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龍潭譚

 《目次》

 躑躅か丘

 鎮守の社

 かくれあそび

 あふ魔が時

 大 沼

 五位鷺

 九ツ谺

 渡 船

 ふるさと

 千呪陀羅尼

 

   躑躅か丘(つゝじがをか)

 

 日は()なり。あらゝ()のたらたら坂に樹の蔭もなし。寺の門、植木屋の庭、花屋の店など、坂下を(さしはさ)みて町の入口にはあたれど、のぼるに從ひて、たゞ畑ばかりとなれり。番小屋めきたるもの小だかき処に見ゆ。谷には菜の花残りたり。路の右左、躑躅(つゝじ)の花の(くれなゐ)なるが、見渡す(かた)、見返る方、いまを(さかり)なりき。ありくにつれて汗少しいでぬ。

 空よく晴れて一点の雲もなく、風あたゝかに野面(のづら)を吹けり。

 一人にては行くことなかれと、優しき姉上のいひたりしを、()かで、しのびて来つ。おもしろきながめかな。山の上の(かた)より一束(ひとたば)(たきゞ)をかつぎたる(をのこ)おり(きた)れり。眉太く、眼の細きが、(むかう)ざまに顱巻(はちまき)したる、額のあたり汗になりて、のしのしと近づきつゝ、細き道をかたよけてわれを通せしが、ふりかへり、

(あぶ)ないぞ危ないぞ。」

 といひずてに(まなじり)に皺を寄せてさつさつと行過(ゆきす)ぎぬ。

 見返ればハヤたらたらさがりに、其肩(そのかた)躑躅(つゝじ)の花にかくれて、髪結(かみゆ)ひたる天窓(あたま)のみ、やがて山蔭(やまかげ)に見えずなりぬ。草がくれの(こみち)遠く、小川流るゝ谷間(たにあひ)畦道(あぜみち)を、菅笠(すげがさ)(かむ)りたる婦人(をんな)の、跣足(はだし)にて(すき)をば肩にし、小さき(むすめ)の児の手をひきて彼方(あなた)にゆく背姿(うしろすがた)ありしが、それも杉の樹立(こだち)()りたり。

 行く(かた)躑躅(つゝじ)なり。()し方も躑躅なり。山土(やまつち)のいろもあかく見えたる、あまりうつくしさに恐しくなりて、家路に帰らむと思ふ時、わが居たる一株の躑躅のなかより、羽音(はおと)たかく、(むし)のつと立ちて頬を(かす)めしが、かなたに飛びで、およそ五六尺隔てたる処に(つぶて)のありたる(その)わきにとゞまりぬ。羽をふるふさまも見えたり。手をあげて走りかゝれば、ぱつとまた立ちあがりて、おなじ距離五六尺ばかりのところにとまりたり。其まゝ小石を拾ひあげて(ねら)ひうちし、石はそれぬ。蟲はくるりと一ツまはりて、また(もと)のやうにぞ()る。追ひかくれば(はや)くもまた()げぬ。遁ぐるが遠くには去らず、いつもおなじほどのあはひを置きてはキラキラとさゝやかなる()ばたきして、鷹揚(おうやう)(その)二すぢの細き(ひげ)上下(うへした)にわづくりておし動かすぞいと(にく)さげなりける。

 われは足踏(あしぶみ)して心いらてり。(その)居たるあとを踏みにじりて、

「畜生、畜生。」

 と(つぶや)きざま、(をど)りかゝりてハタと打ちし、(こぶし)はいたづらに土によごれぬ。

 (かれ)は一足先なる(かた)に悠々と()づくろひす。憎しと思ふ心を()めて(みまも)りたれば、蟲は動かずなりたり。つくづく見れば羽蟻(はあり)の形して、それよりもやゝ(おほい)なる、身はたゞ五彩(ごさい)の色を()びて青みがちにかゞやきたる、うつくしさいはむ(かた)なし。

 色彩(しきさい)あり光澤(くわうたく)ある蟲は毒なりと、姉上の教へたるをふと思ひ()でたれば、打置(うちお)きてすごすごと引返せしが、足許にさきの石の二ツに(くだ)けて落ちたるより(にはか)に心動き、拾ひあげて取つて返し、きと毒蟲をねらひたり。

 このたびはあやまたず、したゝかうつて殺しぬ。嬉しく走りつきて石をあはせ、ひたと打ひしぎて蹴飛ばしたる、石は躑躅のなかをくゞりて小砂利をさそひ、ばらばらと谷深くおちゆく音しき。

 (たもと)のちり打ちはらひて空を仰げば、日脚(ひあし)やゝ(なゝめ)になりぬ。ほかほかとかほあつき日向(ひなた)に唇かわきて、眼のふちより頬のあたりむず(がゆ)きこと限りなかりき。

 心着(こゝろづ)けば旧来(もとき)(かた)にはあらじと思ふ坂道の異なる(かた)にわれはいつかおりかけ居たり。丘ひとつ越えたりけむ、戻る路はまたさきとおなじのぼりになりぬ。見渡せば、見まはせば、赤土の道幅せまく、うねりうねり果てしなきに、両側つゞきの躑躅の花、遠き(かた)は前後を(ふさ)ぎて、日かげあかく咲込(さきこ)めたる空のいろの眞蒼(まさを)(した)に、(たゝず)むはわれのみなり。

    鎮守の社(ちんじゆのやしろ)

 

 坂は急ならず長くもあらねど、一つ(つく)ればまたあらたに(あらは)る。起伏(きふく)(あたか)も大波の如く打続きて、いつ(たん)ならむとも見えざりき。

 あまり()みたれば、一ツおりてのぼる坂の(くぼみ)(つくば)ひし、手のあきたるまゝ何ならむ指もて土にかきはじめぬ。さといふ字も出来たり。くといふ字も書きたり。曲りたるもの、(すぐ)なるもの、心の(おもむ)くまゝに落書(らくがき)したり。しかなせるあひだにも、頬のあたり先刻(さき)に毒蟲の触れたらむと(おぼ)ゆるが、しきりにかゆければ、袖もてひまなく(こす)りぬ。擦りてはまたもの書きなどせる、なかにむつかしき字のひとつ形よく出来たるを、姉に見せばやと思ふに、(にはか)(その)顔の見たうぞなりたる。

