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記憶たずさえて

  筍

 雨あがりの午後であることが多かった。

 父は、作業衣に着替えると、たいてい

「この鍬」

 と指だけさし、せっせと歩きはじめる。後から私がそれを提げて追う。小学校二、三年生の身におとなの使う鍬は重い。何よりも形がよくない。まっすぐに持てば、刃先が足にぶつかる。私は、持ちにくさをそのまま全身で表現しているといった格好のまま、父との距離をつめようとする。

 父は歩くのが速かった。それでも、追いかけているうちに、目にぼんやりと、庭すみの草々が勢いを増しているのが映りはじめる。もち草の群れが、季節を終えほっとしているという顔つきで、こちらを見上げている。雑草に混じるみつ葉は、掌を上にするしぐさで、緑濃きを誇っていた。

 父の行く先は、裏庭の奥である。裏山からはみ出たような雑木の林が、しだいに孟宗竹の群れになっていて、その辺りに庭の小道が入り組んでいた。そこに、家のようすをうかがうように顔を出す(たけのこ)を、父はよく掘り起こした。

 父は小柄で、身動きも軽々としていたが、足を病んでいた。右(もも)の辺りで、若い時分の外傷なのだが、当時の医療では完治できぬものであったらしい。元気なときは、傍からは障りのあるように見えなかったが、重いものは持たぬようにしていた。といっても、これはあくまで家族ののぞみで、父にとってはたてまえみたいなものだった。

 実際にはそうとばかりもいかないようで、しばしば疲労を溜めこんでは化膿させていた。坂の多い道を自転車で外出することもよくあったから、そんな後は湿布薬を貼り、幾日かじっとしている。すると、すぐまた元気になるようであった。

 が、後に思うと、このころも確実に病魔は体を侵し続けていたようである。寺の住職なのだが、経をあげる時、しだいに足をくずし、横座りのような姿勢をしたり、腿の下に小ざぶとんをあてがうなどするようになった。私が高校生のころ、化膿物があふれそうになったといって、そう()してもらうための入院をした。それでも病魔はいつしか骨髄に達し、七十を過ぎてから、金属を埋め込む手術を受けるに至った。

 雨あがりの匂いがする裏庭に立って、鍬を手渡すと、父はねらいをさだめ、ひと振りする。と、瑞々しい土が辺りに飛び散り、筍が供えもののように地面に寝る。白い根もとに並んで生えはじめている小豆(あずき)つぶのような根がつやつやとしていて、まるで爪を染めているみたいだ。その一片が、私のスカートに飛んできたりもする。

 父は明治生まれで、声の大きなひとなのだが、こうした作業のときは、一言も発せず、ただ黙々と手を動かす。だから私も黙って従い呼吸を合わせた。

 今度は父が鍬を提げ、私が筍をかかえる。重さはほぼ同じだが、(くりや)に急ぐのである。もち草もみつ葉も無視して小走りにもどり、(よろい)のような皮をむきとって母に渡す。若やかな竹の精は、掘り起こされてから十数分で、夕餉の鍋の具となるのであった。

 私が筍掘りについて行った最初の記憶は、たぶん、四、五歳のころであったと思う。まだ庭に芽ぐむようすはなく、畑中の道をたどって行く竹藪だった。母も一緒だったのを覚えている。竹藪の入口に大きな山椒(さんしょう)の木があった。掘り起こした筍を父が抱えて家に急ぎ、母が鍬を、そして私は山椒の芽を摘んで父を追った。大鍋でさっと茹であげ、山椒味噌で刺し身のようにしていただく。戦後すぐのころであるから、これだけでも御馳走というに十分だった。

 今、都会で皮つきのを求めて料理するとき「えぐみ」を米ぬかで処理すると聞いているが、じつはこのえぐみというのを、私は知らなかった。掘りたてをすぐに料理していたためと思うが、土質のせいもあったのかもしれぬ。そうした味を全く感じることなく、大鍋いっぱいの山の幸を、二日もかけておいしくいただいた記憶ばかりだ。ずっと後になってから、兄たちとの思い出話のおり、米のとぎ汁を使うこともあったのだと聞かされたていどである。

 私が進学し郷里を離れてからも、五月の連休によく帰省して、筍を掘ってもらった。そのころになると、父は昼間も和服で過ごすことが多くなっていて、庭に出るときもそのままだった。裾を少しめくるていどで草履をはく。土間すみの道具置き場に私を呼び「これ」と指すのは、以前の鍬ではなく、芋掘り棒に変わっていた。「芋」とは、あのまっすぐで長い山芋のことである。それを掘る鍬(?)は、数センチの幅の板のような刃先に、やはりまっすぐな柄が長くついていた。ふり下ろすのではなく、ここぞと思うところに、ぐっとくいこませる。と、獲物は、おもむろに私の足もとに寝ころんだ。

