昔、此の島に一人の極めて哀れな男がゐた。年齢を数へるといふ不自然な習慣が此の辺には無いので、幾歳といふことはハツキリ言へないが、余り若くないことだけは確かであつた。髪の毛が余り縮れてもをらず、鼻の頭がすつかり潰れてもをらぬので、此の男の醜貌は衆人の顰笑の的となつてゐた。おまけに唇が薄く、顔色にも見事な黒檀の様な艶が無いことは、此の男の醜さを一層甚だしいものにしてゐた。此の男は、恐らく、島一番の貧之人であつたらう。ウドウドと称する勾玉の様なものがパラオ地方の貨幣であり、宝であるが、勿論、此の男はウドウドなど一つも持つてはゐない。ウドウドも持つてゐない位だから、之によつて始めて購ふことの出来る妻をもてる訳がない。たつた独りで、島の第一長老の家の物置小舎の片隅に住み、最も卑しい召使として仕へてゐる。家中のあらゆる卑しい勤めが、此の男一人の上に負はされる。怠け者の揃つた此の島の中で、此の男一人は怠ける暇が無い。朝はマンゴーの繁み に囀る朝鳥よりも早く起きて漁に出掛ける。手槍で大蛸を突き損つて胸や腹に吸ひ附かれ、身体中腫れ上ることもある。巨魚タマカイに追はれて生命からがら独木舟に逃げ上ることもある。盥ほどもある車渠貝に足を挟まれ損つたこともある。午になり、島中の誰彼が木蔭や家の中の竹床の上でうつらうつら午睡をとる時も、此の男ばかりは、家内の清掃に、小舎の建築に、椰子蜜採りに、椰子縄綯ひに、屋根葺きに、家具類の製作に、目が廻る程忙しい。此の男の皮膚はスコールの後の野鼠の様に絶えず汗でびつしより濡れてゐる。昔から女の仕事と極められてゐる芋田の手入の外は 、何から何迄此の男が一人で働く。陽が西の海に入つて、麺麭の大樹の梢に大蝙蝠が飛び廻る頃になつて、漸く此の男は、犬猫にあてがはれるやうなクカオ芋の尻尾と魚のあらとにありつく。それから、疲れ果てた身体を固い竹の床の上に横たへて眠る——パラオ語でいへばモ・バヅ、即ち石になるのである。
彼の主人たる此の島の第一長老はパラオ地方 ——北は此の島から南は遠くペリリュウ島に至る——を通じて指折の物持ちである。此の島の芋田の半分、椰子林の三分の二は此の男のものに属する。彼の家の台所には、極上鼈甲製の皿が天井迄高く積上げられてゐる。彼は毎日海亀の脂や石焼の仔豚や人魚の胎児や蝙蝠の仔の蒸焼などの美食に饜いてゐるので、彼の腹は脂ぎつて孕み豚の如くにふくらんでゐる。彼の家には、昔その祖先の一人がカヤンガル島を討つた時敵の大将を唯の一突きに仕留めたといふ誉れの投槍が蔵されてゐる。彼の所有する珠貨は、玳瑁が浜辺で一度に産みつける卵の数ほど多い。その中で一番貴いバカル珠に至つては、環礁の外に跳梁する鋸鮫でさへ、一目見て驚怖退散する程の威力を備へてゐる。今、島の中央に巍然として屹立する・蝙蝠模様で飾られた・反り屋根の大集会場を造つたものも、島民一同の自慢の種子である蛇頭の真赤な大戦舟を作つたのも、凡て此の大支配者の権勢と金力とである。彼の妻は表向きは一人だが、近親相姦禁忌の許す範囲に於て、実際は其の数は無限といつてよい。
此の大権力者の下僕たる・哀れな醜い独り者は、身分が卑しいので、直接の主人たる此の第一長老は固より、第二第三第四ルバックの前を通る時でも、立つて歩くことは許されなかつた。必ず匍匐膝行して過ぎなければならないのである。もし、独木舟に乗つて海に出てゐる時に長老の舟が近付かうものなら、賎しき男は独木舟の上から水中に跳び込まねばならぬ。舟の上から挨拶する如き無礼は絶対に許されない。或る時さうした場合にぶつかり、彼が謹しんで水中に飛び込まうとすると、一匹の鱶の姿が目に入つた。彼が躊躇するのを見た長老の従者が、怒つて棒切を投げつけ、彼の左の目を傷つけた。已むを得ず、彼は鱶の泳いでゐる水の中に跳び込んだ。其の鱶がもう三尺大きい奴だつたら、彼は、足の指を三本喰切られただけでは済まなかつたに違ひない。