 立あがりてゆくてを見れば、左右より小枝を組みてあはひも透かで躑躅咲きたり。日影ひとしほ赤うなりまさりたるに、手を見たれば(たなそこ)に照りそひぬ。

 一文字(いちもんじ)にかけのぼりて、()見ればおなじ躑躅のだらだらおりなり。走りおりて走りのぼりつ。いつまでか(かく)てあらむ、こたびこそと思ふに(たが)ひて、道はまた(うね)れる坂なり。踏心地柔かく小石ひとつあらずなりぬ。

 いまだ家には遠しとみゆるに、忍びがたくも姉の顔なつかしく、しばらくも()()へずなりたり。

 再びかけのぼり、またかけりおりたる時、われしらず泣きて居つ。泣きながらひたばしりに走りたれど、なほ家ある(ところ)に至らず、坂も躑躅も少しもさきに異ならずして、日の傾くぞ心細き。肩、背のあたり寒うなりぬ。ゆふ日あざやかにぱつと(あかね)さして、眼もあやに躑躅の花、たゞ(くれなゐ)の雪の降積めるかと疑はる。

 われは涙の声たかく、あるほど声を絞りて姉をもとめぬ。(ひと)たび(ふた)たび()たびして、こたへやすると耳を澄せば、(はるか)(たき)の音聞こえたり。どうどうと響くなかに、いと高く()えたる声の(かすか)に、

「もういゝよ、もういゝよ。」

 と呼びたる聞えき。こはいとけなき我がなかまの隠れ遊びといふものするあひ()なることを認め得たる、一声くりかへすと、ハヤきこえずなりしが、やうやう心たしかに其の声したる(かた)にたどりて、また坂ひとつおりて一つのぼり、こだかき所に立ちて()おろせば、あまり雑作(ざふさ)なしや、堂の瓦屋根、杉の樹立のなかより見えぬ。かくてわれ踏迷(ふみまよ)ひたる(くれなゐ)の雪のなかをばのがれつ。背後(うしろ)には躑躅の花飛び飛びに咲きて、青き草まばらに、やがて堂のうらに達せし時は一株も花のあかきはなくて、たそがれの色、境内(けいだい)手洗水(みたらし)のあたりを()めたり。(さく)()ひたる井戸ひとつ、銀杏(いてふ)()りたる樹あり、そがうしろに人の家の土塀あり。此方(こなた)は裏木戸のあき地にて、むかひに小さき稲荷の堂あり。石の鳥居あり。木の鳥居あり。この木の鳥居の左の柱には割れめありて太き鉄の輪を()めたるさへ、心たしかに覚えある、こゝよりはハヤ家に近しと思ふに、さきの恐しさは全く忘れ果てつ。たゞひとへにゆふ日照りそひたるつゝじの花の、わが(たけ)よりも高き(ところ)、前後左右を咲埋めたるあかき色のあかきがなかに、緑と、(くれなゐ)と、紫と、青白(せいはく)の光を羽色(はいろ)に帯びたる毒蟲のキラキラと飛びたるさまの広き景色のみぞ、()の如く小さき胸にゑがかれける。

    かくれあそび

 

 さきにわれ泣きいだして(すくひ)を姉にもとめしを、(かれ)に認められしぞ(さいはひ)なる。いふことを()かで一人いで来しを、弱りて泣きたりと知られむには、さもこそとて笑はれなむ。優しき人のなつかしけれど、顔をあはせて()ひまけむは口惜(くちを)しきに。

 嬉しく喜ばしき思ひ胸にみちては、また急に家に帰らむとはおもはず。ひとり境内に(たゝず)みしに、わッといふ声、笑ふ声、木の蔭、井戸の裏、堂の奥、廻廊の下よりして、五ツより八ツまでなる()の五六人前後(あとさき)に走り()でたり、こはかくれ遊びの一人(いちにん)が見いだされたるものぞとよ。二人三人(みたり)走り来て、わが其処に立てるを見つ。皆瞳を集めしが、

「お遊びな、一所にお遊びな。」とせまりて(すゝ)めぬ。小家あちこち、このあたりに住むは、かたゐといふものなりとぞ。風俗少しく異なれり。児どもが親達の家富みたるも()(きぬ)着たるはあらず、大抵跣足(はだし)なり。三味線(さみせん)弾きて折々わが門に(きた)るもの、溝川に(どぢやう)を捕ふるもの、附木(つけぎ)草履(ざうり)など(ひさ)ぎに来るものだちは、皆この児どもが母なり、父なり、祖母などなり。さるものとはともに遊ぶな、とわが友は常に(いまし)めつ。()るに町方(まちかた)の者としいへば、かたゐなる児ども(たふと)(うやま)ひて、頃刻(しばらく)もともに遊ばんとことを(こひねが)ふや、親しく、優しく(つと)めてすなれど、不断は此方(こなた)より遠ざかりしが、其時(そのとき)は先にあまり淋しくて、友()しき念の堪へがたかりし其心のまだ()せざると、恐しかりしあとの楽しきとに、われは(こば)まずして(うなづ)きぬ。

 ()どもはさゞめき喜びたりき。さてまたかくれあそびを繰返すとて、(けん)してさがすものを定めしに、われ其任にあたりたり。(おもて)(おほ)へといふまゝにしつ。ひッそとなりて、堂の裏崖をさかさに落つる瀧の音どうどうと松杉の(こずえ)ゆふ風に鳴り渡る。かすかに、

「もう()いよ、もう可いよ。」

 と呼ぶ声、(こだま)に響けり。眼をあくればあたり静まり返りて、たそがれの色また一際(ひときは)襲ひ来れり。(おほい)なる樹のすくすくとならべるが朦朧(もうろう)としてうすぐらきなかに隠れむとす。

 声したる方をと思ふ処には誰も居らず。こゝかしこさがしたれど人らしきものあらざりき。

 また(もと)の境内の中央に立ちて、もの淋しく(みまは)しぬ。山の奥にも響くべく(すさま)じき音して堂の扉を(とざ)す音しつ、(げき)としてものも聞えずなりぬ。

 親しき友にはあらず。常にうとましき児どもなれば、かゝる機会(おり)を得てわれをば苦めむとや(たく)みけむ。身を隠したるまゝ(ひそか)()げ去りたらむには、探せばとて()らるべき。(やく)もなきことをと不図(ふと)思ひうかぶに、うちすてて(くびす)をかへしつ。さるにても萬一(もし)わがみいだすを待ちてあらばいつまでも()でくることを得ざるべし、それもまたはかり難しと、心迷ひて、とつ、おいつ、(いたづら)に立ちて(こう)ずる折しも、何処(いづく)より来たりしとも見えず、暗うなりたる境内の、うつくしく()いたる土のひろびろと灰色なせるに(きは)立ちて、顔の色白く、うつくしき人、いつかわが(かたはら)に居て、うつむきざまにわれをば見き。

