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声ひそやかに

《目次》

   一

   春めくまでも

 秋の初めの強い日射しを背に感じながら、ふと迷ったが、やはり実行することにした。一日も早く窮屈な椿の下から、少しでも広いところへとり出してやらなければ……。私は大きめの四角い鉢を用意した。

 庭によく、種々の実生を見つける。そんなとき、移植をしたり鉢にとるなどしている。小鳥が種を運ぶ場合が多いので、ふさわしくないところに生えてしまうことがしばしばだからだ。まるで日の当たらない植え込みの中だったり、玉砂利だけでつくった枯池、あるいは物置きへの通路上ということもある。

 どこであっても、南天や棕櫚(しゅろ)、青木、千両、万両といったものが元気そうに生えているのを見ると、あいさつでも交わしたいような楽しい気分になる。同時に、この世に先に生まれてきた者として、彼らのうまく生きられそうな場所を考えてやりたくもなる。

 今、鉢に移そうとしているのは、生えて数年になる青い実をつけた万両である。移植は梅雨の時期がふさわしいが、そのころはまだ丈もあまりなかったので、見過ごしてしまっていた。気づくと椿の下枝と交錯している。以前にも、やはり秋口、五葉松の下から同じように実をつけたのを植え替え、うまくいったことがある。そのときのように、根の周りの土も一緒に大きくとってそっくり鉢に入れようと思い、雨後の庭にかがんだ。

 昨夜来、どれほど降ったのだろう。私の想像を超える雨量のようだ。土がずいぶんやわらかい。大きく掬ったつもりだったが、砂も混じる土がみるみるシャベルからこぼれ落ちる。小鳥の足をながながと伸ばしたような恰好の根が、(あらわ)になった。落とした土を急いでかき集め、鉢に入れる。けれど、根と一緒に掬ったときの半分にみたない。自分で調合した培養土らしきものを加えて根もとを固めた。

 秋は乾きが早い。水をたっぷり与え、鉢を木陰に置いたが、翌朝には葉が少し萎えたようになった。朝に昼に夕に、雨の日をのぞき水をやり続ける。が、一週間が過ぎても元気になるようすなく、また枯れるでもない。二十あまりの実を提げたまま、思いがけない現実にじっと堪えているというようすだ。

 何日か天気のいい日が続いた。見ると、実のつけねが赤くなっている。果物なら(へた)とよぶ部分だ。万両は葉の下に実を垂れているから、木陰でも傾いた日射しなら受けることができるのだろう。枯れてはいないことの証とほっとした。

 木はこれから実を真っ赤に染めて際立たせ、一つ残らず小鳥についばんでもらわねばならぬ。鳥たちの消化器で種となり、いろいろなところに運ばれ、落とされて芽生えるからだ。

 土が気になっていたのでいくぶん替えたいと思い、新たな培養土を用意する。鉢の四隅から、前に入れた土を少しとりのぞき、新しいのをいっぱいに入れた。そして、根に気をつけながら、竹べらでそっと混ぜた。

 けれど、それから半月ほどしても木は元気を取りもどすようすなく、葉も萎えたままである。

実はやや赤味をおびてきたが、ほかのにくらべ地味すぎる色あいだ。ドライツリーとでもいおうか、まるで私が、干し草めいたものにわざわざ仕立てようとしているみたいだ。

 鉢にとり上げたことを悔いたが、良いすべが浮かばぬ。そのまま木陰に置き、日に何度も水をやりに行っては向かい合った。大きな角鉢がいたずらに重く見え、その重みが私の肩や腕から力を奪いとっていくような気がした。

 

 ひと月、またひと月と過ぎた。野鳥の餌の乏しい冬を迎え、株立ちの千両などは、もうにぎやかにすずめらに囲まれている。以前に五葉松の下から移した万両も、じょうずに染めあげた実を庭石のそばに並べて、小さな果物屋、いえ、小人の世界のちょうちん屋だろうか。一つ売れるごとにふえる(から)になった柄が、誇らしげに見える。

 なのに……、この木ばかりは、艶のないあずきのような粒を携え、永遠の生枯れとでもいう姿だ。いっそ、実をとりのぞいてしまおうかと思った。

 だが、草木も、生き物としてとても繊細であるようだ。音楽を聞かせて育てるひともいるという。

万両も同じだろう。人間の手と鳥の気配は区別がつくかもしれぬ。実があるからこそ木も頑張れるということもあろう。それに、挿し木などにくらべ、実生は樹勢がいいと聞いてもいる。そのままにした。