此の島から遙か南方に離れた文化の中心地コロール島には、既に、皮膚の白い人間共が伝へたといふ悪い病が侵入して来てゐた。その病には二つある。一つは、神聖な天与の秘事を妨げる怪しからぬ病であつて、コロールでは男が之にかかる時は男の病と呼ばれ、女がなる場合は女の病といはれる。もう一つの方は、極めて微妙な徴候の容易に認め難い病気であつて、軽い咳が出、顔色が蒼ざめ、身体が疲れ、痩せ衰へて何時の間にか死ぬのである。血を喀くこともあれば、喀かないこともある。此の話の主人公たる哀れな男は、どうやら、この後の方の病気にかかつてゐたらしい。絶えず空咳をし、疲れる。アミアカ樹の芽をすり潰して其の汁を飲んでも、蛸樹の根を煎じて飲んでも、一向に効き目が無い。彼の主人は之に気が付き、哀れな下男が哀れな病気になつたことを大変ふさはしいと考へた。それで、此の下男の仕事は益々ふえた。
哀れな下男は、しかし、大変賢い人間だつたので、己が運命を格別辛いとは思はなかつた。己の主人が如何に苛酷であつても、尚、自分に、視ることや聴くことや呼吸すること迄禁じないから有難いと思つてゐた。自分に課せられる仕事が如何に多くとも、なほ婦人の神聖な天職たる芋田耕作だけは除外されてゐることを有難く思はうと考へた。鱶のゐる海に跳び込んで足の指三本を失つたことは不幸のやうだが、それでも脚全体を喰切られなかつたことを感謝しよう。空咳の出る疲れ病に罹つたたことも、疲れ病と同時に男の病に迄罹る人間もあることを思へば、少くとも一つの病だけは免れたことになる。自分の頭髪が乾いた海藻の様に縮れてゐないことは明らかに容貌上の致命的欠陥には違ひないが、荒れ果てた赭土丘の様に全然頭髪の無い人間だつて俺は知つてゐる。自分の鼻が踏みつけられたバナナ畑の蛙のやうに潰れてゐないことも甚だ恥づかしいことは確かだが、しかし、全然鼻のなくなつた腐れ病の男も隣の島には二人もゐるのだ。
だが、足るを知ること斯くの如き男でも、やはり、病が酷いよりも軽い方がいいし、真昼の太陽の直射の下でこき使はれるよりも木蔭で午睡をした方が快い。哀れな賢い男も、時には、神々に祈ることがあつた。病の苦しみか労働の苦しみか、どちらかを今少し減じ給へ。もし此の願が余りに慾張り過ぎてゐないなら、何卒、と。
タロ芋を供へて彼が祈つたのは、椰子蟹カタツツと蚯蚓ウラヅの祠である。此の二神は共に有力な悪神として聞えてゐる。パラオの神々の間では、善神は供物を供へられることが殆ど無い。御機嫌をとらずとも祟をしないことが分つてゐるから。之に反して、悪神は常に鄭重に祭られ多くの食物を供へられる。海嘯や暴風や流行病は皆悪神の怒から生ずるからである。さて、力ある悪神、椰子蟹と蚯蚓とが哀れな男の祈願を聞入れたのかどうかとにかくそれから暫くして、或晩この男は妙な夢を見た。
其の夢の中で、哀れな下僕は何時の間にか長老になつてゐた。彼の坐つてゐるのは母屋の中央、家長のゐるべき正座である。人々は皆唯々として彼の言葉に従ふ。彼の機嫌を損ねはせぬかと惴々焉として懼れるものの如くである。彼には妻がある。彼の食事の支度に忙しい婢女も大勢ゐる。彼の前に出された食卓の上には、豚の丸焼や真赤に茹だつたマングローブ蟹や正覚坊の卵が山と積まれてゐる。彼は事の意外に驚いた。夢の中ながら、夢ではないかと疑つた。何か不安で仕方が無い。
翌朝、目が醒めると、彼はやはり屋根が破れ柱の歪んだ何時もの物置小舎の隅に寝てゐた。珍しく、朝鳥の鳴く音にも気付かず寝過ごしたので、家人の一人に酷く叩かれた。
次の夜、夢の中で彼は又長老になつた。今度は彼も前夜程驚かない。下僕に命令する言葉も前夜よりは大分横柄になつて来た。 食卓には今度も美味佳肴が堆く載つてゐる。妻は筋骨の逞しい申し分の無い美人だし、章魚の木の葉で編んだ新しい茣蓙の敷き心地もヒヤヒヤと冷たくて誠に宜しい。しかし、朝になると、依然として汚ない小舎の中で目を醒ました。一日中烈しい労働に追ひ使はれ、食物としてはクカオ芋の尻尾と魚のあらとしか与へられないことも今迄通りである。
次の晩も、次の次の晩も、それから毎晩続いて、哀れな下僕は夢の中で長老になつた。彼の長老ぶりは次第に板について来た。御馳走を見ても、もう初めの頃のやうに浅間しくガツガツするやうなことは無い。妻との間に争ひをしたことも度重なつた。妻以外の女に手出しが出来ることを知つてか らも久しくなる。島民等を頤使して、舟庫を作らせたり祭祀をとり行つたりもした。司祭に導かれて神前に進む彼の神々しさに、島民共は斉しく古英雄の再来ではないかと驚嘆した。彼に仕へる下僕の一人に、昼間の彼の主人たる第一長老と覚しき男がゐる。此の男の彼を怖れる様といつたら、可笑しい位である。それが面白さに、彼は、第一長老に似た此の下僕に一番酷い労働をいひつける。漁もさせれば、椰子蜜採りもさせる。我が乗る舟の途に当るからとて、此の下僕を独木舟から鱶の泳ぐ水中に跳び込ませたこともある。哀れな下僕の慌てまどひ畏れる様が、彼にいたく満足を与へる。
