風ここちよく
〈目次〉
杉の葉のもてなし
端 居
落葉松の径 ――病う日々の中で
風の中を
数学の日々
面接室で
寝並びて
何時とはなしに
朗読会
落葉松の径
杉の葉のもてなし
まだ学生だったときで、昭和四十一、二年ごろであった。
晩秋に郷里に行った。家が寺で、翌日にちょっとした行事が予定されていたのだが、母が急な用事で出かけたため、私がその代わりを言いつかった。
車を降りたのは夜の九時ちかくである。冴えわたる星空に、ひとり歓声をあげていると父が機嫌よく庭に現れた。
「荷物は?」
と気づかう。こちらも、しばらくごぶさたをしていたので
「だいじょうぶ」
と遠盧し、大きなバッグを抱えて、裏戸のほうへ向かった。玄関はもう戸締りが済んでいると思えたからだ。すると父は何も言わず、私の後ろを歩き始め、だんだん足早になって、私を抜き、裏戸の手前で止まった。そこにあった竹製の大きな背負い
「きょう、杉の葉を拾っておいた。あとで風呂に
杉の葉の追い焚きとは……。私は籠をのぞき、懐かしい香りを放つ葉をてのひらで撫でながら、ずいぶん久しぶりと思った。
そのころの
父は、ひとをもてなすときはたいてい、最初から自分で焚き口にすわる。法衣を脱いだままの白衣姿で、風呂場の炉の前に組んだ大谷石に、よく腰を下ろしていた。
――風呂を焚く。これにも重ねる焚き木の順がある。一番下は杉などの枯れ葉、つぎは小枝を少々、これも細いのと太めのものをとり合わせる。それから大きな
薪についてもいろいろだ。
私が幼いころは、
そのあたり浴室の炉は安心ではあるが、途中で火のようすを見ることもある。それも頭におき、とくに跳ねやすいのはやはり奥深く入れる。
一気に沸かそうとして焚き木を入れ過ぎてしまうのもいけない。ガスのようにすぐには止められぬ。その日の気温や薪の太さをじゅうぶん考え、途中で一度ほんの少し追加する、といったくらいがいちばんよいやり方のようだった。
それでも、寒い季節は「追い焚き」が必要になる。湯に入る前に自分で少し何かを燃やし、温めればいいのだが、もてなしのとき、あるいはとくに冷え込む夜などは、家族でも互いに気づかった。
何を焚こうかと思うと、そのことが暮らしの工夫の一つになり、おもしろくも思う。紙くず、木くず、枯れ葉など、温まりぐあいがみな少しずつちがう。湯に
くずかごのやや湿り気をおびた紙などは、量さえあれば温まるが、勢いのようなものがない。煙を多く出して炎を抑えてしまう。なので、こちらの期待も無にひとしい。それでも、紙として一度役目を果たしているのに、再度よく働いてくれた。
そのあたり杉の葉は……。
奥の部屋で荷物を整理していると、父の声がした。
――今ならまだ入れる。途中で……。
とのことのようだ
せっかく言ってくれるのだから、父の『もてなし』にあずかることにした。
古い家から廊下づたいに浴室に入ると、私は窓を少し開けた。冷たい空気がさっと寄せてきた。さっきの空は、と見上げると、いちだんと耀いていて、星と星がぎざぎざと線でつながっているみたいだ。思い出おおい裏山の茂みにも目をやり、閉める。
江戸時代から使っていたという黒っぽい鉄の深い浴槽は、五右衛門風呂というらしい。父は、周りをコンクリートで固め、白っぽいタイルで仕上げた。このあたりも時代性が対照的だが、この浴室は当時の父のいろいろな想いの結集、と家族の皆が理解していた。
浴槽を満たす水は地下水を汲み上げての水道で、
湯船に浸かり、この季節にこの風呂にくつろぐのは、ずいぶん久しぶりと思った。たいてい夏休みに来ていたので、追い焚きの必要がなかった。
私がはじめて、
父が山へ行ったときは、大きな背負い籠はすぐいっぱいになって戻ってくる。でも、ふだんは、母と私が散歩がてらに両腕に抱えてくるだけでかなりまかなえた。母はめったに大きな籠は持ち出そうとしなかったが、たぶん町中で育ったせいと、私は考えていた。
私が四年生のときだったと思う。ある日
「ひとりで行って拾ってきてくれる?」
という初めての母の声に、私は急におとなになった気がした。
「いいわ!」
大きな声で元気よく応えて、裏戸のそばに置いている、
山を撫でるように風がやってきては、木から木へ何かをつたえて去る。秋にはしめじが出る山だ。そのせいか、まだきのこの匂いがどこかに残って漂っているようにも感じられる。
杉は針葉樹であるから、季節を問わず、少しずつ葉を落とす。詳しくいえば葉だけでなく枝の部分も少々ともなって落ちる。長く地面にあったものは水分をたくさん含んでいるので除き、なるべく乾いたのを選ぶ。
枯れていてもそれなりに杉の香りがする。油分も残っていて、つるっとした感じも。葉の向きと逆に摑めば手を痛めるが、あつかい慣れれば自然に葉の流れに沿う。杉のことは何でも知っているつもりの私だった。
