(上)
正月用の衣類取出さんと、たまたま開きたる納戸の長持、底に見慣れぬ風呂敷包のありとて、珍らしきもの見たさは十七の娘盛り、
アレ、かあさん、洋服よ、しかも銀ねづの紋緞子、驚いたものだ、まさかかあさん有たんじやなからう、エ、どなたの? 預りものでせう、かあさん?
束髪の根元キリヽと締り、質素ら敷どことなく頼母敷四十格好の細君、件の問には急に答へんともせず、様子有気に微笑て、
マア、好から出してゆつくり御覧なさい、附属品もみんな一処にして置いた筈だつたが………ホラネ、扇も、キッド、クラブス(革の手袋)まで揃へて有ませう、いつか好折におまへたちに見せて、一とむかし前の話しをして笑はせもしたり、戒めにもして上度と心掛て居たのだよ、
流行こそ廃れたれ、仕立下ろしとも見ゆる襟低くのイーヴニング、ドレス、惚々とする色合、クリーム色レースの取合せまで、流石は眼早く眺め入れる娘、再び驚ろきたる声して、
一寸、かあさん、マア、何ものでせう、此服の膝の上にこんなしみが、丸で西洋地図の様ですよ、勿躰ないじや有ませんか、一躰どふなすつたの?、早くおはなしなさいな、
細君は一向平気で、
それが、其汚なら敷が、かあさんの物語りの要素なんだから、急がずによふくお聞なさいよ、好かい、わたしがまだおまへの年齢にならない時分、極く最初の英語学校が竹橋女学校といふてネ、西洋好の方が娘だちをエー、ビ、シー習らひに始めて通はせる処だつたが、其時、お祖父さまが、余程の西洋贔屓でネ、家娘も遣れツて頻りに八釜敷仰るものだから、恥しかつたが、ヤットのこと一年半計り、リードルやスペリングの稽古をし升たのさ。さうかふする中に十七の春になつて、こゝの家へお嫁に行けといはれて、何も知らず、計らはれるまんまに御厄介になることになつたがネ、さて学校へ行つてる時分、水上孝代といふて、それはそれは学校の花といわれる位美人なり、学才もあり、遊藝も巧みで、誰が見ても人に立勝つて華やかな方があつたが、其方がどふいふものか、此不束かで気象から身分から自分とも表裏のわたしをひどくひゐきにして下すつてネ、何から何まで教たり庇つたりして下さるものだから、内気なわたしもお影で、憂ひことも辛こともなく始めての学校生涯を無事に送り升たのさ。其方は年もわたしに一ツ二ツ姉さまなり、誰の眼にも着く方だから、わたしがお別れする前から、名は聞漏らしたが、さる立派なお人に達て懇望されてお出で、間もなくそこへお諚りだとか聞て居升たは。しかしわたしは書生上りのおとう様の処へ嫁して世帯の苦労も余計なり、片づく翌年おまへがお生れで、老寄はなし、慣れない子供の世話に齪促と月日を過ごしてしまひ升た。身嗜によめと仰る新聞雑誌や折々易い新版物、これ計りは子供の為と仕事の合間合間に拾ひ読するが勢一杯で、世の潮につれて入れ替わる流行も気に掛ける暇もなく、それを追ふて行く余裕も有ませんかつた、それだから、音に高い鹿鳴館のバザアとやらも、遂に覗いて見たこともなく、遣ひものに貰らふた手下げさへ、なんとなく持つが恥か敷位でした。
さうでしたらう、どふもうちのかあさんの様な扣目の方に此洋服が召せる筈がないんだもの、それじやアどなたの、此服?
