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珊瑚集(仏蘭西近代抒情詩選)

  目次

 シャアル・ボオドレエル: 死のよろこび 憂悶 暗黒 仇敵 秋の歌 腐肉 月の悲しみ

 アルチュウル・ランボオ: そゞろあるき

 ポオル・ヴヱルレエン: ぴあの ましろの月 道行 夜の小鳥 暖き火のほとり 返らぬむかし 偶成

 ピエエル・ゴオチェ: 沼

 エドモン・ピカアル: 池

 エミル・ヴォーケエル: 音楽と色彩と匂ひの記億

 アア・エフ・エロオル: 秋のいたましき笛

 アンリイ・ド・レニェエ: 佛蘭西の小都会 葡萄 われはあゆみき 夕ぐれ 秋 正午 告白 庭 (かめ) 年の行く夜

 シャアル・ゲラン: 暮方の食事 道のはづれ ありやなしや

 ギュスタァヴ・カン: 四月

 伯爵夫人マシュウ・ド・ノワイユ: ロマンチックの夕 九月の果樹園 西班牙を望み見て

 シャアル・グランムウラン: 菊花の歌

 フェルナン・グレエ: あまりに泣きぬ若き時

 スチュアル・メリル: 沈みし鐘 夏の夜の井戸

 アルベエル・サマン: 奢侈

 

 

  死のよろこび シャアル・ボオドレエル

 

蝸牛(かたつむり)()ひまはる泥土(ぬかるみ)に、

われ手づからに底知れぬ穴を掘らん。

安らかにやがてわれ老いさらぼひし骨を(うづ)め、

水底(みなそこ)(ふか)の沈む(ごと)忘却(わすれ)の淵に眠るべし。

 

われ遺書を()み墳墓をにくむ。

死して(いたづら)に人の涙を()はんより、

生きながらにして(われ)(むし)ろ鴉をまねぎ、

(けが)れたる脊髄の端々(はしばし)をついばましめん。

 

あゝ蛆蟲(うじむし)よ。()なく耳なき暗黒の友、

(なれ)が為めに腐敗の子、放蕩(はうたう)の哲学者、

よろこべる無頼(ぶらい)死人(しにん)(きた)れり。

 

わが亡骸(なきがら)にためらふ事なく食入(くひい)りて、

死の(うち)に死し、魂()せし古びし肉に、

蛆蟲よ、われに問へ。猶も悩みのありやなしやと。

  憂 悶  シャアル・ボオドレエル 

 

大空重く垂下(たれさが)りて物蔽ふ蓋の如く、

久しくもいはれなき憂悶(もだえ)に歎くわが胸を押へ、

夜より悲しく暗き日の光、

四方(よも)(とざ)す空より落つれば、

 

この世はさながらに土の牢屋(ひとや)か。

蟲喰(むしば)みの床板(ゆかいた)(かしら)打ち叩き、

鈍き翼に壁を撫で、

蝙蝠(かはほり)の如く「希望(のぞみ)」は飛去る。

 

限りなく引つゞく雨の絲

ひろき獄屋(ひとや)格子(かうし)に異らず、

沈黙のいまはしき蜘蛛の一群(ひとむれ)

来りてわが脳髄に網をかく。

 

かゝる時なり。寺々の鐘突如としておびえ立ち、

住家(すみか)なく彷徨(さまよ)ひ歩く亡魂(なきたま)の、

片意地に嘆き叫ぶごと、

大空に向ひて(いたま)しき声を上ぐれば、

 

送る太鼓も(がく)もなき(ひつぎ)の車

吾が心の(うち)をねり行きて、

(あざむ)かれし「希望(のぞみ)」は泣き暴悪の「苦悩(くるしみ)

黒き旗を立つ、垂頭(うなだ)れしわが(かうべ)の上に。

  暗 黒  シャアル・ボオドレエル

 

森よ、汝、古寺(ふるでら)の如くに吾を恐れしむ。

汝、寺の(がく)の如く吠ゆれば、呪はれし人の心、

臨終の喘咽(あへぎ)聞ゆる永久(とこしへ)()(へや)

DE PROFUNDIS(デ プロフンデス)歌ふ声、山彦となりて響くかな。

 

大海(おほうみ)よ、われ汝を憎む。狂ひと叫び、

吾が魂は、そを汝、大海(おほうみ)の声に聞く。

(はづかし)めと涙に満ちし敗れし人の苦笑ひ、

これ、おどろおどろしき海の笑ひに似たらずや。

 

されば(よる)ぞうれしき。空虚と暗黒と、

赤裸々(せきらゝ)求むる我なれば、星の光覚えある言葉となりて

われに語らふ、其の光だになき夜ぞうれしき。

 

暗黒の其の(おもて)こそは絵絹(ゑぎぬ)なりけれ。

(ほろ)びたるものども皆覚えある形して

わが(まなこ)より数知れず躍りて()づれば。

  仇 敵  シャアル・ボオドレェル

 

若きわが世は日の光ところまばらに漏れ落ちし

暴風雨(あらし)の闇に過ぎざりき。

鳴る(いかづち)のすさまじさ降る雨のはげしさに、

わが庭に落残る(くれなゐ)果実(くだもの)とても(まれ)なりき。

 

されば今思想(おもひ)の秋にちかづきて

われ(すき)(くは)とにあたらしく、

洪水(でみづ)の土地を耕せば、洪水(でみづ)は土地に

墓と見る深き穴のみ穿(うが)ちたり。

 

われ夢む(あらた)なる花今さらに、

洗はれて河原となりしかゝる地に

生茂(おひしげ)るべき養ひをいかで求め()べきよ。

 

あゝ悲し、あゝ悲し。「時」生命(いのち)を食ひ、

黯澹(あんたん)たる「仇敵(きうてき)」独り心にはびこりて、

わが失へる血を吸ひ誇り栄ゆ。

  秋の歌  シャアル・ボオドレェル

 

     一

 

吾等(たちま)ちに寒さの闇に(おちい)らん。

夢の間なりき、強き光の夏よ、さらば。

われ既に聞いて驚く、中庭の敷石に、

(たきゞ)を投込むかなしき(ひゞき)

 

冬の凡ては――憤怒(いかり)憎悪(にくしみ)戦慄(をのゝき)恐怖(をそれ)や、

()ひられし苦役(くえき)はわが身の(うち)に返り来る。

北極の地獄の日にもたとふべし。

わが心は凍りて赤き鉄の破片(かけら)よ。

 

われ戦慄(をのゝ)きて(たきゞ)を投ぐる響をきけば、

断頭台(くびきりだい)を人築く音なき音にも(まさ)りたり。

重くして疲れざる戦士の槌の一撃に、

わが胸は崩れ倒るゝ城の観楼歟(ものみか)

 

かゝる(ものう)き響に揺られ、揺られて、何処(いづこ)にか、

いとも(せは)しく(ひつぎ)の釘を打つ如き……そは、

昨日(きのふ)と逝きし夏を葬る声にして、秋来ぬと云ふ怪しき此声は、

さながらに死者を葬る鐘にも似たり。

 

     二

 

きれ長き君が(まなこ)の緑の光ぞなつかしき。

いと甘かりし君が姿もなど今日の我には(にが)きや。

君が(なさけ)も暖かき火の(ほとり)や化粧の(へや)も、

今のわれには海に輝く日に()かず。

 

さりながら我を憐れめ、やさしき人よ。

母の(ごと)かれ、忘恩の(ともがら)、ねぢけしものに。

恋人か()(いもと)か。うるはしき秋の(さかえ)や、

又沈む日の如く(つか)の間の優しさ忘れたまふな。

 