けれど、落ち葉なのだから軽いに決まっていると思っていた私は、慌ててしまった。いっぱいになった大きな籠を背負おうとすると、立ち上がれない。
「ええっ?」
と思った。一枝ずつ籠に入れたときは、重みはまったく気にならなかった。
急いで籠から戻しはじめる。八分目までの量にして試してみた。が、動かない。七分、それでもだめ。六分目にしてやっと負えた。でも、少しふらついてしまう。周囲の木につかまりながら坂を下り、どうにか家にたどりついた。
母は籠いっぱいにとは言わなかったから、たぶん、がっかりすることもないだろう、とは思った。だが、もどる道々、背で揺られ押しつまったせいか、地に下ろしてみると六分よりもっと少なく見える。半分では『いいわ!』と、さっきの気合の入った返事に似合わない。私はもう少し増やしておきたいと、籠を置いたまま、再度裏山にかけ上がった。
長い尾を引きずった山鳥が、こちらの気配にふり返る。さっき私が山を降りるのを見て、やってきていたのだろう。木漏れ日が落ちてきて、てつだってあげよう、とでもいうように、私の手もとを照らした。
両手に持てるだけ持って山を下り始めると、裏戸のところに母が立っているのが見える。半分しか入っていないのは、もう見られてしまったのだ。照れながら戻ると、母が大きな声で言う。
「こんなに背負ってきたの。さっき一度来てみたら籠が無かったので、もうびっくりして」
母もこの重さを知っていたのだ……。
後に思えば、枯れてからもかなりの
「このくらいで……」
焚き口から父が戻っていく気配がする。追い焚きをしてくれたらしい。
――浴槽の側面低く、右から左から、温かいものが泳ぎ始めた。と思うと、すのこの間からも、熱めの湯が暴れ出る。まるで、ギザギザの背をした小さな
これが杉の葉である。
もちろん、その夜の気温なども考えながら、燃やす葉の量を見定める必要はある。私の見当で焚いても、少しはそれらしくなるようだったが、父のはもう完璧だった。父が一、二枝の杉を手にして見つめれば、きっと、そこに潜む〝小龍〟も動きを止め、背の鱗をおとなしく数えさせたりするのかと想像もした。
地味な濃い茶色の落ち葉だが、風呂釜の下では金色に燃え、真っ赤になって、魚の骨みたいな形のまま、しばし静止する。それから白骨となり、粉になる。これはさらに草木灰として庭の畑や甘柿のもとなどに運ばれる。
私があずかった杉の葉の追い焚きは、このときが最後だった。
その後、庫裡も浴室も時代に沿うものに建て替えられ、住む人は、焚き木を拾いに行く手間もいらぬ。私は長く都会に暮らし、今は湯に入るにも押しボタン一つである。
それでも、自然に抱かれた暮らしの中で授かった数々のことがらは、体のあちこちに宿っていて、おりにふれ懐かしく、胸のあたりを心地よい風で満たしてくれる。
(二〇一二年)
端 居
部屋の電灯を点けようとしている母を、小学生だった私はまじまじと見つめて言った。
「あの家は、夜になるとみんな縁側にいるわ」
自分ではうまくことばにできない思いを、母に期待しているのだ。
「じゃ、そこにいればいいじゃない」
辺りを明るくし終えた母の指がすっと横を向いた。前にもまして素早い返し方に、次のことばが続かなくなってしまったが、私が立っていたところから縁側までは二、三歩。やむをえない気もした。
私は、さっきまで夕闇にかすんでいた辺りが、小さな舞台のように照らしだされた中に立って、こんなふうに、何かがぱあっとひらめいたらいいのに…、と思った。
小学校一年生の夏休み、父が私と次兄を、茨城の親戚に連れて行ってくれた。昭和二十年代で、栃木県に住んでいた。今のように家を留守にしてまで家族全員で出かけることはそうない世の中だったので、隣県とはいえ三人での旅はとても恵まれた思いがした。
その家は、父のいとこがあるじで、その親、つまり父の伯父もいた。私からいえば大伯父である。血筋は遠くなるが、子ども心にも、
その家で三泊くらいしたと思う。それからほど近い大洗海岸で一日遊んで帰ったが、私は生まれて初めて見た海よりも、その親戚の夜の縁側あたりの雰囲気に
何十ワットかの白熱球が茶の間と広間に灯っている。これは当時としてはふつうだが、それが縁側の手前半分くらいまで明かりを届けていて、そこに、父のいとこや伯父、男の子らが長い時間くつろぎ、足を無造作に暗がりのほうに向けたりしている。女たちは奥のほうにいるらしかったが、ときおり漬物などを手にしてきては、
父たちは
庭に明かりはなかったが、手前にはよく手入れされた植え込み、その向こうには、昼間みんなで遊んだあたりの木々が、闇間にも感じられた。