 (きは)めて(たけ)高き女なりし、其手を(ふところ)にして肩を垂れたり。優しきこゑにて、

此方(こちら)へおいで。此方(こちら)。」

 といひて(さき)に立ちて導きたり。見知りたる(ひと)にあらねど、うつくしき顔の(ゑみ)をば含みたる、よき人と思ひたれば、怪しまで、隠れたる児のありかを教ふるとさとりたれば、いそいそと従ひぬ。

   あふ()が時

 

 わが思ふ処に(たが)はず、堂の前を左にめぐりて少しゆきたる突あたりに小さき稻荷の(やしろ)あり。青き旗、白き旗、二三本其前に立ちて、うしろはたゞちに山の裾なる雑樹(ざふき)斜めに()ひて、社の上を(おほ)ひたる、其下のをぐらき処、(あな)の如き空地(くうち)なるをソとめくばせしき。瞳は水のしたゝるばかり(なゝめ)にわが顔を見て動けるほどに、あきらかに其心ぞ読まれたる。

 さればいさゝかもためらはで、つかつかと社の裏をのぞき込む、鼻うつばかり冷たき風あり。落葉、朽葉(くちば)(うづたか)く水くさき土のにほひしたるのみ、人の気勢(けはひ)もせで、(えり)もとの(ひやゝ)かなるに、と胸をつきて見返りたる、またゝくまと思ふ彼の(ひと)はハヤ見えざりき。何方(いづかた)にか去りけむ、暗くなりたり。

 身の毛よだちて、思はず啊呀(あなや)と叫びぬ。

 人顔(ひとがほ)のさだかならぬ時、暗き隅に行くべからず、たそがれの片隅には、怪しきもの居て人を惑はすと、姉上の教へしことあり。

 われは茫然(ぼうぜん)として(まなこ)(みは)りぬ。足ふるひたれば動きもならず、固くなりて立ちすくみたる、左手(ゆんで)に坂あり。穴の如く、其底よりは風の吹き出づると思ふ黒闇々(こくあんあん)たる坂下より、ものののぼるやうなれば、こゝにあらば捕へられむと恐しく、とかうの思慮もなさで社の裏の狭きなかににげ()りつ。眼を(ふさ)ぎ、呼吸(いき)をころしてひそみたるに、四足(よつあし)のものの歩むけはひして、社の前を横ぎりたり。

 われは人心地もあらで見られじとのみひたすら手足を縮めつ。さるにてもさきの(ひと)のうつくしかりし顔、(やさし)かりし眼を忘れず。こゝをわれに教へしを、今にして思へばかくれたる児どものありかにあらで、何等(なんら)か恐しきもののわれを捕へむとするを、こゝに(ひそ)め、助かるべしとて、導きしにはあらずやなど、はかなきことを考へぬ。しばらくして小提灯(こぢやうちん)火影(ほかげ)あかきが坂下より急ぎのぼりて彼方(かなた)に走るを見つ。ほどなく引返してわがひそみたる社の前に近づきし時は、一人ならず二人三人(みたり)連立(つれだ)ちて(きた)りし感あり。

 (あたか)も其立留りし折から、別なる跫音(あしおと)、また坂をのぼりてさきのものと落合ひたり。

「おいおい分らないか。」

「ふしぎだな、なんでも此邊で見たといふものがあるんだが。」

とあとよりいひたるはわが家につかひたる下男(げなん)の声に似たるに、あはや出でむとせしが、恐しきものの()はたばかりて、おびき(いだ)すにやあらむと恐しさは一しほ増しぬ。

「もう一度念のためだ、田圃(たんぼ)の方でも廻つて見よう、お前も頼む。」

「それでは。」といひて上下(うへした)にばらばらと分れて行く。

 再び(せき)としたれば、ソと身うごきして、足をのべ、板めに手をかけて眼ばかりと思ふ顔少し差出だして、()(かた)をうかゞふに、何ごともあらざりければ、やゝ落着きたり。怪しきものども、何とてやはわれをみいだし得む、(おろか)なる、と(ひやゝ)かに笑ひしに、思ひがけず、(たれ)ならむたまぎる声して、あわてふためき()ぐるがありき。驚きてまたひそみぬ。

「ちさとや、ちさとや。」と坂下あたり、かなしげにわれを呼ぶは、姉上の声なりき。

    大 沼

 

「居ないッて(わたし)()うしよう、(ぢい)や。」

「根ッから()さつしやらぬことはござりますまいが、日は暮れまする。何せい、御心配なこんでござります。お前様遊びに出します時、帯の(むすび)めを(とん)とたゝいてやらつしやれば()いに。」

「あゝ、いつもはさうして出してやるのだけれど、けふはお前私にかくれてそッと出て行つたらうではないかねえ。」

「それはハヤ不念(ぶねん)なこんだ。帯の(むすび)めさへ叩いときや、何がそれで姉様(あねさま)なり、(おふくろ)様なりの魂が入るもんだで(エテ)めは()うすることもしえないでごす。」

「さうねえ。」とものかなしげに語らひつゝ、社の前をよこぎりたまへり。

 走りいでしが、あまりおそかりき。

 いかなればわれ姉上をまで(あやし)みたる。

 ()ゆれど及ばず、かなたなる境内の鳥居のあたりまで追ひかけたれど、早や其姿は見えざりき。

 涙ぐみて(たゝず)む時、ふと見る銀杏(いてふ)の木のくらき夜の空に、(おほい)なる(まる)き影して茂れる下に、(をんな)の後姿ありてわが(まなこ)(さへぎ)りたり。

 あまりよく似たれば、姉上と呼ばむとせしが、よしなきものに声かけて、なまじひにわが此処(こゝ)にあるを知られむは、(つたな)きわざなればと思ひてやみぬ。

 とばかりありて、其姿またかくれ去りつ。見えずなればなほなつかしく、たとへ恐しきものなればとて、かりにもわが優しき姉上の姿に()したる上は、われを捕へてむごからむや。さきなるは()もなくて、いま幻に見えたるがまこと其人なりけむもわかざるを、何とて(ことば)はかけざりしと、打泣(うちな)きしが、かひもあらず。