処が不思議ではないか、かあさんが此服を着る気になつた時代が有つたから、そこが懺悔話しの由来ですよ、マア、お茶でも一ツ持つて来ておくれ、我乍ら諚りのわるい様なあとの話しを続けるから、
細君は湯呑の茶に唇を湿し、
それから、たしか十九年の霜月のことかとおもふよ、おまへは八ツでしたらう、寿が五ツで、秀坊がヤツトチヨロチヨロ歩るきをする時分だつた、日曜のことで、天気はよし、客の足も其時分は遠いものだから、ツイ座敷を開け払つて、おとうさんが御注文の牛鍋をヂヤヂヤやつて居らしやると、おまへは覚へて居まいが、寿が何気なく外から這入つて来て、「お客さまだよ、綺麗な西洋人見たいな人ッていふから、男かと尋ねると女だ、奥様だといふから、そんな人に訊ねられる覚へはないとおもひ、角ちがいかとも考へて前垂のまんま、玄関へ出て行みたのさ、スルト、忘れもしない水上孝代さん、見違へるほど華麗になつて、其スラリとした洋服姿といつたらわたしとしたことが物を言はずに呆気にとられて立て居升たよ、わたしと摩れちちがいに出た鍋墨だらけの下女へお渡しになつた名刺には「宮村孝代」と認めてあつた、これは当時上流社会に利者と評判のある○○局長と此時思ひあたりはしたが、さてはと心づくと共に、訳もなく諚りわるく、恐気づいて、挨拶さへも捗どらぬこちらの心中は、一向先様へは通らず、十年昔し別れた時と同じ調子にそれはそれは勿体ないほど親敷さうにして下さる。先々といつて座敷へ通しはしたが、相悪と牛鍋の香ひ、今おもふても、顔から火が出る様ですよ。深底心に至誠あつてか、たゞしは気転といふものか、孝代さんは座敷の安ツぽい普請にも、庭の狭いにも、わたしにとつては何より恥か敷例の香にさへ一向心のとまらぬかの様、小鳥の様な声してスラスラと無造作に、
私はけふほど嬉敷ことは有ませんよ、とうとうあなたの有家を尋ねあてたのですもの、まだ学校のことはお忘れじや有升まい、あなたほどあの中間で柔順なあどけない方は有ませんでしたよ、よく姉さんぶつてあなたを自由にし升たつけネ、お別れ申てからだつて、決して忘れはしませんの、心に掛けて居ればこそ、それと思ふ方にお尋ねすると、漸くそれも先達始めて分り升たの、お少児のがおあり遊ばすつてネ、アレお三人!、上が、お嬢様…………あとが、さつき出て居らしつた、さうですか、赤ちやんも本当に凛々敷坊ちやまですこと。私などは可哀さうでせう、此年をしてまだ一人も有ませんよ、ですから一日くだらないこと計りに送つてしまひ升。
これから三日後にわたしは宮村夫人の訪問の返礼に、音羽の本宅を一寸たづね升た。
(下)
来て見れば、思ひ設けたこと乍ら、先づ門構への厳めしさに気落し、向から来る箱馬車はこゝへ止まりはせぬかと余計なことに迄我車を控えさせ、漸くのことで取次を頼めば、奥様は折よくお宅で、お客様もないとのこと、先づ嬉しやと胸を撫下ろし升た。住居は南向で、それはそれはどこまで手勝手が好からうとおもふほどな数奇作り、尤もこの一棟は日本風で、それと鍵の手に広やかな西洋間二ツ、これは其春新築なさつたとかお話しが有つた様でした。此二間の飾りつけは申すまでもなく、万事西洋風で、当時流行の骨頂を競ふお家のものと思へば世間慣れぬわたしには、据つけのピヤノを始めとして何から何まで珍ら敷結構に見へ升た。孝代さんは遠慮勝なわたしの様子を見てとり、珍客だとてさまで喋々敷はせず、気の置けぬ様、ゆつくりと一日保養の出来る様にと、それはそれは手厚いもてなし、わたしは久振りで、一日極楽をし升た。孝代さんは深実、わたしを愛して下さる様子で、此時も、繰返し繰返し、「本当にあなたに逢つて嬉しい、わたしはかふいふ家へ嫁て交際こそひろいけれど、心のゆるせる友だちが幾人あらう、それだから、尚さらあなたの様な旧友が懐かしい、どふぞ親しくして下さい、御用も多からうが度々来て、シンミリとした話がして戴き度い、わたしも折々御邪魔します、旦那様さへお管ひなければ」といふ様な調子で、わたしもマア頼母敷方だとおもひ、どふぞ深実な交際がして見たいとおもひ、又必要といふではないが、折々かふいふ処へ来て見れば、上流社会とか、当時世間にいふ男女交際とかいふものゝ振合も自然心得る都手にもなり、飛んだ好ことだとおもひ其日は夕飯まで御馳走になり、お手製だといふジャムをうちへのお土産にイソイソして帰り升た。モウおまへ嫌になつたかへ、余りお話しが長くつて?、又今度にしようか?。
アレ、かあさん、こんなに熱心に聴いてゐ升のに、それから、丸で小説みたいな話しね、
それじやア、あとを手短に話しませう。暮だつていふのに、余り気楽らしいから、ネ、さうじやないか、ホヽヽヽヽ
