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「二つ胴」を裁くということ ~裁判員制度と死刑~

 歌舞伎の「石切梶原」に「二つ胴」という場面がある。

 目利きをした刀の試し斬りを乞われて、囚人を二人重ねて斬る場面となるのだが、あいにく、囚人が、一人しか確保できない。牢屋から引き出された囚人の剣菱呑助が、試し斬りという「死刑」に処せられる情けなさを己の名前に因んで「酒尽くし」の科白で語る見せ場がある。「二つ胴」は、事情があって、どうしても、家宝の銘刀を売りたい青貝師(螺鈿の細工師)の六郎太夫が、囚人と一緒に自分の命を差し出し、二人を重ねて試し斬りをして欲しいと、申し出たことから、刀を目利きした、剣の達人でもある梶原平三が、苦肉の策として取る作戦なのだ。

 

 それは、こうである。いずれも後ろ手に縛り上げ、六郎太夫を下に、剣菱呑助を上に、二人を重ねて横たえた後、梶原平三は、一刀両断の剣の捌きを見せるが、囚人の胴は、真っ二つになるものの、六郎太夫は、戒められていた縄目のみを斬られただけで、身体には、傷一つ受けずに助けられる。刀も、「二つ胴」失敗と見て取った大名の代わりに梶原に買い取られることになるという場面だ。刀は、再吟味として、石作りの手水鉢を一刀両断にして見せて、目利き通りの銘刀と判る。外題の「石切梶原」の由来は、ここにある。

 

 さて、裁判員制度が、スタートすると、刑事事件では、殺人の被告に対して、裁判員となった市民は、場合によっては、多数決で死刑の判決を下すことになる。

 

 35年前、最初の記者生活を大阪で送っていたとき、司法記者クラブで、大阪・都島区にある大阪拘置所を見学したことがある。大阪拘置所のある都島区は、大阪空港の着陸コースに当たっていて、拘置所の上空を頻繁にジェット機が通過して行く。

 

 拘置所なので、死刑囚の処刑室があり、見せてもらった。ベージュ色の絨毯が敷き詰められた部屋の中央に、囚人の首に掛ける縄があり、その真下の床は、別室からの操作で、床が下に開くシステムになっていた。処刑室の前室には、仏教、神道、キリスト教の、3種類の祭壇があった。また、処刑室は、大きなガラス窓があり、向かい側の監視室から、処刑の様子を立ち会い人たちが監視できるようになっていた。処刑が実行されると、首吊り状態になった囚人の身体は、処刑室の下の部屋で、宙吊りとなるように、つまり、地に脚がつかないように、あらかじめ、処刑される人間の体重と身長の計算をして縄の長さを決めておくということであった。処刑が終わると監視室から直接降りるようになっている十三階段を下って、担当官が遺体を検死し、死亡を確認した後、阪大医学部に運ぶということであった。

 

 処刑の床を下に開く担当官は3人いて、離れた別室で、同時にボタンを押すが、ボタンは、一つだけが、つながっているというシステムになっているということであった。これが、国家が公認した殺人装置であった。

 

 こういう装置で執行される死刑という罰は、無期懲役刑などと違って、一旦、処刑をしてしまうと、後で冤罪とわかっても、取り返しがつかないという可能性がある制度だ。だから、世界の多くの国では、死刑制度を廃止し、それに代わる極刑制度を整備している。死刑制度は、処刑を中断できない制度、死刑のない極刑制度は、場合によっては、処刑を中断できる制度。後者には、人間の判断には、瑕疵の可能性があるという思想があるが、前者には、それがない。無謬という信仰と因果応報という古い思想があるばかりだ。

 

 世界各国からの、日本の死刑制度維持に対する風当たりも、年々、厳しくなっている。ところが、日本では、このところ、死刑執行も、相次いでいるし、国民の世論でも、死刑制度維持が過半数をしめている。

 

 こうしたなかで、今年(09年)から裁判員制度がスタートすると、いずれ、どこかで、裁判員となった市民が、多数決で死刑判決を下すというときが、来るだろう。拘置所の職員でさえ、誰が直接、処刑のボタンを押したか判らないシステムになっているのに、市民裁判員は、自分で、死刑判決のボタンを押したことを知ってしまう。さらに、その場合、「二つ胴」を裁くような難しい判断(胴を真っ二つに斬るのか、縄目を斬るだけで、再吟味をするのか)を迫られた市民裁判員は、確信を持って判決を下すことができるだろうか、と私などは、今から、心配してしまう。明日は、我が身であると、私のような不安感に苛まれる人もいて、裁判員になりたくないと名乗り出た人も出始めている。

 

 万が一、冤罪の場合、死刑確定囚の再審請求の叫びは、まさに、命を懸けた畢生の表現行為である。同じように表現行為を続けている文学者に取って、座視できないことである。

 

 死刑制度を考えるシンポジウムは、言論表現の自由を標榜する日本ペンクラブが主催するものだけに、そういう不安感を抱えている市民にとって参考になる視点を示唆してくれるものと期待している。第一部の瀬戸内寂聴さんの講演。第二部のパネルディスカッションでは、言論表現と死刑制度という独自の視点で、表現者らしい、目からウロコの提言を期待したい、と思うのは、私だけではないだろう。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2009/03/11

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大原 雄

オオハラ ユウ
おおはら ゆう ジャーナリスト・評論家。1947年 東京に生まれる。『ゆるりと江戸へ ~遠眼鏡戯場観察(かぶきうおっちんぐ)~』(1999年 現代企画室刊)がある。→ホームページ「大原 雄の歌舞伎めでぃあ」。

掲載作は、2009年3月5日、東京の日本プレスセンターで開催された日本ペンクラブ(獄中作家・人権委員会、言論表現委員会主催)の「死刑―作家の視点、言論の責任―」のパンフレットに所収されている。間もなくスタートする裁判員制度を前に、裁判員制度と死刑との関わりを巡る課題を提起するために掲載する。