 あはれさまざまのものの怪しきは、すべてわが(まなこ)のいかにかせし作用なるべし、さらずば涙にくもりしや、(すべ)こそありけれ、かなたなる御手洗(みたらし)にて清めてみばやと寄りぬ。

 (すゝ)けたる行燈(あんどう)の横長きが一つ上にかゝりて、ほとゝぎすの()と句など書いたり。()をともしたるに、水はよく澄みて、青き苔むしたる石鉢の底もあきらかなり。手に(むす)ばむとしてうつむく時、思ひかけず見たるわが顔はそもそもいかなるものぞ。覚えず叫びしが心を籠めて、気を(しづ)めて、両の(まなこ)(ぬぐ)ひ拭ひ、水に(のぞ)む。

 われにもあらでまたとは見るに(しの)びぬを、いかでわれかゝるべき、必ず心の迷へるならむ、今こそ、今こそとわなゝきながら見直したる、肩をとらへて声ふるはし、

「お、お、千里(ちさと)。えゝも、お前は。」と姉上ののたまふに、(すが)りつかまくみかへりたる、わが顔を見たまひしが、

「あれ!」

 といひて一足(ひとあし)すさりて、

「違つてたよ、坊や。」とのみいひずてに()()せ去りたまへり。

 怪しき神のさまざまのことしてなぶるわと、あまりのことに腹立たしく、あしずりして泣きに泣きつゝ、ひたばしりに追ひかけぬ。捕へて何をかなさむとせし、そはわれ知らず。ひたすらものの口惜(くちを)しければ、とにかくもならばとてなむ。

 坂もおりたり、のぼりたり、大路(おほみち)(おぼ)しき町にも出でたり、暗き(こみち)辿(たど)りたり、野もよこぎりぬ。(あぜ)も越えぬ。あとをも見ずて()けたりし。

 道いかばかりなりけむ、漫々たる水面やみのなかに銀河の如く(よこた)はりて、黒き、恐しき森四方をかこめる、大沼とも覚しきが、前途(ゆくて)(ふさ)ぐと覚ゆる蘆の葉の繁きがなかにわが身体(からだ)倒れたる、あとは知らず。

   五位鷺(ごゐさぎ)

 

 ()のふち清々(すがすが)しく、涼しき(かをり)つよく薫ると心着(こゝろづ)く、身は柔かき蒲団(ふとん)の上に()したり。やゝ枕をもたげて見る、竹縁(ちくえん)の障子あけ(はな)して、庭つゞきに向ひなる山懐(やまふところ)に、緑の草の、ぬれ色青く生茂(おひしげ)りつ。其半腹(はんぷく)にかゝりある巌角(いわかど)の苔のなめらかなるに、一挺(いつちやう)はだか(らふ)に灯ともしたる灯影(ほかげ)すゞしく、(かけひ)の水むくむくと湧きて玉ちるあたりに(たらひ)()ゑて、うつくしく髪結(かみゆ)うたる(ひと)の、身に一絲(いつし)もかけで、むかうざまにひたりて居たり。

 (かけひ)の水は其たらひに落ちて、(あふ)れにあふれて、地の(くぼ)みに流るゝ音しつ。

 (らふ)の灯は吹くとなき山おろしにあかくなり、くらうなりて、ちらちらと眼に映ずる雪なす(はだへ)白かりき。

 わが寝返る音に、ふと此方(こなた)を見返り、それと頷く(さま)にて、片手をふちにかけつゝ片足を立てて(たらひ)のそとにいだせる時、()と音して、烏よりは小さき鳥の真白(ましろ)きがひらひらと舞ひおりて、うつくしき人の(はぎ)のあたりをかすめつ。其まゝおそれげもなう(つばさ)を休めたるに、ざぶりと水をあびせざま莞爾(につこ)とあでやかに笑うてたちぬ。手早く(きぬ)もて其胸をば(おほ)へり。鳥はおどろきてはたはたと飛び去りぬ。

 夜の色は極めてくらし、(らふ)を取りたるうつくしき人の姿さやかに、庭下駄重く引く音しつ。ゆるやかに(えん)の端に腰をおろすとともに、手をつきそらして捩向(ねじむ)きざま、わがかほをば見つ。

「気分は(なほ)つたかい、坊や。」

 といひて(かうべ)を傾けぬ。ちかまさりせる(おもて)けだかく、眉あざやかに、瞳すゞしく、鼻やゝ高く、唇の(くれなゐ)なる、(ひたひ)つき頬のあたり(らふ)たけたり。こは(かね)てわがよしと思ひ(つめ)たる雛のおもかげによく似たれば(たふと)き人ぞと見き。年は姉上よりたけたまへり。知人(しりびと)にはあらざれど、はじめて逢ひし(かた)とは思はず、さりや、誰にかあるらむとつくづくみまもりぬ。

 またほゝゑみたまひて、

「お前あれは斑猫(はんめう)といつて大変な毒蟲なの。もう()いね、まるでかはつたやうにうつくしくなつた、あれでは姉様(ねえさん)が見違へるのも無理はないのだもの。」

 われも()あらむと思はざりしにもあらざりき。いまはたしかにそれよと疑はずなりて、のたまふまゝに頷きつ。あたりのめづらしければ起きむとする夜着(よぎ)の肩、ながく柔かにおさへたまへり。

「ぢつとしておいで、あんばいがわるいのだから、落着いて、ね、気をしづめるのだよ、()いかい。」

 われはさからはで、たゞ眼をもて答へぬ。

「どれ。」といひて立つたる折、のしのしと道芝(みちしば)を踏む音して、つゞれをまとうたる老夫(おやぢ)の、顔の色いと赤きが縁近う入り来つ。

「はい、これはお児さまがござらつせえたの、可愛いお児ぢや、お前様も嬉しかろ。はゝゝ、どりや、またいつものを頂きましよか。」

 腰をなゝめにうつむきて、ひつたりとかの筧に顔をあて、口をおしつけてごつごつごつとたてつゞけにのみたるが、ふツといきを吹きて空を(あふ)ぎぬ。

「やれやれ(うま)いことかな。はい、参ります。」

 と(くびす)を返すを、此方より呼びたまひぬ。

「ぢいや、御苦労だが。また来ておくれ、この児を返さねばならぬから。」

「あいあい。」

 と答へて去る。山風(さつ)とおろして、()の白き鳥また()ちおりつ。黒き盥のふちに乗りて()づくろひして静まりぬ。

「もう、風邪を引かないやうに寝させてあげよう、どれそんなら私も。」とて静に雨戸をひきたまひき。

    九ツ谺(こゝのつこだま)

