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ADIEU(わかれ)

   (上)巴里に於ける最後の一日

 

 絶望――Desespoire(デゼスポワール)――

 最後の時間は刻々に迫つて来た。明日(あした)の朝には、どうしても此の巴里(パリ)を去らねばならぬ。永遠に巴里と別れねばならぬのである。(すで)に此の春の、自分は、花咲く前に帰らねばならなかつた、(すべ)ての事情を押除(おしゝりぞ)け、医士の忠告を(がえん)ぜず、病躯を提げながら一日二日と、漸くに今日が今日まで、巴里に足を(とゞ)めて居つたのであつたが、滞在の金もいよいよ尽きた。明後日ロンドン出帆の日本汽船に乗るべく、其の前日中には是非とも彼地(かのち)(おもむ)いて居ねばならぬ。

 自分が久振(ひさしぶり)、日本に帰ると云ふので、二三の親しい友達が、自分をばシヤンゼリゼーの木蔭なる料理屋に招待して、別れのシヤンパンをついで呉れたのも、早や昨夜(ゆふべ)の事。料理屋を出てからは、同じ青葉の影に美しい灯を(とも)すカツフヱー、コンセールに流行唄を聞き、更にプールヴアールに出でゝ、()ある美しいカツフヱーの一間(ひとま)に、イスパニヤの美人がカスタニヱツト打鳴らす乱舞を眺め、短夜(みぢかよ)の明くるのをも打忘れて居た。

 放蕩に夜を(あか)して帰る道すがら、幾度となく眺め(あじわ)うた巴里の街、セーヌの河景色も、あゝあれが見収(みおさ)めであつたのか!

 朝日が早くも、ノートルダームの鐘楼に反射するのを見ながら、自分はとぼとぼとカルチヱーラタンの宿屋に帰つた。窓の幕を引き、室中(しつちふ)を暗くして、直様(すぐさま)眠りに就かうとしたが、巴里に居るも此の日一日と思へば、とても安々(やすやす)眠付(ねつ)かれるものではない。リユキザンブルグの公園の森に勇しく囀る夜明けの小鳥の声、ソルボンの時計台の鐘の音が聞える。市場(マール)に行くらしい重い荷車の音が遠くに響く。

 自分は寝台の上から仰向(あふむ)きに、天井を眺めて、自分は何故一生涯巴里に居られないのであらう、何故フランス人に生れなかつたのであらうと、自分の運命を憤るよりは果敢(はかな)く思ふのであつた。自分には巴里で死んだハイネやツルゲネフやシヨーパンなどの身の上が不幸であつたとは、どうしても思へない。兎に角、あの人達は(とゞ)まらうとした藝術の首都に永生止り得た藝術家ではないか。自分はバイロンの如く祖国の山河を罵つて、一度は勇しく異郷に旅立はしたものゝ、生活と云ふ単純な問題、金銭と云ふ俗な煩ひの為めに、(まよう)て犬のやうに、すごすご、おめおめ、(もと)の古巣に帰つて行かねばならぬ。あゝ何と云ふ意気地のない身の上であらう。

 誰であつたか、()し巴里でいよいよ食へなくなれば料理屋かカツフヱーの給仕人になるがよいと云つて居たのを聞いた事がある。自分は忽ち寝床から飛起きて、一度び()ぎ捨てた衣服に手をかけたが、連夜の放蕩と、殊には昨夜の今朝方(けさがた)まで飲み続けたシヤンパンの為に、頭がふらふらするばかりか、身体(からだ)は疲れ切つて、節々(ふしぶし)が馬鹿に痛い。あゝ、こんな身体(からだ)ではガルソンは愚か、何にも出来たものぢや無い、娼婦(をんな)で生活する情夫(マクロー)にさへもなれはしまい。

 再び(とこ)の上に倒れ…………然し自分はどうしても日本に帰りたくない、巴里に止りたいと、同じ事を考へるのであつた。

 朝日が引廻した窓掛(リドー)の間から斜めに床板の上まで射込(さしこ)んで来た。彼方此方(あちこち)で窓や(へや)の戸を開ける音、水を捨てる音もする。強い煮立(にたて)のカツフヱーの香が何処からともなく(にほ)ふ。壁越しに隣の室で、男と女が寝覚めのひそひそ話をするのも聞え出す、自分は気を取られて、何時(いつ)となく耳を(そばだ)てたが、其の時、窓下の中庭(クール)で、宿の下男が水道のボンプを(うごか)しながら、

  Quoi, maman, vous n'etiez pas sage?