父の声。大伯父の語り。ときに、男の子の、私たちに海のことを教えてくれる活発な口調。まだ小学生だが、ややつくろった兄の返答。
私は、家に帰ってから、その雰囲気を再現したく、でもうまく言えず、とくべつの菓子をねだるときみたいに、ことばをかき集めては母に向けていた。その夏だけでなく、翌年もまた翌年も。そんなあるとき、まるで菓子缶の蓋が開いたかのように、母が私の手にたしかな一語を握らせてくれた。俳句に「
歳時記によれば「端居」は、夏期に室内の暑さを避け、庭の風景を見たり外気にふれるため、縁先に出て
ところがこの季語、私にはとてもむずかしく思えた。先の親戚で端居をしていた間じゅう目にしていたもののかなりが、夏の季語なのである。蚊取り線香、
苦心の末
――端居して明日見る海の話聞く
としてみたが、宿題に合わせて急いで作った句みたいで、いいたいことは何もいえてないと思った。母は、まあいいでしょう、とは言ってくれたが「小学生なのだから」と、あきらめてのことばのように思えた。
それ以来「いつかきっと」とは思っていたが、そのうち、友だちへの手紙や葉書などにも俳句を添えることを思いついたので、そのほうに気持ちがいってしまった。
平成も十九年、私は還暦を迎えた。文章を志し、随筆を選んだが、俳句への関心はもち続けている。
夏めいたある日、ふと、あの世で父母たちが私の句を待っているような気がし、歳時記の作例を開き見た。
ふるさとも今宵きりなる端居かな 鳴弦士
盆の帰省であろうか。細かい情景はないが、「心もち」が察せられる。よしんば盆ではなく、他の事情によるものであっても、夏の帰省に重ねて普遍化されていくように思う。
ひととはば端居といはな暗き縁 順子
かなり暗い所にいるのだろう。他家にいて、ふと通りかかった縁側であったかもしれぬ。涼しさに、つい明りの届かぬ所まで来て足を止める。もし「何をしているの」と問われたなら、端居と答えようと作者は言う。「暗き縁」はどんな端居かを述べるものではなく「縁側がとても暗いので」と、ふしんに思われてしまいそうな要因としてのことばなのだろう。
古庭のながめなけれど端居かな 雲平
「古庭のながめ」がなくとも涼風に恵まれ、まずまずの心地と思われる。でも、この句、こざっぱりとしていて、どこか風流な空気が漂っているように思うのは、私だけだろうか。作者が古庭のながめはないといっていても、本来、それをのぞむひとであることはつたわってくる。
歳時記を見て思うに、数ある季語のなかには、蝉とか
ふっと私の頭に、小学生だったあの夜に、またぱあっと明かりがともったような句が浮かんだ。
――父がいて大伯父もいる端居かな 生子
すぐに短冊に書き、さらに「六十歳の六年生、生子」と添えて、父母の遺影の前におく。
それから作句の理由なるものを考えた。
「父がいて大伯父もいる」というのは、ほかにだれもいないのではなく、そのふたりをとり巻くひとたちの影をも、少しは浮かべてもらえるのではないか。私が「次兄」と口にすれば、ひとは長兄もいることをたいていは想うはずだから、ばくぜんとでもその家族らしいひとの姿を浮かべてくれるかもしれぬ。
さらに「大伯父」という語から浮かぶ家や庭は古びていたり、それがしゃれた造りでもあったりなどし、風情のようなものも一緒に感じてくれることもあろう。だとすれば、あのとき周囲にあった蚊取り線香など夏の小道具についても、端居は含んでいると思っていいのではないか。そして、初めて会った大伯父なる人を、見つめている私の姿もどこかに……。
「端居」という季語を母から手渡されてから五十年。浮かんだ句は、意外にもすっきりした言葉のものになってしまったが、小学生時代ずっと胸の中にもやもやとしていたものも、すっきりとしたような気がするので、これで良いとしよう。
(二〇〇七年)
* 歳時記は、虚子編の「新歳時記」を使用した。
落葉松の径 ――病う日々の中で
風の中を
病院の玄関ちかくで、主治医のT先生をお見かけする。お若いが副院長でもいらっしゃる。
「コンビニヘいってきます」
と言うと、振り返られ
「今日は陽ざしが強いです。風も強いので飛ばされませんように……」
と、私が手にしている日傘に目を向けながらおっしやる。
入院してまだ日が浅い。体重三十六キロ少々。
玄関を出ると、風がサッと私の髪をもち上げた。ふと、この風に運ばれていく自分の姿を想像し、思わず笑ってしまった。そして、さきほどの主治医のことばに応えるかのように
「ありえます!」
と、ひとりつぶやく。
「自律神経」を病んでいる。幼いころからずっと「元気な子」だと周囲からも言われながら育ってきた私だったが、このところ何年も慌ただしい日々が続いていたので、種々の疲れが出てしまったものと思う。