 

 やがて添臥(そひぶし)したまひし、さきに水を()びたまひし(ゆゑ)にや、わが膚をりをり慄然(りつぜん)たりしが(なん)の心もなうひしと取縋(とりすが)りまゐらせぬ。あとをあとをといふに、をさな物語二ツ三ツ聞かせ給ひつ。やがて、

「一ツ(こだま)、坊や、二ツ谺といへるかい。」

「二ツ谺。」

()ツ谺、()ツ谺といつて御覧。」

「四ツ谺。」

「五ツ谺。そのあとは。」

()ツ谺。」

「さうさう七ツ谺。」

()ツ谺。」

「九ツ谺──こゝはね、九ツ谺といふ処なの。さあもうおとなにして寝るんです。」

 背に手をかけ引寄せて、玉の如き(その)乳房をふくませたまひぬ。(あらは)に白き(えり)、肩のあたり(びん)のおくれ毛はらはらとぞみだれたる、かゝるさまは、わが姉上とは(いた)く違へり。乳をのまむといふを姉上は許したまはず。

 ふところをかいさぐれば常に叱りたまふなり。母上みまかりたまひてよりこのかた三年(みとせ)()つ。

 ()の味は忘れざりしかど、いまふくめられたるはそれには似ざりき。垂玉(すゐぎよく)の乳房たゞ淡雪(あはゆき)の如く含むと舌にきえて()るゝものなく、すゞしき(つば)のみぞあふれいでたる。

 軽く(せな)をさすられて、われ(うつゝ)になる時、屋の棟、天井の上と(おぼ)し、(すさ)まじき音してしばらくは鳴りも止まず。こゝにつむじ風吹くと柱動く恐しさに、わなゝき(とり)つくを抱きしめつゝ、

「あれ、お客があるんだから、もう今夜は堪忍(かんにん)しておくれよ、いけません。」

 とキとのたまへば、やがてぞ静まりける。

「恐くはないよ。鼠だもの。」

 とある、さりげなきも、われはなほ其響(そのひゞき)のうちにものの叫びたる声せしが耳に残りてふるへたり。

 うつくしき人はなかばのりいでたまひて、とある蒔繪(まきゑ)ものの手箱のなかより、一口(ひとふり)守刀(まもりがたな)を取出しつゝ(さや)ながら(ひき)そばめ、雄々(をゝ)しき声にて、

「何が来てももう恐くはない、安心してお寝よ。」とのたまふ、たのもしき(さま)よと思ひてひたと其胸にわが顔をつけたるが、ふと眼をさましぬ。残燈(ありあけ)暗く床柱の黒うつやゝかにひかるあたり薄き紫の色籠めて、(かう)(かをり)残りたり。枕をはづして顔をあげつ。顔に顔をもたせてゆるく(とぢ)たまひたる眼の睫毛(まつげ)かぞふるばかり、すやすやと寝入りて居たまひぬ。ものいはむとおもふ心おくれて、しばし(みまも)りしが、淋しさにたへねばひそかに其唇に指さきをふれて見ぬ。指はそれて唇には届かでなむ、あまりよくねむりたまへり。鼻をやつままむ眼をやおさむとまたつくづくと(うち)まもりぬ。ふと其鼻頭(はなさき)をねらひて手をふれしに(くう)(ひね)りて、うつくしき人は(ひな)の如く顔の筋ひとつゆるみもせざりき。またその眼のふちをおしたれど水晶のなかなるものの形を取らむとするやう、わが顔は其おくれげのはしに(ほゝ)をなでらるゝまで近々とありながら、いかにしても指さきは其顔に届かざるに、はては心いれて、()の下に(おもて)をふせて、強く(ひたひ)もて()したるに、顔にはたゞあたゝかき(かすみ)のまとふとばかり、のどかにふはふはとさはりしが、薄葉(うすえふ)一重(ひとへ)(さゝ)ふるなく()けたる額はつと下に落ち沈むを、心()けば、うつくしき人の胸は、もとの如く(かたはら)にあをむき居て、わが鼻は、いたづらにおのが膚にぬくまりたる、柔き蒲団(ふとん)(うも)れて、をかし。

     渡 船(わたしぶね)

 

 夢幻(ゆめまぼろし)ともわかぬに、心をしづめ、眼をさだめて見たる、片手はわれに枕させたまひし(もと)のまま柔かに力なげに蒲団のうへに垂れたまへり。

 片手をば胸にあてて、いと白くたをやかなる五指(ごし)をひらきて黄金(わうごん)目貫(めぬき)キラキラとうつくしき(さや)(ぬり)の輝きたる小さき守刀(まもりがたな)をしかと持つともなく()のあたりに落して()ゑたる、鼻たかき顔のあをむきたる、唇のものいふ如き、閉ぢたる眼のほゝ笑む如き、髪のさらさらしたる、枕にみだれかゝりたる、それも(たが)はぬに、胸に(つるぎ)をさへのせたまひたれば、亡き母上の爾時(そのとき)のさまに(まが)ふべくも見えずなむ、コハこの君もみまかりしよとおもふいまはしさに、はや取除(とりの)けなむと、胸なる其守刀に手をかけて、つと引く、せつぱゆるみて、青き光眼(まなこ)を射たるほどこそあれ、いかなるはずみにか血汐(ちしほ)さとほとばしりぬ。眼もくれたり。したしたとながれにじむをあなやと(りやう)(こぶし)もてしかとおさへたれど、(とゞ)まらで、たふたふと音するばかりぞ淋漓(りんり)としてながれつたへる、血汐のくれなゐ(きぬ)をそめつ。うつくしき人は(せき)として石像の如く静なる鳩尾(みづおち)のしたよりしてやがて半身をひたし(つく)しぬ。おさへたるわが手には血の色つかぬに、(ともしび)にすかす指のなかの(くれなゐ)なるは、人の血の()みたる色にはあらず、(いぶか)しく()(こゝろ)むる(たなそこ)(その)血汐にはぬれもこそせね、こゝろづきて見定(みさだ)むれば、かいやりし夜のものあらはになりて、すゞしの絹をすきて見ゆる其膚(はだ)にまとひたまひし(くれなゐ)の色なりける。いまはわれにもあらで声高(こわだか)に、母上、母上と呼びたれど、叫びたれど、ゆり動かし、おしうごかししたりしが、(かひ)なくてなむ、ひた泣きに泣く泣くいつのまにか寝たりと(おぼ)し。顔あたゝかに胸をおさるゝ心地に眼覚めぬ。空青く晴れて日影まばゆく、木も草もてらてらと暑きほどなり。