  -non, vraiment! et de mes appas,

  Seule, a quinze ans, j'appris l'usage,

  Car la nuit,je ne dormais pars.

  それや、ほんま、お(つか)さんにも似合はない、

  私や物好き十五の時に、寝られない夜の物憂さに、

  つい知り(そめ)た色の道

と寝ぼけた声で歌ひ出した。

 ノルマンデーからでも来たらしい、あの田舎くさい、銅鑼声(どらごゑ)も、日本に帰つては再び聞く事の出来ないフランスの俗謡かと思ふと、自分はオペラでも聞くやうに身を(のば)した。あゝ自分は何故(なぜ)、こんなにフランスが好きなのであらう。

 フランス! あゝフランス! 自分は中学校で初めて世界歴史を学んだ時から、子供心に何と云ふ理由もなくフランスが好きになつた。自分は未だ(かつ)て、英語に興味を持つた事がない。一語(ひとこと)でも二語(ふたこと)でも、自分はフランス語を口にする時には、無上の光栄を感ずる。自分が(すぐ)る年アメリカに渡つたのも、直接にフランスを(おとな)ふべき便宜のない身の上は、かゝる機会を捕へやうが為めの手段に過ぎなかつた。旅人の空想と現実とは常に錯誤すると云ふけれど、現実に見たフランスは、見ざる以前のフランスよりも更に美しく、更に優しかつた。あゝ! わがフランスよ! 自分はおん身を見んが為めにのみ、此の世に生れて来た如く感ずる。自分は日本の国家が、藝術を虐待し、恋愛を罪悪視することを見聞きしても、最早(もは)や要なき憤怒(ふんぬ)を感じまい。日本は日本伝来の習慣によつて、(むし)()()すまゝたらしめよ。世界は広い。世界にはフランスと云ふ国がある。此の事実は、(しいた)げられたる我が心に、何と云ふ強い慰めと力とを与へるであらう。フランスよ、永世(とこしへ)に健在なれ! もし将来の歴史に亜細亜(アジア)の国民が世界を統一するが如き権勢を示す事があつたら、フランス人よ! 全力を挙げてルーブルの宮殿を守つて呉れよ。ベヌスの像に布の腰巻(こしまき)されぬやうに(つるぎ)を磨けよ。自分は神聖なる藝術、ミユーズの女神の為に、モリヱールを禁じた国民の発達を悲しむ。恐れる。

 家内の階段をば上り下りする靴の音が繁くなり、往来の方では車や人の声もする。夏の朝日は窓掛(リドー)布地(きれぢ)を射通して、室中を(あかる)くし始めた。

 

 十一時過ぎまで眼を()いたなり、自分は床の上に横臥(よこたは)つて、外国で暮した此の年月のさまざまな出来事、恋の冒倹、さては今度日本に帰つて後の境遇なぞ、とやかくと考へて居たが、ついには其れにも()かれてか、覚えず居眠りして、いよいよ起出て顔を洗つたのは午後の二時に近い。

 いつも行く角の安料理屋で食事を済ますと、自分は又考へた。どうして此の半日、最後の半日を送らうか?

 料理屋の硝子戸から、サンミシヱルの大通を眺めると、六月に近い日の光が一面に輝いて居る。街の両側に植付けた(マロニヱー)の若葉の緑りは云はれぬ程(あざや)かな、其の下をばいつも絶えざる人通りに(まぢ)つて、美しい女の夏衣(なつぎ)と、日傘の色が目覚めるばかり引立つ。行き違ひざま、買立(かひた)てらしいパナマを冠つた学生の一群が、日傘の一人を呼び止めて何か笑ひながら立話しをして居た、かと思ふと、皆一緒になつて、面白さうにリユキザンブルグ公園の方へと散歩して行つた。

 自分は今日の半日、出来る事ならば、見て見飽きぬ巴里の全市街をば、今一度、一時(ひととき)に歩き廻つて見たいとも思つたが、此広い都会の其れも早やかなはぬ望みである。自分は春の午過を毎日のやうに読書と黙想に耽つたあの公園の木蔭メヂシの噴井(ふんせい)(Fontaine de Marie de Medicis)のほとりに、わが巴里に於ける最後の午後を送るが適当であらう――さう思ふや否や、自分は日傘の女を囲んで戯れながら行く、()の書生の後を追ひ、爪先き上りの大通を斜めに突切り、直ぐと公園の鉄柵を(くゞ)つた。