 筍はしだいにしのび寄り、もうこのころは裏庭ではなく、家の横を少しずつうかがっては近づいてくるようだった。

 父は、掘るとき手間をかけぬ。私の目にはぽつんと生えたように映るものでも、父には地下茎が見えていたのだろう。ある時、周囲の土をかき分けて、地下茎に繋がっているところを見せてくれた。まるで、足をくずして経を読む父みたいに横座りの格好をしていた。

 父が、足に金属を埋め込む手術を受けたのは、私がもう親の庇護のもとにない状態になってからである。手術前、いく日にも渡って検査が続いていたので、ふと思いたち、ベッドのそばで筍の話をしてみた。店で皮つきのを求めてしまうと、えぐみの処理がうまくできない、と言うと

「いろいろ工夫してごらん」

 とだけ言って笑みを浮かべたままだった。

 長時間にわたる手術が終えた後、二人の兄と担当医師を訪ねた。すると、ちいさな壜に納められた奇妙なものを見せられた。父の患部からとり出したという。竹皮にも似たまだらなうす茶色のもので、きのこがくずれたような形をしている。医師は、これから時間をかけてよく調べてみるつもりだとおっしゃった。が、それがどういうものであったかについては、いまだに聞く機会がないままである。

 その後、父は、杖を手にすれば歩けるまでに回復した。そして数年前、長寿と思える八十八歳でやすらかに逝った。

 ただ、われわれ兄妹は、戦中戦後の混乱期に育てられている。手術後、医師に見せられた奇妙なものをふり返ると、当時、父が必死で吸い取ってくれていた、暮らしに(まと)う、えぐみのようなものに思えてならない。

 

 

  白い実のサイン

 冬のあいだ、玄関の前に二鉢の万両を並べおいた。以前から家にあった赤い実のものと、秋に入手した白い実の品種である。

 何年か前までは、万両がみのると、庭に来る小鳥が暮れのうちにぜんぶついばんでしまったのだが、このところ実のなる庭木がほかにも育ってきたので、少しは長持ちするようになった。彼らも、全体をバランスよく失敬することにしたみたいで、まるで、これまでの十二月決算が、三月に繰り下げになったようなのである。

 紅白の鉢は、実の数をほぼ同じくらいつけた。

 一月半ば、赤のほうだけ数粒消えた。二月に入って、同じく赤が半減した。だが、他方は最初と変わらない。小鳥らにはみのっているようには見えないのだろう。

 家の庭には、これまで、白い実のなる木がなかった。幼いころは田舎で暮らしていたのだが、しゃれた品種はたいてい父が扱っていたから、さしたる記憶もない。これなら、来年からは白ばかり並べおこうか、などと考える。

 けれど、見方を変えると、小鳥の餌になるのは悪くない。彼らの消化器をとおして、いろいろな所に種が落ち、芽生えるからだ。

 実をつける庭木というのはたくさんあるが、やはり多いのは赤だろう。目立つ色はどんどん小鳥の餌になり増えていく機会にめぐまれる。青木や南天も双方の種類があるが、どちらを多く見かけるかはいうまでもない。

 生家にも南天はたくさんあったが、白いのは一本だけだった。北西に向いた裏庭の、めったに人が行かぬところに、青白い顔をして肩を寄せ、ひそひそと何か相談し合っているような姿が、ぼんやりと浮かんでくる。

 そういえば、あるとき、白い南天は咳やのどの不調にいいとひとから聞き、母と、小鳥のようについばんだことがあった。といっても、房ごと切り取り水洗いをしてからである。洗うとき、一粒一粒の側面に、うす茶色の頬紅(ほほべに)のようなものがついているのに気づいた。青白い顔だったはずなのに、いつのまにこんなものをつけたのだろうとふしぎに思い、指でこすってみた。が、落ちない。母に尋ねると、よく熟れるとこうなるのだろうと言うので、同調しながら、これといった味のない実をしきりにかみしめた日の記憶がよみがえってくる。

 二月も末ちかくなった。玄関の前の鉢は、赤いほうだけ実が全く無くなった。一粒も奪われていない鉢が、少々気の毒に見えてくる。

 --このままでは、コンクリートの上に落ちることになる。こうした場合、人間の手が加えられなければ、種は役目を果たすことができないのだろうか--

 そんなことをぼんやり考えていたある朝、はっとさせられた。白万両の実が、みな頬紅をさしている。子どものころ、生家で、水洗いをしていて気づいた白南天さながらで、そっと筆でひと撫でしたように、一粒一粒の側面を染めていた。

 万両の幹はすらりと立ちあがっていて、実はその周りに鈴のように下がっている。南天よりまばらだが、紅をさすとかえって目立ち『さあ、お祭り』とでも言っているように晴れやかだ。さっそく小鳥がやってきて、二つ三つとついばんでいった。

 そしていよいよ年度末、遅まきながらも「小鳥らの決算」にどうにか間に合ったらしく、赤い実の鉢とおなじ状態になることができた。

 

 