しばらくあるところに通っていたが、日増しに体が辛くなる。体重がどんどん落ちる。
そんなある日、救急の仕事に携わっている方の紹介で、恵まれた病院にたどりつくことができ、信頼できるお人柄の医師との出会いが得られた。このご縁を大切にしていくことが、いちばんの療養と思い、入院もさせていただいた。
コンビニまでは数分の道だが、少々の坂をのぼる。
でも、入院して日が浅いとはいえ、二週間になろうとしている。近くではあるが、一人で外出しようという気持ちにもなれた。
入院の日のことだが、ナースステーションでの手続きなどを終え、与えられた部屋まで、兄につき添われて、荷物を下げて歩く。その時は何も気づかなかったが、少しして、今度は昼食を受けとりに病棟のロビーへ行こうとすると、足もとがふらついている。さっきは荷物も提げて歩けたのに、なぜだろうと思った。それでも手すりなどあるのでロビーへは行けた。
両手で食事の載った盆を受けとり、おそるおそる自室へ向かおうとすると、今度はふらつかずに歩ける。
つまり「荷物や、食事を載せた盆の重みが、体重を補ってくれ、そのために歩行ができていた」という状態であったようだ。
五月初旬。風に揺れる道端の木々は、
『ありえます。ありえます』
と、先刻の師との対話の続きを、大空に楽しく描きながら。
そのせいか、一人で坂をのぼっている不安もどこかに消え去っていて、あっという間にコンビニエンスストア-のあるバス通りに出た。
だが、この坂も、初めて来た日は緊張していた。私が病院から出かけようとしたとき、ナースステーションに男性と女性の二人の看護師さんがいらして、紙にコンビニまでの地図を描いてくださったり、ほんの小雨にもかかわらず、傘の用意もしてくださった。私はありがたさに感激し、きっと、その地図の紙を力いっぱい握りしめて歩いていたのだろう、コンビニに着いたとき、紙がくしゃくしゃになっていたのを覚えている。
買い物は、先の初めて来た日からずっと同じで、豆乳とバナナ。これは、私の血液などの状態から、体力がつく工夫の一つとして、主治医と話し合ってのことである。
病院には、いろいろな人がいるだろうと思っていたが、皆マナーも良くあいさつを交わしたり親しく話もする。ナースステーションの方々もやさしい。細やかなことにも気遣ってくださる。さらに、同室の人たちにも恵まれて、安心することや、ありがたく思うことの多きをかみしめながら、さいたま市内にある病院の入院生活に、日々慣れつつある。
今は、まだ風に飛ばされることも
『ありえます』
の私だが、この続きの続きは、また文章が書ける日も
『ありえます』
であるようにと願っている。
数学の日々
今日入院、という日の朝、ふと思いたって本棚の隅をのぞいた。中学生だったころの問題集が二、三冊残っている。その中から、中三の数学をとり出し、因数分解の部分を少し切りとって、バッグにつめた。
だが、病室に落ち着いてからやってみると、思っていたより易しい。もう少し後部のページを切りとってくれば良かったと思い、このことを面接時に主治医に話した。すると
「ぼくが問題をつくってあげましょう」
とおっしゃり、さっそく翌日、一枚の手描きの問題用紙を届けてくださった。十題ほどの因数分解がならんでいる。さっと眺めると、できそうなのが約半分、残りはどうにかなるかもしれないが「一筋縄ではいかない」と思われるのが、すぐ見てとれた。
今、六十四歳。久々の数学である。私はえんぴつを手に、胸がドキドキするのを感じながら、とりかかった。最初の六問は、まあスムーズに解けた。楽しい。が、残り四問に苦しんでしまった。それでも、たしかに答えといえるところまで行き着くことができた。
因数分解とは、整式などを因数の積の形にすることであるから、逆に展開して元どおりになればいいので、自分で、出来ているかどうかが分かる。
先生には、面接時に見ていただき、そして二、三日の後、また次の問題用紙をいただいた。もちろんグレードァップされている。が、怖いながらも楽しみのほうが
二回目の結果は、十三問中七問、その次は九問中七問のできだった。
それでも、たった一問を答えにもっていくまでに、五回も七回も式を整えなおしていくのもあり、自分のたどったところの文字も、日を追うごとに数式らしく見え始めてきた気がし、日々、明るい気持ちで向き合える。
こんなこともあった。私は「もの書き」なので、幼いころの思い出などもしばしば綴ってきた。ときおり人から
「小さいときのこと、よく覚えていますね」
と言われる。私は覚えているのではなく、書いているあいだに、いろいろなことが次々と