 年が明けて少しすると、野辺がいちだんと乏しくなったようで、庭に小鳥の数がふえた。けれども、この木にはいっこうにやって来ない。目に止まるよう、いくぶん日も射すところへ移してみた。それでも、暗い色のせいだろう。ふりむいてはもらえぬ。

 生えた場所がもとで、みじめな恰好にさせられ、堪え続けなければならないのは、自然に生まれてくるものの(さが)かと、ふと思う。が、性というなら、椿の枝と押し合い続けたり、通路上で痛められながらも、踏ん張っている姿のほうが、ずっと似合いそうな気がした。

 

 一月末のある朝、雨戸を開けると、辺りが真っ白である。少しだが雪が積もった。

 玄関のドアを押して万両のほうを見ると、すずめが二羽、鉢から飛びたった。出てみると、実が減っている。それに、残りの実の鮮やかさ……。

 野鳥の餌のもっとも厳しい時季、万両は雪景色を背景に、力ない葉も真綿で隠し、下げ続けてきた宝ものをひたすら際立たせて見せている。

 この日、木はすべての実を小鳥にあずけた。そして、辺りが春めいてきたころ、枯れていった。

 

 私はふたたび鉢に向かい、長い日々をよく堪え続けていたと、あらためて感心した。秋の初めの思いがけない事態から、春めくまでもずっと枯れずにいた力、これこそ実生の性というにふさわしい気がした。

   つばめ

 秋の野に立つと、ふとため息をついてしまったりする。

 八月には毎年、田や畑の上空で、たくさんのつばめが夕方おそくまで飛ぶ練習をしている。その彼らがみな、何千キロという南の島まで、ほんとうにゆきつけるだろうかと、考えてしまうからだ。

 

 八年ほど前だった。

 家の玄関の外壁に、つばめが巣をつくった。新しくではなく、何年か前のをつくろって営巣しはじめたのである。

 ところが、ひなが飛びはじめたころ、その巣がこわれてしまった。一羽、しりごみしていたのがいて、それを親鳥が無理につれだそうとしたせいらしかった。

 私は脚立をもちだし、すぐ修理にとりかかった。ちょうどドライフラワーなど飾るための小さなざるを買いもとめていたので、それを壁にくくりつけ、中に敷いてあった土と羽毛を移し入れる。すると、彼らはとても喜んでくれたようだった。それまで家の前の電線に並んでじっとこちらを見ていたが、親鳥と四羽のひな、それに仲間らしいのもつぎつぎと降りてきた。私の肩すれすれのところまできては、蝶が舞うように何度も羽をひらひらとさせていく。

 つばめはしばらくそこで暮らし、そして巣立った。私は、巣も中の土も羽毛もそのままにしておいた。

 翌年の春、おおぜいの仲間と一緒に彼らもやってきた。庭に出ている私を見つけ、何羽かが肩すれすれのところまで降りてきた。羽をひらひらとさせていく。

 けれども、道路をはさんで家の前にある大きな木に、尾長が頻繁にやってきていたので、たぶんそのせいだろう。つばめは尾長のようすをしきりに気にし、わが家ではなく、数軒離れた家に巣づくりをはじめた。小さな鳥は大きい鳥に巣をおそわれることもあるようだ。

 それでも、しばらくのあいだ、ときどき二羽でもどってきては、家の玄関で夜を明かしていった。私はよく、夜明けとともに飛びたっていく声を耳にしては、小さな命と身を寄せあって一夜を過ごしたことを実感していた。

 翌年もまた翌年も、彼らはくるたびに同じようにした。どれがあのときの親でどれがひなだったか区別はつかぬが、七年たっても再開のセレモニーはかわらないので、私は春がくるのがとても楽しみだった。

 

 ところが、八年目になる今春はちがった。家の玄関の付近に何羽もがあらわれたが、肩までやってくるのはいない。毎日、いく度か家の前に出てみた。

 するとある日、私を見て降りてくる、(つがい)と思われるのがいた。でも、肩ではなく頭上すぐのところで翻り、例の巣のほうへいく。

 一羽がその巣のそばの、ざらざらした壁に吸いつくように縦に止まった。斜め下から見あげると、目を閉じている。動かない。まるで木彫りの小鳥を、背を前にして飾ってでもいるようだ。もう一羽は見張り役らしく、やや離れて止まり、周囲にしっかり気を配っているようすである。私もその場に動かずにいた。