定業(さだめ)は早し。(むさぼ)る墳墓はかしこに待つ。

あゝ君が膝にわが(ひたひ)を押当てて、

暑くして白き夏の昔を嘆き、

(やはらか)くして(きいろ)き晩秋の光を(あぢは)はしめよ。

  腐 肉  シャアル・ボオドレェル

 

わが魂などか忘れん、涼しき夏の

晴れし(あした)に見たりしものを。

小径(こみち)(かど)、砂利を(しとね)

みにくき(しかばね)

 

毒に蒸されて血は燃ゆる

淫婦の如く(あし)空ざまに投出(なげいだ)

此れ見よがしと心憎くも

汗かく腹をひろげたり。

 

照付(てりつ)くる日の光自然を(こや)

百倍のやしなひに

凡てを自然に返すべく

この(しかばね)を焼かんとす。

 

青空は麗しき脊髄を

咲く花かとも眺むれば、

烈しき悪臭野草(のぐさ)の上に

人の呼吸(いき)をも(とゞ)むべし。

 

青蠅の(むれ)翼を鳴らす腐りし腹より

蛆蟲(うじむし)の黒きかたまり湧出でて、

濃き(うみ)の如くどろどろと

生ける襤褸(らんる)をつたひて流る。

 

此等(これら)のもの(すべ)て寄せては返す波にして、

鳴るや、響くや、(ゆら)めくや。

吹く風に五体はふくらみ

生き(こゆ)るかと(あやし)まる。

 

流るゝ水また風に似て

天地(てんち)怪しき(がく)をかなで、

(ふし)づく動揺(うごき)(ふるひ)の中なる

穀物の粒の如くに舞狂へば、

 

忘られし絵絹(ゑぎぬ)(おも)

ためらひ描く輪郭の、

絵師は()だ記憶をたどり筆をとる、

形は消えし夢なれや。

 

(いは)彼方(かなた)に恐るゝ牝犬(めいぬ)

いらだつ(まなこ)に人をうかゞひ、

残せし肉を(しかばね)より

再び噛まんと待構(まちかま)ふ。

 

この不浄この腐敗にも似たらずや、

されど時として君も(また)

わが()の星よ、わが(せい)の日の光。

君等、わが天使、わが情熱よ。

 

さなり形體(けいたい)の美よ、そもまた(かく)(ごと)けん。

終焉の斎戒果てて、

肥えし野草(のぐさ)のかげに君は()

白骨の(うち)に苔むさば、其の時に、

 

あゝ美しき形體よ。接吻(くちづけ)に、

君をば噛まん地蟲(ぢむし)に語れ。

分解されしわが愛の清き本質(まこと)と形とを

われは長くも(たも)ちたりしと。

  月の悲しみ  シャアル・ボオドレエル

 

月今宵(こよひ)いよゝ(ものう)く夢みたり。

おびたゞしき小布団(クッサン)(かざ)す片手も力なく、

まどろみつゝもそが胸の

ふくらみ撫づる美女の(ごと)

 

軟かき雪のなだれの繻子(しゆす)の背や、

仰向(あふむ)きて(よこた)はる月は吐息(といき)も長々と、

青空に真白(まつしろ)く昇る幻影(まぼろし)の、

花の如きを眺めてやりて、

 

(ものう)き疲れの折々は下界の面(おも)に、

消え易き涙の玉を落す時、

眠りの仇敵(きうてき)沈思(ちんし)の詩人は、

そが(てのひら)猫眼石(ねこめいし)破片(かけら)ときらめく

蒼白き月の涙を摘取りて、

「太陽」の(まなこ)を忍びて胸にかくしつ。

  そゞろあるき  アルチュウル・ランボオ

 

蒼き夏の()や、

麦の香に()野草(のぐさ)をふみて

小みちを行かば、

心はゆめみ、我足(わがあし)さわやかに

わがあらはなる(ひたひ)

吹く風に(ゆあ)みすべし。

われ語らず、われ思はず、

われたゞ限りなき愛、

魂の底に湧出(わきいづ)るを(おぼ)ゆべし。

宿なき人の如く

いや遠くわれは歩まん。

恋人と行く如く心うれしく

「自然」と共にわれは歩まん。

  ぴあの  ポォル・ヴヱルレエン

 

しなやかなる手にふるゝピアノ

おぼろに染まる薄薔薇色(うすばらいろ)(ゆふべ)に輝く。

かすかなる翼のひゞき力なくして(こゝろよ)

すたれし歌の一節(ひとふし)

たゆたひつゝも恐る恐る

美しき人の移香(うつりが)こめし化粧の()にさまよふ。

 

あゝゆるやかに我身をゆする眠りの歌、

このやさしき唄の(ふし)、何をか我に思へとや。

一節毎(ひとふしごと)に繰返す聞えぬ程のREFRAIN(ルフラン)

何をかわれに求むるよ。

聴かんとすれば聴く間もなくその歌声は小庭のかたに消えて行く、

細目にあけし窓のすきより。

  ましろの月  ポオル・ヴヱルレエン

 

ましろの月は

森にかゞやく。

枝々のさゝやく声は

(しげり)のかげに

あゝ愛するものよといふ。

 

底なき鏡の

池水(いけみづ)

影いと暗き水柳。

その柳には風が泣く。

いざや夢見ん、二人して。

 

やさしくも、(はて)し知られぬ

しづけさは、

月の光の色に浸む

夜の空より落ちかゝる。

 

あゝ、うつくしの夜や。

  道 行  ポオル・ヴヱルレエン

 

寒くさびしい古庭に

二人の恋人通りけり。

 

(まなこ)おとろへ(くちびる)ゆるみ、

さゝやく話もとぎれとぎれ

 

恋人去りし古庭に怪しや

昔をかたるもののかげ。

 

――お前は楽しい昔の事を覚えておいでか。

――なぜ覚えてゐろと仰有るのです。

 

――お前の胸は私の名をよぶ時いつも顫へて、

お前の心はいつも(わたし)を夢に見るか。――いゝえ。

 

――あゝ私等(わたしら)二人(くち)と脣とを合した昔

(あやふ)い幸福の美しい其の日。――さうでしたねえ。

 

――昔の空は青かつた。昔の望みは大きかつた。

――けれども其の望みは敗れて暗い空にと消えました。

 

烏麦繁つた(なか)の立ちばなし、

夜より(ほか)に聞くものはなし。

  夜の小鳥  ポオル・ヴヱルレエン 

  鴬は高き枝より流れに映る己れが姿を眺め水に落ちしと思ひて(かしわ)の木の

  頂にありながら常に溺れん事のみ恐れき。(シラノ・ド・ベルジュラック)

 

霧たち()むる河水(かはみづ)に樹木の影は

  煙の如くに消ゆ。

その時影ならぬ枝の(あひだ)より何処(いづこ)とも知らず

  ()の小鳥は泣く。

あゝ旅人よ。いかに此の青ざめし景色は、

  青ざめし君が(おもて)を眺むらん。

いかに悲しく、溺れたる君が望みは

  高き梢に嘆くらん。

  暖き火のほとり  ポオル・ヴヱルレエン

 

暖き火のほとり、燈火(ともしび)のせまきかげ、

片肱(かたひぢ)つきて(かしら)(さゝ)ふる夢心地、

愛する人と瞳子(ひとみ)を合すその眼とその眼、

語らふ茶の時、(とざ)せる書物、

日の暮れ感ずるやさしき思ひ。

くらきかげ、静けき夜をまつ時の

いふにいはれぬ心のつかれ、

あゝわが夢心地、幾月のまちこがれ。

幾週日(いくしうじつ)遣瀬無(やるせな)さ、

(なほ)ひたすらに其等(それら)を追ふ。

  返らぬむかし  ポオル・ヴヱルレエン

 