それにも似て「少々ゆくえ知らず」のように解き始めた問題でも、あれこれ辿っているうちに、思わぬことが手がかりになったりもし、結局はできてしまったということも少なくない。そんな時は〝マル〟をいただくのは、申し訳ない気がした。
問題のレベルとしては、中学三年のハイクラスのものと、高校の入り口くらいの程度であろうと思われたが、全体として、とてもバラエティに富んでいる。
先生は医師でいらっしゃるので、理数系はもちろんだが、高度な学問も最高の場で修められた方だ。その師が、数学を教えてくださっている折り、ふと俳句の話も混える、などということもあった。それも、少々前衛的な俳人の作品だったり、風流なものであったり、さまざまなのだが、ものごとの考え方がいろいろなものに通じるのを感じるので、この先生の数学はなんて幅が広いのだろうと、楽しみが倍増する思いがした。
そういえば、ある面接の折り、私が父のことを話題にし、寺の住職だったので、
私は囲碁について、難しいことはわからぬが、なぜか急にこの先生に図形も教えていただきたくなり、そういう折りがあることをひそかに願って待とう、と思った。
そんな日々、ふと気づくと、胸の辺りにしっかりとした何かが入っているように思える。病棟の廊下を歩いていても、顔を洗っていても、どこかに支えのようなものが入っている気がする。もしかすると「数学の効果」かしら……、と思った。が、外出をすれば疲れも出る。そうそう話のような訳にはいかないだろうし、
病棟の窓ガラスがしとしとと降る雨に濡れ、かたつむりが窓辺の話題になったりもする、六月半ばのある面接時、先生が
「これからは図形もやってみましょう」
とおっしゃった。
私は、待ちのぞんでいた明りが、
ふと、窓に視線を向けると、六月の雨が、いく筋も窓ガラスを伝って
面接室で
おそらく看護師長さんのはからいなのだろう。面接用の机にはいつも季節の花が飾られている。
私は椅子に掛けるとすぐ、それらの花にまつわることがらや思い出などを口にする。
人と話をするのが好きだ。また、こちらの話を聞いていただくのも嬉しい。一人でいるときには、少々の時間を、誰かと頭の中で対話している、などということも。
そんな私に、主治医の面接はありがたい。直接
といっても、いく人もの患者を担当していらっしゃるから、そう長くというわけにはいかないが、それでも、時間ぎりぎりまではこちらの訴えたいことがらに応じてくださる。生い立ちのこと、同人誌時代のこと、本を書きあげるときの喜びなどにも。
入院して数週目となるその日も、私の容体などについて報告すべきことや、お聞きしておきたいことがらが多くあって、そのほうにかなりの時間を費やしてしまった。それでも、まだ数分はいただけそうである。
そこで、少々気が引ける内容だが、短い話題を胸に
「つまらない話ではあるのですが」
と申し上げてみた。すると
「ああ、いいですよ」
とおっしゃる。
さっそく、その日のこんなハプニングを伝えた。
――今朝、病棟のロビーに、食事を受けとりに行ったときのこと。
混み合っている中、いつものようにワゴンからまず自分の名札のある食事の載った盆をとり出し、つぎにワゴンの上の箸を取ろうとした。おおぜいの人の手が伸び、箸入れに集まるので、皆、少し横向きになるなどしながら、手探りで丸い塗箸を二本
私も手を伸ばした。と、その瞬間、私が掴んだ二本を、向かいの側からも誰かが掴んで引いている。私は、はっとし、マナーとしての意味で、すぐそれを手放してしまった。そうしている間にも、ワゴンの周りにいた人たちはどんどん入れ替わり、たった今、私と箸を引きあったのはどの人なのか、まったく分からなくなった。
それはそれでいいのだが、偶然とはいえそのときはまだ数十本あった箸の中から、たった二本、ぴたりとタイミングが合い、双方から引きあったとは……。相手はどのひとだったのだろうか、と思った。
もし、よく知らない男性なら「すみません」、女性なら「あら」などと笑みをかわし、これを機に、親しくおしゃべりをするなどということも。あるいは、その後何年も友人としてのつきあいが続く、ということにも。
これをじっと聞いていてくださった先生
「この話、あなたならどうコメントし、どうまとめますか」
とおっしゃる。
私はふと、こんな言葉を思い出した。
――この世には「選択肢」はたくさんあり、いろいろな「ケース」というものも考えられるが、「人生」はただ一つしかない。
テレビなどで耳にしたことばだったと思う。
で、この『人生』の部分を『事実』に替えれば、先の一件がまさにこれを象徴しているように思われます、と、まずは応えた。そして