 三分も経ったろうか、見張り役の促しで彼らは飛び去った。

 この一羽、じっと目を閉じて、何をしていたのだろうか……。

 私は、ひとりよがりにならぬようにと、いろいろな場合を考えたいと思った。けれど、ただひとつしか浮かばなかった。――今年は、私の肩まで降りて来るのはいなかったので、家の巣で生まれた四羽はみな、つばめの生涯を終えていると思われる。もちろん、その親たちも。

 で、壁に止まりじっと目を閉じていたのは、先の四羽のうちのいずれかの子で、彼は、いえ彼女はかもしれぬが、おそらくこの近くで生まれ、この巣について、ことのあらましを親から聞いていると思える。その親が亡き今、人間なら墓参りにも似た気持ちで、この場所をいとおしんでいったのだろう。そして、私がそばにいるのをじゅうぶん意識したうえでの行動は、自分がこの巣にゆかりあるものであることを伝えたかったのではないか……ということだ。

 まるでちがうケースをすっと浮かべることができれば、秋になってもため息をついたりせずに済むのにと考えもするが、相手が何かを伝えようとしているときは、やはりこちらも精いっぱい分ろうと努めなければ、と思う日々である。

   つみ草

 子どものころ、田舎に住んでいて、よく春の野に出て草つみをした。芹、土筆(つくし)野蒜(のびる)、もち草といったたぐいである。

 みつ葉なども、日々の食卓につかうものは、畑ではなく野にあるのをつむのがふつうだった。

今、店に並んでいるような茎の長いのではない。手をひろげ内側を上にして地面においたような恰好をしている。瑞々しくとても香りがいい。野蒜は、一、二本、その場で皮をむいて試食もした。

玉葱に似たピリッとした香りがして、春の光が稲妻みたいに体の中に射しこんでくるような気がした。

 芹つみを始めるとなぜか雨もようになる。麦わら帽子をぐっしょりに濡らしながらざるを満たした記憶ばかりがよみがえってくる。

 もち草は草餅にするだけでなく「おひたし」にしてもいただく。他の野菜にはない海苔にも似た香りがして、上等である雰囲気を漂わせた。

 

あるとき、ざるいっぱいにもち草をつんで家に帰ってくると、縁側に、近所のおばさんが来ていた。よく家の台所など手伝ってくれるひとで、私も親しみをもっている。おばさんは私を見ると、ここでつくってあげよう、と言ってざるを受けとった。

 私の母は、町中で育ったせいか、家の中ではこの「つくる」ということばはあまりつかわなかった。それらしいこともしてはいたようだが、水洗いのほうに時間をかける。

 でも、近所のおばさんたちはよく、つくる、つくるといって、この仕事をとても大切にした。

 子どもだけでつんでいるときなど

「もち草つんで、ごみとってすてろ」

 と、歌みたいなものを口ずさんだりしたが、この「ごみとってすてろ」をていねいにやるのがつくるということのようだ。

 

 もち草をざるから出すと、縁側に小さな山ができた。小さいといっても、おひたしにして五人の家族が二日にわたりたっぷりいただけるほどの量だ。その一本一本を手にして、まずごみらしいものを除き、根もとについている黄ばんだ葉や黒ずんだのをとり、根を切る。

 縁側には「ごみの山」と「つくり終えた山」と、どんどん小さくなる「これからの山」が三角形をなし、それらのバランスが少しずつ変わっていく。

 おばさんの手はよく動いた。

 私は、じゃまをしているのか手伝っているのか、自分でもわからないようなペースで、おばさんを真似た。

 途中、何かで家に入り、しばらくして戻ってくると、これからの山がすっかり消えて「つくり終えた山」と「ごみの山」がきちんと並んでいる。

 ふと、そのごみの山に目がひきよせられた。まるで、和紙に書いた手紙の文字などをちぎりとったような色や形の山で、こざっぱりとしている。こんなきれいなごみがあることを、はじめて知った。

 仕事とはこういうものかと、しばし見入る。

 