 われはハヤゆうべ見し顔のあかき老夫(をぢ)(せな)()はれて、とある山路(やまぢ)()くなりけり。うしろよりは()のうつくしき人したがひ来ましぬ。

 さてはあつらへたまひし如く家に送りたまふならむと(おし)はかるのみ、わが胸の(うち)はすべて見すかすばかり知りたまふやうなれば、わかれの惜しきも、ことのいぶかしきも、取出(とりい)でていはむは(やく)なし。教ふべきことならむには、彼方(かなた)より先んじてうちいでこそしたまふべけれ。

 家に帰るべきわが運ならば、強ひて(とゞ)まらむと()ひたりとて何かせん、さるべきいはれあればこそ、と大人(おとな)しう、ものもいはでぞ行く。

 断崖(だんがい)の左右に(そび)えて、点滴声する処ありき。雑草高き(こみち)ありき。松柏(まつかしは)のなかを行く処もありき。きゝ知らぬ鳥うたへり。褐色(かつしよく)なる(けもの)ありて、をりをり(くさむら)(をど)()りたり。ふみわくる道とにもあらざりしかど、去年(こぞ)の落葉道を(うづ)みて、人多く(かよ)ふ所としも見えざりき。

 をぢは一挺(いつちやう)(をの)を腰にしたり。れいによりてのしのしとあゆみながら、(いばら)など()ひしげりて、(きぬ)の袖をさへぎるにあへば、すかすかと切つて払ひて、うつくしき人を通し参らす。されば山路(やまみち)のなやみなく、高き塗下駄の見えがくれに長き裾さばきながら来たまひつ。

 かくて大沼の岸に(のぞ)みたり。水は漫々として(らん)(たゝ)へ、まばゆき日のかげも此処(こゝ)の森にはさゝで、水面(すゐめん)をわたる風寒く、颯々(さつさつ)として声あり。をぢはこゝに来てソとわれをおろしつ。はしり寄れば手を取りて立ちながら肩を(いだ)きたまふ、衣の袖左右より長くわが肩にかゝりぬ。

 蘆間(あしま)小舟(をぶね)(ともづな)を解きて、老夫(をぢ)はわれをかゝへて乗せたり。一緒ならではと、しばしむづかりたれど、めまひのすればとて乗りたまはず、さらばとのたまふはしに(さを)を立てぬ。船は出でつ。わツと泣きて立上りしがよろめきてしりゐに倒れぬ。舟といふものにははじめて乗りたり。水を切るごとに眼くるめくや、背後(うしろ)に居たまへりとおもふ人の(おほい)なる()にまはりて前途(ゆくて)なる(みぎは)に居たまひき。いかにして渡し越したまひつらむと思ふときハヤ左手(ゆんで)なる(みぎは)に見えき。見る見る右手(めて)なる汀にまはりて、やがて(もと)のうしろに立ちたまひつ。()の形したる(おほい)なる沼は、汀の蘆と、松の木と、建札(たてふだ)と、其傍(そのかたはら)なるうつくしき人ともろともに(ゆる)き環を(ゑが)いて廻転し、はじめは(おもむ)ろにまはりしが、あとあと急になり、(はや)くなりつ、くるくるくるくると次第にこまかくまはるまはる、わが顔と一尺ばかりへだたりたる、まぢかき処に松の木にすがりて見えたまへる、とばかりありて眼の(さき)にうつくしき顔の(らふ)たけたるが莞爾(につこ)とあでやかに笑みたまひしが、そののちは見えざりき。蘆は繁く丈よりも高き(みぎは)に、船はとんとつきあたりぬ。

    ふるさと

 

 をぢはわれを(たす)けて船より()だしつ。また其背(せな)を向けたり。

「泣くでねえ泣くでねえ。もうぢきに坊ツさまの(うち)ぢや。」と慰めぬ。かなしさはそれにはあらねど、いふもかひなくてたゞ泣きたりしが、しだいに身のつかれを感じて、手も足も綿の如くうちかけらるゝやう肩に負はれて、顔を垂れてぞともなはれし。見覚えある板塀のあたりに来て、日のやゝくれかゝる時、老夫(をぢ)はわれを(いだ)き下して、(みぞ)のふちに立たせ、ほくほく(うち)ゑみつゝ、慇懃(いんぎん)会釈(えしやく)したり。

「おとなにしさつしやりませ。はい。」

 といひずてに何地(いづち)ゆくらむ。別れはそれにも惜しかりしが、あと追ふべき力もなくて見おくり果てつ。()(かた)もあらでありくともなく()をうつすに、(かしら)ふらふらと足の重たくて行悩(ゆきなや)む、前に行くも、後ろに帰るも皆見知越(みしりごし)のものなれど、(たれ)も取りあはむとはせで()きつ(きた)りつす。さるにてもなほものありげにわが顔をみつゝ行くが、(ひやゝ)かに(あざけ)るが如く憎さげなるぞ腹立(はらだた)しき。おもしろからぬ町ぞとばかり、足はわれ知らず向直(むきなほ)りて、とぼとぼとまた山ある方にあるき(いだ)しぬ。

 けたゝましき跫音(あしおと)して鷲掴(わしづかみ)(えり)を掴むものあり。あなやと振返ればわが(いへ)後見(うしろみ)せる奈四郎(なしろう)といへる力(たく)ましき叔父の、(すさ)まじき気色(けしき)して、

「つまゝれめ、何処(どこ)をほツつく。」と(わめ)きざま、引立(ひつた)てたり。また庭に引出(ひきいだ)して水をやあびせられむかと、泣叫びてふりもぎるに、おさへたる手をゆるべず、