  山ゆりの記憶

 那須野が原のひとすみで生まれ、子ども時代を過ごした。

 この郷には、山ゆりがたくさんあった。日あたりのあまりよくない所でも好んで咲き、崖や山の斜面に弓なりに突き出て匂っていた。

 ゆりは、手入れしだいで花数を多くもできるが、自然にあるのは質素だ。多年草なので一様ではないが、茎の上部にわずかに揺れているていどのが多い。たぶん、花の大きさに対し、茎が細いせいだろう、風に誘われてはうなずいていた。山を歩いていたおり、足をとめて一緒に首を揺らしながら眺めた記憶もある。可憐な姿で「浴衣を着たわらべ」だと、よくおとなたちが言っていた。それに合わせるなら、花数の少し多いものは「帯を結んだ小娘の浴衣姿」くらいになるであろうか。くるっとめくれた花びらのぐあいが、それぞれにみな違い、好みの袖を翻しているようでもある。

 ときには庭に植え、手を加えたりもした。郷里で暮らしたのは、戦後まもないころであるが、ふたりの兄が中学生ともなると、家でもさかんに花壇など作るようになった。そのひとすみに山野から根を移し、土をよく耕しては肥料など工夫した。すると、今ならバイオの技術かと思われるほどたくさん花をつける。一本に数十も咲き誇り、夕暮れに微風を探して揺れるさまは、正装の僧が、立ったまま読経をしている姿を思わせた。

 野にあるのを手折って部屋に飾ることもあった。どんな草花でも、自然にあるときと、室内に活けられた感じは異なるものだが、この山ゆりほど、そのことを強く思わせる花は少ないだろう。浴衣姿のわらべは一変し、ドラマチックな雰囲気をつくる。その家の人たちへ、たえず何かを訴えてくるようなのだ。素朴さと誇らしさに加え、ときには、猛暑をちぎって活けたかとさえ思われる激しさも感じる。

 まず、花が重いので、活けるときのバランスがむずかしい。母はよくいろいろな花を投げ入れにしていたが、こればかりは何かをしっかり言い含めるような手つきで挿し込んでいた。それでも、子どもの私たちが、はずみで瓶ごと倒してしまったりした。さわっただけなのに、ゆりのほうで逃げようとしたのだと、そんな言いわけがしたくなったこともある。

 前夜まで蕾であったのが、翌朝ひらいていたりすると、その辺りだけ部屋の模様替えでもしたかのように、ちがって見えたりもした。そんなときは、壮麗ということばが浮かぶ。立体的なので、体積の大きな花とでもいおうか。

 その花をひきたたせているだいじな役割をしているのは、(しべ)である。ゆで卵の黄身をほぐして盛りつけたような、濃厚な花粉をたたえていて、ひと揺れするたびに、花びらの内を汚す。その花びらはまっ白……ではなく、一枚一枚の内側に、縦に黄色い帯状の線があり、さらに赤い斑点が盛り上がって飛び散る。これに先の金茶色の花粉が無造作に付着する。

 見入ると、自分まで染められてしまいそうな危険を感じたりするが、たいてい、そうと気づいたときは、もうあとの祭りである。茶の間に飾ることが多かったので、たえず家族のだれかは、背や肩が金茶色であった。花との距離はだれしも考えているはずなのに、まるでゆりのほうから手を伸ばしたかのようだった。たぶん、突き出ている蕊が、距離を惑わすような曲線を組み合わせているせいだろう。

 匂いが強く、家の中を二部屋三部屋と漂う。奥の座敷のさらに奥の、母の部屋にも届いていたときは、活けた人の後を追ったかとさえ思った。風に飛ぶ、うす茶色のカサカサとした実を想い、孤独な花であるような気もした。

 今、ゆりを飾るとき、ふつう蕊は切り落とすものと聞く。が、私は極力、切らずにおくことにしている。あの微妙な曲線や、強烈な花粉と向き合ってこそ、この花を活けることと思うからである。

 

 

  鉄びん

 切手のアルバムを開くと、鉄びんの絵柄のが目にとまった。銀色のと黒っぽいのと二種あって、それぞれ渋い水色をバックに、鎮まってみえる。下部に小さく「南部鉄器」との文字もある。何年かまえの「伝統工芸シリーズ」の一部のようだ。

 鉄びんは本来、湯を沸かす道具だ。火の上で湯が煮えたぎっているさまは、身近なもののうちでは、熱さを思わせる代表ともいえる。なのに、これらの切手は、涼しさを感じさせる。じつは、私が胸にしているイメージそのままなのだが、偶然であろうか。

 生家には、鉄びんがいくつかあった。巾着(きんちゃく)のような形、釣鐘型、釜型。湯が沸くと(ふた)のつまみがくるくる回って、りんりんと音を響かせるもの。これは後の「笛吹きやかん」の原形ともいえそうに思う。また、大仏様の頭のように、小さな(いぼ)状の黒点で埋めつくされたものなどあって、指で撫でたりした。

 これらみなを同時に使うことはそうないので、ふだんは台所に置いてある。棚に三つ、床に二つというぐあいだ。拭きそうじのおりには、右へ左へと移動する。床板の上にむぞうさに置かれているさまは、亀や鳥がうずくまっているようにも見えた。雑巾を床におき