 その後、おばさんへの親しみの気持ちの中にも『尊敬』という山ができ、これは今もこんもりとしている。

   しだれ梅

 庭の小さな枯れ池。そのふちに、やはり小さな、膝くらいの丈に仕立てたしだれ梅を一本植えている。枝が池の中に垂れるよう、いくぶん傾けて。

 今年はその木に五つほど実がついた。さて、これがみのったら、もぎとるのに、これまた小さな梯子(はしご)が必要かと考え、ふと口もとが緩んでいくような気がした。

 

 私がこのしだれ梅を植えたのは、生家でのありし日の父の姿が、瞼にのこっているからである。家の横手に四角い池があった。おもに暮らしのためのもので、刃物を研いだり、鉄瓶の下洗いなどに使っていた。それでも、四角い池の四つの辺のうち三辺を草木が囲んで、ささやかだか庭の形をなしていた。洗い場のほうからみて、正面にしだれ梅、右に胡桃、左に川柳を、それぞれの主木として。

 胡桃のある側は池に沿って土を高く築いていた。落ちた実が池水のほうにいかぬようにである。

川柳は猫柳ともいわれる銀色の芽を吹くもので、水辺によく映る。そしてしだれ梅は、ほとんどの枝を池水に垂らしていた。

 問題は、このしだれ梅である。私の祖父の時代から実の収穫があったらしいことも、父から聞いている。

 私がこどものころは、家の裏にあった大きな梅の木が盛んに実をつけるので、それ一本で、一年分の梅がほぼまかなえるようであったが、それでも父は毎年おなじ凝ったやり方で、この梅の木に近づいていた。

 梅と胡桃のある二辺の角ちかくに水平に梯子(はしご)を渡し、そこから、も一つ短めの梯子を縦に水の中へさしこむ。その水面すれすれの段に足をおいて実をもぎとる。どんよりと曇っていても、かならず麦わら帽子を頭にのせて。

 私は、胡桃よりも柳よりも、実をつけた六月の梅が、梯子という簡素な道具にとてもよく似合うのを感じながら、よく背戸のあたりから見ていた。

 小ざるに二はいくらいの量であっても、父は梯子を終日かけおき、客の応対や他の用事をしながら、何度も池に行っては少しずつざるを満たす。私は毎年このようすを見ているうちに、趣のようなものを感じながらも、なぜこんなにしてまでこの木から実をもぐ必要があるのかと、ときどきふしぎに思うことがあった。

 このころはまだ戦後の混乱期で、おとなたちは日々緊張して暮らしているようであった。父もたいていのことがらにはこわい顔でのぞんでいたし、一日じゅう働きづめというかんじでもあった。

 ところが、近年になって、兄たちと思い出話をしていたおり、長兄がいきなりこんなことを言い出した。当時の暮らしはたいへんだったけれど、自然の中での作業は楽しむところもたくさんあったはず、と。

 私は、このことばに、真っ先にしだれ梅の光景を浮かべた。そして、苦労のおおい父だったが、もし楽しんでやっていたのであればと、願うような気持ちであれこれふり返った。が、どうふり返ってみても厳格なひとで、客人を迎えているとき以外、笑顔を見せることがない。日々の暮らしの中で何かを形にして楽しんでいたとは信じ難く、まさかという思いにかき消されてしまっていた。

 ただ、最近、家の枯れ池のそばに植えた先のしだれ梅が実をつけるようになってから、私の、父についての見方が変わってきたような気がする。

祖父のほうは古き良き時代に趣味おおく暮らしたようだが、短命で、父が十二歳のときこの世を去った。それだけに、父にはその残像というものが強く心にあるだろうから、もしかすると梅をもぐ光景もそのひとつで、父はそれを故意に再現させていたのではなかったろうか、と。そうきめつけてしまうわけにもいかぬが、今、ただひとつ言えるのは、心に消えぬ姿であれば、多難な状況の中でも私ならきっとそうする、ということである。

   初 霜

「げたでもだいじょうぶかしら」

 そう言いながら母は、少し歯の長い高めのを履き、裏戸を開けた。初霜が降りているらしい。父は何も言わずに見送ったから、いいということだったのだろう。

 その日は日曜なので、とくに来客があるかもしれないといって、母が茶の間に花を活けようとしていた。戦後まもないころの生家でのことだ。

 家の横の裏山ちかくに、空き地のように山野草の生えているところがある。それらにまじって、白菊のひとむらもあり、母はそれを好んでいるようすだった。

 十一月の初旬で、庭に花が少ない時季である。けれど、赤っぽいものも何かはある。雑草とともにみだれ咲いている白菊が、客人のために飾られるにふさわしいとは、私には思えなかった。それでも、真っ白な霜の上を歩いてみたく、ズックの靴をはいて母を追った。