 柵に近く詩人ルコント、ド、リールの石像の周囲には、五色に色分けしたチユリツプの花が、明い日光を受けて錦の織模様のやう。其の後一面、やがて泉水(パツサン)の方へ下るあたりまで、さしもに広い園内は、正しく列をなした(マロニヱー)の木立の若葉で、こんもりと緑深く蔽ひ尽されて居る。若葉は極く薄く(やわらか)な処から、夏の青空の光は、自由に其の一枚一枚を射通すので、下から見上げると、丁度緑色の画硝子で張詰めた天井も同様、薄明く色づいた木の下蔭一面は、伽藍(カテドラル)の内部に等しい冷な空気と幽邃な光線とで、人の心は云ひ知れず静まつて行き、木立を越した柵外の往来には、人や車が(せは)しげに通りながら、然し、其れは却つて、薄暗い寺院の壁の画面でも望むやうに、如何(いか)にも遠く隔つて見える。

 何時も夢見勝ちな、若い悩みに苦しむらしい巴里の処女や、其れにも劣らず若々しく見える人の妻は、この夢かと思はれる薄明(うすあかる)い木蔭の椅子に腰かけ、俯向き勝ちに其の真白な(うなじ)を見せながら、読書して居る。編物(あみもの)して居る。繍取(ぬひと)りして居る。何にもせずに茫然として、梢高く鳴く黒鳥(メール)や駒鳥の前に耳を澄して居るのもある。三人四人と椅子を近寄せて話しをして居るのもあるが、互に身につまされる事でも打明け合ふ様に、小声でしんみりと語合(かたりあ)つて居る。乳母車を押す田舎出の乳母の中には、帽子の代りに黒いリボンを大く蝶結びにした若い美しいアルサス出の児守(こもり)の姿が目立つて見える。人形よりも可愛らしい幼児(をさなご)が、彼方此方の木の根元で、砂掘りの遊びをして居る。其様子をば、通りすがりの杖を止め、衰へた悲しい眼でぢつと打目戌(うちまも)つて居る見すぼらしい白髪の老爺がある。互に若い同志の、身を(もた)れ合して、覚めて居るとも、居眠るともなく、うつとりと思ひに耽ける男女もある。其等、恋の幾組を、遠くから淋し()に、読みさしの書物を膝に()せたまゝ打眺めて居る額の青い、鬚の長い詩人らしい男も居る。

 凡ては皆生きた詩である。極みに達した幾世紀の文明に、人も自然も悩みつかれた、此の巴里ならでは見られない、生きた悲しい詩ではないか。ボードレールも、自分と同じやうに、モーパツサンも亦自分と同じやうに、此の午過ぎの木蔭を見て、尽きぬ思ひに耽つたのかと思へば、自分はよし故国の文壇に名を知られずとも、藝術家としての幸福、光栄は、最早やこれに過ぎたものはあるまい!

 頭の上で、鳩が二三羽、太い鳴声と共に、古びたメヂシの噴井(ふんせい)の方に飛立つ。其の羽音と共に、橡樹(マロニヱー)の白い花が、散つたる上にも、またはらはらと散る。

 自分は噴井に近い木蔭のベンチに腰を下し、今目に入るものは(ことごと)く、草や花の色は無論、女が着たる衣服の流行迄深く深く、永遠に、心の底に彫込(きざみこ)んで置かうと思ひ、少時(しばし)目を(つぶ)つては又打眺め、打眺めては又少時(またしばし)、目を(つぶ)つて黙想した。

 

 日は次第に暮れて行く。若葉の蔭の人影は、一個々々(ひとりひとり)に消去つて、黄金色(こがねいろ)した夕陽が、斜めに取り散した四辺(あたり)空椅子(あきいす)の上まで射込(さしこ)んで来るので、木蔭一面、公園中は昼よりも一層明くなつたかと思はれる。が、其れも暫くで、木立を越したルユキザンブウルの建物と、其後に聳ゆるサン、スユルピースの寺院の塔の頂が、僅かな遠近によつて、著しい濃淡を示すやうになると、フランス特有の紫色なす黄昏(たそがれ)は、夢の如く巴里の街を蔽ふのである。あゝ、巴里の黄昏! 其の美しさ、其の賑かさ、其の趣きある景色は、一度巴里に足を入れたものゝ長く忘れ得ぬ、色彩(いろ)と物音の混乱である。