「ちょっと、退()いていただけますか」

 などと声をかけて、両手で押しやる。冷やっとした感触が心地よかった。

 母の嫁入り道具だという、わが家では有名なのがあった。太い竹の根もとを切り取ってきたようなかっこうで、ややしもぶくれだ。上部は平らで、そのすべてが蓋である。松・竹・梅・鶴・亀といったものが図案化され、全体に浮き彫りにされている。

 私は、巾着型のかわいらしいのが好きだったが、父に言わせると、この松竹梅のは、鉄の質が良いそうであった。おもに茶の間の炉で、来客用としてだいじにされていた。なので、私も好みとは関係なく、敬意の念をもってこれに接していた気がする。

 蓋の部分が大きいので、酒を燗するとき徳利が入れやすい。座敷で客をもてなすときは、火鉢に五徳(ごとく)を入れ、この鉄びんを載せた。こうしたおりには、母はたいてい台所で忙しくしていたから、私がこの酒の燗を受けもつことが多かった。火鉢のそばに座って、白い湯気のたつ鉄びんに徳利を入れる。湯気は一瞬「なにかしら?」といわんばかりに辺りに踊り、それから薄れ、つぎに徳利を受け入れた呼吸におちつく。

 湯気が一定の呼吸にもどってから燗ができるまでの時間を、私はいつしか体で覚えてしまっていた。軽く座りなおし腿に手をのせると、たいてい客人から、何年生かというように声をかけられる。

「今、四年です」

 などと張り切って応え、学校のある場所についても説明する。それからもう一言、田舎暮らしのようすを加える。

「きのう、仔やぎが生まれました」

 というように。

「ほう、それは、それは」

 と返ってくるとき、私の目が自然に鉄びんのほうに向く。このときがちょうどよい燗のできあがりなのだ。

 こどもの手で、湯気の中に徳利をつかみ出すのだが、ふしぎに熱く感じたことはなかった。そのころはなぜかとまでは考えなかったが、いま思うと鉄びんへの信頼なのだろう。理屈をいえば、蓋が大きく、手を入れる辺りに熱がこもらないせいだろうが、火にかけたこの鉄びんにもつ私のイメージが、熱いものではなく「温かい」ものだった気がする。

 も一つ、大きさからいって、わが家の鉄びんの王者があった。囲炉裏の自在(かぎ)専用にしていたもので、上質であるようすはなかったが、家ではいちばん古いようだった。江戸時代後期であるらしい。

 私がもの心ついたころは、家に囲炉裏があった。後にふさいでしまい使わなくなったが、炉の真上の天井から、自在鉤が下りてきていて、そこには茶釜のような形のがつるしてあった。側面に、月・山並み・すすきといった絵が浅く浮き彫りになっていたが、囲炉裏はすすが多く、鉄びんはたいてい真っ黒だった。毎朝、台所の流しでさっと洗ってはいたが、それらの絵柄は昼になるのも待てず、雲隠れしてしまう。

 そんなこともあって、大勢の来客を予定しているときなど、家中の鉄びんを池の端にもち出し、念入りに磨くことがあった。夏休みなどは、われわれ兄妹が池の洗い場に並んでしゃがんだ。

 磨き粉などまだ家庭では使われていないころである。(わら)をまるめただけの束子(たわし)に、囲炉裏の灰をつけてゴシゴシこすった。もちろん素手である。今なら手が荒れる心配もするところだが、当時、そんなことは全く頭になかった。

 隠れていた柄が少しずつ浮き出てくると、充たされる思いがした。灰のあいだから顔を出す月は白く光り、山並みが藁の束子を押しのける。力も要り、時間もかかったが、何もかも忘れて夢中になれた。

 鉄びんは本来、火の上で湯をたぎらせる『熱い』道具ではある。が、両の手に載せて親しみを重ねるとき、いつも冷たく(すが)しかった。ほぼ曲線だけという組み合わせは美しく、子ども心にも完成されたものという想いがした。また、真剣にむき合わねばならぬ鉄の重みは、敬うような気持ちをいっそうつよくした。

 いま手にしているアルバムの切手も、涼しげに調えられているが、これをデザインしたひともきっと、なにかしら似た思いを胸にちんまりとさせているのではないかと、想像したりしてみた。

 

 

  かしや

 昭和三十年代前半で、質素な時代であった。田舎で暮らしていたわが家は、長兄の大学入学にあたって、当時としてはあまり例のない方法をとった。

 ちょうどその年、私は小学校を終えた。あいだに高校生の兄もいる。浦和にも居所を構えて、家族の半分が移った。家が寺なので主に父が守り、母は寺に行事のない日の多くを、浦和で教員の経験など活かしながら暮らすことにした。浦和を選んだのは、東京にも楽に通えること、那須の郷里との行き来、そして文教都市と聞いていたので、母が切望したことなどによる。

 そんな由で、以前の住まいを売り払っての転居ではないから、広い家は買えない。小さくとも庭らしいところがあるのを求め、建て増しをしようとの案だ。自家の木材を運び、職人も同郷から頼んで、どうにか暮らせる広さを確保した。