昼間の劇しい労働も苛酷な待遇も最早彼に嘆声を洩らさせることはない。賢い諦めの言葉を自らに言つて聞かせる必要もなくなつた。夜の楽しさを思へば、昼間の辛労の如き、ものの数ではなかつたからである。一日の辛い仕事に疲れ果てても、彼は世にも嬉しげな微笑を浮べつつ、栄耀栄華の夢を見るために、柱の折れかかつた汚ない寝床へと急ぐのであつた。さういへば、夢の中で摂る美食の所為であらうか、彼は近頃めつきり肥つて来た。顔色もすつかり良くなり、空咳も何時かしなくなつた。見るからに生き生きと若返つたのである。
丁度哀れな醜い独身者の下僕が斯うした夢を見始めた頃から、一方、彼の主人たる富める大長老も亦奇態な夢を見るやうになつた。夢の中で、貴き第一長老は惨めな貧しい下僕になるのである。漁から椰子蜜採りから椰子縄作りから麺麭の実取りや独木舟造りに至る迄、ありとあらゆる労働が彼に課せられる。かう仕事が多くては、無数に手の生えてゐる蜈蚣でも遣り切れまいと思はれる程だ。其等の用をいひつける主人といふのが、昼間は己の最も卑しい下僕である筈の男である。之がひどく意地悪で、次から次へと無理をいふ。大蛸には吸ひ附かれ、車渠貝には足を挟まれ、鱶に足指を切られる。食事といへば、芋の尻尾と魚のあらばかり。毎朝、彼が母屋の中央の贅沢な茣蓙の上で目を醒ます時は、身体は終夜の労働にぐつたりと疲れ、節々がズキズキと痛むのである。毎晩斯ういふ夢を見てゐる中に、第一長老の身体から次第に脂気がうせ、出張つた腹が段々しぼんで来た。実際芋の尻尾と魚のあらばかりでは、誰だつて痩せる外はない。月が三回盈欠する中に長老はみじめに衰へて、いやな空咳までするやうになつた。
竟に、長老が腹を立てて下僕を呼びつけた。夢の中で己を虐げる憎むべき男を思ひ切り罰してやらうと決心したのである。
所が、目の前に現れた下僕は、曾ての痩せ衰へた・空咳をする・おどおどと畏れ惑ふ・哀れな小心者ではなかつた。何時の間にかデツプリと肥り、顔色も生き生きとして元気一杯に見える。それに、其の態度が如何にも自信に充ちてゐて、言葉こそ叮嚀ながら、どう見ても此方の頤使に甘んずるものとは到底思はれない。悠揚たる其の微笑を見ただけで、長老は相手の優勢感にすつかり圧倒されて了つた。夢の中の虐待者に対する恐怖感迄が甦つて来て彼を脅した。夢の世界と昼間の世界と、何れがより現実なのかといふ疑が、チラと彼の頭を掠めた。痩せ衰へた自分の如き者が今更咳をしながら此の堂々たる男を叱り付けるなどとは、思ひも寄らぬ。
長老は、自分でも予期しなかつた程の慇懃な言葉で、下男に向ひ、彼が健康を回復した次第を尋ねた。下男は詳しく夢のことを語つた。如何に彼が夜毎美食に饜き足るか。如何に婢僕にかしづかれて快い安逸を娯しむか。如何に数多の女共によつて天国の楽しみを味はふか。
下僕の話を聞き終つて、長老は大いに驚いた。下男の夢と己の夢との斯くも驚くべき一致は何に基くのか。夢の世界の栄養が醒めたる世界の肉体に及ぼす影響は、又斯くの如く甚だしいのか。夢の世界が昼の世界と同じく〈或ひはそれ以上に〉現実であることは、最早疑ふ余地が無い。彼は、恥を忍んで、下男に己が毎夜の夢のことを告げた。如何に自分が夜毎劇しい労働を強ひられるか。如何に芋の尻尾と魚のあらとだけで我慢せねばならぬか。
下男はそれを聞いても一向に驚かぬ。さもあらうと云つた顔付で、疾くに知つてゐた事を聞くやうに、満足げな微笑を湛へながら鷹揚に頷くく。其の顔は、誠に、干潟の泥の中に満腹して眠る海鰻の如く、至上の幸福に輝いてゐる。この男は、夢が昼の世界よりも一層現実であることを既に確信してゐるのであらう。アアと心からの溜息を吐きながら、哀れな富める主人は貧しく賢い下僕の顔を嫉ましげに眺めた。
* * *
右は、今は世に無きオルワンガル島の昔話である。オルワンガル島は、今から八十年ばかり前の或日、突然、住民諸共海底に陥没して了つた。爾来、この様な仕合せな夢を見る男はパラオ中にゐないといふことである。
〈昭和十七年十一月〉