あゝ遣瀬(やるせ)なき追憶の是非もなや、

衰へ疲れし空に(ひよどり)の飛ぶ秋、

(そよ)ぎて黄ばみし林に、

ものうき日光(ひかげ)漏れ(おつ)る時なりき。

 

胸の思ひと髪の毛を吹く風になびかして、

唯二人君と我とは夢み夢みて歩みけり。

(ひらめ)目容(まなざし)()とわが(かた)にそゝがれて、

輝く黄金(こがね)の声は云ふ「君が世の美しき日の限りいかなりし」と。

 

打顫(うちふる)ふ鈴の()のごと(さわやか)に響は深く優しき声よ。

この声に答へしは心怯(おく)れし微笑(ほゝゑみ)にて、

われ真心の限り白き君が手に(くち)づけぬ

 

あゝ、咲く初花の薫りはいかに。

優しき囁きに愛する人の口より漏るゝ

(しか)り」と頷付(うなづ)く初めての声。あゝ其の響はいかに。

  偶 成  ポオル・ヴヱルレエン

 

空は屋根のかなたに

  かくも(しづか)にかくも青し。

樹は屋根のかなたに

  青き葉をゆする。

 

打仰(うちあふ)ぐ空高く御寺(みてら)の鐘は

  やはらかに鳴る。

打仰ぐ樹の上に鳥は

  かなしく歌ふ。

 

あゝ神よ。質朴なる人生は

  かしこなりけり。

かの平和なる物のひゞきは

  街より(きた)る。

 

君、過ぎし日に何をかなせし。

  君今こゝに唯だ嘆く、

語れや、君、そもわかき折

  なにをかなせし。

    ピエエル・ゴオチェ

 

茂りし林の奧深く

黒く声なく沼は眠れり。

一度(ひとたび)微風(そよかぜ)は水の(おもて)を拭はず、

いさゝかの波の動きも其の底より起りし事なし。

 

枯れたる枝の繁きがもとに

空には隠れ日に遠く、

重き月日の平和の底、

山毛欅(ぶなのき)の暗き木蔭に沼は眠れり。

 

秋のあらしに、影の中(うち)

(ころも)剥がれし梢は、

濁りて曇りし鏡の上に、

(ひやゝ)かなる其の(かんむり)をぬぐまもあらず。

 

(おつ)る木の葉の(ひと)ひらごとに

皺の刻みは眠れる水にひろがりて、

凋落(てうらく)を迎ふる水の(おもて)に、

(おつ)る木の葉はゆるやかに流る。

 

一羽の小鳥も水飲まんとて(きた)りし事なく、

いかなる(まなこ)も其の水底(みなそこ)(うかゞ)ひし事なし。

――茂りし林の奥深く

黒く声なき沼は眠れり。

    エドモン・ピカアル

 

わが胸は湿りし土地に水は死したる古池か。

凍りし風其処(そこ)に絶え間なき叫びを放つ。

恐ろしき襲撃の跡を(とゞむ)る落雷の木立(こだち)に、

岸のながめの哀れなるかな。

 

忘られし恋と消失(きえう)せし友の(よし)みと、

(むご)運命(さだめ)のいたましき宝物(はうもつ)は、(おもむろ)ろに

黒き泥土(でいど)と色さめし花と共に、

眠りたる此の花瓶(はながめ)の底に朽ちて行く。

 

陰鬱なる一隅(いちぐう)かな。されど(せき)たる此深淵の(うち)よりは、

もしそれ、吾が弱き心、測量の綱を(なげう)ちて、

沈滞の濁水(だくすゐ)を突如として打つ時は、

 

震動起りて一道(いちだう)光閃(ひらめ)き渡り、

底知れぬ愁情(しうじやう)を照す水百合の花の星、

数ある記憶の明るき色、水の(おもて)に浮びて(きた)る。

  音楽と色彩と匂ひの記憶  エミル・ヴォーケエル

 

音楽と色彩と匂ひの記憶われに宿る。

()きし日を呼び返さんとせば、

花をつみとれ。われに匂ひの記憶あり。

音楽の記憶われに宿れば、

怪しき(りつ)のうごきは、

ノスタルヂヤのわが胸に昔を(さま)す。

花をつみとれ、(がく)(かな)でよ。

何人(なんぴと)か、何事か。忘れしものを思起すに、

われには色の記憶あり。

われ思出(おもひい)づ、(くれなゐ)黄昏(たそがれ)に、

わが恋人は打笑(うちゑ)みわれは泣きけり……

われには色の記憶ぞ宿る。

  秋のいたましき笛  アア・エフ・エロオル

 

秋のいたましき笛は泣く、

おだやかならぬ夕まぐれ。

空は涙を(すゝ)る時

ぬれし樹木はをのゝきぬ。

 

花はおもむろに枯れしぼみ、

小鳥は飛び去る彼方の野辺、

そこには四月の色もある

うれしき歌の聞ゆべし。

 

寒さ恐るゝ君は悲しく、

わが生命(いのち)の君は小径(こみち)を行く。

色蒼ざめて旅する君は

声も曇りし歌を求むる。

 

あゝ二人して喜び聴きし其の歌は

秋と云ひなば返り()じ。

何時(いつ)の日かわれは又笑ひて眺めん、

今ははや涙となりし君が(まなこ)を。

  仏蘭西の小都会  アンリイ・ド・レニェエ

 

起き出でてわれ(あした)に街に出づれば

道の敷石に足音高くひゞきて

太陽の若き光は古びたる(いらか)を暖め、

Lilas(リラ)の花は家々の狭き庭に咲く。

 

人の歩みに(さきだ)ちて足音の反響は

梢そびゆる苔の土塀の長きに伝はり、

磨り減りし敷石は砂道に連りて

場末の町より野辺に走れり。

 

やがて険しく登る山道(やまみち)より

日に照らされて岡のふもとに、

悄然として狭く貧しく静なる我が生れし街の

見馴れたる懐しき屋根の見ゆるかな。

 

長々と彼処(かしこ)に我か街は(よこた)はる。流るゝ河ありて、

その水は二度居眠りて二つの橋の下を過ぎ、

散歩の道に茂りし木立(こだち)は街にそびゆる

鐘撞堂(かねつきだう)の石と共に古びたり。

 

うらゝかに澄渡りて狭霧(さぎり)なき空気に

わが街は太き響をわれに送り(きた)る。

洗濯屋の(きね)と鍛冶屋の鎚の音、

打騒ぐ幼児(わさなご)甲高(かんだか)くやさしき叫び。

 

変りなきわが街の浮世には思出(おもひで)もあらず。

繁華光栄の美麗もなくて、

わが街はいつの世までも

今見る如く(ちさ)き都に過ぎざらん。

 

わが街は耕せし野辺、高原、荒れし野に、

又は牧場の(なか)に立つ数ある街の一つなれば、

(いづ)れとわかぬ(ちさ)きフランスの街の名に、

旅する人はわが街の名さへ知らで過ぎぬべし。

 

然れども(あした)より夕に移る散歩(そゞろあるき)

長き思ひの一日(ひとひ)は過ぎて、

麦の畠のかなたに日はかくれ、

林に通ふ細道くれそめて、

 

物のあいろもわかぬ(よる)

歩む足音険しき道にとゞろきて

疏水(アンクリューズ)の水の音遥(おとはるか)に聞え

吹く風運河(カナル)の木立に騒ぐ時、

 

つかれて我は帰りくる街近く

ふと仰ぐあたりの家の窓

帷幕(とばり)さへなきガラス越し、ランプの壺に

石油の黄金色(こがねいろ)なす燈火(ともしび)の燃ゆるを見れば、

 