 引っ越しについても今のようにスマートなものではない。父が懇意にしていた人が、材木屋を営んでいたので、その店の夜のトラック便に、わが家の荷も積ませてもらった。今なら東北自動車道を、二時間少々で来てしまうところだが、当時の主線は国道四号だ。八時間もかかったようである。兄が家の荷と一緒にその車に乗せてもらったのだが、後で聞いたところでは、みな一睡もせずにとおし、午前五時ごろ、沿道のラーメン屋で熱いどんぶりを手にしたという。闇の中に提灯が揺れるラーメン屋。おとなたちと並んでいる兄。私は話を聞いて、長男とはこういうものかとあらためて思った。

 私の浦和での第一夜は、ボーイ・ソプラノで明けた。少年の納豆売りである。よくとおる声は

「ナットーを、ナットーを」

 と「を」に抑揚をつける。どこか新鮮な感じもし、出てみた。と、小学生であるらしい。子ども用の自転車を押している。

 私は、自分よりも小さな手から、二包みの納豆を受けとった。木皮にくるまれ、しっとりとして温かい。上には、練り辛子と青海苔の粉が、何にも包まれずにそのまま載せられている。これらがこぼれそうになるのを、手で押さえながら家に入ろうとすると

「ありがとうございました」

 と、再びボーイ・ソプラノが響いた。

 私は田舎にいるころ、都会の子はみな、王子さまかお姫さまみたいな暮らしをしているように思っていたのだ……。

 兄は、春休みのうちに、家財道具らしいものを少しでも揃えておこうと、あちこち出歩いた。私は兄より三日遅れぐらいでやってきたのだが、すでに台所にはきれいな石油こんろがあった。これは、父の友人が川口市でそうした工場を経営していたので、訪ねると、入学祝だといって真新しいのをくれたそうである。家は浦和の駅からそう遠くはなかったのだが、都市ガスが引かれたのは何年もしてからで、それまでこのこんろはたいへん重宝した。安全のため石油タンクを横にとりつけた、当時としては画期的なものである。

 兄はまた、同郷の知人が勤めている家具店で、丸い卓袱台(ちゃぶだい)も求めてきた。何日かすれば、母もくるはずなのだが、私も近くへ箒や塵とりなど買いに行く。そのころは「おつかい」といって、子どももよく、親からいろいろ言いつかっては町を歩いているようだったので、恥ずかしい気はしなかった。むしろ、楽しさでいっぱいだった。小学生らしい納豆売りもいることを知ってしまうと、四、五年生くらいの女の子が、小さな鍋を抱えて豆腐屋へおつかいに行く姿などは、都会的な豊かさのようにさえ映った。

 石炭を焚く風呂のことも思い出す。建て増ししたのち、父が、浦和駅ちかくの専門店で、既製の風呂桶を求めた。田舎の家のは深くて大きな鉄釜であったが、届いたのは木製でこぢんまりとしていた。焚き口のすぐ上に煙突がまっすぐに立ち上がり、その周りに小風呂がついている。シャワーなど一般化されていない時代の、上がり湯としてのアィディアだ。二つに分かれた小さな蓋がついていて、煙突に接するところは、扇形に削られていた。その小風呂を使うのが楽しくて、というより湯そのものがありがたく、貴重に思え、毎夕すみずみまできれいに洗っては、ホースで水をなみなみと注ぐと、しあわせな気分になった。

 いつの間にか、私もあたりまえのようにシャワーを使っていて、小風呂のことなど久しく忘れていたが、今も、そうしたものがどこかに残っていてほしい気がする。

 私は、すぐ近くの浦和市立の中学に通うことになった。すると、教科書が田舎で求めていたのとかなり違う。二キロほどもあるという、学校指定の書店に買いに行くことになった。偶然、近所にもまだ入手していないらしい同級生がいて、連れていってくれるという。さっそく友だちになってもらった。そこまではよかったのだが、書店を何度訪ねても、なかなか揃わない。

 そんなある日、本屋を出てから、少し遠回りをしてみようということになった。家とは反対の、踏み切りが見えるほうへ足を向ける。線路沿いの道を行けば迷わず浦和駅に出るという友人の言葉に、私は、町から来た人に田舎道を案内するときのせりふはどんなだったかしら、と郷里のことを考えた。

『今日は雨だから、丸木橋の近道はよしなさい』

 ふと、母のそんな声がよみがえり、並んで歩いている友人に、田舎のようすを話はじめた。冬には、田んぼの中まで、通学路のように歩いていたことなど口にすると、友人は、あなたとは反対で、東京のど真ん中のビルがたち並ぶところで育ったのだといって笑った。そして、家が洋服屋だったからいろいろな服を持っていたが、もうほとんど小さくなって着られなくなってしまったとも言った。思わず彼女の着ていたうす茶色の服を見直すと、襟や胸元に細かいフリルがあって、しゃれたかんじがした。皆、いろいろな都合や事情があって、転居したりしているのだと思った。