「もしかすると相手は男性で、こちらが女性であるのが見えていたので、ばつの悪い気持ちもあり、さっさと行ってしまったということも。いずれにしてもこの一件、一笑に付するつもりだったと思いますが、なぜか食事の間じゅう、先の場面がくり返し頭に浮かんでいたのではないでしょうか。……理由は……私がそうでしたから」
と言ってから
「それまでの人生、それぞれにちがいますから、私がそうであったことは『参考』にはなっても、一例にすぎませんね」
と加えた。
「ついでに、あなたの頭には、先の場面がなぜ繰り返し浮かんだのでしょう」
とのさらなる問い。
「やはり一度きりの人生の一
この日は、これで時間切れになってしまったが、平易に見えることがらでも、文章にするには陰に理屈が必要だ。そして、そこにはものごとをよく整理しながらつきつめていく、数学的な楽しさもある。
先生はその日の私の状態に合わせ、時間のかぎり理路に
夏に向かう病棟の窓辺で「対話とは……」などと、遠くを見やりながら考えたり、五冊目の本をイメージしている自分に気づくようになった。
寝並びて
一部屋に患者四人が一緒なのだが、それぞれのスペースが、カーテンで仕切られている。その一人一人のカーテンによる個室は、ゆったりとした広さがあり、ロッカーや床頭台なども大きめである。二か月、あるいは三か月と入院する人も多いので、落ち着いて療養できるようにとの、病院側の心配りなのだろう。
それでいて、隣の人とはカーテン一枚の所にベッドを並べているが、これは互いに横になりながら話ができるちょうど良い距離で、低めの声でも楽にとどく。
くもりガラスの窓を
「そろそろ陽が傾きかけたようですね」
などと声をかけると、返事がある。そして、しばらく、たわいのないやりとりなどしているうちに、いつしか二人ともまた眠ってしまったり、ということも。
南に向いている窓。その遠くから、ときに野鳥の声が聞こえてくることもある。そんなときは、窓を大きく開けたいところだが、その辺り、病院はそういうわけにもいかぬ。耳を傾けてはあれこれと野鳥の姿を浮かべながら、いつしかまた眠りに落ちていく。
その朝、私はふだんより早く目が覚めた。
もう一と月以上枕を並べた隣のひとが、退院していく日なのである。もちろん、病院を出られる時刻は日中なのだが、なぜとはなく気がせくような思いがした。
「今、何時なのだろう」
と明けつつある窓に目をやる。すると黒っぽい鳥が、窓ガラスの上の方を、一瞬、翼で軽く叩くようにして、よぎっていった。
私は急いで、これを短歌の形にしたく思った。
烏影が窓のガラスを横切りぬ寝並びし友の退院の朝 生子
何時 とはなしに
主治医のT先生はお若いが、副院長でもある。とても気さくでいらっしゃるので「一度お会いすれば、患者がすぐ安心してしまうような先生」との声をよく耳にする。
でも、院内を歩いていらっしゃる姿はきびきびとしていて、一分たりとも無駄にはなさらない、という感じでもある。私から見ると、そうした〝時間の蓄積〟というものもおありだからなのだろう。日々お忙しい中、ときおり入院患者を対象に病棟のロビーで、コンサートのようなものも開いてくださる。
私が数か月入院していた間にも二回ほど、T先生がピアノやギターをお弾きになり、その伴奏で、さらにお若い先生方三人が、今
T先生のピアノは、さりげなく弾かれているようだが、心地よい音を奏でる。歌のほうを受けもつ先生方は、みな笑みをたたえながら、いいお声で歌っていらした。
そんな日々の中、あるとき、主治医から、私の「朗読」を皆さんに聞いていただくのはどうかというお話をいただいた……。
じつは、六月も終えようとしていたころ、私はT先生に、あることを希望した。
長く病んでいるので、声が出なくなってきている。学生時代から、よく朗読をしてきたので、どこか声を出す練習ができる所があったらお借りしたい、と。
その結果、天候の良い日の屋上を、日に少々の時間で、数日間。さらに、屋上に一人では危険ということで、付き添いの方までも、とのことである。
これだけのことを可能にしてくださった師の尽力が、私にとってどれほど力にも勇気にもさらなる希望にもなるか、六十四歳の私には理解できた。ただ、それを張りのある声や、心の内を表すにふさわしい言葉にして、はきはきと伝えられないのが、このときの私であった。
でも「練習ができる」、という嬉しさに、さっそくその日から始める。が、声はほんとうに出なくなっていた。それでも、今の内に手当てをという願いが実現しつつあるだけでも、胸がドキドキしてくるほど嬉しかった。
「外出」として次の日曜に家に行き、詩集など持ち帰ってくる。
とはいえ、ビルの屋上は広く、私の弱々しい声は風にまき散らされてしまう。それでも久しぶりの発声なのに、胸のあたりだけは落ち着いている。何よりも、気持ちがいい。ほんの基本を始めただけなのに舞台の幕開けでも待っているような気分になれる。うまく声が出せずとも、こうした気持ちになれることを、先ずは望んでいたのだと、少々自覚をし直し、改めて師に感謝した。