 母はかなり足場が悪そうなところにかがんで、倒れている菊を何本か起こし、無造作に霜を少しはらった。そして、百人一首の白菊にちなむ歌を、私に念おすように口にする。

「これが、初霜の置きまどはせる白菊の花、よ」

 と、まず言い、それから

「心あてに折らばや折らむ、ね」

 げたの足をふらつかせてから立ちなおり、最初の部分を言う。

 まだ小学校の三年生くらいだった私だが、母の影響でこの歌だけはおおよその意味もわかっていた。が、そのとおり「心あてに……」では、もてなしの花とはいえない気がする。何かしゃれたことばを母に返したい気持ちになったが、ズックに水がしみ込んでくるばかりで、何も浮かばぬ。すると

「今日は初霜だから」

 と母が言い、心を決めたように鋏の音を響かせた。

 母は、その菊を台所で簡単につくろうと、水のたれる切り口の辺りに手をあてながら茶の間に向かう。茶の間には、時々つかっている渋い緑の花瓶が用意されていた。水も満たされている。そこへすっと入れ、両手でさっと直すと終わりである。文字どおり投げ入れという感じだ。

 私は、母が出ていった茶の間で、ただ白っぽい菊の花びらから、溶けはじめた霜が雫になって花瓶の縁に落ちていくのを見つめながら、もの足りないような思いでいた。

 その日、やはり来客があった。

 東京で活躍しているらしい日本画の絵描きで、父の友人でもある。父母らはいつも「雲海さん」と雅号で呼んでいた。たいてい黒っぽい和服姿で、外を歩くときは、風雅をたしなむひとによく見るつばのない帽子を載せている。年に何度か見えるが、親たちがこの日を予期していたというわけではなさそうだった。

 私が茶の間にお茶をはこぶと、雲海さんはいつものような装いで品よく座り、父と母にりんごの描きかたについて話していた。

 詳しいことは覚えていないが、最近りんごを描くときは、外側ではなく内部からかくつもりで筆を動かしはじめることにした、という内容であった。そして、それがすむと近況らしいことを少し口にしただけで帰っていった。

 

 そのときはただそれだけのことであったが、後に、私はこのひとときを、よく思いだすようになった。

 昔ふうの地味な色彩の茶の間に、灰色がかった白菊がなにげなく瓶に挿されていて、空間にぽっかり、紅いりんごが浮かんでいる。そして、そのりんごは、思い出すたびに鮮やかさを増す。

それにつれ、あの日の茶の間には、あの白菊が何よりもふさわしい花だったと思うようになった。

   夕べの悲しみ

 雨の止むのを待って、ふだんより遅く買いものに出た。

 信号を渡り、公園に沿った道を行くと、電線にすずめが三羽、並んで止まっている。なぜかみな首をたれ、じっとしたままだ。

 近づくと、真下に、たったいま車にひかれたらしい一羽が落ちていた。平らといっていいほどにつぶれている。電線の三羽は、その親や兄弟なのだろう。すずめが人間のように首を落としているのを、私は初めて見た。が、こうした悲しみは、ひとも鳥もおなじなのだろう。

 すずめは、夕方になると一か所におおぜい集まる。互いの無事を確かめたり、情報を交わしたりしているらしい。

 ちょうどいま、そのだいじな集会の時間なのに、三羽は動こうともしない。こんなとき、彼らの欠席を仲間に伝えてやるすべはないものかと思った。

「服喪中のため」

 と。

   日暮れを待つとき

 北風が吹き荒れた翌朝である。

 家の周囲を掃いていると、すずめの死骸がふたつ、枯れ葉に混じって落ちていた。雛であるようだが、かなり大きい。ともにやせ細り、同じかっこうで重なりあったままだ。巣にあったのが昨夜の突風で巻き上げられ、地面に落とされたのだろうと思えた。

 すずめは秋口にも営巣することがあるが、それが、育たなかったのかもしれない。ただ、小さいうちの死骸はよく見るが、親に近い大きさになって二羽一緒というのが気になった。事故は雛ではなく、親鳥のほうだったのではないかと。餌を探しに出たまま、何ごとかあって戻れず、その結果飢え死にした子らとも考えられる。