 ふいに、数歩さきの路地から、夫婦らしい二人づれが現れた。私たちのすぐ前を歩き始める。両手にいっぱい紙包みを提げている。当時は、今のように持ち手のついた紙袋は使われず、店で少しかさばるものを買うと、包装紙にくるんで縦横に紐をかけてくれた。

 私の目がその包みに吸い寄せられ、町の暮らしの匂いを嗅ぎとっていると、友人が肩をたたく。

 あっ、と思った瞬間、その二人はすぐ脇の黒い板塀の家へ消えた。

「あなたのクラスの古木先生だったみたい」

 傍らの声がそう言い終えないうちに、その家の窓が開き

「よぉー」

 と、担任の国語教師、古木先生のお顔がのぞいた。私たちが、先生の家を訪ねていったものと受けとめられたようで、外しかけたネクタイをまた締めなおそうとされた。

 私が、そうでないことを伝えると「ああ」というようにうなずかれ

「じゃ、気をつけて」

 と、片手を少しかえすようにしておっしゃった。

 西日が、先生の笑顔を窓の奥へ届けると、どこからともなく、豆腐屋のラッパの音が、とぎれとぎれに、傷んだアスファルトの道に伝った。

 その音を聞きながら、ふと、何日か前の古木先生の授業を思い出した。ご兄弟がいく人かいらっしゃるようすで、教科書の作品鑑賞のとき、こんなことをおっしゃった。男の兄弟はそれぞれに独立しても、なんとかやっているだろうと思うけれど、妹となると、嫁いで久しくなるのに、何か困っていることがありはしないかと、おりにふれつい気にかけてしまう。

 なぜかラッパの音が、そのときの先生のしっとりとした雰囲気を伝えているように思えた。

 翌日である。古木先生の国語の時間であった。授業のはじめに、先生は

「皆さんの家のちかくに、かしやがあったらおしえてください」

 とおっしゃった。

 私は「菓子屋」を浮かべてしまい、解せなかった。皆も黙っている。すると先生は黒板に「貸し家」と、きちんとした字で大きくお書きになった。しんとしたままの教室は、全員の目を黒板に集めた。

 少しして、先生はその字を指しながら

「いま住んでいるところを、近々移らなければならなくなったので」

 と加えられた。

 私は、前日見た黒っぽい板の塀や窓、そして、家で求めた、建て増しをする前の小さな古家を思いながら、あちこちに視線を移していた。教室は静かなままであったが、皆も、事の由を考えたり、身近な家に重ね合わせたりしているのだろうと思われた。

 今なら「教師の私ごとを……」と、苦情がとどくかもしれぬ。けれども、小学校を終えたばかりの身に、その日は、社会勉強をしたと心から実感した。また、耳にしたことのある「飾らない人がら」という言葉も浮かんだ。そして、中学生になってひと月もたたぬのに、大人のように信用されているという思いと、先生への親しみのような気持ちが一緒になって、しだいに信頼につながっていった。

 その後、この師は、そうお歳を召されぬうちに亡くなられたと伺う。また、世もめざましい発展を遂げ、ものに対する価値観もずいぶんと変わった。けれども、師の人柄についての気持ちは、今も変わらずにある。

 

 

  道

 長生きをしてくれた母を送って半年になるある日、第二の実家ともいえる浦和の長兄の家を訪ねた。

 母と暮らしていた兄で、近々家の改築をするという。そのあいだ仮住まいで過ごすというので、場所を見に出かけた。田舎から浦和に移ってきたとき最初に住んだあたりである。

 そのころとはまるでちがって、簡易舗装だった道も、中央に植え込みなどでき、公園を思わせるきれいな装いに変わっている。道幅が広くなったのは、平行していた川が地中に埋め込まれたからだろう。

 当時、悪臭も少し混じる流れが、北から南へほぼまっすぐに貫いていて、その両側が道であった。といっても、道路らしく車など通れるのは片方だけで、もう一方は人がふたり並んで歩くのがやっとの幅である。部分的には護岸の工事もなされていたが、見渡せる限りのほとんどは、草の土手だった。それでも、そのころは個人の家にそうそう車などない時代であったから、そこへ向かって門を構える家もたくさんあって、道としての役割をつとめているようだった。

 私もよくそこを歩いた。広い通りのバス停のところにまず辿りつき、それからさらに北浦和のほうへとつづく。

 住んでいた家から駅までは一キロに満たないので、いつも歩いていたが、線路を越えていく市内で一番の繁華街へは、遠回りでもバスが便利だった。旧中山道の一部で、本屋、呉服屋など、大きな店がたくさんあり、行くたびに、田舎から都会へ移り住んだ実感がわいたものである。

 が、いま思い出されるのは、そこで何を買ったということではない。とぎれたままになっていた会話というか、母への問いだ。

 たしか、中学三年のときである。夏休みも終わりに近いある日、母とバス停へ向かった。先の道を歩きはじめてすぐ母が言う。

「バスに乗るまでに、俳句を一つ作りなさい」

 いくら草の土手とはいっても、田舎で暮らしてきた目に、どぶの臭いもする川の眺めは、句作りには似合わない気がした。それでも、目を落とすと、蚊帳吊草(かやつりぐさ)や水引草、犬蓼(いぬたで)などがつつましやかな花をつけて、水際まで迫っている。