「しつかりしろ。やい。」

 とめくるめくばかり背を()ちて宙につるしながら、走りて家に帰りつ。立騒ぐ(めし)つかひどもを叱りつも細引(ほそびき)を持て()さして、しかと両手をゆはへあへず奥まりたる三畳の暗き一室(ひとま)引立(ひつた)てゆきて其まゝ柱に(いまし)めたり。近く寄れ、(くひ)さきなむと思ふのみ、歯がみして(にら)まへたる、眼の色こそ(あや)しくなりたれ、(さか)つりたる(まなじり)()きもののわざよとて、寄りたかりて口々にのゝしるぞ無念なりける。

 おもての方さゞめきて、何処(いづく)にか行き居れる姉上帰りましつと(おぼ)し、(ふすま)いくつかぱたぱたと音してハヤこゝに来たまひつ。叔父は(しつ)の外にさへぎり迎へて、

「ま、やつと取返したが、縄を解いてはならんぞ。もう眼が血走つて居て、すきがあると駈け出すぢや。(エテ)どのがそれしよびくでの。」

 と(いまし)めたり。いふことよくわが心を得たるよ、然り、(ひま)だにあらむにはいかでかこゝにとゞまるべき。

「あ。」とばかりにいらへて姉上はまろび()りて、ひしと取着きたまひぬ。ものはいはでさめざめとぞ泣きたまへる、おん(なさけ)手にこもりて(いだ)かれたるわが胸絞らるゝやうなりき。

 姉上の膝に()したるあひだに、医師(きた)りてわが(みやく)をうかゞひなどしつ。叔父は医師とともに彼方(あなた)に去りぬ。

「ちさや、()うぞ気をたしかにもつておくれ。もう姉様(ねえさん)()うしようね。お前、(わたし)だよ。姉さんだよ。ね、わかるだらう、私だよ。」

 といきつくづくぢつとわが顔をみまもりたまふ、涙痕(るゐこん)したゝるばかりなり。

 其心の安んずるやう、()ひて顔つくりてニツコと(わら)うて見せぬ。

「おゝ、薄気味(うすきみ)が悪いねえ。」

 と(かたはら)にありたる奈四郎の妻なる人(つぶや)きて身ぶるひしき。

 やがてまた人々われを取巻きてありしことども責むるが如くに問ひぬ。くはしく語りて(うたがひ)を解かむとおもふに、をさなき口の順序正しく語るを得むや、根問(ねど)ひ、葉問(はど)ひするに一々説明(ときあ)かさむに、しかもわれあまりに疲れたり。うつゝ心に何をかいひたる。

 やうやくいましめはゆるされたれど、なほ心の狂ひたるものとしてわれをあしらひぬ。いふこと信ぜられず、すること皆人(みなひと)の疑を増すをいかにせむ。ひしと取籠(とりこ)めて庭にも(いだ)さで日を(すご)しぬ。血色わるくなりて()せもしつとて、姉上のきづかひたまひ、後見(うしろみ)の叔父夫婦にはいとせめて(かく)しつゝ、そとゆふぐれを忍びて、おもての景色見せたまひしに、門辺(かどべ)にありたる多くの児ども我が姿を見ると、一斉(いつせい)に、アレさらはれものの、気狂(きちがひ)の、狐つきを見よやといふいふ、砂利、小砂利をつかみて投げつくるは不断親しかりし朋達(ともだち)なり。

 姉上は袖もてわれを(かば)ひながら顔を赤うして()げ入りたまひつ。人目なき処にわれを引据ゑつと見るまに取つて伏せて、打ちたまひぬ。

 悲しくなりて泣出せしに、あわたゞしく(せな)をばさすりて、

堪忍(かんにん)しておくれよ、よ、こんなかはいさうなものを。」

 といひかけて、

(わたし)あもう気でも違ひたいよ。」としみじみと掻口説(かきくど)きたまひたり。いつのわれにはかはらじを、何とてさはあやまるや、世にたゞ一人なつかしき姉上までわが顔を見るごとに、気を(たしか)に、心を(しづ)めよ、と涙ながらいはるゝにぞ、さてはいかにしてか、心の狂ひしにはあらずやとわれとわが身を危ぶむやう其毎(そのたび)になりまさりて、(はて)はまことにものくるはしくもなりもてゆくなる。

 たとへば(あや)しき絲の十重二十重(とへはたへ)にわが身をまとふ心地しつ。しだいしだいに暗きなかに奥深くおちいりてゆく(おもひ)あり。それをば刈払(かりはら)ひ、遁出(のがれい)でむとするに其術(そのすべ)なく、すること、なすこと、人見て必ず、眉を(ひそ)め、(あざけ)り、笑ひ、(いやし)め、(のゝし)り、はた悲み憂ひなどするにぞ、気あがり、心(げき)し、たゞじれにじれて、すべてのもの皆われをはらだたしむ。

 口惜しく腹立たしきまゝ身の周囲(まはり)はことごとく(かたき)ぞと思はるゝ。町も、家も、樹も、鳥籠も、はたそれ何等(なんら)のものぞ、姉とてまことの姉なりや、さきには一たびわれを見て其弟を忘れしことあり。(ちり)一つとしてわが眼に()るは、すべてものの()したるにて、恐しきあやしき神のわれを悩まさむとて(げん)じたるものならむ。さればぞ姉がわが快復を祈る(ことば)もわれに心を狂はすやう、わざと()はいふならむと、一たびおもひては()ふべからず、力あらば(ほしいまゝ)にともかくもせばやせよかし、近づかば喰ひさきくれむ、蹴飛ばしやらむ、(かき)むしらむ、(すき)あらばとびいでて、九ツ(こだま)とをしへたる、たふときうつくしきかのひとの(もと)()げ去らむと、胸の湧きたつほどこそあれ、ふたゝび暗室(あんしつ)にいましめられぬ。

    千呪陀羅尼(せんじゆだらに)

 