杖にて(さぐ)る夜の道、(おの)づと足も急がれて、

われ思ひ知る。わが墳墓の国土、

懐しき(まなこ)に闇の(うち)よりいとも優しく

わが手をとりて引くが如しと。

  葡 萄  アンリイ・ド・レニェエ

 

死なんとばかり我は悩みし其の夢知れる恋人よ。

さまざまのかなはぬ望みに飢えつかれ、

葡萄の棚に(みの)りたる葡萄つまんと我は久しく、

種まく人の如く()(いたづら)に腕を振りけり。

 

(しか)るに君は優しき夢に微笑みて眠り給へる、

其の(すげ)なくも静なる眠りぞ憎き。

(さわやか)なる朝風は爽なる(あした)のひゞきを伝へ、

()(くれなゐ)東雲(しのゝめ)かけて明け行けり。

 

いざ行かん。望の光我等を導く美しき小山の(かた)に、

苗植ゑしわが手づからに待焦(まちこが)れたる果物と

うつくしき葡萄の房をわれは摘むべく。

 

されどもし、(いさゝ)かの草の芽だにもなかりせば、

待つと云ふかの(わざはひ)の夢の(うち)、いつも変らぬ

空しき夜明(よあけ)を眺むべく夕暮に山を下らん。

  われはあゆみき  アンリイ・ド・レニェエ

 

久しくもわれは歩みき。落ちかゝる()

朝見し夢のかずかずも早や既に消えんとす。

そは君ならずや。一筋道の其の(はて)に美しき眺め(よこた)

遥なる(やかた)(かた)にわれを導きたまひしは。

 

かしこには不可思議なる月の光に照されて

眠れる(いにしへ)の花園の咲きて(むらが)る花の中

屋根に鐘鳴る高楼(たかどの)に聳えし塔の数多く

美しき異禽(いきん)を養ふ家も見えたり。

 

錦の小禽(ことり)その棲木(とまりぎ)に居眠れば

池の底には黄金(こがね)(うお)のひらめきて

噴水のほとばしり切々(せつせつ)として囁きたり。

 

苔を踏む君が歩みに君が(もすそ)は鳴り響きて、

見えざる鍵の秘密を知れる柔かき

君が雙手(もろて)はわが手を取りて(たす)けしものを。

  夕ぐれ  アンリイ・ド・レニェエ

 

夕暮の底遠くして海のほとりに

われ(かつ)て都をのぞみき。

(あざや)かなる銀色(ぎんしよく)()めたる(くれなゐ)

夕暮の底遠くして海のおもてに

その影を流す大理石と黒鉄(くろがね)

都をわれは嘗てのぞみき。

扉と家をもわれは見たりき。

(血の夕暮はその時海にあり)

風は(あかる)煖炉(だんろ)の火も見ゆる

戸口の篝火(かゞりび)をいらだゝしめ

はたとばかりに(とぼそ)をとざしぬ。

 

「死」と「望み」とは過ぎ去りぬ。

暗き空の(した)、褪めたる銀色(ぎんしよく)の海の(おもて)

その影と影とは漂ひぬ。

わが身には此の時よりして

海に昇る夕暮の悲しかりけり。

    アンリイ・ド・レニェエ

 

枝より枝を渡る風に

(あかる)き夏とまた暗き日に、

黒き(ふくろ)と白き鳩鳴く

老木(おいき)の梢をゆする。

 

木の葉に(したゝ)る雨の声、

やさしくも又ものうきは

さすらふ身には一歩々々(ひとあしひとあし)

「悲しみ」の忍び泣く()と聞かれずや。

 

緑より黄に、黄よりして(くれなゐ)

黄金色(こがねいろ)より黄金(こがね)のいろに

木々の梢の老い行けば、われは

秋より秋に散りて行くわが「過去」を思ふ。

 

林は聳えたる(いたゞき)よりして頂に

(くれなゐ)(かし)と緑の松を動かせども

吹く風は(おごそ)かに声を呑みたり、

かの「(くるし)み」と「海」の如くに。

  正 午  アンリイ・ド・レニェエ

 

正午(まひる)なり……真白き道は海に走れり。

(あかる)き日の光窓より()りて、

まだ暑からぬ部屋の床板(ゆかいた)に、

出入(でいり)の人の歩みにつきて落散(おちち)りし

乾きてかゞやく砂を照す。

日曜と夏との匂ひに空気は(さわやか)なり。

日にやけし布と松脂(まつやに)の薫りよ。如何(いかん)となれば、

布荒き日蔽(ひおひ)には枝に(さが)りし

松の実の影描かれたり。

(しづけ)さは(それ)さへもいと遠く思はるゝ迄の(しづけ)さに、

(おもひ)は去りて心空しき折からに

しづしづと身を動かしてPARRESSE(ものうし)と呼ぶ女姿(をんなすがた)

更によく()みし休みを(あぢは)はんと、

伏目遣(ふしめづか)ひの優しき(まなこ)を閉ぢ合せ、

長々と(よこた)はる柳細工(やなぎざいく)の椅子の上、

真裸(まはだか)の快さ、人目に触れぬ嬉しさに()とほゝゑむ。

  告 白  アンリイ・ド・レニェエ

まことの賢人は永遠(とこしへ)の時の(あひだ)には

一切の事(すべ)て空しく愛と(いへど)(なほ)

空の色風の(そよ)ぎの如く()ゆべきを知りて

砂上(さじやう)に家を建つる人なり。

 

されば賢人は焔の燃え輝き消ゆるが如くに

開きては又散る薔薇(さうび)の花を眺め、

殊更に冷静沈着の美貌を粧ひて

浮世の人と物とに対す。

 

疎懶(そらん)の手は曉の焔と

夕炎(ゆふばえ)の火をあふらざれば

夕暮は賢者に取りて(いたま)しき灰ならず、

明け行く其の日は待つ日なり。

 

移行くもの消行くものの(うち)にありて

()し過ぎ行く季節に咲く花の枯死(かれし)すは、

これそが定命(ぢやうみやう)とのみ観じ得なば

亦我も賢者の厳粛にや倣ひけん。

 

(しか)るに纏綿(てんめん)たる哀傷の心(せつ)にして

われは悔いと望みと悲しみに

又慰め知らぬ悩みの闇の涙にくれて

わが身を(ひし)ぐ苦しみの消ゆる事のみ恐れけり。

 

いかにとや。砂上の薔薇(さうび)香気(かんばせ)

吹く風の(さわやか)さ、美しき空の眺めさへ

永遠(とこしへ)の時の(あひだ)にも一切の事凡て空しからずと、

我が哀れなる飽かざる慾の休み知らねば。

    アンリイ・ド・レニェエ

 

庭に()よ。黄昏(たそがれ)は庭に木の葉と

土と花、潤ふ影との薫る時なり。

揃ひし黄楊(つげ)の並木の蔭、狭き小径は行く程に、

いよ狭くいよ安らかに君が歩みを導かん。

 

庭の外なる野や道や(あやふ)き辻や、

鏡なす池の水とて何かあらん。

やがて(しを)れん其の茎に血と咲く薔薇(ばら)のみ

唯わづかあぢきなき君が浮世の形見なり。

 

ありとあらゆる「過ぎし日」は活ける()につれ

庭の(うち)にぞ蘇る。敵意ある群集は

肥えし野草(のぐさ)や濡れし道暗き林にはびこるを、

 

こゝのみは静けく優しき庭の隅。

土塀に添へる果樹の列、黒き腕長く差伸べて

君をば守る此処ばかり心安けく歩めかし。

    アンリイ・ド・レニェエ

 

沈黙の碑、美の墳墓よ。

「悲しみ」は其の(かめ)に灰となりにし

夏の果実と秋の葡萄を収めたる

この懐しき重荷のために声を呑みたり。

 