でも、おつかさん、空手じやなし、かふやつて、秀さんの手袋を編ながら伺てるんですもの、ゆつくり話して頂戴よ、
「それではね……」暫く考へて、何やら思ひ出せし様に「おぼえて居升よ、其晩方帰つて来た時のことを、魔がさしたといへばマアあんなことでもいふのだらうか、其朝うちを出たわたしとはガラリと違つた人間になつたかの様でネ、先づはいる門からして気に食はないのですもの、アヽなぜこんな安ツぽい家に居ることだらう、わたしは余り外観は関ぬ方だが、万事モ少し心づかねばなるまい、孝代さんが此間お出の時なんとお思ひだつたらう、アヽおもふてもゾツトするのはあの牛鍋のこと、それにしても、旦那様は今だに書生風がお抜けなさらず、あんな下卑たお料理がお好だから、ほんとに……なんぞつてネ、とんだ処までとばつちりを遣り升たよ、それから、戴いて来たジャムをパンにつけて子供たちに食べさせ乍ら、おとう様にけふのお話しをすると、昔しから優しいおとう様だから一日わたしが気保養をしたとつて悦んで下さる、それにわたしは又、平常とは魂の居処がかわつたと見へて、おとう様の仰ることが何やら一々気に障り、知らず知らず角立つた物言ひをしたと見へて、何も仰らなかつたが、ヂット顔を見ておいでのをよふくおぼえて居升よ。かふやつて考へるときのふのことかと思はれるよ、アレ、茶の間に今でも掛つてるあの額ネ、果物の、あれが油画擬ひだから外聞がわるいといつて、わたしがおとう様に食てかゝる様に申すとネ、おとう様がけふに限つてなぜそんなことを気にするかと、仰らない計りに「おまへそれでも本場でなくとも上等なクロモだよ」と仰つたお顔がまだ見える様ですよ、スルトどふだらう滅多に口ごたへなどはしたことのないわたしが、「さう仰い升が、擬物に好悪るいが有ませうか、本当にこんなものは人様の見えない処へかけて置度ひ」なんぞつて、嫌に嶮岨な顔つきになつたらうとおもふよ。
それから、コウツト、師走の中半頃までも二度計りも孝代さんが来て下すつたつけが、いつも洋服で、わたしも羨む積りはないが、流行とはよくいつたもので、今こそ女の洋服着る風は流れて行つてしまつた様なもんの、其折はみんな同僚の方々の細君でさへ一揃へやそこら心配してもお拵らへなさる時節だから、自分も人並なものがなくつては肩身がせまいとおもふ様になり升たよ、今でこそ馬鹿気て話すうちが気恥かしいけれど、そこへもつて来て、孝代さんが仰るにはあなただつてチツト世間を御覧なさるが好い、おうちの治め方のお手際はたしかにわたしが見届けた、旦那様には不平が有らう筈はない、併し当節柄うちに引込んで計り居ると、時勢に後れるといふこともある、交際社会には馬鹿馬鹿敷ことも多くあるが、見て置て身だしなみになることも中になくはないなどと程よくそれとはなしに誘ひ出されるので、ウツカリ其気になつたものと見へ、孝代さんが宅で新年宴会を催すからキツト其時は来て下さい、序にあなた服を一揃ひお拵らへなすつては?、皆さんがそれですよ、裾に綿をつめてプクプクさせて紋附などは実に見とむなくて……などとそゝのかされて、わたしはすつかり乗地になつたじやないか。とうとうおとう様におねだり申すと、なんだか顔を妙に見て居らしつたが、不承知はけつして仰やらず、「着物ねだりなどはしたことのないおまへだから、どんなにもしてやり度が、充分にも行ないから先づ中等にして置け」と仰つて卅円下すつたよ、それから品の撰びから、仕立万端、みんな孝代さんのお世話で、マア、新年宴会に間に合つたことは間に合升たのさ。出来上る、着て見るまでは、孝代さんが側でヤレソレつて世話をやいて下すつたが、さてうちから着て出て会の人に顔を見られる辛さといつたら忘られないよ、なんのことはないリードルで読んだ、ソレあの孔雀の羽を拾つて尻尾へさしたといふ烏ネ、自分の風俗が余り粗末だとつてトントあれさ、角へ引込み度のだが、西洋の風俗として、引込む人は尚のこと引出すのだから。口不調法なわたしが交際なれたみなさんにとんと手玉にとられた様なものだよ、イヤピヤノを鳴せの舞踏をやれのつて。
かあさん、そうしてあの染は?
アレハネ、シヤムパンとかいふ赤い様な綺麗な御酒を是非一杯といつてネ、どこのノラクラ若様だかゞわたしに強勧なすつて、わたしが顔を赤らめて、お断りを申す途端に手を滑らして座つて居た膝の上へスツカリさ……それがどふといふことはないけれど、其日の馬鹿らし加減が深底心に染みて、わたしは上流社会の見習ひも、男女交際会のお稽古も其日限りフツヽリ思切升たよ。帰つて来てネ、よふくとう様にお詫を申したら、お笑ひなすつて、交際社会の風俗が呑込たら卅円の服代位は安い月謝だと仰つたよ…………
──初出:『少年世界』明治二十九年(1896)一月一日、同二月一日──