 家の屋根には、絶えず二、三の対が住んでいる。いまさらではあるが、雨樋(どい)のあたりを見まわした。

 渡りをしない留鳥の彼らは、こちらの日々の暮らしをとてもよく見ているらしいので、それなりに意識をして接している。

 私が、陽が傾いてもベランダに寝具や小物など干し忘れていると、屋根や庭木のあたりで彼らが騒ぎたてることがある。最初のうちは偶然とばかり思っていたが、度重なるので、もしかすると、と考えるようになった。小鳥も、長雨のあとや寒い季節には、よく羽を陽に当てているから、人間が干しものをするゆえも分かるのではないかと思いなおした。そればかりか、最近は

「いつも、ありがとね」

 などと、友だち気分の声を返しながらとり入れたりしている。

 それにつけても先の不運な巣は、このような彼らの(ちか)しい仲間だったのかもしれないと不憫に思った。

 

 その日の夕方である。私は、庭の水道のところに、思いがけず長くしゃがんでいた。植木の鉢カバーを洗っていただけなのだが、汚れがいっこうに落ちない。うす暗くなってきたのでやめて一晩バケツの水に浸しておこうかと思ったりもしたが、毎朝いろいろな小鳥が水を飲みにくる。彼らの文字どおりの井戸端会議の場でもあるので、バケツにはいつもきれいな水をみたしておくようにしている。

 夕闇の中に沈むように背を丸くしていると、ふと、小鳥の声がした。見上げると、そばの庭木にすずめがいて、こちらを見下ろしている。目線があっても逃げずにいるから、屋根にすんでいるものの一羽で、ひと日を終えて戻ってきたのだろう。小鳥が人間にそうそう用事があるわけもないと思い、手を休めずにいると、神妙な声でまた何かいう。まさかとは思ったが、どうしたのかと訊かれている気もした。ベランダの干しもののことなどから考え、日暮れになっても家に入らずにいる私を心配してくれたのかもしれぬと、洗い終えぬままの鉢カバーを手に玄関へ向かってみた。と、すずめも、さっと屋根に消えた。

 小鳥の多くは、入り日の少し前になると、電線など一所でにぎやかに集う。たがいの無事を確かめたり、情報を交わし合うなどするのだと、本で読んだことがある。

 私など、何ごともない日がつづいていると、つい、この平穏がいつまでもあるような気になってしまいがちだが、身近なところに囀っていても、彼らは一日一日の無事を深く喜びあいながら日暮れを待っているのかもしれないと思われた。

   二

   雪 柳

 雪柳が風になびくのではない。なよやかな枝が風をみちびく。

 三月の半ばを過ぎるころ、春の花を待つ人々の前にそっと開きはじめ、そよ風をとり入れて、みるみる真っ白な世界をつくる。じっと声をひそめたままで。

 ときに髪飾りにもしたくなる。白であるがゆえに、細やかであるがゆえに、どんな装いにもきっと似合う花だ。

 ミルクのような甘い匂いが漂うと、どこからともなく蜂が現れ、蜜を吸う。この花にぴったりのとても小さな蜂だ。彼らは決して花びらの色や、枝をわたる風の邪魔をせぬ。目立たぬ服で訪れ、群がることもない。

 毎年、春の花が咲きそろうほんの少し前に、木と、春の風と、小さな蜂との堅い約束が咲かせる花、雪柳。

   糸 蘭

 広い庭の塀ちかくに並べて植えられていたり、築山のふもとにぽつんと立っていたりする糸蘭。幹と思える部分に、蘭科らしい細長い葉をぎっしりと装っている。

 夏には、人の背丈を超すほどに花茎を伸ばし、先を細く円錐のような形にして、鈴みたいな、小さい提灯みたいな花を、きちんと並べてたくさんつける。青空のもと靄のかかったような青緑の葉と、羽二重のような花の色がやわらかく調和して、すがしい。中世の貴婦人を思わせる姿である。

 日本にある蘭のうちではかなり大きいほうと思われるが、あの広大な北アメリカが原産地らしいので、わかる気もする。鑑賞用として日本にもたくさん植えられているのだろう。いろいろなところで見かける。