 毒ありと疑へばものも食はず、藥もいかでか飲まむ、うつくしき顔したりとて、優しきことをいひたりとて、いつはりの姉にはわれことばもかけじ。眼にふれて見ゆるものとしいへば、たけりくるひ、(のゝし)り叫びてあれたりしが、つひには声も()でず、身も動かず、われ人をわきまへず心地死ぬべくなれりしを、うつらうつら()きあげられて高き石壇(いしだん)をのぼり、(おほい)なる門を()りて、赤土の色きれいに掃きたる一條(ひとすじ)の道長き、右左、石燈籠と石榴(ざくろ)の樹の小さきと、おなじほどの距離にかはるがはる(つゞ)きたるを行きて、(かう)(かをり)しみつきたる太き圓柱(まるばしら)(きは)に寺の本堂に据ゑられつ、ト思ふ耳のはたに竹を()(ひゞき)きこえて、僧ども五三人一斉に声を揃へ、高らかに(じゆ)する声耳を(ろう)するばかり(かし)ましさ()ふべからず、禿顱(とくろ)ならび居る木のはしの法師ばら、何をかすると、(こぶし)をあげて一人(いちにん)天窓(あたま)をうたむとせしに、一幅(ひとはゞ)の青き光(さつ)と窓を射て、水晶の念珠(ねんじゆ)瞳をかすめ、ハツシと胸をうちたるに、ひるみて(うづく)まる時、若僧(じやくそう)圓柱(えんちう)をいざり()でつゝ、つい居て、サラサラと金襴(きんらん)(とばり)を絞る、燦爛(さんらん)たる御厨子(みづし)のなかに(たふと)(すがた)こそ拝まれたれ。一段高まる経の声、トタンにはたゝがみ天地に鳴りぬ。

 端厳微妙(たんげんみめう)のおんかほばせ、雲の袖、霞の(はかま)ちらちらと瓔珞(えうらく)をかけたまひたる、玉なす胸に纖手(せんしゆ)を添へて、ひたと、をさなごを(いだ)きたまへるが、(あふ)ぐ仰ぐ瞳うごきて、ほゝゑみたまふと、見たる時、やさしき手のさき肩にかゝりて、姉上は念じたまへり。

 瀧や此堂にかゝるかと、折しも雨の降りしきりつ。(うづま)いて寄する風の音、遠き(かた)より(うな)り来て、どつと満山(まんざん)に打あたる。

 本堂青光(あおびかり)して、はたゝがみ堂の空をまろびゆくに、たまぎりつゝ、今は姉上を頼までやは、あなやと膝にはひあがりて、ひしと其胸を(いだ)きたれば、かゝるものをふりすてむとはしたまはで、あたゝかき(かひな)はわが(せな)にて組合はされたり。さるにや気も心もよわよわとなりもてゆく、ものを見る(あきら)かに、耳の鳴るがやみて、恐しき吹降(ふきぶ)りのなかに陀羅尼(だらに)(じゆ)する(ひじり)声々(こゑごゑ)さわやかに聞きとられつ。あはれに心細くもの(すご)きに、身の置処(おきどころ)あらずなりぬ。からだひとつ消えよかしと両手を肩に(すが)りながら顔もて其胸を押しわけたれば、(えり)をば()きひらきたまひつゝ、()の下にわがつむり押入れて、両袖を打かさねて深くわが背を(おほ)ひ給へり。御佛(みほとけ)(その)をさなごを(いだ)きたまへるも()くこそと嬉しきに、おちゐて、心地すがすがしく胸のうち安く平らになりぬ。やがてぞ(じゆ)もはてたる。(らい)の音も遠ざかる。わが()をしかと(いだ)きたまへる姉上の(かひな)もゆるみたれば、ソと其懐(ふところ)より顔をいだしてこはごは其顔をば見上げつ。うつくしさはそれにもかはらでなむ、いたくもやつれたまへりけり。雨風のなほはげしく(おもて)をうかゞふことだにならざる、静まるを待てば()もすがら暴通(あれとほ)しつ。家に帰るべくもあらねば姉上は通夜(つや)したまひぬ。其一夜(そのいちや)風雨(ふうう)にて、くるま山の山中(さんちう)(ぞく)九ツ谺(こゝのつこだま)といひたる谷、あけがたに(そま)のみいだしたるが、(たちま)(ふち)になりぬといふ。

 里の者、町の人皆(こぞ)りて見にゆく。日を()てわれも姉上とともに来り見き。其日一天(いつてん)うらゝかに空の色も水の色も青く澄みて、軟風(なんぷう)おもむろに小波(さゝなみ)わたる(ふち)の上には、(ちり)一葉(ひとは)の浮べるあらで、白き鳥の(つばさ)広きがゆたかに藍碧(らんぺき)なる水面を横ぎりて舞へり。

 すさまじき暴風雨(あらし)なりしかな。此谷もと薬研(やげん)の如き形したりきとぞ。

 幾株(いくかぶ)となき松柏の根こそぎになりて谷間に吹倒(ふきたふ)されしに山腹(さんぷく)の土落ちたまりて、底をながるゝ谷川をせきとめたる、おのづからなる堤防(ていぼう)をなして、凄まじき水をば(たゝ)へつ。(ひと)たびこのところ決潰(けつくわい)せむか、(じやう)(はな)の町は水底(みなそこ)の都となるべしと、人々の恐れまどひて、怠らず土を()り石を伏せて(かた)き堤防を(きづ)きしが、(あたか)も今の關谷少将(せきやせうしやう)の夫人姉上十七の時なれば、年つもりて、(ふたば)なりし常磐木(ときはぎ)もハヤ丈のびつ。草()ひ、苔むして、いにしへよりかゝりけむと思ひ(まが)ふばかりなり。

 あはれ(つぶて)(とう)ずる事なかれ、うつくしき人の夢や驚かさむと、血気(けつき)なる友のいたづらを叱り(とゞ)めつ。年若く(おもて)清き海軍の少尉候補生(せうゐこうほせい)は、薄暮(はくぼ)暗碧(あんぺき)(たゝ)へたる淵に(のぞ)みて粛然(しゆくぜん)とせり。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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泉 鏡花

イズミ キョウカ
いずみ きょうか 小説家。1873(明治6)年~1939(昭和14)年。石川県金沢市生まれ。帝国藝術院会員。大正時代から昭和初期までに活躍した小説家。『高野聖』で人気作家となる。他の主な作品に『照葉狂言』、『婦系図』、『歌行燈』などがある。  江戸文芸の影響を深くうけた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで知られ、日本語表現の魔術と賞賛された天才の一人と言われ、近代における幻想文学の先駆者としても評価される。古今独歩の美しい幻想境を歩む一方、愛憎の念とともに日本社会の虚栄虚飾に批評の視線を鋭く刺しこみ、自ら弱者との共同歩調を生涯堅持した。その思想と姿勢とを象徴的に打ち出した世界は「海=水」、その主たる龍・蛇は生涯の作品に隠見して優れた主題性を示している。

掲載作は、1896(明治29)年11月「文藝倶楽部」初出。鏡花のかかえた多彩で深い課題をみごとに集約した初期の傑作。

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