だからと言って「皆さんの前での朗読」となると、後どれくらい待っていただけばよいのか、そんな日が来るのかと、ちがう世界にいるような気もしなくはない。 「とんでもございません」
と申し上げた。
すると、師は
「心的負担になってもいけないので」
と、気遣ってくださる。
私はさらに少々の日にちをいただくことにした。
とはいえ、結論はすぐに出てしまった。
『やはり、病気の身なのだから、お断りする』
そうなると、気が楽になったのだろう。
頭の中で、勝手に「朗読会」なるものを想像し、あれこれ楽しんで過ごし始めた。
――読ませていただくとしたら、この詩とあの詩。あの詩のクライマックスは、とくに発音をきれいに「
と、そんなことをしているうちに、もしかするとほんとうにやれるかもしれない、という気がしてきた。そして、次の面接時に
「結果を気にせずに、やらせていただこうと思います」
と言ってしまった。
後にふり返ると、心のどこかで「数学からいただいているパワーも生かせるから」と考えていたのかもしれない。
「作業療法」ということばがある。
私はこれまでやってきた数学が、私の中で、この作業療法のように効果をあげてきているのを、このとき確信し始めていた
朗読会
演目は、おもに私の希望で、エミリー・ブロンテの詩から『愛と友情』、二冊目の自著から「タヌ吉より」。そして北原白秋の詩『落葉松』を最後に、と決まった。
『落葉松」の詩は、T先生もお好きなご様子なので、日々の感謝をこめ丁寧に読みたいと思った。
約束の日があっという間にやって来、病棟ロビーの椅子やテーブルが、職員の方たちによって会場らしく整えられる。
病院であるから、えんえんと打ち合わせなどしている暇はない。それでも、T先生からこの日に至るまでのことなどもまじえ、ご挨拶がいただけた。
――縁あって、今日ここに皆さまとご一緒し、この会を開くことになりました……など。
私は自分の気持ちがとても乗っているような気がし、最初の詩を立ちあがって読み始めた。もう完全に暗誦はしているのだが、それでも詩文の紙だけは片手にして。
――愛は野ばらのようで、友情は
柊は、野ばらが咲くときには黒っぽい。
だが、どちらが変わりなく咲き続けるか。
野ばらは、春に美しく、その夏の花は風に匂う……
と、思わぬことが起きた。体がガクガクする。震えというのとも少し違う。もう少し大きな振幅で、まるで、昔の夜汽車にでも揺られているみたいだ。でも、短い詩であるし、次のは椅子に掛けて読もう、やはり私は病気なのだから。そう思い、詩文の紙を、他方の手におもむろに持ち替えると、なんだか気も少し楽になったように思えた。
次のは随筆なので少し長い。一呼吸して椅子にゆっくりと座り、詩とは雰囲気を変えて始めた。若いうちは、声を張り上げて読むのが好きだったが、いつからか、小説のようなものの、地の文を大切に、雰囲気をもって読みたいと思うようになった。今、声の出方は足りないが、闘病中であるから、これも許していただこうと考えると、笑顔も戻ってくる気がした。
拙作の『タヌ吉より』は、次のような内容である。
戴きものの「陶器のたぬきの置きもの」をどこに飾ろうかと、あれこれ思案しながら持ち歩いているようす、そして、玄関のドアのそばに決めたこと、それによって、訪ねてくれる人たちの様子や表情が変わってきたことなどを綴り「笑顔はお腹を空っぽにして満面にたたえるべし」とまとめたものである。
途中で声にして笑ってくださった方もいらしたので、病人の朗読にしてはホッとして終えることができた。
それに、患者の昼休みの時間とはいえ、看護師長さんをはじめ、ナースステーションのスタッフの方々まで、少しずつ時間をやりくっては聞いてくださったのには、とても励まされた。
あとは、北原白秋の詩『落葉松』を読ませていただくことだ。いくつもいくつもの落葉松の林を過ぎて、落葉松を見、旅を思い、人生を考える。詩人、北原白秋の有名な作品である。
「からまつの……」「からまつの……」と、幾度も繰り返される詩文は、さわやかなリズムを生む。情感もあり
読み終えてから、聞いてくださった方々と、少々の対話の時を持った。私は次のようなことを言った。
――ふつう、風景などを
が、途中、浅間嶺にけぶり(煙)が立っていて大空に消えていくのが見える。その景色は、落葉松のまたその上なのだという。先程まで林にすっぽりと入っていた旅人だったが、大宇宙があることを、読む者にもしっかりと意識させている。