 大きさと姿から、庭での植えかえのときなどは、糸蘭が誰かに手を引かれ、その場所までそろそろと歩いていくのかと思いたくなる。よく似合う長い手袋をはめたままで。

 近づいて、葉にかかる白っぽいベールのようなものをよく見ると、一枚一枚の葉の縁から、白い糸をたくさん垂らしている。これが糸蘭といわれるゆえんだが、ファッションということばも浮かんでくる。

 この花に近寄る者のたのに、伏兵の用意のあることも忘れるわけにはいかぬ。葉先に鋭い針がついている。よく、その家のあるじが気づかって、庭の、人の通る側だけ、葉の先端を切り落としていたりする。

 花をつけてきちんとドレスアップした糸蘭のお嬢さんには、その切り落としぐあいが、多すぎるようにも少なすぎるようにも思われ、その微妙なところに生じる不満を、やや体を傾けて表現したりしている。でも、彼女らは決してはめを外すことはない。美しい姿・形を守ってくれているのは、針だけでないことを知っているからだ。

 

 公女みたいな糸蘭は、いろいろな自覚のもとに、伝統的な羽二重に似た白を、今日も守り続けている。

   柏あじさい

 柏あじさいを数枝、隣人からいただいた。真っ白で、もくもくとしている。

「柏」というのは、葉の形が柏に似ているからだそうである。もくもくとしている一面だけを見ると、西洋あじさいのようでもある。木も同じく株立ちだ。

 

 けれど、ふつうのあじさいとのちがいは、ここからである。

 やや短めの藤の花房を浮かべてほしい。それをボリュームたっぷりにふっくらと描く。つぎは上下を逆にして、空に向かって花房が伸びていくようすを想像しながら、全体を真っ白に塗り替える。白い絵の具をどんどん追加して、もくもくと。――そう、これがアウトライン。

 いちばんの芸は「花びらのように見える部分」にある。

 

 じつはこの柏あじさい、庭にあるのを切りとってくださった隣人ご夫妻の話によると、私が花といいたい部分はほんとうの花ではなく、花に似せて蝶や蜂を招く役目だけをするものだそうである。で、ほんとうのは、と訊くと、そのすぐ下にあるあわだち草のつぼみみたいな点々ぶつぶつとしているのがそうだという。この意味では額あじさいも同じだろうが、(しべ)などあってふつうの花としての仕事をする部分と、咲いているように見せる部分が、それぞれ独立して営んでいるわけである。でも、逐一「花びらのように見える部分」というのはやっかいなので、ここでは、美しく見えるほうを「花」「花びら」と呼ぶことにする。

 

 柏あじさいのいちばんの芸は、この花びらにある。

 咲きはじめのひと枝を真似て造ってみたい。あなたもいっしょにどうぞ!

 ベースはやはりあじさい。西洋あじさいのよく開いているのを二、三本、まずお借りしてくる。つぎはこれを白く染めあげる。ここで、藤の花房のように長くつなぎ、風にあてながらさらさらと自然な向きにしておくのを忘れずに。

 今度はそのひとつひとつの花の上に重ねる美しい小花を造る。白い紙とよく切れる鋏と、糊の用意を。

 花弁は四枚。でも、小さな蝶みたいにかわいらしく見えるように。それを、描いては切り抜き、切り抜いてはまた描く。あるていどの数ができたら、ベースのあじさいの花にひとつずつ浮きあがるように糊でとめる。それぞれの花が二重になるわけだが、見る角度を変えると三重にも思え、ちょっと悩んでしまいそうに。

 えっ、造るほうが悩みたくなる、ですって。先に悩んでしまうのも方法。

 花の数は、少なくとも二百は数えたい。たったひと枝を仕上げるにも、食事をぬいてしまうくらいの覚悟でないと。なにせ、こういうのが数十本あつまってひと株となり、いくつもの人影を隠してしまうほどのスケールの木とつきあっているのだから。

 途中でリズムが乱れそうなときは、ひらひら、ひらひら、と口ずさみながら手を動かしていくと、きっとうまくいく。

 そうそう、その巧妙な細工の上に、そんなふうになめらかさをひと歩きさせると、できあがりである。

 が、できあがったとはいっても、これはほんの咲きはじめである。花らしきものは、この上にさらにもう一重、少し経つとまた一重とかさなり、七重にも八重にもなる。そして、役目を終えた順に、ちいさな葉っぱみたいに色づいていく……。