消えし時間と死したる季節と、

一度(ひとたび)()ひつ栄えつ、烈しく強く豊なる

薫をかぎしさまざまの思ひ出、

猶其の底に残りてあれば、そがために

 

君は夏の形見の灰を収めし黄金(こがね)(かめ)(たづさ)へて、

いと暗き青春に彷徨(さまよ)ふ。あゝ「悲しみ」と呼ぶ君、

道行く女姿よ。われ君を迎ふるも亦此れが為め、

沈黙の碑よ、美の墳墓よ。

  年の行く夜  アンリイ・ド・レニェエ

 

背の高いランプが

(わたし)のうつむいた机の上

開いた書物の(なか)に突立つて

音もなく燃えてゐる。

何かぢつと見詰めてゐるやうな

物哀れな老耄(らうまう)した「月日」が

書齋の中をあちこち彷徨(さまよ)ひ歩く

其の足音ももう聞えない。

 

低くかざす其手を暖めようと

(あかる)い煖炉の傍に坐りかける老耄した「月日」は、籏、

着てゐる冬と云ふ灰色の着物の為めに、

何となく謙遜らしく我慢づよく

(しか)も又真面目らしく見えた。

丁度(ちやうど)私が(おもひ)の底を過ぎて

其の灰の上を歩くやうに思はれる軽い足音に、

老耄した「月日」の姿は

(なん)となく優しく又(なん)となく厳格(おそか)にも見える。

 

夏と秋との手籠は

向うの壁の上に掛けられてあるが、

時々に其の籠を編む柳の枝の弾けて破れ、

茎も葉も枯れてしまつた花瓶(はながめ)

蘆をば風がゆすぶる。

其の度々(たびたび)に私ははつと思つて

耳を澄まして

老耄した「月日」の顔を眺めると、

()の老女は灰色の着物を着たまゝ身動きもせず、

真直(まつすぐ)に伸びて鞭のやうに閃く

柔かな柳の若枝の一條一條(ひとすぢひとすぢ)折り曲げて、

笑つた夏の日

花籠を編みながら歌つた

その忘れた昔の歌をうたひもせぬ。

 

然しその絲車ばかりは

何処かで蜂の鳴くやうに、

高く低く遠く近く

(つぶや)き唸つて

(あたか)黄昏(たそがれ)の絲をつむぐがやう。

高い処にかゝつてゐる時計は

鱗形(うろこがた)(ほり)をした黄楊(つげ)の箱から、

消え行く時間に又時間を加へ、

夜半(よは)の十二時になるまで

時は次第々々に進んで行く。

 

すると桃色と灰色の着物きて

煖炉の傍に黙つて坐つてゐた「月日」は

立上つて消えた火を掻き起す。

希望の焔パツと燃え上つて、

黒ずんだ敷瓦を赤く色付け、

(こゞ)えた「月日」の手先をあたゝめた。

私は早くも這入(はい)つて来る「時」の入口から、

「月月」の新しい顔が(わたし)の思想に向つて

微笑(ほゝゑ)んでゐるやうな心持がした。

  暮方の食事  シャアル・ゲラン

 

 歌ひながらに恋人は、飛ぶ蜂の(つばさ)きらめく光のかげ、暮方の食事にと、庭の垣根の果実(くだもの)と、白きパン、牛の乳とを(とゝの)へ置きて、いざや、寄添ひて坐らんと、わが身のほとりに進み来ぬ。

 

 雨は晴れたり。空気はうるほひ、木立(こだち)の匂ひはみなぎりて、明け放ちたる窓の外、木葉(このは)に滴る雫の音は、(へや)のすみ、いづこと知らず啼きいづる、蟲の調(しらべ)にまじりたり。

 

 食卓に(ひぢ)つきて、さゝやかなる料理の皿もその儘に、二人ともども思ひに沈めば、言葉もなく()だ折々に、恋人は、吹く風の(つめた)吐息(といき)打顫(うちふる)ふ、あらはなる其の腕を、わが(くちびる)の上によこたへき。

 

 くもりなき水晶の花瓶(はながめ)や。可笑しげにふくらみて、二人の顔のうつりたる、(まろ)き其横腹の(おもて)には、窓なる額縁に限られて、森の茂りと、古里の空の()こそ(ゑが)かれたれ。

 

 かしこにぞ、秋の空は(くれなゐ)に悲しめる。あゝ、長閑(のどか)なるなつかしき此の恋の一刻(いつこく)よ。いつしかに黄昏(たそがれ)は、花瓶(はながめ)(おもて)にうつる空の色、二人が瞳子(ひとみ)をくもらして、さゝやかの二人が世界の、物の彩色(あいろ)を消して行く。

 

 わが顔(おし)あてし、恋人の胸はとゞろけり。吹く風ぬれたる木立を動かせば、(おもひ)に沈める二人は共に()とさめて、()の実の庭に、(おつ)る響に耳を澄ます。

 

 かくて、吾等二人は、過来(すぎこ)(かた)をふりかへる旅人か。また暮れ行く今日(けふ)一日(ひとひ)を思ひ返して、燃え()づる同じ心の祈祷と共に、その手、その声、その魂を結びあはしつ。

  道のはづれ  シャアル・ゲラン

 

道のはづれに

日はしづむ。

手を取らん、

接吻(くちづけ)せしめよ。

 

疑へる心の如く

この泉は濁りたり。

渇けるわれに

君が涙をのましめよ。

 

日は暮れたり。

鐘が鳴る。

われにあたへよ、

君が胸(うち)ふるふ(その)恋を。

 

道はくだる。

幾里と長き真白の帯。

青き小山の

坂道つきぬ。

 

たゝずまん。行手(ゆくて)たる

森をながめよ。

屋根はかすみて

村は夢む。

 

わが眠らんとするは

彼処(かしこ)なり、(とぼそ)のかげ、

(おつ)る木の葉に(うづも)るゝ

君が黒髪に(いだ)かれて。

  ありやなしや  シャアル・ゲラン

 

よしや反響のきかれずとも、物には凡て随ふ影あり。

夜来(よるきた)れば泉は星の鏡となり、

貧しきものも人の(めぐみ)に逢ひぬべし。

澄みて悲しき笛の()土墻(ついぢ)は立ちて反響を伝へ、

歌ふ小鳥は小鳥をさそひて歌はしめ、

蘆の葉は蘆の葉にゆすられて打顫(うちふる)ふ。

憂ひは深きわが胸の叫びに答へん人心(ひとごころ)

あゝ、そはありやなしや。

  四 月  ギュスタアヴ・カン

 

あゝ花開くうつくしき四月よ。

されど()し我か恋人われより遠く、

北の国なる霧の中にあらば、

何かせん、四月の新しき歌、

四月の白きリラの花、野ばらの花も、

梢を縫ひて黄金(こがね)と開く四月の日光(ひかげ)も。

あゝ花開くうつくしき四月よ、

わが恋人にまた逢ふ事の嬉しきかな。

あゝ花開くうつくしき四月よ。

恋人(きた)れり。

四月のリラの花、黄金(こがね)なす四月の日光(ひかげ)

始めてわれを慰めん。われ四月に謝す。

あゝ花開くうつくしき四月よ。

  ロマンチックの夕  伯爵夫人マシュウ・ド・ノワイユ

 

 夏よ久しかりけり、われ夏の恵み受けじといどみしが、今宵は遂に打ち負けて、身中(みうち)つかるゝまでの(こゝろよ)さ。

 

 われ小暗(をぐら)きリラの花近く、やさしき(とち)の木蔭に行けば、見ずや、いかで拒み得べきと、わが魂はさゝやく如し。

 