 晴れ切つた日の終りの青空は、西から射す夕照(ゆふやけ)の色を混じて、濃く染めた様に紫色になる、と、立ち続く白い石造の人家や、広い平な道路の表は、其の反映で、一様に薄く水浅黄色(みづあさぎいろ)になり、空気は(ひやゝか)に清く澄み渡つて、屋根も人も車も、見るもの(ことごと)く洗出したやうに際立(きわだ)ち、浮上つて来るが、何処にやら、云はれぬ境に不明な影が漂つて居て、心は何とも知れず、遠い遠い昔の方へ持運ばれて行くやうな気がする。押しては返す潮のやうに、馬車、電車、乗合馬車(オムニバス)、自働車、往来の人の(なだ)れを打つさま、四辺(あたり)一面に湧出る燈火の光に、自然と引入れられて、歩む足もいはれなく(いそが)はしく、気のせき立つて来れば来る程、何処を行くのか意識が朧ろになり、目は無数の色の動揺、心は万種の物音に掻乱(かきみだ)されるばかりである。

 自分は夕飯を済ますや否や、外はまだ黄昏(たそがれ)――九時が打たねば全くの夜にはならぬ長い巴里の街の黄昏を歩み、日頃行き馴れたソルボン角のカツフヱーに休んだ。

 青い植木の鉢物を置いた道傍(みちばた)のテラースは無論、広い家の内まで、丁度夕涼の人の出盛りで、界隈(かいわい)の書生や画工、其れ等を相手の女達で、殆んど()いた椅子もないやうに込合つて居る。自分は奏出(そうしいだ)(にぎやか)な音楽、騒しい人声、明い電燈、美しい女の帽子に、沈み果てた心をば、少時(しばし)の間でも元気づけ、せめては、わが最後の晩をばたわい無く送つて見たいと思つたが、如何(いか)に強いアブサント酒の一杯も、死刑の人の名残に飲む酒と同じく、此の時ばかりは何の効力(きゝめ)もない。自分は音楽、人声、皿の響の騒然たる中に、時間の進む事ばかりを思詰める、と、かの(ゆるや)かな舞踏(ワルス)の拍子が、時間の進みを刻んで行くやうに思はれて、殆ど座に居たゝまれぬ程、気がいら立つ。されば、やがて、横町の突当り、電燈の光で蒼白く見える哲人オーギユスト、コント石像の後に聳ゆるソルボンの大時計が何時(なんじ)とも知れず、沈んで鋭い時の鐘を打出した時には、自分は其の響の数が一ツ一ツ、毒の雫の身に腐れ()る如く覚えた。

 おゝ! この苦痛! 自分はあたりの椅子、机、皿を打破(うちこは)し、猛獣の如く荒れ廻つて見たいとも思ふ。同時に又、あゝ此れほどまでに苦悶して名残を惜しむものを、巴里の都は自分の心情とは全く無関係で、今や蒼然たる夜の衣に、燦爛たる燈火の飾りを付けて、限りない歓楽の夢に入らうとして居るのかと思へば、自分は暗い裏街の、冷い寺院の壁に身をかくし、人知れず声を上げて泣きたい気もする。

 あゝ、Mon Dieu(わが神よ)自分はどうしたら()いのであらう。いつそ、今、咄嗟の間に、汽車の発する時間が来て(くれ)ればよい。自分は、到底(とても)、ぢツとして此の一夜の明けるのを待つ事は出来ぬ。動くに()くはない。身体を何処へなり動かしたならば、幾分か気のまぎれ、心の変る機会もあらう。自分は往来を通過ぎる自働車(オートモビル)を呼び止めた。

 車に乗らうとする時であつた。二人連の女が丁度散歩しながら、カツフヱーに小休みしやうとして、自分の姿を見付け、遠慮もなく、

「一緒に乗せてツて頂戴! 散歩なさるんでせう。」と云ふ。

 Oui, Mesdames(ウイ メダーム)――自分は散歩するのだ。夜の明けるまで、巴里中を風のやうに飛び廻はらうと思ふのである。

 夜は更けるに従ひ云ふばかりもなく蒼くなつて来た。並木の大通はカツフヱー室内も同様、電燈の光まばゆい中に自分らの乗つた自働車は、往来(ゆきゝ)の男女のさゞめく間をば、さながら(えば)に飢えた大鷲の、小鳥の歌を聞付けて突進する如く、(あかる)い中にも又明い燈火の巷を目掛けて、世界の放蕩場モンマルトルの方へ飛去つた。