 

 さあ、耳を澄まして、柏あじさいの声を聞いてみたい。

 できたてのその枝を、もっと近づけて、息をとめて。

「――これらの芸をよく見てほしいので、私たち、色は真っ白にしたの」

   白百合

 ささ百合、てっぽう百合、カサブランカの大輪。そうしたものいずれでもいい。白い花びらの百合であれば。

もう、ずいぶん前、もし私が××××、顔のそばに白い百合をおいてね、と身近なひとにいったことがある。この世の最期の日に、顔を埋めるにはふさわしい花と思っている。

 色で選んだのではない。香りと花の形である。でも、この花の形には白がいいと、たぶん彼女らが思ったのだろう。ささ百合、てっぽう百合、カサブランカの大輪、これらは角度を替えて見ても、図案化しても、決して平面的にはならぬ。だから、白でいいのだ。だから私も、結果として白を選んだ。

 けれど、そうした場合だけでなく、ひとを祝福したいとき、だれかに感謝しているとき、自分が祝われているときなどに、これらの花をふりむくひとは多いだろう。

 素直な気持ちでいたいときに似合う花のひとつなのかもしれない。

   白 椿

 大きな茅葺き屋根の中ほど近くまで、その木はあった。

 枝や葉が密集していたので、幹は目立たなかったが、かなり太い。

ふつう、白い花が咲く木は葉も浅い緑で、幹も白っぽくあっさりとした感じがする。けれど、この木は同じ色あいでも堂々としていて、大空にまっすぐに伸び、花も大きな八重咲きだ。

 昭和二十二年の三月、第四子次女の私を生んだ母は、産後の日々を、咲きはじめたこの木に、いろいろなことを語りかけながら過ごしたという。長女を戦時中に失い、戦中戦後の混乱の中で、まるで経験のない日々を強いられ、これから先どうなるのかもわからぬままに私がうまれたそうである。

 

 母は娘時代、生け花を習っていて、椿を扱うのが好きだったので、将来自分に女の子が生まれたらこれをイメージし、長女は一枝、次女は次枝としようと思ったことがあるという。

 けれど、町中から田舎に嫁いできてすぐ、庭先の、家から手が届きそうなところに咲く大きな白椿を見て驚いてしまったらしい。庭の主木ではないのに、見上げるばかりに大きく、枝がいくえにも重なってこみ入り、一枝も次枝もなく、ただもう敬服するばかりだったという。

 

 その日から十年あまり、私を生んだ三十七歳の母は、これからの世に娘をどう育てればいいのか、どう育っていくのか、日々、この白い椿に問いかけていたという。若いころ考えていたことなどは、まるで役に立ちそうにない時代を迎え、疲れの残る体で。

 そんなある日、実家から母親が訪れたので、満開になっていたこの木のそばに誘い、私を抱いて並んで立った。するとその母親、つまり私の祖母が、この子はここにこういう木があるのを、あたりまえのように受けとめ、これらのもとに育っていくだろう、というようなことを言ったそうである。

 ほんとうにそのとおりで、後に母からこの話を聞くまでは、庭のそこにこの木があるのは、ふしぎなことではなかった。また、戦争が終わってまもない世であることも、社会が何かと荒んだところを残していたのも、母が健康を害しはじめていたことも、目の前に存在していた条件のようなものはみな当然というのか、ここにあるこういうものとしてうけとめ、他の状況の下にある場合などほとんど考えずにいた。そして、自分の内に湧いてくる力に、たくさんの希望を抱き、子どもなりに現実とむきあい、戦後の復興の中を歩いていた。

 

 白椿は、山椿とちがい、庭木として長い時間をかけて丹精される。これを好きな花として挙げるひとも多いだろう。けれども、単にこれが好きというより、忘れられぬ光景やたいせつなひとの面影とともに想い描かれることが、他の花よりずっと多いのではないかと私は見受けている。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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青樹 生子

アオキ ショウコ
あおき しょうこ 随筆家。1947年栃木県那須郡(現大田原市)の生まれ。武蔵野文学賞佳作賞受賞。おもな著書『うす青い真珠』。

掲載作は、『うす青い真珠』(2006年5月近代文芸社刊)に初出した作品から、日常的な内容のもの7篇と「白い花の抄」5篇全てを抄録し、総題を付した。

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