 よろづの物われを(まどは)しわれを疲らす。行く雲軽く打顫(うちふる)ひ、慾情の乱れ、ゆるやかなる小舟の如く、しめやかなる夜に流れ来る。

 

 列車は過ぎたり。(もゆ)るよろこびよ。その(ひゞき)空気をつんざく。神経は(やぶ)れて死ぬべくも覚えつゝ、いかにせん、又生きんとする願ひになやむ。

 

 あゝわれ此宵(こよひ)、わが肩によりかゝる、若き男の胸こそ欲しけれ。ロマンチックなる事柳のかげにも優りたる吾心(わがこゝろ)(ものう)き疲れを、かの人は吸ふべきに。

 われ()の人に、「(いざな)ひしは君ならず、そはあらゆる夜のさま、わが胸をして鳩の如くにふくれしむ。

 

 されど君はあまりに若ければ、黄金(こがね)の血潮と溶け行く心、骨に徹する肉のかなしみ、われそを訴へん(よる)にのみ。

 

 あらゆる樹木は官能鋭く、あらゆる夜は打ち解けて、絶えざる啜り泣きの声、煙りし空に上り行けり。

 

 うるはしき(よる)のみ眺めて語りたまふな。(いたま)しくも悩める君をのみわれは求むる。狂ひて叫ばん脣に、消えも()せなん心して、わが愛する人よ。泣きたまへ。唯泣きたまへ。」と語るべし。

  九月の果樹園  伯爵夫人マシュウ・ド・ノワイユ

 

 炎暑は地平線をくもらしたり。夏のあつさ。やはらかき毛織物。空気は重く(とざ)して隙間もなし。いさましく(はた)織る響の如く、蜜蜂の群は果物の匂ひに(かしま)しくも喜び叫ぶ。われその蒸暑(むしあつ)き庭の小径(こみち)を去れば、緑なす若き葡萄の畠中(はたなか)の、こゝは曲りし道の(はて)。家の戸口は開かれて、(くは)(すき)如露(じようろ)なぞは、(きいろ)日光(ひかげ)に照されし貧しき住居(すまひ)の門の前、色づく夕暮の(うち)(よこた)はりたり。

 

 われ、涼しき隠家(かくれが)の中に進み()れば、果実の匂のいかに清涼なる。思はずためらひて、耳を(すま)す。ひやゝかなる圓天井(まるてんじやう)の陰には、そよとの風もなく、あたり蕭條(しめやか)に、心(おのづか)長閑(のどか)なれば、屋根低く涼しき尼寺か。夏の匂の(みなぎ)り流るゝ幽暗なる地下室にも(たと)ふべけん。庭と水との吐く熱気は、こゝに閉されて休み(いこ)へり。あゝ。寺院の静寂、清浄の安眠よ。

 

 新しき梨と林檎の実とは、果樹園の群を去りて家の棚の上、空しき影の(うち)に熟してあり。その酢くして甘き(あぢは)ひは(したゝ)り、香気は池の水の如くに沈みて動かず。鳴きつかれし細腰蜂(ゲエプ)の唯一つ、物音遠く静かなる、狭き硝子窓の四角なる(おもて)に、黒き点を(ゑが)きたり。

 

 おびたゞしき果実の匂ひかな。この匂は藍色の大空と、薔薇色の土とを以て、暑き夏の造り(かも)せしものなれば、うつくしき果実の肉の(うち)には、明け行く大空の色こそ含まれたれ。心も清く気も新なる(よろこ)び。その匂、その光、その流れ、大気と土壌の戯れより生れたる濃厚の液汁、溶けたる砂糖。手桶の底に生れたる君こそは、冷たき藁の上なる小さき神なれ。木の樽と鉄の(すき)、緑色なる如露(じようろ)の友よ。いざ、深密なる君が匂ひの舞踊る、甘き輪舞(ロンド)の列にわれを取巻け。

 

 あゝ、日毎(ひごと)暮るればこゝに来て、庭造る愛らしき器物(うつはもの)手籠(てかご)如露(じようろ)の傍近く、空想に(ふけ)れば、あゝわが若かりし折の思出(おもひで)。幸福を歌ふ啜り(なき)は、心の底より(ほとばし)()づ。われは静寂の来りて宿る果樹園の、うつくしく穏かなる生活を、今ぞ見たり、今ぞ知りたり、悟りたり。わが生命(いのち)、そが為めに(やか)れたるおそろしき思ひを、いざ(なげう)たん。

 

 慾望よ、われを去れ。われは十二の月々に鴬と駒鳥と、大麦の(かんむり)つけし神々と、額緑(ひたひみどり)夕蝉(ゆふせみ)と、いと高くいと優しく、また美しく静かなる、女神(めがみ)Pomone(ポモン)御手(みて)によりて、匂はされたる大空の見渡す晴光(はれ)と、共に踊らん。

  西班牙を望み見て  伯爵夫人マシュウ・ド・ノワイユ

 

 乾きし庭の(おもて)に日は照りて、夕立にうたれたるダリヤの初花(はつはな)は、緑なす長き茎をば白き家の壁に()せかけたり。海はとゞろきわたりて、若き牧神(フオーン)の如く吹く風は、其手(そのて)(おさ)ゆる(ころも)を剥ぎて、路上に若き女を(はづかし)めんとす。あたゝかく、うつらうつらと暮れて行くBasque(バスク)の里の夕まぐれ。われは彼方(かなた)に、忽如(こつじよ)として入日(いりひ)(そま)りかゞやける、怪異なる西班牙(エスパンユ)をこそ望み見たれ。

 

 地平線の上に(かひな)を長くさしのべなば、われは(もゆ)るかの土と紅色(くれなゐ)柘榴(ざくろ)とに触れもやせん。金光燦爛(きんくわうさんらん)たる国土かな。鳥飛ばず、曇りもせず、色もあせざる空の(した)。乾きて(きいろ)Toboso(トボソ)の谷の、身も焼けぬべきそゞろ歩きよ。唐辛(たうがらし)紅色(くれなゐ)と、黄橙(おれんじ)の焔の色に、絹の衣裳を染めなして音騒がしき西班牙(エスパンユ)の、いらだつ舞ひのとゞろきや。又われは聞かずや。血まぶれのTourbadour(トルバドル)華美(はで)ないさみの若者が、(ほふ)牡牛(をうし)Arenne(アレヱヌ)の桟敷も崩れん叫び声。

 

Tolede(トレド) Andarousie(アンダルジー)の国々よ。燃上る其の声なき狂熱を、君いづこよりか(もたら)せし。おそろしき癡情(ちじやう)の狂ひかな。いとし()の血に渇きたるPasiphae(パジファエ)は命あらばさぞと覚ゆる壮漢(ますらを)が、刺されて流す血に()ひて、情慾と敬神との(おも)ひを合せ味ひしが、

 

 わが身はこゝに佛蘭西(フランス)の、やさしき大気の(うち)につゝまれて、心おどろき胸重し。ほゝゑめる静けきBasque(バスク)の山と水。雲は集りて、Guethary(グタリー)のいたゞきに(いこ)へり。われRodrigue(ロドリグ)を思ひ、聖女Therese(テレス)を思ふ。さわやかなる匂を帯びて夕暮は、影と光に色ある砂を混ずる時、甘きタマリの一株毎に並びたる、けはしき山の、うしろよりIrun(イラン)をさして行く汽車の笛の響の聞えたり。

 

 神聖なる西班牙(エスパンユ)。あゝ今宵われ、君得まく思ふ心の乱れに堪へぬかな。

  菊花の歌  シャアル・グランムウラン

 

だりやの花(しを)れ葡萄畠の取入れ終りて、

()にあかぬ(しぎ)の鳴く(おと)も絶えにけり。

さまざまなる果実(このみ)ことごとく熟し

木苺(きいちご)実摘尽(つみつく)されて花園今はあれにけり。

 