 

   (下)わが見しイギリス

 

 別れた後ならでは、誠の恋の味は解されぬと同様、フランスを去つてイギリスに入るや、自分は今更らしくフランスの美しさを思返した。

 午前十時(すぐ)るにパリーなるサンラザールの停車場を発したロンドン急行列車は、緑(したゝ)るセーヌの河づたひ、製造場の多いルアンの街に小休みして、沃々たるノルマンデーの野を過ぎ、デエツプの港に着いたのは、午後の二時。旅客は直様(すぐさま)、小蒸汽船に乗移つて、二時間あまりで海峡(マンシユ)を越え、ニユーヘブンから再び汽車で其の日の夕暮、ロンドンの都に這入(はい)るのである。自分は小蒸汽船から上ると、直様(すぐさま)心付いたのは青空の色である。世界は今何処も五月の花さく夏の事で、イギリスの空も能く晴れ居るが、然しわづか海峡の水一帯を越した此のイギリスの青空は、青いながらも、フランスで見るやうな(やわらか)(なめらか)光沢(つや)を帯びては居ない。ニユーヘブンの街を出ると、直ちに、眼の届くかぎり青草の繁つた牧場や森の景色が見えたが、自分は驚くよりもつくづく不思議に感じた。青草の色はいやに黒みがゝつて居り、樹木の姿は、何処となくいかつく、かのセーヌの河畔、コローが画に見るやうな、優しい枝振りと云つては一ツもない。広々とした満目の光景は、静かと云ふよりは淋しさが(まさ)つて居て、たつた今、通つて来たノルマンデーの牧場の、あざやかな色彩と日光が呼起したやうな、心身の恍惚、魔酔を感ずる事は、到底出来ないのである。

 Gracieux――さはやか、Agreable――こゝろよき。かゝる(ことば)の真の意義は、フランスでなければ、決して味ひ得べきもので無いと、つくづく感じた。

 英国人は、定めし此の牧場を美しいと歌ふであらう。美しい事は美しい。然し、美しいのみでは、直ちに(さわや)(こゝろよ)いと云ふ事にはならぬ。見よ。此の美しい牧場は、若き悩みにつかれた、夢見がちなる吾々には、何の関係もない無感能の、冷い自然に過ぎないでは無いか! あの、黒ずんだ草の色を見ては、夏の夜明けの色なす(けむり)と共に、裸体の神女(ナンフ)が舞出でやうとの想像も起らず、あの、刺張(とげば)つた森の蔭では若い牧神(フオーン)が午後の夢さめて、笛を吹くとの感じもせぬ。つまり、イギリスの自然は、現在自分が目で見る通り幾千の羊にのみ必要な牧場である。一国の産業とか工業とか称するものに必要な野原なのだ。

 

 ロンドンに着くと、自分は不知案内の都の事。且つは、明朝出帆すべき日本の汽船を待つ間、ほんの一夜を過せばよい事とて、どれこれの選みなく、辻馬車(ハツケー)の案内するまゝに、停車場近くの()ある宿屋に這入(はい)つた。

 丁度夕飯の時刻で、宿屋の食堂では食物の香ひや皿の音がして居たが、自分は廊下を往来して居る宿の女中の顔を見ると、とても、イギリス人の家では食事する気には成れなくなる。大方アイルランドか何処かの女であらう。口が『へ』の字なりに大きく、(あご)が突出て、両の頬骨が高く聳え、眼が深く(くぼ)んで居る形相(ぎやうさう)は、どうしても日本の般若(はんにや)、独逸の物語にある魔法の婆としか見えぬ。いやに、ゐばつて、大手を振りながら歩いて来て、自分の顔を見るや、だしぬけに、

 Will you take dinner? と云ふではないか。自分は実際呆れて何とも返事が出来なかつた。

 此の年月、自分は、フランス語の発音、そのものが(すで)に音楽の如く、耳に快い上にやさしい手振、云はれぬ微笑を見せるフランスの町娘のみを見馴れて居た処から、イギリスの下女(げぢよ)の様子は云ふまでもなく、英語に特有の、鋭いアクセントが耳を突いて、何の事はない、頭から冠せかけて叱り付けられるやうな気がするのであつた。