「季題は、初秋の『草の花』」

 母のことばに、私は少しのあいだ辺りを見回していたが、顔を上げ行く手に目を移した。しばらくは川がまっすぐにのびているが、どこからともなく起伏や木立ちに吸われる。そしてまたその向こうに、それらしく見えるところがある。

―川に沿う道どこまでも草の花―

 とした。

 バス停に着くと母が言う。

「『どこまでも』を『長々し』と直しなさい」

 私は、どうしてと訊こうとしてやめた。バスが来たからである――。

 公園のようにきれいに生まれかわっている道を見渡し、あれから三十数年になることを思った。そして、もしあのとき、バスが来るのがも少し遅かったなら、母は「長々し」と改める理由をどんなふうに説明したであろうかと考えた。

 でも、それ以来、母に会っていないのではない。かなりの日々を一緒に暮らしていた。訊くのをやめたのはたしかにバスのせいではあったが、その後もずっと訊かずにいたのは、説明を受けても大人にでもならなければよくはわからないのだと、句の道の遠きを、漠然とだが思っていたふしがある。「どこまでも」とは、ほんとうにどこまでも果てしないことだ。けれど「長々し」は、遠くともきまった道のりがあることを意味しよう。それなら「果てしなき道」「はるかな道」などということばは、どう理解すればいいのだろうか……。

 兄は家へ戻るとすぐ、テーブルの上に工事する部分の設計図を広げた。私に

「このへんまで基礎から直して」

 と説明する。これまでも何度か、直したいと口にしていたが、ほんとうにその時が来たのだと思った。

 兄が伸ばした腕のあたりに、よく母が座っていた。夏場はあちこち戸を開け放っているから、そこから隣室の座敷ごしに、裏庭の植え込みが見える。母が息災にしていたころ、兄はときおり、果物を木の枝においた。おながなどがやってくるのを母に見せようとしてだ。りんごや梨は二つ割りにしておくと、皮の部分を椀のように残して、果肉をきれいにくりぬいていく。縁側の戸はモールガラスと呼ばれる凹凸ある縞模様なので、よく小鳥らの翼が、片方だけ倍くらいにも長く映った。改築をしても、その庭は残すらしいが、木犀や公孫樹(いちょう)、松など、郷里から根や種を分けたものや、千両、万両、宵待草、おしろい花といった木や草を、地面を見せぬほど密に寄せ植えていた。

 昨年の夏にたずねたとき、そこがひどく茂っていた。庭に出てみると、全体的にはさほどではなかったが、母が座ってのぞむ所からは、うっそうとした部分だけが見えていた。母が言う。

「あんなに茂ってしまって……。でも、そのうち、誰かがなんとかしてくれるわ。どんなことも、いつかきっと、何かの形にたどりつく。たとえ自分が生きていようとそうでなくとも……」

 と、おちついた口調だ。

 このようなことを口にするのは、私の母にかぎったことではないだろう。ただ、そのときのゆったりとした焦りのない表情が印象的だった。それは、単純に、一緒に暮らしている者への信頼であったのかもしれぬ。けれど、まもなく八十八になろうとしている母が、身をもって(ため)してきたことを語るときのような顔に見えた。

 工事の説明をしている兄の手に視線を沿わせながら、私はふと、あの時の母の言葉に「道」も重ねてはどうだろうかと思った。

 ――どんな道も、いつかきっとどこかにたどりつく。

 ひとりの人が生涯をかけても、歩ききれない道はたくさんあろう。それらは、どこまでも果てしなく続いているように見える。そう見えはするが、道そのものは、必ずどこかに到達する。

 また、道は人が踏み固めるものだ。一生の間には、自分が先にたって踏み分けねばならぬ場に立たされることもあるやもしれぬ。だがそれらも、どこかに、何かに必ず辿り着くのでなければ、ひとはそれを道とは言わぬだろう……。

 やはり、先の句には「長々し」がふさわしく思える。

 

 

  きれいな水

 蜜蜂が、バケツのふちに止まっている。水を飲もうとしているらしい。けれど、届かぬ。真夏の日が照りつけている。

 庭にある水道。そばのバケツに水は満ちている。なのに、蜜蜂の身の丈はあまりに短く、ふちの厚みを越えられぬ。

 家に入り、(さかずき)をとりだしてきた。すると、こんどは蛇口の内側に頭をつき入れている。栓を開こうかと思ったが、調整がうまくいかぬと驚かせてしまう。盃にバケツから汲みとって、蛇口の上においた。

 ふと、以前なにかの本で読んだ、極楽浄土の話を思い出す。池の水は「岸と同じ高さで平らかであり、(からす)が水を飲めるほど」とあった。極楽の話にカラスも出てくると思うとおかしくもあるが、カラスといっても種々ある。必ずしもあの大きなハシブトガラスではないかもしれぬ。