空かきくもりて霧立ちまよへば、

かの暮方(くれがた)の懐しさと寂しさとは夜明の空にも漂ひ

黄ばみし芝生に薔薇(さうび)は落ちて

その花びらの跡だにもなし。

 

さりながらこの揺落(えうらく)とこの風と、

またこの悲しき日かげに灰色したる空こそよけれ。

菊の花にはいとはしき蝿と、

蛾の接吻(くちづけ)もなければ。

 

霜枯れし(くさむら)にそもこの花のひらめき(いづ)

清くも澄みし黄色(くわうしよく)橙黄色(とうくわうしよく)の目ざましや。

その(なか)東雲(しのゝめ)の霞とばかり

垂れて緋総(ひぶさ)に似るもあり。

 

さればや君が襟元黒髪にたばさむ花も

野路(のぢ)菊花(きくくわ)のあざやかに色もさまざまめづらしければ、

よしや手づから恋しき人の捧げて来つる花束とても、

かの有りふれし巷の花にてあらば何かせん。

 

誇顔(ほこりがほ)なる百合の花、(ひやゝか)に造りしやうなる椿の花束、

(なん)となく恐しき罪の戯れいざなふを、

野にさく菊の花束は露持つ冷き風にゆらめきて、

蒸暑き夜宴(やえん)の都には因縁(ちなみ)なし。

 

都の人の寒さに弱き歩みは早くも火を追ひ、

去りて跡なき荘園(さうゑん)のしづけき小径(こみち)

風の嘆きのさびしさに、薄らぐもりの空を見て、

この花ひとり安らかに咲きぞみだるゝ。

 

そは唯詩人のみ。十一月葡萄の(はた)も牛飼ふ野辺も黄ばむ時、

静かに来りて菊の花打眺(うちながむ)るは唯詩人のみ。

心なき世の(まじはり)()みおそれ

胸打明けし友の(いほり)をたづぬる如く。

  あまりに泣きぬ若き時  フェルナン・グレエ

 

わけなき事にも若き日は唯ひた泣きに泣きしかど、

その「哀傷」何事ぞ今はよそよそしくぞなりにける。

哀傷の姫は(たへ)なる言葉にわれをよび、

小暗(をぐら)きかげにわれを(まね)ぐもあだなれや。

わがまなこ、涙は枯れて乾きたり。

なつかしの「哀傷」いまはあだし(ひと)となりにけり。

(をり)もしあらば語らひやしけん辻君(つじぎみ)

寄りそひ来ても迎へねば

わかれし(のち)は見も知らず。

何事もわかき日ぞかし。心と心今は通はず。

  沈みし鐘  スチュアル・メリル

 

われは過ぎ去りし太古の世の君王(くんわう)にやあらむ。

其国(そのくに)の都は海の底に沈みて音もなし。

黒がねの声なき鐘も過ぎにし世には幾たびか

響も高く幾代の春を告げわたりしに。

 

われは幾代のむかし消え失せし

あまたの(きさき)の名をも知りたりけむ。

そは静けき夜半(よは)に散り失せし

(しを)れたる花にも似たりけり。

 

わが尊き宝を積み載せし重き船

沈みて行きし(はて)はいづこぞ。

その時よりして我は波の底深く宝を探る

狂へる人とこそはなりにけれ。

 

そのむかし我に従ひし夥多(あまた)の蛮民

空高くわが勝利を叫びてわが為に黒き()の旗を、

都に立てし其の過ぎし世の光栄を、

何故(なにゆゑ)にわれは今また見むことを願へるや。

 

今われは(ひやゝか)なる(まなこ)に、

月の光を望みて、(つるぎ)を片手に、

大空に我名(わがな)をしるし留めむものと、

次の世の(きた)るを待ちつゝあるか。

 

さはさりながら勝利の望み、

今わが胸は幽憤(いうふん)(おもひ)にふさがれたり。

移り行く代々(よゝ)の勝利。我は既にいくたびか、

あらしに(きゆ)喇叭(ラッパ)の声を聞かざりしか。

 

過ぎにし幾代(いくよ)の春を告げたりし黒がねの鐘の声。

今その鐘は沈みていづこに在りや。

我こそは()に、その国の都は海の底に沈みて声もなき

過ぎにし太古の()の君王なりけれ。

  夏の夜の井戸  スチュアル・メリル

 

寝入りし少女(をとめ)の夢さへ覚ます月の光に

吠ゆる飼犬はたゞ真青(まつさを)な影かとばかり。

焔の雫の小さな星一ツ

旅籠屋(はたごや)の井戸の底に落ちたのを、

恋知りそめた子供のやうに

私等(わたしら)二人は眺めてゐた時、

お前の髪を解きほごす素早い私の指先から、

長いお前の髪毛(かみのけ)

旅籠屋の井戸の中へと流れ込んだ。

忘れはせまい。蟋蟀(こほろぎ)は庭の小高い処から、

綱に引き掛けた洗濯物の

風にも動かず干されてある

河辺の方まで啼きしきつてゐた。

「恐れ」がさまよひ歩くと云はれた

向うの小山の森はいとも静けく

夜の暗さにつゝまれて

酒場で酒呑む人の高声(たかごゑ)

しんとした冬の()のやうに

(すゞ)の器や瀬戸物や

硝子の(さかづき)照す燈火(あかり)と共に消えてゐた。

 

お前は何やら小声にさゝやいたが、

(わたし)は其の囁きをお前の(くちびる)の、

この六月に咲く赤い花辮(はなびら)の上に押潰して、

顫へるお前の両手をばお前の胸から引取つて、

私も同じやう何やらお前に云つたのだけれど

今は早何と云つたのか覚えてはゐない。

 

あらはなるお前の(かひな)

私は(いだ)かれてゐる()もなく

森に通ふ街道に、それは(さなが)

沈黙と血の中に揉み消したいと思ふやうな

物狂はしい思出(おもひで)の夢かとばかり、

突然聞える酔払つた人達の騒ぐ声。

 

お前と(わたし)は、それなり、別れてしまつたのだ、

星の雫の降りそゝぐ井戸のほとりに。

  奢侈  アルベェル・サマン

 

奢侈(おごり)生命(いのち)の樹になる死の果実。

羨望(うらやみ)の歯の根を(うごか)す禁制の果実。

 

倦怠の沙漠に坐せる黄金(こがね)怪獣(シメール)

老いにし「慾情」と「夜」より生るゝ(けが)れし女。

 

七重(なゝへ)なる綾羅(うすもの)の下にちりばめし「悪徳」の金剛石(こんがうせき)

火の火、血の血、骨の中なる髄の髄。

 

地の底の魔薬を持てる浮浪(ふらう)の魔女。

脳漿(なうしやう)を吸ひ取り精気を(ひし)ぐ魔女。

 

斯くぞ(たと)へん。幽遠神秘の「奢侈(おごり)」。

あゝ()なる哉、暗黒(やみ)宮殿(みやゐ)のこの「奢侈(おごり)」。

 

奢侈(おごり)は壮麗の位に()く肉感の祭典。

恥辱の(かんむり)。汚濁の肩衣(かたぎぬ)

 

裸形(ニュージテエ)紅色(くれなゐ)の気高き女体美の庭。

霊魂をむせび泣かしむる肉の天国。

 

駘蕩(たいたう)たる夜気を(うごか)す千丈の髪。

暗澹たる香気の妖術。黒き薫り。

 

滔々(たうたう)たる血の流れの歌。酔倒(すゐたう)欷歔(すゝりなき)

快感の身顫(みぶるひ)(やはらか)き接触の弥増(いやまさ)る緩き波動。

 