 No thank you――と聞えぬ程に云捨てゝ往来にと出た自分は、ロンドンにもフランス人の居留街があると聞いて居たので、多分は同じ料理屋もあらうと思ひ、辻馬車の馭者(ぎよしや)に聞きたゞして、其処へと馳付(はせつ)けた。

 (やゝ)、繁華らしく思はれるオツクス、フオード、ストリートとしてある大通りを行く事、やゝ少時(しばし)、馬車は狭い横町に止まつた。下りて歩むと、別に何処と云つてフランスらしい特徴はなく、往来の男女を眺めても、フランスらしい姿は更に見当らない。然し間もなく、自分は三色(トリコロール)の旗が二流、ユニオン、ジヤツクの旗と差違(さしちが)ひに出してある料理屋を見付けたので、夢中で中へ馳込(かけこ)んだ。

 汚い安料理店で、入口に近く、よごれた白布(ナツプ)を掛けたテーブルには三人の職人(てい)の男、中央には商人らしい男が四五人、稍離れた片隅には(みにく)からぬ女が一人坐つて居た。其の服装、容貌、帽子の形、見すぼらしいけれども、一目見て特徴の著しい巴里の女(パリジヱーヌ)である。

 自分はさながら砂漠の中に一帯の青地を見出したも同様、ノルマンデーの海辺を(うしろ)に、イギリス海峡を越えて(のち)、たつた三四時間しか経たぬが、已に堪えられぬ程に感ずるホームシツクの情をば、一時に慰め得たやうに思ふのであつた。が、其れも一瞬時。職人体の男が片隅のテーブルで怒鳴り散らす巴里街頭のアルゴ(俗語)、字典には見出されぬ俗語方言を耳にするにつけ、自分の胸には、モンマルトルあたりの、なつかしい記憶が縷々(るゝ)として呼返され、何も()も、一度去つては(また)返らぬ昔の夢になつて了つたのかと思ふと、云ひ難い悲愁は雲の如く身を包む。

 自分は見るともなく、自然と、一人ぼツち、淋しげに坐つて居る女の方を見返ツた。汚れた壁に添うて、汚れたテーブルの上に片肱(かたひぢ)をつき、物思はし()に時々は吐息(といき)をもつくやうで、手にした肉叉(にくざし)に料理を()しながら食べやうともせず、蝿の(ふん)で汚れて居る天井を(うつゝ)に仰いで居る姿は、どうしても、(ちが)つた国から、移植えた草花の色あせ、やつれた風情。グレート、ブリテーンと云ふ四辺(あた)り一般の空気の中に、巴里生粋(きつすゐ)の、其の横顔から肩の様子が、何とも云へぬ程物淋しく物哀れに見られた。旅には久しく馴れた自分も、急に漂泊(さすらひ)の悲しみを覚え、彼の女は如何(どう)してあの美しいフランスを見捨てたのであらう。あゝ、()しこれが、巴里の街であるならば、同じ場末の安料理屋でも、アブニユーを蔽ふ橡樹(マロニヱー)の若葉の蔭、道傍(みちばた)のテラスで、紫色に暮れて行く往来(ゆきゝ)人通(ひとどほり)を眺め、何処からともなく聞えて来るビオロンの調(しらべ)を聞きながら、陶然一ぱいの葡萄酒に酔へやうものを…………と、今は他人の身の上ならぬ過ぎし我が巴里の生活を思ひはじめる。

 自分は食事して居る間に、どうかして、あの女の、唇から一語たりと、やさしいフランス語を聞きたいものだと思つた。自分は明朝船に乗れば、もうかゝる巴里生粋の女とは一生話をする機会がないかも知れぬ。自分は女の身分やら、何の為めに、たつた独り、何処も彼処(かしこ)(すゝ)で黒ずんだロンドンの街に彷徨(さすら)つて居るのであらうと、それから其れへと空想を(たくまし)くする。同時に、一挙一動、話しかけべき機会を見逃すまいと注意した。

 いつも、情無(つれな)い運命は、この時ばかりは自分の心を哀れと思つたのであらう。丁度女の食事が済みかけた時、曇りがちなイギリスの空は珍らしくもあらぬ雨となつた。女は給仕人に二三度も天気模様を()いて居た。女は傘を持たないと云ふのに嬉しや、旅仕度(たびじたく)の自分は、杖の代りに傘を所持して居た幸運に思当ると、もう一瞬間も我慢が出来ず、無遠慮にも、遂にマダムと呼掛けた。