 極楽を説くのは釈迦で、記録は側の者と察するが、どちらのことばにせよ、鳥の水を飲むさまが例にあげられるというのは、当時、身近に、こうした光景がたくさんあったからだろう。人間も鳥も他の動物も、一つの池をともにしていたのかもしれぬ。

 鳥類には、ツバメのように、飛びながら川面を(すく)うのもいるが、多くはカラス同様、ふちまで満ちていなければ届かぬ。まして、小さな鳥の水浴びともなれば、道路の水たまりのように浅い必要がある。

 住宅を求めて郊外の町に移り住み、二十年に近い。この間、庭の水道のそばにいつもバケツを置き、水を満たしていた。だが、いろいろな小動物が現れるようになったのは、ずっと後になってからである。

 越してすぐ、郷里から、さつきや五葉松など庭木を分けてもらってきた。夏には種々の害虫がつくので、枯らすまいと、よく消毒をしていた。テラスには殺虫剤を入れた噴霧器をいつも用意しておいた。

 そんな日々を何年も送ったある時、さつきの盆栽づくりの本を読み、はっとさせられた。「薬剤を噴霧するとき、根もとにかからぬよう鉢を傾けて」とある。つまり、殺虫剤とはいえ、鉢内の土に浸みこませるのはよくないというのだ。で、鉢を斜めにして、飛び散るぶんはみな庭に向ける。これを続けていると、しだいに家の庭もひとつの鉢に見えてきた。庭はやめ、前の道路に出ようと考える。すると町全体も、いえ、地球もひとつの鉢のような気がしてきた。

 この日から薬剤の使用を極力おさえることにした。ときには頼らねばならぬこともあろうが、人間であれば救急車のお世話になるときくらいに考え、噴霧機は物置きにしまう。そして、害虫に侵されぬよう「樹勢」を頭におき、油粕などの有機肥料をあたえた。それでも危うく思われるときは、アブラムシであればブラシ、グンバイムシであれば割り箸などを手に、とり除くようにする。

 こう切り替えてから、庭に小さな生き物がよく現れるようになった。何年か前には、ひとすみに犬の墓もつくったので、そこにぐいのみを置いた。屋根のあたりには、野鳥が巣をつくっている。わが家が越してくる前から一帯に住んでいたと思われたので、テラスに浅いプラスチック製の箱をおいた。

 これらの容器を日に何度もきれいに洗い、きらきらとした水を満たしておくと、名も知らぬ小虫が、波紋を描いていたりする。犬の墓のぐいのみには、ゲンゴロウやミズスマシみたいのが泳いでいることもある。こんなときは、水の追加だけにしておく。

 夜、部屋にいて、ときにぺチャペチャという音を聞き、明かりを消して網戸にしのび寄ってみると、野良らしい大猫がのっしのっしと帰っていくところだったりする。翌日小鳥が来て、もし事実を知ったとしたら気味悪く思うだろうが、このあたりは少し念入りに器を洗うことで「よし」としている。

 カマキリやバッタも見かけるようになった。彼らは草露を吸うらしいので、器に用はなさそうだが、これもやはり薬剤を止めたことによる「来客」とみている。

 里山がよく話題になっている。本来は林をいうらしいが、木立があって川など流れ、いろいろな小動物の生息の場になっているところを指すことが多いようだ。私は幼いころを、そうした中で過ごした。それもあって、何年かまえ、あるNGOに加わった。野鳥をとおして自然に親しみながら、自然環境を守ろうという団体だ。ときおり、この里山をつくるキャンペーンなども知らせてくれるので、応じるようにしている。

 また、昆虫のたぐいを頻繁に見かけるようになったわが家の庭を、いつからか「てのひら版里山」と考えはじめた。すると、庭木の形より、木の下のちいさな営みに目がいくようになった。小虫と一緒に陰日向を辿っていると、ほんの数ミリの体長であっても、太陽を意識しながら暮らしていることを感じる。佇まいらしきものを提供してくれているささやかな庭木も、自然の恵みをいっぱいに受けている。わが家のものというより、だれかにお借りしているようなありがたさを覚えたりもする。

 極楽浄土の水は澄みきっていると聞く。永遠で無量の世界というから、枯れることもないのだろう。それだけに、もしかすると人間も小鳥も、他の動物たちも、同じ池で潤しながら暮らすのかもしれぬ。

 幸い、わが家にも、管をつたって良い水がとどいている。「やすらぐところ」を想い浮かべるにはささやか過ぎる庭だが、記憶にある里山の風景も重ねながら、日々、ちいさな生きものたちと、きれいな水を分けあっていこう。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2007/07/09

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青樹 生子

アオキ ショウコ
あおき しょうこ 随筆家。1947年栃木県那須郡(現大田原市)の生まれ。武蔵野文学賞佳作賞受賞。おもな著書『うす青い真珠』。

掲載作は、2000年5月20日 自著『山ゆりの記憶』(近代文芸社刊)に初出したものから、記憶にちなむ作品のうち7篇を抄録し、総題を付した。

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