神経を痺らす柔き接触……(をはり)知られぬ柔き接触。

眼光(まなこ)に溢るゝ柔き接触……魂も消え入る柔き接触。

 

()へぬ甘味(あまさ)の花蔭より(かなづ)(がく)()……消え行く心。

響なき(いと)(だん)ずる歓喜(よろこび)(ばち)疲労(つかれ)

 

あゝ脣よ脣よ。消え行く接吻(くちづけ)。歯に噛む接吻(くちづけ)

癡情(ちじやう)寝屋(ねや)の死の如くに深き(くちびる)

 

かくぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈(おごり)」。

あゝ偉なる哉。哀傷の空の赤き星なるこの「奢侈(おごり)」。

 

奢侈(おごり)」は人骨の裏に潜める細き毒蛇。

鋏の(さき)のごとくにとがりし慾望。

 

不吉(ふきつ)の時を歌ふ酔へる警鐘(はやがね)

清浄を嫉視(しつし)する夜陰の尼なる魔界の天使。

 

覚醒に憤る不眠症の荊棘(いばら)

睡眠の高き壁に(うごめ)く悪魔が夜宴(やえん)の大壁畫。

 

乱れ打つ四竹(よつだけ)の拍子につれて少しく開く綾羅(りようら)(とばり)

羨望(うらやみ)の神タンタルを(おどろか)す空虚の(さかづき)

 

(もゆ)る氷塊、凍る焔。

歓楽の野獣眠るむさくろしき(うまや)

 

かくぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈(おごり)」。

あゝ偉なる哉。(みひら)きて浮世を目戌(みまも)貪婪(どんらん)()の「奢侈(おごり)」。

 

奢侈(おごり)は熱帯の激烈なる幻想。

羽毛(うまう)(かざり)と槍とを連ねし蛮土(ばんど)の王侯。

 

驚くべきGANGIS河(ガンジスが)(ほとり)なる翡翠(ひすゐ)の宮殿。

広大なる庭園。香気の湖水。(うづも)れし黄金(こがね)

 

酷熱の赤道の恐るべき芽生月(めばえづき)

群飛(むれと)甲蟲(かぶとむし)金色(こんじき)なす寂寞(せきばく)

 

羊毛と鋭き香気の眩暈(げんうん)と。

緑なす毒の沼池(ぬまち)を照す血色(ちいろ)の月。

 

かくぞ(たと)へん。幽遠神秘の「奢侈(おごり)」。あゝ偉なる哉。

恐怖すベき暗黒の偶像なるこの「奢侈(おごり)」。

 

奢侈(おごり)(おもて)蒼白き狂乱の帝王が(かしら)(かざり)

髪赤く丈高き娼婦の頸かざり。

 

節奏(リトム)舞踊(ダンス)擬容劇(ミイム)の女王。

黄金(こがね)にて築くDECADANCE(デカダンス)の凱旋門。

 

雄々しき虎と大理石とに取巻(とりまか)れし、

淫楽の皇帝のおそろしき夢。

 

(うるほ)へる血の花。快楽と哀傷と。

花のうてなに甘さの限りを吸ひたる「死」。

 

炎々たる焔の中なる楽器のさまざま。

墳墓の緑色(みどりいろ)なす燈火(ともしび)に親しむ「死」。

 

日輪(にちりん)の国の滅亡。無上の尊称。

偉大なる昂奮刺戟の宗教。

 

燐光の技術(たくみ)によりて(ひらめ)(いで)瞬間(つかのま)の、

最終(いまは)遊宴(いうえん)……最終(いまは)の呼吸……絲の如き臨終(いまは)喘咽(あへぎ)

 

かくぞ(たと)へん、幽遠神秘の「奢侈(おごり)」。あゝ偉なる哉。

癩病の崩れの金光燦爛(きんくわうさんらん)たるこの「奢侈(おごり)」。

 

奢侈(おごり)は肉慾の胸より吐出(はきいだ)さるゝ熱き呼吸。

慾求と呼ばれし轟く身顫(みぶるひ)の赤き海。

 

快感の葡萄園、熟して重き葡萄の房。稀有(けう)の珍味。

相俟(あひま)つて(たがひ)の性慾を狂奔せしむる性慾の酒。

 

恋愛の痛みを(しづむ)る妙薬、怨恨を激する興奮剤。

心の旅路に彷徨(さまよ)ふ巡礼者の泊り宿。

 

瞬間によりて生じたる永遠の衝動。

幻想の怪獣走りつゝ水を飲む溢るゝ噴井戸(ふきゐど)

 

世捨てし人々の心を澄す処。(おそ)るゝものゝ懼れぬ心。

奴隷の鴉片(あへん)。癩病者の牝犬(めいぬ)

 

(かわ)ける(くちびる)に触れて離れぬ曇りなき水瓶(みづがめ)

強者の弱点。弱者の強所。

 

悔恨を殺す夜半(やはん)の毒草。

死者の口を開かしむべき胡廬(ふくべ)水入(みづいれ)

 

暴飲の海に帆を揚げて漕ぎ(いづ)

漠々たる郷愁(ノスタルヂイ)楼船(やかたぶね)

 

鼻孔を開き毛を逆立て、

虚無に向ひて突進する騎士の牝馬(めうま)

 

彼方(かなた)遥けく燃残るGOMORRHE(ゴモル)の塔と、

SODOME(ソドム)の庭の焔を望む硫黄の湖水(みづうみ)

 

この身の終を覚悟して見上(みあぐ)る苦悩の大空。

殉教者。(さいな)まれし心に(みつ)る歓喜の涙。

 

火焔の中に坐して(けが)れし祭典(まつり)する悪魔の王が、

永劫(えいごふ)無窮の祈願を凝らす闇の塔。

 

死を致す贖罪(とくざい)の食慾、渇きと(うゑ)

底なき(ふち)。影なき日輪(にちりん)(はてし)なき渦巻。

 

神経の神経、酸素の酸素なる「奢侈(おごり)」。

呪はれし自滅の恋なる(をはり)の「奢侈(おごり)」。

 

渾然を望む痙攣。絶対の(うち)なる饗宴。

世界の最後、天体回転の終局なる「奢侈(おごり)」。

 

哀願慈悲の聖女。黄金(こがね)の血の聖女。

貪慾無情の聖女。永久に聖なる聖女。

 

火焔の都。忘却の魔薬。黒鉄(くろがね)(きり)

堕落の聖女。地獄のNOTREDAME(ノートルダーム)

 

かくぞ(たと)へん。幽遠神秘の「奢侈(おごり)」。あゝ偉なる哉。

現世(うつしよ)の不朽不死なる(きさき)にも例ふべき此の「奢侈(おごり)」。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/12/17

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永井 荷風

ナガイ カフウ
ながい かふう 小説家 1879・12・3~1959・4・30 東京小石川金富町に生まれる。文化勲章。若き日に渡米さらに渡仏し巴里に心酔するが父の厳命により帰国し、慶大教授となり「三田文学」を主宰した。私生活にも作風にも波瀾のある生涯であったが、基本に日本の軽薄な近代化に対する失望と蔑視があり、太平洋戦争後にまでも反時代的耽美と放蕩の世界に徹した。

掲載作は、帰朝して30歳前後に相次いで「スバル」「三田文学」「アルス」「ザンボア」などに書いていた愛誦の仏蘭西抒情訳詩を選し、華麗な装幀で籾山書店より1913(大正2)年4月初版の1冊に、以後新版の改訂を斟酌、編にあたった佐藤春夫が著者の了解を得てあらたに2編を加え新味を添えたもの、1938(昭和13)年9月1日刊行の岩波文庫本に拠っている。近代翻訳文化の一代表作。

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