 女は礼儀ばかりに自分の差出す傘をば辞退した。雨は程なく晴れやうからと、猶坐について居たが、会話は其れから(とゞこお)りなく取交(とりか)はされる――女は丁度中頃に開始した英仏大博覧会の売店に雇はれる為め、一昨日(おとゝひ)の夕に初めてロンドンに着いたとの事。これから一町ほど先きの下宿に宿を取つたが、イギリスの食事は、パンからカツフヱーから、とても口には合はぬ。さりとて贅沢な料理屋へ行く事も出来ぬ身分、今宵始めて、このフランス人の安料理屋へ来て見たとの事であつた。

「ロンドンは如何(いかゞ)です。」

「陰気な処です事ね。カツフヱー一ツないんですもの。」と淋しく微笑(ほゝゑ)んだ。

 自分は猶容易には止みさうにもない小降りの雨を幸ひ、女が辞退するのを無理強ひに、遂に其の宿の戸口まで送くつて行つた。女は戸を()けて別れ(ぎは)、手袋したまゝの片手を差出して――Merci monsieur, au revoir(メルシイ モツシユー オー ルボワール)――

 自分は其の手をば女の驚くほど強く握つた(のち)()けるやうに其の場を立去つた。あゝ! 何事も知らぬ巴里の町娘! 彼女は愛嬌に、『再び見ん』との意味ある懐しい AU REVOIR の一語を残して呉れたが、この夜を限り遠く遠く東の(はづ)れに行つて了ふ身の上には、Adieu pour toujours――再会()なき別れである。あゝ! 彼の女は自分に純粋な『巴里の発音(アクサンパリジヤン)』を聞かして呉れた最後の『巴里の女(パリジヱーヌ)』である。自分は恋人よりも懐しい気がする。百年を契つた思ふ人の面影よりも、(なほ)、その面影は深くわが胸の底に(きざ)み込まれたであらう。

 

 自分は堪えがたい憂悶を退けるには、何処か音楽のある処をと思返し、横町を出ると直様(すぐさま)、馬車を呼んだ。然し一度び巴里の燈火を見たものゝ眼には世界最大の都府ロンドンは、何等の美的思想もなく、実利一方に建設された煉瓦と石の「がらくた」に過ぎない。かの不朽なるオペラを云ふ勿れ。詩人ミユツセの像を角にしたテアトル、フランセーの威儀あるに引換へて、ロンドンの劇場は、まるで、料理屋か酒場のやうな外構(そとがまへ)をして居る。街には樹木がなく、家屋は高低整はず、いくら位置を変へて遠くを眺めても、いさゝかの調和をも見出す事が出来ない。時たま、銅像の立つて居るのを認めたけれど、適当ならぬ其の位置は、永久のものとは思はれず、目下工事中一時仮拵(かりごしら)へをしたものゝ如く見えた。通行する女はと見れば、帽子に何の飾もなく、衣服の色合には無頓着で、靴の形が悪く、腰が太くて、裾さばきに何の(おもむ)きもない。無暗(むやみ)と往来して居るのは、二輪の辻馬車で、人が其れを呼止める笛の音の鋭さは、何の訳もなく探偵小説中の場当りを思起(おもひおこ)させる。

 自分の見たイギリスは(かく)の如くであつた。自分はひたすら此の地を去るべき明日(あす)の夜明けの来らん事を望みつゝ、宿屋の寝床に眠つたのである。 (ふらんす日記)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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永井 荷風

ナガイ カフウ
ながい かふう 小説家 1879・12・3~1959・4・30 東京小石川金富町に生まれる。文化勲章。若き日に渡米さらに渡仏し巴里に心酔するが父の厳命により帰国し、慶大教授となり「三田文学」を主宰した。私生活にも作風にも波瀾のある生涯であったが、基本に日本の軽薄な近代化に対する失望と蔑視があり、太平洋戦争後にまでも反時代的耽美と放蕩の世界に徹した。

掲載作は、いましも巴里に別れ倫敦に渡り日本に帰りゆく二日間の荷風のうめき声に似た巴里惜別の情話であり、文豪荷風の深い根を指し示す貴重な一編、後に単行本『ふらんす物語』の一齣を成した。1908(明治41)年「新潮」10月号初出に拠る。