さらに聴覚として、林にふる雨の、聞こえぬほど静かな音。逆に、かんこどり(かっこう)だけが鳴いていて、その声は美しくはっきりと聞こえる。そのことによってかえって林の中が、とても静かであることを伝えてくれている。
そして「世の中よ、あはれなりけり。常なれどうれしかりけり」のことばを、胸にしっかりとおさめ、流れる
私は朗読の後に、これだけのことを声にできるとは、思っていなかった。
「何か質問のようなものがある方?」
と言ってしまってから
「えっ!私に、まだそんな力が残っているの?」
と思ったが、最初の詩のときとはちがい、声がとても楽に出てくる。やはり、数学から〝本物のパワー〟をいただけたように思える。
落葉松 の径
「あなたにとって、落葉松の径とは?」と、
松をあっさりとさせたような色の枝には、細い細い葉がびっしりと
その林に踏み入る自分を浮かべてみる。きっと、枝枝に触れ、幹に掌をあててたくさんの対話をするだろう。
松の
白秋は、その〝
私も、自分の「落葉松の径」を探そう、ふとそう思い、いえもう既に歩いていたのかもしれぬ、今のこの日々が、私の落葉松の径なのかもしれぬ、と考えた。それならば……。
そろそろ八月に入る。退院まであとひと月足らず。それまで、どの日をも大切に過ごしたい。
朗読の会が終えてから、主治医にはまた数学の続きを始めていただいている。師のお陰で、数学はもう「日課」というか、食事の一部かと思うほど、私の日々に定着してしまっている。
図形に入ってからは、周囲のものを、久々に意識して立体的に見つめるようになった。それは、同時に、ひとつひとつ平面にして見つめることでもあるから、その立体の〝解体作業〟なるものも必要となり、それも楽しんだ。
「円」も好きである。違う図形とぴたりと組み合っているときの美しさ。それらは、落葉松林の木々たちが、大空に向かって、何かのサインを送っているようにも思えた。
朗読も、声を出さぬ方法で、それらしいことを続けている。師をはじめ、屋上での練習に付き添ってくださった方々の言葉や、当日、会場で、私の朗読を聞いてくださった人たちからの声を
師と話し合った結果、最後に歩く私の「落葉松の径」は、病院の正面玄関から、ふだんのようにすぐに道路に下りるのではなく、まず反対の方向へ出発して、
「小鳥の声を聞きながら歩くのは癒されますよ」と師。私のほうも、野鳥を愛する会に加入している一人だ。
そこをとおり、視界の開ける小径に出る。そこまではほとんどが上り坂だが、ふと、明るい所へ出たときのさわやかさ、これも、落葉松を思い浮かべる。
八月末の処暑の日のころまで、ウォーキング用の靴で、落葉松の詩を口ずさみながら、心楽しく歩いた。立秋はすぎていても日射しはまだ真夏のようなので、日傘を手にして出かけるが、ときに横路や茂みに入ったりもし、八○○メートルくらい歩く。
そして、正面玄関にたどりつくと、病棟は階上なのだが、ナースステーションの方々の心やさしい声が聞こえてくる気がする。
病棟に戻った私は、次の面接時に、歩きながら考えたことなどをよく主治医に伝えた。
「昨日はモーツァルトのヴァイオリンソナタ四○番が浮かんでしまって、第二楽章ばかり頭の中で繰り返していました。きっと木々たちも、あのような音楽が好きなのではないでしょうか」
「田舎で生まれましたので、久々に大きな樹に近づきましたら、懐かしい苔のにおいがしました」
「木々に掌を当てたり声を掛けますと、木が喜んでくれるように思います」などと。
そして、これらにいただける師からのお言葉は、ひとことでも宝ものに思えた。
そうしているうちに、退院の日がやって来、私は荷をまとめる人となった。
――この四カ月に良くなったところ、治りつつあるところ、病気そのものについての知識。数学の日々、朗読のとき。院内の作業療法室で、パステルなどを使ってカレンダーづくりをしたことも。体重も二キロ少々増え、ほぼ三九キロになった。
それに週に数回の、師の面接。おりおりにいただいたたくさんのお言葉――。
荷は膨らんでずっしりと重く、良い四か月であったことを、しみじみと思った。
数学や朗読はもちろん、私が歩いた道はどれもみな、師が導いてくださっていた……。
『
大きなバッグを閉じようとすると、私の肩ちかくで、ふと、聞き馴染んだ師のお声がした。
「処暑を過ぎた風には、落葉松の気配のようなものを感じませんか……」
ふりむくと、しゃれた俳句の話でもしてくださる時のような笑みを湛えていらした。
(全篇二〇一二年筆)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2015/02/18
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