた。